九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Chien-min 賎民, Chien-jên 賎人, Shih-wu 士伍, and Shang-jên 商人, in the Han 漢Period
越智, 重明
九州大学文学部
https://doi.org/10.15017/24525
出版情報:九州大学東洋史論集. 7, pp.1-26, 1979-03-03. The Association of Oriental History, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
越
智
重
明
序 言
漢時代の賎民は庶民のなかの下層のものが門訴された職業に就いた場合に用いられ︑賎人は奴脾︑罪人︑商人など差別された身分
を指す︑という見解が一般的であると思われる①︒基本的な形でいった際賎人が奴脾︑罪人を指すという点に問題はない︒賎民が庶
民を指すという点にも問題はない︒しかしそれは賎視された職藁に就いたときに限って用いられるのではなく︑ ﹁通常﹂の職漁就い
ているものに関bて用いられている︒元来民は君主の権刀基盤をなすものであるが︑広︑狭二義ある︒前者は恐らく戦国時代﹁家産﹂
国家の長がその版図の人々を直接的個別的に把握しょうとしたことをふま裏︑戦国儒家がつくり出した一つの政治理念︑すなわち湘
君主︵とその近親︶の外はすべて君主の民である︒君主はその民のなかから有能有徳のものを官人として挙用する︒この官人はあく
まで個人として理学すべきもので︑そこに世襲性はない︑といったこ之と関連.するものである②︒後者は﹁君主一官人−民﹂といっ
たヒエラルキーのなかにおける民である︒そうした民は何れも制度的な奴脾︵以下︑﹁奴脾﹂という︶ではなく︑また罪人でもない︒
︵庶民を庶人というのは語の転用である︒︶
つぎに漢時代の士伍であるが︑それが奪爵刑によってっくり出されたもの︑売爵をして無爵者となったものからなり︑そうした無
爵の民は庶民と賎人︵h奴脾︶との間に︑別の身分層として存在している︑とするのが一般的な理解であろう︒士伍が奮爵により
生じπ無爵のものを指し︑ ︵現実に︶売爵による無爵者をも含んでいたであろうことは間違いないところであろう︒︐問題はそれら.
が庶民と賎人との間に別の身分層をつくっていたという点であるが︑命玉は基本的に庶民であって︑国家の径役︵少くとも基本書役
である磯辺の役︶を負担し︑一般庶民となれば庶民在官たりえた︒つまり︑思詰は︵処罰の結果として生じたものであっても︑それ
自体として︶庶民たる資格をもっているものであって庶民とは別の身分のものとは考えられないのであるコそうした士伍は漢時代の・.
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一1一
漢 時 代 の 賎 民
︑ 賎 人
︑ 士 伍
︑
商 人
越
重
明 智 序
漢時代の賎民は庶民のなかの下層のものが賎視された襲来に就いた受口に用いられ︑賎人は奴牌︑罪人︑商人たど差別された身分
を指す︑という見解が一般的であると思われる①︒基本的な形でいった際賎人が奴蝉︑罪人を指すといを尽に問題はない︒賎民が庶
民を指すという点にも問題はない︒しかしそれは賎祝された職業に就いたときに限って用いられるのではなく︑﹁通常﹂の職に就い
ているものに関して用いられている︒元来民は君主の権刀基盤をなすものであるが︑広︑狭二義ある︒前者は恐らく戦国時代﹁家産﹂
国家の長がその版図の人々を直接的個別的に把握しようとしたことをふまえ︑戦国儒家がつくh
山山 した 一つ の政 治理 念︑ すな わち
︑
骨牢土(とその近親)の外はすべて君王の民である︒君主はその民のなかから右能有徳のものを官人として挙用する︒乙の宮人はあく
まで個人として理曜すべきもので︑そこに世襲性はない︑といった乙とと関連するものである②︒後者は﹁君主!宮人1
民﹂ とい っ
たヒエラルキーのなかにおける民である︒そうした民は何れも制度的な・奴牌(以下︑﹁奴牌﹂という)ではなく︑また罪人でもない︒
(庶 民を 庶人 とい うの は語 の転 用で ある
︒)
つぎに漢時代の士伍であるが︑それが奪爵刑によってつくり出されたもの︑売爵をして無爵者となったものからなり︑そうした無.
爵の民は庶民と賎人
(H
奴稗)との間に︑別の身分層として存在している︑とするのが一般的な理解であろう︒士伍が奮爵により
生じた無爵のものを指し︑(現実に﹀売爵に止る無爵者を
4b
含んでいたであろうことは間違いないと乙ろであろう︒問題はそれら
が庶民と賎人との聞に別の身分層をつくっていたとい'?点であるが︑士伍は基本的に庶民であって︑国家の格役(少くとも基本格役
である戊辺の役)を負担し︑一般庶民となれば庶民在官たりえた︒つまり︑士伍は(処罰の結果として生じたものであっても︑それ
自体として)庶民たる資事そもっているものであって庶民とは別の身分のものとは考えられないのである︒そうした士伍は漢時代の
漢時 代の 践民
︑賎
!八
︑士 伍︑ 商人
‑ 1ー
漢蒔代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
政治構造的特殊性のなかに存在するものである︒秦時代の士伍はそれとやや性格を異にし︑庶民︵たる男子︶そのものを指している︒
つぎに漢時代の商人についてであるが︑その商人は庶人U庶民より下の身分であるという通説があるとしてよかろう︒しかし商人
は庶民であるが︑官人になれないという制約をうけているものである︒そうした意味で本来の賎人ではない︒
本稿は右のような観点から漢時代の賎と秦漢時代の士伍と漢時代の商人とをとりあげるが︑本稿は筆者の漢の国家体制論の序論の一
部である︒
第閣節 漢時代の賎民
漢時代の賎民にはいくつかの意味がある︒いまそれを列挙してみよう︒
篁に︑臭に対する三三意味する賎民についてであるが︑肇暑描羅伝には︑
秦始乱三時う吏之所先主者︑貧人賎民.也︒至其中節所侵者︑富人吏家也︒及其末個所侵者︑宗室大臣也︒
とある︒ここでは﹁貧人賎民﹂︑幹田官吏家﹂︑﹁宗室大臣﹂の三者がそれぞれ相重ならない概念︑実態として出ている︒そのなか
で吏家と賎民とは対比すべく︑富人と貧人とも亦対比すべきものである︒そうするとその賎民は里家︵官人︶ではないもの価つまり
(一ハの︶庶民11民ということになる︒なお︑賎民がそうした意味であれば︑それと貧血とを合せて一つのものとする必要はなさそ
うである︒この点についてはつぎのように考えられる︒馨警箒墾二年四月の条に︑
