演劇嫌いのための演技論
─アルトーからイヨネスコへ─
堀 切 克 洋
はじめに
「不条理の演劇」の代表的劇作家ウジェーヌ・イヨネスコ(1909¦1994)は、2009 年に 生誕 100 周年を迎え、この年にパリではフランス国立図書館において「イヨネスコ展1」が 催されるなど、大きな話題を呼んだ。これに伴って、劇場ではイヨネスコ作品の新演出が 上演され─日本においても、佐藤信演出の『瀕死の王2』や文学座の『犀3』を筆頭とし て、さまざまな公演が行われ─、先述の展覧会カタログを含めて、研究や批評の現場で もまたイヨネスコの読み直しが行われている。本稿では、このような近年の研究成果を受 けて、イヨネスコの「演劇嫌い」に注目しながら、その演技論について「残酷の演劇」で 知られるフランスの演劇人アントナン・アルトー(1896¦1948)の演劇理論との連続性に ついて考察していきたい。
一般的には、その時期的な連続性にもかかわらず、イヨネスコの一連の劇作品とアル トーの「残酷の演劇」の関係性は、ほとんど問われることがない。その理由は端的に言っ て、アルトーの演劇論がもっぱら 1960 年代以降の哲学的言説を背景とした演劇を通じて 受容されてきたという事情によるだろう。後に触れるように、日本におけるアルトー受容 も例外ではなく、1965 年に『演劇とその形而上学』という題名で刊行されたアルトーの 演劇理論書は、いわゆる「肉体の演劇」のための参考書として読まれてきたのである。し たがって、本稿の目的のひとつは、これまでに看過されてきた 1950 年代のアルトー受容 に焦点を当てることにある。
1950 年代において、『演劇とその分身』に代表される 1930 年代のアルトーの演劇論が まったく無視されていたわけではない。むしろ、アルチュール・アダモフ(1908¦1970)
やジャン=ルイ・バロー(1910¦1994)といった、アルトーの周囲にいた演劇人が 1950 年 代のフランス演劇においては重要な役割を担っていた。しかし、本稿で取り上げるイヨネ スコという劇作家は当初、そのようなアルトーの神格化には批判的であったようである。
「長らく、アルトーのことが好きではなかった。なぜなら、その猿真似を通じてしか、わ たしはアルトーを知らなかったからだ。おそらく、連中はアルトーのことを否認するより 前に、真似をすることで、彼を戯画化していたのである」4。では、イヨネスコのアルトー 理解はどのようなものであったのだろうか?
1 「演劇嫌い」の発生
この問いに答える前に、ひとつの作業仮説を提示してみよう。それは、わたしたちが
「演劇嫌い」の時代に生きている、というものである。もっとも、演劇嫌いに関する言説 は、20 世紀にはじまるものではない。古くはプラトンの演劇・舞踊追放論にはじまり、
中世カトリック教会における演劇批判、ピューリタンによる排撃論、あるいは 18 世紀に おけるルソーによる劇場演劇批判など、演劇史においてその反感はしばしば観察される。
しかし、ここで取り上げたいのは、映画というメディアが普及する時期における「演劇嫌 い」の言説である。
例として佐伯隆幸は、津野海太郎に倣って 1924 年におけるジャック・コポーのヴィ ユ=コロンビエ座閉館について以下のような所感を述べている。
わたしにいわせれば、かれ〔コポー〕の「演劇嫌い」─あえてそう表現するが─
は一貫してつねにあったのであり、二四年にある形態の爆発をみたのだとしても、突 如現れたものではない。〔……〕三つの壁に囲まれた「劇場」へのその嫌悪感、ひい ては、「演劇嫌い」の世界感覚はコポーのなかにずっとあり、かれの演劇の頸動脈に 当たるものを形成してきたというのがわたしの直観でも、読みでもある。5
このような「三つの壁に囲まれた『劇場』へのその嫌悪感」、さらに言えば、目の前で なまの人間が何事かを演じるという仕組みに対する生理的不快感をひとまず「演劇嫌い」
と呼ぶとすれば─これは現在もなお、しばしば観察されるものである6─、同じような 指摘はアルトー、そしてイヨネスコの演劇論のなかにも見出すことができる。
イヨネスコは、1958 年の『新フランス評論』誌において発表した論考のなかで、みず からの「演劇嫌い」について語っている。
小説の虚構は、自分自身の夢と同じように、可能な現実としてごく自然にわたしに 迫ってきた。映画俳優の演技は、演劇の上演によってひき起こされるあの名状しがた い不快感、当惑感は起こさせなかった。7
演劇に対する不快感は、演劇というメディアに特有のものであり、その原因は、「生身 の人間」が目の前で虚構を演じているという一点に求められる。
そこには二つの異なる次元の現実があるようだった─ひとつは、舞台で動き回り、
語っている日常的な人間たちの、具体的で物質的で貧しく空虚な限られた現実であ り、もうひとつは想像の現実である。この二つの現実が対立し、重なり合わずに、互 いに反発しあっていたのである。8
このような指摘は、現代における「演劇嫌い」の根拠を的確に要約している最初期の事 例であると思われる。すなわち、劇場型の演劇によって前提とされてきた「第四の壁」と いう約束事に留保がつけられ、目の前の俳優や舞台装置が見えすぎてしまう
ことによる嫌 悪感が表明されるようになったのである。イヨネスコの喩えを借りるならば、まったく馴 染みのない宗教的儀礼が、とても滑稽なものに見えてしまうことと同じ事態が上演系芸術 においても起こったのだ。
このような観点から『演劇とその分身』を読んでみると、アルトーは 1933 年に書かれ た文章のなかですでに、演劇の形式や内容からではなく、文化全体におけるポジションと いう見地から演劇一般に警鐘を鳴らしていることがわかる。
演劇についてのひとつの観念が失われてしまっている。演劇がそのあたりの木偶の坊 たちの私生活のなかにわたしたちを引きずり込み、観客をのぞきの常習犯に変えてい るかぎり、エリートたちが演劇に背を向け、大衆の大部分が映画館やミュージック ホールやサーカスへ荒っぽい満足を求めて出かけるのは当然である。そこでは出し物 が観客を失望させることがないのだから(*782)。9
アルトーは、人々が演劇に背を向けている理由について、第一に 17 世紀以来の心理的 演劇を挙げているが、直接的な要因としては、19 世紀末に映画が発明されたこと、ある いは同時期に、直接的・身体的なパフォーマンスが必要とされるミュージックホール(ダ ンス)やサーカスが隆盛を誇ったことが挙げられることだろう。19 世紀末における都市 文化の成熟は、少なくともパリにおいて、人々を演劇から遠ざけていったのである10。
ラシーヌ以来の心理的演劇の害毒は、演劇が持たなければならない直接的で激烈な行 動をすっかり馴染みのないものにしてしまった。そして、次には映画がその映像でわ たしたちを生殺しにした。機械というフィルターをかけられて感受性に達することも できないのに、十年来、わたしたちは無為な麻痺状態に閉じ込められ、あらゆる能力 がそこに沈められてしまうようだ(*782)。11
このようにアルトーは、「演劇嫌い」が当時のパリにおける文化環境から構造的に
生み 出されていると考えているのである。では、アルトーが言うように、映画というメディア の登場によって、演劇における観客の受容形態が本質的に変容してしまったのだとした ら、いったいそれは何によって解消されるものなのであろうか?
