嘗
麻
呂
叉
茶
羅
孜
松
永
知
海
は じ め に 日本浄土教において、その美術遺品は彩しい数になるが、そのなかで方四米におよぶ絹本、極彩色といわれ、天 平宝字七︵七六三︶年の成立という説話をもっ原本首麻憂奈羅はその晴矢というべきものである。原本は現在国宝 に指定されておりその拝謄は許されていないが、鎌倉期以降の転写模本により、その彩色を伺い知る ζ と が で き 、 またおおまかな構図を写真で知ることができるのである。 ① この原本嘗麻目安奈羅についての歴史 k・美術史からの検討は従来よくなされており、それらの成果を概説すればっ ぎのようである。 (1) 製作事情についてその製作年代がわからない乙と。さらに製作地についても中国織説・日本織説とあり、 い づれもその決定をみないこと。 (2) 当初の仕立て方は当時の通例に従って絹の裏地をあてがって袷仕立てとし、上部には乳を縫い付け、 御巡礼記﹄に記すように筋のない竹を軸として乳に通し、厨子内に吊り下げたものと推定される乙と。 ﹁ 建 久 (3) 現在のような軸装に改められたのは延宝五︵一六七七︶年の修理の結果である乙と。 嘗麻憂奈羅致悌 教 大 皐 大 向 学 院 研 究 紀 要 第 十 一 斑 (4) 製作事情に関する初出のものは 1 ﹁ 建 久 御 巡 礼 記 ﹂ てその成立事情がわからなくなっていること。その一つは、縁起によって、麻呂子親王夫人の発願により、 天平宝字七年六月廿三夜に化人が現われて蓮糸を以って変相を織る話であ
η
、いま一つはヨコハギソ大納言 一化人が一夜にして織るという、寺僧の話を載せているの ︵一一九一年︶であり、その頃すでに二つの説話をのせ の娘が極楽を願い目毘奈羅を写そうとし、その時、 が そ れ で あ る 。 るのように原本首麻憂奈羅の成立は伝説的要素が強いのであるが、鎌倉期に証空が出るや多くの転写図がつくら れ、また嘗麻目安奈羅に対する註釈書が多数著わされてきた。この絵画を注釈するという注釈書は、中国では書かれ なかったようであり 1 日本浄土教における一つの特色といってよいであろう。これは法然門下の証空よりはじまる ことであり‘彼は自らの浄土教の根本に蛍麻憂奈羅の解釈をおくのである。その著として西山浄土宗に伝わる宮田 麻畏陀羅注﹂︵現在の研究では証空の真撰ではなく、門下の手になるものといわれる。γ
の冒頭は ノ ニ テ ヨ リ ノ ヲ タ 矯以弟子持入ニ大谷、先師上人騨室一多年皐ニ念悌法門一巳来上人滅後雄レ有ニ宜︵不審 e一 無 下 可 レ 決 聖 人 よ 市 空 送一一歳月一之慮得レ拝ニ此愛相一。如レ遇エ先師上人↓如レ謁二両組和尚一。浄土一宗懇義不審悉晴世間出世作 法由来禰覚い之 0 ・::::参ニ詣彼嘗麻寺一静奔ニ此愛相一。是非ニ観経隻奈羅↓印憶織ニ善導和尚観経疏四 巻 文 義t
i
− − : 右 縁 名 ニ 序 分 義 一 観 経 疏 矯 − 一 二 之 巻 一 。 左 縁 名 ニ 定 善 義 一 日 疋 三 之 巻 也 。 下 縁 名 目 一 散 善 義 一 則 疏 四 之 巻也。中央八重名=玄義分一則一之巻也。 といってはじまる。証空︵門下︶はことにおいて嘗麻憂奈羅は亡き法然や善導に会えるようであり、浄土一宗の釈 義の不審がそれを拝謄することにより悉く晴れたと述べている。そしてこの長奈羅が善導の観経四帖疏の文義に一 致することを述べてこの嘗麻憂奈羅を註釈しているのである。乙の証空︵門ポ︶の態度は賞麻愛犬示羅を研究する上に大変示唆にとぷで N V る。まず第一は法然の教えを理解する には、本来そ
ρ
御文なり、他の宗典をもって理解すべきであ芯のが、乙乙 T で は 絵 で あ る 目 安 奈 羅 に よ っ 之 い る こ と 。 第二はその根拠づけとも考えられるが、愛犬示羅の絵相が法然が師とも仰ぐ善導の﹁四帖疏﹄に依って作製されてい ると考えたことである。本来文義があってそこから絵が描かれる、つまり文を解釈していく上の補助手段として絵 相をみるのであるが、乙こではそれが逆転して絵相から文義をたしかめでいるのである。今日の研究成果いによって 両者の関係は、嘗麻蔓奈羅の絵相のなかに、﹁四帖疏﹂応よってはじめて理解できる部分があるが、本来善導と嘗 麻憂奈羅とは直接結びつかないのであ石今一見同じようであるがこの二つの立場は八文←絵・絵←文﹀の重点の置 き方に根本的な相違がある。証空はまず絵、つまり嘗麻愛奈羅をもって文を理解したのである。 乙れから述べようとする嘗麻蔓奈羅研究の出発点はりつに乙の絵と文との相関関係を、告田麻目安奈羅研究者の著書 とその遵守した絵相との間で明らかにしようとする乙ころみである。 註 ①一大和古寺大観﹄第二巻当麻寺。河原由雄氏論稿。 乙こにおいては、江戸時代浄土宗を代表する学僧のヨち義山・観徹の二人が嘗麻憂奈羅をどのように用いていた かを明らかにじてみたい。。
義山︵一六四八i
J
ア 七 一 七 ︶ の業績についてはいふまさら述べるまでもないが、その浄土宗典籍の校訂出版とー著述 書 麻 憂 奈 羅 孜 ‘ い 川 、 ‘ !"""""'¥一
一
悌 教 大 事 、 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 一 説 四 との間には密接な関係が認められる。そのうち嘗麻憂奈羅については、,後者に﹁首麻憂陀羅述奨記﹂四巻・ 経随開講録﹂十二巻、前者に﹁浄土三部経﹂・﹁五部九巻﹄がある。 ﹁ 三 部 ﹁骨田麻国史陀羅述奨記﹄は、知恩院第四十二世秀道の命をうけ、画業をよくする無塵居士とともに大和嘗麻寺に原 本をはじめとする蔓奈羅を拝謄した上、図相入りで元禄十六年”︵一七
O
三︶に出版されたものである。それは同時 代の貞極︵一六七七i
