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ついて : 薩州御渡銀と銀座

著者 梅木 哲人

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 35

ページ 25‑103

発行年 2009‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00007265

(2)

目次はじめにl日本銀についての認識I①アジアにおけるメキシコ銀(墨銀)②慶長期以前の日本銀

一近世日本における丁銀(通用銀)の成立と吹替(1)徳川家康による大黒銀の定立(銀座の成立)(2)丁銀(通用銀)の吹替

二薩摩藩・琉球国の中国貿易と日本銀(1)琉球貿易における「唐御買物」の形式の確立(2)幕府の「御定高制」と琉球貿易の銀高の確定

薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

l薩州御渡銀と銀座I

おわりに①まとめ②近世後期の薩州御渡銀 (3)薩摩藩と琉球国の銀事情①薩摩藩②琉球国薩州御渡銀と銀座(1)対馬藩の元禄銀・宝永銀への対応(2)薩摩藩の元禄銀・宝永銀への対応(3)正徳・享保銀、元文銀への対応と「寛保二年形式」の確立(4)銀座の代り銀請取証文と薩摩藩の慶長銀請取証文 梅木哲人

25薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

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薩摩藩・琉球国の中国貿易は、日本銀による「唐御買物」という形になってゆくが、そのことは、背後に、国際的な銀の流通がすでに存在し、かつ薩摩藩・琉球国が独自に日本銀を取得できたことが前提になる。そこで、この近世の薩摩藩・琉球国の中国貿易の前提になっていた、①東アジア・南アジア海域における銀交易の契機となったメキシコ銀(墨銀)の流通を見、さらに、②その時期における日本での銀山の開発について、まずみておこうと考える。

①アジアにおけるメキシコ銀(墨銀)一六世紀後半、毎年一一月から翌年三月にかけて吹く東北風に乗ってヌエバ・エスパニャ(メキシコ)のアカプルコ港からフィリピンのマニラにむけての船団がスペイン王室の負担のもとで航行されていた。このアカプルコ航路で、アジアに大量の銀が運ばれていた。

マニラは、スペイン人のフィリピン統治開始の直後から、先遣都督レガスピによって建設された市である。この時から、毎年船団がヌエパ・エスパーーャに遣わされ、援助物資を積んで帰ってきていた。’五八○年にはメヒコの司法行政院の大警吏であったドン・ゴンサロが終身のフィリピナス諸島総督

になるが、この時ドン・ゴンサロはカスティリア諸王国から独身者、妻帯者合わせて六○○人をとも はじめにI日本銀についての認識I

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(4)

なって来ている。彼の統治期には中国人との貿易が増大し、マニラ市内に生糸市場がつくられ中国人町も出来ていった。マニラに司法行政院が設置されたのは一五八三年であり、フェリペニ世の勅令によっていた。マニラがスペインに占領されたのが一五七一年であるからそれから約一○年後のことであった。マーーラに王立司法行政院が設置されたときに議長に任命されたのはメヒコ司法行政院の判事

のサンクティアゴ・デ・ベラであった。この時は審議官や検察官や役人及び要員を引き連れて来た。て 一五九○年にはゴメス・ペレスが総督になるが、彼の時司法行政院は廃止された。また将校と四○○》 人の傭兵からなる駐屯部隊がマニラに設置されたが、これと平行してマニラ市を城壁で取り囲み、大噸 聖堂を石で建造するとともに、マニラ市民に石造家屋を建てることを奨励している。彼の治世の時期糊

(1) に日本の船が長崎から小麦粉やその外の商品を積んでマニラに来ていた。日本国内ではこのころ、豊焔

臣秀吉によって戦闘行為の停止を命じる惣無事令が出され、後陽成天皇を聚楽第に招いて諸大名に服峨

従を誓わせ、刀狩り令、海賊禁止令も出され、そして一五九○年(天正一八)には小田原の北条氏が醐 滅ぼされ秀吉による統一が完成する。翌一五九一年には、秀吉はフィリピン総督宛に書簡をおくり、艸

降伏と朝貢を求めているが、この時の総督はゴメス・ペレスであったのである。

『フィリピン諸島誌』を著したモルガ(アントニオ・デ・モルガ)が植民地司法官兼行政官として聯 マニラに着任するのは一五九五年であり、メキシコの司法行政院へ転出するのが一六○三年である・鰯

彼の在任の時期には、マニラは既に一大要塞都市となっていたのである。モルガはそのころの町の様”

(5)

子をいろいろ観察しているが、次のような記載にマニラの盛大な様子が窺われる。

(A)市の街路にはたくさんの家が建ち並んでいる。大部分は切石造りだが中には木造家屋もあり、多くの家は粘土の瓦で屋根を葺いているがニッパ椰子のものもある。高くて幅広い立派な建

物であり、大きな部屋をもち、たくさんの窓やバルコニーと鉄格子で飾っている。そして日毎に多くの家が建てられ、次々と完成している。城壁内にある家は六百軒、その外にも郊外(2) 区に同じ位の木造の家があり、すべてエスパニャ人の住居であり、居住地である。(B)フィリピナス諸島の居住者(エスパニャ人)の大部分は商人及び貿易商である。それはチナ、日本、マルーコ、マラカ、シアン、カムポハ、ボルネオ及びその他の地域から多量の商品がもたらされることによるもので、そこで商品を買い付け、毎年ヌエバ・エスパーーャヘ行く帆

船に積んで送り出している。ヌエバ・エスパニャでは生糸が非常な利益を上げ、帆船がマニラへ帰る時にその売上金を商人のもとに持ち帰るが、今までのところ大きなそしてすばらしい利益を上げている。

この貿易があまりに大きくなったために、ペルーとヌエパ・エスパーーャに送り出されていたエスパニャの商品とその商品から徴収されていた国税に損害を与え、メヒコ及びペルーの貿易商が自分たちの仲買人と代理人をつうじてフィリピナス諸島で直接に通商取り引きする

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ことを強く望んだために、エスパーーャの通商の大部分が停止してしまった。そして、商品買い付けのために、フィリピナス諸島に多くの金を送るようになり、そのために、毎年、陛下の諸王国から多量の銀が異教徒たちの手に流出することになったので、ヌエバ・エスパーーャ並びにペルーのものがフィリピナス諸島で取り引きすることも、チナの商品をそれら両国に運搬することも禁止された。そして、フィリピナス諸島の市民と在留者のみ、前記商品を取

(3) り引きし、輸出する許可が与えられた。(C)通常、非常な数のソマ船やフンコ(ジャンク)が商品を積んでグラン・チナからマニラにやってきており、毎年三十隻、時には四十隻に達するのが普通である。それらは、商船隊とか艦

隊という形でまとまって来航することはなく、商船団を組み、モンスーンを利用して、一定の時期にやってくるが、それは三月の新月の時期であるのがもっとも普通である。これらの船はカントン(広東)、チンチェオ(潭州)、ウチェオ(福州)からのもので、それら各省を

出帆して十五ないし二十日でマニラに到着、商品を売却し、航海の危険を避けるために五月末から六月の上旬にかけて吹く南南西の季節風の季節が始まる前に間に合うように帰国する。

帆船がマニラ港ロに到着するとすぐに、ミラベス島に駐在している監視人が快速艇に乗って迎えに出て、点検したあとで、マニラ市の近くの河口近辺に行って停泊することを許すが、 /■、