詔日︑⁝今賀産十以上︑廼得官コ廉士算不五悪︒有市籍︑不得官コ無毒又不葭子9朕甚橋之︒玉算四得官ゆ亡令廉白鞘失職︒
︵下略︶
とあるが︑漢時代官人たる資格の﹁つに財産をある程度以上もつことがあった︒そうすると官人︵吏家︶は一応資産をもつというこ
とになる︒しかしそうした家産をもつ階層は官人を出す母胎であっても︑現にすべて官人を出しているわけではない︒それだけにこ うした階層をとりあげるとすれば右のわく内においてヨ畠人吏家﹂という表現が適切となる︒一方︑それに対応するものとして︑吏
でないとい・豆思味での庶民をとりあげ︑同時にその富人でないとい・翌思味での論人をとりあげて︑﹁岳人賎民﹂としたということが
想足される︒蓋し右の晃錯伝の記事はこ93しだ漢時代のことを頭におき︑そうした召田人里家﹂︑﹁盲人賎民﹂そのもの︵四
字句︶に対するものとして﹁白巫至大臣﹂という表現をなした硯であろケ︒
一2 一一
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
政治構造的特殊性のなかに存在するものである︒秦時代の士伍はそれとやや性格を異にし︑庶民主る男子)そのものを指している︒
つぎ に漢 時代 の商 人に つい てで ある が︑ その 商人 は庶 入
H庶民より下の身分であるという通説があるとしてよかろう︒しかし商人
は庶 民で ある が︑ 宮人 にな れな いと い弓 絢約 を予 つけ てい るも ので ある
︒そ うし た意 味で 本来 の賎 人で はな い︒
本稿は右のような観点から漢時代の賎と秦漢時代の士伍と漢時代の商人とをとりあげるが︑本楠は筆者の漢の国家体制論の序論の一
部で
ある
︒ 第 一 節 漢 時 代 の 賎 民 漢時 代の 賎民 には いく つか の意 味が ある
︒い まそ れを 列挙 して みよ う︒
第五︑宮人に対する震を意味する賎民についてであるが︑漢書巻靖晃錯伝には︑
秦始 乱之 時九 吏之 所先 侵者
︑貧 人賎 民也
︒至 其中 箆所 侵者
︑富 人吏 家也
︒及 其末 塗所 侵者
︑室 主大 臣也
︒
とある︒乙乙では﹁貧人賎塁︑﹁富人吏家﹂︑﹁宗室大臣﹂の三者がそれぞれ相重ならない襲芯︑実態として出ている︒そのなか
で吏家と賎民とは対比すべく︑富人と貧人とも亦対比すべきものである︒そうするとその賎民は吏家(宮入﹀ではないもの︑つまり
(一
般の
)庶
民民というととになる︒なお︑賎民がそうした意味であれば︑それと貧人とを合せて一つのものとする必要はなさそ
H
うである︒この点についてはつぎのように考えられる︒漢墨書紀後二年四月のを︑
詔日︑:・ム量産十以上︑廼得寄廉士算不必衆︒有市籍︑不得{号無質文不得宵朕甚感之︒費算四得宵亡令廉士久失職︒
(下
略)
とあるが︑漢時代官人たる資格の一つに財産をある程度以上もつζとがあった︒そうすると宮人︿吏家)は一応資産をもっというζ
とになる︒しかしそうした家産をもっ階層は官人を出す母胎であっても︑現にすべて宮人を出しているわけではない︒それだけに乙
うした階層をとりあげるとすれば右のわく内において﹁富人吏家﹂という表現が適切となる︒一方︑それに対応するものとして︑吏
でないという意味での庶民をとりあげ︑同時にその富人でないという意味での貧人をとりあげて︑﹁貧人賎民﹂としたということが
翠比される︒蓋し右の晃錯伝の記事はこうした漢時代のことを頭におき︑そうした﹁富人吏家﹂︑﹁貧人賎民﹂そのもの(四
字句 )に 対す るも のと して
22
主大臣﹂とい立衣現をなしたのであろう︒‑ 2 ‑
なお︑繰り返して述べることになるが︑右の晃皆伝の記事では︑富人.藁家と賎民.貧人とが︵天子と宗室大臣とを除く︶人々の全
体となる︒つまり︑その貧しい賎民は富める吏家に続くもので︑両者の間に一般の民衆庶民が存在したとは想定しがたい︒それだ
けに︑右の賎民は庶民ということになる︒ところで︑漢時代察挙などによって官人となるものは︑少なくとも原則的にはもともと庶
民であった︒さらにいえば︑官人ほ士と非底入11庶民との区別は︑現に官界に宮人としてあるか否かというのにあって︑世襲的なも
のではなかった︒通典蝉肇四三三に︑
︵梁︶武帝天監中︑ ︵沈︶約又上帝日︑頃漢代歯無士庶垂目︒自重仕宙︑車留京師︒自公下五守︑並還郷里︒小人階仰以成風俗噂
且費校棊布︑伝経授受︒皆学優而仕︒始自郷邑︑本派小吏︑幹佐方至文学功曹︒甘露歳月︑優柔察挙︒人才秀異︑始為公町所辟︒
遷為牧守︑入作台司︒漢Z得人︑於斯為盛︒ ︵下略︶
とある︒この際の士庶は世襲的な︑自動的に官途に就くべき士人と官界に終始縁のない庶民といった意味である︒この上疏は後世の
ものであるが︑貼獲お大勢として臭が庶民を謡として出ていたことを示しているとされよ・つ︒また︑通典燈選挙六号藝雫に︑
礼部員外郎沈既済論日︑:・天下無生再啓者︒則難儲戴至尊︑与士爵同︒肺門王良以大司徒位︑免帰蘭陵︒後光武巡幸︑端野其︐
子孫邑中径役︒丞相之子︑不得三戸課︒而近代以来九晶芝家︑皆不征︒ ︵下略︶
とある︒後漢書巻二十七王良伝によると︑王良は病を以て大司従をやめ郷里に帰ったのであって免官されたのではない︒この記事
は漢時代︑世襲的特権的な官入の家系がなかったのを側面から証するところがあろう︒こうした点からいうと︑右の富人・並家︑賎
民・貧人という区別を漢時代にひきあてるのは否定すべきことになる︒しかし︑それはあくまでも基本原則︑建て前であって現実に
は亡帝の詔に窺われるように︑そうした区別があったとされよう︒なお︑秦末果して制度的に富者だけが官人になりえ︑貧者は官人
になりえないということがあったのかどうか疑問である︒それだけに右の晃虚伝の記事はあるいは官人として爵をもつものは
富み︑非官民の庶民として爵をもたぬものは貧しい︑といった形で理解すべきものなのかも知れない︒しかし︑.何れにして暑
いま見ている賎民が奴脾なりそれに類する︵庶民より下の︶ものであったとは考えられない︒︵補①︶
右の賎民の賎は﹁いやしい﹂という意味で︑具体的にはその﹁いやしい﹂ものが官人でない庶民を指しているわけである︒ところで︑
覇にあって義に﹁いやしい﹂庶民を藻する黒がある︒いまその一重と£げてみよう︒委捲蹴恩二面の﹁塵に︑
九品官入法下︑次第に家格中心の動きが強まったことを述べ・︑
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一一@3 一一
なお
︑繰
h返
して 述べ るこ とに なる が︑ 右の 泉純 絹伝 の記 事で は︑ 富
I八
・事 象と 賎民
・貧 人と が( 天子 と宗 室大 臣と を除 く) 人々 の全
体となる︒つまり︑その貧しい賎民は富める吏家に続くもので︑両者の間に一般の民衆H庶民ど仔在したとは想定しがたい︒それだ
