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メディアの倫理とアカウンタビリティ

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メディアの倫理とアカウンタビリティ

著者 渡辺 武達

雑誌名 評論・社会科学

号 70

ページ 23‑65

発行年 2003‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004409

(2)

メディアの倫理とアカウンタビリティ

渡 辺 武 達

目次

はじめに⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

23

一メディア社会と倫理⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

25

一︱1責任の発生とメディアの倫理⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

25

一︱2国家の法と倫理⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

28

二メディアの現状⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

31

二︱1﹁やらせ﹂の構造⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

31

二︱2文化装置としてのメディア⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

35

三メディアの市民監理⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

41

三︱1公的世界と市民原理⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

41

三︱2情報デモクラシー⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

46

注⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

50 EnglishSummary英文概要⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝

64

はじめに

学問としてのメディアの研究はマックス・ウェーバーが﹁新聞の社会学﹂について学会報告をした一九一〇年から始

― 23 ―

(3)

まるという考え方がある︒しかし︑彼とその後のドイツ新聞学は社会とその構成員にとってどういうメディアがプラス

になるかといった観点からの研究を現実的にも理論的にもほとんどおこなわなかったから︑ドイツ新聞学は権力による

メディア利用という︑メディアの社会性の追求を意図的に回避した広報学︑権力の公示学として︑容易にナチス的権力

の利用するところとなった︒また︑マスメディア論は一五世紀のグーテンベルクの活版印刷術の発明から説き起こされ

ることも多い︒が︑現代メディアの︿詐術﹀としての客観報道をとってみても︑紀元前五世紀︑ギリシアの歴史家ツキ

ジデス︵前四六〇ころ〜前四〇〇ころ︶がペロポネソス戦争を扱った﹃戦史﹄で︑﹁たとえ自分が見た事件でも事実の

公平な記述たり得ないし︑目撃者から聞いた話をまとめても︑見る角度で違う﹂と︑報道の視点の問題をすでにとらえ

ているから︑業界のいう﹁不偏不党﹂原理なども商業主義と現実追随主義をおおいかくすものとして︑しばしば使用さ

れているという事実にだけは注意しておかねばなるまい︒

今日必要なのは︑アプトン・シンクレアが﹃ブラスチェック﹄︵一九二〇年︶で︑そしてウォルター・リップマンが

︵3︶﹃世論﹄︵一九二二年︶で書いたような︑言論・表現の自由と政治・経済的権力とのせめぎあい︑オーディエンス︵読

者・視聴者︶の思いこみ︵stereotype︶とジャーナリストの不勉強等によって社会情報環境がどのような

歪みをもって

いるのかをトータルに展望し︑社会全体にとって何がプラス価値か︑何が公共の福祉と安全なのかを常に念頭に置いた

メディア・ジャーナリズム研究であると私は考える︒メディア・リテラシー論一つをとってみても日本だけではなく世

界的にIT︵情報技術︶の革新幻想に惑わされ︑そうした根本的な問題設定が少ない︒さらにはともすれば現状追認に

陥りやすい実証主義だけが科学だと錯覚し︑しかも現在のメディアが表現・伝達しているものだけを分析・調査の対象

にして満足してしまうような学問傾向は是正されなければならない︒

そうした視座から︑本稿ではメディアが社会に対しどのような責任をもっているかを︑メディア・アカウンタビリテ

︵4︶ィをキーワードに説明しておきたい︒ メディアの倫理とアカウンタビリティ

― 24 ―

(4)

一メディア社会と倫理

一︱1責任の発生とメディアの倫理

道徳︵morality ︶は社会の︑そして倫理︵ethics ︶は個人の︿節操﹀とされ︑英語圏でも日本でも︑人間の社会的行為

の善悪あるいは正邪の基準であり︑歴史と社会環境の変化に内容的影響を受けるものの︑根本的枠組においては変わら

︵5︶ない︒この脈絡でいえば︑メディアの倫理とはメディアの諸活動︵mediaactions ︶の善悪︑つまりメディアの﹁オーデ ィエンス︵視聴者・読者︶の知る権利にたいする奉仕﹂という職務的責任︵professionalduty︶に忠実であるかどうかを

判定する基準だということになる︒英米のメディア倫理の教科書の多くはそれを︑オーディエンスのニーズ

にたいし

︵6︶て︑いかにメディアが信頼度の高い情報を提供するかが問われる問題だとする︒とすれば︑メディア倫理の確定には︑

①社会②メディア③責任の三つのキーワードの意味内容が④オーディエンスとの関係のなかで検証されなければならな

いということである︒

メディア学における︿社会﹀は複数の人間があつまり行動する範囲に限定され︑生物学的な群れ概念とはいささか異

︵7︶なる︒この社会は一世代にかぎれば︑同性二人だけでも成立するが︑基本的には男女のペアによっては

じめて永続的

で︑拡大再生産可能なものとなる︒そうした社会生活のなかで︑横には構成員相互でやり取りされ︑

縦には親から子

へ︑子から孫へと伝わるものが文化といわれる︿記号体系﹀︵社会的蓄積情報︶で︑メディアがその形成におおいなる

関係をしている︒とりわけ︑今日のような地球大に展開する社会は小さな社会が多層的に寄り集まって︑多様な形態の

コミュニケーション技術に支えられ︑家族・地域共同体から自治体や国家︑地域統合体や国際機関などを形成︑グロー

バルに情報のやり取りを日常化して形成されており︑多様なメディアの存在なくして円滑に機能しない︒

― 25 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

(5)

