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犬鳴村のうわさ考
―「負」の自然を「仰ぎ見る行為」としての犬鳴村のうわさ―
Examining the Inunaki Village Rumors:
Revering the Negative Aspects of Mother Nature
鳥飼かおる
Kaoru TORIKAI
1.
はじめに本論は、「日本国憲法が通じない1集落」(朝倉,2011,p. 14)、「村民は自給自足で今に至って いて[中略]〔村を一目見ようと訪れた〕好奇心旺盛な若者に、恐喝、レイプ・傷害などの犯罪行 為を行なう」(犬鳴峠,1999,〔 〕内は筆者による補足)、「左翼の人、ハンセン病、頭のおかし い人が隔離されている場所[中略]〔警察が〕入れない力が何かあるんじゃないか」(呪われた都 市伝説 犬鳴村 前編 2,2014,〔 〕内は筆者による補足)などと、「全くのデマ」(犬鳴峠 犬鳴村編,2008)であるにもかかわらず、主としてインターネット上で長らく流布してきた都市 伝説のひとつである「犬いぬなき鳴村のうわさ」に関し、近在の筑豊炭田における炭坑労働者の「逃ケツワリ亡」と
Abstract: What I claimed in this paper is that the act of revealing the negative aspects of nature is an act of shedding light on the darkness and chaos, which are both terrifying and uncertain in terms of their size and depth. Such darkness and chaos remind us of the anguish caused by being separated from our loved ones, and the four inevitable stages of human life (birth, aging, sickness, and death). None of us can avoid these phases so long as we are alive. Furthermore, I discussed the act of uncovering Mother Nature by splitting the concept into positive and negative parts. However, “positive” can be “negative” and “negative”
can be “positive.” They can switch places at any time, and can even encompass the two meanings simultaneously. Therefore, rather than perceiving the Inunaki Village rumors superficially as “frightening” and
“interesting,” their meaning needs to be recaptured as a mirror that reflects the viewer’s true nature.
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の関連性を論じたもの(鳥飼,2014,pp. 167-176)、そして同じく近在の(白はくさん山)との対比を試 みたもの(鳥飼,2015,pp. 87-102)の続編である。今回は、江戸期に犬鳴山中で営まれていた たたら場のイメージを通して、「負」の自然を「仰ぎ見る」行為としての犬鳴村のありようを探る。
なお本論は、いたずらに人心の不安をあおり、興味本位で根拠のないうわさをつくる、広める意 図をもつものではないこと、特定の場所に優劣、正負などの価値判断が付与されることを望むも のではないことを、最初に断っておく。
2.
「負」の自然を「仰ぎ見る行為」とは(1) 「負」と対立概念である「正」の自然を「仰ぎ見る行為」とは
「『まるで桃源郷のようだね』私は思わず仲間たちに呟いた。流れにほど近い広場の隅にゼンマ イ小屋があった[中略]ひとりの女性が一心にゼンマイを揉んでいた。絣のモンペに絣の作業着 を着て手甲を付け、日よけの菅笠をかぶっていた。それはまるで一枚の絵であった。森と流れと そのひとが、ひとつの風景を醸しだしていた」(高桑,2002, p. 8)。
