﹁西 部 の 蜂 起 ﹂ に つ い て
そ の 事 件 史 的 顛 末 ( 2 )
岡 島 千 幸
III
171
一六二八年一月頃から約一年間︑政府を悩ませたドーセット北部のギリンガム御猟林野区域〇一一ぎσqげ㊤目8δ︒・一
の周辺住民による騒擾事件は︑一六二九年二月の裁判記録に見られるように︑主な活動家たちの逮捕拘禁により弾
圧され︑住民たちの不満は一応押え込まれたように見えた︒しかしながら︑この騒動の指導者であった=⑳弓望
=o︒・窓冨は︑翌年の一六三〇年︑ギリンガムにこっそりと舞い戻り︑再び囲い込みの柵などの破壊を仲間に継続
ユ するように促したといわれている︒
このような彼等の動きを見て︑枢密院は︑同年の一月二七日付で法務長官に対し︑国o︒・一窓諺をはじめ八七名を
ム ソ﹁囲い込みに対する暴力的破壊行為の廉により﹂起訴を命じた︒
この記録が意味することは︑恐らく二九年二月の弾圧だけでは︑ギリンガム周辺住民の破壊活動は収まらず︑さ
らに続いていたことを示している︒そして︑この新たに起訴された人々は︑逮捕を免れた国o︒・窓蕊と前回起訴さ
172
ヨ れた人々とはすべて別の活動家たちと思われる︒
ただ︑二九年二月末とこの三〇年一月末の二度にわたる主な活動家の逮捕は︑住民の抵抗エネルギーを大きく弱
めたことには確かであった︒=o︒︒窓蕊は︑この情況のなかで︑自らの運動の限界と自身の危険性を考えたのであ
ろうと推測される︒彼は新たな展開を見せることとなった︒
ハ 史料から推定出来るのは︑三〇年の春以降から翌年の三一年の春頃までの間に︑彼はギリンガムの北︑ウィルト
シャーのブレイドンに赴き︑その地で発生したギリンガムと同様の囲い込み破壊活動を中心とする抵抗運動に活動
の場を移したのである︒
彼は︑この地で程なくして住民たちから.[㊤身ω窓ヨヨヨ︒qε昌.と呼ばれるようになった︒これは後述するが︑
彼がこの地の運動の中で中心的な役割の一端を担ったことを示している︒また彼は︑この地の住民に﹁ギリンガム
に来て囲い込みの打ち壊しに参加してくれれば︑手勢︑金︑食糧などを提供する﹂と勧誘も行ったようである︒
国o︒︒窓諺のこのブレイドンでの活動には︑彼の右腕であるざ喜℃げ一一一一甥も同行していたと思われる︒
このような彼等の行動を伺い知ることができるのは︑国o︒・窓ロ︒︒が一時的に捕えられて治安判事による尋問書な
ら るものが作成されたことを示す報告が枢密院に送られたからである︒どのような顛末があったかまったく分らない
が︑彼はこの一通の調書だけを残して官憲の前から再び姿を消してしまった︒しかし政府は︑取り逃がしてしまつ
たギリンガムの活動の首謀者が写凶=首︒︒と共に北のブレイドンに至り︑破壊活動に加わっていることを知ること
になる︒政府も苛立つことになった︒
「西 部 の蜂 起 」 に つ い て 一 そ の 事 件 史 的 顛 末一(2)
註(←﹁西部の蜂起﹂目冒o男一︒・一昌αq一三70≦6鴇のギリンガムでの事件については︑拙稿﹁﹁西部の蜂起﹂についてーその事件的顛末1(1)﹂﹃人文研究︻
(ZO・一竃・一〇〇刈神奈川大学人文学会)を参照のこと︒
(2)Qo.潭O'6,窃,押Or一×"悼oQ引悼q一琶一ひωρ
(3)この起訴による星室庁での罰金判決が四月一〇日付けで見られる︒そこに﹀昌紆oを=o︒︒ξ昌︒︒"目げo日器≦oげσなどの名があるが︑彼等も代表
的な活動家と推定してよいであろう︒﹀昌砕o≦=oの置ロ︒︒は=o昌q=o︒︒置8の家族か親族とも考えられるが︑確認出来ない︒ω."O・O訂︒︒・炉
6r×××︿一ごδ﹀閲臥=ひω9
(4)≧一彗および客oaqαqoは︑=霧窓話がギリンガムからブレイドンに赴いたのを一六三一年春としているが︑それは恐らく三一年六月一〇日付
けの枢密院史料からと思われる︒しかし︑ブレイドンでの指導的地位の事を考えるとあまりにも短期間であり︑三〇年の内から何らかの人間関係
も含めて可能性は否定出来ないであろう︒
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なお︑両氏のこの各論文とともに︑両氏のそれぞれの未刊行論文も参照されたい︒O幽O・O.≧冨P..﹀⑰q冨二睾O冨oo三①三きOo二訂団碧ぐ
ω冒m目︒・雪自9ユ昌oq葺or舘一αoo巴ooh閏自N呂糞戸."]≦Q自﹂≦o自ρ(国8目.)↓冨︒・冨(ピo昌OoP一〇いO)曽9巷ε門ひ(唱サOOl一〇〇)一国・≦﹂・凶oaαoqρ
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(5)o︒.℃.O.O匿︒・﹄h×Ω戸ひひ二〇旨器ま竃・
173
X74
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ウィルトシャー北部に位置する目冨聞oお︒︒一〇hロロ﹃巴oロ(切﹃巴g)と呼ばれる御猟林野区域は︑ドーセット北部の
