飛鳥白鳳芸術精神史研究序説(承前)
その他のタイトル Introduction to a Study of the Artistic Spirit in the Asuka and Hakuho Periods (II)
著者 横田 健一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 5
ページ 51‑70
発行年 1972‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16103
この救世観音像とならんで︑その仏の崇高さの精神を表現せんと
追求した像としては︑法隆寺の百済観音像をあげることができる︒
この像においては︑救世観音像にくらべて︑さらに一層︑正面観
の高さを印象せしめる技巧がいろいろと施されている︒いうまでも
なく︑崇高性という美をひとに印象づけるためには︑形としての高
さを印象づけること︑それは他面からいえば︑相対的な細さを印象
づけることが効果的である︒低平性と肥満性は︑とかく崇高性の印
象を減ぜしめるのである︒
さて百済観音像が高さを強調する技巧として︑つぎのような点を
あげることができる︒
第一に︑纒衣の左右へ張ったひろがりが︑ほとんどなく︑わずか
な裾の左右のひろがりを持つだけである︒むしろ︑これを前後にう
ねらせていて︑正面観としては︑垂直に近い線をもっている︒
第二に︑像の前で交叉している纒衣の交叉点が︑救世観音像より
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説承前一
十
も︑より高位にある︒すなわち救世観音は膝の下の脚部で交叉して
いるが︑百済観音は︑第三に膝部で交叉している︒袴の衣雛の線に︑
より垂直性が強いこと︑かつ︑その線と線との間が狭く︑その間の
多いこと︒
第四に︑手の形の正面観が垂直線上におかれ︑とくに左手は真下
に水瓶をもって︑長く垂れていること︒
第五に︑全体の身長と頭部との比率は︑ほぼ八頭身になっている︒
第六に︑このように身長に比して短い頭部︑顔面部をゑても面長
である︒また︑顔の中心においても鼻が長いこと︒
第七に︑宝冠の左右に透しぼりの長い綴が︑顔面と九十度に長く
たれ︑胸部にまでおよんでいる︒これが面長な顔の細長さを︑一層
強調する効果を発揮している︒
第八に︑円形の光背の頭より上にあらわれた部分がいちじるしく
高くそびえていること︒
などによって︑その垂直的な高さを表現する効果は非常に強まり︑
崇高性の感覚表現で︑日本彫刻史上もっともすぐれた作品である︒
横田健一
五
一
この像の崇高感表現は︑側面観においても︑いろいろの技巧が施
してある︒その点で︑この像は救世観音像よりも︑より立体的にな
っている︒すなわち︑側面からみられることを意識している点で一
段と進歩している︒
くわしくいえば︑右手を前方へ水平に静かにつき出し︑左手に水
瓶をつまんでしなやかな指つきで︑斜下︑前方に垂れ下げているの
がみられる︒
その姿は︑手は長い垂直な身体と直角をなし︑水瓶の傾斜は四十
度の角度の線を構成し︑立体感をつくり出している︒救世観音像が
両手で薬壷を捧げもち︑胸にひきつけていて︑前方への突出感が非
常に浅く︑立体感が乏しいのと︑対照的である︒
救世観音像では︑側方の天衣がその裾の部分において︑鰭状に三
段に後方へつき出ているが︑各段が下ほど少しづつ大きく張り出し
ている︒百済観音では︑その反対に左右ではなく︑繩衣が前方へゆるやか
に大きく円形弧状をえがいてうねり出して︑たくゑに前後の均衡を
とっている︒その線は唐草文様を想起させる︑きわめて︑なだらか
な︑やさしいリズムを椛成している︒
これは百済観音の光背をささえる柱が︑青竹のゑずゑずしい感じ
を表現している︒この奇抜な意匠はさらに︑その上に支えられてい
る光背が前に傾いていて︑これが︑観音の姿態が垂直よりもわずか
にうねって腹部を張り出していることとあいまって︑側面観のリズ ムに微妙な変化をあたえている︒
しかし︑この側面観にゑる胴体のうねりは︑鶴林寺の聖観音像ほ
ど大きなうねりではない︒鶴林寺のそれは正面観でも︑より大きな
うねりをうねらせている︒
薬師寺金堂の薬師三尊の脇侍︑日光︑月光像と比べても︑はるか
に動きの少いものであって︑その点でも︑より百済観音の方が古い
と思われる︒
しかし︑救世観音にくらべると技巧的に一段と進歩のあとがふえ
るのである︒だが扁平性︑奥行のなさは依然として強い︒衣のヒダ
の彫りの浅さ︑その文様の単純さ︑とくに裾の部分の文様の椛成の
仕方は︑法隆寺金堂釈迦三尊のそれの︑きびしくきちょうめんに衣
のヒダをたたむモティーフを残していて︑これを去ること遠からぬ
時代の作だと思わせる︒
つぎに︑この像の顔を注目しよう︒金堂釈迦や救世観音にくらべ
て︑それらの鋭い稜角をもった線は百済観音では消えて︑線は丸味
をおびて柔かとなり︑それだけ優しさが増してきている︒
これは手においてもそうである︒かつての鋭いギコチない線が︑
柔かなふくらゑを持ってきている︒すなわち︑さし出した右手の五
指の中にも︑人さし指をとくに下げて先をそらして中指のさきを反
対に上へ挙げさせ︑薬指の挙げ方はそれよりもやや下げ︑小指はさ
らにやや下げさせ︑正面から承ると三本の指が段々と下るという︑
非常に複雑な変化のあるリズムを構成している︒それらの五指は掌
五
一
一
のくぼゑを構成する柔か味とあいまって︑写実的であり︑金堂釈迦
像の手との違いは大きい︑と感心させる︒
左手にも︑そういう技巧がもちいられている︒親指の先と人さし
指の腹とで︑かるく水瓶の上端の張り出た縁をつま承︑中指は他の
人さし指︑薬指や小指にくらべてやや深く折りまげられている︒指
は長く︑しなやかで爪も細く長い︒
左右の腕ともに︑手首に透し彫りの唐草文をつけた金具の腕輪を
はめていて︑上脾の半ほどに同様の腕輪をはめているものと対のリ
ズムをなす︒肩さきから裸の長い腕は︑この上・下二対の腕輪でし
めくくられ︑腕を長く細くみせる効果を強めている︒
腕の丸味となめらかさも︑金堂釈迦像や四十八体仏のいずれにも
勝っている︒そもそも金堂釈迦像では︑腕は衣におおわれ︑ほとん
どみえない︒脇侍もむろん同様である︒そして掌が顔や胴体にくら
べて大きい︒
百済観音像の手や腕の表現は女性のそれを連想させる︒このよう
に指の中で︑人さし指や中指を他の指よりも深く折りまげてくぼゑ
をつくったり︑水瓶を軽くつまむような︑やわらかな変化のある軽
やかな表現は︑今でも女性がよくやるところである︒男性は︑もっ
と無骨に物をつかんだりし︑ある指の承を折りまげたりする表現を
することを厭がる︒手における男性的な力強さは︑つまむよりもつ
かむことにあり︑そのぱあい︑親指に力を入れて他の指と対向させ︑
握りしめる表現をとること︑多くの神将像の武器の把握表現に承る
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ ごとくである︒
あるいは︑物を持たなくても拳を握りしめるとか︑逆に︑掌も五
