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清田幾生

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清田幾生

Evelyn Waugh: A Handful of Dust

IKUO KIYOTA

Evelyn Waughの作品を区分して説明するのに「まじめな」もの, 「ふざけた」ものという 表現がときどき用いられる.もちろんこれは作品の良し悪Lを前提とした形容ではない.この 二者は結局同じ根から出てきた二つの傾向を表現した言葉にしかすぎないA HandulofDust はこの二つの形容のちょうど中間にあたる小説である.別な言葉でいえば, 「悲劇性」と「喜 劇性」を両方具えていると言ってよい.ところでWaughは作品構成に当って様々なアレゴ

リカルな材料を用いる作家である.特にこの作品はその傾向が顕著である.筆者はこの小説を

・について,作品のもつアレゴリカルな要素と, 「笑い」の要素について,またこの二者の間に 於けるWaughの位置について考えてみた.

(‑)

Waughは審美家であり,なかなかの趣味人であった.特に時代を経た古い建築物に強い関 心を抱いており,これもまた趣味の一つである蔵書のなかには古い建築書が数多く含まれてい

ると言われている.このことは彼の作品の中でしばしば古い館や城郭が描かれていることから も推察できる.それは建築学的な,或いは美学的な興味から来るものばかりではなくて,この作 家の心の中には古い建築物や,それを造り出した時代に対する一種の郷愁があるのも確かであ

ろうA Handfulof Dustは妻に裏切られた男が破滅してゆく過程を描いた作品であるが,こ こではその主人公一家が居住している田舎の古い邸宅Hetton Abbeyが一つの象微として提示 されている.この巨きな建物は19世紀の中頃ゴシック風に改築されたものという設定である.

waugh特有のアイロニーはすでにこの邸宅の描写にも見られ,たとえば各部屋の名前は中世

の騎士物語中の人名からとってあり,主人公Tonyの妻の部屋はギネヴィアと名づけられて

いる.作者は,ランスロットに恋するアーサー王の妻の名をとって,主人公の妻Brendaの

不貞を暗示している.宏壮な屋敷を維持していくのは経済的に大変であるが,こゝで育ってき

たTonyはこの家に強い愛着を抱いている1930年代のいまHetton Abbeyはあちこち老朽

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化しており,先祖から受けついだ旧家を守っていくのが義務だと思うTonyは古びた屋敷の 欠陥を補修しなければならない,などと考えている.自分の部屋に軍艦の絵をいまだに飾って おくような子供っぽい所もあるが,彼は教会に行けばsquireの役をするし,動物を殺すのは 嫌いであるにもかかわらず狩猟パ‑ティーを催したりして旧家の家長としての生活につとめて いる.この古色蒼然とした邸宅に対する彼の愛着ぶりは象徴的であって,そのままヴィクトリ ア朝的な価値観に対する忠誠を表わしており,それが今では時代おくれであることを作者は巧 みに暗示している.

一方田舎ざらいで現代風好みの美しい妻はHetton Abbeyがあまりお気に召さない.古く さくて不便なこの邸宅での生活にBrendaは倦怠を感じている. Tonyは日曜日ごとにきち んと教会に出かけるが彼女は夫と行動を共にしない場合がしばしばである.時どきロンドンに 出かけるのが彼女の息抜きであるが,夫は社交を好まない.妻の友人から新年の招待状が来た 時もTonyはあまりいい顔はしなかったが,人の善い彼は結局妻の意見に従うことにする.

「妻を愛し信頼するのが習慣」となっているTonyは,妻のいいなりになる場合が多い.こ こで作者はこの夫婦について皮肉なコメントを下している. I

What with Brenda's pretty ways and Tony's good sense, it was not surprising that their

friends pointed to them as a pair who were pre‑eminently successful in solving the problem of getting along well together, (p. 29)

このアイロニーがこの作品の基調となっているTonyと違って貴族出身の妻はロンドンの 社交界からは「幽閉されたお伽噺のお姫様」などと噂されているが,この夫婦の愛の梓となっ, ているのは六才になった一人息子John Andrewである.二人ともJohnをよく愛しており この三人は召使いや乳母や馬丁などに囲まれて一見幸福そうな生活を送っている.

とにもかくにもうまくいっているTonyLast一家の結びつきに亀裂が入る原因となったの がロンドンに住んでいるBeaver親子と社交界の人々である.彼らはTonyの生活と意見か ら全くへだたった世界に住んでいるBeaver夫人は現代風な室内装飾やアパ‑トの斡旋など で生活しており,専ら金もうけのために社交界に出入りしている.その息子のJohn Beaver はいわば社交界の寄生虫的な存在で皆の嫌われ者であり,パーティーに招ばれる時も誰か不意 の欠席者がある場合に限られている.この男は定職もなくいっもパーティーの誘いの電話がか かって来るのを待っている. Mayfair界隈の人びとから軽蔑されて̀London's spare man'な どと評されている.このBeaverが,以前Tonyと言葉を交したことがあったという理由だけ で或る日ふらりとHetton Abbeyの邸宅にやって来た.勿論Tonyと話は合わないがBrenda はこの男からロンドンの社交界の話をきいて目を輝やかせたり, 「この邸は大嫌いよ,主人に は言いたくないけれど」などと口走ったりした.彼女はBeaverに導かれてMayfairに出入

りすることとなり,時にはHettonの家もあけるようになった.二人の情事は靖疑心というも

のを全く知らないTonyを除いて,皆に知れわたる所となる.社交界の人々はこの意外な組

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合せを結構面白がり,今まで退屈な男だと軽蔑されていたBeaverの株も上るのである.

