戦後の兵庫県明石市における日用品小売商業の展開
著者 廣田 誠
雑誌名 同志社商学
巻 63
号 5
ページ 663‑685
発行年 2012‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012867
戦後の兵庫県明石市における日用品小売商業の展開
廣 田 誠
Ⅰ はじめに
Ⅱ 明石市中心部
Ⅲ 朝霧地区(明舞団地)
Ⅳ 西明石地区
Ⅴ 市西部の団地
Ⅵ 大久保地区
Ⅶ 江井ヶ島地区
Ⅷ 魚住地区
Ⅸ 土山地区
Ⅹ 二見地区
Ⅺ おわりに
Ⅰ は じ め に
すでにこれまで筆者は四編の論文において,昭和30年代以降の兵庫県下における日 用品小売商業の展開過程を明らかにしてきた。まず二編の論文によって阪神地域におけ る私設小売市場を中心とする日用品小売商業の展開を取り扱
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い,さらに東播地域におけ る私設小売市場(播磨地域でいうところの総合市
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場)と,播磨地域の中核都市である姫 路市の公設小売市
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場について検討を進めて来た。これを受けて本稿では,第二次世界大 戦後,昭和30年代から50年代の兵庫県明石市における日用品小売商業(小売市場,ス ーパーマーケット,商店街など)の成立・展開状況を,明石市中心部から二見地区まで の9地域に分け,明らかにする。
Ⅱ 明石市中心
4
部
昭和33年(1958年)8月25日,明石市初のスーパーマーケットといわれる丸一が開
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1 拙稿「昭和三〇年代の阪神地域における小売市場の展開」(『市場史研究』第29号,平成2010年1月),
同「昭和四〇年代の阪神地域における日用品小売市場の展開」(『市場史研究』第30号,2011年1月)。
2 拙稿「戦後の兵庫県東播地域における小売市場の展開」(『市場史研究』第31号,2012年1月刊行予 定)。
3 拙稿「戦後の姫路市における公設小売市場の展開」(『東北学院大学 経済学論集』第177号 岩本由輝 教授退任記念号,2011年12月)。
4 ここでいう中心部とは国鉄および山陽電鉄の明石駅付近とその東西周辺地域をさす。
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業し
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た。午前9時の開店と同時に同店には付近在住の主婦らが続々と詰めかけ,これを 開店翌日の『神戸新聞』は「初日は五千人の買い物客でごった返した」と報じた。同店 が開業したのは山陽電鉄の明石駅前から線路沿いに伸びた東仲ノ町商店街の東端で,製 氷会社(播淡冷蔵)の跡地を利用し,およそ500平方メートルほどの売場(売場のみで 120坪,事務所を含めると150坪)を設け,受付には買物カゴ300個が備えられた。丸 一の開業した場所は,繁華街からは少し外れていたが,市の東部には小売店が少ないた め,買物の利便性が増す家庭は相当に上るものと見られていた。また品揃えに関して丸 一は,「高級品はなくとも日常に必要なものはなんでもある」という,日常生活に密着 したものを目指していた。通路は1間(約2メートル)を確保し,買物客が多数訪れて も対応できるようになっていた。また店内や陳列棚は白い塗料で塗装され明るく清潔な 雰囲気で,「明石保健所も大歓迎」すると評されるものであった。
この丸一を創業したのは,市東部の林崎で水産加工会社を営んでいた樟計市であっ た。樟家は代々播磨灘でとれるカタクチイワシを材料としてイリコを製造していたが,
工場廃水などによる海水の富栄養化でイワシに脂が乗り過ぎイリコには適さなくなった ことから,計市は本業であった水産物加工の主力をサンマに切り替えるとともに,親類 と共同でスーパー経営に乗り出した。計市は当時「スーパーの先進地」と言われていた 四国へ視察に赴き,また取引のあった神戸市中央卸売市場の卸業者から生鮮食品などを 確保するなど周到な準備の末開店に至っ
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た。
開業後の丸一に関して,同店の「真向かいに住んでいた」女性は後に「すぐそばにも 市場があったし,ここでばっかり買うわけやなかったけど,場所がええから結構はやっ とったよ」と証言している。一方丸一の開業当時東仲ノ町で洋傘店を営んでいた男性は
「近所の商売人はみな神経質になったけど,実際どないな影響があるのか分からんとい うのが正直なとこやった」と,当時の商店主らの不安を回想している。さらに当時の新 聞記事により市内同業者の反応をみれば,以下の通りであっ
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た。丸一開店の影響として もっとも注目されたのは乱売で,薄利多売のスーパーマーケットに対抗するため一般の 小売業者も値下げせざるを得ず,これが長期化すると資本力に乏しい一般小売業者は窮 地に追い込まれると懸念されていた。そこで小売業者の団体である明石青果商業協同組 合は度々役員会を開き,商工会議所に価格安定の仲介役を依頼する動きを示していた。
当時岐阜県では,小売業者が卸売業者に対して不買同盟を作り,スーパーマーケットを
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5 『あかし市民史 大正 昭和 平成』神戸新聞社明石総局編・発行,1996年,176〜178ページ。
6 しかし計市の長男である雄一朗が,後に当時を回想して「父はスーパーだと人件費が少なくて済むとい う考えだったんでしょうが,うちは昔から市場への出荷ばかりだから,消費者相手の小売りは性に合わ んと反対したんですが…」と語ったように,丸一の開業は身内の反対を押し切って計一が果敢に進めた ものでもあった。
7 「明石にセルフサービスの店 痛い?青果小売業者 25日に開店 薄利多売で押す」『神戸新聞』明美 版,昭和33年8月19日。
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郊外へ追出してしまうという動きが見られたが,明石市の青果商協同組合理事長は「卸 屋に対して不買同盟を作るという過激な動きは避けたい」と,あくまでも穏便な手段で 対応する姿勢を示した。一方丸一の専務は「連合婦人会にも協力を呼びかけようと思っ たが,小売業者を刺激するのでやめた。良心的な名の通った品物を安く売る方針だか ら,お客さんには受けるだろう。小売業者とのあつれきも考えられるが,競争してやる のだから止むを得ない。」と,強気の姿勢を隠さなかった。
しかし丸一の開店が商店街に及ぼしたのは負の効果のみではなかった。丸一のすぐ東 隣りで牛乳工場を経営していた男性が「人がどんどん来て,かえって商店街もようなっ た。」と語ったように,丸一の集客効果もあって当時の東仲ノ町商店街は,当時市内の 代表的商店街であった魚の棚に次ぐ活況を呈したという。だがそうした共存共栄の時代 もつかの間のことであった,その後の丸一は思うほど客足が伸びず,資金難などから数 年後には本店を人手に渡し,また市内の林地区で営業していた二号店と三号店も店を閉 じ
