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声なき者の声-フランク・マクギネスの<女性>の演劇

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声なき者の声‑フランク・マクギネスの<女性>の演劇

三神  弘子

(9)

Ⅰ はじめに

アイルランドでは、長い間女性の劇作家の不在を嘆く声が高かった。フランク・マクギネス(Frank McGuinness, 1953‑)は、 1982年に劇作家としてデビューした際、インタビューに答えて以下のように述べて いる。

女性劇作家の出現が熱望される。演劇以外の文学ジャンルでは、短編小説ではメアリー・ラヴイン、小説で はエリザベス・ボーエン、詩ではイ‑ヴァン・ポーランドといったように、いくらでも女性作家の名を挙げる ことができる。ここアイルランドで、女性が自分の作品のために観客を得るのは困難であると言うとき、彼女 の言うことを軽んじることは私にはできない。その困難を少なくするためには、多くの女性劇作家が登場し結 束する以外に、事態を変化させることはでき

) O

ma忠

このインタビューから20年が経過した今日、アイルランドの演劇界における女性の状況は、大きく変化した。

(2)

80年代の後半から、ギヤリー・ハインズやリン・パーカーといった女性演出家の活躍が目立つようになり、ア ン・デヴリン、クリスティナ・リード、マリー・ジョーンズら、北アイルランド出身の作家に加え、マリー ナ・カーが次々に注目作を発表し続けている。

しかし、マクギネスが劇を書き始めた80年代初頭においては、女性の劇作家や演出家が活躍できる場は少な かったし、もしも、彼女たちが活動していたとしても、脚光をあぴることは稀だった。また、女性が委員会等 のメンバーとして劇場運営や経営に関わる機会も多くはなかったし、女優という職業に限っても、舞台上の配 役は、男性の役に比べはるかに少なかったのである。団員全員が女性で構成された劇団シャラバンクが1983年 にベルファーストで旗揚げした背景には、女性のための雇用の機会を広げるという意図があった。しかし、シ ャラバンクの創設者の一人であるエリナ一・メスベンは、自分たちが(女性の)劇団といったレッテルを貼ら れることに対し、遺憾の意を表明している。登場人物がすべて男性であるマクギネスの『ソンムに向かって行 進するアルスタ‑の息子たちに照覧あれ』 (Observe the Sons ofUlster Marching towards the Somme, 1985)が く男性の演劇)と言及されることはほとんどないのに対し、登場人物がすべて女性のシャラバンクの『小金を

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貯えろ』 {Layupyourends,1983)は、必ずと言っていいほどく女性の演劇)と言われるのはなぜなのかと。メ スベンは、自分たちの演劇がく女性の演劇)という名称を与えられ、狭い領域でのみ扱われること、つまりゲ

ットー化されることに異を唱えているのである。

もしも、女性たちがゲットー化されることをよしとしないのであれば、同時に女性を扱った演劇を占有化す

(4       (5)

べきでもない。本論でとりあげる『シャツ工場の女たち』 {TheFactoryGirls,1982)と『メアリーとリジー』

(Mary andLizzie, 1989)は、 1980年代、まだ女性劇作家の活躍が今日ほど盛んでなかった時代に、男性作家フ ランク・マクギネスによって書かれた作品で、アイルランド女性を主人公に据え、彼女たちの(坐)を通して、

当時、アイルランド演劇の中で表象されることが少なかった女性たちの声をすくいあげたものである。しかし、

(フェミニスト演劇)またはく女性の演劇)という視点で、現代アイルランド演劇を概観するとき、これらの

(6)

作品は(女性の演劇)の系譜の中で論じられることはほとんどない。その理由は、おそらく簡単で、マクギネ スが男性の作家だからである。

こうした背景には、エレイン・ショーウオールターによって提唱された(ガイノクリティシズム) (女性に

(2)

よって書かれた女性的経験を重視するフェミニスト批評)の影響が強く感じられる。マクギネス自身も、 『シ ャツ工場の女たち』が(フェミニスト演劇)かどうか問われた際、非常に注意深く(フェミニスト)という語 を用いている。 「私はある種のフェミニストに対して、また彼女たちが私たちの旧来の考え方に対してつきつ

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けた挑戦に対して敬意を払ってきたが、いかなる男性も(フェミニスト)と自称する権利はないと思う。」

仮に、本論で扱う2作品が、フイヌ‑ラ・マゴニグル(マクギネスの『カルタゴ人』 Carthaginians (1992) に登場するゲイのダイドーが、劇中劇「燃えるバラクラバ」を書くときに使ったペンネーム)という女性名の 劇作家によって書かれていたら、批評家の反応はどのようなものになっていただろうか。おそらく、これらの 作品は、アイルランドにおける先駆的な女性の演劇として位置づけられ、高い評価を受けたに違いない。マク ギネス自身は、 『メアリーとリジー』で、 「神も、男も、女も、何の区別もない {ML,48)」と述べ、別の作品 でも、 「男でも女でも、それに何の違いがあるというのか(PI.129 」と登場人物に言わせているように、男女 の差異をことさら言い立てること自体に疑問を投げかける作家であり、従って、 (男性の演劇)く女性の演劇) と区別することに意味を見出さないと思う。どのようなレッテルを貼ろうと、彼の演劇の本質が変わるわけで はない。しかし、 80年代に書かれた、女性を主人公に据えたマクギネスの2作品を、アイルランドの(女性の 演劇)の先駆的な作品であることを確認し、作品に措かれるアイルランド女性の表象を分析することの意味は 大きいはずである。

2作品はどちらも(偶然ではあるが)、女性工場労働者たちを扱っているが、そのトーンは全くといってい いほど異なっている。自伝的な『シャツ工場の女たち』が、 1960年代のアイルランドのリネン工場における女 たちのく生)を写実的に描いたものであるのに対し、 『メアリーとリジー』は、 19世紀半ば、飢鐘の直前にマ

ンチェスターに渡った二人のアイルランド姉妹、メアリーとリジー・バーンズにまつわる物語を、幻想的夢幻 的なトーンで措いているo このような表面的な違いにも関わらず、 2つの作品は、 (男性作家)マクギネスが、

女性の経験に対する深い洞察のもと、登場人物たちに、それまで語られることが少なかった女性の物語を語ら せているという点で繋がっているのである。

Ⅰ 『シャツ工場の女たち』

1980年に、アーツカウンシルが主催した新人劇作家のためのワークショップで、マクギネスが書いた最初の 劇作品が『シャツ工場の女たち』である。この作品は、ワークショップを主宰した演出家パトリック・メイス ンの演出で、 1982年にダブリンのピーコックシアターで初演された。ワークショップの参加条件として、既に 書かれた自作の劇の梗概を提出することを要求されたマクギネスは、まだ1行も書いていなかった『シャツ工 場の女たち』のアウトラインを大急ぎで書きあげ、参加を認められたという。それは、故郷ドニゴールのシャ ツ工場で働いていた母や叔母たちの経験をもとにしたものだった。ユーモアと活力に溢れ、時にはちょっとし た意地悪や棟も交えながら、丁々発止とやり合う彼女たちの言葉に耳を傾けながらマクギネスは育ったのであ る。彼は、自分の母親や叔母たちの辛妹でユーモアに溢れたやり取りを(文化)であるとみなし、あらゆる文 化は書き留め、記録として残していかなければならないと考えたと述べ、この作品を母と叔母たちに捧げてい る。少年だったマクギネスとり巻き、惜しみない愛情を注いだ母や叔母たちに村する深い愛情がこの作品には 流れている。

