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ハイマン「社会政策本質論」に関する若干の考察 : (2)社会政策と政治力

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(1)

ハイマン「社会政策本質論」に関する若干の考察 : (2)社会政策と政治力

その他のタイトル Heimann's Theory on the Nature of Social Policy : (2) Social Policy and the Political Powers

著者 河野 稔

雑誌名 關西大學經済論集

巻 1

号 3‑4

ページ 55‑85

発行年 1951‑10‑15

URL http://hdl.handle.net/10112/15882

(2)

問 題 は ︑ ハイマン﹁祗会政策本質論﹂に関する若干の考察

五 五

社会政策現象を分析するためには︑社会政策の対象であり且つ社会政策を成立せしめるところの社会問題現象と社 会政策の主体との二つの要因及び両者の関連を把握する必要がある︒ところで︑社会政策現象が政治現象たる一面

をもち︑それが結局政治現象の形で現れることは何人も否定できないであろう︒さて権力は一方の意志が他方の意思

(1 ) 

を服従せしめることであり︑また︑これとともに前者に対する後者の反抗的逆作届が惹き起される︒このような権力

の強制行為をめぐる社会現象が政治現象であるとすれば︑社会政策現象について政治的説点から次のことがいえるで

あろう︒すなわち︑社会政策の主体たる國家は︑社会における最高の政治機関乃至公権力機関であり︑また︑國家内

の各穂社会団体といえども︑社会政策の主体として登場する場合には︑政治機関としての機能をもつている︒更に︑

これら主体が社会問題を受け取る過程及び社会政策の実施過程は︑政治的過租としての一面をもつている︒次に社会

一方の社会階級の意志が他方の社会階級の意思を服従せしめんとする権力的強制行為を伴つて発生し︑

とともに必然的に社会運動が現れる︒これは後者が自己の意思を前者に対して貫こうとする自己解放的︑反抗的強制

ー(二)祉会政策と政治カー—

ハイマン﹁祉會政策本質論﹂に蘭する若干の考察

こ れ

(3)

行為である︒かくて︑社会問題についても︑武会政策の主体についても︑政治現象の存在を否定することは出来な

2

)

唸従つて社会政策現象は政治現象たる一面をもつていることは明かである︒社会政策現象に政治的要因があるとす

れば︑社会政策理論は当然︑

しかし︑政治の内容︑目的︑基礎は経済である︒逆にいえば︑経済の形式︑手段︑上蔀構造が政治である︒

て︑社会政策現象における政治力︑政治過程は︑何よりも先づ経済的説点から︑経済理論として︑把握される必要が

あ る

0

所謂社会政策の経済理論として周知の大河内教授の理論体系は︑風々論議された如く︑社会政策の本質の中か

ら社会的︑政治的要因を除外している︒こムで大河内教授の理論体系を批判することは︑本稿の目的ではないから︑

Co ) 

他日に譲るとして︑教授が社会問題の本質として﹃﹁労働力﹂に対する個別資本の非合狸的充用と喰潰し﹄を指摘さ れる場合︑それが同時に資本家叉は資本家階級対労働者又は労働者階級という一定の祉会関係︑︑階級斗争関係の下 に 行 わ れ

これら政治的要因を取りあげなければならぬ︒

この関係は同時に前者の意思を後者に強制し︑後者の意思を前者に服従せしめんとする権力︑政治関係で

あるという点が看過されている

0

國家権力を除外しても︑市民社会肉部において︑何等かの経済的︑生産的組織が存

在し︑運営される場合には︑経済的行為に伴つて︑それと同時に︑秩序や組織には必然的に権力が必要とされ︑政活

( 4 )  

現象が現れる︒また︑数授は社会運動を祉会問題の︑従つて亦︑社会政策の本質から排除して︑それを精々︑﹁社会

C 5 )  

政策の実現を促進させる契機とした

b

︑あるいは︑資本主義の一定段階に至って︑労働者が皐なる労働力としての存

在のみならす︑更に社会的文化的存在となるに至って︑はじめて︑註会運動を取りあげ︑こ

4

で社会政策の政治論の

意義を一定の限界の下で認めようとされる︒この見解は︑労働力と労働者との関係を論理的にも歴史的にも峻別しょ

^ イ マ ン ﹁ 武 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 関 す る 若 干 の 考 察

五六

ヵ~

< 

(4)

ハ イ マ ン ﹁ 社 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 爛 す る 若 千 の 考 察

王七

うとする観念的誤謬である

0

資本ー資本家による労働カー労働者の搾取は同時に︑必然的に︑後者の本能的或は意識

的な反抗的︑自已解放的社会運動を惹起せしめる︒かくて社会運動も社会問題の本質の中に︑従つて社会政策の本質規

定の中に当然引入れらるべきものであるが︑これが一つの社会的︑階級斗争関係であり︑権力的︑政治的関係でもある

ことは前の場合と同様である︒又︑大河内救授によれば︑社会政策の主体は社会的総資本セあり︑社会的総資本とは

﹁資本制的産業社会の悟性に外ならないものであり︑資本主義社会の合理的糖軸を資本の名を以て称んだに過ぎない

0

︑ )

ものである︒﹂が︑これは﹁謂はば一の擬制であって︑現実的にこのような資本が︑個別資本の場合のように可親的な

(8 )

︑ ︑

︑ ︑

形で︑存在するわけではない︒﹂かくて︑﹁社会的総資本の立場は︑現実的には︑近代國家によつて代表せしめられる

e 10 )  

( 9 )  

