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終焉テーゼを拒否するということ 谷川卓(

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Academic year: 2021

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終焉テーゼを拒否するということ

谷川卓(Taku Tanikawa)

千葉大学

F・フェルドマンが「終焉テーゼ」Termination Thesis)と呼ぶつぎのテーゼは,

死の問題を論じるさいの基本的な前提として多くの哲学者に受け入れられている.

ひと(people)は死ぬと,存在しなくなる.

このテーゼは,とくに,死の害をめぐる議論において重視されている.死者が何らか の害を被りうるように思われるのはたしかである(何より,死という出来事そのもの が当の死者にとっての害であると思われよう).だがそうした害の帰属は,終焉テーゼ が正しいとされる限り,本当は意味をなさない.というのも,死んでしまった以上,

害を被るはずの主体など終焉テーゼのもとではそもそも存在しないはずだからである.

それではいったいなぜ死者が何らかの害を被るように思われるのか.それを説明する ことが,一つの課題となるわけである.

終焉テーゼにはたしかに直観的なもっともらしさがある.しかし,私はそのテーゼ を拒否したい.というのも,私の考えではひとは死んだあとでもなお存在すると言え るからである.そのことは,たとえばある故人の遺体を前にしたとき,「このひとは死 んでいる」と言うのは自然であるのに対して,「このひとは存在しない」と言うのがど こか不自然であることによって示唆されよう.それはもちろん,死者がある種の霊的 な存在者となって存在するからではない.遺体という具体的な対象があるからこそ,

「存在しない」と言うことがためらわれる.われわれは,事実として,ひとについて

......

「死んでいる」と語ることがあるのである(それゆえ遺体として存在する限り,すく なくとも当人に何らかの変化が生じるような害については,ひとは死んだあとも害の 帰属の対象となりうる)

もちろん,以上の記述ではまだ,死者に関して私が持つ直観を表明しただけでしか ない.本発表ではこの直観を哲学的検討に耐えうるようできる限り洗練させることを 試みる.そのさい,終焉テーゼを拒否するとき,つぎの二つの見解を受け入れるべき だということを論じる.

・ 死は,存在の終焉としてではなく一種の性質変化として捉えられるべきである.

・ ひとは身体(body)を基盤として存在する.

しかし,終焉テーゼを拒否したとき,すぐに別の問題が生じることになる.すなわち,

死によってでなければ,いったい何によってひとの存在は終焉するのかという問題で ある.この問題に対して,ある程度の解答の方向性を提示することも本発表では試み たい.

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