パリ・コミューンにおける警察官の役割
-司直として、公共福祉の支援者として-(前編)
高 橋 則 雄
はじめに 1.警察組織 2.コミューンの司直として -警察の姿勢(1)- 3.民衆とともに -警察の姿勢(2)- (後編) 4.まとめ (後編) はじめに パリでは、3月18日のモンマルトルにおける民衆蜂起の後、警視庁の管轄下にあった各区の警察 は人員を新たにし、活動を始めた。 20日には、第14区区役所の部屋の封印を、J.マルトレ 1 たち監視委員会のメンバーたちが立ち 合い解除した 2 。22日には、旧警視庁文民委員会délégué civil à l’ex-préfecture de policeによる警察人員の決定に従
い、第12区のピクピュス=ベルエール地区警察警視A.クラヴィエは、国民衛兵中央委員会宛てに警視 6名の任命を求めている。それは、旧警視庁文民委員長ラウル・リゴーより警視に任命され、区役所を担 当することになり、12名の要員を緊急に必要とすることを委員会に伝え、対応を求めるためであった 3 。 その後、26日にパリ・コミューンが成立すると、同29日に公布された家賃の支払い免除に関す るデクレに従い、第15区グルネル地区警察署管内では、この法律を執行するにあたり、警察と国 民衛兵が協力して実行することになった 4 。家賃の支払いをめぐっては、収入が途絶えて家賃を払 えない一般民衆と「支払い免除令」によって収入が滞る家主との間のトラブルが、この時期から4 月いっぱいにわたって頻発した。 31日には、第14区の警視L.ベルタン 5 は、議員J.マルトレの命令を受けて、サン-メダール教会 の捜索をおこなった 6 。
1 Jules Martelet (1843-1913). 装飾画家、インター会員、第14区選出コミューン議員、第14区教育委員 (J. Maitron
(dir.), Dictionnaire biographique du mouvement ouvrier français, 6 vols., Paris, 1961-1971(以下、D.B.M.O.F.と 略記), t. 7, pp. 270-271)。
2 フランス国防省文書館(A.H.G.)所蔵史料Ly19, ms. « Procès-verbal de levée de scelles en la salle (Mairie du
14e Arrt.)... »
3 A.H.G., Ly18, mss. « Prière au citoyens du comité central de founir un post permanant ... »
4 A.H.G., Ly19, ms.には、当事者双方からの請求を受付けるに際しての、その書式サンプルが収録されている。
« Le commissaire de la Commune pr le quartier Necker, Vu le décret du 29 avril 1871, ... »
5 Louis Adolphe Bertin (1840- ?).植字工、インター会員、マルミト地区委員会で活動。3月末にモンパルナス地区
の警視に任命され、軍事法廷により強制労働10年の刑を言い渡された(D.B.M.O.F., t. 4, p. 277)。
4月に入ると、教会の捜索と差押え、隠匿物資の摘発、武器弾薬工場や取引業者の捜索と差押え、 夜業禁止に違反したパン屋の摘発、売春の取締りなど公権力の行使にともなう多様な活動が目立つ ようになる。 5月には、パリ・コミューンは、ヴェルサイユ側との戦況の悪化と同時に進行したコミューン内 部における政策の行き詰まりに挟撃される中で、公安委員会を設置して内部の引き締めを図った が、市中では公然とパリ・コミューンに対する批判のみならず、その司直である警察官を路上で面 罵する者さえも出現した 7 。 本稿では、以上に述べたような時間的推移の中で、警察官たちの活動が記録された史料をもと にその具体的内容を確認する。この際、職務にあたっての警察の命令系統などを考察し、パリ・コ ミューンにおける公権力と民衆の関係を確認する。同時に、警察官と民衆はどのように関わり合っ たのか、それを検討することを通じて、パリ・コミューンにおける主権のあり方に言及する。 なお、執筆にあたっては、フランス国防省文書館所蔵の史料Ly17、Ly18、Ly19、Ly27シリー ズ、同容疑者ファイル、警視庁文書館所蔵の史料など、これまでフランス国内でもほとんど引用さ れてこなかった史料を使用した。また、パリ・コミューンの権力構造と直接関わりの少ない巡査 sergent de ville等については、論述の対象としなかった。 1.警察組織 対プロイセンとの戦争に敗北し、帝政が崩壊したことを機に、パリの警察組織は臨時国防政府の 下で共和政の方向へと転換した。1870年9月から10月はE.ド-ケラトリが、10月から11月はE.ア ダンが、11月から翌年2月はE.クレソンが、2月から3月はA.ショパンが、3月から11月はL.E.ヴァ ランタン(3月中旬―5月はヴェルサイユへ転出)がそれぞれ警視総監Préfet de Policeを務めた 8 。 この間、3月26日に市議会選挙がおこなわれ、パリ・コミューンが発足し、その基本的な方 針が「綱領」の中で示されている 9 。これによれば、警察組織にふれて、「コミューンの専属権 は、...その司法組織と市中警察と教育を組織化することorganisation de sa magistrature, de la
police intérieure et de l’enseignement、...」とし、これらの組織を「市中防衛と国民衛兵の組織
化...市内の秩序維持に充てるorganisation de la défense urbaine et de la garde nationale, qui …
au maintien de l’ordre dans la cité」と述べ、市中の治安維持を警察の活動目的とすることとした。
このコミューンの方針は、前年から活動していた民衆組織の意向が色濃く反映されている。
国際労働者協会(インターナショナル)10や民衆クラブ11では、日常的に民衆の活動の取締りに
7 A.H.G., Ly19, ms. 第9区警察署警視エロワは、国民衛兵第224大隊司令官に対して、フランドル街の路上にて同
大隊第1中隊長で、参謀本部隊長でもあるジャン=エメとドカフの両名より数時間にわたり侮辱されたことを報 告1871年5月7日。
8 REY, Alfred, Histoire du corps des gardiens de la paix, Paris, 1896. (Gallica)
9 Réimpression du Journal officiel de la République Française sous La Commune, Paris, 1871(以下、J.O.と略
記), p. 324.引用の部分は、K.マルクス『フランスの内乱』、252-253頁を参照した。
