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一一アントナン・アルトーと力の演劇一一

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(1)

秩序と均衡を求めて

一一アントナン・アルトーと力の演劇一一

大 坪 裕 幸

序 詩 と 形 而 上 学

アントナン・アルトーは生涯を通し演劇人であったと同時に詩人でもあ ったが,自ら詩を書いていただけではなく,自分が出会う様々なものに詩 を求め,かつ詩を見出していた.例えば,

37

歳のときに執筆した歴史小 説『ヘリオガパルス』では,ローマ皇帝ヘリオガパルスの政治が一種の

「詩」だったことを主張しながら,このように述べている.

すべて詩のなかには本質的な矛盾が存在する.(…)そして詩は秩序を取り戻 すものであるが,まず無秩序を,燃えさかる様相を呈した無秩序を蘇らせる.

(Antonin Artaud, Oeuvres Comp

tes

(以下

o.c.

と 略 )

VII, Paris, ed.  Gallimard, 1981, p. 84.) 

これまで数多くの論者が強調したようにアルトーにとって詩作とは,彼 の思考を奪い,思考を腐食させる言語の呪縛から逃れるための試みだっ た.ゆえに詩は言語の一般的な構造・機能という既成の

ordre

から最も遠 く隔たった場所を目指すべきであるが,そこは言語の秩序から見れば

desordre 

(無秩序あるいは混乱)でしかない.言いかえれば,詩が真の秩 序に向かおうとするなら必然的に(既成の秩序にとっての)

desordre

を 伴わざるをえないのであり,ヘリオガパルスの異様な政治の形態はまさに

このような意味での「詩」だ、ったのである.

またアルトーは,演劇のなかにも詩を求める.

1931

年に行われた講演

「演出と形而上学」のなかで,演劇は「空間の詩(

poesied' espace

)」であ

ること,そしてそれは形而上(学)的な実践であることを繰り返し主張す

る.アルトーによれば演劇という詩が辿り着かなければならない

ordre

は形而上(学)的秩序(

ordremetaphysique

)であり,そのために「舞台

は物質的かっ具体的な(

physiqueet concret

)場所」(O

.C.

刀 く

p.36.

)でなけ

(2)

ればならない.

ここで物質的・物理的かっ形而下の試みを表している形容詞

physique,

彼の全てのテクストにおいて頻繁に用いられているこの形容詞はその語源 たるピュシス=自然と切り離せないものであり,人間の「生」が自然と一 体化した状態を示している.ゆえに彼の演劇論における形而下の領域とし ての舞台はある種の理想的な「自然的」かっ「物質的」空間であり,そこ で演じる俳優もまた理想的な「生理的」身体を持っている.さらに(後述 するように)このピュシスの存在は,さまざまな戯曲のなかにも見出され る .

ただしアルトーが用いるこの形容詞

physique

は,現実に人間と自然と が一体化しているということを示しているのではない.むしろ実際にはそ うではなく,人聞が生を文化や文明や現存する社会に奪われているからこ そ演劇では自然を取り戻し,それによって形而上にある秩序に辿り着かな ければならない,という目的意識のもとで用いられている.このような展 望のもとで書かれた演劇論は,二つの側面を持っている.まず形式に関し ては演出家として舞台という

lieuphysique

においてそれを超える

meta physique

としての秩序を,俳優の身体を中心にして音響・照明・舞台装 置を巻き込みながらもたらすという物質的な試みの方法論であり,内容に 関しては戯曲にピュシスを見出し,それを上演することで劇場そして社会 のなかに秩序をもたらすための方法論である(紙面の都合上,本論ではと

りあえず後者のみを論じることにする).

そしてその両者は何よりもまず,身体に作用する力,社会のなかで生き る我々からは遠く離れている自然の「力」を巡る実践である.この場合の 身体はまず悲劇の登場人物のそれであり

I

),またアルトーの残酷演劇の物 質的かつ精神的実践においてはそれを俳優が演じなければならない.で は,俳優の身体はどのように力に関わるのか.

1. 

いかに力を機能させるか

1933

年4 月6 日にソルボンヌで行われた講演「演劇とベスト」のなか でアルト}はベストに関する様々な史実を参照しながら,ベストに感染し た身体が蝕まれて死に至るプロセスを詳細に説明している.それに関して ジョナタン・ポロックは,アルトーがベスト患者の死体の「胆嚢は(…)

黒く粘ついた液体で満たされ,肥大してはちきれそうになっている(…).

動脈や静脈の血液も同様に,黒く粘ついている.」(

O.C.JV,p. 20.