2 上演における一回性
このような問いに対するひとつの答えが、俳優の身体の現前性に注目する 1960 年代以 降のいわゆる「肉体の演劇」であった。この演劇傾向は、ジャック・デリダやミシェル・
フーコーが提示した「表象
SFQSÏTFOUBUJPO」という多義的概念を理論的背景として、表象
の再現性を強調し、現前性(QSÏTFOUBUJPO)あるいは一回性を重視する12。1965 年に邦訳が 刊行された『演劇とその形而上学』〔1996 年の再刊時に『演劇とその分身』と改題〕に よって、アルトーの名は小劇場運動(アングラ演劇)の担い手である劇作家・演出家たち に浸透していったが13、このときにアルトーの演劇論が、時代の喧騒とも同期しながら、舞 台上演の根拠を既存の戯曲にではなく、舞台上の一回的なパフォーマンスに求める「肉体 の演劇」の理論的根拠となったことは、たとえば以下のような文章から明白に読み取るこ とができる。「残酷演劇」の幻視者的予言から三十年を経て、一九六〇年代に、アルトーの亡霊の 放った火が跳梁する中で、〈肉体の演劇〉が、劇作家の書いた戯曲を再現
=代行
=表
象
するという仕組みそのものを『神学的』な制度だとして否定し去ったのも、他なら ぬ〈演戯者〉のレベルと、その実体をなす〈身体性〉のレベルが露呈されていく動き の、必然的な帰結でもあったのだ。14
今日においてもなお、このようなアルトー理解は人口に膾炙していることだろう。たと えばハンス=ティース・レーマンは、デリダやドゥルーズの哲学を援用しながら 1970 年 代以降のヨーロッパ演劇の傾向を論述した『ポストドラマ演劇』のなかで、以下のように 書いている。
アルトーは、その種〔伝統的なブルジョア市民演劇〕の演劇の俳優は演出家の代理人 にすぎず、あらかじめ指定された作者の言葉を「反復する」だけだと批判したのだ。
しかも作者自身もひとつの世界を反復するという表現義務を負っている。このような 反復という複製化の論理を持つ演劇こそ、アルトーは排除したかった。成功・不成功 の如何を問わず、演劇が模写の場ではなく、始まりや出発点としての舞台であろうと する点において、ポストドラマ演劇はアルトーに従っている。15
アルトーが拓いた演劇の地平とは、渡邊やレーマンによれば、演技者自身が舞台の「起 源」となるような非反復的な舞台である。しかしながら、1960 年代以降のパフォーマン ス的転回を経てみると、このような現前/再現という二項対立は改めて規定しなければな らない。この点で、現前/再現をラディカルに対抗させることから出発した 60 年型前衛 の演劇やパフォーマンスの試みに、ヨーロッパの哲学において支配的な身体/精神の二元 論の溶け合いが重ねられているという議論16は、両者の関係を考え直すときには有効であ る。なぜなら、アルトーが演劇における一回性を強調するときに、そのような身体と精神 の関連づけは目に見えて明らかであるからだ。
言葉は口にされたらそれですべて死ぬ。口にされているその時だけしか効力をもたな
い。一度使われてしまった形式はもはや役に立たない。他の形式を求めるように導く だけだ。そして演劇は、ある動作が行われたらそれが二度と繰り返されることのな い、世界の中でただひとつの場所なのである(*776)。17
この言辞はしばしば、戯曲という絶対的な形式を相対化するための理論的根拠として持 ち出されてきた箇所であるが、アルトー自身がけっして戯曲の
上演を放棄したわけではな かったという点については、銘記しておく必要がある。アルトーが構想した「残酷の演 劇」では、『フェヴァシャムのアーデン』のようなエリザベス朝の戯曲や、『アルナリ』の ようなロマン派のメロドラマ、あるいはビューヒナーの『ヴォイツェク』といった作品が 予定されるプログラムとして列挙されていた18。確かにアルトーは、「わたしたちは、以下 の作品をテクストに囚われずに上演する」(*795)19と書き記している。しかし、それがた だちに戯曲の廃絶
、あるいは分節言語の放逐
を意味するというわけではない。アルトーに おける演劇の一回性という問題は、もう少し微妙な問題を孕んでいる。
アルトーは、「残酷の演劇」を構想していたのとほぼ同時期に、映画についての文章も 残している。かつてのアルトーは、所与の役を代行して演じるのではなく、ありのままス クリーンに現れる映画俳優の姿を「生きた記号」と呼び、映画を「モルヒネ注射の快楽」
とまで喩えるほど、映画に熱狂していた。「シャルロがシャルロを演じ、ピックフォード がピックフォードを演じ、フェアバンクスがフェアバンクスを演じる。彼らが映画なの だ」(***64)20。俳優の演技の直接性こそが、アルトーにとっての映画の本質であったので ある。実際に、アベル・ガンス監督『ナポレオン』(1926 年)やカール・ドライヤー監督
『裁かるゝジャンヌ』(1927 年)におけるアルトーの演技は、その一端であったことだろ う。