ギリンガムからは︑ウィルトシャーの南端から北端までの距離︑直線にして約八〇キロ弱のところに広がっている
(図1)︒
一六一三年の報告書に︑このブレイドンのことについて次のような記述が見られる︒﹁御猟林野区域は︑約長さ
四マイル(約六.四キロメートル)弱︑幅約ニマイル(三・ニキロメートル)︑そしてロンドンから四スコア・マ
イル(八〇マイル︑約一二九キロメートル)である﹂︒そもそも︑ブレイドンは︑歴史的に国王の狩猟の楽しみに
最も便宜のよい猟場の一つであったようである︒恐らくその理由は︑ロンドンから比較的近い位置にあったこと︒
また︑シカなどの獲物が多く生息していたこと︑などのようである︒
切口冨旨8というサクソン語は︑⇔ロδ巴とOo昌から成り︑﹁野生動物が多く広範囲にいる地域﹂を意味している︒
したがって当然のことながらウィリアム王のノルマン征服よりも古く︑この名称は一〇世紀中頃には既に確認され
ており︑狩猟場として古い歴史を持つ伝統ある土地であった︒
また8﹃o︒.一という言葉は︑今日では≦ooO(︒︒)と同様に単に森を意味するが︑イングランドではウィリアム征服
王によって特別な意味を持つことになったのである︒すなわち︑﹁王のみに許された狩猟場として定めた区域﹂の
ことであり︑本来は森を意味した言葉ではない︒シカなどの野生動物が生息するのであるから︑森林地が多いのは
当然であるが︑樹林などがまったく見られないピースなどの原野(ヨoo﹃)も多く含まれていたのである︒
175 「西 部の 蜂 起 」 に つ い て 一 そ の 事件 史 的 顛 末一(2)
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図1「 西部の蜂起」 の関係 位置
176
ウィリアム王は︑また王有地でもあるこの狩猟場として定めた区域を維持するために哨o﹃o︒︒二餌≦というきわめ
て苛酷な特別法を定めた︒何人といえども︑その区域内のシカなどをたとえ過失によって殺しても極刑に処せられ
た︒したがってロビンフッド伝説は︑イングランド中世のこの特異な法と特別に設けられた区域を背景として︑苛
酷な刑を逃れるアジールの世界を描いた歴史的産物でもある︒
特にこの区域に隣接する住民は︑この特別な法により様々なことで苦しめられた︒この代償として行われていた
一つが︑年に一定の期間その隣接住民が飼育する牛などの家畜︑特に豚の放牧権を与えたことであった︒農民たち
が︑秋に豚を肥らせるために放牧したのは︑一般的には自分達の領主が所有する共有林であった︒ただ一般的に︑
どこでもこの様な地域の住民が特別枠として認められていたか否か不明である︒しかしこの様な慣行を得た農民た
ちには︑大きな恩典であったことは確かである︒そしてこのような慣行は8﹃8一の外周の境界地帯に限られてい
た︒区域内で馬を駆って狩を行う際︑下草が多すぎるのは問題であり︑∂﹃o︒・§と呼ばれた監督官たちにとっても
一石二鳥であったと考えられる︒
しかしながら︑苛酷な特別法の適用は︑時代が下るとともに緩やかになった︒特にヘンリ八世以降の王や王女た
ちは狩猟そのものに関心が薄く︑特別法そのものが実質的に機能しなくなってしまった︒区域内の管理や整備が十
分に行なわれなくなり︑王室歳入にも影響を与えることになったといわれている︒
一六=年に提出されたブレイドンに関する報告書では︑この区域内の荒廃と破壊が進んでいること︑特に貧し
い人々が不法に居住していること︑それらの人々に科料ないし身体的処罰を科すべきである︑と記している︒
続く一六=二年の報告では︑ブレイドンに隣接する周辺住民は︑区域内を勝手に自分たちの共有地にしているの
「西 部 の 蜂 起 」 に つ い て 一 そ の 事件 史 的顛 末一(2)
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で︑罰金を科すか地代を徴収する必要が生じていること︑また区域内ではシカなどの狩猟の獲物がきわめて減少し
ており︑その理由として本来ならばシカなどの餌場である場所を隣接周辺住民が勝手に牛や羊の放牧のために共有
地としての使用が増大しており︑特に牛の過放牧を指摘しこれによりシカの餌場が無くなっている︑と記している︒
またこの報告書では︑最後に結論として︑従来のような区域内のオーク(ナラの木)の森の樹木の伐採権のための
小規模な借地契約などの他に︑島︒︒僧鳶o円o︒・一すなわち8﹁o︒︒一の区域という指定の解除を行うならば︑年に三万ボン
レドの上納金が生じるとしている︒
チャールズ一世の父︑ジェームズ一世は狩猟好きで知られていたが︑ブレイドンは彼の情熱を満足させるお気に
入りの狩猟場の一つであったと言われている︒しかし息子のチャールズは︑父と異なりそのような趣味︑いな中世
以来の騎士の伝統であるこの武人としての作法にあまり関心がなかったと思われる︒アランは︑ブレイドン御猟林
野区域の指定解除の直接的要因でこの点を強調しているが︑原因はそれほど単純であったとは思われない︒
