『おあむ物語』版本の振り仮名について
新 田 祥 絵
1. はじめに
『おあむ物語』は、「おあん」と呼ばれた女性の、関ヶ原の戦いなどについて の体験を聞いた筆者が筆録したとされるもので、少なくとも1730(享保15)年 には成立したと考えられている。(1)原本は失われているが、数々の写本のほか 版本もつくられており現代に伝わっている。
ところで、写本と版本の違いとして考えられるのは、何のためにその本をつ くるのかという目的である。写本であれば、自身の興味や関心に応じて書写し 手元に置くためということがある。版本であれば商品として販売するためとい うことになる。そうすると、その本を読むのは、前者の場合は書写者自身やそ の関係者で、後者の場合は本を購入した不特定の人間である。
この違いは目に見える形でテキストにあらわれるのではないだろうか。販売 目的で版本をつくる際には、読者が読みやすいように、より多くの人間が読め るようにする工夫がなされていると考えられる。このような読者への配慮のひ とつに振り仮名が挙げられる。
本稿では、『おあむ物語』版本を例としてそこに付された振り仮名に注目し、
使用実態について調査を行う。そのうえで、『おあむ物語』版本の振り仮名がど のような意図で付されたのかを考察する。
2. 先行研究
2.1 『おあむ物語』についての研究
『おあむ物語』を対象とした先行研究はそれほど多くない。吉野忠(1965) は『おあむ物語』諸本を調査し、原本に近い本を「土州本」とし、その「土州 本」から「おあん」の使用していたであろう言語を考察している。
そのほか、桑山俊彦(1982、1983)が『おあむ物語』の音便の状況や、仮名 遣いについて調査を行っている。
2.2 振り仮名についての研究
田島優(1998、2002)は漢字表記と振り仮名の関係を考える際には2つの立 場があると述べる。ひとつは読解的な立場である。これは、ある漢字表記にど のような読み・語が対応しているのか、換言すればなぜその漢字にその振り仮 名を付したのかを問題にする。もうひとつは書記的な立場である。これは、あ る語をどのような漢字であらわすか、なぜその語をその漢字であらわすのかを 問題とする。そして、この 2 つの立場を区別し、資料によって立場を変えて考 察することが必要であるという。書記的な立場で扱うべき文献について、田島 は「江戸時代の板本や近代の活字印刷など出版に作者が関わっているものは勿 論のこととして、出版によらないものでも作者自身による写本などはこの立場 でゆくべきである」(田島 2002 p.92)と述べている。一方で読解的な立場で 扱うべきものとしては「作者以外の手になる写本はこの立場をとる必要がある」
(田島2002 p.92)としている。
矢田勉(2012)は振り仮名に 2 種類の機能と、3 種類の用途を想定した。機 能は「A 音形表示機能」、「B 二重イメージ喚起機能」に分けられるとする。
A は振り仮名の本来の機能で、その漢字と対応する音形を示すものである。B は漢字と音形を結び付けて漢字の読みを指定するのではなく、漢字に外来語や 属性をあらわす語などを振り仮名としてあてるもので、本行と同等以上の資格 を有するものである。
更に振り仮名には「①読み指定の用途」、「②啓蒙・学習的用途」、「③臨時的 な読みを与える用途」の 3 種類があるとした。①は読み方の候補が複数あり、
読みが決定されなければ意味伝達に問題が生じる場合に、読みを決定するため のものである。②は漢字学習途上の読者が主な対象で、今後その漢字が読める ようになることを想定してつけたり、読みやすくしたりするためにつけるもの である。③は文脈に応じて特殊な読みを与えるもので、使用頻度の低い読み方 や近現代の中国語、方言などの口頭語形を示すときに用いられる。
これらの機能と用途は機能Aが①②に、機能Bが③に対応するという。ただ しひとつの漢字に複数の用途が期待される場合もあり、用途の境界は連続的な ものである。また、どのような読者を想定するかによっても境界は変化する。
これらの機能と用途を、矢田(2012)は近現代だけではなく、近世の作品にも 適用している。
この矢田の考えは田島のいう書記的な立場にあたるといえる。いずれの機 能・用途でも、その語をどのように書くかが問題になっているからである。
『おあむ物語』の場合はどのように考えるべきだろうか。本稿では、田島の いう読解的な立場によって考察を進めていくこととする。それは『おあむ物語』
の原本は既に失われており、版本は出版に際し準拠した本があるからである。
一からの創作であれば、作者が本文を考え、その考えにふさわしい字が選択さ れ、必要に応じて振り仮名が付される、すなわち書記的な処理がなされるとい うことが想定される。しかし『おあむ物語』版本において振り仮名を付す場合 には、既に書かれている漢字をどのように読むかが問題となるのである。
2.3 他作品における振り仮名の研究
小松寿雄(1987)は滑稽本の『浮世風呂』をとりあげ、本文の総文字数に対 する漢字の文字数、振り仮名付き漢字の数とその割合を調査した。また、振り 仮名が付されなかった漢字を一覧表にしてまとめている。そのような字につい て小松は「一覧表に現れる漢字は、大部分やさしいものである。これらの漢字 は、当時の人がルビなしでたやすく読めたものではないかと推定される。この ように考えれば、ルビなし漢字は、当時の人が共通に習得していた漢字である 可能性をひそめている」(小松1987 p.189)と述べている。