Waughはその過程を善良なTonyの無知と合わせて皮肉な筆致で描いてゆくが,そもそ もこの二人の恋人の間には強い愛情があるわけではない.肉欲のせいでもなく欲得づくで二人 が結ばれたわけでもないBrendaはBeaverの無能と不遇にわずかに同情はみせているが,彼 女の場合このような結果になったのは,結局Hettonの田舎の単調な生活に対する退屈と倦 怠感からである.従って彼女には夫や子供を思う気持もなければ罪の意識もない.こうして Brendaを中心としたロンドンの有閑階級の無責任や堕落ぶりが紹介されてゆく.むなしい快 楽や流行に浮身をやつすMayfairの人びとを冷酷な喜劇的手法で描くのはWaughの得意と する所である. Brendaは経済学を勉強するという口実のもとに夫の反対をおしきってロンド ンにフラットを借りることにした.もちろんBeaverとのひと時やパーティーのための根拠地 としてである.また酒落れたフラットを借りることはfashionableなことであり,これは Beaver夫人の斡旋であった.疑うことを知らぬ善良なTonyは妻の不貞に気づいておらず, 彼女の申し出に仕方なく同意したが,自分の収入の殆んどをHetton Abbeyの維持に充てて いるので,妻専用のフラットの代金のためしばらくは邸宅の補修工事をあきらめなければなら ない.作者のアレゴリーは明らかである.主人公は, 「妻を愛し信頼するのが習慣」となって いるように,自己の信奉する世界に何の疑念も抱いていないが,それは補修しなければならな いこの屋敷と同じように老朽化していることに気づいていないのである.古びてゆくHetton Abbeyが代表する十九世紀的な秩序,それはTonyの理想であり価値の根源であるが,それ が都会のフラットという当世風により裏切られ,次第に蝕まれてゆくのである.モダニズムの もつ無責任と退廃は伝統的な古い人生観を徐々に崩壊に近づけてゆく.

やがてBrendaは社交界で知り合った仲間達をHetton Abbeyに招待する.当健風の毒に 染ったこの軽眺浮薄な女客たちの野放図な言動はピカレスク風な調子で描かれている.招かれ た悪女たちはBrendaも含めて,仲間の一人をTonyに近づけ,彼の愛人にしてしまう計 画を立てているが,その表向きの理由は「Tonyがあまり酒ぴたりにならないように」という のである.しかしこの陰謀はうまくゆかない.真面目な紳士のTonyは相手に一向興味を示 さず,かえって息子のJohn Andrewが彼女に夢中になる始末であるBrendaは皆に弁解 するのである. 「夫は七年間も私になじんで来たのですもの.あまり突然の変化だとねえ」.敬 妙なところである.女をあてがってTonyから金をまきあげる計画が失敗に帰した時,仲間

はBrendaに対して, 「でもあなたは御亭主を元気づけるために並みの妻には出来ないことを しようとしたのよ」などと言って慰める.そしてまた都会の便利と快楽に慣れているこの女客 達に田舎のゴシックの大邸宅は評判が悪い.彼女たちは口をそろえて悪口を言う.

'My poor I】renda, it's an appalling room,'said Mrs Beaver.

'It's not one we use a great deal,'said Torly very coldly.

'I should think not,'said the one they called Veronica.

'I can't see much wrong with it,'said Polly, 'except it's a bit mouldy.'

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'You see,'Brenda explained, not looking at Tony. 'What I thought was that I must have one habitable room downstairs. At present there's only the smoking room and the library.

The drawing room is vast and quite out of the question. I thought what I needed was a small sitting room more or less to myself. Don't you think it has possibilities?'

'But, my angel, the shape's all wrong,'said Daisy, 'and that chimney piece ‑ what is it

made of, pink granite, and all the plaster work and the dado. Everything's horrible. It's so一

dark:

'I know exactly what Brenda wants,'said Mrs Beaver more moderately. 'I don't think it will be impossible. I must think about it. As Veronica says, the structure does rather limit

one‥. you know I think the only thing to do would be to disregard it altogether and find

some treatment so defnite that it carried the room, if you see what I mean... supposing

we covered the walls with white chromium plating and had natural sheepskin carpet‥. I

wonder if that would be running you in for more than you meant to spend?' 'I'd blow the whole thing sky‑high,'said Veronica.