ことになる︒﹂換言すれば︑計会政策の主体は︑現実的には︑﹁社会的総資本の意志執行人として﹂の近代國家に求め

られる︒そして︑短期的誤野をもつて︑本能的に労働力を濫用する個別的資本に対立して︑長期的説野の立場から︑

総資本の利益と合理的精軸に基いて︑國家が社会政策を行うと述べられる︒従つて︑社会政策の主体についても︑個 別資本と対立する総資本が考えられて居り︑そこでは︑労働者階級と資本家階級の対立︑生産︑階級関係は無諷さ

れ︑國家の階級的権力構造は看過されている︒大河内数授の所謂﹁社会政策の経済理論﹂は以上簡皐に述べたことか

らも明かな如く︑生産︑階級関係を排除した﹁生産力説﹂として紙に批判されたところであるが︑このような理論に

よって︑社会政策現象の政治的側面を正しく把えることは不可能である︒かくて︑祉会政策の経済理論は︑生産︑階

級関係及び政治関係を取り入れて展開されなければならぬが︑ これは社会政策の本質を︑債値関係として把握するこ

とによつてなしとげられる︒郎ち︑社会問題の本質は剰余債値の生産と占有をめぐる剰余債値対労働力債値︑剰余労

(5)

働対必要労働に求められ︑

一方では︑此の側面から︑ この関係は労資両階級の社会的︑階級斗争的関係の下に行われ︑従つてそれはまた︑政治

的関係をも同時に伴つてい祖︒また︑このような理論的立場によって︑はじめて︑社会政策の主体︑特に國家の階級

的権力構造を鮮明ならしめることも可能となるであろう︒

政治を窮局的に決定するものが経済であり︑従って︑社会政策現象の政治的側面が︑右に述べたような﹁註会的政

治的な経済理論﹂によつて窮局的に把握されることは︑

窮局的に規定される政治は︑一炭社会的に存在すれば︑それが経済に規定される範囲において︑独自の運動をする一面

がある︒社会政策の主体特に國家や耽会問題就中階級関係︑社会運動は︑社会的に存在する限り︑明かに政治的過程

をも形成する︒このような政治過程は︑窮局に於て経済的に把握されることによって︑その本質的特質を明かにされ

る が

これ丈でもつてしては十分に︑より具体的に把握されない複雑な過程である

0

故 に

理論は耽﹂会政策現象の政治的側面を解明するための不可欠にして且つ必要なる理論ではあるが︑これのみに止つて︑

S 12 )

 

より具体的な政治現象に対する分析を進めないとすれば︑それは十分であるとはいえない︒社会政策理論は︑必要

にして且つ十分な狸論に発展することによって︑

取りあげることによって︑ こ

4

でこれ以上論する必要もない︒けれども︑経済によって

はじめて︑註会政策現象を具体的に把握することが可能となり︑実

践的理論ともなるであろう︒^イマンの祉会政策論は︑その本質に於て︑社会政策現象に内在する政治力及び政治過

程の分析を︱つの特徴としている︒本誌前号で述べた^イマンの﹁保守的ー革命的二重性﹂論も︑実はこのような政

治現象の分析を含んでいたのであるが︑私は本稿において︑ ハ イ マ ン ﹁ 批 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 闊 す る 若 干 の 考 察

^イマンの叙述に従つて︑社会政策と政治力との関連を

^イマンの社会政策論の本質を究明するとともに︑他方では︑ ﹁耽会的︑政治的な経済

五八

(6)

ハイマン﹁社会政策本質論﹂に関する若干の考察

社会政策の社会的︑政治的経済理論及びそれを政治領城へ具体化或は発展せしめようとする立場にとつて︑

の見解がどのような示唆を奥えるかということに理論的興味を抱くものである︒

( 1 )

エンゲルスによれば﹁権力とは︒我々の意思のもとに︑他のひとりの意思が服従することである︒従って権力はその反面

C

エンゲルス﹁権力原理に就いて﹂一八七二年︒マルクス"エンゲルス全集十二巻︑

( 2 )

祉会政策現象に政治現象たる一面があるといつても︑その内容︑甚抵に経済現象の存することはいうまでもない

0

けれど

も批会政策は経済的成熟に伴う政治的事怖の成熟なくては実現し得ないことを注意すぺきである︒

( 3 )

大河内一男︒

五九

﹁祉会政策︵総論︶﹂二八頁

( 4 )

エンゲルスによれば︒

﹁ 今

1 3

の市民的祉会の非礎を構成してゐる経済的︑工業的︑農業的諸関係をば研究するとき︑我々

はそれらの諸関係が︑ひとりの個人の分離的な行動を多数の個人の栂体的な行蘭によって置き換へる傾向を有つてゐること を見出すのである︒﹂︵エンゲルス︑

を認める者はまた組織を認むる者である︒では権力を伴はない組織を有つことは果して可能であらうか︒﹂

︵ 同 ︑ 一 六 七 ︑

八頁︶という問題を提起し︑結局︑権力をもつて宮の全生産並びに分配を指導してゐる賓本家の存在する社会組織に於て も︑或は又︑土地及び生産手段がそれらを利用する労働者の共同財産となるような批会組織に於ても︑﹁一方においては何 人によって代表せらる

4

にせよ常にある程度の栖力︒また他方においてはある程度の服従︒この両者こそは畜祗会的組織に 依存することなく︑我々がそのもとで財貨を生産し流涸せしむる物質的諸條件と同時に贔我々に強ひても奥へられる事実で

︵同︒一六九頁︶と述べ︑土地及び生産手段が労働者の共有財産になったとしても樟力は消滅するものではなく︑

社会組織の変化に応じて樟力の形態が変るにすぎないと説いて次の実例をあげている

0

即ち.木棉紡績業に於ては﹁すべて の労働者は︑⁝⁝個人間の自律には殆ど介意するところのない蒸氣力の権力によって決定せられる

I

定の時間に彼らの労働

ある︒﹂ において服従を前提としてゐる︒﹂

﹁権力原理に就いて﹂マル・エン︑全集第十二巻︒

l

六 七

頁 ︶

﹁しかるに園体的行動

一 六

七 頁

^イマン

(7)