10 1870年11月26日と1871年3月23日、24日のインターナショナル・パリ支部の声明文。(J.Rougerie, Paris libre 1871, Paris, 1971, pp. 57, 130 ; J.ルージュリ『1871民衆の中のパリ・コミューン』(1987年)、54頁、125頁);J.O.,
p. 66. 「警視庁の廃棄。警察業務を区庁の管轄下におくこと “Suppression de la préfecture de police, le service de la police devant être placé sous la direction des municipalités d’arrondissement”」(11月)「われわれは何を要求
あたっていた警視庁に対する批判は強く、その廃止と地域行政単位での警察組織への転換を求めて いた。中央集権的な政治構造の下に配置するのではなく、地域に根ざした、住民のための治安維持 を担う警察機構である。
このような主張を取り入れ、コミューン議会は、法務委員会Commission de la justiceと保安 委員会Commission de la sûreté généraleが警察を所管し、必要に応じて軍事委員会Commission militaireの下にある国民衛兵の武力に頼ることを決定した。警視庁は、旧警視庁軍事委員会 Délégué militaire à l’ex-préfecture de policeと民事委員会Délégué civil à l’ex-préfecture de police によって運営されることになったのである。 実際に、各区の警察官たちは職務活動をおこなうにあたり、種々の記録を残している。上司から の指示命令書や伺い書、捜査における調書、尋問記録、住民からの要請書や同僚への協力依頼等で ある。そこには、例えば上部組織とのやり取りであれば、組織上の指揮系統が明記され、調書作成 や尋問にあたっては、警察官としての権限を明らかにしたうえで取り調べをおこなったことが記録 されている。
調書の冒頭は大抵、自らの職責を「司法警察官」officier de police judiciaireとし、「共和国の検 事を補佐して」auxliaire de M. le procureur de la République、と述べたうえで、これこれの職務
を執行すると記している12。時には、「共和国」de la Républiqueという部分を、「コミューン」de la Communeと記していることもあった。 なお、警察署は市内20の区、隣接するサンドニ、ヴァンセンヌそして軍事委員会に配置された。 それぞれの区には、区全体を統括する中央警察と区内の各地区quartierを管轄する地区警察から構 成されていた13。 実際の例を史料(A.H.G.Ly18)で確認すると、第17区の警察署はテルヌ地区、ラ-プレヌ-モン ソー地区、バティニョル地区、エピネット地区の4つの地区(カルティエ)に分かれており、中央 警察署以下、次のような人員で構成されていたことがわかる14。 ■中央警察署Commissariat central
ミシェルMichel 中央警察警視commissaire central アルノー Arnaud 刑事inspecteur
■テルヌ地区警察署Quartier des Ternes
マンゴルドMangold 警視commissaire de police カジオCaziot書記secrétaire
レイェ Rayer刑事inspecteur
したか?...市中行政の観点からの警察と武装力の組織化を...“Qu’avons-nous demandé? … L’organisation au point de vue municipal des services de police, de force armée, ... »」(3月)
11 第4区社会主義クラブの1871年1月の決議した規約(J. Rougerie, pp. 74-76)では、警察機構について、「警視庁
を廃止し、各区長の直接的命令の下にある区警察police municipaleをそれに代える」と述べている。
12 A.H.G., Ly19, ms. « … chargé du quartier Javel St. Lambert, officier de police judiciaire, auxiliaire ... »
13 参考資料として、警視庁文書館(A.P.P.)所蔵の史料Ba364-3, mss.に基づく「パリ・コミューン期警察署警視一
覧」Commissaires de Police de la Communeを本稿「後編」末尾に付した。
ドルエDrouet刑事inspecteur ゴメズGomez給仕garçon
ムムールMemeurメッセンジャー coureur
■ラ-プレヌ-モンソー地区警察署Quartier de la plaine Monceaux 不明
■バティニョル地区警察署Quartier des Batignolles
ヴァトマルVatemare(Vattemare)警視commissaire de police ランベールLambert書記secrétaire
■エピネット地区警察署Quartier des Epinettes リュベ―ルLubert 警視commissaire de police ルヌー Reneu(Renou) 書記secrétaire
コレCollet 外務担当刑事inspecteur pour l’extérieur
マラシェ Malachez 風紀担当刑事inspecteur pour les moeurs ドゥプレDepretガルニ担当刑事 inspecteur des garnis シモンSimon 給仕garçon de bureau
地区によって、構成人数や担当職種は異なっているが、おおむね、警視の下に書記と刑事をお き、さらに警察署の維持管理のために給仕たちを配置していた。また、上記のような公然の組織以 外に、情報員agentや協力者を随時雇っていた15。各地区の警察署が、事件の捜査と活動拠点の維 持に必要な人員を揃えていたことになる。 では、この17区で警察はどのような活動をしていたのであろうか。フランス国防省文書館には、 警察官の警務日誌など16、日常の活動を伝える史料が所蔵されている。ここでは、Ly18シリーズ の史料群のなかから主な事案をみてみよう。4月から5月における、警察官たちの活動の一端が記 録されている。 【4月・パリ第17区警察の動向】 11日 J.ササン17が中央警察警視L.ミシェル18に宛て書簡を送付 16日 区評議会conseil communal T.シャテ19による、軍事利用により民家に宿泊する時の宿泊 費の請求に対する支払い証明の件 15 非正規職員の情報員agent や錠前屋などの特殊技術をもった協力者を雇うこともあった。