矢野準(1987)は人情本を対象とし、総文字数に占める漢字の文字数や、振 り仮名付き漢字の数とその割合を調査し、洒落本や滑稽本の比較を行い、ジャ ンルごとに傾向に違いが見られることを指摘した。また、漢字と振り仮名の関 係にもふれている。『春色辰巳園』における「おっかあ」という語について、話 者が自分の母親についていう時は「母人お っ か あ」、他人の母親についていう時は「母御お っ か あ
」と書かれていることを指摘している。
また、矢野(1989)においては、十返舎一九の作品を調査し、総文字数に占 める漢字の文字数や振り仮名付き漢字の数とその割合をまとめている。また、
使用された漢字ごとの用例総数や振り仮名が付された回数も示している。調査 結果について、使用頻度の高かった漢字の上位10種のうち8種が小松(1987) で示された振り仮名なしの漢字と共通していることにふれ、「一九自画作の黄表 紙類に見られる漢字の性格をいくぶんか物語るようである」(矢野1989 p.595) と述べている。
小野正弘(2002)はあるテキストにおいて頻繁に用いられる漢字の歴史的 推移やその性格を明らかにしようと試みたものである。そのために『正徹本徒 然草』、『西鶴置土産』、現代の新聞の3資料を用いて考察をしている。それによ ると、『西鶴置土産』で使用された漢字について、その約8割に振り仮名がつい ていたという。また、一度でも振り仮名を付されていない漢字と使用頻度の関 係をみると、使用頻度が高いほど振り仮名がつかない割合が高いという結果に なったという。この結果について小野は、「振り仮名が省かれるということは、
すなわち、振り仮名がなくても読めると判断されていると考えることができ、
何度も出てくるから一度くらい付さなくてもよい、あるいは、基本的なものな
のであえて付す必要がないと見ることができよう。要するに、使用高頻度漢字 は非振り仮名漢字であることが極めて多く、それは、基本度が高いからだとい う関係があるのである」(小野正弘2002 p.56)と指摘する。(2)
三原裕子(2006)は安永期以降に出版された後期咄本13作品について、品詞 別の振り仮名付記語数や、作品ごとの延べ語数に占める振り仮名付記語数の数 を調べ、時代が下るほど振り仮名がつけられることが多くなると述べた。同時 に、その振り仮名の用法についても分類・整理を行っている。
これらの研究から、多く用いられる漢字には振り仮名がつかない割合が高い ことや、作品やジャンルを越えて共通する振り仮名のつかない漢字は、当時の 人間が共通して読める基本的な漢字である可能性が高いことが分かる。
3. 資料
3.1 書誌情報
今回は2種類の版本を使用した。
(1)『おあむ物語』1837(天保8)年刊 早稲田大学蔵(請求記号 文庫30 E004) 一冊 縦25.7 cm、横18.0cm 全35丁
この本は『おあむ物語』『おきく物語』の合刻本である。巻末に「玉巌堂製本 書目」という広告がついている。「玉巌堂」とはこの本を出版した和泉屋金右衛 門(3)の屋号である。
本文には匡郭があり、縦 20.3cm、横 15.0cm。一面 9 行で、一行は 19~22 字。朝川善庵(4)の跋文を持つ。また、挿絵が三丁裏~四丁表、五丁裏~六丁表、
七丁裏~八丁表にある。絵には「武清(5)」の印がある。
(2)『おあむ物語』1857(安政4)年序 菊池真一編(1987)『おあん物語 お きく物語 理慶尼の記 本文と総索引』和泉書院収録 一冊 縦 25.4cm、横 17.5cm 全8丁
本文には匡郭がない。一面7行で、一行は 20~24字。津田寛(6)の序文を持 つ。挿絵はない。
字配りや筆跡も異なるため、両者は別につくられた本である。
3.2 本文の異同
上で見たように2冊の本は別につくられた本である。両者の本文を比べると、
漢字で書くか仮名で書くかといったことや、仮名遣い、振り仮名のつけ方など を別にすると、以下に示した表 1 のような違いがある。なお、以下仮名は現行 のものに改めている。また、振り仮名が語の一部分にだけない箇所は■で示し
表記 振り仮名 丁 表裏 行 表記 振り仮名 丁 表裏 行 田中兵部どのゝう ■なかひやうぶ 1オ~ウ 9~1 田中兵部とののう たなかひよふ 3ウ 1
死で しん 3オ 4死て しゝ 5オ 5
諸手へ もろて 4ウ 1諸手へ しよて 5ウ 2
翌の よく 4ウ 2翌の あす 5ウ 3
日中 につ■ 4ウ 2日中 ひちう 5ウ 3
明日は みやうにち 4ウ 3明日は あす 5ウ 3
親父 おやぢ 5オ 4親父 しんふ 6オ 4
居られたが を 5オ 8居られたが い 6オ 7
金を こがね 7オ 6金を きん 7オ 5
郷談なり きやうだん 8ウ 4郷談なり ごうだん 7ウ 3
蛹也 いやうや 8ウ 6蛹也 ゆうや 7ウ 5
天保8年版 安政4年版
表2 天保8年版と安政4年版で異なる振り仮名をつけている箇所
ている。これらの違いを除いて本文は同じであり両者は近いものである。
天保8年版 安政4年版
おれが 親父し ん ぶは。山田 去暦き よ れ きというて…(1 オ)
おれが 親父し ん ふは 山田や ま だげんりやく玄暦というて…(3 オ)
石E
い し
AAE田E
■
AAE治部E
ぢ ぶ
AAE少輔E
せ ふ
A殿にAE奉公E
ほ う こ う
Aし。あふみの(7)
ひこAE根E
ね
AにAE居E
ゐ
Aられたが…(1オ)
AE石田E
い し だ
AAE治部E
ぢ ぶ
AAE少輔E
せ う せ う
A殿にAE奉公E
ほ う こ う
Aしあふみの国 A
E彦根E
ひ こ ね
Aにいられたが…(3オ)
AE田E
■
AAE中E
な か
AAE兵部E
ひ や う ぶ
Aどのゝう。田中兵部殿のうと。
