中論における縁起の考察
! ! と く に プ ラ サ ン ナ パ ダ ー を 中 心 と レ てi
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真
田
康
道
第
一
章
序
論
① ﹁仏教に哲学的な基礎と宗教的深さを与えた﹂ど云われるが、彼の思想体系は般若経の思想に由来する ことは明らかである。従って彼の主著﹃中論領﹄︵冨己ω
自 包5
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︶著作の歴史的意義は、般若経典の思想 竜 樹 は 、 を受継いで般若空観思想を一つの統一ある論書として、体系化組織化したことにある。般若空思想は既に般若経典 においてその基礎は出来上っていた c しかし、中論第二十四章第十八備に語られている如き﹁空﹂と﹁仮﹂と﹁中 道﹂と﹁縁起﹂を統一し、論理とじて体系化したのは彼の偉大なる業績と一五わねばならない。そして竜樹以降、真 の般若空観思想の組織的研究がなされるに至ったと云ってよい。 この意味から、中論は、仏の教説として語られている大乗経典より、理論的傾斜が強いし、彼等中観派の人々は 中 観 論 者 ︵ 冨 注 目q
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岳 山 l︿ 注 目 D ︶と呼ばれるのも、大乗経典を編纂した人々と性格を異にすることを表わすもので しかし、彼等は単なる思想家や註釈家どして留まったのではなく、やはり彼等個人としては大乗の菩薩 あ ろ う が 、 一 五一 五 としての自覚があったはずである。竜樹ば中論において縁起を重視し、終始一貫して縁起の論理が貫ぬかれている が、縁起は、十二支縁起において順逆観によって苦の有り方ど、苦の滅するあり方を明し、中論においては、空、 無自性を明す論理であって実践道を語る意味に貧しい。反面、四聖諦は苦・集・滅諦の他に道諦をおき、修行道を 積極的に表現している。竜樹はこのことを十分熟知していたがために第二十四章を﹁観四諦品﹂︵
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として四聖諦をd
たのであろう。また月称が﹃入中論﹄において﹃十地主ど関連せよて全章にわたって菩薩 十地を述べているのも、実践的面を如何に重要視していたかと一手つことを如実に示すものである。中論は確かに中 観学派の思想体系を表わす論書ではあるが、しかし、竜樹をはじめとするこの学派の人々が大乗の菩薩たるととを 十分に自覚しており、したがって、この論書も実践道に基礎づけられた思想体系であることにわれf
\は、よく注 意をはらったうえで考察せねばならないと考える Q と こ ろ で 、 竜 樹 は 中 論 に お い て 、 般 若 空 思 想 を ﹁ 空 ﹂ ﹁ 縁 起 ﹂ に 体 系 化 し た の で あ る が 、 如何なる論理によってなされたのであろうか。それには、彼独自の二つの論理によってであると考える。その一つ は破邪の論法であり、他の一つは、彼の独特な縁起の解釈によってであると云えると思う。 もちろん、この二つの論理は、全たく別々の体系の上にたっ没交渉的な論理ではなく、むしろ両者は密接な表裏 一体的な関係の上に立っところの論理であると云えるであろう。従って中論の縁起を考察する場合、常に破邪の論 理を念頭において探究せねばならないと考える。この意味で、まず縁起の論理構造を論究するに先立って破邪の論 理を考察したいと考える。 ﹁ 仮 ﹂ ﹁ 中 道 ﹂ そ れ は 、第二章
中論の破邪の論理
中論怯、破邪の論理によって始ま旬、破邪の論理に終るど云ヮてよい程、終始一貫してその論法によづて展開さ れている。この破邪の論理を竜樹が採用した原因は、外部的原因と内部的原因の一一つが考えられる。つまり司前者 は竜樹の生存した当時、論理の体系化がなされ、その勢力が強固になりつつあった有部、経量部などのアピダルマ 払教や、仏教以外の数論学派︵ω
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︶ 勝 論 学 派 ︵ ︿ 巴z
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︶正理学派︵Z
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︶などの学派に対抗して、大乗 の般若空観の思想を正し y \顕示すると云う、歴史的な要請があったからであろう。これは司竜樹以降の中観学派に おいてもずっど他学派への対抗意識が存在した。例えば︼V
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問符岱派の月称が﹁我々には自らの立宗がない﹂と ② 云いながらも、﹁我々の随量︷論証︶は敵者の宗見を遮するのみ効果がある。﹂と他学派に対して破邪論法を肯定し ているし、また∞︿g m w
ロヰ待。深の清弁が議伽行派に対抗して、自立的論証法を採用して積極的に不可言説の般若 空思想を開示しようと試みたのも、この様な歴史的、社会的背景を物語るものである。それのみならず、かれら中 期中観派の人々は、陳那︵g
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ぬとや法称S
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︶によって飛躍的に認識論と論理学が発展せられた稔伽 ③ 行派ど云う一一層強敵な学派どの対決に迫まられていたと云えるむ 他方、内部的要因とは、これらの歴史的要請とに関せず、人間の合理論証によっては、 得ないことを中観派は指摘した結果によるものである D ともあれ、この破邪論法が遮遣するその対象は、 一切の容在論拠の成立し ︵ ω ︿ 何 回 σ F 凶 ︿ 釦 ︶ に あ る と 云 え る 。 も ち ろ ん ④ ﹁若し、有体︵客号制︶が成立しないならば、非有︵与ES
︶ は 実 に 杏 在 し な い ﹂ ︵ 第 十 五 章 第 五 億 前 半 ︶ ど云っている如く、自性なる有体を否定すると同時に、非有も成立し得ないことを繰返し述べている。しかし、 ﹁ 自 性 ﹂ 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 五 三一 五 四 中観派の空、中道の立場よりすれば、有体も非有もその終極は同次元における事柄を反対対立の関係で云っている に過ぎないから、破邪論法の遮遣する対象は、根本的には自性であるど云える。この自性について、 古怠丘の中では次の如く定義づけされている。 ﹁自性どは、実に変作されるこどのないもの ﹃ H M H 1 m g m w
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︵ H 無作、島 1 己目釦︶、また、他のものに相対的でないもの︵巳g
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︶八第十五章第二億後半V
自 性 と は ︵ 上 述 の よ う に ︶ ﹃ 自 己 ︵ に 固 有 ︶ の 存 在 ﹄ ︵ ωさ
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︸ 乙 で あ る D すなわち、なんらかの﹃わがものとさ れる体﹄︵三凶5153
どがあるものに所属してあるならば、 では云われている。﹂ それがそのあるものの自性である、 と世間 さらに、月称の註釈において、次の如く述べている。 ﹁ω
︵過去・現在・未来の︶三時にわたって生来の体として、火であることから逸脱せず、すなわち変作されるこ ︵ 日 無 作 与 を 片 山 吉 ω︶ どのないものω
以前にはなくて、後に生成すると云うことのないものな骨g
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水にとっての熱ゃ、彼岸と此岸、長ど短︵の様に相対的であるの︶どはちがって、因と縁 ⑤ とに相対しないもの、それが自性であると云われる。﹂ ﹁ 自 己 の 固 有 の 容 在 ﹂ 日 目 立BZ35