一六〇〇年生れのチャールズは︑一二歳の時︑兄ヘンリが早世したため︑二五才で父の死去にともない王位を継
承した︒ブレイドンばかりでなく全国の御猟林野区域を財政上の担保として利用する計画は︑父の時代からの枢密
院を中心とする政治政策の既成路線であり︑また彼が王位継承後︑二度の遠征失敗による財政的逼迫は︑その実施
ハヨねを急がざるをえなかったのである︒
一六二七年三月八日︑ブレイドンの測量調査および区割のため︑団自≦舘自Oo﹁αq2卿以下一二名の委員会委員が
任命された︒また同年七月︑ブレイドンの調査と指定解除のための委員会委員として︑今度はざぎロ⇔﹃乙αq∋雪卿
らレ以下一二名が任命される︒この委員会の各メンバーを含めて変更された経緯は不明である︒しかし︑いよいよ指定
178
解除に向けて動き出したのである︒
この委員会には︑一八ヶ条からなる指示があった︒その中に︑ブレイドンの御猟林野区域の実際の範囲を改めて
調査し︑指定解除によっていかなる影響が生じるかを確認すること︑がある︒これは︑この区域と隣接する住民と
の境界が長期間のうちに明確でなくなり︑政府側からすれば一六=年以降の報告書によって住民たちに王有地が
侵食されてしまっているという疑いを強く持っていたためと思われる︒
しかし一八ヶ条の指示の中には︑区域内における歴史的にも合法的な共有地の使用権保有者の権利を考慮し︑彼
等の使用権の継続を規定すること︑も見られる︒これは︑一方では古くからの慣行を追認し法的に整備し︑現状を
打開する処置とも見られる︒
この他にもこの指示には︑国王陛下のために︑一〇〇〇エーカーを℃岱ユ((猟園)として︑また五〇エーカーを
シカ園として整備すること︑もある︒政府も︑歴史的に由緒あるブレイドンの8﹃o︒︒一としての面影はなんとかし
て残したかったのであろう︒
この年の万霊節︑すなわち一一月二日直前に答申書が提出される予定であった︒委員会の委員たちは︑ブレイド
ンの調査の一環として︑この地域の自由土地保有者やこの区域で権利を主張する住民から成る全体会儀を行った︒
また一七名から成る陪審員を選出し︑彼等の指示による決議も行なわれた︑といわれている︒全体会儀が︑今日の
公聴会のような性格であったのか否か明らかでないが︑調査した委員たちが現状を深刻に受け止めざるを得なかっ
たと想像される︒恐らくその様な事情もあって︑実際の答申書は翌年の一六二八年にようやく財務府に提出された︒
ここでその内容について重要な点を述べておきたい︒
「西 部 の 蜂 起 」 に つ い て 一 そ の 事件 史 的 顛 末 一(2) 179
御猟林野区域と指定解除の対象の確定について︒ブレイドン御猟林野区域は︑エドワード一世統治の第二九年︑
すなわち一三〇一年︑四〇四七工iカーで︑その内容は︑℃o口魯o﹃︑の閃勾αqαq二二四工iカー︑ω一﹁旨oぎ=旨αq¢﹃8a
に属するスo巻o︒・閃卑αqαq三五〇エーカー︑Q︒一﹃9一2切﹃己αq2に属する九三ニエーカー(この内︑六=エーカーは
O冨一≦o冨7の所領として囲い込まれている)︑そして残りの二五四一工ーカー(この内︑二二六工ーカーを一)ロoξ
閃ゆαqoqという)が結果的に王有地と確認されたのである︒ブレイドンは︑恐らく最初はすべて8器︒︒一として王有地
であったが︑後に三名の騎士などの家臣に∩7霧oあるいは寄芽として合計一五〇六工ーカーを下賜した歴史が
あることを意味していると思われる︒しかしこれらの歴史的経緯が指定解除にあたって︑複雑な問題を生むことに
なった︒
ブレイドンには︑この区域に隣接してさらに一四九八工ーカーの国王所有の森林があり︑これを合せると四〇三
九工ーカーとなる︒ただ指定解除にともない公道を整備する必要から︑その用地三三九工ーカーを除いた三七〇〇
エーカーがその対象となる面積を算定したのである︒
委員会は︑一六二八年三月 ○日︑指定解除にともないブレイドン御猟林野区域の保護官職にあった閃oσ〇二
(6)
= 旨 o 卿 に 官 職 喪 失 の 補 償 と し て ︑ 二 〇 〇 ポ ン ド の 支 払 い を 決 定 し て い る ︒
一 六 一二 〇 年 に な っ て ︑ や っ と 財 務 府 裁 判 所 は 布 告 す る ︒ 委 員 会 の 答 申 の 遅 れ ︑ ま た こ の 正 式 な 布 告 ま で に 約 二 年
程 の 時 間 を 費 や し た 大 き な 要 因 は ︑ 隣 接 住 民 と の 伝 統 的 慣 行 で あ る 共 有 地 と し て の 放 牧 権 問 題 で あ っ た ︒ 無 論 そ の
中 に は ︑ 区 域 内 で 定 住 し て し ま っ た 貧 し い 住 民 た ち の 問 題 も あ っ た ︒ 当 然 の こ と な が ら 公 布 さ れ た 内 容 を 見 る と ︑
住 民 た ち に と っ て き わ め て 厳 し い 内 容 で あ っ た ︒