けに︑右の賎民は庶民ということになる︒ところで︑漢時代察挙などによって官人となるものは︑少なくとも原則的にはもともと庶
民であった︒さらにいえば︑宮人H
士と 非宮 人
H庶民との区別は︑現に官界に宮人としてあるか否かというのにあって︑世襲的なも
のではなかった︒通典芳選挙四雑議空に︑
(梁 )武 帝天 監中
︑( 沈) 約又 上疏 日︑ 頃穣 代本 無士 庶之 別
ι自
非仕 官︑ 不至 京師
︒罷 公卿 牧守
︑並 還郷 里︒ 小入 瞬仰 以成 風俗 勺
且費校莱布︑伝経費号車蚕而仕︒始自郷邑︑本於小吏︑幹佐方至文学童弓積以歳月︑乃得察挙︒人才秀異︑始為公府所肝︒
遷為惣寸︑入作台司︒漢之得人︑快薪為盛︒(下略)
とある︒乙の際の士庶は世襲的な︑自動的に官途に就くべき士人と官界に終始縁のない庶民といった意味である︒乙の上疏は絡匿の
ものであるが︑漢時代の大勢として更が庶民を母胎として出ていたことを示しているとされよう︒また︑貴乃選挙六雑議論下に︑
礼部員外郎沈既済論目︑:・天下無生而貴者︒則雄儲武之尊︑与壬伍同︒故壁土良以大司徒位︑免帰蘭援ι
後光 武巡 幸︑ 始復 其︐ 子孫 口巴 申径 役︒ 丞相 之子
︑不 得錨 戸課
︒而 近代 以来 九品 之家
︑皆 一不 征︒ (下 略)
とある︒後漢書巻二十七王良伝によると︑王良は病を以て大震をやめ郷里に帰ったのであって免官されたのではない︒この記事
は漢時代︑世襲的特権的な宮人の家系がなかったのを側面から証す呂ところがあろう︒乙うした点からいうと︑右の富人・吏家︑賎
民・貧人という区別を漢時代にひきあてるのは否定すべき乙とになる︒しかし︑それはあくまでも基本原則︑建て前であって現実に
は景帝の詔に窺われるように︑そうした区別があったとされよう︒なお︑秦末果して制度的に富者だけが宮人になりえ︑貧者は宮i八
になりえないということがあったのかどうか疑問である︒それだけに右の晃錯伝の記事はあるいは宮入として爵をもつものは
富み︑非官民の庶民として爵をもたぬものは貧しい︑といった形で理解すべきものなのかも知れない︒しかし︑何れにしても
いま見ている賎民が奴稗なりそれ比類する(庶民より下の)ものであったとは考えられない︒(補①)
右の 賎民 の賎 は﹁ いや しい
﹂と いう 意味 で︑ 具体 的に はそ の﹁ いや しい
﹂も のが 宮人 でな い庶 民を 指し てい るわ けで ある
︒と ころ で︑
覇にあっても特に﹁いやしい﹂庶民主謀する用法がある︒いまその一撃とりあげてみよう0・宋豊富説思倖伝のぎに︑
九口 回目 人法 下︑ 次第 に家 格中 心の 動き が強 まっ た乙 とを 述べ
︑
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
‑ 3 ‑
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
︵前略︶劉毅母上︑下品無古團門︑上品無賎族甘心︒歳月遷論︑斯貝鞍篤︒凡豚衣冠莫非二品︒自習以還︑遂成卑庶︒周漢之道︑
三智役回︒ム昌榔参差︑三図等級︒魏晋以来︑以貴役賎︒士庶之科︑較然有頂︒ ︵下略︶ ・一 ︑︐
とある︒右の上品は郷品二品以上︑下品は郷里三品以下を指す︒また︑その電量士と賎⊥庶とは相連続しかつ相反する内容をもつものであ桑薯は響盟品の豊里を貴とk薯は響町品の次門後門を賎とするものであ発ここ霊暑燈裂伝覧るζ
﹁下品無高門︑上品無量族者也︒﹂が︑ ﹁上口盟蝋寒門︑下品無勢族︒﹂となっている︒両者は全く同じ内容とすべきであるが︑そう
すると下品は寒食ということになる︒この際恐らく︵純然たる︶庶民としての三五門はそれに含まれないであろうが︑︑何れにしても
墓碑が︵独立の家をもち︶寒門とされるといったことは考えられない︒それだけにこの賎は奴脾を含まないことになる③︒右の貴︑
賎の用法は南朝にあってはやや異常なものであるが︑それにしてもそこでいう庶︵民∀を賎としているのは明らかである︒
また︑熱嬰順三三第四に︑
子日︑富与貴︑是人之所二重︒不以其道得之︑不処也︒貧農賎︑是人衝重三雲︒不以其道得之︑不去也︒ ︵下略︶
とあるが︑ここでは富と貧︑貴と賎とはそれぞれ相対するものとされている︒その梁の皇侃の疏に︑
官署財多︒虫塁倉位内周位高則為他所崇︒財多面他所愛︒︐夫人生蜜莫不離欲此二事︒故轍︑是人所欲也α.然二途錐是人所貧欲︑要
薬取三蔵道︒則為可居︒若不用道理而得︑則不可処也︒貨財日貧︑無位日賎︒賎則為人潜函陵︒貧則面縛凍餓︒此二筋者為人所
唱憎悪︒故云是人所悪書︒若君道理︑則有道者宜富貴︑無道者宜貧賎︒則是理之常道也︒今若有道而身反貧賎︑最盛脂鰭其道而得
也︒ ︵下略︶
とある︒この疏では貴者は位が高く賎者は位が無いとしている︒後者は具体的には︵純然たる︶庶民を指すとすべきである︒それを
頭において考えると︑富者は財が多く︑貧者は財に乏しいとする際︑その中間のものめ存在を想定すべきであるっ恐らぐ弘塑順の富貴
と貧賎とは連続するものであり︑それだけに右のような疏の理解は論語の説くところとズレのあるものであろう︒蓋し︑疏では南朝
において貴︵者︶が通常位の高いものを指しているのに引きつけられて右のような理解を示したのであろう︒この際︑貴と富︑賎ど
貧とは自ち相応ずる︒こうした貴賎の理解はさきの宋書恩倖伝の﹁序﹂の貴賎の用法とは異っているが︑それにしてもこの賎が︵恩
倖伝の﹁序﹂の庶とはその内容を異にするけれども︶庶︵民︶を指しているのは明らかであろう︒なお︑.梁時代にひきあてていった
際︑右の富貴・貧賎の間にあるものとして︑ ︵梁の天監の改革以前でいえば︶郷品六一九品の後門層が㎝応それに該当しょう④︒・
=一 4一
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
(前 略) 劉養 所云
︑下 品無 高門
︑上 品無 賎按 者也
︒歳 月選 議︑ 斯風 獅鴬
︒凡 販衣 冠莫 非一 二品
︒自 此以 還︑ 遂成 卑庶
︒周 漢之 道︑
以智役愚︒台隷委君︑用建設︒貌亜日以来︑皇是賎︒士庶之科︑較然有弁︒(下略﹀
とある︒右の上品は郷品二品以上︑下品は郷品三品以下を指す︒また︑その貴H士と賎H庶とは相連続しかっ相反する内容をもつも
巻五
ので ある が︑ 前者 は郷 口申 上品 の甲 族を 貴と し︑ 後者 は郷 日間 下品 の次 門︑ 後門 を賎 とす るも ので ある
︒こ こで 亜暴 百十 五劉 毅伝 を見 ると
︑
コ
