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實 るイギリス毛織物の輸入・仕上げ・販売 七世紀ドイツにおけ

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(1)

論 説

六︑一

七 世 紀 ド イ ツ に お け

﹁ロンドンーーアントウェルペン枢軸﹂

る イ ギ リ ス 毛 織 物 の 輸 入 ・ 仕 上 げ ・ 販 売

の 延 長

諸 田 實

目次

はじめに

「三

は じ め に

1 マーチャント・アドヴェンチャラーズ

ス人貿易商)

O嵩叙縣評邸QO嵩翫嵩僑嵩妹ONONO鉢訟点︑O瓢鳥 稿

.

(﹁喬

(≦¢σ§簿§§§︒︒

(嵩O︒︒NO︒︒)89

(2)

2商 経 論 叢 第35巻 第2号

のは︑この時代の経済史のなかで次の..つの問題が︑バウマンの新研究によってある程度まで明らかにされたからで

ある︒はじめにその点を︑研究史に関連づけて説明しておこう︒

e一六世紀のヨーロッパでは︑ヴェネツィアとブリユッへ(ブリュージュ)を中心とするこれまでの遠隔地問の

商業システム(いわゆる一中世の世界経済﹂レーリヒ)が崩れ︑これに代ってアントウェルベンを中心とする商業(と金

融)の新しいシステムが成疏するが︑アントウェルペンがこの新しいシステムの中心として国際的貿易(と金融)セ

ンターへ発展するうえで重要な役割を演じたのは︑ポルトガルとスペインが獲得した香辛料その他の海外の産品︑そ

の対価として重要性をましたドイツの鉱産物と金物︑これらとならんで︑とりわけ.五世紀後半から急増するイギリ

ス毛織物の取引であった︒よく知られているように︑毛織物は.五世紀末から.九世紀初めまで一︑一〇〇年余にわたっ

てイギリスの最重要な輸出品であったが︑特に一六世紀には︑その大部分がマーチャント・アドヴェンチャラーズに

よって未仕ヒげの状態で︑いわば半製品としてロンドンからアントウェルペンへ︑そして一圧六〇年代に低地地方に

反乱が起こってからはドイツ(エムデン︑ハンブルク︑シユターデ)と低地地方(ミドゥルブルフ︑デルフト︑ロッテルダ

ム︑ドルトレヒト)の諸港へ輸出され︑アントウェルペンをはじめ低地地方とドイツの諸都市で染色・仕上げを施され

て広く中央ヨーロッパの大市(おおいち)で販売されていた︒

このイギリス毛織物輸出の動向については︑すでに船山栄一氏がイギリス側の史料(﹃関税会計録﹄)にもとついて

詳細に明らかにしているが︑低地地方やドイツの諸港へ荷揚げされてからの染色・仕上げの加rと販売の実態につい

ては︑なお不明な部分が残されている︒以ドで紹介するようにバゥマンの新研究は︑一五六〇年代から.六二〇年代

までの時期について︑ドイツの諸港におけるイギリス毛織物の輸入量︑輸入したイギリス毛織物の染色・仕ヒげ加工

と販売の実態とドイツの内陸部にまで進出したマーチャント・アドヴェンチャラーズの活動を︑イギリス側の史料に

(3)