個人・組織を問わず︑こうしたネットワークでやりとりされ︑社会構成員をつなぐ何らかの関係行動がコミュニケー

ションで︑伝えあう内容が︿情報﹀︑その情報を伝える手段としての身体の触れ合い・身振り・声・手紙・電話・テレ

ビ︑そして現在生活の必需品となっている携帯電話やパソコンを介した電子メールやインターネットなどが︿メディ

︵8︶ア﹀︵単数はmediumで︑日本語はその複数media が 語 源

︶ と い わ れるものだ

︒ これらメディアが情報を探り

︑ 受 け

編集︑提供し︑その反応を得るという一連の行為の総体が︿メディア活動﹀で︑それが専門性を増して組織的に活動し

ているのが新聞社や放送局である︒またこのコミュニケーションの内容と範囲がその社会の特性と単位を形成し︑二人

だけの社会も地球大の社会も︑その質はメディアの提供する情報の質に左右される部分が多い︒

︿責任﹀については︑自らの行動を意図的におこない︑かつそれを自ら価値評価しコントロールする能力をもつもの︑

つまり人間個々人︑およびそのつくる組織の諸活動においてのみ問われると考えるのが妥当であり︑高度な職業的訓練

を受け︑その遂行を要請され

るメディア組織の従事者

mediaprofessionals

︶ とその諸活動にはたかい

﹁ 社会的責任

と﹁倫理性﹂が生じる︒そして一般的にはその機能として︑メディアが﹁人びとの目となり︑耳となり﹂︑﹁人びとがま

ともな社会参加をするた

めの基礎資料を提供する

﹂︑

﹁ 毅然とした態度で

︑ 権力をチェックする

﹂︵ ウォッチドッグ機

能︶︑﹁災害時に人びとの生命と財産を守る﹂ことなどが要請されており︑その原理はいわゆる個人の日常会話でも︑イ

︵9︶ンターネットや携帯電話のメール送受信でも︑期待値の違いはあれ︑原理的には何ら変わらない︒

今︑日米だけではなく︑先進諸国ではおしなべて︑メディアへの信頼度がゆらいでいる︒アメリカのデータでは︑ネ

ットワーク・テレビの場合︑一九八五年から九三年のあいだに︑テレビを信頼しないというひとが一〇%から二九%と

およそ三倍になった︒問題はテレビほどではないがその傾向が新聞にもおよび︑同期間に新聞を信頼しないひとは一一

%から一八%に増加している︒ メディアの倫理とアカウンタビリティ

― 26 ―

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メディアの建前と実態がかけ離れてきているという指摘はそれ以前からあり︑一九四二年に組織された︑米国シカゴ 大学のプレスの自由委員︵TheCommissiononFreedomofthePress︑通称ハッチンス委員会︶は五年後の一九四七年︑

メディアが政治権力の干渉を受けず︑社会で発言権のない人びとのニーズに応えていくにはきびしい自主規制が必要

だ︑そうでないと権力の介入をまねく︑とする報告書﹃自由で責任あるメディア﹄︵AFreeandResponsiblePress︶を出

した︒これはメディア論として最初の体系的な責任と倫理の議論だが︑大枠として︑メディアの社会的責任の度合いは

社会との関連枠における公共性・公益性︵四三ページの図参照︶の大きさに正比例すると考えられる︒なかにはそれを

﹁マス・メディアが責任をもつのは︑社会における︿表現の自由﹀の確保についてであって︑社会目標の追及一般に責

任を持つと考えるべきではない﹂︑あるいは︑﹁存在の目的に耳を傾けることが︑道徳性の根源である・・・・科学技術

が世界の変化を引き起こす決定的な力になったという現実の中で︑新しい責任の倫理が確立されねばならない﹂といっ

た主張もあるが︑これでは現代メディアの教育・キャンペーンや社会的意見交換の場の提供といった機能が無視される

狭い議論になりかねないし︑技術の発展の重視だけでは︑自主制定した倫理綱領や編集綱領上の表現といちじるしく乖

離した実態にある世界のメディア︑とりわけ日本のそれの根本的な変革論としての実効性をもたないであろう︒

戦前のNHK︵社団法人日本放送協会︶は﹁イデオロギー支配︑世論操縦の手段として︑これほど完璧なコミュニケ

ーション構造はなかった﹂が︑より大きな問題は最新のNHKの自己史︵二〇〇一年刊の﹃二〇世紀放送史﹄︶におい

てもまだ﹁協会自体が国家主義︑軍国主義による言論統制︑報道干渉の犠牲者﹂としてとらえられていることである︒

もちろん︑こうした歴史認識が新聞にも︑さらには戦後生まれの民間放送人たちにも共有されていることは︑政治を例

にとれば︑日本政府が国民の利益に反して結んだ外交上の密約が戦前も戦後も主流メディアからは︿結果として黙認﹀

されてきていることで証明される︒すべては軍部が悪いというそうした史観がさまざまなかたちで引き継がれ︑︿客観

的歴史﹀として日本のメディアの過去史となり︑よく︿闘う﹀ことをしなかった

学者に免罪符を与え

︑ 現在には

︿ 強

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メディアの倫理とアカウンタビリティ

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い﹀が歴史に︿弱い﹀ジャーナリストたちをさらにいっそう︿従順﹀にしている︒メディ

アの社会的責任論について も︑情報格差︵informationgap︶やデジタル・デバイド︵digitaldivide︶が指摘されるように︑最新のコミュニケーショ

ン・ツールへのアクセスは知的・経済的劣位者にはきびしい状況なのに︑技術は万民に平等であるという錯覚を利用し

たメディアの機能論と倫理叙述だけでは表面的にすぎるし︑情報技術の発達のなかで︑さまざまな新しい犯罪なども生

みだされるというマイナス面が社会の安全性を危うくしている事実からも目をそらすことになってしまう︒

一︱2国家の法と倫理

国連︑とりわけユネスコにはメディアと人権︑情報流通の保障︑マスメディアの基本原則などの宣言が多くあるが︑

それらのいずれも強制力をもたないから︑倫理は今のところ︑国家の法との違いにおいてまず対照的である︒日本国憲

法はその九八条で︑﹁国の最高法規であって︑その条規に反する法律︑命令︑詔勅及び国務に関するその他の行為の全

部又は一部は︑その効力を有しない﹂と宣言し︑九九条で﹁天皇又は摂政及び国務大臣︑国会議員︑裁判官その他の公

務員は︑この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ﹂という︒またその前文では﹁国政は︑国民の厳粛な信託によるもので

あって︑その権威は国民に由来し︑その権力は国民の代表者がこれを行使し︑その福利は国民がこれを享受する﹂と規

定する︒つまり放送事業の開始に必要な免許を規定する電波法や︑放送内容等を規定する放送法をふくむあらゆる法律

は﹁国民主権社会の福利﹂を最終目的とした︑守らねばならない法律である︒ところが︑日本の戦前は天皇制という国

家体制の護持のために制定された治安維持法︵一九二五年︶をはじめとする法律によって基本的人権の一つである言論

・表現の自由を奪われていたから︑その当時においてはそれらの法律を破るもののほうに︑今日的社会基準でいう﹁正

しさ﹂があった︒これが政治に影響される司法権力としての国家の法と︑国家枠を離れて人間の生き方を問う倫理との

関係においてむずかしい状況をつくる︒二〇〇二年に国会で議論された人権擁護法案や個人情報保護法案などについて メディアの倫理とアカウンタビリティ

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(8)

