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権力を意味づけるもの(一) : ジェンダー・セクシ ュアリティとイデオロギー

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(1)

権力を意味づけるもの(一) : ジェンダー・セクシ ュアリティとイデオロギー

その他のタイトル Significance of Ideology for Power : from the Viewpoint of Gender and Sexuality

著者 木村 祐治

雑誌名 關西大學法學論集

巻 57

号 1

ページ 138‑171

発行年 2007‑06‑15

URL http://hdl.handle.net/10112/12371

(2)

は じ め に

第一章行為者とコンテクストーー'権力はどのような観点から捉えられてきたのか?

1 一次元的権力観

2 二次元的権力観

3 ルークスの疑問ーーー観察可能な行動がすべてなのか?

4

三 次 元 的 権 力 観

第二章道具としての権力︑コンテクストとしての権力

i

権力と権力者の結びつきは必然か?

. 1

権力行使

I I

権 力 者 の 迄 息 図

" の 現 実 化

2 権力者とその意図は確実に存在するのか?

3 コンテクストの捉えかた││i権力者の道具として︑権力それ自体として

4 権力と権力者の意図"の切断

i

権 力 を ど こ に 見 出 す の か

︵ 以 上

︑ 本 号

セクシュアリティにおける権力と言説のかかわりから

第 二 章 権 力 の 自 然 化 と イ デ オ ロ ギ ー ジ ェ ン ダ ー

イデオロギーと権力の意味づけ│ー

l

まとめにかえて 権力を意味づけるもの

` 

ジ ェ ン ダ ー

・ セ ク シ ュ ア リ テ ィ と イ デ オ ロ ギ ー

村 一

三 八

(3)

(

 

体が︑社会においてイデオロギーの役割を︑

拙稿﹁政治的自発性の追求

T e

r r

y E

a g

l e

t o

n ,

i   L

t e

r a

r y

  T

h e

o r

を手がかりに﹂︵﹃関西大学法学論集﹄第万二巻第 y

で あ

る ︑

において取り上げたように︑テリー・イーグルトン と︒さらに彼は︑イデオロギーという語を用いるに際して︑次のような留保を付けていた︒﹁わたしたち

の抱いている潜在的な価値判断やカテゴリーのすべてが︑即イデオロギーと呼ばれるわけではない⁝⁝︵中略︶わた

し が

イデオロギー

I I

I i

という語によっていわんとしているのは︑

ひとびとの中に深く刻み込まれ︑またしばしば意識 されないような信念のことではない︒そのようなものではなく︑社会権力の維持と再生に何らかのかたちで関係を持

( 3 )

つ感情︑信念︑価値判断︑認識のさまざまな様式のことなのである﹂︵強調は引用者︶︑と︒

ここから読み取れるのは︑イデオロギーの下支えによって︑権力は︑その効力を維持することができる︑というこ

とである︒イーグルトンは︑

権力を意味づけるもの

L i

t e

r a

r y

T h

e o

r y

において︑既存の文学︵批評︶理論が︑

と つ

L i

t e

r a

r y

T h

e o

r y

(日本語訳書タイトル  

ひいては文学なるものそれ自 つまりは政治的な役割を果たしているということを明らかにし︑別の理 論を適用することによって既存の理論を批判していくことを提唱した︒その意味で︑イーグルトンにとって︑︵文学︶

﹃ 文

学 と

は 何

か ﹄

ニ ニ

︵ 一

三 九

︶ ︵

強 調

は 引

用 者

の 中

で ︑

イデオロギー

I I

I I

について︑次のように述べ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

て い

た ︒

イデオロギー

I I

I i

とは︑すなわち︑﹁わたしたちが話したり︑信じたりしていることと社会の権力構造や権力

1

)

ヽ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

関係とを結びつける方法﹂であり︑﹁単に個人的嗜好のことを指しているのではなく︑ある社会集団が︑他の社会集

︑ 合

2)

団に対して権力を行使し︑また権力を維持していこうとすると彦に依拠するさまざまな前提条件﹂

号︿ 二 0

0

年 三

月 ﹀

( T

e r

r y

  E a

g l

e t

o n

)  

は︑彼の主著のひ

は じ め に

(4)

フーコーは医療や監獄︑そして のひとつの側面を捉えられると考えているのである︒事実︑

であり︑二

0

世紀の社会科学において

﹁ つ

フェミニズムはジェンダー

I I

という概念を通じて︑ る︒言い換えると︑イーグルトンは︑ このことから︑イーグルトンは︑ ずみにまで及んでいる︒したがって本書の結論は︑ フーコー

( M

i c

h e

F l

o u

c a

u l

t )

 

において︑わたしは︑ミシェル 批評とは︑イデオロギーに︑そして権力に対峙することであり︑政治的実践

I I

活動にほかならない︒

このような基本姿勢から︑イーグルトンは︑

L i

t e

r a

r y

T h

e o

r y

において︑彼の

マルクス主義のほかに︑

(4 ) 

えていた。もう一点、着目すぺきは、彼が「本書(引用者註 •LiteraryTheory)

