九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
「贈与論」への道
内藤, 莞爾
立正大学
https://doi.org/10.15017/2236711
出版情報:九州人類学会報. 17, pp.21-32, 1989-10-23. 九州人類学研究会 バージョン:
権利関係:
「 贈 与 論 」 へ の 道
内 藤 莞 爾
はじめに
「贈与論」がモースの最大傑作であることは、こんにち異論はないであろう。ただ彼の知的生涯に おけるこの論文の位筐づけということになると、その見解は大きく 二つに分かれてくる。カズヌーヴ は、これを〈 aboutir〉と〈 sortir〉という言葉で表現しているが、° つまり「贈与論」をモース の到達点とする見方と、反対に出発点とする見方のことである。ところであとの見方、すなわち出発 点とする見方のほうであるが、これも確かに説得的なものをもっている。しかしこの方面における実 績は、そう高く評価することはできない。極言すれば出発しただけで、彼自身の実績は、きわめてと ぼしい。こうしたわけで本章は、いちおう到達点という見方に立って、この論文の形成過程をたどっ てみることにしたい。もっとも彼は、 「贈与論」を世に問うたあと、少なくとも15年間は知的活動を 展開した。そして出発点とする見方は、この15年間に注目するのであるが、このことは、当然、到達 点とする見方のはうにはね返ってくる。つまり到達点といっても、彼の知的生涯を展望したとき、そ れは絶対的な到達点ではなかった、ということである。
それはともかく、以上のように整理すると、 「贈与論」を出発点とする見方は、本稿の対象にはな らない。しかし方向だけをしめすと、これは次のように区別されるであろう。異説もあろうけれども、
この方向は 3つに分かれる。第1は現象学的方向であって、その代表はギュルヴィッチの多元論であ る。ここではモースの〈全体的人間〉 (homme total) が取りあげられる。すなわち生理・心理
・ 社会の統合としての全体的人間は、ギュルヴ•イッチの 〈深さの社会学〉 (sociologie en pro‑
fondeur)と社会的現実の〈屈位〉 (paliers)に対応してくる。第2は構造主義であって、これ はいうまでもなくレヴィ =ストロースによって主張された。ここで彼がモースから学んだのは、〈全体 的社会事実〉 (faits sociaux totaux)にしめされるシステムの観念、交換に現われる意味体系 と置換 (permutation)、さらに数学的方式の発想であった。第3は実存主義であるが、その代表 者としてギュスドルフを取るならば、 「贈与論」は、〈交換〉 (echange)が〈存在〉(etre) と
〈所有 〉(avoi r)とを媒介して、人間存在に迫っているといえる。
ただこのあたり、私の理解は低いレベルにとどまっている。しかしいちおう以上にとどめて、 「贈 与論」の形成過程に移ることにしたい。ただそのまえに、このさいモースの自覚が問われるであろう。
というのは彼自身、この「贈与論」を到達点とする自党、言い換えるとライフ・ワークと考えていた か、ということである。しかしこの点になると、かなり疑問とせざるをえない。彼がこの論文を発表 したのは 1925年、 53歳のときであった。年齢的には、ライフ・ワークの条件を備えているといえ る。が、彼自身はそうは言っていない。彼は 「贈与論」の結びのところで、この研究は思いつきの2、
3を挙げただけのことだ、さらに言えば、歴史家や民族誌家に問題を提起しただけのことだ、と述べ ているからである。もっともこうした謙遜の辞は、彼の癖でもあるので、この告白にそうこだわる必 要はないであろう。では「贈与論」以後、彼に続編の用意があったか。となるとわれわれは、あまり 実績を認めることができない。
ルークスの分析によると、 「贈与論」以後のモースの著作は、 2つに区別される。2) ひとつは民族
[誌]学的研究、 もうひとつは方法論的 ・ 計画書的 (programmatic) 研究である。まず民族 l}~J 学的研究のほうであるが、むろん彼には野外調査の経験はないので、この方面の研究も文献に終始し ている。そしてこの中には、死後の論集「社会学と人類学』 ll(l950)に収めた「死の集合表象」4)
(1926)や「身体技術」5>(1935)など、〈全体性〉を裏づける論文が含まれている。 しかし贈
与や交換とは結びついてこない。わずかに「冗談関係」6l(I 9 2 6)が、交換論とすれちがう程度であ る。次に方法論的・計画書的研究であるが、これには 2種のものが含まれる。ひとつは、いまも述べ た出発点としての諸研究であって、これはデュルケムの社会学主義の自由化ないし近代理論化を目指 しての作業とみることかできる。もうひとつは、一般社会学を中心とした、デュルケムの社会学体系 の改造である。この場合、前者は交換論の "sophis tic a tion"後者は交換論の受皿づくりという意 味はあろうが、交換や贈与はナマの形では登場してこない。したがってモースに「贈与論」の続編を 出す用意かあったかどうか。これは推測の域を出ない。しかし成果が挙がっていないことは、事実と しなくてはならない。なるほど彼は「贈与論」以後、コレージュ・ド ・フランスの教授に任命されて、