これは、福島県南会津郡只見町の山の暮らしを描写した一節である。このように、農業に根ざ した民の暮らしは、日本のあらゆるメディアの中で、「桃源郷」「一枚の絵」のように表現されて きた。
また、栗本(1981, p. 13)が指摘するように、「都市というと、必ず農村と対比され、かつ混濁 と目眩めきの場であると考えられる。いうならば、農村は静で都市は動、都市は農村に比較する と大なり小なり総体として悪場所と意識される」。
筆者は本論において、都市または現代社会と対極の位置を占める自然が、人間を育むよきもの、
そして、自然と共生していることへの最高の賛辞を、「正」の自然を「仰ぎ見る」行為であると名 づける。その一方、暗く、無秩序で、時に残酷、暴力的ですらあるため、現代社会とは相容れな い自然のイメージが人々のあいだに抱かれていることについては、「負」の自然を「仰ぎ見る」行 為と定義する。また、「自然」そのものについては、山や川、岩などの地形や動植物のみならず、
人間の根源的/本来的なありようをも含むものとする。
(2) 江戸期の犬鳴山の状況
犬鳴村を擁する犬いぬなきやま鳴山2は、福岡市域とかつての筑豊3炭坑地帯のひとつであった市のほぼ中 間に位置し、福ふ く つ津市、宮みやわか若市、古賀市、糟か す や屋郡新しんぐうまち宮町、同久ひさやままち山町の3市2町にまたがる犬鳴山 系の南側にある、およそ584 mの山である(渡部,2012, p. 37)。若わかみやまち宮町(現・福岡県宮若市)出 身の農事家・菊池六ろくさく朔(1810〜1902)によって記された『鞍くら手て郡若宮記』によると、「犬鳴山昔 ハ犬鳴村なし。脇わ き た田村ノ内ノ深山にして脇田ノ人家ゟより上ハ一面之森山二して人跡希なり」(菊池,
出版年不明/1991, p. 198)、「寛永ノ初〔1624年頃〕二庄屋某なる人地を開き、両家斗住せしか、
今ハ一村となれり」(菊池,出版年不明/1991, p. 200, 〔 〕内は筆者による補足)と記されてい る。また、『福岡県地理全誌』内の「脇田村の枝郷ニテ、安永五年丙申に脇田村から田畠高を分ケ、
犬鳴谷〔村〕ト称ス」(臼井・東定,1880/1990, pp. 167-168,〔 〕内は筆者による補足)とい う記述から、1776(安永5)年にひとつの村落として成立したことがうかがえる(尾道,2005, pp. 628-629)。しかし、1986(昭和61)年のダム建設4によって水底に沈み、今は村そのものが 存在しない(福岡県教育委員会, 1990, p. 206)。
そのような犬鳴村は、1988(昭和63)年に起きた旧犬鳴隧道での殺人事件5がきっかけ6(朝倉,
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2011, pp. 14-19)で、再び脚光を浴びることになった。今日では、「〔犬鳴村を見るのに〕奇数で
行ってはいけない。白い車で行ってはいけない7」「旧犬鳴隧道の更に上に村がある[中略]しか し誰も行けていない」(呪われた都市伝説 犬鳴村 前編 1,2014,〔 〕内は筆者による補足)
「左翼の人、ハンセン病、頭のおかしい人が、『人間』と見なされず、そこに隔離されている[中 略]それを面白半分で〔村を訪れた人が〕遊んでいたら、最初は〔村人は〕優しかったが、〔村を 訪れた人が〕村人をあまりにもバカにするから、訪ねて来る人を殺して、そういう村〔日本国憲 法が通じない村〕になった」(呪われた都市伝説 犬鳴村 前編 2,2014,〔 〕内は筆者によ る補足)といったうわさがインターネット上で流布し、個人的なブログ8や『2ちゃんねる』な どへの書き込み9にとどまらず、実際に深夜、心霊スポット10としての旧犬鳴隧道前を探訪した
YouTuberが動画をアップロードしている11状況だ。その中で語られ、描写され、恐れられ、広
められる村のありようは、先に述べた、健全さや癒しに満ちた「正」を「仰ぎ見る」行為とはまっ たく正反対のものといえるだろう。
そのような犬鳴山12だが、今日流布している都市伝説に見る犬鳴村の住民のありようとは必ず しも重複しないが、江戸期のたたらの民の営みを証あかしする遺構13が存在する。
「往昔ハ当山の諸木立茂る事如麻竹のして良材多し、白昼と云共山中昏ホノクラク闇、狩人の外往向人稀 にして、猪鹿猿狼のミ多し」(国井,1729, p. 2)だった犬鳴山は、主に木材などの豊富な天然資 源に恵まれていた。しかもそこでは、巨大な産業地を形成するほどではなかったとはいえ、鉄の 精錬が行われ、銅やマンガンなどを「昔から山先や山師と呼ばれる人たちが試掘などを盛んに行