、-ノ

薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について 29

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その際一一、三人の番兵を乗り込ませ、この船舶が検査を受け終わるまで誰も船から下りさせ

ないようにし、また外部から船に入らせないようにする。(略)船が到着して碇を下ろすと、公吏が入って、積載商品の検数を行うとともにマニラ市においてどのくらいの価格で売れるものか正式に評価する。というのは、全評価価格の三パーセ

ントを陛下に支払うことになっているからである。積み荷の検数と評価が終わると、直ちに、商品はチャムパン(舳板)に積み下ろされ、パリァン(中国人町)や彼らが市外にもってい

る他の商店や倉庫に運び込み、そこで、彼らの思うままに販売される。(略)積み荷の大部分を占める生糸や絹布や布類の価格は、普通はエスパーーャ人側、サングレイ側の事情通によってゆっくりと決められる。これらの商品に対する支払いは銀及びレアル銀貨で行われるが、それは、彼らが金もその他の物品もほしがらないし、チナに持って帰ろう

(4) としないからである。

(D)日本からも同様に、日本商人やポルトガル商人の帆船が毎年長崎の港から十月末と三月頃の北風に乗って来島し、同じ手続きに従ってマニラに入り、錨を下ろす。(略)支払いは一般にレァル銀貨で行われるが、日本では銀がとれるので、彼らはチナ人ほど銀をほしがらないばかりか、多量の銀の板を商品として持ってきて比較的安い値段で売ってゆ

(5) くのが並曰通である。

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(8)

以上の記述からスペイン人のフィリピン諸島でのあり方が窺える。まず、マニラは市内だけではな

く市外にも人家が広がっており、多くの人口を擁していたことがわかる。スペイン人は多くが商人貿易商であり、彼ら自身が毎年運航される船によってメキシコとの間で取引をしており、その影響がメキシコに如実に現れてきている。取引の商品の中心は中国人が本国からもたらした中国産品、とくに

生糸、絹織物であり、その代価に銀が支払われていることを知ることができる。銀については「銀及びレァル銀貨」と記しているが、レァル銀貨以外に別の形態の銀も使われていたのであろう。中国人は金その外のどんな品物も欲しがらず、銀を中国に持ち帰ることを望んでいたことを記している。フィリピン諸島から中国への銀の大量の流入については多くの指摘があり、よく知られたことである。一方、中国の方でも実はフィリッピンとの貿易活動を行う条件が出来ていたのである。それは、中国沿岸部の商人がこの時期に活発な海外活動をはじめるが、これは沿岸部における商品経済の発展、後期倭憲と称される人々の活発な活動であり、明王朝はこれにより衰退し、伝統的な海禁政策を維持できなくなり、一五六四年(隆慶元年)これを解除したということである。これを機に沿岸海商は東洋、

西洋(東南アジア諸地域)にさかんな商業活動を行うのである。そしてその中でも呂宋(ルソンⅡフィリピン島)が商舶の行き先でもっとも多いところであったのである。この時期の中国船の東洋・西洋

への商舶の活動と商品への課税や税制について伝えているのが弘蔓『東西洋考』である。これには一五八九年(万暦一七)とそれを改訂した一六一五年(同四三)の輸入個別商品への詳細な税が記され

31薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

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ている。輸出品の詳細については不明なことも多いが、糸織物・磁器・食料品など一一三○種類程の品

物があったことが推定されている。また、商舶には引税と水餉、陸餉、加増餉が課されることが記され、加増餉はルソンから帰港した船に課された特別税であるが、これは海商がメキシコ銀を持ち帰る

(6) 一」とに対する対策であったとしているのである。このように中国の商品経済発展の面を視野に入れてみると、スペインによるマニラの城塞都市建設をきっかけにして、メキシコ(アカプルコ)と中国

(主として広州・滝州・福州)を結ぶ貿易のサイクルが出来ていったことが了解される。新大陸における銀山の発見と大量の銀採掘ということと、中国沿岸部における商品経済の発展ということは、元々

は別個に起こっていた現象であるがこれが結びついたところに新しい時代の到来の契機が出来たので

この動きに日本は乗り遅れてはいない。長崎その外、主に九州の諸港へのポルトガル船の入港に影響されて、日本からも東南アジア諸地域に貿易船が出かけるようになっていた。モルガの記述はその

ような日本船のことを見事にとらえていろ。日本船が運んでいたものとして「良質の小麦粉、高価な干肉、美しい色調の絹布、油絵や金箔をおいた上品で立派に枠取りされた屏風、あらゆる種類の刃物、たくさんの武具、槍、刀その他見事な細工の武器類、書机、箱、漆を塗りいろいろの模様を施した木の小箱、見かけのよい廉価な装身具、非常に上質の新鮮な梨、良質の塩漬けまぐろの樽や桶、寵に入(7) れたシンパロとよばれている非常によい一戸をしたひばりやその他」を挙げているが、日本の精巧な工 ある。

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なお、小竹文夫氏によれば、リアル銀貨とはスペインまたはメキシコで鋳造された八リアルの銀(8) 貨であるという。また、増井経夫氏は、田中革一郎氏の研究に依りながら「カルロス一世にいたって、一五三五年の勅令でメキシコに造幣局を設け、改めて当時のスペイン通貨の単位で八リアル、四リアル、二リアル、|リアル、半リアル、四分の一リアルの銀貨を鋳造させたのだという。そしてこの時(9) 八リアル銀貨、後の一ペソ、一ドルも始めて作られたのであろうと。」と記していろ。さらに、小竹氏はフィリピンから中国へ渡される銀の量について、一五八六年ペドロ・デ・ロジャスからフィリッ

プ一一世への書簡のなかで「毎年この国から支那へ三○万ペゾーの銀が出て行き、本年のごときは五○万ペゾー以上に達するであろう」ということ、一五九八年の別の書簡では「新イスパニアからは毎年

百万ペゾーの銀貨が来るが、陛下の訓令に反しそれらはすべて異教徒たる支那へ流出する」と記して(皿)いるということを紹介している。 芸品や武器のことが印象深く述べられているのである。絹織物や生活雑貨が中心である中国の商品とは少し違う商品であったようである。また、日本では銀がとれるので、彼らは中国人ほど銀を欲しがらないばかりか、多量の銀の板を持ってきているということは注目されるべき記述である。日本銀の形として、板状のものとはどんな形であったかわからないが、丁銀の古い形のものであったかもしれない。

33薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

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②慶長期以前の日本銀

日本では、’六世紀に入ってから銀の採掘がすすむようになり、精錬の仕方も灰吹き法が伝えられたことで大きな発展を示す。そして、このような銀採掘の動きは、とくに一六世紀後半から一七世紀

初頭、すなわちこの時期は、戦国時代という諸大名が割拠している状態から激しい戦闘を経て統一へむかい、ついにこれまでの日本列島にはなかった強い統一政権が完成する時期であるが、この時期に

急激な増大を示す。伊東多三郎は、日本列島のこの急激な銀の採掘の増加現象を「金銀収得に諸大名(u) が狂奔したこともまた甚だしく、ほとんど黄金狂時代の観をロ垂している」、と表現している。なぜこの時期にこのような現象が起こったのか。まずこのことから考えてみたい。前述のように、この時期は、新大陸における銀山の開発と採掘された新しい銀が、世界各地に広がっていく時期と重なっている。一八世紀のイギリスの人であるアダム・スミスは『諸国民の富』(第一巻)の中で、メキシコ、ペルーの銀の市場として第一にヨーロッパ諸国、第一一にアメリカ、第三に東インドを挙げている。ここでの東インドは、当時のヨーロッパ人にとってのアジア一般をさしているとかんがえられるが、アジアにおけるメキシコ銀はスペインのマニラ経営を前提にしているので、そこでの貿易の中心である