Tony left them to their discussion, (pp. 90‑1)

Waughの小説は多くアレゴリカルな枠組みで設定されており,その中で作者独特の奇抜な 想像力は専ら人物たちの言動が奇妙な滑稽感をひき起すよう集中される.そのさい人物造型も リアスティックな小説のように,その性格を通して深く掘りさげられるようなことはあまりな い.人物たちの内面についてその心理や情緒の詳しい描写は殆んどなされない.上に見られる ような会話の部分がこの作品のかなりを占めている.筋の因果関係についての説明は少なく, 短い対話と速度の速い場面転換のため映画の脚本のような印象を呈する.対位法的に配列され た対話によるエピソードはめまぐるしい程で,伏線などはさりげなく挿入されているだけであ るdescriptiveな文章と違って,最少限におさえられた説明のいわば飛躍した余白の部分に 読者は人物の言動の因果関係を想像力で補わねばならない.そしてその過程のなかで一つの

「笑い」が浮び上ってくる.上の引用でもわかるようにその余白の部分を利用して大きな効果 を作り出すのがWaughの小説技法の特徴の一つである.

ところで上の引用文でBrendaはこの家にhabitableな部屋が欲しかったと言っている.

それは彼女のわがままだけを示しているのではない.この言葉は彼女がどれだけTonyの古く さい世界に耐えてきたか,そしてまた「妻を愛し信頼するのが習慣」の彼が一方ではどれだ け妻に対して無理解であったか,を物語っている.夫の世界に彼女は結局なじめないのであ る。女客たちに至っては,この部屋について̀appalling,‥a bit mouldy,‥wrong,'̀horrible,*

̀dark'などという語を用いて非難している. Tonyの古い秩序観はモダニズムの眼から見れば

所詮旧時代の虚構でしかなく噸笑の的であるBeaver夫人になるとこの部屋を現代的なクロ

ミウム張りにすることを勧める始末である.事実数十貢あとにはその工事が進行している所を

作者はさりげなく描いている.それはTonyにとっては大きな屈辱である筈である.しかし

善良な彼にはまだ本当の意味はわかっていない.ただ「議論は彼女たちに任せ」て黙るだけで

ある.こういうアレゴリ‑の枠組みの中で作者は言いたい放題の女客たちの傍若無人振りや商

売っ気の強いBeaver夫人の抜け目なさと,主人公の人の善さを喜劇的に対照させ,見事なエ

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ピソードにまとめている.

しかし一方Tonyの信奉する伝統的な古い価値観はそれ自体充実したものであろうか.

Hetton Abbeyが象徴する道徳観もまた内部から形骸化していることをWaughは描いてい る.たとえば主人公は日曜日には必ず教会に行くが,格別に心からの信仰があるわけでもな い.ただ先祖から受けついだ習慣だからそうするのである.それを守ることに彼は何となく満 足を感じるのである.だから妻から「いかにも旧派の,高潔で信心深い紳士みたい」と冷やか されてもあんまり悪い気はしないのである.彼の自己満足は素朴で罪のないものである.彼の それのような善良な素朴さば「このいやらしい他界の中で人間らしさのもつ最後の輝き」(I)で はあるが,大きな変化を見せた社会の中では最早時代おくれであり,有効でないHetton Abbeyは時代とかみ合わない.この作品でWaughはこれを喜劇(あるいは悲劇)の発端と

している.この州で発行されている観光案内書には,この建物は「以前は州の有名な建築物の 一つであったが・・・今では興味のないものになっている」と抑旅的な調子で書いてある.このゴ シック建築の老朽化した個所を補修し完全なものにしたいTonyの気持はヴィクトリア朝的 な秩序に対する幻想でしかない.同じようにTonyが通う教会の牧師も全く的はずれであ る.説教する時の声がいいというだけが評判のTendril牧師は以前インドに軍隊付牧師とし て在任した頃作った原稿を今でも毎年くりかえして説教に用いるのである.

'How difficult it is for us,'he began, blandly surveying his congregation, who coughed into their mufflers and chafed their chilblains under their woollen gloves, 'to realize that this is indeed Christmas. Instead of the glowing log fire and windows tight shuttered against the drifting snow, we have only the harsh glare of an alien sun; instead of the happy circle of loved faces, of home and family, we have the uncomprehending stares of the subjugated, though no doubt grateful, heathen. Instead of the placid ox and ass of Bethlehem,'said the vicar, slightly losing the thread of his comparison, 'we have for companions the ravening tiger and the exotic camel, the furtive jackal and the ponderous elephant...'(pp. 69‑70)

Tonyのそれと同じ価値観を共有している牧師のクリスマスのメッセージである.昔のイン ドでならともかく今のイギリスでは殆んど意味をなさないが,この時代結誤の異様な言動のお かしさを描きながらその裏で作者は巧妙に伏線をはり,寓話を語っている.このときTendril 氏は無意識の予言者にもなっている.一見安泰そうに見えるTony Last一家も,この牧師の いう貧欲な猛獣に囲まれているのである.もちろんBrendaが家に招いた社交界の女性たち が野獣である.それだけではない. Tonyはその最後が示すように,密林の中でもっと揮猛な 存在に捕えられることになる.皮肉なことにTonyはこの説教を毎年きかなければクリスマ スが来た感じはしないのである.