このように個人的に思い入れがある人々の(坐)を劇化することは、政治的行為でもあるとマクギネスは言 う。彼がイプセンを尊敬するのは、まさにこの点で、 「イプセンの政治には情熱が伴っていて、単に頭だけで 書かれたものではない」からである。しかし、劇作家自身が(政治的)という言葉を使っているとしても、

『シャツ工場の女たち』はプロパガンダ劇ではない。シャツ工場の外側にある社会的経済的現実は、登場人物 の女性たちの苦しめ、彼女たちを押し潰そうとするが、その圧力をはねのける活力に、マクギネスは焦点をあ てているからである。

マクギネスの弟シェインは、兄がこの劇を準備していた当時のエピソードを以下のように回想する。

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Llい

ある日、フランクが一枚のシャツを母の前に掲げ、彼女はこのシャツに何を見るのかと尋ねたことがあった。

私は、フランクの頭がおかしくなってしまったのかと思った。母が、これに何を見るかだって? 後になって、

それは、当時彼が書こうとしていた最初の劇『シャツ工場の女たち』のための情報を求めていたことがわかっ

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た。母は地元のシャツ工場で検査員として働いていたため、シャツについては何でも知っていたのである。

マクギネスは母親から得た情報を、劇中、若いカトリックの工場長ローハンと、エレンのやり取りとして措 いている。ローハンにとってシャツとは、 「色がついた布を縫い合わせただけのもの」であり、 「この工場から 可能な限り迅速に、かつ大量に出荷されるのを、自分が監督しなければならない製品{PI,36‑37)」であるのに 対し、エレンは違った見方をする。

あたしが何を見るか、教えてあげようか。襟。袖口が2つ。ボタン8個。ボタン穴8個。後身頃1つ。前身 頃2つ。もっと近寄ると、さらに何が見えるかわかる? 何千もの縫い目だよ。なんで見えるかって? それ

を見るように訓練されてきたのさ。 (PI,37)

これは、 『シャツ工場の女たち』の中で、最も印象的な場面の一つである。エレンにとって、シャツは単な る工場製品ではなく、自分の労働、それがうんざりするようなルーティンにすぎないとしても、その労働に対 する於持の象徴でもあるのである。

50代のエレンは、女たちのリーダー的存在であり、工場の経営者がまず最初に交渉したい相手として措かれ ている。工場長のオフィスに呼び出された時、エレンは一人で行くことを拒み、かわりにローハンと労働組合 代表のボナ一に、作業現場にやって来て状況を説明するように要求する。女たち全員を前にした工場長は、依 願退職を募らざるをえないこと、また、ノルマの強化を実施せざるをえないことを告げる。仕事を辞めること もできず、また、これ以上のノルマで仕事をすることもできない女たちは、ローハンの事務所を占拠し、食糧 と酒を持ち込んでストライキに突入する。

エレンに対し、他の4人の女たちも決して従順に言いなりになっているわけではない。最年長で60代のウ‑

ナから、最年少で16歳のローズマリーにいたるまで、辛口の言葉は、残された唯一の武器だからである。

エレン:ねえ、あんたのざらざらの鮫肌もタバコのせいだろうね。ブリロたわしだって、かなわないさ。

ウ‑ナ:デットルの瓶みたいな体型してるよりはましなんじゃない?

エレン:それ、どういう意味よ?

ウ‑ナ:さあね。でもあんたが気分を害したってわかっただけで、言った甲斐があったさ(PI,19)

これは、女たちの鋭いやり取りの一例にすぎない。こうして女たちは、単調で退屈なルーティンをこなしな がら、互いに支え合っているのである。本当の意味でのいじめや嫌がらせの要素は、ほとんどないと言ってい

い。むしろ、女たちはこの辛妹さを楽しんでいる。

しかし、ローハンのオフィスを占拠して断行したストライキは、楽観できるものではない。このストライキ が誰にも支持されないこと、女たちにとって、明るい未来が約束されているわけではないことはすぐに明らか

になる。まず、ウ‑ナに、 70歳の姉がパブで酔っぱらっているという電話がかかってくる。ウ‑ナは60歳にな っても(お姉ちゃん)に面倒をみてもらっていると同僚たちにからかわれていたが、現実に姉の面倒を見てい るのはウ‑ナの方で、彼女が同僚との連帯を貫くことは、 70歳の老女が、面倒を見る者のないままに一人取り 残されることを意味するのである。ローハンも電話で、ストライキを即刻やめなければ、ろくなことにはなら

ないと、脅迫めいた説得を行う。また、教区神父には、日曜日のミサを挙げてもらうように依頼するが、拒絶 される。教会はストライキを断行する女たちに対し、精神的な支援を行うことはない。電話を切る前に、ウ‑

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ナが残した捨てぜりふは、 「神父棟、最後にこれだけは言っておきますね。あなたは、とっても、とっても意 地悪だと思います(PI,66)。」というものだった。

このような外界からの圧力や、それによって生じた不安のせいで、女たちの結束は揺らぎ始める。二人の子 どもが麻疹にかかったらしいという電話を受け、動揺したヴェラは、このままストライキを続行すべきなのか、

家に戻って子どもたちの看病をすべきなのか、さらに、大きな子どもである夫の面倒をみるべきなのか決心が つかない。エレンはヴェラに対し、夜中に抜け出し、早朝に戻ってくる方法を提案をするが、 「あんたの苦し みはよくわかるよO私が同じ苦しみを通らなかったとでも思うの? {PI,69)」と付け加えたことで、ヴェラを 逆上させてしまう。エレンは,かつて結核で3人の子どもを死なせた経験があり、子どもが病気になったとき に母親がどのような思いを抱くか、理解できることをヴェラに伝えようとしたのであるが、ヴェラは自分の子

どもたちがエレンの子どもたちの様に死ぬと言われたと曲解し、さらに、エレンの子どもたちが死んだのは、

彼女が母親として怠慢だったからだとさえ言う。

マクギネスは、この劇は「我々が女性に対して抱いている固定観念、つまり、女たちが互いに意地悪をし合 い、俗物的で、必要以上に自分の外見にこだわるといった伝統的通説に対する挑戦である。こうしたことは、

(9)

男性のほうに、より的確にあてはまるのである。このような伝統は、男性から女性に伝えられたものなのだ」

と述べていように、劇中、女同士の意地悪やいじめは長く続かない。ヴェラは、エレンに対する自分の反応の 不当さに気づき、自分を恥じてすぐに謝罪するし、エレンもぶっきらぼうではあるが、寛容さを示して「いい んだよ」と答える。

やがて女たちは、まなじりを決し、深刻な表情で座り込むかわりに、ウイスキーの瓶を開け、歌い始める。

陽気な宴会は、女たちの心配を吹き飛ばすかのように見えるが、歌いながらも、女たちは、自分たちの中に内 在する脅威に直面しなければならない。内的な恐れは、外からの脅威よりも困難で、克服しにくいものだから である。エレンは、自分が結婚式に着たブラウスのことを思い出す。 「燃やしちゃった。すっかり燃やしちゃ ったo埋葬の後で[PI,80)t」燃やされた赤いブラウスは、 3人の子どもをたて続けに失ったエレンが自分自身 にかけた呪いそのものであり、子どもの死後、エレンが感じた空虚さ、自己嫌悪を象徴している。この時以来、

エレンの傍らで彼女を支えてきたウ‑ナは、 「あたしは、あんたが自分自身の生を呪っていたのを聞いたよ。

呪いは取り除かれたんだ。戦い続けるんだよ(PI,86)」と言うが、それに対してエレンは、自分たちが立てこ もるオフィスのひどい臭いに触れ、新鮮な空気を吸いたいと言う。そして、こう続ける。