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た。
続く昭和34年(1959年)の夏,当時市内大蔵町6丁目の大蔵会館南側で進められて いた小売市場・大蔵市場の建設に対し,地元商人らは対策を協議した結果,開設反対運 動を起すこととなっ
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た。対象とする顧客が付近の住民およそ2万5千人と地元の小売業 者に及ぼす影響が大きく,そのため人丸共栄会(萩原豊治会長)所属の青果業者から反 対運動の火の手が上ったのである。しかし同市場はすでに県から建設許可を得ていたた め明石市も建設を止めることは出来ず,同市場の開業を阻止することは困難と見られて いた。この問題につき明石商店街の事務局長は「最近,阪神間の業者の進出が著しいよ うだが,これを規制することはできないのが現状だ。大蔵市場のことも話は聞いたが,
いまのところ連盟として動くことは考えていない」と語っていた。
また昭和35年には,近隣へ新たに進出したスーパーマーケットに対抗するため,既 存商店街が福引き付き大売り出しを行うという動きが見られ
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た。市内の西新町商店街
(木下永一会長,約80店)はそれまで「市内有数のショッピングセンター」として定評 があったが,10月15日山陽電鉄西新町駅前にスーパーが開店,大売り出しを開始し,
「日用品なら何でもそろう」というキャッチフレーズで買物客を集めた。このスーパー は神戸市,三木市ならびに淡路島といった地域より進出してきた者で組織され,地元明
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8 『あかし市民史 大正 昭和 平成』神戸新聞社明石総局編・発行,1996年,176〜178ページ。
9 「大阪商人の進出はマッピラ 地元業者が反対運動 明石の大蔵市場建設 だが中止はムリ?」『神戸新 聞』明美版,昭和34年8月18日。大蔵市場は昭和34年7月16日起工式を行い,木造2階建,工費約 2800万円,およそ2000平方メートルの建物に34店舗の収容を予定していた。同市場への出店予定者 は,当時明石市の小売市場でしばしばみられたように,大阪や阪神間からの者が大半をしめていたが,
地元明石からの出店者も10名ほどみられた。
10 「福引きで必死の客集め マーケットに負けじ 明石西新町商店街 長期戦で対抗策」『神戸新聞』明美 版,昭和35年10月28日。
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石の商人は含まれていなかった。その開業によって地元商店街の売上は「ガタ落ち」と なったが,特に大きく影響を受けたのは食料品店で,売上はおよそ4割減少した。商店 街側はスーパーに買物客を奪われた原因を価格ではなく店舗が清潔であったこととスー パーという業態の目新しさに求めたものの,顧客を奪われたことに関する動揺は隠せな かった。「何とかしないとこのままでは死活問題だ」ということで話し合いを行った結 果決定したのが大売り出しであった。日頃は売り出しに消極的であった店もこの時ばか りは積極的となり,しかも同商店街では売出しを行うに先立ちこのスーパーを訪れて価 格を調べ,これよりも安く販売した上に福引きを行って客足を取り戻そうとしたのであ る。売り出しの期間は12月末までの長期にわたるもので,また福引きの景品は特等2 万円のタンスから5等まで空籤なしとして,これに売上げの7% 前後を経費として投じ ていた。赤字覚悟の売出しであった上,12月末まで続けてなお効果がなかった場合に は,翌年も引き続いて行うことを予定するなど,商店街側は「意地になっていると思え るほど強気」であった。その背景には「マーケットができてから夜もロクロク眠れなか った」というほど追いつめられた地元商店街関係者の苦悩があった。さらに26日には 各店主を集め,サービスの点でもスーパーに負けないようにしようとの申し合わせを行 うなど,「これほど商店街が結束したのはめずらしい」と評されるほどの意気ごみを示 していた。一方スーパー側はこれら商店街側の対抗策に対して,「売れ行きはまずまず」
と「涼しい顔」をしており,商店街が大売り出しをすると聞いても「まだ,マーケット の中には会ができていないので対抗策は何も考えていない」と述べる程であった。
その後昭和40年,明石商工会議所は住宅団地商業活動特別委員会を設置し,6月3 日午後1時半より同会議所会議室(明石デパート内)で初会合を開催し
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た。同委員会は 当時計画が進められていた明石・舞子,大久保東,同西の各団地造成に際し,いかなる 方法によって地元商店を進出させ,市の商業発展をはかるかを計画し,これを実施しよ うとするものであった。計画によれば明石・舞子団地(10万平方メートル)には5062 戸・2万人,大久保東団地(13万2000平方メートル)には4000戸・1万5000人,大 久保西団地(16万4300平方メートル)には1018戸・4000人の居住が予定されてい た。同委員会は明石市の商業を発展させるため,これら三団地へ明石市の店舗を進出さ せるべく将来計画を検討していた。その第一歩として同委員会が中心となり,明石市を 通じて日本住宅公団ならびに県開発公社へ団地内商店街の造成を働きかけることとし た。当時公団や公社では団地内店舗の開設にあたり,商店街など小規模な団体との交渉 は手間を要するため,大企業やスーパーなどと一括契約することが多かった。これでは 用地を提供しながら地元が蒙る恩恵が少なくなるため,交渉の窓口を市一本にしぼり,
組織を通じた話し合いを進めていくこととなったのである。同日の会合は未だ商店進出
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11 「団地商店街の新設を 明石商議所 特別委で計画練る」『神戸新聞』明石版,昭和40年6月4日。
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の具体案が用意できていなかったため,意見交換や現地視察程度の内容にとどまった が,早急に団地商店街新設計画を作成し,団地内の顧客が隣接都市へ流出しないよう計 画を打ち出して行くことが決定された。
昭和41年5月,明石市中心部と明石川を挟んで西方で接する林地区に小売市場・林 センターが開業し,それまで買物に不自由していた周辺の市民を喜ばせ
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た。同市場は国 道2号線と浜国道の間にあった農地2000平方メートルを買収し,同年2月はじめから 建設に着手していたもので,耐火構造2階建ての住宅付き店舗50軒から成り,延べ面 積は2600平方メートルで,5月21日より営業を開始した。出店者は神戸市から35名,