指も強く八方にひらき切って表にむけてさし出す金剛力士のごとき
表現をとる︒男性的表現とは︑そういうものである︒しかし︑そう
した動きの大きい︑男性的な指や腕の表現は︑未だ飛鳥︑白鳳様式
には出現しない︒それは天平様式をまたねばならない︒
百済観音像は︑日本における女性的な腕と指の表現で︑後にのべ
る太秦広隆寺の半珈思惟像および中宮寺の半伽思惟像とともに︑も
っとも早く完成の域に達した作品である︒その後の時代の作品で︑
これを超えるものはほとんどないといってよい︒もし︑これに匹敵
するものがあるとすれば︑天平時代の作品で︑東大寺三月堂の日光
および月光像をあげ得るくらいであろう︒
百済観音は従来の諸像に比して︑一段の進展を腕や姿態での女性
美の表現がました︒
だが顔貌においてはどうか︒
山形のまるい円弧をなした眉は︑金堂釈迦像のそれのように鋭い
稜線をもたず︑鈍角的であり︑ぼやけていて︑おだやかな印象をあ
たえる︒それは金属と木材という材質のちがいもあずかっている︒
眼は釈迦像にくらべて︑いくぶん飛び出している︒つまり︑まぶ
たの張り出しが大きい︒日本の女性は︑ヨーロッパ人はむろんのこ
と︑アジア大陸の女性とくらべてまぶたが丸く張り出している︒日
本の男性にくらべても女性はそうである︒
五
それだけに金堂釈迦像が︑より大陸的であり男性的であるにくら
べて︑百済観音は日本的であり女性的である︒さらにいえば︑釈迦
像は非写実的であり抽象性をもつにくらべて︑百済観音は写実的で
あり具体的であり︑かつ︑やさしみが多い︒
その上に︑上まぶたの下端が二重まぶたになっている︒これはな
かなかデリケートな表現である︒日本人の女性は二重まぶたを美人
の一つの要件とし︑整形手術をしてもらう人もあるくらいである︒
眼の形は杏仁様の飛鳥形式の伝統をのこしているが︑切れ長では
なく︑より短くわずかに円に近づいている︒その上に二重まぶたで
あるということ︑眼の鋭さの感じを減Fす効果をもつということは︑
やさしさの感を増すということである︒
しかし︑鼻はどうか︒
鼻は長くたかく︑しかもさきは尖っていて︑ほんのかすかである
が下向きに出ていて︑異国的な感があり︑鼻の承は日本的︑東アジ
ア的ではない︒その鼻の長さ︑商さはたとえば︑法隆寺金堂四天王
像の鼻の短さ︑横幅の広がりが全体として三角形の印象をあたえる
のと比較するがよい︒金堂釈迦三尊の鼻も同様に︑短い割合に横幅
が広く三角形にゑえる︒百済観音の長くたかい鼻は︑崇高性の感覚
をあたえるのには成功しているが︑その一面で鋭さ︑異国的な情緒
をあたえる効果がいちじるしい︒小鼻の上に深いほりの線があるこ
とも鼻の立体感をつよめている︒金堂釈迦三尊よりもその点はくっ
きりしている︒ 口はどうか︒金堂釈迦をはじめ︑飛鳥様式は仰月形の口であった︒この像の口は仰月形ではない︒口の横幅が狭くなり︑口は小さい感じになる︒しかし︑口唇部の前への突出はより大きい︒上唇は上前方へ大きくそり︒唇が厚くみえる︒下唇はそれほど厚くはないが︑受け口にふえる︒こうした口の形は︑前代よりもより立体性︑奥行性をもつと同時に︑仰月形の口のように写実的になってきているといえる︒また仰月形の口よりも強さや鋭さが減り︑柔か味がましているといえよう︒だが︑受け口というものが意志の強さ︑利かぬ気の性格をあらわすこと︑世間一般でいうようであり︑百済観音は︑たんに女性的なやさしさ︑柔か味の承を表現するのではなく︑口もとで意志の強さをたたえていて︑鋭く高い長い鼻とあいまって崇高感を醸し出しているのである︒
頬についていえば︑眼の下から鼻のわきにつけて︑次第にふくら
んだ頬は︑口の横のあたりで引いていることは︑これまでの顔面全
体のふくらみにくらべて︑より写実的にふくらみを表現したもので
ある︒同時に︑口もとでひきしめ︑口の意志的表現を強め︑たすけ
るものといえる︒
下顎もふっくらとして豊かであり︑いくぶんふとり気味に︑二重
あごとさえみえるくらいの表現がある︒これは百済観音像の丸味と
豊かさの効果を増し︑観音の慈悲の表現を姿態や腕︑眼などととも
に強める効果をもつ︒ 五四
全体として︑慈悲の象徴が表現としての明るいやさしさ︑柔かさ︑
丸味︑豊かさと崇高性︑浄らかさ︑意志の強さ︑明るさと凛然たる
感覚が︑以上の諸要素が浬然とあいまって表現されているのである︒
当時の人びとの観音というものに対して︑抱いていた理想的イメ
ージが︑どのような要素にあったかがわかるであろう︒
ここにわたくしは︑天武十四年︵六八六︶正月に制定された官位四
十八階の制の中に︑諸王の位として明位︑浄位があり︑諸臣の位階
に正位についで︑直位があることを連想する︒また藤原宮ないし奈
良時代の宣命に︑﹁明き︑浄き︑直き誠の心もちて﹂というような
表現のあることを連想する︵例﹃続日本紀﹄文武元年八月甲子朔︑即位
宣命︶︒
連想したからといって︑この像を直ちに七世紀末頃の時代のもの
と断定するわけではないが︑時代の美意識として︑明・浄・直の理
念とあい通うものがあると思う︒
百済観音像は︑そのふくらみや︑なだらかな線の表現は︑非常に
すぐれているが︑そのふくらゑは未だ少い︒指や腕の構成は︑立体
性・運動性をもってきているが︑未だ単純であり動きは少い︒しか
し︑前にのべてきたいかなる像よりも︑運動性や立体性︑肉のふく
らゑは明瞭であり︑また写実への意志は芽ばえている︒わたくしは︑
この像に人間性のあたたかさがあふれ出始めているのを感ずる︒象
徴的にいえば早春︑三月のはじめごろの柳の芽のいぶきを感じさせ
られる︒
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ 造形芸術を考える上に︑文学を持ってくるのは邪道かもしれないが︑﹃万葉集﹄巻八︑巻頭の志貴皇子の權︵よろこび︶の歌︵一四一八︶
いわ石ぱしるたるみの上のさわらびの
もえ出づる春になりにけるかも
という歌をおもうのである︒
百済観音像と︑その顔の印象がよく似ている像に中宮寺蔵木彫半
馴思惟像がある︒これは如意輪観音とも︑弥勒ともいわれているが︑
寺では如意輪観音として崇拝して来︑縁起にもそうなっているとい
う︒しかし造立当時に︑そう考えられたかどうか︑わからない︒
同じ半脚思惟像の形式をとる大阪府野中寺所蔵の金銅の小像は︑
台座に
丙寅年四月大旧八日癸卯開記︑橘寺智識之等︑詣中宮天皇大御身
労坐之時︑誓願之奉弥勒御像也︑友等人数一百十八︑是依六道四
生人等︑此教可相之也
との銘があり︑弥勒と考えられていた︒この丙寅は天智天皇五年
︵六六六︶で︑中宮天皇は斉明天皇と考えられる︒
また︑よく似た形式の京都市太秦広隆寺蔵の二体の半蹴思惟像は︑
仁和年間︵八八五八八九︶頃に書かれたと推定される﹃広隆寺資財
交替実録帳﹄︵﹃平安遺文﹄第一巻一七五︶に
十
■■■■■
五五
金色弥勒菩薩像壱躯踞稿に所謂太子本願御形
金色弥勒菩薩像壱躯踞塙仁今校薬所仏殿之内
とあるものにあたると思われ︑これによれば弥勒である︒
中宮寺像も古くは弥勒と考えられていたかもしれない.もっとも
