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自然神学と社会科学

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(1)

弧西

説 自 然 神 学 と 社 会 科 学

その瀧

ヶイムズの自然神学とスミスの﹃道徳感情論﹄

田 中 正 司

1 目次

スコットランド啓蒙における自然神学の問題

ωカルヴァン主義正統派と教会啓蒙

ω自然神学と自然の構造論

偶ハチスンの思想主題と思想系譜.カーマイケル法学の基本構造

ω神学N倫理学"法学の関係

ω﹁自然の構造﹂分析と自然法学の実態︑ニハチスン道徳哲函子の基本主題

ω﹃美と徳の観念の起源の探究﹄

ω﹃探求﹄の主題と方法

ω人間的﹁自然の購造﹂分析とその限界

回﹃情念論﹄

(2)

商 経 論 叢 第26巻 第3・4号2

ω﹃庸念論﹄の実践倫理学的構造

ω歴史的﹁自然の構造﹂認識の進展

⑧ハチスソ法学の実態

↓ヒュームースミスとの関係

情念論と人間の科学

吻﹃探究﹄1﹃情念論﹄と﹃道徳感情論﹄との関係

鋤情念論と名誉論の﹃道徳感情論﹄との親近性

㈲﹃例解﹄の主題とメリット論の展開

㈲﹃情念論﹄の本質的限界

⑥﹃道徳感情論﹄の主題以L本誌第二六巻二号所収

四ヶイムズにおける自然神学観の転換

ω﹃道徳・自然宗教原理試論集﹄の主題

②道徳的欺隔理論の展開

偶﹁自然の構造﹂の狡知性認⁝識の進 展

④道徳的欺隔理論の論理的帰結

㈲糾弾と弁論

㈹欺隔理論の自己否定

五﹃道徳感情論﹄における自然神学の基底性

ω﹃道徳感情論﹄の自然神学的枠組

②欺臓⁝の道徳感情論の展開

紛﹃道徳感情論﹄の基本主題の再検討

㈲六版における自然神学観の展開

(3)

四 ケ イ ム ズ に お け る 自 然 神 学 観 の 転 換

自然 神 学 と社 会科 学 そ の二  

3

ω ﹃ 道 徳 . 自 然 宗 教 原 理 試 論 集 ﹄ の 主 題

ス.ッ上フンドの山︑同名な葎家として智れるヶイムズは︑一七三〇年前後から法学関係の著作と資料集を姿と上梓し︑五八年には﹃法史考﹄︑六〇年には﹃衡平法原理﹄を刊行してい奮)法学以外の・ζヅトランド肇の中心人物にふさわしいヶイムズの百科全書的な叢は︑大部分六〇人○年代に執箏公刊されたものであるが・その中で唯画外をなすのが︑互年に公刊された﹃道徳と自然宗教の諸原理に関する試論薯(以下﹃試論集﹄と略称)

である︒

.﹂の﹃試論集﹄は︑その書名自体が示すように︑﹁道徳と自然宗教の原理﹂の解明を主題としたものであった・こ

のような﹃試論集﹄の主題は︑亘﹁法学﹂とは無縁であるかにみえるが︑既述のようなカ←イヶ†ハチうに

おける神学と倫理学と法学の関係を知るわれわれには﹃試論集﹄の主題が彼の法学の主題と霧不可分の関連をもつ次繁予め了蟹れる.﹂とであろう.﹃試蜂﹄がハチうの﹁道警学﹂の羅・継承を隠された主題としていた

︑﹂とも︑それが法学とは別の関心からたまたま執筆されたものではないことを示すものに他ならない・

ハチうの﹁道徳感覚﹂理論を基本的に承認していたヶイムズは︑道徳鷺原理に立脚する涛の理論を肇するた

め︑その神学的.倫理学的羅の探求を﹃試論集﹄の主題としていたのであるが︑﹃試論集﹄の特色は・ハチうとちがって︑︒→クリ︑ヒュームの鍵主義を踏まえている点にある︒彼は﹃試論集﹄の中でしぼしばパークリやヒュー

(4)

商 経 論 叢 第26巻 第3・4号4

ムを明庭想定した﹁哲学者﹂の見解や彼らの﹁鍵義﹂にふれている.とりわけ︑﹁感覚の簾について﹂論じ

た第二部の第三論文で略→ー博おに名指しで論及しているが︑ヶイムズは︑﹃試論集﹄の執筆に当って︒→

クリ以上三物体の奮書造Lは完全には認識しえず︑そこにデザインをみるのは独断であるとして︑二︑罫勾

的琵論霊脚したハチう理論の認識論的弱点を衝いたヒ︑去の認識批判を念頭においていたよう憲われる.

スコットランド近代化のための﹁法改革﹂を基奎題としていたヶイムズが︑もっぽら法学にのみ関心を集中してい

た五︒年代初頭に亘法学とは関係ないかにみえる﹃試論集﹄を執筆,刊行し叢大の撮も︑バークリ︑ヒ︑ーム

の認馨判旨面して・ハチう的自然神学観に立脚した自然法学の根本的篠討の必要に迫られた占だあ.たとい

えるであろう・ヶイムズの﹃試論集﹄は︑→言︑ヒ︑去の難主養いし宗教批判の衝撃の下で︑それを岳

から受けとめた認識批判の展開による百然法学L体系の難ないし再建を立.薗したものであ︒たのであるが︑﹃試

論集﹄の中心主題がその点にあ.た次第は﹃試論集﹄の燵からも論証される︒

﹃試論墓は・内容的に大別すると︑↑り百然法L論︑回﹁畠と必然﹂論︑の百墨爪教L論から成っている.

ケイムズは・第部の第論文で︑われわれが困窮対象に対して抱く異感(︒︒暑・・︒.帥︒⇒︺Lや両感(︑醤や餌梓プ︽こ

その他の愛蒼藝曇ξいて論じた上で︑第二論文でそれらの議論を⊥削提した百然法L論を展開している.