った」(田中,2005, p. 73)とも伝えられている。こうした犬鳴山での鉄の精錬は、「先年、於当
山鉄山あり」として、原料の鉄砂は近在の畦あぜまち町・本も と ぎ木(共に現・福岡県福津市)・(現・福岡県遠 賀郡芦あ し や ま ち屋町)14から取り寄せた(国井,1729, p. 10)。また、1784年に編纂された『筑前國續風土 記附録』にも、「いにしへ、鐵を掘出してふきしとそ。字をタゝラ谷といふ」(加藤・鷹取・川添,
1977, p. 190)という記録がある。さらに、鉄山操業当時から昭和の初年(1926)頃まで犬鳴の
藤嶋利平家に伝わっていた『犬鳴鉄山由来書』(著者不明,出版年不明/1991, pp. 5-15)によると、
幕末期の1854(安政元)年には、福岡藩の主導により、たたら製鉄の先進地であった石い わ み見国15か ら招聘された職人の住居12軒16が建てられ、たたら場として大屋館(製鉄所)と大鍛冶場(鉄を 精錬する職場)各1軒、鉄奉行役所・役所詰方役所各1軒が置かれていた。しかも大鑪屋館には、
9×8間(16.3×14.5 m)の、製鉄炉の地下には大規模な保温・防湿設備が設置され、天秤ふいご
で送風した、当時では最新の製鉄法によって操業されていた。精錬された鉄は、博多土ど い ま ち居町釜屋 深見(瀬戸)惣右衛門17に卸していた。この地に製錬所を設けた18のは、新緑に囲まれた一大盆 地ゆえに、燃料とする木炭用の木材が豊富で、花崗岩質の土壌には、良質の砂鉄が豊富に存在 していたためである(飛野,1991, pp. 182-186;小方,2005, pp. 147-151;田中,2007, p. 143)。
それにもかかわらず廃絶されるも、再び、現在金かなやま山と呼ばれているところで、鉄山仕組が1853
(安政元)年に開始されるが、1864(元和元)年に再び廃絶される19(福岡県教育委員会,1990, pp. 12-13)。
一方、犬鳴山中には、地元の人から「旅ど じ ん ば か人墓20」と呼ばれている墓地がある。金山奥の山の中 腹に8基、もうひとつは穴蔵口に6〜7基の存在が知られている。建立時期は1861(文久元)
年から1863(文久2)年であり、犬鳴鉄山操業時と一致する(小方,2005, pp. 151-152)。その ような「旅人墓」は、触れると祟るというので、誰も祀る人はいなかった(福岡県教育委員会,
1990, p. 62)という。
2015年9月9日に筆者が取材した際、宮若市社会教育課の清水範行氏によると、「犬鳴山は
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山頂から、福岡藩の地形や状況が一望できるため、藩としては、敵に攻め込まれないよう、地理 的な特徴を地図・地誌などに具体的に記述することはなかった」とのことである。犬鳴山で一時 期営まれていたたたら製鉄と、現在流布している犬鳴村の都市伝説と、必ずしも連関するもので はない。しかし江戸期の犬鳴山は、多くの人々が、たとえば、山頂に建てられた寺社への参拝や、
桜や紅葉を楽しむために訪れるといった、全国津々浦々に存在する、明るさにあふれた「正」の 自然が「仰ぎ見」られる山ではなく、秘匿的な場所だったことがわかる。もちろん、健全な場所 として受け止められている、開かれた場所であっても、何らかの「負」のイメージを帯びたうわ さがつくられることが皆無とは限らない。しかし、もともと外部から不特定多数の人々が往来す ることが稀で、山の中でたたらという特殊な生業が営まれていたことから、犬鳴山は、ネガティ ヴな内容に満ちた都市伝説が生まれえる場所の特徴を古来から有していたことは否定できない。
また過去において、たたらの民21は確かに、「近年まで農民達から一段低い者と見られ、差別 されることが多かった」(笹本,1999, p. 55)。しかし同時に、「鉄を生み出し、加工する職人た ちは、自然に手を加え、人間にとって有用な別の物質を作り出すだけに、自然を司る世界と人間 の世界をつなげる、特殊な能力を持つ人だった」と、たたらの民が有する、「能力の故に聖視さ れたが、聖なるものは逆に賤にも転換しやすかった[中略]しかも、神仏や聖なるものに対する 意識が減退する近世になると、少数者であるが故に差別の対象となった」(笹本,1999, p. 57)と、
「正」「負」の二面性を指摘する22。
3.