Tony一家の決定的な崩壊のきっかけとなったのは夫妻の梓であり愛の対象であった一人息 子Johnの死である.乗馬に夢中になっていた子供は,首を長くして待っていた狩猟パーティ

‑の日にふとしたことから落馬して馬の後脚で頭をけられ即死する.この事故の顛末をきいて

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人々は口をそろえて「誰の罪でもない」と言う.作者のアイロニーは光っている. 「誰の罪で もない」ことは「皆の罪」でもある.この事件のときBrendaはロンドンに出ており留守であ った.そして一人息子の死を知った時Tonyの口から最初に出たものは, 「妻に報せなけれ ば」という言葉であった.このとき彼は自分というものをすっかり失っていて他人の気持だけ を気づかっている.慰める客の一人に向って彼は言うのである.

'It's going to be so much worse for Brenda. You see she'd got nothing else, much, except

John. I've got her, and I love the house.‥ but with Brenda John always came first‥.

naturally‥ And then you know she's seen so little of John lately. She's been in London

such a lot. I'm afraid that's going to hurt her.' 'You can't ever tell what's going to hurt people.' 'But, you see, I know Brenda so well.'(pp. 125‑6)

妻がロンドンで何をしているかも全く知らない善良なTonyのおかしさは,作者が何のコ メントもつけ加えていないだけ一層効果的に浮きぼりにされている.もちろん痛烈なアイロ モーは息子のJohnと,妻の情夫Johnの名前を作者が重ね合わせている所にある.そして Tonyの最後の言葉「私にはBrendaのことはよく判っていますから」というトドメに見られ

るWaughの辛殊さは,一片の靖疑心もない夫の愚かしさを見事に完成している.基本的に言 ってWaughの描く世界は, innocenceとexperience,或はnaiveteとsophisticationの 対照という形で出来上っており,前者は常に後者の受身の被害者である.上の引用に見られる ようにこの二者の交わる点に作者独特のアイロニーが形成されている.こうしてinnocentで naiveなTonyの悲劇は,作者の非情な視点から造られた喜劇性のうちに進行してゆくので ある.一方, Brendaの場合,息子と恋人が同名であることから来るアイロニ‑はもう少しド ラマチックな形をとった. Tonyの友人Jockがロンドンに出かけてゆきやっと居所を探しあ て,計報を伝えたとき,一瞬彼女は恋人が死んだと思ったのである.

'What is it, Jock? Tell me quickly, I'm scared. It's nothing awful, is it?' 'I'm afraid it is. There's been a very serious accident.'

'John?' 'Yes.' 'Dead?' He nodded.

She sat down on a hard little Empire chair against the wall, perfectly still with her hands folded in her lap, like a small well‑brought up child introduced into a room full of grown‑ups. She said, 'Tell me what happened. Why do you know about it first?'

'I've been down at Hetton since the week‑end.

'Hetton?'

'Don't you remember? John was going hunting today.'

She frowned, not at once taking in what he was saying. 'Jonn ‑. Jonn Andrew‥. I‥.

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oh, thank God‥ Then she burst into tears, (pp. 135‑6)

Waughという作家の小説に於ける̀habit of allegorizing'について或る研究家が述べてい るが(盟),彼の小説の枠組みは基本的にはアレゴリ‑であるし,語り口もアレゴリカルである.

この作品でも作者は様々な象徴の道具立てを用いているが,たとえば人名のつけ方でも, Last とかBeaver, Rex, Messinger, Toddなどというのはそれぞれ何か独特な世界を暗示する.

こういう方法による人物造型は当然一つの制約を受けるであろう.アレゴリカルな名前が人物 の性格や行動を拘束するのであるE. M. Forsterの定義を借りて言えば'round'であノるよ り'flat'になる傾向である.事実Waughの作中人物たちも'flat'に近い存在である.そこ ではいわゆる伝統的なリアリスティックな小説と異っているので,人物の行動がリアルに描か れるとか,性格や情念が深く追求されることはない.所が一方ではこのアレゴリカルな手法は 制約を受ける代りに別の自由を獲得する.アレゴリーとは現実を図式化したり単純化したりす ることである.それは現実のもつ必然性や法則性を無視することでもある. Waughはこの点 を極めて大胆に最大限に利用する作家である.彼の想像力はそこに奇妙な「笑い」の効果を作 ることに集中される.アレゴリーの方法により現実性から遠ざかっただけ作者は因果関係の刺 約を受けずに自由にふるまえるのである.ファンタジックな彼の小説の中では人物たちは現実 のもつ必然性の支配を脱れて実にのびのびと行動している.すべてegocentricな彼らは自由 奔放に生活し,その生活を捉えてWaughは意外な角度から大胆に切断し読者に提示する.会 話の多い文章と,最小限の説明の技法が大きな効果を見せる.そのとき作品の中では,アレゴ

リ‑の持つ制約のくま取りは忘れられている印象を受ける.そこにもWaughの世界の不思議 な魅力がある.

