問題提起2 女性の身体表現を『鍵』に読む(シンポ ジウム 身体表現とジェンダー)
著者 塩崎 文雄
雑誌名 東西南北
巻 1998
ページ 21‑29
発行年 1998‑03‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003675/
塩崎文雄
今回の報告をお引き受けしたとき︑すぐに思い浮かん
だのが谷崎潤一郎の﹃鍵﹄という作品でした︒そこで︑
もう迷うことなく︑これでお話ししようと決めました︒
なぜ﹃鍵﹄でお話ししようと思ったのか︒その理由は二
つございます︒
一つは︑谷崎が女性の身体表現に一貫して興味を抱き︑
描き続けてきた作家だからです︒作中の女性たちが﹁お
酒落に憂き身をやつす﹂とき︑言いかえれば自己の身体
表現に心を砕くとき︑谷崎文学の真価は発揮されるよう
です︒時・所・階層・境遇・年齢・性格︑それらすべて
に最もふさわしい衣装を作中人物たちは身にまとう︒そ
こから作品の魅力は立ち上がる︒たとえば﹃細雪﹄の冒
頭は︑三人の姉妹たちが着飾って音楽会に出かける︒そ
の際にどの帯を締めて行くかという悶着から︑作品は始 女性の身体表現を﹃鍵﹄に読む 問題提起2○シンポジウム・身体表現とジェンダー
人文学部教授
動する︒幸子の締めようとした帯に︑妙子が﹁中姉ちゃ
んが息するとその袋帯がお腹のところでキュウ︑キュウ︑
たんす
云うて鳴るねんが﹂とクレームをつけたので︑﹁又箪笥
たとう
の開きをあけて︑幾つかの畳紙を引き出してはそこら辺
へ一杯に並べて解き始めた﹂といった場面は︑﹃細雪﹄
の成否を決定しているようです︒ですから︑九二年に上
野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子三氏の﹃男流文学論﹄
でも谷崎は取り上げられています︒もう少し補足します
と︑中野重治が鴎外のことを﹁民主主義の最も優れた敵﹂
と呼んだことがございますけれども︑フェミニズム・ジ
ェンダー論の側から言うと︑谷崎は﹁最も優れた敵だ﹂
と言っていい︒この機会に︑そうした問題を考えること
ができたらと思ったわけです︒
二つ目は︑ところが﹃鍵﹄はその衣装を身にまとわな
2 I ‑
い︑というか︑むしろ着衣を剥ぎとるところに眼目があ
ります︒五六歳の大学教授の夫と︑長年連れ添ってきた
四五歳になる奥さん︒二人の間には娘がある︒娘は同志
社卒とあります︒短大卒なのか四大卒なのか分かりませ
んが︑少なくとも二○歳を越えるお嬢さんがいる︒そう
いう妻の身体を隈なく見たい︑という夫の欲望が明示さ
れるところから作品は始まります︒その意味で︑﹃鍵﹄
は夫婦の閨房生活l閨房というのは古い言葉でして︑
ベッド・ルームとか寝室でもよろしいのですが︑私みた
いに古い文学をやっているものは﹁閨房﹂と言うとそれ
だけで元気になるという事情がありますので︑あえて
﹁夫婦の閨房生活﹂と言いたいのですが︑それを書いた
作品です︒妻のむき出しにされた身体を見ようとする行
為に︑どのような意味を読みとることができるか︑とい
うのが今日の問題提起でございます︒
時間の関係もありますので︑あらかじめ結論を申し上
げておきます.﹃鍵﹄という作品は夫婦の閨房生活︑性
行為︵そこには多人数性交まで暗示されているのですが︶︑
それらを描くことに主眼はない︒作品のモチーフは︑夫
つまり男が︑妻つまり女の着衣を剥ぎとる身ぶりを過剰
に演じることによって︑逆に︑女に文化規制としての性
役割lしとやかで魅力的な女性はどうあるべきかとい
った文化の衣装を着せかけるふるまいをするところにあ
る︒一九五○年代の文化状況ひいては男性の欲望のなか これからは資料に沿ってお話ししたいと思います︒ど