16 第18区警察署警視E.ドーファンによる警務日誌、A.H.G.,Ly19, mss. « Journal, du mars 22 au 1er mai 1871 »が
ある。 17 Jules Sassin (1835- ?). 彫刻師、第17区行政委員会委員、同区内のサン-ミシェル-デ-バティニョル教会を接収し て民衆クラブを開設した(D.B.M.O.F., t. 9, p. 91)。 18 Louis Michel (1823-1885). ショール図案家、インター派、第17区委員会委員会の公安を担当、亡命を経て帰国後 も活動を継続した(D.B.M.O.F., t. 7, p. 350)。 19 François Chaté (1841- ?). 商人、インターナショナル・パリ支部バティニョル地区委員、第17区役所職員 (D.B.M.O.F., t. 5, p. 78)。
17日 テルヌ地区警察警視F.マンゴルド20によるギュスタヴ・スデイ39歳の死亡検案書(銃創) の件 17日 区公安Sûreté municipale中央警察警視L.ミシェルが、ヴィノワ将軍宛て書状の差し押さ え、ヴェルサイユへの通行証の差し押さえをおこなうとの報告 18日 テルヌ地区警察職員6名の給与支払(3月18日-4月18日)の件 20日 エピネット地区警察警視リュベール21によるデュヴァルに対する容疑と緊急逮捕の提案 の件 20日 リュベールによる、品行不良な女性の対策についての報告 23日 エピネット地区警察書記ルヌー22による新設警察署の設備概要の報告 26日 J.ササンが中央警察警視L.ミシェルに宛て書簡を送付 26日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマル23が受け付けた、通行証取得のための申請の件 27日 中央警察警視L.ミシェルによるマルテル逮捕要請の件 27日 リュベールによる、精肉業者の不法行為、窃盗容疑での逮捕要請の件 27日 リュベールによる、逮捕したマミエラ夫人の取扱いについて報告 28日 テルヌ地区警察署警視マンゴルドに対する、区評議会conseil municipale宛てに非難の書 簡が送付された件 30日 区評議会による、第8区の同志に対する区内で砲撃されたジュフロワ街のクレマンス一家 への住居提供の要請の件 ※この前後、第8区に砲撃被害者への協力を約30件依頼 【5月・パリ第17区警察の動向】 1日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルが受け付けた、砲撃による家屋喪失と宿泊施設委 員会commission des logementsへの証明の件
1日 エピネット地区警察署、人員配置報告 2日 第17区警察署、人員配置報告
3日 区役所代表委員会委員兼総合公安委員長directeur de la sûreté généraleL.ディアヌー24が、
中央警察警視L.ミシェルに宛てた、バティニョル地区にある西鉄道会社の職員についての報告 3日 区内ラファイエット街115番地住民の鉄道会社員メレイが毎夕北駅から出かけていること についての情報員agentの報告 3日 バティニョル地区警察署書記(警視)ランベールによる、同地区住民の砲撃被害と家屋喪 20 François Mangold (1841- ?). デッサンと彫刻教授、インターナショナル・パリ支部、ベルヴィル地区書記、逮捕 と投獄を経験し、帝政崩壊後に解放された。パリ・コミューンの期間中はもとより、亡命地ロンドンでも活動を 続けた(D.B.M.O.F., t. 7, p. 238)。
21 Jules Lubert (1832- ?). 壁紙職人(D.B.M.O.F., t. 7, p. 195)。
22 Louis Renou ( ?- ?). 大理石職人、第61大隊歩兵中隊に所属、亡命を経て帰国し、セーヌ県の社会党書記長、議員
を務めた(D.B.M.O.F., t. 8, p. 320)。
23 Hyppolite Vattemare (1820- ?). 西鉄道会社の管理職として20年以上にわたり勤務、哲学的著作を新聞に発表、
1870年9月8日には警視に任命された(D.B.M.O.F., t. 9, p. 283)。
失についての宿泊施設委員会に対する証明書作成の件 3日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルが受付けた、通行証取得のための申請書 4日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルが受付けた、砲撃による家屋喪失と第8区役所へ の住居提供の依頼の件 5日 エピネット地区警察警視リュベールによる、刑事ドゥプレに関する報告書 5日 バティニョル地区警察書記(警視)ランベールによる同地区住民の砲撃による家屋喪失に ともなう、宿泊施設委員会に対する証明書作成の件 5日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルが受付けた、砲撃による家屋喪失と第8区役所へ の住居提供の依頼の件 5日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルによる同地区住民の砲撃による家屋喪失にともな う、宿泊施設委員会に対する証明の件 6日 テルヌ地区警察署警視H.モンゴルドによる、反コミューン、警察官侮辱等の容疑者の旧警 視庁への移送報告 6日 バティニョル地区警察警視(書記)ランベールが受け付けた、砲撃による家屋喪失と宿泊 施設委員会に対する証明の件 7日 エピネット地区警察書記ルヌーによる、警察署の発足の経緯報告。区役所の決定により拘 置所prisonを接収して警察署を発足させた件 8日 エピネット地区警察警視リュベールがコレ25、マラシェ26の両氏に捜索を命令した件 8日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルが受け付けた、砲撃による家屋喪失と宿泊施設委 員会への証明の件 8日 エピネット地区警察警視リュベールが、不法拘留をおこなったラロンヌを拘置するよう検 察官に申請した件 9日 エピネット地区警察書記(警視)ルヌーによる、パリからの出入りに関する通行証の発行 権限について、同警視は通行証の発行に関して民事と軍事autorités civiles et militairesの両方の権 限を有すると述べている 9日 バティニョル地区警察警視(書記)ランベールが受け付けた、砲撃による家屋喪失と宿泊 施設委員会への住居提供依頼の件 12日 エピネット地区警察事務局(書記)ルヌーから警視(刑事)コレ、マラシェに対して、 クリシー通り45番地のパン屋ギュスタヴ、ジョセフの捜査を命じた件 13日 バティニョル地区警察警視H.ヴァトマルが受付けた、通行証取得のための申請の件 17日 バティニョル地区警察警視(書記)ランベールが受付けた、砲撃による家屋喪失と宿泊 施設委員会への住居提供依頼の件 19日 市役所における陰謀についての、第1尋問調書