おめきて。そのあとにて…(1ウ)
AE田中E
た な か
AAE兵部E
ひ よ ふ
Aとののう田中兵部とのゝうと おめきてあとにて…(3ウ)
かみなりの鳴をまつやうな心しておじや つた(2オ)
かみなりの鳴をまつやうなこゝちして おしやつた(4オ)
そのまゝひり/\として 死し んで…(3オ) そのまゝひり/\として 死し ゝて…(5オ) 去暦事は。 家康い へ や す様御■ ■ 手て ならひの…(3
オ)
玄暦事は家康様 御手お て ならひの…(5オ)
帷子E
か た び ら
A一つあるよりほかにはなかりし(6 ウ)
A E帷子E
か た ひ ら
A一つあるよりほかになかりし(6 ウ)
AE沙汰E
さ た
AのA E限E
かぎり
Aなことゝて…(7オ) AE沙汰E
さ た
AのA E限E
かきり
Aなことで…(7オ)
AE右E
み ぎ
AAE去暦E
き よ れ き
AAE土州E
ど し う
AAE親類方E
し ん る ゐ か た
AへAE下E
く だ
Aり…(8ウ) 右玄暦 土州と し う親類方し ん る い か た
へ下り…(7ウ) 右の 物も のがたりを。折を り々きゝ覚お ぼえたり。
(8ウ~9オ)
右の物がたりを 折お り/\きゝおぼへたる (7ウ~8オ)
表1 天保8年版と安政4年版における本文の異なる箇所 3.3 振り仮名の違い
次に同じ箇所でありながら、両者で異なる振り仮名をつけている部分をまと めた。なお、音便形かそうでないかの違いは挙げていない。
この違いが何に由来するのかをはっきり示すことは難しい。両版本と極めて
似ている、直接つながりがある本というものを現時点で確認できておらず、ま た、上に挙げた箇所の読みを全て振り仮名や仮名表記で書いている本も確認で きていない。そのため、版下をつくるにあたり参照した本の読みをそのまま踏 襲したのか、それとも独自の判断・解釈でその読みにしたのかは不明である。
ただ、「郷談」の読みについては、他本で「京談」(8)「けうだん」(9)「けふたん」
(10)などとあることから、安政4年版の「郷談」は独自の判断による可能性もあ る。
4. 表記からみた振り仮名のつけ方
以下では『おあむ物語』の表記、振り仮名のあり方はどのようになってい るのかを検討する。江戸時代に出版された他ジャンルの本と比較を行い、表記 の面からみた『おあむ物語』がどのように位置づけられるのかを考察する。
4.1 漢字と振り仮名の量
小松(1985)は江戸語の表記について、「江戸小説の表記で目立つのは、ルビ 付き漢字の多さである。(中略)洒落本、咄本、滑稽本、人情本の振り仮名はも っと単純なもので、読み手の学力を考慮して付けられたものが多い。調査をし た上での事ではないが、洒落本や咄本の振り仮名は、滑稽本や人情本より概し て少なく、後者の場合は、漢数字など特殊なものを除くと、総ルビ付きに近い。
ルビ付きという前提があるため、かえって漢字も自由に用いられ、滑稽本や人 情本の方が洒落本や咄本より漢字の量が多い」(小松 1985 p.42)と述べる。
この指摘を踏まえて、矢野(1987)では人情本、洒落本、滑稽本について、漢 字の使用量や振り仮名付記率(11)についてまとめている。矢野(1989)では十 返舎一九の黄表紙作品について同様にまとめている。また、三原(2006)は咄 本について同様の調査を行っている。次の表 3 は、人情本、洒落本、滑稽本、
咄本、黄表紙、『おあむ物語』(12)の総文字数における漢字数と、延べ漢字数にお ける振り仮名付記率をまとめたものである。人情本、洒落本、滑稽本について は矢野(1987)(13)を、黄表紙は矢野(1989)(14)を、咄本は三原(2006)(15)を 参照し作成した。
調査結果について矢野(1987)は、「人情本では作品ごとのばらつきが比較的 小幅で、概して漢字含有率が高いといえるだろう」(矢野1987 p.201)、「小松 氏によって指摘されたごとく滑稽本や人情本では、おおむね、漢字含有率と振 り仮名付記率とに相関が見られるようである」(矢野1987 p.201)と分析する。
また、黄表紙の調査結果について、矢野(1989)は、「黄表紙本文部分において
総文字数 延べ漢字数 漢字含有率 振り仮名付き漢字総数 振り仮名付記率
天保8年版 1935 484 25.0% 363 75.0%
安政4年版 1954 462 23.6% 337 72.9%
総文字数 延べ漢字数 漢字含有率 振り仮名付き漢字総数 振り仮名付記率 契情胆粒志 三の中
1826(文政9)年 2023 541 26.7% 384 71.0%
軒並娘八丈 一の下
1824(文政7)年 2173 810 37.3% 640 79.0%
春色梅児誉美 一の五
1832(天保3)年 2077 567 27.3% 513 90.5%
春暁八幡佳年 四の三
1837(天保8)年 2210 898 40.6% 885 98.6%
計 8483 2816 33.2% 2422 86.0%
総文字数 延べ漢字数 漢字含有率 振り仮名付き漢字総数 振り仮名付記率 遊子方言
1770(明和7)年 3647 722 19.8% 208 28.8%
契情買虎之巻
1778(安永7)年 4549 475 10.4% 58 12.2%
吉原やうじ
1788(天明8)年 3190 788 24.7% 38 4.8%
計 11386 1985 17.4% 304 15.3%
総文字数 延べ漢字数 漢字含有率 振り仮名付き漢字総数 振り仮名付記率 東海道中膝栗毛 五上
1806(文化3)年 4359 399 9.2% 65 16.3%