このωの自然法論では︑ハチうが混同していた正義と仁愛との差琢明確に曳︑れる芳︑そうした視角からのハチ

う批判の先駆としてのヒ︑‑ムの正義論がぎびしく批判されている︒

﹁信念﹂論からはじまり・自我の存在証明←外部感覚論歯果論へと続く第二部の百然宗教L論でも︑同様にそ

れらの問題に対する三去の批判を受け止めた形の認識論を展開する三を通して︑神の存在証門勺..け目・国.,︑.団

i)

(5)

自然 神学 と社 会 科学 そ の 二  

ケイムズは︑ヒュームの認識批判を批判的に検討した上で︑改めてカーマイヶルやハチスンと同様︑自然の作品の

うちに︑﹁神の存在.意図.摂理﹂(OhH・・︒一ρ目﹂①ごを論証しようとしていたのであるが︑第二部の﹁自然宗教﹂

論は︑全体として︑ヒュームのデザイン論証批判に対してニュートン的デザイン論を擁護しようとしたものにすぎず・

その第三論文の﹁感覚の権威﹂論も︑﹁外部感覚論﹂でしかなく︑視覚︑聴覚︑嗅覚︑味覚︑触覚等の﹁感覚の権威﹂

を人間の自然の構造︑ないし﹁われわれの自然の必要によって基礎付けた﹂自﹄ωP圓﹂09ものにすぎないもので

あった︒

バークリ︑ヒュームの懐疑主義と宗教批判に直面した﹃試論集﹄の最大の意義と特色は︑それまでのような直接的

なデザイン論証に基づく神の存在証明ではなく︑神の法の支配を酔捻した上で︑それを逆恥した形の﹁自由と必然﹂

論の展開による道徳原理の確証を意図した点にある︒

彼は︑第一部第二論文で論証された﹁自然法﹂を遵守すべき人間の道徳的行為の可能性を明らかにするため︑第一

部の第三論文でヒュームが﹃人間本性論﹄の第二編第三部第一二節や﹃人間知性研究﹄第八章で論じていた﹁自由

と必然﹂の問題をめぐる哲学的論義を展開しているが︑その中核をなすのが道徳界における欺隔理論である︒彼は︑

この問題は﹁前人未踏の道(§げΦ馨窪梓鑓舞)﹂で︑﹁おそらく読者を驚かす⁝⁝全く新しい光景﹂なので︑﹁全体をじ

っくり精査するまで(最終)判断を停止してほしい﹂(憎嵩9肖=①)とのべているが︑二版での改訂も︑この主題

の明確化が主体をなしていることが注目される︒バークリ︑ヒュームの懐疑主義との格闘の産物であった﹃試論集﹄

の最大のハイ一ブイトはこの⑭の﹁自由と必然﹂論で︑第二部の﹁自然宗教﹂論は︑回で確証された道徳原理に基いて

改めてデザイン論証を認識論的に擁護しようとしたものであったのである︒ハチスンの﹃情念論﹄とならんでヶイムズの﹃試論集﹄からも大きな影響を受けたと考えられるスミスの関心も︑第二部第三論文の﹁外部感覚論﹂やその前

(6)

商 経 論 叢 第26巻 第3・4号6

後の認識論それ自体よりも︑この百由と必然L論の中で展開された偶然←畠の欺隔的感覚に基づく百然の構造L

論にあったことはのちに別稿で論証する通りであるが︑ヶイムズはこの百由と必然L論の中心主題を穿﹁道徳界﹂

喜琶琶伍)における欺隔の問題を百然界Lg§ぎ匙における感覚の欺隔論から出発させている︒

ω 道 徳 的 欺 肺 理 論 の 展 開

﹁印象(冨馨量⁝噛ぼ︑事物に関する哲学的真実とすべての場合に一致するものではないが︑生活の役に立

つ目的にはぴったり適している︒⁝知覚冨昌8ω)は︑実際の真実とちがうので︑より適切な表現がない限り︑

欺隔的(α§蓬三版では︑α・8甕・匿琶琶と呼ばれうる場A口がいろいろある.しかし︑人間がそのために謬つ

ことは少しもない・反対に︑生活と行為の目的は︑知覚が対象のより正蜂複写である場ム・よりも︑こうした策略に

ょってよりよく充足される︒﹂(H.筍卜︒i︒︒"国.=ωtム)︒

第二性質は・二種の虚構(§畏Φ)であり幻想(出一葺)にすぎないLが︑百然は同時に救済を提供している︒

なぜなら・自然が欺隔(雪暑)を発見し︑真理に到達する手段を与えぬままにわれわれ姦置することは︑めっ

(Hi95)

﹁欺隔は・構造葺善江・コ)が不完全だったり恣意的なためではなく︑事物が生活の目的叢もよく適するよう

にそれらに関する注意をわれわれに与えるために賢明に考案言ωΦ育・旨星されたものである﹂(一・・︒ω・.﹄.謹︒

﹁それで・われわれがこうした欺隔的な印象に基づいて行動する髪・にさえ︑私たちが皇悶な何惣もだ肇れるこ

とがないのは驚くほどである︒反対に︑生活と行為は︑私たちが事物に関する厳密な真理に基づいて行為する場ム.よ

りもよりよく充足され︑私たちの存在の目的もより有利に達成される﹂(り59目.=e︒

舶醐 岬 旧 」  

(7)

自然 神学 と社 会 科学 そ の二  

7 これらの引用文が︑感覚の欺隔性とその帰結としての百然の構造(事物の必然法則自的因)Lの不可知性を承認

磯湾嘱もか鰍らぬ畿の効用を認める論理を中核にしていることは明らかである.ケイムズは︑理性による

﹁感覚の塾口の矯正﹂を芝るだけに止ま.ていたハチうとちがって︑感覚の欺糎と自然の構造の不可知性をはっぎり踏ま差上で︑愚覚の輕qL(H⁝ω⁝肖﹄ω)ないし﹁感覚の権威﹂(H﹄刈﹄・藝を羅する議論を展開していたのであるが︑ヶイムズの嚢は︑こうした形で?言︑ヒュ去的な不可知論に対し・常識ないし共

通感覚(︒︒曇︒コ・︒Φ鵠︑︒貯§§藝韓=ω〒・・登擁護論を展開した点にのみあったのではない・ケイムズの百

由と必然L論の真の特色は︑﹁道徳界﹂にも﹁欺隔的印象の類似的な実例﹂(=劉目・ま)があるとして・・欺隔を人間の行為の動因とする論理(道徳的欺隔理論)を展開している点にある︒

この道徳的欺隔理論は︑人間自身が神の設定した必然法則の支配下にあるものとする神学思想に立脚するものとして︑﹁万物の笙原因﹂(=・.ζ・窃心)としての神の法の面定木易葺α蜜量爵星L性(寒)と・その

