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Academic year: 2021

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(1)

〜多文化関係性から歴史を捉え、文化を創造すること〜

東洋文庫理事

平野健一郎

はじめに

―長崎と長崎大学多文化社会学部への期待

長崎大学多文化社会学部が創立 周年を成功裡に祝われるこの機会に、そ の創立を心からお祝いし、歓迎を申し上げたいと思います。長崎に多文化社 会研究の優れた教育研究施設が新設された喜びは、日本国際文化学会の会員 全員の喜びでもあります。もっともふさわしく、もっとも強力なメンバー校 をお迎えして、ご一緒に、日本における国際文化研究を前進させることがで きるのは、まことに嬉しいことです。

グローバリゼーションの時代は、世界のすべての地域で、異なる文化の接 触が日常的に繰り返され、それによって文化の変化が恒常的に起こります。

文化は人の生活そのものですから、文化が激しく変化することは人を不安に させます。文化の変化を少しでもよく理解して、不安を少なくすることはも ちろん、人々の生活をよりよくする、望ましい文化をそこから創り出すこと が必要です。文化の変化は歴史を創り出し、歴史は繰り返された文化の変化 の集積です。現代のグローバリゼーション下の不安を生き抜くためには、文 化の接触と文化の変化の歴史を学び、文化をより深く理解することが必要で す。申し上げるまでもなく、長崎は文化の接触と変化の先駆的歴史の持ち主 です。国際文化研究にとって、長崎から学ぶことは無尽蔵といってよく、長 崎は研究意欲をかき立てる宝庫といえましょう。長崎大学多文化社会学部が 国際文化研究の先頭に立って、リードして行ってくださることを期待します。

別 寄 稿

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.国際文化学の出発

日本国際文化学会(Japan Society for Intercultural Studies)は 年秋に スタートしました。 . と相前後しての創立でした。国際文化学という新 しい領域がグローバリゼーションに関連する学問という必然性と意義を有す ることは、この点にも明らかです。しかし、国際文化学は、グローバリゼー ションを肯定的にのみ捉える学問でないことはいうまでもないばかりか、グ ローバリゼーションを追いかけて記述するにとどまるだけの学問でもないと 考えます。むしろ、このタイミングの一致は、最近、世上にいわれる「グロー バリゼーション」を厳しく問い、それと対峙することが必要であることを象 徴するものだったと思います。そして、学会創立 周年に当たる 年に発 生した . は、「文化」の本質そのものを問うことが国際文化学研究者に課 されていることをあらためて教えるものでした。

グローバリゼーションとは、簡単に申せば、ヒト・モノ・カネ・情報が越 境してひろがる現象と、それによる文化の変化をさします。しかし、「ヒト・

モノ・カネ・情報の越境」は 世紀に始まったものではありません。人類の 長い歴史を通じて、地球上のあらゆる場所で繰り返されてきた文化の変化の ダイナミズムです。私たちが今その渦中に置かれている「グローバリゼーショ ン」はその最新版ですが、私の考察では、それは 年の前後 年の間に始 まったものです。 年には、西では、パリの学生デモに代表される「若者 の反乱」があり、東では、中国の文化大革命で紅衛兵の跋扈が見られました。

日本では大学紛争が燃え盛りました。アメリカでもヴェトナム反戦運動が盛 んになりました。世界的な「若者の反乱」から歴史的な大転換が始まったの は、いかにもそれが文化の大変化であったことを示すものです。 年には、

チェコスロヴァキアの改革運動「プラハの春」をソ連軍・ワルシャワ機構軍 の戦車が押し潰すチェコ事件が起こり、これが、ソ連邦を中心に確固として いると思われていた共産主義陣営を崩壊させる始めとなりました。

年 月には、米国の宇宙船アポロ 号が人類初めての月面着陸に成功 しました。それ以前にも宇宙船から見られるようになっていた地球は、「青

長崎大学 多文化社会研究 Vol.

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その上に何十億の人々が共に暮らしていることを、世界中の人々がアポロ 号によって同時に、一瞬にして悟りました。 年には、ローマ・クラブが

『成長の限界』というレポートを発表しました。世界人口の膨張に対して、

地球上の空間、地球が生産する資源、燃料、食糧には限度があることを数字 で明確に示しました。果たして、翌年には第一次オイルショックが世界を襲 いました。地球は閉鎖空間であり、そこで、限られた資源によって世界中の 人々が生きていかなければならないというメッセージは明白でした。同じ 年には、国連人間環境会議の第 回総会も開催され、「かけがえのない 地球」をキャッチフレーズに、環境問題をクローズアップしました。

