翻訳 クルト・ゼールマン『法哲学』(第四版・二〇
〇七年)(五)
その他のタイトル Kurt Seelmann, Rechtsphilosophie,4.Auflage(5)
著者 竹下 賢, 川口 浩一, 松生 光正
雑誌名 關西大學法學論集
巻 60
号 4
ページ 998‑977
発行年 2010‑11‑26
URL http://hdl.handle.net/10112/5003
ゼールマン
﹃ 法
﹃ 法 哲 学
﹄
目 次
︵ 五 ︶
︵以
上六
0
巻一号 ︶
︵ 第 四 版
・ ニ
0 0 七 年 ︶
Ku rt Se el ma
nn ,
R e c h t s p h i l o s o p h i
4e . ,
Au
fl
ag
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◎
Ve rl ag H C. .
Be ck
oHG ,
Mi in ch en
(
20 07 )
は し が き
A法とは何か
第一
章﹁代替手段論争﹂すなわち︑法は自明のものではない
第二
章 法 概 念 の 諸 相
(5節まで五九巻二号︶
第三章法と類似の諸現象との間での限界付け︵以上五九巻五号︶
第四章代替手段の問題及び法がもたらすもの
B法律以外の諸前提に対する法の依存性
第五章問題設定の許容性について
第六章法律以外の諸前提がもつ実際上の意味
第七章正義論ー│手短な歴史の概観
哲
学 ﹄
クルト・ゼールマン ︹翻訳︺
︵ 五 ︶
︵ 九 九 八
︶
竹下賢・川口浩一︵監訳︶
松 生 光 正
︵ 訳
︶
34
だというのである ︒
(3 7) 33k·O•アーペルは、
一 定の討議規則を﹁超越論的語用論的に
32
﹁究極的基礎づけ
(L et zt be gr ti nd un g)
﹂は︑概念的には ﹁ 絶対的な﹂規範の基礎づけであるかのように︑
︵ 規範定立者あるいは規範の名宛人︶
し︑さしあたって﹁究極的基礎づけ﹂というタイトルで議論されているものは︑その要求するところはより控えめである ︒
つ ま
り︑それはまず規範の名宛人に 一 定の行為に対する意思のあることを前提とし︑これを基礎にして矛盾性論拠を用いて議論する
のである ︒ つまり規範を関係者
(3 6)
の何らかの意思とは無関係に基礎づける手続きを表現しているかのように思われる︒しか
なす ︒ つまり︑これらの規則は︑論証する可能性の規範的条件を表現するとされるのである ︒ 何かを主張し︑その主張が妥当す
ることを論証することにより︑討議に入り込もうとする者は常に︑このような規則が前提とされていなければ︑そうすることは
出来ないという ︒ すなわち︑これらの規則は︑論証が論証であり得るためには妥当しなければならないことを表現しているもの
アーペルは︑さきほど討議規則に関連して挙げた語用論的︑意味論的規則にこのような超越論的語用論的地位を承認しようと
する︒これらの規則を否認しようとする者は︑そうするために ︵ なぜなら︑否認も ︱ つの論証行為であるから︶同時にそれらの
(規則を前提としなければならないという︒それによって︑自己矛盾に陥ることになるとする︒つまり︑その反対が自己矛盾であ
3 8 )3
.
﹁究極的基礎づけ﹂の試み
第九章現在の規範の基礎づけ論争
第 八 章 自 然 法 第九章現在の規範の基礎づけ論争 第 十 章 現 代 の 正 義 論
関 法 第 六
0 巻
四 号
(2節まで六
0
巻二号 ︑
3節以下本号︶
(1節まで本号︶
︵ 九
九 七
︶
(t
ra ns ze nd en ta lp ra gm at is ch )
﹂
茸 年
碑 匹
つ け
ら れ
て い
る も
の と
見
3 6 3 5
ゼールマン
︵ 五 ︶
い近代の哲学史における究極の甚礎づけ問題 る命題は︑﹁究極的に基礎づけられたもの﹂と見なされなければならないというのである︒
構造的に類似した論拠は︑全くの別の倫理的伝統のもとに立つものではあるが︑他の論者にも見られる
︒
え 例
ば ︑
ヒ・シュタインフォルトは︑﹁古典的な﹂倫理学︑
︵ 九九六 ︶
ウ ル リ ッ
つまり行為原理の拘束性の根拠は主体にではなく︑客体の特性に存するとす
る倫理学を主張する ︒
しかし︑彼も︑不存在に対し存在が優先に値することを︑例えば︑﹁前近代的に﹂
ー │
ー 一
定の特性の
事実性を理由としてこれが価値にも富むということにより論証しようとしているわけではない
︒ そうすることは今日 一 般に避け
られている﹁自然主義的誤謬推理﹂であろう ︒
むしろ彼は︑事実また不存在を存在に対し優先させようとする者の自己矛盾によ り論証しているのである︒つまり︑このような存在否定論者は︑存在維持の原理の無理な貫徹に反対して援用しうるすべての根
(3 9
)
拠を自ら放棄しているというのである ︒
ところで究極の基礎づけ論拠は決して新しいものではない
︒
むしろそれはドイツ観念論哲学にとって特徴的なことであると
言
うことができる︒
(4 0
)
釈されている ︒ その場合︑カントは︑自律性 ︵
主体の自己立法︶
一 部では︑すでにカントが︑今日︑彼にとって 実
践哲学はそれに固有の条件としての自由を目指していると解 なければならない︑なぜなら︑自由の可能性への問いがすでにまさにこの問いについての決定能力を前提としており︑それによ
り同時に自律性を前提としているからである︑というように理解されうるであろう
︒ これに対して︑歴史 上 のカントは︑その 自
律性の基礎づけにおいて今日しばしば認めようとされているよりもより多くの﹁前カント的な﹂形而上学の要素を利用している
といえるであろう ︒
まさにカントには︑倫理の基本原理についての超越的反省的基礎づけが欠けている︑つまり彼は基礎づ
(4 1
)
け の
試 み
を ︑
﹁ 理性の事実﹂としての倫理法則の確実性という主張によってまさに中断しているのである
︒ 彼はそのようにして
良心的直観が経験的には反対し得ないことを倫理法則の基礎づけのために援用することによって︑自身の超越的基礎づけ要求と
( 4 2 )
矛盾している ︒ もっとも彼は︑理性を道徳的な正当性要求のための唯 一
の規範的基準であることを証明することにより︑基礎づ
﹃ 法哲
学 ﹄
という意味での自由が実践哲学においては必然的に前提とされ
3 8 3 7 それ以上議論する必要はない︒
︵あらゆる犯罪行為は承認侵害か?