ういう時代に書かれて︑どういう波紋を投げかけたかを
見ておきたい︒まずは︑﹃鍵﹄の書誌について掲げてお
きました︒
﹃幼少時代﹄﹁文芸春秋﹂
一九五五年四月〜五六年三月︵計一二回︶
﹃鍵﹄﹁中央公論﹂
一九五六年一月︑五月〜一二月︵計九回︶
﹃鴨東綺謂﹄﹁週刊新潮﹂一九五六年二月一九日〜
三月二五日︵計六回︑未完︶
﹃鍵﹄は五六年一月に第一回分が﹁中央公論﹂に掲載
されます︒その後︑二︑三︑四月と中断し︑五月から一
二月まで連載される︒三カ月休んだ背後に何があったの
あふとうきたん
か︒実は︑﹃鴨東綺謂﹄という小説を﹁週刊新潮﹂に別
途発表しておりまして︑その間﹃鍵﹄を休載していた︒
その﹃鴨東綺證﹄が中途で放棄されて︑改めて﹃鍵﹄の
連載が再開された︒しかも連載を再開した途端に︑﹁週
刊朝日﹂が﹁ワイセッと文学の間l谷崎潤一郎氏の
﹃鍵﹄をめぐって﹂︵一九五六年四月二九日︶という特集 で︑﹃鍵﹄は女性に与えられた文化規制の最も先鋭な表 現だったと︑九○年代後半の現在︑フェミニズム・ジェ ンダー論の立場から読み直すことができる︑というのが 結論でございます︒
− 2 2
記事を組みました︒
ごらんの通り︑ちょっと悪意のある︑挑発的なキャプ ションが施されています︒それに対する過敏な反応とし て︑売春防止法案を審議中の国会の法務委員会で質問が
l君︑谷崎さんの﹃鍵﹄︵中央公論五月号︶をよん
だかい?/﹁ひどいね︒どういうんだろうな︒あれ
は﹂/11僕も︑そう思ってるんだ︒どういうんだろ うね︒/﹁これでいいのかな︒何だか︑ひどく悲しく なったよ﹂/国電の車中での二人の中年サラリーマン
の会話である︒/ほんとに﹁これでいいのかな﹂l
文壇も編集者も︒
出され︑政府委員が﹁老人たちが文芸の名のもとにああ
いういたずらをすることについて私は遺憾に思う﹂と答
弁する︒さらには新聞に投書が相次ぎ︑﹃鍵﹄はにわか
にスキャンダルとなって行きます︒と申しますのも︑こ
の年五月二四日に売春防止法が公布されるという社会情
勢があった︒また︑前年に石原慎太郎の﹃太陽の季節﹄
︵若者がペニスで障子を突き破る場面で一躍有名になっ
た作品です︶が世間を騒がせた︒あるいは︑チャタレー
裁判の第一審判決が翌春に出るということもありました︒
後年︵五七年三月︶のことになりますが︑チャタレー裁
判の上告審の判決を掲げておきます︒
こうした情勢を背景に︑老作家が夫婦の閨房生活を描
くことに対して︑ブーイングの声がにぎやかに起こった
わけです︒ブーイングについての感想はいろいろあるの
ですが︑それに触れている余裕はないので︑﹃鍵﹄と並
行して書かれた﹃鴨東綺證﹄の特色を押え︑それとの対
比によって﹃鍵﹄の問題を考えたいと思います︒
大まかなところだけを申し上げます︒﹃鴨東綺證﹄は 要するに人間に関する限り︑性行為の非公然性は︑人 間性に由来するところの蓋恥感情の当然の発露である︒ かような蓋恥感情は尊重されなければならず︑従って これを偽善として排斥することは人間性に反する︒
2 3 ‑
雑誌週刊誌のはしりであった﹁週刊新潮﹂の創刊号から
六回連載されて︑中絶します︒この作品は疋田奈々子と
いうアプレ女性︵戦後現れて来た社会常識から逸脱した
自由奔放な女性︶を描こうとしたもの︑もう少し言えば
エキセントリックな女性の性的放縦を描こうとしたもの
です︒ただこの作品は奈々子というヒロインに寄り添っ
て書くのではなく︑戦争中よその土地に疎開していて︑
戦後京都にやって来た乾夫婦が︑京都という閉鎖的な土
地にうんざりし︑こんな偏狭な社会に︑なぜ奈々子のよ
うなエキセントリックな女性が生まれたのかを︑京都の
町でとりどりに懸かれるうわさを介在させることによっ
て浮き彫りにしようとしたものです.
