Literary Thought of kui Chuang: On theInheritance from Ch'ien-Ch'ienyi

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Literary Thought of kui Chuang: On the Inheritance from Ch'ien-Ch'ienyi

藤井, 良雄

https://doi.org/10.15017/2332680

出版情報:文學研究. 78, pp.85-111, 1981-02-28. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

錦韮字は爾證また玄恭ともいう︒明清鼎革の乙酉の年︵一六四五︶以後︑

(1 ) 

れ ﹂

(L

on

g

li

ve

 t

he

 M

in

g  D

yn

as

ty

)

という意味である︒それ以後︑蹄蔵︑蹄乎来と稲し︑蹄妹とも懸弓とも自署

し︑あるいは園公︑元公︑恒軒とも号し︑また元功と題し己齋とも号した︒乙酉の変において︑故郷罠山の抗清起義

に参加して敗れ︑僧装となって逃走するときには︑普明頭陀と稲した︒さらに︑闘照あるいは竪蓋距山人とも署し︑

逸翠公子とも稲したという︒蹄荘が稲した名の多さからでも︑彼が動乱の時代に生を享けたことが察せられる︒彼は

明末萬暦四十一年(‑六一三︶に生れ︑清初康煕十二年︵一六七︱︱‑︶に卒しているが︑

﹁闘

奇顧

怪﹂

民の生涯を遂げたのである︒若年十七歳にして復社に入り︑

た︒とりわけ甲申︑乙酉のとき作られた詩篇は︑ しくした錦荘が後世より評価されるのも︑顧氏と同じく︑遺民の生涯を全うしたからであろう︒そして︑

(2 ) 

の出版説明によれば︑婦荘の残した詩文は︑国を愛する思想と民族の気節に満ちている︒彼は況鬱悲愴なタッチで清

軍の血脱い残虐行為をあばき出し︑国家滅亡一家没落の悲痛を訴え︑降清した賦臣に情容赦のない鞭撻と颯刺を加え

この大勁乱時代の政治のすがたを反映し︑相当の史料的債値を具有

蹄荘

の文

学思

想︵

藤井

ー 錢 謙 盆 か ら の 師 承 に つ い て ー

婦 荘 の 文 学 思 想

と目され顧炎武(‑六一三ー八二︶と名を斉 婦詐明と名のる︒

﹃細

荘集

その間明朝滅亡後三十三年の遺

詐明とは

さいわい

﹁明

に詐

(3)

いで

ある

さて︑論者は蹄荘の文学の思想を解明するために︑蹄茫における帥弟の問題から稿を起こし︑その師錢謙益から何 を師承したかを考究して︑錦荘の文学思想において錢謙益の強い影轡を考察する︒これまで︑蹄荘の文学に関する専

(5 ) 

論は我国ではほとんどなされていないので︑本稿が蹄荘の文学を研究するための一祝座を設定することがてきれば幸 え

る︒

している︒彼の詩歌の大半は︑胸臆を直抒し︑誰琢を事とせず︑明人の模擬の習気がなく︑彼の国を憂え時を傷む情 感を痛快に表現できた︒婦荘の散文は︑意気雄渾で︑筆力充分で︑彼の故国に思いをはせる痛みと世を憤り俗をにく

﹁ 典 季 塗 益 書

﹁ 雨 顧 君 大 鴻 仲 熊 停

﹂ な

む思想を同じように表現した︒文集中︑

﹁ 送 顕 寧 人 北 遊 序

﹁ 答 圧 苔 文 書

﹂ どは比較的成功した作品である︒頴両の短い祓や肖像画の題賛中にも︑少ない語数ながら︑作者錦荘の冗然不俗の形

﹁看

花雑

詠﹂

象と堅固不抜の節操を記し︑かなり高い思想性と芸術的成呆を具えている︑と説明されるのも︑まずは肯定できるも

のである︒しかしながら︑この説明も︑

の詩文を覆うものとは認めがたい︒散文の巾ではこれら﹁序﹂の文西早に︑蹄荘の文学思想を開陳しているものが多い

﹁山遊詩﹂の詩と﹁看牡丹記﹂

﹁尋

菊記

﹁看

寒花

日記

記﹂﹁看桂花記﹂や﹁壽序︐﹂等の散文は︑顧炎武が﹃日知録﹄の中で﹁一たび号せられて文人と為らば︑観るに足る

(3 ) 

無し﹂と非罷する﹁文人﹂的な蹄荘の所作てある︒また︑前に紹介した出版説切が列挙する諸作品は︑顧炎武か主張

(4 ) 

する﹁文須有益於天下﹂に沿った士大夫としての正統的なもう一面を持つ婦荘の作品である︒蹄荘の文学には文学放

瘍的な文人としての側面と︑政治的正統的な士大夫としての側面が存在する︒その二面の統合体が節荘であったとい からである︒ここに諭舌が指摘する﹁看花雑詠﹂

﹁観

梅日

﹁山遊詩﹂や多くの詩序・壽序等がかなりの部分を占める婦荘

86 

(4)

この張薄の言から判明するごとく︑復社設立の趣旨は︑

後に黄宗毅や顧炎武が提唱する﹁経世致用﹂と軌を一にしたものである︒そして︑復社の士大夫たちは︑次に掲げる

﹁盟詞﹂を遵守して︑互いに切瑳琢磨したのである︒

学︑殖せざれば賂に落ちんとす︑稗に匪ざるを踏む母れ︑聖書に匪ざるを読む母れ︑老成人に違うこと母れ︑己

の長ずるを衿ること母れ︑彼の短を形わすこと母れ︑辮を以て政を胤すこと母れ︑進むを干めて乃の身を喪ふ母

蹄荘

の文

学忌

想︵

藤井

ことを期し︑因りて名づけて復社という︒

﹁古学を興復し︑務めて有用たらんとす﹂ることであり︑

嗅懐を度らず︑力を量らざるも︑四方の多士と共に古学を興復し︑将に異日の者をして務めて有用為らしめん

(6 ) 

︵陸

世儀

﹁復

社紀

略﹂

巻一

登るも君に致す能はず︑

郡邑に長たるも民を澤するを知らず︒

人オ日に下り︑吏治日に倫きは︑

皆此に由る︒ 復社は張漕︵一六

0

ニー四一︶が各文社を統合して︑

ある

棋教の衰へしより︑士子は癌術に通ぜず︒但だ耳を瓢り目を絵どり︑有司に ︒

t

獲さるるを幾幸するのみ︒明堂に

世を憂える士大夫たちの力を結集するために盟を結んだ結社で

婦荘と顧炎武は同年齢てあって︑

この雨人は︑崇顧二年︵一六二九︶に張博が盟主となって旗上げをした復社に︑

その成立とほとんど同時期に入っている︒それ以後︑雨人が生涯無二の友となるのは︑婦庇が後に﹁送顧寧人北遊序

﹂の中で﹁余と寧人との交わり︑二十五年なり︒﹂といっていること︑その顧炎武の北遊時期が彼の四十五歳のとき

︵一六五七︶であったこと等から逆算して︑おおむね雨人の二十歳ごろからであったことになる︒それは二人が復社 に入ってから三年以後のことである︒この当時からすでに﹁帰奇顧怪﹂の評判があったのであろう︒

(5)

れ︒今を嗣ぐに往を以てし︑犯す者小さければ諫を用ひ︑大なる者は擦けよ︒

0 0  

ところで︑張博について婦荘自身は︑﹁荘は生平経術には則ち故翰林張︵博︶天如先生を師とするも︑遊に従ふの

時晩ぎを以て︑未だ其の精を窺ふを得ず﹂︵典某侍郎︶と言い︑張薄を自分の﹁癌術﹂の師とは認めてはいるものの私

淑するところは﹁癌術﹂方面だけでそれも深くはない︒鯨荘は︑文学の師は他に求めていたのである︒

古は学に必ず師有り︑師に必ず専家有り︒経術は則ち鄭玄.慮植︑馬季長を帥とす︒詩賦は則ち宋玉・唐勒・景

差︑屈原を師とす︒理学は則ち桓輝・侯芭︑揚子雲を師とし︑董嘗・程元は王仲滝を師とす︒韓退之は文章の士

を以て顔を抗げて天下の師と為り︑李罰・張籍の輩︑オは人に過ぐるも︑皆之れに従ひて遊ぶ︒退之猶ほ師説を

作り︑営世の学士を譲りて︑巫瞥に之れ若かずと謂ふ︒登に其の事を習ひ其の学を為す者︑其の淵源を授受する

に︑謹ふべからざる者有るに非ずや︒今の師を求むる者是に異なる︒一孝廉・秀オの名墜有りて︑能<沸揚し汲

引すれば︑則ち群して之に北面す︒考廉・秀オ︑又薦紳の能く整援を為す者を擦べば︑則ち其の行誼の何等なる

かを問わずして︑亦た従ひて之に北面す︒是れを以て人に誇りて曰く﹁某大人某先生は我が師なり︒﹂と︒試に

問ふに﹁何の専家に学べるか︒﹂を以てす︒将に附を置く能はざれば︑苫し彼の北面する所の者は︑某先生︑某大

人のみ︒所謂癌術・詩賦・理学・文章︑固より知らざるなり︒是に於て一書生には必ず数師有り︑一大人先生に

は必ず数十百の門人有り︑賢愚威否し︑彼此相ひ蒙す︒故に豪傑の士は︑決して妄に競を人に屈せず︑亦た嘗に

濫りに師名を受くべからざるなり︒今荘の閣下に於けるや貫は北面して相ひ師とするを願ふ︒

. . . . . .  