)と述べ

(3)

ていることをふまえ,彼がロパート・パートン『憂欝の解剖』 (1621 年 ) を読んでいた可能性を指摘している.「アルトーがパートンを読んでなか ったとしても,彼はきっとパートンの典拠となった多くの書物を閲覧して いた.(…)黒胆汁はベストの原因となるのではなく,むしろベスト患者 の行動の原因となる.言いかえれば,ペストが〈外国〉となって,この

〈新しい物質(引用者注黒胆汁)〉が胆嚢を塞いで黒胆汁質の狂気(

folie atrabilaire

)の(内因〉となり,この狂気にベスト患者は捕えられるの だ

2

) . 」

ただし,当然だが

20

世紀に生きたアルトーが黒胆汁の存在を信じてい たわけではない.彼がパ}トンあるいはその典拠としてのヒポクラテスや ガレノスの固体液説を参照していたとすれば,それは彼にとって本質的な 悲劇たるエリザベス朝演劇とギリシャ悲劇がそれらの医学的文献と時代を 共有していたからに他ならない

3

).ポロックのいう黒胆汁質の狂気,メ ランコリックな狂気は現実に人聞を襲い,それは一方で、は医学的考察の対 象となりもう一方では悲劇の題材となる.アルトーはその背後に人間の体 液を黒く変色させる力の存在を見ていたのであり,このような力の影響を 受ける人間の行動は一方では現実の社会で様々な犯罪を引き起こし,もう 一方では悲劇の主人公の宿命となる.

1933

年の末に書かれた「名作と訣 別するために」のなかには,このような記述が見られる.

『オイディプス王

J

にはく近親相姦〉の主題がある.自然が道徳、を翻弄すると いう考えがある.初復する力がどこかにあるという考えがあり,それには十分 気をつけろと我々にいう.それらの力が宿命

destin

などと呼ばれる./さらに ベストという疫病がある.これは,それらの力の自然的化身(

incarnation physique

)である.

(0.C.Ii

p.7273.) 

つまり通常は誰もが存在を忘れている自然界(=ピュシス)の「初復す る力」の総体かつ極限状態が,アルトーが史実のなかに見出した疫病ベス ト,ひとつの身体から伝染してやがてはひとつの社会体にまで広がって人 間たちを集団発狂へと導く究極の病である.では自然の力はなぜ人聞を,

例えば近親相姦のような反社会的行為・背徳的行為に駆り立てるのか.

アルトーによれば「顕現された世界では,形而上(学)的にいって悪が 永続的法則 J( 

0. C.IV, p. 100.

)であり,自然と一体化した人間の生は本来的 に悪に向かう.逆にいえば社会において法やモラルといった諸制度(ピュ

(4)

シスに対するノモス)がそれを抑制することで,人間は生を所有できなく なる.ゆえに詩が既成の言語の構造を超越するように,人聞社会において 本来実現されなければならない形而上の秩序は人間界の規則・規律・規範 を超えていく.つまり「自然が道徳、を翻弄している」ということは,自然 の力がこのような秩序に人間たちを向かわせている状態を示している.

アルトーのこのような世界観はグノーシス主義的といえるもの,またシ ョーベンハウアーの哲学に比されうるものでもあり

4

),この世界観によっ て解釈・演出される悲劇の登場人物を演じる俳優もまた,演じることで自 然の力と関わることになる.ただし,自然の力が犯罪のような形で現実社 会において作用する場合と演劇において舞台上で機能する場合では,状況 は異なっている.アルトーはこの講演のなかで,こう語っている.

人殺しの激高が尽き果てるのに対して,悲劇の俳優の激高は,純粋で閉じられ た円の中に留まる.人殺しの激高は,一つの行為を完成すると放電してしま い,カとの接触を失う.力は彼をそそのかすのだが,それ以降はもう養分を与

えない.(0.CIV, p. 2

ラ . )

実際の犯罪において力が人聞を狂気的な行動に駆り立てたのちにその身 体から離れるのに対して,演劇ではそのような行動を演じることによっ て,力が諸々の感情・情熱・情動を生じさせている状態を人為的に作り出 す.そして彼の行為が実際になされた一度限りのそれではなく,あくまで 舞台上でのその行為の「演技

J

,その行為の疑似的な反復である以上,「力 との接触」はその都度可能となり,力は常に俳優の身体に留まることにな る .

アルトーによれば演劇は「潜在的な現実性

realitevirtuelle

O.CJV, P 47.

)であるが,おそらくこの言葉はいわゆるヴアーチャル・リアリティと

いう概念を超えた含みを持っている.彼が何度もベルクソンに言及してそ

の哲学の用語を使っていることをふまえて解釈するなら,舞台とは,自然

の側から力が人間を動かして行為を実現・実行させる(=潜在的な力が現

働化する)現実の社会と隣り合わせの,俳優の演技によって人間の側から

力を(行為として実現させずに,力の潜在的な次元との関わりをその都度

保ったままで)機能させることのできる特殊な空間である.アルトーにと

って演劇の潜在性は,第一にこのような俳優の演技のあり方,演技の反復

の可能性に関わっている.

(5)

2. 

秩 序 と 無 秩 序

講演「演劇とベスト」の後にアルトーが執筆した『ヘリオガパルスある いは戴冠せるアナーキスト』は,三つの章から成り立っている.彼は第一 章では主に,ヘリオガパルスの時代のシリアでの宗教の形態,太陽神の信 仰について語っている.そして第二章ではファーブル・ドリヴェのいう

「イルシューの分離う)」を基にして男性原理と女性原理の分離と闘争につ いて哲学的かっ神秘主義的な分析を行い,第三章ではそれらをふまえた上 でローマ皇帝ヘリオガパルスの政治について語る.