「異人」が住む、「異界」としての犬鳴村の「場所」のありようとはうわさの中で表象される犬鳴村のありようは、かつての農村共同体、今日ならば、定住型の都 市生活者たちが有し、価値を置く、安寧と平和、堅牢さとはまったく異なる、不安定さや混沌23 に満ちている。そしてそこに在る村人たちは、「今」だけを激烈に生き、しかもいつでも「ここ」
から「逃ケツワリ亡」することすら厭わない24。そうした自身のありように一切の疑問をもたず、一瞬先 は闇の危うさの中に身を置くことに満足している(様子である)。そのため、「我々」の常識の外 にある「狂気」の人々に見えてさえいるのだ。
「狂気」に関して深い論考を残した哲学者のミシェル・フーコー(1975, p. 580)は、人間の狂 気について、「医学の進歩は癩病や結核のように精神病をなるほどなくしてしまうことはできよ うが」と断った上で、「人間の幻ファンタスム覚、彼の不可能性、身体とは無関係な彼の苦痛、夜間の彼の骸骨、
それらとの人間の関係という一つの事柄は残る」。そして「病理学的なものがひとたび回路のそ とに置かれてしまうと、狂気への人間の暗い帰属関係は、狂気の病理形態のなかに消しさられる 病魔(=悪)の、しかし不幸としていつまでも存続する病マ ル魔の、年月をもたぬ記憶となる」と述 べている(フーコー,1975, p. 40)。
こうした見解をもつフーコーが「人間とその弱点、その夢想、その幻想に関係している」(1975,
p. 40)という狂気の概念と、場所のありように関する洞察で知られる、地理学者のエドワード・
レルフの「場所論」(1999)とを当てはめ、犬鳴村のありようを考察する。
犬鳴村とは、「恐喝、レイプ・傷害などの犯罪行為を行なう」(犬鳴峠,1999)、「狂気」の村人 たちがいる村である。しかもそのような村人たちがいる村として選定されたのは、日本全国に点 在する、「桃源郷のよう」(高桑,2002, p. 8)な豊かな自然、そして自然と人とが穏和に共存共栄 している、まさに「正」の自然を「仰ぎ見」られている場所ではない。1986(昭和61)年にダム の底に沈み、1988(昭和63)年には残忍な殺人事件が起こった場所である。そのありようはレ
85 ルフがいう、「没場所性25」の典型事例のひとつ、「製鉄所、製油所、軽機械工業、採石場、ゴミ
捨て場[中略]すべてがその土地とは全く遊離した外見を持」ち、「近代的な鉱工業や商社の画一 的な尺度が、ダム建設による水没、鉱産物の掘削、ゴミの山による堆積、あるいはただその上 に建設物を造ることなどによって場所を抹殺」(レルフ,1999, p. 238)されている状況と酷似し ている。さらに、たとえ「没場所性」の状況であっても、「即席のニュータウン、郊外地区、企 業化された商業開発、新しい道路、空港、デザインや建築におけるインターナショナルな様式」
(レルフ,1999, p. 246)のように、「外部」からは「没場所性」の典型に見えながらも、そこに在 る人々が、その場所に対して日々、愛着やアイデンティティ26を意識的/無意識的に感じながら 生きている場所ではなく、「ヒロシマやヴェトナムの村のように、戦争における非人間的な破壊」
がなされたり、採掘や埋め立てによる破壊、部外者による土地の収用と再開発がなされ、場所が
「破アブバウ壊」されている場所(レルフ,1999, p. 246)でなければならなかった。
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.まとめ「負」の自然を「仰ぎ見る行為」としての犬鳴村のうわさを考えるインターネット黎明期の1990年代末期から今日まで語られ、流布されている犬鳴村のうわさ での、村のありようは、本論では論じていないが、同様に有名な都市伝説である、青森県のどこ かにあるという「杉すぎさわ沢村」(杉沢村伝説,2012)の雛形とされる、横溝正史の推理小説『八やつ墓はか村』
(1971)に描写された、実際に1938(昭和13)年に起きた「津山三十人殺し」の舞台となった村 の状況なのか、あるいは筑豊炭田という場所がもつ、流れ者や無頼の徒の場所27というイメージ
(鳥飼,2014, pp. 167-176)、幕末期にたたら場があったこと、時を経て1986年に現実の犬鳴村 が犬鳴ダム建設に伴い、ダムの底に沈んだこと、1988年に陰惨な少年犯罪の現場になった28こ とといった、本来の犬鳴村を含む犬鳴山の場所のありようが、都市伝説における犬鳴村の表象内 容にどんな影響を及ぼしたのか、筆者は断定することができない。しかし、たとえ美しい/文化 的な暮らしを営んでいるという自負を有しているとしても、我々の心の内奥には、避けがたい理 不尽な苦しみや悩み、人には知られたくない暗さ/邪悪さ/卑しさが渦巻いている。これらは、