名実ともにアカデミズムの権威者となった。しかしその学的生命は、第2次世界大戦、とりわけドイ ツ軍のパリ占領とともに奪われることになった。ユダヤ人なるがゆえの不条理な運命である。だから 続編の用意があっても、そこには時間的な制約があった。そのようにも考えられる。
1 ボトラッチ研究
こうしたわけで、モースの知的生涯における「
i
曽与論」の位置づけについては、なお問題を残して いる。けれども前節の整理にしたがって、 「贈与論」の形成過程をたどることにしたい。ところでこ こでは、概念的に2つの道が区別される。ひとつは F贈与論」に理論を提供した道、もうひとつは汽 料を提供した道である。ただ彼の学風は、なによりも〈具体性 〉を重視している。 1930年の待項己 では、自分は事実以外は信じないと公言しているし、また一般社会学 (sociologiegenerale)も、 社会学の理論部門どころか、デュルケムの立場をさ らに徹底させて、 「記述的一般社会学」 (socio‑logie generale descriptive)と書き改められた。7) だから理論的発言も、いつも事実とともに なされ、したがって文献としては理論路線と資料路線の区別は困難になってくる。ただ概念的に区別 した場合、理論路線とは、結局、全体的社会事実と一般社会学への道ということになるであろう。な おこの道をたどる過程で、彼が専攻した宗教が機能してくるが、これは本章後半の記述で明らかであ ろう。次に資料路線であるが、これはさらに民俗誌の資料と歴史の資料とに分かれる。ただ彼にあっ ては、この2つは〈古制社会〉 (societe archaique)という立場に収欽されることになる。
そこで理論と資料の複合を〈テーマ〉という言葉で一括した場合、 「贈与論」はポトラッチ (pot‑
latch)研究の拡大として捉えることができるであろう。ポトラッチは、北アメリカの北東部に住む ィンディアン諸部族がおこなう祭礼である。このときには盛大な儀式も営まれるが、この機会は同時 に饗宴・定期市・取引きの場ともなる。そして特徴的なのは、このポトラッチに参加する諸団体のあ いだで、競争と敵対がみられることであろう。具体的には、このさい張りあって、贈物がなされる。
まことに無駄な消費であるが、あげくの果てには、それが自分たちのもつ貴匝品を破壊してみせるこ とにまで発展する。とともに諸団体の首長たちは、この張りあいをとおして、おのれの地位を内外に
誇示しようとする。モースがこのボトラッチを〈競覇的〉 (agonistiq ue) な全体的給付と呼んだ のは、こうした点に注目したからである。
ところでポトラッチの研究は、前世紀の末、ボアスを中心としたアメリカの民族学者たちによって 進められた。とくにジェサップ探検隊 (Jesup North Pacific Expedition)は、この研究に大 きな収穫をもたらした。そこでデュルケム学派も、これらの報告害を利用するのであるが、ただこの 方面に関係したのはモースだけではない。デュルケムもダヴィもこの現象に注目した。しかしデュル ケムはこの特殊慣行にトーテミズムを、ダヴィは契約の原初形態を、そしてモースは給付の一形態を 見出そうとした。つまり 3人はそれぞれポトラッチの注目点がちがっていた。いずれもこの慣行の複 合的性格を承認しながらも、デュルケムはその宗教的側面、ダヴィは法的側面,モースは交換的側面 からアプローチしたわけである。この慣行が宗教 ・法・政治・経済・芸術などの意味を同時に含んで いることは、 3人の共通的理解であった。そしてモースの〈全体的社会事実〉の概念も、ここに胚胎 したといわれる。もっともダヴィによると~)この観念はモースだけの特殊財産ではない。彼がデュル ケムの生誕百年に寄せた回想録をみると、デュルケムとモースがポアスの文献を調べているとき、たまた まこのアイディアに到達した。しかし戦略的武器としたのはモースだった`と記しているからである。
そこでモースは、結局、ポトラッチを給付の交換として捉えるのであるが、しかし〈給付〉 (pres‑
tation) という観念そのものは、どうやら彼の発明ではないらしい。ファースの指摘によると、9)
これはロバ_トソン=スミスに出るというが、これはおそらく彼の『セム族の宗教』IO)(1885)を指 すものと思われる。なおビュヒャ ーに出るという説もあるけれども、まだ確認を得ていない。もっと もこの語を学術用語として定着させたのは、モースとみることができる。たとえばマリノフスキーは、
その最後のモノグラフ 「珊瑚礁の庭園とその呪術jlll(}935)で、この〈給付〉を起用しており、ま たラドクリフ=プラウンも、晩年の「アフリカの親族および婚姻の組織J12l(l950)で、これを採用 している。いずれも「贈与論」以後の著作である。そこでモースの〈給付〉であるが、管見のかぎり では、これは高等研究院の「年次報告J(Annuaire)の1910‑11年がはじめである。そしてこ れは翌年の 「年次報告
J
でも同様で、いずれもポトラッチの研究に関する報告である。もっともこの 両年度では、 「宗教的 ・法的 ・経済的給付」 (prestation religieuse, juridique et econo‑mique)と、給付の内容が列記されているにすぎない。そこで問題の〈全体的給付〉 (presta tions totaux)である。 これは「贈与論」における〈全体的社会事実〉と同じであって、同懲の序文でこ れが説明されている。けれども用語そのものは、これにさきだつ「ポトラッチのメラネシアヘの拡大」1al