九 頁

︵ 同 ︑

を始め︑労働を終へねばならぬのである︒それゆゑに労働者たちが労働時間に就いて協定して置くことは︑最初から必要な のであって︑労働時間が一度定められるとたゞちに凡ての者は例外なくこれに服従せねばならぬこと

4

なる︒﹂︵同︑一六

八頁︶つぎに﹁凡ゆる場所︑凡ゆる瞬間において︑生産方法︑材料の分配などに関して細目に亘る諸問題が生じてくる︒生 産を突然停止させるといふ危険を冒さずに置かうと思ふならば︑それらの問題は時を移さず解決せられねばならぬ

0

ところ

でそれらは

l

生産部門を指導するひとりの代表者の決断によって解決せらる

4

にしても︑或は又多数者によって解決せらる

4

にしても︑個人の意思はいづれにしても服従しなければならぬ︑即ちか

4

る諸問題は権力的に解決せられたのである︒﹂

祠︑一六八頁︶﹁大工楊の自働的績構はかの労働者を搾取する小賓本家よりも蓬かに暴君的である︒少くとも労働時間に

同 し

て は

・ ・

・ ・

・ ・

凡 ゆ

る 自

己 規

定 を

放 葉

. . . . . .  

﹂︵同︑一六八頁︶せしめる︒﹁大工業における権力を廃棄することは︑工業自体 を廃棄することであった︑手紡機に復帰せんがために蒸氣紡綾機を破壊することであった︒﹂︵同︑一六八︑九頁︶次に

﹁鉄道においては多数の人間の協業が是非とも必要である︑而もこの協業たるや︑大なる災厄を濫けようと思へば︑精確に 一定の時間に行はれねばならぬ

0

A

では全企業の第一條件をなすものは︑凡ての従属的な問題を決定するーつの支配的意 思である︒ところでこのことはか

4

る意思がひとりの代表者によって代表せられても︑或は又︑利害関係者多数の決定を執 行せんがために選出された一委員会によって代表せられても︑同じことである︒ぃづれの場合においてもひとしく我々は権 切を問題にせぬわけには行かぬ

0

まだそれだけではない°仮りに旅行者諸君に対する鉄道員の権力が廃止せられんとするな ら︑既にそれだけでま.つその列車にはいかなる事態が起るに逹ひないか蓋し思ひ牛ばに過ぐるものがあらう︒﹂

﹁権力の而も絶対的なる権力の必要なること︑かの大海を航する艇舶における程︑明白なるはない

0

船舶にありては 危険の瞬間において凡ての者の生命は︑

をなすことに存するのである

4 ﹂

ーに繋つて凡ての者の意思がひとりの個人の意志に組対的なまた間要を容れぬ服従

‑ * ^ 九 頁 ︶ 以 上 や

4

詳細に実例をあげたが︑要するに︑最強最大の國家公権力を除 外 し て も

︑ 祉 会 組 織 如 何 に 拘 ら ず

︑ 又

︑ 権 力 形 態 の 変 化 は あ る に し て も

︑ 財 貨 を 生 産 し 流 蓮 せ し め る 物 質 的 諸 條 件 と 同 時

^イマン﹁祉会政策本質論﹂に関する若干の考察

G

同 ︑

一 六

(8)

?イマン﹁祉会政策本質論﹂に関する若千の考察 あろう︒エンゲル に︑何等かの組織と人間の集園的行為に伴って︑権力が存在していること︑権力︑服従行為が必然的に現れることを知るで

K

は権力と服従を指摘しているが︑階級社会を前提とすれば︑権力←服従は同時に権力への敵対的反抗︑

を必然的に伴うものである︑かくて︑私が政治行為という場合には︑権力による服従の張制と︑横力ヘの反抗という二両的 強制行為を意味している︒尚︑エンゲルスが●述の如き権力を認める場合︑その内容目的︑某礎が経済にあることは︑こ

( 5 )

例えば︑大河内数授は︑この点を次の如く翫かれる︒即ち﹁査本制経済に於ける社会政策の特質は︑それが合理的に押し すすめられてゐるかぎり︑仮令︑査本に対する労働の反攻が存在しない場合にも︑なほかつ総体としての寮本の必要といふ 点から必然的に出現せざるを得ない︑といふ点にある︒﹂そして︑この場合︑﹁労働階級の闊争が存在するといふことは︑

すでに総体としての贅本の立場に於ては必然的なものとして感ぜられてゐる祉会政策の実現を促進させる︑といふ意味に於

︵大河内一男︑﹁社会政策︵総論︶﹂七七頁︶

政策実現のための條件とはなるがその本質規定ではあり得ない︒﹂︵大河内一男︑

( 6 )

大河内教授の所謂﹁労働力保全策としての社会政策は︑労働者をそれ自らに於ける自然的存在からそれ自らのための社会 的存在に高める媒合的機能を識す﹂

階に至って︑

当者たる賽格に於て発言する︒﹂

利と地位の獲得を内容とする社会政策については︑労働者組織の強力と闘争とが紹対に必要であり︑そのかぎりに於ては︑

社会政策の政治論の意義を充分に認めなければならない︑

. . . . . .  