hl品無高門︑上品無賎族者也︒﹂が︑﹁上品無実向︑下品無動巌︒﹂となっている︒両者は全く同じ内容とすべきであるが︑そうすると下品は寒門というととになる︒乙の際恐らく(純然たる)庶民としての三五門はそれに含まれないであろうが︑何れにしても
奴牌が(独立の家をもち)案内とされるといった乙とは考えられない︒それだけに乙の賎は奴牌を含まない乙とになる③︒右の貴︑
賎の用法は南朝にあってはやや異常なものであるが︑それにしてもそζ
でい
λ岳
山( 民) を賎 とし てい るの は明 らか であ る︒
また
︑払
嬰
m里
﹁第
四に
︑ 子日
︑富 与貴
︑是 [八 之所 欽也
︒不 以其 道得 之︑ 不処 也︒ 貧与 賎︑ 是人 之所 悪也
︒不 以宜 誼得 之︑ 不去 也︒ (下 略﹀ とあ るが
︑乙 こで は富 と貧
︑貴 と賎 とは それ ぞれ 相対 する もの とさ れて いる
︒そ の梁 の皇 侃の 疏に
︑
富者財多︒重台位有害関為他所崇︒財多為他所愛口夫人生則基金頁欲此二事︒故云︑日疋入所欲也︒然二途錐是[八所貧一欲︑要
当取 之︑ 弘坦
︒則 為可 居︒ 若不 思坦 理而 得︑ 則不 可処 也︒ 乏財 臼貧
︑無 位臼 賎︒ 賎則 為人 所欺 陵
C貧則身困凍銭︒此二事者為入所
憎患︒故云是本町忠也︒北復道理︑則査望査官里貝︑怨坦者宜貧賎︒則是理之宮坦也︒金ね査坦而身反貧賎︑此曇小以其道而得
也︒(下略)
とある︒乙の疏では貴者は位が高く賎者は位が無いとしている︒後者は具体的には(純然たる)庶民を指すとすべきである︒それを
頭において考えると︑富者は財が多く︑貧者は財に乏しいとする際︑その中間のものの存在を想定すべきである︒恐らく払語の富貴
と貧 賎と は連 続す るも ので あり
︑そ れだ けに 右の よう な疏 の理 解は 論語 の説 くと ころ とい スレ のあ るも ので あろ う︒ 蓋し
︑疏 では 南朝
において貴(者)が通常位の高いものを指しているのに引きつけられて右のような理解を示したのであろう︒乙の際︑貴と富︑賎と
貧とは自ら相応ずる︒こうした貴賎の理解はさきの宋書恩倖伝の﹁序﹂の貴賎の用法とは異っているが︑それにしても乙の賎が(恩
倖伝の﹁序﹂の庶とはその内容を異にするけれども)庶(民)を指し
τ
いるのは明らかであろう︒なお︑梁時代にひきあてていった際︑右の富貴・貧賎の間にあるものとして(梁の天監の事早以前でいえば)郷品六!九品の後門層が一応それに該当しよう④︒
'‑ 4 ‑
まな響欝藩伝に︑
宋建平王景素好士︒滝手直灘ル州︒広陵令郭彦文得罪︒辞連︑繋本州獄︒滝獄中上書日︑・:下官本車戸桑枢王民︑布衣血早
帯三士︒・:霧慕大王之義︑三門下之賓︒備鳴盗浅術睡余︑︐予三五賎使之末b
とある︒江滝は決して庶民︵三五門︶ではなく︑︵郷品三一五品をもう︶次門出身である︒しかし︑獄中からの上書ということもあ
ったからであろうが︑あえて﹁予三五労使之末﹂といっている︒この三五は必らずや三五門 ︵たる庶民﹀ のことであろうが︑それ
だけにその賎使は三五門︵たる庶民︶としての賎使を意味しょう︒またそうしたことは一般的な形として三五門︵たる庶民︶が賎使
される︑という理解のあったのを察せしめるところがあろう︒
第二に︑漢時代の謙辞としての賎民であるが︑五位としての賎臣という用法はすでに戦国時代に存在bている︒.いまその若干をあ
げてみよう︒管子大匡第十八に馬
︵前略︶飽諸差︑先人奮言︒日︑知子莫愚父︑知首吊若君︒今看遺臣不肖也︒諸道使賎臣傅小自尊︒賎臣平面 ︒
とあり︑韓非子存韓第二に︑韓非の上奏文をのせているが馬.そのなかに州
今賎臣之進愚計︑使人使荊︑重幣用事群臣︑明趙之所以欺巧者︑与榑船以安翻心︑従韓而伐趙舎趙難与斉為一︑不足患也︒
とあり︑また︑李斯の韓王への上書をのせているが︑そのなかに︑
︵前略︶斯旧来使︑以奉秦王之歓心︑磐戸便意︒ ︵然ルニカカル処置ヲサルルハ︶宣陛下所以逆賎悪者邪︒
とある︒また︑韓非子問田第四十二に︑
韓子日︑臣明先生之岩屋く︒・:然所以廃先生之教︑即行賎臣之所取者︑絹以建立法術︑設度数︑所以利民壬申便器庶之道也︒
とある︒こうした場合の賎臣は庶民より下のものではありえないゆそれは︵官人たる︶臣の謙称である︒また︑・戦国策趙孝成王に︑−
左師公日︑老臣賎息鎌頑最少不肖︒而臣衰︑霜愛憐之︒ ︵F略︶
とあるが︑この三三の三三︵己の︶息の謙称である︒
ミ霊氏は史記捲蜜生・磐列伝に現われた賎縁甲について検討を架その藍雰が︑
初浦公引兵過陳留︒邸生踵軍門上謁日︑高陽賎民邸食其︑窃聞浦公暴露︒
とあるが︑この三図は古来問題のあるところである︒しかし︑ 原本に近いとみなしえち古鋤本書参照した像︑
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一5 一一
巻 一 また
︑梁 書十 四江 掩伝 花︑ 宋建 平王 旦思 索好 士︒ 掩随 墨宗 室用 叫ん 州︒ 広陵 令郭 彦名 付罪
︒辞 連︑ 繋掩 州獄
︒掩 獄中 上書 目︑ 情之 士︒ :・ 縞慕 大王 之義
︑迅 門下 之賓
︒傭 鳴盗 浅術 之余
︑予 一二 五賎 使之 末︒
とある︒江掩は決して庶民会一五門)ではなく︑(郷品一二!五品をもっ)次門出身である︒しかし︑獄中からの上書ということもあ
ったからであろうが︑あえて﹁予三五賎使之末﹂といっている︒ζのご一五は必らずや三五門(たる庶民)のととであろうが︑それ
だけにその賎使は三五門(たる庶民)としての賎使を意味しよう︒またそうした乙とは一般的な形として三五門(たる庶民)が賎便
される︑という理解のあったの砂索せしめるところがあろう︒
第二に︑漢時代の謙辞としての賎民であるが︑謙辞としての賎臣という用法はすでに戦国時代に存在している︒いまその若干をあ
げて みよ う︒ 管子 大臣 第十 八に
︑ (前 略) 飽叔 日︑ 先人 査一 一弓 臼︑ 知不 実芯 父︑ 知臣 莫打 君︒ 今君 知臣 不肖 也︒ 日疋 以使 敗目 侍小 白也
︒賎 臣知 棄失
︒
とあり︑韓非子存韓第二民︑韓非の上奏文をのせているが︑そのなかに︑L
今賎臣之進国許︑使人使剤︑重幣用事之臣︑明組之所以整案者︑与麓質以安其心︑従韓而伐越︑越雄与え円為一︑不足患也白
とあり︑また︑杢舟の韓王への上書をのせているが︑そのなかに︑
(前略)斯之来使︑以奉秦王之歓心︑願致便計︒(然ルニカカル処置ヲサルルハ)宣陛ド所以逆賎臣者邪︒
とあ る︒ また
︑韓 非子 問田 第四 十二 に︑
韓子日︑臣閉先生之言失0
・・
・然 所以 廃先 生之 教︑ 而行 賎臣 之所 堅官
︑縞 以為 立法 術︑ 設度 数︑ 所以 利民 萌︑ 便衆 庶之 道也
︒
とある︒こうした受口の賎臣は庶民より下のものではありえない︒それは(宵入たる﹀臣の謙称である︒また︑戦国策越差成王に︑?