︵ 九
九 五
︶
けのための下準備を行っている︒つまり批判の手段としての理性は︑同時にその基準でなければならないのである︒
近代的な究極的基礎づけ論拠はおそらく最初はヘーゲルに認められる︒ここでは例として彼の刑罰の基礎づけ論拠についてそ
(れをたどってみよう︒ヘーゲルは︑犯罪行為においては︑行為者と被害者との間の承認関係が侵害されている︑それにより同時
) 4 3に︑両者とも法主体であるから︑行為者と法秩序全体との間の承認関係が侵害されていることから出発する︒行為者は︑
に被害者よりも抜きんでて︑彼の生活の外的領域についての処分権限を疑問なものとすることによって︑被害者から承認を奪い
ヘーゲルにとってはフィヒテの伝統のなかで人格であることの︑ つまり法主体であること
の前提条件︑より以上にそれどころか自己意識の前提条件であるものを侵害している︒行為者が法主体としての被害者から責任
のある承認を奪い去る場合︑彼は︑具体的な被害者と法秩序を自身の専横の単なる手段へと貶めているとするのである︒しかし︑
承認は相互的に条件づけられた関係であるから︑行為者は︑このようにして自身から承認を奪い去っている︒ところが︑承認は
自己意識と任意に行われる相互作用の前提条件であるから︑相互的な承認の必然性に対して自己矛盾を犯さずに反対の論証は行
いえない論証はなんと言ってもすでに︑まさに承認が前提とする︑機能する相互作用関係に頼らざるをえない
︒
承認論拠を
否認しようとするならば︑そこには原理的な自己矛盾が存在する︒つまり︑その全く同じ瞬間に否認していることを承認するこ
とになる︑それどころか否認しているということによってそれを承認することになるのである︒承認に対し反対の論証を行おう
とする者は︑まさに論証可能性および相互作用可能性としての承認を前提としている︒ところで︑犯罪行為者はヘーゲルにとっ
てはその行為の中で他者に対しこの承認を拒否しており︑それによってその必然性に対し反対の論証をしていると推論されるの
であるから︑彼は自己矛盾的に行為していることになる︒とりわけそこからヘーゲルは刑罰を基礎づけているのである︒
それにもかかわらず︑そのような論証については︑構造の点で受け入れる場合にすら︑その前提が疑わしいことがありうる
去っている︒それによって行為者は︑
関 法 第 六
0 巻
四 号
あらゆる承認侵害は︑相互的承認の原理的必然性に反対する論拠か?︶ことは︑ここでは 四
一
方的
41 40
3 9
ゼールマン
で あ
る ︒
﹁ミュンビハウゼンのトリレンマ﹂に対しては︑それ自体矛盾していると反論されている︒つまり︑﹁究極的基礎づけは不可能 である﹂という主張が妥当要求を伴って提起される場合︑この主張自体の中に矛盾がある︑すなわち文の内容とその要求との間 に矛盾があるとである︒文の反論を許さない︑無条件の要求は︑なんと言ってもまさにそのような反論を許さない︑無条件の妥
(4 5
)
当要求の可能性を否認す
る︑それ自体の内容と矛盾するというのである
︒
近代的な﹁超越論的語用論﹂において個々的に利用された︑﹁語用論的﹂あるいは﹁遂行論的
(p er fo rm at iv )
自己矛盾﹂によ
る論配文の内容(命題)がそれ自体の含意する妥当要求(その「遂行論的内実」)と矛盾する
—|が‘ここでは究極的基礎
づけ要求を否認する主張に適用されている︒しかし︑それによっておそらくアーペルの方法の﹁個別性
( P u n k t u a l i t a t )
﹂は乗り
越えられない︒なぜなら︑﹁ミュンヒハウゼンのトリレンマ﹂は無条件に妥当するわけではないこと︑
盾﹂の場合には妥当しないこと以上のことはとにかくやはり証明されていないからである︒どのような場合に実際にそのような
自己矛盾を問題としうるかつまりアー
ペルによって挙げられた討議規則すべてさえもそれに数えられるのか—|心ェ未解決の
ままである︒より詳しく考察すると︑
な討議規則の場合にのみ生じうること︑
﹃ 法
哲 学
﹄
とに依存している︒
︵ 五 ︶
b
非実定的な正当性基準についての現在の議論に関しては︑
アーペルの言う意味で単に個別的な討議規則が︑それを否定すると 自己矛盾となるがゆえに究極的に基礎づけられたものと証明でき
るだけか︑あるいは哲 学全体を示したようなモデルによる究極
(4 4
)
的基礎づけへともたらすことができるというドイツ観念論の要求を再び取り上げることができるのか︑が争われている︒これは︑
まった<根本的に︑﹁ミュンヒハウゼンのトリレンマ﹂を打ち破ることができるのか︑
五
できるとすればどの程度にか︑というこ
つまり﹁遂行論的自己矛
いくつかの点が示唆するのは︑実際の遂行論的矛盾は︑全く少数の︑どちらというと平凡
(4 7
)
つまり﹁真の究極的基礎づけは取るに足らない哲学的見解を媒介するだけであること﹂
近代的な﹁究極的甚礎づけ﹂論拠の射程範囲
︵ 九
九 四
︶
4 3
42﹁ 主
知 主
義 的
誤 謬
推 理
﹂
もっともこのことはここではより詳しく議論する必要は全くない。すなわち、およそ合理的な論証の条件—~矛盾の回避I