望月信成氏が︑半脚思惟像を悉達太子像であると考証しておられる
のは︑興味がある説である︵﹃日本上代の彫刻﹄一四○一四四ページ︶︒
いずれにしても︑様式および表現を通じてそれらを創作した古代
人の美意識やさらに精神構造を考えようという︑現在の問題に︑如
意輪か︑弥勒か︑悉達太子かは︑大した問題ではない︒
さて︑百済観音と中宮寺像とは︑顔面各部分の稜線がまる味を帯
びて柔かになってきている点で似ており︑これは飛鳥時代の基準作
品とした法隆寺金堂釈迦三尊像の稜線の鋭くきびしい線や︑柔か味
の乏しい表現にくらべて︑時代の下るものであることを︑しめして
いる︒
いま︑中宮寺像を考えるにあたり︑主として広隆寺蔵の二つの半
珈思惟像の中︑大きい方の像および韓国ソウル国立博物館︵旧李王
家蔵︶金銅半馴思惟像とを比較して考えてゆきたい︒
むろん︑種々な点で異っていることはいうまでもない︒たとえば
中宮寺像の頭形は︑宝髻で︑冠をかむっておらず︵もと冠があったか
もしれない︶︑宝髻から出た髪の毛を両側に細長くたらし︑途中で巻
いている︒
ところが後二者は︑宝冠をかむり髪を垂らしている︒また垂れた 方の足の置き場所について比較すると︑後二者は︑台座の一部が台座の主体部につづいて前の方へ出ているのに対し︑中宮寺のそれは︑わざわざ足おきの台を棒で支えて作り出して︑台においた足の先きが前方へ︑そり上り気味になっている︒
また中宮寺と広隆寺の両像は︑上半身が裸身であるのに対し︑韓
国ソウル博物館のそれは衣服をきた形になっている︒中宮寺のそれ
は︑火焔円形の光背が百済観音同様︑竹の形の竿で支えられている
のに対し︑後二者には光背がない︒もっとも︑もとは別に光背がつ
くられてついていたかもしれない︒
そうした小さな相違点は別として︑飛鳥様式の発展形式としての︑
主要な諸点を比較してふたい︒
まず像の下部の衣のヒダの形式について観察して承よう︒
中宮寺像の衣のヒダは︑法隆寺金堂釈迦像および薬師像のそれに
よく似た趣きがあって︑キチンと幾重にも正しく重ねられている○
これは上野直昭氏のいわゆる厳格な様式のヒダである︒超越者の性
格として︑折目正しいものを喜ぶ心が︑まだ強く残っている︒
ただ法隆寺金堂諸像に比較すると︑衣のほりの稜線が鋭さと︑鋭
かど角的なヒダの角とを失っていて︑丸味を帯びてやわらかな感じをも
ち︑それだけに写実的な︑自然な味わいを帯びてきている︒
また法隆寺のそれにくらべると︑ヒダの数も少くなって︑堅さと
煩瓊な感じが少くなってさえいる︒法隆寺の釈迦像・薬師像では︑
裳懸台座部分︵すなわち衣のヒダ︶がおおった部分は︑本尊像の首か 五六
ら下︑坐った足の底辺部に至る坐高の丈けに匹敵する厚味Ⅱ丈けを
有していた︒それがちょっと自然なやわらかい布のヒダと承えない
くらい︑彫りの深い鋭い折目正しい長楕円形の同心円を中央に二対
づつ︑また左右に対称的な外拡がりの同心放物線を幾重にもかさね
て持っていた︒したがって︑それは煩墳なだけでなく︑堅苦しい︑
重い圧迫感を看るものに感じさせ︑超越者の慈悲︑仁愛を感じさせ
なかった︒
中宮寺像は︑たれた左脚の膝の上に︑横たえられた右脚︵向って
左端︶は四段に右端から内へ向うほど小さくなってゆくヒダの線が
上部では等間隔に︑そして︑それらが灘曲して中央部右足首に集め
られる︒そのリズムはまた︑その線のあつまった焦点から下方に放
射線状にひろげられ︑右脚の膝からななめ左に下る円弧をえがく︒
この円弧の下には︑法隆寺金堂の諸像のように︑折目正しく重ね
られたヒダの線が︑平行して垂直にさがっている︒そして下端はキ
レィにかさねられたヒダが︑やわらかなゆるい曲線をつくる︒それ
は上野氏のいうように厳格整斉の形をとっているが︑線条の数は少
くなっている︒ヒダの幅は比較的ひろい︒三角形の下底辺がひろが
る法隆寺金堂像よりも垂直性が強く︑そのことは︑この像の崇高性
の感覚を強めるのに役立っている︒
しかも︑垂れた膝をおおう衣のヒダは左右から左三段︑右二段と
たがいちがいに線条が小さい円弧をつくりながら出ていて︑線のは
しは脚の中心線の真ん中で消えている︒
飛鳥白胤芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ それは︑きわめて形式性の強い︑自然でないヒダのようであるが︑
交互のリズムが快適である︒それとともに︑交互の線の端が中央線
で消えている︑半端な線である点が強さをなくし︑やわらか味を構
成しているのである︒
そして左手が上から垂直に下ってきて︑左掌が静かに横たえられ
た右の足首をおさえ︑おおうている︒正面観では︑この像の垂直性
は上から垂れてくる左手と左膝とが一貫して連っていることにより
表現されている︒
全体としてヒダの形成法式は︑かの盗まれ︑失われた新薬師寺の
香薬師像に近い︒
この点︑広隆寺像では左肘はやや左外へ張り︑左腕前脾はいくぶ
ん外上方から斜めに右足首の方へのべられ︑左掌を足首の上におく︒
そして横たえられた右足をおおう衣のヒダには︑中宮寺像のそれ
のような等間隔︑平行のそれはなく︑右下から左斜に力強く彫られ
た二つのヒダの流れが︑右足首で合流する︒
そして︑裳懸座の裳は︑垂直線の平行線が垂れ︑その下端がキチ
ンとかさねられた折目正しいヒダとなることもよく似ている︒しか
し︑その下端は円弧ではなく︑横に水平線に近く︑わずかに轡曲し
ているていどである︒そして中宮寺像のヒダよりも薄く浅い︒
㈱垂れた左膝の両側から出ている交互のヒダも︑中宮寺像よりも線
の長さが短かくなり消えかかっていて︑中央の余白が大きくなって
いる︒つまり左脚は衣の下の裸身の脚を思わせるようになっている︒
五七
上野直昭氏︵﹃上代の彫刻﹄二○一二・ヘージ︶は次のようにい
う︒中宮寺像において︑その大きな壁の群が厳格整斉の形をとり︑
下にひろがって頭頂より台座を含む円錐形に包まれているのに対し︑
広隆寺像においては︑像と台座とは︑一応別箇に観照され︑衣は余
って台座に垂れたもののごとく︑壁の流れもむしろ拘束なく作られ
ている︒その点︑中宮寺像は旧様式の代表で︑広隆寺像は新様式の
先駆として共に過渡期の制作と思われるとしていられる︒
もっとも氏も﹁広隆寺像において︑檗群の中央部に垂直の突起を
作り︑鼻筋を通って下る垂直と応じて︑古代像に共通の前面性を強
調している﹂と︑この像の古い要素を指摘された︒
しかし︑かんがえてふると︑ヒダのたたみ方は︑広隆寺像のそれ
もやはり厳格で︑折目正しく︑新しい様式とは思われない︒
むしろ中宮寺像の方が︑やや柔かな曲線に富んでいると言えるく
らいである︒とくに︑広隆寺像の中央の垂直線は︑その強剛な感じ
を強めている︒また顔貌の表現についていっても︑広隆寺のそれは
彫のふかい立体的なほそく鋭い稜線をとって︑凛然と澄承切った︑
清く崇高な美しさを表現している︒
これは身体部のつくり方の細さの表現によるものと思われる︒
これに対し中宮寺像の方は︑稜線が温和となって︑春霞のかかつ いずれにせよ︑広隆寺像の方が像下部の衣のヒダに関してはより