顧るに今天下

文を能くする者少からず︑荘は他人を師とするを願わず︑必ず閣下を以て蹄する者と為すは故有り︒閣下の文︑

0 0 0 0  

荘未だ全集を讀まずと雖も︑時に︱二を見︑則ち窺かに歎じて以為らく此れ欺陽氷叔の文なりと︒又閣下本朝に

於いて極めて先太僕︵蹄震川︶を推すを見る︒先太僕の文︑其の源ぱ固より敵陽氏に出づ︒然らば則ち先太僕ぱ という文章で次のように述べている︒

﹁典

某侍

郎﹂

88 

(6)

蹄荘

の文

学思

想︵

藤井

まずこの文章の題名である﹁興某侍郎﹂の某侍郎とは誰のことであろうか︒この文中にはすでに見たごとく﹁故張天 如先生﹂とあるので︑張天如すなわち張浦の死︵一六四一年︶より後に草された文章である︒追民であった饉荘が﹁又

﹁本朝﹂が明朝を指している時期で︑明末から 見閣下於本朝極推先太僕﹂と﹁本朝に於いて﹂と言うのであるから︑

清のとく初めである︒この時期﹁侍郎﹂の官名で呼ばれてもおかしくないのは︑錢謙益である︒錢謙谷は︑崇禎元年

0 0  

に︑麿事から礼部右侍郎に進んでおり︑その年には︑復社の推す内閣閣僚の主班として︑﹁首相のもっとも有力な候 補者として︑自他ともにゆるした︒しかし選考のための御前会議の当日︑淵体仁の不意うちの発言によって形態は一 転し︑入閣の希望を達しなかったばかりか︑

﹃蓋世の神奸︑朋党の巨魁﹄として︑再び官吏の身分をうばわれ︑裁判 を受けることとなった︒いわゆる﹃閣訟﹄である︒翌崇柏二年︑

て四たび常熟に帰った︒在朝一年有余てあり︑第四の挫折である︒以後︑失意の家居︑七年に満ちたが︑崇禎九年五 十五歳の冬︑郷里の無頼から︑土豪劣紳として告発され︑翌十年︑北京の刑部の獄につながれた︒;⁝・在獄一年有余 ののち︑十一年の秋︑釈放されて南へ帰ったが︑中央への道はいよいよ遠くなった︒第五の挫折である︒のち六年︑

六十五歳︑崇禎十七年一二月に於ける北京政府の李自成による滅亡ののち︑南京の弘光帝の小朝廷の礼部尚書となった ことは︑はじめに述べたことくであるが︑翌年五月︑南京の陥落にさいし︑まっさきに満洲軍に降ったのは︑彼であ った︒第六の挫折である︒満洲に降った彼は︑北京の満洲政府に拉致され︑その礼部右侍郎として︑秘書院の事を管 し︑﹃明史﹄の副総裁に充てられたが︑在職数月︑一六四六︑すなわち清の順治三年六月には︑病気を理由に郷に慌 り︑康煕三年︑一六六四︑八十三歳の死に至るまて再び出なかった︒その間にも︑順治四年から六年まで黄蝋棋の抵

(8 ) 

抗事件に連坐して︑南京の獄につながれるということがあった︒第七の挫折てある︒﹂︵吉川幸次郎﹁錢謙盆と東林﹂︶

ここに︑指摘されるように︑錢謙盆は︑附朝の官吏としては︑南京の朱由秘の朝廷の礼部尚書として終り︑官名では

一応無罪となったが︑その六月には︑孤影梢然とし

欺陽を師とし︑閣下は欧陽を師として尚ほ先太僕を友とするなり︒

(7)

0 0  

錢宗伯と呼ばれるのが普通である︒しかし︑婦荘は︑﹁侍郎﹂と呼んでいるので︑清朝に降った後の錢謙益の官名で 呼んだわけである︒というのは︑切の崇禎初年錢謙益が同じく侍郎であった時には︑節荘はまだ十四歳てあまりにも 若年過き︑このような文章が書けるまでの文章力がなかったとみるからである︒それ故︑以下この書の内容の点から

推しても︑これが錢謙益に宛てて出されたものだと判叫する︒さらに︑

らも裏付けられる︒錢謙益は︑そ0友人負宗毅から﹁文章の墳坊を王どること宜十年︑幾んど舜州︵王世貞︶と相上 なわち明末清初の文械を王宰し︑古文酢派の命脈を断ち切らんとしたのが錢謙益であった︒その錢謙益も若年のころ

は︑やはり古文僻に頼倒し︑李夢圏や王世貞の文集を昭誦てきたという︵﹁答山陰陰伯謡書﹂︶︒

科挙の際︑南京に赴いた時︑郷里常塾の隣県弘定から来た人李流芳から﹁開宋の大家が李王の文章とはるかに異なる

(9 ) 

とする説をきき︑心が励いた︒﹂といわれる︒この後︑蹄有光の弟子と会った折二細熙甫︵有光︶の緒言と︑近代剛 賊顧貨の病とを聞くを得たり︒﹂という︒これをきっかけとして︑錢謙益は蹄有光を芸うようになり大いに蹄哀川の

文章を顕彰したのである︒また︑蹄荘が錢謙益のところへ婦有光の蔵本を借りに赴いた際にも︑錢氏は蹄荘に対して︑

汝の合祖の文章︑唐宋八家に継ぐ可し︒顧だ尺くは侃に流伝せず︒吾は諸刻本と未刻の者とを以て合して之を絞

婦荘

は︑

みるべきである︒錢氏が清朝の礼部侍郎であった時期は︑ せんと欲するも︑今窮老にして力顛し︒他日汝輩の事なり︒

︵鮎

荘﹁

世先

太僕

全集

後﹂

︶ と述べて︑銭謙益が蹄有光全集の出版のことを︑その曾孫で自分の弟子ともいうべき婦荘に託したと言えよう︒

( 10 )  

﹁牧齋の晩年の弟子﹂であるとされるが︑この﹁典某侍郎﹂の文章以後︑蹄荘が錢謙益の門をたたいたと

一六四五年後半から一六四六年前半のわずか数力月であ り︑清代になってからも錢氏を錢宗伯と呼ぶのが普通であることを考慮すれば︑

婦荘が﹁典某侍郎﹂と諷した文章

は︑まさにこの数力月に作られたものと考えられる︒論者は︑この﹁輿某侍郎﹂という文章を以て︑錢謙益と蹄荘の

ところが︑錢謙益は

下す

︵﹁

息笞

録﹂

と回想されるように︑古文酔の指導者として文塩の首座を占めた王世貞に対し︑

それ以後︑す

﹁閣下﹂か﹁極推先太僕﹂としていることか

90 

(8)

