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百舌鳥御廟山古墳の被葬者像

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百舌鳥御廟山古墳の被葬者像

著者 十河 良和

雑誌名 関西大学博物館紀要

巻 20

ページ 1‑19

発行年 2014‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/8252

(2)

百舌鳥御廟山古墳の被葬者像

十  河  良  和

一 はじめに

  百舌鳥御廟山古 墳は︑堺市北西部の台地上に展開する百舌鳥古墳群の

ほぼ中央に位置する前方後円墳である︵図一︶︒大正一五︵一九二六︶年︑

当時の宮内省によって作成された測量図によれば墳丘長は一八六メート

ルと計測され︑百舌鳥古墳群では大仙陵古墳︵仁徳天皇陵古墳︶︑上石津

ミサンザイ古墳︵履中天皇陵古墳︶︑土師ニサンザイ古墳に次ぐ四番目の

規模を有している︒墳丘部分は宮内庁によって﹁百舌鳥陵墓参考地﹂と

して管理され︑周囲を囲む濠は現在も共有地として地元自治会の管理下

にある︒  後述するように︑平成二〇年度に宮内庁と堺市による同時調査が実施

された︒ひとつの調査区を管理境界線で宮内庁と堺市が分け合って調査

することにより︑墳丘第一段テラスから第一段斜面︑及び濠内にかけて

の一体的な調査成果が得られた︒その報告は︑まず宮内庁調査区部分が

刊行され﹇宮内庁書陵部 二〇一〇﹈︑次いで︑宮内庁の報告内容を取り

入れて︑堺市教育委員会が報告書を刊行した﹇堺市教委  二〇一一﹈︒堺 市刊行の報告書では︑宮内庁調査区と平面図や断面図が合成され︑堺市職員と墳丘上の調査を担当された宮内庁職員とによって規模・築造時

期・出土遺物に関しての考察が行われた︒また︑埴輪の胎土分析等の自

然科学的分析も成された︒二〇〇メートル級の前方後円墳としては稀な︑

多岐にわたる情報を提供することができたと考えている︒

  筆者も堺市教育委員会が実施した発掘調査︑及び報告書作成に携わっ

たが︑百舌鳥御廟山古墳の被葬者に関しては︑被葬者名の特定につなが

る遺物が出土するわけでもなかったため︑多くの文字を費やすことなく︑

﹁まとめ﹂を執筆したところである︒

  本稿では︑報告書で示された知見をもとに百舌鳥御廟山古墳の被葬者

像について検討を行う︒もとより前方後円墳の被葬者名を特定すること

は︑特に古墳時代中期においては不可能に近いと考えるが︑築造年代や

墳丘規模等から被葬者の属する階層の検討を行い︑被葬者像を抽出する

ことは決して無駄な作業ではないと考えている︒また︑大型前方後円墳

の被葬者像の抽出は︑必然的に畿内政 権の有力構成メンバーの性格をも

示すものになる︒大型前方後円墳の被葬者に﹃記紀﹄に表れる天皇の名

(3)

二 上石津ミサンザイ古墳

上石津ミサンザイ古墳

田出井山古墳 田出井山古墳

大仙陵古墳 大仙陵古墳

いたすけ古墳 いたすけ古墳

土師ニサンザイ古墳 土師ニサンザイ古墳 百舌鳥御廟山古墳

百舌鳥御廟山古墳

百舌鳥大塚山古墳 百舌鳥大塚山古墳

図 1  百舌鳥古墳群分布図(1/20,000)〔白石編 2008に加筆〕

(4)

三 前を求める作業は天野末喜氏や鐘方正樹氏らにより行なわれているが﹇天野 一九九六︑鐘方 二〇〇八﹈︑それに続く規模の前方後円墳の被葬

者像を考えることも畿内政権の実態に迫る一助となろう︒報告書とは別

個の︑一私見であることを断ったうえで︑本稿の記述を進めることとし

たい︒二 百舌鳥御廟山古墳の概容

  百舌鳥御廟山古墳は︑明治三四︵一九〇一︶年一二月九日付で陵墓参 考地に治定されており﹇外池  二〇〇五﹈︑その理由には応神天皇の初葬

地︑あるいは仁徳天皇の后妃が葬られている可能性があったためとされ

ている︒応神天皇の陵であるとの認識はすでに江戸時代後期には流布し

ていた模様で︑近世の堺を描いた絵図には百舌鳥御廟山古墳を﹁應神帝

廟﹂として取り上げたものがある︒これは︑百舌鳥御廟山古墳の墳丘が︑

東方に隣接し応神天皇を祭神とする百舌鳥八幡宮の奥の院として崇敬の

対象となっていたためであると考えられる︒

  墳丘主軸は東西方向に置かれ︑前方部を西に向ける︒百舌鳥古墳群内

で同様の主軸方向を取る前方後円墳には︑土師ニサンザイ古墳︑百舌鳥

大塚山古墳︑いたすけ古墳︑長塚古墳︑城ノ山古墳︑文珠塚古墳などが

あるが︑その多くが百済川・百舌鳥川水系に位置することが共通項であ

る︒この状況については︑百舌鳥川水系を利用する舟運からの眺望が考

慮されたことが理由であると推測している﹇十河  二〇〇三a﹈

  墳丘は︑三段に築かれていることが測量図で明瞭に認められる︵図二・ 三︶︒後円部頂上と前方部頂上には︑主軸線より北に偏して存在する円丘

が測量図に示されるが︑他に類例が認められないことより後世に設けら

れた可能性が高いと考える︒南側のくびれ部には造出しが設けられる︒

  墳丘の周囲には濠が取り巻いているが︑本来はその外側に二重目の濠

が存在したことが調査で明らかになっている︵図二︶︒後円部背面側の発

掘調査では︑二重目の濠は幅約一六メートルで︑墳丘主軸線上に陸橋状

の施設の存在していた可能性が指摘されている﹇堺市教委 一九九四﹈︒

他地点でも︑立会調査により二重目の濠が確認されており︑全周するこ

とはほぼ間違いない︒出土した円筒埴輪が円筒埴輪総論編年第Ⅳ期﹇川

西 一九七八﹈にあたることから︑五世紀代の築造であることが判明し た︒  かつて後円部東側では︑大量の滑石製品を出土した径約五〇メートル

の大型円墳︑カトンボ山古墳が所在しており︑百舌鳥御廟山古墳の陪塚

と推測されている︒二重目の濠に近接して万 もずやま代山古墳が後円部北側に所

在するが︑詳細は不明である︒

三 平成二〇年度の調査成果

⑴ 墳丘規模

  宮内省作成の測量図より︑墳丘長一八六メートルの前方後円墳とされ

てきた百舌鳥御廟山古墳であったが︑宮内庁が新たに作成した測量図︵図

三︶と今回の調査成果より︑墳丘長は二〇三メートルの数値が示される

とこととなった︒墳丘主軸線上での墳丘裾は確認できなかったが︑二〇

(5)

四 図 2  百舌鳥御廟山古墳全体図(1/3,000)〔堺市教委 1994〕

図 3  第 1 段斜面復元図(1/2,000)〔堺市教委 2011〕

(6)

五 三メートルという数値は各所で検出された墳丘裾位置と第一段斜面の傾斜角度から求められており︑この数値を下回ることはない︒後円部径は一一三メートル︑前方部最大幅は一三六メートルに復元され︑いずれも規模を増すこととなった︒  なお︑墳丘形態に付言すると︑外観上︑南側くびれ部の造出しは明確であったものの︑北側のそれはまったく認められない状況であった︒北側くびれ部の調査区では︑墳丘第一段斜面と︑そこで原位置を留める葺石が検出されており︑造出しが伴わないことが確定した︒