ユ$.17世 紀 ド イ ツ に お け る イギ リ ス 毛 織 物 の 輸 入 ・仕 ヒげ ・販 売  

3 加えてドイツ側の史料を使って明らかにしたもので︑これによって︑これまで詳細については不明とされてきた部分

つまり︑ドイツの諸港へ荷揚げされてからのイギリス毛織物のその後の流れ(染色・仕Lげ加Lと販売)がある程度ま

で明らかになった︒その点で本稿は︑﹂六世紀のイギリス毛織物輸出における﹁ロンドンーーアントウェルペン枢軸﹂

を明らかにした船山氏の研究の延長線Lにある︑ということもできるであろう︒

口,方︑本稿が対象とする.κ六〇年代から︑六︑︑○年代にかけての時期は︑ザクセンからオーバーラウジッ

ツ︑北ボェーメンおよびシユレージエン(シロンスク)にかけての中東部ドイツで︑麻織物の買付において問屋制度

の歴史L独自の形態とされる﹁ツンフトカウフ﹂(N=藁惹三︒鼻号﹃貯2一爵穿Φ=Φ冷毎躍のくΦ昌﹃紹)が成疏した時期に

当っている︒この地域はすでに中世末に南ドイツと並ぶ麻織物の特産地であったが︑︑八世紀にかけてドイツ屈指の

麻織物生産地に発展し︑その製品はヨーロッパ各地ばかりでなく西アフリカやアメリカ新大陸にまで輸出されてい

た︒ちなみに︑一八世紀のプロイセン(ドイッ)の最重要輸出品はシユレージエン製の麻織物である︒

この中東部ドイッの麻織物生産地では︑ちょうどその頃︑ニュルンベルクやライプツィヒの商人(麻織物問屋)が

この地域の麻織工ツンフトとの間で︑﹁ツンフトカウフ﹂と呼ばれる資金の前貸と一括買入れ11納入の契約を結ん

で︑大量に麻織物を買付け︑これをセとして南欧へ売りさばいていた︒一.一十年戦争前夜のこの時期は︑中東部ドイツ

の麻織物工業史において﹁ニュルンベルク商人の時代﹂δ器N簿鴛費ユ頸2二9σΦおΦ巳あるいは﹁ツンフトカウフ﹂

の時代と呼ばれている︒筆者もかつて︑ヘルビッヒ編の史料集頭興σΦ耳頃①一げ粛(ξω噂)"の竃§嵩Nミ饗箋§・§轟q︒き自誉,

鴨︒︒6ミ罫器§§ミ§融︒ミ§儀鈎お契)に収録されているニュルンベルクの問屋商人と現地の麻織工ツンフトとの間で結

ばれた﹁ツンフトカウフ﹂の契約書や︑オバンとクンツェの研究などを使って﹁ツンフトカウフ﹂の成堂と構造を考

察し︑その後︑ザイボルトの新研究によって最大の麻織物問屋であったバルトロメウス・ヴィアティス(︑圧.・︑八

(4)

4商 経 論 叢 第35巻 第2号

一六︒︑四)の生涯と遺産を紹介したことがある︒

ただし︑これらの筆者の以前の論文では︑﹁ツンフトカウフ﹂を結んで麻織物を買いつけていた商人のなかに︑

ニュルンベルクやライプツィヒなどのドイツ人商人のほかに︑かなりの数のイギリス人商人が活動していたことは指

摘しておいたが︑イギリス人商人の経歴や活動の詳細については明らかにすることができなかった︒バウマンの新研

究はこの点についても︑ドイツへ毛織物を輸入したイギリス人商人のなかからドイツの内陸部へ進出して﹁ツンフト

カウフ﹂を結んで麻織物を買いつけた商人が出たことを︑彼らの経歴と活動の実態を明らかにして述べており︑これ

によって︑筆者の旧稿で不明のまま残されていた問題がある程度まで明らかにされることになった︒

以hのように本稿は︑一六世紀後半から一七世紀初めにかけて︑ドイツの諸港へ輸出されたイギリス毛織物の染

色.仕上げと販売について︑およびドイツの内陸部へ進出して﹁ツンフトカウフ﹂を結んで麻織物を買いつけたイギ

リス人商人の経歴と活動について︑これまで不明とされていた問題をある程度まで明らかにした点で︑多少の新事実

を提供することになるのではないかと思う︒

(1).(未)貿(大)﹃西

.)

(2)r(﹃商i)

(1)(﹃商.︑)

(5)

lf,17世 紀 ド イ ツ に お け る イギ リ ス 毛織 物 の 輸 入 ・f1土 げ ・販 売  

5

マ ー チ ャ ン ト . ア ド ヴ エ ン チ ャ ラ ー ズ に よ る 毛 織 物 輸 出 と そ の 輸 出 先 指 定 港 の 変 遷

(イf)貿

(原)(半).