ることである︒

フェミニズム批評︑ならびにフェミニズムの影響を受けた精神分析批評に好意的な評価を与

フェミニズム︑ならびにフーコーと関心領域を共有しているとみなすことができ

フェミニズムとフーコーの理論・思想によって︑イデオロギーの︑そして権力

セクシュアリティなどの考察を通じて︑

I I

権力を問題にしている︒

I I

この権力

j j

なるものが︑政治学において重要な概念であることは︑改めて述べるまでもない︒先行研究のごく一

(6 ) 

部を例に取っても︑権力概念は︑﹁政治学にとって唯一ではないにしても最も基本的な範疇のひとつ﹂︵丸山箕男︶に して﹁主要概念の︱つであることは衆目の一致するところ﹂︵新川敏光︶

(8 ) 

ねに論争的な主題であった﹂︵向山恭一︶とされている︒

政治学という学問の場を離れても︑

権力

I I

I J

という語それ自体は︑わたしたちにとってきわめて身近なものである

には違いない︒そのような日常において︑権力

I I

という語からまず連想されるのは︑ある個人や集団の行動︑思考

治 的

実 践

I I

に有効な理論として︑

の研究について︑明示的には論じなかった︒しかし︑

O )

フーコーの影響は︑本書のすみ

(5 ) 

フーコーなくして︑およそありえなかったであろう﹂と述べてい

(5)

権力を意味づけるもの︵一︶

つけに反対するひとびとは︑

などに一定の方向づけが与えられることであろう︒方向づけの手法としては︑たとえば︑個人や集団の意思を押さえ

( 9 )  

つけるという強制的なかたち i

こ の

強制

I I

I I

という点に︑権力の影を最も色濃く感じさせられることが多いであろ

うを考えることができる︒あるいは︑本論で取り上げるように︑権力が個人や集団の意思そのものをつくりだす

という例も想定できるかもしれない︒ともあれ︑どのような観点から権力を捉えるにせよ︑この

ものごとの方向づ

I I

I I

を行なうという点に︑権力のはたらきの本質を求めることができると思われる︒たとえば︑新川敏光は︑﹁権力

( 1 0 )

の奉仕するところは一定の支配であり秩序である﹂︵強調は原文︶と結論づけているが︑

支配

I I

I I

で あ

れ ︑

秩序

I I

I I

あれ︑ものごとに一定の方向性を与えるものであることは疑いない︒したがって︑本稿では︑権力を

ものごとを方

I I

向づけるもの

I I

であると規定して議論を進めていくことにしたい︒

ところで︑権力

I l

について語るときに前提とされているのは︑ほとんどの場合︑﹁ある個人や集団が︑別の個人や 集団を意のままに操ろうとしている﹂という図式︑逆にいえば﹁ある個人や集団が︑別の個人や集団の意のままに操

られている﹂という図式であろう︒それはすなわち︑

権力者

I I

1 1

権力を行使するもの

I I

/

権力を行使されるもの

I I

いう︑二項対立関係に置かれている行為者の存在を意味する︒詳しくは本論で取り上げるが︑政治学をはじめとする 社会科学は︑ほとんどの場合︑そのような行為者関係の存在を前提として権力を論じているのである︒

その一方で︑権力によるものごとの方向づけにおいて︑権力者︵とその意図︶

の存在は必然なのか︑という疑問も

生じてくる︒たとえば︑ジェンダーという視点が問題とする

男らしさ

IIII

女らしさである︒確かに︑

I I

男は男らし

I I

V : : , : :

女は女らしく

,  

I I

という規範にこだわりを持ち︑それらを押しつけようとするひとびと︑逆に︑そのような押し

一定数存在している︒このようなひとびとは︑社会をある一定の方向に動かそうとして

︵ 一

四 一

(6)

いるといえる︒しかし︑彼ら・彼女らを︑

みて︑無理がある︒とはいえ︑

I i

は ︑

権力者

I I

I I

から発せられるものではなく︑

のいう

v o

l u

n t

a r

y

c o

m p

l i

a n

c e

,  

w i l l

  , 

︵ 一

四 二

いわゆる

権力者

I I

I I

として位置づけることについては︑常識的・経験的に かくも彼ら・彼女らが重要視する規範がわたしたちに影響を与え︑わたしたちの行動 を方向づけているとすれば︑その規範の作用を権力の作用として位置づけることもできるであろう︒そのような権

したがって

権力を行使するもの/されるもの

I I

I I

という二項対立

の行為者関係に回収されるものでもない︒それは︑等しく行為者を取りまくもの

1 1

コンテクストからはたらきかけて

く る

︑ 権

力 者

︵ の

意 図

I i

を必要としない権力であるということができよう︒

ここで注意しなければならないのは︑このような規範が︑即権力であるということにはならない︑という点である︒

男は男らしく

I I

I I

は 女

ら し

I I

という規範がひとびとの行動を方向づけることができるのは︑

しく女らしく

I I

振る舞うことに意義を見出し︑この規範を受け容れたときである︒

けを必要とするのである︒ ひとびとが︑男ら

つまり︑規範は︑それだけで

は単なる枠組みにすぎない︒この枠組みがものごとを方向づける

I I 権力として作用するためには︑なんらかの意味づ

では︑二項対立の権力関係においては︑意味づけは不要なのであろうか︒権力を行使するもの/されるものという 二項対立の権力関係は︑権力者が行使する権力に︑権力を行使されるものが従うことによってはじめて成立する︒そ

