消 極 的
1自 由
=…△.
酬王
自 由︵一〇︶
︵=一︶
大
谷
恵
教
三︑J・S:ミルの自由観︵八︶
︵7︶ J・S・ミルの﹁政府干渉の限界﹂論と自由︵承前︶
J.S.︑︑︑ルは︑かれ自身﹃自伝﹄で述懐しているように︑トクヴィルの研究から学んだことは︑ひとつは民主主義に
おける〃多数者の専制〃の危険であり︑もうひとつは〃中央集権化という根本問題であった︒そして︑かれは︑中
央集権化一専制政治一とイギリスとの関係について︑そのさし迫った危険はイギリスにはなかったのであり︑イ
ギリスでは︑他国であったならぽ政府の仕事である国内行政の九割までが政府から独立している機関によって処理さ
れていて︑﹁中央集権化は昔もいまも理性的非難の対象であるのみならず︑非理性的偏見の対象でもあり︑政府の干渉
に対する警戒はひとつの盲目的感情になっていて︑地方自治体と勝手に主張してはいるものの︑しかし実際はあまり
にもしぼしば公職を利用して金儲けを図る偏狭な精神の持ち主である地方の少数独裁者たちが︑地方の利益を利己的
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に都合よく処理しているものの弊害をただそうとする立法当局のもっとも有益な努力をすら阻止したり︑あるいはそ
れに抵抗したりしたしとは一応いってはいるが︑しかしそうだからといって楽観的立場に立つことを戒めて︑﹁しかし
ながら︑公衆が中央集権化とは反対の側に誤まって進めば進むほど︑哲学的改革者たちがそれとは反対の誤まりに陥
って︑かれらが苦しい経験をしなくて済んできた禍いを看過してしまうのではないかという危険が︑それだけ大きく ︵30︶なってしまうという寸法であった﹂と論じている︒そしてミルの狙いは︑中央集権と地方自治との両者の長所を両立
させることであったことは︑ ﹁わたくしは︑少なくとも︑両方の弊害を同じくらい強く主張してきたし︑そして両方 ︵31︶の長所を両立させる手段を真剣な研究の対象としてきたのである﹂というかれの言葉からも︑明白である︒
また︑ミルが︑中央集権と地方自治に関するイギリス入の性格とフランス人の性格を︑ ﹃代議政治論﹄のなかで対
比させながら論じている点も︑見逃せないところである︒すなわち︑かれはこの問題について︑まず﹁本質的には非
常に異なるが︑なにか共通するものがあるために︑個人と国民の努力に与える方向においてしばしぼ一致する性向の
二つの状態がある﹂といって︑二つのタイプがあることを指摘し︑そのひとつは﹁他の人びとの上に権力を行使した
いという欲望﹂であり︑他のものは﹁自分たち自身の上に権力を行使されることを好まない気持﹂であると論じ︑そ
して﹁人類のさまざまな部分におけるこれら二つの性向の相対的な強さの相違は︑人類の歴史におけるもっとも重要 ︵32︶な要素のひとつである﹂と主張している︒
まず第一の欲望に関して︑ミルは﹁他の人びとを支配しようとする熱情が個人的独立の欲望よりはるかに強いの
で︑他の人びとの支配という単なる幻影のために個人的独立をやすやすと犠牲にしてしまう国民が存在する︒⁝⁝
︵中略︶⁝⁝権力と職権において厳しく制限されていて︑余計な世話をやくことなく︑守護者や指揮者の役割を引き
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消極的自由(一〇)
受けることをしないで︑大ていのことをなすがままにまかせることを要求されるような政府は︑そのような国民の好
みに合わない︒かれらの見地からすれば︑権威の所有者たちは︑権威自体が一般的な競争に公開されているならぽ︑
いくら多くの権力を引き受けても多すぎることはほとんどありえないのである︒このような国民の間の平均的な個人
は︑かれ自身および他の人びとに対して不必要な権力を行使されないという確実性よりも︑いかに遠い先のことであ
りそうになくても︑同胞市民の上に行使される権力の若干の分け前にあずかる機会のほうを選ぶのである︒以上のこ
とが猟官者の国民の要素であって︑かれらにおいては政治の過程は主として猟官によって決定され︑そこでは平等の
みが関心をもたれて︑自由には関心をもたれないρそのようなところでは︑政党の争いはあらゆることに世話をやく