であるから、自性を保持する存在は、他の寄在と区別される特徴︵F
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したがって、自性は、 ︵ ωJ1。
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各 ︶ で あ り 、 ﹁何らかのわがものとされる体﹂ ︵可白血間同・ を 有 し 、 し か も 、 自 己自身で独立して存在たりえる実体なのである。それはまた、相対的にあらざる︵E
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容在であり、常に変 作されない︵岱江主B
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︶存在なのである。 竜樹が破邪論法を駆使してあらゆる範障にわたって遮遣する場合、 上 述のような自性の定義づけに基づいてなされるのである。そのことは、竜樹をはじめとする中観派の人々が、自性を経験的立場から論じるのではなくー存在の本質的立場上から論じようとしたことを意味するむその論理の形式は川 梶山雄一氏の指摘せられるところによれば、﹁同一性と別異性のディレンマの論理﹂が﹃中論﹄の最も基本をなす 論理であると云う。 ﹁同一性と別異性のディレンマの論理﹂かくの如く経験的立場からあるものの存在に自性を規定する のではなく、本質的立場より論じようとするのであるから、二つ以上の存在の関係も、一方が他方の一部であるこ < -if) ほ
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とも、またその属性であることも、自性を容認する場合、成立しないと云うその矛盾を指摘するのである。例えば、 第二章﹁観去来品﹂において、去者︵m
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ど去︵怒B
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︶の関係について見る場合、同一性の立場に立つなら ば、﹁去者﹂と﹁去﹂は同一なものとなり、﹁去者去る﹂と云うことなり、 ﹁八若し人あって﹃去者去る﹄ど云うことが宗なるとき、彼人には﹃去者は去法なくして﹄なりとの過失に堕す べし。去者の上に去法ありと云うが故に﹀︵第十億︶ 若し論者あって、その人の宗が﹃去なる作事︵m
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再三百︶と相応するに由って去者がある﹄と云うことであ るならぼ、彼論者は、去者の上に去法のあることをまのあたりに欲うているにもかかわらず、その去者なる詮称 が既に去法を具せることによってあるのであるから、去者ほ去法なくして去ると云うことになるであろう。そこ には第二の去る作事がないからである。それ故に去者が去る︵表示︶とすることは理に合しない。﹃去者は去法な くしてなこと云う此の︵傷の︶茎早においては芸者は﹄と云う語が︵﹃去者去る﹄ど云う文章の︶﹃去る﹄ど云う 語の意味に用いられているのである。﹂ こ の 場 合 、 ﹁去者﹂と﹁去﹂が同一であるならば、 ﹁去者去る﹂ど云うことであるから、その場合には、去者自 身が﹁去ると云う動作﹂なくして去ることになるから不合理となる。したがって、 ﹁ 去 者 ﹂ と 云 う 自 性 と 、 ﹁ 去 ﹂ 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 五 五一 五 六 と云う自性が脊在して、しかもそれが同一であることはあのえないどその不合理を指摘するのである。 また一方、別異性の立場ならば司﹁去者が去る﹂と云う句において﹁去者﹂とつ去﹂が別々の要素となるから、 ﹁︿若し去者が去るならば、二つの去法あるとの過失に堕すべし。 ︵そねが︶去者なりと言わるる依由としての︵去︶と、去者としてあ吻て︵それが︶去るときの︵去︶ どなり﹀︵第 十 一 侮 ︶ 若し或る去法ど相応することによって﹃去者が﹄と言われ称へられるときの彼︹去者︺は、 る。また、まさしく去者どなって、若し、﹃彼が或るものを去る﹄却ち、﹃或る去なる作事を作す﹄どきのその ︵ 第 ︶ 一の去法であ 弦に二つの去法なる過失に墜しているのである。それよ りしては、また二つの去者ある過失に堕すると云うように先に掲げたのと同じ過失を述べなければならない。そ ⑨ れ故に﹃去者去る﹄︵
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仲 間 習 の の ま 立 ︶ と は 無 意 味 な る 詮 称 で あ る 。 ﹂ この場合﹁去者﹂と﹁去﹂が別々であるから、本質的立場に立脚する中観派の立場か h りすれば、﹁去者﹂が去る と云う動作と、﹁去﹂が去ると云う動作の別々の動作︵去法︶が容認されねばならないことになって、月称の言う ︵ 去 な る 作 事 の 作 さ る る ︶ こ と が 、 ︵ 第 二 の 去 法 ︶ で あ れ ノ 、 如 き 、 か︵の去者︶は、第一の去法である﹂ その︵去なる作事の作さるる︶こどが︵第二の去法︶﹂となるのであって、 ﹁去者がと云われ称へられる左きの、 ﹁或る去なる作事を作すどきの したがって、この場合も自性を容認する場 合不合理となり、ここに伺一性と別異性の両者が成立しえないから、 ﹁それ故に﹃去者去る﹄︵m
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︶ と は無意味なる詮称である﹂と云うことになるのであるむ どころで、敵者はこの場合、﹁去者が去る﹂︵聞き仲間間緊急 ω 立 ︶ ど 一 ぢ つ の は 、 現にそこに誰かが去り行く行為を、実際に日常経験することによってこの命題が成立することを主張するのである。 ⑬ ﹁提婆達多が去る﹂ど云うような、しかし、中観論者は﹁提婆達多が去る﹂と云う現実の行為自体を否定したのではなくて、そのような行為を経験的 立場から、﹁去者が去る﹂と云う命題を決定しようとする敵者の不合理性を批判しているのである。つまり、﹁提 婆達多が去る﹂と云う現実の具体的な行為に基づいて﹁提婆達多﹂と云う去者︵客体︶と﹁去る﹂と云う﹁行為﹂ をそこに固定的に規定しようとする思惟方法の不合理性を指摘するのである。 このことは﹁主体﹂ど﹁作用﹂の関係においても同様のことが云える。 ﹁八実に彼能見︵たる眼︶は彼自体を見るにあらず。 凡そ自体を見ざるものが、云何にして他の諸︵物︶を見るべきか﹀︵第二倍︶ ﹃ 中 論 ﹄ 第 三 章 に お い て 、 先づその中で、かの能見は自体を見るのではない。 ︵ 自 ら が ︶ 自らに向って作事あることは理に相違するとこ ろであるからである。また、それよりして︵彼能見ほ︶自らを見ないのであるから、耳等︵の上に見る作用のない︶ ⑪ 如く、青等なるを見ないのであろう。それ故に能見はない。﹂ 一般的には、眼は他のものを見ると云う効用性あることにおいて、眼の働き︵作用︶とその働きの存在する眼と 云う主体が定義づけされるのであるが、中観論者達はそのような経験的な思考方法を否定する。経験の世界におい ては﹁限は外のものを見る﹂と一五うことが妥当性を有するが、しかし、一方において﹁かの能見は自体を見るので はない﹂すなわち﹁眼は限自身を見ない﹂ど云う事実にもと s ついて眼︵主体︶とその見ると一五う働き︵作用︶の有自 性性を遮遣するのである。 ところで、この主体とその作用の関係において、竜樹のその遮遣の対象は有自性の学説を唱えるアピダルマ仏教 に向け吟ていたと考えられるが、月称の破邪の対象はむしろ、語学派に向けられていた。それは﹃プラサンナ パ ダ
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﹄の第一章において、量Q25