単純であり︑簡素であり︑煩蹟性が中宮寺像よりもやや少い︒ たような柔かで優美な美しさを表現している︒むろん身体表現のほ
そさも広隆寺像にざまで劣らないし︑崇高感の表出もほとんど匹敵
しうる︒
しかし︑両者の違いは時代の前後の違いというよりも︑直観的な
いい方になるが︑広隆寺像の方がやや大陸的Ⅱ朝鮮的な感じをもち︑
中宮寺像の方が日本的な感じをもっているようにおもわれる︒
その理由は︑広隆寺像とよく似ているものに︑韓国ソウル国立博
物館︵旧李王家博物館︶の金銅半珈思惟像がある︒それは身体の細
く表現の線の鋭い︑硬質な澄み切った美をもっている︒台座の形も
よく似ている︒
また︑中宮寺像を日本的と私がいう理由の前提には︑大陸的なも
のは︑鋭く︑強い抽象的・知性的表現をもっと︑考えるのに対し︑
日本的なものは具体的に︑平明に︑柔かさを帯びて情緒的な表現を
とるものとの仮定がある︒その仮定は︑矢代幸雄氏著﹃日本美術の
特質﹄などにも指摘しておられるが︑同時に︑私自身が日本美術史
を通観し︑世界諸民族の美術と比較して感じるところである︒
なお︑この韓国像の衣のヒダの表現は︑中宮寺のそれに比べると︑
厳格さ︑折目正しさが崩れて︑やや自由になっている︒
これは︑やはり︑この像が︑前の時代様式から解放されつつある
時代につくられたことを感ぜしめる︒
広隆寺像の方が︑大陸的なものに近いだけにやや古いという気が
する︒ 五八
これは先にものべた点であるが︑半珈思惟の左膝の上にのせた右
足をおおう衣のヒダの表現形式においても︑広隆寺像と韓国像とは
似ている︒すなわち︑衣のヒダが水平の足におおむね平行に︑下端
は足首の一点に吸いこまれるように集められている︑自然な形の技
巧である︒
これに対し︑中宮寺像のその部分の表現は︑三本の垂直の稜線が
等間隔でタテに流れ下ってから︑足首の方へ集っている︒
また垂れた左足の方の衣のヒダは︑両側から交互に等間隔に稜線
が出ている︒それは次の時代に発達するヒダの表現形式をしめして
いる︒韓国像にも︑それは︑かすかにみとめられるけれども︑中宮
寺像の方がより強く顕著になってきている︒
こうした垂直の等間隔線の技巧は︑いままでにない新しい工夫で︑
それの発達したものが橘夫人念持仏阿弥陀本尊の膝の部のヒダであ
る︒この手法が衣の全面に用いられると︑新薬師寺の香薬師像︑あ
るいは武蔵深大寺釈迦像の衣のヒダの形式となるであろう︒
そうしたことを考えてくると︑中宮寺像は旧様式の代表であるに
とどまらず︑新様式の先駆であるといえる点も少からず存するので
ある︒
そうした新しい点を承ると︑中宮寺像の方が発達しており︑広隆
寺像の方が古めかしい︒
しかし︑中宮寺像には首筋のクビレがほとんどないのに対し︑広
隆寺像のほうは三重のクビレがあり︑次代に発達する傾向がすでに
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ あらわれている︒その点は広隆寺の方が新しい︒
側面観から象れぱどうか︒
広隆寺像は︑台座脚に纒衣の結び目が花やかにつくり出してあっ
たりして︑側面観の考慮も充分とはいえないにしても存在する︒
身体のうつむき加減も︑広隆寺像の方がやや前かが承の程度が大
きく︑静かな思惟の形がより深くあらわされ︑知性的な味わいが濃
い︒中宮寺像の方が知的というよりも︑なごやかな情緒性を表現して
いることは前にものべた︒
つぎに指について承よう︒広隆寺像は︑思惟のために頬へかるく
ふれた右手の指を曲げて親指と先を合せ︑指もそれにつれて動く動
的な写実において︑より美しくまさるものがある︒中宮寺像の指も
美しく︑親指と人さし指とのつくる円環の美しさなどふるべきだが︑
動性において一歩ゆずっている︒広隆寺像の方が技巧が進んでいる︒
いずれにしても︑この両者および韓国像の三者については︑その
制作年代の先後をどちらが先きとも決めがたい︒ほぼ同じ時代に︑
飛鳥的Ⅱ六朝的Ⅱ三国時代的なものから︑白鳳的Ⅱ初唐的Ⅱ新羅統
一時代的なものへの過渡期の傑作と考えられる︒
そのこまかい一三アンスの相違は︑それらを製作した芸術家の出
身なり︑流派・伝統なりが大陸的なものに近いか︑日本的なものに
近いか︑⁝⁝そうした点に帰せられるのではあるまいか︒
五九
半珈思惟像の代表的な中宮寺と広隆寺の両像について考察してき
たが︑この際︑半珈思惟という図像形式そのものの精神史的な意味
を考えてみたい︒そうした形式は弥勒菩薩や如意輪観音をあらわす
図像上の約束︑儀軌にのっとったのだといわれれば︑それまでであ
るが︑ここに考えて承るのは︑人間の一行動態としての意味である︒
わが上代人が士偶や埴輪において︑また石人︑石馬等においては
表現することができなかった︑思惟するというような︑人間精神の
内面的な深味を表現した諸像がここにつくられたことは︑それを承
る日本人にどのような衝撃をあたえたことであろうか︒半珈思惟像
をみた上代人の感想の声や︑印象を今日︑私たちはきくことができ
ない︒
それにしても︑これまでの研究では半珈思惟形式の意味をさぐろ
うとした人は︑多くなかった︒しかし︑私には︑なぜ︑こうした思
惟像が︑飛鳥・白鳳時代に好んでつくられたか︑の問題に関心をそ
そられる︒
中宮寺像や広隆寺像は︑やや頭を前にかたむけて︑右手をあげて
その指をかるく右の下頬の︑やや前よりの部分にあてている︒そし
て︑かすかにほほえゑを浮べて考えている︒
人は思考するとき︑なぜ︑手で︑指で︑頭や顔を支えたり頬に指
をふれたりするのか︒思考する時︑なぜ︑頭を前にたれ︑かたむけ
十
一 一
るのか︒
私たちは︑オーギュスト・ロダン作﹁考える人﹂Pの勺のロの①胃︶
という作品をしっている︒
﹁考える人﹂は︑両膝をそろえて切株のようなものに深く腰をか
け︑右手を肘のところで深くまげて左膝の上に置き︑さらに右手首
を深く内側にまげて︑手の甲で下顎を支えている︒上体は︑背中を
丸く前へ大きくまげ︑首と頭は水平に近いまでうつむき︑視線は下
を向いている︒この考える人は憂愁に満ち︑中宮寺や広隆寺像のよ
うにやさしく︑かるい微笑をうかべた像のほのぼのとした明るさと
は︑くらべものにならぬ深刻さをたたえている︒
人はなぜ︑考えるとき頭をたれ下を向くか︒上を向いてあるいは
前を向いて一点を凝視するごとき眼ざしで︑ものを考えることはあ
る︒そのぱあい︑眼はものを凝視してはいない︒考えるとき︑眼は
ゑるがごとくにしてものをみていない︒心はそこにないからである︒
心は︑考える対象について集中し︑思いをひそめ沈潜しているので
ある︒
考えることを﹁沈思黙考﹂などといい︑﹁内面的沈潜﹂などとい
う︒思惟の﹁深さ﹂といい︑﹁内面︑内奥へ深く思いをひそめる﹂
という︒﹁静思﹂という言葉もある︒思い︑考えるとき︑人間は集
団社会をはなれ孤独になることを要求する︒多くの人の中では沈思
できないのである︒他人と共に考えるよりも︑自己自身と対話する
ために静かさが必要なのである︒ 六○
ひとりぽっちになり︑自己と向きあうのである︒そこに客体化さ
れた自己の内奥を凝思し︑その深淵を視︑その中に深く入ってゆく︒