(1920)と 「トラキア人における古い契約形態」14>(19 21)に登場してくる。もっとも「ポトラッ チのメラネシアヘの拡大」をみると、〈全体的給付〉は、それ以前に提唱したと述べているので、そ うなると第一次大戦以前のことになるわけである。
2 エスキモーの社会形態学
さきに述べたように、ポトラッチそのものは、北アメリカのインディアンたちの特殊慣行である。
〈ポトラッチ〉という言葉も、チヌーク族 (chinook)に出るとされている。 ところがモースによ ると、ポトラッチ類似のものは、歴史的にはインド=ヨーロッパ系、ヒンズー、ゲルマン、ケルト、
中国の古い慣行や法典に見出される。また地域的には、メラネヽンア、ポリネシアその他にも存在して
いる。というわけで彼は、このポトラッチの拡大または普通名詞化を企てるのであるが、これについ てはのちに触れることにする。そこでこのさいポトラッチ研究から分岐したものとして、彼のおこな ったエスキモー社会の研究を挙げることにしたい。プーシャの協力で纏めた「エスキモー社会の季節 的変異」1沢 1906)がそれである。従来この論文は、2つの点から注目されてきた。ひとつは社会形 態学の立場である。デュルケムの社会学では、社会形態学は社会生理学と並ぶ部門とされていたが、
ただ実証的研究による裏づけを欠いていた。それがこの論文で充たされた、というのである。もうひ とつは、実証的研究そのもののモデルとされていることである。 「たいせつなのは、多くの事実を集 めることではない。典型的であり、かつよく研究された事実を集めることである。」
J • s
・ミルに発する〈典型的事例〉による研究の有効性については、デュルケムも発言している。16)そしてモース は、このエスキモーの研究をこうした〈典型的〉な事例研究だとするのである。11)
ところでこの論文は、 「贈与論」からすれば、また2つの点が注目されるであろう。ひとつは、デ ュルケムとともに発見したとされる全体的社会事実の立場である。エスキモーは、夏と冬とでその生 活様式をまったく変えてしまう。いわゆる〈二重形態学〉 (double morphologie)である。 で はこの変化をどう捉えるか。そのひとつは生態学的な見方である。すなわち夏はトナカイ、冬はアザ ラシのように、彼らは獲物がちがってくる。さらにこの獲物のちがいは、気象の変化にもとづいてい る。これが生態学的な理解である。しかしモースによると、これらは条件にとどまっている。根本的 な理解は、社会形態学変化に求めなくてはならない。 具体的には、彼らは夏のあいだ、小家族ごとに
セツルメント
分散して、テント生活を営んでいる。これに対して、冬は宿営地に集まって、共同生活が展開される。
いわば夏の疎開、冬の集合である。そしてこのような形態学的変化にしたがって、社会生活の諸相が
カ シ ム
質的に変わる。夏のテン ト生活では、宗教はほとんど見られない。これが冬になると、集合所を場所 として、トーテム祭祀が開花する。夏の家族は夫婦単位の核家族、冬になるとクランが復活する。及 の獲物には、個人単位の所有権が認められるが、冬には、これが共同体単位となる。あげくの果ては、
いわゆる〈妻貸し〉という性的コミュニズムさえおこなわれる。なおここで観察されるのは、社会事 実がひとつの全体をなしていることであろう。それは、諸制度の総和以上の存在である。宗教・法・
家族等々の個別的な社会事実が、相互に関連したり、連鎖的に反応したりするなどではない。変動は 一挙に訪れる。ここでは諸現象が、宗教とか法とか家族とかに分かれているのではない。すべての現 象は、同時に宗教的・法的 ・家族的、さらに経済的 ・審美的でさえある。またそうなので、変動も社 会生活の全域に及ぶのである。
「贈与論」から注目される第2の点は、この論文が交換論への視野を用意したことであろう。エス キモーでは、年間をとおして、 2つの生活パターンが規則的に交替する。それは通時的な均衡である。
もちろんそれは、共時的な均衡である交換とは区別される。にもかかわらずこの2つの均衡は、いわ ばセットをなしている。〈補完性〉 (compensation)という、 さらに高次の立場からすれば、こ の2つは同じ変動のタイプに屈しているからである。ところで通時的な均衡、つまり交替性 (alter‑
nance)であるが、これを基調とした生活のリズムは、べつにエスキモーだけではない。きびしい都 市の生活は、バカンスを必要としてくる。農村でも、農繁期と農閑期とが規則的に交替する。いわば 緊張と弛緩の交替である。やや横道にそれるけれども、 1968年、カズヌーヴは、モースの哲学的な 側面を描こうとして、こう記している。JS)モースの研究領域の多様性、その論文の断片性、さらにこ
うした論文の所在が拡散していること、これらが原因して、彼の主要テーマがなんであるかは、まこ とに捉えにくい。しかしなお2つの方向づけが可能である。ひとつは社会的リズム (rythmesso‑
ciaux)ともいうべきもの、他は交換 (echanges)である。そしてこの2つは均衡 (equilibres) に収欽し、やがてレヴィ=ストロースの半ば数学的な均衡論をみちびいた、とするのである。
3 宗教の褐色
こうみた場合、エスキモーの研究は、 「贈与論」の形成にとって、かならずしも幹線道路ではない。