各人が生きている限り逃れることができない、愛別離苦・生老病死の懊悩を連想させる、恐ろ しく、規模も深度も不確かな暗闇・混沌、すなわち「負」の自然を自分自身の中に「自分」または
「誰か」を通して「仰ぎ見る」行為そのものではないか。本論では我々が「仰ぎ見る」自然につい て、「正」「負」と二分した形で論じたが、「正」は「負」であり、「負」は「正」でもある。諸状況に 応じ、融通無碍に変転しうるし、両方の意味を同時にそなえてさえいる。したがって我々は、犬 鳴村のうわさを表面的/情緒的に捉え、その場限りで怖がったり、面白がったりしたあとに、何 事もなかったように、日々の生活に埋没し、忘却してしまうのではなく、それがもち、表象する 意味に関し、時に弱さ/怖さゆえに、自分が在る場所に、重なったり、接近していない、といっ て、想像することもかなわない遥か彼方でもない場所に、新たな「犬鳴村」を作り出し、思い浮 かべ、語り、怖れ、広めずにはいられない、人間存在の本性29を映す鏡として捉え直す必要があ るといえる。
最後に、本年度の福岡県内での現地調査に際し、直方市立直方第三中学校の生徒さん、直方 市石炭記念館館長・八尋孝司氏、日本各地の炭坑に関するブログ『鶴嘴さんのブログ』(http://
ameblo.jp/gmgwwmd0/entrylist.html)運営者・鶴嘴氏、福岡県立大学の森山沾一先生、喜多 恵先生、山本作兵衛さんを〈読む会〉(http://sakubei-yomukai.jp)の方々、宮若市役所社会教
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育課の清水範行氏、福岡県宮若市の山口八幡宮宮司・小方良臣氏に多くのご助言、ご尽力をいた だいた。この場を借りて、深く謝意を表したい。
註
1 筆者が2014年2月にインタビューを試みた、心霊スポット探訪サイト『朱あかい塚』(http://scary.jp)運 営者の朱い塚氏によると、1970〜80年代にブームであった暴走族など、地域の不良少年たちが夜中に 集まり、騒いで花火をしたり、喧嘩したりすることに苦慮した、当時犬鳴山中で農業を営んでいた数 世帯の住民のうちのひとりが、彼らを追い払うため、「日本国憲法が通じません」と書かれた看板を立 てていたという。
2 地元では「いぬなき」ではなく、「いんなき」と呼ばれている。犬鳴山の名前の由来は、文化・文政年間
(1804〜1829)に奥村玉蘭による、筑前国内の俯瞰図とその解説を記した『筑前名所図会』によると、「或 時猟師此山に能犬を牽ひいて夜待せしに、犬常ならす頻にほゆ、故に不猟なりとて犬を討ぬ、の峯を見れハ、
長壱丈五六尺の蛇さもすさましき形相にてあらわれたり、扨ハ犬の告知せしをしらすして誤れりと鉄 炮を投捨、犬の志を感し出家して此山に犬の塔を立しとかや」(奥村,1985, p. 598)と記されている。
しかも由来そのものが、「摂津國犬啼山の事と同事」(奥村,1985, p. 598.)という。大阪の犬鳴山は平 安時代から今日に至るまで、山岳信仰の場所として知られるが、江戸期の筑前(現・福岡県北西部)に その場所が重ねられたことに、何かしらの意味があるのかもしれない。また、真弓(2012, p. 199)は、「『犬』
とは製鉄の民のあいだでは、砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった[中略]『犬』を つれて『狩』にでたというのは、山間の僻地なるがゆえに狩猟をなりわいとした行為をいうのではなく、
鉄の在り処かを求めて山野を跋渉する行為」と述べているが、大阪/福岡共に古来から製鉄の民との関連 も考えられる。
3 筑豊の名前の由来は、「遠賀川流域は、昔は筑前国と豊前国の境でして、田川郡だけ豊前国で、飯塚、
直方、遠賀は筑前国でした。明治18(1885)年に遠賀川流域の遠賀郡、鞍手郡、後に嘉穂郡となる嘉 麻郡と穂波郡、それと田川郡の五郡にそれぞれあった石炭業の同業者組合が合併して『筑前国豊前国石 炭鉱業組合』というのができました。同様に、明治19(1886)年の同業者組合から筑前の『筑』と豊前 の『豊』をとって、『筑豊』という言葉を遣うようになりました」(ピアソン,2014, p. 61)という。
4 多目的ダムである犬鳴ダムは重力式コンクリートダム、高さ76.5 m、長さ230 m、総貯水量500万㎥、
有効貯水容量48万㎥で、洪水調節、流水の正常な機能の維持および都市用水の供給を目的とするもの である(大村,2005, p. 725)。
5 『朝日新聞』(1988年12月10日朝刊;1989年9月4日夕刊)によると、1988(昭和63)年12月7日に、
田川郡内の15〜16歳の暴走族グループ5名が、顔見知りの工員(20歳)に「車を貸して欲しい」と頼 んだ際、断られたことに激高し、監禁暴行の末に旧犬鳴隧道そばで焼殺した。今は閉鎖されている旧 犬鳴隧道だが、地元の「心霊スポット」として恐れられ、かつ、興味本位で訪れる人々が少なくない。