左師公日︑老臣賎恩銃眼最少不肖︒而臣哀︑橋懸疎開之︒(下略)
とあるが︑乙の賎息の賎も(己の)息の謙称である︒
さて︑好並氏は史記諒一都生・陸賀列伝に現われた賎民称呼について検討を加え︑その該当部分が︑
初興計兵過陳宵鄭生腫軍門上謁日︑高陽賎民都食其︑窃関部公暴露︒
とあるが︑乙の個処は古来問題のあるところである︒しかし︑原本に近いとみなしえる古鈴本を参照した際︑
漢時代の賎民︑賎人︑七伍︑商人
:・
下官
本蓬
一戸
桑枢
之民
︑布
衣章
・
‑ 5 ‑
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一︑武帝頃までに異った伝記をもつ郵食其について司馬遷は信無しえる両伝を︑列伝を同じうして︑別の個処にそれぞれおいた
こと︒
二︑そのなかで郵食其は自らを﹁賎民﹂と呼称したこと︒
の二点が確められる︑としておられる︒いままで見てきたところをあわせ考えると︑この賎民は民としての自己の謙辞として大過な
かろう︒ ところで︑好並氏はこの賎民と晃錯伝の賎民とを同質のものとして論をたてておられる︒しかし︑両者は﹁いやしい﹂︵つまり官
人でない︶という一般的な意味で基底を同じくするところがあるにしても︑現実には別の性格・機能をもっていちとされよう︒それ
だけに両者は別けて理解すべきものと思われる︒
第三に︑やや舞な畏として書のもとにあって働庶民を賎民とするものについてである毎金暮糞痴蓬鼓馨に︑
三下断欠︒似目温田述遷藁長︑及在官政績︒又云︑三年置高口果㎎吏民追思︒干是故吏栗サ寝相与△尺本立碑︑起頒刊斯石 ︒ 企下
略︶とあって︑藁長察湛のため碑が建てられたのを記している︒金石録にはその碑陰について︑
右薬湛碑陰︑載出銭人名︒其故吏賎民議民望三老輩処士義民︒其称故吏義民之類︑他漢碑多有之︒唯議民賎民︑独見縁道碑︒然
莫詳其義︒
とある︒ここに賎民が見える︒これについてはつぎのように考えたい︒君主︑長官︑家長などに対し︑その部下︑家人が賎とされる
ことがある︒さきに管柱大占︑韓非子存韓の賎距などを引いてそれが臣の謙辞であるとしたが︑そのことは灘区なる︶君に対して臣・
が賎として理解されえる場合のあるのを示唆している︒また︑戦国策趙孝成王に老臣賎患とあるのを引いたが︑それは老臣のいう謙
辞であると同時に︵貴なる﹀君に対して自らの子が賎として理解されえる場合のあることを示唆している︒.ところで︑儀礼士相見礼
第三に︑かつてその臣であった士が大夫に見える場合について述べているが︑そのなかに︑
賓客日︑某也夫子之賎私︑不足以践礼︑敢固辞ゐ
一一E6 一
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一︑武帝頃までに異った伝記をもっ鄭食其について司愚直は信態しえる両伝を︑列伝を同じうして︑別の個処にそれぞれおいた
ζ
ム
﹂
0
一一
︑そ のな かで 郵食 其は 自ら を﹁ 賎民
﹂と 呼称 した 乙と
︒
の二点が確められる︑としておられる︒いままで見てきたと乙ろをあわせ考えると︑乙の賎民は民としての自己の議畔として大過な
かろ
う︒
ところで︑好並氏はこの賎民と晃錯伝の賎民とを同質のものとして論をたてておられる︒しかし︑両者は﹁いやしい﹂(つまり宮
人でない)という一般的な意味で基底を同じくするところがあるにしても︑現実には別の性格・機能をもっているとされよう︒それ
だけ に両 者は 別け て理 解す べき もの と思 われ る︒
第三︑やや特殊な用法として︑長官のもとにあって働く庶民議民とするものについてであるが︑金石録守妻君に︑
隷釈一言奉還に見えるものについて︑
右
E
雲額︒云︑霊童︒字子徳︒河内修武人也︒又云︑主廉︑襲︒応司徒時除広川長︒信此融専嘉平四年六月言︒其下 断欠
︒似 回一 議述 遷藁 長︑ 及在 軍政 績︒ 又云
︑三 年選 吉田 巴ム 官︒ 吏民 追思
︒平 白疋 故吏 栗手 等相 支去 五立 碑︑ 起領 刊斯 石︒ (下
略)
とあって︑藁長蓋湛のため碑が建てられたのを記している︒金石録にはその時陰について︑
右蓋纏碑陰︑審議人名︒其故吏賎民議民警芸品以処士義民︒其称故吏義一民之類︑他漢碑多有之︒唯議民賎民︑独見於此碑︒然
霊其義︒
とある︒乙乙に賎民が見える︒これについてはつぎのように考えたい︒君主︑長官︑家長などに対し︑その部下︑家人が賎とされる
ζとがある︒さきに管子大医︑韓非子存韓の賎臣などを引いてそれが臣の議辞であるとしたが︑そのことは(貴なる)君に対して臣
が賎 とし
7理解されえる場合のあるのを示唆している︒また︑戦国策組表成王に老臣賎息とあるのを引いたが︑それは老臣のいう謙
辞であると同時比(貴なる)君に対して自らの子が賎として理解されえる場合のあるととを示唆している︒とζ
ろで
︑儀 礼士 相見 礼
第三に︑かつてその臣であった士が大夫に見える場合について述べているが︑そのなかに︑
賓客 日︑ 某也 夫子 之賎 私︑ 不足 以践 礼︑ 敢固 辞︒
‑ 6 ‑
とある︒この賓客はかって臣であった士のことである︒この笹葺の注に︑﹁家臣︑称私︒﹂とあるが︑この賎私は君の臣がすべて賎
私畿として繹されるべき藁せしめる.また︑馨蟻廿七五行士聖上に︑
ここで麓について考えてみよう・灘について後響騰黎紀永元七年の条の注に︑
十三州志日︑議郎郎官皆秦官也︒冗無所掌℃秩六百石或四百石︒
とあるが︑芳︑鑑書鷺墾帽元年四月の条に︑
︵桓帝︶命列侯・:議郎郎官︑各上封事︑指陳得失︒
とあり・後漢書謄霊帝紀光和三年六月の条に・ ノ 詔︑挙能通尚書毛詩左氏穀梁春秋各一人︑除三郎︒とあり︑後響蟻篠に︑
︵朱三日︑︶議郎大夫之位︒本以式序儒術高行三士︒今多非其人︒
とあって・本釆儒学を学んだ高行の士がこれに任ぜられるべきであった碓が訂せられる︒議郎は中央官界にあるものであるが︑郡に
恐らくはそれに準じたものとして董がいた.傍響捲珊畠伝に蕎について
秘為龍門下墨生︒黄巾起︑秘露太守趙謙撃Z︒軍敗︒秘与功曹封観等七人︑以身拝刃︵垂死於陳︒謙以裏芸︒詔︑秘説登臨︑号
日七賢︒
とあり︑その注に︑
謝承書日︑秘︑字丞寧︒封零墨主簿濃密門下督萢仲礼賊曹漁港徳主記史丁子嗣憩室史張仲然吉生蓑避雷七人︑品等出陳︑与戦並
死也︒
とあるが︑ここに議生が見える︒三三︑霊台碑陰に︑
︵前略︶県令管君即譲腹岱門下議生都市橡︒三三可測 つとあ嘉この董は羅生であろう︒こうしに墾は臭である︒ところで馨至重伝に︑
盤錐居家︑景帝時時使人聞響策︒梁王欲求為嗣︒︑盤進説︑其後語塞て梁王以此鋸盤︑使墨刺盤︒
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一7一
とある︒この賓客はかつて臣であった士の乙とである︒乙の鄭玄の注に︑﹁家臣︑称私︒﹂とあるが︑乙の賎私は君の臣がすべて賎
私1賎として把握されるべきを察せしめる︒また︑漢書雪上十七五行士市之上に︑
巻乙乙で議民について考えてみよう︒議郎について︑後漢書四和帝紀永元七年の条の注に︑
十三州志日︑議郎郎官普秦官也︒冗無所掌︒秩六百石或四百石︒
とあるが︑一方︑議墨書紀建和一冗年四月のを︑
(担
帝)
命列
侯:
・議
郎郎
官︑