しかしながら、1930 年前後におけるサイレントからトーキーへの移行によって、事態 は一変する。トーキー映画においては、音声と映像のシンクロナイズ技術の不十分さか ら、映像を見ながら俳優の口の動きに合わせて台詞を録音する「当てレコ」が頻繁に行わ れるようになった。フランスの俳優たちがアメリカへと渡り、アメリカ映画におけるアメ リカ人俳優の口に、フランス語の台詞だけを当て込んだのである。アルトーはこの「当て レコ」に対して違和感を表明する。「しかし、さらに厳しいのは『ダビング』がとくに本 物の俳優に与えるもっと恐ろしい、そして、私の考えではまったく『悪魔的な何か』であ る」(***87)21。このような声と身体の分離は、アルトーの自己の同一性を揺るがし、彼を 狂気にまで至らせた問題と通低するものであった。
アルトーにおいては、『ジャック・リヴィエールとの往復書簡』のなかで言及されてい たように、自己の内部に生じる感覚が公共的な言語によって表象することができないとい う「精神のおそるべき病」(
*
*24)
22が実存的な問題として措定されていた。当てレコは、アルトーの苦しみの根源である身体と言葉の分離を逆に原理としている。加えて、このよ うな分離は、映画がフィルムに固定されてしまったら、二度とやり直すことができない性 質のものだ。それゆえ、「映画の世界は、輪切りにされた、見せかけの死んだ世界である。
それは事物を取り囲むことなく、生の中心に入り込むことなく、かたちのうえで表面的で ごく限定的な視角によって到達可能なものしかとどめておけず、そればかりか、いかなる 反芻もいかなる反復も禁じてしまう」(***83)23。
ミハイル・ヤンポリスキーが指摘しているように24、アルトーのテクストのなかでは、俳 優の口の輪郭や動きに対して偏執狂的なまでの関心が払われており、そこで描写される女 優の口は重たく肉厚で、呑み込むための「独立した」器官であるかのような印象を与えて いる。「彼女たちは、マルレーネ・ディートリッヒの重苦しい口や、ジョーン・クロフォー ドのぽっちゃりした冷酷な口や、グレタ・ガルボの馬のような口に、フランスの声を入れ 込むのだ」(***87)25。しかし、ここでの力点は「いかなる反芻もいかなる反復も禁じてし まう」という点にこそあるのではないだろうか。なぜなら、アルトーは『演劇とその分 身』のなかで次のように述べているからである。
美しい女は、調和のとれた声を持っていることになっている。だが、もし世界の始ま りから、美しい女がみんなラッパのような声で呼びかけ、象のようなうめき声で挨拶 するのを聞いてきたとしたら、わたしたちは、そのうめき声と美しい女の観念とを永 遠に結びつけてしまっただろう(*741)。26
つまり、冒頭で引用した「演劇が失ってしまった一つの観念」とは、ヒューム的な意 味における常識的な観念連合から解放されるための想像力なのである。そのような無軌 道な秩序の総体が、アルトーにおける「詩」であり、「残酷の演劇」において重要な要素 に〈ポエジー〉、〈ユーモア〉、〈想像力〉の三つが数えられるのは、そのためである。した がって、アルトーの演劇論における「一回性」とは、戯曲を特権的な演劇テクストに位置 づけないということにとどまらない。戯曲の有無にかかわらず、「観客が想像していたこ と」を逆転させたり、転位させたりすることに関わっているのだ。しかし映画は、そのよ うなユーモアとは裏腹に、二度以上同じことが反復されてしまうことによって、そのエネ ルギーの持続性を失ってしまうのである27。
3 アルトー/イヨネスコにおける「事物のユーモア」
演劇が観客の関心を引くためには、「ユーモア」を舞台上に生じさせることが必要だと アルトーは考える。しかし、それは「状況のなかの意外さ」ではなく、「オブジェの意外 さ」、「事物のなかの意外さ」であることは再確認しておきたい(*7428292)。「意外な状況」
とは、通常ではない状況のことであり、たとえば、いままで異性が近寄りもしなかったの に、ある日突然、異性が寄ってくるようになった、というような事態である。これは戯曲 のなかに書き込まれた設定(所与の前提)であり、映画と同様に、反復によって持続性を 失うものである。一方、「事物の意外さ」というのは、たとえば異性が寄ってきて嬉しさ を感じた瞬間、牛の鳴き声が聞こえるというような事態である。
詩は、事物と事物との関係や形態と意味との関係をすべて再考に付す限りにおいて、
無軌道であることがここからわかるだろう。また、わたしたちを混乱に近づけさせる 無秩序の帰結として生まれたものである限りにおいて、無軌道なのである(*741)。30
つまり、オブジェの意外さは、目の前で生起することそれ自体をありのままに見せるこ とではなく、むしろ所与の前提とされた記号どうしの関係の問い直しを訴えることに存す る。そして、これによって、観客と舞台のあいだには、新しい虚構が立ち上がることにな るだろう31。
ここで、冒頭に触れた「演劇嫌い」の問題へと立ち戻ってみよう。アルトーによれば、