帰結としての因果の必然性とを前提していることが注目される︒﹁人間の行為はすべて︑純粋の物質を支配する法則

に劣らず必然的な働きをする普遍的な法則によって支配されている︒それゆえ︑私たちの本性のこの部門はみえない(一︒︒犀︒冥︒口け︒{の粛ぎけれども︑実際には私たちは必然的行為者(5︒8ω︒︒僧蔓罐窪邑である︒万物は・このようにして

道徳界でも物質界と同様︑摂理によって確立された固定した法則によぞ動くのである﹂(目.b・靱と・ヶイムズよ考.そいたのである︒ケイムズが﹁動機﹂の必然性を主張し︑人間を﹁道徳的必然(ヨ量羅ωω量三・轟﹃量の下にあるとする所以はそこにあるが︑彼は人間の行為がすべてこうした必然法則の支配下にあるにもかかわ

らず︑人間にはそうした必然法則の支配下にある百分の窪と事物の構造﹂(H﹄")が騒かていてか憲いこ

とから属然感覚(餌ω①鵠ωΦ︒殴鍾督h量§﹁§樽毒塁﹂(=㎝.・﹄.=.・)が生まれると考えたのである・﹁人

(8)

8 商 経 論 叢 第26巻 第3・4琴

間の行為はすべて不動・不易の法則爵Φ象言器匿量によって決定されているので︑人間は本当は必然的行

為者であるけれども︑そのことは彼から隠されて(§8巴Φ血)いるので︑彼は畠な行為煮{...・・q.昌叶)であるとの

(・︒§

このようなヶイムズの論理が︑必然の起動因としての目的因の論証可能隻原理的に否定していたヒ︑‑ムの認識

批判を踏まえた議論であることは明らかである.ヶイムズは︑.→クリやヒ︑去の主張する考に︑人間の本性や

事物の構造は完全には認識しえず︑ましてやハチうの意図したように天間の自然の構造L分析を通して事物の究

極原因や人間の善性を論証することはできないことを承認しながら︑人間には事物の本質・必然法則がみ︑髪いため

に人間は逆に偶然←自由の感覚をもつのであるとして︑事物の究極原甲必然法則の認識不能性の論理を逆用する形

で・そこに畠の余地をみようとしたのである︒この偶然自由の感覚は︑人間自身が必然法則の支配下にある限り︑

客観的には﹁欺隔的印象﹂にすぎぬが︑幸か不幸か人間には必然法則がみえないため︑人間は自らの畠な立.憲に基

づいて行為する百由な行為者Lであると信じて行動する︒そのことが神の立.薗碁然法則実現に寄与する結果にな

このようなケイムズの思想がカルヴァンの予定説の信仰を踏まえたものであったことは︑後述の︒フレアの﹃検証﹄

や・彼自身がスコッ上フンド教会の非難に対して自説を擁護するため二版の百由と必然﹂論に付した蒲遺L臼.

歪⊥刈.・)で・自らの説がカルヴァン主義の予定説の信仰に立脚する次第を強調していることからもある程度証明さ

れる・彼は・客人の死の正確な時期と死に方L(=・・心)を含め︑﹁万物はすべての偉委起動因である貴方によっ

て予め定められている﹂9§肖.ω§が︑﹁貴方の神茉手﹂(=8﹄・.︒三必然法則ぼ﹁隠されていて﹂

(H﹄N;みえないL(H﹄刈)とする点で︑すぐれてカルヴァン的な考え方をしていたのであるが︑ヶイムズがこ

〜榊糊 ⁝⁝

(9)

自然 神学 と社 会科学 そ の二  

9 うした反啓蒙的な啓蒙の批判対象であった恐るべぎ隠された神の思想に立脚する予定説を採用したのは・なぜであっ

たのか.それには種々の理由が考えられるが︑最大の原因は︑ヒ︑去の宗教批判にあったのではないかと推測される︒彼が︑力告.ン的な神の予定に基づく必然法則の支配を予め露した上で︑それが〃みえない"ことから畠

に行動する人間のありのままの自然の活動拓︑のものの中に必然法則の貫廟神のデザインの実現をみたのは・竃iムの類比論批判に対処するため︑直接的な神の存在証明を迂回した議論であると考えられるからであ輪上述のヶイ

ムズの理論は︑み・羨い神の手百的囚)の存在を予め寒しながら︑その認識可能性を断含・地上の人間のありのままの自然の活動をそれとして考察する道を拓いている点で︑ヒ︑去の認識批判(人間の科学)の精神と矛盾し

ないばかりでなく︑噛の亡目目的本性そのものの中に必然法則の貫徹をみている点でも︑ヒ︑去の批判を讐えた議論とい.蓉であろう︒ヶイムズは︑吉スト教的条ア主義の論理によぞ硬直的カルヴァン嚢の31人問性を克服しようとしたハチうの情念道徳論の認識論的難占{をきびしく衝いた三去の批判に対して・カルヴァン嚢の

ドグマを逆用した論理を展開することによって︑両者の限界を克服しようとしたのである︒

いずれにしても︑上述のようなケイムズの思想がすぐれてカルヴ・ン的な予定説の論理をべよにしていることは

確かである︒彼は︑予定説の信仰を根拠にして︑われわれの畠意志に棊つく行動も実際にはすべて神によって予め

予定されたものにすぎないため︑自分の行動が百由Lだと操のは藪隔Lにすぎぬと考えたのであるが・ヶイムズは︑こうした属礎ないし﹁畠の欺隔的感覚﹂"︑そ人間を働かせるインダ条あ誌をなすものに禦らな

いと考︑髭のであった︒﹁人間が彼に予定された活動を正しく行使するように導かれるためには・何らかの畠の観

念︑事物が原因である彼自身に依存しているので︑可能的偶然的であるとの感じが必要で・⁝偶然的なものは何

も認めず︑自分自身が原因に依存しているとしたら︑将来について予め考える余地も︑いかなる,勤..弥,や配,慮の余地

(10)