峨峨高山石

罷鬱歳寒柏

石懐作濃姿

柏材中尋尺

南国生重澁

大年自天錫

公以文章顕

方牡名赫赫

飩荘の文学思想︵藤井︶

方に壮んにして名は赫赫たり 公は文章を以て顕はれ 大

年 天 錫 に よ る

南国重界を生じ 柏材は尋尺に中る 石は孤の資と作るを懐ひ 峨峨たり高山の石鬱鬱たり歳寒の柏

だけを内容とはしていないのである︒

この

係関

は︑

下︑齢荘から錢氏へ向けて草された詩文の編年表を示しておく︒

0上錢牧齋害

〇祭牧齋先生文

こご

し︑

ft 

これを見れば﹁典某侍郎﹂より以前すでに︑卸荘は﹁叔兄爾復﹂に代わってではあるが︑錢謙益の長壽を 祝するために作った壽詩があり︑文壇の大御所に対しての敬念のみならず︑ありふれた壽詩の定例とはちがい︑﹁為 公叙平生﹂として錢氏の身の上に立ち人った話を三十六韻にもわたって詠っている︒この壽詩は決して儀礼的なもの

︵一

六六

︶四

〇某先生八十壽序

︵一

六六

︶一

︵一

六五

︱︱

︶ ‑

0

興某侍郎

︵一

六四

︶七

〇壽錢牧齋先生三十六韻代兄溺復

︵一

六四

一︶

師承関係が開始されたとみる︒

そし

て︑

次章に於いて追究することく︑

錢謙益が卒するまで続く︒以

(9)

天子虚揆席 疲人相傾軋 倉卒挺矛戟

浮雲

四方仰風采

官 僚 自 ら

︵ 伯

︶ 夷 と

︵ 盗

︶ 妬

朋 鴬 緯 む 所 に 非 ず

恢 奇 動 志 氣 恢 奇 に し て 志 気 を 動 ま し 懐 慨 披 肝 隔 懐 慨 し て 肝 胴 を 披

新朝初賜環 澄清為己責 朋鴬非所緯

官僚自夷妬 浮雲蔽陽暉

四方風采を仰ぎ 天子揆席を虚しくす 疲人相ひ傾軋し 倉卒として矛戟を挺す 陽暉を蔽ひ

澄 清 己 が 責 と 為 す

新朝初めて環を賜ひ

欲 罪 其 無 僻 罪 せ ん と 欲 す る も 其 れ 僻 無 く 悼 頭 甘 削 跡 頭 を 悼 り て 削 跡 に 甘 ん ず

紹瑠藤拇難 同朝恣排撃 鴬錮局已成 清流禍方劇

鴬 錮 局 己 に 成 り 清 流 禍 方 に 劇 し

同朝

奉命較越士 甑採多良璧

頸採には良壁多し

たま

豹 瑠 属 た ま 難 を 構 へ 恣ままに排撃す

命を奉じて越の士より較なり

92 

(10)

将以老其才

公今己者碩

錦荘の文学思想︵藤井︶

紳明之所助

天心寛回易

一朝誅翌兇

恩命猶断惜

公今已に音碩たり 将に以て其のオに老ゐんとす 露兇を誅し

恩命猶ほ斬惜む 神明の助くる所にして天心覚に回易せり一

前聖厚清白前聖には清白を厚うす 紆狼既営道草間生胞錫陥罪非尋常肝楷自夙昔哲人念助努哲人には助努を念ひ 狂陛夙昔よりす 草間に越錫を生ず陥究尋常に非ずして 針狼既に道に嘗たり 庶日無禍譴禍譴無しと日ふに庶し 著書揚雄宅尺護敢求伸 書を著はす尺護敢へて伸びんことを求めんや

揚雄の宅 仕路久乖隔高臥謝安居 雨露成露震一畷遂十年

仕路久しく乖隔す

高く臥す謝安の居 露慮を成す

一たび嗽れて遂に十年 雨露

(11)

王珪善揚激 國運営昇平 公登山中客 惟公重整氣 終始敦蘭藉 吾父稲久交 衰年愧疎遂 某也辱顕防 鴛窺頼隕策 今世重覧揆 拝賀通疎戚

堂上糾兒触 挑崇工救時 文章燕許敵 聾名李杜齊

堂上 賀を拝して疎戚に通ず 今世覧揆を重んじ

兒航を料り

鴛 症 駆 策 に 頼 る

衰年疎遂を愧ず

某や顧防を辱うし 吾が父久交を稲するも 終始蘭藉に敦し 惟だ公整氣を重んじ 公登に山中の客たらんや 國運昇平に営り

策名

一二

十載

一身飽所歴

策名

1

十載

王珪揚激を善くす 燕許に敵ふ

桃崇時を救ふにエみにして 文章 整

名 李 杜 と 齊 し く

一身歴る所に飽く 憂 危 甚 瓢 澤 憂 危 甚 だ 輻 澤 太 行 典 糧 塘 太 行 と 粗 坑 と

94 

(12)

堂下傾餘漉

為公叙平生

他年光史冊 餘醗を傾く

この詩には︑先に引用したごとく︑故吉川氏が指摘する﹁牧齋の一生は︑挫折の連続である﹂その﹁挫折﹂が︑錢 謙益の﹁平生﹂のなかで蹄荘によって詠われたのである︒この詩の末部に﹁吾父稲久交衰年愧疎遂某也辱顧防 鷲憲頼謳策﹂と詠うごとく︑若かりし婦荘と錢氏との間には︑その父を介してすでに交友関係が存在していたのであ

が編

集し

︑ る︒因みに︑蹄荘の父昌世と錢氏について言えば︑錢氏の弟子糧式粗(‑五九

0

一六

0 )

一六四四年に

刊行された﹃牧齋初学集﹄百十巻の巻八三に見える次の文章を読めば︑錢氏と蹄氏の交友が︑婦有光全集を出版する という共通の目的を有して並並ならぬものであったと推察できる︒

蹄煕甫先生文集︑毘山・嘗熟に皆刻有り︒亦た皆備ふ能はず︒

. .

.  

余は煕甫の孫昌世と互相に捜訪し︑其の遣文若

のぞ

干篇を得たり︒栗本に較べて十の五多くして誤れる者は安き去る︒是に於いて煕甫一家の文章祭然たり︒

盆﹁題蹄太僕文集﹂︶

ここに名の見える蹄昌世︑字文休が蹄荘の父であり︑﹃蘇州府志﹄に︑

﹁甲申の勢に︑昌世行歌し野に哭す︑未だ幾

ばくならずして病を登して卒す︒﹂と記され︑また錢謙益の﹁婦文休墓誌銘﹂によれば翌乙酉の年︑﹁文休︑弘光元

( 12 )  

年九月四日を以て卒す︑年七十有二なり︒﹂という︒そして︑その墓誌を草したのが錢謙益であった︒

蹄荘の文学息想︵藤井︶ 恒人祈壽巻君子頌瞥蹟

他年史冊に光かん 公の為に平生を叙し 君子 恒人壽席を祈り整蹟を頌す 堂下

︵錢

(13)

を罵

らず

の﹁

文筆

聾者中の﹁難壬﹂は︑呉修齢の徐乾学兄弟に依椅して︑

﹁正錢﹂を作りて以て謙益を話るを謂ふ︒唯だ荘のみ之

し ︒ ゃ︒其の篇篇皆霊<善しと謂ふに非ず︒ 錢謙盆は︑乙酉︵一六四五︶

の変

の際

︑ 甲乙丙丁戊五人は︑皆東南之士︑文章を以て時に著稲せられ︑

節は︑之れを愛する者も之れが為めに緯む能はざるも︑其の文章に至りては︑登に軽かるしく砦議を加ふべけん

;⁝・之を要するに手筆の大︑

( 13 )  

因みに︑この﹁壬を難ず﹂という文章は︑部之誠﹁清詩紀事初網﹂に︑

学力の到は︑

百年

以来

︑ と指摘するのを参考にすれば︑壬とは﹁園燐詩話﹂を撰した呉喬︑字修齢のことで︑壬を非難して︑甲すなわち錢謙

盆を擁護する性質の文章なのである︒この﹁難壬﹂中には︑

乙甲﹂という匿名ではあるが︑錢謙益の﹁出虞の大節﹂

に言及しながらも︑彼の﹁手筆﹂すすなわち文学の技栖のみならず︑その三学力﹂も讃えていることが判明する︒

前章に引用した黄宗毅の言のごとく︑錢謙益は王世貞の亡苔あと︑明末の文賓の主宰者であり︑その地位は清朝に 投降した後も変わらなかった︒明清鼎革の際の錢氏の節操は︑多くの物議を引苔起し︑呉喬のごとく罵る者や錢謙益