25 Louis Collet. 経歴不明、軍事法廷による重労働20年、課徴金5000フランの判決後、1879年に特赦(D.B.M.O.F., t.
5, pp. 147-148)。
26 François Malachez (1837- ?). 農民出身の寄木細工指物師、軍事法廷により5年の懲役と課徴金200フランの判決
19日 バティニョル地区警察署警視H.ヴァトマルによる同区内の陰謀について、陸軍代表委員 ドレクリューズ27の命令と陸軍派遣特別警視ルージュピエの査問による捜索と尋問調書 20日 テルヌ地区警察署H.モンゴルドによる宿泊場所の提供者証明の件 20日 バティニョル地区における陰謀の動きについて(declaration de Mayennce)第1尋問調書 20日 バティニョル地区警察警視(書記)ランベールが受け付けた、砲撃による家屋喪失と宿 泊委員会への住居提供依頼の件 なお、テルヌ地区の警察官の給与(手当)は、マンゴルド(警視)とカジオ(書記)が50フラ ン、レイェ(刑事)たちは一律に40フランであった28。 警察内部における職制による命令系統は、給与や手当に反映されると思われるので、他の警察署 の状況も言及しておく。第15区グルネル地区警察署では、警視相当が300フラン、書記が200フラ ン、副書記が175フラン、刑事が150フラン、給仕が120フランである29。第19区のヴィレット地 区警察署の手当は、警視が250フラン、書記が200フラン、刑事が150フラン、給仕が100フランで ある。これらの給与上のランクは、当然ながら職務の命令、指揮系統に反映していたものと思われ る。第15区と第19区は、ほぼ同じ水準だが、第17区とは大きな差異がある。なお、給与を含む警 察署の運営に関わる経費の原資は、旧警視庁から各地区の警察署単位で支給され、それを地区警察 内部で人件費と運営経費に充てていたものと思われる。第19区ヴィレット地区警察署における、4 月期の収支計算報告書(Bordereau des Traitements du personnel du Commissariat municipal du Quartier de la Villette, pour le mois d’Avril 1871) 30によれば、
エロワ 警視 タンジェ街7番地 250フラン ブルベル 書記 オベルヴィリエ街8番地 200フラン フェルネ 1等刑事 メオー街18番地 150フラン ジュルドラン 2等刑事 シャペル街4番地 150フラン クラン 給仕 ヴィレット大通り186番地 100フラン 小計 850フラン 運営経費 223.30フラン 事務所使用料 100フラン 総計 1,173.30フラン 当月受領額 4月13日 500フラン 4月25日 300フラン 27 Charles Delescluze (1809-1871). 自称公証人、国民議会議員、第11区選出コミューン議員、外務委員会、執行委 員会、軍事委員会を担当(D.B.M.O.F., t. 5, pp. 285-286)。
28 A.H.G., Ly18, ms. « Dix-septième Arrondissement, Commissariat de Police du Quartier du Ternes, Etat de
Solde, indemnité »
29 A.H.G., Ly19, ms. « Commissariat du Quartier de Grenelle, Etat des sommes à payer pour le Personnel du
Commissariat pendant le mois d’Avril 1871 »
30 A.H.G., Ly19, ms. « Bordereau des Traitements du personnel du Commissariat municipal du Quartier de la
旧警視庁への請求額 373.30フラン とされる。この報告書の末尾には、日付(パリ、1871年5月1日)と区警視Le Commissaire municipal という署名がある。 同様に、人事について旧警視庁が関与していたことを示す史料がある。第12区のピクピュス= ベルエール地区警察の警視A.クラヴィエは、第12区役所の執行部宛てに、自身が旧警視庁文民委 員代表のR.リゴーより同地区の警視に任命されたこと、ついては警察署職員として6名の要員を任 命するよう要請している。さらに区役所を担当する12名の要員を必要としているとも述べている31。 同様に、第18区のグット-ドール地区警察の警視シュネデルは、警察の人事を決定したことについ て、R.リゴーの求めに応じて報告書を提出している32。 これらのことを勘案すると、警察組織は旧警視庁が任命した警視を各区へ派遣し、その警視が各 区の行政執行部と協調しながら、警視の指揮のもとで活動する書記、刑事等の選出をおこなうとい う構造であったものと推測される。労働運動や民衆運動の組織が要求した、地域のための警察であ る。ただし、軍事委員会付きの警察は、人事、運営経費の両面を一括して、同委員会の権限の下に おいていた33。 2.コミューンの司直として -警察の姿勢(1)- 警察権力は、それがおかれた体制の下で動く。第二帝政時代、体制に反対する勢力は、警察の監 視対象となり、厳しく抑圧された。 それ故、1870年9月に、対プロイセン戦争に敗北して帝政が崩壊した後、既存の警察組織の廃 止と新たな組織を求める声があがったのは必然であった。この時期に、民衆クラブ「第4区社会主 義クラブ」が結成される際、規約には「警視庁を廃止し、各区長の直接的命令の下にある区警察 police municipaleをそれに代える」と記されていた。そして、パリ・コミューンの発足後に発表し た綱領でも、「市内の治安維持を目的とする」と宣言したことは、前述したとおりである。 では、こうして新たに組織された警察が、実際にはどのように活動したのだろうか。パリ・コ ミューンが議会で決定し、実行しようとした各種の政策を軸に、その執行に関わった警察の活動の 実態を確認する。 パリ・コミューンが掲げた政策として、代表的なもののひとつに<国家と宗教の分離>がある。 このデクレでは、教会財産の国有化が宣言され、その財産を調査するために家宅捜索をおこない、 ただちに、財産目録を作成することとされている(4月3日公布) 34。 その条文は、以下のとおりである。
31 A.H.G., Ly18, ms. « Prière aux citoyens du Comité central de fournir un poste ... »
32 A.H.G., Ly19, ms. « Rapport, au citoyen Raoul Rigault, délégué central près l’ex Préfecture ... » 33 A.H.G., Ly19, ms. « Commissariat spécial de police au Ministère de la Guerre, 21 mai 1871 »
34 4月2日の議会で、執行委員会の案として提出され、議案の説明はF.ピアがおこない、承認された(G. Bourgin et
G. Henriot, Procès-verbaux de la Commune de 1871, 2 vols., Paris, 1924, 1945.(以下、P.V.C.と略記)、t. 1, pp. 104-105)。