も︑﹁国民の知る権利﹂や﹁情報は民主主義の通貨﹂といった立場にたてば︑日本政府が今もなお︑情報公開法︵行政

機関の保有する情報の公開に関する法律︑一九九九年︑法律第四二号︶の成立時に明白になったように︑国民の知る権

利を認めず︑メディアが国民の自由な言論の場になることを好まないことを反倫理的だと考える習慣を国民はつける必

要がある︒

国会を通過する法律はそのときどきの国家体制を反映したものだから︑その内容はかならずしも︑国民・市民の最大

の利益︵市民益︶に奉仕しているわけではない︒それらの反市民性を見抜き︑その是正に努めるべき主体の一つがメデ

ィアだと考えるべきだろう︒強者の利権維持のために制定された法律があれば︑それらを社会全体の構成員の利益とい

う立場から︑糾すべきをただし︑人びとのまともな社会参加のために必要な︑市民が知るべき情報を提供することがメ

ディアには求められる︒その基本になるのが︑アメリカのジャーナリズム質的向上委員会を指導するビル・キャベッジ

らも主張するように︑メディアが国益とさまざまな社会的権力思想からいかに自由になれるかということで︑その自立

・自律を精神的に支えるのが倫理であり︑その活動基準がメディアが自主制定する︿倫理綱領﹀である︒しかし︑その

実行がいかに困難であるかは︑外部からの圧力で起きたこれまでに数多い放送中止番組︑また近いところでは︑湾岸戦

争︵一九九〇〜九一︶や九・一一自爆テロ事件︵二〇〇一年︶で米国政府の視点ですべてを短絡して報道する︑NHK

を筆頭とした日本メディアなどの姿勢と情報提供内容を見れば明らかだろう︒さらには二〇〇二年九月一七日の日本国

小泉純一郎首相と朝鮮民主主義人民共和国︵北朝鮮︶金正日総書記︵会談時の肩書は国防委員長︶との会談で明らかに

なった北朝鮮による拉致問題についても日本メディアの報道が︑国家枠思考一色で︑これまでの日朝関係のすべてが日

本側が被害者であったかのような演出となったこともその例となる︒

メディアの社会的機能は国家の利益に奉仕することではなく︑市民が二度と権力国家の犠牲にならないですむ市民主

権社会を建設するための基礎資料を提供し︑短期的な国益ではなく︑長期的な視点に立っての市民益・人類益︑社会的

― 29 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

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真実にのみ奉仕することであり︑そうした視座からの報道姿勢を筆者は﹁積極的公正中立主義﹂と名づけている︒これ

は︑戦後まもなくの一九四六年七月二三日︑日本新聞協会が制定した倫理綱領のつぎの条項にも関係している︒﹁日本

を民主的平和国家として再建するに当たり︑新聞に課せられた使命はまことに重大である︒これを最もすみやかに︑か

つ効果的に達成するためには︑新聞は高い倫理水準を保ち︑職業の権威を高め︑その機能を完全に発揮しなければなら

中央地方にわたる各版︑レコードなど・告広・画映・出・送放・聞新︑のながれのなかで﹂メディア界全体もそない︒

マスコミ諸団体と関係有力社をもって構成するマス・コミュニケーション倫理懇談会全国協議会を一九五五年に設立

し︑月刊で﹃マスコミ倫理﹄を発行している︒また各業界ごとにも多くの組織的努力をしてきており︑シンポジウムな

ども開催して自己啓発活動もさかんである︒しかし︑放送でいえば︑九三年二月一日の朝刊で朝日新聞が告発し︑全国

紙のすべてが社説でとりあげ︑国会でも指弾され︑特別番組で会長までが謝罪せざるを得なくなった︑NHKスペシャ

ル﹃奧ヒマラヤ︑禁断の王国ムスタン﹄︵放映は九二年秋︶がネパールの辺境地域をドキュ・ドラマ︵ドラマ仕立ての

ドキュメンタリー︶にした﹁やらせ﹂番組︑あるいは民放ではTBSの坂本弁

護士インタビューテープ問題

︵ 九五年

七月︶に典型的なように︑メディアの不祥事は現在まで陸続している︒

メディアだけではなく社会問題一般にそうだが︑不祥事が発覚するたびに﹁倫理の確立﹂や﹁綱紀の粛正﹂などが叫

ばれ︑責任者が頭を下げる︒だが︑これほどの同種問題の連続発生を目にすると︑倫理は叫ばれ︑

謝罪はポーズだけ

で︑関係者は改善に有効な施策を意図的に打ち出していないのではないか︑あるいは倫理だけではどうしようもないほ

ど大きな問題がそれらの背後には隠されているのでないのか︑さらにはこれまでのメディアの責任論︑倫理の議論は有

効なかたちでおこなわれてこなかったのではないかと思えてくる︒

日本の戦時下の新聞や雑誌︑放送などがなぜ言論の自由に依拠した︿メディア活動﹀を発揮できなかったのか︑また

言論の自由とは何かを検討するとき︑﹁一人ひとりがより豊かに暮らせる社会の建設はいかにして可能なのか﹂︑﹁メデ メディアの倫理とアカウンタビリティ

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ィアには社会の医者の側面があるのではないのか﹂といった︑歴史の進歩概念を身につけると同時に︑権力の実相を知

ることが不可欠となる︒その意味でも︑世論形成・社会的意志決定︑はては人間個々人の知性と人格の形成にまで影響

力をもつメディアとジャーナリズムの責任は大きい︒その責任の遂行を保障するものとして︑一般的には強制力をもっ

た①国家や地域統合体の法律や自治体などが制定する条例等︑そして②それらよりもゆるやかで︑行為者自身の自覚・

自制︑自主性に重きをおく︿倫理﹀との二つを人間社会はつくってきたわけである︒

以下︑メディアの情報送出に関する自己責任としての﹁自律的行動基準﹂を︿メディアの倫理﹀とし︑日本のケース

を中心に考える︒

二メディアの現状

二︱1﹁やらせ﹂の構造

テレビはその草創期からきびしい批判にさらされており︑それは︑日本では大宅壮一の﹁一億総白痴化論﹂︑アメリ

カではウォルター・リップマンなどの批判に典型的である︒また日本のメディアが今のままの状態でよいとするものは

メディアの経営者にもすくないし︑とりわけ全国ネットのテレビ番組が市民主権社会の発展に貢献していないではない

かという疑問は日本のメディアだけの問題ではなく︑英米独仏をはじめとするその他の自由主義社会でも一般にみられ

る︒

だが問題は改善努力としての議論の仕方そのものにもある︒放送における﹁やらせ﹂を例にしていえば︑朝日新聞に

よるNHKスペシャルの告発記事をふくめ︑検討の多くが①誤解を招いたり情報操作をする﹁やらせ﹂と︑情報効果を

高めるための演出︑ドキュメンタリー制作に必要な技術︑再現︑構成︑社会常識︑などを区別することなくおこなわれ

― 31 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

(11)