乾夫婦は京都に違和感を覚えます︒その例を三つだけ
挙げておきます︒一つは京都人はつましいので︑他人の
余したおかずを食べるばかりでなく︑仏壇のお供えもの
にまでしたというのが︑夫婦が受けた異文化ショックの
一つです︒もう一つは︑京都の女性は立ち小便をする︒
それも︑戸を開けっ放しにして立ち小便をする︒そのこ
とにもショックを覚える︒さらには︑内にそうしたみみ
つちさ︑あられもなさを抱えているのに︑他人のうわさ
をするのが︑また大好きときている︒京都のそういう閉
鎖的で偏狭な社会のなかで︑PXに出入りしたり︑ブロ
ーカーまがいのことをしたり︑出入りの運送屋やら友禅
の下絵書きやら中国人留学生やら﹁自分と階級を異にす る社会の筋肉労働者の男性的な体格に好奇心を感じ﹂︑ 彼らと次々に肉体関係を結んで行く﹁世にも珍らしい多 情な女﹂を描こうとしたのが﹃鴨東綺讃﹄という作品です︒
この作品はモデル問題の紛糾ばかりでなく︑︿うわさ
の遠近法﹀という方法的な限界もあって中絶し︑谷崎は
﹃鍵﹄に本格的に取り組むことになります︒﹃細雪﹄の自
作解説を挙げておきました︒結論だけを申し上げれば︑
﹁本来あの小説はあの倍くらゐの長さにして︑もつとい
ろノーな人物や事件を織り込み︑醜悪な暗い方面をも描
くつもりであった﹂という﹁創作余談﹂にしましても︑
﹁実を云へばその頃の芦屋夙川辺の上流階級の︑腐敗し
た︑廃頽した方面を描くつもりであった﹂という弓細
雪﹄を書いたころ﹂にしましても︑﹃細雪﹄の執筆動機
を明かしたものというより︑﹃鍵﹄を執筆していた当時
の興味のありかを語ったものと考えられるということで
す︒﹃幼少時代﹄は﹃鍵﹄と折り重なるように発表され
たものです︒早く﹃少将滋幹の母﹄で国経の老年の性を
描いた谷崎は︑﹃幼少時代﹄でも︑月あかりのもとで見
た﹁こんなにも年を取り︑こんなにも貧乏をし︑こんな
にも色槌せた衣類を身に着けてゐる﹂中年の女性に﹁残
んの色香﹂を見出しています︒谷崎はおもむろに﹃鍵﹄
の世界ににじり寄ろうとしていた︑と言えるでしょう︒
さて﹃鍵﹄という作品ですけれども︑﹃鴨東綺證﹄と
一
対比していただくと︑作品の特色がはっきりしてくるは
ずです︒五六歳の大学教授の夫が書斎で︑四五歳の妻が
茶の間で︑おのおの日記をつけている︒夫の方は片仮名
交じりの︑つまり男文字の日記を︑妻はひらがな交じり
の女文字の日記をつけている︒交換日記ではありません
で︑それぞれは並行させられているのですが︑夫婦は相
手の日記を盗み読みする︒そんなはしたないことはしな
いと強弁しながら︑盗み読みをする︒なおかつ︑二人と
も盗み読みされていることを知っているばかりか︑盗み
読みされることをひそかに望んでいる︒そういう屈折し
た共犯関係l見る/見られる共犯関係のなかで︑夫婦
の閨房生活の記述のみが展開していく︑というのが﹃鍵﹄
の基本的な構造です.ちなみに玄人女性との性交渉︑あ
るいは若い恋人同士のセックス場面が従来の小説になか
ったわけではない︒荷風の﹃腕くらべ﹄などを思い浮か
べていただければ︑と思います︒それに対して︑正規の
夫婦の閨房の営みを描いた小説は︑それまでの日本の文
学にはありませんでした︒ですから︑先の﹁週刊朝日﹂
の例のように︑まずは閨房描写の大胆さが取り沙汰され
たり︑箪蟹を買ったりするということがありました︒
ところで︑二人の性愛の物語というかたちで貫かれて