るが︑此の場合︑ただちに︑ ﹁社会政策︵総論︶﹂︑七八頁︶と翫かれ

﹁労働階級の闘争者としての一面についても︑賓本制社会に於ては︑闘争者たる在り方が祉 会政策にとつて第一毅的なものではなく︑むしろそれは﹁労働力﹂たる某本的在り方の一機能としてのみ考へるべきで﹂

︵ 同 ︑

一七一一頁︶ものと考えられている

0

4

る社会政策によつで︑賽本主義の一定段

「…•••高められた労働者階級はゃ彼等の祉会的存在としての自覚を持ち、それに応じた要求を提出し、文化担

l

七二頁︶そして︑

︵ 同

て重親されなければならない、•••…」 4

であらためて取りあげる必要はないであろう︒

︵ 大 河 内 一 男 ︑

...... 

., ヽ

﹁労働者の自主的運動の圧力は︑社会

﹁社会政策の某本問題﹂︑

一 七

0

頁 ︶

「··…•主として労働者の祉会的および文化的存在者としての権

(9)

ような瑶論的立楊に某いて︑ ︵同︑七八頁︶あり︑ の政治論に対して一定の限界を奥えている︒

( 7 )

大河内一男︑

(8)同、—110頁

( 9 )

同︑=二頁

( 1 0

同︑=二頁

)

﹁祉会政策︵総論﹂=二頁

( 1 1

)

森教授は大河内教授の所謂経済理論には︑﹁債値剰余債値の生産︑階級闘争の競点が抜けている﹂と批判し︑

係は︑この査本制生産においては︑同時に賓本制生産関係であり︑階級調争関係である︒﹂そして︑﹁債値法則︑労安階級 関係によって貫かれている﹁経済的必然性﹂なら︑それ自体.﹁経済的祗会的必然性﹂である︒﹂﹁いったい軽済的たものは 同時に祗会的なるものであるはずである

0

政治絲済的現象にほかならない︒﹂労働力の債値法則は階級闘争を内在的にもて るものであり︑そこには﹁社会的なるものと経済的なるものとが内在的媒介の形式にて統一されている・⁝

. .   ﹂と述べて︑

﹁要するに批会政策の本質究明の場合︑祉会的︑経済的規定でなければならぬことはもはや自明である︒﹂といわれる°面 も進んで︑社会的経済現象は﹁政治経済的現象﹂であり︑﹁社会政策が一っの政策概念であるからには︑いきおい︑祗会的 政治的色調を色濃く帯びることは当然である︒﹂と指摘して︑経済に於ける祉会性︑政治性を認められている︒︵森絣二郎︑

祗会政策要論︑噌訂版︑八︑九頁︶

( 1 2 )

大河内数授の理論を批判した人々も︑社会政策現象に於ける祉会的︑政治的経済的側面を指摘されたのみであって︑この

一歩進んで︑批会政策現象に於けるヨリ具体的な政治過程を︑正面より取りあげていない︒

ハイマン﹁祉会政策本質論﹂に関する若干の考察

﹁経済関

﹁ 社

会 政

策 は

. ;

. .  

査本に対する闘争者としての労働者をば︑それが﹁労働力﹂として一屑囚滑にその

機能を遂行すると期待されるかぎりに於.て闘争者として現れることを認め、…••'」 ︵同︑七八頁︶ると指摘して︑批会政策

(10)

ハイマン﹁社会政策本質論﹂に関する若干の考察 社会政策の必然性を﹁社会運動の必然性﹂として把えている︒ との二つの側面から取りあげることが便宜であろう︒

... 

J

政活力

( p o l

i t i s

c h e  

社会政策現象における政浩力の問題に関する^イマンの見解を伺うには︑彼にしたがつて︑社会運動と支配的秩序 私は︑かつて︑社会政策の必然性に関する^イマンの見解を︑次のように述べた︒すなわち﹁根源的生命を起点と

実現による生命の改逹的発屎と︑ ﹁ハイマンによれば︑労働者の社会的理念や運動の する﹁生命の改造と存続﹂という弁証法的発展過程は人間の意志から独立した必然性をもつものであり︑従つて・・・・・・

(1 ) 

社会政策の成立や機能も生命弁証法的必然性をもつ⁝⁝﹂また︑

それによつて残りの資本主義的生命の存続的発屎という一

1

つの要因を綜合した生命

の弁証法的発展の必然性をもった政策茄生産政策としての社会政策であり︑そこには生命の形式的変化と生命力発股

(2

) 

の生産基盤が考えられている︒ハイマンはこの意味で社会政策を

r

あらゆる単なる生産政策﹂と区別する°換言すれ

ば︑ハイマンは︑社会政策の必然性を生命必然性として︑ 一種の生産政策的必然性として把えているのである︒^ィ

( 8 )  

マンは︑また﹁社会政策の唯一の現実的︑積極的力帥ち社会運動自体が存在している﹂ことは自明であると述べて︑

と こ ろ で ︑

^イマンが社会運動を︑社会的理念を担ったものとして規定したことについては︑紙にしばしば指摘したのである

(4 ) 

が︑こ

4

では︑それを︑社会的理念を内在した︱つの社会的権力

( s o z

i a l e

M a

c h

t )

と し て ︑

( 5 )  

K r

a f

t )

として把握している︒

社会政策の実現過程に登場する市民的諸政党

(b

庄 ・

g e

r l

i c

h e

P a

r t

e i

e n

)  

(11)

だもたぬ限り︑

(8 )  

し得ぬ︒﹂からである︒

事態(Lage)は根抵から変化する︒事態が存在するが故に︑

﹁ 労 働 す

は︑労働者の投票に依存するから︑労働者のための社会政策或は社会的進歩(sozialer

F o

r t

s c

h r

i t

t )

を ︑

彼 等

の あ

らゆる政治的綱領の中で優先せしめなければならぬ立場に姦かれているが︑社会政策の優先的地位を保証するもの

は︑^イマンによれば︑社会運動の発展つまり社会的権力の増大のみである︒

(6) 