こういう手法によって描かれる状況に時どき思いもよらない効果があらわれることがある.

'flat'であった筈の人物が急に生気をおびて描かれた状況がいかにもリアルな印象を受けるの である.上に引用したBrendaの場合がいい例である.事故で死んだのが自分の恋人ではな

くて,一人息子JohnAndrewであったことを知ったとき彼女は「あゝよかった」と言って わっと泣き出す. Waughの残酷なアイロニ‑がactualityをおびてきらりと輝くのはこうい

う所である.彼女のこの反応は,恋人のBeaverに対する愛着と家庭に対する無責任,生活の 堕落,そして安堵と悲しみの不思議な感情を同時に表わしている.その不条理を作者は非情な 筆致で見事なアイロニ‑に色あげしている.そしてここでは,リアルな他界ならばモラルの試 金石ともなりうる人の死が,専らアイロニ‑の素材として用いられている.作者は作中人物の 誰にも同情しない.常に対象から距離をおき,つき放して描いている.因みにこの小説では一 人息子John Andrewは実に瀞刺とした所が見事に描いてあるが,彼の死後この子供につい ては全く言及がなされない.それがWaughの世界である.

Johnの死によって夫婦の分裂は決定的なものになった. Tonyはそれに気づいていない

が, Brendaから見れば,辛うじて保っていた二人の結びつきである. 「私達の生活はすべて

(8)

終りですね」と彼女は夫に告げるがTonyは何のことかさっぱり判らないinnocentな彼は 自分の世界が足もとからくずれているのにまだ意識していない.やがて彼の下に,ロンドン‑

帰った妻から‑通の手紙が届くBeaverを愛している旨を書き,離婚の要求である.善良な Tonyがその意味を理解したのは数日経ってのちのことであった.何故なら「彼はあまりにも 妻を愛し信頼する習慣におちこんでいた」からである.嗣子に死なれ妻に去られて,名前の示 す通りTony LastはHetton Abbeyの最後の人となったBrendaの背後にBeaverがい て,慰薄料としてHetton Abbeyを売り払わねばならないような金額を請求されたとき彼の 今まで抱いていた理想の世界は完全にくずれ去ったことを知る.

A whole Gothic world had come to grief.‥ there was now no armour glittering through

the forest glades, no embroidered feet on the green sward; the cream and dappled unicorns had fled... (pp. 173‑4)

十九世紀的な古い秩序感覚とそれへの憧慣はみじんに砕け, Hetton Abbeyのゴシック的世 界は見事にくつがえされた.それに対する忠誠と愛着が幻想でしかなかったことを彼は悟っ た.上に引用した文は少し大時代的であってロマンチックな匂いがある.絶望しながらそれと 同時に彼は離婚の要求に立ちむかう決心をする.

(二)

人生上の指針ともなっていた理想がくずれてTonyは幻滅と空虚な精神状態にある.彼は虚 構の秩序から混沌の現実‑投げ出されたのである.しかし彼は現実に直面することをしない.

「幻想がなければ生きてゆけない男」(3)なのである.従って彼は崩壊したヴィクトリア朝的価 イ直観にとって代るものを外部に求めなければならない.第五章以下作者は主人公をイギリスか ら切り離し,南米の「失われた都市」を求めて冒険の旅行をさせる.新しい価値の探求であ る. TonyはふとしたことからMessinger博士と知り合いになり,誘われてブラジルの奥地 にあると言われる古代インカの伝説上の都市を求めて探検の旅に上るのである.この小説をア レゴリカルな見地から解釈するF. Sroppによれば, 「Tonyの空虚感の中に地獄の他界の使 者であるMessinger博士が入りこんできた」(4)のである. 「失われた都市」の話をきいて彼が すぐ参加の決意を固めたのもこの都市が彼の頭の中で典型的な理想の形をとったからである.

理想的な秩序をもったこの都市は彼の想像の中では次のようになる.