年には、ジャンボ・ジェット機が民間国際航路に就航しました。たく さんの人々が国境を越えて容易に移動することが可能となりました。もしか すると、この、人々が国境を越えて容易に移動することが可能になったこと が、 年以降のグローバリゼーションのなかでも、もっとも影響力の大き な要因かもしれません。 年に、ヨーロッパの東西間をまたいで開かれた 全欧安全保障会議が採択した「ヘルシンキ宣言」は、移動の自由を基本的人 権と認め、その実施を東西間でモニターしあうことに合意しました。 年 のベルリンの壁の崩壊(すなわち、冷戦体制の崩壊)は、ヘルシンキ宣言以 後、東欧諸国の、特に若者がよりよい生活を求め、国境をくぐり抜けて移動 した結果であるとも考えられます。このほかに、 年前後の 年間には、

ヴェトナム戦争が実質、アメリカの敗北によって終わりに近づき、米中接近、

日中国交回復、沖縄返還など、国際政治面での大きな変化も連続しました。

しかし、こうして並べてみますと、国際〔政治経済〕関係よりも国際文化関 係の方がより大きく、より深い変化の次元であるように思われます。国家間 関係としての国際関係は、 年代からいっそうの混迷状況にありますが、

それは、「グローバリゼーション」と呼ばれる国際文化関係の根本的な変化 に国家が対応できないでいるからです。国際文化関係の枠組で見るならば、

世界は 年代から「グローバリゼーション」と同時に「ポスト・モダン」

の時代に入っており、近代国家としての国家がそれにうまく対応できないの 別 寄 稿

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は当然です。

グローバリゼーションといわれる現象の一面は、ヒト・モノ・カネ・情報 の「越境」ですが、そもそもヒト・モノ・カネ・情報が越境する「境界」は 何でしょうか。 年代までの、近代の境界は国境で、国家がコントロール できる境界でしたが、今では、国家による国境コントロールは緩くならざる をえなくなっていて、国境は(低くなったというよりも)穴あき状態になっ ています。さらにつきつめれば、そもそもは、ヒト・モノ・カネ・情報の流 れが文化のまとまりを創るのが基本ですが、現在では、ヒト・モノ・カネ・

情報が頻繁に文化の境界をも越えて移動していきます。そこに日常的な異文 化関係が生まれます。

.多文化社会の豊かさ

ある時代のある空間に、二つ以上のヒト・モノ・カネ・情報の流れの束が 同時に存在すると、そこに多文化社会が存在することになります。いい方を 換えて、二つ以上のエスニック・グループが並存するところに多文化社会が 生まれる、ということも可能です。特に、異なる文化を持つ人々が越境して 入り込んでくると、そこに多文化社会が生まれます。しかし、移動して入っ てくる人々のグループがなくても、多文化社会が存在するかもしれません。

親の世代のグループと子の世代のグループ、中間層・下層階級・上流階級と いう階級グループ、農村と都市など、多少とも文化が異なる社会が隣接し、

あるいは部分的に重複して、異文化関係を継続させています。

ただ、二つ以上の文化集団が並存しているというだけの理解では、静態的 な捉え方で、面白みに欠けると思います。人々の生活に関わる文化の変化と 関連させなくては、多文化社会論はダイナミズムに欠けることになります。

確かに、多文化社会論は、 国民文化= 国民社会を基本的な前提とした近 代社会論を越える点で進歩的です。しかし、 文化= 社会は近代国民国家 のたてまえ(あるいは、理想)にすぎず、いつの時代にも、ほとんどすべて の社会は多文化社会でした(だからこそ、いつの時代にもグローバリゼーショ

長崎大学 多文化社会研究 Vol.

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は功績がありますが、 文化= 社会の安定性を多文化社会の現状によって 乱されていると認識する近代国民国家が、その困難に直面するのを避け、糊 塗するための理論としてはたらくところがありました。特定の、マジョリティ 集団の文化を固定的に捉え、その変化を押しとどめようとするならば、それ は「文化本質主義」にほかなりません。多文化共生論も、国内の文化紛争を 嫌うあまり、並存する文化のそれぞれの特性は認め、それぞれの文化かぎり での変化を認めようとする文化論であれば、多文化主義が文化本質主義に通 じてしまうという矛盾になります。

この問題について、日本国際文化学会が最初期 年で挙げた最大の功績は

「関係性」(interculturality)概念の彫琢です。国際的な文化間関係の「関 係性」こそが文化のあり方、文化の変化を決定するものであり、文化を考察 する場合のキーポイントも「関係性」である、という基本理解が学会で共有 されるようになっています。当初は、外国文化を外国文化として理解する、

という視点でスタートする傾向もありましたが、今では、如何なる文化も他 の文化との関係性において存在し、変化し、継続する、したがって、そうし た関係性に置くことによって理解される、という見解に高められています。