の よ

う な

場 合

︑ ひとびとは︑ときとして︑理不尽とも思われる行動をも︑進んで選び取ってしまう︒このように︑個 人や集団が、権力に自発的に従属ー—スティーヴン・ルークス

( 1 1 )  

i n

g   c

o m

p l

i a

n c

e ‑

‑ してしまうのは︑いったいなぜなのであろうか︒

多くの場合︑権力の方向づけを受け容れなければ︑

( S

t e

v e

n   L

u k

e s

)  

ペナルティが待っているであろう︒よって︑

ペナルティを避け

(7)

権力を意味づけるもの(‑)

るために︑個人や集団は︑権力の方向づけを受け容れることになる︑という説明は十分に説得力を持っており︑実際︑

それが当てはまるケースも多いにちがいない︒しかし︑この説明では︑

不尽な思いをしてまでも︑権力の方向づけを受け容れてしまうことがあるのか︑という問いへの回答にはなりえない︒

ここで︑視点を替えてみる︒すると︑

︵ あ

る い

は 権

威 ︶

や 集

団 は

コンテクストという視点から権力

ペナルティを避けるためとはいえ︑なぜ︑理 ペナルティが用意されている場合であっても︑誰もがある権力者とその権力

に従うとは言い切れないのではないか︑ということに気づく︒ある種の権力や権威を否定する個人 いかなるときにも︑ほぼ確実に存在しているといってよい︒では︑なぜ︑権力に従わないものが出てくる 考えられる理由の︱つは︑そのような個人や集団は︑権力に従うこと以上の価値を︑権力に従わないことに見出して

いる︑というものである︒それはすなわち︑権力に従うことに意義を見出せないということである︒逆に︑理不尽なこと であっても︑それを受け容れられるのは︑そこになんらかの意義を見出しているからであるということができる︒要 するに︑権力がものごとを方向づけるためには︑

ペナルティによる威嚇のみでは不十分なケースもあるのであり︑そ れゆえ︑権力に従うことに︑意義を見出させることが必要になってくるのである︒

い て

も ︑

やはり︑意味づけは必要なのである︒この意味づけの役割を果たすものこそ︑イデオロギーにほかならない︒

イデオロギーは︑したがって︑権力とは区別される︒繰り返しになるが︑それは︑権力を意味づけるものであり︑

行為者を取りまく状況

I I

コンテクストを構成するものの一部である︒

つまり︑二項対立の権力関係にお 本稿の課題は︑このコンテクストに着目することで︑権力がいかにしてものごとの方向づけを行なうのか︑

いう︑権力の本質について考察しようというものである︒詳しくは本論に譲るが︑ の

で あ

ろ う

か ︒

(8)

I I

共通するという理由もさることながら︑ 績の中で 章

で は

︑ フェミニズムが関心を寄せたジェンダー︑

の第一巻

について考えるに際しては︑イーグルトンが示唆しているように︑ジェンダーやセクシュアリティを論じる際の ヵの捉えかたが有効であるというのが︑本稿でのわたしの基本姿勢である︒

なお︑あらかじめ断っておくが︑本稿は︑

ジェンダーセクシュアリティ

f l

I j

というテーマそれ自体を検討しよう とするものではない︒あくまでも︑

権力

I I

I I

なるものをどのように捉えることができるのか︑

ジェンダーやセクシュアリティがどのような示唆を与えてくれるのか︑

うとするものである︒

本稿では、次のように議論を進めていく。まず、第一章•第二章では、政治学において、従来、権力なるものがど のように捉えられてきたのか︑

のもとに成立したのかという点について、これらの成立•生成に

ものごとの方向づけ

I I

という権力の本質について考えていくための足がかりとする︒なお︑

セクシュアリティ

I I

に焦点を絞ったのは︑性と権力との関係が問題になってくるという点でジェンダーと の定義を示すに至ったのが︑

セクシュアリティを論じた

H i s t o i r e d e   la  

s e

u a l i t e (

性 の

歴 史

﹄ ︶

( 1 2 )  

La   Vo l o n t e   d e   S

a  g

ir

(

﹃知への意志﹄︶だったとされているからである︒

最後に、第一章•第二章で検討した従来型の権力観と第三章で検討したジェンダー・セクシュアリティにかかわる 権力に関する議論を踏まえて︑ジェンダーやセクシュアリティの概念が与えてくれる示唆をもとに︑どのような観点

関 法 第 五 七 巻

一 号

という問いに対し︑

という観点から︑これらのテーマに向き合お という問題を取り上げ︑そこに見出される権力の特徴と問題点について考える︒第三

フーコーが関心を寄せたセクシュアリティの概念がいかなる背景

権力がかかわっているという視点から取り上げ︑

フーコーのあまたの業

一 九

0

年代にフーコーが権力を考察のテーマと設定してのち︑はじめて

(9)