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﹁裁判所は︑ブレイドン御猟林野区域を指定解除されることを布告をもって執行する︒その区域にある土地およ
び森林は︑国王陛下の固有の国土(︒・o一一)であること︒したがって囲い込めるものであること︒以上から︑公道のた
めの一五〇エーカー︑そして共有地の代償として設定する一〇〇エーカーを除き何人といえどもその区域の使用を
禁止する︒﹂
裁判所が下したこのような決定は︑恐らく内部において︑あるいは答申した委員会の段階から異論が出たり︑議
論になったことは想像に難しくない︒イングランドの中世以来の慣習法の伝統に反することであり︑住民からすれ
ば︑たとえ王有地であれ例外は許されなかった︒これは法制史的に見れば︑ウィリアム征服王以来のコモン・ロー
とフォーレスト.ローの激しい衝突の再来であった︒隣接住民からすれば︑先祖代々受け継がれてきた共有地とし
ての放牧権の否定であった︒当時の農民たちにとって共有地の放牧権は︑伝統的に当然の権利として︑土地所有権
ム より大きかったのである︒
調査に訪ずれた委員会の委員に住民の一人が︑次のような証言をした記録が残っている︒御猟林野区域を解除し
て囲い込むことは︑﹁現在︑共有地の権利を持って︑この区域で生活している何千人もの貧しい人々は︑完全に破
ハ り
滅 す る こ と に な る だ ろ う ﹂ ︒ こ の 証 言 を 記 録 し た 委 員 は ︑ ﹁共 有 地 の 権 利 を 持 っ て ﹂ と い う 表 現 に ︑ わ ざ わ ざ こ れ は
証 言 者 の 判 断 で あ る と 記 し て い る が ︑ こ れ は ま さ に 法 的 認 識 の 大 き な 溝 を 示 し て い る と 考 え ら れ る ︒
し か し こ の 宣 誓 証 言 者 の 言 葉 は ︑ こ の 地 域 の 状 況 を も っ と も 適 確 に 表 現 し た と 思 わ れ る ︒ 委 員 た ち は ︑ 土 地 調 査
や 住 民 た ち か ら の 意 見 聴 取 を 行 っ た の で あ る が ︑ こ の 大 き な 考 え 方 の 溝 は ま っ た く 埋 ら な か っ た の で あ る ︒
最 終 的 に 発 表 さ れ た 布 告 は ︑ 少 し で も 王 室 収 入 を 多 く 確 保 す る た め の 強 行 突 破 で あ っ た ︒ 隣 接 住 民 に 放 牧 権 と し
て提供された代償地がわずか一〇〇エーカーでは︑あまりにも地元住民の状況をまったく無視した計画であった︒
ちなみに一〇〇エーカーは︑約四〇万平方キロであるから︑五〇〇メートル×四〇〇メートルの二個分でしかない︒
この隣接住民︑数千人の牛や羊の放牧には︑まったく話にならない条件であったのである︒
「西 部 の 蜂 起 」 につ い て 一 そ の 事件 史 的 顛 末一(2)
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註(←図1は︑﹁西部の蜂起﹂におけるkな三つの御猟林野区域を示す地図である︒シャープの作成したものを転載する︒
望︒冨轟島匿うき6ヘミ僑ミ︑ミ≧︑︾ミぎ・ξ1沁ミミ﹀ミぎ謹§匙沁ミ︑ミ書ミ婁へ〜︑窪讐ミ曽こ︒︒α‑〜&O﹂⊂葺﹄剛∩巴まヨ冨
零O︒・︒・ψ一〇〇Qρ戸◎Qω.
(2)ブレイドン御猟林野区域についての歴史については︑特に次の研究を参照のこと︒∩雪8﹁=・竃簿三〇零..目709鴇⇔ま掃︒︒二昌oq亀野麟Oo戸..
葦婁ミ越﹄︑(藩§ご︒︒︑貸ミ§栽﹀ミミミ≧勧ミ逆ミー誌爲︑ミ×ピ<(一£Py署・いおーいひメ卑一〇客①巳ααqP..日冨力o︿9房ヨ芝葺︒︒三門o>αq巴8一
∩審二〇︒︒︻こ︑︑ミミ笥ミ滝≧ミミミミ身︑tq轟嵩匙﹀︑きミミへ薦き黛︑ミ黛α局舞㍉ミピ<一一(一〇いQ︒)唱噂●ひQ︒層
(3)チャールズについては︑℃9三ぎoO円oαq鵬や∩げ碧冨︒・∩自一ε昌の研究が参考になるが︑○℃,=一芦で§謡.恥≦ミtヨ吻§ミ︑馳こ︑亀謡﹂ゆQ︒︒︒̀
﹃o口αoP署.い〒い刈およびb・≧馳も参照のこと︒
(4)o︒・即Pgmp﹁甲じ≦"ひい"︒︒ζ聲三ひN刈・
言)費︒F9.9ヨβ≦#のbミO﹂O﹄ヌ凶fO閃・=.ζ"巳︒ど︒τ葺も・いUひ・
(6)この二〇〇ポンドという額は︑この官職の︑年間の報酬が.一〇ポンドとあるので︑.○年分を補償費を算出したことになる︒また以Lの経緯に
ついては︑竃き一〇ざoやo#もやいUω1いいひを参照のこと︒またこの補償については︑g︒・"O伽∩冨︒︒・γ×∩<"い弁一〇ζ碧9一ひP︒︒・
(7)︒︒︒巳ぎ戸Oミミ義§栽9§ミミ︑ミ§も・声○聞﹄.=薗巳︒ざ︒噂願︒デ唱・いい8
(8)閏×9.Oo甥三〇戸轟・O螢﹃﹂こ団器8戸Zo.◎︒甲≦帥一一︒・一∩﹁=﹂≦缶三〇零o弓・o一一咽も曹いいo︒・
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V
