(『吾職秘鑑』より作成)
56 計
上野 駿河 町余 飛騨 伊豆 武蔵 但馬 豊後 豊前
六七六、○○○ 二二○、五○○ 三四○ 九九 九三○
一六一一三三、七○○ 四、六○○ 元禄一二~一六
|、三九一、○○○ 六、七九○ 四五、三○○ 四七 八四、○三○ 一、四七○ 二、七七○ 五、二四○ 宝、水元~七
三六三、○○○ 四九、九○○ |、四三○ 四、四八○ 七四○ 一二○ 二、九○○ 正徳元~五
七七、四一七 七一○ 七五、七○○
七五九○ 一九○ 二二○ 享保元~一二
②琉球国次に琉球国の銀事情についてみてみよう。琉球と日本銀が結びつくのはやはり慶長一四年以後薩摩
の統治をうけるようになってからが主であろう。それまでの琉球の中国貿易は、主として朝貢に付随灰
つしての附搭貨物の貿易であった。明王朝時代に琉球から中国に持っていく品物は、東南アジア産ロ叩のに達蘇木・胡椒・番錫の三品にほぼ限られていた。ところが隆慶元年(永禄一○一五六四)に海禁が解噸 除された事で中国船が直接東南アジア各地に出かけるようになり、それまでの琉球の活動の場が中国樹
日船にうばわれ、又明王朝の衰退により琉球への船の下賜もなくなった。このような苦境に陥りながら焔も琉球は立ち直りの努力を続け、ついには自力で船を造り、附搭貨物として白国産の土夏布を作り出輔
易したのである。中継ぎ貿易から自力貿易への転換がなされたとい》える。しかし、琉球の窮状は進む一噸 方であったのである。また、この間アジアにおいてマニラを中心にメキシコ銀の流通が拡大するが、川
(兜)国琉球は中国との政治的関係に縛られてこの動きについていっていない。球琉さて、近世の琉球国の貿易と銀の関係について知ることが出来る史料として『御財政』という史料瀞 がある。これは年代の記載がないので成立年代は不明である。内容は、琉球の石高を基本とする財政鱗
(弱)収支と、それとは別立ての銀の収支を記した「御銀賦」から成っている。「御銀賦」の冒頭に、「砂糖師 ’一一一、六一一一一両になり、通用銀に換算すれば七、三五七貢となる。
八拾七万斤」という記載があるが、これは薩摩に運ばれた琉球の砂糖の高である。これとは別の史料(帥)である「琉球館文書』の安永一一年(一七七四)九月の「覚」には出来黒砂糖一一五○万斤のうち一一一○から一三○万斤程は琉球館へ買い入れるという数字が出ている。「御銀賦」の数字は、安永一一年より前の状態を示し、’八世紀半頃の数字を示しているのではないかと推定される。「御銀賦」によれば、砂糖と醤金と二番方白糸代の一一一つが琉球の銀入手の元手になっていることが分かる。砂糖と鯵金は琉球の自国産品であるが、二番方白糸は琉球国王の元手銀で中国から買ってきた生糸である。これらを薩摩に持って行き、薩摩の特定商人の手を経て売却され銀を入手していたのである。また、銀の支払先は、第一が渡唐銀であり、次が諸間切への砂糖代の支払いとなっている。このことから琉球は国内に産する砂糖と鯵金、及び渡唐船が中国で購入してきた生糸を琉球船・大和船で薩摩に運び売却し、その代銀で、次回の渡唐船が中国に持っていく銀、砂糖代、鯵金代をまかなっていたという構造が見えてくる。ところで砂糖、鯵金、白糸の薩摩での売却といっても、これまでその実態は解明されていない。こ
れはまとまった史料を欠いている事によるが、ここでは断片的な史料からこの問題にせまってみたい。琉球の薩摩領内での拠点になっていたのが琉球仮屋である。これは天明四年(一七八四)に琉球館と称されている。ここには琉球在番親方という王府の出先が一ないし二人常駐し、琉球と薩摩の間の連絡体制を保っていた。琉球に常駐する薩摩の出先である琉球在番奉行に対応しているものである。
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在番親方は、元々は薩摩の琉球侵入後、琉球の人質として王子・親方をおいていたのであるが、それが後に制度化されたものであり、これは参勤交代と江戸藩邸の関係と同様な制度である。在番親方に薩摩藩の方で対応していたのが琉球仮屋守であるが、これも天明四年に琉球館聞役と名称をあらためている。琉球館は鹿児島鶴丸城の前方海岸である前之浜に位置しており、城近くまで掘られた運河に