各上
封事
︑指
陳得
失︒
と あ り
︑ 襲 撃 若 者 一 年 六 月 の を
︑
詔︑挙能通尚書毛詩左氏穀翠春秋各一人︑除議郎︒
とあり︑後漢書時現朱震に︑
(朱穆日︑)議郎大夫之位︒本以式序儒箇両行之士︒今冬非其人︒
とあ
って
︑本
来儒
申す
ぞ掌
λ
だ高戸汀の士が乙れに任ぜられるべきであったのが察せられる︒議郎は申央官界にあるものであるが︑郡に恐らくはそれに準じたものとして警がいた︒後漢書請書伝に︑誌について︑
秘為郡門下議生︒黄巾起︑秘従太守越謙撃之︒軍敗︒秘与量員観等七人︑以身汗刃︑皆死於陳︒謙以得免︒詔︑秘等門問︑号
‑ 7 ‑
日七
賢︒
とあ
り︑
その
注に
︑
Z
日宇
季 語
与 主端
譲
や
督T 襲
量 領
主
下
請
室
義 変 警 暴
七人
擢
美
義
並
死也
︒
とあるが︑乙ζに議生が見える︒隷釈︑霊台碑陰比︑
(前略)史吾君聖書門下議生都市様︒{目未可測会
とあるが︑この議生は県議生であろう︒こうした・議生は宮人であるo
とこ
ろで
︑漢
書巻
四愛
掻一
五乙
︑
十九
益雄居家︑景帝時時使人間霧策︒梁王欲求為同剛峯進説︑其後語寒吋梁王以此怨握︑使人刺室︒
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
とある輝のち梁王は盤を殺している︒塗儲冒叔伝に︑右の釜につい下
梁孝モ使人殺漢議臣髪盤︒ . . .﹁ 馳 〜 一 ∴︑︐︐︑・
とあるが︑この際の議臣は天子がともに事を議する臣といった意味で︑官人ではなかろう︒以上見てきたことをあわせ考えると︑県
の議民は恐らく儒学に達した高行の県民︵たる社会的実態としての士︶で︑県令の諮問に答えるものであるが︑本来正規の官人では
ない︑といったことが推足されよう︒三老︑処士については改めて述べるまでもあるまい︒ミ募肇から義民に至る準嬬県ム懇のもとにおける騎であう灸響溢幕聾二年二月の条に・
挙民年払卜以上有獣行葺師衆為善︑置為三老︒郷一人︒択郷三老一人為県三老︑与県令丞尉︑以事相教︑復当無戌9
とある︒この孫戌臼樒戌は催役中最も苦しい銀着の窩役のことである︒漢時代官人の近親の癌役免除の場合これだけが残されている
⑤が一そのことを考えると︑これを免ずる之かうことは他の徳役をすべて免じたのを自ら意味しているとしてよかろう︒ただし︑後
漢時代三老は百石の官人とな?ている︒万全は後漢の年号である︒それだけに︑少なやども熟平のごろ右︑の賎民・議民とポ匠やや特
殊な庶民在官的繕をもつ臭であり︑それだけに寿像に覆を免量れ不を考.琢れる.また︑蕩璽芭愛︑
︵前略︶沖州計曹豫程苞対日︑板楯七姓以射白虎為業︒立功理外︒本為義民︒復職催役︒但出超銭︑口歳四十︒.︵下略︶
とあるが︑義民も亦要役を免除されていたと考えむれる︒蓋しこうした径役免除は処士に及んだことであろう︒
このように見でくると︑いま問題としている賎民は︑藁△上灘湛の部ドの吏︵察湛がその任を離れると︑その部下の吏はすべて故吏
となる︶とならぶべきもので︑その部下であった民︵一般庶民から出た庶人在官のもの︶のことであると断じて大過あるまい︒何れ
にしても宮奴碑のこととは想定しがたい︒要するに︑右は﹁君1部ドの吏−民﹂のヒエラルキーにおける君と民との関係において特
定の民が賎民と称された場合である︒なお︑さきの鄭生の賎民は上長のものに対し︑ ︵官人でないという意味で︶民の身分にあるも
のの用いた謙評として大過なかろうが︑そうすると両者には庶民忙ついていうという基本線において相通ずるところがあろう︒
以上見てきたところに窺われるように︑賎民の賎は奴脾と直接的関連性はもっていない︒
一8一
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
とあるが︑のち梁王は盛を殺している︒漢書唯一ヒ田叔伝に︑右の愛握について︑
梁孝王使人殺連議臣愛握︒
とあるが︑乙の際の議臣は天子がともに事を議する臣といった青山味で︑官人ではなかろう︒以上見てきた乙とをあわせ考えると︑県
の議民は恐らく儒学に達した高行の県民(たる社会的実態としての士)で︑県令の諮問に答えるものであるが︑本来正規の宮人では
ない︑といった乙とが推定されよう︒一二老︑処士については改めて述べるまでもあるまい︒
l l f
巻さて︑右の盤史から義民に至る順序は︑県A盃濯のもとにおける序ダであろうカ︑警百二同署紀上二年二月の条に︑
挙民
年五
卜以
土右
婚わ
能師
衆適
量口
︑置
為一
二老
︒郷
一人
︒択
郷一
二老
一人
為県
一一
一老
︑与
県
AE丞尉︑以事相教︑復勿篠成︒
とある︒との篠成H径成は径役中見事b苦しい戊辺の径役のことである︒漢時代官人の近親の径役免除の埠窓口これだけが残されている
⑤が︑そのことを考えると︑これを免ずるということは他の径役をすべて免じたのを自ら意味しているとしてよかろう︒ただし︑後
漢時代三老は百石の宮人となっ・ている︒蒸平は後俣の年号である︒それだけに︑少なくとも蒸平のころ右の賎民︑議民ともにやや特
殊な庶民在官的性格をもっ官人であり︑それだけに自動的に径役を免除されていたと考えられる︒また︑華陽悶闘志巴志に︑
(前略)益州計曹援程琶苅日︑板橋七姓以射自由仙為業︒立功先漢︒本為義民︒復除径役︒伺白賓銭︑口歳四十︒(下略)
とあるが︑義民も亦径役を免除されていたと考えられる︒蓋しこうした徳役免除は処士に及んだことであろう︒
このように見てくると︑いま問題としている賎民は︑藁五謀議の部ドの吏(悲湛がその任を離れると︑その部下の吏はすべて故吏
となる﹀とならぶべきもので︑その部下であった民(一般庶民から出た庶人在官のもの)のことであると断じて大過あるまい︒何れ
にしても官奴牌の乙ととは組定しがたい︒要するに︑右は﹁君l部ドの吏l民﹂のヒエラルキーにおける君と民との関係において特
定の民が賎民と称された場合である︒なお︑さきの都生の賎民は上長のものに対し︑({同人でないという意味で﹀民の身分にあるも
のの用いた謙辞として大過なかろうが︑そうすると両者には庶民についていうとい'基本線において相通ずるところがあろう︒
以上見てきたところに窺われるように︑賎民の賎は奴蝉と間接的関連性はもっていない︒
‑ 8 ‑
第二節 漢時代の賎人
本節は漢時代の賎民と賎人との区別をとりあげる︒
賎民と賎人が同一内容のものであるか否かという点は︑旧来学界でも問題とされていた︒好並隆司氏はそれをつぎのように整理し
ておられる︒
玉巷疋博氏は﹁賎民とは何か﹂と問い︑﹁﹁総髭及び疏義に於ては良又は良人に対して賎又は賎人と言い︑良民又は賎民と言える
例はない︒唐律疏義は:・︵避誰によって︶:・良民又は賎民の語のないのは当然のことである︒しかし宋刑統でも依然として︑
良人・賎人と言い︑寒雲集解でも同様であるから︑良人・賎人は必らずしも太宗の誰を避けたものとは考えられない故に︑正しく
は賎人制度というべき所であるが︑今は一般の用例に従っておく﹂と答えている︒これをうけて︑浜口重国氏は﹁玉井教授が言わ
れたように︑賎人と賎民は同義であるが︑これを歴史的にみた場合︑もと賎民と称していて︑後︑太宗の名を避けるため賎人に変.