商 経 論 叢 第26巻 第3・4号10

もなくなり・快苦の直接的感覚以外には行為の動讐もちえなかったであろうL(=・.・︒‑Φ・目二u㎝)からで

あ 秘

ス三が﹃構論﹄第四部で百然がこのようにしてわれわれを騙すのは良いことである.人類の勤労をかぎ立

て絶えず活動させておくのは︑この欺隔であるL(霧﹄・;)としたとぎ︑彼が上述のよ.りなケィムズの議論を

姦においていたことは確かである.人間が自然に騙され看先の利益皐段の論理を追求することが全体の利益

(目的曇程つながるという﹃感情論﹄の欺魎論は︑こうした神学的な畠←必然響前提していたのであるが︑

ケイムズが﹃試論集﹄の初版で展開した道徳界におけ姦隔理論の最大の特色は︑人間の這徳感情Lそのものの成

立基盤を欺隔に求めている点にある︒

人問が悪いことをしたとき悔恨(ー・Hω①)Lを感じるのは︑コ定の規則に従って自らの意志と行為姦制する

自由ないし力の観念が道態情(日§一藝鐙の奮をなしているLからで︑﹁この感情を取り去った並.遍的必然の

体系には⁝非難や悔恨の余地はありえ鶴)(;ε.﹁人間がかりに彼耳の自然(本性と事物の構壮廻を精密

な哲学的(科学的)轟の光に照して見︑理解するとしたら﹂9・・︒心)︑翌.悪とも必然的で不可避なので︑並.行に対

する内面の皇是認も・悪行に対する悔恨も感じることがでぎないLgN︒切)であろうし︑﹁称奪非難﹂展慨の

余地L(H・悼8)もなくなり︑召婁詰感覚Lや﹁蚤け昏Φ琶﹂の感覚9吋︒の)も︑ありえないであろう︒

ケイムズは・人間が﹁称賛に価いする百降・歪毒9三とか﹁責められるべきである︹︒ζ与薗藷①)﹂等々の道徳感情を

もつのは・天間が実際には必然的結果の法則によ.て動かされ︑全世界の体系が第覇因によって徐々に完成に向

って進んでいるのに・偉大な機械のねじを巻き指響しているかの力強い手は決してみ差い(コ..︒.げ.︒¢・︑げ二口融︒

ω豊ため・人間が自分自身で動くように思うL(H﹄刈)ためであると考毛いたのである.彼が﹁道徳的霧.

(11)

11自 然 神学 と社 会 科学 そ の

悔恨.メリットの観念と︑こうした考え方と関連のあるすべては︑畠に関するわれわれの本性の賢明姦隔(芝望

αΦ一帽・︒一︒鵠ぎ¢.謬四g喉Φ6︒・︒①・鵠一切・・凄①溝巳と呼ばれうるものから生まれるL(H.N§とした所以はここにある・自然の創り主は︑﹁良心が支配権を握り︑徳が王座にあるようにするためだけに﹂人間に﹁欺購的な畠の感情憂.蓬暁︒①嵩ロ・q︒霧①.什網三H﹄ごを与えたのであり︑﹁人間の行為が正しいとか間違ぞいるとか称賛非難に価いする

と考えるわれわれの讐の慶は︑全面的にこの諜的構に基づいている﹂が︑﹁それ睾差ことに不完全な存

在としての人間の本性に適ム・し︑徳を顕著に増進するのに役立つ﹄・ら・刈9と︑ケイムズは考えたのである・このようなケイムズの道徳漿亘道徳的でないことは明らかである︒それは︑﹃試竣﹄の百由と必然﹂論を異端として此口発した反対論者の指摘するように︑人間の意志の護性を傷つけ︑罪や徳の懇そのものを破壊する論

理のようにみえ蚤﹂とであろう︒しかし︑ケイムズは︑宇宙の万物が必然法則の支配下にあり・人間も﹁必然的行為者﹂に他ならないとの神学的確信から︑逆に︑そうした必然法則の下にある人間の﹁隷感情﹂の蜜根拠を酔諒

に問う.芝となったのである︒零・・Φ﹃三⁝︒9・鼠・慧へ=︒﹀量.・霞母①曇.房Ψ曇昏①壽a(H﹄e等のス︑︑︑スの﹃道徳感情論﹄に特徴的な用語が︑﹃試論集﹄に数多くみられるのは︑その点極めて象微的である・ケ

イムズは︑ハチスンにおいては自明視されていたため逆に慰静に問われることのなかった愚.徽繍,塵の蓼根

拠の解明を﹁畠と必然論の主題としていたのであ鱗﹁畠﹀︺必然﹂論が人間の道徳的行為短論ないし﹁道徳

感情﹂理論として︑﹁第蔀﹂の﹁道徳の諸原理に関する試論集﹂の中で舗された所以はそこにあるが・.しうした

道徳原理論としての﹁自由と必然﹂論の本質をより明確に示しているのが第二版である︒

ぐ喉墾﹄の第二版改訂は︑五〇年代の不敬キャンペ←の対象となった百由と必然L論を忠に行われているが︑④後述の﹁書簡﹂の批判に応毛新たに挿入された個暫三ω・・⊥ω9で︑﹁物理的必然﹂と異なる﹁道徳的

(12)

r商 経.西盆 叢 第26巻 第34号12

必然Lの自発性が強調されているだけでなく︑㊥初版の論旨の全面改稿個所(目塞⊥切幽)では︑のちに詳しく論

究するように・﹁普遍的必然の学説﹂と置徳感情Lとの警性が︑初版の主題姦理し直す形で改めて正面から問題

にされ・﹁称賛非雑功績欠陥等の道徳感情﹂臼﹄︒)がどのようにして生まれるかが問われ︑初版にはみられ

なかった逼徳感情(ヨ§冨露ゆ至用語が数多く意識的に使用されている.ヶイム︒スが毛五八年の﹃試論集﹄

の第二版でこのように﹃試論集﹄の核心をなす百由と必然L論を大幅に組巻︑κ︑﹁道徳感情﹂用語を正面か霊凱

場させ・道徳溝の成童拠をより意識的に問うようになったのは︑後述のような﹁道徳的必然﹂論に対する非難.