中国を主に指していると見ていいのではないか。フィリピンを中心とする東アジアでのメキシコ銀の動向は、世界の新しい動きの一環を形成していたのである。日本もこの動きの中にあるのだが、日本の場合、前述のように直接マーーラに出かけている例もあるが、全体としては中国のマカオに拠点を置

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いてアジア諸地域との貿易活動を行っていたポルトガルとの関係を介してつらなっていたのである。このような中で起こっている日本列島内の新しい動きである銀採掘の急激な増大は、外部からの影響によるものか、あるいはそれよりはやはり内部的な要因によるものか。これについてはなかなか明確な答えは出しにくい。内田銀蔵・三浦周行など、京都における国民生活史、社会史に新しい歴史研

究の分野を切り開いてきた研究の流れをくむ偉大な研究者である小葉田淳は、日本における貨幣経済の発達についての研究から、日本、琉球と中国との通交貿易史の研究に進み、後半は再度貨幣とそのもとになっている鉱山史の研究に行き着いているが、その膨大な曼陀羅のような叙述の中で、なかなか氏の認識は見えにくいのであるが、近年の著述にはまとめと思われる記述も見られる。氏は次のように述べている。

日本における金銀の突如とも見える増産は、世界におけるそれと時代的にほぼ平行している。しかし、極東における島国である日本が、金銀の経済的関係においていつまでも孤立した状態にとどまっ

たわけではない。前にも述べたように、日本銀は中国はじめ東南アジア諸地域へ輸出され、金はこれに対して輸入された。西欧諸国の東洋貿易において、日本貿易が重要な部分を占めたが、日本銀の輸

出がこれを支えており、中国その他の金の輸入もこれに対応する貿易の一つであった。それ故に、日本の金銀生産の動向は西欧人の東洋貿易、植民地経営上に緊密な関連を持ってくる。メキシコよりも

薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について 35

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たらされた新大陸の銀や中国に流入したインドの銀も、ここに相互の関連を持つが、東洋貿易におけ

る金銀価関係の推移の上に日本銀の寄与した地歩は重要である。これも前に述べたように日本・中国はじめ東南アジア諸地域において、はじめ分散的独白的であった金銀の価格関係が一七世紀前半期に(肥)かけて次第に平均統一化されたことをあらためて想起すべきである。

ここには日本における突如とも見る銀の増産は、新大陸の銀がアジアにもたらされたことが原因で

そうなったとはかかれていない。両者は時期的に平行し、相互の関連を強めていったことが指摘されているだけである。実証史家である小葉田淳氏の面目は貫かれている。ところが、これらの研究の流れとは少し違うところから、銀の生産の急増は合戦のための大量の武(皿)器の調達の必要性が高まった結果であるという見方が一二上隆一一一によって示されている。新しい武器で

ある鉄砲をたくさん入手するためには莫大な対価が必要である。そこに銀の新しい機能が付与される原因があったというのである。日本の中世時代における対価は銭貨である。たとえば、天皇の即位の際に諸大名に献金させているが、それは銭何貫(文)という形であり、禁裏修理の際の大名の献金も(u) 銭何貫(文)というように行っていた。戦国時代の統一の過程が進展するとともに、このような旧来の社会に対して新興の勢力が急激にその活動を拡大し、複雑化した時代に入っていったのである。主な通貨が銭から銀へ変わったことの意味を三上氏はこのように見たのである。銀生産の急激な増大は

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日本社会の内的な要因によっているという見方である。しかしそれでも、銀が新しい機能を発揮するには、それを成り立たせる社会的背景がさらに意識されなければならないが、そこに日本を取り巻く(応)世界の新しい動きが浸透してきていたということも考えなければならないということもあろう。鉄砲も銀もアジア社会で普遍性を持つようになって来たものであるが、日本社会は、このような普遍的な新しい価値に内部を開かされていったということもある。それ故に、日本近世国家がアジア国際社会の中で、冊封と朝貢の関係を主とする中華世界とは別に、その姿をくっきりと現したということも出

来る。さて、最終的な統一政権である徳川政権は、一六○一年(慶長六)に銀位八すなわち八○パーセン

トの銀を含有する、大黒常是の極印を打った丁銀・小玉銀を日本の公式の通用銀とすることを定めた。のちに慶長銀・往古銀と称されるものである。これは他方、銀座の成立でもある。このことは日本の

銀貨の歴史の中で画期的な意義を持っている。一六○一年は関ヶ原の合戦のあった翌年であるが、家康は佐渡と並んで最も重要である石見銀山に対して、大内氏から引き継いでいた毛利氏の支配下にあったのであるが、奉行を派遣し直接の支配下においているのである。銀山支配がいかに重要視されたか

がわかるが、それとともに、徳川政権にとって銀貨が他の貨幣よりも重要なものであるという政策が(肥)基本に据えられたということを理解できるのである。徳川政権下における銀座の成立とその後の銀貨

の推移については次節で見ることにして、ここではそれ以前の銀について見ておきたい。

37薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

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(Ⅳ) 伊東多一二郎氏は「近世初期の貨幣問題管見」のなかで、近世初期の大名の財政関係史料に記されている金・銀は、幕府の公貨とは限らず、大名独自の金・銀である場合が多いことを指摘している。そして「初期の始原的切遣形式から貨幣として発達してゆく過程の種々の形態」を見ようとして氏がとつ(肥)た方法が、寛文期に作成された通称『狩野書上』と、延享年間(一七四四~一七四七)頃成立した.と

(四)考えられていうC『銀座書留』に記された諸国の灰吹き銀の書き上げの一覧化であった。これらの史料は、徳川家康の覇権成立によって銀通貨が大黒銀として確立したはずであるが、その枠にはまらない灰吹き銀がなお諸国にあったことから、それを調査したものである。これによれば、『狩野書上』では陸奥から対馬まで一八カ国の灰吹き銀とその形態が書き上げられ、『銀座書留」では二五ヵ国の銀と、さらにそのなかの地名を挙げ、銀の形態と銀位を書き上げている。「銀座書留』の加賀国の例でいえば「山銀・坊主吹・外山吹・上銀花降・極印銀・新銀曜助吹・ささい」というのが記されている。伊東多三郎は、これらの各地の銀のあり方から、「かつて通用せることを推測できるものもある」と(釦)している。伊東多一二郎はまたこれとは別に「長州藩成立期の鉱山と貨幣」の中で、山奉行天野又右衛門の極印のある天又銀や、なみ銀、山口銀、一之坂銀、判銀、丁銀などが慶長・元和のころ藩内で流通していたと記している。又、元和期のリチャード・コックスの日記にあるナギト銀は長門銀ではないかと述べている。コックスの日記にはソマ銀やセダ銀の名前も載せている。(皿)諸国の灰吹銀については、これL」は別に『諸国灰吹銀寄』という史料がある。これは明和八年(一