浮世風呂 前上
1809(文化6)年 3376 912 27.0% 849 93.1%
栗毛後駿足 二下
1818(文化15)年 3795 637 16.8% 324 50.9%
計 11530 1948 16.9% 1238 63.6%
総文字数 延べ漢字数 漢字含有率 振り仮名付き漢字総数 振り仮名付記率 笑話之林
1831(天保2)年 5044 1074 21.3% 851 79.2%
百歌撰
1834(天保5)年 10868 1665 15.3% 784 47.1%
総文字数 延べ漢字数 漢字含有率 振り仮名付き漢字総数 振り仮名付記率 屈伸一九著
1802(享和2)年 5991 168 2.8% 3 1.8%
的中地本問屋
1802(享和2)年 3061 82 2.7% 9 11.0%
化物太平記
1804(文化1)年 5246 158 3.0% 0 0.0%
『おあむ物語』
人情本
洒落本
表3 人情本、洒落本、滑稽本、咄本、黄表紙、『おあむ物語』における、総文字 数に占める漢字の量、漢字への振り仮名付記率
滑稽本
咄本
黄表紙
は他と比して、中村幸彦氏の御指摘の通り比較的に漢字の使用が抑えられてい るように思われる」(矢野1989 p.592)としている。
また、三原(2006)は咄本の振り仮名付記率について、「同時期に出板された 戯作の振り仮名付記率を、矢野1987の抽出調査をもとに比較すると、本調査の 値(16)は、洒落本よりは多く、人情本よりは少なく、滑稽本の平均値に近いこと
が知られる」(三原2006 p.4)と述べている。
『おあむ物語』についてみると、漢字含有率は 70%台、振り仮名付記率の値 は20%台となっており、人情本の値に近い結果になった。また、天保 8年版と 安政4年版で大きく値が異なるということもなかった。
小松(1985)は、滑稽本や人情本が、洒落本や咄本よりも漢字や振り仮名の 使用量が多いことについて、「この相違は、おそらく読者層を反映しているに違 いない。「浮世風呂」の中には、主人の入浴中に履き物番をしながら絵草子を読 む丁稚(二ノ下)、中本の噂をする下女(二ノ下)などが出て来る。このような 読者層に応ずるため、振り仮名が多くなったのであろう。春水は、若い娘たち を対象に人情本を書くことを何度も述べている。人情本も滑稽本同様、ルビが 多い」(小松 1985 pp.42-43)と指摘する。また、三原(2006)は咄本の振り 仮名が、時代が下るにつれて増えることを指摘するが、その理由を、早い時期 では咄本の読者が作り手と同じ階層に属しているため、その識字能力を把握す ることができ、読解のために振り仮名をつける必要がなかった。しかし、出版 量の増大とともに読者層も拡大し、その識字能力を予想できなくなったため、
安全策として振り仮名を多く施すことになり、結果増加した振り仮名が識字能 力の低い読者を更に取りこむことになったとしている(三原2006 p.6)。
『おあむ物語』について考えると、漢字含有率、振り仮名付記率ともに人情 本に近い値である。この値からみると、およそ人情本の読める人間ならば、『お あむ物語』を読むこともできると考えられる。ではなぜ、『おあむ物語』の漢字 含有率や振り仮名付記率は人情本と近いのだろうか。その理由として推測され るのは時代の要請である。『おあむ物語』が出版された天保年間は、飢饉やそれ による一揆などで世情は不安定であった。「おあん」は若いころの彦根での貧し い暮らしについて語り、「今時の若衆」が食べ物や衣類に金をかけて贅沢してい ることを「沙汰の限り」と批判した。このような内容は、厳しい時代に贅沢を 戒めるためにふさわしいものだったのではないか。民衆に倹約を説くため(17)
に『おあむ物語』は出版され、その際より広い層の人々に読まれるように漢字 や振り仮名の量が調整された。その量を漢字含有率や振り仮名付記率としてみ たとき、結果的に人情本と同じ程度の漢字含有率、振り仮名付記率になったの ではないだろうか。
4.2 振り仮名なしの漢字
表3において『おあむ物語』の振り仮名付記率は72~75%であり、振り仮名 がついていない漢字が延べ漢字数の3割弱を占めていることが分かった。また、
天保8年版と安政 4年版では、安政4年版において振り仮名付記率がわずかに
低くなっており、天保 8年版では振り仮名がつけられていても、安政 4 年版で は振り仮名がない漢字があることが想像される。以下では、それぞれの版本で どの漢字に振り仮名がないのかをみていく。
天保8年版の異なり漢字数は236で、安政4年版の異なり漢字数は223であ った。そのうち、振り仮名がついていない字を抜き出してまとめたものが表4(18)
である。複数回あらわれる漢字であっても、一度でも振り仮名がつけられてい ない場合があれば表に挙げている。表の「漢字使用回数」は本文中でその漢字 が用いられた回数を示し、「振り仮名なし」はその中で振り仮名がつかなかった 回数を表している。
表をみると、天保8年版と安政4年版をあわせて全体で76種類の漢字に振り 仮名のつかない場合があることが分かる。そのうち、天保 8年版と安政 4 年版 ともに振り仮名のつかない場合がある字は39種類(表4①)である。また、天 保 8 年版にのみあらわれる振り仮名がつかない字は 11 種類(表 4②)、安政 4 年版にのみあらわれる振り仮名がつかない字は26種類(表4③)あった。天保 8年版では50種類(①+②)、安政4年版では65種類(①+③)の漢字に振り 仮名のつかないことがあるという結果となった。このように、それぞれの版本 で振り仮名がつく字とつかない字は異なることが分かった。