明石市から5名,姫路市から10名と市外からの出店者が圧倒的に多く,また販売品目 は生鮮食料品を主とし,その他に日用雑貨,薬品,電気器具なども扱い,また地域の実 情に合わせ「廉売市場」の性格をもたせていたという。同市場周辺の硯町,成願寺,宮 ノ上,下溝などの住民約4000世帯は従来明石駅付近の商店街まで「遠いショッピング」
を余儀なくされていたが,手近に同センターが開業したため「大助かり」で,「連日数 千人の買い物客がつめかけて」いたという。
このように明石市の中心部とその周辺では昭和30年代にスーパーや小売市場の開設 が相次ぎ,また大規模団地の建設計画浮上など小売商業を巡る環境の大きな変化が見ら れた。それは消費者の買物利便性を大きく高めた一方で,小売業者らは変化への対応に 追われることとなったのである。しかしその後昭和40年代以降においては,日用品小 売商業における目立った動きは市東西の郊外地域において集中的に見られるようになっ たのである。
Ⅲ 朝 霧 地 区
以下では昭和40年代以降の明石市郊外地域について,地区別にその動きを見て行こ う。まず市の東部にあって神戸市と境を接し,新興住宅地として人口が急増していた朝 霧地区では昭和41年春,二つの小売市場が開業することとなっ
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た。その一つであった 朝霧マンモスセンターは,それまで西明石マンモスセンター(昭和40年開業)など多 くの私設小売市場を手がけてきた綿野貴義と坂口敬三の両名が中心になって朝霧町2丁 目で開業準備を進め,5月の開業を予定していた。敷地面積およそ1800平方メートル,
鉄骨耐火構造2階建1671平方メートルの建物を有し,工費はおよそ7000万円で,出店 業者45店のうち約半数が既に決定していた。いま一つの朝霧デラックスセンターは地
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12 「林センター店開き 喜ぶ周辺の四千世帯」『神戸新聞』神戸・明石版,昭和41年5月24日。
13 「新興住宅地に二つの市場 明石市朝霧地区 一挙に百店誕生 来月から相次ぎ開店 激しい商戦も予 想」『神戸新聞』明石版,昭和41年4月30日。
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元の商店主たちが結束して開業をめざしていたもので,朝霧町3丁目へ6月末の開業を 予定していた。敷地面積およそ1000平方メートル,軽量鉄骨耐火構造2階建延べ1300 平方メートルの建物を有し,工費は約6000万円,出店業者45店は地元17商店からの 11店を含め約半数が決定済みであった。これら2市場の開業によりそれまで小売店が わずか17軒にすぎなかった同地区へ一挙に100軒近くの小売店が開業することとなり,
商戦の激化が予想されていた。朝霧地区には当時約3500戸の住民があったが,これに 加え毎日のように住宅が増え,また北部にも相当の宅地があり,飛躍的な発展が予想さ れていた。しかも数年後には明石・舞子ニュータウン(明舞団地)の開設が計画され,
その折には更に消費者が増加するものと見られていた。マンモスセンターが新興地区を 狙った新たな勢力の進出であるのに対し,デラックスセンターは激変する環境に対応し ようとする地元商店主の近代化への意欲が原動力となったものであった。マンモスセン ターの綿野は,同市場は経営者が市場づくりの専門家であり,開店も一月早く,しかも 朝霧の中央部で開業することから絶対に有利であると語った。一方デラックスセンター を推進していた朝霧町1丁目の酒商・森本寅市は「此の地区で十数年も商売をし,消費 者と顔なじみの商人がごっそりはいる。地理的にもこんご発展する場所をかかえている だけに十分やっていける」とこちらも自信の程を示していた。
昭和44年9月,市の東部と神戸市垂水区にまたがる地域に展開する明舞団地に「サ ブストア」が開設されることが報じられ
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た。当時明舞団地に入居していたのは県営,公 団,厚生年金住宅などを合わせ6900戸(人口2万6千人)で,これに加え公社住宅で 10月320戸,11月60戸の入居が決まっており,年内一杯で当初の入居計画(神明道路 南側部分)を終えることとなっていた。しかし買物のための施設は団地のほぼ中央にセ ンター商店街(スーパー,銀行,食堂など53店)がある他は,西舞子団地に食料品店 が4〜5軒あるだけで,7月中旬から入居の始まった第三次公団住宅の南端から中央セ ンター商店街までおよそ2キロも離れており,買物に要する主婦たちの負担は大きかっ た。そこでこの「買い物難」を解消しようと県住宅団地サービスセンター明舞管理事務 所ではサブストア(近隣ショッピングセンター)建設に乗り出し,明石側に北ショッピ ングセンターと朝霧ショッピングセンターの2カ所を,また神戸側にも矢元台ショッピ ングセンターの開設を進めていた。当時すでに建設が進行中であった北ショッピングセ ンターは5階建て,2階以上は一般住宅という「ゲタばき住宅」で,1階のフロア(面 積およそ約1000平方メートル)に15軒ほどの商店を収容したセンターを昭和44年末 までに完成させ,また翌年10月までに他の二カ所にもほぼ同規模の商店街が造られる 予定であった。また同団地唯一のスーパーマーケットであったピーコック明舞店もおよ
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14 「明舞団地にサブストア 買い物の不便を解消 来秋までに三店ひらく」『神戸新聞』明石版,昭和44 年9月15日。
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そ300万円を投じ同月末までに2階売場へ100平方メートルの非食品・雑貨コーナーを 設けるべく動いていた。
昭和45年8月,当時有名スーパー数社が明舞団地での営業権獲得の動きを見せてい た中,同団地の明石市部分に灘神戸生協が進出の意向を明らかにし,地元小売業界に波 紋を呼ん
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だ。同生協が明石支部(明石市東野町)を開設したのは昭和43年7月のこと で,それまでは同生協舞子支部(神戸市)の家庭係(セールスマン)が明石へ足を伸ば していた。しかしその後,明石市の急激な発展に応じて支部を独立させ,人丸,上ノ 丸,太寺などの住宅地を中心に販路を拡張した。さらに昭和44年の春からはセールス マンをふやし,市中心部,西明石,明舞団地などにも販路を拡張,明舞団地では神戸市 側を担当していた舞子支部と合わせて約3000名の組合員を確保していた。しかしその 後,同団地のさらなる発展によって宅配だけでは不十分となったため,明石市松が丘の 県住宅供給公社朝霧住宅内にくみあいマーケット朝霧店を開設したのである。この店舗 は面積710平方メートルのワンフロア形式で,食料品と日用品を中心に豊富な品ぞろえ を誇っていた。開店前より団地内の全世帯にPRを行ない,さらに28日の開店日には アドバルーンを上げて宣伝を行なった結果,午前10時の開店には買い物かごを持った 主婦らが大挙押し掛け,店内は超満員となった。同店では同日から3日間を開店記念大 売り出しとし,また続く3日間を謝恩記念大売り出しとして顧客の獲得に熱を入れてい た。同マーケットの店長は「今後は,周辺の農家から新鮮な野菜を仕入れ消費者に提供 したい。」と語った。