行動している人間には︑経験されない瞬間である︒絶対者と向かい
あっている人間である︒叡智はそこに生れる︒
人間の反省・自覚は︑その時に生じ︑深められる︒
頭をたれる︒その姿は︑考えるときのほかに謙虚な姿勢のときに
とられる︒ある崇高な︑すぐれたものの前に出たときの姿勢にもあ
る︒人が己の卑小︑醜さ︑無能︑非才︑至らなさを反省したときの
姿である︒
謙虚と似て︑やや異るものに荒恥がある︒同じく貴く︑美しいも
の︑清らかなもの︑すぐれたものの前に出て自己の醜さ︑卑小を恥
じ︑反省したときの態度である︒人は頭をたれ赤面する︒自ら貴い
と自覚し︑またそうした他人から貴ばれる貴族は差恥することが少
いといわれている︒また︑自己の卑小︑醜さを敏感に反省すること
のない人は差恥することが少いといわれている︒しかし︑蓋恥が精
神的に深められたときに謙虚が生ずるが︑普通には荒恥には美醜の
感覚をともない︑エロスの感覚を伴うぱあいが多い︒
恥ずると眼の視線は伏せられるが︑傭し眼に上眼がつかわれ相手
の顔色をふる︒相手の愛情への期待︑甘えが男女の間や同性どうし
の間でも少くない︒謙虚さにはそうした愛情への期待はない︒差恥
には︑謙虚ほど自己否定への徹底がない︒蓋恥心の際︑つまり失敗
した時にも頬や頭へ手がのびて頭をかいたり︑頬をたたいたりする
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ ことがある︒﹁照れる﹂という︒
﹁照れる﹂には自己反省︑自己の失敗や醜悪な行動に対する自己
意識と差恥心がある︒相手やまわりの人が︑まぶしい︒それは謙虚
とはことなり︑自己の肯定は存続してい更自己拡大の行為は是認
され︑肯定されている︒
思惟する人が手をもって︑頬や顎を支えたりふれたりするのは︑
では︑仏像の頬に手をあてるのとどう違うのか︒
ロダンの﹁考える人﹂を承ると︑憂愁にみちた人は堪えきれない
くらい悩承が重く︑頭を手で支えずには居れないようである︒
頭をたれるのは︑頭が考えごとで承ちて重いからといえようか︒
手は頭を支えるのであるが︑半馴思惟像のように指がかるく頬にあ
てられるのは支えるとはいえまい︒頭の中の思考も︑たえ切れぬく
らい悩みにふちたものではあるまい︒
ほのかな頬の微笑は︑悩永の解決︑明るい光明が心の内面にさし
てきていること︑あるいは︑光明が心をふたしていることを象徴し
ているといえよう︒法悦にゑたされているともいえよう︒
仏や菩薩像の清らかで崇高な顔のほほえぷは︑看るものにそうし
た光明の心的境地をしめすものである︒
頬にあてられた手は︑頭を支えるよりも光明への思惟に頭がみち
た︑その思惟Ⅱ宗教的叡智を象徴する︒
鎌倉時代の作品︑興福寺の天燈鬼は重い燈籠を右手に支えている︒
ロダンの﹁考える人﹂の右手は上へ掌をひらいてだけ顎を支え︑意
一ハー
志と力とが承ちている︒悩承に重い頭を支えずにはおかぬ力があり︑
支えようとする意志があった︒
物を支えるべく下から上へのびる手には︑そうした意志と力が象
徴される︒
広隆寺や中宮寺の半珈思惟像の指はしなやかに︑かろやかに各四
本の指がまげられ支えるものはない︒ただ︑指が頬の一点にあてら
れるとき思念を凝集し︑精神を統一するには有効であること︑われ
われの日常の経験がこれを教えている︒
物を考えるのに︑額に手をあてて考えることがある︒このとき︑
頭は全く前へかたむけられ︑うつむきにすぎ︑深刻︑悲観的にゑえ
レームン︑〆︒
﹁手を胸にあてて考える﹂ということもある︒心臓に手をあてる
ことであろう︒これも反省の一つの姿態であるが︑そこに深さは乏
しい︒崇高な思いという表現がない︒悪くいえば卑俗である︒それ
は頭がたれていないからである︒
なお︑半珈思惟像の中にはつぎのようなものがある︒東京国立博
物館蔵︑御物四十八体物の一つで弥勒菩薩半馴像といわれているも
ので︑右掌をあげて外へ向けている像がある︒顔はうつむいていな
い︒真正面をむいている︒ただ眼はかすかにふし眼である︒この像
も思惟しているとゑえないことはないが︑むしろ説法している姿で
ある︒頬に指をあてて思惟する像ほど︑深い感銘をあたえない︒
それでは半別という姿態は︑機能的にどういう意味をもち︑なに を表現し︑象徴しているのであろうか︒
ひらたく解釈すれば︑半凱︑すなわち片足をもう一方の足の膝の
上におくことは楽な姿勢であり︑長い時間坐っているのに耐えるこ
とができる姿勢である︒
思惟することは長時間を要するので︑こうした姿勢をとることは
必然性がある︒楽な姿勢であるから︑看る者にとっても︑気持が楽
に承ることができる︒
﹁思惟︑思考する﹂それは人間の一つの活動であり︑とくに最も
人間らしい︑他の動物には出来ない高度な活動である︒おそらく人
間の行為の中で︑もっとも高度な知的活動である︒そうした人間の
行為中の像を︑造形美術でつくる経験は日本人にとって︑埴輪など
の製作にもたなかった新奇な︑劃期的な経験であった︒
精神を集中し︑統一して考える姿︑しかもなにか悩承が解決され︑
光明に心がゑたされた喜びをほほえゑであらわした姿をつくること︑
また見ることは上代人にとって非常に衝撃的なことであったに違い
ない︒
私が半珈思惟像という彫刻の形式の精神史的な意味を追究するの
は︑日本人の精神史の上に重大な意味を考えるからである︒
読書による仏教の教理の哲学的な理解は︑当時の貴族や有識者に
もどれだけ可能であったかこころもとない︒
しかし︑造形芸術はそれを一見することによって︑その象徴︑表
現せんとする作家の理念を︑看者に伝達することができる︒ 一ハーー
さて︑もう少し半珈思惟像の表現について別の方面から考えて承
ヲ︵︾O
中宮寺像も広隆寺像も︑もし人間とするならば少年ないし青年︑
それも︑うら若い女性を表現しているような印象をあたえる︒
若さと内面的な深い沈思︑沈潜の姿との結合は何を意味するか︒
およそ少年︑青年は活動的で︑たえず活溌に運動し︑沈思・瞑想
という︑一般の通念では老成した人間の態度と一見︑矛盾した印象
をあたえられる︒はたしてそれは矛盾であろうか︒
私たちは広隆寺にもう一体︑やや小さい半珈思惟像のあるのを知
っている︒この像は顔が老成した風につくられ︑また微笑しておら
ず︑より苦しげに憂愁を顔貌にたたえている︒こうした憂鯵は老成
した半珈思惟像もあるのだから︑一概に飛鳥・白鳳の像の少年的︑
青年的表現というのは誤りかもしれない︒
しかし︑岡寺にある小さな金銅半珈思惟像のごときは全く愛らし
い少年の顔につくられている︒今までたびたび言及してきた新薬師
寺の失われた香薬師像︑鶴林寺の聖観音像︑法隆寺の夢違観音像︑
武蔵深大寺の釈迦像などの顔貌は少年的である︒
薬師寺東院堂の聖観音像や︑興福寺東金堂にある旧山田寺本尊仏
頭などは青年的である︒こうした諸像は白鳳時代に属するとされて
いるものの代表的のものである︒
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶
十
一 一 一
天平時代初期とされているものの中にも︑興福寺天龍入部衆のご