ヘリオガパルスの全生涯は,行為としてのアナーキーである.というのは,エ ラ・ガバル(引用者注ーヘリオガパルスが崇拝し一体化した太陽神)は男性 と女性,敵対するこ極,ー者と二者とをまとめあげ,それは矛盾の終結であ り,戦争とアナーキーの除去であるが,同様に戦争による,この矛盾と無秩序 の地上での,アナ}キーの実行でもあるからだ. ( 

0. C. VII, p. 84.) 

形而上的な秩序へと人間たちを向かわせる自然の力は,アルトーのいう

「矛盾と無秩序」を地上に生じさせる.それらをローマの領土全体におい て一気に出現させてアナーキー(無政府状態)にまで高め,それによって この地上で真の秩序を実現することが「戴冠せるアナーキスト」ヘリオガ パルスの政治的実践だ、った.

ここで言われている秩序の前段階としての無秩序という定義に,この小 説の執筆の二年前(1

931

年)に出版されたルネ・ゲノンの著作『十字架 の象徴学jの影響を見てとることもできるだろう.ゲノンによれば,戦争 は「顕現されたものを原理的な統一性に再統合するための宇宙的なプロセ ス J であり,「完全な秩序を構成するのはまさに,あらゆる無秩序,また はあらゆる不均衡の総体それ自体である

6

).」そして,「戦争の目的それ自 体が平和の確立である.なぜなら平和は,最も一般的な意味においでさえ

も,結局は秩序,均衡,調和にほかならないからである

7

) . 」

ゲノンを愛読していたアルトーが,この本も読んでいた可能性は十分に

ある.ただし前者においては,まさに十字架の中心部においてあらゆる対

立や葛藤が解消されてゲノンのいう「完全な秩序」が実現しているのであ

り,このようないわば空間的な秩序・均衡に対してアルトーのそれは時間

的な概念である.彼にとって「ある世界において詩と秩序を取り戻すこ

と,存在自体が秩序への挑戦である世界において取り戻すこと,それは戦

(6)

争かつ戦争の永続性を取り戻すこと J

(O.C. VII, p. 84.

)であり,力の闘いは 永続的なものであり,また永続的なものでなければならない.

アルトーによれば「物質のなかに神々はない.均衡のなかに神々はな い.神々は力と力の分離から生まれたのであり,それらの和合によって死 ぬであろう.」(

O.C.VII, p.

2.

)ここで言われている「均衡」はおそらくゲ ノンのいう「完全な秩序

J

と同じであり,そこに力は存在しない.言いか えれば,アルト}にとって(あくまでこの世で繰り広げられる)異教の 神々の戦いも一種の力の闘いであり,均衡へと向かうプロセスが決してこ の世で完結する(=神々が和合によって消滅する)ことがないからこそ,

それらの力の闘争は永遠に続くしかない.ゆえにヘリオガパルスがこの地 上で作ろうとした真の秩序とは,ひとつの帝国のなかで複数の政治的な権 力を常に括抗させることで結果的に成り立っていると見なされうる,いわ ゆるパワ}・バランスである.

ただしアルトーが均衡という言葉を使ったのは,「ヘリオガパルス」が 最初ではない.先に挙げたゲノンの著作が出版された

1931

年に書かれた

「パリ島演劇について j では,この演劇の神話的な主題に,舞台での上演 が「濃密な均衡と完全に具現化した重力」(

0. C.IV, p. 63.

)を与えていると 書く.また,同年に行われた講演「演出と形而上学」では,ルカス・ヴア ン・デン・ライデンの絵画「ロトの娘たち」のなかに,〈均衡〉の観念が 見出されると語っている.

(O.C.

乃 う

p.35.

)これらの均衡は「平衡」あるい は「バランス」とも訳しうる空間的な概念であるが,仮にアルト}がこの 時期にゲノンを読んでいたとしても,彼はその後に執筆を依頼された小説 の準備としてヘリオガパルスの生涯に関する資料を読むことで,ゲノンの いう理想的な均衡ではなく現実的かっ実践的なそれを見出し,かっそれを 時間的な概念に修正したのではないだろうか.

アルトーによるとヘリオガパルスは,戦争やアナーキー・無秩序の原因 である男性原理と女性原理の対立を解消する際にも,両者の均衡を維持し ようとする.まず,「彼は自分が奥儀を授けられた神の提(

loidivine

)を 遵守する.

J ( 0. C. VII, p.  95.

)神の提として啓示された真の秩序に従うへリ オガパルスは,ローマ皇帝になった後に元老院の男たちを追い出して代わ りに女性たちを招き入れた.「それを実行するヘリオガパルスにとって,

これは単なる均衡の回復,提への理にかなった回帰でしかない.」

(O.C. VII, p.  9

弘)しかし彼にとっての「均衡の回復jは,これだけで終わる

ものではなかった.