1920 年代のパリの人々はサーカス、ミュージックホール、映画を好む一方で、すでに演 劇に対する不信をあらわにしていた。この不信は、ほぼ同世代のイヨネスコにおいても共 有されていたものだ(ちなみにイヨネスコがフランスに居住していた時期は、1910 年か ら 1922 年まで、そして 1938 年以降である)。演劇は虚構にすぎないものである。けっし て人生の役には立たない─このような演劇観に対するアルトーの回答は、観客の能動性 を高めるために、演劇の虚構度を高める
ということであった。それが映画の喪失した「詩」
や「想像力」を演劇が取り戻すための方法だと考えたのである。
このような『演劇とその分身』における戯曲を通じた「一回性」の可能性について、イ ヨネスコは的確に把握しているように思われる。イヨネスコが 1957 年に発表した「神で もなく、悪魔でもなく……」という文章は、短いながらも彼がアルトーについて執筆した 唯一のテクストであるが、そこで『演劇とその分身』の序文に素描されている文化論に同 意しながら、「生を奪われた文化の発展こそがまさに、あらゆるものの外側で、わたした ちをアルトーが酷評している根拠なき非現実のなかに縛りつけているのだ」と論じる。数 多くの「演劇嫌い」を生み出しているような状況は、イヨネスコによれば、「間違ってい るのに壊れない」「わたしたちの保守主義という石で組み立てられている」。
ただし、アルトーがそれを破壊するだけの力を持っていたかどうかという点について、
イヨネスコはきわめて懐疑的である。彼はつづいて、アルトーの「錬金術的演劇」の末尾 を引用しながら、次のように皮肉を交えて述べている。
彼の失敗は、単に詩人や劇作家でもなかったことではなく、神でも悪魔でもなかった ということである。彼は、一介の俳優であり、演出家というか舞台監督であったの だ。彼の魔術的で錬金術的な演劇は、ちょっとした照明操作と、いくつかの小道具と いった舞台監督の仕事に還元されるのである。32
彼が提案する「魔術」は、いまとなっては、子供じみたものである。というのも、そ れは小道具に還元されるからだ。しかし、これらの小道具を─ふつうはその通りで あるが─たんなる補助的なものとして利用することや、オブジェに語らせたり命を 与えたりすること、舞台装置を活かすこと、演劇世界を視覚化することは、演出の重
要な考え方となっている。33
このように、イヨネスコがアルトーの演劇論の実践的な側面、すなわちオブジェや小道 具の活用について注目していることは興味深い。イヨネスコはごく控えめなかたちでし か、アルトーの名について言及はしていないが34、もしかすると実際には、かなりの部分で アルトーの影響があったかもしれない。イヨネスコの初期演劇作品を時系列に見ていった ときに、ある時期を境として、作劇術におけるオブジェの重要性が高まるという事実が、
そのような興味を駆り立てる。
イヨネスコの戯曲においては、当初から小道具が重視されていたわけではなかったは ずである。たとえば、ルーマニア時代に書かれた『禿の女歌手』(1942 年初稿、1950 年 初演)や『授業』(1951 年初演)では、言語的なリズムの加速が劇行為の流れを定めてい て35、小道具はいまだ上記のような役割を与えられてはいない。イヨネスコにおいて、オブ ジェが劇の重要な要素となるのは、『椅子』(1952 年)以降のことである。
わたしが書いたいくつかの戯曲、たとえば『アメデ、あるいはどうやって厄介払いす るか』や『義務の犠牲者』など、ドラマ作品だと見なされているものにおいては、言 葉は明らかにその魔力を失い、小道具やオブジェに取って代わられる。36
『椅子』(1952 年)における椅子の増加、『義務の犠牲者』(1953 年)における溢れるほ どの数の茶碗、『アメデ、あるいはどうやって厄介払いするか』(1954 年)における無数 の茸、『新しい下宿人』(1955 年)における家具や階段のへし合いといったように、1952 年以降の戯曲におけるオブジェの重要性の変化には、疑問を差し挟む余地がない。した がって、『椅子37』を構想していた 1951 年頃に、イヨネスコがすでに『演劇とその分身』を 読んでいた(少なくとも、何らかの仕方で間接的な影響を受けていた)可能性はけっして 小さいとは言えない。
たとえば、初期の『椅子』演出計画には、以下のように記されている。「言語、身ぶり、
演技、小道具、それらを用いて空虚を表現すること。不在を表現すること」38。つまり、「残 酷の演劇」におけるのと同じように、ここでは登場人物による台詞は相対化され、上演の ためのあらゆる手段(身ぶり、小道具、照明など)と並列関係に位置づけられているので ある。イヨネスコはこの作品のなかで招待客を登場させていない(その代わりにオブジェ である椅子を増やしていく)が、これによって舞台上に観客が物理的に見ているものと、
想像的に見ているもののあいだにはズレが生じることになる。「老夫婦も弁士も、目に見 えない人物たちと同じようにそこにはいないのだ……老夫婦が存在しないことは、見えな い登場人物やわたしたちの夢と同じなのである」39。では、なぜイヨネスコはこのような試 みをする必要があったのだろうか?