とき︑まったく少年そのものというべき童顔と︑ほっそりした︑し
なやかな姿態に若さが表現せられている︒
いったい︑どうして七世紀後半から八世紀初頃の人びとは︑こう
した少年ないし青年の顔や姿に︑超越老たる仏・菩薩をつくり表現
したのであるか︒彼らの精神構造は︑どのようであったのか︒
一言にして結論をいうなれば︑おそらく︑超越者の純粋な聖なる
性格を︑未だ世の汚れに染まい少年︑青年の純真性︑純粋性によっ
て表現しようとしたものといえよう︒
論者あるいは︑かれら古代の仏師・技術者は少年︑青年的な表現
を意図せずして︑技術の未熟なためにアルカイック・スマイルが生
じたように︑少年的な顔貌をつくったというかもしれない︒
しかし︑白鳳︑天平の諸像の造形の技術はすばらしく高度であり︑
決して未熟なためにそうなったとは考えがたい︒
それでは天平中期から平安時代以降︑近代にいたるまでなぜ︑他
の時代においては︑そうした少年ないし青年的表現が︑超越者の制
作においてあらわれて来なかったのであろうか︒
それは︑やはり超越者についての理念︑精神構造が時代によって
異っていたからとせねばならないのではないか︒
それにしても飛鳥未白鳳︑天平初期の諸像のどういう表現手法が︑
少年︑青年らしい印象をあたえることに成功しているのか︒
その第一の理由は頬の表現である︒とくに下頬のふくらぷの豊か
一 ハ ー ニ
ところが︑青少年の下頬は緊張した強い弾力に富むふくらゑであ
る︒白鳳様式の仏像の顔は︑この青少年の下頬のはりきったふくら
ゑの秘密をよくとらえている︒後代の彫刻で︑これほど巧に青少年
の顔を活写しているものは︑ごくわずかしかない︒
そのわずかな若干例としては例えば︑浄瑠璃寺の須弥壇の右端に
こんからおかれている不動明王の脇侍の衿褐羅童子︵鎌倉時代︶や︑高知・雪
躍寺にある湛慶作︑善胤師童子の像︵鎌倉時代︶のごときをあげるこ
とができる︒
さらに青少年像の感じを表現するものは︑まぶたのふくらゑ︑眼
の下のかすかなふくらゑ︑そして口の大きさが比較的小さいことで
ある︒さらにいえば︑下顎の小さいことである︒
姿態でいえば︑腕が比較的長く︑ほっそりとしなやかにつくられ
ていること︑また︑胴が比較的細くつくられていることなどをあげ
ることができる︒
また胸部は余りゆたかなふくら承を持たない︒その反対は平安初
期の晩唐様式の諸像でゆたかな胸のふくらゑと︑腹部のふくらゑの
間に強いくびれをぷせ︑腹部はさらにその下でもう一段のくびれを
ふせる︒こうした肉附きの誇大な表現は︑大腿部あたりでも顕著で
ある︒顔面でも︑平安初期の像は肥大という感じにあらわされるこ 垂れさがったような感がある︒
ところが︑青少年の下頬は錘 ざである︒下頬のふくらゑは︑ふとった壮年や初老の人にもよく承られるが︑老いた人の下頬のふくらゑは皮層がゆるゑ︑雛がより︑
さきに私は白鳳様式の作者たちが︑仏菩薩のような超越者を青少
年に表現したことは︑その純真性︑無垢にして汚れなき清らかさを
少年のそれを借りて表現しようとしたものと考えた︒
しかし︑思惟という点からいえば︑少年︑青年は未だ熟しない︑
幼稚さを脱しきれない段階である︒種々の経験をへて内面的な苦闘
・葛藤のうちに練られ︑思惟を重ねて︑開悟・解脱の境地に達する
のは老年になってからのことが多い︒
中世の禅師の祖師の頂相︑肖像画︑肖像彫刻の多くのものは︑老
年の人を円熟した相において表現している︒
古代の肖像彫刻においても︑岡寺蔵の国宝義淵僧正坐像のごとき︑
顔は級だらけで︑その一つひとつの雛がふかく刻まれ︑この高僧の
老熟の相をしめしている︒それほどでなくても︑奈良時代に属する
と考えられる法隆寺夢殿の行信像︑同じところにある道熔律師像︑
唐招提寺開山堂の鑑真像︑また︑平安時代にさがるが︑東大寺開山
堂の良弁像なども義淵ほどの老いた姿ではないが︑やはり老成した
姿につくられている︒
日本人は超越者としての神をどのように考えていたか︒われわれ
は︑とかく神は老人の姿で考えがちである︒能楽の﹁高砂﹂に出現 とが少くない︒こうなると︑それらの像は壮年ないし初老の感じを見るものにあたえることになる︒ 六四
する住吉明神などは翁の面をかぶって顕現する︒およそ能楽でもっ
とも重んぜられる﹁翁﹂は︑神出現儀礼の古体を存するものであり︑
これが歌舞伎の寿式三番更になってゆくが︑いずれも翁の面をかぶ
って舞う︒
神を老翁の形で考えるのは︑どうも鎌倉時代ごろからではなかろ
うか︒そして︑室町時代に定着するようにおもわれる︒鎌倉時代と
いうのは︑あるいは平安末期にさかのぼってもよいかもしれぬ︒
しかし︑松尾神社蔵の神像をはじめ︑平安初期からつくられるよ
うになった神像彫刻はいずれも男神は衣冠束帯の姿で︑女神は十二
単衣ふうの衣裳をつけているが︑いずれも老翁・老婦というよりは
壮年の姿であらわされるものが多い︒
平安末期から鎌倉時代︑室町時代にかけて多くつくられた春日曼
茶羅や熊野曼茶羅のような︑神を絵画にえがいた作品類でも︑神像
の多くは壮年にあらわされ︑八幡神の傍の武内宿禰のごときものが
老人であるにすぎない︒
日本で超越者が老熟した精神の完成者でなければならぬ︑したが
って形体も老人風に表現されねばならないと考えるのは︑それほど
古いことではないように思われる︒
超越者がとるところの思惟するという静的な沈潜︑黙考︑瞑想の
行為の姿を︑精神は未熟ながら活動的︑能動的であるべき青少年の
形体で表現したことは矛盾といえよう︒
白鳳様式の彫刻は︑その矛盾を見事な統一ある調和につくりあげ
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ た︒それは静的な姿の像であるが︑その静は青少年的な張りきった顔と姿体をもつがゆえに︑動と力とをそのうちに充分に秘め︑承なぎらせている印象をあたえるのである︒
そのような活動的エネルギーの潜勢的に満ちあふれた像が︑いわ
ば︑白鳳様式の完成点に達した薬師寺金堂本尊︑薬師三尊像ではあ
るまいか︒
薬師寺金堂本尊薬師像の成立年代については︑後日に評論したい
と思うが︑白鳳時代とすることには問題がある︒ここでは養老・神
亀時代までは白鳳様式の行われた時代と考えている︒
この像においては︑興福寺東金堂の旧山田寺講堂仏頭の青年性と
極度に充実した緊張感を持続しながらも︑一歩︑成熟へとすすんで
いる︒青年性から壮年性への過渡期をおもわせる︒
そして壮年的風貌へ入り︑しかも力の充実を失わないのが天平前
期の代表的・完成的作品といえる東大寺三月堂本尊・不空鶇索観音
像といえるのではないか︒
天平期に入ると︑ほとんど半珈思惟像がつくられなくなるが︑こ
れはどうしたことであろうか︒
東大寺に白鳳後期とも天平期ともいわれる半珈思惟の小像がある︒
もと戒壇院にあったという︒童顔で胴がほそくくびれて︑かすかな
ほほえゑとも︑かすかな憂愁ともいえる表情をたたえた優作である︒
衣のひだがふかく刻まれている︒印象ふかい作品である︒
もはや天平期の人々にとって︑仏なる超越者は思索するものでは
六五
なくなったのであろうか.