会運動の重圧がなければ︑社会政策の優先的地位は獲得されないのである︒ ︱つの政治力︑社会的権力としての社

社会運動の発展︑すなわち社会的権力の増大は︑社会運動を担つている労働者が︑社会政策によって築かれる新し

い秩序の中で活動する欲求と︑ これを運営する能力とをもつことを意味する°蓋し︑ ^イマンによれば︑ ﹁ 秩 序 は 死

せる諸制度の中には成立せ中︑機能しなければならぬし︑生命を維持し高めねばならぬ°秩序は︑秩序の中で且つ秩

0︑ )

序の合法則性に従つて活動することを欲し︑且つその能力をもっところの人間を必要とする﹂ものであり︑

る人間が自己の自由を現実に生活し︑自己の労働生活を自ら秩序づけ︑共同体生活の進行に対して責任をとる力を未

﹁市民的﹂諸政党が無の中かち社会的た自由秩序を創造することを︑人々は要求し得ぬし︑また期待

市民的諸政党が社会政策的綱領を優先せしめ︑園家その他の諸社会群が社会政策を実施するた泌には︑右に述べた ような︑労働者の能力と欲求をもった社会的権力としての社会運動が存在するということが︑何よ

b

も先づ第一に必

要とされる︒^イマンは述べている︒

用する精軸の國内に入り込むや否や︑

﹁ 社 会 運 動 が 現 実 性 ( R e a l i t a t ) の 躙 内 に ︑ 社 会 的 理 念 ( s o z i l l e

I d

e e

) が

作 今 や は じ め て それを知ることが可能とたる︒今や新しい歴史的生命を利用することが可能となり︑その生命の重要た歴史的進路の

ハ イ マ ン ﹁ 社 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 関 す る 若 干 の 考 察 六四

(12)

は た

く ︑

唯一の現実的︑積極的力﹂であり︑

C 12 )  

的批界によつては築かれ得たい﹂と述べて︑社会運動の歴史的存在のみたらす︑その社会権力としての作用を重諷す

る︒蓋し︑

﹁市民批界﹂は︑その特殊の歴史的委託を充すために︑あらゆる手段をつくしてきたからである︒また社会運動が︑

~

あ り

^ イ マ ン ﹁ 趾 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 関 す る 若 干 の 考 察 社会運動によって築かれる﹁社会的秩序﹂は﹁市民批界﹂

六五 b

g e

r l

i c

h e

W e

l t

)  

1 l

全く適合したもので

(9 ) 

為に︑生命固有の生ける力を︑自由にさせることが可能となる︒﹂かくの如く︑ ^イマンは社会的理念を担った社会

運動が社会的権力となり︑労働者の欲求と能力とをもつて社会的存在となることによって︑はじめて社会運動に内在 する新しい生命の利用や発展が可能とたり︑社会運動にまつわる新しい事態を知ることが出来ると強調して︑彼の理 論的立場の腰史性を示している︒^イマンの歴史的立場によれば︑理想主接的見解は当然批判の対象とたる︒すなわ ち社会運動が社会的存在として十分に成熟していない段階にしばしば現れたような︑また社会蓮動が存在するにも

( 10 )  

合 理

主 義

的 空

想 主

義 (

i d

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l i

s t

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︑ r a

t i o n

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e  

h i

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  k r a f t l o s e

  V o r s

t e

l l

u n

g )

 

﹁理想は不可能にして且つ途方もたく過大の諸期待に導き︑また︑その不可避な失望の瞬間において︑それ に対応して途方もなく過大た︑不公正た非難に導く︒すたはち︑理想は歴史的た諸本質︑その本質の限界のみなら

( 1 1 )  

す︑就中その本質の腰史的諸行為に対する洞察を濁らす︒﹂ものである︒

^イマンは︑社会運動の歴史的存在の重要性を指摘したのであるが︑彼は進んで︑社会運動が﹁社会政策の

﹁︱つの社会的秩序は︑たゞ社会運動によつてのみ築かれうるのであって︑市民

﹁市民批界﹂の腰史的委託と歴史的力とは︑社会運動叉は﹁社会的秩序﹂と全く異った方向に進んで居り︑

m i

i s

) は

^イマンによれば︑非社会的な︑歴史的に力なき観念

拘 ら す ︑

r

それに立脚したいようた所謂理想主義的︑

(13)

高低各稲の動機からする新しい歴史的生命の個別的行為であるに対して︑従来の生命が形成した︑従来の秩序を担つ

た市民批界の﹁大きた謄史的総過動﹂

( g

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を惹起せ中しては︑政治

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) は ︑ 元 来

( d

a s

  N e

u e

)  

取り入れるの

は︑たゞ新しいものが全体の存続のために︑また権力関係の維持のために︑全休に不可避的とたる限りに姦いてのみ

S 13 )  

である︒﹂すなわち︑新しい生命や秩序を受け入れることが全体の存続と権力関係の維持のために不可避的とたるか 否か︑及び不可避的にたるとしても︑どの程度そうたるかということは︑社会運動の社会権力的作用力如何にかかわ

るものである︒社会運動や﹁社会的秩序﹂と歴史的委託を異にし︑腰史的進路を別にする市民泄界の総運動は︑もし

社会運動の圧力がたいか︑弱いために︑新しい秩序の承認を不可漉的たものとしたい限り︑社会政策を実現するもの ではない︒とにかく︑社会運動の作用力の重圧程炭に応じて︑総運動は︑不可避的た社会政策要求を︑旧い政治網領

と結合せしめ︑旧い網領に続いて︑ これを認めさす︒かくて︑市民的諸政党その他社会群は社会政策綱領に確固たる

地位を興え︑結局︑社会政策の実現に至るのである︒

けれども︑社会運動と市民的批界の総運動または︑支配的秩序とは︑前述の如く︑歴史的委託と進路を異にしてい る︒社会運動の作用力がめざす社会政策的要求は︑何等かの社会の動揺