(約:)・.︑︑.κ

.11.年.

・︑︑・.年

..二.

.

スの主力輸出品の変化は明らかであろう︒

.六世紀にイギリスの輸出の主力商品となった毛織物は︑主として未仕Lげの白地広幅(ニヤードー1約・八三センチ

以卜)の厚手毛織物(いわゆる旧毛織物"O置O鑓o霞︾乙と粗い薄手のカージー織で︑その大部分がロンドンの﹁毛織物

輸出商組合﹂(O︒ヨB身︒hζΦ円冨黒﹀良く①篤葺2︒︒)に所属する貿易商によって︑南ネーデルラントのアントウェルペン

へ輸出されていた︒毛織物を積んだイギリスの船団は通常︑年︑.回(クリスマスの頃と聖霊降臨祭の頃)護衛艦つきで

ロンドンを出港し︑アントウェルペンへ入港すると︑貿易商は月︑水︑金曜日の"鴇o芝餌︒︒脇"にこれを売りさばい

た︒イタリア人とハンザ人もこの毛織物貿易に参加していたが︑.六世紀には外国人のシェアは.・︑○パーセントを

︑六世紀初め(︒κ○︑ー○ヒ年)には平均して年約八万.︑︑○○○反の毛織物がイギリスから輸出されていた

(6)

6 商 経 論 叢i第35巻 第2F7F1

1・八.

ント・アドヴェンチャラーズはκ万○・五八反の厚手毛織物と四万九︑九六四反のカージーをアントウェルペンヘ

向けて輸出し︑・五五四年には一三万κ︑五九五反の毛織物がロンドン港から輸出された︒ロンドンからアント

ウェルペンへというのが︑.六世紀に最も重要なイギリス毛織物の輸出経路であった︒

このようなイギリスの輸出貿易の転換と並行して︑相手地域のネーデルラントにも大きな変化が起こった︒織物﹁

業の盛んなネーデルラントの一.○○余の都市のうち︑イギリスの羊毛を原料にしていたセとしてフランドル地方の毛

織物工業都市が帽危機﹂に陥ったのとは対照的に︑アントウェルペンはイギリスから輸出された毛織物を受けいれ

て・.五世紀後半から急速に繁栄に向かった︒その理由は恐らく︑未仕ヒげのイギリス毛織物に染色︑けば立て︑つ

や出しなどを施す仕ヒげ業が盛んであったこと︑および︑ケルンやフランクフルト.アム.マインを介してドイツ

に・さらにスイスやイタリアやオーストリアにまで毛織物の販路をもっていたためであろう︒一五三ヒ年には毛織物

の仕Lげに従事する親方と職人は.︑.二四八人(徒弟を除く︒うち︑.九︑人が親方手L業者)︑六〇年代初めまでにこの

数は一・六〇〇人に増加しだ・イギリス毛織物の輸人在上げ・販売は︑ポルトガルとスペインからもたらされる香

辛料や植民地産品︑地元やドイツの鉱産物︑金属製品の商業と並んで︑アントウェルペンの商業の繁栄を支える一.︑大

.

一︑一一.

の売り手ウィレム・コパート(ロンドン商人トーマス・タッセとヤン.コスワードの代理人)と買い予クリストッフェ

.()︑.

()

(7)

16,17世 紀 ド イ ッ に お け る イ ギ リ ス 毛織 物 の 輸 入 ・仕tげ ・販 売  

7

⑦商品の引渡し︒四八反はすでに引渡しずみ︑残りは六週間以内にベルヘン・オブ・ゾームかアントウェルペン

で引渡す︒◎荷物の保険︒イギリス船の場合もオランダ船の場合も買い手が危険と費用を負担する︒◎支払︒代金は

(四.︑・○.鳩.)

︑一

(..年・.π

)..︑.

(う..)

..壬

L

.

(︹麻

)..グ

︑︑.者

=.語.

2.