創出釦︶によって対象を認識することを批判していることからも明らかである。 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 五 七一 五 八 そして、山口益博士が﹃仏教にかける無と有の対論﹄の中で指摘されている如く、唯識派の識が自らを成りたてし める識としての顕現と、境を認識する働きとしての顕現の二つの識の作用ありとする学説を批判して、 ﹁自らが自らを取ると云うことは、剣が自らを切る能わず、眼が自らを見る能わず、指の尖端は自らに触れ得な ⑬ いの理で不可能であるからである。﹂ と述べていることからも、実に主体と作用等の関係によってその矛盾を指摘する論理は、単に仏教以外の学派ゃ、 アピダルマ仏教にだけ向けられたのでなく、大乗仏教の一学派である瑞伽唯識派に対しても同様に用いられている ことからも、中観学派独自の思想的立場を表わすものであると云わねばならない。そのことは、中観派の人々が、 主観と客観との世界の関係を合理的に深く追求していった結果、そこに概念の誤謬性という壁に突き当たったがた めである。われ/\は主観の世界を離れて客観的世界を眺めることは出来ないが、その場合、主観の世界を通じて 客観の世界を厳密に定義づけたり、論理的に体系化することは不可能であると中観論者達はそのことに気付き、つ いに一切の合理論証の放棄に至らざるをえなかったことを示すものである。 われわれは普通﹁眼﹂の存在を熟知しているつもりである。しかし、その﹁眼﹂の帯在とは、それが外の物を見 ると云う特徴によって初めて眼の宇在を認め、逆に眼としての自性を決定しようとするのであるが、眼の本性は、 われわれが如実に触れえるほどに顕現せずして依然として不明瞭なままに取り残されているのである。 ﹁ 桜 の 花 ﹂ かくの如く、われわれの概念︵
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主 観 ︶ ヒ一玄う場合も、それは単にわれわれの概念的世界より脊在を推し量っているに過ぎないのである。中観派の人々は より客観の世界を眺める場合、それは何ら具体的容在に如実に触れ得ない のであって、日常経験的なあり方はすべて虚妄なるものに外ならないと思惟したのである。 この主観と客観の関係は中論第五章第一備に的確に語られている。﹁︿虚空相より以前に虚空は事未だもあるにあらず、 若 し 、 ︵虚空︶相より以前にあるならんか、無相の過失に堕すべし﹀︵第一億︶ ところで、ここにその虚空の相は﹁無障磁﹄︵
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雪印円きとであると一五われている。若しこの無障擬なる能相 ︵︼共首包︶より以前に虚空なる所相︵z r
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︶があったであろうときには、彼︵先に己にある所相︶において能相 の鈍行することもあって爾るべきであろう。けれども無障擬なる能相より以前に所相の体なる虚空があるのでは な い 。 ﹂ われわれは、虚空が﹁無障磯なり﹂と云う特徴︵Z
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とによって虚空の定義づけをする。その﹁無障擬なり﹂ ど云う特徴はわれわれの要請によってであるが、ともかく、この虚空なる能相︵︼岱包宮︶を決定することによって、 また逆に、あたかも﹁虚空が脊在する﹂と云う如き客観的存在である虚空の所相︵Z
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︶ をわれわれは設定する のである。このことについて、さらに竜樹は第三備において一一層つっこんで論究する。 ﹁八能相なきものにおいて能相の起行することなく、能相を具するものにおいてもなし。 能相を具せると能相なきとの両者の場合より余処においても︵能相は︶起行することなしV
﹂ この文で﹁能相なきものに於いては能相の起行することなく﹂とは、 ︵ 第 三 億 ︶ ﹁無障磯﹂と定める必要のないもの、 つ ま り非存在のものには、敢えて虚空と云う能相を定義づける必要はない。また﹁能相を具せるものにおいてもなし﹂ どは、既に、﹁虚空どは無障磁なり﹂と、それを定義づける以前に虚空が能相を具有したものとして確定してある ならば、再び虚空の能相を設定することは出来ない。何故なら、月称の云う如き﹁無窮という大過に堕する﹂こと になるからである。したがって虚空と云う容在がすでに寄在するならば、定義づけ︵ H 能 相 ︶ は不可能となる。し かも虚空が容在しないか、虚空が帯するか以外には虚空を論じること、 つまり、能相の定義づけはあり得ないから 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 五 九﹁能相を具せるど能相なきどの両者の場合より余処に於いても︵能相ほ︶ 三者のいづれにおいても虚空を実体的な存在として実義づけ出来ないことになる。したがって存在をわれわれは厳 一 六 O ⑮ 起行することなし﹂ヒ云うことになり、 密な定義づけは出来ないのである。 存在を厳密に定義づけすることは出来ないことについてさらに補捉して述べるならば、次の様な理由に基づくか らである。すなわち﹁存在しないもの﹂と﹁存在するか存在しないかのいづれでもないもの﹂つまり、未だそのも のが存在しなかったり確定しないものについては、定義づけ出来ないから、したがってわれわれが定義づけをするの は、そこに何物かの存在が現に有る場合に限られる。而して、たとえばその容在を﹁机﹂とわれわれが定義づけを した場合、この場合も厳密な定義づけ︵能相︶はなされていない。何故なら﹁机﹂と云う定義づけは、他の同種の ⑬ 存在に対しても、その存在から離れて適用されるからである。しかも、第二の同種の存在に対して﹁机﹂となされ る場合は、それはすでに能相によって、つまり﹁机﹂と云う概念によって推し量っているにすぎないのである。し かし、ここで次の如き疑問が生づる。すなわち、それでは﹁机﹂や﹁花﹂と云うようなつまり﹁・:のためにある﹂ ﹁同類﹂とか﹁同種﹂と云うある一定の普遍性が成り立ち、そこに何らか ﹁太郎﹂とか﹁花子﹂とか、 どか﹁:::としてある﹂と云うような、 の類似性のある一群の存在が認められるような定義づけ方をせず、直前にあるものを、 あ る い は 、 ﹁
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﹂とか﹁B
﹂ピ云うような、固有な定義づけをなせばよいのではないかとわれわれは考える。しか し、その定義づけll
実はそのことは、定義づけではなくて記号づけにすぎないのであるがl
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は、われわれに決 して直前の存在を理解し把握せしめる作用をもたらさない。仮りにわれわれが身近にあるものを、かたっぱしから 一つ一つ世界にただ一つしか存在しないような固有な規定づけ︵名称づけ︶ われわれにそれら自身の理解や解釈をもたらさない。それらの存在は、以前と同じように依然として不明瞭なもの をなしたとしても、 そのことは決してどして留っているにすぎないむむしろ﹁机﹂とは、その上で書物を読んだり、書きものをしたりする、 ﹁ : : : の た めにあるもの﹂と云う目的性や﹁花﹂とは、花びらや花粉と云うような形状、あるいは赤、青などの色彩等の﹁:・ :・としてあるもの﹂と云う状態性として、そこに他の容在との一群の類似性が認められるような捉え方をしてこそ、 われわれは始めて直前にあるものを理解したり、把握したりすることが可能となるのである。すなわち、かかる或 る一定の普遍性が成り立つような、ある程度緩やかな規定づけが定義づけに他ならない。そうして、かかる定義づ けによってこそ、われわれは直前のものに近づき得るかの如くに錯誤する。しかしそのことは決して脊在にわれわ れが近づき得るのではなく、むしろ杏在より遠ざかりつつさえある。何故なら、先にすでに述べたごとく、 ﹁ 机 ﹂ と定義づけがなされても、すぐに直前のものから離れて他の同種の存在に対しても適用されることになるから。故 に決して直前のものを厳密に定義づけすることはなされていないのである。存在と定義づけとはかかる矛盾する関 係において成立しているのである。 かくして、その定義づけに基づいて論理を構成し体系づけることも不可能となる。もちろん虚空と云う能相が得 られないならば、虚空と一云う所相も認められないことになるので、さらに第四備において、 ﹁能相の起行せざるところに而も所相ありとは、理然るべからず。 而して所相の理不成なるところには能相も亦あり得べからず﹂ ︵ 第 四 億 ︶ ど、述べるのである。かくの如く﹃中論﹄は、能相と所相の関係において、能相︵