告 発 に 対 し 自 ら の 論 理 の 道 種 を 弁 護 す る た め で あ っ 毎 ︑) ◎ 版 で 全 面 削 除 さ れ た 初 版 の 一 九 予 三 ÷ ジ

(自﹄.⊥輩相当個逝その他の個所でも︑毒的には既述のような形で必然法則の支配下で人間が﹁悔恨﹂その

他の﹁幕感債をもつ根禁問われている.こうした一⊥版の内実は︑百由と必然﹂論の巌が最初からヒ︑ー

ム的な認繋判に耐えるより鞍惣﹁迩震情﹂墨の探求にあり︑二版の改稿は︑自説の道徳隻羅するため︑

その次第をより明獲誤解のないよう髪現する意図の下になされたものに磐らない}︺とを示しているといえよう︒

の ﹁ 自 然 の 構 造 ﹂ の 狡 知 性 認 識 の 進 展

ケイムズの道徳的欺隔論は︑このように必然法則(その起留としてのU的囚)がみ・毒いことから生まれる偶然←

畠の欺隔的感覚が,勤..勉と道徳感情を生み出し︑それらが目的因の有効化因(作禺)として機能すること︒が神の

デザインU必然実現に馨るとするものであったが︑ヶイムズの欺隔論は︑ハチうや穏健派知識人たちが神のデザ

イソ官的因)奮の手段とし農開し告然の構造の狡知竺嚢ぎ量分析︑その帰結としてのモダレーツの﹁立臼心

図せざる帰結(碁門ΦωΦ舞琶幕ヨ・畠§ω8§量の理論と多分に親近性をもつことが皆される.

(13)

自然 神学 と社 会 科学 そ の 二

1;i

潔述のように︑ハチスンやモダレーッは︑ストア思想に従って苦痛や悪の効用を認め︑﹁自然の狡知﹂を説いてい

たが︑﹁第に苦痛は︑何が生活に皇口で危険であるかの驚醤として必要であ2︑﹁第二に苦痛は法の偉大な

強制力である﹂︒﹁第三に季節の不確実性やわれ髪と交わりのある秀の変りやすい気質や他の不都合な出来事から

生まれる災難や失望も︑希望や恐怖を絶えずかき立てるのでわれわれの構造に驚くほどよく適合している﹂9§

..・︒一i・︒)

ムズが︑﹁苦痛レ渓難は︑社会の利益を増進する素晴らしい傾向をもつ﹂9.・刈卜・﹄﹄ω)ものであり・﹁人間の悪

癖や心弱ささ・兄︑賢明で仁愛的な目的に沿うように作られており︑⁝・私たちの行為はすべてわれらが創り主の偉大

で良い意図を進めるのに等しく貢献している﹂(閏儘・︒り①)とのべたとぎ︑彼も︑苦痛や悪をデザイン実現のための﹁自

然の計略﹂と考えていたハチうの思想に従っていたのである︒欺隔を神のデザイン実現のための百然の狡知(計

略ごと考・兄るヶイムズの理論が︑ハチスンの﹁自然の狡知﹂論やモダレーツの﹁意図せざる帰結﹂の理論ととくに

質を異にするものではないと考えられる根拠はここにある︒

ハチうやモダレーツの理論レ﹂異なるヶイムズの欺隔論の独自性は︑こうした百然の8暑ぎ§L実現の霞が万物の究極原因としての神のデザイン曾的因あ蘇俗原因へ作愚としての偶然白由の鷺のうちに求めら

れている点にある︒百然の極めて賢明な計略Lを︑顧望と意志との間の必然的関連が視界の外におかれている﹂こ

丹8αq)(鍵$ωω)人間が偶然感覚をもつのは疲がデザインされた活動を正しく行なうように彼を導くためである﹂(=.・.﹄.藝というヶイムズの思想は︑彼が﹁自然の狡知﹂を偶然・自由(作用図)←必然(ー1的因)実現のうちにみていたことを示すものといえるであろう︒ケイムズの欺隔論が作用因論による自然の狡算意図せざる帰結の理論の精密化論であ

(14)

4号 14 商 経 論 叢 第26巻 第3

ったと考えられる根拠はここにあるが︑ハチうの場合には百然の構造Lの狡知性分析による論証の対象とされて

い た 鉾 甲 必 然 法 則 の 支 配 が 露 侮 さ れ た 上 ︑ 百 然 の 狡 知 L 曹 体 が ︑ デ ザ イ ン 趣 欝 奮 か 鵡 と し て よ り ︑

伶恥附か論班伽に力点が移っていることが注目される︒

ケイムズが偶然占由の欺隔的感覚を神璽アザイソ倉的因)の有効化原因(作用因)とする芳︑人間の本能をそ

うした機能藁すものとしていたことも︑この妻に対応するものに他ならない︒ケイムズ自身は︑蓬動の直接の

作用因は・行為の動機ではなく︑意志であることをわれわれは︹ク一フーク︺博士と共に認めるL9罫自.藝と

して︑偶然占由の感覚に基つ暑為への意志が作禺であるとしノ﹂いるが︑輪は作用因とはしていない.本能は︑

意志に基つくものではなく︑動機と同様︑必然法則に従うものであるからである︒しかし︑ケイムズによれば︑人間

はもともと神のデザイン曾的因)実現に必覆パーを担うべく設計ざれたものであり(︒=二・.・.﹄一婁︑自

由 意 志 塞 つ く 行 為 も 哲 学 的 に は 必 然 法 則 に 支 配 さ れ た も の に す 差 い . と す れ ば ︑ 本 能 塞 つ く 行 綴 禦 そ の

目的実現のために設定した作用因(晶因の有効化因)的機能集すものと芝ることができるであろう︒本能が厳密

には必然法則の表現にすぎないにもかかわらず︑偶然占由の欺隔的感覚に基づく行動と同様︑作用因と考えられる

のはそのためであるが・ヶイムズの百然の狡知L論の特色は︑こうした本能や作用因の活動がデザイン実現につな

がるとする点にある︒

こうしたヶイムズ思想の特色を象徴しているのが︑みえない手の観念である︒

彼は・﹃試論集﹄の随所で︑この世を動かしている﹁みえない力(ぎく豊ε︒毛Φ.ω)の働き﹂(り藝目.§に

ふれ・おれわれの内的構造のうちに認められる英知とデザインの痕跡L(=笥二・三のうちに﹁みえざる設計

原因(霧喜量讐α・6騨屋﹂(=.・①﹄・ω︒らとしての神の手(量︒畦島口讐帥コα喜︽象く帥コ︒げ帥ロα)(H.ω・.㊤.ω㊤.︑

(15)