わたくしは︑基準作としての法隆寺釈迦三尊像から出発して︑同
金堂薬師像︑ついで夢殿救世観音像︑さらに百済観音像や太秦広隆
寺半珈思惟像︑中宮寺半珈思惟像などの様式史的な発展と美意識の
展開をあとづけてきた︒それとともに︑飛鳥仏の笑いといわれるも
のや︑半珈思惟という形式の機能的な意味や︑青少年的な表現の芸
術的意味などを考えてふた︒飛鳥様式から白鳳様式への発展の過程
をいま一度重なるようだが︑概観しまとめて承よう︒
基準作品とその類例にゑられた︑煩噴なまでに細ごまとした折目
正しくととのえられた衣のヒダをはじめ︑厳しい様式︑人に近づき
難さ︑強さを感ぜしめる彫の深い線︑また眼や口などの不可思議な形
によって超越者としての神秘性を強めていたのが飛鳥様式であった︒
そうした厳格性︑斉整性が次第に煩墳性を失って自由となり︑簡
素となり︑単純となりはじめた︒神秘さを失いはじめた︒ゆるやか
となった︒明るくなった︒柔かになった︒これが日本化であるとは
かんたんにいい切れない︒しかし︑多くの外来文明の諸般の事物が
単純化され︑平明化される例は他に少くない︒あるいは︑中国の六
朝風の仏像の表現様式も日本化の過程をたどるのが︑白鳳・天平様
式への過程といえるかどうか︒
簡素性︑単純性は垂直的な高さを強調する百済観音や救世観音な 十四 どのぱあいに︑清らかさ︑崇高性の精神と知的な聡明さとを超越者の理想的イメージとしてもりこんでいった︒
それとともに仏像の身体のプロポーションは︑法隆寺金堂釈迦や
薬師像の不均斉な頭でっかちな像から︑次第に人間の写実のプロポ
ーションに向っていった︒
また身体の肉の表現が次第にふくらゑをもち︑かつてただ単に抽
象的に人間の身体の形をあらわすにすぎなかったものが︑形に具体
性をあたえられ︑したがって官能性をあたえられてきている︒
それは身体全体のポーズの堅さにもかかわらず︑いろいろな運動
性︑また立体性をもちはじめて︑こまかな動きすら︑表現されはじ
めていることにもふられる︒
平面的観照をすてて奥行性をもってきていること︑側面観が考慮
されるようになってきたことも︑抽象的平板性から具体的写実性へ
の動向とあい応ずる︒
飛鳥様式の衣のヒダが堅い折目正しさから︑やわらかな簡素で白
鳳様式の自然なヒダヘうつりゆくことも肉体描写の写実性を助けて
いる︒飛鳥様式の不自然な口の形や眼の形がつくり出した神秘的な笑を
通じての承︑わずかに人間的な感情の通路をあたえていたものが︑
いまや︑杏仁形の眼はより細い︑うつむきかげんの静かに閉じるよ
うにさえ承えるくらい瞑想的で知的な眼となり︑変った︒
口は不自然な仰月形ではなく︑自然に近い口もとの笑が︑唇の中 一ハーハ
央のくぼゑや両端における頬との間のくぼみ︑頬の筋肉の弾力性の
あるふくらふとなってうつし出されている︒
それは︑より人間的なやさしいほほえゑにかわってきている︒
百済観音や中宮寺また広隆寺の半珈思惟像のいずれにもゑられる
ょうに︑顔全体のつくりは︑やや面長になったものがある一方で︑
岡寺の半珈思惟像や新薬師寺香薬師︑鶴林寺聖観音などのような︑
面長でない顔の短い頬のふくらゑの強く︑小児のような童顔に象え
る諸像がある︒
前者のように面長の方がやや成熟し︑年長の顔にみえる︒成熟と
いっても︑大人にまで熟さない乙女のような顔なのである︒肉体も
充分でないかすかなふくらゑと︑ほっそりした姿態・手足が乙女を
おもわせる清純さをしめす︑なだらかな曲線なのである︒
半珈思惟像のふしめ加減の顔立ち︑とくに中宮寺像よりも広隆寺
像のそれの方がよりふし眼であるが︑女性的な感覚を一層つよくあ
たえている︒
いずれにせよ︑七世紀中葉の芸術家︑仏師たちが超越者の理想的
なイメージとして︑インドのグプタ朝作家のえらんだような︑成熟
した豊満な官能的肉体を表現せず︑こうした乙女のごとき清純な未
成熟の肉体のイメージをえらんだことは注目される︒日本の芸術史
上の他の時代の作品と比較しても︑この時代の作品ほど︑清純で崇
高な作品をつくり得た時代はなかった︒
たとえば︑江戸時代の浮世絵をとってゑても︑歌麿や春信のえが飛鳥様式の基準作例として︑法隆寺金堂釈迦三尊像をあげて︑他
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ く女性はやわらかでこまやかな繊細な線をもって︑ほっそりしたやさしい女性の美しさをえがいている︒白鳳様式の仏像における︑やわらかで繊細な線で︑ほっそりとしたやさしい乙女らしい像をきざ承えがいていても︑美の性質はまったく異なる︒
前者は後者のような崇高性と清純性と知性とがないのである︒な
ぜか︒いたるところの線が後者は鋭く強く︑また折目正しく︑厳格
・端正であって崩れたところがない︒その厳格さ︑端正さは徹底し
ていて︑たとえ多少の肉のふくらゑがあっても崇高さをかたちづく
る︒それが後者の宗教的信仰の所産であるゆえんであろう︒
前者には︑そうしたきびしさ︑折目正しさは全然ない︒官能性は
あらゆる手段を通じて強調されている︒精神が世俗的であり︑折目
正しさを失いきっているのである︒
一言にしていえば︑超越者への敬虚な崇敬帰依の精神をもづて制
作されたものと︑人間的官能の尊重︑惑溺の精神を洗錬し切って制
作されたものとの価値観の相違が︑これほど芸術作品を天地雲泥の
相異に︑異らしめているのである︒
白鳳様式において︑仏像の身体の線やふくら象に人間的な官能的
美への芽生えの指向があったとしても︑それは信仰を破るものでは
なく︑理想的超越者の崇高性︑厳格性と調和を保っていたのである︒
十五
六七
の諸作像は︑これとの比較において論じてきた︒
年号銘を有し︑白鳳様式の基準作例として確実な年代をあげるこ
とができる作品として︑どのようなものがあるか︒
それには前にもふれたことがある︑野中寺金銅半珈思惟像をあげ
たい︒その台座銘は︑
丙寅年四月大旧八日癸卯開記︑橘寺智識之等︑詣中宮天皇大御身
労坐之時︑誓願之奉弥勒御像也︑友等人数一百十八︑是依六道四
生人等︑此教可相之也︑
とある︒
この丙寅年について通説は天智五年︵六六六︶としているが︑まず︑
これはしたがうべきであろう︒
ただし︑これは高さ三十・六の小像であるから︑これまで論じ
てきた等身大の諸像と比較するには︑多少基準作には適しないかも
しれない︒
この像を従前の諸像とくらべてふよう︒これは法隆寺金堂釈迦像
のように︑胴体のわりあいに頭部が非常に大きい︒また手足もわり
あいに大きく︑全体のバランスがとれず古拙である︒そうした幼稚
さにもかかわらず︑裳懸座の衣のヒダは前代の厳格さ︑折目正しさ︑
煩瓊性が失われてゆく過程にあり︑ヒダの上の段などは順次に階段
をなして︑ととのったリズムをもつ形になっている︒
この像の他の一つの大きな特色は︑冠が大きく︑かつやや装飾の
煩瓊なこと︑脚部に梅花様の文様が多くつらなっていること︑裳の かえヒダのはしに連珠文の文様があること︑台座の反り花の連辨にも文様があること︑首および腕におのおの幾重にも珠をまいたこと等︑そうした煩瓊性が各処にゑられるのである︒