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︶ のかく/\しか p t k のものであると定義づけすることも、所相 ︵− m w m 叩 一 可 m w ︶ の 存 在 ︵ す な わ ち 定 義 づ け さ れ た も の ︶ に自性を決定すること も、また自性を決定した所相によっても能相の得られないことを指摘するのである。しかし中観派はただ不可知論 を唱えるのではない c ﹁有の相貌は無明と云う限病をすでに離れたる聖者には、不見と云う方策によって︵包号U
・ 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 六一 六 ⑬
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︶ 境 界 ︵ 三 唱 えg
︶となる﹂と、﹁不見と云う方策によって﹂ れないところの具体性に迫ろうとする態度をとるのである。すなわち、 否定の論理の提唱せられるに至った論拠としての、能相と所相の関係づけ、自性の設定、さらに主観ど客観との関 係におけるところの、とりわけ主観のあり方の問題、すなわち概念的誤謬性およびそれらの諸関係の矛盾を指摘す ることが破邪の論理に外ならない。そしてさらに、この特に主観の側への問いかけは、われわれの内なる世界の深 一切を否定し去って、むしろ何ら虚構せら ﹁不見と云う方策﹂であるところの一切の まりへの問いかけをも破邪の論理は意図しているものであると云わねばならない。この点に関しては、後に詳述す る こ と に す る 。 さて、この自性を決定しようとする仕方を中論第十五章の月称の註釈において見るならば ﹁愚かな人々は、知恵の白が無明と云う眼病によって傷つけられているために、無自性である脊在のあり方を、 有自性なるものとして執着し、その執着に応じて﹃火の自相は熱さである。﹄と定義づけを行う。︵熱さは︶そ れ︵すなわち火︶以外のものには見られないから︵他と︶共通相がないと云う点で、自己に固有の特徴︵ ω g E Z w − ⑫ 包S
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︶であると考えられるからである。﹂ この文は、われわれの日常世間の態において、子在に自性を決定しようとする思惟過程を順序だてて説明したも のである c すなわち、まず、付無明によって、ω
本来無自性なるものを、同有自性なるものと執着し、伺その執着 によって実体的な自性︵火の自性は熱さである︶の定義づけをなす︵能相の決定︶。帥さらに、その自性があたかもそ の存在の自己の固有の特徴であるかのごとく決定するのである︵すなわち所相の決定︶から、本来無自性なる容在を ﹁無明←執着←能相←所相﹂ヒ云う思惟過程を経るのが、われわれの日常経験的なあり方であると云うのである。 ところで、この自性の決定の仕方、 つまり﹁無明←執着←能相←所相﹂どいゆっ過程は客観的存在は本来無自性なのであるから、実にわれわれの主観の側に属する誤,謬によって生ずるものであると云わねばならない。したがって、 中論は主観と客観の関係を取り上げているのであるが、客観的存在は本来無自性なのであるから、もちろん否定し 遮遣するのではない。破邪論法の遮遣せんとするのは、実に主観の側に属するものであると云わねばならない。 まり、能相も所相も主観の側に属するものなのである。そして、根本は無明によってではあるが、 --:) ﹁ 火 の 熱 ﹂ 一「 眼 は外を見るもの﹂﹁虚空の無障磁性﹂等の能相の決定によって、さらにそれがあたかもその存在の自性である如き 所相を決定する。かかるあり方は、われわれの﹁概念的世界﹂乃至﹁観念的世界﹂と云えるものであろう。この概 念の世界の誤謬性を指摘し、さらにこの誤謬性の上に立脚する定義づけと、その論理体系をすべて遮遣するのであ るから、それ故にこの破邪的論法がもっぱら他学派の宗見の遮遣に向けられてはいるが、しかし、それはまた人間 一般の日常経験的思惟方法の自己矛盾するあり方を指摘しているものであると云わねばならない。 この﹁概念的世界﹂乃至﹁観念的世界﹂とは、﹃中論﹄においては﹁戯論﹂︵℃
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︶ど云っていることに該当 すると考えられる。すなわち戯論に関する中論領を列挙するならば、 ﹁動紛糾長砂わか吉祥なる縁起を説示したもうた正覚者に諸説中の最上どして私は稽首する﹂︵第一章第一倍後半︶ ﹁他を縁として知るのでな︽、寂静で戯論によって戯論せられず、無分別で不異義であるのが、実性の特質であ る ﹂ ︵ 第 十 八 章 第 九 億 ︶ ﹁戯論を超越して不壊である仏を戯論する人々は凡て戯論に害されて、如来を見ることがない﹂ ︵ 第 二 十 二 章 第 五 備 ﹁一切の有所得は寂静し、戯論も寂静して吉祥である。如何なる法にしても、何処にても、何人の為にも、仏に よって説かれたことはない。﹂ ︵ 第 二 十 五 章 第 二 十 四 億 ︶ 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 六一 六 四 ここにおいて戯論︵官毛色
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︶が寂滅する︵ロ3
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時ば、吉祥︵ω
守$であり、無分別︵口町三E
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で、実 相の特質︵z
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︶であって、常に正覚者の立場を表わし、一方戯論によって害された時は、戯論こ そが遮遣せられ寂滅せられるべきでなければならないから、戯論が先に述べた﹁概念の世界﹂ど一致するものであ ると推定される。でほ、戯論Q
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3
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︶と云う語句ほ本来如何なる意味があるのか少しく考察するならば、 切g u
ω m
g
は辞典で見ると、その第一義的な意味は、﹁ O M U m s色 。 ロ ﹂ ﹁ 仏 20FUBOD 仲 ﹂ ﹁5
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山 崎g
g
昨 日 。 ロ ﹂ と あ る か 冶 り 、 ﹁ 拡 張 す る こ と ﹂ ﹁ 発 展 す る こ と ﹂ ﹁ 表 示 す る こ と ﹂ ﹁表明すること﹂等の意味である。また、漢訳におい ては胃M H 3
・m
g
を﹁戯論﹂ど翻訳しているから﹁戯れの議論﹂と一式う意味が想起される。 しかし、この阿M g
切 符m
g
なる語を﹃中論﹄第十八章五備で次の如く語っている。 ﹁ 業 ︵E
吋B ω
︶ど煩悩︵E
0
2
︶が滅尽することから解脱︵B
。
g
m
︶ は ︵ 起 る ︶ 。 業と煩悩は虚妄分別︵i s
−
u m ︶ よ り︵起る︶。それら︵の虚妄分別︶は戯論より生じる。然るに、戯論は空において滅尽する﹂ は虚妄分別︵i z
−
3
︶ ︵ 第 十 八 章 第 五 億 ︶ ﹂ の 備 に よ れ ば 、 業 ︵W
R
E
m
同 ︶ ど煩悩︵E
o
g
︶ か ら 生 じ 、 虚妄分別はさらに戯論︵官・8