自然 神 学 と社 会科学 そ の 二 10

目.・︒09の感触をみている︒﹁人間が実際には必然的結果の法則によって動かされているにもかかわらず︑自分で動

くように思う﹂のは︑﹁宇宙の体系が箏起動者によって徐々に古兀成に向って進んでいるのに︑偉大な機械の捻子を

巻ぎ︑指揮をしているかの強い手は決してみえない﹄⁝︒刈)ためであるという彼の言葉も︑こうしたみえない手

の内実を示すものとい︑乏であろう︒ケイムズは︑﹁神の手﹂の痕跡を宇宙の設計者︑笙原因としての神がデザイ

ンした事物の必然法則のうちにみていたのであるが︑これらの必然法則は"みえない"ため︑人間にも偶然・自由の

余地があると信じて自由に活動することがデザイン実現につながると考えていたのである︒

このようなケイムズのみえない手の理論がハチスソのデザイン論と多分に性格を異にすることは明らかである︒ハ

チスンの理論は︑既述のように︑﹁自然の構造﹂の狡知性分析を通して︑神のデザイン"目的因を論証することを主

題とするものであった︒それは︑百然の構造Lのうちに隠された自然の6︒量義としての﹁神の手﹂をかか﹂と

を通して︑目的因の支配.貫徹を論証することを意図したものであった︒これに対し︑ケイムズの理論は・こうした

デザイン論証のための百然の狡知L分析をべ支にしながらも︑ハチスンのように百然の構造L分析にょるデザ

インー1目的因論証を中心主題とするものではなく︑逆に︑目的因11必然法則の支配を前捻俗した上で︑それが"みえ

ない"ことから人間にも偶然.自由の余地があると信じて行動する人間の︑目的因の有効化因(作用因)としての活

動のうちに目的因の実現をみるものであった︒

ケイムズの理論は︑デザイン論証よりも︑目的因・必然法則の伽恥跡か論珊俗壬体的再樽励)を中心とするもので

あったのであるが︑ス・︑スの﹁みえない手﹂の理論がこのような論理をベースにしていたことは・両者の論理内容を

対比するとほぼ確かであるとい・蚤う︒ス︑・スのみえない手の理論が︑目的因をはっぎり露しながら・昏臨諦謹

よりも︑目的因の作用因の論理化を中心にしていた所以もそこにあるが︑ケイムズのみえない手の理論は︑カルヴァ

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商 経 論 叢 第26巻 第3・4号 16

ンの予定説の論理のほかに︑さらに︑必然法則の創造差しての神の摂理と仁愛を相心定していたことが注目される︒

ケイムズの理論は・予定説の論理に立脚したものでありながら︑カルヴァン主義の恐るべぎ無慈悲な神とは異なるお

釈迦様の掌の上で踊る孫悟空論的性格をも合わせもつものであったのであるが︑こうしたケイムズの思想がキリスト

教的ストア主義の伝統に基づくものであったことは明らかである.ヶイ会のみえない手の理論は︑予定説の論理と

彰ぎ蓬冒箪琶σ①︒①<︒葺Φとしてのストア的な神の摂理と仁愛を前提した上で︑偶然.自卑必然(作用因旦︑目

的因を説くものであったのであるが︑こうした観念それ自体は必ずしもケイムズの独創ではない︒ハスチンやモダ

レーツも・既述のハスチンの思想の示すように︑﹁自然の医者の⁝⁝狡知と技巧﹂を信じ︑﹁人類が目にみえないよう

に結び合わされ・みえない結ムニ垂σ雪蚤)によっ三つの偉大な体系を作っている﹂ことを認めていたからで

ある︒

ケイムズの欺隔論は︑こうしたストア的観念に立脚したハチうの自然の狡知論をべ支にしながら︑それを作用

因の論理化することによぞ︑自然の構造論を経験主体化しようとしたものであるが︑こうした形の自然の構造の

狡知性認識の進展は︑カ←イヶル︑ハチう以来の百然の構造L論そのものの変質をもたらすことになった次第

が注目される・ハチうは︑既述のように︑自然の構造論の中心主題を人間本性の豊︑性論証に求めていたが︑それは

彼が百然の狡知Lを認めながら︑それを論証する論理を欠いていたためであった.彼は︑ケイムズのよう旨卑

必然の論恐徐された"欺隔の摂理"を確信しえなかったために︑作用因としての﹁人間的自然天間本性)の構

造 ﹂ の 爵 溝 慧 を 論 証 す る こ と に よ っ て 百 然 の 狡 知 L 藩 轡 よ う と し た の で あ る ︒ 彼 が ︑ 仁 愛 の 自 然 性 姦 調

)そのためであった︒これに対し︑し︑﹁他人の幸福に関するこの究極願望が最も自然な本能である﹂としていたのも

ケイムズは︑﹁自然の狡知﹂を自由(作用因)←必然(目的因)実現の欺隔的過程のうちにみたため︑人間的自然(人

...̲凹̲̲山 醐幽1鞘 酬 輔1雌酬 醐WFWININ榊 脚 榊 酬 脚 柚]1

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間 本 性 ) の 善 性 論 証 に 代 . て ︑ 偶 然 . 畠 の 欺 隔 的 感 覚 な い し 本 能 に 基 づ く 人 間 の 活 動 が デ ザ イ ン (目 的 因 ) 実 現 に つ

な が る 次 第 の 論 証 を 百 然 の 構 造 L 分 析 の 主 題 と す る 道 を 拓 く こ と に な っ た の で あ る ︒ 自 然 の 構 造 論 の 主 題 が ・ 醇

曹 然 の 構 造 の 霧 馨 簿 証 か ら 騒 聲 然 の 馨 か 楚 馨 す る 導 拓 く こ と に な っ た ら の 契 機 が 三 に あ っ

たことは明らかである︒

ω 道 徳 的 欺 肺 理 論 の 論 理 的 帰 結

自然 神学 と社 会 科学 そ の 17

自由←必然の必然隻予定説の信仰に基づいイ︑形而上学的に主張したヶイムズ神学は︑その次第の具体的論証のた

めの百然の馨Lの歴史的経験分析へQ扉を開くこととなったのであるが︑こうした可能性を秘めたヶイムズにお

ける自然の構造の狡知性認識の進展は︑次のような論詠帰結をはらんでいた次第が大きく注目される・笙は︑自然法観の転換の可能性である︒既述のように︑カ←イケルは︑百然法の第二の基本的規則Lを﹁各人が︑力の及ぶ限り全人類の共嚢.を増進し︑この共響が許す範囲内藷個人の私的釜nを増進す鎚点に求めていたが︑偶然自由の欺隔的感覚に基づく作用因の活動ないし本能追求がデザイン実現を結果するとすれば・狛﹂うした公韮口条項を自然法の基本命題とする必要性はなくなり︑逆に︑個人的善の追求が意図することなく全体善の実現に