権力がどの階級に属するか︑恐らく単にどの一群の政治家に属するかを決定する闘争にすぎない︒そこでは︑民主主
義についていだかれる観念は︑少数者にではなくて︑すべての人びとの競争に官職を公開するという観念にすぎな
い︒そのような国では︑制度が民衆的であれぽあるほど︑それだけで多くの官職が創設され︑また︑すべての人びと ︵33︶によって各人に対して︑執行部によって人びとに対して行使される過剰統治もそれだけ巨大なものになる﹂︑﹁官職の
増加は︑官僚政治に支配されている大陸諸国民に常に人気があり︑かれらは自分自身やその縁者が地位につく個人的
機会を少しでも減らすよりも︑むしろ高い税金を支払おうとしている︒そしてかれらの間では︑費用削減を要求する
叫びは︑決して官職の廃止を意味しているのではなく︑あまりにも重要であるので普通の市民が任命される機会をも ︵34︶つことができないような官職の俸給の削減を意味しているのである﹂と論じ︑そのような性格型をフランス人がもっ
ていることを︑控え目に︑ ﹁このような状態︑あるいはそれに近い状態を︑フランス国民の誇張のない描写として提
示することは︑公明正大でないし︑また同じ程度において不当であろう︒しかし︑フランス国民がこのタイプの性格
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︵訪︶を帯びている度合は︑限定された階級による代議政治の腐敗によって崩壊させたのであるしといっている︒
これに対して︑第二の自分たち自身の上に権力を行使されることを好まない気持とイギリス人との関係について
は︑﹁この国︵イギリスのこと〜筆者註︶の国民を他のどれにもまさって︑代議政治に適合させている性格は︑かれ
らがほとんど一般的にそれ︵第一の性格のこと1筆者註︶とは正反対の特徴をもっていることである︒かれらは︑
長い間の習慣やかれら自身の正義感によって認められていない権力をかれらの上に行使しようとするどんな試みに対
しても警戒するが︑しかしかれらは一般的に︑他の人びとの上に権力を行使することにはほとんど関心をもっていな
い︒かれらは︑支配しようとする熱情に対して最小の共感すらもっていず︑また官職が求められる私的利益の動機を
十分熟知しているので︑自分で求めることをしないで︑社会的地位の結果として官職が与えられる人びとによって︑
官職が遂行されるほうを好むのである︒外国人がこのことを理解するならば︑それはイギリス入の政治的感情の見か
けの上の矛盾のうちの若干のかれらに対する説明になるであろう︒その見かけ上の矛盾とは︑イギリス人が上層階
級による支配に躊躇なく身をゆだねると同時に︑上層階級に対して個人的に追従することがほとんどないということ
である︒権威がある一定の定められた限界を越えるとき︑イギリス入ほど権威に抵抗することを好む国民はいない
し︑またイギリス人ほど︑断固としてかれら自身がもっとも好む方法でのみ統治されたいと思っていることを︑その ︵鐙︶支配者たちに常に想起させる国民もないのである﹂と述べ︑それゆえ﹁猟官は︑国民として考えられるイギリス人に
とって︑ほとんど無縁の形態の野心である︒もしわれわれが公職が手にはいる少数の家族や縁故者を除くならぽ︑イ
ギリス人の出世観はまったく異なる方向︑すなわち事業や専門職における成功の方向をとる︒かれらは︑政党や個人
による単なる官職を求めての闘争に対して︑もっとも強い不快感をもっている︒また︑公職の増加に対するよりも大
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消極的自由(一〇)
へ帥︶きな嫌悪をかれらがもったものは︑ほとんどない﹂と断じている︒
ミルは︑以上のようにイギリス人とフランス入の国民性を比較考量して︑自由と民主主義の観点からイギリス人の
国民性のほうを高く評価している︑といえよう︒
さて︑先に指摘しておいた中央集権と地方自治の両方の長所の両立に関するミルの意図であるが︑これについてか
れは﹃自由論﹄の末尾のところで︑ ﹁能率と両立するかぎりでの権力の最大限の分散︑しかし情報の可能なかぎり最 ︵綿︶大限の中央集権化と中央からのそれの拡散﹂︵夢Φ頃お讐Φ繋巳ωωΦ9ぎ9二日頃OhOo≦興8づ巴ω8暮落毛孤山9Φ口︒≦