むしろバイパスとして、位置づけることができよう。にもかかわらずよく全体的社会事実と交換論と いう、
1 l l
曽与論」を支える理論的柱の構築に貢献した。こういうことができるであろう。けれども社会 形態学的アプローチは、モースにとって、かならずしも有利な立場ではなかった。というのも、ここ では社会生理学的事実が、社会形態学的事実によって説明されるからである。エスキモーの研究では、社会生理学的事実のうち、とくに宗教と法が社会形態学的事実によって規制されることになる。しか しこの主張は、デュルケム学派の宗教社会学とかならずしも調和的ではない。エスキモーの社会では、
夏は俗なる生活、冬は聖なる生活である。周知のようにデュルケム学派にとっては、 聖 と 俗 の 別 は
〈宗教〉のキイ概念であった。なるほど聖と俗の別は、形態学的事実から生まれたのではない。けれ ども夏の疎開は俗をみちびき、冬の集合は聖をみちびいてくる。デュルケムにとって、宗教はいわば
〈原文化〉であって、法・道徳をはじめ、ほとんどの文化は宗教に発した、とされている。ところが エスキモーの研究では、たとえ形成因ではないにしても、能力因として、社会形態学的事実を承認し たことになる。とくに宗教社会学を専攻したモースが、この不調和を意識しないはずがない。事実、
彼はエスキモーの研究以来、社会形態学については、ほとんど積極的に発言していない。またデュル ケム社会学全体の流れも、そうであった。つまり社会形態学に方法論的優位を与えながらも、実際に はこの部門は人文地理学と人口学とに解体して、社会学の領域から去っていくのである。
ではモースの専攻した〈宗教〉は、 「贈与論」において、どう生かされているであろうか。ただこ れに答えるには、その前にデュルケム学派の宗教社会学の性格が問題になるであろう。この学派では、
宗教は parexcellenceに社会事実として捉えられた。ところでこのような捉え方は、宗教社会学 の対象を教団その他の宗教集団から、宗教行為の体系へと移すことになる。トーテム、タプ_、供犠、
呪術等の儀礼や慣行がそれである。一言でいえば、文化としての宗教であって、これはデュルケムの 社会学が社会事実の学、すなわち行為・思惟・感受の様式の学であることから演繹される。当然の方 向であった。さてこの場合、宗教社会学の対象は、具体的には 2つに分かれる。ひとつは宗教行為の 体系、すなわち宗教事実そのものの分析や分類がそれである。もうひとつは、宗教事実と他の社会事 実との関連がそれである。なおあとの場合うこの関連の捉え方に、 2つの視点が用意される。ひとつ は時系列的な視点、すなわち前後関係の追求、もうひとつは共時的な視点、すなわち機能的関係の追 求である。
ところでデュルケムか関心を寄せたのは、このうち時系列的な視点、具体的には宗教を原文化とす る、諸社会事実の時系列的な派生である。これについての発言は、初期の著作に散見しているが、象 徴的には『年報
J
の2号 (1899)の序文に見ることができる。Jg)それは「年報J
の分析欄(書評欄)で、宗教社会学を首位に誼いたことの理由を述べたものであるが、こう記している。この2号では、
創刊号と同様、宗教社会学を分析欄のはじめに置いた。これは宗教現象が、他のほとんどの現象の胚 芽だからである。宗教は、そのはじめから、それ自身のうちにあらゆる要素を含んでいた。こうした 要素は、宗教と不可分であったが、やがてそれ自身をはっきりさせてきた。…神話と伝承からは、科 学と詩が生まれた。宗教的装飾と祭祀儀礼からは、造型芸術が生まれた。儀式の諸慣行からは、法と 道徳が誕生した。親族組縦は、もともと宗教的紐帯として出発した。刑罰 ・契約 ・贈与・栄営は、賠 罪的 ・契約的 ・共同的・顕彰的供犠が変形したものである。このように彼にあっては、諸文化の時系 列的理解において、母なる宗教に最大の関心が払われた。さてこうなると、同じ宗教でも、その前後 関係が問われてくる。彼の場合、この前後関係の把握は充分でなかったが、代わって最も原始、最も 未開の宗教が追求される。「宗教生活の原初形態.fO>(I9 I 2)がそれであって、これは時系列的アプ
ローチの到達点としてよいであろう。
ところでデュルケムに師事したモースには、当然、この時系列的な視点が継承される。というより もモース自身が、その朧業生活をインド宗教史講座の助手として出発し、非文明民族の宗教史講座の 講師に転じた。時系列的な視点は、高等研究院における制度的要請でもあった。私は前段の終わりで、
デュルケムが刑罪 ・契約等の社会事実が、これらに見合った供犠から出たと述ぺたことを引用した。
しかしこの指摘は、モースが同号にユベールとの共同執策で載せた「供犠論」21>(1898)からの転用 である。また宗教が〈認識〉に先行することは、デュルケムとモースの共作「分類の未開形態」22) (
1903)にしめされる。オーストラリアの諸部族は、 トーテムにしたがって彼らの配箇を決める。そ してこの配四をモデルとして、方位 ・空間などの分類がなされる。 そこでは部族という〈社会〉が、
〈分類〉という認識の枠組を提供している。しかしこの〈社会〉は、 トーテミズムという宗教が表象 した社会にほかならない。というわけで、 認識社会学には、実は宗教社会学が先行する。「宗教生活 の原初形態
J