が︑同時に究極的に基礎づけられた道徳的規範の妥当根拠でありうるのかが疑われなければならない︒ここでは合理的な認識に
達するために遵守しなければならない条件が︑道徳的︑法的に秩序づけられた環境で生きようと欲すれば前提としなければなら
(ない規範であるとひそかに解釈されているのである︒このようなやり方は﹁主知主義的
4 8 )(i nt el le kt ua li st is ch )
誤謬推理﹂と呼ぶ
(ことができる︒すでにケルゼンが︑正当にも︑理性使用の規則から絶対的に妥当する道徳規範を推論することを批判していた︒
4 9 )そのような推論は︑
遂行論的自己矛盾の論拠も規範の妥当の基礎づけには寄与しないならば︑規範は事実に依拠するのでも︑知的矛盾に依拠
するのでもな<_—それ自体の側から規範的にのみ基礎づけられうるという認識を避けることはできない。そうなると最終的には や
は り
︑
ストア学派的な﹁正しい理性
(re ct a ra ti o )
﹂という観念の後遺症にかかわる問題である︑
コンセンサス論︑特に討議倫理が規範の妥当根拠を正しく挙げることができるように思われる ︒ しかし︑この推定も
早計に過ぎるであろう ︒
つ ま
り ︑
コンセンサス論と討議倫理は︑合理的な規範的基礎づけへの要求を放棄しているか︑でなけれ
ば追加的な﹁外部的な﹂規範的基準を裏口から導入しているのである ︒ なぜなら︑それは︑単なる事実上のコンセンサスに着目
するか︑あるいは理想的発話状況や資格を持った判断者のような規範的基準ないし普遍化の原理を引っ張り出しているからであ
る ︒ 合理的な規範の基礎づけは︑その前提条件を明確なものにしなければならない ︒ 討議倫理については︑関係者自身の視点の
み が
︑
つまりその利益
(In te re ss e)
のみが︑彼らに対し規範が基礎づけられたものと証明されうるかに関し決定的影響を与える
という点は承認できる ︒ 討議倫理については︑この場合︑あらゆる自発的に発生する利益が決定的でありうるのではなく︑可能 4 .期待可能な規範の承認︑すなわち 二 重の承認 と意思との ︵ 有意義な結合ではなく ︶ 許されない混同なのである ︒
(c)
関 法 第 六 0 巻 四 号
六
︵ 九九 三 ︶
つまり認識能力
45 44
ゼールマン はならないが
七
な限り﹁支配から自由に﹂成立し︑他者の利益をともに顧慮するような利益のみが決定的でありうるという点についても同意し
うる ︒
他方で︑究極的基礎づけ論者については︑論証の可能性の条件であるような前提条件が存在するという点については従い
うる ︒
しかし︑討議論者が討議に対しその規範基礎づけ能力を過大に評価し︑利益とそれらの間の調整を過小に評価している
一
方で︑究極的 基 礎づけ論の主張者は矛盾論拠による規範 基 礎づけをあまりにも広く規範内容にまで拡張することがまれではない
のである ︒
論証過程においては同等であるという相互的承認には論証の||!規範内容に関しては比較的重要でない——ー前提条件が存在す
る ︒ また 一 部は同じで 一 部は異なり︑互いに両立したり競合する人間の利益が存在するのであろう︑その際前提とされた論証す
る者の相互的承認は︑全ての者の利益は同価値的なものとして顧慮されるべきであるという帰結を生む ︒ これらの利益から︑再
び規範が承認される ︒ それゆえ︑規範の妥当根拠は︑このような︑関係者の利益を顧慮し人格的承認の相互性の 基 準に照らした
規範的に期待可能な規範のそれら関係者による承認のみでしかありえない ︒ つまり︑期待可能なものは︑規範を承認する主体の
( 5 0
)
のみから帰結しうるのである ︒ ︵ 必ずしも利己的である必要はない ︶ 利益と構成条件
(Ko n s t i t u i e r u n g s be di ng un g)
長期的利益へのこのような依存性は︑当然に期待可能性テーゼの射程範囲を限界づける ︒ ﹁自然状態﹂にとどまろうとする者
(5 1
)
に対しては︑普遍的に妥当する利益中立的な衝突規則 ︵ ここでは簡単に﹁論証状態
(Ar g u m e n t a t i o n s z u s t a d n
﹂と呼ぶ ︶
)の 下
( 5 2 )
での状態は基礎づけられない ︒ たしかに︑それにもかかわらず︑拒否者は︑他者により﹁自然状態にあるかのように﹂扱われて
︵ これについてはすぐに後述する ︶ ︑しかし︑彼は︑対応する利益を持つ者と同じように扱われることについて苦
情を申し立てる事は出来ない ︒ これに対し︑論証状態に対する個々人の利益についての彼らの動機づけがどのような種類のもの
( 5 3 )
か﹁自然状態﹂では最も弱い者も強者を殺害しうるというホップスの論拠か︑あるいは自尊心ないし人間的共同生活への利
(益という観点か'~は、解明する必要はない。 5 4 )
﹃ 法哲学
﹄ ︵
五 ︶ ① 相互的承認の諸条件からの期待可能性
︵ 九
九
二 ︶
48 4 7 46 示
し た よ う な 意 味 で