σ旨曄Φαqお讐︒馨u︒ω巴σ一Φ8三邑凶N日露︒=葭︒§讐δ口脚雪q象h貯のざ旨︒=けヰ︒∋夢Φ8三お︶という基準を示
し︑ ﹁政府の活動は︑どこにおいても類似のものになる傾向がある︒これに反して︑個人および自発的結社には︑種
々の実験と無限に多様な経験が存在する︒国家が有益になしうることは︑みずからを︑多くの試行から生じる経験の
中央貯蔵庫およびその積極的な伝播者︑普及者︵㊤o窪#巴OΦOoω一8蔓曽餌巳︒蹄︒三舞︒﹃餌画仙巳跨qω①さoh9①①×O①・
ユ窪8おω巳鉱凝ヰ︒ヨヨp身三巴ω︶とすることである︒国家の仕事は︑自己の実験以外のいかなる実験をも容認し ︵詔︶ないということではなくて︑忠実験者が他の人びとの実験によって利益を得ることを可能にすることである﹂と主張
し︑さらにそれを﹁都市行政においては⁝⁝︵中略︶⁝⁝地方の諸問題の各部門に中央の監督が存在し︑これが中央
政府の支部を形成するであろう︒この監督の機関は︑あらゆる地方の公共事業部門や︑諸外国でなされている類似の
すべての事柄や︑政治学の一般原理から引き出される多様な情報と経験を︑レンズの焦点におけるように︑中央に集
めるであろう︒この中央機関は︑行なわれるすべてのことを知る権利をもつべきであり︑そしてその特別の義務は︑
あを場所で得られた知識を他の場所で役に立つようにすることでなければならない︒この機関は︑その高い位置と包
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括的な観察範囲によって︑地方の些細な偏見と偏狭な見解から解放されているので︑その助言は当然多くの権威をも
つであろう︒しかし︑永続的な制度としてのその実際の権力は︑地方の官吏を︑かれらを導くために定められた法律 ︵40︶に従わせることに制限されるべきである︑とわたくしは思う﹂︑と説明している︒
また︑ミルは︑﹃代議政治論﹄においてもこの問題に関して︑﹁中央当局の主要な職務は訓令を与えることであるべ
きであり︑地方当局の主要な職務はそれを適用することであるべきである︒権力は地方に分散させられることができ
るが︑知識は︑もっとも有益であるためには︑中央に集中されなければならない︒すなわち︑どこかに︑すべての散
乱した光線が集められる焦点が存在しなけれぽならない︒それは︑他のところに存在する砕けた有色の光線が︑そこ
に︑それらを完全なものにし︑かつ純化するのに必要なものを見出すためである︒一般的利益に影響を与える地方行
政の各部門には︑それに相当する中央機関1ひとりの大臣かあるいはかれの下で特別に任命される官吏−が︑た
とえその官吏がすべての地区から情報を収集し︑ある地方で得られた経験を︑それが望まれている他の地区にもたら
して︑その地区の知識とならしめるにすぎないとしても︑存在すべきである︒しかし︑中央当局にとっては︑これ以
上のなすべき事柄がまた存在する︒それは︑諸地方との断えざる連絡を維持すべきである︒すなわち︑諸地方の経験
によってみずから情報を得︑そして自分の経験によって諸地方に情報を与えるべきであり︑諸地方から要求されると
きには惜しみなく助言を与え︑また助言が必要とされているとわかったときには︑みずから進んで助言を与えるべき
︵41︶である﹂と論じている︒
つまり︑ミルの意図した中央集権と地方自治の両方の長所の両立とは︑前述のかれの言のように﹁能率と両立する
かぎりでの権力の最大限の分散︑しかし︑情報の可能なかぎり最大限の中央集権化と中央からのそれの拡散﹂︑ある
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消極的自由(一〇)
いは﹁国家をして経験の中央貯蔵庫︑およびその積極的な伝播者︑普及者たらしめること﹂であったのであって︑い
うところの中央集権とは決して専制的中央集権を意味したのではないということがわかるであろう︒
﹁政府の干渉を制限する第三の︑そしてもっとも有力な理由﹂として︑ミルは﹁政府の権力を不必要に増大させる
という大きな害悪﹂を挙げている︒そのわけは﹁政府によってすでに行使されている機能に︑さらにひとつの機能が