では、認識社会学はその序文に位置しているが、これも以上の論理的文脈によるもので ある。けれどもモースにあっては、その制度的要請にもかかわらず、時系列的な視点が後退して、代わっ て共時的な視点が前面に出てくる。とともに素材としても、固有の宗教事実に固執せずに、他の社会 事実が取りあげられるようになる。それはこれらの社会事実が宗教と共時的 ・機能的関連があるから である。なお時系列的なアプローチでは、宗教は当然、主導性を発揮する。これに対して共時的アプ ローチでは、宗教の社会的機能が問題となるので、いわゆる宗教色は薄められるようになる。そして
「贈与論」は、こうした宗教の褐色過程の所産とすることができるが、これについては本稿の終わり で述べることにしたい。もっとも彼について、この褐色過程をヴィヴィドに描くことはできない。し かしこの褐色か固有の宗教事実からの解放と関係するならば、カラディの次の発言は、かなり示唆的 なものとして聴くことができるであろう。たびたび述べたように、 1909年 、 モ ー ス は 未 完 の 論 文
「祈襦」を、限られた関係者に配布した。祈憐は、デュルケムがモ_スに勧めたテーマであり、モー ス自身も、これを学位論文にする意図をもっていた。しかしこの論文は、祈ネかの諸起源についての検 討にとどまって、続編はついに陽の目をみることがなかった。なお彼が固有の宗教事実を扱ったのは、
おそらくこれが最後であろう。そこでカラディは、この事実をモースの挫折、延いてはデュルケム学 派の宗教社会学の限界とみるのであるが、その要旨は次のようである。23)社会事実の外在性を説くこ の学派では、宗教もこれを外部からアプローチしていくことになる。それでモースは、祈福もこれを
〈口誦儀礼〉 (rite oral)として捉えるのであるが、ただ口誦儀礼のうち、祈褐は強く内面性を打 ち出している。あえていえば、一般の儀礼のような〈慣行〉 (pratiques)ではない。 むしろ〈信 仰〉 (croyances)であり、〈表象〉 (representations)である。 とすれば祈福を外部からア プローチすることには、その妥当性に疑義が生ずる。このあたりをカラディはモースの挫折、デュル ケム学派の宗教社会学の限界とみたわけである。
なお時系列的アプローチの後退、共時的アプローチの前進は、彼が好んで用いた〈古制的〉 (ar‑ chaiq ue)の概念にもしめされるであろう。 「贈与論」も、その副題は 「古制社会における交換の諸 形態と諸理由」である。 「古制社会」 (societes archaiques)は、デュルケムのいう「環境的社 会」 (societes segmentaires)にほぼ相当するが、彼はその発展段階にはあまり関心がない。古 制社会には、現存の未開民族も、歴史上の原始・先史・古典民族も、またときとして封建社会も含ま れる。それは歴史概念というよりも、むしろ類型概念である。 「アフリカの黒人社会は、タキトゥス の観察したゲルマーニアと同じ段階に存在している。」24) さらにいえば、それは操作概念とみること ができる。つまり古制社会は、これに参加する因子も少なく、その構成も簡単である。したがってそ こでは、事象を最も観察しやすい形で捉えることができる。この意味では、近代社会すなわち統合的 社会 (societesintegrees)を解析する実験室をなすわけである。
ところで私は、さきにエスキモーの社会形態学が交換論の視野を用意したと述べた。しかし交換そ のものへの注目は、エスキモー研究にさきだつ「供犠論」にすでにみることができる。 「供犠論」は、 モースの処女論文なのでこの点からすれば、交換は彼の当初からの視点だったことになるであろう。
もともと「供犠論」は、動機としてはロバートソン=スミスの所説に対する批判として提出された。
ロバートソン=スミスは、供犠の意義を次のように考えた。すなわちこの儀礼では、神と人びととが、
神と同一視される犠牲(動物)をともに食べる(共餐説)。 そしてこのことによって、神と人との合 ーがなる、とするのである。ところかモースの見方は、もっと現実的である。すなわち信者は神に犠 牲を捧げてその影に隠れる。つまりこれによって、聖なるものの強い作用を避けようとする。要する に供儀という給付に対して、その反対給付を期待する。彼はこれを「買い戻し」 (racha t) と呼ん で、供犠を神と人との取引きと解するのである。25)取引きであるかぎり、この交換が俗なるものであ ることは否定できない。ただこの俗は、供犠といわれる固有の宗教事実に則して観察される。いわば 聖に埋めこまれた俗ということになる。
しかし後半生の共時的・機能的アプローチになると、この聖と俗の立場が逆転する。ここでは聖す なわち宗教は、俗なるものに宿る力として、あるいは俗なる行為の動機づけとして機能してくる。
1914年、彼は「貨幣観念の起源」26)を書いたが、ここでは貨幣の宗教的象徴性が論じられている。
具体的には、メラネシアの通貨は、その材質が宝貝であろうと水晶であろうと、呪術・宗教的な力を 宿している、という指摘である。なおここでは護符も通貨として利用され、これは貨幣の呪術・宗教 的な力を端的に物語っている。この力は、デュルケムも指摘しているマナ (mana)である。という わけで交易も、実は聖物を媒介としての交換ということになる。いや貨幣だけではない。すべてのも のが、こうした聖なる力を保有している。そして〈全体的給付〉 (prestations totaux) という
「贈与論」の指導概念となったものの実体も、根本的にはこの力に拠っている。全体的給付の大きな