(7)

古代ギリシャの大地母神キュベレーを崇拝する祭司たちが儀式のなかで 行っていた去勢をヘリオガパルスがしなかった理由について,アルトーは 次のように書く.「歴史家が言うには,ヘリオガパルスもまた,もう少し で男根を切らせるところだった.(…)私が思うに,当時の歴史家は全く 詩を理解していなかったし,まして形而上学を理解しなかったので,虚偽 を真実と見なし,祭儀による事実の見せかけを,実行された行為と見なし たにちがいない.」(

0. C. VII, p. 84.

)男性優位のローマ世界において実際に 女性になり切ることは,両原理の対立を一時的に解消することでしかな い.男性原理はすぐに男根を無くした身体の空離を埋めようとし,こちら の原理の優位が容易に回復されるだろう

8).

ゆえにヘリオガパルスは実際に去勢するのではなく,その「振り」をす る.カミーユ・デユムリエによれば,「彼の行為は残酷演劇の基本的な原 理に従っている.つまり,彼は潜在的なやり方で振る舞う

9).J

男性原理 と女性原理の力の闘いの影響を受けた祭司たちが実際に去勢する(=力の 闘いを「去勢」として実現させる)ことはヘリオガパルスにとって「現実 の J 戦争だ、った

10

).その一方で彼自身は,儀式の場で残酷演劇の俳優た ちのように去勢を「演じる J ことで力との接触を保ち,また日常生活のな かで化粧・女装・男色を続け,女性を「演じ」続けた.詩と形而上的秩序 を帝国全体の規模で維持するために,彼は両原理の戦い,力と力の永続的 な闘いを自らの身体において潜在的な次元で機能させ続けたのである.

ヘリオガパルスが力の闘いの場を社会全体に広げたことは身体そのもの の拡大を意味し(かつて王国の土地が「王の身体」と見なされていたこと をふまえれば,彼の身体とローマ帝国の領土の聞に質的な差異はない),

俳優として演じている舞台を儀式の場から社会全体に拡大したことを意味 していた

11

).『ヘリオガパルス』の翌年に発表されたテクストとしての

「演劇とベスト」では逆に,社会そのものとしての舞台あるいは劇場でい かに力の闘いを展開するかが主題となる.

3. 

社会体と秩序

1933

6

月にアルトーはアウグステイヌス『神の国』のなかに演劇が 国民の精神を腐敗させるという旨の記述を見つけ,ここに伝染病としての ベストと演劇の本質的な共通点を見出して講演「演劇とベスト」をテクス トとして展開させることを決意する.このテクストでは,講演ではベスト 患者の身体と俳優の身体との共通点を指摘するに留まっていた演劇とベス

(8)

トの本質的な関係が明確に示されている.ヘリオガパルスが人間の側から 作ろうとしていた秩序に自然の側から近づくことがベストの役割であり,

現代において殺人・暴動・戦争・革命といった形で現れる(秩序へと向か う)無秩序・混乱は,かつてはベストの伝染という形で一気にかつ広範囲 で現れていた.アルトーが「演劇とベスト」の草稿のなかで書いているよ うに,ベストはその点でまさに演劇の分身たりうる.

伝染的な病は定義上かつ本質的に演劇である.なぜならそれらの病は,演劇 j に おいてと同様に,あらゆる力を急激に機能させるが,実際に使うことは絶対に ないからだ.その時にそれらの病は諸々の事件や感情を急激に清算する.それ は演劇が,潜在的かつ見せかけの(

virtuelset simules

)犯罪や病や災厄によって それらを急激に清算するのと同じである.

(O.C

刀 く

p.221.) 

自然界の力の総量が一定のものであり人間の身体に働きかけた後に離れ るのなら,その力が実際に使われることはない.そして,それらの力の闘 いが人間たちの間に生じさせる諸々の感情そしてそれらの感情によって引 き起こされる(はずの)様々な事件を,ペストのような伝染病はある時代 ある地域の共同体の,力との接触を断ったまま争うことなく生きてきた人 間たちに対して一気に「 j 青算」する(=ツケを払う).それは人聞に対す る,自然の側からの復讐でもある

12).

そのような力が現代においても「諸々の事件や感情」を多くの犯罪とい う形で引き起こしているからこそ,かつてのベストのかわりに,ただし現 実の社会でではなく劇場内でそして「潜在的かつ見せかけの」レベルでの み,それらを「清算」しなければならない.ここで演劇は,俳優にとって のみならず観客にとっても力との接触・交流を目的とするものとなる.

ただし,ベストの伝染のプロセスと「社会体の中に投げ入れられた演劇

という毒

J(O.C.IV, p.  30.

)が伝染していくプロセスは,明確に区別しなけ

ればならない.アルトーはいわゆる街頭演劇のように社会全体を舞台に変

えて観客を俳優と同じように演じさせることで,ヘリオガパルスが作り出

したような,またベストが引き起こしたような無秩序・混乱を作ろうとし

たわけではない.おそらくそれが作られるのはベストの伝染のプロセスと

は逆に,演劇そのものが伝染する前にまずひとつの劇場のなかで一定の数

の観客に対してであり,なおかっそれは反復されなければならない.そし

てそれに伴うのが,言うまでもなく悲劇の上演である.