加えられるごとに︑希望と不安に対する政府の影響力が一層広く普及し︑そして公務のなかの積極的で野心的な部分 ︵42︶は︑ますます政府あるいは政権を目的とするある党派の子分に変えられてしまう﹂からである︒種々な企業や大学や
慈善団体などが全部政府の出店で︑自治体も中央行政の一部となり︑従業員がすべて政府によって任命され支払わ
れ︑生涯における出世を政府に頼るようなことになったら︑ ﹁出版がいかに自由であり︑また立法部の構成がどんな ︵43︶に民衆本位のものであろうとも︑わが国であれ他の国であれ︑名目以外の自由な国にはしないであろう﹂とも︑政府
機能の増加が自由な国とは相い反するものであることを指摘している︒また︑それに引き続いて︑かれは﹁行政機構
が有効かつ科学的につくられていれぼいるほど一それを操作するもっとも適任の労働者と頭脳を獲得するための手 ︵44︶筈が巧妙であれぽあるほど一︑それだけその害悪は大きいであろう﹂といって︑行政機構と自由との関係を論じて
いる︒ ここに︑ミルの官僚制に関する見解が問題になってくる︒かれは︑当時イギリスでなされた﹁政府の文官の全員
は︑それらの職業に得られるかぎりのもっとも聡明で教養のある人びとを獲得するために︑競争試験によって選ばれ
るべきであ.髄.﹂という提案を例摩り上げて・そのような提案は﹁不安を起・させても尤な・とである﹂と述べた
後︑︑それに引き続いてその恐るべき弊害を﹁仮りに組織された協力や︑広い包括的な見解を必要とする社会の仕事の
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あらゆる部分が政府の掌中にあったとしたならば︑そして政府の諸機関がすべてもっとも有能な人びとによって満た
されたとしたならぽ︑純粋に思索的なものを除いて︑一国におけるすべての巾広い教養と訓練を積んだ知性は︑無数
の官僚に集中され︑社会の残りの人びとはただあらゆることをそれらの官僚にのみ期待するということになってしま
うであろう︒群集はかれらがしなけれぽならないすべてのことにおいて指導と指図を︑有能で野心のある人びとは一
身の出世を︑官僚制に求めるであろう︒この官僚制のなかの地位につくことを許されること︑そして許されたときに ︵46︶は︑そのなかで出世することが︑野心の唯一の対象になるであろう﹂と指摘している︒
このような一国の主要な能力を官僚制のなかに吸収した体制の下では︑公衆が官僚制を批判する能力をもたないだ
けではなく︑改革の気質をもったひとりの支配者あるいは支配者たちが最高の地位についたとしても︑官僚制の利益 ︵47︶に反する改革は全然達成されないとミルは主張して︑その例をロシア帝国にとり︑そこでは﹁皇帝自身も官僚団体に
対して無力である︒かれは官僚のだれをもシベリアに送ることができるが︑しかし官僚なしには︑あるいは官僚の意
思に反しては︑かれは統治することができない︒かれの出すあらゆる法令に対して︑官僚は︑その法令を実施に移す ︵48︶ことを差し控えることによって︑暗黙の拒否権をもっているのである﹂といって︑官僚制万能国における支配者の無
力さを強調している︒
またミルは︑ ﹁ロシアよりもっと進んだ文明ともっと反抗的な精神をもつ国ぐに﹂においても︑ ﹁公衆は︑あらゆ
ることを︑かれらのために国家によってなされることを期待するように習慣づけられているか︑あるいは少くとも国
家からそうすることの許可を求めるのみならず︑それをする仕方まですら尋ねるということをしなければ︑かれら自
身なにもできないように習慣づけられているので︑当然自分たちの上にふりかかる害悪のすべてに対して国家が責任
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消極的自由(一〇)
があると考え︑そしてその害悪がかれらの忍耐の量を超えるとき︑かれらは政府に反対して立ち上り︑いわゆる革命
を行なう︒その結果︑他のだれかが︑国民からの正当な権威をもつにせよもたぬにせよ︑その権威の座につき︑官僚
制に命令を発し︑そしてすべてのことはほとんど前の通りに進行する︒官僚制は変わらないし︑そして他のだれもか ︵49︶れらにとって代ることはできないのである﹂と述べている︒これは︑フランスを指していっているものである︒