カント的伝統のなかでは︑そのような規範の基礎づけについて︑ 一 見したところでは 一 致する利益を持つ者に対してのみ拘束
的なだけであり︑彼らと利益の点で相違する者に対しては何ら基礎づけの可能性を持たないことを嘆きうるであろう︒これは実
際に不利な点である︒しかし︑この点についてカント的伝統はみかけ上の代替策を与えるだけである︒つまり︒逸脱者に対して
理性的な自己立法︵自律性︶を認め︑その名において彼に対し規範を基礎づけることをである︒その場合にも︑逸脱者は︑彼の
経験的な意思に対応しない基準に照らして判定され︑しかもこれは単に﹁理性という事実﹂に依拠して行われるだけである︒こ
れに対し︑優先に値するのは︑そのような理性の働きを主体性の可能性の条件としてようやく法的に組織化された相互作用の前
提領域で把握する構想であろう︒
(5 5
)
しかし︑それでは︑論証による紛争決着の状態のためにあらゆる者がやむをえず甘受する前提条件とは何か?
合意の適格な主体として承認しなければならない︒このことは二つのことを含意する︒つまり︑彼はある者自身と︑彼のそのと
きどきの行為に対し互いに同じ根拠から責任を負わなければならないという点で平等でなければならず︑合意においては︑すで
に合意の対象であった根拠か︑でなければそれ自体論証による紛争決着の前提条件である根拠にのみ服しているという点で 自 由
でなければならない︒さらに︑このことは︑明らかに︑実質的な生活条件における 一
定 の
べき︶最低限の平等性と︑先験的には構成できない実定規範の制度への全ての者の関与を要求する︒
﹁消極的地位
(s ta tu s ne ga ti vu s)
﹂ ︑
﹁積極的地位
(s ta tu s po si ti vu s)
﹂
︵ 九
九
一 ︶
まず︑他者を
および﹁能動的地位
(s at us
(5 6
)
ac ti vu s)
﹂と分類できるこれらの前提条件を︑相互的な﹁人格としての承認﹂という伝統的な呼び方で把握するならば︑そのよ
うな考慮はフィヒテとヘーゲルからの伝統の中にあること
関 法 第 六
0 巻
四 号
︵この点については︑前述第二章
Rn .68
f f
)がすでに明らかとなる︒
.両者にとって︑この相互的な承認は︑法の基礎づけの場合︵この点については後述第十二章︶だけではなく︑そもそも他の個人
のみから知られうるにすぎない﹁自己意識﹂の基礎づけの場合にすでに中心的な役割を果たすのである︒﹁自己同 一 性
( I c h
,
(5 7 )
ld en ti ta t)
﹂の前提条件としての人間のコミュニケーションという観点の下で︑現代の心理学はこの考え方を取り上げている︒ ︵歴史的かつ文化依存的に定義される
八
5 0 4 9
ゼールマン ︵ 五 ︶ 合にのみ達成することができるのである
︒ことを拒否する者に対し何を意味するのであろうか?
契約による合意であれ、あるいはーー—古い隠喩によるとすでに「自然状態」を離れることについての合意であれ、合意への可能性にとって︑予めの人間の相互的な関連がいくらか重要なのであり︑それが相互的な承認の公式へと導かれうるのである︒ したがって︑
フィヒテとヘーゲルの相互承認論は︑たとえ
﹁究極的基礎づけ
︵前述 3 ) ﹂を提供しないとしても︑相
互的に何が
期待されうるかという問題に対し大いに意義を持つのである
︒九
以上のことから︑規範の基礎づけの基礎は︑二重の承認であることが明らかとなる︒つまり︑規範は︑基礎づけられているた
めには承認されなければならないのである
︒しかし︑妥当する規範の可能な内容は︑それが論証的な紛争決着の前提条件として の個人の相互的承認と両立したままであることにより制限される
︒しかし︑今やこのことは︑規範的承認と相互的承認に加わる
彼らは再び﹁自然状態に逆戻り﹂してはならない︑還元すると﹁保護外
に
(f r i e d l o s )﹂
置かれてはならないことは前にすでに触れた
︒フィヒテは︑この重大な帰結を︑そうでなければ
﹁法的保護を奪
(5 8 )
われる
(v o g e l f r e i)
﹂であろう者との
﹁
弁済契約
(Ab
bu Bu ng sv er tr ag
﹂
まさにこの
)という構成によってとらえようと試みた
︒ように﹁法的保護外に置かれること﹂を回避することが︑
実際また︑示したように逸脱者に対しても規範を基礎づけうるのでな
ければならないと頑として主張するカント的伝統の正当な関心である
︒しかし︑実際の帰結において同等の結果は︑承認モデル
を首尾一貫して適用する場合にも達成されている。つまり、相互的承認は、その目的|—自Iらを自由で、責任強制の点で平等だ
と感じる者の合意能力ある主体性という意味での「自己意識」——ーをこれらの特性をやむをえないときには抗事実的に帰する場
(5 9
)
人格の相互的な承認を基礎とした規範の承認が規範の妥
当根拠であるならば︑このことは︑見られたように︑以下の事情を簡
単に
言い表したものである
︒すなわち︑論証的な紛争解決を肯定するすべての者にと