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七七一)に銀座役人の金谷喜左衛門が著したものである。これにも「往古世上通用銀未定以前諸国山銀於国々吹寄式者、山出灰吹き銀国々之極印を以切道交易在之、依之山出灰吹銀極印銀国々銀位甲乙在之」と記し、通用銀(大黒極印銀)が確定される前には、国々に灰吹き銀があり、極印銀とし切り遣いで交易を行っていたこと、しかし銀位は種々であったことを記している。又銀の分類として御運

上銀、御蔵銀、花降銀、上銀、山銀、寄せ銀、地灰といったものを挙げている。この史料には二七力に 国の銀の一覧を記しているが、その中に興味深い説明を付けた部分もある。たとえば、越前の西谷上》 銀について「敦賀溜リ。ただし敦賀、此所ニハ銀山なし。諸国ノ回船船頭買物代二諸国灰吹銀持チ集噸 ル・依之敦賀溜リト云・尤弐三百目程ツッョリ多ハのぼらず」と記しているが、これによれば「西谷糊

上銀」とよばれている銀は、「敦賀溜リ」とも称されているが、その実態はその地の銀山から出た銀焔 ではなく諸国の船頭が買い物代に持ち寄った銀であることがわかる。また、石見の御運上銀について峨

「御公用銀。但し川部正利の手帳ニハ、薩州御公用銀八九歩入。但慶長以前ノ銀也、今ノ丁銀ノ形チ顕 也。銀旦一一拾四五匁より五拾目位迄アリ」とある。金谷喜左衛門が参考にした川部正利の手帳に記さ艸

れていたことであるが、石見の御公用銀のなかに慶長以前の銀に「薩州御公用銀」というのがあった球

ことを伝えている。丁銀の形をしていて、重さが三四、五匁から五十匁くらいあったという。薩摩島瀞 津氏の戦国期から近世初期にかけての銀の入手先についてはこれまで不明であるが、寛永期の金山開麟

(理)(閉)発に際して石見の技術を導入していることもあり、また、天正一二年(一五七五)の『家久君上京日記』羽

(17)

に石見の湯津、濱田などに薩摩の船が入り、加治木衆、伊集院衆、東郷衆、京泊衆、秋目、とまり、鹿児島衆が多く来ていたことを記していて、戦国時代の薩摩と石見との関係が頻繁であったことが窺える。しかしこれらが戦国大名島津氏による銀の入手と関連したことなのかどうかということについ

ては確証がない。この問題についてはなお研究を要する。ところで、日本において急激な銀の採掘はいつごろから始まっているのか。各地の鉱山をもっとも幅広く調査している小葉田淳氏によれば、享禄・天文期(一五一一八~五五)と天正・文禄期(一五七三~九五)の一一つの時期を近世初期の鉱山の(別)盛行の前駆としてあげている。そしてその初期の例として駿河国の梅ヶ島、笹金山は、氷正・大永期(一五○四~二七)に今川氏によって開発されたこと、佐渡は鶴子銀山が天文一一年(一五四一一)に越後の商船によって発見されたという伝聞があること、石見国邇摩銀山は大永年間(一五二一~一一七)に博多の神谷寿貞が出雲の三島清左衛門とはかって開かれたこと、などを挙げている。一六世紀前半は、新大陸においてようやく銀山の開発が行われはじめた時期であり、まだマニラがスペインに占領される前である。

徳川家康の軍事的覇権の確立と、江戸幕府の成立は、日本の歴史を前後に分かつくらいの巨大な意 近世日本における丁銀(通用銀)の成立と吹替

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味を持っていた。あらゆるものが新しい形を付与されていくのであるが、貨幣制度も例外ではない。江戸時代の貨幣は、やがて金・銀・銭の三貨として確立するのであるが、なかでも銀貨幣の制度の成立は、国内的、国際的の両方の要素に対応しているのであり、最も重要な意味を持っているのである。

(1)徳川家康による大黒銀の定立(銀座の成立)一六○一年(慶長六)前年関ヶ原の合戦で覇権を握ったばかりの徳川家康が示した、銀座取り建てと丁銀遣いの上意を、銀座取り建てか丁銀遣いか、どちらに重点をいてみるかによって少し意味が違ってくる。このことについての史料としてもっとも基本になるものとされているのが「銀座初リ之次第諸事定書」(末吉文書)(のち銀座人は「権輿」と称していた)である。『銀座書留』の冒頭にこれを

写した文が「権輿抜書」として収められている。そこには次のように記されている。

|銀座御取建、御上意之趣後藤庄右衛門末吉勘兵衛承之、此両人之外拾人銀座取建候様一一と被為仰付。但此拾人名前権輿二在之。

依之諸国灰吹銀位上中下取合銅ヲ加丁銀二吹立、応其銀之位菊一文字、夷一文字、南鏡吹大黒常是品々極印打之奉備上覧処、大黒極印銀之位可然旨依上意、則堺住人大黒屋常是吹手相定ル。於是慶長六丑年五月天下一統丁銀遣二相定。

4l薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

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これまでは前半の銀座御取り建てについての部分が、後藤庄右衛門、末吉勘兵衛、あるいは他の拾

(路)人についての関心から論じられることが多かった。確かに中世以来の畿内商人が、近世初頭に回船業への発展し、後に朱印船貿易へも参加するが、それが銀座設立につながる歴史のダイナミックスは興味深いものがある。しかしここでは後半の部分に注目したい。後半では、銀座取建の上意をうけ、諸国灰吹銀の銀位上中下を取り合わせ、銅を加えて丁銀を吹立、その銀の位に応じて菊一文字、夷一文字、南鏡吹大黒常是品々極印を打ち上覧に供したところ、大黒極印銀がよいという上意であったという。これにより堺の住人の大黒屋常是が吹き手に決まった。ここにおいて慶長六丑年五月天下一統に

丁銀遣いになったということである。銀吹き手としての大黒屋常是と後藤・末吉に始まる銀座人とは、そのたどってきた道は違うのであ(妬)る。『金銀御吹替次第』にある「由緒書」によれば、大黒屋常是は堺の住人で湯浅作兵衛と称していた。そのころ堺では南鐙座というものがあり、作兵衛もこれに関連し、諸国から灰吹銀を買い集め銅

(”) を加えて吹き替えていたという。室町期を経て戦国期に堺に南鏡の座が出来ていたのである。田谷博吉氏は、大黒常是が、慶長三年に家康に伏見に召し出され、銀吹き、銀改めなどの特権を与えられ、大黒の姓を拝領したという「由緒書」の記事には疑義を示し、この頃は大黒屋常是も「菊一文字や、

夷一文字などの丁銀を吹いていた銀商たちと同格」であったとしていろ。しかし「大黒極印銀之位可然」という家康の上意は絶対的な権威を持つことになるのである。大黒常是仕様の丁銀に「常是」の

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(20)

極印を打った銀がこれ以後日本の公式の通用銀として使われることになったのである。この時から日

(鋼)本銀の新しい展開が始まったのである。のちにこれ以後の銀を慶長銀、往古銀と称するようになるが、その銀位については「慶長銀之位上灰吹き八拾目、差銅弐拾月合百目」というように銀八○パーセント、銅二○パーセントからなる銀であった。極印は銀に打刻される印であるが、『金銀御吹替次