ている︒また︑②全編の偏向や番組制作意図への疑問︑③湾岸戦争時のピンポイント爆撃や油まみれの水鳥によるイメ

ージ操作に見られたような︑国家権力・公権力による情報歪曲などの︑社会的により大きく︑かつ深刻な情報操作につ

いてはなぜか触れられないという︑メディア批評そのもののレベルと質の問題も日本にはある︒

広辞苑では第四版︵一九九一年十一月刊︶からこれを採録し︑﹁︵遣らせ︶事前に打ち合せて自然な振る舞いらしく行

わせること︒また︑その行為﹂とのべている︒が︑これでは不十分で︑﹁やらせ﹂には①メディアの種類と②シチュエ

ーションによってさまざまなものがあり③その程度においても多くの次元があるのだから︑以下のような定義からまず

はじめる必要があろう︒

やらせ= 情報送出においてその主題の選択と全体の編集︑およびそれに関連する具体的小項目について社会的・科

学的真実と異なる形で意図的に番組制作したり︑番組を脚色・演出︑ないしはレポートする︑あるいは番組内で出

演者にそのように表現させること︑もしくは局外者からそのような番組制作および情報送出をさせられること︑の

総称

﹁やらせ﹂は個々の番組の一つひとつのシーンだけが問題ではなくて︑むしろテレビ産業全体に﹁やらせ﹂発生の構

=造基盤があることにこそ問題がある︒また︑たとえ個々の番組だけを検討した場合でも︑演劇化ステージングが発生

し︑それが︿やらせ﹀として批判されるのは︑視聴者︵受け手︶が映像を含めその部分を真実であるととらえているの

に︿じつはそうではなかった﹀という送り手と受け手のコミュニケーションギャップがある限界を超え︑その原因が送

り手側にあるときである︒

二〇〇〇年から二〇〇二年にかけても︑﹃愛する二人︑分かれる二人﹄︑﹃あいのり﹄︑﹃マジっすか﹄︑﹃ガチンコ﹄﹃電 メディアの倫理とアカウンタビリティ

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(12)

波少年﹄といった民放の人気バラエティ番組で﹁やらせ﹂が続発している︒しかし︑NHKでも先述例だけではなく︑

﹃ プロジェクト

﹄︑

﹃ 視点

・ 論 点

﹄︑

﹃ETV﹄

といった評価の高いシリーズについても

︑ 誇 張

・ 過度のドラマ仕立て

︵ドキュ・ドラマ︶・天皇制批判のタブー視・政治的偏向といった点で︑政治・経済

権力への迎合が過ぎる

︑ 情報操作

だ︑という批判が出ており︑女性国際戦犯法廷を扱った﹃ETV二〇〇一﹄︵NHK︶のように︑出演協力者・団体か

ら放送業界の自主組織BRC︵放送と人権等権利に関する委員会︶だけではなく︑裁判にまで提訴されているものもあ

る︒

編集段階での︑情緒に訴えて実相をぼかす手法もまた﹁やらせ﹂で︑現在の﹃プロジェクトX﹄︵NHK︶ではそれ

が多用されているし︑それは福祉関連番組でも使われる︒たとえば︑二〇〇二年四月二八日に放映されたNスペ﹃奇跡

の詩人﹄では︑脳に障害をもつ男児が︿ドーマン法﹀という訓練を受け︑今では母親の介添えによる文字盤の指差し

で︑﹁今︑私が肉体の混沌から抜け出せたのは言葉を伝えるすべを得たからです﹂などと︿書いた﹀一〇册の著書をも

のした︒美しい話だが番組の中心点である執筆行為と内容は母親の代筆である︒その批判に答えてNHKが自ら放映し

た弁解番組にも信頼できる専門家の証言をもってくることができなかった︒障害者・児をもつ親たちをコケにしたわけ

だが︑今なおNHKは番組審議会でも﹁科学的に確かである﹂として素人委員たちを

だまし通している

︒ このような

﹁虚偽のごり押し﹂は外部の発言者に依頼する﹃視点・論点﹄などでもしばしば起きている︒

トーマス・ジェファソン︵一七四三〜一八二六︶といえば︑独立宣言を起草した︑米

国第三代大統領として有名だ が︑メディア論でも﹁政府︵agovernmentと単数︶と新聞︵newspapersと複数︶のどちらをとるかときかれたら︑躊躇

することなく後者をとる﹂といったことばでも知られている︒だがそのジェファソンが一七八九年に﹁新聞には信用で

きることは何も書かれていない︒真実もあの汚れたものに印刷されると疑いたくなる﹂とのべ︑さらには︑新聞王とい

われたウイリアム・ハーストが︑﹁新聞の権利と義務は公衆が関心をもつ事実を印刷することであり︑書かれた当人が

― 33 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

(13)

公人であるか︑私人であるかには関係がない﹂と読者拡大意欲を系列の出版社に伝えた一九二八年の書簡で

記してい

る︒とすると︑ジェファソンのいうように︑新聞︵当時のマスメディアの主流で︑今日では﹁メディア﹂の意︶には表 !

と裏の二面性があるということだ︒

現在の日本の政界指導者や主流メディアの経営者で︑本音の部分ではともかく︑ハーストのような原理でのメディア

活動を公言したり︑是認するものはいない︒が︑現実には︑戦前から不偏不党ということばさえ︑政府の弾圧を避ける

と同時に読者への販売政策として採用された経緯からしても︑そうした外向けのジャーナリズムの精神論と内向けの情

報産業論理という二重基準での取材項目の選択と情報提供が行われていることにこそ問題があることになる︒メディア "

の倫理︑メディアの社会的責任が現代社会の抱える大きな問題の一つとして話題になる背景にはすくなくとも以下の三

つのことが考えられる︒

第一は︑人びとがメディアを社会の健全な維持に必要なものとして考えているのに︑実際のメディアがその期待に応

えていないこと︒第二は︑政治についても同様だが︑メディア倫理の議論が有効な実際的関係性のなかでなされること

がすくなく︑まさに議論そのものが倫理の誕生の本来的意味から逸脱したかのような現状になっていること︒ #

くわえて︑第三に︑そうしたことを包括的に明らかにするメディア論︑メディア批評がきわめてすくないこと︑であ

る︒現代日本のメディア学︑メディア批評ではメディアのかかわる個別の現象を情報論として分析することが多く︑メ

ディアを産業︵経済︶︑政治︵権力︶︑文化︵社会情報環境︶︑情報︵コミュニケーション︶といった側面から総合的に

分析把握することがかつてほど多くない︒日本の文化・社会体制は主流メディアを通して﹁天皇制資本主義﹂とも呼べ $

るようなイデオロギーを人びとに押しつけているという構図がある︒だから︑古典的なマルクス主義分析だけでは狭量

にすぎる︒社会全体がそうした循環的情報環境につかり込み︑その中から自己の社会的利益を取り出す機会をうかがっ

ているかのような姿勢に問題があるわけで︑そうした︿上昇する螺旋構造﹀を維持し補強するものとして主流メディア % メディアの倫理とアカウンタビリティ

― 34 ―

(14)

があるということである︒

二︱2文化装置としてのメディア

二〇世紀の前半は映画とラジオ︑後半はテレビの時代といえるが︑日本の放送は治安維持法が制定された一九二五年

にはじまり︑敗戦までは軍部の︑そしてGHQ時代はその政策広報機関として︑五一年に民間ラジオがスタートするま

でNHKの独占であった︒五三年からNHKと民放同時のテレビ放送がはじまったが︑九年後の六二年にニュース源と

してはすでに新聞よりも大きな存在となっている︒その構造はそれから四〇年後の今日まで︑テレビ五一%︑新聞三九 &

%︑ラジオ三%︑雑誌一%︑インターネット五%︑その他一%と継続している︒接触時間にしても︑二〇〇〇年度国民 '