ブレイドン御猟林野区域の各地で騒動が始まった︒特に指定解除を受けて︑囲い込みの工事が行なわれた箇所が
襲われた︒築かれたばかりの土塁は破壊され︑柵の横木や生垣はばらばらにされ︑引き倒されたのである︒
一六三一年六月二日︑狩猟番小屋の管理官︒︒望ヨoロ囚ooげ一〇は勺三ξ智ooげ︒・8に次のような手紙を書いている︒
﹁州民たちは︑御猟林野区域に最近築かれたばかりの全ての土塁を破壊するために一致団結している︑彼等は︑全
ての柵の横木をばらばらに壊し︑生垣は切り裂れてしまい︑そのため今やすべては元の共有地のようである︒彼等
はこの番小屋を取り壊し︑私を殺すと脅迫し︑またどのような人夫たちも私の元に来させないようにしている︒し
たがって私は︑治安判事の前で証言させるいかなる人物も確保できないし︑宣誓供述書のためロンドンに行くこと
ハユ も儘ならない︒⁝﹂
彼は︑州知事に兵の出動を要請した︒州知事たちが現われると︑住民たちは姿を消したが︑しかし一二名が逮捕
され収監された︒この後知事と兵士たちが立去ると︑住民たちは再び寄り集まりまだ残っていた柵を引き倒したの
である︒
彼の手紙は︑彼の生活および妻子を守ることが出来なかったことを述べて結ばれているが︑その傾斜した筆跡は︑
彼の絶望的な心情を物語っていると︑アランは述べている︒
ギリンガム騒動の指導者︑=oコ蔓=o︒・さ塁が仲間とともにこのブレイドンに現われ︑この地の住民たちと活動
したのは︑Q︒︽ヨoコ閑8三〇が絶望の淵に沈んだこの時期であったことは明らかである︒そして︑六月一〇日付け
「西 部の 蜂 起 」 につ い て 一 そ の 事件 史 的 顛 末一(2)
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ハヨ の記録を見ていると︑二つの事が推測される︒
一つは︑この六月一〇日の記録で国o・・寄コ︒・が一時的に逮捕され取調べを受けたということから︑六月二日の州
知事の出動による一二名の逮捕者の中に含まれていた可能性があることである︒もう一つは︑この六月一〇日付の
記録の中で︑閏o︒︒窓屋が︑ブレイドンの住民から.rg︒身ωζヨヨヨ町qδコ︑と呼ばれていると記されていることから︑
このブレイドンにおいて彼は伝統的なスキミントンという民衆的示威運動の方法で活動し︑しかもその組織の中心
的役割を担っていたと考えられることである︒
Q︒黛ヨoコ閑oo三〇が︑自からの生活および妻子を守ることが出来ず絶望的状況になったのは︑彼と家族がスキミ
ントンの攻撃の対象にされ︑嘲笑と罵倒を受けた可能性が考えられる︒
(4)ここでスキミントンというこの地方の民衆文化について簡単に説明したい︒
スキミントンは︑イングランド西部を中心とするシャリヴァリのもっとも一般的な名称であり︑特にウィルトシ
ャーおよびドーセットの二州において多くの事例が見られる︒
一九世紀の代表的作家であるトマス・ハーディーは︑自分の故郷を舞台とした多くの作品を残しているが︑その
なかに﹃カスターブリッジの市長﹄という作品を著している︒この小説のヒロインは︑最後にスキミントンの対象
にされ死に至るという︑スキミントンが物語の最も重要なプロットとなっている︒この小説に生き生きと描かれた
スキミントンという民衆文化の実態とその特徴を推測できる︒しかし我々は︑一六一八年五月にウィルトシャーの
カマーフォードで発生した歴史的事実からフィクションよりさらにその生生しい実態を知ることが出来る︒
またこの記録は︑我々にとってまことに好都合な二つの条件を満たしてくれている︒それは︑時間的問題と地域
184
性である︒この記録とブレイドンの騒擾事件とは︑わずか一〇年程の差であり︑またカマーフォードとブレイドン
は約二〇キロぐらいの民衆の地域的な同一行動圏にあったと見られるからである︒
なお︑この記録は︑一六一八年六月一日︑町民でスキミントンの対象となった夫妻︑刃物師トマス・ミルズと妻
ハヨレのアグネスから︑治安判事ジョン・ハンガーフオードが聴取したものである︒
﹁二人ないしどちらかが言うところによると︑先日の五月二七日水曜日︑朝の八時か九時ごろのこと︑クロ
ップという名前のカーンの若い奴が︑三︑四人の男と一〇ないし一二人ぐらいの少年達を伴い太鼓を叩きなが
ら︑カマーフォードにやって来た︒そこでカマーフォードのラルフ・ウェルスティード︑この取り調べ人の地
主である彼自身が︑カマーフォードの橋の連中のところまでやって来て︑彼等にどういうつもりなのか質問し
た︒すると彼等は︑そこには一人のスキミントンが住んでいるからと答え︑彼のところに近づいて来た︒そこ
でラルフ.ウェルスティードは︑カマーフオードにスキミントンが住んでいるという噂は誤りであると彼等に
返答し︑町を離れるよう懇願した︒この時︑一人のスキミントンのためにそこに太鼓叩きとその仲間がやって
来たことを知った町の女達は︑太鼓叩きに向かって進み︑彼の太鼓を切り裂いてしまった︒そこで彼とその仲
間はカーンに向かって引き返していった︒