第1条 教会は、これを国家から分離する。 第2条 宗教予算は、これを廃止する。 第3条 宗教団体に所属するいわゆる不差押え財産は、その動産であると不動産であるとを問わ ず、これを国有財産に編入する。 第4条 上記の財産の性質を検め、これを国民の用に供するために、この財産に関して即時調査 がおこなわれるであろう。 一方、第14区ではこの布告に先立って、教会の捜索をおこなっている。同区中央警察警視とモ ンパルナス地区警察警視を兼務したL. ベルタンは、3月末にA.ブルイエ(Breuillé) 35とR.リゴー が署名した命令を受け、警視としてオノラ広場を担当することになった。その後、R. リゴーから 幾つかの命令を受け取ったとされており36、3月31日にはプレザンス教会(サン-メダール教会) の捜索と同教会のブロンドー主任司祭の逮捕を実行した。この逮捕の翌日には、同主任司祭の身 柄を第14区区役所へ移送し、その後警視庁へ連行してR. リゴー、A. シカール37と面会させ収監し た。パリ・コミューンによる国家と宗教との分離の布告よりも前に、第14区では警察組織と議員 が宗教施設への干渉を独自に始めていたのである。さらに、4月10日には、区役所広場にある修道 会系学校から2名の修道士を追放した38。L. ベルタンの活動に関する記録はここで一旦途切れ、そ れを継続したのが、警視J. ドラリュエルである39。 J. ドラリュエルは、4月14日、J.ルロワ40、B. デカン41、J. マルトレ、V.ボワイエ42と同行し、 区役所広場にあった幼稚園・救貧院(女子修道院長マルシク(Maroussig))の家宅捜索をおこな い、尼僧たちを追放処分にした。さらに、同園を困窮者のための食事提供施設に再編し、自身が同 施設長に就任した43。 その後、4月18日に、J. ドラリュエルはトンブ-イソワール街の女子修道会で捜索の指揮にあ
たった。実際に執行したのは、セルメ(Selmet) 44やO. ベイリ(Bailly) 45のようなサンテ地区の
35 Alfred Breuillé(1847- ?). ジャーナリスト、ブランキ主義者として多くの革命派新聞の発行に携わる。1871年5月
14日、公安委員会により検事に任命された(D.B.M.O.F., t. 4, pp. 414-415)。
36 第3軍事法廷における裁判に備えたL.ベルタンの供述書に基づく。この時期、A. ブルイエとR. リゴーは保安委
員会で活動し、R. リゴーは旧警視庁文民代表を務めていた(A.H.G., 8J 10 d126, ms.)。
37 Auguste Sicard (1839- ?) クリノリン製造職人、第7区選出コミューン議員、軍事委員会を担当(D.B.M.O.F., t.. 9,
p. 129)。
38 修道院長L.C.S.ピヴェ(Louis Charles Stanislas Pivet)の証言によれば、差し押さえられた備品、金品は区役所
のJ. マルトレのもとへ運ばれたという。(A.H.G., 8J 10 d126, ms.)
39 Jules Victor Delaruelle (1833- ?). 革職人、インター個人会員、4月14日の学校からの尼僧追放に参加、第243大
隊第6中隊から監視委員会委員に選出される(D.B.M.O.F, t.5, p.276)。
40 Jean Leroy(1814- ?). 日雇い、第136大隊所属(D.B.M.O.F., t. 7, p. 137)。
41 Baptiste Descamps(1836- ?). 元 銅 形 成 工、 国 民 衛 兵 家 族 委 員 会、 第14区 選 出 コ ミ ュ ー ン 議 員 と し て 活 動
(D.B.M.O.F., t. 5, p. 321)。
42 Vincent Boyer (1839- ?). 石工、インターナショナル・パリ支部モンルージュ地区委員、第14区行政委員会委員
(D.B.M.O.F., t. 4, p. 403)。
43 A.H.G., 8J 147 d126, ms.
44 Selmet(? - ?). 監視委員会議長president、ジャンティリ街に居住。(A.H.G., Ly27, ms.)
45 Onésime Bailly(1826- ?). 工事現場監督、R. リゴーによって第14区保安委員会代表委員に任命され、警視として
警視たちで、尼僧たちの立ち退きを命じた。なお、この捜索に際して、隣家の人物(シェルヴリエ 氏、ドロネー夫人)が修道院側に加担し、妨害したとして逮捕している。J. ドラリュエルは、L.ベ ルタンと同様に、第14区監視委員会の下にある調査委員会の一員でもあった。 L.ベルタンが復帰したのは5月18日で、ダンフェール街のサン-ヴァンサン-ド-ポール教会を 捜索し、この時は、助任司祭、尼僧を逮捕している46。 L. ベルタンのこうした活動上の職務名は、大半の書類に警察署commissariat de policeと記され ていたが、3月31日の捜索の際に作成した調書には公安担当警視commissaire de la sécuritéとい う職務名とL.ベルタンの署名がある47。4月3日付文書48にも、公安担当警視と記している。第14 区の中央警察署の警視として、地区警察の警視に対して指示を与える役割を果していたのである。 4月10日のL. ベルタンが実行した押収や追放処分に際して、その命令文書の署名者はJ. マルト レ(コミューン議員)であったが、その職務名は「コミューン議員membre de la Commune」で も、「派遣委員délégué de la Commune」でもなく、区行政委員会委員membre de la Commission municipaleと記されていた。 コミューン崩壊後に逮捕されたL. ベルタンの供述によれば、第14区内のすべての宗教施設を捜 索し、聖職者全員を逮捕するよう命令したのは保安委員会代表のT. フェレ49であり、尼僧の追放 と教会の財産を差し押さえることも命令されたこと、そして、サン-ポール教会主任司祭のインゲ 神父abbé Ingeの逮捕(4月15日)についてもT. フェレの指示であったとしている50。 その一方、教会の差押えは旧警視庁の命令によって行ったとも供述しており、モンルージュのサ ン-ピエール教会の捜索は旧警視庁からの指示であったと述べている。しかし、L. ベルタンが作成 した、モンパルナス地区ダンフェール街のヴィジタシオン修道院で5月15日に実施した捜索と差押 えの調書(旧警視庁宛)によれば、その命令はパリ・コミューン保安委員会代表委員(T.フェレ) citoyen délégué à la Sûretéからであったと記している。
デクレに基づく法律の執行をおこなう際に中央警察警視は、地域の警察や行政組織(第14区選 出議員のJ. マルトレ)との連携をもとに、警察組織として着実に職務をおこなう一方、コミュー ン中央組織(旧警視庁のR. リゴーあるいは保安委員会のT. フェレ)の指揮も受けていたのである。 そして、捜索、押収、逮捕の際には、武装した多数の国民衛兵を同行させていた。加えて、第14 区選出の議員であり、同区の行政の責任者でもあるJ. マルトレの命令文書を、多くの場合、提示 していたのである。 このように、国家と教会の分離政策といった多様な側面を有している事案については複線的な命 令系統をともなっていたこと、そしてその命令を執行するにあたっては第14区の行政組織、警察、 国民衛兵の協力体制が常に保障されていたことが史料から裏付けられる。第14区の警察は、決し 46 A.H.G., 8J 147 d126, ms. 47 Ibid. 48 Ibid. 49 Théophile Ferré (1846-1871). 代訴人、第18区お共和国防衛クラブ、監視委員会で活動、第18区選出コミューン 議員。保安委員会(第一次、第二次)を担当、コミューン崩壊後、ヴェルサイユ側の人質の処刑を命じたという 容疑により銃殺刑に処せられた(D.B.M.O.F., t. 6, p. 38)。 50 A.H.G., 8J 147 d126, ms.