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引のとより生、すると説明しているから、戯論どは業・煩悩を分別する虚妄分別よりさらに一層根底的な基体なる ﹂ ど を 示 し て い る 。 ところで、発文﹃プラサンナパダl
﹄において月称は、この戯論と云う語を次の如く述べている。 ﹁諸聖人にとっては、縁起の如実におかれたる態を見るとき、所詮等の相の戯論は全く寂滅するから﹂ ︵3 5
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⑧ 告別件︶ すなわち、党文においては﹁所詮等︵包z
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注 目 ︶ の 相 の 戯 論 ﹂ と云っている。しかし、西蔵訳﹃プラサンナ寸所詮・能詮・能相・所相等の栢の戯論﹂ ⑫
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ど翻訳がなされてある。かくの如く、一層詳しく戯論についての説明がなされている西蔵訳本に従えば、中観派は、 戯論︵育毛色g
︶を能詮︵与Y
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︶・能相︵E
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、 と考えていたと思われる。ここで、能詮︵ω
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︶ど同義語であり、また所詮は、 所相︵E
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︶等の基体をなすもの ﹁言葉によって命名すること﹂の意味であるから、 ﹁言葉によって命名されるべきこと﹂の意味であるから、所相 と は 、 ︵E
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︶と同義語であると考えられる。 さらに学者の見解をここに列挙すると、 羽渓了諦博士は、 は 八 延 、 ひ 拡 併 る ﹀ の 意 味 で 、 ︵中論︶に現われるものは大抵後者である。﹂ ﹁戯論の語根℃g l
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現象的世界と概念的分別的世界との両義をもっ、 本 論 中 村 元 博 士 は 、 @ ﹁戯論とは、対象を定立するはたらき、または客体的なものを志向する作用﹂である。 山口益博士は、第一章第一備を解説して、 ﹁戯論とは、言葉と云う意味であるが、いまは、われわれの具体的な寄在、すなわち世間。。E
︶ が 能 知 、 所 知 、 能言、所言と云う思想言語の態で、概念的に表わされ、そこに能知があり所知があり、能言があり、所言がある ⑮ と云うような態でこの世間︵行為的世界︶が行使せられていることを云う﹂ 以上の論拠より、 ﹁戯論﹂は先に述べた、まず存在の特相より定義づけ︵能相︶をなし、さらに、逆にその寄在 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 六 五一 六 六 があたかも自己の固有の自性がある如き所相を設定しようとする、﹁概念的な世界﹂乃至﹁観念的な世界﹂を意味 することがわかる。従来、中論の破邪論法が実体的能相を否定し、人法二無我を定立するものであると知られてい るが、その否定し遮遣せんとするのは、実にわれわれの概念的世界の誤謬性︵ H 戯論︶に向けられているのである。 したがって、中論は主観と客観の関連を述べているのであるが、その主眼は主観に属するもの、すなわちわれわれ の内観せられるあり方に向けられていると解さねばならない。 破邪の論理は、﹁限は眼自身を見ない﹂ど云うことにおいて、眼に対するわれわれの先見概念を否定し、取り除く こと︵日戯論の寂滅胃毛色
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である。しかもその否定の行為は否定だけにとどまらず、いままで覆い隠さ れていた限自身の本覚性が即顕現してくることである。そして結局、それはこれらの能相と所相の基体をなす戯論を 否定し去ることによって、われわれの内観して行く深まりへと問いかけて行くことに行着かねばならないであろう。 しかし、もちろん人間の思考行為そのものを否定し去るのではなく、概念の矛盾を指摘し、固執概念たる自性を 否定するのであるが、それでは如何なるあり方を肯定するのかと云えば、縁起の道理に基づく存在の相対性、ム仔在 の無自性性である。前述した月称の定義に﹁水にとっての熱さや、彼岸と此岸や、長と短などとはちがって、因と 縁に相対しないもの、それが自性であると云われる。﹂と云っており、また龍樹も自性を定義づけて﹁他に相対し な い も の ﹂ ︵ ロ ピ ・ ω H M O W 叩 白 J V H M 釦 同 ・ ω 一 二 − m w ︶ と述べていることから、破邪の論理が遮遣するとき、これに対比して﹁彼岸と 此 岸 ﹂ ﹁長と短﹂などの相対的縁起を﹃中論﹄においては、その破邪の部分に暗黙裏に肯定されていると解さねば ならない。この相対縁起に基づいてこそ﹁無自性←空﹂なる真実が開示されることになる。 すでに論述した如く、中観派にとっては、自性を容認しようとするあり方は、実にわれわれが閉ざされている概 念的世界と云う内なる世界において、思考することそれ自身の誤謬性に由来するのであって、客観的存在自体は本保無自性なのである。その場合、 われわれは客観的容在を知覚するためには、必ず概念的世界より推し量ってでな ければ存在を知覚することは出来ない。しかし、それは決して真実の世界に如実に触れ得るものではない。したが って、中観派は本来誤謬的なものであるわれわれの概念的世界に基づく一切の論理を放棄し、より具体性へと迫り 行こうとした。これが、一切の肯定的見解を否定しようとする破邪の論理である。然るに、われわれの概念的なも のに属する一切の思惟方法は本来自己矛盾するものであって、それらに基づいて肯定的に断定し定義を下すことも、 さらに定義づけによって論理を構成することも出来ないから、われわれの概念的思惟方法が相対的関係においての み成立すると云うことが肯定せられ得るのであり、そのようなあり方自体の中にこそかえって、相対縁起の道理が 成り立つ根拠があるのである。
第三章
中論の相対縁起
第一節 中論において縁起が非常に重要視され、空思想を体系づける根幹をなしていると云える。それは、第二十四章第 八備において、﹁空﹂﹁仮﹂﹁中道﹂﹁縁起﹂がシノニムであることを明し、第一章第一備において﹁戯論寂滅する吉 祥なる縁起を説き給える正覚者に云々﹂と云うことからも知られる D しかし、龍樹に始まる中観学派の人々の主張 が従来の仏教の唱える縁起の理論と全く同一であるとは云えない。むしろアピダ する縁起︵U
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含 ︶ ルマの因果律の縁起の理法は成立しないと、第一章第三億以下において厳しく批難されている。従って龍樹によっ て独自の縁起観が創造せられるに至ったと云うことが想起されるわけである。その縁起とは、すでに阿合経におい 中 論 に お け る 緩 起 の 考 察 一 六 七一 六 八 て説かれている、﹁彼あるとき比あり、彼れ生ずるより比れ生ず、彼なき時此れなく、彼れ滅するより此れ滅す。﹂ ︵ −
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ロ 仲 間 ︼ 包 ω ︶ ど云う縁起の形式を採用しているがそ れが相互相対e
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芯官庁 ω︶ として解釈せられ無自性空を明すことは、すでに指摘せられている通りである。 縁起が相対的であるこどを龍樹自身が説いている箇所はあまり見受けられないが、それに関連して述べられる中論 領を列挙すると、まず縁起が﹁相互相対﹂ ︵U m w