えたのか︑それとも以前から賎人と呼んでおり︑それが偶然︑避誰の主旨に合致したのか︑ζの点を史料に示して判断するのは容
易ならざる仕事となる︒そこで私は:・玉井教授に倣い︑殆どみな賎民といい︑賎民制度といってきたのである︒しかし︑:・唐
法の中でも特に開元法のそれであるから:・唐人の呼称に従って専ら︑賎人の語を使用すると共に︑本書の題名も賎人と記して賎
民とは記さないことにした﹂と言っている︒
私見を端的に述べると︑漢時代の賎人と賎民とは別のもので︑その賎人は奴脾を指し︑賎民はすでに第一節で見たように庶民︵の
一部︶を指すと考えられる︒こうした際の賎は要するにひくいもの︑いやしいものの意味であるが︑それが人と民とについて異った
意味をもつということについてはつぎのようなことが考えられる︒
講代庶民と庶人とが同丙容をもつものとして使用されることもあ尾饗嘆漢書楼箒豊里三年の条に︑﹁繕陰干
黛杏条穴熊馬﹂とある霧史記樟薯撰藁壼露︶当訴噴講話しとあ・て史記と同じであ発︵楊
僕は謙されるべきであったが︑購って庶人となった︒武帝紀はそれを直轄将軍の官を免ぜられて庶人となったとしているのであるが︑
ξbた記述は噴ってのちのことについて述べているとされ室︶毒忌燐王導流に︑﹁坐冗買田老三豊︑諸諸書
留杢震犀抵罪者不可称難﹂と萱同様のことを婆塵下翼態下堤町蟹田宅療鋒低署自公卿大夫並立 へ不罧整として竃ちなみに藝捲堵型志に
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一一@9 一一,
第 二 節 漢 時 代 の 賎 人 本節 は漢 時代 の賎 民と 賎人 との 区別 をと りあ げる
︒
賎民と賎人が同一内容のものであるか否かとい
凧は︑旧来学界でも問題とされていた︒好並隆司氏はそれをつぎのように整理し
' Z
てお
られ
る︒
玉井是博氏は﹁賎民とは何か﹂と聞い︑﹁唐律及び鐙識に於ては良又は良人に対して賎又は賎人と言い︑良民文は賎民と言える
例はない︒唐律蕗我は・:(避議によって)・:良民又は賎民の語のないのは当然のことである︒しかし宋刑統でも依然として︑
良人・賎人と言い︑明律集解でも同様であるから︑良人・賎人は必らずしも太宗の議を避けたものとは考えられない故に︑正しく
は賎人制度というべき所であるが︑今は一般の用例に従っておく﹂と答えている︒ζ
れを
vつ
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︑浜 口重 国氏 は﹁ 玉井 教授 が一 百わ
れたように︑賎人と賎民は同義であるが︑これを歴史的にみた場合︑もと賎民と称していて︑後︑太宗の名を避けるため賎人に変
えたのか︑それとも以前から賎人と呼んでおり︑それが偶然︑避誇の主旨去最したのか︑この点を史料に示して判断するのは容
易な ら︑ ざる 仕事 とな る︒ そ乙 で私 は・
・・ 玉井 教授 に倣 い︑ 殆ど みな 賎民 とい い︑ 賎民 制度 とい って きた ので ある
︒し かし
︑:
・唐
法の中でも特に関元法のそれであるから・:唐人の呼称に従って専ら︑賎人の語を使用すると共に︑本書の題名も賎人と記して賎
民と は記 さな い乙 とに した
﹂と 言っ てい る︒
私見を端的に述べると︑漢時代の賎人と賎民とは別のもので︑その賎人は奴解を指し︑賎民はすでに第一節で見たように庶民(の
一部﹀を掃すと考えられる︒こうした際の賎は要するにひくいもの︑いやしいものの意味であるが︑それが人と民とについて異った
意味をもっというととについてはつぎのような乙とが考えられる︒
漢時代庶民と庶人とが同一内容をもつものとして使用されるとともあった︒例えば︑書詳帝紀一要三年のを︑﹁議醤阜楊
僕坐失亡多︑免為庶民︒﹂とあるのが︑史記芝日朝鮮伝では︑﹁(思議︑噴為庶人
l
﹂とあって︑史記と同じである︒︿楊 /
僕は‑諒されるべきであったが︑噴って庶入となった︒武帝紀はそれを楼船蛍阜の官を免ぜられて庶人となったとしているのであるが︑
こうした記述語つてのちのことについて述べているとされよう︒)また︑喜平葬
f
︑i i i
︑ 自 白 大 室 長 民
︑ 抵 罪 者 不 可 称 数
︒
﹂ と あ り
︑ 同 様 の 乙 と を 漢 墨 下 食 貨 志 下 に は
︑
﹁ 堂 自 宅 議 室 罪 者
︑ 自 公 卿 大 室 庶
巻一百人︑不可称数︒﹂としている︒ちなみに︑親書一十一割前志に︑
漢時 代の 時四 民︑ 賎人
︑士 伍︑ 商人
‑ 9ーI
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
︵魏︶明帝改士民罰金之坐︒
とあ桑薯捲三裂志罎それを
魏明三三士庶罰金之ム㎎
とあるの葱皿呈.蓄紀に嫁 ︒︒︒
太后令日︑昔漢昌邑王以罪廃為庶人︒此児亦宜以庶人礼葬之ゆ
と記している︒しかし︑こうした庶民と庶人との一致はいわば現象的転用的なものであって︑基本的には民と人とで本質的な違いが
ある︒つまり︑序言でふれたように︑民は君主が直接把握し︑その権勢の基盤となるものであるが︑天子の庶民︵もろもろの民︶に
ついてもそれを想定すべきである.それだけに︑天子の寝正論にない私鐸を賎民ということは憂えない.麦震薩姻
陳忠伝に︑
忠上疏日︑臣聞之︑孝経始於舜親︑終於哀戚︒上自害子下至庶人︑尊卑貴賎︑薄髭一也︒
とあるが︑ここに見える陳忠の庶人の理解は庶民が君主の直接支配下にあるというわくにおいて考えるよりも︑むしろ天子以下の
身分上のヒエラルキーを示すという線において理解すべきである︒この庶人は元来もろもろの人という意味であろうが︑こうした人
の語自体はそこに﹁条件﹂をつければ身分上のヒエラルキーを示すものとなる︒右の庶人もその一つであるが︑庶人の下にある︑半
間脾疑賎と天子の直接支配下にない私家の奴脾1一賎との両者を合して賎人といいえる豊能性もある︒こうしたところに奴脾を指す賎
人の語が存在した⁝背景があるのであろう︒
なお︑奴脾の源流についてであるが︑周礼司冠刑官三三司属に︑
其奴︑男子入干罪隷︑女子入干春藁︒
とあるが︑その鄭玄の注に︑
鄭司農云︑謂云為盗賊而為奴者︑百工罪隷春人藁人事官也︒由是観葉︑ムユ∠為奴脾︑古之罪人也︒ ︵下略︶
とある︒これは無蓋の源流を昔の罪人におくものである︒こうした奴脾の理解は漢六朝においてほぼ一般的であったといえようが︑
一 10 一
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
(貌
)明
帝改
士民
罰金
之坐
︒
とあ
るが
︑正
墨田
博一
一一
刑法
志に
は︑
それ