(肌)面し、琉球から運ばれてきた貨物を船から直接陸揚げすることが出来る場所にあった。琉球館と琉球
を結ぶ船は館内御用船として大和船と琉球船が使われていた。大和船は五艘で、その内訳は秋用船二艘、御銀船二艘、春用船一艘であり、琉球の船は槽船二艘(春槽船・秋槽船)、馬艦船二艘、運送船(田)一艘であった。航行は季節風を利用するので、薩摩から琉球へ行く場ムロは北風を頼り、琉球から薩摩へは春夏の風を利用したのである。(田)さて、琉球館に運ばれた貨物は琉球館の役人の管理下におかれるが、琉球館側と接する事が出来る薩摩の商人は特定の商人たちであった。彼らは「立入」とよばれていた。立入の人数は一三人であつ(“) た。中国福州における十家球商や広州の牙行と類似した商人である。立入が琉球館への銀の調達や一一番方白糸など琉球側の貨物の販売に携わっていたのである。立入の実体については不明な事が多い。今のところ立入の一人として福山の商人の厚地家が琉球館に銀を調達して利潤を得る活動をしていた(“) こととか、尚家文書に『古借銀日記』があるが、これに琉球館聞役と在番親方が連名で川井田善兵衛と厚地次郎右衛門から借銀した際の天明七年(一七八七)の借銀証書一二通が含まれているという紹
59薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について
(“) 介がある程度である。又、「上方用聞」というのが二一人いて、上方での用事を琉球館に代わって果たしたようであるが、これについても史料は不足しており、実体は解明されていない。なお、琉球側の進貢料・接貢料として調達された銀と、幕府が定めた進貢料六○四貢、接貢三○四貢の銀高とはどのような関係にあったのであろうか。この点についても史料的に不明な事が多い。『近世地方経済史料』’○巻の断片的な史料のなかに「一銀子三百一一貫目進貢料。内、一一一十貫目程北京遣銀。五十貫目程福州遣銀。十五貫目程於唐船修補料。右三行現銀払。十一一一貫五百目程二番方売上御用物料。七十貫目程渡唐人数並琉球諸士免銀。四十貫目程琉球蔵方御用物料。残て七十貢七百目」という史料がある。進貢料とあり、その内訳が北京遣銀、福州遣銀、渡唐人数並琉球諸士免銀というようになっているので進貢に際しての琉球の銀勘定であることがわかる。進貢料が三○一一貫目となっている事は注目すべき事である。進貢料銀高は、正徳四年以後六○四貢となっていたが、三○一一貫はその半分である。進貢料、接貢料の銀高を薩摩と琉球が半分ずつ使っていたとい(町)う実態があった事を窺い知ることが山山来る。琉球が使用する部分は後になって「琉球拝借銀」と称されるようになった。また、一番方、二番方という語もあるが、これは薩摩の藩庫の御物(御物銀)を一番方といい琉球蔵方のものを二番方といって区別していたものであろうと考えられる。
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元禄八年(一六九五)の丁銀の改鋳以後、何度となく通用銀が改鋳されている事はすでに見たとおりである。これにもっとも影響を受けたのが対馬藩と薩摩藩・琉球国である。いうまでもなく対馬藩は朝鮮から人参及び諸物を、薩摩藩・琉球は中国から糸・反物、薬種を買い入れていたのであり、その代価として日本銀(丁銀)を支払っていた。対馬と薩摩・琉球が朝鮮・中国に支払う銀はすべて銀座で鋳造された日本銀であった。銀座は、幕府勘定奉行の配下にあって、その指示で往古銀を作り、それを対馬藩・薩摩藩に渡していたのであるが、『銀座書留」によれば対馬に渡す銀を「対州御渡銀」
といい、薩摩に渡す銀を「薩州御渡銀」と称していたのである。対州御渡銀は、はじめの頃は主として人参代銀に使われるので「人参代往古銀」とも称されていた。貿易に使われるこのような御渡銀と
は別に、朝鮮使節や琉球使節の来日の際に、江戸で公方をはじめ諸大名から贈られる銀があった。これを「朝鮮人被下銀」「琉球人被下銀」と称していた。これも通用銀とは別に、正銀あるいは往古銀で鋳造されて渡されており、銀座にとって特別な銀であった。「被下銀」については別に考察するこ
とにして、ここでは対馬藩の動きも参照しながら薩摩藩の銀貨改鋳への対応と「御渡銀」についてみ
てみたい。 三薩州御渡銀と銀座
薩摩藩・琉球国の中国貿易における日本銀の調達について 61