複数文化間の関係ということでもっとも明白な関係は国際関係(国家間・国 民間の関係)ですが、文化間関係がそれに限られないことは先にも申し上げ たとおりで、すべての文化間関係が「関係性」(interculturality)の概念に よって捉えられます。国際文化学会の「国際文化」には、そのように拡張さ れた考え方が含まれています。多文化社会に生起する文化間の関係を「関係 性」によって捉えるならば、多文化社会をより動態的に捉えることができる、

というのが国際文化学の到達点です。

このような捉え方が文化をいっそう流動化させ、文化の固定的な理解を難 しくすることは否定できないかもしれません。しかし、文化を他文化との「関 係性」、国際文化関係の「関係性」において理解しようとすることが、文化 研究を(そして、国際関係研究を)より面白く、より豊かにすることは間違 いありません。面白い問題・研究テーマがふんだんに立ち現われて来るはず

別 寄 稿

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です。そして、そうした問題・テーマを追究するなかから、文化とは何か、

文化「本来の」本質とは何か、をも考える段階に至ることも必至であると考 えられます。人が特定の文化の、特定の要素に固執するのはなぜか、そうし た固執さえも捨てることがあるのはなぜか、文化の継続性とは何か、文化の 紛争は不可避か、異なる文化を越える文化の共通性、文化の普遍性とはどの ようなものか、など、文化の哲学に、具体的な事例の考察を通じて到達する ことがあるに違いありません。国際文化学は現代の文化論の、有力なあり方 です。

.長崎であることへの期待

グローバリゼーションに伴う国際文化関係を理解することの意義は、特に 現代において顕著ですが、 世紀〜 世紀における国際文化関係の興味深さ もそれに劣りません。人と文化の越境が世界的に大きなうねりを見せたのが その時代でした。日本においても、 世紀〜 世紀は大きな変動の時代で、

人と文化の越境が国内的にも「国際的」にも非常に盛んでした。その筆頭に 挙げられるのが長崎であったことはいうまでもありません。特に、中国、ポ ルトガル、スペイン、オランダと長崎の間の、人と文化の越境移動は、長崎 を傑出させるものでした。ここで私のようなものが長崎を語るのは釈迦に説 法ですが、今日の国際文化学研究者の観点から申し上げても、長崎はすべて の人のものですから、お許しいただけることと思います。

ところで、 〜 世紀、長崎における人と文化の越境移動が盛んであった、

「国際的な」越境移動も顕著であったと記しましたが、「越境」の「境」は 何の境界でしょうか。排他的な領土管轄権を主張する(近代的な)国家はま だ存在していませんでしたから、その境界は「国境」ではありませんでした。

しかし、すぐ上にも書きましたように、長崎には、「国際的」としか呼びよ うのない越境移動が顕著にありました。国境はまだありませんでしたが、

「国」外から異人がやって来たという感覚はあったと思われます。肉体・風 貌の違いと、「文化」の違いがそのような感覚をもたらしたのでしょう。人

長崎大学 多文化社会研究 Vol.

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ました。「文化を越える越境」というカテゴリーに括る以外にないと思われ ます。やがて、幕府が鎖国を行い、長崎の出島と出島周辺にオランダ人と中 国人を囲い込んで、初期的な外交関係を執行しました。今日、学界では、鎖 国は一種の外交であったとみなされており、国境を越える国際移動への過渡 期的現象であったと理解されます。

現地長崎では、ヒト・モノ・情報の越境流入にともなって、市井において も異文化関係が展開したことでしょう。この点からも「文化を越える越境」

というカテゴリーを立てることが重要です。人の越境移動は、異なる文化を 持つ人々の間の接触を、日常生活のレベルで発生させます。すなわち、異な る文化と文化の間の接触が必然的に生まれます。そして、豊富な関係性を伴 う日常的な異文化間接触によって、やがて、双方の文化に変容が生まれます。

異文化間接触によって文化が変容する現象を、かつて私は「文化触変」と名 づけました。今では、人の越境移動とそれによる人々の接触を、その「文化 触変」過程に不可欠の前期過程として、かつて以上に重視したいと思ってい ます。人の移動と接触がなくても、たとえば書物、インターネットなどによ る情報の越境によって文化触変が起ることもありますが、日常的な生活のレ ベルで起こる文化の変化を重視するならば、人の移動と接触に注目する必要 があります。

人の移動と接触に始まる文化触変は、表面的な「文化交流」とは異なりま す。人々が実際に見聞し、使用し、評価し、必要に応じて取捨選択して、自 らの必要に合わせて改良したものが選ばれ、残ります。文化触変の知的な議 論では、文化の「伝播」とか、「模倣」とか、「摂取」とかの用語が使われま すが、人々が日常的に参加する文化触変には、そういう空虚さとは違う実質 があると思います。接触する文化間の、関係性に富んだ相互交流、相互関係 は、文化の一方通行的な移動ではなく、両方の文化を交錯させ、変化させ、