現代の演劇はひたすら心理的で、社会的で、頭脳的というか……詩的なもののよう
だ。それは非形而上学的
である。『椅子』は、ドラマが現在抱えている限界を乗り越 えようする試みなのだ……。40
イヨネスコによれば、ドラマの限界を超えるためには、「形而上学的」となる必要があ るという。それは言い換えれば、分節言語による対話を相対化させ、事物(あるいはその 不在)に意味を担わせることである。これまさしく、アルトーが『演劇とその分身』のな かで述べる「事物のユーモア」と同じ試みではないだろうか。さらに、イヨネスコが初演 の演出家であるシルヴァン・ドームに宛てた手紙のなかで、舞台上に並べられるのは事物 であって、椅子ではないと述べていることも、アルトーの認識論と通底するものがある41。 ジャン=マリ・セローの演出による『アメデ、あるいはどうやって厄介払いするか』
(1954 年初演)は、アパートの 1 室に放置された死体が、やがて次第に巨大化して、最終 的には住人を窒息の危険にさらすという作品であるが、周知のように舞台上には 1 メー トル 50 センチもの足が登場する。この大きさについてイヨネスコは幕が開く一ヶ月前に なって、演出家に宛てて以下のように書いている。「〔アメデの身体の大きさは〕3 メート ルがいいのではないか(3 メートルなら客席からも見える)〔……〕足は 1 メートルにで きるだろうか?」42。この作品における巨大な人形の使用へのこだわりは、「残酷の演劇」に おける演出(「人形、巨大な仮面、奇怪な比率の物体」「嵐のなかのリア王の髭を表す 10 メートルもある人形たち、人間サイズの巨大な楽器、未知の形状と用途をもつ物体」(*7 116¦117)43を想起させるものであろう。実際、アルトーもまた 1932 年にルイ・ジュヴェ演 出の『村の女菓子屋』に演出助手として参加していた際に、ジュヴェに 5 メートルほどの 巨大な人形の使用を打診して、プロジェクトから下ろされていたのである(***284)。
このように、1951 年以降のイヨネスコの演劇論には、アルトーの『演劇とその分身』
における実践論と重なる部分が多く見受けられる。この点については、さらなる研究の進 展が求められるだろう。
4 俳優における「新たな」逆説
前節では、舞台上のオブジェという観点から、アルトーとイヨネスコの演劇論の相同性 について概観してきたが、最後の巨大な人形という視点は、俳優の演技の問題とも密接に つながっている。この着想は、少なくともその個人史において、イヨネスコの幼少期の記 憶のなかに萌芽を見出すことができる。
わたしは心から演劇が嫌いだった。退屈だったのである。しかし、本当はそうではな かった。いまでも思い出すことができるが、子供の頃に、リュクサンブール公演の 人形芝居からわたしを引き離すのに、母はさんざん手こずったものだった。〔……〕
人形芝居の人形がしゃべったり、動いたり、棒で叩き合ったりしているのを見ている と、わたしは呆然として、釘づけになった。それは世界のかたちそのものだった。そ
れは突飛で、真実であるとはとても思われないが、実は真実以上に真実であり、怪奇 で凶暴な世界の真実を強調するかのように、無限に単純化され、戯画化されたかたち で提示されたのだった。44
この「演劇嫌い」をめぐる文章において、イヨネスコは子供の頃に見た人形芝居だけは 例外であったことを告白している。したがって彼は、人形芝居が大好きでたまらなかった 幼き自分が、大人になってからどうしてその情熱を失ってしまったのか、というかたちで 問題を立てる。では、1910 年代のパリにおける「演劇嫌い」は、いったいどのような試 みによって解消されるものなのか?
アルトーの「残酷の演劇」においては、バリ島の舞踊に倣って、俳優は「一種の受動的 で中性的な要素であ」り、「あらゆる個人的自発性が厳禁されている」(*796)45。ただし、
舞踊とは違って、演劇には台詞があり、俳優はそれを発しなければならない。しかし、そ れができる俳優は驚くほど少ないとアルトーは言う。
ヨーロッパでは誰一人として叫ぶことができなくなっている。ことに恍惚状態の俳優 たちには叫び声が出せない。喋ることしか知らず、演劇でも肉体を持っていることを 忘れ果てているらしい人々は、同時に自分たちの喉の使用法も忘れてしまっている。
異常な状態に落ち込んだ喉はもはやひとつの器官ではなく、怪物的な喋る抽象物でし かない。フランスの俳優たちは、いまや喋ることしかできないのだ(*7132)。46
アルトーにおいては、「喋る」のではなく「叫ぶ」ことのできる俳優が必要とされる。
つまり、精神と肉体が分離されえないような状態が俳優の発話の根拠となる。しかし、か つてエウジェニオ・バルバが探究したように、あるいは渡邊守章が「虚構の身体」と名づ けたように、エネルギーに満ちた俳優の力は非日常的な身体技術へと還元されるのであろ うか? もしそうであるとすれば、アルトーはこれまでのように劇作家の言葉の外側で読 まれなければならない。
そのような未来を予言したわけではないにせよ、「神でもなく、悪魔でもなく……」を 含む『カイエ・ルノー=バロー』誌が 1969 年に再刊されたときに、同時代のアルトー受 容とみずからのアルトー論は関係ないと補足するイヨネスコは、単純にアルトーの要望を 満たす劇作家がいなかったのだと書く。「彼〔アルトー〕は劇場なしに舞台監督を行い、
台本なしに演出を行った。おそらくそのわけは、彼が望んでいたような劇作家が、当時は いなかったからである」47。逆に言えば、イヨネスコはみずからの劇作品が満たされなかっ たアルトーの望みに応えるものであるということを自認しているのである。
アルトーの願望に応える作品を書いたと自認するイヨネスコが現代の「演劇嫌い」とい う問題を解消するために、どのような劇作品を書き、どのような演技を推奨していたかは 以下の文章から読みとることができる。
また一方、俳優があまりに不自然に見えることがわたしを気づまりにさせていたのだ が、それはおそらく彼ら俳優までもがあまりに自然すぎたか、もしくは自然になろう としすぎたからなのだ。そうなるのを断念すれば、俳優はほかのやり方できっと自然 に戻れるだろう。自然でなくなることを彼らがこわがらないようになる必要があるの だ。48
イヨネスコにおいては、「自然に戻ることを断念すること」のできる俳優が必要とされ る。役者は、大げさな誇張をしたり、登場人物になりきったりする必要がなく、きわめて 単純化された演技が求められることになる。イヨネスコは別の箇所で、探究の結果から導 き出された演技形式を「写実的な登場人物と操り人形の中間をいくような演技」49と呼んで いるが、このような演技においては、俳優は自分を「偽る」必要がない。つまり、自分自
身として
舞台に立ってよいのである。