でも、一体どうやって、自分のこの臭いをなくすことができというの? あたしには何もないし、あたしは 何者でもない。このいまいましい工場に足を踏み入れた瞬間から、打ちのめされているんだ。じゃあ、この工 場に足を踏み入れなかったら、何者かになれたって言うの? 道がよかったらね。でも、運をためすこともし なかった。無駄な人生さ。心が痛むだろう? このいまいましいアイルランドに、新しい殉教者の誕生ってわ けさ。ああ、一人の殉教者がここにいて、キーキー泣き言をくりながら、墓場へと運ばれて行くんだ。 (PI,87)

自分が何者でもないことを認めるのは厳しく幸いことであり、エレンのこの長い台詞は苦渋に満ちているが、

それでも、他の女たちに、自分を見つめるきっかけを与えることになる。もしも、このストライキの成否を、

労働争議という限定した意味でのみとらえようとするなら、彼女たちのストライキは、決して成功したとは言 えない。しかし、レベッカは、自分たちが置かれた閉塞した状況を少しでも変化させるきっかけにはなったし、

その試みがなされたことに意味があるのだと言う。彼女にとって重要なことは、試みたことなのだ。誰かが始 めたら、その後に続く女性たちにとって、その道のりは少し平坦になるのだから。

ローズマリーが自分の夢は、解雇に対する恐れから逃げ出すこと、そして、うんざりするようなシャツ工場 の仕事から逃れ、サーカスに入団することだとレベッカに告げたとき、レベッカは、 「馬を盗んで、あんたの 魂の中にいるジプシーの少女を解放したら? ソンジヤ? (PI,45)」と、ローズマリーのお気に入りの漫画、

ジプシーの少女ソンジヤの物語になぞらえて答える。また、劇の黄後の場面でも、半ば諦め、自分はみんなと

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同じ行動をとると言うローズマリーに対し、レベッカは、 「馬を盗んで、できるかぎり遠くまで逃げて行きな さい{PI,88)。」と力づける。レベッカの言葉からは、ジプシーの少女が、平凡で面白みのない日常から、自由 の王国へと向かって馬に乗ってかけだしていくという、ロマンティックでヒロイックなイメージが広がってい

く。しかし、比喰であるとしても、敢えて盗むことをも奨励するレベッカのこの最後の台詞は、彼女のもっと 散文的で力強い台詞、 「戦うとき、どんな汚い手を使って戦うことができる? (刀,82)」と重ねて理解する必要 がある。レベッカは、勝つために、生きていくために、どんな汚い手段をも辞さないことを表明しているので ある。

マクギネスは、 「この物語には、これが決定稿と言えるような結末はない」と述べ、今までに3種類の結末 を書いている。 1982年と1988年に、いずれもウルフハウンドから出版された単行本と、 1996年にフェイバーか

ら出版された作品集の3つの版である。どの版も、エレンは上に引用した長い台詞の後、トイレに行くといっ て退場し、ウ‑ナは、おそらく彼女を一人にしないために、続いて退場する。ヴェラは眠り、二人残ったロー ズマリーとレベッカのやりとりのうちに幕がおりるが、決して明るいとは言えない状況の中、レベッカの肯定 的なトーンで終わるという点で共通している。

1996年の第3版でなされた大きな改稿は、 1982年、 88年の2つの版では、冒頭のエピグラフとして扱われて いたオリーヴ.シュライナーの寓話集『夢、夢の生、現実の生』 Dream andDream Life andRealLife (1912) に収録された「(坐)の贈り物」 ̀Life'sGift'からの引用を、幕切れでレベッカ本人に語らせているという点であ る。

昔、ある本を読んだことがあるの。意味はよくわからなかったけれど、でもすっかり覚えている。頭から離 れないの。 「私は一人の女が眠っているのを見た。眠りの中で女は(坐)が自分の前に贈り物を持ってたって

10

いるのを見た。片手には(餐)を、もう一方の手には(自由)を。そして、 (坐)は彼女に言った. 「選びなさ い」と。そして女は長い間考えて、とうとう答えた。 「自由を」と。私は女が眠りの中で笑うのを聞いた。」そ

う、私は女が眠りの中で笑うのを聞いたの。 (PI,89)

82年、 88年の版では、シュライナーの「(坐)の贈り物」の全文がエピグラフとして引用されていた。 1996 年版とのレベッカの台詞と比較すると、女が(自由)を選択した後、 「(坐)は言った。おまえは正しい選択を した。もしも(餐)を選んでいたなら、私はおまえが望んだものを与えただろう。そして、おまえから立ち去 り、二度と戻ってはこなかっただろう。だが、私はおまえの元へもう一度戻ってこよう。その時、私は一つの 手に、両方の贈り物を携えていることだろう」という部分が挿入され、そして、 「私は女が夢の中で笑うのを 聞いた」と結んでいる。この寓話は、初演の際、プログラムに印刷され、観客は読むことができたのであるが、

やはり、文字として読むことと、舞台上で登場人物が語ることの間には、大きな違いがある。マクギネスは、

シャツ工場の労働者であるレベッカが、シュライナーの本を読んでいる可能性は限りなく低いことを承知の上 で、この引用をエピグラフとしてではなく、彼女に舞台上で語らせたかったと言う。そして、最後の一行をレ ベッカ自身の経験として、 「女が夢の中で笑う声を聞いた」と語らせ、幕を閉じている。この寓話が物語る、

(自由)を伴わない(餐)はないというメッセージは単純であるがゆえに力強い。シュライナーの『女性と労 働』 {WomanandLabour,1911)は女性運動における「バイブル」とみなされているが、マクギネスが彼女の政 治的散文からではなく、寓話集『夢、夢の生、現実の生』から引用したのは、寓話は、理論よりも力強く、感 情に直接訴えかけてくることを、彼がよく知っていたからだと思われる。

Ⅱ 『メアリーとリジー』

しい

マクギネスが1989年に書いた『メアリーとリジー』は、フレデリック・エンゲルスとマンチェスターで生活

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を共にした二人のアイルランド人工場労働者、メアリーとリジー・バーンズ姉妹を題材にした作品で、ロンド ンのバービカンのピット劇場で初演された. 「世界史という観点から考えると、メアリーとリジーという名の

、11、

バーンズ姉妹は、 19世紀に生きたアイルランド人の中で最も重要な二人だと思う」とマクギネスは述べている。

エンゲルスをマンチェスターの貧民の元へ導き、その実体を見せたのは、この二人のアイルランド人姉妹で、

もしもエンゲルスが二人に出会っていなければ、 『英国労働者階級の状態』 {The Condition of the Working‑Class in England, 1845)は書かれなかったかもしれないし、この本が書かれていなければ、世界史の流れは変わって いたかもしれない。

しかし、歴史上のバーンズ姉妹については、ほとんど知られていない。マクギネスがこの姉妹の名前を日に したのは、エドマンド・ウイルソンの『フィンランド駅‑』 {TotheFinlandStation,1940)で、そこでは、メ アリーとリジーがエンゲルスの愛人として簡単に紹介されている。エンゲルスとメアリーは、メアリーが心臓 発作で死ぬまで同棲し、メアリーの死後リジーが姉の後を継ぐ形で同棲する。エンゲルスとバーンズ姉妹の関 係について、 「これは、三角関係であり、非常に開放的なものだった。そして、非常に近代的なものでもあっ た。また、エンゲルスとマルクスは、結婚制度の廃止を主張していた。 (マルクスは違っていたが)、エンゲル

(ユ2)