⑵ 築造時期

  築造時期を示す資料として︑第一段テラス上で原位置を留める円筒埴

輪列が検出された︒円筒埴輪の形態は六条七段構成が主体で︑造出し上

に五条六段構成が樹立される︒誉田御廟山古墳と大仙陵古墳では七条八

段構成を採用していたと推測されてお り︑それら超大型前方後円墳出土

例よりも一段分が縮小されたものである︒特徴的な点は︑口縁部高が突

帯間隔よりも著しく狭いものが主体を占めるという形態である︒同様の

口縁部を採用する古墳には︑誉田御廟山古墳︑羽曳野市軽里三号墳︑奈

良市ウワナベ古墳︑城陽市芭蕉塚古墳︑高砂市時光寺古墳︑木津川市上

人ヶ平五号墳などがある﹇田中 二〇〇八︑河内 二〇〇九﹈︒   報告書で円筒埴輪の検討を行われた加藤一郎氏は︑百舌鳥御廟山古墳

の円筒埴輪が誉田御廟山古墳の外濠出土資料より新しく︑大仙陵古墳墳

丘出土資料より先行するものと指摘された﹇加藤  二〇一一﹈︒近年の円

筒埴輪編年である埴輪検討会編年﹇埴輪検討会 二〇〇三﹈に照らせば︑ 誉田御廟山古墳がⅣ期一段階︑大仙陵古墳がⅣ期二段階に位置付けられ

ており︑築造時期としてはその過渡期に置けることとなる︒Ⅳ期一段階

の主な指標はBb種ヨコハケとBc種ヨコハケの併存︑Ⅳ期二段階の指

標は外面調整のBc種ヨコハケへの統一︑百舌鳥古墳群では静止痕間隔

が三センチメートル程度と非常に狭いBc種ヨコハケの盛行である﹇埴

輪検討会編 二〇〇三︑十河 二〇〇三b﹈︒一定量のBb種ヨコハケを含

み︑静止痕間隔の短いB種ヨコハケが極少量しか認められない百舌鳥御

廟山古墳の円筒埴輪は︑型式的にはⅣ期一段階に含むべきものであろ う︒

誉田御廟山古墳外濠と百舌鳥御廟山古墳の突帯間隔が一一・五センチメ

ートル程度を保持するのに対し︑大仙陵古墳では一〇・五センチメート

ル程度に縮小していること︑底部高も前二者が一三センチメートル以上

のものを含むのに対し︑後者は最大でも一二センチメートル程度に低下

していることも︑型式的には誉田御廟山古墳外濠出土埴輪との親近性が

強いことを示している︒

  形象埴輪では︑多様な蓋形埴輪が出土しているが︑主体となるものは

小栗明彦氏の編年による蓋形埴輪編年五段階に相当し︑円筒埴輪編年の

Ⅳ期二段階に並行することとなる﹇小栗 二〇〇七﹈︒蓋形埴輪の時期は

円筒埴輪編年より一段階遅れることとなるが︑なお立ち飾りの紋様に円

筒埴輪Ⅳ期一段階に並行する蓋形埴輪編年四段階に含まれるものがあ

り︑両者の過渡的な位置を占める点で︑円筒埴輪編年と大きな齟齬を来

すものではない︒

  須恵器は造出し周辺でまとまって出土している︒造出しでの祭祀に用

いられたと考えられる二重や︑器台等からなる灰黄色系で軟質な生

(7)

焼け須恵器の一群はTK二一六型式に︑第一段斜面の葺石上に泥炭層が

堆積し始めた時期に意図的に置かれたと推測される直口壷はTK二一六

〜二〇八型式にあたると考えられるため︑概ね墳丘の完成時期はTK二

一六型式期にあると考えたい︒必然的に誉田御廟山古墳外濠出土資料を

標識とする円筒埴輪編年Ⅳ期一段階は︑須恵器編年TK二一六型式期を

含むということになる︒

四 百舌鳥・古市古墳群における百舌鳥御廟山古墳の階層性

⑴ 百舌鳥・古市古墳群の階層性

  百舌鳥御廟山古墳は墳丘長二〇三mで二重の周濠を伴う前方後円墳で あることが明らかになった︒築造時期は円筒埴輪編年Ⅳ期一段階にあた

り︑その中でも新しい様相を示すものである︒墳丘規模では百舌鳥古墳

群で第四位という位置付けに変わりはないが︑築造時期が絞り込めたこ

とによって︑百舌鳥古墳群の序列の中に位置づけることができ︑その階

層性を言及できることとなった︒本章では︑同時期の大型古墳が集中し︑

東へ約一〇キロメートルの位置に展開する古市古墳群も検討対象に含め

て︑百舌鳥御廟山古墳の階層性を考えることとする︒

  百舌鳥・古市古墳群では︑近年の発掘調査の進展により多くの円筒埴

輪が出土しており︑主要古墳の編年的位置付けが概ね確定している︒両

古墳群の前方後円墳について︑埴輪編年による段階を墳丘長の規模ごと

に表したのが表一であ る︒概略を述べると次のようにな る︒ 表 1  百舌鳥・古市古墳群 中期における階層構成

埴輪編年古墳群名 三〇〇級/三〇〇前方後円墳 陪塚の有無 二〇〇級前方後円墳 陪塚の有無 一五〇級前方後円墳 陪塚の有無 一〇〇級前方後円墳 陪冢の有無

期一段階 百舌鳥乳岡古墳︵一五五︶長山古墳︵一一〇︶古 津堂城山古墳︵二一〇︶

期二段階 百舌鳥上石津ミサンザイ古墳︵三六五︶百舌鳥大塚山古墳︵一六八︶﹇永山古墳﹈︵一〇四︶

古 仲津山古墳︵二九〇︶ 野中宮山古墳︵一五四︶古室山古墳︵一五〇︶ 大鳥塚古墳︵一一〇︶二ツ塚古墳︵一一〇︶

期一段階 百舌鳥御廟山古墳︵二〇三︶いたすけ古墳︵一四六︶古 誉田御廟山古墳︵四二五︶墓山古墳︵二二五︶はざみ山古墳︵一〇三︶

期二段階 百舌鳥大仙陵古墳︵四八六︶田出井山古墳︵一四八︶古 

期三段階 百舌鳥土師ニサンザイ古墳︵二九五︶長塚古墳︵一〇六︶

古  市野山古墳︵二三〇︶軽里大塚古墳︵二〇〇︶

期一段階 百舌鳥古 岡ミサンザイ古墳︵二四二︶

(8)

七   百舌鳥・古市古墳群築造の嚆矢となるⅢ期一段階では︑古市古墳群で

は津堂城山古墳︑百舌鳥古墳群では乳岡古墳が造られる︒両古墳を前期

末に位置付ける意見も根強いが︑鰭付円筒埴輪の中に底部高の低い一群

や外面二次調整にB種ヨコハケ技法の加わる様相は︑津堂城山古墳の副

葬品に帯金式甲冑が含まれることとともに中期の開始を示すものと位置

付けて良い︒

  Ⅲ期二段階では︑河内平野最初の大王墓として︑百舌鳥古墳群で上石

津ミサンザイ古墳が造られる︒古市古墳群の仲津山古墳︵仲姫皇后陵古

墳︶はほぼ同時期の築造と推測している が︑上石津ミサンザイ古墳とは

多少の前後関係が生じているかもしれない︒その確定は今後の埴輪資料

の充実を待つほかない︒百舌鳥古墳群では約一七〇メートルの百舌鳥大

塚山古墳︑可能性として一〇〇メートル級の永山古墳︑古市古墳群では

一五〇メートル級の野中宮山古墳︑古室山古墳︑一〇〇メートル級の大

鳥塚古墳︑二ツ塚古墳が築造されており︑さらに帆立貝形墳も含めると

双方の古墳群で四階層に及ぶ前方後円系墳が造られている︒

  Ⅳ期一段階では︑全国第二位の誉田御廟山古墳が造られる︒同段階に

おける古市古墳群では後述するように二二五メートルの墓山古墳が誉田

御廟山古墳に先行して完成するようだが︑それに次ぐ規模の古墳は一〇

三メートルのはざみ山古墳となり︑一五〇メートル級の古墳が欠落する︒

百舌鳥古墳群では大王墓級の大型古墳の築造が行われず︑古市古墳群の

前方後円墳の隙間を縫うように本稿の主題である二〇〇メートル級の百

舌鳥御廟山古墳︑一五〇メートル級のいたすけ古墳が造られる︒当段階

では︑二つの古墳群毎で均質な階層構成をとるように前方後円墳を造る のではなく︑両者を一体の古墳群として扱い︑規模の異なる前方後円墳を振り分けた観がある︒百舌鳥御廟山古墳の占める位置については後で詳述する︒  Ⅳ期二段階に至って︑全国最大の前方後円墳として︑百舌鳥古墳群に