こ の

権力を意味づけるもの

※ 

(

 

ことを強調するところにある︒ アリティにおける権力の捉えかたが︑ から権力

I i

について論ずることができるのか︑

︱ 四 五

という問題を取り上げる︒あらかじめ述べておくと︑それは︑権力 がものごとを方向づけるに際しては︑イデオロギーによる意味づけが必要とされるのであり︑ジェンダーやセクシュ

このイデオロギーに対するひとつの視点を提供している︑

イデオロギー

I I

は︑先に簡単に述ぺたように︑権力︵関係︶

のの一部である︒要するに︑本稿の目的は︑ というものである︒

権力を考察するに際して︑コンテクストという視点が重要である

I I

文 脈 を 考 慮 し て ︑ 日本語訳がある文献の引用については︑既訳を参照しつつ︑引用箇所の文意を明確にするため︑

を名詞に置き換えるなど︑適宜訳文を改めたところがある︒

( 1 )  

T e r r y   E a g l e t o n ,   L i t e r a r y   T h e o r y   S e c o n d   E d i t i o n ,   V e r s o ,  

1 99 6,  p .  

13 . 

(テリー・イーグルトン﹃新版

橋洋一・訳︑岩波書店︑一九九六年︑二三ページ︶

( 2 )  

E a g l e t o n ,   L i t e r a r y  

T h e o r y ,  

p .  

14 . 

( ﹃ 文 学 と は 何 か

﹄ ︑ 二 五 ペ ー ジ ︶

( 3 )  

E a g l e t o n ,   L i t e r a r y   T h e o r y ,  

p .  

13 . 

( ﹃ 文 学 と は 何 か

﹄ ︑ 二 三 ペ ー ジ ︶

( 4 )

イーグルトンに対しては︑通常マルクス主義︵文学︶批評︵理論︶家

I I

という位置づけがなされており︑当人も﹁確か

に︑マルクス主義文学理論やフェミニズム文学理論は存在しているし︑わたしの持論では︑本書

( I I L i t e r a r y T h e o r y )

論じたどの文学理論にもましてそれらには価値がある﹂

( E a g l e t o n , L i t e r a r y   T h e o r y ,  

p .  

17 8.

 

﹃文学とは何か﹄︑三︱四ペー

ジ︶と述べて︑マルクス主義の価値を説いている︒ただし︑批評活動にあたって依拠する理論は︑その対象のありかたに よって異なりうる︑と彼が主張していた点は強調されなければならない︵そしてそれゆえに︑彼はマルクスの理論・思想の みならず︑フェミニズムやフーコーの思想を評価したのであるといえる︶︒したがって︑彼を単にマルクス主義者としての 側面からのみ理解しようとすることは︑適切とはいえないであろう︒この点に関しては︑木村祐治﹁政治的自発性の追求 T e r r y   E a g l e t o n ,   L i t e r a r y   T h e o r y

を手がかりに﹂﹃関西大学法学論集﹄第五二巻第六号︿二

0

0 三

年 三 月 ﹀

︑ ニ

0 ーニ 代名詞

文学とは何か﹄大

︵ 一

四 五

のもとにある行為者のコンテクストを構成するも

(10)

一 九 ペ ー ジ ︵

﹁ お わ り に │

│ 白 口 発 的 で あ る こ と と は

﹂ ︶ を 参 照 ︒

( 5

)  

E a g l e t o n ,   L i t e r a r y   T h e o r y ,  

p .  

1 1 6 .  

(

﹁ 文 学 と は 何 か ﹂

︑ 二

0

八 ペ ー ジ

( 6

)

丸山箕男﹁政治権力の諸問題﹂﹃新装版現代政治の思想と行動﹄未来社︑二

0

0 六年︑四二三ページ︒

しんかわ

( 7

) 新川敏光﹁権力論の再構成にむけて﹂﹃法学﹄︿東北大学﹀第四九巻第一号︿一九八五年四月﹀︱ニ︱ページ︒

( 8

)

向山恭一﹁政治権力と民主主義規範的展開﹁以後﹂の権力論の課題﹂内山秀夫・編﹃政治理論﹄︿講座政治学

三嶺書房︑一九九九年︑七三ページ︒

( 9

) 中 野 敏 夫 は ︑ 権 力

I I

響 力

強制

I I

I I

を次のように区別している︒中野によれば︑権力とは︑いくつかの可能な選択

肢があるという条件のもとで行為者の行為の選択に一定の方向づけを与える力である︒影響力とは︑本人

( A

) の意思

にかかわらず︑他者

( B

)

の行為状況を事実的に規定するものである︒強制

I I

とは︑本人

( A

)

が他者

( B

)

の行為選択

の可能性自体を奪ってしまうものであり︑したがって︑行為選択の責任と実行は強制者

( A

)