一七五六︶によっても高く評価される所である。それから三年後、宝永三年︵一七O
六︶に 義山は華頂山において三部経を講述した。その受講者見阿索中によって享保十二年︵一七二七︶に﹁随開講録﹂と し て 編 纂 さ れ た 。 この﹁随開講録﹄のなか、 れらは二つに大別できる。 ﹁観無量寿経随聞講録﹄を例にとって嘗麻目安奈羅を引用する記載を調べてみると、そA
経文を解説し、さらに付け加えて、愛奈羅の図相で説明じたもの ﹁四帖疏﹄の文と嘗麻憂奈羅の図相とが一致する乙とを指摘したもの こ の う ち 、A
群に属するものとしては八例ある々 チ シ テ ト ル ① 在 虚 空 中 者 章 提 宮 中 狭 少 ナ レ 陀 悌 来 赴 玉 フ ト 宮 殿 忽 滅 虞 潤 タ ル 虚 空 成 也 。 キ ハ ’ 憂 陀 羅 務 相 ハ 於 ニ 此 ノ 慮 一 無 ニ 宮 殿 − 只 虚 空 ナ ル ハ 但 有 = 築 地 相 必 門 一 無 ユ 此 レ 経 文 ノ 模 様 也 宮殿一却此意也 ②披泣者ナキサケブ聾也。競人間犬スル也。泣無レ聾出 L 涙也。此時夫人悶絶椀轄不レ具ニ威儀一也。 リ ス ル ヲ ケ 愛相傍有ニ侍女一看病韓相董り 私 云 嘗 麻 境 相 引 レ 題 立 − 一 道 筋 一 如 キ モ ノ ア ル ナ リ 亦 ③以黄金縄者此亦無量縄アルベシ:::・:カクノi
ノ 或 云 密 家 五 色 界 道 類 皆 以 レ 縄 定 一 一 界 分 − 今 亦 如 レ 是B
目 ヌE三 ( 如 浄 来 全 威翌神
否 力 555台か京 逗
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自 由 民 陀 羅 ︵ 浄 全 U 巻 問 頁 上 ︶ ︵ 浄 全 M 巻 船 上 ︶ト シ テ ノ ユ ナ リ ニ ④乗賓蓮花随化併後者乗ニ観音手中蓮花一而隠ニ備後一人口讃師云予奔二鰭嘗麻饗相一下六品蓮皆成ニ合華一而在ニ悌 後 一 可 レ 見 。 i t ︵ 浄 全 M H巻仰上︶ ニ ノ ニ フ サ ノ ’ リ レ ⑤妙員珠網者以レ糸編ユ置一珠一憂上注連張如スル也。月口田・麻饗相蓮心上一房様ナルモノ有。主︵替網懸 ナ リ ノ ル ノ ニ o 西山並秘決等境相蓮 事 。 掠 網 字 懸 ニ 上 諸 賓 一 也 ノ ニ ル ︵ 浄 全 日 巻 附 下 ︶ 花霊上懸レ網也 ι ⑥有五百億等者賞麻愛相華座塞上有ニ十如意珠一是識ニ額・ AI 五百億一部以レ少示レ之︿浄全日比巻刷上︶ ナ ル 1 ヲ ル ︶ 一 、 ル ニ ー ノ ヲ ⑦頂有肉醤者・::::此等論理暁知頂骨涌起之庭部是肉髪。然謄ニ世悌像一一於ニ其頂上高低之中際一安ニ小赤 珠 一 名 局 一 一 肉 髪 一 o o −−::・:因鉾嘗麻幾相不正別穎ニ肉髪一其外庭々霊像亦多無一副肉墨田一此所謂以ニ頂骨即 ナ ル ヲ ー 肉 髪 一 故 也 。 、 ︵ 浄 全 日 此 巻 悶 下 lm 下 ︶ ト ニ ス ト テ ニ 下 フ 寸 ハ 寸 ヲ ③住立空中者疏明下粥陀在レ空市立者但使申廻心正念願レ生ニ我圏一立即得者生也・::::若今日有ニ修観行者一 ニ 托 ヒ ト セ 。 ノ ヲ ス ラ ス ハ ノ ニ テ ノ ナ ル カ ニ ノ J 下 至 ニ 観 成 一 時 雄 z縦不レ拝一一見住立三尊一必不レ可一一狐疑一章提在世得益不待時機故散心位拝見滅後衆 生 不 レ 可 レ 然 1 : : : ・ : 此 義 唯 局 一 一 章 提 一 不 レ 可 レ 有 ニ 末 世 衆 生 一 其 護 嬢 嘗 麻 目 安 陀 羅 衆 生 定 散 二 機 本 尊 也 U 爾於ニ 第 七 観 慮 一 不 レ 織 = 往 立 三 尊 国 弁 ! 銘 文 一 也 。 棚 上 l 側 上 ︶ 4 ︵ 浄 全 M 巻
B
群に属するものとしては次のものがある。 ニ ス ル 寸 ヤ 、 〆 ク メ テ テ シ ノ ヲ ⑨白言世尊者:::疏夫人腕韓沸突量久少怪始正ニ身威儀一合掌白レ悌己上此暗符= A 口憂陀羅愛相一愛 相,有下威儀具足夫人輿ニ不具足夫人一之二人ム是其由也。誠疏妙蒋不可思議。可ニ仰信一也。 ︵ 浄 全 日 巻 問 上 ︶ ニ ナ リ ク ⑩自下大文第二正宗文謂序五分科諸師異説:::今家分科冥合ニ憂陀羅愛相一詮定指授妙緯仰尚可レ信 テ ノ ハ ス ト 湾掠諸師意存ニ十六皆定一今家不レ爾答請十三定善自説散善九品亦是冥合ニ愛相一。 ︵ 浄 全 日 巻 問 上i
下 ︶ 嘗麻長奈羅致 五悌教大皐大事院研究紀要第十一説 /¥ また散善義のはじゐの所においても、 ス ル カ ニ ニ ト ハ ヲ ナ リ ト ト 寸 ハ ヲ ノ ナ リ ヤ 今家意相エ従上観一故一子是名上輩等一法鰻全散善。十三定善九品散善分レ之一家設定指授妙揮。況 亦 冥 合 ニ 憂 陀 羅 愛 相 ↓ ︵ 浄 全 M 巻側上︶ という、同様の記述がある。 ζ れは憂奈羅に向い右側に定善を描き、下側に散善を描くように十六観を分けて描く と ー い う こ と で あ る 。 J メ ヲ フ ノ ヲ シ ノ ノ ル カ ヲ シ ⑪ ︵ 日 観 ︶ 一 一 s 一障者如レ次重次軽罪也 o i 記主云若有ニ章一罪者却現=黒障一覆ニ所現日一如ニ世黒雲障 v 目 。 若 有 シ テ ヲ フ ノ ヲ シ ノ ノ ル カ ヲ シ ル ハ 〆 ヲ フ ノ ヲ シ ノ ノ 次罪一者郎現ニ黄障一覆 ι一 所 現 日 一 如 一 一 世 黄 雲 障 v 目。若有ニ軽罪一者郎現ニ白障一一復ニ所現日一如ニ世白雲 障 J 1 日 ? 情 一 蹴 民 一 可 ト 有 一 目 安 陀 羅 愛 相 ノ 沙 汰 ↓ h − ︵ 浄 全 日 比 巻 問 上 ︶ ① 乙の寸蔓陀羅愛相沙汰いというのは、聖聴が﹁富麻目安陀羅疏﹂で指摘するごとく、この三雲が﹃四帖疏﹄に基づ いて描かれたことを意味している。 ト ノ ハ リ ル ヲ ヲ ナ リ ト ニ テ ヲ y ト ル ー ス ル モ ノ ハ ユ ⑫分潟十四文者今家意取ニ廻本池一渠云ニ十四支一:::疏池分一一異溜一旋還兎レ乱緯此意也。︸溜 J 爾 雅 云 ト 小 ∼ ナ リ ト ノ 流目畏陀羅左遺第十二普往生観愛相続;合,疏文一可レ仰可 γ 信 0 . 、 ︵ 浄 全 M 巻別上︶ 以上、﹁四帖疏﹄の文と蔓奈羅の図相が符合するといヴ記述を抜出したのであるが、