6 1990年代に福岡県教育委員会において、犬鳴山中のたたらの遺跡を調査していた小方良臣氏に、筆者
が2015年9月9日に聞き取り調査を行った際、インターネット普及前の当時、主に日本国内、遠く は韓国のテレビ局などから、今日流布している「日本国憲法が通じない」民がいるという「犬鳴村」に ついて、教育委員会に直接、問い合わせやテレビカメラによる撮影取材があったという。
7 2015年6月に筆者が直方市立直方第三中学校で教育実習を行った際、中学2年生の男子生徒2名より、
「白いセダンで犬鳴峠に行くと、死ぬ」、「お母さん(40代)が、犬鳴では殺人事件があったりしたので、
絶対行ってはいけないと言っていた」という証言を得た。
8 た と え ば『 三 番 煎 じ 日 記 』(2009)と い う ブ ロ グ サ イ ト に、「 犬 鳴 村 に 行 っ て み た 」http://
sanvansenji.xxxxxxxx.jp/inunaki.htmという記事がある。
9 たとえば2002年6〜12月に立てられていた「犬鳴村ってどんなんよ?」という『2ちゃんねる』内のス レッド(http://snow.jamfunk.net/kyukei/log/dat3/1025437984.html)では、「旧トン〔旧トンネル〕
の両入り口近くにあった電話ボックスは洒落にならない[中略]第3のトンネルが存在するらしい(川 の下!?)、旧トンネル近くの分かれ道を右か左どちらかに行くと犬鳴村が存在するらしい[中略]国が 特別保護地域に指定しているらしい、島根のカップルが面白半分で来たら行方不明になった」(2009,〔 〕 内は筆者による補足)などの書き込みが記されていた。
87 10 「心霊スポット」と呼ばれる場所となりうる条件は、「複数の人間がそこに行き、同じような感覚をもつ
ことによって始まる。ここには何かいる―何者かの気配を感じ、その声を耳にし、その姿を見た者 たちがいる。しかもそんな体験をした人物が一人だけではないからこそ、『その場所』が心霊スポット と呼ばれるようになる」(G. H. M.研究所,2002, p. 1)という。
11 たとえば、2014年2月7日にアップロードされた、怖い話 宵の眼氏による『犬鳴峠 完全版 【福 岡県の心霊スポット】』https://www.youtube.com/watch?v=LB5igtoXzrYなどがある。
12 犬鳴山には複数の登山口がある。福岡市域寄りの登山口前には、久山町役場・粕屋警察署による、「防 犯カメラ作動中!この先、落石発生の恐れがあるため関係者以外立入禁止 進入が認められた場合、警 察へ通報します」と記された看板がある。また、犬鳴御別館跡の南側の谷に通じる、犬鳴ダムに沿う格 好の、直方市側からの登山口は、註6の小方氏によると、ダム建設の残土で埋め立てられ、そこにゴ ミや産業廃棄物の投棄があるので、20年ほど前から、旧・若宮町(現・宮若市)が車の出入りを規制 しているということだった。
13 犬鳴山におけるたたら製鉄の遺跡は、犬鳴ダム建設の際、福岡県教育委員会によって、犬鳴字金山と 同多々羅(通称タタラ谷)の2カ所で発掘された(小方,2005, p. 143)。「犬鳴鉄山跡平面図」(小方,
2005, pp. 148-149)によると、鉄山跡は、縦およそ30 m、横およそ50 mの規模だった。註6の小方 氏によると、現在、犬鳴山中のたたらの遺跡の上には、1986年の犬鳴ダム建設時の土砂を堆積させて いるため、傍目には何もわからない状況だ。しかし、2015年に世界遺産に登録された、萩の「たたら 製鉄遺跡」よりも規模は大きいとのことだった。
14 芦屋は、玉井政雄(1979, pp. 30, 40-41)によると、「古代から中世、近世にかけ、天然の河口港として 発展し、交通、物資集散の要地として船や人の往来が絶えなかった[中略]室町時代、良質の砂鉄で鋳 造されていた芦屋の釜は、名器としてひろくもてはやされていた。地方豪族たちは堂上や寺院への献 上品として、芦屋釜を多く都へ持ち去った」場所である。
15 中世博多商人の中で「三傑」といわれた者のひとりである神か み や そ う た ん
屋宗湛から遡ること3代前の神屋が1526 年に、島根県の石見銀山を発見した。当初は銀鉱石を博多に運んで銀を取り出していたが、7年後、灰 吹法と呼ばれる精錬方法によって現地での精錬が可能になり、産出量は飛躍的に伸びた。その結果、
それまで銀は朝鮮から日本へ輸入されていたが、数年で流れが逆になり、「銀はありふれたものになっ てしまった」ことから、世界の銀産出量の3分の1を占めるようになった(読売新聞西部本社,2004, pp. 54-55)。このことから、石見銀山と博多という場所におけるつながりの深さがうかがい知れるが、