大仙陵古墳が造られる︒さらに一五〇メートル級の前方後円墳である田

出井山古墳︵反正天皇陵古墳︶が造られるが︑古市古墳群では目立った

造墓活動が行われていない︒また︑百舌鳥古墳群では大仙陵古墳の完成

に合わせるように大仙陵古墳周辺の陪塚群や中小の単独墳が完成してお

り︑古墳築造への労働力の投下が百舌鳥古墳群に集中していた観を受け

る︒この点でも︑百舌鳥・古市古墳群の造営は︑個別に計画・実施され

たものではなく︑両者を一体的・計画的に扱っていたことを想起させる︒

  Ⅳ期三段階においても大王墓は百舌鳥古墳群で造られる︒土師ニサン

ザイ古墳が大王墓となるが︑もはや百舌鳥古墳群では二〇〇メートル級

以下の前方後円墳は造られない︒古市古墳群では︑二〇〇メートル級の

市野山古墳︵允恭天皇陵古墳︶と軽里大塚古墳︵日本武尊白鳥陵古墳︶

が造られるが︑それより下位の前方後円墳の築造は行われず︑両古墳群

ともに下位の古墳との規模の差が顕著となる段階である︒二重周濠を巡

らせ︑周辺に多くの陪塚を従える墳丘長二三〇メートルの市野山古墳を

大王墓とみなす意見もあるが︑三〇〇メートルを超えることになると推

測される土師ニサンザイ古墳の墳丘規模と隔絶すること︑僅かな差では

あるが次段階の大王墓である岡ミサンザイ古墳よりも墳丘規模が劣るこ

とより︑従えない︒百舌鳥・古市は一体の古墳群と扱われていたと考え

るので︑大王墓たる第一階層の土師ニサンザイ古墳が百舌鳥に︑第二階

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層の市野山古墳が古市に振り分けられたと位置付ける︒

  Ⅴ期一段階では︑百舌鳥古墳群での大型古墳の築造は停止しており︑

大王の墓域としての役割を終えている︒大王墓は古市古墳群の岡ミサン

ザイ古墳︵仲哀天皇陵古墳︶であるが︑その他に目立った規模の古墳は

築造されず︑下位の古墳との階層差がいっそう隔絶したものとなってい

る︒Ⅴ期一段階は︑突帯設定技法を伴うⅣ群系の円筒埴輪と︑突帯設定

技法と外面二次調整を省略したⅤ群の円筒埴輪が共伴する段階としてい

る︒岡ミサンザイ古墳は︑墳丘内に樹立される円筒埴輪でB種ヨコハケ

を施すⅣ群が一定量を占めるようである︒Ⅳ期三段階と大きく時期を隔

てない可能性があり︑Bd種ヨコハケを多用しⅣ期三段階でも新相と考

えられる軽里大塚古墳との時期差をどの程度に見積もるか︑検討してい

く必要があるだろう︒検討が進めば︑段階をまたぐものの古墳造営者と

しての意識は︑岡ミサンザイ古墳を第一階層︑軽里大塚古墳を第二階層

と捉えていたと考えることも可能かもしれない︒

  Ⅴ期一段階以降︑古市古墳群では第一階層を一二〇メートル級の前方

後円墳が占めることとなり︑墳丘規模の縮小化が著しくなる︒場所を隔

てた摂津東部では︑真の継体大王墓と目される今城塚古墳が一九〇メー

トルの墳丘と二重周濠で造られることとなり︑畿内政権内における何ら

かの変動を表出した現象であると考える︒

⑵ 百舌鳥御廟山古墳の階層性

  前節で︑百舌鳥・古市古墳群における墳丘規模から見た階層構成を概

観した︒では︑Ⅳ期一段階において︑百舌鳥古墳群での第一階層︑両古 墳群を一体と見たときでは第二階層に位置付けられる百舌鳥御廟山古墳の性格はどの様に捉えられるであろうか︒また︑埴輪の出土品等からどの様な性格がうかがえるだろうか︒  Ⅳ期一段階では︑まず墓山古墳が完成を迎え︑その後︑全国第二位の

誉田御廟山古墳の墳丘が完成する︒中堤上の円筒埴輪は順次樹立されて

いったようで﹇一瀬 二〇〇〇﹈︑中堤における埴輪樹立の新しい段階と

同時期に百舌鳥御廟山古墳の墳丘にも円筒埴輪が樹立されたと考えられ

る︒Ⅳ期一段階の時間幅の間で複数の大型前方後円墳が若干ずつの前後

関係をもって造られたことがうかがえるが︑両古墳の被葬者は活動時期

が同じか︑重複していた可能性が高いと考える︒百舌鳥古墳群と古市古

墳群に第一階層と第二階層の前方後円墳を振り分けて造営するのは︑Ⅲ

期二段階︑Ⅳ期三段階と同じ状況である︒

  それでは︑全国的に視野を広げた場合︑百舌鳥御廟山古墳の占める位

置はどの様なものであろうか︒

  表二は︑墳丘長一九〇メートル程度までの前方後円墳を順に並べたも

のに︑埴輪検討会編年を付したものである︒古墳時代全体を通してみれ

ば︑墳丘長二〇三メートルの百舌鳥御廟山古墳は第三二位程度にランク

される︒その中で︑Ⅳ期一段階に限ってみれば︑百舌鳥御廟山古墳は第

七位にランクされる結果となった︒

  ただし︑同段階の墓山古墳はその完成が誉田御廟山古墳より遡る可能

性があり︑百舌鳥御廟山古墳自体も誉田御廟山古墳の外堤整備時に墳丘

の完成時期があるとみられ︑同じ時期区分となるにしても︑若干の前後

関係があることは注意する必要がある︒いずれにしても︑畿内における

(10)

表 2  大型前方後円墳墳丘規模・築造時期一覧表

順位 古墳名 墳丘長 所在地 埴輪編年

1 大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳) 486 大阪府堺市 Ⅳ−2

2 誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳) 425 大阪府羽曳野市 Ⅳ−1 3 上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳) 365 大阪府堺市 Ⅲ−2

4 造山古墳 350 岡山県岡山市

5 河内大塚山古墳 335 大阪府羽曳野市・松原市 未使用

6 五条野丸山古墳 320 奈良県橿原市 未使用

7 渋谷向山古墳(景行天皇陵古墳) 300 奈良県天理市 Ⅱ−1

8 土師ニサンザイ古墳 295 大阪府堺市 Ⅳ−3

9 仲津山古墳(仲姫皇后陵古墳) 290 大阪府藤井寺市 Ⅲ−2

10 作山古墳 286 岡山県総社市

11 箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命陵古墳) 278 奈良県桜井市 Ⅰ−1 12 五社神古墳(神功皇后陵古墳) 267 奈良県奈良市 Ⅲ−1

13 ウワナベ古墳 255 奈良県奈良市 Ⅳ−1

14 市庭古墳(平城天皇陵古墳) 250 奈良県奈良市 Ⅲ−2

15 行燈山古墳(崇神天皇陵古墳) 242 奈良県天理市 Ⅰ−5 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳) 242 大阪府藤井寺市 Ⅴ−1