つながる百然の構造Lの解明が自然法の中核主題となることであろう︒こうした自然法観の転換こそカ←イケル⊥チう以来の自然神学の思想伝統から出発したスースの課題であったが︑その;の契機をなしたのがヶイムズ

の道徳的欺隔理論であったことは明らかであるといえよう・

道徳的欺蟻論の第二の論理的帰結は︑ハチスン的暴灘論が不要化する点である・既述のように・ハチうは徳性の原理を他人に対する蔓動機に求めていたが︑慧志Lは畠でも﹁動機﹂は必然法則に支配されるものにす

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商 経 論 叢 第26巻 第3・4号 18

ぎず(Ω・=〒謹﹄﹄了一§︑偶然・畠の欺隔的感覚ないし自然の本能に基づく百然の情動(口讐=.㊤一帥{{①︒

量が自然に必然実現に資するとすれば︑動機の仁荏(犀冨α・・藝︒嵩⁝︒︒畠≦凶辱ほとくに問う必擦なくなる

からである・ケイムズが﹃試論集﹄初版でハチう的仁愛動機論茎面的に後退させた理由はそこにある.ケイム4

的論理の下で・必然法則窺定される動機の如何がかりに問題になるとすれば︑動機がその原因規定因)をなす環

葱即いでいるかどうかという︑動機の療境的適宜性(ω凶琶§一℃量量の如何が問われることであろう.ス

三が﹃構論﹄でハチうの簿露論を否定し︑動機の状鶴隷讐徽の条件としたことの背景には︑こう

した動機観があった次第が認識される要があるレしいえるであろう︒パ〜ノ︑

第三は・こうした仁愛動機論の解体に対応する︑倫羅の主題の変化.変質︑より具体的には︑主体の情念規

制.慮格暁善曹遺徳廠覚海練論を中心とする嬰蹄道徳論に代る︑メリット(評価.承認)論の中心主題化である︒人間

の行為がすべて必然法則の支配下にあり︑偶然畠の感覚ないL本能塞つく活動が必然実現に役立つとすれば︑

情念規制や籍改善のための実践倫理学はとくに展開する必要はなくなり︑さまざ差情念構動捷.て動くわれ

われの行為憲情を兜が蒙評価し︑是認・称賛するかどうかという︑人大関係の﹁功績欠陥﹂論が社会生

活上必要な忠主題となるからである.ヶイムズが︑他人の称賛・非難︑それに伴う交の悔恨.憤慨など︑他人の

是認願評価にかかわ喬題を道徳論の忠主題とし︑まΦω貫・巳星ρヨΦ﹁甕﹃①≦曽﹃暑﹃餌一ω①遂︒﹃9団等の用語

を多用し蓮由はそこにあるといえるであろ篠︾﹂れらの用語がス三の﹃道態情論﹄に特徴的角法である三

は改めて指摘するまでもない妻であるが︑ハチうの﹃情念論﹄との格闘の産物であ︒た﹃感情論﹄初版がハチス

ン的実践道徳論と塞本的に性格を異にする称賛非難憤慨侮恨論を中核とする・‑.ト論として展開されたこ

との背景には・自然神学観の転換に伴三﹂うした倫理学の主題の変化があ.たことは明らかである︒

(19)

自然 神 学 と社 会 科学 そ の 二 19

第四は︑こうしたメリット倫理の論理的帰結として︑正義論が倫理学の中心主題化する点である︒仁愛動機が自由

に基づく秩序の維持に不可欠でなくなれば︑メリット論の二つの主題をなす﹁正義と慈恵﹂(侵害[▽憤慨[▽同感ε正義

と︑恩恵O感謝[▽同感呂慈恵)のうち︑慈恵(仁愛)は市民社会の秩序維持には必ずしも必要ではなくなり︑人i人間の

交通における正義(8ヨ日臼β︒叶ぞΦ甘ω膏Φ)の遵守が社会生活上不可欠なメリット論の唯一の中心主題となるからであ

る︒ス︑︑︑スが﹃感情論﹄第二部で﹁正義と慈恵について﹂論じながら︑実際には慈恵の徳については語ることなく︑

正義"法の原理論の構築を倫理学としての﹃道徳感情論﹄全編の主題とした根本の理由はそこにあるといえよう︒

第五は︑こうした倫理学の主題の変化に対応する﹁事実問題ハ竃弩2鼠評&﹂論としての﹁道徳感情﹂論の台頭

である︒ス︑︑︑スが﹃感情論﹄第二部第一編の脚注で自分の﹁現在の研究が⁝⁝権利の問題にかんするものではなく︑

事実の問題にかんするものである﹂(↓竃匂︒胸淵一・窯9色としていることは周知の事実であるが︑スミスがそこで言及

した権利問題とは︑服従の義務ないし処罰の権利の究極の根拠を問うものとして︑ライトの究極の原理としての神の

意志と︑自由な行為者としての人間の自由意志を前提するものであった︒カーマイヶルの自然神学は︑既述のように

こうした権利問題から出発したものであったが︑﹁人間の行為がすべて︑全くの物体を支配している法則と同様に︑

絶対に誤ることのない作用をする一般法則によって指導されるもので︑自由についてのわれわれの感情は事物の真理

に照応せず︑人間の行為を正しいとか間違っているとか︑称賛・非難に価いすると考える私たちの特有のやり方は︑

全面的にこうした欺隔的な感情に基づいている﹂(H・︒︒刈①)としたら︑権利論は人間の道徳感情の実態に即さぬもの

となり︑権利の根拠を問うだけでは問題は何ら解決しないことになってしまうことであろう︒﹁完全な存在がいかな

る原理に基づいて悪い行為の処罰を是認するだろうかではなく︑人間のように弱い不完全な被造物がどのような原理

に基づいて現実に事実上それを是認するか﹂(↓ζω﹄・一.姻﹂O)というスミスの﹃感情論﹄の言葉に示されるような

(20)

4号 20 商 経 論 叢 第26巻 第3

形 で ・ 人 間 の 衆 窒 雰 ﹁道 徳 的 露 管 の か 析 を 通 し て そ の 幕 穿 検 証 す る こ と が 探 求 の 主 題 と な る 根 拠 は そ