It was Gothic in character, all vanes and pinnaclee, gargoyles, battlements, groining and

tracery, pavilions and terraces, a transfigured Hetton, pennons and banners floating on the

sweet breeze, everything luminous and translucent; a coral citadel crowning a green hill top

sown with daisies, among groves and streams; a tapestry landscape filled with heraldic and

fabulous animals and symmetrical, disproportionate blossom, (p.184)

(9)

またしてもゴシック的な世界である. innocenceという語に表わされるTonyの態度には, 幼児的な未熟な部分があって,彼の理想は現実と交わることがない. 「失われた都市」への彼 の幻影はイギリスの田舎のHetton Abbeyのレプリッカにすぎない. Messinger博士と主人 公はこうしてアマゾン支流のジャングルの中で苦しい旅をつづける.やとった現地人のポータ ー達にも途中で逃げられる苦境である.とうとうTonyは地図も役に立たない未開の奥地で 熱病にたおれてしまった.ロマンチックな価値の探求は蛮地の現実にデッドロックにのり上 げた格好である.作者はここで熱病に苦しむ主人公の有様と,ちょうど同じ時にロンドンの Brendaが営む惨めな生活を交錯させて描きながら,この夫婦がそれぞれ幻影を求めて行動し た結果を皮肉に対照させている.彼女はロンドンでBeaverに貢ぐ生活にも経済的不如意か

ら落ち目になってゆくBeaverは彼女の気持を無視して母親とアメリカに行ってしまった.

一方熱病のためうわ言を口走るTonyをおいてMessinger博士は助けを求めて一人で川を 下ってゆくが,途中で滝に出合い落下してそのまま死んでしまう.主人公が一人とり残された 孤独の中でその無力と悲惨さに涙をながしているちょうどその頃,ロンドンでは社交のシーズ ンも終り,行きはぐれたBrendaはフラットのベッドの中で自己憐欄のため泣き出すのであ る. Tonyの求める「失われた都市」が理想化された別のHetton Abbeyとするなら,熱病 に浮かされながら彼が放浪する南米の密林は,ロンドンの変形に異ならない.片や文明という 名前に隠れた混乱と無秩序が支配する退廃の世界であり,一方は原始性の中で恐怖と野蛮が支 配している.どちらも荒涼としていることに変りはない.

こうしてWaughは幻想にとりつかれたこの男に,さらに残酷でさらに滑稽な最後の判決を 下す.これまで作者が描いてきたイギリスの田舎や都市の価値観は,結局アマゾン奥地での Tonyの恐るべき異様な運命に収赦されるのである.瀕死の状態で密林をさまよっている主人 公の命を救ったのはTodd氏という混血の植民者であった.この文盲の変人は奥地の隔絶さ れた現地人の中で長い間生活しており,その存在は外界には誰にも知られていない.文盲では あるがTodd氏は大のディケンズ愛好家である.以前この奥地‑やってきた黒人の宣教師を 捕えて自分の所蔵しているディケンズ小説を毎日朗読させていたが,宣教師の死後(正確に言 えば殺害後)久しく朗読に接していなかったので, Tonyをむかえて大喜びである.この偏執 狂のおかげでTonyは命びろいもし病気も回復するが,一種軟禁状態におかれて毎日ディケ

ンズを読んでやらねばならない羽目となった.脱出の計画をしてもあらゆる手段を奪われて, 時には銃で脅かされる始末である.何か月か経ったころTonyを捜索するイギリスの救助隊 がこの地にやってくるが, Todd氏は主人公を強烈な地酒で酔いつぶし,救助隊には例の宣教 師の墓を見せてTonyはこの地で死にばてたと告げる.救助隊をうまく追い払ったあと, Todd氏は,二日酔で意識膜脱としている主人公に向って脱出不可能を告げながらこう言うの

である.

'They were very easily pleased. But I do not suppose they will visit us again, our life

here is so retired‥ no pleasures except reading‥ I do not suppose we shall ever have

(10)

visitors agai∫‑.‥ well, well, I will get you some medicine to make you feel better. Your

head aches, does it not?‥ We will not have any Dickens today‥. but tomorrow, and the

day after that, and the day after that. Let us read Little Dorrit again. There are passages in that book I can never hear without the temptation to weep.'(p. 249)

Tony Lastの最後の運命について,その非現実性に非をならしても始まらない. 「ありうる こと」と「ありえないこと」,現実性と幻想性の二つの世界にたえず出入りして,その過程で 大きな「笑い」の効果を作るのがWaughの想像力である.それはこの主人公の奇想天外な 結末に見事に現われており,ここでWaughの残酷な「笑い」は頂点に達している.善良な Tonyのこの並はずれた恐るべき結末がこの小説のclimaxであり,もっと正確に表現すれば anti‑climaxであるTodd氏(ドイツ語の'Tod'を思わせる)は「でも明日はディケンズを読 んでもらいましょう.明後日も,そして次の日も.あの本には聞いていると必ず泣けてくるよ うな個所があるのですよ」と言う.囚われの身として偉大な19世紀の小説家の作品を一生朗読 しなければならないのがTonyの最後の運命である. Hetton Abbeyの秩序がくずれての ち,新しい秩序と価値を原始性の中に求めた結果としてである.作者が主人公を追いつめる態 度は情容赦もないWaugh特有のアイロニーはこうしてグロテスクな調子に彩られて完成す る.善良なTonyの最後は途方もなく滑稽であり同時に限りなく哀しい.そしてそれ以上に 奇妙に無気味である.読者は運命に翻弄されたTonyの滑稽を笑うと同時に,何か複雑な恐 しいものを覚えずにはいられない.その得体の知れない不気味さに我々の日常的な意識が逆撫 でされたようで笑いが不安でこわばるのである.黒々とした深淵をかいまみたようないわく言 いがたい恐怖を感じるのである.この作品の題t釦まT. S. Eliotの「荒地」の一節, tI will show you fear in a handful of dust.'からとられているが, F. Stoppはそれを指摘しな がら「この小説にみなぎっているのは恐怖感である」(5)と述べ,現代生活とその価値追求の不毛 と空虚を描いたものだという意味のことを言っている.たしかに作品全体が「荒地」的世界を いわば陰画として表わしていると言えるであろう.読者は人間のいとなみのむなしさ,或いは 存在の不条理のしたたかさを「笑い」を笑ったあと感じないわけにはゆかない.善良で正直な Tonyの運命の中に浮び上ってくるのは,人間の在りかたにまつわるどうしようもない忌わし