って︑その前提条件とは︑平
等な相
互的
責任︑平等な自由︑実質的な生活条件における最低限の平等および実定規範の制度へのすべての者の関与である
︒これらの原理が︑
紛争がそのときどきの他者の利益にもなる論拠により解決されるための前提条件であるならば︑多くの正義問題は︑そのような
﹃ 法哲学 ﹄ ︵ 九
九
0 )
5 3 5 2 5 1
コ ー
︵普遍化可能な︶原理を志向す
︵ 九
八 九
︶ 前提条件ではなく︑約定の対象でなければならないことが目を引く︒つまり︑特に配分的正義の
一
定の基準は論証状態の必要条
件とは証明されえないのである︒それにもかかわらず︑そこでもなお論じうることは︑第十章で示すことにする︒
アメリカの心理学者 L
・ コ ー ル バ ー グ は 経 験 的 研 究 に 裏 付 け ら れ た 道 徳 的 判 断 の 発 展 の 理 論 を 提 起 し
︑ そ の 後 哲 学 者 によっても注目されるに至ってい紅︒これはその規範的な主張のためである︒つまり︑
の﹂発展段階が発展においてそれに先行する段階に対し︑たいていの人間の場合事実上より後の段階であるだけではなく︑規範
的
ー道徳的により善い段階でもあると証明されたものであることから出発する︒コールバーグによると最高度に達成可能な﹁段
階 V I
﹂は相互的に期待可能な基本規範の承認というここで主張された規範基礎づけモデルと類似性を持つ︒つまり︑彼は︑その 点で﹁包括的な論理的外延性︑普遍性および
一
貫性を援用して自己により選択された倫理的原理﹂を問題とし︑それに﹁正義︑
(人権の相互性•平等性および個別的人格としての人間の尊厳に対する尊敬という普遍的原理」を数える。それゆえ、彼の規範的 6 1 )
構想の基礎づけ構造を簡単に見ておくのは当然であろう
︒
(b)
コールバーグの段階モデルは︑
三つの主要段階に区分されている
︒つまり︑道徳的発展の前慣習的レベル︑慣習的レベルおよ
び脱慣習的レベルである
︒
前慣習的レベルでは︑人間は︑彼らがその行為を自己中心的に向ける︑個別的な他の人格の処罰ない
し報酬による脅迫と約束によって導かれている︒慣習的段階では︑人間は︑︵内面化もされた︶規則によって導かれうる︑
ば﹁離心的に
(e
x z e n t r i s c h )
﹂権威に向けられている
︒
脱慣習的レベルにおいてはじめて人間は るまずは︑﹁段階>﹂ではまだ利益から交渉して決めるという意味で
(6 2
)
よ
︶では自身の原理形成によってである︒ コールバーグの道徳的判断についての段階系列 関
法 第 六 0 巻 四 号
い わ
︵
社会契約的志向づけ
︶
︑次いで﹁段階
V I ﹂
︵前述を見 それでは︑それぞれ﹁より高次の﹂段階を規範的により
善
いと証明された段階であると特徴づけるための根拠は何か?
ルバーグに対しては︑それぞれより高次の段階は行為葛藤を先行する段階よりも善く解決するものであるというように理解され
コールバーグは︑それぞれ﹁より高次
1 0
56 55
5 4
ゼールマン ︵ 五 ︶
(6 3 )なければならないであろう ︒ 規則尊重は︑命令の 一
般化によって変転する個別命令にのみ依存することよりも行為の方向づけを 容易化し︑原理への方向づけは規範衝突の克服のための前提条件である
︒
つ ま
り ︑
きる原理は︑またもや行為の方向づけのためには︑原初的契約に書き記されたものよりも効率がいい
︒
し た
が っ
︑ て
なった議論連関から論証的支持を得ることはやはり注目に値する
︒
実際的帰結における現代の規範基礎づけ論の類似性こ 一 段階モデル アドホックに自らさらに発展させることので
コールバー
グの道徳的判断の発展についての段階系列は︑次第により複雑となる行為の方向付けが可能となり︑同時にそれが全ての関与者 の利益を同じように次第により多く顧慮することを許すという意味で
﹁ より高次への発展 ﹂ と理解されるべきである ︒ それにも
かかわらず︑それによって︑﹁最高度の﹂段階は相対的に
﹁ 基礎づけられ﹂ているだけである ︒ 特に︑それがここで展開した意
(6 4 )
味で普遍主義を補充する﹁第七の段階﹂によって凌駕されうることは決して排除されていない
︒
これらの留保をすべて顧慮すると︑関係者の承認と基本規範の相互的な期待という観点の下での規範の基礎づけが︑全く異
ここで挙げた原理は︑個人合理的な利益論
( i n d v i i d u a l r a t i o n a l e I n t e r e
s s e n t h o e r i e )
が有効なものと証明しうる原理と内容的
(一 に広範に 一 致する︒個人合理的な利益論は規範を常に
6 5 )定の個人に関してのみ基礎づけられたものと見なし︑したがって︑﹁客
観的な﹂規範基礎づけを否定する ︒ その基準は個人的利益である ︒
当然に︑この理論に関しても間主観的基礎づけは問題としう
る ︒
す な
わ ち
︑
当
該規範が異なった人間の利益に対し促進的である場合にである
︒ 社会的に重要なのは︑そのような間主観的に