特徴は、財が義務的に贈られ、義務的に受け取られ、義務的にお返しのおこなわれる点に求められる。
すなわち〈 obligation de donner, de recevoir et de rendre〉という義務のセットによっ てしめされる。そして聖なる力は、最後のお返し、つまり交換を促す力として作用する。モースは、
ニュージーランドのマオリ族 (Maori)の〈ハウ〉 (hau)を引いて説明するのであるが、このハ ゥは、マナと同じく、半ば物理的、半ば精神的な力である。すなわち贈った財にはハウが宿っている。
ところがこのハウは、もとの持主のところに戻ろうとする。戻れないときは、ハウは受贈者に害を加 える。お返しが義務的になされるゆえんである。こうモースは説明する。レヴィ=ストロースによれ ば、交換は、外婚制における女性の交換のように、構造必然的におこなわれる。27)したがってモース のような動機論は、比喩以上の意味をもたない。けれどもモースの理論構成では、この動機論を消し 去ることができない。贈物は自発的 ・任意的になされても、その裏では義務的・強制的なお返しを求 めている。ポトラッチは、気前のよさを看板としながらも、実は相手を圧倒し、おのれの権力を誇示 することを狙っている。贈与のもつこの両義性は、大きくモースの関心の的となった。 「贈与論」の 出た前年、彼は「Gift, gift」23>(1924)を書いた。これは〈 gift〉や〈 Gabe〉という言葉が、
同時に〈毒〉の意味をもち、贈与の両義性を言葉のうえで確かめようとしたものである。
4 「贈与論」の実現
「贈与論」における宗教の役割については、いちおう以上にとどめて、この論文のスタート台にな ったポトラッチのことに戻りたい。ただここでは故地の北西アメリカを離れて、その拡大が問題にな ってくる。言い換えれば、〈ポトラッチ〉の普通名詞化である。具体的には、ポトラッチ類似の慣行 は、ひろく古制社会に見出されること、そしてこの慣行に対する定義の付与がそれである。まえにも 触れたが、モースは 1920年、 「ポトラッチのメラネシアヘの拡大」という短文を発表した。ここで 彼は、この拡大を裏づける資料として、ソロモン群島、フィージー、 ニューカレドニア、バンクス島 などの調査記録を挙げるとともに、ポトラッチの一般的性格を、 (1)その著しい消費性、 (2)クランのあ いだで同意された利子つきの貸借、 (3坪和的契約であると同時にそこでしめされる競覇性によって定 義している。ところがその翌々年、ポトラッチのメラネシア版というか、むしろポトラッチの大型版 ともいうべきモノグラフが報告された。マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者J29)(1922)が それである。ニューギニアの東部の島々で展開されるクラ (kula)と呼ばれる大ポトラッチである。
あるいは大ロマンといったほうがふさわしい。ここではウミギクの首飾りと貝の腕輪とが、ゆるやか に島々のあいだを周流する。首飾りと腕輪は、逆の方向で島々を巡る。そしてこの周流と並行して、
贈与の交換、招宴・交易がさかんにおこなわれる。なおここでも平和的な容相の影に、競覇性の潜ん でいるのがみられる。
そこで次のように考えられる。なるほどモースは、断続的ながら「贈与論」の準備に 20年以上を ついやした。これは無視することができない。ただたとえ未完であっても、彼が「贈与論」を否こう とした刺激は、マリノフスキーのこのモノグラフによって与えられた。カラディもまたマリノフスキ ーを、 「贈与論」の〈 inspira teurs〉の 1人に挙げている。しかしマリノフスキーが与えた刺激は、
このメラネシア版ポトラッチの資料提供者としてのそればかりではない。〈互酬性〉 (reciproci te) の概念も、おそらくマリノフスキーから得たものと思われる。検索のかぎりでは、モースの西酬内性〉
は、 「贈与論」がその初見である。ところで〈互酬性の原理〉 (principle of reciprocity)は、 マリノフスキーにとって、そのキイ概念をなしている。30)彼の互酬性は、社会構成の内部的均衡を維 持するために、部分が義務的・自発的におこなう交換を指している。そしてクラは、その好例だとす るのである。さてこの互酬性は、ほとんど無修正で、モースの全体的給付に妥当する。彼は全体的給 付の特徴を、(I)この型の給付は、 集団と集団のあいだでおこなわれる、 (2蛤付=交換の対象は、経済 的な財にかぎらず、饗宴・儀礼・奉仕・挨拶・女性等々の全体にわたる、 (3)(これは前述したが)給 付=交換は義務的になされる、この3点である。互酬性との誤差は、たとえあったにしても、きわめ て僅少だといってよいであろう。なお「西太平洋の遠洋航海者」の出た 1922年には、ラドクリフ=
プラウンの「アンダマン島民』3!)が刊行されて、マリノフスキーと並んで、イギリスの機能主義人類 学の両大輪が開花した。 「贈与論」には、アンダマン島の競覇的交換も引用されている。ただラドク リフ=プラウンのモースに対する刺激は、 「贈与論」に関するかぎり、マリノフスキーほどではなか ったように見受けられる。
おわりに