「学力」は認めながらも、錢氏縣いとなる者ー~例えば顧炎武ーー'が現われるのは致し方のないことであ

而して甲は之れが宗主たり︒

南京陥落時に進速く清軍に降表を奉じて翡を翻し︑

実に其の匹ひな

0 0 0 0 0 0  

甲の出虜の大

ある人々から非難されるごとく︑彼の生涯の汚点となっている︒この点については︑節荘も﹁難壬﹂と題する文章中 で﹁甲﹂という蓑名によって一応は彼を批判している︒

その節操無吾行動は心

96 

(14)

蹄荘

の文

学思

想︵

藤井

ずし

て︑

に参加して闘う︒

この

時︑

っ た

︒ な ら ば

︑ 今 論 者 が 主 題 と す る 錢 謙 益 と 蹄 荘 と の 関 係 は ど の よ う に な る で あ ろ う か

一六四五年乙酉の変に︑四月末の揚州の陥落時︑節荘の仲兄爾徳は戦死する︒五月十五日の南京落城後︑錢謙谷は

拉致されて北京に到り︑清朝の膿部侍郎としての官吏生活︑おそらくは失意の数力月を過ごす︒一方︑南京落城後の

江南では︑清軍の漠人に対する辮髪の強制を機に︑各都市に抗活閾争が勃発する︒蹄荘・顧炎武の郷里嵐山に於いて

も︑一旦県洒の閻茂オが清軍に降伏し︑六月に薙髪令を下すと︑それを聞いた人民が憤激し︑閣を殺す︒﹁毘新合

志〗)によれば、

順治乙酉六月︑縣丞閻茂才令事を摂り︑薙髪令を下す︒土民従はずして︑縣を謀がし︑茂オを繋へ︑荘は衆に白

して之を殺さしむ︒

と記され︑婦荘自身も﹁自ら偽官の首を斬り︑因りて世の指名と為る﹂

︵追

胤投

浮佛

寺︑

寺僧

観公

︑余

族兄

也︑

故住

依之

と詠ふことく閻茂才殺害の主謀者であった︒毘山の人々︑顧炎武・趾荘・楊永言・呉其抗等は王永詐を主将とする軍

長興を死守せんとした戦闘に参加した蹄荘の叔兄継登は三十九歳で戦死︵六月十三月︶し

た︒その後︑抵抗も虚しく︑七月六日毘山︑十四日常熟︑八月二十一日江蔭と︑

﹁虜今西門を攻め且に ﹁二殴﹂陸氏は︑︱︱女をか つぎつ苔に各地の都市が陥落してい

った︒蹄荘はすでに︑兄二人︑昭と継登を失っているが︑毘山落城の時には︑仲兄の妻︑

かえたまま清兵から受けた傷がもとで死ぬ︵哭二艘四首︒横暦二捜挽詞一章︶︒また叔兄継登の妻﹁三捜﹂張氏も一男三

女のある身で死ぬ︒生ぎ残ったのは︑その一人息子の帰侃だけである︵城陥後︱︱十日︑訪得兄子盆孫所在︑抱之以錦︑

n

一奴︑詭り進みて曰く︑ 占四絶句︶︒彼らが死んでも︑逃亡の身の蹄荘は葬式もしてやれず︑たた殖をしてやれるだけであった︒闘荘はその悲惨な情況を︑哭しながら記している︒

たらしなわ

て槌して出づるを勤むるも︑従は

七月甲寅︑虜毘山を攻む︒両艘及び諸兒女は皆城中に在り︒奴輩︑間に乗じ

はな﹁城破らるれば則ち火を縦ちて自焚せん﹂と相ひ戒む︒

(15)

姉の殖もそこそこに︑落城の際の残忍な虐殺と恐怖の掠奪が横行するなかから︑飾荘は老病の父を連れて逃亡の生 活に身を挺して落ち延びる︒その逃亡の途上に︑又た父文休を失った︒

この後より︑蹄荘の放浪が始まるのであるが︑三年後にぱ︑長興まで赴き︑兄爾復の追骨を収集して帰り︑相次い

む︒哀情巾ぶる莫く︑之れを哭するに詩を以てす︒ 申を以て︑一一僕に命じ骸骨を取りて南街の故宅に婦せしめ︑他の虞れ有らんを燿れ︑中雷を掘りて之を櫂りに痙 暦くに及ばざるなり︒是より邑を學げて被髪せり︒余は猶ほ華の俗に従へば︑復た入城する能はず︒乃ち八月田・ が為に琥慟し︑乃ち往きて餘儘を収む︒時に侭官方に民を勒して剃髪せしむれは︑急ぎ走り出て︑未だ安んじて て

曰く

破らんとし︑主家の其の衝に営るに︑虜即ち先す突入すれば︑死に及ばざるを憬る︒許華塘に隋有り︑尼と主丹 とは故有り︑往くべし︒庫の後に池有り︒倉卒として急有らば︑其の中に投ずれば便なり︒﹂と︒其の意は庵の 北門に近きを以て︑即し城守られされば︑腋けて出だすべきなり︒翌日乙卯︑昧爽に相ひ率ひて之に就く︒日未 だ中せずして城陥ち︑奴輩急ぎ北門より出づるを請ふに︑両艘固より肯ぜず︒諸奴は遂に之れを捨て去る︒是の 日虜は庵中を略し︑二妓以下或いは死し或いは捺せられ︑三艘は跳びて池巾に入るも︑水浅くして死せず︒腿ヘ て三日丁己︑賊索め得て︑執りて以て去らんと欲するも︑

之れを拒み︑遂に害に遇へり︒越えて四日庚申︑虜

去り︑始めて凶問を関く︒余既に位を為り哭し畢はり︑翌日辛酋︑遂に葡鈎して往く︒時に城中横屍載道し︑率 ね凶鷺を成す能はず︑棺も給せざれば︑則ち之に衣するに薪を以てして之を焚く︒余既に倉卒にして棺を具ふ能 はず︑又其の久しく骸を暴すを忍びず︑姑<之を揺ひて以て荒を待たんと欲し︑乃ち蒼頭に命じて鋪を荷ひ以て 従はしむ︒途中首を學げ造かに望めば︑則ち鷹を博ちて痛哭し︑魂腕顕倒し︑足を失ひて水に堕ち︑諸奴共に之 を出だし︑乃ち命じて先行せしむ︒余帰りて衣を易ぇ復た往けば︑則ち錘を荷ふ者の還るに遇ひ︑肇楚して告げ

﹁髄己に腐し︑若し之れを掩はば︑他日更に見るに忍びず︒已に俗に従ひて之を火にせり︒﹂と︒之れ

︵遣

人入

城櫂

痙三

妓︑

遥哭

三章

有序

98 

(16)

錦荘の文学思想︵藤井︶

で亡くなった祖父母・父母兄弟︑三世七人を新しく塞に葬らんとした︒しかし︑墓を作るにもその資金を帰荘は有し なかった︒その彼を援助したのが錢謙益である︒埋葬を済ませた婦荘は錢氏に対して礼状を書き送っている︒

新正に吾が師の序文を得︑感激して沸零し︑持ちて以て人に示せば︑感動せぎるは靡し︒奔走すること一月︑四 方の膊布を合して百金を得︑襄事の費︑計して己に十の七八は得たれば︑遂に卜して三月七日を以て︑新旺に葬 る︒三世の枯骸︑狐狸の歿ふ所と為るを免るるを得るは︑皆先生のニ昌の力なり︒詐明は心に銘じ骨に鎮するに 論母く︑地下の幽魂に即きても︑亦た常に結草の報を敦すべし︒又た先君子平日の風流文彩を念ふに︑望を一 世に映せども終身倫落し︑志展ぶるを得ず︑よりて以て名を後世に垂る所の者は︑惟だ墓石の文のみ︒曾子固営

つて

言へ

り︑

﹁先世を表章するには︑必ず道徳有り文章を胞くする者を待ちて而る後以てに侍ふるに足れり︒

故に羹夫の募銘を以て之れを犀霞公に厨す︒﹂と︒吾が師今世の欧陽公に非ざるか︒況んや先君子は吾が師と 雅に金蘭の契り有りて︑炭戚の曾致尭と僅かに門謄を推すの誼なる者の若きに非ず︒然らば則ち荀くも文章を以 て其の親を光寵するを知らざれば則ち已むも︑猶ほ文章を以て其の親を光寵するを知れば︑吾師に向かはずして

誰にか告げんや︒

この文面には︑錢謙益が一笙してくれたおかげで︑お墓を作る費用が集まったこと︑父文休公の茎誌銘まで書いて くれたことに対する礼が述べられている︒そして︑蹄荘は自分の師である錢謙盆を欧陽修とみたてて︑稲讃してい