ところで、この表に挙げた漢字は他の作品においてはどのように扱われてい るのだろうか。他の作品と共通して振り仮名がない漢字があれば、その字は「当 時の人が共通に習得していた漢字である可能性をひそめている」(小松 1987 p.189)といえそうである。
小松(1987)は『浮世風呂』における振り仮名がない漢字の一覧表(19)を作 成している。表4 掲載の漢字のうち、小松(1987)で挙げられている振り仮名 がない漢字と共通する字を、見出し横の「○」で示した。表4の全76種類の漢 字のうち、36種類が該当する。また、小野(2002)は『西鶴置土産』における 使用頻度10回以上で、非振り仮名の割合が80%までのものを挙げている(20)が、
その字と共通するものを見出し横の「☆」で示した(21)。表 4 の全 76種類の漢 字のうち、20種類が該当する。最後に、矢野(1989)は十返舎一九の黄表紙11 作品に使用された全ての漢字を挙げているが、その中の振り仮名が一切付され ていない、または一部に振り仮名が付されていない字と共通するものを、見出 し横の「◇」で示した。表4の全76種類の漢字のうち、45種類が該当する。
表4をみると、①の天保 8年版と安政4年版で共通して振り仮名がない漢字 は、他の作品でも振り仮名がつかない場合が多いことが分かる。特に漢数字や
「申」「事」「給」「人」といった頻繁に用いられる字(22)は振り仮名がなくても 読めると広く認識されていた可能性が高い。また、②の天保 8 年版にのみあら われる振り仮名がない漢字も、他作品と共通するものが多いことが分かる。そ
漢字使用回数 振り仮名なし 漢字使用回数 振り仮名なし
一 ○☆◇ 2 2 3 2
九 ☆◇ 2 2 2 1
三 ○☆◇ 3 3 3 2
七 ○☆◇ 1 1 1 1
八 ○◇ 2 2 2 2
十 ○☆◇ 5 5 5 5
四 ○☆ 2 2 2 2
子 ○◇ 5 3 5 1
物 ○ 5 1 5 1
事 ○☆◇ 17 15 14 12
人 ○☆◇ 13 8 13 6
田 ◇ 8 7 8 3
中 ○◇ 8 5 8 4
兵 ○◇ 3 1 3 2
部 5 1 5 3
申 ○☆◇ 3 3 3 3
付 ◇ 2 1 2 2
首 4 1 4 1
候 ☆◇ 4 4 4 4
給 ○☆◇ 4 3 4 3
見 ○☆◇ 1 1 1 1
来 ○◇ 5 1 5 3
暦 3 1 3 2
御 ○◇ 7 6 7 2
此 ○◇ 3 3 4 1
其 4 2 5 3
又 ○☆◇ 3 3 2 1
時 ◇ 10 2 9 1
右 ○◇ 4 3 4 3
年 ○◇ 2 1 2 1
3 1 3 2
助 3 3 3 2
儀 3 1 3 1
衛 ○☆◇ 2 2 2 1
門 ○◇ 2 2 2 1
後 8 1 8 2
山 ◇ 4 4 3 1
世 ○◇ 5 1 5 2
様 3 1 3 1
小 ○◇ 1 1 1 0
大 ○☆◇ 2 1 2 0
天 ◇ 3 2 2 0
玉 ◇ 2 1 2 0
文 ◇ 1 1 1 0
百 ☆◇ 1 1 1 0
六 ○☆◇ 1 1 1 0
五 ○☆◇ 1 1 1 0
去 3 1 0 0
有 ☆◇ 2 1 1 0
殿 3 1 1 0
表4 天保8年版と安政4年版における振り仮名がついていない漢字
② 天 保 8 年 版 に の み あ ら わ れ る 振 り 仮 名 が な い 漢 字(
1 1 種 類)
① 天 保 8 年 版、
安 政 4 年 版 に 共 通 す る 振 り 仮 名 が な い 漢 字(
3 9 種 類)
天保8年版 安政4年版
の一方で、③の安政 4 年版にのみあらわれる振り仮名がない漢字は、他作品と 共通するものはそれほど多くない結果になった。
漢字使用回数 振り仮名なし 漢字使用回数 振り仮名なし
城 5 0 6 2
歳 2 0 2 2
国 ○ 2 0 4 1
治 2 0 2 1
石 ○◇ 3 0 3 1
火 ○ 2 0 2 1
矢 4 0 4 1
昔 0 0 1 1
日 ◇ 4 0 4 2
鉄 5 0 5 1
砲 5 0 5 1
口 ○◇ 1 0 1 1
玄 0 0 3 2
家 ○☆◇ 4 0 4 1
康 2 0 2 1
夕 1 0 1 1
等 3 0 3 1
出 ○◇ 1 0 1 1
夜 ○◇ 3 0 3 1
名 ◇ 1 0 1 1
彦 4 0 5 2
根 6 0 6 3
下 ○◇ 2 0 2 1
頃 1 0 2 1
予 2 0 2 1
孫 3 0 3 1
続表4 天保8年版と安政4年版における振り仮名がついていない漢字
天保8年版 安政4年版
③ 安 政 4 年 版 に の み あ ら わ れ る 振 り 仮 名 が な い 漢 字
(
2 6 種 類)
小野(2002)は『西鶴置土産』において使用頻度が高い一方で振り仮名の 少ない字について、このような非振り仮名の漢字には、社会生活的基準からみ て基本度の高いものと語法的基準からみて基本度の高いものの両方が含まれて いるとまとめているが、同様のことが『おあむ物語』においてもいえそうであ る。そして、他作品とも共通して振り仮名が付されない漢字は、当時振り仮名 がなくとも読める字であったと考えられる。
4.3 運用面からみた振り仮名のつけ方
前節にて、振り仮名が付されない漢字は基本的な、易しい漢字だと考えられ ることを述べた。そのような漢字であれば、振り仮名を一切用いなくてもよさ そうなものである。しかし実際には、同じ漢字であっても振り仮名がつく場合 とつかない場合が存在する。例えば「人」という字は、天保8年版では13回用 いられ、そのうち8回振り仮名がない。5回は振り仮名が付されているのである。
ここにはなにか規則が存在するのだろうか。