平均でテレビ視聴が一日当たり三時間二五分であるのにたいし︑新聞閲読はわずか二三分︒だがより深刻なのはその内 (

容で︑二〇歳代の若者が新聞を読まなくなり︑私の勤務先大学でも単身居住者の九〇%もが購読さえしていない︒①高

い②ゴミになる③テレビやインターネットで十分︑というのが三大理由である︒大学生の親の世代がすでにテレビっ子 )

であり︑自社製品が売れさえすればいいというスポンサーが今のようなCMやドラマをながし︑自分たちへの政治批判

には敏感だが︑そうした利益原理主導のメディア環境には無頓着な多くの政治家︑コンピュータやインターネットへの

依存心だけを醸成している現在の文部科学省のメディア教育観では活字離れの加速はますます進行する︒

実際︑文部科学省は﹁今まさに︑世界中の英知を︑ネットワークを通して︑しかも︑文字︑絵︑写真︑動画のマルチ

メディアの形で︑手に入れ学ぶことができる時代になった﹂と安易なとらえ方をし︑﹁メディア教育科学研究は︑メデ *

ィアの特性を︑分析・検討・理解し︑人間の情報伝達過程の特性を研究し︑コミュニケーション効果を高めるコンテン

ツ︑メディアやシステムの設計・構成・開発・評価を研究し︑実践するとともに︑メディアによるコミュニケーション

能力の育成の方法について研究する﹂とする︒これでは情報と社会との相関関係の解明を意図的に怠っているとしか思 +

― 35 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

(15)

えないわけで︑権力によるメディア支配の学習などできるはずがない︒これがアメリカの主流価値観・教育観と通底し

ていることはアメリカ発の﹁コンピュータ・リテラシー﹂ということばに象徴的である︒ ,

さらには︑政府によるメディア規制三法の議論が典型だが︑メディアの取材法や性・暴力表現︑ワイドショーや娯楽

の過多などをとりあげて︑しばしばテレビ有害論が展開される︒だが︑それらの弊害現象はテレビ︵技術と情報発信特

性︶の﹁意図的悪用﹂に原因があるのであって︑テレビそのものが悪いわけではない︒テレビはノートや電話とおなじ -

く︑情報を運ぶ媒体︵メディア︶にすぎず︑情報そのものではない︑テレビの運ぶ情報︵映像︶は人間がつくり︑意志

をもった人間が編集しているという事実が議論の第一前提にならなければならないのである︒

現在の日本のメディアを特徴づけ︑非倫理的にしている力学︑権力と支配思想によるメディア支配の構図は︑放送を

例にしてまとめれば︑つぎのようになる︒

第1国民の利益を代理執行する行政組織・郵政省︵現・総務省︶大臣による事業免許の付与と五年ごとの︑電波

法による更新制度

第2電波法・放送法等の関連法規諸条項についての政権政党と高級官僚による恣意的な解釈およびその適用

第3代議制民主主義の巧妙な利用︑特定の経済・政治勢力と結びついた国会議員や党の部会などを利用して放送

に干渉するやり方

第4テレビと新聞社が系列にあることを利用した政治・経済権力の放送への干渉

第5放送企業の利益至上主義︑視聴率競争に起因する娯楽番組偏重およびセンセーショナリズム

第6メディアを社会全体のなかにおいてとらえない︑狭量文部科学省によるメディア教育 メディアの倫理とアカウンタビリティ

― 36 ―

(16)

第7政権政党と行政主導による公共性概念の独占的解釈

第8大企業中心のスポンサーと広告業界による社会的問題の報道規制やドラマ内容への干渉等

第9番組制作の外注化による責任不在とメディア関係者の責任意識の欠如

10

各種シンクタンクへの経営戦略立案委託︑御用学者・文化人等の重用と発言の利用

11

ジャーナリストの不勉強と建設的なメディア批評の不在

12

上述のことをオーディエンスに不思議に思わせない︑主流メディアによる日常的な情報提供と教え込み

これら支配のメカニズム打破に向けた不断の闘いに必要なのが︑メディア関係者が主導すべき市民主権志向の︿メデ

ィア倫理﹀であらねばならず︑その確立への努力がメディアにその社会的責任を自覚させ︑果たさせることにつながっ

ていく︒ところが︑利益誘導主義から遠いはずのNHKが︑総務省︵旧・郵政省︶の特殊法人である位置づけと国会に

おける予算審議ならびに経営委員の承認︑私企業化された系列下請けプロダクションの仕組みなどにより政治と経済の

原理で動いている︒しかもその内実は隠され︑外部からは見えにくい︒そしてこれらのことが︑今メディアのいかんを

問わず︑社会に何が重要なのかという判断能力に欠如したジャーナリストの増加によってその深刻度を増している︒

天皇制問題を中心に︑その批判的言説には脅迫状が送られてきたり︑暴力がふるわれたりするという現実もある︒そ

の結果︑天皇制については︑タブーとして触れないか︑微笑外交のみを報道することになりやすい︒メディアによるオ .

ーディエンスへの言論暴力︑人権侵害報道にもひどいものがある半面︑朝日新聞神戸市局への襲撃︑殺傷をはじめとす

る﹁赤報隊事件﹂や︑﹁天皇に戦争責任がある﹂という市議会答弁をした長崎市長本島等にたいする右翼による銃撃事 /

件などは︑正しい言論を暴力で弾圧するもので︑戦争中の状況とあまり変わらない︒天皇の戦争責任問題は︑第二次大

戦後のアメリカ中心の世界秩序の維持と日本の執権層の利害の一致によって︑それが東京裁判の判決から回避されたこ

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メディアの倫理とアカウンタビリティ

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ととも重なっている︒戦争の開始にあたって︑彼︵ヒロヒト︶が﹁拒否できる立場になかった﹂という解釈も強弁︑詭