第』(包方之部)には「常是」印の他に「大黒印、寶印、添印」とあるように三種の印が刻まれていて る。極印を打つのはいうまでもなく大黒常是(常是役所)であるが、丁銀の劣悪化が始まった宝永期》 (宝永銀・中銀・三宝銀・四宝銀)は関久右衛門の極印であった。極印は常是の打った印では、「常是」噸 と「寶」を組み合わせた印(文字の印)と、「俵に乗った大黒像」と「寶」の字を組み合わせた印轍

(大黒像の印)の一一とおりがあるが、関久右衛門の極印は、「俵に乗った大黒像」と「寳」字の組み△口渇

(羽)

わせ印だけで、「常是」文字印はない。添印というのは改鋳の際打たれた印で、元、宝、、水、文など峨

の文字である。丁銀に打刻されるので、それぞれの文字は九に囲まれた形になっている。丁銀一つに鴎

みったからぎんよったからきん

添印一つとは限らず、宝永銀で宝の字が一二つあるのが「一一一宝銀」であり、四つあるのが「四宝銀」と艸 よばれていた。実際の丁銀の流通の上では、両替商の手を経て流通するのであるが、その際両替商も擁

(釦)

印を打ち込んでいて、流通の頻度によって打ち込まれた印は数が違っているようである。これらの印瀞

(皿)

は小極印とよばれ、私極印とされている。大黒銀が通用銀として定立された後も依然として、前に見鱗

たように諸国の灰吹銀は流通し、外国貿易にも使われていたが、大黒銀の定立はそれらを否定し「に⑬

(21)

(2)丁銀(通用銀)の吹替幕府の指示を得て、大黒常是と銀座人の手でつくられた丁銀が世間に出されたのが通用銀である。最初は銀位八○パーセントで出されたのであるが、その後いろいろに変わっている。ほとんどが銀位の引き下げであり、銀貨の劣悪化である。この銀位の引き下げは、五代将軍綱吉のころから生じてきた、幕府財政の不足を補うための出目を出すためであるという見方が一般的であり、実際そういう面があるが、とくに一七世紀後半の元禄期以後の国内の市場経済の発展により通貨量の増加が求められていたという社会的な要因を考えなければならない。日本銀の劣悪化は日本の衰退や腐敗の現象ではなく、逆に国民生活の向上拡大を表すことであったと見るべきであろう。さて、日本国内の経済的な発展が銀貨の銀位低下を来しているということであっても、日本の外である朝鮮と貿易を行っていた対馬藩と、中国と貿易を行っていた薩摩藩・琉球にとって、実に困った事態となったのである。この二つは日本銀を国際通貨として使用しなければならない立場にあったからである。日本銀の銀位の低下についての対馬藩と薩摩藩の対応は第三節で具体的に見るが、ここではその前提として幕府の丁銀改鋳の経過と吹立高などについて全体的に見ておきたい。このことにつ

いては『三貨図彙』はじめ多くの史料があり、また日本銀行調査部の『図録日本の貨幣』にまとめら (犯)せ銀」とする基準が山山来たのであり、近世国家成立の一つの側面を示しているのである。

44

(22)

れているが、ここでは『金銀御吹替次第』(吹方部)に「通用銀御吹替之次第」というのがあり、こ

(鋼)れをもとにして一覧してみたい。

慶長銀二名往古銀)糺八慶長何年吹初候哉旧記無之一兀禄銀(一名元字銀)糺六四元禄八乙亥年八月、於本郷金助町吹替。元禄十一年本郷を引

き手前吹きに相成り候・(「元」の字が上下に一つずつ計二つ添極印。)宝永銀(一名一一シ宝銀、初而宝)糺五宝永三丙戌年六月十五日吹き替え被仰付、七月九日初吹き。(「宝」の字が上下に一つずつ計二個添極印。)中銀(一名永字銀)糺四宝永七庚寅年三月五日被仰付、同六日吹初。(「永」の字の添極印。)一一一宝銀糺三一一宝永七年亥寅年四月朔日被仰付、同一一日初吹。(「宝」の字の添極印が上下に

一つずつと中央に小極印の計三つ。)四宝銀糺二正徳元辛卯年八月朔日被仰付、同二日初吹。(「宝」の添極印が大小二つずつ計四個。)

正徳新銀(銀座一一而者此銀を享保銀と唱申候)糺八正徳四甲午年五月御吹替被仰付。文字銀糺四六元文元丙申年五月十一一一日被仰付、同六月朔日初吹。(「文」の字の添極印一一つ。)

45薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

(23)

ここでは一応、元文期の文字銀までを示したが、この文字銀が前にも記したように、以後八○数年(狐)間「無事通用」を果たすのである。「糺」(銀位)の数字に見られるように、慶長期に八(八○パーセント)に決められたのが元禄期 また、これらの銀の吹き立て高と関連事項を示すと「表1」のようになる。

文正四=中宝元慶 字徳宝宝銀水禄長 銀享銀銀銀銀銀銀

慶長~

二四五六八霊妾 死語

○四

公□銀吹立高 四○五、八 ●●●●●●家康~家綱家久~光久寧豊賢質 将軍(徳川)薩藩主(島津琉国王(尚

銀座御用留四』他による

46

文字銀 正徳享保銀 四宝銀 三宝銀 中銀

元禄銀 慶長銀

四六 八○ 二○ 四○ 五○ 六四 八○ 銀位(%)

五一五、四六五 三三一、四二○ 四○一、二四○ 三七○、四八七 五、八三六 二七八、一三○ 四○五、八五○ 一、二○○、○○○ 吹立高(貫)

八、七五七、七五○ 五、五二三、六六六 六、六八七、三三三

一ハ、

一七四、七八三 九七、二六六 四、六三五、五○○ 六、七六四、一六六 二○、○○○、○○○ 金換算(両)

ロー赤 家継 家宣 家宣 家宣 綱吉 綱吉 家康~家綱 将軍(徳川)

継豊 吉貴 吉貴 吉貴 吉貴 吉貴 綱貴 家久~光久 薩藩主(島津)

敬 敬 益 益 益 貞 貞

寧豊賢質 琉国王(尚)

(24)

に六四になり、とくに六代将軍家宣の代の宝永期に、五、四、一一一二、二とはげしい劣悪化を示しているのである。なぜこのようになったかについては、この時期の幕府の財政運営について知る必要があるが、ここではそのことは取り上げないことにする。新井白石と勘定奉行荻原重秀との争いの後、八代将軍吉宗の改革と元文の貨幣改鋳によってひとまずの安定を迎えたことを確認するだけにする。

ここで「薩摩藩・琉球国の中国貿易」というのは、薩摩藩が、琉球国と中国(清王朝)との間の政

治的な関係を前提とする進貢貿易に介入して、琉球に日本銀を託して中国での買い物を依頼し、買ってきた中国産品を幕府の承認のもとに、京都・長崎で商人を介して売り捌き、再度日本銀を入手する(調)という貿易形態である。琉球もこの貿易形態に同化し、自国産の黒糖・鯵金の売り捌き、日本銀を薩摩商人の手を経て入手し、中国産品を買ってきて日本で売り捌き日本銀を得て、それをさらに次の貿

易に使うという形になっていたのである。これを単に「近世の琉球貿易」あるいは単に「琉球貿易」と記すこともあるが、ここでは同じ内容で使用していることをご了解願いたい。近世の琉球進貢貿易(妬)は古琉球の時代の進貢貿易とは全く違ってきているのである。 二薩摩藩・琉球国の中国貿易と日本銀

47薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

(25)