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︶ であることが知られる箇所は、 ﹁染法と所染者とがともに生ずることは不合理なり、何となれば、染法と所染者とが相互に相対しないこと︵巳・g
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毛 足 。 ︶ に な る か ら で あ る ﹂ ︵ 第 六 章 第 三 倍 ︶ ﹁また如何にして自性が即ち所作のものとならんや、何どなれぽ自性ほ無所作のものにして、また他に相対せざ る も の ︵ 口 町3
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可となればなり。﹂ ︵ 第 十 五 章 第 二 偶 ︶ この両備において龍樹は直接相互相対を説いているものではないが、 生起するような因果律は不合理であって、相互に相対しない しかし、実体的な染法と所染者どがともに ︵ ロ 可 m u o−
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︶と説いていることから、 逆に無自性なるものは相互に 相対することが想起されるわけである。 また、縁起が﹁相対﹂ ︵ω
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とであると云っている箇所は、すでに安井広済博士の指摘されている如く、 ﹁浄に相対せずしては︵g
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不浄は存せず、そ︵の浄︶ に不浄は不可得なり。﹂︵第二十三章第十偶︶ ﹁不浄に相対せずしては︵g
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︶浄ほ存せず、そ︵の浄︶ に 縁 っ て ︵ 匂5
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︶ 不浄をわれわれは説く。故 に縁って︵U
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︶不浄をわれわれは説く。故に不浄は存することなし﹂ ︵ 第 二 十 三 章 第 十 一 倍 ︶ この両備によっては、浄と不浄が相対することは、互いに縁って Q52
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ω︶ 生 ず る こ と 、 つまり縁起であるこ とが知られるのである。 以上の備によって、龍樹における縁起の論理が相対的であることが知り得るのであるが、然るに、彼の破邪の論 理が終始一貫して自性の論破に向けられており、その裏に無自性にして相互に相対せることが暗黙のうちに肯定さ れていることが一見して明らかである。 ところで、月称に至っては、縁起が相対的であることが、次の文によって明らかに示されている。すなわち、月称 は 縁 起 ︵ 匂3
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含︶を語源的に分解して、 ﹁ ︿ 至 り てV
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︶ なる語が同義異語としてあるからである。そ のことは軌範師龍樹が、八縁りてv
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の語を八至りてV
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︶の意味あるものとして、八彼々に ③ 至りて生起したるものは自性よりして生起したるものにあらず﹀と云うように認められているからである。﹂ と述べ、また ④ ﹁比有るとき彼あり、短あるとき長あるが如し﹂ ﹁諸法が因と縁とに相対して︵Z
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︶生起するのが縁起の義である吻 ⑥ ﹁それら︵の対境ど認識︶が相互に相対するQ
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︶ことによって成立する﹂ と一式う説明からも、月称は縁起を相対すること、あるいは相互に相対することと明確に語っていることになる。 さて、中論の縁起の論理は、相互に相対すると云うことをその意味として保有していることが理解され得たので あるが、その空思想を背景としての﹁相互に相対する縁起﹂の論理こそ、従来の仏教や外教に対する中観派の思想 ・ 叩 論 に お け る 縁 起 の 考 察 一 六 九一 七 O 体系の独自性を顕わす主要な論理に他ならない U そういった意味で相対縁起は、中観哲学体系の上においても、極 めて重要な理論をなすものである。しかし、相対縁起をわれわれが探究する場合、その相対縁起を中観思想を構成す る他の重要な概念、警えば﹁二諦説﹂とか、﹁否定の論理﹂とか、﹁仮設﹂とか、﹁空性﹂とか、と云ったものよりま ず切り離して分析すべきなのではなく、むしろ中観派が主張する﹁空の世界﹂と一五う世界観における全体的な立場 より理解せられ探究されて行くべきものであろう。相対縁起の論理は、他のあらゆる重要な概念と密接な関係を有 し、複雑にからみ合いながら、一つの立体的な統一ある﹁空なる世界﹂を織り成している理論である。長尾博士も、 同様に﹁空と縁起の関係、その強く緊張せられた糸が中観にとっての経糸であるとすれば、勝義世俗の二諦は緯糸 に相当する。極言すれば、中観哲学は、此の経と緯との交錯に尽きるとも云ひ得るかど思う﹂と論述されている。 それ故に相対縁起を究明するに先立って、その縁起の論理を空思想の全体的立場より理解し、把握するために、 次のような問いかけと、その結論を導き出すための道筋を考慮に入れながら論究して行かねばならないと考える。
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﹁相互に相対する﹂︵3 5
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宮 忌 M M o g m ︶と云う用語が根源的に意味するところのものは何か、ーーーわれわれの 思考することのあり方それ自身の究明ーーその本来自己矛盾することを指摘し、本来矛盾し誤謬せるわれわれの 概念的な思考の仕方それ自身の中にこそ、かえって相互に相対すると云う根源的意味が求められねばならならな いこと。さらに中観哲学の容認する世界観の極限||唯心論的立場に立脚すると一五うことーーしかしながら唯心 論的立場の外に不可言説としての境の実在を容認すると考えざるをえないこど、ーーその唯心論的世界とは、わ れわれの概念的世界ども云うべき関された世界であること||関された概念的世界どは、実に戯論︵℃5
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︶ と云う用語として見受けられることl
|戯論は定義づけすること︵能相︶ヒ定義づけされること︵所相︶と云う二 つの支分に差別する虚妄分別のより根底にある基体をなすものであること 111 相対するとはかかる所相が他の所和と互いに相対することを云うつむすなわち、所相は他の種々に関連する所相との聞において概念的依容の関係と し て 成 立 す る こ と 。
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相対縁起の意図する意味は何かo
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﹁ 無 自 性 ← 空 ﹂ ﹁勝義←世俗﹂なる二つの方向性を指し示すものであること。ーl t
すなわち、相対縁起によって世俗の無自性な 一たび否定された世俗の有が無なる空性の領 の開示ーーー二諦どの関連においては ﹁ 世 俗 ← 勝 義 ﹂ ることが指し示され、世俗が否定されて空性が顕現する。しかし、 域より再び究極的意味における世俗の有が肯定されることーーーその究極的な意味における有は自性的存在ではな く無自性であること|||それは仮設︵冒と宮喝さを媒介として覚証されること。ω