スはこの点、自分のたてた原則に従ったのだった」と、マクギネスは書いている。

マクギネスが翻案したイプセンの『ペール・ギュント』は『メアリーとリジー』が初演された前年の1988年 に上演されているが、この翻案のプロセスは、彼が『メアリーとリジー』を善くにあたって、大きな影響を与 えたようだ。 「自分は幻想的な演劇形態を、常に求めていた。そして、 『ペール・ギュント』を翻案した時、と ても開放的だと感じたのは、ペールがあのように並はずれた人物なので、彼は何でも自在にできるという点だ

13)

った」と、マクギネスは述べている。 『メアリーとリジー』は、 『ペール・ギュント』の女性版として書かれた 作品である。ペールが、偉大なるビョ‑グの声に示唆され、遠回りをしながら旅を続けていくように、メアリ ーとリジーも、回り道をしながら、二人の旅を続けていく。

『メアリーとリジー』は、複数の語り手によって語られる複数の物語という構造を持っている。具体的には、

(1)リジーと女たちのコロスによって語られるプロローグ(1場)、 (2)リジーの視点で語られるメアリーと リジーの物語(2‑7場)、 (3)世界史の視点でのメアリーとリジーの物語(8場)、 (4) Vジーとメアリー、

二人の母親と女たちのコロスによって語られるエピローグ(9場)という具合に、 4種類の語り手による4つ の物語によってこの劇は成立している。

劇全体のプロローグ、第一の物語の語り手はリジーで、典型的なストーリーテリングの語り口、 「むかしむ かし、この国には、木に住んでいる女たちの町がありました{ML,1)」で始められる。木にまつわる数多くの 象徴の中、ド・フリースは、 「死者の魂は木の中に入り、その木の中で『生き続ける』こともある」と指摘す るが、このプロローグに登場する木に住む女たちは、死んだすべての女たちを体現しており、世界の始まりか ら連綿と連なる女性の集合的心理を表している。この第一の物語は、女性の原型的な物語として、すべての女 性に関わる「ひとつの物語{ML,A)」のプロローグとして語られているのである。

木に住む死んだ女たちが社会から追放された者として、かつて兵隊たちの野営でどのように扱われ、どのよ うな恥辱を受けたか、リジーは物語る。こうして舞台上で紹介された女たちは、直ちにコロスとして物語に参 加するが、ギリシア劇において、コロスは共感を持ちつつ登場人物を傍観する者であり続けるのに対し、この 共同体に住む女たちのコロスが歌うのは、自分たちの悲惨さと苦悩についての物語である。しかし、彼女たち は自己憐潤に陥ることはない。古典的なストーリーテラーや、ブレヒトのナレーター同様、彼女たちは客観性 を保ちつつ、自分たちの不幸を淡々と語り続けるのである。

次に登場したリジーの姉メアリーは、自分たちには「大地を坊径う {ML,2)」という仕事があるとリジーに 告げ、この劇が何についての物語であるか、つまりタイトルが示すように、メアリーとリジーの物語であるこ とを思い出させようとするのである。リジーが、女たちの共同体に留まることを望み、メアリーと一緒に行く ことに蹟曙する間、 (妊娠中の少女)が銃剣を持って登場する。女性性を体現した存在として、劇中のトーン が象徴的で幻想的なものになる度に、繰り返し登場する、この(妊娠中の少女)が、コロスの(第一の女)に、

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(15)

自分を捨てた男をどれくらい待っているのかと尋ねると、 (第一の女)は「大地はどれくらい年をとっている んだろう? たい‑んな年寄りさ。丘とおなじくらいにね(ML,4)。」と答える.この表現は、アイルランド 神話における(丘と同じくらい年齢を重ねた女)のイメジヤリーを喚起するが、こうした物語を劇の冒頭に提 示することで、マクギネスは、 19世紀半ばという特定の時代に生きた、メアリーとリジー・バーンズという歴 史から忘れられた女たちに焦点を当てるのみでなく、有史以前から無意識の中に蓄積され隠されてきた、女性 の歴史を発掘し、それと折り合いをつけようとしているのである。

このプロセスは、ロンドンのステージでアイルランド語を翻訳なしで聞かせる効果と相通じる側面がある。

女たちのコロスは、直訳すると「わたしがパデイの女房でないのは、哀しいことだ」という意味の歌を、 ̀Sen trua nach mise, nachi mise,/Sen trua nach mise, Bean Phaidin(ML, 1)'.とアイルランド語で歌うが、ロンドンで の演出では、アイルランド語を解さない多数の観客に対し、声の調子や表情で、女たちが決して嘆き悲しんで

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いるのではなく、ひやかし、噺笑しているのだということを、確実に伝えることができた。観客は、独立以来、

政府の方針にもかかわらず衰退の一途をたどるアイルランドの第一公用語であるアイルランド語を舞台で耳に することで、アイルランドの歴史を(理解する)のではなく、 (感じる)のである。

続いて、 (第一の女)に誘われ、リジーは女と兵隊について、愛の苦痛と残酷さについて歌い始める。しか し、ここでもリジーはコロスの一員として、自分の感情を露わにすることはない。 (妊娠中の少女)に人を殺 したことがあるかと尋ねられた(第一の女)は、謎めいた答えを通して、メアリーの子殺しの可能性を示唆す る。それに反応するように、メアリーはく妊娠中の少女)が舞台上に残していった銃剣で自分の腹部を突き刺 すが、血が流れることはない。夢のような幻想世界にいる限り、肉体が傷つくことはないのである。

第1場の終わりで、メアリーは両腕を広げ、リジーに一緒に行こうともう一度誘うが、リジーは首をふる.

メアリーがリジーにキスをし、女たちのコロスが退場した後、リジーの̀kissandtell'という言葉を最後に第1 場は終わる。これは、メアリーのキスに喚起された表現であり、これから語られる物語は、姉妹の暴露話

(̀kissandtell')なのかもしれないと、観客に期待させている。

むかしむかし、二人の女がおりました。メアリー.バーンズとリジー・バーンズといいました。なぜ、二人 はこの世にいるのでしょう? 坊径うためです。時を超え、場所を超えて、窃裡うためです。なぜなら、それ が二人のたどる道、二人の物語だからです。これは、メアリーとリジーの物語りで、二人が一緒に歩いて行っ た道のりを示しています。 (ML,6)

しかしながら、リジーが語ろうとしているのは三角関係にまつわるスキャンダルではなく、時を超え、空間 を超えてさまようメアリーとリジーの旅の物語、ペール・ギュントの女性版なのである。 2場から7場にかけ て、幻想的で夢幻的なスタイルで語られる二人の放浪の物語において、歴史的な意味で、二人がエンゲルスに 出会うことは、あまり重要視されておらず、従って、第7場になって姉妹がエンゲルスに出会ったとたん、リ ジーの第2の物語は終わる。

何年も前に、この国で、二人の女が一人の男に会い、三人は一緒にマンチェスターの町を歩きました。 ・・・‑

二人は男に貧民の姿を見せ、自分たちの父親を紹介し、自分たちの民族を、そして自分たちを彼に見せました。

二人の女たち、メアリーとリジー・バーンズ、フレデリック・エンゲルスとこの世で生活を共にした姉妹、恋 している姉妹、なぜなら、二人はこの世の終わりを信じていたからです。世界が変わっていくのを聞きなさい。

世界が終わろうとしていくのを聞きなさい。 {ML,32)

(2)

ロンドンでの初演時には、リジーのこの台詞の後に幕間が置かれ、これに続く第8場(「カールとジェニー との正餐」)は、散文的で写実的なトーンで措かれている。そこでは、世界史の文脈の中に置かれたバーンズ

(8)

姉妹は、エンゲルスの二人の(愛人)として描かれ、歴史の闇の中から立ち現れる。二人が招かれていないマ ルクス家のティーパーティに乱入した時、マルクスの妻ジェニーは、このアイルランドから移民してきた二人 の姉妹のヴァイアリティと悪趣味を受け入れることができない。上品なブルジョワジーの食卓で、メアリーと リジーは、マルクスが口にすることすべてを中断し、邪魔だてする。

Ma∝:To the successful analysis of much more composite and complex forms there has been an

approximation‑

Lizzie: Why?