て単独では動かなかったのである。 次に、第11区の状況を確認したい。同区のアンブロワーズ教会の使用禁止命令をめぐる警察の 活動をみておこう。 4月22日に、区の代表委員会commission municipaleのひとりであるP.マグドネル51の要請に基 づきフォリーメリクール地区警察の警視ウゼ52とアンブロワーズ地区警察の警視ジャンティ53が 同教会の財産を調査し封印処分をおこなおうと訪れたが、できなかった。教会の主任司祭から同区 選出のコミューン議員H.モルティエ54の書状が提示されたからである。そこには、4月3日のデク レの趣旨には教会を閉鎖することは含まれていないと書かれていた。そのため、財産調査は一旦断 念せざるを得なかった55。しかし、その後に公安委員会の了解を得ることによって、区中央警察警 視リブレ56の指揮の下、アンブロワーズ地区警察に新たに着任した警視E.モルトロル57は旧警視 庁からの令状を提示したうえで、5月6日、国民衛兵を動員して同教会を捜索、財産目録を作成し、 多くの物品を押収した58。 この捜索で注目したいのは、その際に作成された調書である。押収処分とした物品を「宗教のお 務めを継続するのに不要な金銀製品」と定義している。教会の儀式における奢侈を批判しつつも、 宗教活動を否定したわけではないところに、警察官としての職務の大義と姿勢が貫かれている。 次にとりあげるのは、パリ・コミューンがすすめた政策<家賃の支払い免除令>と警察の活動で ある。家賃の支払いという、本来、民事の案件である。このデクレの執行についても、警察は深く 関与せざるを得なかった。 プロイセンとの攻囲戦で産業活動が停止したパリで民衆たちは職を失い、賃金を生活の糧とする 多くの市民は困窮した。そのため、賃借している住居の家賃の支払いができなくなっていた。その 経緯をたどってみると、前年の8月13日、ナポレオン三世の帝政下においても、戦時下を理由に、 支払い免除令が施行されたことがある。しかし、敗戦と攻囲期に成立した臨時国防政府は、抗戦継 続を強く要求する民衆に対し、翌年(1871)2月には国民衛兵としての給与を停止し、3月初旬に は家賃の支払免除令を撤廃するという政策を強行した。 こうして、厳冬の中で燃料不足や食糧難と闘い、ようやく春をむかえつつあったパリの民衆が身 体を憩うために欠くことのできない場である住居の保証が奪われたのである。 3月18日の民衆の反乱とパリ・コミューンの成立の背景には、この家賃問題が大きく作用してい た。この問題を軸にした、政府と反政府側との間にある姿勢の違いが鮮明に浮き彫りにされたので
51 Paul Magdonel (1832- ?). 家具指物師、インター会員、第11区代表委員会(D.B.M.O.F., t. 7, p. 211)。 52 Charles Heuzey ( ?- ?). 経歴不詳、軍事法廷により重労働20年を科される(D.B.M.O.F., t. 6, p. 323)。 53 Gentil (?- ?). 経歴不詳。
54 Henri Mortier (1843-1894). 木工職人、ブランキ派、インター会員(プロレテール地区委員会)、第11区選出コ
ミューン議員、公共委員会、保安委員会を担当(D.B.M.O.F., t. 8, p. 8)。
55 A.H.G., Ly27, ms. « Magdonel, Membre de la Commission Municipal du XIe Arrondt., ... »
56 Edouard Riblet (1840- ?). 建設、建具職人、第11区代表委員会、第11区警察警視、プロレテール・クラブ会員、
司教の逮捕と聖職者の追放を実施(D.B.M.O.F., t. 8, p. 330)。
57 Emile Morterol (1845- ?). 建築家、国民衛兵中央委員会で活動、亡命後帰国し共和主義運動に参加(D.B.M.O.F., t.
8, pp. 7-8)。
ある。当時のパリ民衆にとり、家賃問題がいかに切実な問題だったのか、パリ・コミューンの成立 からわずか3日後の3月29日には、早くもこの家賃問題に対するデクレが施行されたことからもう かがうことができる。 このデクレには、以下のように述べられている。 パリ・コミューンは、労働、工業および商業が、戦争のあらゆる負担を甘受したこと、所有権が 国に対してその犠牲の役割を果たすべきことが正当であることに鑑み、 第1条 借家人に対し、1870年10月、1871年1月および4月期の家賃支払を全額免除する。 第2条 これら三つの四半期のどれかについて、すでに家賃を支払い済みの者は、その金額を将 来の家賃に充当する権利を有する。 第3条 ガルニ[家具付き借家]の家賃支払いについても、同じく免除する。 第4条 賃貸契約の解除は、借家人からの意志表明により、本布告から6カ月以内におこなうこ とができる。 第5条 賃貸契約の解除は、借家人からの要求があれば、3カ月延長する。 前文にあるように、私的所有権の制限とそれへの国の介入を通して、借家人の救済を宣言したの である59。家賃問題に対しては、国際労働者協会(インターナショナル)パリ支部も前年の11月 26日に発表した宣言の中で、戦争終結までは家賃を廃止すべきであるという態度をとっていた。 しかし、このデクレが公布されると、各区では家賃支払いの免除をめぐってトラブルが頻発し た60。収入の道を断たれた民衆たちは家賃を支払うことができなくなる一方、家主たちも家賃収入 をあてにしている場合に生活が成り立たなくなっていたからである。 第9区では、どのような事態となっていたのだろうか。 4月1日には、同区クローゼル街で生じた家主による一方的な契約解除と借家人の家具の路上へ の運び出しに対して、区行政代表委員administrateur délégué バユ・デュメニル61が、オペラ地区 警察警視に武力をもって法律(デクレ、第5条)を執行する権限を与え62、さらに、家主による家 具の運び出しに関する旧法は無効になっているとの追加メモを送っている63。同様に、ガルニの借 家人の所有物に対する家主の担保権の無効を宣言し実際に執行したことを示す、4月2日付けのメ モ文書もある64。同区では、行政代表委員が積極的に家賃の支払いの免除について告知し、場合に よっては公権力の執行にあたって警察を動員したのである65。 59 家賃の支払は、3 ヶ月ごとに行うことになっていた。3 ヶ月を過ぎた次の月の8日が支払期限となる。それゆえ、 1870年は10月、71年は1月、4月が支払の月にあたっていた。 60 4月2日の議会では、トラブルを想定し、この問題を担当する治安判事juge de paixを任命すべきだとする意見が 出たが、決議にはいたらなかった(P.V.C., t. 1, p. 107.)