多少の問題を残しながらも、以上のように 「贈与論」の形成の跡をたどってみた。 要約すれば、私 は「贈与論」をポトラッチ研究の拡大と考える。そしてその理論も資料も、この研究を進めていく過 程で、次第に整備・集積されていった。すなわちこのポトラッチの研究が通時的には歴史路線、共時 的には民族誌路線を経て、北西アメリカのインディアンの特殊慣行から通文化的な一般慣行への脱皮 が企図される。つまりポトラッチの普通名詞化である。ただそれにもかかわらずこの「贈与論」は、
〈交換論〉 (exchange theory)という一般理論からは、なお遠く隔っている。 このことに留意 しなくてはならない。この論文は、なによりも全体的給付を論じている。しかもこの全体的給付のう ち、競覇型といわれるタイプを扱ったにすぎない。さらにこうした競覇型の全体的給付は、彼のいう 古制社会を発生の基盤としている。だから本来、特殊理論とみなくてはならない。しかし古制社会は 現代社会にも厳存しており、したがってモースは、 「贈与論」は現代社会にも生きていると主張する。
となるとそれは特殊理論でありながら、 一般理論へと方向づけられている。そういうこともできるで あろう。レヴィ =ストロースが挙げているが、32)クリスマスのときの贈物は、現代のポトラッチであ る。まったくお義理のレセプションも、堂々と横行している。またヴェプレンは、有閑階級の消費型 として〈誇示的消費〉 (conspicuous consumption)を指摘している。33) これはポトラッチの とき、首長が貴童品を焼いたり毀したりして、来客を圧倒することを思わせる。有閑階級ばかりでは ない。一般の市民も、プランド・イメージやストアー・イメージといった、非合理的な消費指向を堅持 している。裏がえしてみれば、ホモ ・エコノミクスなどは、おそらく未来の人間像にすぎない。モー スは、こう言うのである。
なおポトラッチ研究から分岐して、結果として「贈与論」を支えることになったものとして、私は
「エスキモー社会の季節的変異」を挙げておいた。この社会形態学的研究は、宗教社会学との矛盾を はらみながらも、全体的社会事実と交替=均衡=交換論といった、むしろ理論的な面で「贈与論」を 準備したように考えてみた。さらに宗教社会学であるが、モースにあっては、デュルケムの通時的・
発生論的な立場が後退して、共時的・機能論的な立場が前面に出てくる。これにしたがって独立変数
としての宗教も、これが後退を余儀なくされてくる。こうした宗教の褐色が、モースの研究対象を純 宗教的現象から他に移行させる。やがてそれが交換現象に集中するようになった。ただそれにもかか わらず、行動の動機づけとしては、マナに発する呪術・宗教的な要素が強力に作用していた。このよ
うに私は、 「贈与論」の形成過程をたどってみた。
ということになると、この形成過程はいかにも坦々とした大道のようにみえる。ところがそうでは ない。そこには私の解釈が介入している。このことは、率直に認めなければならない。私は別の機会 にカラディのことばを引いて、モースの論文が全体として断片的・未完的 ・湧出的であることを述べ ておいた。こうした性格は、当然、 「贈与論」の内容にも投影されているし、その形成過程にも現わ れている。この過程をもし〈道〉にたとえるならば、道そのものがかなりたどたどしい。いやところ どころが途切れている印象さえ受ける。多少ともショート・カットし、拡幅・舗装しなくてはならな い。ただこうした加工が、果たしてモースの真意にどの程度、近づいたか。これは大方の批判に侯た なくてはならない。
匡i
1) Cazeneuve, J., Socio↓ o̲qie de Marcet Mau.ss, 1968, p. 95.
2) Lukes, S. Marcel Mauss (lnternationat Encyclopedia of tんeSoeiat Sciences, vol.10. p.79.
3) Mauss, M., Sociotogie et antんropologie, 1950,
有地亨、伊藤昌司、山口俊夫共訳「社会学と人類学』 I、II、1973 76
。
4) Mauss, M, Effet physique chez I'individu de l'idee de mort suggeree par collecti vi託 (Jou.rnatde psycんoto̲qie, XXIII, 1926, pp.653‑669). 内藤莞爾訳、 R・エ ルツ、M・モース
r
死の民族学」1972。有地その他訳r
社会学と人類学JII、43‑72頁。 5) Mauss, M, Les techniques du corps (Jou.mat de psycんoto̲qie, XXXII, 1935,pp. 271‑293). 『社会学と人類学』 II、121‑156頁。
6) Mauss, M, Parente
a
plaisanterie (Annu.aire de l'Ecote pratiqu.e desんau.tes Jtu.des, Section des sciences religieuses, 1926; Mauss, M., Essai de socio↓ o̲qi e, 1968, pp. 141‑161.7) Mauss, M., Fragment d'un plan de sociologie generale descriptive (An叫 es socioto̲qiqu.es, serie A, fascicule I, 1934, pp.1‑56); au.vres 3, pp. 302‑354).