17 室宮山古墳 238 奈良県御所市 Ⅳ−1

18 メスリ山古墳 235 奈良県桜井市 Ⅰ−3

19

西殿塚古墳(手白香皇女陵古墳) 230 奈良県天理市 Ⅰ−2

宝来山古墳(垂仁天皇陵古墳) 230 奈良県奈良市 Ⅱ−1

市野山古墳(允恭天皇陵古墳) 230 大阪府藤井寺市 Ⅳ−3 22 太田茶臼山古墳(継体天皇陵古墳) 226 大阪府茨木市 Ⅳ−1

23 墓山古墳 225 大阪府羽曳野市 Ⅳ−1

24 巣山古墳 220 奈良県北葛城郡広陵町 Ⅲ−1

25 ヒシャゲ古墳(磐之媛皇后陵古墳) 219 奈良県奈良市 Ⅳ−3

26

築山古墳 210 奈良県大和高田市 Ⅱ−1

津堂城山古墳 210 大阪府藤井寺市 Ⅲ−1

西陵古墳 210 大阪府泉南郡岬町 Ⅳ−1

太田天神山古墳 210 群馬県太田市

30 佐紀石塚山古墳(成務天皇陵古墳) 204 奈良県奈良市 Ⅲ−1

コナベ古墳 204 奈良県奈良市 Ⅲ−2

32 佐紀陵山古墳(日葉酢媛皇后陵古墳) 203 奈良県奈良市 Ⅱ−1

百舌鳥御廟山古墳 203 大阪府堺市 Ⅳ−1

34

摩湯山古墳 200 大阪府岸和田市 Ⅱ−2

島の山古墳 200 奈良県磯城郡川西町 Ⅲ−1

新木山古墳 200 奈良県北葛城郡広陵町 Ⅲ−2

宇度墓古墳 200 大阪府泉南郡岬町 Ⅳ−2

軽里大塚古墳(日本武尊白鳥陵古墳) 200 大阪府羽曳野市 Ⅳ−3

茶臼山古墳 200 大阪府大阪市 未確認

40 網野銚子山古墳 198 京都府京丹後市

41 川合大塚山古墳 197 奈良県北葛城郡河合町 Ⅳ−2

42 桜井茶臼山古墳 195 奈良県桜井市 未使用

43 五色塚古墳 194 兵庫県神戸市 Ⅱ−2

両宮山古墳 194 岡山県赤磐市 未使用

45

今城塚古墳 190 大阪府高槻市 Ⅴ−3

御墓山古墳 190 三重県伊賀市

神明山古墳 190 京都府京丹後市

*埴輪編年欄の

印は、埴輪検討会編年の検討対象になっていないもの。

*墳丘長は、所在する地方公共団体が主に採用する数値を採用した。

(11)

一〇

Ⅳ期一段階に築造された古墳で第七位に位置するということは︑被葬者

が政権内で占めた位置を墳丘規模が表すと考え得るならば︑政権内でか

なり高位の人物であったことがうかがえる︒畿内以外の地を対象とする

と︑岡山県の造山古墳︑及び作山古墳がⅣ期一段階に近しい時期の築造

と推測さ れ︑吉備の在地勢力が畿内政権の有力構成メンバーに比肩する

墳墓を築き得ているが︑それらを含めても︑百舌鳥御廟山古墳の被葬者

が当該時期における畿内政権の構成メンバーのうち︑十指に入るような

人物であったことが推測できる︒

  その他の古墳の分布についてみると︑第二位のウワナベ古墳が奈良盆 地北部の佐紀古墳群︑第三位の室宮山古 墳が奈良盆地南西部︑第四位の

太田茶臼山古墳が摂津東部の淀川右岸︑第五位の墓山古墳は古市古墳

群︑第六位の西陵古墳が和泉最南部と︑畿内各地に点在する傾向が認め

られる︒前段階のⅢ期二段階においては︑第一位と第二位が百舌鳥・古

市古墳群に築造される以外は︑佐紀古墳群に市庭古墳︑コナベ古墳がラ

ンクされるのみであるため︑Ⅳ期一段階における大型前方後円墳は築造

数を大きく増やし︑その配置が畿内の要所に配されているごとくにもう

かがえ︑対照的なあり方を見せる︒白石太一郎氏が強調される︑前方後

円墳の築造場所は被葬者の本願地であるとの考えに立つのであれば﹇白

石 二〇〇八﹈︑Ⅳ期一段階における畿内政権の有力構成メンバーは︑畿

内の広い範囲から輩出されていたこととなる︒

  そのような状況下で︑百舌鳥御廟山古墳は百舌鳥古墳群に造られる︒

白石太一郎氏は︑古墳の築造場所は被葬者の本願地が選ばれるとし︑百

舌鳥・古市古墳群もその例外ではないとの立場を取られるが﹇白石 二〇 〇八﹈︑こと百舌鳥古墳群においては︑その定義を当てはめることは出来

ないと考えている︒詳細は別稿を準備したいが︑弥生時代末から継続す

る集落の変遷を追っても︑和泉北部の石津川流域の地域が大王を輩出す

る勢力を抱えていたとは考えられない︒百舌鳥古墳群は︑大阪湾におけ

る海上交通からの眺望を得るため未開の原野に意図的に設定された︑大

王とその側近達の墓域であったとの立場を取りたい︒

  百舌鳥御廟山古墳はⅣ期一段階において︑規模こそ二〇〇メートル級

前方後円墳の最後尾となるが︑唯一︑百舌鳥古墳群にその築造場所を得

る古墳となった︒被葬者の本願地を考察するよすがは見当たらないが︑

本願地を離れ︑百舌鳥の地に自身の墓を築くこととなった被葬者は︑畿

内政権を構成する有力メンバーの中にあって︑特別の位置を占めていた

人物であった可能性があろう︒

  墳丘に附属する要素にも︑百舌鳥御廟山古墳の特異性を示すものがあ

る︒それは︑二重周濠の附設である︒Ⅳ期一段階第一階層の誉田御廟山

古墳には墳丘の周囲に高低差があるにもかかわらず︑幅の広い二重周濠

が巡らされる︒しかし︑それに続く規模の古墳には明確に二重周濠を備

えるものが存在しない︒堤の外側を画する溝を備える古墳は︑今後の調

査で認められる可能性を残すが︑幅約一六メートルもの二重目の濠を全

周させる古墳が現れることはないと思われる︒Ⅳ期二段階になると︑二

〇〇メートル級の淡輪ニサンザイ古墳や一五〇メートル級の田出井山古

墳に明確な二重周濠が附設されるが︑これは大仙陵古墳を頂点とする階

層構成において大型古墳の築造数が極めて少なくなる状況下で︑第二階

層以下の前方後円墳にまで二重周濠の附設が許された限定的な状況と考

(12)

一一 えている︒Ⅳ期三段階における二〇〇メートル級の軽里大塚古墳︑Ⅴ期

一段階の第一階層にあたる岡ミサンザイ古墳群で︑もはや二重周濠が附

設されないことを考え合わせると︑百舌鳥御廟山古墳に二重周濠の附設

されることがいかに特異なことであるかがわかるだろう︒

  畿内政権内での被葬者の置かれた位置を考えるとき︑墳丘に樹立され

た円筒埴輪も若干の手掛かりを与えてくれそうである︒

  円筒埴輪は︑第一階層の前方後円墳に供給される規格である七条八段

構成から︑一段分を省略しただけの六条七段構成である点が見逃せない︒

百舌鳥御廟山古墳よりも規模の大きい前方後円墳で墳丘における円筒埴

輪の突帯条数をみると︑墳丘長二五五メートルのウワナベ古墳が六条七

段構成︑二三八メートルの室宮山古墳と二二五メートルの太田茶臼山古

墳が四条五段構成であり︑百舌鳥御廟山古墳の円筒埴輪の規格がいかに

高位の段構成を与えられているかということがわかる︵図四︶︒また︑口

縁部高を短く設定する円筒埴輪は誉田御廟山古墳の外濠出土埴輪にも少

量が含まれており︑両古墳の埴輪製作集団に関係のあることがうかがえ

る点も無視できない︒Ⅳ期一段階において同様の口縁部形態を採用する

古墳には︑最大規模の誉田御廟山古墳に加えて第二位のウワナベ古墳が

あり︑第三位以下を差し置いて第七位の百舌鳥御廟山古墳が口縁部高を

短く設定する独特の器形を共有することは︑当該時期の最上位階層の古

墳の被葬者に円筒埴輪を供給した埴輪製作集団が︑百舌鳥御廟山古墳の

埴輪生産にも関与したことを示すものであり︑最上位階層にあたる人物

との関係性の強さを示すものと考える︒

  あと一点︑付言するならば︑被葬者の階層性を墳丘規模とともに最も

誉田御廟山古墳  (2 個体を合成)