演技とは一般的に、「あたかも本当であるかのように話したり、動いたりすること」を 意味する(「本当であるかのように」は、「自然に」と言い換えてもよい)。この自然らし さ(真実味)は文化におけるコードに依存して一定しないが、演劇における「自然性(真 実味)」は、人工的な技術へと還元される。このテクニックを見えないように演じること が、真実味のある演技である。ここからディドロの「俳優の逆説」が生まれることになる が、ジュリア・グロ・ドゥ・ガスケによれば、上記のようなイヨネスコが到達した演技形 式は、またべつのパラドックスを招き入れる可能性がある。「イヨネスコにおいて表明さ れる俳優の逆説は、役者が自然じゃなくなろうとすればするほど、本当らしくなっていく ということである。この逆説は、少なくとも三つの様態を経る。すなわち、心理的な組み 立てをもたないこと、このような演劇言語を発するための身体的な存在感に留意するこ と、そして台詞に抗いながら演じることである」50。
ここで補足しておきたいのは、最後の「台詞に抗いながら演じること」という要素であ る。イヨネスコは『禿の女歌手』をめぐるノートのなかで、このように述べている。
道化た台詞をドラマ的に演じること。
ドラマ的な台詞を道化て演じること。
言葉がいまだかつて意味しなかったことを、その言葉に言わせること。51
アルトーの「叫び」の意味は、イヨネスコにおいて、きわめてパロディ的な実践とな る。つまり、俳優の演技が「自然でなくなる」ことは、観客にとってみれば、アルトーに おける事物のユーモアと同じように、「事物と事物との関係、形態と意味との関係をすべ て改めて考え直す」ことへとつながるのである。
しかしながら、ドゥ・ガスケが指摘しているように、この逆説は次のようなかたちに変 形されることだろう。「技術をもたない俳優となること。それは、経験の浅い役者、若い
役者ではないのか……?」52 反─演技的な俳優(本当であるかのように話したり、動いたり することがない
役者)とは、結局のところ、子供か人形のいずれかであるというクライス トの議論53に立ち戻ることになったわたしたちは、今日の劇場においてもなお、「本当に
技 術をもっていない俳優」(舞台上であがってしまう役者や、台詞を忘れてしまう役者など)
と、「技術をもっていないかのように
演じられる俳優」の見分けをつけることができない。
こうして、アルトーの「残酷の演劇」が胚胎していた俳優の演技論は、イヨネスコという 劇作家を得たことで、現代の「俳優の新しい逆説」にたどりつくことになったのである。
このとき、生身の舞台と対峙する観客が見ている現実は、その現実性/虚構性が点滅す るように揺らいでおり、舞台を見ている観客なしには成立しない。記号論的な意味におい て、観客が意味の生産者となるのである。
おわりに
本稿で取り上げたアルトーとイヨネスコの関係性は、演劇史におけるアルトー受容にお いて、十分に論じられてこなかった。その理由は冒頭に述べたように、パフォーマンス的 転回以前/以後という認識論的断絶にあるが、今後は当時前提とされていた理論的枠組み
(たとえば、現前/再現のような)の再考が迫られ、それに伴ってアルトーの演劇理論の 解釈も見直されていくことだろう。なお、このような認識は、たとえばドゥニ・ゲヌンが 述べるように54─少なくとも現代フランス演劇研究の文脈から言えば─、サミュエル・
ベケットとベルナール=マリ・コルテスという巨大な劇作家に挟まれた時期(1960 年代か ら 1990 年代)にかけて展開された舞台上のエクリチュールの探究(「演出家の時代」はこ こに含まれる)がひとつの転換点を迎え、戯曲作品を書く、あるいは読むといったことに ついての反省が行われるようになったことを背景としている。そして当然のことながら、
生誕 100 年を迎えたイヨネスコの作品もまたそのような文脈で読まれ、そして上演される べきだと思われる。
註
1 フランス国立図書館における「イヨネスコ展」は、娘マリ=フランス・イヨネスコの協力 の下で、2009 年 10 月 6 日から 2010 年 1 月 3 日までの会期で開催された。
2 『瀕死の王』(佐藤信演出)は、2008 年 9 月 28 日から 10 月 5 日まで、東池袋の劇場あうる すぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)において上演された。
3 文学座の『犀』(松本祐子演出)は、2009 年 4 月 14 日から 4 月 29 日まで、信濃町文学座 アトリエにおいて上演された。
4 &VHÒOF*POFTDPj/JVOEJFVOJVOEÏNPO…xJO$BIJFST 3FOBVE #BSSBVMUOP691BSJT (BMMJNBSE1969Q23
5 佐 伯 隆 幸『 現 代 演 劇 の 起 源 ─ 60 年 代 演 劇 的 精 神 史 』、 れ ん が 書 房 新 社、1999 年、
360¦361 頁。
6 たとえば、1997 年に横浜で設立された劇団チェルフィッチュを主宰する岡田利規は、イン タビューで以下のように述べている。「子どもの頃からお芝居がすごく好きっていう人間じゃ なかったことも大きかったと思うんです。いわゆる演劇のお芝居臭さがどうもよくわからな い、何も自分に響くものがないんですけど、みたいなメンタリティから始めたので、そこで 口語演劇が自分にとっての演劇の接点になったんでしょうね」(「安部公房作『友達』の演出 をめぐって─戯曲のテキストを超える身体の具体性」、『41505』、世田谷パブリックシア ター、2009 年、177 頁)。岡田は『コンセプション』(天然文庫、2010 年)のなかでも同様の 所感を述べている。
7 &VHÒOF*POFTDP/PUFTFUDPOUSFOPUFT1BSJT(BMMJNBSE1966QQ48¦49.邦訳、ウジェーヌ・
イヨネスコ『ノート・反ノート』、大久保輝臣訳、白水社、1970 年、46 頁。
8 *CJEQ49.邦訳、47 頁。
9 アントナン・アルトー『演劇とその分身』、安堂信也訳、白水社、1996 年、137 頁。なお、
アルトーのテクストを引用する場合には、"OUPOJO"SUBVEVWSFTDPNQMÒUFTUPNF*¦997*
1BSJT(BMMJNBSE1956¦1994 を参照し、通例に倣って、巻数および頁数を本文中にそれぞれ ローマ数字、アラビア数字で併記する。
10 象徴的な出来事として、無気力な観客を「打ちのめす」ことの必要を説いたアルフレッド・
ジャリ(1873¦1907)の『ユビュ王』が初演されたのは、1896 年のパリであった。しかし、
北山研二が指摘するように、現実には非常にアイロニカルな事態がパリを席巻する。すなわ ち、翌 1897 年には、エドモン・ロスタンの『シラノ・ベルジュラック』(古典的な韻文劇!)