8) Davy, G, in Memorium Emile Durkheim (L'Annee, 3 serie, 1957‑1958, vii‑x). 9) Firth, R .. The Place of Malinowski in the History of Economic Anthropo‑
logy (Firth, R., ed., Man and Cu.ttu.re, 1657, p. 222).
10) Robertson‑Smith, W., Lectu.res on tんeReti̲qi on of tんeSemites, 1889. 永橋卓介訳「セム族の宗教J前、後編、岩波文庫。
11) Malinowski, B., Coral Gardens and tんeirMagic, 1935.
12) Radcliffe‑Brown A. R. and Forde, D, ed., African Systems of Kinsんipand Marria̲qe, 1950, pp. I‑85.
13) Mauss, M., L'extension du potlach en Melanesie (L'Antんropotogie,30, pp. 396‑7; au.vres 3, pp。29‑31).
14) Mauss, M., Une forme ancienne de contrat chez les Thraces (Rヽvu.edes e tu.des grecqves, 34, pp. 388‑97; au.vres 3, pp, 35‑43).
15) Mauss, M. (avec la collaboration de Beuchat, H.) Essai sur les variations saisonieres des societes eskimos. Etude de morphologie sociale (L'Annee 9, pp. 39‑I32;Mauss, M., Sociotogie et antんropoto̲qie, 1966, pp. 389‑477), 宮本卓 也 訳『エスキモー社会 一 その季節的変異に関する社会形態的研究
J
、 1981。16) Durkkeim, E., Analyses de Steinmetz, S. R., Die neueren Forschungen zur Geschichte der mensch lichen Familie (L'Annee 4, pp.340‑1).
17) Mauss, M., Essai sur les variations ... , p, 41. なおこのエスキモーの研究が、モー スにとって、北アメリカ ・インディアンのポトラッチ研究の延長であることは、いうまでもない。
たとえばボアスは、アラスカ ・エスキモーの文化は、ポトラッチを含めて、他所からの借物だとす るが、モースはその独自性を主張している。
18) Cazeneuve, J., Mauss, 1968, p. 23. 19) L'Annee 2, i‑vi.
20) Durkheim, E., Les f ormu et ementaires de↓ a vie reti̲qieu.se, 1912. 古野清人 訳『宗教生活の原初形態』、上、下巻、岩波文庫。
21) Mauss, M. et Hubert, H., Essai sur la nature et la fonction du sacrifice (L'Annee 2, 1899, pp.29‑138; Mauss, M. et Hubert, H., Metan̲qes d'んistoires
des reti̲qions, 1909, pp. 1‑130; oeuvres 1, pp, 193‑307). 小関藤一郎訳 「供犠の本質と機能についての試論」 (『供犠
J
、 1983)。22) Durkheim, E. et Mauss, M., De quelques formes primitives de classification (L'Annee 6, 1903, pp. 1‑72; Mauss, M., oeuvres 2, pp. 13‑89).
内山貴美夫訳「人類と論理一分類の原初的形態』、 1969。
23) Karady, V., Presentations (Mauss, M., oeu.vres l, p.xxxii.
24) Mauss, M., Les civilisations. Elements et formes (Mauss, M., oeuvres 3, pp. 456‑79 et 484‑5) .
25) L'Annee 2, 1899, 132‑138.
26) Mauss, M., Les origines de la notion de monnaie (Compt es rendu.s seana.es, t. u.. No. 1: Su.pp↓ ement
. a
t'Antんropotogie,pp. 11‑19; Mauss, M., c,eu.vres 2, pp, 106‑112 et 114‑5).27) Levi‑Strauss, C., Les structures e↓ emertaires de↓ a parente, 1947, ler‑e partie, chap. 5.
馬淵東一、田島節夫監訳「親族の基本構造』上、 1977、 132‑157頁。
28) Mauss, M., Gift, gift (Metan̲9es offけ ts
. a
Cんartes Andter par ses amis et ses et eves, pp. 243‑7; Mauss, M., aeu.vres 3, pp. 46‑51).29) Malinowski, B., A力 onautsoftんtWestern Pacific, 1922.
r
西太平洋の遠洋航 海者」、1967、寺田和夫・増田義郎訳。30) Malinowski, B., Crime and Custom in Savage Society, 1926, Part 1, chap. 4 and 9. 青山道夫訳
r
未開社会における犯罪と慣習」、1955。
31) Radcliffe‑Brown, A.R., TんeAndaman /standers, 1922. 32) レヴィ =ストロース 「親族の基本構造
J
上、 138頁。33) Veblen, T., Tんeoryoftんeleisure Ctass, 1899, p, 25.