誉田御廟山古墳  (2 個体を合成)

ウワナベ古墳 ウワナベ古墳

百舌鳥御廟山古墳 百舌鳥御廟山古墳

室宮山古墳 室宮山古墳

図 4  Ⅳ期 1 段階 大型前方後円墳の円筒埴輪(1/15)

(13)

一二

良く表す指標に埋葬施設が挙げられるが︑百舌鳥御廟山古墳にはそれを

直接示す資料は存在しない︒しかし筆者は︑百舌鳥御廟山古墳の東方に

所在する光明院の境内にかつてあった長持形石棺の長側石片を検討した

際︑それが納められていた古墳を百舌鳥御廟山古墳と推測した﹇十河 二

〇〇四﹈︒長側石の長さを二・三メートルと復元した光明院旧蔵の長持形

石棺は︑群馬県お富士山古墳︵一二五メートル・Ⅳ期一〜二段階並行か︶︑

城陽市久津川車塚古墳︵一五六メートル・Ⅳ期一段階か︶︑葛城市新庄屋

敷山古墳︵一四〇メートル・Ⅳ期三段階︶の長持形石棺と同規模に復元

されるものであり︑それが正しければ蓋石に格子状の彫り込みを持たな

い石棺で︑蓋石の縄掛突起は長辺だけに設けられる突起

0・二型式﹇和 田  一九九六﹈に属する可能性が高いと考えた︒

  Ⅳ期一段階における埋葬施設の内容は︑室宮山古墳が竪穴式石槨+格

子状彫り込みを有する長持形石棺︑墓山古墳が槨は不明であるが格子状

彫り込みを有する長持形石棺︑西陵古墳が槨は不明であるが格子状彫り

込みを有さない長持形石棺という状況となる︒前述の久津川車塚古墳は

南山城において埴輪の窖窯焼成が導入されるⅢ

−Ⅱ式に位置付けられて おり﹇梅本 二〇〇三﹈︑Ⅳ期一段階と近しい時期の格子状彫り込みを有

さない石棺例に位置づけて良い︒

  このように︑Ⅳ期一段階におけるすべての大型古墳で埋葬施設が判明

しているわけではないが︑現在までに明らかになっている石棺を概観す

ると︑墳丘長二二〇メートルを超える古墳には格子状彫り込みを有する

大型の長持形石棺が︑それ以下の古墳には格子状彫り込みを有さない中

型の長持形石棺が採用されるという状況がうかがえる︒Ⅳ期一段階の時 点では︑二〇〇メートル級の墳丘と二二〇メートル以上の墳丘とでは︑

埋葬施設の採用基準に大きな懸隔があったものといえ る︒   百舌鳥古墳群中に築造場所を得た百舌鳥御廟山古墳の被葬者ではある

が︑埋葬施設ではより大規模な前方後円墳の被葬者とは格差が設けられ

ていたものと位置付けられよう︒

五 百舌鳥御廟山古墳の被葬者像

  前章まで︑百舌鳥御廟山古墳の調査成果からうかがい得た︑百舌鳥御

廟山古墳が有する階層性について整理を行った︒本章では︑それらから

導き出せる百舌鳥御廟山古墳の被葬者像の具体化を試みてみたい︒

⑴ Ⅳ期一段階の実年代

  まず︑百舌鳥御廟山古墳の相対的な時期として︑Ⅳ期一段階に含まれ

ることを確認したが︑築造時の時代背景を検討するためにはその実年代

観を明確にする必要がある︒円筒埴輪編年Ⅳ期一段階に並行する須恵器

型式をいずれに当てるのかという課題は︑いまだ決着を見ていない︒こ

れは誉田御廟山古墳の完成時期をいつに求めるかという問題に直結す

る︒

  Ⅳ期一段階に後続する大型前方後円墳を挙げれば︑Ⅳ期二段階が大仙

陵古墳東造出し採集の須恵器甕よりON四六段階〜TK二〇八型式︑Ⅳ

期三段階の土師ニサンザイ古墳がおよそTK二〇八型式に並行するとい

うことは概ね理解されているようである︒先行する上石津ミサンザイ古

(14)

一三 墳の陪塚で︑その二重濠を自身の濠と共有する寺山南山古墳では墳丘からTG二三二型式の須恵器有蓋高杯等が出土することから﹇堺市教委 二

〇一二﹈︑Ⅲ期二段階の上石津ミサンザイ古墳墳丘の完成は須恵器出現直

前か︑降ってもTG二三二型式頃と位置付けられる︒上石津ミサンザイ

古墳は円筒埴輪の状況が今ひとつ明瞭でないが︑百舌鳥・古市古墳群の

Ⅲ期二段階に位置付けられる︑野焼き焼成でB種ヨコハケ調整を行う円

筒埴輪を樹立する古墳は︑その下限を概ねTG二三二型式として誤りは

ないだろう︒

  そうすると︑Ⅲ期二段階に後続するⅣ期一段階は︑TK七三型式から

TK二一六型式に位置付けられることとなる︒これは先に述べた百舌鳥

御廟山古墳出土須恵器の編年観とも概ね一致する︒須恵器二型式分にま

たがる時間幅は長いとも感じられるが︑このあいだに有黒斑と無黒斑の

埴輪が共伴する墓山古墳が︑その後を受けて誉田御廟山古墳︑百舌鳥御

廟山古墳が相次いで完成するものと考えたい︒もとより︑須恵器生産開

始時期で揺籃期ともいえるTG二三二型式とTK七三型式の存続時間幅

は︑その後の型式の存続時間幅より短いものと考えている︒ON二三一

号窯の灰原における甕体部の叩き技法の変遷︵TG二三二型式からTK

七三型式へ︶にも変容の進行の早さが読み取れる﹇堺市教委 二〇〇八﹈︒   以上から︑現在設定されているⅣ期一段階はTK七三型式からTK二

一六型式に並行し︑墓山古墳がTK七三型式期に︑誉田御廟山古墳が外

濠も含めてTK二一六型式期に相次いで完成したものと位置付ける︒百

舌鳥御廟山古墳の完成はTK二一六型式期の新相ということとなる︒で

は︑TK二一六型式の実年代観はどの様な議論が交わされているのであ ろうか︒  TK二一六型式はいわゆる初期須恵器の範疇に含まれるが︑それに先

立つ型式はまさに日本列島における須恵器出現期の段階である︒須恵器

の生産開始年代については︑現在も活発な議論が続いているところであ

り︑TG二三二型式が四世紀末葉に出現したとする意見と︑五世紀に入

ってから出現したとする意見に二分されたまま膠着しているように映る︒

四世紀末葉とする論者は︑宇治市街地遺跡でTG二三二型式の須恵器と

共伴した木製品の年輪年代測定結果が示す年代を重視されており︑五世

紀に入ってからとする論者は︑朝鮮半島出土の陶質土器︑馬具や武具と

の並行関係を重視されるようである︒

  しかし︑生産開始の年代観に相違はあっても︑TK二一六型式の時間

幅についてはあまり大きな意見の違いがないと捉えている︒近年の研究

から引用すれば︑山田邦和氏はTG二三二型式を四世紀末葉に位置づけ

られる一方で︑TK二一六型式とON四六段階を含むTK二〇八型式か

らなるⅠ中期の年代観を五世紀中葉から後葉に置かれるが︑TK二一六

型式は四五〇年以前と考えられているようである﹇山田 二〇一一﹈︒   後者の場合︑白石克也氏はTK二一六〜TK二〇八型式を四三五年ご ろから四七五年頃に求められる﹇白井 二〇〇三a・b﹈︒必然的にTK

二一六型式は五世紀第二四半期を中心とするということになろう︒

  以上のような状況を鑑みると︑今後︑須恵器の実年代論が進むことと

なっても︑TK二一六型式自体の年代観には大きな変更は加えられない

ものと推測する︒

(15)