(9)

「演劇とペスト」のなかでアルトーは,エリザベス朝演劇の代表的な作 品の一つであるジョン・フォードの戯曲『あわれ彼女は娼婦』(通称『ア ナベラ

.D

に言及している.

反抗のなかに絶対的自由の例を探したとき,フォードの『アナベラ』がその詩 的な例(

exemplepoetique

)を与えてくれるのであり,この例は絶対的な危険の イマージ、ユと結びついている. ( 

0. C.IV, 

p .  

28.) 

主人公ジヨヴァンニが近親相姦や殺人を犯した末に破滅するこの戯曲に アルトーは,力の闘いの影響を受けた人間たちがお互いに貧り合い殺し合 うという悲劇,人間の悪の本質が露呈している状態を読み取る.ジョヴァ ンニの行動が人間界の法やモラルを逸脱しているという点ではこの戯曲は

「絶対的自由」の例であり,それが真の秩序に向かっているという点では ヘリオガパルスのアナーキーと同じく「詩」的な例である(ただし,ジョ ヴァンニには当然その自覚はない).そして,それのみを目的としている という点では彼の行為は「復讐のための復讐,犯罪のための犯罪」

(O.C.IV, p.  28.

)であり,それこそがアルトーのいう無償の犯罪,見返りを 求めない,行為そのものが目的であるかのような犯罪の本質である

ω

このような悲劇の上演に立ち会う観客は,現実においてジョヴァンニの ように反社会的行為に向かう前にあくまで劇場のなかで,ただしジョパン 役の俳優のように演じることはなく自らの裡に沸き起こる感情・情動・情 熱によってのみ,偽りの秩序に対する反抗を行う.

本物の戯曲は感覚の安らぎをかき乱して,抑圧されている無意識を解放し,一 種の潜在的な反抗に駆り立てる.しかも反抗が価値を持ちうるのは,それが潜 在的なままである限りである(…) . 

(O.C.

乃 う

p.27.) 

俳優とともに観客は,舞台上で展開される諸々の出来事・事件を介して 力と交流し,力の作用のもとで「抑圧されている無意識を解放して(=自 らの裡に眠っていた悪の本質を目覚めさせて)

J

,ともに真の秩序に向かう 永続的なプロセスとしての無秩序=均衡を作り上げる.このように観客を

「潜在的な反抗j に駆り立てることで無償の犯罪を未然に防ぐことが社会

における演劇の役割であり,可能な限り多くの観客の前で悲劇を上演して

やがては一民族・一国民全員を引き込むことによって,社会におけるさら

(10)

に大きな悲劇,例えば戦争をも防ぐことができるだろう

14

).それに関し てアルトーは,「演劇とベスト」の草稿のなかで「社会体の治療という見 地からは,演劇が比されるべきもの,それは戦争でもないし革命でもない

し,その種のいかなる騒乱でもない」(O.C.

p.222.

)と書いている.

人聞が力と交流することなく生きている状態,あるいはそのなかで力が 断片的かつ突発的に人間に作用している状態を「病」と見なすなら,ベス トはもう一つの病を伝染させて一気に発病=浄化させることによる「社会 体の治療」であり,戦争や草命は自然の力に動かされた政治的権力者や草 命家が医療の主体となって行う,人間の側からの治療である.

ゆえに,力を劇場内でコントロールすることができる演劇人が主体とな って社会体を治療することは,演劇の効果を戦争の脅威に対峠させること でもあったといえる.また,革命によって一時的に回復したと見なされう る均衡を維持するためにも,演劇は有効である.アルトーは

1936

年にメ キシコ政府発行の新聞に掲載したテクストのなかで「現代社会は演劇の治 癒的効能を忘れてしまった」と述べ,「まさに演劇によって,秩序を打ち 砕くこの素晴らしい武器によって,すべての洞察力のある草命政府はみな 自らの革命を導き,揺るぎないものにする」(0

. C. VIII, p.  223.

)と述べ る

15).

結局,アルトーにとって演劇人の使命は,戦争に抗するにせよ革命に協 力するにせよ,具体的には劇場の数を増やして上演の回数を増やすことで 演劇という病を俳優の身体からひとつの社会体へと拡げることにあった.

ベストは伝染していくが,演劇は人間の手によって伝染させなければなら ない.ゆえに「演劇とベスト」は,同時代の演劇人に対するアジテーショ ンでもあったといえるだろう.

4. 

偽りの秩序に抗して

残酷演劇が破綻した後のアルトーは,戯曲を読むように世界を読み,自 らを演出家あるいは俳優ではなく運命に抗えない悲劇の登場人物に見立て るというある種の被害妄想の末に精神病院に入れられる

16).

しかし彼は 入院期間中も退院後も,演出家としての演劇実践の構想を捨てることはな かった.ただしそれ以降のアルトーの演劇に関する考察はかつてのような 社会体の治療の構想ではなく,身体そのものに対する聞いとなる.

1946 

年のノートに彼は「現実は身体の生理学のなかにあるのではなく」

(O.C.χX,  p.  411.