要するに︑ミルは官僚制万能の体制を︑ ﹁その組織がそれ自体完全であれぽあるほど︑そして社会のあらゆる階層
から最大の能力をもつ人びとをその組織にひきつけて︑その組織のために教育することに成功すれぼするほど︑官僚
制の成員を含めてあらゆる人びとの束縛はそれだけ完全になる﹂と徹底的に批判し︑その理由を﹁なぜならば︑統治
者たちは︑被統治者の奴隷であるのと同様に︑かれらの組織と規律の奴隷であるからである﹂と述べ︑ ﹁中国の官吏
も︑もっと賎しい耕作者たちと同様に専制主義の走狗であり︑ジェズイット教の個々の会員も︑もっとも屈辱的な程 ︵50︶度にまで教団の奴隷である﹂と断じている︒ ● 他方︑このような官僚制万能主義に陥っているロシア︑フランス︑中国︑ジェズイット教団に対して︑アメリカ人
がまったく異なることを︑ミルは賞揚して︑ ﹁アメリカ人を政府なしに放置しなさい︒アメリカ人のどの団体も即座
に政府をつくり︑十分な量の聡明さと秩序と決意をもって政治やその他の公務を遂行することができる︒これは︑あ
らゆる自由な国民がそうでなけれぽならないところのものである︒このことをなしうる国民は︑確かに自由である︒
そのような国民は︑いかなるひとや団体が中央行政の手網を握って︑それを制御することができるからといって︑自
分自身をかれらの奴隷にすることは決してしないであろう︒いかなる官僚制も︑このような国民に︑かれらが好まな ︵51︶いことをさせたり我慢させたりすることを望むことはできないのである﹂と論じている︒
73
さらに︑ ﹁国のすべての主要な能力を統治体のなかに吸収すること﹂の弊害について︑ミルは︑それは﹁遅かれ早
かれ︑統治体それ自体の精神的活動と進歩性︵9①ヨ①ロδ一碧二≦昌き日興︒σq話ωω黒く①器ωωoh夢Φび︒身一罪①一h︶とに
とって致命的であることが忘れられてはならない﹂と指摘し︑その理由に関して﹁かれらは団結している一あらゆ
る組織のように︑固定した規則によって必然的に大いに進行する組織を動かしている一ので︑官吏の団体は︑怠惰
な形式的職務執行に堕する不断の誘惑の下にあるし︑あるいはかれらが時どき臼挽馬の円軌道から逸脱したとして
も︑この団体のだれか指導的な成員の一寸した気紛れな心に考えつかせたなにか生半可な吟味しかなされていない粗 ︵52︶雑なものに突進するという誘惑の下にある﹂と述べている︒
そして︑ ﹁そのような傾向に対する唯一の抑止策﹂ないし﹁この団体自身の能力を高水準に維持しうる唯一の刺
激﹂として︑︑ミルは﹁この団体の外部の等しい能力をもつ人びとの注意深い批判を受けるべきことである﹂と力説し
ている︒また︑そのためには︑ ﹁そのような能力を形成して︑それに重大な実際問題についての正しい判断に必要な ︵欝︶機会と経験を与えるための手段が︑政府から独立して存在すべきである﹂と主張している︒したがって︑ ﹁この団体
︵官僚を指す−筆者注︶は︑入善の統治のために必要とされる諸能力を形成し養成するあらゆる職業を独占しては
︵餌︶ならない﹂ということになるのである︒
このような経緯を辿り︑かつ﹁社会全般のあまりにも大きな部分を政府の水路に移し入れることをしないで︑集権
化された権力と知性からできるかぎり多くの利益を確保すること﹂などを考えたりして︑ミルは﹁安全性がある実際
的原理や︑心に留めておかれるべき理想や︑前述の困難を克服するために意図されたあらゆる手筈を吟味すべき基準
は︑次の言葉で伝えることができる﹂といって︑先に引用した言葉︑すなわち﹁能率と両立するかぎりでの権力の最
74
消極的自由(一〇)
お 大限の分散︑しかし情報の可能なかぎりの最大限の中央集権化と中央からのそれの拡散Lを強調するのである︒
以上のように︑ミルは官僚制の弊害について厳しく批判している︒それゆえかれが官僚制の否定者であったかとい
うと︑そうではない︒官僚制には長所があることも認めて︑その長短について﹃代議政治論﹄のなかで︑ ﹁官僚制的
な政府は︑若干の重要な点において︑大いに利点をもっているということが認められなけれぽならない︒官僚制的な
政府は︑経験を蓄積しており︑幾多の試練に堪え考慮に富んだ伝統的な準則を獲得していて︑実際に仕事をする人び