正午ごろ︑カーンからカマ!フォードにもうひとりウィリアム・ワット(ワイアット)という名の太鼓叩き
が︑三〇〇ないし四〇〇人の連中とふたたびやって来た︒この連中のなかのある者達は︑鉄砲やその他の武器
で武装して兵士のようであったし︑また馬にまたがった一人の男は︑頭に白いナイトキャップをかぶり︑両耳
「西部 の 蜂 起 」 に つ い て 一 そ の 事件 史 的顛 末一(2)
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には二つの光り輝く角をさげ︑あごには鹿の尾でつくった紛い物のひげをつけ︑長上着の上に婦人のはだ着を
はおり︑そして彼の乗っている赤い馬には一対の壷が付けられていて︑その中には︑醸造用のもやしかすがあ
った︒そして彼はひしめく人々にむかってそれを撤き散らしたが︑そのひしめき合う群集は彼が通ったあとを
追うように殺到した︒
そして︑この男と彼のすべての仲間達はこの取り調べ入の家の前にやって来ると一斉に立ち止まり︑鉄砲手
はその銃をぶっぱなし︑笛とつの笛は吹き鳴らし︑彼等のなかで牛首に付ける鈴やその他の小さな鐘を持って
いる者達は一緒に打ち鳴らした︒また股鍬の先に雄羊や雄鹿の角を備え付けたものをその時同時に高くかかげ
られ誇示された︒一隊が留まっているあいだ︑一隊のうちのある連中︑すなわちカーンのW・ウェルウィン
(肉屋)︑同じくカーンのW・ブルクとジョン・プレイ(肉屋)︑同じくW・ローリンス(労働者)︑イェイテス
ベリのJ・レイノルド(農夫)︑そのほか多くの数の者達は︑この連中の名前はこの取り調べ人のどちらも知
らないが︑彼等の家に向かって進んだ︒彼等は二人とも自分達に加えられるにちがいない少なくともある種の
暴力と危害を恐れたー彼等は家に面して身をかがめていたからなおさらのことだがーいくつかの石が窓の中
に投げ込まれ︑それのうちのいくつかは二人に打ち当ったのであった︒
夫のトマス・ウェルズ(原文のまま)は︑表扉に錠をおろし︑妻を彼の部屋に入れてやはり錠をかけた︒し
かし連中は︑彼の家にはげしく押し寄せたので︑彼は連中を何とか説得して立ち去って貰えないかどうか試し
て見ようと表扉を開いた︒すると同時に︑上記の連中や数人の他の者達が彼の上に襲いかかり︑入口に侵入し
さらに広間になだれ込んだ︒彼の妻のいる部屋の扉は力ずくで開けられたので︑彼女は何とかして逃れようと
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階段をよじ登り二階に上がった︒W・ウェルウィンは彼女のかかとをつかんで引きずりおろしたが︑彼女はま
だ階段の中程だったので︑彼とその他の連中は彼女の両腕と両足をつかんで取り押え︑広間から入口につれ出
した︒するとそこにはぬかるみがあったので︑彼等は彼女をそこに投げ倒し︑踏みつけそして汚らしく泥まみ
れにし︑身体のあちこちを打ってあざだらけにしたのである︒これらは一つの目論見があった︒この取り調べ
人達はたしかに以下の事を耳にしたのである︒彼女すなわちアグネスは︑家から連れ出され︑馬の背に夫のう
しろに乗せられて︑カーンに連行され︑そこで懲罰椅子に乗せられ水責めにあうこと︒そして︑もし彼女がお
となしくなかったならば︑また静かに座っていなかったならば︑彼女の口の中にもやしかすをたっぷり詰め込
むということだった︒
スキミントンはイングランド北部のライディング・ザ・スタング﹃一αヨ︒q一密︒︒[き︒qとともに︑西南部の伝統的社
会において︑一般的には父権を尊重しない妻とその夫の双方に対して制裁を行ない︑共同体自体がみずから父権的
夫婦関係を維持しようとする一定の儀式性と祝祭性を有する民衆文化である︒このカマフォードの夫婦がどのよう
な理由から攻撃対象となったか記録の上では明らかではないが︑恐らく上記の一般的理由であろうと想像される︒
けれども我々は︑夫妻の自供によるこの記録からスキミントンの具体的な全貌とその特徴を理解できるのではない
だろうか︒
ここでブレイドンの事件との関係で︑スキミントンの重要なる点に絞って論じておきたい︒
一つは︑集合心性としての民衆的世界観︑価値観である︒
「西 部 の 蜂 起 」 につ い て 一 そ の 事件 史 的 顛 末 一(2)
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ス キ ミ ン ト ン を 行 な う 理 由 に は ︑ ま ず 民 衆 が 自 ら 守 ら な け れ ば な ら な い と 考 え る 価 値 観 で あ り 社 会 的 正 義 が あ る ︒
ま た 同 時 に ︑ こ れ は 支 配 層 と は ま っ た く 異 な っ た 自 立 性 と 独 自 性 を 有 し た 集 合 心 性 で あ る ︒ し か も ︑ あ る 特 別 な 政