い何物かである。ここに精神の不毛と空虚が,喜劇と悲劇の接点でアレゴリカルな形で見事 に捉えられている.作者が用いている象徴的な枠組みがそれを物語っている.たとえば, 「建 築物」或いは「家」のイメージだけとり上げてもTony Lastの運命がそれに暗示されている

のが理解できる.彼が安住していたゴシック風邸宅はBrendaの都会的な「フラット」のた

め空しく瓦解していった.新しい価値探求の結果囚われの身となったときTodd氏が最初に取

り出して見せる本は, 「淋しい家」 {Bleak House)であり,これはディケンズの作品のなかで

も一番ゴシック的な印象が強い.イギリスの田舎の大邸宅を出て, Tonyが到達したのは,こ

れまたゴシック風の「淋しい家」にしかすぎないのである.そしてそこには自由をうばわれた

永遠の朗読という空しい無窮動があるだけである.

(11)

しかしながら一方Waughの作品には説明しがたい奥行きがあって,そこから一つの意味 だけくみとるような読み方をすればその時くみとり得なかったもの,或いはこぼれ落ちたもの の方が惜しいと思わせる何かがある.一筋縄ではゆかないWaughの作品の魅力はそこにもあ る.彼のアイロニーの文学はいわば陰画なのであるが,それなら反転させると正俊が現われそ うである.しかし, Waughの作品は反転させることを拒み,なかなか陽画を作らせない所に 問題があるのである. M. Bradburyは「この小説はいくつかの違ったコンヴェンションで描 かれており,それは社会訊刺や道徳批判やグロテスクな幻想にわたっている」(6)と述べている が,たとえば作品のアレゴリカルな枠組みを超えた所にも長所があると言えるであろう.プロ ット・ストーリー・人物造型などの作品の骨格よりも,それに肉付けする行為の方にこの作者 の絶妙な想像力の特質が発揮されるのである. F. R. Karlの表現で言えば, Waughに於ては たとえば「説話そのものは,その提示の方法に比べて二義的」(7)なのである.その「提示の方 法」は作者が対象を描く姿勢と密接な関係があり,それは主としてWaughの文体にあらわれ

る.

アレゴリーという語は倫理や道徳についての態度決定を前提としている.極端な言い方をす れば,何かの価値観によらなければ寓意は語り得ないであろう.所が多くの研究家が言うよう にWaughのこの種の作品から道徳や倫理を引き出すのはむずかしい.無理に引き出せばオリ ジナルのもつ奥行きと厚味をかえって平板なものにしてしまいかねない.この作品では道徳 (或いは不道徳)の限界にいる人物を描きながら作者は注意深く自分の意見はおさえている.

有閑階級の退廃は大手を振ってまかり通り,作者の自己投影を恩わせる主人公は容赦なくこ づきまわされる.もともとWaughは,主人公が抱いている過去の栄光‑の郷愁をどこか胸 に秘めている作家である.彼はいわば自己の分身を残酷にあつかっているのである.作者が BrendaやBeaverを批判している要素は全くなく, Johnの死を悼むわけでもない.因みに Waughはこの作品を書く四年前にカトリックに入信している.彼の陰画はなかなか陽画に反 転させることは出来ないのである.そこが曲者のこの作者は同情や感傷も見せずに巧妙に自分 をあらわさない.人間や社会の訊刺的戯画を提出しながら彼はその対象を攻撃するのではな いAldous HuxleyやGeorge Orwellのような同時代の啓蒙的な訊刺家と違って,抗議や 主義主張の要素を作品にもち込まないのである.啓蒙的な要素を作品に持ちこめば,場合によ っては作品を平板なものにしたり,卑小化したりすることがあり得ることを知っているかのよ うに.この自己額晦は'moral neutrality'<8)というより善悪の価値判断を超越したamoralな 要素を作品にもたらす.そしてそのディタッチメントのうちにWaugh独特の奔放な想像力 と人の意表をつく喜劇の精神が充分に発揮される余地がある.言うに言われない絶妙の「笑 い」がそこに生まれるのである.そのとき作者が設定した作品の枠組みとしてのアレゴリーは,