が担うことになり︑服従者

( B

) は行為選択の意思決定を放棄して︑この強制に服することになる︑とする︒その上で︑彼は︑﹁権力の体験とは︑何か

をさせられるということではなく︑制御された行為選択の体験﹂であり︑ゆえに︑権力は︑行為者

A/B

の双方に﹁選択

性﹂が開かれているときにこそ作動する︑と説く︵中野敏夫﹁支配の正当性

1

権力と支配を新たに概念構成する視野か

ら﹂井上俊︑上野千鶴子︑大澤真幸︑見田宗介︑吉見俊哉・編﹃権力と支配の社会学﹄︿岩波講座現代社会学第一六巻﹀

岩波書店︑一九九六年︑六九ー七 0

ペ ー ジ ︶

︒ この区別はきわめて説得的であり︑妥当であると考えられるが︑行為者の行為状況を規定したり︑意思決定を放棄させた

りすることもまた︑ひとつの

方向づけ

I I

I I

であるとはいえまいか︒したがって︑本稿では︑中野のいう強制もまた︑権

カのひとつの側面として捉えることにしたい︒

( 1 0 )

新川﹁権力論の再構成にむけて﹂﹃法学﹄︿東北大学﹀第四九巻第一号︑一五三ページ︒

( 1 1 )

  v o l u n t a r y には﹁強制的ではなく自発的な﹂︑

w i l l i n g

には﹁相手の意をくんで快

<

i する﹂︑﹁ーするのを厭わない﹂︵必ず

しも実行するとはかぎらない︶というニュアンスがある︒たとえば︑ a

v o l u n t a r y   w o r k e

r は﹁自発的に働く人﹂であるが︑

a  w i

l l i n w g   o r k e

r は﹁必要があれば働こうという意思を持つ人﹂である︒要するに︑

v o l u n t a r

y が文字通り自発的であ

る の に 対 し ︑ w i l l i n g には︑俗にいう︑空気を読むょうな意味合いが含まれているといえる︒

関 法 第 五 七 巻

一 号

︱ 四 六

︵ 一

四 六

I

(11)

イ ト ル

権力を意味づけるもの ター・バクラック

ル ー

ク ス

は ︑

に あ

る の

は ︑

(

'  

( t

w o

  , d

i m

e n

s i

o n

a l

  v i

e w

  o f   p

o w

e r

)  

とモートン・バラッツ このダールらの多元主義的な権力観を

一次元的権力観

I I

I i

﹁ ︵

ロ バ

ー ト

・ ︶

スティーヴン・ルークス えられてきたのか︑

ダ ー

し た が っ て ︑ あ え て ( ( v o l u n t a r y c o m p l i a n c e " と

^ ( w i l l i n g c o m p l i a n c e "

の 差 異 を 出 そ う と す る な ら ば ︑ 前 者 に は 積 極 的 従

属︑後者には同調的従属という訳語をあてるのが適当であろうか︒

( 1 2 )

桜井哲夫﹃フーコー﹄︿現代思想の冒険者たち

2 6 ﹀講談社︑一九九六年︑三一八ページ︒

行為者とコンテクスト

I I

権力はどのような観点から捉えられてきたのか? I

という問題について︑

( P e t e r   B

a c

h r

a c

h )

 

的・ニ次元的権力観への

第一章

( S

t e

v e

n   L

u k

e s

)  

という分野において︑

︱ 四 七

一 次

一九 六

0

年代

権力がどのような観点から捉

I I

(1 ) 

﹁現代の権力論史上に古典的な地位をしめるぺき文献﹂と評価されている

P o

せ e

r :

4 .  

R a

d i

c a

l   V

i e

(1

97

S e

c o

n d

  E d i t i o n

2

,  

00

5

日本語訳書夕

﹃現代権力論批判﹄︶を手がかりとして考察していくことにしたい︒

ルークスが

P o

せ e r

において試みたのは︑権力の概念の分析︑ならびに彼独自の権力観の提案であった︒その基本

( R

o b

e r

t   D

a h

l )

をはじめとする多元主義者らの著作をとおして︑

アメリカの政治学者たちのあいだに絶大な影響力を樹立した権力潅﹂に対する批判的な視線である︒ 本章︑および次章では︑従来︑政治学︵を含む社会科学︶

( o

n e

‑ d

i m

e n

s i

o n

a l

i   v

e w

  o f   p o

w e

r )

︑ピー

( M

o t

o n

  B a

r a

t z

)

が多元主義的権力観に対する批判とし

I I

三次元的権力観

I I

て示した権力観を

二次元的権力観

I I

I j

を﹁一次元的権力観を大きく踏み越えていることは疑いない﹂と評価しつつ︑同時に

(4 ) 

﹁徹底した批判﹂として︑独自の と名づける︒そして︑この二次元的権力観

( 3 )  

﹁ 不

十 分

﹂ で

あ る

と し

( t

h r

e e

' d

i m

e n

s i

o n

a l

i   v

e w

  o f   p

o w

e r

)  

︵ 一

四 七

(12)

られているようである︒

ダールの権力概念

I A

B

に対して権力を持つのは︑

A が

B

に︑本来ならば

B

が行なわないことをさせるときで

( 5 ) ( 6 )  