昭和54年(1979年)5月には朝霧地区へ二つのスーパーが進出を表明,これをめぐ って既存商店街との間に軋轢が生じ
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た。進出を計画していたのは灘神戸生協のコープ東 野店と主婦の店スーパーチェーン(本社・兵庫県三木市)のベルショップ・主婦の店朝 霧店であった。このうちコープ東野店は,東野町朝霧派出所東のバス道沿いに建つ6階 建てビルの1・2階へ出店する計画で,店舗面積は2100平方メートル,取扱品目は食料 品・衣料品・日用雑貨で,昭和55年4月の開店を予定していた。一方ベルショップは コープ東野店の予定地から東へ朝霧川を越えて約100メートルのバス道沿い(大蔵谷字 清水)に,2階建て1250平方メートルの店舗を建設し食料品と日用雑貨を扱う計画で,
昭和54年8月の開店をめざし工事を進めていた。これらの計画に対し「営業活動がお びやかされる」と両店の商圏に入ると予想された朝霧マーケット,バザール朝霧,松が 丘ショップ,朝霧マンモスセンター,太寺センター,大蔵市場の六小売市場と近隣の小 売店舗は5月12日明石デパート(明石本町)内の市民ホールで「東明石連絡協議会」
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15 「ねらわれる団地の購買力 明舞(明石側)に大型店舗 灘生協がスーパー 市内の商戦に影響?」『神 戸新聞』明石のページ,昭和45年8月29日。
16 「灘神戸生協と主婦の店「朝霧地区 大型店の進出に待った 六商店街が反対運動 きょう連絡協 死 活問題と陳情書」『神戸新聞』明石のページ,昭和54年5月12日。
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の結成総会を開き,反対運動を始めることとなった。総会には約100名が参加し,県,
市と両スーパーへの陳情書などを採択するほか,スーパー進出による交通問題,下水処 理なども検討し,広く一般住民に問題点を指摘して理解を求める予定であっ
17
た。
Ⅳ 西明石地
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区
「二十六万都市明石の 副都心 」と位置づけられていた国鉄西明石駅周辺の場合,昭 和50年代末において小売市場を中心とする小売商業の状況は以下の通りであった。同 駅周辺は,駅の南側と北側で全く様相を異にしていた。すなわち南側が旧川崎航空機の 飛行場跡へ自然発生的に生まれた「密集商店街」であったのに対し,北側は市の土地区 画整理事業によって幅広の道路と駅前広場を備え整然とした町並みを有していた。第二 次大戦後,民間業者が駅南の飛行場跡地を宅地として開発し,昭和30年代の終わりご ろから商店が建ち並び始め,40年代後半には当時の西明石商店街の原型がほぼ出来上 がった。それは駅の南口から西明石マンモスセンター(小売市場,昭和40年開設)や スーパー・ダイエー(昭和44年開
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店)が建ち並ぶ南北の一番街,一番街に並行して延 びる西明石センター街,そしてこれらと交差して東西に延びる三番街ならびに五番街か ら成り,これらの通りを中心におよそ250の店舗がひしめいてい
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た。だが「ここ五,六
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17 両店舗とも売場面積が基準を下回り,加えてコープ東野店の場合は消費生活協同組合であったことから 大店法(大規模小売店舗法)には抵触していなかった。しかし改正大店法が昭和54年4月14日から施 行されたため,それまで大店法の規制対象外であった店舗のうち開店前のものは,開店時間などを商調 協において合意を得る必要が生じ,主婦の店はこの対象となる可能性があった。
18 『神戸新聞』明石,昭和59年11月30日。
19 昭和44年1月,ダイエーは新興住宅地として当時脚光を浴びていた西明石地区の明石市和坂西ノ分に 県下で13番目の店舗となる西明石店の開設を公表した。これは競合品目を有する地元の商店や中小ス ーパーにとって昭和41年末のダイエー明石店開設に続く激しい打撃となった。西明石店の開設につい ては地元の実業家が建設した鉄筋5階建の建物をダイエーが賃借する計画で昭和43年から話し合いが 進められていた。主な取扱品目は食肉,鮮魚,青果などの食料品と衣料品,化粧品,日用品で,同店を 中心に半径1キロ以内のおよそ6千世帯を商圏と捉え,1日平均4000人の来客と200万円の売り上げ を想定し,また初年度の年商は7億2千万円と見込んでいた。ダイエーにとって同店の開設は,都心部 の主力店を食料品から電化製品。プレハブ住宅まで扱う総合百貨店に近づけ,他地区から顧客を吸引す る大型店に成長させる一方,郊外の消費者を地域ごとの小規模店で着実に確保して行こうとする「二面 作戦」の現われであった。当時明石店(国鉄明石駅南側)は1日平均1万5千人の来客(月商2億7千 万円)で既に飽和状態に達していたため,人口増加の著しい明石西部に進出を決定したのである。昭和 44年9月,ダイエーは西明石店を開店した。20日の開業日と翌21日に数千枚の折り込み広告を出し,
生活必需品を目玉商品に集客を図った。また関西大学のバトントワラーやぬいぐるみ人形などで地元を パレードし,花々しく開店をアピールした。同店は延べおよそ1800平方メートルの売場に2万2〜3千 種の商品を取りそろえ,従業員は57名の社員と40名のアルバイトから成っていた。同社従業員は5日 間の売り出し期間中に原価を割った目玉商品で売上の大幅な増大を図ると意気込みを示した(「ダイエ ー西明石に進出 地元商店に打撃 七月ごろに開店」『神戸新聞』明石版,昭和44年1月15日,「西明 石 ダイエー店開き 地元商店街防戦に躍起 5割引き廉売も断行」『神戸新聞』明石,昭和44年9月 20日)。
20 一番街,三番街,五番街の愛称は昭和五二年に一般公募の結果,子午線(東経一三五度)にちなんでつ けられたものであった。
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年,人通りは増えず,売り上げは横ばいか,減少気味」と,当時同地区の商店主らは危 機感を訴えていた。危機の先駆けは駅前にダイエーが開店したことで,その結果市内の 小売市場の中でも好業績を誇っていた西明石マンモスセンターがまず大きな打撃を受け
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た。この「ダイエーショック」が一段落した後,昭和53年駅の北側に灘神戸生協が開 店したのに続き,新幹線の高架下に西明石ショッピングプラザやフードセンターが相次 ぎ開設され,駅を挟んで商店の「南北戦争」が始まり,競争は激化した。その結果,競 争が激化する以前には「貴先,藤が丘,北は西明石北町」までの約1万世帯を商圏とし ていた西明石商店街顧客の2〜3割は駅北側の住民が占めていたものが,昭和59年には これが1割程度にまで減少したとい