A
群 、B
群の引用が﹁随開 講録﹄という書物の性格、つまり義山が浄土宗宗侶に対じ、﹁三部経﹄を講義したその講録であるという乙とを考 つぎのごとくいえよう。 え る と 、 ①A
群③の例のように対経文を解釈する時、ム邑麻憂奈羅を引用して絵証としでいる。 ②B
群⑨⑫の例のように、疏文と絵相の一致を指摘し、﹁可レ仰可レ信﹂といい嘗麻憂奈羅を宣揚する ρ ー ③A
−B
群か5 1
1
﹁四帖疏﹄を図相化したものが嘗麻憂奈羅であると考えていた。④故に、義山にとって蔓奈羅は布教教化の手段だけではなく、教学上﹁四帖疏﹂を読む場合の資料として活用す べ き も の で あ っ た 。
。
観徹︵一六五七l
一七三一︶は義山より九年下、その著述した﹁三部経合讃﹄は、素中が﹁随開講録﹄を草稿し た時、対校に用いられたように、その注釈には定評があり、広ぐ読まれたものである。 ﹁ 観 無 量 寿 経 A 口 讃 ﹄ に は 三 ケ 所 、 嘗 麻 昌 文 大 示 羅 が 引 用 さ れ で い る 。 そ の う ち 第 十 三 ・ 雑 想 観 の 、 一 d 観世音菩薩及大勢至於一切慮身同衆生但観首相知是観世音知是大勢至 ② という文に注解して、観徹は、 観音若シ八尺ナラハ勢至モ亦八ー尺ナリ。故ニ身同シト云フ。斯レ大身向シヲ以テ小身同シヲ知ラ令ム。或ハ一ニ 身 等 同 ナ リ 故 − 一 身 同 シ ト 日 フ ヘ 十 ジ 。 按 ス N −一此ノ義ハ嘗麻変相、当観ニ於テ等身ノ三尊ヲ織ルニ符合ス。応ニ 知 ル ヘ シ 。 と い う 。 乙 の 箇 所 ﹁ 身 向 衆 生 ﹂ は 、 中 国 語 本 来 の 訓 み 方 か ヨ り す れ ば 寸 身 同 一 衆 生 一 一 ﹂ と 訓 む べ き で ﹁ 観 世 音 菩 薩 及 び 大 勢 至 、 一切慮に於いて、身、が衆生に同じ口但、首相を観て、是れ観世音と知り、是れ大勢至と知る。﹂ る。それは慧遠− L元照という善導ピ前後する注釈家の訓むところである? @ しかし、善導はこの箇所を釈して、 ニ ナ レ 、 ハ モ ナ リ ナ レ ハ モ ナ リ ニ リ 八従ニ観世音菩薩一己下正明=指同一一前観↓沸大侍者亦大。悌小侍者亦小。九従ニ衆生但観首相一己 ル ー ヲ ヲ 可 ン カ ナ ル ノ ノ ニ ハ リ 下 正 明 草 勤 観 ニ 二 別 ↓ 一 去 何 二 別 。 観 音 頭 首 上 有 二 立 化 僻 ↓ 勢 志 頭 首 之 上 有 二 費 制 叩 と訓むところであ 嘗 麻 昌 又 奈 羅 孜 七悌教大皐大事院研究紀要第十一説 ;¥ というように、﹁観音・勢至の二菩薩が一切慮に於いて身が同じ﹂と区切り、﹁衆生が但二菩薩の首相を観て観音と 知り、勢ー至と知る﹂乙とができると訓んでいる。この善導独自の訓みを,つけて観徹は乙の箇所を嘗麻憂奈羅の絵相 を引用してその論拠としている。 観徹の論拠である等身三尊については、原本の嘗麻一憂奈羅が不鮮明なため客観的評価は下し得ないが、それにつ ④ いては聖聴がすでに、 ル ニ ノ ヲ ケ ナ ル ハ ノ 不審抄問今蔓陀羅織=池中三尊﹄其長費等何義耶。答世間皆思ニ長等一市成レ義今奔一一本目安陀羅一取−一其長短 h y ハ シ ハ ナ リ ハ ナ リ ニ テ キ ニ ユ ハ 寸 方 一 中 尊 五 分 高 脇 士 五 分 短 中 尊 螺 髪 二 士 賓 冠 。 故 大 方 似 レ 等 然 而 貫 長 短 五 分 也 。 而 代 皆 ナ 云 = 一 ニ 尊 費 等 一 是 レ 僻 見 也 。 配 ⋮ 批 不 今 私 酉 云 有 人 ノ 所 判 愚 ヵ 所 見 ト 全 ク 同 シ O ⑤ というように等身三尊を否定している。また義山もその解釈を﹁観経随開講録﹄で、 ト ナ レ ハ モ ナ リ ニ ト レ チ ノ ニ ヲ ノ ヲ 身同者観音若八尺勢至亦八尺故一去一一身同一斯乃以=上菩薩観説ニ大身同一令レ知ニ・今小身同一此ニ菩 、ホトヨタニシテシ 薩 身 量 程 好 中 尊 相 臆 一 給 ベ シ 。 ト カ ク 中 尊 可 レ 高 也 。 といい、中尊が二脇士より高い乙とを言っている。 ナ レ ハ モ ナ リ ナ レ ハ モ ナ リ この義山・観徹の相違点は﹁四帖疏﹂にいう﹁悌大侍者亦大。悌小侍者亦小。﹂の文の解釈が相違するためであ ホ ト ヨ タ ニ シ テ る。この部分を観徹は﹁等身三尊﹂といい、義山は﹁程好中尊相慮﹂と解釈する。 いずれにせよ、観徹もまた義山と同じく、骨回麻自国文大示羅をもって、経典解釈の一助としたのである。 ⑥ この他観徹は、第四樹想観に二箇所、︵傍 o 筆 者 ﹀ 二 樹 上 有 ユ 七 重 綱 ↓ 諸天童子自然在レ中。
な ど の 説 明 に 嘗 麻 愛 犬 示 羅 を 引 い て い る 。 このような、観徹の首麻憂奈羅に対する態度は、正徳二年︵一七一二︶に観徹著﹁智光清海二目安奈羅合讃﹂に義 山が寄せた序のなかに、 つぎの文があるととからも窺えよう。 恒 に 彼 の 三 変 ︵ 嘗 麻 ・ 智 光 ・ 清 海 の 三 変 相 ︶ を 壁 に し て 称 仏 の 助 業 と す 。
。