それが江戸期にも継続していたことを証明している。
16 たたら職人の住居は、『犬鳴鉄山由来書』によると、「長サ八間〔14.5 m〕横カ四間〔7.2 m〕ノ家モ御立 ラル 同長サ八間横カ三間半〔6.4 m〕家モ御立ラル」とある(飛野,1991, p. 182,〔 〕内は筆者によ る補足)。住居の広さとしては、決して狭い空間ではない。
17 福岡藩の御用商人。『瀬戸(釜惣)文書』を残している。釜惣は犬鳴鉄山の問屋先であり、福岡藩は釜惣 に犬鳴と近在の(現・北九州市八幡西区大字楠橋)両鉄山を経営させていた(小方,2005, p. 145)。
18 田中は『筑前國續風土記拾遺』内の福岡藩による、1748年に朝鮮人参の栽培が始まった、「桂木谷(今 人参谷と云)といふところに国君より人参を植へさせらる」に着目し、「桂の木はたたら信仰の金か な や ご屋子 神がこの木を伝って降りてくるといわれる神木で、たたら場には必ず植樹されるが、神木ゆえにたた らでは決してこの木を燃やすことはない[中略]この名がつく地には木炭や砂鉄などの鉄精錬用資源や 自然的諸条件が太古より存在した」(田中,2007, p. 144)と推察している。
19 犬鳴鉄山廃絶後に、たたら場の総責任者(村下)だった利右衛門は、『楠橋村文書』によると、真名子鉄 山に移動したのち、1869(明治2)年には遠賀郡楠橋村(現・北九州市八幡西区楠橋)に住んでいた。
そして翌年には、同僚の嘉平と一緒に唐津に行ったと記されているが、その後の消息は辿れなかった(小 方,2015, p.5)という。しかし、その他の人々が、故郷の石見に戻ったか、別の場所に流れて行った のかなどは、一切不明である。
20 註6の小方氏は、「旅人の墓」と書いて「ドジンバカ」と呼ばれていたことについて、たたらの民、すな わち、「炉の人」である、「ロジン」がなまって、「ドジン」になったのではないか、と解釈していた。
21 古代から平安期の鉄の民は、必ずしも特定の場所に定住していたわけではなく、諸国を渡り歩く職人 だった。たとえば、大宰府の竃か ま ど や ま門山の山麓にも、鍛冶・鋳物師の集団がいて、菅原道真にまつわる話 を諸国に伝えていた。彼らは、京都・北野天満宮の創建に寄与した影の演出者であり、かつて大和王 権に屈した出雲系の人々だった(水澤,2011, p. 48)という。
22 上杉(1993, pp. 21-22)は江戸期の「幕府掟十一」、「但百姓町人より相対之上、穢多仲間ニ相成候分も 有之」を挙げ、建前上は許されていなかったが、百姓町人が相談の上で、穢多になりたいならば穢多に なるということもある、と述べている。その根拠として、1831(天保2)年に京都で穢多狩りが行われ
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た際、100〜200人の穢多が捕まっているが、それは穢多が町人に紛れ込んでいたと考えられる。それ ゆえ、差別・被差別という枠組みはあったが、中にいる人たちは相互に入れ替わり、かつ差別・被差 別の関係だけが続いていく、と推察している。このことから、「穢多」に限らず、犬鳴山中の山の民と 近在の農民とは、必ずしも差別・被差別と断絶・対立する関係ばかりではなく、同化・混濁関係が続 いていたのではないかと筆者は考える。
23 たとえば明治〜大正期の筑豊炭田の人々は、「炭坑のもん〔者〕は気が荒いですけん〔ですから〕口でぼ んぼん荒う〔荒く〕いいますたい〔言うんです〕。『殺すぞ!』いうて〔言って〕仕事しよる〔している〕。
そして上へ上がったら殺すぞというた〔言った〕相手と仲よう〔仲良く〕遊んどる〔遊んでいる〕」(森崎,
1970, p. 60, 〔 〕内は筆者による補足)、「〔自分は〕気性が激しくて、まあ気狂いですな」(森崎,1970, p. 66,〔 〕内は筆者による補足)などと語った。1960年代から、筑豊でヤマの女たちの聞き取りを行 った森崎和江はそのような人々のありようを、「人に負けてはならない。一歩も引いてはならない。体 当たりで生きねばならないのです。せっぱつまった環境のなかではそれだけが自分に頼りになる道徳 であり、心の支えでした」(森崎,1970, p. 80)と分析する。
24 拙稿(2014,pp. 167-176)参照。また、かつての女坑夫たちも、「『今日はどことどこがけつわった』と 聞かん〔聞かない〕日はなかったけん〔から〕」(森崎,1970, p. 20,〔 〕内は筆者による補足)と
「逃ケツワリ亡」が当たり前だったことを語っていた。
25 レルフがいう「没場所性 Placelessness」とは、「個性的な場所の無造作な破壊と場所の意義に対するセン スの欠如がもたらす規格化された景観」(レルフ,1999, p. 20)が形成された「場所」のありようのこと である。