(8)

8 商 経 論 叢 第35巻 第247Fj

で買う︒支払いは一か月半以内に五回に分けて︑一部はシユレー

ダー自身によって︑.部(三九ポンド︑九シリング...ペンろはユ

ルゲン・トービングによって︑一部(七︑r砲ポンド)はライ

アー・ペテルセンによって︑一部(︑..亙ポンド︑四シザング)はミ

カエル・エルムスによって︑いずれも現金で行われた︒

以上述べたように︑一六世紀にイギリス毛織物はマーチャン

ト・アドヴェンチャラーズの手でアントウェルペンへ向けて盛ん

に輸出されていたが︑﹂71六〇年代に低地地方に反乱(オランダ

独立戦争)が起こると︑この輸出経路は妨害され︑そのたびに組

合は輸出先指定港の変更を余儀なくされることになった︒

2ドイツにおける輸出先指定港の変遷﹂六世紀半ばまでロ

ンドン港から輸出されたイギリス毛織物の大部分を受け入れてい

たアントウェルペンは︑一五六〇年代から混乱するネーデルラン

ト情勢の影響を受けて︑西欧世界の貿易・金融センターとしての

地位をしだいに失っていく︒それに伴なって︑マーチャント.ア

ドヴェンチャラーズ組合の輸出先指定港(以ド︑指定港という)も

次のように目まぐるしく変遷をとげた︒(図1を参照)

低地地方の指定港は︑一五六九ー七一︑一年間の中断期間を含ん

図1.低 地 地 方 と ド イ ツ に お け る マ ー チ ャ ン ト ・ア ド ヴ ェ ン チ ャ ラ ー ズ 組 合 の 輸 出 先 指 定 港 と取 引 の 中 心 地(1564年 以 降)

DO

16551668  

R

1)1:

16211635  

M

M

1598 AAA

‑Hト ー 一一一→ 一

一15641565‑6915731582  

1

HH 5"1'E5"1'

 

EHH

1

1 69

i E

15179 i 1587

H 15981601

i 1611

j iac E

H 156415  

H

15721579

*N

159approx.1600

注1低 地 地 方:A=ア ン ト ウ ェ ル ペ ン,DE=デ ル フ ト,DO=ド ト レ ヒ ト,

M=ミ ド ゥ ル ブ ル フ,R=ロ ッ テ ル ダ ム

IIド イ ツ:E=エ ム デ ン,Hsi=ハ ン ブ ル ク,ST=シ ュ タ ー デ,N=ニ ュ ル ン ベ ル ク

W.‑K.Baumann,op.cit.,P.5・

(9)