有効な基礎づけだけである ︒ たとえば︑多くの人間は殺 害
されないことに利益を持つならば︑彼らに対し︑殺害を禁止する規範
(6 6
)
は基礎づけられている ︒
そのような規範は彼らにとって規範のない状態よりも多くの有利性を持つであろう
︒
利益論の基礎づけ成果も必然的に承認論と同じ限界を持つ
︒ つまり自ら﹁自然状態 ﹂ に止まろうとする者に対しては︑論 証 状
態はその前提条件を含めてまさに基礎づけられえないのである
︒ 規範の基礎付けについての 二 つの方法の間の相違は別のもので
ある
︒
つまり︑承認論にとって︑規範は︑それが関係者の長期的な利益になる場合︑すでに基礎づけられているというわけでは
(c)
﹁ 法哲 学 ﹄ ︵ 九八八 ︶
5 9
585 7 そのような根拠を可能な限り合理的に扱う方法については︑当然に非常に様々の考えが存在する
︒昔から広まっているのは︑
自信の利益を度外視するという戦略である
︒ただし︑問題は︑その際正当な結果の産出に対する利益から抽象化されてはならな た道徳的直観と大いに関係する根拠がである︒ な
い
︒
つまり
︑それは︑承認されなければならず︑規範を承認する主体の構成条件を志向しなければならないのである
︒多くの正義問題は︑何らかのやり方で究極的に基礎づけ可能な形で決定されうるわけではないという︑法哲学的に重要でない
とはいえない帰結に︑ほとんど全ての規範基礎づけについての現在の理論は達している︒規範の妥当根拠の問題についてここで
主張された見解は︑その点でコンセンサス論や討議倫理と
一致 し
︑
ち︑アーペルにとっても︑究極的に基礎づけられているのは討議規則の遵守のみであり︑倫理ー討議の内容や帰結は﹁究極的に
基礎づけ可能﹂ではない
︒これらの内容的規範は︑
アーペルにとっても||'その点で彼はジョン・ロールズに賛成するー—士K践(6 7
)
的討議の範囲内で修正可能な提案という地位を持つにすぎない
︒今日明示的に﹁自然法﹂
古
典的な自然法とハーバーマスの討議倫理や他の新たな理論との近接性を強調する
︒すなわち︑﹁しっかりした自然法論は︑人 間的人格
(h um an p e r s o n )
の現実の利益と
一致あるいは両立しうる種類の選択に関する︑公衆の理性へのアピール以外のもの
((
ではなかった﹂とジョン・フィニスは確認している︒﹁自然法論者﹂も︑﹁自然法﹂が裁判官に提起される無数の問題を解決しう
6 8 )るわけではないことは容認している︒
6 9 )しかし︑以
上のことがそうであるならば︑今日議論されているいくつかの規範基礎づけについては︑かなり類似した内容を持
つ﹁二段階モデル﹂であることが明らかとなる
︒つまり︑規範的に規制された平穏な共同生活のいくつかの十分に基礎づけうる
︵
争
い は
︑
いかに﹁絶対的に﹂それらが基礎づけられうるかについて行われている
︶前提条件に︑残りのすべての非実定的な正
当
性基準が対峙しているのであるが
︑それらについては︑その有利になるように程度の差はあれ確かな根拠のみが
にかく!︶存在することがやむをえず認められているのである︑
関 法 第 六 0 巻 四 号
︵
九八七
︶アーペルの究極的基礎づけモデルとも
一致している︒すなわ
つまり︑その説得力が全く様々な利益と文化的に先行形成され
︵しかし︑と へと信仰告白する論者ですら︑すでに
二〇や玲D,,t6や旦>)Q栞祖茶択ざ忌旦唸悉旦峠と溢怪ゃ菜\--'~t,(clQ訊庄や玲心心~•>'坦拌J硲心゜や菜合ゞロー全,K送’祁や以
>J~ ふQ以ざ起以送~~ヰ9ゞふ~,;-!玉荊幸堆
!l‑
(「<-4玉―Fairness」)ぷ訳印且廷心皿諏Q栽乏⑰勾心蕪呈刈~·逗睾忌#苓(「単頃狂いく一全」)以袖''0'V't\J辛ふQ瑞!J-Q~苫Q巨や悪坦遠J玲心ふ>J心ふく心総盆やギt,(cl,.lJ~'" 1‑¥J i卜全如姻幽ゃ如心(~) (「国細忌蒋迦」)゜
⇒
全,....)'t¥J
Q吋A応終宍坦縄忌臣匿迂>J>) p迂中兵式サ唄榮⇒終二゜~,....)!'-(''志心,....)\J面令忌玉蒋,~帯捕[I兵→'6-<巨Q癖~u0~\--'出部学瑞赳旦巨1"'t,(cl包知忌嵯纏如泄縣1"'t,(clo>)>)や如終将刃>J憫や十令姪要率如如(¥¥‑‑'嵯渥
,....),r‑t.(cl
Qゃ埒l'(¥
,r‑
全C・(案)>J Q「甜芸忌終粟~Q喘穏0七」Al.::,'"囲淀旦芸⇒知製忌終Q竺'Hoerster,
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q
」旦迂「坦ギ器q ( Rechtszustand )
」忘芸醒ゃ菜t‑00>J Q駆四'頴器ゃ菜¥‑l,‑J憫0\-l~t-00終却終ぷ堆翠0七ふ兵心く枷田罰起堆
!I‑ !..2
0~\-l竺坦〇や兵茶室碧叫終i-0:製七ゃ送終;全ふや~t-0゜「statuscivilis ( <‑4
眠忌#鞘)」叫~•I'll"\I卜、ヽ固gQ~4r拉かJQ知へ終誓翠如卑幽1"'t-0‑4) Qや~t-0゜