弁のたぐいである︒暴力団や会社の不祥事︑政財界の裏事情の取材などで︑暴力などの被害を受けるジャーナリストも 0

あとを絶たないのは日米ともおなじであり︑世界中でも近年︑暴力によって命を奪われるジャーナリストは分かってい 1

るだけでも毎年四〇人をこえている︒

もちろん︑国家権力による支配システムとメディアの利益至上主義が結びついて支配的文化が形成されることも今日

始まったことではない︒たとえば︑一八九五年創刊︑一九二八年まで全五三一册を発行した雑誌﹃太陽﹄は日本の世論

に︑日本を中心とした汎アジア主義を定着させることに大きな役割を果たし︑好調な販売を背景にして︑日露戦争後の

八紘一宇的アジア進出とアジア・太平洋戦争突入への世論の醸成に大きな役割を果たした︒ 2

第8の大広告主の主導についても︑すでに危険な状態になっている︒たとえば︑日本でも派手なメディア戦略をおこ

なっているP&G︵プロクター&ギャンブル社︶︒全米の家庭の九八%にその製品を送り込んでいるトイレタリーメー

カーだが︑この会社についての調査報道であるアレシア・スウェージー著﹃十一番目の戒律﹄には︑現代の巨大企業が 3

大なり小なり持つメディアとの関係がみごとに浮き彫りにされている︒﹁社内の男女差別や人種差別︑環境保護運動家

との争い︑言論の自由への敵対など﹂を日常的にやっており︑現在ではテレビCMによってどれだけの商品が売れたか

を自社測定してCMへの対価料金を支払うシステムを提唱するほどの力を持ち出している︒だが︑日本企業の対メディ

ア関係がこのP&Gのそれとあまり変わらないのは二〇〇二年八月頃からやっと主流メディアも報道しだした東京電力

の︑過去二〇以上にわたる原子炉シュラウド︵隔壁︶破損調査隠し︑そのやり方の業界全体への拡大の発覚によってわ

かってきた︒ 4

こうした傾向はメディアだけではなく︑社会にとってきわめて由々しいことで︑アメリカではすでに多くの問題指摘

があるが︑日本ではメディア研究は細部へ向かうか︑業界への迎合的なものが多い︒それは学者の自己保身のためであ 5 メディアの倫理とアカウンタビリティ

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(18)

ると同時に︑社会との関係において︑メディアがどのような課題を担っているかの︑メディア自身による自己認識が欠

如していることからきている︒最近では国会でもよく使われるようになった︿アカウンタビリティ﹀と

いうことばは

﹁説明責任﹂と補注されるがそれでは不十分︒本来的には﹁実相の徹底した情報公開をしたうえでの自己の社会的有用

性の説明﹂という意味なのだが︑メディアを筆頭に社会全体にそうした認識が稀薄である︒先述した原子力発電でも︑

安全面︑経済効率面ともに劣等である︒ところが︑日本のテレビ放送がはじまった一九五三年にアイゼンハワー米大統

領が﹁平和のための原子力﹂︵AtomsforPeace︶という国連総会演説をしたことに象徴的なように︑それは広島と長崎

での原爆投下の原罪を糊塗しようとする意図を同時にもち︑上述の米主導のメディア支配の構図のなかで親米世論醸成

工作の一環として日本に導入された面がある︒

そこで︿小さくない﹀役割を果たしたのが政治家に転身し︑科学技術庁長官になり︑日本で最初の民放テレビ開業認

可を得た読売新聞グループの総帥・正力松太郎で︑自ら反共主義者であったから︑テレビ免許もそのような利用意図を

部下からアメリカに伝えさせて取得したといえる︒つまり正力と読売グループは︑結果としてアメリカの意向を受けた

かたちで︑新聞とテレビの両方を使い︑︿平和な﹀原発を日本に根づかせようとした︒ヒトラーも世論操作のためにベ 6

ルリン五輪︵一九三六年︶をテレビ放映したが︑アメリカは世界戦略上の政策浸透手段として早くからこのテレビの影

響に着目していた︒朝鮮戦争直前の緊迫した国際政治状況のなかで電波をGHQから分けてもらうために︑自分の企業

利益にもなるテレビを日本の対米協力世論の醸成に使うという︑本音半分︑ビジネス半分の原理でアメリカの文化利用

戦略に連動したわけである︒こうした①国家・企業と②メディアの︿連携﹀を支えてきたのが③広告業界︑日本でいえ

ば︑全業界の四分の一以上の市場占拠をする電通と博報堂のような大手代理店で︑その活動実態はまさに﹁悪の枢軸﹂ 7

といっていいほどである︒

米政府による国益擁護のメディア利用は徹底していて︑誘導表現としても高度なテクニックが使われている︒最近の

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メディアの倫理とアカウンタビリティ

(19)

例として九・一一自爆テロ事件をあげれば︑テレビ画面ではニューヨークのWTCビルでの市民と消防・警察関係者の

犠牲だけが強調された︒膨大な国防費︵二〇〇一年度約五〇兆円で世界の三六%︶を使ってもその総本山の国防総省へ

の民間機突入さえ防げないことが明らかになるから︑その炎上映像は徹底的に制限されたわけだ︒

新聞でも

︑ たとえ

ば︑二〇〇一年一〇月三一日付ニューヨーク・タイムズの一面トップ︵左肩︶はブッシュ大統領がヤンキースタジアム

でのワールドシリーズ第三戦の始球式をつとめるカラー写真︒そのキャプションには﹁ブッシュ氏の投球はストライク

Mr.Bush’spitchappearedtobeastrike.に思えた﹂︵︶とある︒アフガン空爆開始の二〇〇一年一〇月七日以降の米テレ 8

ビは連日︑︿報復﹀関連番組で︑そこには﹁アメリカは報復する﹂︵AMERICASTRIKESBACK ︶などというプロパガ

ンダ標語を画面の下部に入れているから︑アメリカ人はこれら両キャプションの︿ストライク﹀を重ね合わせて︑﹁ブ

ッシュ大統領は正しい﹂と読むことになり︑それらを転載するか︑それらを読んでアメリカ情報とする多くの外国メデ

ィアの視点が全世界に及び︑﹁テロ事件﹂の認識パターンとなっていった︒このやり方は直接の国際情報戦略ではさら

に露骨で︑アメリカを中心に︑英・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドで構成し︑日韓︑独伊︑ギリシャ・ト

ルコなどが協力参加している︑コードネームをエシュロン︵ECHELON︶という情報収集スパイ網が形成されてい

る︒これは電波通信だけではなく︑インターネットまで探索し︑アメリカはそこで得た情報をビジネス分野にも戦術利

用しているのではないかと︑仏独などを中心にEUでも公式に批判されている︒ 9

イタリアの思想家︑政治活動家のアントニオ・グラムシ︵一八九一〜一九三七年︶はその著﹃獄中書簡﹄などで︑社

会の主流をしめる思想的力を﹁ヘゲモニー﹂という概念でとらえ︑﹁支配階級の優越は政治的支配力と知的道徳的指導 :

というかたちでしめされる﹂と説明した︒前者は国家による強制装置として︑後者は広い意味で教育によって実現され

るから︑後者の実現のために社会的強者はメディアによる情報操作という手段を使うことになる︒グラムシはマルクス

主義国家には幻滅を感じたが︑マルクス主義の社会改革姿勢には希望を見出した︒そしてヘゲモニーを支配層の利権維 メディアの倫理とアカウンタビリティ

― 40 ―

(20)

持から市民の手に取り戻すことが社会革命であるとしたが︑現在︑日米欧諸国でパブリック・アクセス︑パブリック・

ジャーナリズムなどといわれ︑市民が編集権を持とうとする︿市民主権放送メディア﹀もその系譜として説明できる︒ ;