(1)琉球貿易における「唐御買物」の形式の確立近世の琉球貿易の形は、一六世紀後半以来の世界史的な変化と対応するように動いている中国・日

本の歴史的な変動の後に、やっと出てくる安定期になって初めて確立したのである。薩摩藩の琉球侵入自体も大きくはそのような変動の中で行われたのであるが、そのときから貿易の安定期に至るまで

は複雑な過程を経ていることはいうまでもない。この経過については以前考察したことがあるので詳細はそれに譲るが、安定するのは琉球国が中国清王朝との間に冊封関係を成り立たせ、新たに進貢を(抑)開始した後のことで、一七世紀後半、中国の康煕年代初期、日本の寛文年間頃である。清王朝と琉球国の関係が成立した直後のころの、清朝の琉球国に対する対応のしかたはまだ確定していなくて、北京の会同館での貿易については『明会典』(万暦)によって、明王朝の時代に行われていた形式がそのまま受け継がれていたのである。そのようななかで一六七○年(康煕九・寛文一○)一○月一三日付の琉球国世子尚貞から出された奏によれば、会同館は遠く往復に多くの費用がかかるし、随帯の貨物は多く粗重である、もしこのまま会同館での貿易を続けるのであれば貧国の琉球は力が及ばなくな

るといい、「旧例に照準して湖糸等の物はなお福省柔遠駅にありて公平に交易せんことを」と述べている。一六七一年(康煕一○・寛文一一)に出された清朝礼部の杏はこれに答えたもので、「それ琉球国の進貢に随帯せる貨物は、福建省の柔遠駅にありて交易し、該地方をして能幹の官員を選委して監看せしむ」というものであった。これによって北京の会同館での貿易の他に、福州柔遠駅での随帯

48

(26)

(調)(羽)貨物の交易が許されたのである。また、「貿易ロ主」に「所帯土産銀両」とあり、持ち渡った土産と銀で交易することが許されたことがわかる。このような新しい形が出来たことで貿易量が増加していったことは薩摩藩の史料にもすぐにあらわ(蛆)れている。一六八一一年(天和一一)の「覚」(唐買物方覚)によれば、「唐御買物年々代銀相増、又ハ同値段一一而も絹物其外以之外手悪敷物持渡候。唐之様子長崎江委細一一相聞得候処云々」といっている。唐御買物の代銀が年々増加していることを記しているのである。ここではそれとともに、買ってくる品物の品質のことについて問題にしており、唐のことは長崎で様子が良くわかるので琉球側の言い訳(似)は聞かないということもいっている。一六八一一一年(貞享一一・康煕一一四)の「覚」(唐買物覚)は福州での買い物についての不首尾をなくするための方策について、琉球側の池城親方の方策を記している。また、この年は、中国では鄭成功の反清活動に対抗するためにとられていた遷界令が解除された年でもあった。このためその影響についても言及しているが、それによれば唐人が過分に長崎に来ることを幕府もよく思わないので「唐人共商売不自由之方一一被仰付候」であるから、琉球の中国での「用物調能方一一罷成」ことになろう、したがって物の値段は高値にはならないだろう、このことを琉球へよ

く伝えるようにということもいっている。

49薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

(27)

(2)幕府の「御定高制」と琉球貿易の銀高の確定

清朝の遷界令解除後に、中国船が多く長崎に来航するようになる。このため貿易量が増大し、その支払いとして日本からの銀の流失が著しくなった。このため幕府は貞享二年(一六八五)に長崎での貿易のあり方をあらためて、貿易量の総額の規制を行うようになる。これが長崎貿易における「御定高制」の制定である。この規制は琉球にも適用され、幕府は薩摩から琉球を介して中国に渡る銀の量

の制限を薩摩藩に求めてきた。そしてその時、過去三カ年の琉球から中国に渡った銀の量を報告するようにとの指示を出している。これに対する薩摩の返答では、天和二年(一六八二)進貢船二隻、銀八七六貢、金にして一四、六○○両、天和三年(一六八三)接貢船一隻、銀四二六貢、金にして七、一○○両、貞享元年(一六八四)進貢船二隻、銀八七八貢、金にして一四、七八三両という数字が報告されている。幕府はこれについての減額を申し付けた。薩摩ではこの申し付けにぎりぎりの対応として、貞享四年(一六八七)一二月口上書を提出し、’四、六○○両のうち一、一一○○両の減額を申

し出ている。この減額は同年同月幕府に認められて結局、進貢船の場合は銀八○四貢(金にして一三、(他)四○○両)、接貢船の場△ロは銀四○一一貫(金にして六、七○○両)ということが決まったのである。

薩摩藩・琉球の中国貿易は、政治的に安定すると共に、貿易の銀高もここに確定されたのである。又、この時、琉球を介して買ってきた中国産品の払方についても幕府の指示があり、京都問屋の手を経て払うことになった。幕府によるこのような施策は、近世日本のなかでの薩摩藩・琉球国の中国貿易の

50

(28)

位置づけが一応の完成を見た措置であったということができるのである。京都問屋の指定は薩摩藩が

中国産品を売り払い、その代価としての銀を入手する仕方とも絡んでいると思われるが、この点につ

いては未解明なことが多い。

しかし、この近世の琉球貿易の銀高は、元禄八年(’六九五)に始まった幕府による通用銀の改鋳の影響を受けて変わっていくのである。これまでの通用銀は銀位八○パーセントの慶長銀であったのであるが、新しい元禄銀は銀位六四パーセントとなり、銀の含有率が減ったのである。朝鮮との貿易をしている対馬藩、中国との貿易をしている琉球国・薩摩藩にとって、これは大きな問題になったのである。元禄銀の改鋳についての両者の対応については三章で述べることにする。その後、前節で見たように、幕府は宝永期に入ってさらに銀位を低下させる改鋳を何度も繰り返している。そしてその後の正徳期の改鋳は、新井白石の改革と相まって、今度は逆に銀位が古銀(慶長銀)の位に一気に引

き上げられた。この時期、貿易は支払いの相手側である朝鮮・中国との関係、作り手である幕府との交渉によって元禄銀で行うというところに落ち着いていたのであるが、正銀の含有率の多い新銀(正

徳享保銀・慶長銀)になれば現在の銀高は削減されなければならないとして減額が求められ、薩摩・琉球は進貢については二○○貫、接貢については一○○貫の削減が行われ、その結果、進貢の際は六○四貢、接貢の時は三○四貫ということになったのである。この後元文元年(一七一一一六)に吉宗の改革として通用銀の改鋳があり、銀位四六パーセントの元文

薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について 51

(29)

銀(文字銀)になるが、この六○四貫・三○四貢の銀高は変わらないのである。そのわけは、日本国

内の通用銀とは別に、対馬と薩摩・琉球へは交易用として銀位八○パーセントの古銀(慶長銀)が特鋳され、この特鋳の慶長銀一○○貢に付き通用銀である文字銀一九九貫余の割合で引き替えられ渡されるという形式がととのったからである。

(3)薩摩藩と琉球国の銀事情

琉球を介して中国へ渡る日本銀はいつごろから始まっているのか、又その銀はどのようにして入手

されたのかについてみてみたい。

①薩摩藩薩摩藩が銀を琉球へ遣わしている例は慶長期の侵入以後多くの例を挙げることが出来る。たとえば慶長一八年(一六一三)六月一日付の「覚」に「一唐へ可被遣銀子分量之事、付今度銀子・銅為渡唐差下候事」とあり、同年九月の「覚」に.生糸之代銀毎年大黒にて、壱斤付可為恰匁充事」と(蝿)ある事などがそれである。この時遣わされた銀は大黒銀であることも確認できる。一」の時銀座はすでに伏見から京都へ移されており(慶長一三年)、またこの前年の同一七年に江戸銀座が取建てられて