治 的 意 図 を 持 っ て 行 な わ れ る と い う よ り も ︑ 彼 等 の き わ め て 日 常 的 な 生 活 意 識 に よ る も の と 考 え ら れ る ︒ し た が っ
て 三 一 年 の ブ レ イ ド ン の 事 件 は ︑ 攻 撃 の 対 象 が 共 同 体 内 部 の 人 物 に 向 け ら れ た も の で は な く ︑ 外 部 ︑ 特 に 権 力 者 に
向 け ら れ た と い う 点 で ︑ ま た 政 治 性 を 強 く 有 し て い た と い う 点 で ︑ ス キ ミ ン ト ン の 歴 史 的 事 例 の 中 で も 特 異 な ケ ー
ス と 位 置 付 け ら れ よ う ︒
政 府 や 州 の 長 官 な ど の 支 配 層 か ら は ︑ い つ も の 民 衆 た ち 内 部 の ば か 騒 ぎ で は な く ︑ 自 分 達 を 攻 撃 対 象 と し て い る
ハ
た め ︑ 暴 動 や 反 乱 と し て き わ め て 政 治 的 に 見 ざ る を 得 な か っ た と 考 え ら れ る ︒ 一 方 で 鵠 8 窓 霧 と 彼 の 仲 間 た ち に
と っ て ︑ 攻 撃 対 象 や そ の 理 由 が 異 な る と は い え ︑ 彼 等 の 目 的 や 方 法 そ し て 行 動 も 日 常 的 に 続 け ら れ て き た ス キ ミ ン
ヘア トンの伝統的枠組そのものであったのである︒
次は︑=o︒・窓蕊が﹁レディー・スキミントン﹂と仲間や住民たちから別名で呼ばれた問題である︒
スキミントンの特徴と名称は︑一六一八年のカマーフォードの供述書の中程にも見られるように︑多数の参加者
に取り囲まれた行列の中心に乗る女装した男が乳脂を掬い取るひしゃく(︒・憲ヨヨo﹃﹄︼ニヨ∋ヨαq冨αδを振り回し
て︑背中合せに乗っている夫役の男を時々殴る所作をすることから来ている︒ω窓ヨヨぎoq導すなわち﹁ひしゃくを
振り回すこと﹂を﹁夫に向って暴力行為を働く女房の象徴的行為﹂と嘲笑することからきた表現である︒したがっ
て︑行列の中心の女装した人物は︑多くの場合その攻撃対象の妻の役を演じるのであるが︑この人物はまたその行
事の企画者の一人であり︑その組織の中心的人物なのである︒したがって︑レディー・スキミントンを敢えて訳す
な ら ば ︑ ス キ ミ ン ト ン の ﹁ ひ し ゃ く 振 り の バ カ 女 房 ﹂ で は な く ﹁ ひ し ゃ く 振 り の "奥 方 様 " ﹂ と な る だ ろ う か ︒ 仲
間 た ち が ﹁ レ デ ィ ー ﹂ と い う 当 時 の 貴 族 の 婦 人 に 対 す る 呼 称 を 使 っ た の は ︑ 女 房 役 を 演 じ る 自 分 た ち の 組 織 の 指 導
者 に 対 す る 畏 敬 の 念 と も い え る こ と か ら 生 れ た 表 現 の よ う に 思 え る ︒ ま た こ の 表 現 は ︑ 同 時 に 民 衆 た ち の 諮 誰 や 風
刺 性 を 端 的 に 表 わ し て い る と 言 え よ う ︒
第 三 の 問 題 と し て ︑ 村 落 ︑ 町 な ど の 共 同 体 に お け る 組 織 性 と 秘 密 性 で あ る ︒
ブ レ イ ド ン の 周 辺 住 民 の 囲 い 込 み の た め に 作 ら れ た 土 塁 や 柵 な ど の 破 壊 活 動 は ︑ 当 初 は 自 分 た ち の 生 活 が 破 壊 さ
れ る と い う 恐 怖 心 や 激 し い 怒 り に よ っ て 爆 発 し た 自 然 発 生 的 エ ネ ル ギ ー が 大 き か っ た と 想 像 さ れ る ︒ し か し ︑ そ の
エ ネ ル ギ ー だ け で は 住 民 の 運 動 を 継 続 し よ り 強 化 す る こ と は 不 可 能 で あ る ︒ ブ レ イ ド ン の こ の 事 件 に お い て は ︑ 住
民 た ち が 一 味 同 心 し て 一 揆 す る と い う 日 常 性 か ら 一 歩 踏 み 出 す 形 態 で は な く ︑ そ の 組 織 性 は 日 常 的 な ス キ ミ ン ト ン
の 徒 党 集 団 ︑ 若 者 を 中 心 と す る 集 団 に よ っ て 担 わ れ た と い う 特 徴 を 有 し て い る ︒
そ れ で は 彼 等 の 組 織 性 は ど の よ う に し て 形 成 さ れ た の で あ ろ う か ︒ ト ム ソ ン は ︑ 村 の 宿 屋 や 酒 場 は ︑ 攻 撃 の 対 象
者 を 相 談 し 決 定 す る 民 衆 の 一 種 の 裁 判 所 で あ り ﹁ 秘 密 法 廷 ﹂ で あ っ た と 述 べ て い る が ︑ イ ン グ ラ ン ド で は 歴 史 的 に
も 酒 場 が 情 報 と 談 合 の セ ン タ ー の 役 割 を な し て い た こ と は よ く 知 ら れ て い る ︒