それまでのどちらの文化にもなかった、新しい文化を創造するのです。大変 陳腐な例ですが、カステラは長崎におけるそうした文化触変の代表的な賜物 でしょう。長崎には関係性に富んだ文化触変の歴史が詰まっています。その

別 寄 稿

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歴史を丹念に掘り返すことで、文化触変のメカニズム、さらには文化の本質 そのものをよりよく理解することができると考えます。

鎖国が長崎における文化触変の歴史にどういう役割を果たしたか、も興味 深い問題です。鎖国が完全に国を閉ざすものではなく、出島は世界への窓口 の役割を果たしていました。学界では、鎖国が一つの外交であったという見 方が有力になっていることは先ほども触れました。長く文化を海外、異文化 に開放したあと文化を閉ざし、その期間に受容した異文化を「国風化」する 例は平安朝の日本にも見られました。選択受容した異文化の文化要素を、さ らに自文化に適応させる余裕が得られたと考えられ、日本文化の発展にとっ て重要な期間でした。完全閉鎖ではなく、より微妙な鎖国の時代に、長崎で どのような文化関係が展開したかは、文化触変研究の視点からもぜひ詳しく 知りたいところです。

鎖国が明けかけた長崎へは、いち早く人の移動の流れが押し寄せました。

日本国内からは、坂本竜馬が代表例ですが、私に多少関係のあるところでは、

早稲田大学関係の大隈重信、東洋文庫関係の岩崎弥太郎などがいます。大隈 も岩崎も熱心に、吸い寄せられるように長崎に来ました。新しい西洋「文明」

に学ぶためでしたが、長崎の歴史と伝統により、異文化世界から多様なヒト・

モノ・情報が実際に長崎に移動してきたからであることはいうまでもありま せん。加えて、日本各地・各藩から意欲的な若者が異文化接触を求めて集ま り、彼らの間にも活発な相互関係が発展し、全体として、多様な文化が日常 的に共存する状況が生まれていたと思われます。そうした状況の中、新しい 文化が受容されるだけでなく、自由奔放な文化接触が重ねられ、異なる文化 と文化の「関係性」から新しい文化が生み出されました。近代の「文明開化」

は長崎から始まったといわれますが、そうした文化の変化の累積から文明が 生み出されたのだと思われます。つまり、近代西洋から近代文明がまるごと 長崎に移植されて、近代日本の文明化が始まったのではなく、一つ一つの文 化要素の文化触変が長崎の現場で積み重ねられて、日本の、いわば「日本的 な」文明が生まれたと考えることができます。幕末の長崎での文化触変を考 察することが、文明化のメカニズムを明らかにすることにつながるでしょう。

長崎大学 多文化社会研究 Vol.

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世界史の新しい時代に立って、世界のすべての地域が「グローバリゼーショ ン」の渦中にあります。今や長崎もそうした地域の一つに過ぎませんが、歴 史的経験に優れた地域として、国際的、「文化際」的な開放と交流をより積 極的、より有意義に進めておられることと思います。そこに、長崎の豊富な 歴史的経験が意識的にも無意識的にも活かされているに違いありませんが、

歴史的経験の研究成果にいっそう裏づけられることを願っています。国際文 化学もその成果から大きな裨益を受けることを願うと同時に、国際文化学の 成果が多少ともそれに役立つことがあればなお幸せです。

日本社会は、今、「グローバリゼーション」の暴風雨を受けて、混迷の度 を深めています。閉塞状況に向かっているようにも思われます。かつて、何 度かのグローバリゼーションを日本が受けて立つ先頭に立った長崎で、その 歴史的経験の研究教育が深まり、さらに人々の日常的経験が加えられ、文化 の変化に指針が示されれば、それは日本社会変革の先駆けになるに違いあり ません。悪しきグローバリゼーションによる文化の変化にはどのよう抵抗し、

克服するか、そして、望ましい文化を生み出すかを、長崎の歴史と現在から 指し示していただくことを切望いたします。

(以上は、 年 月 日に長崎大学で開催された「長崎大学東アジア共生 プロジェクト公開ワークショップ 越境する人と文化から問うアジア―多文 化社会の形成に向けて―」で私が行った基調講演の約半分部分の原稿に修正 を加えたものです。)

(参考)

平野健一郎:

東京大学助教授・教授( 年〜 年)、早稲田大学教授( 年〜 年)

国立公文書館アジア歴史資料センター長( 年〜 年)

公益財団法人東洋文庫理事( 年〜現在)

日本国際文化学会創立会長( 年〜 年)

別 寄 稿

参照

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