主体を相対縁起との関連において、何処に設定すべきであるか||究極的な意味における世俗の有の肯定 その世俗の有は縁起せることによって無自性であることーーさらにそれは仮設︵胃丘町35
なる用語として用い ること!|主体もまたかかる仮設、すなわち縁起せる無自性なる態の上に設定されるべきであること、すなわち、ω
の道筋においてのべた戯論が有我論的態における主体と考えるならば、相対縁起によって所相︵客観︶の無自 性を自覚する時、能相とおよびその戯論の無自性なることが必然的に想起され、ここに戯論の寂滅が得られ、人 法二無我が成就される。したがって世俗の究極的意味におけるわれなる有的な主体は、その根底は無自性であり 無なる空性の世界と相即する。ω
相対縁起と実践道とは如何なる関連の上にあるだろうか。l
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われなる主体は相対縁起によって、その底は 無自性であるが、同時にわれなる主体は、実践道なる道諦の上にも設定されるべき態である。それ故に相対縁起 と実践道とは、われなる主体の内において統一される。||縁起せるものは中道と云われるから、われなる主体 は中道と云う道諦の上に設定される。 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 七七 第二節 龍樹も月称もその縁起の論理は、 ﹁ 浄 と 不 浄 ﹂ ﹁長と短﹂と一五う如き相互に相対すること︵宮門
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で ﹁長と短﹂と云うような相依の関係は、両者は相互 に否定しあう反対対立の関係にある。龍樹や月称の挙げている相対とは、単にかかる﹁浄と不浄﹂ うような相互に対立する相依だけにとどまらない。 あることはすでに論述した通りである c し か し 、 ﹁ 浄 と 不 浄 ﹂ ﹁長と短﹂ど云 ﹁林と樹木﹂﹁軍隊ど兵士﹂と云った全体と部分 の関係。﹁芽と種子﹂﹁原因と結果﹂などの両者の聞になんらかの連続的関係が認められ、さらに時間的経過を要 する関係。﹁眼ど見る作用﹂と云った、主体とその属性の関係など様々な関係がすべて﹁相互に相対する﹂と云う 縁起の形式の内に納められねばならない。そのことは破邪の論理においてすでに指摘した如く、われわれの本来自 ﹁ 車 と 車 輪 ﹂ 己矛盾する思考方法のあり方自身の中に求められるべきであって、月称は相依性についての根源的意味を次のよう に説明している。 ﹁身体と頭と云う表現は、︵頭における︶頭脳の能力等や︵身体の︶︵それら身体や頭と︶同時にある 他の物との関連において起る c それ故に身体と頭と云う語のみを所縁として知覚の生じた人は、同時にある他の 物をも認めるべき期待の中に常におかれている口頭は誰れのであり、身体は誰れであるかど云う質問が自然に想 ③ い起こされる。﹂ 手 等 の 如 き 、 月 称 は 、 ﹁頭﹂ど一去った時には、常に﹁頭脳の能力等﹂が、また﹁身体﹂と云った時に﹁手等﹂が常にわれわれ の意識の中に期待されており、決定した﹁頭﹂や﹁身体﹂はあり得ないことを主張するものである。しかし、われ われはそこに確定した﹁頭﹂や﹁身体﹂等の自性を決定しようとする。 その概念的世界︵ H 戯論︶の誤謬性を破するのが破邪の論理であり、また一方 1 ﹁身体﹂は﹁手等﹂と相対的であるからこそ、 存在は無自性となる。この存在の無自性なることを明すのが相互に相対する縁起なのである。この場合、﹁頭﹂は ﹁頭脳等﹂によって、﹁身体﹂は﹁手等﹂の様々な条件としての相依によって施設されるから、﹁種子と芽﹂の関 係においても厳密に云えば、﹁芽﹂は﹁種子等﹂と﹁火﹂は﹁薪等﹂といった複数のさまざま条件によって、すな わち、一つの概念は他のさまざまな複数の概念を排除することによって成立するのである。このような関係を今、 ﹁概念的依存関係﹂ど呼ぶならば、龍樹や月称の説くところの種々の相対の関係は、すべてこの概念的依容の関係 ﹁頭﹂は﹁頭脳の能力等﹂と、 の上に成り立っているのである。そうして、 v h v o かかる関係に相互相対の縁起の根源的意味を求めねばならないと考え ところで、龍樹は﹁浄と不浄﹂を、また月称は﹁長と短﹂なる相互に対立的な関係が相対︵
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︶ 明しているが、何故に月称や龍樹が相互対立的関係によってことさらに相依を示そうとしたかと云えば、この﹁浄 と不浄﹂﹁長と短﹂などの関係においては、それぞれの二つの関係においてのみ概念的依存関係が成立するからで ある。つまり、浄の反対は不浄、長の反対は短にして、他の関係は成立し得ないから﹁浄は不浄によって、不浄は 浄によって成り立つ﹂また﹁長は短によって、一短は長によって成り立つ﹂と云う説明のみで完全な概念的依杏関係 であると説 を充すことが出来る。 したがって、龍樹や月称が、 このような相互に対立的関係の相対性を取り上げたのは、縁 起が概念的依存の関係どしての相依であることをわかり易くするためではなかろうか。しかし、他の場合において は、必ずしも二つの関係によって完全な概念的依脊関係としての相依を充すものではない。例えば、 ﹁ 種 子 と 芽 ﹂ ﹁芽﹂として成立せしめるためには、単に種子だけがその条件とはなり得ない。水や日光や土、 さらに芽の形状、色、等と云った、さまざまな概念的依存によってはじめて施設が可能となるのである。したがっ の 関 係 に お い て 、 中論にお u w る縁起の考察 一 七 三一 七 回 て、厳密に一式えば、﹁芽は種子等
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云う棺依によって、芽の無自性が成り立つことになるのである。然るに、何 故に龍樹は種子ど芽と云う二つの関係において相依を表わそうとしたのか、それは、﹁種子によって芽あり、芽に よって種子あり﹂と云う二つの関係の形式に概念的依脊関係としての相依性を簡略化乃至は象徴化せしめ、ム仔在の 無自性を証そうとしたのではなかろうか。そのことは、龍樹が般若空思想を一つの理論として体系化する必要に迫 られていた結果によるものであろうか。つまり﹁これあるとき、かれあり﹂︵g
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忠 由 ︶ と 云 う 縁 起の形式にあてはめるためには、二つの単数の相関関係として相対性を表わそうとしたど考えられる。 さて、すでに第二章で論述した如くに、中論第十八章第五備における﹁業と煩悩が滅尽することから解脱は る︶業と煩悩は虚妄分別より︵起る︶それら︵虚妄分別︶は戯論より生じる。然るに、戯論は空において滅尽する﹂ と云う備と、さらに月称の第一章における﹁所詮・能詮・能相・所相の相の戯論﹂ど云う釈文より、われわれは、 まず対象に対して定義づけ︵能相︶を為し、さらに逆にその容在があたかも自己の固有の自性があるが如き、定義 づけされるもの︵所相︶を実体的に設定しようとする概念的世界乃至観念的世界が戯論に他ならないことを知った。 すなわち、定義づけをなすこと︵能相︶と、定義づけされること︵所相︶の根源的基体をなすものが戯論に他ならな ︵ 起 かった。かかる所相・能相とおよび戯論の構造において、先の概念的依容の関係における種々の相対性が如何なる 関連において成立するのであろうか。それは、実在する対境を概念的依容の関係として定義づけせられたもの 所 相︶を実体的に設定する行為広外ならなかった。したがって、概念的依脊の関係とじて相対するのはすべて所相で ﹁眼ど見る作用﹂﹁原因と結果﹂と云った相対的 あると云うことが出来る。すなわち、 ﹁ 種 子 と 芽 ﹂ ﹁ 車 と 車 輪 ﹂ 関係は、すべてすでに定義づけされた所相に外ならないのである口それ故に所相が相互に相対することにおいて実 有性が遮達されて、無自性性が自覚されるとき、その所相を定義づけた能相と、およびその両者の基体なる戯論も必然的に無自性なあことが想起されねばならないむ大智度論に﹁外物既に空なれば内主も亦空なり