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う。
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21 ダイエー進出により地元商店の受けた打撃は深刻なものであった。そのため西明石店開設予定地のすぐ 南で営業していた小売市場・西明石マンモスセンター(50店舗),中小スーパー・のんきや,そして西 明石南商店会などでは,ダイエー西明石店が開店した後,これに対抗するため抽選会を計画し,また
「シール販売」に魅力を持たせるなど防戦に躍起となった。西明石マンモスセンターでは数千枚の折り 込み広告を出すとともに,9月19日には5割引の販売を断行した。「物価高にあえぐ」主婦たちは「ウ ドン玉十五円が十円,牛肉のミンチ百グラム百円が七十円,キュウリ一本十円が五円,大根半本が五 円」というこの「大安売り」を歓迎し,「押すな押すなの大盛況」となった。「どっさり買い物をして帰 る」ある主婦(30)は「私ら主婦は安い方へ買い物に行きます。ダイエーができると便利になります が,全部ダイエーで買うということもないでしょう」と述べ,ダイエー進出による競争の激化を歓迎す る意向を示した。一方西明石マンモスセンターの辻本商業協同組合長は「大資本を相手にケンカをして も始まらない。共存共栄の道をみつけて西明石一帯を発展させなくては・・・。個人商店の魅力を発揮 できるようなんとか考えます。きょうの廉売は四年間マンモスセンターを利用して下さったお客様への 恩返し」と,ダイエーを迎え打つ抱負を語った。一般に消費者や競合しない品目を扱う商店の経営者は ダイエー進出に好意的で,大手資本の参入によって「これまで独善的な経営をしていた商店が改革さ れ,商店側も共同仕入れなどの流通方法の改善,店舗大型化,専門店化など活発に動き出すのではない か」との期待が高まっていた(「ダイエー西明石に進出 地元商店に打撃 七月ごろに開店」『神戸新 聞』明石版,昭和44年1月15日,「西明石 ダイエー店開き 地元商店街防戦に躍起 5割引き廉売 も断行」『神戸新聞』明石,昭和44年9月20日)。
22 この他西明石地区北部における小売商業を巡る動きとしては,昭和48年秋,開店からわずか半年の小 売市場が区画整理により立ち退きを命じられ,これを巡り紛争が勃発したことがあげられる。立ち退き の対象となったのは西明石総合市場(明石市鳥羽1435,西田時学会長,38店舗)で,年々人口が急増 していた西明石北部の住宅地に昭和48年4月29日開業した。一階が店舗,二階が住宅となっており,
延面積2116平方メートルの敷地に「三列条」となった店舗が36軒並んでいた。ところがこの一帯は明 石市の区画整理事業実施区域となっており,店舗9軒を貫く形で道幅12メートル,延長990メートル の都市計画道路建設が計画され,また大規模な区画整理が昭和47年を皮切りとして52年ごろまでに実 施されることになっていた。これを知って同市場の商人会は驚き,市場の売主である日本総合産業(小 池喜代司代表取締役)に対し「売買契約のときなぜ将来の 立ちのき条件 を説明しなかったのか」と 責任を追及する一方,条件付きとはいえ市場という公共施設の建設を許可した市の都市計画部にもその 責任を問いただした。しかし市は都市計画法第53条ならびに第54条に基づき,将来立ち退くという条 件付きで計画実施までの期間に限り市場開設の許可を与えていたのであり,特に計画道路区域には「絶 対移転」という厳しい条件を課していた。かくして分譲前に売主から近い将来移転しなければならない ことを知らされなかった9つの店は,せっかくの「新店舗」から立ち退かなければならなくなった。中 には多額の借金をかかえ四苦八苦の店もあり,簡単に店替えもできずとまどっていた。売主とは補償の 形で話がまとまっているとはいえ,店の将来は前途多難であった。「市場を寸断され,真ん中に十二メ ートル道路が通るようでは経営ができない。西側へ少し寄ってもらえないものか」と訴える商店側に対 し,「それは不可能。許可段階でも誓約したはず」と市側は譲らぬ姿勢を示した。また周辺住民にとっ てもこの立ち退き問題は深刻な影響を及ぼすものであった。同市場の開業以前,買物客は徒歩で20分 近くを費やし西明石駅南側の商店街まで買い物に出かけていた。「交通事故の危険をおかしてまで,遠 くへ買い物に行くのはかないません」というのが消費者側の言い分であり,市民生活の向上を目的とす るはずの区画整理が逆に反対に住民の生活を圧迫する,という現実に関係者は頭を痛めていた(「開! 戦後の兵庫県明石市における日用品小売商業の展開(廣田) (671)307
Ⅴ 市西部の団地
昭和42年6月,地元小売業者が結束して明石西団地へ寄り合い百貨店を開業する計 画が明らかになっ
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た。当時県開発公社では昭和43年3月の完成を目指して明石西団地
(大久保町山手台1−3丁目,入居予定1100戸,周辺宅地約3千戸)の宅地分譲を進め ていたが,これに対し地元小売業者側では同団地に寄り合い百貨店を建設する計画を進 め,既に用地の購入契約も済ませ,また4月には共同組合(水沢武雄理事長,組合員27 名)を発足させ,昭和42年8月末の着工,43年4月の開店を予定していた。当時相次 いだ大資本スーパーの進
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出は,これまで細々ながら安定した収益を確保してきた地元小 売業界に大きな波紋を投げかけた。寄り合い百貨店はこうした大資本の進出で将来を危 惧した地元業者がその対応策として打ち出した計画であった。同組合では明石西団地が 完成したあかつきには,周辺に計画されていた公団住宅や社宅などとあわせておよそ4 千戸,1万3千人の新たな町が誕生,推定8億円弱の住民所得が発生し,そのうちおよ そ3億円が消費にまわされるものとみて,寄り合い百貨店の開設に踏み切ったのであ る。この寄り合い百貨店は,県開発公社が宅地分譲を決定した際,団地の中央にショッ ピングセンターを作ることを計画し,地元優先の方針から大久保を中心とした商店がこ の呼びかけに応じたものであった。敷地面積約2500平方メートルで,とりあえず南側 の1500平方メートルに鉄筋コンクリート2階建てワンフロア方式のショッピングセン ターを造る計画であった。参加業者の大部分は大久保地区に店舗を持つ商店主で,魚,
野菜,衣料品店,喫茶店,理髪,クリーニング店などの30店舗で発足することを予定 していた。資金にはおよそ5千万円を要したが,このうち自己資金は35% にとどまり,
残額は9月までに県の後援で発足する中小企業新興事業団から借り入れ,7年間で返済 し,その後は敷地,建物とも各組合員の個人登記にすることが予定されていた。また同 組合では寄り合い百貨店の建設を契約した際,完成後5年間は個人商店,スーパー,百 貨店など他の小売業者の進出計画を認めないとの条件を付していた。