しかし︑それは法隆寺金堂釈迦の装飾のごとく︑全体を構成する
線の多様できびしい︑折目正しい煩墳性とはやや異なり︑全体から
いえば︑単純化された姿の中の部分的な煩噴性であり︑装飾性であ
る︒それは仏菩薩の威厳を増す効果としてはたらくものである︒冠
の︑大きく横に張り出したパルメットや︑前にはり出した宝珠文は
そうしたものである︒
それは仏の崇高性をつよめる細さ︑高さ︑素朴な清純さとは相反
する効果をもつが︑絢燗さと大きく横に張り出す点で︑威厳を増す
方向に進んでいる︒
そうした威厳の美感のためには︑とくに量︵ヴォリューム︶と横幅
への張り出しというものが一般に効果をもつ︒それは下手をすると
卑俗になりかねない︒卑俗を救うものは厳格さ︑折目正しさ︑端正
さである︒また彫の深さである︒
この仏像は︑相貌の強く深い線が威厳をつよめる︒また冠は顔の
広い幅をより広く印象づけ︑装飾性によってさらに効果をつよめて
いる︒また像の下部の装飾も同様である︒
しかしなお︑胴部の異常に細いことは︑そうした効果を逆に減殺
し︑かの中宮寺や広隆寺像の胴部を感じさせ︑これらと時代の近い
ことをしめしている︒
六 八
野中寺像の装飾性と威厳性とは︑薬師寺東院堂聖観音像︑同寺金
堂薬師三尊および脇侍像︑鶴林寺聖観音像等への方向に︑進んでゆ
易く︑︒
この像は胴が細いけれども︑胸や腕のゆたかな力あるふくらみ︑
とくに頬のふくらゑは︑法隆寺釈迦や︑中宮寺・広隆寺半珈思惟像
よりも著しくなっている︒
しかし薬師寺薬師三尊や︑白鳳後期様式の標準作とすべき天武十
三年︵六八五︶につくられたと考えられる旧山田寺本尊丈六薬師仏頭
︵興福寺東金堂蔵︶などの白鳳後期諸像の顔︑とくに頬の力強いふく
らみ︑量と幅︑筋肉の緊張感︑力感にはまだまだ遠い︒
薬師寺本尊や旧山田寺仏頭のごとき量と幅と充実した力感・緊張
感が奥行性を伴ってくるとき︑仏の威厳美は完成されたといえよう︒
むろん︑そうした量と幅︑重みの最大限に発揮され︑完成されたの
は天平中期における東大寺大仏の完成であるとはいうまでもない︒
飛鳥様式に乏しく︑白鳳初期様式にもなかった超越者の威厳美へ
の追求が︑しだいに影を濃くしてくること︑そこに︑あらたな時代
の到来を思わせる︒
およそ威厳とは︑政治的権力をもった王者の支配のために必要な
美感である︒欲望を解脱し︑救済と慈悲をむねとする超越者に必須
の美感であるとは考えがたい︒
しかし超越者の理想像として︑こうした美を追求するのは︑信仰
者が帝王や貴族である限り発生してくる要素である︒
飛鳥白鳳芸術精神史研究序説︵承前︶︵横田︶ ヨーロッパ中世のキリスト教美術をみるとき︑幼児キリストや聖
母マリアが玉座にすわり︑王者のような冠をかむり︑豪華絢燗たる
衣裳をきている像を少からずゑかける︒それはキリスト教の本質と
は︑全く相反する︑チグ︿グな奇異かつ滑稽な印象を︑あたえられ
るのであるが︑中世ヨーロッ・︿の封建時代の王侯をはじめ人灸は︑
キリストや聖母の尊貴を表現するには︑こうした冠や衣裳や玉座が
ふさわしいと感じたのであろう︒
人はおのれの世俗における理想的美を︑彼岸の超越者にも投影し
て考えるのである︒
白鳳から天平へという様式史的展開に︑威厳や力感という要素が
増加発展することは︑古代国家の政治権力と階級制の発達が基礎と
なっていると考えることは行きすぎかもしれないが︑間接に人々の
精神構造における美的要求に影響していると考えられはしまいか︒
野中寺像は︑かなり技術的にすぐれた作品であるにもかかわらず︑
半馴思惟像としては︑中宮寺像や広隆寺像ほど芸術的に高く評価さ
れないのは︑半別思惟という瞑想的な思索性︑胴の細さに承られる
清純性と相反する冠の巨大な装飾性や下部の装飾性が不調和である
ためではないか︒
その一方︑薬師寺本尊薬師三尊や旧山田寺仏頭になると︑力感の
充実︑緊張︑重味ある安定感と威厳の美的完成は最高度であり︑な
おかつ︑崇高性の表現も充分であって︑みごとに調和がとれており︑
決して卑俗ではない︒かつまた天平中期以降の諸像のごとき︑暗鯵
六九
以上を通じてかえりふれば︑仏教伝来当初において︑大陸の超越
者である仏の表現の底に秘められた︑高い理想の美に驚いたであろ
う︑わが上代人が︑模倣して作りえたものは何であったか︒
それは︑最初は超越的な美を神秘的・抽象的な︑厳しくととのっ
た美としてとらえた︒しかも一抹の人間味をかすかな笑によって盛
り入れた︒それは仏を畏敬すべきもの︑人間を守り救うもの︑虚仮
なる世間に対し真実なるものとして感じ︑その性格を仏像に表出し
た︒ な憂愁のかげもさしてはいない︒明るさも気力の旺溢もはっきりとゑとめられる︒白鳳様式の完成である︒
野中寺像は︑飛鳥様式から白鳳様式への過渡期において︑諸要素
この調和に欠けるところがあったが︑基準作例としては︑けっして
不適ではないと思われる︒
ほぼ同様に過渡期の作品として岡寺の半珈思惟像がある︒これは
野中寺像の装飾性を単純化し︑量と幅とを持たず︑しかも中宮寺像
よりはやや太い胸をもち︑裳懸座の線を省略して力強い感をあたえ︑
その点︑時代が一歩すすんでいることを感じさせる︒岡寺像はかく
て︑全体の美的調和をとるのに成功している︒威厳性の卑俗な要素
をとり去り︑崇高・清純な要素は愛すべき少年の童顔で成功し︑か
つ次代の力強さの要素は萠芽でとどまっていて︑愛らしさの邪魔に
はならないからである︒ けれども︑そこには整理し切れぬ技術の拙さがあり︑混沌があった︒まもなくそれらは克服されて︑より立体的な奥行のある人間的な肉体の官能性をそなえつつ︑崇高さ︑清純さ︑叡智︑慈悲などが理想的仏のもつべき属性として求められるようになった︒ここには日本芸術精神史において︑あらたな発展があった︒
さらに強く量と幅と装飾性および力強さ︑荘重性をもって威厳の
ある美が︑仏のもつべき属性とされてきた︒仏に対して要求するも
のが私的個人的な信仰よりも︑公的な国家建設上のものとなってき
たからである︒換言すれば︑唐にまなんだ中央集権的な国家の統一︑
建設のために必要な力強いエネルギーに対する欲求を象徴する︒
貴族たちの求める力が国家建設の力であったことは︑仏菩薩像の
宗教的創造に唐風の芸術様式を受容し︑完全に消化したことに承ら
れる︒唐の芸術が力と威厳美の充実を極度におしすすめ︑それに無
比の成功をしめしたものだったからである︒
そこには︑むろん仏の崇高さを理想として追求し︑永遠の理想を
描き出す理想的写実主義があり︑創造しうるだけの技術と財力︑国
力とがあったからである︒この理想的写実主義が崇高さと強い力量
感を調和させるのに成功したところに︑七世紀末八世紀初頭の絢燗
たる花を咲かせた︑白鳳後期・天平初期の貴族文化l日本の古典
文化の精粋が成立した︒仏教受容以来︑二世紀にみたないあいだに︑
超越者・仏を仰ぎ承る理想像を芸術的に表現する美の精神構造の発
展・変遷は︑いちじるしいものがあったのである︒ 七○