以上、江戸中期を代表する義山・観徹の二人が、 ﹁観無量寿経﹄を理解するときに、骨回麻憂奈羅を引いて解釈す るということがある乙とを示した。 その背景には、法然が﹁偏依善導一師﹂といい、さらにその善導の﹃観念法門﹄には﹁浄土変相を画︽ことの功 徳﹂が説かれていることが考えられる。その故に、﹁四帖疏﹂の文に一致し、天平宝字八年という善導没後八十二 年ほどしか経過していない時期に出現した霊像であると伝えられていた原本嘗麻憂奈羅を、教学の立場からも受け 入れたのであろう。 ③ ② ① 註 ﹃ 浄 全 ﹄ 臼 巻 悶 頁 下 。 ﹃ 観 無 量 寿 経 A口 讃 ﹄ 末 ・ 十 八 丁 ウ 。 ﹃ 浄 全 ﹄ 2 巻 臼 頁 下 。 ⑥ ⑤ ④ ﹃ 浄 全 ﹄ 臼 巻 問 頁 上 。 ﹃ 浄 全 ﹄ 日 巻 側 頁 上 。 ﹃ 観 無 量 寿 経 合 讃 ﹄ 本 、 四 十 五 丁 ウ ・ 四 十 六 丁 オ 。 江戸期の浄土宗においては、嘗麻蔓奈羅に多くの研究書が著わされ、またその転写・印行がなされた。このこと 首麻麦茶羅孜 九梯教大事大事院研究紀要第十一蹴
。
は−法然が直接嘗麻蔓奈羅に言及しなくても、前節で述べたように善導とのかかわりによって後世の人々が憂奈羅 を鎖仰したことの証左である。 このように﹁四帖疏﹂と目安奈羅とを結びつけて理解することは宗内において早くか らおこなわれていたようで、その﹁四帖疏﹄と憂奈羅が符合する乙とを﹁法然上人行状図﹄巻六にはつぎのように 述 べ て い る 。 かの嘗摩寺の憂奈羅は、調陀如来化尼となりて、大炊天皇の御字、天平賓字七年にをりあらはし給へる霊像な り。序正三方ーの縁のさかひ、日観三障の雲のありさま、人さらにわきまへかたかりしを、のちに文徳天皇の御 字、天安二年に、もろこしよりわたれる、善導大師の御緯の、観経疏の文を見て乙そ、人不審をば、ひらき侍 じか、天平賓字七年より、天安二年にいたるまでは、九十六年なり。そのかみ吾朝にて、をられたる憂奈羅の、 はるかの後にわたれる、観経の疏の文に、符合せるをはバ不思議とこそ申停て侍れ。 換言すれば﹁四帖疏﹂によって嘗麻憂奈羅が描かれているという信仰乙そが江戸期の憂奈羅研究者の輩出にもつ ながったと考えられる。しかし原本嘗麻目安奈羅が﹁四帖疏﹂に一致するといっても、その図相は大変いたんで鎌倉 期にはすでに不鮮明な部分があったのであるから、どの図相が原本を伝えているかということは各人によって異っ ていた。聖聡の時代にも九品段図相においてかなり違った図相があることを伝えている。江戸期の研究者にとって はなおさらどの本を正図とするかに意見が分かれた。大順はそれらを比較研究し分類したが、そこでもはたして各 図相がどの程度相似し、 v相異するのかふれられていなかった。そこで乙の節では浄土宗内において研究者依用の畏 奈羅図相を比較するための基礎作業として各研究者の依用本を検討したい。O
良定︵一五五二l
一六三九︶は慶長十九三六↓四︶年に﹁首長百記﹂十二巻を著わす。本書の書誌的考証は﹁袋 中上人著述目録並解題uq
琉球神道記﹂四四回頁︶に詳しいのでそれにゆずるが J、毛乙に未見という慶安版を検す る と 、 刊 記 は 〆 山 下 慶安元戊子歳仲冬吉辰/秋田勘兵衛尉刊行之 となっており、当然のことながら寛文十六三六七一︶年の東障の駿もない。東障の駿に﹁校合改一一奮本一畢﹂とあ り、たとえば巻三・二十丁オ三行自の闇廟は園!廊︵檀王法林寺蔵草稿本は聞の字につくる︶となっている。 一 カ ワ ヤ カ マ ワ ヤ 良定は﹁自記﹄ーを著して後、寛永九︵一六三二︶年に嘗麻麦茶羅の板木をほらせている。これは檀玉法林寺に蔵 されており、三枚の板をム口わせて、たて八九・一糎、ょこ七三・七糎の大ききである。乙の板木はそれをすっぽり 包む観音開きの厨子に収められ、そのあけて右の扉には﹁南無釈迦文悌﹂、左の扉には﹁南無阿粥陀悌﹂といずれ ① も良定の手になるものを陰刻し、その文字を金色をもって彩色している。この板 J木の詳細な図相については、刷ら れたものを見ることができないのではっきりといえないが、九品段における来迎図相の阿弥陀仏は上上品を除きい ずれも立像になーっており、またその眉間から往生人に向って光の筋があった。これは大順がいうところの古図の特 徴である o J しかしながら大順のいう古図と﹁自記﹄に説く図相とは同一でない。たとえば上上品において﹃白記﹂ ② ③ は一往生人 A僧
形
V と三里子を描くのに対し、古図では一往生人と一男一童を描いていることをあげることができる。 戸 と C ろで檀王法林寺には良定の弟子東嘩︵一六二三l
一六八二︶の代に寄進された嘗麻隻奈羅が一舗ある。その ④ うらには製作の因縁を墨書しているのであるが︶それは良定三十三回遠忌の年につくられている。その時四十八日 首麻長奈羅孜悌教大事大皐院研究紀要第十一競 聞の別時念仏を修し、白記を講説して、 それを聴聞する人々は雲集の如く結縁せしむという。乙の愛奈羅は九品段 においては文亀本︵新図︶によらず、 ﹁白記﹄と同じく古図の図相を描いている。ほとんど﹁白記﹄のいうところ ﹁併有二道光一照ユ l 嫡 僧 一 ﹂ と記すのであるが絵 であるが、上品中生の図相において﹃白記﹄巻七・二十丁オは には二道の光が僧に向っている。そのような小さな相異はあるにしでも、 乙乙では良定の図相を知る参考資料とし て乙の憂奈羅をあげる乙とができる。 註 ① 乙 の 版 木 の う ら に は つ ぎ の 文 字 が 彫 ま れ て い る 。 