こにある︒とくに︑道徳感情が哲学的には欺隔にすぎないとしても︑人間の﹁自然の情動﹂から生まれるそうした欺

隔的感情が︑﹁人間の不完全な構造を矯正するように巧みに排列され︑﹂﹁徳性を顕著に増進する傾向をもち﹂(一,

︒︒蕊)・﹁摂理の偉大な良きデザインを進めるのに等しく貢献する﹂(H・寄8目・・︒㊤Φ)としたら︑⑦そうした欺隔の下

にある人間のありのままの﹁道徳的諸感情﹂の分析を通してその道徳性を検証することが︑㊥﹁道徳的必然﹂の下で

なぜ遭徳感情Lが成立するかの探求と麹︑改めて倫理学の主題として要請されることになるであろ瓢百由と

必然﹂論を﹁道徳原理論﹂として展開したヶイムズが︑われわれが罪を犯したときに自然に感じる﹁悔恨﹂の感情の

分析を中心に︑人間の﹁道徳的諸感情﹂のありのままの実態をそれとして明らかにしようとした所以はそこにある︒

ハチスンが論証の主題としていた目的因と必然法則を予定説の教理に基づいて前提化し︑それが"みえない"ことか

ら逆に道徳感情が生まれるとしたヶイムズの道徳論は︑ハチスン的目的因説を全面否定したヒュームとは別の形で︑

ハチスンの情念道徳論の非経験性を暴露し︑人間のありのままの本能と情念に基づく道徳感情論の展開を志向したも

のとして︑新しい経験倫理学への道を拓くものであったのである︒こうしたヶイムズの論理を継承.展開することに

よって︑ハチスンの情念道徳論の限界と︑それを克服しようとしたヒュームのジレンマを克服した情念倫理学を完成

に導いたのがスミスであるが︑スミスの﹃道徳感情論﹄にはヶイムズが行ったような道徳の根本原理についての問い

かけはみられない︒スミスは︑ヶイムズとちがって事実分析のみを行っているが︑そうしたファクト論としての﹁道

徳的諸感情の理論﹂の展開は︑ケイムズが展開したような﹁自由と必然﹂をめぐる道徳原理論を前提してはじめて可

能となるものであった次第が確認されるべきであろう︒

第六は︑こうした経験倫理学の登場に対応する同感概念そのものの質的転換の可能性である︒ケイムズは﹁同感

(21)

自然 神 学 と社 会 科学 そ の二 21

(ω団ヨ"簿ξご用語を共感(8ヨ冨婁︒巳用語とならんで種々の文脈で使っているが︑ヶイムズにおいては﹁同感﹂

が多分に交通概念化されていることが注目される︒たとえば︑ヶイムズによれば︑﹁貴方の世界では何も孤独で見棄

てられることなく︑すべてが相互的な連合に向って進むように︑貴方の神聖な手が︑かくも強固に人々を結びつける

絆を振り出し︑同感の力によって人を人に結合したのである﹂(門︒︒8.目.ωO①ーごといわれる︒ヶイムズは︑同感

を︑他人への仁愛感情に代表される利他的感情としてより︑﹁血の絆より強い絆で人々を社会的に結びつける﹂(一.

鱒9﹃一刈)﹁強い結合原理﹂(H・ω鐸閏.・︒㊤ω)ないし﹁人間社会の接合剤である﹂(H.N野﹃一①)と考えていたの

であるが︑彼がこのように交通概念化された同感概念を抱くようになったのは︑ヒュームの影響によるだけでなく︑

欺隔論がからんでいたのではないかと考えられる︒偶然・自由の感覚に基づく人間の行為がすべて必然法則の有効化

因(作用因)でしかなく︑仁愛動機も必然でしかないとしたら︑同感概念についても︑その仁愛的側面よりも︑コミ

ュニケーション原理としての作用因的機能の方が着目されることになるからである︒スミスの﹃感情論﹄の想像的同

感論がこうした交通原理としての同感概念を前提していた次第を理解する一つの鍵も︑ここにあるといえよう︒

㈲ 糾 弾 と 弁 論

ケイムズにおける自然神学観の転換は︑以上のような論理的帰結を内蔵するものであったが︑上述の諸論理はいず

れもそれまでの伝統的倫理観から解放された人間のありのままの﹁道徳感情﹂分析に基づく新しい経験的倫理学の生

誕を予告するものであった︒ケイムズは︑目的因説を否定していたため︑必然観念にとらわれることなく︑自由に﹁人

間の科学﹂を構想することができたヒュームとちがって︑目的因説と必然法則の支配を承認していたにもかかわらず︑

そこにヒュームの﹁自由と必然﹂論にはない偶然・自由の欺隔的感覚の論理を導入することによって︑ヒュームとは

(22)

商 経 論 叢 第26巻 第3・4号 22

ちがった形で人間の行為をそれとして経験的に観察する経験倫理学ないし人間の科学の展開を可能とする論理を提供

することになったのであ%しかし・こうした欺隔の道徳感情趨ないし︑それ霊脚する経験倫理学の展開は︑道

徳観念の神聖性を傷つけ︑道徳感情の仮面を剥ぐものとして︑ケイムズの﹁経験神学﹂思想のヒュームの宗教批判と

の本質的同質悔気付いた正統派の反響買い︑ヒュ⊥と共にはげしい批判告発糾弾の対象とされることにな

ったのであった︒

ヒュームは︑それ以前から﹃人間本性論﹄の懐疑主義の故に僧侶たちの攻撃と拒否権の対象にされていたが︑ヶイ

ムズに対する非難は︑五二年八月号の﹃スコッッ・マガジン﹄誌に﹃試論集﹄の自由と必然論における欺隔の類比に

β30}.(O﹁αqαω)

G︒︒o

(︾櫛冒ΦP一3ωωhαqpωξ櫛巴"g8αh臼28ω8ωω︒︒8

ααqδ)

(Q︒)﹂

.

する形で︑ケイムズの﹁自由の欺隔的感情﹂論の前提になっている﹁感覚の欺隔﹂理論自体が誤謬の産物でしかない

(32)次第を明らかにする一方︑必然説を信じたら︑それに影響されざるをえない点を指摘したのであった︒

ケイムズに対する批判は︑それで一旦収まったかにみえたが︑五五年にはさらにこうした批判を継承.展開する形

参照

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