一四

⑵ 百舌鳥御廟山古墳の被葬者像

  では︑TK二一六型式期が五世紀第二四半期頃で良いとし︑百舌鳥御

廟山古墳の築造時期がその間に含まれるとすれば︑文献が伝える同時代

の人物との照合が可能となる︒﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄に表れる天皇や

豪族には︑五世紀前半から中頃に活躍した人物も含まれる︒しかし︑そ

の実在性や活躍時期の実年代に関する議論が続いている段階では︑具体

的な被葬者名を検討の俎上に上げるのは時期尚早だろう︒

  ﹃記紀﹄と比較検討を行い得る国外の当該時期の文献としては︑宋の歴

史書である﹃宋書﹄がこれまでも数多く取り上げられてきたところであ

る︒﹃宋書﹄巻九七 蛮夷伝倭国条︵﹃宋書﹄倭国伝︶では︑五世紀代に宋

に朝貢した五名の倭国王の名が記される︒いわゆる﹁倭の五王﹂である

が︑五世紀第二四半期に関連するのは︑四二一年・四二五年に遣使を行

った讃︑四三八年の珍︵ただし︑遣使年は﹃宋書﹄本紀文帝紀による︶︑

四四三年・四五一年の済の三名の倭国王である︒彼らの墳墓は︑従来か

ら指摘されているように︑百舌鳥・古市古墳群の各段階における第一階

層前方後円墳のいずれかに求められるのは間違いない︒

  ただし︑倭国王の名と第一階層前方後円墳とを組み合わせるためには︑

前方後円墳の築造に要する時間と︑どのタイミングで築造が開始される

のかという検討が欠かせない︒前方後円墳の築造に要する時間について

は︑大仙陵古墳の築造期間について試算が行われており︑古代工法でお

よそ一六年と示されていることが一つの目安となる﹇大林組 一九八五﹈︒

その試算が首肯されるものであれば︑Ⅳ期一段階の大型前方後円墳は︑

誉田御廟山古墳こそ大仙陵古墳並みの築造期間が必要になる可能性があ るものの︑大仙陵古墳の約二分の一以下の規模となる誉田御廟山古墳より下位の古墳の築造期間は︑一〇年以内に収まるものとみて良い︒五世紀第二四半期でも新しい時期の完成とみられる百舌鳥御廟山古墳は︑その起工も第二四半期の間にあったとみて大過はないであろう︒  では︑その起工時期は被葬者の生涯のどの段階に求められるのであろうか︒﹃日本書紀﹄仁徳紀六七年条には︑生前に陵の位置を定める記事が

あり︑前方後円墳が寿墓であった可能性が示唆される︒ただし︑寿墓で

あったとしても︑被葬者の活動期間のどの段階に起工年代を求めるか︑

被葬者が短命であったか長命であったかで埋葬時期が異なってくるた

め︑その判断には慎重になる必要がある︒

  以上︑不確定要素が多いものの︑百舌鳥御廟山古墳の完成時期が︑Ⅳ

期一段階︑TK二一六型式期でも新しい時期に置かれていることを考慮

すれば︑百舌鳥御廟山古墳の被葬者が活躍した時期の倭国王は︑四三八

年に遣使を行った珍︑あるいは四四三年と四五一年に遣使を行った済で

あった可能性が高いだろう︒

  百舌鳥御廟山古墳の被葬者が珍・済を大王︑最高位とする畿内政権を

構成していたメンバーであったならば︑彼らに関する手がかりもまた﹃宋

書﹄倭国伝に記載されている︒珍による四百三十一年の遣使の際には

﹁珍︑また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんこ

とを求む︒詔して並びに聴す

︒ ﹂ の記載があり︑王族と推測される倭隋

﹇武田 一九七五﹈を含む十三名の人物が︑珍によって仮授された将軍号

を宋に認められている︒

  済による四五一年の遣使の際には︑﹁二十八年︑使持節都督倭・新羅・

(16)

一五 任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事を加え︑安東将軍は故の如く︑ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す︒﹂の記載があり︑二三名の人物に 将軍号と郡太守号が除正されたことが知られる﹇坂元 一九七八﹈︒

  百舌鳥御廟山古墳の被葬者は︑当該時期における第七位という墳丘規

模から︑珍が将軍号の除正を求めた十三名の人物︑あるいは済が﹁軍郡﹂

の除正を求めた二三名の人物の中に入っている可能性が非常に高いと考

える︒あえて言及すれば︑築造開始時期が五世紀第三四半期にかかる可

能性がある済の遣使の際に除正された二三名の﹁軍郡﹂より︑珍の遣使

の際に除正された一三名の将軍がその被葬者である可能性が高いと考え

い︒それが認められるとして︑九州に派遣された王族将軍であったと

推測される倭隋が定員一名の平西将軍に除正された可能性が高いこと

﹇武田 一九七五﹈を考慮すれば︑百舌鳥御廟山古墳の被葬者は征虜・冠

軍・輔国将軍号のいずれかを与えられたものであろう︒畿内地域に限れ

ば七位という墳丘規模の序列を考慮すると︑征虜︑冠軍将軍のいずれか

ということになろうが︑二重周濠を備える外周整備︑円筒埴輪の規格が

高位であること︑何より百舌鳥古墳群中に築造されるという︑より上位

の規模の古墳にはない特殊性を考慮するならば︑平西将軍倭隋に推測さ

れた王族という性格同様︑百舌鳥御廟山古墳の被葬者も珍と血縁関係を

有する王族であった可能性も指摘できるだろう︒そうであれば︑上位の

将軍号を与えられた可能性も否定できない︒いずれにしても現状では︑

除正された将軍号の比定は推測の域を出ないことである︒百舌鳥御廟山

古墳の被葬者が某将軍に除正された際に下賜されたはずの﹁金章紫綬﹂

の将軍章が副葬品として出土すれば解決できる可能性があるが﹇久米 二 〇〇一﹈︑その可能性は非常に低いといわざるを得ない︒よってこれ以上

の憶測は慎み︑その可能性の提示に留めておくこととしたい︒

六 まとめとして

今後の検討課題

  以上︑百舌鳥御廟山古墳の規模︑築造年代︑外周施設や円筒埴輪の規

格から百舌鳥御廟山古墳の被葬者の性格を検討してきた︒Ⅳ期一段階に

おける第七位という墳丘規模から︑畿内政権の有力構成メンバーの一人

であったことは間違いない︒その中でも百舌鳥古墳群の中に築造場所を

与えられた百舌鳥御廟山古墳の被葬者は︑第七位という規模以上の重要

な性格を内包している可能性があると考えた︒また︑四三一年に倭国王

珍が宋に将軍号の除正を求めた一三名の中の一人である可能性が高いこ

とを指摘した︒

  五世紀第二四半期の倭国にあって︑将軍号は﹁倭の支配層に仮授・除

正された称号︵将軍号

−筆者注︶が決して名目的・形式的なものではな

く︑珍の王権による地方支配策の実態に根拠を持つことを推察できる︒﹂

﹇鈴木 二〇〇二﹈と述べられるように︑地方行政官の役割をも担ってい

た︒彼らの墓と推測されるⅣ期一段階の大型前方後円墳が︑主に畿内の

各地域に点在することから︑珍を頂点とする畿内政権の有力構成メンバ

ーが畿内各地の有力首長で構成されていたことがうかがえるだろう︒

  しかし︑Ⅳ期一段階以降の大型前方後円墳の築造状況とそれが示す階

層構成は︑Ⅳ期一段階と大きな差違が表出し︑畿内政権の変容を示唆す

るものとなる︒それを指摘し︑課題を設定することでまとめとしたい︒

(17)