ヲ ナ リ 奉 レ 刻 ニ l 彫嘗麻寺浄土憂陀羅一所 右 所 志 者 先 年 夢 中 奔 ニ l 見弥陀等三等一 ク シ テ シ ヌ テ ノ 在 ニ 心 不 捨 離 縁 之 起 一 此 板 漸 成 就 了 依 ニ 此 功 一 考 ⋮ 批 一 盟 問 得 脱 ト 民 ダ 一 七 品 川 六 親 法 界 衆 生 同 謹 一 願以此功徳平等施一切同議菩提心往生安楽園 寛永九年同正月廿五日願主京東落配計制香 ヒ ト 此 執 筆 弁 蓮 社 袋 中 良 定 ︵ 花 押 ﹀ ﹃ 白 記 ﹄ 巻 七 、 八 丁 ウ ﹁ 殿 中 一 僧 坐 ノ 而 披 ニ 讃 経 − 面 前 有レ九其傍有ニ童子一人乙 ﹃ 捜 玄 疏 ﹄ 巻 七 、 四 十 二 丁 オ 奉新寓嘗麻大目安陀羅一幅慮/右旨趣者嘗寺塔頭有道心 者/其名目望審林西昔日頼織口/織絹無績回調一箇雄 ② ④ ③ 欲童襲/像不果願望而往生彼人及滅/後五口住持此寺有 時林西後住/可園以彼絹輿我々思年来願/之今正此時 殊開山良定上人/此市作白記弘之像疏在一慮/幸甚何 事如之雄会員道力難ノ成且止而後有一壇那似堅固/信 心云自魚父崇観久誓信士/母松観貞書信女克之予云漢 / 土 書 目 毘 陀 篤 追 一 踊 先 規 出 在 唐 / 書 宜 哉 大 善 根 若 余 早 寄 書一工/欲成之則下南京挑竹坊正俊/成就開山三十三年 遠忌故掛/之修四十八日別時念悌講説/白記聴聞輩如 雲集令結縁畢/願以此功徳施主満現嘗二世 寛文十一知年正月二十一日 時南都有信者二人後藤三郎衛門 同名輿左衛門 惣寄進金物 朝 陽 山 法 林 寺 第 八 世 / 定 蓮 社 良 関 東 陣 ︵ 花 押 ︶
。
酉阿︵一六四七 l 一七一二︶は現蓮社撃誉酉阿といい、また助給とも称した。生涯を目安奈羅の弘通につとめた人 である。その伝記は﹁嘗目安秘決直談紗﹄巻十一に、附録としてあるが、それは酉阿六十七才の時、弟子給阿が書き とどめたものである。それによると、越中魚津の人で正保四︵一六四七︶年に生まれ、武州鴻巣の勝願寺念誉から 璽書をうけ、また愛犬示羅の指南を線州子住の源長寺称誉から P つけたという。以後蔓奈羅の弘通につとめ、 ﹁ 嘗 麻 憂 陀羅綱目秘決紗﹂九巻入貞享四人一六八七﹀刊︶、豆邑麻憂陀羅網目秘決図葉正記﹂九巻︵宝永五︿一七O
八 ﹀ 刊 ︶ 、 ﹁ 憂 陀羅供略和讃﹄一巻ハ元禄十五︿一七O
二 ﹀ 刊 ︶ 、 ﹁ 賞 麻 憂 陀 羅 耕 惑 ﹄ 三 巻 ︵ 正 徳 三 ︿ 一 七 一 三 ﹀ 刊 ︶ 、 ﹁ 嘗 麻 憂 陀 羅 秘 決 直談紗﹄十一巻︵享保三八一七一八﹀刊︶など五部三十三巻を著わした。、 その目安奈羅説法は多くの人々をひきつけたようであり、また寺院再興にも尽力した。その一つ信州須坂天徳寺に ① はその徳をたたえた﹁天徳寺再興略縁起﹂がある。かれの活動は浅草・小田原・伊勢の三つの称往院を中興し、清 崎の善導寺まで足をのばし、その結縁の男女が市をなしたという。そのように愛奈羅を弘めた人であったが、嘗麻 シ キ ハ リ テ カ ナ ラ ハ ダ 寺で憂茶羅を拝騰しなかったであろうことは、自らも﹁鳴呼惜哉本長陀羅奮不レ明失新憂陀羅未スレ許レ見失﹂ と﹁秘決妙﹂の序に述べることから推定できるし、後述する酉阿発願の蔓奈羅図相からも裏づけられる。ではどの ような勉学をしたのか。これも指南を告げた源長寺称誉一のことがわからないので推測の域をでないが、﹃直談紗﹄ ト ノ ハ 子 シ ニ ハ ナ ル カ の巻末に給阿が﹁註記矯一一秘決之指南一網目判段概準ニ自記一也。酉誉上人元来白旗之正統故以一一目安陀羅紗一一偏 玉 ヘ ル ノ ニ 備ユ秘決鈴依葱一者也﹂と記すことから、証空・袋中・聖聡の三疏によった菱奈羅の理解をしたと考えられる。 酉阿がいう正図はどのような図であったのか、それを知る資料として酉阿の発願になる嘗麻蔓奈羅図がある。 嘗 麻 目 安 奈 羅 孜悌教大事大事院研究紀要第十一説 四 ﹁ 秘 決 紗 ﹂ 序 に ニ シ ヲ テ 貞享歳次丁卯季夏六月二十三日以=拝篤園輿秘決紗一越後園頚域郡糸魚川於ニ終南山善導寺一寄ニ附住物重 施 一 一 印 行 一 者 也 。 という記事があるがそのとおり、縦横 4X3 メートルあまりの蔓奈羅が現在でも善導寺に所蔵されている。その憂 奈羅には絵を取り囲むように、 乙の愛ー一奈羅製作の寄進者六百余名が絵の上方は二段、下方は一段、左右三行にわた って書かれている。そして縁起段下の寄進者名のあいだに﹃秘決紗﹄の序にいうとおりに、乙の回受奈羅の由来が十 五行にわたって書かれである。︵この憂奈羅については﹁双魚﹄日号加藤誇﹁仏足石の人々村﹂を参照されたい︶ 抜三部紗記 貞享四日歳 円 H 〆 酉阿がこの目安奈羅に寄進者の名を書かせていることは先にあげた﹁天徳寺再興略縁起﹂にいう結縁の男女が市を 越後糸魚川 普備欣募縁 善導寺住持 現蓮社整誉 謹奔馬嘗麻 目 安 陀 羅 饗 相 録六巻秘蹟 永局常住物 願以此功徳 平等施一切 問委菩提心 往生安楽園 六月廿三日 なしたという記事と同様であり、まさに目安奈羅弘通の人といえよう。 この憂奈羅の特徴は、画面が全体的に少したて長である乙と、縁起段は全文収録式でなく、拾字式である乙と、 絵相は細密でとくに下縁部九品段の来迎菩薩整聞衆の顔は女性的に描かれていることなどがあげられる。 この絵相を﹁秘決紗﹄にのせである絵相と比較すると、少しく相違する。よ上品において善導寺本には六天人が ② 舞うのに対し、﹁秘決紗﹂では一天人であり、その部分の解説にも一天人と記す。下上品において、室内人の位置 ③ が﹁秘決紗﹄では左から、僧・往生人・童子となるがそ乙では往生人・僧・童子となっている。また﹁秘決紗﹂に ﹁二道光照一一家内男一﹂とあるが、善導寺本にはその二道光がかかれていない。 これらの相違点は憂奈羅全体からすれば大変小さなことであるが、先に述べたようにこの﹁秘決紗﹂と善導寺本