(“) いるが、薩摩は京都の銀座で大黒銀を入手したはずである。寛永七年(一六一二○)一一月一一八日の

52

(30)

(箔)「覚」に「|琉球へ可被遣銀子、京都にて可成程可被致才覚由申上候事」とあれソ、また同八年卯月(網)--,口の書状に「|琉球へ可被遣之由候而、於京都御借銀五百貫目之事」とあることなどから薩摩藩が京都で銀を入手していたことを知ることが出来るからである。

ところで、薩摩藩の財政難は、秀吉政権下から一貫して続いており、福島政則や蜂巣賀氏からの借銀はよくしられている。そのような財政難はますます深刻化していたのであり、寛永九年の「覚」で(仰)は「一御借銀七千貫目余御座候」、と記している。そしてこの時「琉球ロより唐之才覚ならてハ御返弁不罷成一一相究候条」とある様にこの借銀を返済する唯一の方法として琉球ロからの「唐之才覚」をする事が藩で正式に決定されていたのである。この「才覚」に「御物銀千貫目」を使うことも計画されているが、これらの銀はほとんどが借銀でまかなわれなければならなかったはずである。

ところが薩摩藩領内で金山が開発されたことで事情が違ってくる。正徳一一年(一七一二)一○月に幕府から「御尋之条々」が五か条にわたって達せられるが、そのなかに

という文言がある。幕府は、進貢料に薩摩から琉球に渡される銀は、薩摩守(吉貴)の金子を以て両弱 琉球国・大清国江進貢之料に、薩州より相渡候銀子之事、定而薩摩守方之金子を以両替仕琉(岨)球江差渡候にて可有之候。

薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

(31)

替して渡していることであろうと述べている。幕府が指摘するようにこの頃薩摩は金を銀に両替していたのであるが、それは金山を開発し、金を産出するようになっていたからである。

薩摩藩の金山開発は山ケ野金山(長野金山)の開発が最初である。この金山は宮之城地頭である島津図書久通の指示で、石見銀山にいた人物に精査させたところ寛永一七年(一六四○)にいたって金

鉱を発見したというところから始まっている。藩主光久はこのことを幕府に届け、同一九年(一六四二)に許可を得ている。それから大規模な採掘が行われはじめているが、同二○年(一六四三)にい

たって前年からの天下飢饅が起こった事で一時中断されている。明暦二年(一六五六)からまた再開され、久通のあとをついで新納又左衛門久了、新納市正久珍、彌寝清雄などを奉行に登用する。琉球との関係や藩の経済開発に大きな影響を持った人物がこれにかかわっていた事がわかる。明暦の再開に際して薩摩から幕府に提出された再開願いに「御借銀及弐萬貫目、御返済之御方便無之候二付云々」(伯)とあるが、御借銀が寛永期の七千貢から一一萬貫に増えていた事がわかる。薩摩藩では山ケ野金山のあとも次々に新しい金山が開発されている。万治三年から芹ヶ野金山、天和三年(一六八三)から鹿籠金山、元禄一四年(一七○一)から神殿金山がそれぞれ採掘をはじめている。元禄期の金山開発は当時幕府の財政政策に大きな力を持っていた勘定奉行荻原重秀の奨励とも符合しており、開発に拍車が(釦)かかったのである。山ヶ野金山以下四つの金山の産金は、元禄一五・一ハ年から増加して、宝永元年に(副)は出金高一○○貫目に及んだという。この金は幕府に届け出て江戸の後藤金座で金貨と引き替えてい

54

(32)

(記)たのだが、この年には八○○○両になったという。薩摩藩は元禄一四年に幕府から一一万両を拝借しているが、これの返済に充てた分があったのかもしれない。また、江戸の金座での小判との引き替えは(認)元禄一一年から始まっていたが、宝永元年からは京都後藤庄一|一郎方で引き替えた。薩摩藩の産金高は、(別)明暦一一年から享和一一一年までの一四八年間の間に六、一二一一貫一一五○匁あったという。これは金一、(弱)四○一一、五○○両であり、銀では八四、一五○貢になる。「元禄一一一年之比迄ハ金山御利潤銀を以時々

(鼬)銀一二拾貫目程ヅッ右御借銀御成崩候て残少二罷成候」という文一一一一口もあり、この頃には近世初期以来引き継いでいた惜銀も大方返済されていたのではないかと思われる。薩摩藩の産金が莫大であった事は、幕府が享保一四年(’七二九)に行った諸国産金の調査によっ(師)ても裏付けることが出来る。元禄一一一年(’六九九)から享保一一一年(一七一一七)までの諸国の産金を表示すれば「表2」のようになる。

|平

表2諸国山金産出量(貫、匁)

55薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

甲斐 薩摩 佐渡

四、三○○ 一七一、三○○ 二四○、○○○ 元禄一二~一六

五五一、八○○ 六九三、九○○ 宝、水元~七

一○七、八○○ 一九二、○○○ 正徳元~五

享保元~一二

(33)

これによれば佐渡と薩摩の出金が断然多い事がわかる。時期的には宝永元年から七年が最も多くこ

の間五五一貫余を産出し、元禄期がこれに次いで多く一七一貫余を産出している。正徳期以後は減少している。薩摩の出金の日本全体の産金に占める割合は、宝永元年から七年では四○パーセントである。元禄期では二五パーセントである。宝永元年から七年の薩摩の産金五五一貫余を後藤金にすれば

IHI

(『吾職秘鑑』より作成)

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上野 駿河 町余 飛騨 伊豆 武蔵 但馬 豊後 豊前

六七六、○○○ 二二○、五○○ 三四○ 九九 九三○

三三、七○○ 四、六○○ 元禄一二~一六

|、三九一、○○○ 六、七九○ 四五、三○○ 四七 八四、○三○ 一、四七○ 二、七七○ 五、二四○ 宝、水元~七

三六三、○○○ 四九、九○○ |、四三○ 四、四八○ 七四○ 一二○ 二、九○○ 正徳元~五

七七、四一七 七一○ 七五、七○○

五九○ 一九○ 二二○ 享保元~一二

(34)

②琉球国次に琉球国の銀事情についてみてみよう。琉球と日本銀が結びつくのはやはり慶長一四年以後薩摩

の統治をうけるようになってからが主であろう。それまでの琉球の中国貿易は、主として朝貢に付随灰

しての附搭貨物の貿易であった。明王朝時代に琉球から中国に持っていく品物は、東南アジア産ロ叩のに

蘇木・胡椒・番錫の三品にほぼ限られていた。ところが隆慶元年(永禄一○一五六四)に海禁が解噸 除された事で中国船が直接東南アジア各地に出かけるようになり、それまでの琉球の活動の場が中国樹

船にうばわれ、又明王朝の衰退により琉球への船の下賜もなくなった。このような苦境に陥りながら焔

も琉球は立ち直りの努力を続け、ついには自力で船を造り、附搭貨物として白国産の土夏布を作り出輔

したのである。中継ぎ貿易から自力貿易への転換がなされたとい》える。しかし、琉球の窮状は進む一噸 方であったのである。また、この間アジアにおいてマニラを中心にメキシコ銀の流通が拡大するが、川