がフランス演劇史上、最大の観客動員数を記録したのである。北山研二「演劇の可能と不可 能─ジャリ、コポー、アルトー」、『岩波講座 文学 5 ─演劇とパフォーマンス』、岩波 書店、2004 年、165¦172 頁を参照せよ。また、この背景にある 1890 年代の(ドレフュス事件 によって顕在化した)ナショナリズムとドイツ・ロマン主義の関係については、以下の書物 が大きな示唆を与えてくれる。山田広昭『三点確保─ロマン主義とナショナリズム』、新曜 社、2001 年、および大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』、新評論、2010 年。
11 アルトー、前掲書、137¦138 頁。
12 拙論「上演不可能性という『伝統』─「アルトー事件」をめぐって─」、『演劇映像学 2009第3集』、早稲田大学演劇博物館グローバル$0&、2010 年、73¦86 頁。
13 日本の現代演劇におけるアルトー受容に関しては、以下の二論文を参照のこと。坂原眞里
「日本におけるアルトーの受容─演劇論を中心に─」、『仏文研究』、第 23 号、京都大学仏文研 究会、1992 年、161¦180 頁、.BSJ4BLBIBSBj"SUBVEFUMF+BQPOQPVSVOFIJTUPJSFEVUIÏÉUSF USBOTOBUJPOBMFx"OUPOJO"SUBVE"SUBVEFUMFTBWBOUHBSEFTUIÏÉUSBMFT1BSJT.JOBSE3FWVF EFT-FUUSFT.PEFSOFT2005QQ159¦166
14 渡邊守章『劇場の思考』、岩波書店、1984 年、9 頁。傍点は原文ママ。
15 ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』、谷川道子他訳、同学社、2002 年、41 頁。
16 たとえば、エリカ・フィッシャー・リヒテ『パフォーマンスの美学』、中島弘昭他訳、論創 社、2009 年、114¦151 頁。
17 アルトー、前掲書、123¦124 頁。
18 『アルナリ』は 1830 年と 1838 年に上演された作品で、ユゴーの『エルナニ』のパロディで ある。高橋信良の指摘するように、演劇言語の規則(三一致の法則やジャンルの峻別など)
を打破するものであったユゴーの理論的革命を嘲笑するという点で、「残酷の演劇」のプログ ラムにおいては、シェイクスピアの外典である『ファヴァシャムのアーデン』と並び立てら
れている(高橋、「『チェンチ』への見取り図」、『ユリイカ』、1996 年 12 月号、青土社、251 頁)。
19 アルトー、前掲書、162 頁。
20 アントナン・アルトー『貝殻と牧師』、坂原眞里訳、白水社、1996 年、13 頁。シャルロは、
チャーリー・チャップリンの愛称。
21 アルトー、同書、40 頁。
22 アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』、粟津則夫・清水徹訳、現代思潮社、1977 年、32 頁。初期アルトーの関心である「精神FTQSJU」は、精神/肉体という伝統的な心身二 元論を乗り越えようとする試みとして用いられており、後の『演劇とその分身』における「分
身%PVCMF」の用法へと接続している。坂原によれば、アルトーのシュルレアリスムからの離
脱の要因はこの概念に対する問題意識の差に求められ、それゆえにシュルレアリスム期のア ルトーは『鳥のポールあるいは愛の場所』をのぞいて、演劇からは遠ざからざるをえなかっ た。坂原眞理「アルトーとシュルレアリスム」、『シュルレアリスムの射程─言語・無意識・
複数性』、せりか書房、1998 年、159¦166 頁を参照。
23 アルトー、『貝殻と牧師』、前掲書、33¦34 頁。
24 ミハイル・ヤンポリスキー『デーモンと迷宮』、乗松享平・平松潤奈訳、水声社、2005 年、
241 頁。ヤンポリスキーは、この「重たさ」について、精神分析的知見を援用しながら、ひ とつの器官に男性的なるものと女性的なるものが同居するキマイラ性として分析している。
25 アルトー、前掲書、40 頁。
26 アルトー、『演劇とその分身』、前掲書、67 頁。
27 この当然の結論は、実はサイレント映画『貝殻と僧侶』(1927 年)の創作過程において、
アルトーが監督ジェルメーヌ・デュラックと衝突したことに潜在的に現れていたようにも思 われる。シナリオを制作したアルトーはデュラックに俳優の演技の仔細について語っている が、これは言わば、デュラックのフィルムの再創造を要求するものである。アンリ・グイエ
「再創造の演劇と再生の映画」、大石和久訳、『演劇と映画─複製技術時代のドラマと演出』、
青木隆夫編、晃洋書房、1998 年、365¦368 頁。
28 アルトー、前掲書、68 頁。