は弘通の説教者としての酉阿に許される範囲内であったのであろうか。 は一具のものとして酉阿自身が寄附したものであるからその相異すること自体がおかしい。しいていえばこの相異 註 ①天徳寺什物。正徳五年、天徳寺第三世玄理の自筆。 一 心 山 稽 往 院 中 興 現 蓮 社 整 馨 酉 阿 上 人 者 骨 回 目 安 秘 決之紗主故蔓陀園実正記類事愛相弘停之法将 府 ト ヘ ニ 也著述雄レ近動化流レ遠相州小田原一行山稽往 院勢州宇治郷菩提山稽往院兼ニ住三笥所一常念相 ナ リ 績 之 中 興 也 特 吏 越 東 清 崎 善 導 寺 住 職 之 時 信 テ ヲ 州芋井善光寺参詣之節捧二部秘決紗一納二光分 身前一議一一弘通之願一欲一一勧化之寅一云云常 カ ニ テ シ テ ノ ヲ 清風間賓永三丙成年三月上旬勘ニ上人歩行於 坂田草庵一翼ニ憂陀羅之説法一請ニ秘決紗之動 化 一 結 縁 之 男 女 成 レ 市 蹄 依 之 道 俗 合 レ 常 : ・ : ②巻五、五了ウ ①巻五、十六了オ
。
義山︵一六四八i
一七一七︶については、前述したところである。 二世秀道の命をうけ、画業をよくする無塵居士と、ともに大和賞麻寺に原本をはじめとする蔓奈羅を拝謄した上で、 ① 図相人りで元禄十六︵一七O
三︶年に出版されたものである。原本をはじめとする諸本を比較の上、転写本がつく られ、それをもとに義山が解説を加えている。その過程で原本不明部分は文亀本・貞享本によったのであるから、 ﹁骨回麻蔓陀羅述奨記﹂四巻は、知恩院第四十 実際はほとんどぼやけてしまっている原本よりも文亀本、あるいは転写されてまもない貞享本によってその構図な り彩色がほどこされたといえる D その無塵居士の転写本は不明であるが、構図としてはこの﹁述奨記﹄に転載して ② いるのでそこから判断すると各構図は貞享本とほとんど同じであり、九品段にかぎっていえば全く同じといえる。 首麻長奈羅孜 一 五悌 教 大 事 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 一 一 蹴 一 ム ハ そのためこの﹁述奨記﹂は、聖聴の﹃疏﹂、良定の﹁白記﹄とともに広く読まれて後の愛奈羅研究に与えた影響は ③ 大きい口義山が生まれて三十年ほど後に生まれた貞極︵一六七七
i
一七五六︶なども高く評価するところであり、 今日的な方法によって嘗麻憂奈羅図相の比較研究をした大順なども、九品段の図相説明では乙の﹃述奨記﹄の図を そっくりそのまま転載していることによってもわかる。しかし文亀・貞享といった新しい転写本をもとに転写した ため、敬首︵一六八三i
一七四八︶や忍海︵一六九六 l 一七六一︶などは、原本は文亀・貞享といった時代ではす でに九品段などの図相が不鮮明であるのだからそれより古い平安時代のもの、いわゆる恵心作と伝わる転写本によ ④ る正しい転写本を作らなくてはいけない、と﹁述奨記﹂を批難している。 註 ①﹃述奨記﹄巻一、一丁オ!ウ義山の自序による。 ②一箇所だけ相違する。上上品の化仏数は義山は日とする が 貞 享 本 は 日 で あ る 。 ③ ﹃ 四 休 庵 貞 極 全 集 ﹄ 巻 下 、 間 頁 。 ④敬首の解釈については塩竃義弘﹁当麻憂陀羅下縁九品段 の 絵 相 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 諭 叢 ﹄ 汀 号 ﹀ に 詳 し い 。 忍 海 に つ い て は ﹃ 嘗 麻 変 相 考 ﹄ ︵ 悌 教 大 学 蔵 本 ︶ 十 二 丁 ォ 。。
① 古硝︵一六五三l
一七一七︶はその画業によってよく知られるところである。 ﹁嘗麻蔓陀羅自記撮要﹄は貞享五 ︵一六八八︶年版と元禄七︵一六九四︶年版の二版がある。本書を著わした動機についてはその自践に、良定の﹁白 記﹂が難しいので、それをわかりやすくするために簡単な図をつけたといい、その真秘決は本書の述べるところで ない、という。まさにその名のとおり﹁白記撮レ要﹂で簡便な編集になっており、半紙の下半分に図を描き、 上にその説明︵﹁白記﹄の抄出︶をのせるという形をとっている。 ② 古硝の描いた嘗麻憂奈羅図は、津島の円成寺に現存している。それは﹁関連和尚行業記﹂巻上に、 享保十二年の秋の頃、殊勝の大憂陀羅を得らる。抑此目安陀羅は往昔華洛の無塵居士霊夢によりて岩倉山におい て九色の彩土を感写せり。委しきことは義山上島じ報恩寺丘町肘尚其彩具をもて。大憂陀羅四幅を畜く。今の聖 ュ ィ 人 の 述 奨 記 に あ り j : 国は其随一なり。しかるに深き因縁ありて口、右の大目安陀羅を勢州山田の清雲院よりゆづり受られげる。今国成 寺の憂陀羅堂に安置せるこれなり。 という因縁のあるものである。表装部分を含め方四米を乙えるもので、五間四方の目安陀羅堂に安置されている。構 図は貞享本とほとんど同じであるが彩色は全体的に淡く、特に緑青の色がその相違をはっきりさせている。これは 貞享本と違い長年月掛けられていたためと思われる。 この他古硝筆と伝える嘗麻目安奈羅は二つ現存する。 一つは鶴岡常念寺に伝わるものである。その裏には墨書で九 行にわたり願文が記されている。 願 園土安穏/諸人快楽/二世悉地/悌子完長/願漏成就/法界衆生/離苦得楽/ 4 子時寛保元辛酉天夏六月十五日/建立主 常念寺十三世定蓮社善春完長代 が、それを古硝筆というのは、 方二米余、絵相はたて一・九四米、ょこ二米である。これは古硝没後二十四年後に当山の所蔵になるものである @ ﹁ 四 休 庵 貞 極 全 集 ﹂ 巻 下 、 ︵ 印 板 嘗 麻 目 安 奈 羅 四 ツ ﹃ J 骨田麻憂奈羅大意抄﹄の巻末の割注に 報恩寺古硝上人筆/出羽園庄内鶴ヂ岡常念寺什物 彩色古山新九郎筆︶ とあるのによっている。 いま一つは獅子谷法然院に伝わるもので、その納函のふたの表には 嘗麻長奈羅孜 一 七