小野(2004)は漢字を「文字」(素材)としてとらえるのか、「表記」(運用)
としてとらえるのかを区別するべきであると述べる。「素材」としてとらえると いうのは、語を構成する漢字を分解して、「貫一」の「一」と「一日あ る ひ」の「一」
を同じ「一」ととらえることである。一方で「運用」としてとらえるというの は、実際に用いられているままとらえることである。「貫一」の「一」は固有名 詞の一部とし、「一日あ る ひ」の「一」は普通名詞の一部、しかも熟字の一部であるの でこれらの「一」は別物であるととらえるのである(小野2004 p.84)。
小野(2004)は調査対象となる漢字を、まず漢字一文字の場合(「単字」)と 二文字以上の組み合わせの場合(「熟字」)とに分け、次に振り仮名の有無で分 け、振り仮名のあるものは音と訓とに分け、それから分析するという方法を示 している。
表4は漢字を「素材」として扱っているということになる。ここでは「運用」
の観点から、どのような場合に振り仮名がつき、どのような場合にはつかない のかを考察したい。以下では、表 4 に挙げた漢字のうち、振り仮名がつく場合 とつかない場合とがある漢字を対象とする。76種類全てを扱うことはせず、い くつか例を挙げてみることにする。
(1)「子」
天保8年版(用例数5 振り仮名なし3)
・子どもあつまりて…(1オ)
・又子ども 彦根ひ こ ねのはなし 被成れ な さよと…(5オ)
・はなぞめの 帷子か た び ら一つあるよりほかには…(7オ)
・せめてすねのかくれるほどの 帷子か た び らひとつ…(7オ)
・後の ち々には子どもしこ 名な を…(7オ)
安政4年版(用例数5 振り仮名なし1)
・子こ どもあつまりて…(3オ)
・又ま た子こ ども 彦根ひ こ ねのはなしなされよと…(6オ)
・はなそめの 帷子か た ひ ら一つあるよりほかに…(6ウ)
・せめてすねのかくれるほどの 帷子か た び ら一つ…(7オ)
・後々のち/\には子どもしこ名を…(7オ)
この例をみると、天保8年版では「子ども」の場合には振り仮名がなく、「帷 子」の場合は振り仮名つきであるということが分かる。前者は単字で漢字本来 の訓読みだが、後者は熟字の一部を成している。一方の安政 4 年版では、最後 の例を除いて、「子ども」「帷子」のいずれの場合も振り仮名が付されている。
単字か熟字か、本来の訓かそうでないかという区別はないということになる。
最後の「子ども」にだけ振り仮名が付されていない理由はつけ忘れか、前に振 り仮名をつけたのでそれでよいとしたのか(23)、決めるのは難しい。
(2)「事」
天保8年版(用例数17 振り仮名なし15)
・不思議ふ し ぎ な事がおじやつた(1オ)
・扨さ て々むごい事を見ておじやつたのう(3オ)
・矢や ぶみ来りて去暦事は…(3オ)
・おほせ 置お いたとの御事でおじやつた(4ウ)
・こはい事でおじやつたのう(5オ)
・その 時分じ ぶ んは 軍いくさが 多お ほくて 何な に事も 不自由ふ じ ゆ うな事でおじやつた(5オ)
・むかしは 物事も の ご とふ 自由じ ゆ うな事でおじやつた(7オ)
・ひる 飯め しなどくふといふ事は 夢ゆ めにもないこと(7オ)
・夜食や し よ くといふ事もなかつた(7オ)
・いろ/\のこのみ 事ご とめされる(7オ)
・彦根ひ こ ねの事をいうて…(7オ)
・むかしの事を 引ひ いて…(8ウ)
・この人よりはじまりし事なり(8ウ)
・むかしの事どもとり 集あ つめ…(9オ)
・いふべき事なかりし(9ウ)
安政4年版(用例数14 振り仮名なし12)
・不思議ふ し ぎ な 事こ とがおしやつた(3オ)
・扨々さて/\むこい事を見ておしやつたのう(5オ)
・矢や ぶみ来りて玄暦事は…(5オ)
・おほせ 置お いたとの御事でおしやつた(5ウ)
・こはい事ておじやつたのう(6オ)
・その 時分じ ぶ んは 軍いくさが 多お ほくて 何事な に ご とも 不自由ふ し ゆ うな事ておしやつた(6オ)
・むかしは 物も のこと 不自由ふ し ゆ うな事ておしやつた(7オ)
・ひる 飯め しなどくふといふことは 夢ゆ めにもないこと(7オ)
・夜食や し よ くといふ事もなかつた(7オ)
・彦根ひ こ ねの事をいうて…(7オ)
・むかしの事を 引ひ きて…(7ウ)
・此人よりはしまりし事なり(7ウ)
・いふへき事なかりし(8ウ)
これらの用例をみると、天保 8 年版では単字に振り仮名を用いることはな いということがまず分かる。また熟字においては、「物事」「このみ事」に振り 仮名が付されているが、「何事」には付されていない。この3つの熟字の中では、
「何事」が一番先にあらわれる。先に出てきたものに振り仮名をつけて後のも のにはつけないということは、安政 4 年版の「子ども」の例でふれたが、この
「何事」の場合はそのような事情でもないようである。次に安政 4 年版につい てみると、単字の「事」は最初の例に振り仮名がつけられ、以降のものにはつ いていない。また、ただひとつの熟字「何事」に振り仮名がつけられている。
単字であらわれる場合は最初に振り仮名を付し、以降はつけないという考えが 想像される。
(3)「人」
天保8年版(用例数13 振り仮名なし8)
・男女な ん に よ三十人ほどのこゑにて…(1オ)
・氣き のよわき 婦人ふ じ んなぞは…(1ウ~2オ)
・ただものおそろしやこはやと 斗はかりわれ人おもふたが…(2オ)
・我わ れ々母は ゝ人もそのほか 家中か ち うの 内儀な い ぎむすめたちも…(2オ)