Ma∝: Because血e body‑

MaⅣ: Body?

Lizzie: I like血e body.

Mary:Yes.

Marx: As an organic whole‑

Lizzie: Legs.

Marx: Is easier to shdy‑

Man':Tits.

MaⅨ: Than are me cells of that body.

Mary: Body.

Lizzie: Legs.

Mary: mts.

Lizzie: Frederick's more of a tits man than a leg man. Which are you, K∬蝣1? (ML, 33)

組織体という抽象的な意味で̀body'という語を使うマルクスに対し、メアリーとリジーは、人間の身体の意 味に解釈し、徹底的にマルクスのを邪魔をし、混乱させる。二人のディスコースは、非常に単純な形でのエク リチュール・フェミニンの一例である。エレ‑ヌ・シクス‑が論じたエクリチュール・フェミニンとは、女性 に特有とされるディスコースで、女性の身体性に根ざした言語とされ、 (肉体の言語) (writingthebody)と呼 ばれることもある。この女性特有の言語に内在する流動性は、ロゴス中心主義の男性原理を根底から揺るがし、

転覆させる力を備えている。そして、メアリーとリジーの言語がもつ破壊力ゆえに、マルクス夫妻は二人をう とましく思うのである。

バーンズ姉妹とは対照的に、 (お上品な)ヴィクトリア朝中産階級の価値観に縛られているジェニーは、そ れを守ろうとして、姉妹に敵対する。しかし、ジェニーもまた、 「家族を養うことはできないが、人類すべて に対しては真理を与えようとする {ML,38)」偉大な夫の陰で生きかナればならなかった犠牲者として、声な

き声を表象する存在である。ティーパーティのさなか、ジェニーは気分が悪くなるが、おそらくそれは、 「家

15

庭と家族内における病理学的社会構造ゆえに精神を病んで」いるためである。マルクスは、バーンズ姉妹を拒 絶するだけでなく、自分自身の妻を「邪悪な魔女{ML,27)」とみなし、彼女からも「顔をそむける(ML,39)」

のである。

男性原理に抑圧され、精神を病んでいるジェニーは、バーンズ姉妹に共感を感じ、連帯することもできたは ずである。そのかわりに、彼女は興奮したトーンで、エンゲルスの著作からアイルランド人労働者に関する箇 所を朗読し始める。

アイルランド人の人生にとって、意味のある唯一のものは飲酒である。アイルランド人の不作法な振る舞い は、野蛮人よりは僅かにましであると思われる程度であるが、その不潔さと貧困は、飲酒をさらに促進させる。

飲酒の誘惑は大きなもので、抗うことはできず、僅かばかりの現金を手にした時には、いつでもそれで飲んで

(9)

(17)

しまうのである。 {ML,40)

マクギネスは、エンゲルスのこの記述を、 「アイルランド人と労働者階級の状況に対して、考え得る限り最

16

悪の人種差別的発言である」と見なしているが、エンゲルスのこの記述は、ある国民(アイルランド人)の性 格について誹誘したものではなく、ある階級について述べたものなのである。このアイルランド人労働者につ いての記述と、エンゲルスの生地、ドイツのライン州パルメンの工場労働者に対する観察とを比較することに

よって、それは明らかになる。ウイルソンは以下のように書いている。

労働者たちは、毎晩のように酒を飲んで酔っていた。喧嘩は絶えず、殺人さえ起こることがあった。閉店時 間になって酒場を追い出されると、彼らは納屋や馬小屋で寝たり、人糞の山の上や、他人の家の前の階段に倒 れ込んだりする。この理由について、エンゲルスは非常に単純に述べている。彼らは天井の低い工場で終日働 いていて、そこでは、空気を吸うというよりは、境と石炭の煙を吸い込むことの方が多いのである。彼らは背 をストーブに向け、機の上にかがみ込んで仕事をしている。 6歳になった時から、彼らから人生の喜びと支え となるものを奪い取るあらゆることが起こっているのである。彼らに残されているのは、福音主義か飲酒しか

17

ない。

しかし、劇中のメアリーとリジーにとって、またマクギネスにとって、エンゲルスのこの共感を著しく欠く 記述を許すことができない。 「二人が自分たちの同胞について、人々が耐えていることについて彼が書いた文

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章を聞いた時‑‑・その時が、二人の彼に対する愛の終わりだった。」とマクギネスは述べている。姉妹が自分 たちとその同胞‑のエンゲルスの(裏切り)を知った後、メアリーはジェニーに石を、マルクスに藁を、エン ゲルスにポロ布でくるんだ本を手渡す。これはすべて、 「飢鐘の饗宴」と遷された第4場で、ぐつぐつ煮え立 つ大鍋コールドロンから、 (妊娠中の少女)によって取り出され、メアリーに手渡されたものである。ジェニ ーへの石は彼女の無慈悲さを、マルクスへの藁は、彼が構築しようとしているイデオロギーが(少なくともメ アリーにとっては)平凡で取るに足りないものであることを、エンゲルスへのポロ布は彼が書き留めた労働者 階級の絶望を表している。彼に手渡された書物が表す英知は絶望でくるまれているのである。そして、最後に メアリーはエンゲルスに向かって「あなたを通して、私は記憶されるでしょう。私が死ぬとき、生きなさい。

消えなさい(ML,42)。」と、呪いを投げかける。

それでも、劇は続いていく。 (妊娠中の少女)がこの場面の最後に再登場すると、劇の雰囲気は、また幻想 的なものへと変化する。この劇の最後のエピローグの場面の理解を深めるために、 2場から7場に至る二人の 姉妹の坊径にたちもどり、詳しく検討することにしたい。

(3)

第2場「大地は開く」で、 (年老いた女)は黄金の鍵で大地の扉を開き、その先にある墓の中にメアリーと リジーを招き入れる。ノイマンが言うように、 「大地母神が怒ると、神は生きるものの子宮を閉じてしまい、

19

すべての生が動きを止める」のである。鍵は扉を開くと同時に、物を閉じこめる機能をもつ。この飲み込まれ そうな地下の世界に閉じこめられているのは、新しい眼差しでカトリックとプロテスタントの教えを見つめて いると主張する(年老いた女)の(息子の司祭)である。この司祭は、宗派間の対立を内在させることによっ て、キリスト教を体現している。そして、キリスト教会が少なくとも2000年に及ぶ歴史と伝統を主張するとし ても、 (年老いた女)が体現する宗教的神話的体験に比べると、単に若い息子でしかないのである。このよう に見れば、カトリックとプロテスタントの差異など取るに足りないものように見えてくる。

地下の世界で(司祭)は雄弁な説教でメアリーとリジーを庄倒しようとする。

未来への信仰をここに述べることにしよう。主は、新しい戒律をもって私たちとともにあられる。私がそな たたちを憎むように、互いに憎み合いなさい。ローマの王座を約束して、悪魔を誘惑したのはイエスだった。

(10)

(ML, 9)

しかし、メアリーとリジーは、司祭の思うままにはならない。姉妹の女性としての根源的なエネルギーは、

意味のない似非神学に浪費される司祭のエネルギーよりまきっているからであるO 明らかに女性的混乱を象徴 する(蜘味の巣)を欲しがっていた息子に、 (年老いた女)は、 (2匹の蜘昧)であるバーンズ姉妹を贈りもの として与えるが、雌蜘妹が交尾の後で雄を食うように、姉妹はほとんど司祭を食べそうになる。そして、カミ