とのなかに︑適切な実際的知識を用意している︒しかし︑それは個人の精神的活力にとっては︑同じように有利であ
るわけではない︒官僚制的な政府を冒かし︑通常そのために死ぬ病弊は︑その型にはまった仕事である︒官僚制的な
政府は︑その準則の不変性によって滅びる︒さらにそれは︑型にはまった仕事になるものはどんなものでもその活気
のある原理を失って︑もはやそのなかに働いている精神をもたなくなり︑それがなそうと意図されている仕事がなさ
れないままになっていても︑機械的に回転し続けるという普遍的法則によって滅びてしまう︒官僚制は街学的な政治
になる傾向を常にもっている︒官僚制が現実の政府であるときには︑ ︵イエズス会士の場合のように︶その団体の精
神がそのすぐれた成員の個性を圧倒してしまう︒統治の仕事においては︑他の職業におけるのと同様に︑多数者の唯 一の考え方は︑かれらが教えられたことをするということである﹂と論じている︒
そこで︑官僚制の短所をなくし︑その長所を生かすために︑ミルは︑個性や独創性をもった人びとが必要であり︑
それには結局民衆の統治すなわち民主政治が不可欠であることを︑ ﹁独創的な天才をもったひとの考えが訓練された
凡庸人の妨害的な精神の上に優勢を占めるようになることが可能であるためには︑民衆の統治︵喝︒℃巨費oqoく①話︐
ヨ①8が必要で劾﹂と主筆ている・またがれば・政府の効果的な職務遂行とその永続性のためには自由の外部
75
的要素が必要であることを︑ ﹁人間のあらゆる事柄においては︑お互いが生きていくために︑そして自分自身の固
有の目的のためにさえも能率的であるためには︑互いに衝突するさまざまな影響が必要とされる︒⁝⁝︵中略︶⁝⁝
訓練された官吏による統治は︑ひとつの国に対して︑自由な政府によってなされうることをなすことはできないが︑
自由な政府が独力ではなしえない若干のことをなしうると想像することができる︒しかしながら︑われわれは︑統治
が自分自身の仕事をすら効果的かつ永久的になすことができるためには︑自由の外部的要素︵⇔コ︒旨ωごΦ巴Φ日①三ω
ohヰ①Φ住︒∋︶が必要であることを︑知っている︒それゆえまた︑自由は︑自由を訓練されかつ熟達した行政と結合す ︵駆︶る手段が発見されなけれぽ︑その最善の成果をうみだすことができないで︑しぼしぽまったく崩壊してしまう﹂と強
調している︒
このようにして︑ミルは︑自由な政府あるいは民主政治と長所をもつ官僚制の結合もしくは両立を力説するのであ
る︒これに関してかれは︑ ﹁代議政治にある程度成熟している国民の間においては︑代議政治と想像しうるかぎりも
っとも完全な官僚制との間の選択に関しては︑一瞬の躊躇もありえないであろう︒しかし︑同時に︑一方の性質を他
方の性質と両立しうるかぎり多く得ること︑また全国民の代議団体に与えられ︑それによって真剣に行使される一般
的監督の利益とともに︑それら両者が両立しうるかぎり︑知的職業を仕込まれた熟達した人びとによって仕事がなさ ︵59︶れることの大きな利益を確保することは︑政治制度のもっとも重要な目的のひとつである﹂︑あるいは﹁熟練を要す
る仕事は熟練を積んだひとによってなされるべきであるということを︑民主政治が心から進んで認めなけれぽ︑熟練
を要する民主政治の方向に向っては︑決して進歩することはありえないのである︒民主主義国家は︑自分自身の固有 ︵60︶の仕事︑すなわち監督と抑制の仕事をするのに十分な量の精神的能力をもつために︑なすべきことが多いのである﹂
76
と強調している︒
消極的自由(一〇)
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Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., Ibid., J. S.
Ibid., Ibid., Ibid., Ibid.,
p. 137.
p. 138.
p. 137.
p. 138.
p. 138.
pp. 138‑9.
p. 139.
Mill, Considerations on pp. 234‑5.
pp. 235‑6.
p. 236.
p. 236.
Representative Government, op. cit., p. 234.
"coli'