( E r s

c h i i

t t e r

n g )

綱領に引き入れられるものではなく︑実現されるものでもたい︒すたわち︑社会政策要求が引き入れられ︑実現され

る政治過程には︑社会運動の作用力と支配的秩序の作用力または︑市民泄界の総運動との力関係が形成され︑

に︑そこでは﹁動揺﹂が現出する︒この﹁動揺﹂がどの程度のものにたるかという問題は︑ 命

形 式

( L

e b

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m )

の中にその本質を表現するから︑ ﹁それが︑新しいものを ハ イ マ ン ﹁ 祗 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 関 す る 若 干 の 考 察

それ故

^イマンによれば︑社会

﹁ 生

六六

従来の

(14)

亦 ︑

? イ マ ン ﹁ 祉 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 関 す る 若 干 の 考 察

(P er so ne nw ec hs el ) 

運動と支配的秩序との力関係において︑前者の作用力と要求が後者によつて︑どの程度﹁受容﹂

れるのである︒しかし︑政治過程のこのような変動にも拘らす︑

六七

と こ ろ で

^イマンによれば︑ こういった変動形体をとりながら︑その内に社会政

一定の社会において︑腰史的に形成される各種の社会形成物は︑夫々﹁それに固有

の影

(S ch at te n)

を跳び越えるものではなく︑その形成物を進行せしめるところの︑全く個別的た︑

( in d i vi d u el l )

(U ) 

その形成物にのみ典えられた法則に従つて完成される︒﹂故に︑社会運動が政治力として︑各種の要求と内容をもっ

て登場する場合には︑先づそれが︑社会的形成物としての︑独占資本主養下の﹁労働枇界﹂の法則に従つて運動し︑

﹁労働批界﹂を担う労働者の本質や能力に適応した形式で作用する︒これに対して︑同じく社会的豫.成物としての独

占資本の側にも︑固有の法則と形式が存在し作用する︒かくて独占資本主義という︱つの秩序の中で︑社会形成物の

舞台上で︑前者と後者は︑夫々固有の法則と人間を担つて作用し︑対立する二つの作用は︑後者が前者の櫂力程度に

応じて適応するという形で結びつくことになる︒

しかしながら︑右にのべた歴史的社会形成物に固有の︑個別的な︑所典の法則が︑それぞれ︑その形成物を担う固

有の人間集団の行為を豫想していることはいうまでもないが︑

﹁社会形成物の間の﹁人間交流﹂

れば︑下層階級の上昇と︑上層階級の下降が行われることをも意味するのである︒^イマンは︑こ

4

で︑下層階級の中 策の生命的︑生産政策的必然性が貰かれているのである︒

^イマンの特に指摘するところに従えば︑

( 15 )  

を排除したい︒﹂すたわち︑その法則は︑ されるか︑また後者の支配力が前者によって︑どの程度﹁打開﹂

この法則は

^イマンによ

(A uf ge sc hl os se nh ei t)

されるかによつて決定さ

(E mp fa ng li ch ke it ) 

(15)

B i

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u n

d  

﹁市民生活の後に現れる生命﹂

L e

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)  

から分離して上層階級の中に上昇する問題については︑畢に指摘するだけに止まつて︑専ら上層の中から分離して下

層に仲間入りした人々の﹁背信﹂

ょうた﹁背信の動機

( M

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e )

( A

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r 昔

g k

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t )

の問題を重親する︒蓋し︑彼によれば﹁社会的理念の意識化

d 16 )  

( B

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g )

と貫徹

( D

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u n

g )

は︑主として背信に負うている︒﹂からである︒ところで︑との 喰

であり︑また多様た様式で結合されている﹂が︑^イマ

に感じていた自信欠乏

( M

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d e

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g k

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t )

の作用を明白たらしめようと欲したい自己疎外

( S

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)

が生する︒か

i

る人間は︑自己の弱点︵

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e )

や隠薇の試み

の中にも持ち込み︑自己の為に二重の利盆

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G e

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)  

に充足され︑経過した生命の空虚

( L

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)

または暴力性

( G

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t i g k

e i   t )

 

をもった背信は︑﹁市民的人間の自己超克﹂ の人々は︑新に拾頭した理念にとらえられ︑彼等の市民性

( B 庄

・ g e r

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k e i t

)

, f i f f i

ち市民的殺養と使命︵ b

g e r l

i c h e

G19) 

の力をもつて︑社会運動の中に身を投する︒﹂のである︒^イマンは︑後者の如き動機

( 20 )  

( S

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g  

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b i l r

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M n  

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n )

で あ

り ︑

民生活の犠牲によって﹂

(21) 

述べて︑このような背信の歴史的作用を特に重醜する︒しかも彼は︑

( 22 )  

の謄史的政治的領域における適用と現実化である﹂と説く︒かくて︑

上層から下層への背信が︑ キリスト殺の教養に基くものであるということ︑換言すれば︑ ンは︑その動機を二つに大別している︒すなわち︑ は多様

( m

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h )

 

ハ イ マ ン ﹁ 祉 会 政 策 本 質 論 ﹂ に 晦 す る 若 千 の 考 察

一方では﹁従来の社会の中からの疎外

( A

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) ︑或ほ明白

( V

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h i

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l u

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e )

を︑新しい生命領域

( 18 )  

を得んとするだろう︒﹂また︑他方では﹁既

の下に苦悩する人々も存在する︒こ

( n a c

h b i i

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l i c h

e s  

L e

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n )

の中に立ち入ることであると

この背信の作用は﹁キリスト教の愛と死の敬義

^イマンによって重親された社会運動に姦ける

^イマンにおいては︑社会

六八

﹁ 市

(16)

ハ イ

r

.ン﹁祉会政策本質論﹂に関する若干の考察 運動という政治過程を源じて実現される耽会的理念は︑ 社会運動的︑政治的必然性は︑主として︑

(1)

拙稿、ハイマン「批会政策本質論」に関する若干の考察ー—

(l)

祉会政策の保守的—革命的二重性についてー~、関西

大学経済論集︑第

l

巻第二号︑一

l

九 頁

(2)同、—-i

六頁

( 3 )  E du ar d  H ei ma np ,  s o z i a l e   Th eo ri e  d l s   K ap i t al i s mu s

S,  

. 