(兜)琉球は中国との政治的関係に縛られてこの動きについていっていない。

さて、近世の琉球国の貿易と銀の関係について知ることが出来る史料として『御財政』という史料瀞 がある。これは年代の記載がないので成立年代は不明である。内容は、琉球の石高を基本とする財政鱗

(弱)

収支と、それとは別立ての銀の収支を記した「御銀賦」から成っている。「御銀賦」の冒頭に、「砂糖師 ’一一一、六一一一一両になり、通用銀に換算すれば七、三五七貢となる。

(35)

八拾七万斤」という記載があるが、これは薩摩に運ばれた琉球の砂糖の高である。これとは別の史料(帥)である「琉球館文書』の安永一一年(一七七四)九月の「覚」には出来黒砂糖一一五○万斤のうち一一一○から一三○万斤程は琉球館へ買い入れるという数字が出ている。「御銀賦」の数字は、安永一一年より前の状態を示し、’八世紀半頃の数字を示しているのではないかと推定される。「御銀賦」によれば、砂糖と醤金と二番方白糸代の一一一つが琉球の銀入手の元手になっていることが分かる。砂糖と鯵金は琉球の自国産品であるが、二番方白糸は琉球国王の元手銀で中国から買ってきた生糸である。これらを薩摩に持って行き、薩摩の特定商人の手を経て売却され銀を入手していたのである。また、銀の支払先は、第一が渡唐銀であり、次が諸間切への砂糖代の支払いとなっている。このことから琉球は国内に産する砂糖と鯵金、及び渡唐船が中国で購入してきた生糸を琉球船・大和船で薩摩に運び売却し、その代銀で、次回の渡唐船が中国に持っていく銀、砂糖代、鯵金代をまかなっていたという構造が見えてくる。ところで砂糖、鯵金、白糸の薩摩での売却といっても、これまでその実態は解明されていない。こ

れはまとまった史料を欠いている事によるが、ここでは断片的な史料からこの問題にせまってみたい。琉球の薩摩領内での拠点になっていたのが琉球仮屋である。これは天明四年(一七八四)に琉球館と称されている。ここには琉球在番親方という王府の出先が一ないし二人常駐し、琉球と薩摩の間の連絡体制を保っていた。琉球に常駐する薩摩の出先である琉球在番奉行に対応しているものである。

58

(36)

在番親方は、元々は薩摩の琉球侵入後、琉球の人質として王子・親方をおいていたのであるが、それが後に制度化されたものであり、これは参勤交代と江戸藩邸の関係と同様な制度である。在番親方に薩摩藩の方で対応していたのが琉球仮屋守であるが、これも天明四年に琉球館聞役と名称をあらためている。琉球館は鹿児島鶴丸城の前方海岸である前之浜に位置しており、城近くまで掘られた運河に

(肌)面し、琉球から運ばれてきた貨物を船から直接陸揚げすることが出来る場所にあった。琉球館と琉球

を結ぶ船は館内御用船として大和船と琉球船が使われていた。大和船は五艘で、その内訳は秋用船二艘、御銀船二艘、春用船一艘であり、琉球の船は槽船二艘(春槽船・秋槽船)、馬艦船二艘、運送船(田)一艘であった。航行は季節風を利用するので、薩摩から琉球へ行く場ムロは北風を頼り、琉球から薩摩へは春夏の風を利用したのである。(田)さて、琉球館に運ばれた貨物は琉球館の役人の管理下におかれるが、琉球館側と接する事が出来る薩摩の商人は特定の商人たちであった。彼らは「立入」とよばれていた。立入の人数は一三人であつ(“) た。中国福州における十家球商や広州の牙行と類似した商人である。立入が琉球館への銀の調達や一一番方白糸など琉球側の貨物の販売に携わっていたのである。立入の実体については不明な事が多い。今のところ立入の一人として福山の商人の厚地家が琉球館に銀を調達して利潤を得る活動をしていた(“) こととか、尚家文書に『古借銀日記』があるが、これに琉球館聞役と在番親方が連名で川井田善兵衛と厚地次郎右衛門から借銀した際の天明七年(一七八七)の借銀証書一二通が含まれているという紹

59薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について

(37)

(“) 介がある程度である。又、「上方用聞」というのが二一人いて、上方での用事を琉球館に代わって果たしたようであるが、これについても史料は不足しており、実体は解明されていない。なお、琉球側の進貢料・接貢料として調達された銀と、幕府が定めた進貢料六○四貢、接貢三○四貢の銀高とはどのような関係にあったのであろうか。この点についても史料的に不明な事が多い。『近世地方経済史料』’○巻の断片的な史料のなかに「一銀子三百一一貫目進貢料。内、一一一十貫目程北京遣銀。五十貫目程福州遣銀。十五貫目程於唐船修補料。右三行現銀払。十一一一貫五百目程二番方売上御用物料。七十貫目程渡唐人数並琉球諸士免銀。四十貫目程琉球蔵方御用物料。残て七十貢七百目」という史料がある。進貢料とあり、その内訳が北京遣銀、福州遣銀、渡唐人数並琉球諸士免銀というようになっているので進貢に際しての琉球の銀勘定であることがわかる。進貢料が三○一一貫目となっている事は注目すべき事である。進貢料銀高は、正徳四年以後六○四貢となっていたが、三○一一貫はその半分である。進貢料、接貢料の銀高を薩摩と琉球が半分ずつ使っていたとい(町)う実態があった事を窺い知ることが山山来る。琉球が使用する部分は後になって「琉球拝借銀」と称されるようになった。また、一番方、二番方という語もあるが、これは薩摩の藩庫の御物(御物銀)を一番方といい琉球蔵方のものを二番方といって区別していたものであろうと考えられる。

60

(38)

元禄八年(一六九五)の丁銀の改鋳以後、何度となく通用銀が改鋳されている事はすでに見たとおりである。これにもっとも影響を受けたのが対馬藩と薩摩藩・琉球国である。いうまでもなく対馬藩は朝鮮から人参及び諸物を、薩摩藩・琉球は中国から糸・反物、薬種を買い入れていたのであり、その代価として日本銀(丁銀)を支払っていた。対馬と薩摩・琉球が朝鮮・中国に支払う銀はすべて銀座で鋳造された日本銀であった。銀座は、幕府勘定奉行の配下にあって、その指示で往古銀を作り、それを対馬藩・薩摩藩に渡していたのであるが、『銀座書留」によれば対馬に渡す銀を「対州御渡銀」

といい、薩摩に渡す銀を「薩州御渡銀」と称していたのである。対州御渡銀は、はじめの頃は主として人参代銀に使われるので「人参代往古銀」とも称されていた。貿易に使われるこのような御渡銀と

は別に、朝鮮使節や琉球使節の来日の際に、江戸で公方をはじめ諸大名から贈られる銀があった。これを「朝鮮人被下銀」「琉球人被下銀」と称していた。これも通用銀とは別に、正銀あるいは往古銀で鋳造されて渡されており、銀座にとって特別な銀であった。「被下銀」については別に考察するこ

とにして、ここでは対馬藩の動きも参照しながら薩摩藩の銀貨改鋳への対応と「御渡銀」についてみ

てみたい。 三薩州御渡銀と銀座

薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について 61

参照

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