ある││iに対しては︑﹁一九六

0

年代のアメリカの政治学者に絶大な影響力を樹立した﹂﹁二

0

世紀後半のもっとも

(7 ) 

オーソドックスな権力概念﹂という評価がある︒その意味で︑ダールら多元主義者の権力観

I I

一次元的権力観を批判

したルークスの

p g g r

の日本語訳書タイトルが︑﹃現代権力論批判﹄という︑原題と比べると大仰な印象を与えるも

のとなっているのも︑決してゆえなきことではないといえるであろう︒

しかし︑これらの権力観は︑

権力を行使するもの/されるもの

I I

I I

という︑行為者︵関係︶

り立っているという点では共通している。その意味で、政治学|—とりわけ行動論政治学において論じられてき

た 権

力 は

行為者視点の権力

1 1

I I

であるということができるのである︒

一次冗的権力観

さ て

︑ ルークスは︑ダールが先述の権力概念を示した少しあとで︑権力関係について︑﹁

A

が a に︑本来ならば a

(8 ) 

が行なわないことをうまくさせるような

A

の企てにかかわる﹂と述べている点に着目する︒ルークスは︑ここに顕在

( 9 )  

的権力

I I

権力の行使を見出し︑権力行使こそが︑多元主義者の権力観の中核であるとする︒

ダールの権力概念それ自体が妥当なものであるのかどうかという点に関しては︑

この権力観がどのようにして得られたものなのか︑ということである︒ルークスの関心もまた︑むしろその点に向け を提唱するに至るのである︒

の存在を前提として成

ひとまずおく︒ここでの問題は︑

(13)

者の中で︑最終的に採用されるに至った案を発議したのは誰か︑別の参加者による対案を拒否したのは誰か︑などの 点を洗い出すことで個々の参加者の成功/失敗を色分けし︑最も高い成功率を誇った参加者を最も影響力のある参加 者として位置づけたことに目を向ける︒ルークスによれば︑このようなダールの手法は︑現実の観察可能な行動

I I

を取り上げるものであって︑多元主義者が権力を論ずるときの中心課題が︑

決定作成

I I

I I

ということを意味するものである︒さらにいえば︑そこでは︑決定には︑現実の観察可能な紛争

I I

が伴うことが想

( 1 0 )  

定されている︒つまるところ︑紛争という行動が存在しなければ権力の行使は明らかにできない︑というのが︑

一次元的権力観の立場なのである︒

ここでいう紛争

I I

とは︑﹁意識的に形成され︑活動において示され︑またそれゆえに︑

ることによって見出されると想定されている︑さまざまな選好のあいだに起こる紛争﹂を意味する︒さらに︑

利害

I I

I I

が政策選好として了解されるがゆえに︑多元主義者は︑

利害

I I

I I

と い

う の

が ︑

ルークスの見解である︒

こにあるものなのであって︑明確に示されない︑あるいは観察できない利害の存在や︑ある人が自分の利害につい

( 1 1 )  

て勘違いしたり気づかなかったりする可能性などは︑想定されていないのである︒

二次元的権力観

権力を意味づけるもの(‑)

ル ー

ク ス

は ︑

ダールがその主著のひとつ︑

W h o   g o v

e r

n s

(1961) 

 

︱ 四

九 ( d

e c i s

i o n   ,  m

a k

i n

g )

にある

において︑ものごとの

決定に際して︑参加

I I

このような

決定作成

I I

I I

と顕在的な利害に着目する一次元的権力観に異議を唱えるのが︑ ひとびとの行動を観察す

の紛争イコール選好の紛争であると想定している︑

ルークスのまとめによれば︑多元主義者にとって︑利害とは︑ いわばぶ吊にそ

バクラックとバラッツの

︵ 一

四 九

(14)

はできない︒その意味では︑ もうひとつの側面を問題にしようとするのである︒

T

さ o

F a

c e

s   o f   P o   g e

r (

1 9

6 2

)  

︵ 一

O )

である︒二人は︑具体的決定

I I

において見出される権力の存在は認めつつも︑権力の

バクラック

1 1

バラッツが注意を促すのは︑権力が決定作成それ自体のみならず︑決定作成の範囲を制限するという

かたちで行使されることがある︑ということ︑すなわち

I t

決 定

作 成

これは︑決定作成者に対する挑戦を抑止し︑あるいは挫折させる決定︑たとえば︑政治システムにおいて永続化して いる︑個人や集団のあいだに存在する不平等な利益配分構造の平等化をはかるような行為を妨害したり︑骨抜きにし

( 1 2 )  

たりする決定である︒これをダールの図式で表現するならば︑

A

よ っ

て ︑

B

が利害の争点化を阻止されている︑と

いうことになる︒ルークスの理解によれば︑

潜在的争点

I I

I I

の顕在化を阻止するために︑権力によって

決定

I I

j J

が回

( 1 3 )  