127 

( 4 )

た と

え ば

前 褐

拙 稿

= ‑

︱ ︱

] ︑

0

︑四一頁参照

( 5 )  A . 

a .  

O .

 

S

. 

128 

( 6 )  

A

.  

a .  

0 .

 

S

. 

128 

( 7 )  

A

.  

a .  

O .

 

S

. 

128 

( 8 )  A .  a ,   0.  S . 

128 

( 9 )

A  

.  a .   0 . 

S.

 129 

( 1 0 )

^イマンは一稲の歴史的立場に某いて︑理想主義を批判しているが︑彼はまた︑理想主義的︑合理`主義的空想主義がマル クスによって克服されたことを認め︑その内容は︵一︶祉会主義を労働者運動に戟椒的に同盟せしめたこと(‑ー︶それによ

︱つの祉会的秩序は︑たゞ社会運動によってのみ築かれ得るのであって︑市民的世界によって築かれ得ないというこ とを証明した点にあると論じている︒しかし︑ハイマンの脈史的立場は︑決してマルクスの所謂史的唯怖論と同親さるべき ものではなく︑観念的歴史観である︒

( 1 1 )

A

 

.  

a .  

0.  S . 

1289

つ て

ているといつても過言ではなかろう︒

六九

キリスト教の数義によつて基礎づけられて居り︑社会政策の

キリスト教の数義の歴史的︑政治的領城における遁用と現実化に求められ

(17)

( 2 2 )

A

 

.   a .  

0 .

134 

 

S; 

尚.ハイマンは︑第二の型の︑上層から下層への背信は︑

﹁生命への愛からの死への意志︑生成せんと欲するもの

A

ため 尺 存 在 す る も の

4

艤牲︑迫り末りつ

4

ある生命の為の余地をつくり出さんがために︑充足されたる生命の自己超克︑上丼

しつA

ある理念のために時代に拘束された理念の犠牲﹂であって︑これがキリスト数々義の歴史的政治的領城に於ける適用 と現実化であると誤いている︒がイマンによれば︑キリスト数々義は﹁生けるもの及びその意義に対する最高の愛の中に全 く 生 き て い る

﹂ も の で あ り

︑ こ の

﹁ 数 義 の 戒 律 は 畜 禁 欲

' (

E n

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)

で は な く

︑ 本 質 的 な 充 足 と 克 己

( w

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n g  

u n

d   U

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g )

である︒﹂そして︑キリスト数々義は﹁人々が持てるもの

4

総牲と新しい︑不確かな生命の 離 れ 業

( W

a g

n i

s )

を要求する︒﹂と述べている︒

( 2 1 )

A  

.  a .  

s .  

133 

( 1 7 )  

A

.  

a .  

0 .

 

S

. 

133 

( 1 8 )  

A

.  

a .  

0 .

 

S

. 

133 

2 0 )

A .

 

a .   0.  S . 

133 

( 1

9 )

A

 

a .  

0 .

 

S

. 

133 

( 1 6 )

A .    

a ‑ .  

0 .

 

S

. 

133 

( 1 4 )  A .  

a .  

0 .

 

S

. 

133 

( 1 5 )  A . 

a .  

o .  

s .  

133 

( 1 3 )

A .    

a .  

s .  

129 

( 1 2 )  A .  

a .  

0.   S

. 

128 

ハイマン﹁社会政策本質論﹂に関する若干の考察

( a .   a .  

0 .

 

S

. 

134) 

(18)

^ イ マ ン ﹁ 祉 会 政 策 本 質 纏 ﹂ に 関 す る 若 干 の 考 察

た 本 質 は

の中核でもあるが︑

前節に於て︑社会政策の社会運動的︑政治的必然性は社会運動の説点から考察された︒こムでは︑それを︑支配的

秩序或は社会政策の主体をめぐつて取りあげてみよう︒

^イマンによれば︑社会理念には︑

登場した︒そして︑

序﹂と紛争する場合には︑

絶対的支配原理としての組織的社会 理念と︑自由原理としての﹁自由の上に基礎づけられた社会﹂

( d i e

a u

f  

F r

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e  

( 1 )  

をめざす理念とがある︒前者は絶対主義

( A

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s )

の社会理念であり︑

主義

( L

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s )

Q

社会理念である︒自由主義の社会理念すなわち

理﹂によつて基礎づけられている︒ところで︑

後者は前者に代つて登場した自由

﹁ 自 由 の 理 念 ﹂ は ︑

﹁自由を基盤にもつ社会的理念﹂こそ︑ 独占資本主義の下で︑

﹁社会的理念﹂が

で︑生命が十分充たされたくたると︑新時代の生命が拍頭する︒そして︑新しい生命の︑動態的な︑力と糖紳を担つ

( 2 )  