16、 正7世 紀 ドイ ツ に お け る イギ リ ス 毛 織 物 の 輸 入 ・仕 ヒげ ・販 売  

9 で︑一五八二年までアントウェルペンであったが︑その後一五八︑T‑九八年︑一五九八⁝﹂六︑一蒲年間がミドゥルブ

ルフ︑一六二一ご.五年間がデルフト︑︑六三五ー五充年間がロッテルダム︑一六充瓦‑六八年間がドルトレヒトと

なった︒ただし︑本稿では低地地方の指定港についてはこれ以h扱わない︒

ドイツの指定港は︑↓五六四年にエムデン︑一五六九‑七九年間がハンブルク(.五ヒ..ー七九年間はエムデンも)︑

﹂五七九⁝八九年間がエムデン︑.圧八七i九八年間がシユターデ︑晶五九八1︑六〇︑年間がエムデン︑.六〇︑

1一一年間がシユターデ︑一六︑一年以後一八〇八年までハンブルクであった(イーストランド・カンパニーの指定港は

エルビング)︒なお︑この間︑指定港ではないが内陸のニュルンベルクも︑五六九年から︑六〇〇年頃にかけて︑イギ

リス毛織物の重要な取引地であった︒以ド︑指定港の移転の事情を追ってみよう︒

イギリスとスペイン領ネーデルラントとの関係は︑熱烈なカトリック教徒でスペイン王妃でもあった英女王メアリ

の死(一五五八年﹀後悪化し︑ネーデルラント総督パルマ公は︑五六三年一一月にイギリス毛織物の輸入を禁止し

た︒マーチャント・アドヴェンチャラーズは指定港の移転を考え︑翌六四年二月に東フリースラント伯からエムデン

を指定港とする許可(特許状)を獲得した︒三月にはハンブルク市当局からも同様の許可を得ている︒六四年にエム

デンが指定港になったのはこういう事情によるもので︑四月には早くも三隻の毛織物船が︑また︑五月.︑三日には四

五隻余(護衛艦.︒︑︑四隻)の毛織物船団がエムデンに入港した︒

しかし︑エムデンが指定港になったのは︑この時は一五六四年の﹂年だけであった︒その主な理由は︑毛織物の最

終消費地であるドイツ︑スイス︑オーストリア︑イタリアへの中継地としてハンブルクの方がまさっていること︑お

よび︑低地地方で聖像破壊運動が起こり︑カトリック以外の者への報復が激しくなったこと︑であろう︒事実︑六四

年以降もアドヴェンチャラーズはアントウェルペンに留まって︑六八年七月にはここからハンブルクへ四隻分の毛織

(10)

商 経 論 叢 第35巻 第2号 ユo

物を送っており︑ネーデルラント総督はエムデンへ行くことを禁止し︑ケルンその他のハンザ都市もエムデンでは買

付けなかった︒ところが︑六八年.ニー1にスペインからの銀輸送船団がイギリス側に掌捕されて積荷の銀が没収さ

れ︑それに対してネーデルラントに在住するイギリス人商人が身柄を拘束され︑商品が没収されるという事件が起

こった︒ハンブルク市はすでに六七年一..月にイギリス毛織物の受け入れを許可していたが︑こうした事情で六九年二

月に指定港になった︒五月にはイギリスの毛織物船団がハンブルクへ入港している︒

ハンブルクが指定港になったことでマーチャント・アドヴェンチャラーズはハンザ都市の中心部に橋頭墨を築くこ

とに成功し︑.方︑ハンブルクは︑未仕Lげのイギリス毛織物の仕ヒげと販売という重要な商取引を引き寄せた︒地

元の商人のほかに亡命してきた国際的商人も誕生する︒反乱が拡大してアントウェルペンの商業が困難になったこと

はハンブルクに有利に働いたが︑しかし︑イギリスにおけるハンザの特権が復活されなかったので︑市参事会は七八

年六月にアドヴェンチャラーズに対して彼らの特権を更新しないことを通告した︒その結果︑ドイツにおける指定港

は七九年からふたたびエムデンに移り︑アドヴェンチャラーズは全員七九年.︑月までにハンブルクを離れた︒

﹂五八六年にエムデンとの特許状更新の交渉が長引いたために︑指定港は八七年にエムデンからシユターデに移っ

たが︑その間︑八..年にアドヴェンチャラーズはアントウェルペンから退去することを決め︑低地地方の指定港はミ

ドゥルブルフに移った︒また︑ハンザはアドヴェンチャラーズの進出を押さえようと臭帝に働きかけ︑九七年八月一

日にアドヴェンチャラーズを帝国から追放する勅令が布告された︒

この追放令にもかかわらずアドヴェンチャラーズは九八年エムデンへ戻り︑指定港は九九年にみたびエムデンに

なったが︑関税問題が原因で一六〇一年にふたたびシユターデに移った︒そして︑ハンブルクがアドヴェンチャラー

ズの受け入れを提案した時︑アドヴェンチャラーズ側はこれに同意し︑結局︑.六一一年六月にハンブルク市参事会

(11)

は彼らに特許状を与えた︒以後︒八〇八年まで︑ハンブルクがドイツにおけるアドヴェンチャラーズの指定港となる

16,17世 紀 ドイ ツ に お け る イ ギ リ ス 毛 織 物 の 輸 入 ・仕}=げ ・販 売 11

注(1)船山栄︑︑前掲善および前掲論文︑芝㌔即じdμロ日零戸§邸さ︑客自ミ⇔︒︾§§欝奉諺口嶺儀導免Ooミ執部§旨NO︑ミミミ魯

禽軌軌O恥1﹄亀Oq︒)篇り8刷なお︑イギリスの羊毛輸出量は︑右の船山氏の研究によれば︑.四枇紀初めの最盛期に約.︑四六〇

万ポンド(重)であったが︑のちに︑スペイン(カスティーリャ)からの羊毛輸出鼠は︑︑六世紀半ばの最盛期に約.︑四〇

〇万ポンド(重)であった︒飯田敏彦﹁.六︑.し批紀カスティーリャの牲毛貿易﹂(﹃社会経済史学﹄κ八1κ)