避される手法について考察すること︑それが二次元的権力観の視角なのである︒

し か

し ︑

ルークスは︑バクラック

1 1

バラッツも︑実際の観察可能な

紛争

I I

I I

に着目している点では︑多元主義者と

共通している︑

と指摘する︒﹁多元主義者は政治システム内に存在すると想定されるすべての市民が行動によって示 す政策選好を利害であると考えるが︑バクラックとバラッツもまた︑政治システムから部分的に︑もしくは全面的に 排除されたひとびとが行動によって表明する政策選好︑すなわち︑目に見えるかたちで︑あるいは暗示的に不満を示

( 1 4 )  

すことで表明する政策選好を利害であると考える﹂︵強調は引用者︶とルークスはいう︒つまるところ︑

力観も二次元的権力観も︑利害対立という

行動

I I

I I

が目に見えるかたちで存在しないかぎり︑権力の姿を捉えること

一次元的権力観と二次元的権力観のあいだに︑﹁権力観に関する本質的相違があるわけ

( 1 5 )  

ではなく︑権力分析の対象領域に関して食い違いがあるにすぎない﹂といえるのである︒

関 法 第 五 七 巻

一 号

( n

o n

  , d e c i s

i o n   ,  m

a k

i n

g )

 

一 五

という問題である︒

一次元的権

(15)

︿ 行

動 主

義 的

焦 点

このような一次元的・ニ次元的権力観の検討を踏まえて︑

さらには選好までをもかたちづくり︑

一 五

ルークスは次のように考える︒﹁ひとびとの知覚︑認識︑

いかなる程度であれ︑ひとびとに不平不満を持たせないこと︑それこそが権力

( 1 6 )  

の至高の︑しかも最も狡猾な行使なのではあるまいか﹂と︒これをダールの図式で表現すれば︑

A

に よ

っ て

B

は真 の利害について認識することを阻まれている可能性がある︑ということになる︒要するに︑

ろうとしているのである︒

と で

あ る

ル ー

ク ス

は ︑

われている︒その意味で︑ ルークスは︑紛争

I I

︑す

なわち利害をめぐっての対立が生じないよう︑その芽があらかじめ摘まれてしまうという点に︑権力の行使を見て取

つまり︑本来ならば存在しているはずの利害を隠蔽してしまうものこそが︑

いうまでもないことであるが︑利害をめぐっての観察可能な行動

I I

紛争にのみ目を向けているかぎり︑隠蔽されて

いる真の利害の姿を捉えることはできない︒それはすなわち︑権力が行使されたという事実を把握できないというこ

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ヽヽヽ

( 1 7 )

﹁権力は︑その姿を捉えられないときにこそ︑最も効力を発揮する﹂

ているが︑このような語り口にも︑観察可能な行動にのみ着目する姿勢に対する︑彼の批判的なスタンスがよくあら

ルークスが一次元的・ニ次元的権力観から引き出したのは︑大きくいえば︑行動

I I

を基

礎として政治現象を捉えようとする視点

1 1

行動論政治学の限界であるといえるかもしれない︒

︵ 強

調 は

引 用

者 ︶

と 述

べ かくしてルークスは︑﹁あまりに個人主義的である先の二つの権力観︵註・一次元的︑および二次元的権力観︶

( 1 8 )  

︿ 徹

底 し

た 批

判 ﹀

﹂ と

し て

三次元的権力観を提唱することになる︒

I I

権力を意味づけるもの(‑)

へ の

える権力にほかならない︒

3

ルークスの疑問

││II観察可能な行動

I I

がすべてなのか?

︵ 一

五 一

ルークスの考

(16)

(3)  (2)  (1) 

権力が無意識に行使される︒ 三次元的権力観

権力を把握するにあたって︑あくまでも観察可能な行動に焦点を絞る一次元的・ニ次元的権力観を克服しようとす るルークスの三次元的権力観とは︑具体的にはどのようなものなのであろうか︒

中島吉弘の理解によれば︑三次元的権力観とは︑﹁社会的諸力とか制度上の慣行の操作をとおして︑あるいは個人 の決定をとおして紛争や争点が政治過程から意識的︑無意識的に排除される種々様々な方途についての考察を可能な らしめるような視座﹂であり︑具体的には﹁マス・メディアや社会化の諸過程といった日常のありふれた形態をとお して︑人々の知覚や認識︑選好そのものを造形し支配する﹂というかたちをとるとされる︒ルークスは︑この点に︑

( 1 9 )  

﹁権力の至高の行使形態をみている﹂というのである︒

星野智は︑この三次元的権力観を次のように位置づけている︒

ルークスの三次元的権力論が問題にするのは︑権力行使における観察可能な行動よりもむしろ無活動や無意識的な行使 であり︑集団や制度といった集合体による権力行使である︒ここにおいて︑ルークスは方法論的個人主義を斥けること

によって権力行使を行為者

(a ge nc y)

だけに依拠する立場を乗り越え︑個人あるいは集団がおかれているコンテキスト

( 2 0 )  

としての構造的な拘束性を権力論の視野に入れている︒

さらに星野は︑三次元的権力観の特徴を︑次のようにまとめている︒すなわち︑

権力行使には観察可能な行動よりも無活動が伴う︒

権力行使を集団︑階級︑あるいは制度といった集合体あるいは構造に帰属させる︒

関 法 第 五 七 巻

一 号

一 五

︵ 一

五 二

(17)