おりますので︑﹃鍵﹄には外部世界が全く描かれません︒
大学の教師というけれども︑何の教師かも分かりません︒
妻は何度か泥酔して人事不省に陥り︑医者を呼んだりハ イヤーで運ばれたりしますので︑口さがない近所の人び とや同僚たちのうわさにのぼるはずなんですが︑そのこ とも書いてありません︒円地文子に非常に早い指摘 ︵﹁婦人公論﹂五六年二月︶があるんですが︑夫が脳溢 血で倒れたときも︑妻は夫の死後に訪れるはずの経済的 危機について何の心配もしておりません︒つまり︑﹃鴨 東綺謂﹄で書こうとした一人の女性を取り巻く外的状況 といったものは︑﹃鍵﹄では全面的に排除され︑割愛さ
おぼ
れていて︑﹁二人がどんな風にして愛し合ひ︑溺れ合ひ︑
欺き合ひ︑陥れ合ひ︑さうして遂に一方が一方に滅ぼさ
れるに至ったか﹂といった性愛の経緯だけが作品内部で
紡がれています︒
では︑日記のなかで夫はどのように妻をまなざし︑妻
は夫をどう見ているか︒夫は泥酔して人事不省に陥った
妻を全裸にして︑その身体を隅から隅まで見ようとしま
す︒なかでも﹁彼女ガ多クノ女性ノ中デモ極メテ稀ニシ
カナイ器具ノ所有者デアル﹂という記述は︑当時の読者
をびっくりさせるのに十分だったようです︒にもかかわ
らず︑夫は妻の身体になにものをも見出していません︒
さきほど︑笠原さんが老いて行く︑崩れて行く︑あるい
は変形して行く身体に注がれた視線をセルフ・ポートレ
ートの発展のなかに見出して︑そこにフェミニズム・ジ
ェンダー論の新しい地平を読もうとされましたが︑﹃鍵﹄
の夫は妻の身体に老いとか崩壊とか変形とかいったもの
25−−−−
人間は老いて行くにしたがって皮膚にしみや殿が現れ
てくるはずですけれども︑この女性は子どもを産みなが
ら︑そして四五歳にもなりながら︑﹁僕ノ想像ヲ絶シテ
ヰタノハ︑全身ノ皮膚ノ純潔サダッタ﹂﹁啓肉ガ左右二
盛り上ツテヰル中間ノ凹ミノトコロノ白サトヰッタラナ
カッタ﹂と言われています︒妻の身体は︿成熟する身体﹀
や︿産む身体﹀ですらなくて︑﹁全身ノ皮膚ノ純潔﹂と
して固定的に捉えられています︒固定的に捉えた身体に
痴戯の数々を施したり︑ボーラロイドで写したり︑果て
は娘の許婚を掛け合わせたり︑自分の嫉妬を煽るさまざ
まなシチュエーションを実行に移していきますが︑つい
に妻の身体自体を見届けることがないというのが︑夫の
まなざした妻の身体ということになります︒
それに対して︑妻が見た夫の身体は︑なかなかに秀逸 を何も見出しておりません︒
しか
而モ僕ノ想像ヲ絶シテヰタノハ︑全身ノ皮膚ノ純潔サ
ダッタ︒大概ナ人間ニハ体ノ何処カシラニ一寸シダ些
細ナ斑点︑11薄紫ヤ勤黒等ノシミグラヰハアルモノ
ダガ︑妻ハ体ヂュウヲ丹念二捜シテモ何処ニモソンナ
モノハナカッタ︒僕ハ彼女ヲ傭向キニサセ︑轡ノ孔マ
デ覗イテ見タガ︑啓肉ガ左右二盛り上ツテヰル中間ノ
凹ミノトコロノ白サト云ツタラナカッタ.⁝⁝
﹃男流文学論﹄で富岡多恵子が﹁それにしても︑なん
でインテリの男性というのは色気ないの?﹂と述懐して︑
三人で大笑いしている箇所があります.ここでも︑イン
テリの大学教授は︑地位も名誉も知性も経済的能力もす
べて剥ぎとられた︑初老の貧弱な身体と気味悪い皮膚を
もった存在として冷酷に見られています︒ことには︑彼
が脳溢血で倒れた後︑睾丸を割り箸でこすって麻揮の度
合いを調べる︒そのとき妻は︑夫のガニ股の向こう側に
あるく醜い身体﹀を冷酷に見据えています︒ です.