「笑い」のうちに拡散するか融合してしまう.そしてその「笑い」は殆んどがアイロニーとブ

ラックユーモアであるが,不条理のもつショッキングな恐怖と悪臭を上品に表現するゆとりが

ある.この軽妙な残酷さ,或いは優雅な悪趣味が彼の作品にある雰囲気を与えているのは見逃

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がせない.それは,徹底したアイロニーで戯画化された社交や人間に対する不思議なやさしさ ともいうべきものである.残酷な筆致で描いたTony Lastの生活や愚行を,またBrendaの 無責任と堕落を,訊刺的な辛諌さで扱いながらそれを一方ではWaughは心のどこかで許して いる感じがするのである.読者がこの作品に感じる娯しさと不思議な魅力の一つはそこにもあ ると思われる.

D.C.ミカはその著作「アイロニー」の中でアイロニーの特徴としてデイタッチメソトの要 素をあげ,その中で優雅という言葉を用いている(9)これはそのままアイロニ‑の美的要素に つながるであろう. Waughの場合,それは洗練されたその文体にあらわれている.その特徴 は簡潔でいて流れるような会話の文章にも見られるが,ここでは最後に,アイロニーをこめ て描かれた「優雅な」文体の例を一つ作品のdescriptiveな文章からあげておこう.これは Messinger博士が助けを求めてカヌーで川を下り,途中滝に落ちて死ぬ場面である.

Later the river narrowed once more and the canoe shot forward in the swift current.

Ahead of him the surface was broken by rapids; the smooth water seethed and eddied; a low monotone warned him that beyond the rapids was a fall. Dr Messinger began to steer for the bank. The current was running strongly and he exerted his full strength; ten yards from the beginning of the rapids his bows ran in under the bank. There was a dense growth of thorn here, overhanging the river, the canoe slid under them and bit into the beach; very cautiously Dr Messinger knelt forward in his place and stretched up to a bough over his head. It was at that moment he came to grief; the stern swung out downstream and as he snatched at the paddle, the craft was swept broadside into the troubled waters;

there it adopted an eccentric course, spinning and tumbling to the falls. Dr Messinger was tipped into the water; it was quite shallow in places and he caught at the rocks but they were worn smooth as ivory and afforded no hold for his hands; he rolled over twice, found himself in deep water and attempted to swim, found himself among boulders again and attempted to grapple with them. Then he reached the falls.

They were unspectacular as falls go in that country ‑ a drop of ten feet or less ‑but they were enough for Dr Messinger. At their foot the foam subsided into a great pool, almost still, and strewn with blossom from the forest trees that encircled it. Dr Messinger's hat floated very slowly towards the Amazon and the water closed over his bald head.

(pp‑ 226‑7)

ここにも一つのアイロニ‑と黒い「笑い」が洗練された文体によって見事に捉えられてい る.作者が人生を裁断し読者に提示する時のこの種の表現上の特色が,彼の「笑い」にすど味 を加えているのもまた確かである。

この作品が「われわれの時代のもっとも秀れた小説の一つ」Oo)となっている理由は,作者の

強靭な喜劇精神はもとより,こういう洗練された文体の完成度に支えられているからであろ

う.

(13)

テキストはEvelyn Waugh: A Handful of Dust (Chaman & Hall, London 1967)を使用

(1) Stephen Jay Greenblatt: Three Modern Satirists. Yale Univ. Press, 1966. p. 26 (2) James Herbert: Modern English Novelists.研究社1960. p. 101

(3) Stephen Jay Greenblatt: Three Modern Satirists, p. 30

(4) Frederic J. Stopp: Evelyn Waugh: Portrait of an Artist. Chapman & Hall, London,

1958.p.94 (5) ibid., p. 97

Malcolm Bradbury: Evelyn Waugh. (Writers and Critics), Oliver and Boyd: Edinburgh

and Londor】, 1964. p. 66

(7) Frederick R. Karl: A Reader's Guide to the Contemporary English Novel. Thames and Hudson, London, p. 167

なおこの日本語訳は,荒木敏彦訳「今日の英国小説」 (文修堂,昭和45年)による.

James Herbert: Modern English Novelists, p. 94

(9) D.C.ミカ: 「アイロニー」森田孟訳(研究社,昭和48年),p.61

(10)ウォルタ‑アレン: 「20世紀英米小説論」渥美昭夫・佳子訳,鹿島出版会,昭和42年, p. 237

その他の参考文献

James F. Carens: The Satiric Aγt of Evelyn Waugh. Univ. of Washington Press, Seattle

& London, 1966

吉田健一編「イーヴリン・ウォ‑」 (20世紀文学案内)研究社, 1969 佐伯彰一「現代英米小説の問題点」南雲堂,昭和31年

(昭和49年9月30日受理)

参照

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