一六   表二を見る限り︑Ⅳ期二段階になって我が国最大の前方後円墳︑大仙

陵古墳が完成する一方で︑同段階に属する大型前方後円墳の数は激減す

ることとなる︒四五一年の済の遣使では︑二三名の畿内政権の有力構成

メンバーが﹁軍郡﹂に除正されるが︑五世紀中頃から第三四半期にかけ

て︑墳丘の規模から彼らの墳墓を推測する作業は︑その候補の抽出が難

しいと言わざるを得ない︒﹃宋書﹄は本紀文帝紀において︑済の第二品た

る安東大将軍への進号を記すが︑﹁軍郡﹂のうちの将軍号が従来通り第三

品にとどまっていたとすれば︑倭国王とそれより下位の政権構成メンバ

ーとの格差は︑宋が認める将軍号の格差とともに前方後円墳の墳丘規模

にも現れているものといえよう︒その点で︑﹃宋書﹄文帝紀が伝える済へ

の将軍号の進号は︑五世紀中頃から後半における前方後円墳の階層性と

整合がとれるものになっていると考える︒このようにみると︑当時の畿

内政権には宋からの除正を基礎とした﹁府官制秩序﹂が布かれていたと

﹃宋書﹄から考えられているが﹇鈴木 二〇〇二﹈︑その内容を前方後円墳

の階層構成から検討を進めることも可能と考える︒

  築造時期と墳丘規模からうかがえる古墳の階層構成は︑Ⅳ期一段階と

二段階の間で大きな転換を見せることとなった︒そこには︑畿内政権内

部における何らかの変容があったに違いない︒その変容の内容を問うこ

と︒それを︑前方後円墳の階層構成から読み取っていくことが今後の課

題となるだろう︒

  最後になるが︑本稿では︑墳丘の築造企画論に検討を及ばすことがで

きなかった︒その検討を行うことで︑大王墓︑及び他の大型前方後円墳

との親近性に言及できる可能性を残した︒今後の重要な検討課題とした い︒  本稿を閉じるにあたり︑百舌鳥陵墓参考地・百舌鳥御廟山古墳の調査を担当された宮内庁書陵部の徳田誠志氏︑清喜裕二氏︑加藤一郎氏︑堺市文化財課の内本勝彦氏︑小谷正樹氏︑遺物の自然科学的分析を担当いただいた奥田尚氏︑三辻利一氏には︑多くのご教示を頂戴したことを明記しておく︒また︑関西大学文学部教授米田文孝先生と関西大学博物館山口卓也氏には本紀要への執筆をお薦め頂いた︒皆様に厚くお礼申し上げる次第である︒

① 埋蔵文化財包蔵地で周知される名称は﹁御廟山古墳﹂である︒ただし︑

本稿では︑同時代の大型古墳群である古市古墳群に所在し応神天皇陵に治

定される﹁誉田御廟山古墳︵応神天皇陵古墳︶﹂を取り上げるため︑それと

の混乱を防ぐため︑﹁百舌鳥﹂の地名を冠することとする︒同様の理由で︑

他古墳にも地名を冠した︒仁徳天皇陵に治定される﹁大山古墳﹂は白石太

一郎氏の意見に従い︑﹁大仙陵古墳﹂とする﹇白石 一九八五﹈︒

② 当時の倭国を統括する構成体をどの様な名称で呼ぶかは議論が分かれて

いるところである︒筆者は︑大型前方後円墳の偏在から構成体の有力メン

バーが奈良盆地︑河内平野以外にも畿内各地に本拠地を置いていた可能性

が高いと考えているところである︒また︑南朝より倭国王と冊封された大

王の権威を認めるにしても︑一時期を除けば格別に突出するものではない

と考えるため︑﹁王権﹂の名称を用いることを躊躇している︒よって本稿で

は︑構成メンバーの墳墓が畿内各地に散在することをもって﹁畿内政権﹂

(18)

一七 と呼称することとする︒③ 誉田御廟山古墳は﹇埴輪検討会 二〇〇〇﹈で七条八段構成であることが

検討されている︒

④ ただし︑誉田御廟山古墳では墳丘内の円筒埴輪の状況が明らかになって

いない︒Ⅳ期一段階は外濠出土資料を標識とするため︑今後︑墳丘内の資

料が明らかになることがあれば︑Ⅳ期一段階の指標を見直さなければなら

ないことは念頭に置いておく必要がある︒実際︑宮内庁が所蔵する朝顔形

埴輪は幅の広い突帯間隔で設定されており﹇宮内庁書陵部 一九八九﹈︑外

濠出土資料より古相を示すものと考える︒古市古墳群中の墓山古墳のよう

に︑野焼き技法と窯焼成技法の埴輪が混在する可能性もあるだろう︒そう

なれば︑Ⅲ期二段階︑Ⅳ期一段階の峻別について︑新たな検討が必要とな

る︒⑤ 出土埴輪の出土量が一定量に足らず︑その時期の位置付けが危惧される

前方後円墳に古市古墳群の古室山古墳︑大鳥塚古墳があり︑百舌鳥古墳群

の永山古墳は埴輪が得られていない︒古室山古墳は︑その埴輪が津堂城山

古墳より新しく︑仲津山古墳より先行することが指摘されているが﹇古市

古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議 二〇一一﹈︑新しい様相を重視して

Ⅲ期二段階に位置付けている︒永山古墳は︑その腰高な墳丘が︑Ⅳ期一段

階以降に偏平な墳丘高が目立つ百舌鳥古墳群では異質である︒墳丘長と比

較して高さを保持する上石津ミサンザイ古墳や百舌鳥大塚山古墳に近しい

時期の築造ではないかと推測している︒

⑥ 筆者はかつて︑百舌鳥・古市古墳群の階層構成について述べたことがあ

る﹇十河 二〇〇八﹈︒その際は︑大型古墳の築造順位に従って八期編年に

よったが︑なお中型前方後円墳について詳細な時期の定まらないものがあ

るため︑埴輪検討会編年に即した時期区分を行った︒ ⑦ 仲津山古墳を大王墓とする意見もあるが︑筆者は採らない︒上石津ミサンザイ古墳の墳丘長との格差が大きいこと︑津堂城山古墳で達成した二重濠の採用が︑仲津山古墳では見送られていることによる︒仲津山古墳は大王墓に次ぐ第二階層の古墳と位置付ける︒⑧ 前稿︹十河 二〇〇八︺では岡ミサンザイ古墳に次ぐ階層の古墳を峯ヶ塚

古墳と考えていたが︑その円筒埴輪はヨコハケ調整を残すものの新しく位

置付けざるを得ないものと考え︑Ⅴ期一段階から外すこととした︒河内一

浩氏のご教示による︒

⑨ 造山古墳出土円筒埴輪は有黒斑と無黒斑が混在する模様で︑Bb種ヨコ

ハケを用いる個体が知られているが﹇安川 二〇一一﹈︑これは畿内におけ

るⅢ期二段階からⅣ期一段階の様相である︒しかし︑底部高が高いうえ突

帯間隔が広く︑埴輪検討会編年をそのまま適用できるものではない︒

   吉備の大型前方後円墳と畿内のそれとの並行関係については︑吉備側の

編年作業を待って検討する必要がある︒

⑩ 室宮山古墳は円筒埴輪総論編年のⅢ期に位置づけられることが多い︒し

かし︑野焼き焼成ではあるもののBc種ヨコハケを含むことや︑突帯間隔

の縮小化をもってⅣ期一段階に降るとする小栗明彦氏の意見に従う﹇小

栗 二〇〇三﹈︒

⑪ ただし︑この状況は畿内周辺地域にまで敷衍できるものではない︒兵庫

県玉丘古墳は墳丘長一〇七メートル︑格子状彫りこみを有する石棺を治め

ていたと推測される同・池田古墳は一三〇メートル以上と︑二二〇メート

ルに満たなくても︑格子状彫り込みを有した石棺を与えられている︒

⑫ 誉田御廟山古墳の築造時期について︑上田睦氏︑小浜成氏はTK七三型

式期に置かれる﹇上田 一九九七︑小浜 二〇〇六﹈︒一方で︑一瀬和夫氏︑

加藤一郎氏はTK二一六型式期に置かれる﹇一瀬 二〇〇五︑加藤 二〇一

(19)