0 0  

る︒この点では︑﹁典某侍郎﹂の文中で︑﹁閣下の文・:;・・則ち窟かに歎じて以為らく此れ欺陽永叔の文たりと︒又閣 下本朝に於いて極めて先太僕を推すを見るに︑先太僕の文︑其の源は固より欧陽氏に出づ︑然らば則ち先太僕は欺陽 を師とし︑閣下は欺陽を師として尚ほ太僕を友とす︒﹂といっていたのと同様に︑婦罪が心より師に対して感じたこ

り︑先祖の差を建てることができたのは︑まさしく錢謙とを記したのである︒明清鼎革後︑蹄荘は生活に困窮してお

盆の庇護によるものであった︒錢謙益の方でも︑錦荘の並々ならぬ詩や書両のオを愛惜し︑これを養守せんとした心

(17)

﹁吾は先生を壽する所以を知れり︒﹂と︒

づもりがあったのである︒このようにして︑彼らの師弟関係は︑明清鼎革後反って深まって行くのである︒

錢謙益は︑人から儀礼的な壽文をもらうのが嫌いであったが︑とりわけ彼が古稀七十歳のときには︑その老いの頑 固さからか︑人が詩文をもって壽するのをみな担絶したという︒ただ︑節荘のものだけは獨り喜んだのである︒また 今︑錢謙盆は齢八十にならんとし︑鰈荘は師の壽序嫌いをも顧り見ず︑かえって師に甘える気持で︑あえて犯して︑

その壽序を草した︒

先 太 僕

︵ 蹄 震 川

︶ 嘗 つ て 言 へ り

﹁ 生 辰 に 壽 を 為 す は

︑ 顧 だ 洪 俗 之 を 尚 び て 塵 す 能 は ず︑近日に至りて尤も濫ること話し︒尋常無聞の人︑六七十歳に至れば︑必ず廣く詩文を徴し︑屏に盈ち軸を累 ぬ︒是に於いて宜しく詩文を用ひて壽を為すべきに︑反って之れを峻却して高しとなすこと︑先生の如き者有 り︒先生辛丑の歳に於いて年八十に登るも︑人の詩文を以て壽を為すを厭ひ︑其の従弟に答ふ一書有りて堅く之 れを拒めり︒期に先んじて之れを刻し世に憾ふるは︑蓋し惟だ人の之れに贈るに言を以てするを恐るのみ︒其の 門人婦荘黙して思ひて曰く︑﹁吾が師や︑宜しく壽を為すべし︒之れを壽するは維れ何ぞや︒貧者は貨財を以て

證を為さず︑文を舎吾ては以無きなり︒且つ先生年七十の時︑亦た嘗つて人の詩古文を以て壽を為すを拒むも︑

顧だ荘の作る所の序に於いては獨り喜べり︒序は初め便面に害したれば︑先生以為らく刑敵し易しと︒冊子を出 して命じて之を重録せしむ︒安んぞ知らん今日之を壽するに文を以てするは︑伍ほ先生の散を得ざらんか︒﹂と︒

反覆誦玩す︒笑ひて曰く︑囚りて先生の其の弟に答ふる書を取り︑

先生の文に云ふ﹁我を祝する者は︑我を記ふなり︒我を頌する者︑我を屈るなり︒﹂と︒吾今は則ち阻ひを以て 祝と為し︑罵りを以て頌と為さん︒⁝⁝先生人の壽文を為すを拒むを以て︑故に文を以て献と為すと雖ども尋常

の壽序の辞を用ひずと云ふ︒︵某先生八十壽序︶

これを読めば︑錢謙益と帰荘の関係枢︑普通の師弟関係を越えて︑より親密な友情に近いものになっているのが察

古に非ざるなり︒﹂と︒

100 

(18)

蹄茫

の文

学思

想︵

藤井

氏が﹁錢謙益が康煕三年︵一六六一︶に世を去ってから︑

荘の心には有光の正系を以て任ずる気持が強まったのでは101

壬亦万十突

子も亦た五十なり そして︑この師弟を越えた友情は︑錢謙益の死まで持続するのみならず︑師から﹁家学﹂

べきことを知らされた婦荘は︑錢氏の死後︑節震川の全集出版を自分の生涯の仕事としたのである︒

先生一代に於いて首めに先太僕公を推すも︑太僕の文は︑初め同時の盛名の者の圧する所と為りて大いには顕は れず︒先生力を極めて表章し︑忽然として雲涵廓清し︑白日は空に嘗たれり︒小子某︑始めや昧昧たるも︑及門

0 0 0 0 0 0 0 0 0  

の後︑薫炎陶錦されて︑始めて家学の嘗に守るべきを知りて夫の妄庸たるを痛懲す︒︵祭錢牧齋先生文︶

尚︑婦有光の後継としては︑蹄荘も錢謙益について﹁嘉定の文派は︑故より太僕を宗とす︒而して虞山錢宗伯は︑太

僕の功臣なり︒﹂︵候研徳文集序︶と明らかに述べており︑又︑錢謙益から﹁汝の曽祖の文章︑唐宋八家に継ぐべし︒﹂と

0 0 0  

いわれ︑その出版事業はもう年老いた私では無理なのだから︑﹁他

E l

汝輩の事なり︒﹂︵書先太僕全集後︶と教えら

( 15 )  

れたように︑飩有光全集の刊行事業は︑師荘自身にとってまさにその師から継承したものである︒それ故︑佐藤一郎

我年八十

我は年八十 老鼈を以て刷しとせず 玄恭も亦た余に泥み

最愛玄恭子 玄恭亦鹿余 不以老髯郎

最 も 愛 す 玄 恭 子

衰老寡朋餡

もそれに気付く︒

衰老して朋哲寡きも

せられる︒それは錢謙益から蹄荘に贈られた詩︑

﹁贈蹄玄恭八十二韻戯妓玄恭儘﹂の冒頭と末尾の句を読むことから

︵蹄有光の文学︶を守る

(19)

即荘の銭謙益に対する関係は︑先祖蹄震川の全集を出版するという共通の文学的な目的のために︑蹄荘の父蹄昌世 と錢氏との交友をも引き継いで︑生涯にわたって深い友情に支えられた師弟院係であったと言えよう︒

後︑蹄震川全集の刊打には帰荘がその中心となって当った︒蹄荘の存命中には︑全集の刊行は間に合わなかったが︑

婦荘の死の二年後康煕十四年に出版されたその巻頭には︑﹁曾孫荘較勘.虞山後学錢謙益選定・玄孫坊編輯﹂とあ

( 16 )  

る︒また︑蹄震川全集の凡例は︑餞謙益の凡例一︵一六六

0年版の凡例︶と蹄荘の凡例二との両者を掲げており︑ を紹介しているからである︒

て い る か ら で あ る

︒ さ ら に

﹁ 底 川 先 生 文 集 凡 例 五 則

﹂ に は

0 0  

巻︑首癌解︑末害︒又別集十巻︑首制齢︑末論策︒今大概因之︒﹂と︑明確に錢氏が蹄震川の文集を刊行したこと

今そ ﹁祭鯰牧齊先生文﹂

﹁候

研徊

文集

序﹂

草した文章で︑文中には三篇ともに錢氏の婦有光継承の功績また錢謙益から受けた全集

r u

行の啓発を節荘自から記し

0 0 0  

編次:錢宗伯所緬集三十

一六

0年に作った

錢謙益の死 者が引用して述べたことく︑

﹁書先太僕全集後﹂は︑すべて錢氏の死後欝荘が

ないかとおもわれる︒﹂と揖摘するのは当然ではあるが︑しかし同氏が﹁康煕六年︵一六六七・蹄荘が︶執筆の﹃書先

太僕全集﹄では︑なぜか順治十七年︵一六六

0 )

に︑正集三十巻別集十巻を刊行した際の︑錢謙盆の功績については︑

ほとんど触れていない︒銭謙盆の﹃新刻震川先生文集序﹄︵一六六

0 )

を見れば︑これまた四部叢刊本の序と同文で あるが︑かれが順治十七年本で果した役割は明かである︒もっとも︑婦荘がその刊行の中心となり︑全く無祝したわ けではないが︑かれ自身が刊打に当ってもっとも力があったことを︑とくに強調する意図があったのではなかろう か?﹂と述べるのは行吾過ぎであり︑婦荘にはそのような﹁意図﹂を認めることはできない︒伺故ならば︑すでに論