)から始まる断片を書いているが,ここでいう「生理学」

(11)

に対抗するものとして

1947

年の「演劇と科学」では,演劇における「人 間の身体の真の有機的かっ物質的な(

organiqueet  physique

)変化」

( ん

iconinArtaud, Oeuvres, Paris, ed. Gallimard, 2004, p. 1

44.

)に言及する.

身体は息と叫びを持っていて,それによって身体は有機体の変質した下層部で 捕えられ,そしてあの輝く高い平面まではっきりと分かるかたちで身を置くこ

とができる.そこでは高度な身体が待っているのだ.

(Oeuvres, p. 1

44.)

これは「生理(学)的操作jであり,「人体の真の有機的な変形の,/

生理(学)的な変質(

transmutationphysiologique

)のある種の操作」

(Oeuvres, p. 1547.

)である.かつての形而下の(

physique

)実践,真の秩序 かつ形而上の秩序に向かうためのそれは,有機体とそれに関する医学に抗 するための生理的な(

physiologique

一語源は同じピュシスである一)実 践に裏付けられなければならない.法やモラルを告発するとともに,ある いはその前に,すでに間違って創造されている有機体とその探求に基づい た誤った医学・科学を偽りの秩序として告発すべきなのだ.

またアルトーの攻撃は,生理学の基盤としての解剖学にも向けられる.

1946

年のノートには「人体解剖学には我慢できない J

(O.C.XXJJ, p

.  

131.) 

という文から始まる断片を書き,そのなかで解剖学とそれの対象たる人体 構造を非難する

17

).そして先に挙げた「演劇と科学」のなかで,演劇に おいて身体に何がなされるかを書く.

そこでは解剖学的に(

anatomiquement),

骨や四肢や音節が足踏みをすることによって 身体が作り直され,

物質的に(

physiquement

)そしてありのままに生じるのだ 身体を作るという神話的な行為が.

(Oeuvres, p. 1

44.)

従来の生理学と解剖学に抗して身体を作り直すための真の生理的かっ解 剖学的な,そして有機的かつ物質的・物理的な試みのために必要なのが,

「演劇と(真の)科学」あるいは真の科学としての演劇である.アルトー

にとってその試みは,言うまでもなく精神病院で受けた医療の経験と切り

離せないものである.医療権力は誤った科学にもとづいて身体を「有機

体」と見なし,それが「正常」に機能している「健康」な状態を強引に作

11 

(12)

ろうとする(例えばアルトーが繰り返し受けなければならなかった電気シ ョック療法は,人工的に癒痛の症状を作り出すことによって分裂病の進行 を抑える,つまり小康状態を維持するという治療法だ、った).このような 偽りの秩序を維持しようとする医療権力に抗する演劇の試みとは,具体的 にはどのようなものか.「演劇と科学」と同年のテクスト「俳優を精神異 常にする」のなかでアルトーは書いている.

まさに四肢を活動させることによって,つまり四肢を塵撃的な活動状態に置く ことによって,まるごと一人の俳優の,身体全体であるあの見事な生きた物神 の四肢と同じようにそうすることでいわば赤裸々に,生を見ることができるの

だ (Oeuvre.ιp.120.)

俳優が四肢を痘準的に活動させること,それはまさに,力と交流しなが ら演じる行為,そして踊る行為に他ならない.これはかつて講演の「演劇 とベスト J で語られた俳優の身体の定義と本質的に同じものである(それ と比せられたペスト患者の体液に関しでもこのテクストにおいて「演劇は

(…)あの爆発する体液の力」 (

Oeuvre.ιP・ 1

21.

)という言葉が見られる).

ただし当時の彼の見解と晩年のノートとにこのような共通点が見られる ということは,アルトーの演劇を巡る思索が様々なプロセスを経て俳優の 身体に関するそれに回帰じたことを意味するものではない.俳優の身体の 定義はもともと,身体がいかにして力を取り戻すかといういわば存在論的 な間い,彼が生涯を通してこだわった問題と切り離せないものであり,残 酷演劇の実践の際にその定義にもう一つの側面,認識論的かっ方法論的な 側面が現れていたということである.その二つの側面は,「演劇とベスト」

の結論にも見てとれる.

演劇はベストと同様に危機=発作=分利(

crise

)であり,死ぬか治癒するかど ちらかで終わる.ペストは上質の病だ.なぜならそれは完全な危機=発作=分 利であり,その後には死か極限の浄化以外の何ものも残さないからである.同 様に演劇もひとつの病である.なぜならそれは最高度の均衡であり,破壊なし には手に入らないものだからである.

(0.C

乃う

p.31.) 

いわゆるクリーズ(分利)は病が絶頂期を経た後で一気に消散する境目

であり,ベストがそれを経ることで完全に浄化されて患者が治癒するよう

(13)

に,俳優は演じることで生じる分利を経た後で「最高度の均衡」を得るこ とができる.アルトーによれば,ベストにおいても演劇においても,力は 身体を傷つけることはない

18

).ゆえに俳優の身体のなかで有機体を構成 する諸器官が実際に変化・変形して真の秩序を取り戻すわけではなく,複 数の力の作用によってそれぞれの器官が無秩序・混乱に陥って,やがてそ れらの間で力の永続的な闘い=均衡が成立するのである

19).