61 Jacques Bayeux-Dumesnil (1834- ?). 実業家、年金生活者、フリーメソン会員(D.B.M.O.F., t. 4, p. 223)。 62 A.H.G., Ly18, ms. « Le commissaire de police de la rue Clauzel est autorisé à ... »
63 A.H.G., Ly18, ms. « Invitation et autorisation au commissaire de police de la rue de ... » 64 A.H.G., Ly18, ms. « Les logeurs du garnis n’ont pas le droit de retenir les effets de ... » 65 A.H.G., Ly18, ms. « Les propriétaire sont tenus à leurs locataires toute promesse de ... »
第16区では、4月6日、家主に対して、借家人による自由な家具の搬出、4半期ごとの支払い免 除とそれに関わる前払い金の返還、応じない場合は警察力force publiqueをもって執行することを
通告している。この通告は、区行政委員会の司法小委員会委員を務めていたナピア=ピケ66が家主
に通告したもので、同区でも行政機関の委員がデクレの執行について責任を負っていたことにな
る67。同じ小委員会で活動していたA.ルドリエ68も、同様の通告を同じ日にしており、通告には
「コミューン議員から権限を付与されて」sont conférés par les membres de la Communeと記して
いる69。このように、第16区では警視庁や保安委員会ではなく、コミューン議会の議員という権 威を掲げて、区の行政担当者が法律を執行する姿勢を示していた。同時に、行政の要請に応じない 家主に対しては、警察力を発動するという警告を発していた。 次にとりあげるのは、パン屋の<夜業禁止>についてである。低賃金のパン焼き職人で夜業につ く者が多かったことと、パン焼き職人の職業斡旋制度に帝政下の抑圧的なシステムの傾向がみられ たことから、夜業を禁止するという決定がおこなわれた。しかし、この問題も家賃支払の免除と同 じく、もともとインターナショナルが1866年のジュネーヴ大会で労働時間の短縮と夜業を労働時 間の例外としないという運動方針に掲げていたことに深く関係している。 そのためか、この決定は議会にはかられることはなく、手早く執行委員会でおこなわれた。布告 は、次のような前文と本文からなる70。 パン焼き労働者の同業団体からの正当な要求に基づき、執行委員会は次のように布告する。 第1条 夜間労働は廃止する。 第2条 帝政下の旧警察によって任命された職業斡旋業は廃止する。本業務は、パン焼き労働者 の登録のために各区役所に設置された帳簿によって、代替する。これらの登録全体を集めた帳簿を 商業省に配置する。 1871年4月20日 執行委員会 しかし、この禁止令が布告されると、予期していたとおり巷では激しい反発がみられた。これに 対して、インター派の議員L.フランケル71は議会で強硬な発言をしている。しかし、その内容は フランス革命期の雇用主と民衆の関係を引用するなど、やや時代錯誤ともとれる発言で、議場の議 員たちに訴える感情的なアピールとしては影響力をもったかも知れないが、労働の改善や就労手続 き上の問題などへの実質的な解決策とはならなかった。そもそも、この方針を議会には提案せず、 少人数の執行委員会で決定し、布告arrêtéしたことが拙速だったのであろう。その結果が、パン屋 66 Claude Napias-Piquet (1813-1871). 公証人、48年代から社会主義運動に参加、第1区選出コミューン議員、イン ター会員(D.B.M.O.F., t. 8, pp. 30-31)。