20

ール・ペグリアが「女性的ダイナミズムは、自然の法則である。大地は自分と婚姻する」と述べているように、

メアリーは司祭にメアリー自身との婚姻を、リジーは自分の母親との婚姻を執り行うよう強要する。 OEDによ ると̀marry という語には「親密な合一を取り結び、参加し一つになる」という比倫的な意味があることが示 されているが、メアリーが自分自身と、リジーが母親と婚姻を結ぶと言うことは、それ自体で完結した女性性、

また、母権的原則を強調することになる。

第4場では、姉妹の母親が6人の女たちを従えて登場する。 6人の女は皆、リジーを出産した時に死んだ彼 女の母親同様、産得の苦しみの内に死んだ亡霊たちである。しかし、第4場の題「飢健の饗宴」が予想させる

ように、バロック音楽と、宝石をちりばめた衣装をまとった女たちによって、かもし出されるこの場の雰囲気 は祝祭的である。

この饗宴の間、 (妊娠中の少女)が大鍋コールドロンを舞台に持ち出し、その中に石、本、ポロ布、スプー ン、藁、骨を次々に投げ込んでいく。調理のための道具である鍋に、食べられる物が何も入れられないという 事実は、ある一面では、アイルランドにおける大飢健の悲惨さを表している。しかし同時に、アイルランドの 神話伝説による大鍋コールドロンは、再生と復活の象徴でもある。この大鍋コールドロンに、困難、無慈悲、

21)

不毛を表す石、英知と同時に男性原理の硬直を表す書物、 「貧困、絶望、卑下」を表すポロ布、 「女性原理また

22

は両性具有(くぼんだ部分が女性で、柄が男性)」を表すスプーン、取るに足りなさを表す藁、死と再生を表 す骨、といった否定的意味合いを持つ品々が投げ込まれ、かき混ぜられる様子は、母親が歌う歌に凝縮され

る。

石のスープ、藁のパン、

食べろ、ネズミを、土を、サンザシの実を。

骨のパン、ポロの頭。

食べろ、飢えた老婆の死体を。

石の頭と空の匙。

食べろ、星を、腹の傷を。

饗宴を忘れるな、飢健を忘れるな。

饗宴の飢餓、飢健の饗宴、

欠乏の時、豊鏡の時。 (ML,17)

ここでは、逆説的な「飢健の饗宴」という表現が、突然新しい実体を持つようになる。この「飢鐘の饗宴」

は、この劇の最も力強い瞬間の‑つで、象徴的で超現実的な要素が、現実的実体と混ざり合い、新しい意味を 創り出していく。

この場面の終わりで、母親は手のひらを紙め、 「この娘たちのために、何もかもお膳だてしてやらなくては ならない」と文句を言いながら、二人の娘の額に触れる。この母親のまじないは、不運や不幸から身を守るお 守りのように、アイルランド海を泳いで渡ろうとする姉妹を守るのである。

第5場では、イングランドの海岸に到着した二人の前に、 「バケツと鋤」を手にした若き日のヴィクトリア 女王が登場する。女王は、まさにこの鋤を用いて帝国を建設し、その富をバケツに収蔵しようとしているので ある。しかし、バケツが一杯になれば、今度はそれを空にしなければならない。このバケツは運命の女神の持

(11)

(19)

(23)

ち物とされ、運命の輪は常に回転しているため、 「一杯になったり、空になったりすることを順番に繰り返す。」

若きヴィクトリアは、その栄光の名のもと蓄積された巨大な富を、やがて空にしなければならないという帝国 の未来を予言する。

イングランドはどうなっているの?‑・・・一つだけ言えることがある。それは、不変ではないということ。だ から、充足を求めて世界中を放浪するの。そして、そんなものはどこにも見つかりっこない。だれも、イング ランドなんて欲しがらない。 ‑‑・可哀想なイングランドの放浪が終わったとき、それがどうなるのか心配だわ。

自分に対しヒステリーを起こす以外に、行き先はあるのかしら。そして、何を見つけるのかしら。共同住宅か しら。他者を征服することに慣れたイングランドは、今度は自分自身を征服する。自分の海の中で失われた、

第三等級の島として。どうやってしのいだらいいの? たぶん、嘘をつくことで。 {ML,234)

もはや栄光を失ってしまった帝国が生き抜いていくためには、嘘をつくしかないという、一つの帝国の勃興 と没落に関する鋭く厳しい指摘がここになされている。ヴィクトリア女王は姉妹の前から立ち去る時、そうし た状況で通常使われる̀Excuseme.'ではなく̀Forgiveme.'と言って舞台から去っていく。もしも、これがジョ

24

ーダンの言うように、 「無意識の罪悪感を示した表現」だとすれば、メアリーは「彼女は乗り越えていくでし ょう(ML,24)」と言うことで、ヴィクトリアを赦しているのである。 1994年に初演されたマクギネスのThe BirdSanctuaryで、ヴィクトリア女王はもう一度赦されている.ゲイの甥に向かって叔母が語った物語によると、

彼らの家を訪ねてきたヴィクトリア女王に向って、 「あらゆる罪は赦されます」と美しい老婆が述べたという のである。

これに続く第6場では、エンゲルスとマルクスは大きなベッドに一緒に寝ているが、笑いは「重荷を軽くす る」 {ML,27)というエンゲルスに対し、マルクスは「重荷は軽くするものでも、とりのぞくものでもない。

重荷は運ぶためにそこにある」 {ML,27)と述べる。このようなやりとりを通して、情緒的で思いやりがある エンゲルスと、論理的で合理的なマルクスの性格の違いが強調され、戯画化されるが、現実のマルクスとエン ゲルスの違いに関して、ウイルソンは以下のように書いている。

まず、エンゲルスについて注目しなければならないのは、彼が人生に対し思いやりがあるということである。

マルクスの思想は、道徳観において現実的であり、ある特定のイメージによって豊かなものとなることはある が、常に社会的なプロセスを抽象的で論理的な発展過程で捉える傾向がある‑‑彼は、ほとんど通常の人間に 気づかない。エンゲルスの世界の捉え方は全く異なっている。彼は他者の生の本質を、自然に、かつある種の

25

単純さをもって見つめるのである。

単純な言い方かもしれないが、科学的で合理的、かつ散文的なマルクスの世界観は、マルキシズムという思 想体系を構築することを可能にしたが、そのシステムは、決して「エンゲルシズム」と呼ばれることはないの である。劇中のエンゲルスによれば、彼が記憶する父親そっくりに、マルクスは議論するという。マルクスと エンゲルスの父親との共通点を指摘することで、マクギネスはマルクスにおける父権主義的要素を強調してい るのかもしれない。またマルクスは、舞台上で夢遊病者のように俳梱するが、医学的研究によると、夢遊病は 夢を見ていない、深い眠りの時に生じる現象だと言われる。眠りの中ですら、 (マクギネスが描く)マルクス の意識は、夢を拒絶し、合理的でない説明を排除し、無意識からのメッセージを拒んでいるのである。

論理的で厳格主義者であるマルクスが夢を拒絶するのに対し、エンゲルスは闇に対する恐怖、夢を見ること の恐怖を受け入れる。なぜなら、夢は現実になるかもしれないからである。エンゲルスは言う。 「自分のよく 知っている場所を何マイルも歩いている様子を考える。なのに、何も見えない。なぜなら、君は自分自身の頭 の中で道を見失っているから?そういうことがよくある。見失う。孤独だ。なんだか、妙な風に、僕は貧乏人 が好きなんだ。彼らも孤独なんだと思う(ML,27)。」エンゲルス自身が好きだと認める貧民の一人、メアリー