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・v− 所 見 既 に 空 ① なれば見主も亦空なり、自疋れを畢寛空と名づく﹂ど説いている如く、無とか空とか一玄われるものは、対境の無なる ことが自覚されただけでは真の無は成就されない。対境の無なることを通じて、われなる主体こそが空ぜられては じめて主客を越えた真の意味の無の領域が顕現するのである。それ故に所相︵客体︶の無自性なることの自覚によ って、能相とおよび戯論なる主体の無念ることを月称は ﹁諸聖人にとっては、縁起の如実におかれたる態を見るどき、所詮・能詮・能相・所相等の相の戯論は全く寂滅 す る ﹂ 会 と り に ⑩ ﹁諸聖人の勝義は黙然たりである﹂ ⑪ ﹁他を縁としない勝義は一切の戯論を征服したる聖人の自内証にある﹂ と述べているのもかかる主体の無によって主・客を越えた勝義の獲得せられることを述べているものである。 かくの如く、定義づけられたる実体性が概念的依存の関係において、相互に相対し、その実体性が遮遣されて対 境の無自性が顕現すると同時に所相の無によって、必然的に能相・戯論の寂滅があり、ここに主・客の両者の無の 成就がある。このようなあり方において、主・客の無自性によって空性を指し示すあり方こそ﹁相互に相対する縁 起﹂に他ならない。かく考えれば、縁起はすでに戯論の寂滅し去ったものにおいてのあり方でなく、縁起は戯論を寂 滅ぜじめるあり方でなければならおい a それ故に、第一章第一億の﹁u
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廿﹂は﹁戯論の寂滅した吉祥なる縁起﹂と解するのではなく﹁戯論の寂滅する吉祥なる縁起﹂と解すべきであ の ﹁ ロ3
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仲 間 出 品 問 昏 ﹂ ど 同 格 で あ り 、 そ の 意 味 は 、 昨F
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己主であるから、﹁寂滅﹂乃至は、﹁寂滅 す る こ と ﹂ で あ る 。 故 に こ の 文 章 自 身 の 意 味 も ﹁ 戯 論 の 寂 滅 す る こ と を 、 吉 祥 な る 縁 起 を 説 き 給 う た ︵ す な わ ち ︶ 去一こど解するこども可能である。然るに従来の学者の大方は﹁寂滅した縁起﹂との見解が大部分を占めているよう ⑬ である。ただし、羽渓了諦博士は﹁安穏に戯論の寂滅せしむる縁起を﹂と訳されている。﹁戯論の寂滅すること﹂ ︵ 匂3
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︶を一層明確にするために、敢えて﹁寂滅せしめる﹂ど訳されたのであろうゲ中村元博士が﹁﹃縁 起←無自性←空﹄と云う論理的基礎づけの順序ほ定まっていて、これを逆にすることは出来ない﹂と論述されてい ﹁相互に相対すると云う縁起﹂は、以土のような概念的依存の関係 ることどまさに合致するところのものである。 ど 一 式 う 構 造 の 上 に あ っ て 、 ﹁無自性←空﹂を開示するあり方であることをわれわれは知り得たのである。 第三節 中論第二十四章第九億に竜樹は﹁若し人二諦を分別することを知る能わずんば、則ち深仏法に於いて真実義を知 勝義・世俗の二諦の重要性を強調している。さらに中観派の中期における∞︿凶gE
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派 の 清 弁 ゃ 、H M
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岡 山 W ω 派の月称などの輩出した時代より以後ますますこの二諦説は重要性を増し、中心的教義としての位 置を占めるに到ったと云えよう。したがって、縁起を空なる思想体系において全体的に理解するためには、このニ ら ず ﹂ と 、 諦との係わりにおいてもまた捉えられ、究明されなければならないことになる。 さて、二諦どは、勝義諦︵宮5
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︶が﹁最高の真実﹂であり、月称によれば、 ﹁諸聖人の勝義は黙然 たり﹂ど一云う、言亡膚絶の態を意味するのに対して、世俗諦︵8
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︶ 指し、世間においては真実︵ ω 丘三︶であることを意味する。しかるに勝義の前においては、あくまで虚妄である。 Lま ﹁世間の一般的見解、常識﹂を⑩ したがって、月称は﹁遍く覆うことが世俗である﹂︵
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︶と述べている。すなわち世俗と は、無明によって覆障されることに他ならない。それ故に世俗より勝義に到るためには、無明によって覆障された るものを排除し、含一欲の繋縛より離れることである。そのことをまた、所相・能相・戯論の構造上で捉えるならば、 所相なる実体的概念が相互に相対することにおいて遮遣され、そのことによって能相・戯論が寂滅すると云う﹁一戯 論の寂滅する態﹂に他ならない。それ故に相互に相対する縁起ほ﹁世俗←勝義﹂に到らしめる働きを有するもので あ る こ と に な る 。 かくして相対縁起によって﹁世俗←勝義﹂と云う方向性が指し示され、空性が顕現するわけであるが、その場合 世俗は虚妄なる故に否定されることでもある。しかもその否定は﹁不見と一千つ方策によって﹂また﹁黙然たり﹂乞 云わせしめる主一客の一点の痕跡も許さないところの絶対的な否定である。すなわち、縁起の構造上より言えば、 戯論寂滅せる態である D したがって相対縁起によって指し示される﹁世俗←勝義﹂の方向性は次元の相違性でなけ ればならない。すなわち、定義づけらるところのわれ︵能相︶と定義づけられるところのもの︵所相︶ヒ云う虚妄分 別を生じせしめる戯論が寂滅して、一切の差別相の生じることのない次元へと主客の対立を越えゆくことである。 その意味で世俗と勝義の両者の間にほ絶対的断絶が認められねばならない。勝義に至るためには世俗は否定され、 遮遣されることになる。このような意味が相互に相対する縁起によって指し示される﹁世俗←勝義﹂と云う方向性 には含まれているのである。 ところで、世俗ど勝義の両者のそれぞれの特質どして、さまざまな点が挙げられ得るであろうが、いま勝義は ﹁無﹂であり、そして i ﹁真実﹂であることをその本質とすると云えるから、これに対L
て世俗は﹁有﹂であり、 ﹁虚妄﹂であることをその本質とすると云えるであろう。すなわち、世俗は勝義に対してはあくまでも虚妄である。 中 論 に お け る 縁 起 の 考 察 七 七一 七 八 一切が否定されたその極限として、無の意味が指し示されるの応対して、 ⑫ 世俗はあらゆるものが何らかの意味で有的なものをその本質としている。すなわち、具体性をその内に含んでいる と云えるであろう。かかる意味において﹁世俗←勝義﹂へと方向性が指し示されることは、同時に﹁有←無﹂﹁虚 妄←真実﹂となる関係が成り立つことになる。しかし、世俗から勝義に至るためには、世俗自身が否定されねばな らないから、それはまた、有的性ど虚妄性が否定される結果になる。然るに、ただかかるものが否定されただけで は決して空の全体的な真の意味は顕現しない。有が非有となって損滅に堕するからである。それ故に、世俗が否定 されるとき、それと全く同時に﹁勝義←世俗﹂﹁無←有﹂﹁真実←虚妄﹂と云う逆の方向性が指し示されなければ ならない。すなわち、無の領域より再ぴ具体的な有的領域へとたちかえりが必要であり、また、真実の領域より世 俗の虚妄性が照明されて、かえってそれぞれの世俗の体性が真実の価値をもって輝き出づることであらねばならな い。換言すれば、世俗諦はただ勝義諦に対して遮達されるべき意味だけにとどまらず、むしろ究極的意味において そしてまた、勝義が﹁戯論の寂滅﹂