さてこの寄り合い百貨店は山手台ショッピングセンターとして開業することになっ
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た が,同センターはその開業に先立ち,県中小企業労使センターと県商工部通商観光課に
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! 店半年で撤去の運命 西明石総合市場の9店舗 建設場所が区画整理の立ちのき地域 新築なぜ許可し た 業者 市側 期限付きの条件示した」『神戸新聞』明石のページ,昭和48年10月28日)。
23 「明石西団地に 寄り合い百貨店 スーパー攻勢に対処 地元商店が結束 来年四月開店めざす」『神戸 新聞』明石版,昭和42年6月30日。
24 昭和41年10月明石市中心部の明石駅前にスーパー・ダイエーが開店し,さらに姫路を本拠とするスー パー・フタギ(のちジャスコへの合併を経て現イオン)も駅前店の建設を進めていた。
25 「食品など31店が入居 建設進む山手台ショッピングセンター 明石西部の中心めざす」(『神戸新聞』
明石版,昭和四三年二月一五日)
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依頼し「お買い物調査」(経営診断)を行なっ
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た。この調査は同センターが商圏とみな していた大久保町西脇,神明,山の下,山手台,天郷の五カ所で103世帯を無差別に抽 出してアンケートを配布し,買物する場所と購入する商品の種類との関係や外食の回数 ならびに消費先などを調べたものであった。その結果明らかになったのはまず,日用品 や食品は地元で購入するが,呉服,贈答品などの高価な品や信用を要する品は神戸市で 買う,ということであった。地元で購入が多い品目は野菜(95.8%),鮮魚(85.2%)な どの食料品と荒物(90.5%),文房具(84.9%),暖房具などの生活必需品で,一方神戸 で購入の多い品目は高級洋服生地(65%),呉服(51%%),贈答品(57.2%)などであ った。また衣服のうち値段の安い実用品は明石市の旧市域で比較的多く購入されてい た。次いで外食については,回数は月1〜2回(勤務の都合で常に外食する者を除く)
で金額は800円程度,ということが明らかになった。回数では月1回の人(36.5%)と 2回の人(35.1%)が圧倒的に多く,また一回の外食に費やす金額は使う費用は1〜2回 の800円台から外食回数が増えるに従い少なくなる傾向が見られた。外食を行なう場所 は神戸市の48.9% と明石市旧市域44.1% が大多数を占めていたのに対し,地元大久保
地区は2.7% に過ぎなかった。同調査の対象家庭を職業別にみると,会社員(43.7%)
と公務員(19.4%)が多数をしめ,また調査対象の82.7% が俸給生活者であった。さら に回答した主婦を年代別に見ると,30代がもっとも一番多く(35.9%),彼女らは家計 簿を遣り繰りしながら慎ましい生活を送っていた。このため大久保地区で商店経営が成 功するには毎日必要な最寄り品を扱う業種か,理髪,クリーニングなどの必需サービス 業,または熱帯魚や種苗販売などの特殊業種を中心にすべきだという結論が出た。かく して山手台ショッピングセンターが開業に至ったのは昭和43(1968)年4月29日のこ とであっ
27
た。
昭和50(1975)年暮れには,団地の入居者が予想をはるかに下回ったため苦境に陥
ったショッピングセンターの件が新聞紙上に報ぜられ
28
た。大久保東団地(大久保町高 丘)は市北部の丘陵地110ヘクタールを切り開いて造成され,ここに県住宅供給公社の 分譲住宅と,日本住宅公団の分譲ならびに賃貸住宅が建設された。国鉄大久保駅から北 へ約4キロの位置にあって自然環境にも恵まれた同団地には,昭和53年までに公団の 分譲・賃貸住宅2350戸を中心に計4330戸が建設され,市東部の明舞団地と並ぶ大規模 団地となる計画であった。第一期の入居は昭和50年8月から始まり,予定では年内に
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26 「山手台ショッピングセンター お買い物調査 高級品は神戸で購入 日用品や食料品は地元で」『神戸 新聞』明石版,昭和43年2月27日。
27 「29日から店開き 山手台ショッピングセンター 大資本の進出に対抗 小売り30業者が協業化」
(『神戸新聞』明石版,昭和四三年四月二三日)。
28 「入居者不足で経営ピンチ 大久保東団地のショッピングセンター 年も越せません 業者に冷たい師 走の風」『神戸新聞』明石のページ,昭和50年12月23日。
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1100戸が入居することとなっていた。ところが,公社住宅(4 DK)110戸こそ完売し たものの,公団の分譲住宅(3 DK)540戸と賃貸住宅(2 DK)は間取りが狭いことと,
賃貸住宅の当初月額3万円,入居7年目以降は月額4万5千円という家賃の高さが災い してか人気に乏しく,当時までに400戸ほどが入居したのみで,残りは空室のままとな ってい
29
た。
こうした見通し違いの影響をまともに受けたのが,団地内に開業した大久保東団地商 業協同組合のショッピングセンター・モールおおくぼであった。将来は人口1万7千人 の大ベッドタウンになるという計画に呼応した地元の小売業界が結束して協同組合を設 立し,公団から用地を購入して開業に至ったショッピングセンターで,総事業費約10 億円のうち中小企業事業団と県の低利資金で4億6千万円,残りは自己資金や銀行融資 により調達した。入居者の利便を考慮して入居開始と同時に開業し,記念売出しを行っ たが,入居者が予定の半分以下であったため客足はまばらで,「しゃれた店内には活気 がなく,業者はガックリした表情」であった。
一方同じ大久保東団地について昭和53年1月の新聞紙上では,遅々として整備が進 まない団地内のショッピング施設について不満を漏らす投書がみられ
30
た。
「私は先日,神戸から大久保町高丘の大久保東団地に引っ越してきたものです。長 い間の借り屋生活からやっと念願のマイホームを建て,移り住んだのです。建てた ばかりで,まだ庭の整備も出来ておらず,ここにはどんな木を植えようか,などプ ランを練りながら庭づくりをしてゆき毎日,やはり自分の家を持ってよかったと思 っています。しかし,一つだけ困ったことがあります。ショッピングのことです。
東団地はまだ開発中の団地で,ショッピング街といえば,センター内の市場だけで す。市場ですので日用雑貨,食料品はそろっていますが,衣料関係が少ないようで す。ちょっとした身の回り品を買うのも不自由します。それに何よりも毎週木曜日 の定休日になると,全店舗が休んでしまい,何も買えなくなるのが困りものです。
この日は朝食のパン,牛乳すら買えず,簡単な買い物をするにも国鉄大久保駅前ま で行かねばならない状態。整備された団地のはずが,過疎地なみの不便を味わって います。ところで,センターには大丸のスーパー部「ピーコック」が進出する予定 だと聞いています。これがオープンしてくれれば,定休日にも不便を感じなくて助 かるのですが,いつごろオープンする予定なのでしょうか。東団地のような新興団