(2)イギリスの毛織物輸出に占める外国人(うちハンザ商人)のシェアは︑.五世紀半ばに約四五%つ︑.%)︑︑六世紀半

ばに約︑︑五%(...%)︑.七世紀初めに約.︑.ーκ%であったという︒≦.‑即切髪日き戸魯.ミ̀掌竃ρ毛織物船団のロン

ドン出港︑指定港人港の時期について︑バウマンは充月と︑○月とも述べていて︑.定しない︒ブラバント(アントウェルペ

ンとベルヘン・オブ・ゾーム)の大市は年四回(クリスマスの大市︑復活祭の大市・︑聖霊降臨祭の大市︑聖パフォン︹パマ

ス︺の大市)開かれ︑決済期間はそれぞれ︑︑月∵︑.日ー︑︑月︑○日︑κ月︑日.○日︑八月︑日i︑○日︑︑○月三一日

i..月.○日であった︒船団の規模は︑亙〇六〇隻で︑.六翫紀半ばまでは護衛艦つき︑規模はしだいに小さくなった︒

︑豊鉢,一ωSトの一S

(3)船山栄.︑前掲論文︑九七ページ︒.六世紀初めにはイギリス毛織物は︑アントウェルペンのほかベルヘン・オブ・ゾー

ムやミドゥルブルフへも送られていたが︑﹂五一︑.○年代からのベルヘン・オブ・ゾームの大市の衰退も影響して︑.︑.六年から

は船団はアントウェルペンへ入港した︒芝㌔卑bづ碧ヨβ・諦芦起・9計,卜︒一メこの毛織物輸出において︑イギリス人貿易商(アド

ヴェンチャラーズ)は﹁大陸の富豪商人﹂(イタリアや南ドイツの商人)に金融的に依存していたようである︒渡辺源次郎

﹃イギリス初期重商豆義研究﹄(未来社︑︑九五九年)八八︑八九ページ︒

(4)芝白‑閃じd窪ヨ自︒鵠戸§・6欺PωQ︒■中沢勝三﹃アントウェルペン国際商業の世界﹄(同文舘︑‑九九.︑.年)..○.︑..〇四

ページ参照︒

(5)一六世紀のアントウェルペンの商業については︑中沢勝︑.︑前掲辞︑諸川實﹃フッガー家の時代﹄(有斐閣︑.九九八

年)第四章︑を参照︒

(12)