一 六 ゴ ニ 年 一 二 月 二 九 日 付 け の 大 変 興 味 深 い 記 録 が あ る ︒ ブ レ イ ド ン の = o 昌 曼 ロロ ㊤ 旨 o 舜 な る 宿 屋 の 主 人 が 政 府 に
召 喚 さ れ ︑ 彼 の 情 報 に よ り 抵 抗 活 動 の 主 な 中 心 的 人 物 が 特 定 さ れ ︑ 二 八 日 付 け で 約 五 〇 名 の 逮 捕 令 状 が 発 せ ら れ て
いる︒枢密院は︑彼の情報提供者としての役割に謝辞を与えているが︑彼が政府の密告者としての役割を担ってい
たか否かは明らかでない︒ただ政府は︑少なくともどのような人物に情報を求めたらよいか︑よく分っていたので
「西 部 の 蜂 起 」 につ い て 一 そ の 事作 史 的 顛 末一(2)
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ある︒
毎日飲屋のカウンターに集う連中が︑その土地の住民の人間関係とどのように連動し︑活動に反映されていたか
興味あることである︒ギリンガム騒動の首謀者国oロ蔓=oω窓蕊がブレイドンに至り︑本来同じ住民でない余所者
がこの地の活動分子の中心的存在になり得たのも︑彼の人間的資質がたとえあったとしても︑酒場のカウンターに
よる人間関係の構築が重要であったと考えられる︒無論︑彼が余所者といってもスキミントンという同じ民衆文化
を共有する同一文化圏の人間であったことは忘れてはならない︒
=一月一二日︑宿屋の主人U⇔碧o耳が政府に情報提供したことが原因ともなったと思われる事件が発生した︒そ
れは︑切碧o耳の求めに応じて召集兵を連れて駆け付けた∪①<一No︒︒町長は︑警察官(コンスタブル)とともに︑住
民たちから野次と品のないせりふを浴びせられたのである︒また彼等は︑切母↓o暮を呼び出して制裁を加えること
(10)を求めた︒この文書に記述されている﹁野次と品のないせりふ﹂とは︑スキミントンにおける対象人物に浴せられ
る言葉であり︑﹁制裁﹂とは︑スキミントンそのものを意味していると思われる︒
イングランドでは︑北部を中心とする﹁太樟かつぎ(乗り)﹂二αヨαqヨo︒・一きαq"あるいは西部のこの﹁ひしゃく
振りのバカ女房﹂︒・窓日ヨヨαqε昌の場合においても︑攻撃対象となる人物は︑ロo慧コ望(または忌冤ヨo)と呼ばれ
る伝統的で滑稽なせりふで椰楡されるが︑この時も住民たちは自分たちの伝統的手法を遺憾なく発揮したように思
われる︒すなわち︑﹁野次と品のないせりふ﹂とは︑コoヨヨ関のことであったと考えられる︒
さて︑政府の住民たちの生活権を奪い取ろうとする権力に対し︑住民たちの抵抗運動の組織の中心的役割を担っ
たスキミントンであるが︑この組織の指導者レディー・スキミントンは︑一種の称号であるとともに外部者に対し
て そ の 人 物 を 特 定 さ せ な い 秘 密 保 持 の 性 格 も 有 す る 渾 名 で も あ っ た ︒ し か し ︑ こ の 秘 密 性 は ︑ 時 空 を 越 え て 現 在 の
我 々 を も 困 惑 さ せ る ︒
ねねレディー.スキミントンと渾名された人物︑ギリンガムで﹁閣下殿﹂と呼ばれた国9q踏o︒︒窓霧については既
に何度も紹介してきた︒また彼の右腕と調書にも記された8喜窄運一首ωについても︒しかし﹁西部の蜂起﹂にお
いては︑もう一名︑旨o喜≦ま9ヨ︒︒という人物が存在する︒この人物は︑グロスターのディーン御猟林野区域の騒
動 で 活 躍 す る 鐙 著 で あ る 費 三 地 域 を 含 め た 茜 部 の 難 L で 従 辛 一 般 的 に も っ と も 知 ら れ た 人 物 で あ 華
彼の名は︑ディーンを中心とするグロスターにおける様々な事件において︑枢密院をはじめとする政府の記録に
しばしば見られる︒しかし︑ブレイドンに関する史料では︑筆者は確認出来ていない︒アランは︑ブレイドンの住
民たちの反乱は︑後にざぎ≦崔薗∋ωと判明する指導者レディー・スキミントンによって勇気付けられたし︑彼
は住民たちの抵抗のシンボルであったとしている︒また彼のその渾名は︑ウィルトシャーの仲間たち(すなわちブ
ホむレイドンの住民の意味である︒筆者)によって与えられたことに誤まりはないとしている︒
我々を悩ませることは︑はたして旨o喜≦一=冨日︒・は︑=o昌蔓=o︒・乙8と同じように一ヶ所だけでなく復数の騒
動に絡んで︑しかもそれぞれ指導的な活動をしたのだろうか︒
ハ ソこの問題について︑シャープは︑次のように主張している︒﹁ほとんどの暴動事件における政府の特別な関心事
は︑首謀者を中心とする単一のグループによって組織され統制されていることだが︑この﹁西部の蜂起﹂において
は︑国o霞望=o︒,窓蕊﹂o巨勺=一一昼︒︒・ざぎ乏ま㊤∋︒︒の一一一名は︑それぞれの根拠地で重要であるのにかかわらず︑政
府は根拠のない数々の風説に惑わされたのである︒この事はまた︑現在の歴史家たちが彼等三人を記述するにあた