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29 公団では,入居の申し込みに大阪市内の関西支社まで行かねばならない不便さも不人気に輪をかけたと 見て,11月8日より神戸市三宮の県住宅建築総合センターにも業務を委託したが,予想した程の効果 は見られなかった。
30 「市民ポスト 過疎地なみの不便 スーパー開店いつ? ショッピングに困る大久保東団地」『神戸新 聞』明石のページ,昭和53年1月8日。
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地では市場やスーパーは公共施設的な意味あいをもっています。入居者のために,
一日も早くオープンしてほしいのですが・・・。」(大久保町高丘,主婦)
投書を行なった主婦の訴えを整理してみると,大久保東団地には小売施設として小売 市場が唯一つあるのみで,そのため市場の取扱範囲外である商品の買い物に不便である こと,また定休日には一切買物する場所がなくなり,遠く離れた大久保駅前まで買い物 に赴かねばならないこと,そしてこうした問題を解決するはずのスーパーマーケットの 開業が一向に実現しないこと,といった点が彼女の抱く不満であった。そこで神戸新聞 の編集部ではこれらについて大丸ピーコックの本部に問い合わせたところ,「いつオー プンできるか,まだ決まっていない。来月ぐらいには結論を出せると思うが,入居者の 便宜を考えて,なんとか今年中には開くようにしたいと思っています」との返答があっ た。開業に踏み切れない理由としては入居者数が少ないことが挙げられ,当時の入居者 数1800戸余りでは採算ベースに乗らないというのが同社の見解であった。一方この主 婦のいう「センター内の市場」モール大久保では,「スーパーにできるだけ早く進出し てほしい。今のままでは他に比べる相手がいないので,安売りしても額面どおり受け取 ってもらえない。スーパーが来れば,集まる客も増え,こちらも潤う」と,ライバルの 進出をむしろ歓迎する旨述べていた。ただし定休日の件については,消費者に対し定休 日前日に新聞への折り込みチラシで2日分の買い物をするようPR しており不便はかけ ていないはず,と主婦の訴えを退けていた。
Ⅵ 大久保地区
明石市西部の新興住宅地域であった大久保駅周辺における小売商業の状況は以下のよ うなものであっ
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た。大久保駅は明治21年,山陽鉄道(後の国鉄山陽本線)兵庫−姫路 間の開通と同時に,古くから宿場町として栄えた旧西国街道大久保宿から約1キロ西へ 開設された。同駅前の,当時開通したばかりの新国道(現在の国道2号線)沿いで昭和 9年に開業した米穀店の店主(昭和59年当時70歳)が語ったところによれば「駅周辺 には当時,かわら屋(製造所)が十軒ほどと,駅の前に酒屋と自転車,肥料,銀行など がポツポツとあっただけ。旧街道と新国道の間には一軒もなかった」という。その後国 道交差点付近から建ち始めた店舗は,敗戦前後にはほぼ表通りを埋め,昭和25年大久 保商盛会が結成された。昭和30年代,大久保駅前は明石市内の魚住,江井島や,神戸
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31 「明石の商店街は今・・・〈12〉すべて区画整理待ち 商業環境は大きく変化」『神戸新聞』明石,昭和 59年12月11日,「明石の商店街は今・・・〈13〉大久保中央商店街 区画整理進まず停滞 呉越同舟 の大型店・市場」『神戸新聞』明石,昭和59年12月14日。
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市の岩岡,神出など周囲2〜3キロを商圏に客を集めた。昭和38年大久保総合市場が開 業し,さらに昭和40年代に入るとジャスコが開業,これらを核として大久保中央商店 街が発展し,共同店舗や独立商店,家具,日用品,家電,衣料・寝装品などの中・小型 店が多数集積した。昭和50年には元ボウリング場を転用し,450台収容の駐車場を備 えた西友ストア大久保店が開店,売場面積は8300平方メートルで明石市西部地区最大 の商業施設として広い商圏を誇った。
大久保総合市場につき同市場に隣接して鮮魚店を営んでいた大久保中央商店街の丁字 幸雄副会長(当時49歳)のは「そりゃあ,よく売れた。遠くは岩岡,魚住,江井島か ら自転車やバスでお客さんが寄ってきた。なにしろ,大久保以西では初めての市場やっ たから・・・」とかつての同市場の活況を懐かしんだ。大久保総合市場の開設は昭和38 年のことで,田圃の真ん中に30軒の住宅付き分譲店舗が建ち,通りに沿って少しづつ 商店が増えた。
昭和40年代に入ると北部丘陵地に大久保西(山手台)と同東(高丘)の両団地が相 次いで建設され,両団地から県道を真っすぐ南下した位置に,駅にも近い好立地であっ たことから昭和45年ジャスコシティーが開業し
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た。ジャスコ(店舗面積約1000平方メ ートル)を中心とした同シティーは,周辺の農地を開発した同社が分譲を行い,共同店 舗など20数店が開店,追うように日用品や衣料・寝装品関係の大型店も道路をはさみ 立地した。昭和48年には西友ストア進出反対のため大久保中央商店街が結成された。
だが地元側の利害は完全には一致せず,取扱品目を食品中心に絞ったジャスコと大久保 総合市場の競合,さらに総合市場自身の不振も加わり協調の動きはスズラン灯を立てる 程度にとどまった。中央商店街の寺本義三会長(薬局経営)は「共同で売り出しをした
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32 昭和44年4月,フタギ・シロ・オカダヤの三スーパーが合併して成立したジャスコは,大久保地区へ の進出を明らかにした。フタギとしては30店目にあたるこの店舗では衣料品を主に扱い,年商は6〜7 億円を見込んでいた。当時ジャスコは三菱商事との業務提携によってショッピングセンター開発会社・
ダイヤモンドシティを設立し,2年間で100億円の資金を投じ,関西ならびに中部地方の各地でショッ ピングセンターの建設を進めていた。この時大久保への進出を決めた理由は,同地区が大久保東団地建 設などで大きく発展し,人口増が著しかったためである。同社では既に明石市内の桜町で明石店,大明 石町でモードセンター店,そして土山にもショッピングセンターを開設し,ダイエーや灘神戸生協と対 抗していた。大久保ショッピングセンターの開設が予定されたのは国鉄大久保駅から北西に歩いて数分 の場所で,同地には都市計画道路大久保−岩岡線の付近通過が予定されていた。敷地はおよそ7000平 方メートルで,鉄骨2階建の住宅兼店舗1棟と,同じく鉄骨2階建のショッピングセンター1棟を建設 し,残りの土地には駐車場を設け,また一部を分譲する計画であった。住宅兼店舗は10店舗で,地元 業者への優先的分譲が予定されていた。一方ショッピングセンターは直営で,延べ面積1800平方メー トル,1, 2階とも日用品,衣料品,食料品関係を主に扱うことになっていた。また駐車場は広さ2400 平方メートルで,140〜150台の自家用車利用を想定したものであった。総工費約3億5千万円の同セ ンター進出に対する地元商業界の反応は複雑であった。将来の「都市改造」と「新商店街づくり」を急 いでいた商店街組織・商盛会は,同センターが同地区の商圏拡大に役立つものと半ば進出賛成の見解を とっていたが,これに対し同センターと競合する品目を扱っていた個人商店やスーパー,小売市場では