そうした運動の思想的背景にはテレビや映画︑一般の雑誌︑コミック誌等を︑社会の主流思想を教育する文化装置と規

定したアリエル・ドルフマンらの︑メディアと社会の関係のとらえ方にも通じるものがあるし︑私たちは映画と権力と <

の結びつきなどにも注意しておかねばならない︒こうしたアプローチでの研究をするには権力というものを支配文化の

維持装置として以下のように定義しておくことが必要であろう︒

﹁権力=物質的・精神的利権の維持もしくは拡大のために自己の意志を排他的に正当化し︑法制度や直接・間接の

暴力によってそれを他におしつけたり︑メディアをふくむあらゆる手段によってその

正当性を教育

・ 広 報

・ 宣 伝

し︑合理化できる地域統合体︑国家︑自治体︑企業︑その他の組織もしくはその連合体あるいは個人のもつ力﹂ =

三メディアの市民監理

三︱1公的世界と市民監理

主流メディアは世界中どこにおいても︑執権層への重点奉仕の構造のなかにあり︑これは有利な立場に就いた個人や

組織が利己的思考と行動を少なくする方向で努力しないかぎり解決できない問題である︒戦時にはそれがとりわけ顕著

になり︑国家権力は戦争の発動と継続をおこなうための障害を少なくしようとメディアを露骨にコントロールしようと

し︑メディアの側もそれに迎合していく︒そして︑

日常的に国家や企業に従順であるべく教え込まれ

indoctrinate

︶ ︑

日頃から馴化されているオーディエンスは︑﹁愛国主義﹂︵patriotism︶をキーワードに国家存亡の危

機感を煽られると

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メディアの倫理とアカウンタビリティ

(21)

簡単にそれに乗せられてしまう︒しかもそのことを執権層は十分に知ったうえでメディア対策をしている︒

スティーブン・ブライヤーは経済競争における秩序と規則の必要性を説いた︒つまり︑経済的利害の関係する個人や >

組織の健全な維持には内部関係者の自発的行動だけでは不可能だと結論づけたわけで︑その主張は情報の社会的流通の

健全化を検討するときにも役立つ︒実際︑とくに顕著な技術も人材もないのに急速に拡大していく企業は︑HIVウィ

ルス入りの血液製剤を売り続けたミドリ十字︵ファイザー製薬に吸収︶のように︑直接的な殺人以外はなんでもおこな

う︒この表現が誇張でないことは原子力発電所の炉心近くではたらく孫受け外注企業の労働者は日常的に被爆してお

り︑白血病などにかかっているが︑電力会社がいっさい責任をとることがないどころか︑事故隠しやデータの改竄など

を常態化しているという︑最近の報道にあるとおりだ︒が︑家庭用品をつくっているP&Gのような一般企業にもその ?

やり方がおよんでいることはあまり知られていなかった︒それら企業のメディア対策にもすさまじいものがあるのは︑

私たちがすでに二〇年以上前にレポートした﹁琵琶湖と富栄養化防止条例﹂成立時に花王などの洗剤工業会が電通と組

んでおこなった対市民操作のように︑日本でも起きている︒だが︑こうした不合理を少なくできるのもまたメディアで @

あり︑ジャーナリストの覚悟なのである︒こうした企業広報の実態を内部資料を入手して確実に描くこと︑そうした調

査報道をおこなうメディアとジャーナリストを保護する法律や倫理綱領の社会的合意こそ求められる︒

だが︑多くのメディア改革論がそのような立場をとれないのは︑︿公﹀と︿私﹀を区別して理解しない︑より正確に

いえば︑理解しようとしないからである︒ユルゲン・ハーバーマスによる貴族・有閑階級の気ままな言論などを﹁公共

圏﹂として肯定的に扱っているようでははじまらない︒建設的な言論の自由論には権力とメディアの関係と︑①名誉毀

損②プライバシーの侵害③過度の性・暴力表現④個人や民族差別の助長⑤明白なウソ⑥物理的に他を抹殺する破壊行動

の扇動︑などは﹁言論・表現の自由の乱用﹂であることの認識が前提とならねばならないと︑私は考える︒そうしたこ

とをわきまえずに︑取材対象者の人権を軽々に侵害して恥じないことが︑︿市民﹀︵informedandconcernedcitizens︶が メディアの倫理とアカウンタビリティ

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(22)

必要とする調査報道と︑政治

力学や経済的利害にふり回さ

れない健全な市民運動を育ち

にくくしている︒ A

私自身の公共性の理念モデ

ルは上図のようで︑メディア

・ジャーナリズムは公的世界

の公的事象

に つ い て の み 議

論︑情報提供すべきだと考え

る︒

だが︑︿公﹀と︿私﹀を混同

させ︑すべてをセンセーショ

ナルにして

し ま い や す い の

は︑あらゆる事象において全

世界的に共通したことだ︒ア

メリカにおける政治権力と戦

時の言論統制について総合的

に検証したジェフェリー・ス

B

ミ ス はいう

︒﹁ 自己防衛と国

公共性の理念モデル

(Copy−Right by Takesato Watanabe, Japan, 2003)

1)社会的存在としてのあらゆる人間は生物的側面を主とする純個人的空間と他者と の関係属性としての社会的側面の両方をもっている。

2)私人性・個人性とは、人間の生物的側面と純個人的な生活面をいう。

3)公共性とは、他者との関わりという〈人間相互の関係属性〉のことである。

4)公益性とは、公共性(人間相互の関係属性)のプラス価値属性のことである。

5)ユルゲン・ハーバーマスのいう「公共圏」(Öffentlichkeit, public sphere)は、ヨー ロッパにおける過去の社会現象としての〈自由人の言論空間〉としての歴史事象へ の言及に過ぎず、公共性論や公人論に貢献するものではない。

6)公共性が最小で、個人性だけに近い状態で生きているものは赤ちゃんや、身体も 動かせず、意志の疎通もむずかしいような状態にある人間、などである。

7)高い公共的責任をもった人間は有権者から選ばれ、社会的な言動においてその義 務を果たさねばならない政治家、あるいは日本の主権者である国民の象徴としての

〈天皇〉、信者を集める宗教団体の指導者などで、人気俳優・スポーツ選手等は、メ ディアのつくりあげたものであり、公人とは次元を異にする。

― 43 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

(23)