蛍光灯の明るさの下で夫の下半身が露出されたので︑
二人はハツとしたらしいが︑私の方が一層極まりが悪
かった︒私は自分がつい一時間前まで︑此の人の此の
体を自分の体の上に乗せてゐたと云ふことが︑何だか
信じられない気がした︒︵略︶私のことをガニ股だと あの遠い昔の新婚旅行の晩︑私は寝床に這入って︑彼 が顔から近眼の眼鏡を外したのを見ると︑途端にゾウ ッと見傑ひがしたことを︑今も明瞭に思ひ出す︒︵略︶ 夫の顔は急に白シちやけた︑死人の顔のやうに見えた︒ きめ ︵略︶その肌理の細かい︑アルミニュームのやうにツ ルッルした皮膚を見ると︑私はもう一度ゾウッとした︒
− 2 6
かてて加えて︑妻が日記に没頭しているうちに︑いつ
の間にか夫は死んでしまっていまして︑弓死んだのだ﹄
l私はさう思って傍へ寄り︑手に触れてみると︑冷た
くなってゐた﹂と記す︒これは﹃ボヴァリー夫人﹄の末
尾とそっくりなので︑きわめて冷酷な写実と言えるでし
ょう︒要するに︑夫は妻の身体にほとんどなにものをも
見ず︑妻は夫の貧弱な身体を冷酷に見届けていますので︑
妻と夫の関係を勝ち負けで言うならば︑妻が勝っている
に決まっている︒この夫婦の言う﹁性生活の闘争﹂も妻
の勝利に決まっている︒時間もありませんので︑そこは
端折って結論だけを申し上げておきます︒
さて︑資料の︿脱がせること/蒲せること﹀というと
ころをごらんください︒夫は一方で妻の着衣を剥ぎとる
反面︑夫は妻に言葉のシャワーを浴びせかけています︒ 云ふが︑彼のガニ股は私どころの段ではないことが︑ かう云ふ姿勢で臥かして見ると︑改めて合点された︶ それから児玉さんは︑病人の左右の脚を一尺五六寸程 の間隔に開いて︑睾丸がよく見えるやうにした.︵略︶
あはびうご
右の睾丸はゆっくりと飽が恋めくやうに上り下りの運
動をするが︑左の睾丸はあまり運動する様子がなかつ
た
。
ザも眺
一︑女性はこころ頓に
札膿正しく
︒⑰や
恥あるを以て
しゃくし﹄″も令凡〃島在つ
数膳といたし候・ 古風ナ京都ノ旧家二生し封建的ナ空気ノ中二育シ夕彼 女ハ︑今日モナホ時代オクレナ旧道徳ヲ重ンズル一面 ガアリ︑或ル場合ニハソレヲ誇リトスル傾向モァルノ デ︑マサカ夫ノ日記帳ヲ盗ミ読ムャウナゴハシサウモ ナイケレドモ︑シカシ必ズシモサウトハ限ラナイ理由 モアル. モトノ1僕ガカウ云う可ヲ書ク気ニナッタノハ︑彼女 ノアマリナ秘密主義︑11夫婦ノ間デ閨房ノゴヲ語り 合フサへ恥ヅベキ可トシテ聞キタガラズ︑タマノ1僕
たちま
ガ狸談メイタ話ヲシカケルト忽チ耳ヲ蔽ウテシマフ彼
淑膳紅け弧ば
〃︑Ⅳ篤いん占今
笈家大名の低君にても
Ⅳ寸 笏鰯評叫
膓塁
ウ .