一八

〇﹈︒

⑬ ﹃宋書﹄倭国伝の現代語訳は﹇石原 一九五一﹈によった︒

⑭ 四三八年と四五一年の遣使の間には一三年の開きがあるが︑可能性とし

てはその両方に名を連ねていた可能性もあろう︒

参考文献

天野末喜  一九九六﹁倭の五王の墳墓を推理する﹂﹃倭の五王の時代﹄藤井寺 の遺跡ガイドブック七  藤井寺市教育委員会 石原道博編訳  一九五一﹃新訂 魏志倭人伝 他三篇︱中国正史日本伝︵一︶

︱﹄岩波文庫

一瀬和夫  二〇〇〇﹁応神陵古墳外堤の埴輪﹂﹃埴輪論叢﹄第二号  埴輪検討 会一瀬和夫  二〇〇五﹃大王墓と前方後円墳﹄吉川弘文館 上田 睦 一九九七﹁古市古墳群を中心とした古墳時代中期前半期円筒埴輪

の規格︱玉手山古墳群出土埴輪の理解のための考察︱﹂﹃玉手山古墳群の

研究Ⅰ︱埴輪編︱﹄柏原市教育委員会

梅本康広  二〇〇三﹁山城の円筒埴輪編年概観﹂﹃埴輪論叢﹄第五号  埴輪検 討会大林組プロジェクトチーム  一九八五﹁王陵﹂﹃季刊大林﹄第二〇号 小栗明彦  二〇〇三﹁大和の円筒埴輪編年概観﹂﹃埴輪論叢﹄第五号  埴輪検 討会小栗明彦  二〇〇七﹁蓋形埴輪編年論﹂﹃埴輪論考Ⅰ︱円筒埴輪を読み解く

︱﹄大阪大谷大学博物館

加藤一郎  二〇一〇﹁雲部車塚古墳の埴輪と須恵器︱窖窯焼成導入期の諸問 題︱﹂﹃雲部車塚古墳の研究﹄兵庫県立考古博物館研究紀要 第三号  兵庫

県立考古博物館

加藤一郎  二〇一一﹁第五章第一節 円筒埴輪について﹂﹃百舌鳥古墳群の調 査 五 御廟山古墳︵GBY

−6︶発掘調査報告書﹄堺市教育委員会 鐘方正樹  二〇〇八﹁五世紀の倭王陵﹂﹃王権と武器と信仰﹄同成社 河内一浩  二〇〇九﹁二つの河内・古市型円筒形埴輪︱軽里三号墳出土埴輪 の紹介︱﹂﹃埴輪研究会誌﹄第一三号  埴輪研究会 川西宏幸  一九七八﹁円筒埴輪総論﹂﹃考古学雑誌﹄第六四巻第二号  日本考

古学会

宮内庁書陵部  一九八九﹃出土品展示目録 埴輪Ⅰ﹄学生社 宮内庁書陵部  二〇一〇﹁百舌鳥陵墓参考地 墳丘裾護岸その他整備工事に 伴う事前調査﹂﹃書陵部紀要﹄第六一号  陵墓篇 久米雅雄  二〇〇一﹁﹁倭の五王﹂と将軍章︱東アジアの国家秩序をめぐっ

て︱﹂﹃立命館大学考古学論集﹄Ⅱ 立命館大学考古学論集刊行会

小浜 成  二〇〇六﹁須恵器からみた埴輪・古墳の年代﹂﹃年代のものさし︱ 陶邑の須恵器︱﹄大阪府立近つ飛鳥博物館図録四〇  大阪府立近つ飛鳥博

物館

堺市教育委員会  一九九四﹁御廟山古墳︵周濠部︶発掘調査概要報告﹂﹃堺市

文化財調査概要報告﹄第四四冊

堺市教育委員会  二〇〇八﹁野々井西遺跡︵NNIN

−1

︶・陶邑窯跡群︵O

N231︶発掘調査概要報告︱南区稲葉三丁所在︱﹂﹃堺市文化財調査概

要報告﹄第一二二冊

堺市教育委員会  二〇一一﹃百舌鳥古墳群の調査五 御廟山古墳︵GBY

6︶発掘調査報告書﹄

堺市教育委員会  二〇一二﹁第四章 寺山南山古墳 TYM

−4・

TYM

−1

(20)

一九 次調査﹂﹃百舌鳥古墳群の調査﹄六 坂元義種  一九七八﹃古代東アジアの日本と朝鮮﹄吉川弘文館 白井克也  二〇〇三a﹁馬具と短甲による日韓交差編年︱日韓古墳編年の並 行関係と暦年代︱﹂﹃土曜考古﹄第二七号  土曜考古学研究会 白井克也  二〇〇三b﹁新羅土器の型式・分布変化と年代観︱日韓古墳編年 の並行関係と暦年代︱﹂﹃朝鮮古代研究﹄第四号  朝鮮古代研究刊行会 白石太一郎  一九八五﹁大仙陵と誉田御廟山﹂﹃考古学ジャーナル﹄二五七号 ニューサイエンス社 白石太一郎  二〇〇八﹁倭国王墓造営地変遷の意味するもの﹂﹃近畿地方にお

ける大型古墳群の基礎的研究﹄平成一七年度〜平成一九年度科学研究費補

助金︹基盤研究︵A︶︺研究成果報告書

白石太一郎編  二〇〇八﹃近畿地方における大型古墳群の基礎的研究﹄平成

一七年度〜平成一九年度科学研究費補助金︹基盤研究︵A︶︺研究成果報告

書鈴木靖民  二〇〇二﹁倭国と東アジア﹂﹃倭国と東アジア﹄日本の時代史二 吉川弘文館 十河良和  二〇〇三a﹁百舌鳥古墳群の立地に関する基礎的考察﹂﹃関西大学 考古学研究室開設五拾周年記念考古学論叢﹄上巻  関西大学考古学研究室 十河良和  二〇〇三b﹁和泉の円筒埴輪編年概観﹂﹃埴輪論叢﹄第五号  埴輪 検討会十河良和  二〇〇四﹁堺市百舌鳥赤畑町光明院所在の長持形石棺﹂﹃堀田啓一

先生古稀記念献呈論文集﹄堀田啓一先生古稀記念献呈論文集作成委員会

十河良和  二〇〇八﹁第四章 百舌鳥・古市古墳群の形成過程︵二︶百舌鳥古

墳群﹂﹃近畿地方における大型古墳群の基礎的研究﹄平成一七年度〜平成一

九年度科学研究費補助金︹基盤研究︵A︶︺研究成果報告書 武田幸男  一九七五﹁平西将軍倭隋の解釈︱五世紀の倭国政権にふれて︱﹂

﹃朝鮮学報﹄第七七輯  朝鮮学会 田中智子  二〇〇八﹁ウワナベ古墳系列の埴輪を巡る諸問題︱上人ヶ平五号

墳出土埴輪の検討から︱﹂﹃吾々の考古学﹄和田晴吾先生還暦記念論集刊

行会

外池 昇 二〇〇五﹃辞典 陵墓参考地 もう一つの天皇陵﹄吉川弘文館 埴輪検討会  二〇〇〇﹁応神陵古墳外提出土円筒埴輪の研究﹂﹃埴輪論叢﹄第

二号

埴輪検討会編  二〇〇三﹃埴輪論叢﹄第四・五号 古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議  二〇一一﹃古市古墳群を歩く﹄

第二版

安川 満 二〇一一﹁岡山市所蔵の造山古墳出土埴輪﹂﹃岡山市埋蔵文化財セ ンター研究紀要﹄第三号  岡山市教育委員会 山田邦和  二〇一一﹁須恵器の編年 ①西日本﹂﹃古墳時代の枠組み﹄古墳時 代の考古学一  同成社 和田晴吾  一九九六﹁大王の棺﹂﹃仁徳陵古墳︱築造の時代﹄大阪府立近つ

飛鳥博物館図録八

*紙幅の関係で︑発掘調査報告書の多くを割愛させて頂いた︒ご寛容の程をお

願いしたい︒

図 3  第 1 段斜面復元図(1/2,000)〔堺市教委 2011〕

参照

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