・むかしはおはぐろ 首く びはよき人とて 賞 翫しやうくわんした(2ウ)
・母は ゝ人 我等わ れ らをもつれて…(4ウ)
・その 人数に ん ずはおやたちふたりわらはとおとな四人ばかり…(4ウ)
・母は ゝ人にはかに 腹は らいたみて…(5オ)
・はゝ人び とをば 親父お や ぢかたへかけて…(5オ)
・今い まも 老人ら う じ んのむかしの事を 引ひ いて…(8ウ)
・この人よりはじまりし事なり(8ウ)
・右み ぎ去暦き よ れ き土州ど し う親類し ん る ゐ方か たへ 下く だり 浪人ら う に ん…(8ウ)
安政4年版(用例数13 振り仮名なし7)
・男女な ん に よ三十人ほどのこゑにて…(3オ)
・氣き のよわき 婦人ふ じ んなそは…(4オ)
・たゝものおそろしやこはやとはかりわれ人おもふたか…(4オ)
・我わ れ/\母人は ゝ ひ ともそのほか 家中か ち うの 内儀な い きむすめたちも…(4オ)
・昔はおはぐろ 首く びはよき人とて 賞翫せ う か んした(4ウ)
・母人は ゝ ひ と我等わ れ らをもつれて…(5ウ)
・その 人数に ん すはおやたちふたりわらはとおとな四人はかり…(5ウ)
・母人は ゝ ひ とにはかに 腹は らいたみて…(6オ)
・はゝ人をは 親父し ん ふかたへかけて…(6オ)
・今い まも 老人ろ う し んのむかしの事を 引ひ きて…(7オ)
・此人よりはしまりし事なり(7ウ)
・右玄暦 土州と し う親類し ん る い方か たへ下り 浪人ろ う に ん…(7ウ)
天保8年版では「よき人」「この人」のように単字であらわれる場合は振り 仮名がついていない。一方で熟字の場合、「三十人」「四人」のように漢数字と あわせて人数をあらわす場合は振り仮名が付されていない(24)。「婦人」「人数」
「老人」「浪人」のように漢語の場合は振り仮名が付されている。和語「母人」
「われ人」の場合は振り仮名がないが、ひとつだけ「はゝ人び と」と例外がある。
安政4年版でも同様に「よき人」「此人」の場合と、人数をあらわす場合は振り 仮名が付されない。また、熟字として「婦人」「人数」「老人」「浪人」の場合は 振り仮名がつくことも同じである。しかし、和語「母人」にも振り仮名を付し ているのが天保8年版と異なる部分である。
ここまで「子」「事」「人」を例にして、どのような場合に振り仮名がつかな いのかをみてきた。整理すると、天保8年版では
①単字には振り仮名がつかない
②熟字の場合、人数をあらわすときはつかない
③漢語には振り仮名がつく
④和語にはつかない傾向にある。ただし本来の訓で読まない場合はつく ということになる。安政4年版では
①単字にはつかない傾向にある。ただし一回目に使われたときや、内容の区切 れをまたぐとつく
②熟字の場合、人数をあらわすときはつかない
③漢語には振り仮名がつく
④和語にはつかない傾向にある。ただし本来の訓で読まない場合はつく ということがいえる。
このように傾向めいたものはみえたが、例外もあるため統一された方針が あるとまではいえない。
5. 用途からみた振り仮名のつけ方
前節ではどのような場合に振り仮名がつき、どのような場合にはつかないの かを探ってきた。以下では、振り仮名が付されている語について、その振り仮 名がどのようなはたらきを持つのかを考える。振り仮名のはたらきを考えるに あたっては矢田(2012)が示した機能と用途に沿うことにする。
なお、この節では漢字一字ごとにみるのではなく、語ごとにみていくことと する。対象となるのは、天保8年版は延べ258語、安政4年版は延べ215語で ある。
5.1 機能B
先に機能B「二重イメージ喚起機能」について検討する。『おあむ物語』にお いて、この機能にあてはまる振り仮名は存在しないと考えられる。2.2でもふれ たとおり、『おあむ物語』には原作、つまり出版に際し準拠した本が存在するか
らである。一からの創作であれば、作者がイメージにふさわしい漢字を選択し、
そのイメージに適う振り仮名をつけることができるが、『おあむ物語』では既に 使われる表現は決まっており、漢字の選択も不自由であるため、創作の余地は ないと考えられる。
5.2 機能A
機能Bにあてはまる振り仮名がないために、『おあむ物語』の振り仮名は全て
「音形表示」の機能を有していると考えられる。その中から、具体的な用途を 検討していく。分類の基準としては、読み方の候補が複数あり、版本間で読み 方が異なっているものや、他の作品で同じ漢字に複数の読み方があるものにつ いては①とした。読み方の候補が音便形と非音便形のふたつがあり、音便形を とっているものを③とした。①と③のどちらにも入らなかったものは②とした。
なお、重複している語は個別に数えている。
①読み指定の用途
この用途にあてはまるのは、天保8年版では23例、安政4年版では22例あ った。天保8年版と安政4年版で共通しているのは21例であった。以下に例を 示す。
(1)おれが 親父し ん ぶは…(天保8年版1オ)/おれが 親父し ん ふは…(安政4年版3オ)
これは「おやぢ」と「しんぶ」という候補から「しんぶ」を選択したもので ある。人情本(25)や洒落本(26)では「おやぢ」という振り仮名が付されている。
また、『早引万代節用集』『大全早引節用集』(27)では「親父」に「しんぶ」「おや ぢ」(『大全早引節用集』では「をやぢ」)と振り仮名が付されている。このこと から、「親父」という字に対して「しんぶ」という読みを選択したことが分かる のである。
(2)そのところへおとな 来きたつて…(天保8年版2ウ)