家の安全保障は権利の章典におけるもっとも重要な自由を弱めてきた︒武力紛争の際の抑圧的政策は憲法違反であり︑

正義にもとり︑やってはならないものである﹂︒九〇年〜九一年の湾岸戦争︑九九年のボスニア紛争時のNATOによ C

る空爆でも︑また二〇〇一年の九・一一自爆テロ事件でも︑アメリカは﹁正義の味方﹂もしくは﹁事件の被害者﹂を自 D

己演出し︑愛国心を煽ることによって︑自国の民主制の根幹である︿自由を弱めてきた﹀わけだ︒しかしアメリカには

日本が見習うべき点も多い︒たとえば︑オサマ・ビンラーディンやアルカイダの攻撃の可能性などについては︑すでに

事件発生の二年も前から報告書になっており︑しかもその後︑米議会図書館スタッフによる編集︑発行で市販さえされ

ている︒これは日本の国立国会図書館のスタッフには現行ではとても期待できないことで︑私たち国民の側も彼らが︑ E

強制された狭い国益指向行動ではなく︑将来の国民益を見通した活動ができるよう︑法的にも市民サポートとしても良

好な環境を用意してあげたいものである︒

メディアの日常的な取材活動にも問題がある︒日本の例でいえば︑その一つが政府・自治体︑そして経済諸団体等と

メディアの記者クラブを通じたもたれ合いだし︑新聞社やNHKなどの政治記者の多くが政治家への情報提供者になっ

てしまっているといった事実︒さらには︑テレビによる︑人間行動と忍耐力への︿蓄積的影響﹀が提供情報の内容を超 F

えたところにも出てきているという指摘もしておかねばならない︒現在の民放ではプライムタイムの番組の八割もが購

買力のある二○代三〇代を相手にした娯楽番組だから︑朝六時には起きねばならない会社勤めの男女の多くが社会問題

にアクセスする機会を奪われ︑CMだけではなく︑番組内容からも主流企業の宣伝シャワーを浴びせられている︒また

この時間帯の番組の多くがほぼ一〇分おきにCMタイムをとるから︑大学の授業でもそれ以上のまじめなトークには緊

張が継続できず︑受講生が寝入ってしまいやすいという行動上の変化さえ起きている︒

実質的には︿アメリカ化﹀である︑人口に膾炙した﹁グローバル・スタンダード﹂にしても感覚的なものではなく︑

戦後の米世界戦略としての米国式価値観と社会システムの普及をはかるための緻密な論理で構成されている︒にもかか メディアの倫理とアカウンタビリティ

― 44 ―

(24)

わらず︑テレビは娯楽手段だし︑そうした機能に優れているからといった視点での︑番組の出演者の演技だけを俎上に

載せるようなレベルのテレビ批評ではとても問題の中心には近づけない︒

実際︑日本が政治的な﹁民主主義体制の国でありながら︑テレビとラジオが制限つきの言論の自由しかもたず︑結果

として非政治的な性格のものとなっているのは奇妙なこと﹂なのである︒もちろん︑このように言い切るには民主社会 G

における多数決制度が﹁徹底した情報開示環境﹂のなかにおける有意の市民のそれでないかぎり︑必ずしも正しくない

ことの認識が必要であり︑そのことは︑戦前の日本が国民の支持のもとに軍部独裁を許した事実が示しているとおりで

ある︒その一因が﹁これまでの日本のメディア研究においては︑マス・メディア全体としての構造と働きを考察すると

いうものは少なかった・・・・新聞︑テレビを含めて︑日本のメディアを社会学的に考察するこ

とはされてこなかっ

た﹂ことにあることも明白だろう︒そのことは職業的研究者の使命がこれまでの成果に何かを付け加えるという条件を H

もっていることから︑研究者が挑戦する対象の専門化・特殊化はやむを得ないという面を認めてもなお真であろう︒問 I

題は個々の研究者がメディアと社会の関係の基本構図を押さえることなく仕事をし︑ひどいときには研究助成金の提供

者の思惑に迎合することだけを念頭において作業することがふつうになっていることで︑学者・学問のあり方も社会全

体の︑とりわけメディアの質的向上を図るという︑メディアの倫理問題での重要検討課題である︒

このことについてはアメリカでも多くのメディア・コミュニケーション研究者が広告会社や放送局からの資金の提供

を受けて迎合的な研究をしていることが報告され︑危惧されている︒﹁実力のある役に立つ人間というものは︑社会が J

金を払っても︑払わないでも︑自分にできるだけのことは為すものだ︒無能な人間は︑いちばん高い値をつける人に︑

自分の無能を売りつけ︑そしてしじゅう職につけてもらえると思っている﹂とはアメリカの思想家︑ヘンリー・D・ソ

ロー︵一八一七〜一八六二︶のことばである︒だが︑プロの作家︑評論家たちがメディア業界の会合に出て︑メディア K

の商業利益優先主義批判をする論評を﹁書生っぽい議論﹂として片づけるというやり方が現実化しているのも事実であ

― 45 ―

メディアの倫理とアカウンタビリティ

(25)

る︒その意味でも学者・評論家・ジャーナリストの責任は重く︑政府や広告業界をふくむメディア企業から金をもらう L

ことによって真実を歪めて恥じない研究活動を学問だと称したり︑一週間程度の予備調査でルポを書いて︑﹁真相はこ M

うだ﹂といっているほどのジャーナリズムでは︑権力に飲み込まれていった戦争中の先輩諸氏を嗤えない︒

三︱2情報デモクラシー

だれがどう考えても現在のメディアには質的にも組織的にも大改革が必要である︒そうした認識から︑アメリカなど

でもメディア批評についての先駆的提言がFCC︵米国連邦通信委員会︶関係者からいくつか出ている︒その代表的仕

事をしたニコラス・ジョンソンは一九六七年︑政府からも業界からも独立した﹁放送に関する市民委員会﹂設立の必要

性について︑それまでのアメリカにおける各種レポートや研究を基にした提言をおこなっている︒それはハッチンス委 N

員会が切望したメディアの自主改革から︑メディアの︿市民監理﹀へというステップアップで︑こうした提言や議論は O

戦後のGHQ占領時代でも︑日本の放送改革が﹁外部の党派勢力ないし機関による直接統制や影響力にたいし︑適切な

安全保障がない﹂と指摘したマッカーサー総司令官の吉田茂宛書簡︵一九四九年一二月五日付︶をはじめ︑日本の放送 P

を政治権力からいかに独立させるかという腐心として︑今私たちは読むことができる︒

電波監理委員会構想がそれで︑まさに日本版FCCともいうべきものであったが︑官僚たちは放送電波が市民主権監

理され︑自分たちの支配範囲が狭まることを極度におそれ︑成立二年後に設置法案そのものを廃止してしまった︒そし

ておなじことが一九九七年末の︑日本政府の行政改革会議︵座長は当時の橋本龍太郎首相︶による行政府の再編・統合

問題の報告書に記載された﹁通信放送委員会﹂問題でも起きた︒それは通信放送行政の担当部局として︑公正取引委員

会などのような独立行政委員会を設置する案で︑この構想はソフト面の監理業務を国家行政組織上︑①通信・放送を国

家の直接支配からできるだけ離すことが望ましいこと︑②市民参加の可能性をもつ通信放送監理制度という考え方を一 メディアの倫理とアカウンタビリティ

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参照

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