102 

(20)

﹁害三巻﹂の位蓋を移すなど︑少しく異同はあるが︑巻立てや体裁は︑錢謙益がすでに一六六

0

年に刊行したもの を︑蹄荘は大概引き継いだと言える︒この節震川全集の刊行に於いて︑まず錢謙益から蹄荘への文学的師承が認めら

錢謙益からの師承が︑

さて︑罰荘の文学の主張の面でも︑

て︑錢謙益が壽序壽詩を拒絶していたという帰荘の﹁某先生八十壽序﹂を引用した︒その錢氏の壽序媛悪は︑そのま ま婦荘の文学の主張ともなる︒その﹁謝壽時説﹂に於いて次のごとく述べている︒

歳月流るるが如く︑年歯漸く邁き︑書を讀み道を学び︑日ミに給するに暇あらず︒

し︑心神を粍やすこと少なからず︒今縦いままにして戒む能はず︒惟だ是れ襟懐を陶富し︑情榛を披陳するのみ ならば作有るを妨げず︒無益の應酬︑不情の篇什に至りては︑則ち栗ね謝絶に従ふ︒壽詩一端の如苔は︑此れ其

の甚しき者なり︒・:

. . . . . .  

錢宗伯余の為に言へり︑﹁應酬給する能はざるに苦しみ︑嘗に胡元瑞︵應麟︶の集を案 頭に置苔て︑其の稲や近似する者を憚びて移して之れを用ふ︒其の活套する者の多合を以てなるのみ︒﹂と︒蓋

まさ

し壽する所の人︑既に桶すべきこと無くして︑求むる者又た多く︑之れを索めて又た迫り︑勢ひ容に荀且より出 でざるべからず︒登に惟た宗伯のみならんや︑今の詩人亦た多く此の法を用ふ︒此くの如く玩侮して︑詩は尚ほ

婦荘

の文

学思

想︵

藤井

れるといえよう︒

を贈送序の前に醤き︑祭文を以て末器と為す︒

一事を吟啄するに︑白日を費

の二つを比較してみても︑蹄荘がその師錢謙益のものを踏襲したことは︑明らかである︒銭謙益は﹁経解を以て首と なし︑次は序論議説︑皆議論の文なり︒

. . . . . .  

;・右編次震川先生文集三十巻︑別集十巻︑餘集不分巻﹂とするのを︑婦 一︑編次・・家蔵の蕉本集三十巻は鰐解を首とし書を末にす︒又別集十巻は制僻を首とし論策を末にす︒今大築之

れに因る︒獨だ以為らく古人の文集︑書は多く前に在れば︑嘗に之れを末巻に置くべからずと︒今移して書一︳一巻

荘は受けている︒

以下追究することく︑多分に認められる︒

前章に於い

(21)

る︒

尚︑

この序文にみる節荘の文学思想は︑ の学を志したのであるが︑その面からいえ

重ずるに足るか︒而るに之を得る者︑猶ほ以為へらく此れ某先達︑某名士の詩にして之れを珍とするなり︒亦た 愚かならずや︒余既に白ら其の精神を惜しみ︑其の歳月を愛しみて︑又た荀且の事を為すを欲せず︒

文壇の大御所である錢謙益ほどの文人ともなると︑人から頼まれれば附合でも文章を草さねばならない︒そのいい 例が︑壽詩︑壽序である︒彼ほどの文章家でも︑その文章の源泉には限りがあり︑彼もやはり︑壽序の文章を作るた めのタネ本を机上に備えていることを︑そのごく親しい弟子に漏らしたのである︒そして︑弟壬蹄荘は︑師である錢 謙益が︑そうした文章を作るのを何よりも媛悪し︑他人が寄せて来る壽詩︑壽序をすべて拒絶した師の文学者として の精神を痛感したのであろう︒それ故︑婦荘も︑この﹁壽詩を謝するの説﹂を草したのである︒

さて︑以上考察して来たところの錢謙益からの師承が︑鰐荘の文学思想の中にどのような影響を及ぽしているのて

あろうか︒蹄荘は若くして復社に入り︑その同盟者として

﹁経

世致

用﹂

ば︑彼は本来復古的な載道王義的な文学思想の持ち主であった︒それは︑まだ践謙益門下となる以前︑すなわち明清

鼎革以前の師であった黄惇耀(9・—一六四五)の文集のために作った序によって判明する。

︵黄

藤生

先生

文集

序︶

嘉定黄藉生先生殉難後九年︑・・・・・・立言の士︑必ず壊異卓絶のオ有り︑雅躙正大の儒を得て︑而して又議論は名教 に関わり︑意旨聖賢に合し︑然る後以て世に名ありて後に僻ふべし︒此くの若き者︑固より已に難し︒然り而

して文車の道未だ粛苔ざるや︑蓄し本源の焉に在ること有ればなり︒立徳は︑i立言の本源なり︒荀しくも但だ

工を文僻に求むるのみにして︑立徳を思はざれば︑其の行事を考ふるに︑文辮と栢ひ似ざる者有りて︑下筆の語

ゆえん

の天下に妙たりと雖も︑文人に過ぎざるのみ︑君子貴ばざるなり︒;・・・・文章は則ち道を載す以にして︑属属難贔

繍説の為と異なる︒

因みに︑黄淳耀は︑南都が亡び︑また嘉定も陥落するに及んで︑その弟淵耀と直城の僧舎に縦死した節操の士であ

﹁一たび号せられて文人と為らば︑観るに足る無し﹂と主張する顎炎武

104 

(22)

錦荘

の文

学思

想︵

藤井

詩家は前には七子を稲へ︑後には杜陵を稲へて︑ と軌を一にするものであろう︒さらに付言すれば︑この文章︑冒頭に﹁黄蘊生先生殉難後九年﹂と記されるので︑今に残る蹄荘の序文の類としては一六五0年代中ごろの作で︑比較的早い時期のものである︒ここには︑まだ錢謙釜の

影鰐は全くみられない︒次に掲げる﹁天啓崇禎両朝遺詩序﹂もまだ一六五0年代のものであり︑載道主義文学の詩の

﹁詩は以て性情を道ふ﹂と︒古人の詩︑木だ其の志と其の性情に本づ

かざるもの有らざるなり︒故に其の詩を読めば︑以て其の人を知るべし︒後世の人多く為を作し︑是に於いて情

と志を離れて詩を為る者有り︒情と志を離れて詩を為らば︑則ち詩は以て其の人の賢否を定むるに足らず︒故

に︑嘗に先ず其の人を綸じて︑後其の詩を観るべし︒夫れ詩は既に其の人を論じ︑荀しくも其の人取るに足る無け

おもねれば︑詩は必ずしも多くは存せざるなり︒陸機身を逆藩に失ひ︑浩岳は賊后に鴬り︑沈約は梁武をして故君を試

せしむるに︑昭明其の詩のエなるを以て︑之れを選すること特に多し︒王維・儲光毅は緑山の偽命に汗れ︑皮日

休は黄巣の官を受くるも︑唐詩を選する者は︑顧って津津として置かず︒詩を論ずることに精しくして人を論ず

この序に見える蹄荘の詩論は簡明直裁であって︑それは︑詩を選定するのは詩そのものよりも︑その作者の人とな

りを観ることが大切だということである︒﹃錦荘集﹄ては︑この﹁天啓崇顧両朝遣詩序﹂の次に配される次の﹁呉余

常詩滴序﹂も︑そうした直線的な詩論を有していた青年飾荘の文学思想を窺うことができる︒

太史公言へり︑﹁詩三百篇︑大抵期資酸憤の作なり︒﹂と︒韓昌黎言へり︑﹁愁思の墜は要妙なり︑窮苦の言は好<

し易し︒﹂と︒欧陽公亦た云へり︑﹁詩は窮して後に上みなり︒﹂と︒故に古より詩人の侍ふる者︑率ね逐臣騒

客︑世に遇はざるの士多し︒吾以為らく︑一身の遭逢は︑其の小なる者なり︑蓋し亦た國家の運に祝ぶればなり︒

後阻其の倫比無し︒使し七子の建安の多難に嘗らず︑杜陵の ることに略なる︑此れ古今の文人の通蔽なり︒ 博

に日

く︑

﹁詩は志を言ふ﹂と︒又曰く︑ 方面における主張として直線的詩論である︒

(23)