67 A.H.G., Ly18, ms. « Nous membres de la Commission Municipale du 16e Arrondissement... »
68 Léonard Ledrier (1818- ?). 年金生活者、R.リゴーの友人でその推薦により第16区役所委員会で活動、司法小委員
会、財務小委員会に加わる(D.B.M.O.F., t. 7, p. 79)。
69 A.H.G., Ly18, ms. « Nous membres de la Commission Municipale du 16e Arrondissement... » 70 J.O., p. 332.
71 Léo Frankel (1844-1896). ハンガリーのブタペスト出身、鍛冶職人、インター会員、パリ市内の外国人活動家を連
の雇用主たちの団結と幅広い反発を招くことになったのである。 4月28日の議会では、混乱している事態が報告され、その収拾策が検討され、4月20日の布告を 修正することになった。4月28日と5月3日に、原布告を修正、条文を追加し再布告したのである。 修正の主な点を挙げると、前文にあった「パン焼き労働者の同業団体corporationよりの正当な要 求」という文言を「パン焼き職人、雇用者と労働者と協議して」に修正、施行を「5月3日」と明 記し、夜間労働という表現を「早朝5時以前」に変更したうえで、職業斡旋については「公役務委 員会代表が本布告の執行の責任を負う」とした72。 この布告が、「労働者の同業団体」という特定の一団体の要求だけに応じたものではなく、パン 屋で働く職人と雇用主、労働者たち全体が協議したすえに実施するものであると改変したのであ る。夜間労働という表現についても、具体的に早朝5時以前と明記した73。 5月3日の修正では、「違反して製造したパンは押収して、困窮者に分配する」とし、「各区は本 布告の執行の責を負う」等の条文を追加して補い、より実効性を高めようとした形跡がみられる。 しかし、それでもなお現場では問題の収拾に至らなかった。各地区quartierでは、パン屋の署名 を添えた抗議文がとりまとめられ、提出されたのである。これらの抗議文を確認すると、地区ごと わかれて手書きされているが、文面を統一して同じ文章とし、雇用主の署名と所在地が記載されて いる74。パリのほとんどの地区のパン屋が、短時間のうちに協議し抗議文を作成したことは明らか である。 その趣旨は、「4月20日のデクレは、個人の、労働者の、雇用主の自由を侵害し、労働者の健康 に悪いなどと述べ、夜の新鮮さを禁じているが、消費者のためにならないもの」であり、「あらゆ る産業の慣習法droit communに立ちかえり、労働者と雇用主たち、すべての関係者の意志にもと づく、昼と夜の労働の自由を要求する」ことにしたというのである。署名したパン屋の数は、850 以上にものぼっており、第11区では92、第6区が70、第13区と第19区ヴィレット地区がそれぞれ 58の署名を集めている。 これに対し、パリ・コミューン公役務委員会は、5月6日、「夜業を禁止しているデクレママに違 反したパン屋については、パンを押収するため、ただちに区当局に通報すること」という命令を発 した75。あくまで、布告を実行しようとしたのである。 その翌日、第14区の警察では警視L.ベルタンがドランブル街のパン屋J.F.ビシェに対して3キロ のパンの押収をおこなった。史料によれば、112個のパンを押収したとされるが76、J.F.ビシェは 物理的な抵抗はしなかったものの、押収処分には最後まで同意しなかったという。 72 パリ市文書館(A.P.)には、5月2日付けのパリ・コミューン事務局から第13区の議員に宛てた通知notification
が所蔵されている。A.P., VD3 14., ms. « Nous avons l’honneur de porter à votre connaissance la notification suivante : La Commission exécutive, En exécution du décret relatif au travail de nuit dans les boulangeries, Après avoir consulté les boulangers, patrons et ouvriers, Arrête : ... »
73 ここでは、インター派L.フランケルの強硬な主張が目立つ。フランス革命の折の民衆運動を引用しつつ、「92年
には社会改革をおこなうのに雇用主に相談したのか?」などと議場の議員に問うのだった(P.V.C., t. 1, pp. 538-543)。
74 A.H.G., Ly11, mss. « Protestation aux Citoyens Membres de la Commune, contre l’exécution ... »
75 A.H.G., Ly18, ms. « Ordre de service, toute infraction, de la part des patrons boulangers, ... (J.Andrieu)... » 76 A.H.G., 8J 10 d126, ms.
5月16日には、第18区クリニャンクール地区警察が、パン屋ヴーヴ=ブリセにおいてパンを押 収した。こちらは、343個の大量のパンである77 。日時は不明だが、第15区警察署のジャヴェル-サンランベール地区警視シロードはパンを押収し、売却することによりコミューンの利益としたと する調書を作成している78。しかし、これは5月3日の「貧困者に分配する」という追加条文を付 した布告とは明らかに異なる措置であった。 以上、パリ・コミューンによるいくつかの性質の異なる政策とその法の執行にあたって警察はど のような役割を果たしたのか。それを具体的な例で考察した。 いずれの事例でも、公権力として警察を動員する際、区ごとの判断が重視されていたことに気づ く。警察組織もその職員もそれぞれの置かれた立場のなかで、区行政と警視庁、司法組織等と協議 しながら、なお自主的な判断の下で活動にあたっていたことも附言しておかなければならない。 法的措置の実行にあたって、公正と公平という観点からすれば、単一で垂直的な上下関係によ る命令系統に従って法の執行をおこなうべき警察官たちだが、地域の実情を勘案しながら職務に携 わっていたのである。 さて、本節で論じるべきか迷ったが、警察官による<売春の取締り>をとりあげることにする。 それは、「売春」がもとより貧困や社会制度の欠陥の結果として、困窮した女性たちの生きるため の手段として選ばざるを得なかったからである。 「売春」は公序良俗に反する行為として、パリ・コミューンは厳しい態度で臨んだ。B.ノエル の『コミューン辞典』には、「5月10日に第11区が、18日に第14区が、警察と国民衛兵に公道で の売春行為honteux métierを犯す者を逮捕する権限を与え、第2区は娼館maison de toléranceの
閉鎖を命じた」 79との記述がある。しかし、第11区のマルグリット地区では警察による取締りが 先行していたようである。4月24日には、警視ル-ノートルが、マルグリット街の路上でひとりの 女性を売春の容疑で逮捕している80。第12区でも、ピクピュス地区警察警視A.クラヴィエが、売 春métier détestableの取締りパトロールに30名を派遣するよう協力を依頼するが応じてもらえず、 翌朝に国民衛兵の1個中隊を率いて30名ほどを逮捕する予定であることを、区の小委員会へ4月 5日に通知した。なお、この取締りはコミューンの利益のためにおこなうものであると、その取 締りの意義を強調している81。第18区では、4月14日、グット-ドール地区警察警視シュネデルが 13日の夜から14日にかけてシャペル区役所の守備隊である国民衛兵の協力を得て11名を売春容疑 prostitutionで逮捕した82。この折の調書には、被疑者の氏名、年齢、職業、住所が記載されてお り、年齢は16歳から45歳までで平均23歳である。無職2、不明3以外は職業を持ち、お針子、洗 濯女、工員、女中などであった。なお、これらの被疑者はいずれも逮捕された後、旧警視庁へ移 送されている。そして、逮捕時の調書はいずれも印刷された定型文の用紙を用いており、氏名、年
77 A.H.G., Ly19, ms. « Je vous envoie saisis chez la veuve Brisset boulangère rue ... » 78 A.H.G., Ly19, ms. « Procès-Verbal, L’An mil huit cent soixante et onze, Nous Cirode ... » 79 B. Noël, Dictionnaire de la Commune, Paris, 1978, t. 2, p. 179.
80 A.H.G., Ly18, mss. « Préfecture de Police, Rapport du 24 Avril 1871, M. le Commandant ... » 81 A.H.G., Ly18, ms. « Aux citoyens du Sous-comité du 12e Arrondt., Le commissaire de ... » 82 A.H.G., Ly19, mss. « Procès-verbal, Devant nous, Schneider Délégué civil Commissaire ... »
齢、住所、職業、逮捕時の場所を記入する様式となっている。帝政時代の用紙と様式を、そのまま 引き継いで使用していたのである。