これは「きて」「きたりて」「きたつて」という候補が考えられる中から「き たつて」を選んだものである。この箇所のあと3オにて「鉄砲て つ は う玉 来き たりて…」と いう部分がある。このように送り仮名があれば読み方はひとつに定まるが、「来 て」ではそうもいかない。洒落本では「来て」は「きて」であり、「きたつて」
とは読まない可能性がある。そのために振り仮名で読み方を指定しているので ある。
(3)諸手も ろ てへおほせ 置お いたとの御事で…(天保 8 年版 4 ウ)/諸手し よ てへおほせ 置お い たとの御事で…(安政4年版5ウ)
版本間で読み方が分かれた例である。人情本や洒落本、『早引万代節用集』『大 全早引節用集』に「諸手」はみられなかった。「もろて」は「両手」と書かれて
いた。
(4)しろは 翌よ くの 日に つ中…(天保8年版4 ウ)/しろは 翌あ すの 日中ひ ち う…(安政4年 版5ウ)
問題となるのは「翌」と「日中」の読み方である。まず「翌」についてみて みる。洒落本では「翌あ す」の例がひとつあり、人情本でも同じ例がひとつだけあ った。『大全早引節用集』に「翌よ く」「翌あ す」はなかった。次に「日中」についてみ る。洒落本や人情本に「につちう」か「ひちう」かが問題になる箇所はなかっ た。『早引万代節用集』『大全早引節用集』には「日中」で「につちう」として いる。「ひちう」の例はなかった。
(5)金こがねをつひやし…(天保8年版7オ)/金き んをつひやし…(安政4年版7オ)
「金」という字には「きん」「こがね」「かね」という候補が存在するが、両 版本でどの読み方を選んだかが分かれている。洒落本では金銭をあらわす「金」
は「かね」と読み、貨幣をあらわす「金」は「きん」と振り仮名を使い分けて いるようである。『早引万代節用集』『大全早引節用集』では「金か ね」「金き ん」「 金こがね」 いずれの例も存在した。
②啓蒙・学習的用途
この用途にあてはまるのは天保8年版では235例、安政4年版では193例あ った。このうち共通しているのは 178 例である。固有名詞もここに含まれてい る。
(6)男女な ん に よ三十人ほどのこゑにて…(天保8年版1オ)/男女な ん に よ三十人ほどのこゑ
にて…(安政4年版3オ)
現代であれば「なんによ」と「だんじよ」二通りの読み方が考えられる。し かし、『早引万代節用集』『大全早引節用集』には「なんによ」しか掲載がない。
また、人情本にも「なんによ」の振り仮名のみで、「だんじよ」の振り仮名はな かった。そのため①ではなく②に該当すると判断した。
③臨時的な読みを与える用途
この用途にあてはまるのは天保8年版の2例である。
(7)そのところへおとな 来きたつて…(天保8年版2ウ)
この例は①にも入れているが、「きたつて」と音便形をとるためここに分類し た。人情本や洒落本では「きたりて」という音形はあるものの、「きたつて」と 音便形をとる例はなかった。そのため、この「きたつて」は特別な形であると 思われる。
(8)老人ら う じ んのむかしの事を 引ひ いて…(天保8年版8ウ)
同じ箇所が安政 4 年版では「引ひ きて」となっており異なっている。ただ、洒落
本では「ひきて」と読む用例はなく、「ひいて」と読む例しかなかった。そのた め、どちらの形が一般的と考えられているかは判断できない。
今回は①と③にあてはまらない例を②に入れたが、その分類の境界ははっき りしないものである。①や③に入れた例でも、②の用途を含んでいる可能性も あるからである。
現代の感覚で考えると「親父」には「おやじ」の読みしかなく、振り仮名は
②に分類されそうなものである。また、「男女」は「だんじょ」としか読めない ように思われ、これも②に入りそうなものである。しかし人情本や洒落本、節 用集を参照すると、「おやぢ」「しんぶ」から「しんぶ」を選択していることや、
「男女」の読みは「なんによ」しかみられないことから、現代の感覚で分類す ることは適当ではない。
『おあむ物語』版本の振り仮名は読者が迷わず読めるように配慮してつけた ものと考えられる。しかし、複数の読み方の候補がある場合、どの読み方を採 用するかは制作者(版下をつくった人間)の判断による。また、付された振り 仮名が現代の感覚とは異なる場合もある。より多くの辞書や作品と対照するこ とで、どの読み方が当時より一般的だったかがみえてくると考えられる。
6. まとめ
本稿では『おあむ物語』2種類の版本の振り仮名について、その使用実態を調査 した。結論は、
①『おあむ物語』版本の漢字含有率と振り仮名付記率は人情本の値と近かっ た。不安定な時代を背景に、倹約を幅広い階層の人々に訴えるために『おあむ 物語』は出版されたと想像される。その際に読みやすくなるように漢字や振り 仮名の量が調節された。結果、漢字含有率や振り仮名付記率が人情本の値と近 くなった。
②『おあむ物語』において振り仮名がつけられなかった漢字の中には、他作品 においても振り仮名がない場合があった。作品に共通する振り仮名がない漢字 は、当時の人間が振り仮名なしで読めた字であると考えられる。また、同じ漢 字であっても振り仮名がある場合とない場合があった。用例をみると、単字か 熟字か、和語か漢語かなど、振り仮名の有無には条件があると思われる。ただ し、明確な方針があってそれを徹底しているとまではいえず、例外もある。
③振り仮名は、その漢字をどのように読むかということを示すために用いられ 読者の便宜をはかる。中には複数の候補からひとつに読み方を決定する場合も 存在する。ふたつの版本の間でも読み方が分かれる場合があった。どの読み方 がより一般的かは同時代の辞書や作品も参照することでより明らかになるであ