﹁所典の紳塞た國家秩序﹂や﹁國家内の経済その他の部分領域の紳翌た秩序﹂を承認しない︒

﹁生命の本質は意義に適合して形成する﹂ことを課題とするものであって︑新しい意義を担った諸力が

﹁ 支 配 的 秩

この生命の課題は常に提起される︒かくて︑新生命と支配秩序の紛争は不断に激動を続け このようた理念によって解された︑ ^イマンの社会政策論によれば︑

し か る に

﹁支配的秩序﹂や組織の下 ^イマンの社会民主々義思想 ﹁社会的理念﹂の制度的沈澱が耽会政策であり︑社会政策は︑ ﹁武会的理念﹂又は﹁社会的原 十分に充足されたいものとたったので` ﹁自由の理念﹂を基礎とした︑かつ︑それの発展として︑

G e

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t )

をめざす

(19)

む し ろ ︑

るのみとはいえたいし︑また新生命力が秩序や組織を否定︑抑圧し︑逆に後者が前者を抑圧するのみとはいえたい︒

﹁生命への意志﹂が弛まぬとすれば︑社会政策によって︑組織は︑新しい情勢に適合して︑新しい嘩念と秩

序を実現し︑自由を充足する︒かくて^イマンにあっては︑組織は否定たいし抑圧されるのではなく︑新しい意義に

03 ) 

適合しつ

4

発展するものと考えられている︒すなわち︑ ^イマンによれば︑プルジョア革命の過程において︑祉会の

安定や序列が欠けたことは事実であり︑それは何よりも組織の否定︑もしくは抑圧を意味するように見える︒けれど も﹁生命への意志﹂が弛まぬ限り︑組織は否定されていたいし︑また自由主義祉会においても組織は存在したのであ る︒ところで︑社会の組織は︑それを政治的にいえば︑民族または國家である︒そして︑民族または國家の肉におい

ては︑﹁強い緊張

(S pa nn un ge n)

︑運動

(B ew eg un ge n)

︑力の韓位

(K f t e v e r l a g e r u n g e n )

が︑全体に亘つて

( 4 )  

存在している﹂そして︑疑いもた<︱つの組織的原理

( e i n o r g a n i s c b e s   P r i n z i p )

で あ る と こ ろ の

﹁ 民 族 的 原 理

( d a s a t   n i o n a l e   P r i n , z i p

)   1 !  

基く︑民族政策または國家政策は﹁民族が欲するところの醐民の生ける諸力を︑民族

( 5 )  

の将来が欲するところの國民の勝来を担える諸力を表現する﹂ものである︒かくて︑^イマンによれば︑

06 ) 

は民族政策であり﹂このことは自明の事実であると解せられるのである︒ ﹁社会政策

さて︑社会の組織が民族または國家であり︑祉会政策が民族政策であるとすれば︑社会政策の主体は︑民族または

巖家を代表するものに求められる︒^イマンは述べている︒

?4

マン﹁祉会政策本質論﹂に関する若干の考察

﹁一定の社会的形成物姦よび社会鯛によって担われ︑批

界観や政党に結びつけられている

( w e l t a n s c h a u l i c h

'

r t e i l i c h ge bu nd en )

民族や國家の代表者

( V e r t r e t d e r e r  

(7 ) 

Na ti on   und

d es   S t a a t e s )

は全体の存続と発展に責任をもつている︒﹂それ故に︑代表者は︑

﹁社会的狸念の相対

(20)

(8 ) 

的権利を表示し﹂て︑彼に従う者を説得し︑新しい社会的力と妥協させたければならぬ︒そして︑

たない︒従つて︑社会政策の主体は社会的理念や運動を外在的なものとして︵

a l s

A u

s s

e n

s t

e h

e n

d e

) ︑政治的に所典

のものとして︑現実的事情に適応して︑典えられた諸力の瓶態の中に引入れる︒したがつて︑

動を押し進めるためではなく︑むしろ︑枇会的理念の動態

( D

y n

a m

i k

) と支配要求

( H

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c h

a f

t s

a n

s p

r u

c h

)

を奪

うものである︒また

( 3 )

この場合︑短期間の︑日々の必然性の立場からは︑社会的理念の歴史的本質や批界形成カ や批界形成要求は明かにならたいから︑社会的理念を理解することは困難であろう︒もし民族や國家の代表者にとつ て︑社会的理念が自明となれば︑彼は従来の支配的社会観にふみとゞまることは困難であるが︑多くの場合︑自明と

たることはたい︒自明でもたく︑理解もされない場合︑社会的理念を︑多くの政治的諸力の下で︑一つの包括的た現代

的網領の中に編入し︑この綱領の根本的表現様式の中に支配秩序に周知の思考方法に︑躙訳することが可能であり︑

(10) 

また︑その必要がある︒またこの過程において︑社会政策の必然性が考察される場合には︑社会的理念の︑反資本主 義的︑社会主義的た本質が知られる︒けれども︑そのようた社会的理念はそのま

i

取り入れられるのではたくて︑支

考えらるべきことが不十分であり︑誤りのある時︑支配的理念の立場から︑それを訂正したり補足したりすることは

あり得たい︒

態度﹂であり︑

( 5 )

更にこの妥協は︑

﹁ 力 意 識

( K

r a

f t

b e

w u

s s

t s

e i

n )

M専ら適合した

a )  

﹁社会形成物が矛盾ずる理念の相対的力関係に遁応して︑完全に弾力性をもつこと﹂である︒蓋し︑

ハイマン﹁批会政策本質論﹂に関する若干の考察 ﹁弱々しき妥協﹂ではなく︑ 配的社会理念の中に︑それを錆込もうとする努力が彿われる︒ 妥協を次の如く説明する︒すなわち︑ ^イマンは︑この

C9 ) 

( 1 )

市民批界の総運動は﹁新しきものの動態に対する︱つの餌の関係﹂をも

( 4 )

ま た

(

2 )

社会的理念や運

この妥協に姦いて︑社会的理念の立場で

参照

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