悌教大皐大皐院研究紀要第十一競 ;¥ 大和州首麻寺西方聖境目安奈羅模闘沙門古澗筆 とあり、ふたの裏には 大和州首麻寺西方聖境憂奈羅模圏一諒担当什一詰臨時盟関圏整一昨組一灘間 とそれぞれ墨書きされている。方二米余、絵相の大きさは先の常念寺本と同一、さらにその構図も同一である。彩 色は法然院本は貞享本と同様に緑色がよく映えているのであるが、 t 常念寺本は青色を多く取り入れている。 彩色は異なるが、大きさ、構図とも同一、どちらも古硝筆と伝えるが、乙の二本は実は両者とも黒谷西翁院に伝 わる醤麻目安奈羅の版木に彩色をほどこしたものである。それは七枚の板にその図相が彫られている。 ょ こ 二 ・
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七五米、たて ︵ 上 よ り ︶ 一九糎、二六・五糎、コ二・二糎、二五糎、三五・七糎、三三糎、二七・七 糎、厚さ四・七糎、七枚の板の裏すべてに、 ﹁清春浄悦信士/法磐田生蓮信尼﹂と二行にわたり彫られており、さら に第六枚目には﹁矯菩提/元禄十年﹂、第七枚目には﹁六月二十三日﹂ と彫られている。結論的にいえば西翁院版 木は古砲とは直接関係はないであろう。元禄十︵一六九七︶年といえば古硝が四十四才の時であり、もし古硝の手 になるものであればそこになんらかの記載があってもよいであろう。また寺伝にも、古硝の伝記においても古砲と 西翁院を結びつけるものはみあたらない口また﹁大意抄﹂にある割注はだれが記したのか不明で、常念寺において もそれを古硝や古山新九郎に結びつけるものはなかった。また法然院本はその函書きのとおりとすれば版木ができ て五年後、古摘が四十九才の時のものといえる。しかし実際は図書きにあるように古摘が模図したものではなく、 西翁院の版木を下絵にしてそ乙に填彩したものである。その証拠に、九品段部分においては刷り上げられた紙の下 絵部分と、その上に張りつけられた絹地の部分にズレが生じて下絵がはみ出している。 これらの検討から確かに古硝の手になる憂奈羅は、円成寺所蔵の一本のみであるといえよう。ところで円成寺本は先に述べたように貞享本の模本といえるのであるが、彼の著わした﹁白記撮要﹂はいわゆる 古図の図相をもとに解説している。この新図・古図の相異については後に述べるところであるが九品段部分で決定 的に違っている。三十五︵貞享五︶才の時は﹁白記﹂により﹁白記撮要﹂を書き、後には新図をもって正本とする ① 彼の態度の変化は、義山との親交の変化によるものといえようか。 註 ①古臓堂祐範﹁法然上 λ 行状霊園の弘停に努めた人たち
i
特 に 横 井 金 谷 に つ い て ! ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 文 化 研 究 ﹄ 日 号 ︶ 参 照 。 ② 浄 土 宗 全 書 M 巻制下 lm 上 。 ③問頁。。
敬首︵一六八三ー一七四八︶は延享元︵一七四四︶年に嘗麻憂奈羅の講義をした。その講義録が﹁嘗麻憂陀羅正 義講聴書﹂四巻で、弟子の忍海︵一六九六 l 一七六一︶が筆記したものである。それによると敬首は禅林寺に所蔵 ① する模本を第一とした。序に、禅林寺の古変相によく似た目安奈羅を寛保三︵一七四一ニ︶年に得ることによってその 講義がはじめられたという。今その目安奈羅は伝わらない。 その弟子忍海は画業にすぐれた人であり、敬首の講義を聞き終わって三カ月後、実際に嘗麻寺をはじめ近畿諸寺 ② に伝わる憂奈羅を拝謄する。その記録が彼の著﹃嘗麻変相考﹄である。乙の忍海の描いた憂奈羅は獅子谷法然院に 所蔵されている。方二米余、下縁下下ロ聞の左につぎの識語がある。 山口回麻愛目護願主浄業沙門吟阿弥陀悌喜捨衣貸新造 中延享戊辰立春起筆至早秋成満沙門忍海拝画併害 延享三年というから敬首の講義を開き﹁変相考﹂を書いた後であるから、 それらの成果ふまえている、 と考えてよ 嘗麻憂奈羅孜 九傍教大事大事院研究紀要第十一説 二
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いであろう。その図相は﹁正義講﹄によく一致する。 ② ① 註 悌教大学図書館蔵、元巻、二丁ゥ。 拙 稿 ﹁ 忍 海 著 ﹃ 嘗 麻 変 相 考 ﹄ に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 諭 叢 ﹄ M 号 ︶。
大基︵一七八五 l 一 八 七O
︶は﹁嘗麻目安奈羅略讃﹂を著わしている。名古屋建中寺の一代であり、教化布教に尽 力したという。寺伝によれば他に﹃嘗麻目安奈羅講義﹄七巻ありとするが未見である。建中寺には大基発願になる常 ① 麻 目 安 奈 羅 を 所 蔵 し て い る 。 そ の ラ ら に 墨 童 日 き で 徳興山建中寺什賓/首麻大憂奈羅壱軸/発願主当山廿七世立春大基上人/天保六年江戸ニテ完成 嘗山什賓ト ナル とあることによりその発願を知るのであるが川,それを納める函のフタうらにも四行の墨書きがある。 此大憂陀羅者予有宿願命江府弟子大道所造立也画工者神賓方御槍師川村某等拾八人天保六未春三月起筆同年六 月廿三日成就周年七月表飾既成同年八月彼岸中開眼供養於停通院山内/大悌殿貼眼導師者知恩院宮院家至誠心 院擢僧正鳳響鷺洲上人也然此事不計達西丸御簾中御方之上関同年八月被請柳川営内府公亜相公御簾中御方奔 田安御殿亜相公奔覧之同年十一月被請市谷御殿令至誠心院鷺洲僧正講稗之三 謄供養之一七日同年同月/被請 筒 日 黄門公日々親聴聞罵両家衆初諸吏皆同拝見聴聞市后賜道中運送之/御詮文自東街道入瀬子嘗山維時天保 /'¥ 年 未 十 月 十 四 日 也徳興山二拾七世立血管大基謹誌 こ の 目 安 陀 羅 は 方 四 米 に 及 ぶ 大 田 安 陀 羅 で 、 いわゆる新図をもとに描かれているものである。 