(12)

が、 「私たちは闇。私たちは夜{ML,42)。」と言うように、バーンズ姉妹は、エンゲルスが恐れる闇を体現し ている。既に見たように、エンゲルスは、その著書の中で、アイルランドの貧しい労働者を観察し、記録する ことでこの二人の姉妹を失望させることになったとしても、彼は自分が理解できない存在を、畏敬の念をもっ て受け入れることができるのである。姉妹が象徴するこの間を拒絶するのでもなく、無視するのでもなく、エ ンゲルスはそれを愛することを学ぼうとする。

劇中、エンゲルスの父親の議論好きな性格はマルクスのものとされているのに対し、母親の慈愛にみちた性 格は、内的な女性性と折り合いをつけようと努力するエンゲルスに投影される。エンゲルスは、自分の両親に

ついて、以下のように歌う。

父さんは家にいる。

母さんを見つめる。 {ML,28)

母親に対する、この父親の性的な凝視は、エンゲルスに父親を殺したいという、オイディプス的欲望を引き 起こすが、彼は、この衝動を「殺人」と呼ばず、 「戟争」と呼んでいる。イェイツの『煉獄』 {purgatory, 1949) において、母親が自分を身ごもった夜のことを何度も何度も思い起こす老人と同じ眼差しで、エンゲルスは父 親を見つめている。既に死んでいる父親を殺すかわりに、エンゲルスは、自分が経済的に支援しているマルク スに焦点を合わせる。 「君に金を送るよ。それは、手に取りさえすれば、父のものだ。それは、父のものだ {ML, 28)。」マルクスの生活を成り立たせ、執筆を可能にした資金は、エンゲルスが相続した資本なのである。

そして、エンゲルスは、マルクスが唾棄するもの、エンゲルスが相続した資本にマルクス自身が依存せざるを えないことをマルクスに指し示すことで、マルキシズムの理論の中に潜む父権主義を糾弾しているのである。

エンゲルスの父親が自分の息子と「ヨーロッパ全体」に取り恵いて離れないように、マルクスの思想は良心と 罪悪心の混じったものとして、世界に取り浸いて離れない。

しかし、この場面の間中、エンゲルスとマルクスは、天井から発砲スチロール製の二人の胸像がぶら下がっ ているベッドの中に横たわっていることを忘れてはならない。この2つの胸像は、ブレヒト的異化効果を引き 起こす装置として機能していて、この胸像の下では、二人の俳優がマルクスとエンゲルスのパロディを演じて いることが観客には明らかになるのである。エンゲルスは、 「唯物論にこれだけご執心な僕たちなんだから、

それって、良質の皮膚の無駄遣いに思えるんだがね(ML,25)」と言って、割礼をほどこされたエンゲルスの ペニスについてからかう。これに対し、 「フレデリック、剖礼がおこなわれたとき、僕は、まだ自分の政治的 理論を展開してなかったんだよ {ML,25)」とマルクスは、大真面目で答えている。上に見た、男性原理と女 性原理の対立をマルクスとエンゲルスに投影させると同時に、漫才コンビのような二人を措くことで、偉大な 二人の思想家の偶像を破壊しているのである。

メアリーとリジーがマンチェスターでエンゲルスに出会う第7場は、ミュージカルのように、台詞のやり取 りがほとんど歌でなされるo登場人物の一人である姉妹の父親は、 「上半身裸で、肌を茶色に塗っている(ML, 29)」が、これは、アメリカのミンストレル・ショーの伝統を連想させる。アフリカ系アメリカ人の悲惨な体

験を、ミンストレル・ショーの作者が、観客に受け入れやすいように変形させていったように、この物語の語 り手リジーは、マンチェスターの労働者の生活状況を歌にすることによって、その悲惨さを少しでも受け入れ やすいように変形しているのである。こうした幻想的な雰囲気の中で、姉妹はエンゲルスと出会っている。

(4)

写実的に措かれるマルクス家のティーパーティの後、この劇のエピローグである第9場は、再びプロローグ のトーンに戻っていく。プロローグでは、過去からの声を耳にしたのに対し、ここで最初に聞こえるのは未来 からの声である。第1場において、アイルランド語で歌が歌われたのと同様、少年がロシア語を語る。ただし、

(13)

(21)

この場合、少年が語るロシア語は直ちにく妊娠中の少女)によって、英語に翻訳される。英語の翻訳を通して、

ロシアの母親が喉の乾きと流血を経験してきたこと、そして、父親は射殺されていることがわかる。マルクス とエンゲルスの理論の果実であるソビエト連邦が崩壊した未来からやって来た少年は、メアリーとリジーに取 り溶くのである。

少年がメアリーとリジーを舞台に残して退場した後、第1場でコロスを演じた女たちが再び登場し、大地に ついて、女たちについて、子どもたちについて、そして、人間の心について歌い始める。歌の後、 (妊娠中の 少女)は舞台上で出産するが、彼女が産んだのは赤ん坊ではなく、中身が空っぽの箱だった。空っぽの子宮か ら産み出された空っぽの箱は、大鍋コールドロンの中に落ちていく。箱と一緒に、メアリーとリジーの手元に 残った骨とスプーンが投げ入れられる。骨は、死と再生を、スプーンは両性具有を意味すると言うことは先に 述べたが、大鍋コールドロンに投げ入れられた、空の箱、骨、スプーンは復活の力強いイメージを提示してい る。

劇は、誕生という象徴的側面を提示することで、創世神話の象徴性をさらに強めていく。母親がメアリーと リジーの前に再び登場し、こう語る。

口を閉じなさい。私は考えている。私に歌いかけなさい・‑‑それが、大地がどうなったかということ。それ が、私がここで学んだこと。神が大地を作ったんじゃない。私たちが歌って創った。神は、それを聞いて加わ った。私たちは一緒に行った。創造を。この点で、神も、男も、女も、なんの区別もない。面白いと思わな い?家に帰ろうか?私が大地を創るのを見たい (ML,48)

女たちと神が共に歌うことで、大地が生まれたというここに示された創世神話は、聖書が伝えるキリスト教 的天地創造の神話とも、フェミニストが主張するように大地母神が闇から世界を創り、それを神が纂奪したと いう解釈とも異なっている。マクギネスの女たちは、創造を始めたという地位を与えられている。創造/誕生 は、 「大地母‑母親と不可分だからである」。しかし、女たちは、神/男性を受け入れ、共に歌い始める。ここ で提示されているイメージは、侵入者、纂奪者としての男性原理を排除し、敵対する態度ではなく、世界の創 造に関して、共に協調し、共存していこうという態度である。

このような創世神話を歌った後、母親は、 「ラーガンの流れが子守歌を歌うとき、きれいな百合が育つだろ う {ML,49)」と、ベルファーストを流れるラーガン川の歌を歌う。 『私を見守ってくれる人』 (SomeoneWho'II Watch OverMe, 1992)の中で、中世の詩人は「古代の神話を、自分たちにとってなじみ深い場所に設定する傾 向」があったと、ひとりの登場人物に語らせているが、マクギネスはその傾向を継承している。なぜなら、救 済を求め、古い傷や痛みを癒し、憎しみを超えていくためには、人々は歌の象徴的な意味を、個人的で具体的

なレベルで理解する必要があるからである。

メアリー、リジー、母親の3人は「私には、休息もない、自由もない/愛がすべてを支配しているから {ML,49)」と歌うが、この歌は、 『シャツ工場の女たち』で、レベッカが語ったエピソード、 (餐)とく自由) を差し出され、く自由)を選択した女の寓話を思い出させる。 3人は、愛にとらわれながら、旅を続けるので ある。