を 貌明 帝改 士庶 罰金 之令
︒
と記している
0 2
︑貌 志巻 高貴 郷ハ ム紀 甘露 五年 五月 の条 に︑ 皇 太 宗 日
︑
・ : 昔 昔 邑 宣 告 庶 人
︒ 此 児 査 以 怒 葬 之
︒ とあ るの を︑ 盟国 書巻 文帝
1
乙ま
︑ ニ ポ
000
太后令日︑昔漢昌邑王以男廃為庶人︒此児亦宜以庶入札葬之︒と記している︒しかし︑こうした庶民と庶人との一致はいわば患家的転用的なものであって︑基本的には民と人とで本質的な違いが
ある︒つまり︑序言でふれたように︑民は君主が直接把握し︑その権勢の基盤となるものであるが︑天子の庶民(もろもろの民)に
つい ても それ を想 定す べき であ る︒ それ だけ に︑
3 5 t t g
賎民ということはありえない︒一方︑喜捨
陳忠
伝に
︑
中主疏目︑臣聞之︑孝経始訟愛親︑終於哀埼上自天子下室庶人︑尊重員賎︑其義一也︒
とあるが︑乙乙に見える陳忠の庶人の理解は庶民が君主の直接支配下にあるというわくにおいて考えるよりも︑むしろ天子以下の
身分よのヒエラルキーを示すという線において理解すべきである︒この庶人は元来もろもろの人という意味であろうが︑こうした人
の語自体はそこに﹁条件﹂をつければ身ハモムのヒエラルキーを示すものとなる︒右の庶人もその一つであるが︑庶人の下にある︑宮
奴牌
H賎と天子の商援支配下にない私家の奴牌H賎との両者を合して賎人といいえる可能性もある︒こうしたところに奴牌を指す賎
人の 語が 存在 した 一背 景が ある ので あろ う︒ なお
︑奴 牌の 源流 につ いて であ るが
︑周 礼司 窟刑 {昌 之職 司属 に︑ 其奴
︑男 子入 子罪 隷︑ 女子 入子 春襲
︒ とあ るが
︑そ の鄭 玄の 注に
︑
鄭司農云︑謂坐蒋盗壁間為奴者︑輸於罪隷春人棄人之官包︒由是観之︑今之為奴牌︑古之罪人也︒(下略)
とある︒これは奴稗の源流を昔の罪人におくものである︒こうした奴蝉の理解は漢六朝においてほぼ一般的であったといえようが︑
‑ 10ー
ここで塩鉄論周回第五十七を見ると︑
御史日︑春秋罪人無名号︒謂之云盗︑所以賎刑人而絶之人倫也︒
とある︒これは刑人を人倫から絶つもの︑つまり一般の人間と認めないものである︒そうした立場からすれば﹁刑人←奴脾﹂は単な
る生物学的なヒトという面を強くもっことになる︒
ところで漢書燐上口蟹伝に︑互譲が使を遣して罪を謝k漢が使者を遣してそのものを腰送し・うとしたときのこととし
て︑ 杜叢説大将軍王寸心︑・:野駆過而来︒而無親属貴人奉献者︒皆慰霊賎人︑欲通貨市買︑以献為名︒:・今遣使者︑承至尊下命︑
送蛮夷之曹%労吏士之衆︑渉危難乏路︒罷弊所侍︑以事無用︒非長久計也︒
とある︒この吏士は官人を意味する︒好並氏はこの記事によって漢時代奴脾を指す賎人の名称が商人についても用いられたのがわか
る︑・としておられる︒しかしう第四章で述べるように︑漢時代商人は広義の庶民である︒それだけにこの賎人は一般庶民より下のもの
を指しているとはなしがたい︒この賎人については︑庶民の意味で庶人の語が用いられているように︑賎民の意味で賎人の語が用い
られているとして大過なかろう⑥︒
第三節 秦漢時代の士伍
漢時代の身分秩序を論ずる際︑通常島々が何らかの形でとりあげられているが︑それにもかかわらず︑その意味︑内容は必ずしも
明かでない︒諸家の解釈で一致しているのは︑それが︑かつて爵をもっていたが罪により奪爵されたものを指す︑という点だけであ
ろう︒本節はいままでの考察結果をふまえて秦漢時代の士伍をとりあげる⑦︒
まず︑秦時代の士伍についてであるが︑それをとりあげるまえに︑韓非子定法第四十三を見てみよう︒そこには︑
︵前略︶対日︑:・商君之法日︑斬一首者爵一級︑欲石工当為五十石議官︒斬二首者爵二級︑欲為重者百石三面︒富爵之遷与斬
首之功相称也︒
とある︒これは守屋美都雄氏が論ぜられた⑧ように︑斬首の功のあった人は一律に爵を賜って就官資格をえ︑その有爵者が就古する
ときはその爵の上下に比例して適当な官が与えられることになっていたのを示していると考えられる︒︵そこでは官入が必ずしも民
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人
一一@11 一一
乙こ で塩 鉄論 周秦 第五 十七 を見 ると
︑ 御史 日︑ 春秋 罪人 無々 自可
︒謂 之云 盗︑ 所以 賎刑 人而 絶之 人倫 也︒
とある︒乙れは刑人を人倫から絶つもの︑つまり一般の人間と認めないものである︒そうした立場からすれば﹁刑人←奴牌﹂は単な
る生物学的なヒトという面を強くもつことになる︒
ところで︑漠最上目伝に︑関置が使を遺して罪者︑漢が使者を遺してそのものを報送しようとしたときの乙ととし て ︑
杜欽説大将軍王鳳回︑・:今悔卓
m
来︒而無親属貴人奉整台︒皆行責賎人︑欲通貨車民︑以献為名︒送蛮夷之胃労吏士之衆︑塗厄難之路︒罷撃仰向以事無用︒非長久計也︒
とある︒この吏士は宮人を意味する︒好並氏はこの記事によって漢時代奴牌を指す賎人の名称が商人についても用いられたのがわか
る︑としておられる︒しかし︑第四章で述べるように︑漢時代商人は広義の庶民である︒それだけに乙の賎人は一般庶民より下のもの
を指しているとはなしがたい︒乙の賎人については︑庶民の意味で庶人の語が用いられているように︑賎民の意味で賎人の語が用い
られ てい ると して 大過 なか ろう
⑥︒
:・ 今遺 使者
︑承 至尊 之命
︑
一 日 一 第
三 節 豪 漢 時 代 の 士 伍
漢時代の身分秩序ふ弘明する際︑通常士伍が何らかの形でとりあげられているが︑それにもかかわらず︑その意味︑内容は必ずしも
明かでない︒語家の解釈で一致しているのは︑それが︑かつて爵をもっていたが罪により奪爵されたものを指す︑とい
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尽 だけ であろう︒本節はいままでの考察結果をふまえて秦漢時代の士伍をとりあげる⑦︒
まず︑秦時代の士伍についてであるが︑それをとh
ノあ げる まえ に︑ 韓非 子定 法第 四十 三を 見て みよ う︒ そこ には
︑
(前略)対日︑・:商君之法日︑斬一首者爵一級︑慾偽官者為五十石之{弓・斬二首者爵二級︑欲為官者百石之{弓宵最之遷与斬
首之 功相 称也
︒
とある︒これは守屋美都雄氏が論ぜられた⑧ように︑重自の功のあった人は一律に爵を賜って就官量格をえ︑その右爵者が就官する
ときはその爵の上下に比例して適当な官が与えられる乙とになっていたのを示していると考えられる︒(そ乙では宮人が必ずしも民
漢時代の賎民︑賎人︑士伍︑商人