も︑未だ必ずしも其の能<奇託深遠︑人心を感動し︑讀者をして流連已まざること此くの如くならじ︒然らば則 ち︑士はオありと蹂も︑必ず小なる不幸にして身は廊窮に虜り︑大なる不幸して危胤の皿に際し︑然る後其の詩

は乃ちエみなり︒

. . . . . .   然れども古に稲す︑三不朽は立言を下と為すと︒使し其暑と名と倶に泰かにして︑徳高く 功顕はるれば︑尚ほ何ぞ離晶の技を収ることを葛さんや︒況んや又闊家の治飢安危を悦て以てエ拙を為す者を

張と同じ色合である︒

してくるにしたがって︑ と阪陽脩のこの﹁詩序﹂には︑司馬遷の﹁発憤著書﹂の説︑韓愈の﹁愁思之聟芸妙︑

工﹂の古来しばしば引かれて育名な言葉を根檬にして︑婦茫は﹁詩の逗

L

をあたかも会得したごとく︑載道主義的文

﹁詩窮而後

学観に立って詩を論じている︒しかも詩文すなわち詩と散文を区別することなく︑顧炎武の﹁文須有益於天下﹂の主

ところが︑刷炎武も北淀︵一六五七︶して江南を離れ︑婦荘ら盟友も︑箔切の栢力か四方に没透しその支配体制が固定

この江南の地では抵抗も出来ないと諦念せぎるをえず︑その後︑彼ら盟友は文学に没入するよ

( 17 )  

り仕方がなかったのである︒戸岬荘について言えば︑顧炎武ほどに経貴のオと資産があるわけでなく︑その日を糊口す

るのも困難な情況が生じていたわけであり︑書両を完り︑衣を典して菩したのである︒また弟子として鑓謙益の門に 入り︑色々の援助も受けたようである︒また婦荘の作品の面からいえば︑顧炎式が北によってのち︑とりわけ一六六

0年代以陥︑﹁看花﹂の作︑滸記の類が顕著に増加するのである︒蹄荘の文学のあり方も変化して来たといえよう︒

余曾つて作詩と古文と同じからざるを論ず︒古文は必す蛉氣凝神︑深忠精揮して之を出だす︒是の故に宜しく深 室に獨り坐すべし︑宜しく静夜なるべし︑宜しく香を焚き︑芝を啜るべし︒詩は則ち然らず︒本もと性情を娯し

ましむるを以て︑将に興会を待っこと有らんとす︒夫れ興会には︑則ち深室は山に登り水に臨むに如かず︑静夜 や︒吾蓋し日ミ其の詩のエみなるを偲る︒ 天賓以後の乱に週はざれば︑盗賊翠起し︑攘翔割猿し︑

窮苫之言易好﹂

宗社饒己民生塗炭にして︑ い苔ど4i r

ちI J

巾 に 闘 る こ と あ る

0 6 l l  

(24)

方に遊ぶ︒﹂

論﹂と呼ぶべきものがある︒

﹁余は花に於いて愛せざる無し︒﹂

︵尋

鈎記

︶︑

多々見うけられる︒

︵眉

照上

人詩

序︶

江湖には江湖の情景有り︑

細衣黄冠には細衣黄冠の惜娯有

︵看

牡丹

記︶

る︒

︵許

更生

詩序

︶や

れた﹁詩序﹂の中に︑

﹁余性山水を好み︑毎に四

是れを舎きては詩無し︒﹂

︵顧伊人詩序︶などの発言 亦た知るに易からず︑

︵呉

門晶

和詩

序︶

は良辰吉日に如かず︑獨坐焚香啜老は高朋勝友と鰍を飛ばし痛飲するの勧暢を為すに如かぎるなり︒是に於て︑

分韻刻燭︑奇を争ひ捷を闘ひ︑豪気狂オ︑高懐深致︑錯出して並び兄わるれば︑其の詩必ず観るべ苔有らん︒

・・

・・

・・

江文

通言

へり

﹁僕本より恨人なり︒﹂と︒余無窮の恨有りて︑中に鬱積し︑多く之を詩に発す︒然れども 唱和するに人無くして︑戸を閉じて獨吟するのみ︒

この﹁序﹂では︑文と詩とを区別して︑緻密に述べられ︑詩については以前には王張しなかった︑その娯しみが述 べられている︒また詩は︑自分の﹁無窮の恨﹂の捌口としているが︑以前の調子の高い訂論ではなくなっているとい えよう︒詩についても︑錢謙益について学んだり︑自らも思索したあとが︑この頃すでに一六六

0

代 半 ば に 草 さ 能く知りて然る後能く作

﹁占

人の

作︑

がその例であり︑錢謙益の文学枇評を継承することが︑かなり顕著になるように思われる︒

﹁詩は作るに易からず︑

大抵学閻性情より出で︑

︵書虎丘詩巻後︶と述べることく︑花を愛し山水を愛した晩年の節荘には︑今論者か名付けて﹁景情合致

情と景と合して詩有り︒ ﹁余素より花を愛す︒﹂

廊瑚には廊闊の情景付り︑

り︒情真にして景真なれば︑従りて之を詠歌に形し︑其の詞必ず工みなり︒

この節荘の﹁景情合致論﹂は︑まさしく鍼謙益の﹁古の詩を為る者は︑必ず深情は内に薔積し︑奇遇は外に簿射す

蹄荘

の文

学思

想︵

藤井

(25)

詩章

序﹂

︵初

学集

巻三

十︱

‑︶

で述

べて

いる

如し︒華は人の威儀及び衣裳冠履の飾の如し︒ る有り︑;・・・・面して其の詩も亦たエみならざるを得ず︒﹂︵

華間

修詩

草序

奇工濃淡︑萬有して齊しからざるも︑要するに其の中を空しくして腹に満ち︑隙に遇うて発現するは則ち一なり︒﹂

初学集巻三十二︶や﹁詩なる者は志の之く所なり︒性霊を陶冶し︑景物に流連して︑各ミ其の言はんと

欲する所の者を言ふのみ︒﹂

︵疱

璽卿

訪集

初学集巻三十一︶に操るのではないかと考えられる︒ここに列學した錢謙

益の詩論を踏まえて︑婦荘は端的に﹁情と景と合して訪有り︒﹂と主張したのである︒また︑蹄荘は詩について次の 余昔つて託を論じて︑氣・格・聟・華︑四者︱つを餓けは不可なりと︒之れを人に詈へば︑氣は猶ほ人の氣のご

とく︑人の頼りて以て生くる所の者なり︑一肢員かざれば則ち死肌と成り︑全蟄貫かざれは︑形神離る︒格は人

の五官四盟の如し︒定位有りて︑易ふべからず︑位を易ふれば則ち人に非ず︒竪は人の音吐及び奇瑣居璃の節の

巻二

十︶

ことく︑論じている︒

︵虞

山詩

約序

︵玉

山詩

集序

初学

策登

三十

二︶

ここでは︑詩を人に疇言えて蹄荘は論じるが︑その論腺の発想も錢謙益の詞論に存するようてある︒鈍氏は﹁部幼青

く︑古に﹁詩人は︑其の訪を人にせすして︑其の人を詩にす﹂と云ふ者は何ぞや︒具の詩を人にすれば︑則

ち其の人と其の詩と二なり︒

. . . . . .  