29 アルトーのテクストにおいて、「オブジェMFTPCKFUT」が舞台上の道具類を意味するのに対 して、それを包含する「事物MFTDIPTFT」という言葉が、抽象的な審級を指し示すことには 留意しておかなければならない。「事物」とは、わたしたちの絶対的な外部にあって、にもか かわらず、わたしたちに働きかけてくる力である。内在的に言えば、「事物」とはわたしたち の分節化できていない(説明しがたい)欲望を意味する。ここでもまた、言葉と身体(欲望)
にはズレがあり、解消しなければならないのは、まさしくこのズレなのである。
30 アルトー、前掲書、67 頁。
31 この問題については、以下の論考ですでに別の角度から論じている。拙論「アルトーとヴィ トラック─演劇におけるユーモア概念をめぐって」、『関東支部論集』、日本フランス語フラ ンス文学会関東支部、2010 年、85¦98 頁。
32 &VHÒOF*POFTDPj/JVOEJFVOJVOEÏNPO…xPQDJUQQ22¦24 33 *CJEQ25
34 たとえば、&VHÒOF*POFTDP/PUFTFUDPOUSFOPUFTPQDJUQ64.邦訳、ウジェーヌ・イヨネ スコ『ノート・反ノート』、前掲書、58 頁。「身ぶりが言葉の延長であるのと同様に、演技や パントマイムは、言葉が不十分になると、言葉にとってかわり、舞台の物質的な要素も今後 は言葉を拡大することができるようになる。小道具の使用はまた別の問題である(この点に
ついてはアルトーがすでに論じている)」。
35 .BSKPSJF 4DIÚOF -F UIÏÉUSF E&VHÒOF *POFTDP 'JHVSFT HÏPNÏUSJRVFT FU BSUJTUJRVFT 1BSJT -IBSNBUUBO2009QQ74¦81
36 &VHÒOF*POFTDP/PUFTFUDPOUSFOPUFTPQDJUQ232.邦訳、前掲書、203 頁。
37 『椅子』のあらすじは以下の通りである。ある夜、人里離れたところに住んでいる老夫婦の もとに、次々と高貴な身分の人々が訪れる。老紳士は、自分には彼らに伝えるべき重要なメッ セージがあると思い込んで弁士まで雇っているが、最後には「皇帝」が来訪してくれたこと に感激して、老夫婦はみずから身を投げてしまう。
38 *CJEQ267.邦訳、前掲書、234 頁。
39 *CJEQ268.邦訳、前掲書、235 頁。
40 *CJEQ266.邦訳、前掲書、232 頁。強調は引用者による。
41 &VHÒOF*POFTDPj®4ZMWBJO%IPNNFNFUUFVSFOTDÒOFEFT$IBJTFT5IÏÉUSFEV/PVWFBV -BODSZFO1952x*POFTDPÏE#JCMJPUIÏRVFOBUJPOBMFEF'SBODF1BSJT(BMMJNBSE2009Q142 42 &VHÒOF *POFTDP j ® +FBO.BSJF 4FSSFBV NFUUFVS FO TDÒOF E "NÏEÏF PV $PNNFOU TFO
EÏCBSSBTTFS5IÏÉUSFEF#BCZMPOFBWSJM1954x*POFTDP*CJE2009QQ153¦154 43 アルトー、『演劇とその分身』、前掲書、158¦159 頁。
44 &VHÒOF*POFTDP/PUFTFUDPOUSFOPUFTPQDJUQ53邦訳、ウジェーヌ・イヨネスコ『ノート・
反ノート』、前掲書、50 頁。
45 アルトー、前掲書、160 頁。
46 アルトー、前掲書、229 頁。
47 &VHÒOF*POFTDPj/JVOEJFVOJVOEÏNPO…xPQDJUQ24
48 &VHÒOF*POFTDP/PUFTFUDPOUSFOPUFTPQDJUQ53.邦訳、ウジェーヌ・イヨネスコ『ノー ト・反ノート』、前掲書、50 頁。
49 *CJEQ50.邦訳、同書、46 頁。
50 +VMJB(SPTEF(BTRVFUj-JSFKPVFS*POFTDPBVKPVSEIVJ+PVFS*POFTDPMBDUFVSEÏGFOEVx -JSFKPVFS*POFTDP1BSJT-FT4PMJUBJSFT*OUFNQFTUJGT2010Q447
51 &VHÒOF*POFTDPPQDJUQ256.邦訳、ウジェーヌ・イヨネスコ『ノート・反ノート』、前 掲書、224 頁。
52 +VMJB(SPTEF(BTRVFUPQDJUQ456
53 ハインリヒ・フォン・クライスト「マリオネット芝居について」、種村季弘訳、『綺譚の箱』、
澁澤龍彦文学館第5巻、筑摩書房、1990 年。アルトーのバリ島舞踊論は、クライストにおけ る問題意識と切り離すことができない。たとえば、$BNJMMF%VNPVMJÏ"OUPOJO"SUBVE1BSJT 4FVJM1996Q70
54 %FOJT(VÏOPVO"DUJPOTFUBDUFVST3BJTPOTEVESBNFTVSTDÒOF1BSJT#FMJO2005QQ27¦31
※本論文は文部科学省「特色ある共同研究拠点の整備の推進事業」("09351900)による研究成 果の一部である。