一
‐
一
出口
ザ=◇由、
〆
※郡女=、》やし 芽分の大悩漁藤中=貴緑人
2 ー
見られる通り︑﹁古風ナ京都ノ旧家二生し﹂とか﹁封
建的ナ空気ノ中二青ツタ﹂とか﹁時代オクレナ旧道徳ヲ
重ンズル一面﹂があるとか﹁アマリナ秘密主義﹂とか
﹁彼女ノ所謂﹃身嗜ミ筐とか﹁偽善的ナ﹃女ラシサ﹄﹂
とか﹁態トラシイオ上品趣味﹂等々︑夫は妻に︿女らし
さ﹀のレッテルを性急に張り続けます︒言葉のシャワー
というゆえんです︒要するに︑夫つまり男は︑妻つまり
女の着衣を剥ぎとる代わりに︑あるいは剥ぎとる身ぶり
を過剰に演ずることで欲情する以上に︑妻に︿女らしさ﹀
という性役割を着せかけることを欲望しているというの
が︑夫の言説の基本的なモチーフということになります︒
ひるがえって妻の方です︒﹁女はいつまでもあがらな
い︑あがりたくない﹂とは笠原さんの発言ですけれども︑
﹃鍵﹄の妻は自己の自然な身体的欲望を﹁私の淫蕩は体
質的なもの﹂とか﹁限りなく旺盛なる淫慾﹂とか﹁極度
の淫乱﹂とかいう過激な言説によって方向づけています︒
夫が暗黙のうちに欲望する︿色情狂﹀とでも言うべき規
定をそのまま肯定していると言っても同じことです︒さ
らには︑﹁古い貞操観念﹂﹁因襲的な形式主義﹂﹁厳しい
儒教的艘﹂にも縛られる︒セックス自体に関わって言え
ば︑﹁不倫﹂﹁堕落の淵﹂﹁貞操を汚す﹂あるいは﹁最後 いわゆろだしな 女ノ所謂﹁身嗜ミ﹂︑アノ偽善的ナ﹁女ラシサ﹂︑アノ
わざ態トラシイオ上品趣味ガ原因ナノダ︒
まとめて申しますと︑妻は夫の文化的視線を自己の本
然の姿とみなすことで自分のあるべき姿l﹁貞女の道﹂
﹁婦人の亀鑑﹂を学習し︑身体の内部にストックして行
く︒言いかえれば︑妻の身体的欲望という︿自然﹀は︑
妻の性役割への欲望という夫の︿文化﹀に馴致・回収さ
れるわけです︒︵脱がせること/着せること﹀のサブタ
イトルを︿薫育の物語﹀としておきましたが︑︿薫育﹀
という概念は︑そうした文化装置を逆照射してみようと
する試みです︒渡辺淳一の﹃失楽園﹄や川島なお美が主
演するというので前評判もかまびすしい映画﹃鍵﹄が流
通し︑消費されている九○年代後半の現在︑そういう薫 の一線﹂︵﹁最後の一線﹂なんて古い言葉ですね︶︑そう いう言葉を乱発するかたちで︑妻は夫に張りつけられた レッテルの範囲内でふるまおうとします︒
私は夫を半分は激しく嫌ひ︑半分は激しく愛してゐる︒
私はほんたうは性が合はないのだけれども︑だからと
云って他の人を愛する気にはなれない︒私には古い貞
操観念がこびり着いてゐるので︑それに背くことは生
はず
れつき出来ない︒︵略︶さう云はれると趾かしいが︑
いかん
しかし私の淫蕩は体質的のものなので︑自分でも如何
ともすることが出来ないことは︑夫も察してくれるで
あらう.
一 8
J J −
のが結論でございます︒ デオローグとして谷崎は機能したのではないか︑という 文化規制を﹃鍵﹄のなかで再構築している︒そういうイ 発されながら︑もう一方では︿女のあるべき姿﹀という 立ち現れてきた女性たちの性風俗現象に谷崎は一方で触 ないか︒大急ぎで申しますと︑五○年代にアプレとして 育・馴致の物語として﹃鍵﹄という作品は読めるのでは
結論のところは大急ぎで申しましたので︑理解の便宜
一︑間の用事路わ
一 舎 界 が
低掛け総うべし︒
一の凸割匂
一︑用事路わりて後は殿御のこころ色に飽き蛤う時ばるを以て
こし︾46向