しかしその一方でこの「演劇とベスト J の結論は,ベスト患者と同じく 俳優もまたクリーズの苦しみに身体が耐えられずに死ぬこともある,とい

う解釈もできる.おそらく俳優のこのような試練は,アルトー自身にとっ ても切実な問題だったのではないだろうか.一方では演劇に関する理想的 なヴイジョンがあり,我々がこれまで見てきたように俳優は演じることで 力を身体において機能させ,その後(あるいはそのプロセスに並行して)

社会体を治療できる.もう一方で、はアルトー自身の避けられない現実があ り,彼は力とうまく関わることのできない病んだ身体の治療のために演劇 を選ぴ,かつ苦しみながら続けざるをえなかったのである.

アルトーが『演劇とその分身』に収めた未発表テクスト「情動の体操j は俳優が演技の際に自らの情動をコントロールするためのマニュアルであ るが,これは俳優がまず力の均衡を手に入れることが前提となっていた.

天性の俳優は,ある種の力を捕えそれを輝かせる手段を自分の本能のなかに見 出す.だがそれらの力は器官のように速なった物質的な道筋を持ち,しかもそ の道筋を実際に諸器官のなかに

dansles o

canes

持っているのであり,この俳優 にそれらの力が存在しているということを明らかにしたらさぞかし驚くだろ う

(O.C.

刀 く

p.126.) 

アルトーによると身体のひとつひとつの器官はさまざまな情動に対応し ており,俳優の身体が力との接触を保つことで情動・感情を生み出せるの なら,ハリ治療を応用したツボの刺激によって任意の器官を意識してそこ に力の作用を集中させることで,その器官に対応する情動を自在に生み出 すことができる.ただしそのためにはカパラに基づいた呼吸法によって,

諸器官において力の闘いを維持する必要がある.

アルトーは

1945

年の書簡で,精神病院のなかでこの「情動の体操」を 行っていたことを記している.彼の病は「人知を超えた恐るべき病,脳や 精神の病ではなくむしろ私という存在の内的な分裂である病 J

(0. C.XI, 

p .  

13 

(14)

125.

)であり,その病を自ら治療するために彼はこの体操を自ら行う.「こ の存在を,(…)私もまた,秘密の呼吸法で構成しようと努めているので す(「情動の体操 J を参照して下さい).」 (

O.C.XJ,p. 126.) 

これは彼が入院中に一人で、行っていた演劇実践だ、ったといえるが,その 一方で、,残酷演劇を演じる俳優の身体をアルトー自身は晩年になってもな お手に入れていなかったということも示している.そして仮にアルトーが この呼吸法でそれを成し遂げたとしても,彼は演出家として俳優とともに 演じることで,また俳優に演じさせるために自ら率先して演じることで,

俳優の演技のアンサンプルによって舞台上で生じる力の闘いの巨大な渦の 中心におかれたまま,それをずっと維持しなければならなかっただろう.

このような演出家の立場について,デュムリエは次のように述べている.

「残酷の中心に置かれて,演出家は〈宇宙的な力〉を方向づけるために引 き寄せなければならないが,その時には彼自身がそれらの力に打ちひしが れ,焼かれる危険がある.キリストのように,『悲劇の誕生 J のデユオニ ユツソス的な俳優のように,この演出家という蹟罪の人は,舞台上で巻き 起こる暴力の犠牲者となるリスクを背負うのである

20).

俳優は均衡を手に入れた後も力の作用のもとで苦しみながら演じ続ける しかないが

21

),全ての上演に立ち会って「舞台上で巻き起こる暴力の犠 牲者となる」演出家はおそらくそれ以上の苦痛に耐えなければならない.

ただしそれは,アルトーが残酷演劇の演出家だ、った若い頃のみならず晩年 でも,また晩年においてこそ受け入れざるをえないものだったのではない だろうか.偽りの秩序に縛られる苦痛に抗するためには真の秩序に辿り着 く際に伴うそれに耐えざるをえないのであり,前者の束縛が強ければ強い ほど,そこから逃れるための苦痛はより激しいものとなる.その意味で は,力によって生を取り戻す残酷演劇は一貫して,悲劇の登場人物のみな

らず俳優にとっても演出家にとっても「残酷」な演劇だ、ったのである.

追記

本論はあくまで,アルトーの演劇論における力の思想を巡る考察の序論

にすぎない.ゆえにアルトーが演出家として舞台上でいかに力の闘いを展

開しようとしたのか,また本論で触れた観客にとっての劇場内での力との

交流をいわゆる演劇の「カタルシス」のようなものと見なせるのか,とい

った問題に関しては筆者は別の論考を準備しなければならないだろう.

(15)

1) 

身体を巡る力と秩序・無秩序の関係について,宇野邦ーはこのように書いて いる.「身体は,一つの災厄の中で,主体を超えた力の次元に聞かれる.(…)

この次元を,最大限思考された,秩序ある側面からみるとき,アルトーはそれ をく形而上学的〉と呼び,最大限思考不可能で,不透明で無秩序な側面からみ るとき,それを(残酷〉と呼ぶのである.