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1兵共寿〕.一
110羊索Qギ0母起式咲'虻薬...),;‑! 玉怒旦巨~~!>---~11'吋へ全終縄舟以将~\J堂寧~'、〈\JQ玉淋Q臣匿如奴縣孟玉蒸Q令t---="H―ふm;、以暇I~...)吋9応刈~~察縣茶終や~,;-!゜r\JQ経'-,qrIII唄舘しヒ心菜\J~~―令面忌出瑞如堆赳刈
⇒
心命令弓S如'吋S笞湮終淀光茶や枷心如QA.J室捉ゃ菜\J~~゜r¥JQ密ぐ口,:tiぐ甘忌終玉蒸以0~\J~丑媒打衿J終~Q迂,{ill壬挙嫁Q淀幽起終忍(~) 縣や~~゜浬全以>JQ淀走茶吋~fil::浬や~~Jj刈竺,r¥J Q幽志や玲心刈二、対吋,r,゜
⇒
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ぐ疑忌国蒸Q囲淀如ヂ忍縣忌玉蒸〈心(N) 描涎⇒丑9八心~~誤r{-~'唸-v-Q醤臣以吾~...)\J~~,>JQ>JA.i竺JjQ淀彩以凶芸~~~率心終~,r,~や玲l‑.(',r,or¥J辛'2‑‑K
ぐrIIIゃ竺令面起国蒸―王岡翫浪豆以竺
⇒ 辺 ⇒
送「溢担忌出鞣」il‑1¥,;‑! 廷「#ぐ甘忌出瘤」心宦迎兵~>JA.i茶~~ー一旦巨~~笹縄茶亭称ゃ~~゜JJ J」や翌縄ゃ~~令函忌当.Q翌囲縄Q廿や如回経忌以器以嵯縄ゃ~\J~~Q吐¾Q1110Q囲縄,~終兵心誌晦忌旦二
や一全
I'>';
ヽ『坦器唸卜』(K=i)1~(~<11)
4 3 2 には分配的正義の理論として強調しえないことが示される
︵ 後
述
1 .
︶ ︒
非実証的正当性基準に関する現在の議論においてもなお功利主義は︑重要な意義を持ち続けている︒
︵ 九
八
一 ︶
えば︑権利志向的理論︵後述
2 .
︶ ︑
公 正
( f a i r n e s s )
志向的理論︵後述
3 .
︶︑及びコミュニタリアン理論 ︵ 後述
4 .
︶ である︒こ
れらの理論を検討する前に同様に広範囲に流布している倫理的理論である功利主義を検討する必要があるが︑この理論は最終的
︵ 一
七四八ー 一 八 三 二︶が展開したその古典的な形式において︑功利主義は行為または規範の判断の際にそれらの当事
︵ 需要または利益の充足の意味における︶効用を基準とする ︒ すなわち︑その積極的な帰結と消極的な帰結の衡
(3)量において当事者に最大の全体利益をもたらす行為または規範が優先されるのである︒功利主義においては︑その正当性の基準
の基礎づけ︵全体効用︶において行為と規範が個別事例において統 一 性的にかつ事後検証可能なかたちで評価される限りにおい
(4)て﹁合理的な倫理﹂であり︑その個人にとって極端な利他主義が要求される限りにおいて ︱ つの厳しいモラルであるといえる︒
(5)しかしこの基礎に置かれる基準を支持するためには ︱ つの明証性の経験 ︵ 直観! ︶ に訴えることが不可欠なのである ︒
大陸ヨーロッパにおいて流布している︑功利主義に対しての︑それが行為および規範の帰結を志向した倫理であること︑また
は行為または規範の効用に関するものであることのみを理由とした留保は︑十分なものではない ︒ 功利主義の本来の問題は︑そ
れが全体効用を基準にしていることであり︑それについては功利主義の母国であるアングロサクソン諸国においても批判がある︒
おそらく︑功利主義は大陸ヨーロッパにおいては︑それに相応しい注目をされず︑その故郷においては︑それに相応しい批判を
(6)受けたといえるであろう ︒
法学内部において功利主義は︑とりわけ﹁法の経済分析
﹂ ︵
これについては前述第三章
R n
.42 )
および刑法においてその支持
を広く集めることができた︒そして︑この両領域において功利主義の問題性を良く認識することができるのである︒ 者全体に対する ベンサム
ー.功利主義の諸問題~ベンサムの遺産関 法 第 六 0 巻 四 号
一 八
一 八世紀にジェレミー
6 5
ゼールマン
︵規則
︶一
九
の評価を︑そのルールが社会全体からみてリソースを浪費するかどうかに焦点を当
てて行う
︒それゆえリソースの取り扱いの観点からみてより効率の良い法律が︑この法理論の基準に従えばより良いものとなる
︒
他のすぺての周辺条件
(Ra nd be di ng un ge
それゆえ︑この部分的に非常に扱い
n)が同じならば︑このことを争うのは難しい
︒(s u
b t i l )
効用分析において﹁法の経済分析﹂は重要な成果をあげてきた
︒しかしこの分析において既に
︱つの正義論が
(7)問題になるとすれば︑おのずと疑念が生じてくる
︒すなわちより効用をもたらす法律が分配的正義の観点から問題のあるもので
あるかどうかは︑もはや﹁法の経済分析
﹂のテーマではない
︒すなわち全体社会的に
(g es am tg es el ls ch af t l i c h )
より効用をもた
らす法律が︑その分析によれば︑たとえそれぞれの人間に対する帰結が全く異なるものである場合でも︑優先される
︒