註 ① こ の 大 量 奈 羅 は 春 秋 の 両 彼 岸 会 に 開 張 さ れ て い る 。 前節で浄土宗において首麻蔓奈羅研究書の著者にかかわる憂奈羅の所在を明らかにした。聖聴・演智・良光・貞 極・文雄・大順・惰天・立禅・顕了といった人々にかかわる図相の所在は不明であるが、貞極はその図相を義山に 依ることをいっているし、文雄・立禅はともに大順の図相を正本とする。このように整理すると、浄土宗内におけ る図相の少なくとも半数以上は明らかになった。さらに前節では一部、九品段を例にとり、その図相と研究者との 対応をみてきた。敬首・忍海のように両者がよく一致するものもあれば、酉阿のように少しく異なるものもあった口 そこでつぎには、それぞれの絵相の間にどれほどの差異があるかを述べてみよう。この作業は、首麻寺の蔓奈羅 からの転写本相互の差異をみるのであるからどうしても重箱のスミをほじくるようなことになる。大順はあえてと の作業を行なっている。いまその作業の成果のなかから、九品段の絵相を取り上げて比較してみたい。このような 作業の場合よく九品段が取り上げられるが、それは原本が早くから不鮮明になっていたため、その部分は転写する 人々の創意が多分に含まれており、そのため多様な図相を呈するようになったためである。 大順は﹁捜玄疏﹄巻七において九品段図相を新図・古図という呼び方でその系統を二分している。新図というの は文亀本が祖本となり転写されたもので、古図というのは恵心・聖聡・証空・袋中等の図であるという。これらの 差異を四つに分けて巻七に述べる。その分類に従って、前節で述べた各依用本を比較すると次のようである。 首麻夏奈羅致
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上上| 立 上中 l 立 聖 衆 上 下 [ 立 中上i 立 下上 i 立 阿 オ 寸 導 一 一 座 立 立 立 立 酉 善 一 〈独j甚〉 (参考) 東 町 | ( 参 考 ) 檀王法林寺| 天徳寺 忍 海 tl;然ti’ 座 立 立 す 一 立 立 立 立 立 一 立 伝;;!,c,; 法然院 立 立 立 立 立 t ︶ 川 畑 一 座 座 座 座 度 山 記 一 奨 一 座 座 座 座 座 義 述 一 大 基 建中守 座 fill lili 座 座 : (不祥) 西翁院 座 座 座 座 }直 明 寺 一 成 一 座 座 座 座 座 古 円 シ 一 法 ナ 一 転 シ 一 法 ナ − 転 シ 一 一 法 F:
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中下品 一仏二声聞 一仏二声聞 −・{ム二芦間 −{!、三声聞 一仏二声聞 ーイム二誉議 ーイム二戸開 −{.ム四菩薩 -{1、四菩薩 一{ム四菩薩 一{1、四菩薩 −{ム四菩薩及
下中品天草下下上品室内 一僧二人二女 一僧二人二男 一僧二人一女 一僧二人-k 一僧二人二女 二僧一人二女 一僧二人一女 二僧一人二!ぇ 二僧一人二k 二僧一人一女 二僧一人−火 二僧一人ごk.相
形
下下品下中品 一仏二菩薩 一仏二菩薩 一仏ニ苦:薩 一仏二芸薩 一仏二宮・薩 一仏二百釜15人 15人 15人 15人 15人 15人 -1.ムニ:長:薩 一仏四14入 14人in経 一仏凹芯14人i銃 一仏14IJ日人i}i盗 一仏凶−14人m
畿 一位、凶住14人i悠 下下品 縛女 縛久・ 終女 総』ζ 縛女 縛男 不明 縛男 縛!!} 総9J 約ヲj 総リ3 人数12人 人数12人一IL 人数12人 −IL人数12人一世室
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室長翁J
l::」7慢での回経 Q~費二お諜翠下J ,削 ~o 守'()悌 教 大 皐 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 一 一 斑 二 四 らに下上品において、善導寺本は放光がないが、 ﹁、秘決紗﹄にはある。善導寺本は引接相はないが﹁秘決紗﹂で は二菩薩が引接する。 。伝古硝筆といわれ、版木が西翁院にある憂奈羅の図相は大きさは異なるが円成寺本とよく一致した。 。大順がのせる古図は他のどの図相にも一致しないものがあった。たとえば下下品に描く犬を連れた人は、大 順では人・犬ともに立姿に描くが、古図に分類される諸図では皆座している。上下品の岩・山についても同様で ある。中上品の僧は大願は合掌しているが他本はすべて経を持している。中中品において山や松を大順は描くが 古図にはない。これらの諸点から、大順は新図は義山の図相を転載したものの、古図については自分で作製した と考えられる。 お オ つ り に 本稿では、まず江戸期の代表的浄土宗の学僧の一人である義山および観徹を取り上げ、山口田麻憂奈羅がその宗典理 解の一助となっていたことを述べ、それが﹁四帖疏﹄とのかかわりであることに言及した。つぎに転写に関して、 原本が早くから不鮮明なため、︸研究者たちの正図がモれぞれ異っていた乙とを述べた。 さらにそれを具体的に知るために、大順の研究を手がかりとしてその研究者にかかわる絵相の異りを明らかにし た。それらの異相からどのような解釈が導きだされているのか、それに言及すべきであるが今後の課題としたい。 ︵ 偶 数 文 化 研 究 所 助 手 ﹀ ム サ 河 u , z l エ = ロ 本稿を書くにあたり貴重な時間をさいて嘗麻憂奈羅図等の資料を心よく提示し、ど教導下された各寺院の皆様にお礼を申し上 げ ま す 。