商 経 論 叢 第35巻 第2号 12

(6)﹂・︒︒三巴①門レ嵩§⑲題§箋冬登・§︒︒ミ簿尋§ンζb︒時︒︒'≦‑即じu窪ヨ留戸§ミも・・︒虜h

(7)≦,即望仁日磐戸§ミニp誠㊤h

(8)均㍉菊.bdきヨ磐戸§.自魅も.Q︒戸一一ドこの当時︑エムデンの人口は約.万四︑○○○︑それに対してハンブルクの人目は

約..万であった︒以ド︑指定港の変遷の理由については︑バウマンの記述によった︒なお︑この間の事情は︑スペイン︑フラ

ンス︑イギリスの.L室相.互問の協調と敵対︑低地地方の反乱(オランダ独航戦争)︑オスマン・トルコの地中海侵人︑という

ヨーロッパの政治的・軍事的情勢が強く影響している︒簡単には︑諸田︑前掲書︑第五章を参照︒英・独間の貿易をめぐる

マーチャント・アドヴェンチャラーズとハンザ商人の対抗について︑クーリッシェルは次のように述べている︒﹁⁝統.性に

欠けていたことがハンザ人に対するイギリス人の勝利を可能にした︒個々の都市は自分自身のその場かぎりの利益を考え︑よ

ろこんで全体の利益を犠牲に供したのである︒﹂クーリッシェル︑松田監修︑諸田他訳﹃ヨーロッパ近世経済史﹄(東洋経済新

報社︑一九八二年)1︑三四六ページ︒

ニ ド イ ツ の 指 定 港 に お け る イ ギ リ ス 毛 織 物 の 輸 入 と そ の 仕 上 げ

ードイツの指定港の輸入量(一五六四一六一一年)船山栄.氏は前にあげた著書の中で︑一六世紀から.七世

(1)紀にかけてイギリス毛織物(旧毛織物)の輸出量の推移を︑次のように三期に分けて解説している︒

第.期は一六世紀前半の拡張期で︑.五五〇年に一一︑一万二︑八〇〇クロスのピークに到達する︒五〇年間に︑.・七

倍の伸びで︑以降︑旧毛織物の輸出量はこの水準に達することはない︒第二期は一充五二年の不況に始まる沈滞期

で︑︑七世紀︑○年代まで九万クロスの線を上Fしながら停滞を続ける︒第三期はいわゆる﹁大不況﹂の影響を受け

た衰退期で︑旧毛織物の中でも特に未仕上げ広幅織の減少はいちじるしい︒旧毛織物全体では︑一六一六年に八万

八︑二〇〇クロスから.六︑一二年に七万五︑六〇〇クロス(.六四〇年までに最低の数字)へ減少︑そのうち未仕Lげ

広幅織だけでは︑一六一四年に八万ヒ︑一︑一〇〇クロスから一六四〇年に三万○︑.○○クロスへ︑三分の一近くに激

(13)

16,17世 紀 ドイ ツ に お け る イ ギ リ ス 毛 織 物 の 輸 入 ・仕r̲げ ・販 売 13

表1.ロ ン ド ン 港 か ら の 毛 織 物 輸 出 量 (単 位1000ク ロ ス)

年 次 woollen 年 次 woollen

1559‑一 一6 93.8 1601 goo4

1562‑ ̄  ̄64 61.2 互602 113.5

1565‑‑67 95.1 1603 89.fi

1568‑70 93.7 1604 112.8

1571‑73 73.2 1605 99.9

1574‑76 100.0 1600 12fi.0

157779 97.7 1607 115.8

1580‑82 98.0 X608 119.8

1583‑85 IOユ.2 lsoy 113.8

1586‑88 95.1 1610 95.0

1589‑91 98.S 16ユ1 9fi.0

ユ592‑94 ユ01.7 1fi14 127.2

1598‑1600 103.0 Isis 88.2

ユ618 102.3 1fi20 S5.5 1622 75.6 1626 91.0 船 山 栄 一 『イ ギ リ ス に お け る 経 済 構 成 の 転 換 』

(未 来 社,1967年)11,12ペ ジ,第1表A,B よ り 。

減している(表‑参照)︒

したがって︑これによれば︑本稿が対

象とする一五六〇年代から.六二〇年代

までの時期は︑輸出量が九万クロス前後

の水準で停滞を続ける第二期に相当す

る︒九万クロスから.一万五︑○○○ク

ロスぐらいの問という︑ロンドン港から

の毛織物輸出量全体の数字を念頭におい

て︑アントウェルペンに代わって指定港

になったドイツ諸都市(エムデン︑シュ

ターデ︑ハンブルク)の輸入量を︑バウマンの推計にもとついて︑可能なかぎり整理してみよう︒

9一五六四年︑エムデンエムデン在住英貿易商の文書にもとつくアントウェルペンの特別代理人の報告によれ

ば︑毛織物を積んだ三隻の英船がすでに六四年四月にエムデンに入港しているが︑主力船団(商船四だ隻余と護衛艦ご︑

ー四隻)は前述のように五月一︑三日に入港した︒イギリス側の報告では︑その積荷は白地と青地の広幅織毛織物κ万

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参照

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