個々の当
事者の利益が正しさの基準
(R ic ht ig ke it sk ri te ri um )
そのものとしてではなく︑全体効用計算に対する単なる計算として考慮さ
(8 )れる
︒明白な不正
義の回避は配分的正義の理論の領域からの補充的な基準によ
ってのみ担保されうるのである
︒全く同様の問題が刑法においても生じる
︒すなわち︑刑法の予防給付︑例えばいかなる刑法典またはいかなる行刑が対象者の
権利への最小と考えられる介入によって最適に威嚇または改
善するかということのみによって自らを方向づけるならば︑は
っき
りとした全体効用のためにある個人をひどく不正に扱わなければならなくなってしまう事例がどうしても出てくる
︒
よく知られ
ているのは︑合衆国南部の州での︑白人暴徒
(mo b)
による黒人居住地の襲撃とそれに伴う多数の死者の発生を抑止するための
唯
一の手段として︑裁判所認定では完
全に無
翠であるが︑それにもかかわらず死刑判決を受けた
黒人の事例のような場合である
︒全体効用︑即ち計算結果は︑ポジティヴなものであろう
︒つまり
一人の
︵
無睾の
︶人間の犠牲によって多数の人間が救われるの
である
︒しかしながらこのような解決はたいていの人間の正義に関する直観
(Ge re ch ti gk ei ts in tu it io ne
( )
に反するものであろ
n9)
う
︒明証性をもって構築されている功利主義は︑そのようにいわば自らの武器によって打たれるのである
︒
自らの
基準を部分的
に撤回するような補充が必要となるのである
︒現行のドイツ法もこのような文脈を考慮している
︒すなわち攻撃的緊急避難状況
にある者の権限は︑
︵
ドイツ︶刑法
三四条
一文においては︑しばしば功利主義的に理解される計算原理によって査定されるが︑
V
しア
︐ ︶
﹁
法哲
学﹄
︵五
︶﹁法の経済分析
﹂は︑法的ルール
︵
九八
0 )
︐ 8 7 道徳的にランク付する
もちろん古典的な功利主義の問題は︑それを様々な正義に関する直観と結びつけることによって緩和される︒例えば︑期待効
用
(E rw ar tu ng sn ut ze n)
ある ︵多数の人間の生命を脅かす爆弾の隠し場所を発見するために被疑者を拷問する場合など︶︒ に回避すること るルール 同二文において相当性原理によって再び制約されるのである︒
このような標準的批判に対して現代の功利主義者たちはしばしば︑﹁ルール功利主義
( R e g e l u t i l i t a r i s m u s )
﹂はそのような支持 できない結論を生み出さないと反論した︒ルール功利主義は︑個々の行為の全体効用を問うのではなく︑そのような行為を命じ
(R eg el )
の全体効用を問うのだとする︒緊急時には無亭をも処罰するルールは︑万人に︑理由なく処罰されるという 不安を生じさせ︑すべての者の合理的な生活設計を実際上不可能にし︑そのことにより全体としてみて効用よりも損害をもたら すものであるとする︒したがって無寧は処罰されるべきではないということは功利主義的にも基礎づけることができるとする︒
けれどもルール功利主義によっても現実には留保が除去されるわけではない︒無睾を通常的に処罰すること自体が︑それを放棄 することよりもより大きな純粋に計算上の全体効用をもたらすような社会関係が想定可能である
( 1 0 )
ティの通常的な正当化されない処罰など︶︒
それゆえそこには次のような功利主義の
一
般的問題がある︒すなわちある行為またはある規範をその集団的な欲求価値
( G r a
,
t i f i k a t i o n s w e r t )
によって測るならば︵多くの事例においては明証性経験
(E vi de nz er le bn is )
がそれを完全に支持するかもしれ ないが︶︑完全に配分的正義からは離れてしまい︑さらに他の殆ど普遍的に流布している明証性経験︑すなわち個々の人格の不 可侵性の理念は他者すべての最大福祉のルールによっても犠牲にされてはならないということに矛盾する︒この批判は﹁消極的
( 1 2 )
功利主義
(n eg at iv er U t i l i t a r i s m u s )
︵そして計算基準の設定においてのみ功利主義を採用すること︶も個々人の利益を無視することになりうるので
のみを合算するかわりに︑当事者の功績をも考慮に入れ︑あるいは個々人の選好をその動機によって
( 1 3 ) (g ew ic ht en )
ことができる︒しかしながら﹁正義・功利主義
( G e r e c h t i g k e i t s U t i l i t a r i s m u s
﹂として表
)関 法 第 六
0 巻
四 号
にも向けられる︒すなわち計算基準としてできるだけ多くの人間の窮状
(E le nd )
を最大限
︵例えば特定の社会的マイノリ 二 0
︵ 九
七 九
︶
1~-\ml-0
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