( 1 )  

あ る

な い

権力を意味づけるもの(‑) つ

ま り

一次元的・ニ次元的権力観は︑先に見たように︑観察可能な行動

I I

紛争において権力を見出そうとするものである

が︑それはすなわち︑紛争の当事者である個人や集団

11

行為者に着目することを意味しているといえるであろう︒こ

れに対し︑三次元的権力観は︑星野のことばを借りるならば︑行為者それ自体よりも︑むしろ行為者が置かれている 構造的な拘束性

l l コンテクストに目を向けようとするもの︑言い換えると﹁権力の人格的な側面よりも︑構造的な側

( 2 2 )  

面に注目﹂するものなのである︒この

構造

I I

I I

は︑デイヴィッド・イーストンのいう︑ものごとのありかたを決定し︑

促進し︑あるいは制限する︑﹁全包摂的な構造的文ー﹂として理解することができよう︒

しかし︑次章において改めて論じるように︑三次元的権力観が︑

使するもの/されるものという行為者︵関係︶

ま と

め る

と ︑

一次元的・ニ次元的権力観と三次元的権力観は︑何をもって権力が行使されたと考えるか︑という点 においてはそれぞれ一線を画しているものの︑その最終的な関心誰が・何が権力を握っているのか︑そしてその 権力が誰に•何に向けられているのかを突き止めること

||i

においては、軌を一にしているということができるので 一次元的・ニ次元的・三次元的権力観は︑権力を行使するもの/されるものという行為者に着目して

権力の姿を捉えようとする︑

行為者視点の権力観として︑

1 1

こ の

よ う

に ︑

権力なるものを︑

I I

行為者

I I

I I

の存在を否定するものではないという点は︑強調されなければなら のあいだに成立するものとして捉えてきたと考えられるのである︒

スティーヴン・ルークス﹃現代権力論批判﹄中島吉弘・訳︑未来社︑

( 2 1 )  

の 三

点 で

あ る

一 九 九 五 年 ︑

一 五 三

︵ 一

五 三

︶ 一 三 四 ペ ー ジ

︿ 中 島 に よ る 訳 者 解 説

﹀ ︒

一括して位置づけることができる︒そして︑政治学は︑

一次元的・ニ次元的権力観と同様に︑権力を行

(18)

巨悉穀ばギ~1nit' 1

ば回

(1

ば臣)

終将匡蚤罹

Ill

l

兵ギ回母旦壬至ゃ兵¥忌楽

(StevenLukes, Power: Radical View, Macmillan, 1974)

全ふ Q 薩羞や 母心°

忌楽Q釦約竺1]00~

母旦壬至ゃ辛心綜 l 国

(StevenLukes, Power: 

Radical View Second Edition, Palgrave Macmillan, 2005)

以将勾叫闘坦筵這ゃ#匡攣譴

l

蕩只心° 悶

l

楽や定リ譴

l

藩麟心'線

I1

Power, Freedom, and Reason'

111

Three‑DimensionalPower'

やふ江字抵刈⇒化

Guideto Further Reading

茶翌巨ゃ菜

\,-J:.,,1-00怜器や竺’抵11~如幹苗戸'槃l煽=忌~Q~\産廻志旦0:.,, \J筵’訊lllQ溢罰て一;入手痣~\--'1恰⇒心°(N) Steven Lukes, Power: Radical View Second Edition, Palgrave Macmillan, 2005, p. 15. 

(『窓起避只縄苺写」'

0'<‑

り\)

(M) Lukes, Power, p. 25. 

(『壁乏避只愉唇奉葉』

'III'<

一い入)

(寸)

Lukes, Power, p. 28. 

(『聡起避只繕苺弄」'回

Ot

一:入)

(L()) Robert Dahl, The Concept of Power. Behavioral Science, Vol. 2, No. (July 1957), pp. 202‑203. Q埒礼譴笹縄Q心~->J 

Q 垣志 0 基択如翠恰,...)

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'Ahas power over to the extent that he can get to do something that would not otherwise do. 

や埒炉

(~) 会一~K『感起避宍縄苺写』'

11

ギて一:入〈廿虚旦吋肉羞牌眺宿〉°

(日沿王『避図

'1'<

一:ゞ°

(oo) Dahl, The Concept of Power. Behavioral Science, Vol. 2, No. 3, p. 204. 

ID¥‑〇坦(L())

心互萎リ Q 埒心 Q 捲渥

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Q 垣忘心

0:.,,\J

如世やく如戸田~,...) ¥J ぷ "v"o 晦やく匁

'it(=power relation) seemed to involve successful attempt by to get to do something he would not otherwise do. 

や埒心°

(O">) Lukes, Power, p. 12. 

(『窓ピ送只縄羊罪』'

1

回―

l

ばて一;入)

怜奴ゃ殴北知r,l.J.'~一~K迂Ahas power over to the extent that he can get to do something that would not otherwise do. 

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参照

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