其の人を詩にすれば︑則ち其の人の性情︑詩なり︒形状︑詩なり︒衣冠笑語︑

︵梅

仙族

孫詩

有学

集巻

二十

一として詩に非ざるは無苔なり︒

蹄荘は︑錢氏のこの主張や︑﹁文章饗律は︑文人志士の雲氣なり︒﹂

の篇章磐律︑奇正濃淡有るは︑皆な其の髄婉なり︒氣有り︒心識に含蔵し︑行墨に涌見す︒﹂︵黄庭表忍奄詩序 ﹁以為へらく詩

に見える錢氏の﹁氣﹂の論を念頭に麗いていたのではないか︒錦荘の詩論には︑錢謙益を継承する部分が認 められ︑それは以前の載道主義に沿った文学の主張から︑晩年の﹁尋花日記﹂など﹁花の文学﹂の作者として︑より

有学

﹁以謂へらく古人の詩は︑

108 

(26)

蹄荘

の文

学思

想︵

藤井

ここで再び︑蹄荘は﹁詩窮而後エ﹂を引いて︑裟謙益に擬りながらも︑呉偉業こそまさにその﹁験﹂であるとして いる︒蹄荘が再三にわたり欧間修の﹁詩窮而後エ﹂の語を引くのは︱つには青年時代からの載道主義的文学観に もよるが︑さらには︑この﹁詩窮而後エ﹂を引用して︑その師餞謙盆が主張する﹁詩には不均衡なカオスの成果てあ

生﹃とする考え方を継承したからであろう︒ 言今に至るまで尤も験あり︒

︵王

異公

詩序

文人的な柔軟な文学の主張をするように変化する︒その点は︑婦荘が苧した詩文の実作の上でも検証で苔ることで︑

次の機会で論じたいと思う︒

最後に︑呉偉業に対する錢謙益と蹄荘の評価がほとんど一致すること︑おそらくはその呉偉業評価も蹄荘が継承し

ている点について述べる︒錢謙益は﹁呉梅村先生詩集序﹂

( 18 )  

の詩論の結論﹂とみなされる詩論を開陳している︒また蹄荘は︑錢謙益の死後︑

に歿し︑能<其の路に由り︑其の域を賤み︑其の祖を拓く者︑惟だ我が梅村先生のみ︒﹂

言してはばからないのも︑節荘が直接その師錢氏から呉偉業の評価を承受したからにほかならない︒

詩の這言ひ難し︒・・・・・・大抵常を厭ふ者は異を立つるを取り︑後起の者は前人を排し︑終に定論なし︒近世鈍宗伯

始めて之れが釣めに榛芥を除ぎ︑痙の寅を塞ぐ︒然る後詩家始めて王道に趨き︑之れを大雅に還すを知れり︒而 して呉司成︵偲業︶又其の矯柾過正なるを慮り︑復た従りて之れを折衷し︑後の詩を論ずる者︑易ふ能はざるな

0 0 0 0 0 0 0 0 0  

り ︒

. . . . .  

又嘗つて宗伯に司成の緒論を聞けり︑

有り︒七律時に劉随州に似る︒ ︵有学襲器十七︶において︑只偉業の詩を高く評価し︑

﹁虞山︵錢謙箆︶既

[是に於いて下筆千言︑珠磯鉛落せり︒五言長篇︑白太停に類る

七古綺麗流美にして︑往往初居に入らんと欲す︒所謂各ミ一派を宗とし︑争ひて 一説を持する者に於いて︑殆ど其の長を兼ねて其の病無く︑居然として風雅の名家たり︒﹂と︒昌黎.慮陵の詩 を論じて︑以為へらく﹁窮して而して後エみなり︒﹂と︒菟し獨だ歪東野・蘇子美の輩のみ然りと為さず︑其の

︵呉

梅村

先生

六十

誓序

と柊 呉偉業に対して

﹁ 錢

(27)

の影響が色濃く認められるのである︒そして︑帰荘はその影幌によって︑前半生の載道主義の直線的文学観から︑後 半生において﹁花の文学﹂のごとく︑より多彩多様な文学創作をするに至り︑その面でも高く評価されることになる

( 20 )  

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 (清代名人俸略一九四三︶四二七頁︒

(2

)

﹃斃荘集﹄上・下︵新華書店上海発行所一九六二︶の冒頭に付す中華書局上海編輯所の﹁出版説明﹂︒

(3

) 顧炎武﹃日知録﹄巻十九﹁文人之多﹂中に引く宋の劉摯の語︒

(4

) 顧炎武﹃日知録﹄巻十九﹁文須有盆於天下﹂︒

以上要するに︑

︵錢謙盆﹁四定遠詩序﹂初学集巻三十二︶工みなるは︑其の理然るなり︒

まさしく呉偉業は︑明朝が北京て滅んだとき臣節を全うせんとして死を謀ったが果さず︑明清鼎革の後︑迫られて 出仕し弐臣となったわずか二年を︑生算の過誤として︑憂悶の中で︑滅亡した先朝を哀しみ︑帰らぬ過去に傷心しな の師弟共ミみなしたのである︒先に引用した蹄荘の呉偉業についての評価は︑まさしく錢謙益からの師承であるとい

えよ

う︒

﹁罰有光全集﹂の刊行亭業の継承のみならず︑蹄荘の文学思想とりわけその詩論に於いて︑錢謙釜

がら︑詩作し死んで逝った詩人なのてある︒明清鼎革の際に︑

﹁詩窮而後エ﹂の典型的詩人であると︑錢謙益と節荘

して訪人は以て喜びと為す︒故に曰く︑ ぱ︑詩人の畏るる所︒人の憎む所は︑詩人の愛する所︒人は警めて而して詩人は以て憂ひと為し︑人は怒りて而 ら喩らぎる者有りて、然る後に其の人始めて能<詩を為る。而して之れを為りて必ずLみなり。;…•人の趨く所 古の詩を為る者は︑必す獨至の性︑労出の情︑偏詣の学︑輪困偏塞︑偲養排界︑人は解する能はず︑己すら自か

﹁詩は窮して後にエみなり﹂と︒詩の必ず窮し︑而して之を窮して必ず

110 

(28)

(9 )

岩城秀夫氏著﹃中國戯曲演劇研究﹄六五頁︒

( 1 0 )

吉川幸次郎﹁錢謙盆と清朝鍔學﹂︒

( 1 1 )

同治元年版︵蛍修︶﹃蘇州府志﹄巻九十四︒

( 1 2 )

また錢謙盆は﹁際文休七十序﹂︵初忠集巻四十︶も草した︒

( 1 3 )

部之誠撰﹃清詩紀事初編﹄上・下冊︵中華書局香港分局︶巻一︒

( 1 4 )

趙癌達編輯﹁陀玄恭先生生年譜﹂︵ご鍔荘集﹄附録︶に腺る︒

( 1 5 )

佐藤一郎氏﹁飼有光の系譜﹂︵芸文研究︱

1 0 )

( 1 6 )

節震川集の定本としては︑四部叢刊本が挙げられるか︑ここては香港廣智害局出版﹃飼震川全集﹄の単行本を例として翠

げた︒これも︑巻頭に﹁明史文苑他﹂を附してはいるが︑四部叢刊本を襲っている︒ただ︑叢刊本では錢謙盆の﹁凡例一

﹂を序として掲げ︑蹄荘の﹁凡例二﹂は﹁凡例五則﹂の題目て列挙する︒

( 1 7 )

拙稿﹁顧炎武の詩における孤高の形象﹂︵日本中國學會報第三十二集︶を参照されたい︒

( 1 8 )

吉川幸次郎﹁文學批評家としての錢謙盆﹂︵中國文學報第三十一冊︶︒

( 1 9 )

同前︒吉川氏は︑﹁この理論は︑中屈の批評家の中にしばしば見えるものではない︒﹂と指摘する︒

( 2 0 )

例えば朱安・玩元名編﹃日記文學甲選﹄・﹃宋元明日記選﹄︵太平洋薩吾公司一九五七︶には院荘﹁尋花日記﹂とし

て︑﹁看牡丹記﹂・﹁尋菊記﹂・﹁省寒花記﹂が選せられている︒

聾荘の詩文の引用は︑﹃飩荘隻﹄上・下︵新華書店上海発行所一九六二︶︑錢謙盆の引用は四部叢刊本﹃牧齋初睾鉗﹄

・﹃牧齋有學集﹄に拇る︒

錦荘の文学思想︵藤井︶ ※ 

(5

)

管見の及ぶところ︑鈴木虎雄﹁箆元恭の萬古愁曲﹂︵﹃支那文学研究﹄所収︶をみるだけである︒

(6

)

謝国禎氏著﹃明清之際党社運動考﹄︵台湾商務印書館人人文庫版︶一六三頁に擦る︒

(7

)

朱葬葬輯﹃明詩綜﹄巻七六︒

(8

)

錢謙盆については︑吉川幸次郎﹁錢謙盆と東林﹂︵日本中國学會報第十一棠︶・﹁居士としての錢謙盆﹂︵福井博士頌壽

記念東祥思想論集︶・﹁錢謙盆と消朝癌学﹂︵京都大学文学部研究紀要九︑以上いずれも﹃吉川幸次郎全集﹄第十六巻所

収︶.﹁文學批評家としての錢謙益﹂︵中國文學報第三十一冊︶と青木正児﹃清代文學評論史﹄第一章清初の反擬古運動

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