26 「場所には、場所に対する人間の意識の幅と同じくらい多様な意義とアイデンティティの広がりがある」
(レルフ,1999, p. 39)というレルフは、「私たちのほとんどは、もはや霊魂やその象徴が息づく世界に は住んではいないし、特別な意味をもつ神聖な場所のある世界にも住んでいない」が、「多くの人びとは、
場所との深層心理的つながりがまだ存在しているのであり、それは緊張状態にあるときにだけ明らか になる」(レルフ,1999, pp. 164-165)と述べている。レルフが論じる場所への現代人の反応は、いず れも「正」の自然を「仰ぎ見る」行為の一例といえるだろう。
27 明治・大正・昭和初期の坑夫は「『戦争のあとタンコウモン〔炭坑者〕もつまらんごと〔つまらなく〕な った。誰も彼も会社員のげな〔ような〕つらになってしもうた〔しまった〕。もう切れば血の噴くげな人 間はおりはせん〔いない〕[中略]』とよく話した」(森崎,1996, p. 15,〔 〕内は筆者による補足)という。
しかも炭坑の場所に在った人々は、「地下労働者こと明治・大正期の坑夫は誰もが百パーセントの被害 意識の所有者というわけではなかった。むしろ私などには共感できない底抜けの開放性をもっていた。
それは死でいろどられた地下労働を知らぬ者には手のとどかぬ明朗さであった」と森崎を驚嘆させた。
森崎が指摘し、山本作兵衛の炭坑記録画に描かれたヤマの人々の明朗さは、「内」にいなければわから ないもので、「外」から見ると、陰鬱で混沌とし、乱暴放埒な無法者が跋扈する場所に見えてしまうの であろう。
28 民俗学者の赤坂憲雄(1989, p. 196)は「境界はしばしば〈異人〉殺害をめぐる伝承の舞台でもある」と して、柳田國男の『遠野物語拾遺』の二「昔青笹村に一人の少年があって繼子であった。馬放しに其子 を山に遣つて、四方から火を附けて焼き殺してしまつた。其子は常々笛を愛して居たが、この火の中 で笛を吹きつゝ死んだ處が、今の笛吹峠であるといふ」(柳田,1951, p. 76)などの例を挙げ、「〈異人〉
の死にまつわる伝承は、事実譚として読まれねばならない。連続する切れ目のない空間に境界標識を たてるということは、ある秘められた根源的な暴力、つまり供犠であることを、改めて確認しておき たい」(赤坂,1989, p. 196)と論じている。犬鳴山を貫く、旧犬鳴隧道前での殺人事件の発生は、偶然 の出来事だったとしても、被害者/加害者共に、犬鳴周辺が地元ではなく、直方を越えた場所に位置 する、田川郡在住の若者によって、わざわざ「ここ」で起こされたものだった。そうした点から、赤坂 の言う「供犠」として殺人事件が起こったわけではないにせよ、後世にさまざまな後付け解釈や意味の 付与がなされることによって、犬鳴峠、そして旧犬鳴隧道もまた、「〈異人〉殺害をめぐる舞台」になり うると考えられる。
29 たとえば柳田(1976, pp. 156-163)は1926(大正15)年に記した『山の人生』の中で、「不思議な事情 からいなくなってしまう者」に対する民の心情として、「少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、
これが本人ただ一人の心の迷まよいから出たものと解してしまうことが昔はできなかった」と述べ、その理由 として、「一人ではとうてい深い山の奥などへ、入って行くはずのない童子や女房たちが、現に入って 行き、まだ多くは戻って来ぬのだから、誰か誘うた者があったことを、想像するに至ったのも自然で ある。実際また山の生活に関する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省してみても、かつ てそういう奪略者が絶対になかったとは断言することをえない」と指摘する。しかし、「問題はかくの
89 ごとき想像の中で、果して[原文のまま]どこまでは一応の根拠のある推測であり、またどの点からさ
きが単に畏怖に基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。しかも自分たちの 見るところをもってすれば、右の問題の分堺線とても、時代の移るにつれて始終一定していたわけで もないようである」と結論づけつつ、「実際は小説・御伽草子・絵巻物以上に的確に真相をめることは、
求めたからとてできることではなかった」(柳田,1976, p. 164)と、過去において多くなされてきた、
不確かな出来事に関して付与され、流布される「物語」について、「文学的」「詩的」な感情に流されず、
じつに現実的/理性的な視点をもっていたことがうかがい知れる。
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