「かなりの影響を受けるのではないか」と不安が高まっていた。(「スーパー ジャスコ が大久保に進 出 10月開店めざす 日用品などを販売 地元は複雑な表情」『神戸新聞』明石版,昭和44年4月11 日)。
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こともあるが,業種間格差や集客力の差で,平等に効果が出ない」と,協調行動のむず かしさを指摘し,むしろ弱体化している市場を強化するのが先決と述べた。灘神戸生協 大久保店の進出を皮切りに,周辺の大型店攻勢に対する大久保地区商業者の対応は,反 対しながら既存商店街の活性化を探る駅前型と,大型店の中へ飛び込み生き残りを図ろ う,というタイプとに分れ,中央商店街の指導的商店主には後者が多かった。寺本会長 らは生協やスーパー・イズミヤの進出問題において地元業者のテナント出店枠の拡大を 求め,絶対反対派の駅前商店街と微妙な対応の違いを見せていた。「小売店の体力が弱 り切らんうちに,打てる限りの手を打つ。日・祝中心の郊外大型店と,地元客相手の 日々の商売は両立できるはずだ」というのが市小売市場連合会会長も兼ねる寺本会長の 持論であった。
Ⅶ 江井ヶ島地
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区
大久保町の江井ヶ島地区では昭和44年5月,「市内で最大規模」の小売市場が開設さ れることが報じられ
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た。同地区は海岸沿いに細長く広がり,山陽電鉄と国道が東西に通 じ,ふるくから瓦の製造や酒造業が盛んであったが,昭和44年当時は新興住宅地なら びに工業地区として注目を集めていた。発展が目立つのは主に山陽電鉄の沿線地域で,
特に江井ヶ島駅周辺は同地区の「核」的な存在として明石商業高校や農協,団地などが 進出し,宅地造成も盛んであった。しかし,生活に必要な施設には恵まれず,特に小売 市場は皆無で,住民たちは明石市の中心部や二見,国鉄大久保駅前といった遠隔地での 買物を余儀なくされ,これが同地区発展の阻害要因となっていた。ここへ江井ヶ島綜合 市場の建設を進めていたのは日本総合産業会社(河本清作会長)で,山陽電鉄江井ヶ島 駅の南に面積約2600平方メートル,鉄骨モルタル塗り2階建ての店舗付住宅15棟,50 戸を建てることとなっていた。1戸の面積は48〜58平方メートルで,そのほとんどを 分譲用とし,1階を店舗,2階を住宅に利用するものであった。市場には5カ所の入り 口を設け,通路は舗装し,アーケードも設置,さらに自家用車で来場する客のためおよ そ300平方メートルの駐車場を設け,火災報知機など非常時に備えた設備も整えた「モ デル的な市場」をめざしていた。総工費は1億2〜3千万円を予定していた。同社では すでに出店者の選考を始めていたが,出店を希望する者には大阪や姫路などから応募す る者が多く,この時点で半分以上の入居者が決定していた。同市場の開設当時,江井ヶ 島駅周辺には食料品店や荒物店など数軒の小売店が点在するのみで,周辺の住民らは日
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33 明石の商店街は今・・・〈15〉江井ヶ島綜合市場 ミニスーパーが直撃 最大の悩み 過疎化現象」『神 戸新聞』明石,昭和六〇年二月一日。
34 「「総合市場」の建設すすむ 大久保町江井島地区 来月末にも開店 日本総合産業 住宅地区化で進 出」(『神戸新聞』明石版,昭和44年5月7日)。
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常の買物におよそ2キロ離れた大久保や,山陽電鉄で10分少々を要する明石駅前など へ出かけていた。「なにしろ,競合する店はなかったし,景気も上り坂。ええ商売をさ せてもらった」と同市場の店主たちは開店以後5〜6年間の よき時代 を語っていた。
しかし昭和50年4月,明石市内初の郊外型大型店となる西友ストア大久保店が開店 すると,同市場の行く末には暗雲が漂い始めた。「北へ二キロ離れていたこともあって,
当初はそれほど脅威を感じなかった」同市場は,数年後,西友ストア開店の影響が「じ わっと効いてきたこと」に慌てた。「まとめ買い」の新しい買物様式が定着し,足りな い物だけを地元で買う傾向があらわれてきたためであった。
昭和57年,江井ヶ島綜合市場は全面改装に踏み切った。西友開業の影響に加え,開 業10年を経て建物の老朽化も目立ってきたのがその理由で,改装をめざして協同組合 を設立し,2年間の準備を経てのことであった。共用部分だけで8000万円,各店の改 装を含めるとその2倍に達する投資を敢行した。「薄汚い市場のイメージを一新する」
ことを狙い,通路の照明を従来の2倍以上の明るさとし,更に入口も自動ドアとした。
開業当時平均年齢25〜6歳であった同市場の各店主は,改装時点でも未だ40歳前後と いまだ若く,育ち盛りの子供を抱えた者も多かったため「がんばらないと仕方ない」
と,売出しや顧客対応などに意欲的に取り組んでいた。
一方昭和54年,江井ヶ島駅から約1・2キロ西へ離れた西江井ヶ島駅前に西江井ヶ島 プラザが開業した。14店舗と小規模ながら国道250号線に面した新しい小売市場であ った。かつて西島地区は駅周辺に4軒の食料品店が点在するのみで,江井ヶ島総合市場 の商圏に組み込まれていたが,昭和50年代以降過疎化の進む江井ヶ島地
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区とは逆に住 宅開発が急ピッチで進み,駅前に大型分譲マンションも建設され人口が急増,年平均5
%の世帯数増加に支えられ,昭和58年に江井ヶ島地区の人口を追い越した。江井ヶ島 と同じく地区の人口がほぼ1000世帯を超えた時点で小売市場が開設された。人口急増 に支えられ昭和57年の魚住モールならびに灘神戸生協魚住店開店の影響もあまり受け なかった西江井ヶ島プラザではあったが,昭和60年2月5日,プラザに匹敵する売場 面積を有し,また初の夜間営業店舗ともなった江井ヶ島・西島地区で初めてのミニスー パーが西江井ヶ島駅南西の250号線沿いに開業し,同小売市場にとっては至近距離の
直撃 となった。
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35 江井ヶ島地区では,昭和50年ごろまで僅かながら増え続けていた人口が,以降減少に転じ,10年間で 百数十世帯,約600人も減少した。その原因は山陽電鉄以北の地域が市街地調整区域に指定され住宅開 発が止まったことに加え,古いアパートの老朽化で人口流出が始まったことにあった。
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