劇の最後で、 3人の女たちは̀sobeit'という句を繰り返す。これは、 「アーメン」の英語訳であると考える のが通常であろうが、ここで3回繰り返されるこの表現を耳にしていると、祈りを終える時の、単なる決まり 文句ではなく、彼女たちが歩んできた長い旅をそのまま受け入れ、肯定する意図を感じることができる。更に、

「アーメン」という表現は、福音書のイエスの言葉において、本来、最後に使われる表現ではなく、これから 語ろうとすることに対することが、誠実で、妥当であることを示すために、冒頭で使われる表現だったと言う ことにも注目したい。つまり、 ̀Sobeit'という女たちが繰り返す表現は、これからも続いていくであろう女た ちの旅路を受け入れ、肯定する表現でもある。幕が降りても、女たちの旅は続く。

シクスーは、女性の旅のありようについて、以下のように述べる。

(14)

少年の旅は、生まれ故郷に戻ってくるための旅である。フロイトがHeimweh (ハイムヴェ‑)、ホームシッ クと呼んだもので、男は出発した地点に戻り、その場所を占有し、そこで死ぬために戻ってくる傾向がある。

(26

それに対し、少女の旅は、さらに遠くへ進んでいく。見知らぬ場所へ、創造するために。

この記述は、ペール・ギュントとバーンズ姉妹の相違を的確に捉えている。ペールは、恋人ソルベイグが長 年彼を待ち続けた故郷に、おそらく死ぬために戻ってくるのに対し、メアリーとリジーは大鍋コールドロンの ある大地という故郷に戻ってはくるが、またすぐに旅を始め、窃径を続けていくのである。

Ⅳ まとめ

『シャツ工場の女たち』も、 『メアリーとリジー』も、歴史の表舞台からは忘れ去られた女たちの声を記録し た作品である。最後に、これらの作品が1980年代に書かれたことの意味を考えておきたい。 『シャツ工場の女 たち』の幕切れで、 「ねえ、レベッカ、起きてよ」と言うローズマリーに対して、 「ええ、起きているわよ」と レベッカは答るが、この台詞は1984年に、アン・ロヴェットがグラナードの町の通りに向かって、 「起きてよ、

グラナード」と叫んでいたというエピソードを思い出させる。アン・ロヴェットとは、教会の庭に立つマリア 像の前で、生まれたばかりの赤ん坊と一緒に死んでいた15歳の少女の名前である。続いて、ケリー州の海岸に は、ナイフで何十箇所も刺され、殺害された赤ん坊の遺体が流れつくというショッキングな事件が起こり、国 中に大きな衝撃を与えた。この二つの事件がきっかけで、未婚の女性の望まない妊娠、出産の問題をめぐって 大論争となり、 80年代から90年代にかけて、避妊、中絶、離婚に関する国民投票が次々に実施されることとな る。また、この時代、家庭内での性的暴力に関する問題も次第にあきらかになっていった。また、これらの事 件に続き、 1985年は、聖母像が動いた年として記憶されている。

マクギネスは、このような時代に、 『シャツ工場の女たち』、 『メアリーとリジー』に加え、家庭内暴力とホ ームレスの問題を扱った一幕劇の『バッグレディ』 (1985 、非嫡出の息子の出生を恥じた45歳の未亡人が、そ の子が7歳になるまで、ニワトリ小屋に閉じこめていたという1956年に実際におきた事件を下敷きにしたテレ ビドラマ『ニワトリ小屋』 (1989)と、立て続けに女性の演劇を書いている。いずれの作品も、アイルランド の女性を見事に扱った作品であるが、残念なことに再演される機会は少ない。これらの作品をマクギネスの (女性の演劇)としてとらえ、現代アイルランド演劇のレパートリーとし加え、繰り返し演じていくことによ

り、アイルランド演劇の新しい局面が開けてくるように思われる。

注1 ) Sarah OHara, ̀Productive lives', Irish Press, 17 March 1982.

(2)ギヤリー・ハインズがゴールウェイにドルイドシアターを設立したのは、 1975年であるし、ここにあげた劇作家 たちも、 80年代前半には執筆活動を始めている。しかし、彼女たちの多くが、地方の独立劇団に活動の基盤をお いていたこともあって、その活躍が目に見えるようになったのは、 80年代半ばから後半にかけてと言うことがで きる。

3 ) Towards Post‑Feminism?', Theatre Ireland, no.18, 1989, p.35.

4 ) The Factory Girlsには、 Dublin, Monarch Lineにより出版された1982年版、 Dublin, Woulfhound Pressより出版さ れた1988年版、 1996年にFaberから出版された戯曲集、 Plays lに収録された1996年版の3種類のヴァージョンが 出版されている。本論における引用は、すべて1996年版により、引用箇所は本文中に {PI,ページ)の形で記す。

(5)本論における引用は、 MaryandLizzie,London:FaberandFaber, 1989により、引用箇所は本文中に(ML,ページ) の形で記す。

( 6 )本論では扱わない、マクギネスの女性を扱った作品Baglady(1985),テレビドラマHen House(1990)も、同様であ る。

7 ) Ronan Farren, 'No category for Frank's new play', Evening Herald, ll March 1982.

8 ) Shane McGuinness, 'Breaking the barrier', Sunday Tribune, 10 May 1987.

9 ) Sarah OHara, ̀Productive lives', Irish Press, 17 March 1982.

(15)

(23)

(10)原文で(坐)は、 ̀she'の代名詞で書かれている。

(ll) Kevin Jackson, ̀Speaking for the dead', Independent, 27 September 1989.

(12) Douglas Kennedy, 'Poetic Polities', New Statesman & Society, 6 October 1989, pp. 50‑51, p.51.

(13) Jackson, 1989.

(14) Milton Shulman, Evening Standard, 29 September 1989 (Reprinted in the London Theatre Record, 24 September ‑ 7 October 1989, p. 1318)参照。

(15) Maggie Humm, The Dictionary ofFemminist Theory, (New York: Prentice Hall), 1989, p. 169.

(16) Kennedy, p.51.

(17) Edmund Wilson, To the Finland Station : A Study in the Writing andActiong ofHistory, (New York : 1940) pp. 132‑3.

(18) Kennedy, p.51.

(19) Erich Neumann, The Great Mohter, trs. Ralph Manheims, (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1963) , p. 170.

(20) Camile Paglia, Sexual Personae: Art and Decadence from Nefertiti to Emily Dickinson, (Harmondsworth: Penguin, 1992),p.53.

(21) Ad de Vries, Dictionary of Symbols and Imagery (Amsterdam and London: North Holland Publishing Company, 1974),p.379.

(22) deVris, p.67.

(23) de Vris, p.67.

(24) Eamon Jordan, The Feast ofFamine : The Plays ofFrank McGuinness, (Berne : Peter Lng, 1997) , p. 133.

(25) Wilson, pp. 134‑5.

(26) Helene Cixous, ̀Sorties'(1986) , in A Critical and Cultural Theotγ Reader, (London : Open University Press, 1992) p.

153.

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ンの原理的思考は、より本質的な意味での《演劇性≫の

新野守広   NIINO Morihiro が加わり、精力的な舞台作りを始めた。その彼らが 2013 年/14 年シーズンに制作した舞台のな.

閲覧) ㉒ 河竹登志夫『演劇概論』p.34 ㉓ 河竹登志夫「回帰する演劇学と演劇学会―草創期をめぐる私的回想―」『演劇学論集 日本演劇

 後述する張駿祥の言にもあるように、滬劇に再び 「伝統劇」 の自覚を促すこ のような指摘は、非常に興味深い。ただし、ここで