(宇野邦一『アルトー 思考と身 体』白水社

1997

136

頁.)このような「災厄」に巻き込まれるのが,悲劇 の登場人物である.

2)  Jonathan Pollock, Le Rire du Momo, Antonin Artaud et la litterature  angloamericaine, Paris, Kime, 2002, p. 26. 

3) 

ヒポクラテス(紀元前

460377

)とギリシャ悲劇の全盛期(『オイディプス 主』は紀元前

427

年に書かれた)は時代をともにしており,パートン『憂欝の 解剖』は

1621

年に,エリザベス朝演劇( I う

171642

)のなかでフォード『あわ れ彼女は娼婦jは

1620

年代に書かれた.

4) 

アルトーのこのような世界観とショーベンハウアー『意志と表象の世界』の 共通点は,アンリ・グイエが指摘している.

Henri Gouhier, Antonin  Artaud et !'essence du Theatre, Paris, J.  Vrin, 1974, p.  28. 

またエヴリー

ヌ・グロスマンは,残酷を巡る哲学的叙述の代表的なものとしてショーベンハ ウ ア ー に 言 及 し て い る .

Evelyne Grossman, Artaud, ≪ l'aliene  Authentique , Paris, Farrago, 2003, p. 162. 

) イルシューの分離に関しては,この小説の補遺にアルトー自身の言及がある

αc VII, p. 110111.

)ほか,ガリマール版全集にジャン・ポーランの詳細な解 説がある.

O.C. VII, p. 414419. 

6)  Rene Guenon, Le Symbomde la Croix, Paris, ed. Vega, 2007, p. 79  7)  Rene Guenon, op. cit., p. 80. 

8) 

フランスの現代思想でしばしば見られる精神分析批判においても,父親によ る息子の去勢というシェーマは最終的には不在のものとしてのフアルスを中心 に置いてしまう,とされる. ドゥルーズ=ガタリのこのような精神分析批判

(=男根中心主義批判)をふまえたうえで,宇野邦ーはこのように結論付ける.

「ヘリオガパルスが去勢しないのは,去勢を持続するためである.身体や情動 における生が,男性と女性に分離され,分離を前提として結合し,また再生産 されることは,一つの偶然的結果にしか見えない.ヘリオガパルスを通して,

分割を知らず,無限の差異にしたがう力の流れが,一つの奇妙な性のスペクト ラムをあらわしながら,干渉しあい,共振しあうのをアルトーは見る.男根を かえって関係の中心においてしまういわゆる去勢の概念を,アルトーはまさに 去勢するのである.」(宇野邦一同掲書

190

頁 . )

1

(16)

9)  Camille Dumoulie, Antonin Artaud, Paris, Cd.du Seuil, 1996, 

p . ラ

6. 10) 

「キュベレーの儀式は戦争の儀式である.男性と女性は血と引き換えに,血

のなかで融合する./ヘリオガパルスの抽象的戦争,原理と原理の闘い,潜在 的な力と力の戦争の中には,人間の血が存在する.それは現実の戦争における 血と同様に,抽象的で非現実的な,想像される血ではなく,本物の血,流れた 血かつ流れうる血である.」(

αC.VII, P

84.

)おそらくこの儀式は,潜在的な力 の闘いが現働化した「現実の戦争」である一方で,それでもやはりある種の演 劇といえるものである.つまりヘリオガパルスはいわば残酷演劇の演出家とし て,この儀式において「実際に」切り取られた男根や「実際にj流れた血を

(演技によって力との接触を保つ俳優たち=祭司たちの身体の一部としてでは なく)ある種の舞台装置・舞台オフゃジェとして使用して,その場で一度限りの

(=各上演において,舞台上で成立する)秩序・均衡を作っていたのである.

11) 

「王座を演台と見なし,通り過ぎた国々に逸楽や無秩序や退廃の例を示すだ けでは飽き足らず,ここに来て彼はローマ帝国の土地そのものを演台と見な し,偽の王たちを出現させる.世にここまで見事なアナーキーの例はなかっ た.」(

0. C. VII, p. 92.) 

12) 

自然の復讐と清算についてアルトーは,「演劇jとペスト jの本文のなかでこ のように記している.「演劇においてもペストにおいても何らかの,勝ち誇っ ており同時に復讐的なものがある.ペストが原因の火災が,それが通っていく ところで自然発生するのであるが,我々が十分わかるようにその火災は一つの 巨大な清算以外の何ものでもない.」(

O.C. p.26.)

13) 

本文で述べたように人間を犯罪に駆り立てる自然の力が真の秩序に近づこう とするものである以上,その作用は「詩j的なものでもある.そのような犯罪 と詩の関係について,アルトーは次のように述べている.「生についての我々 のすべての観念を,もはや何者も生と結びつかない時代においてもう一度考え 直さなければならない.この悲痛な分裂が原因となって諸事物が復讐する.詩 はもはや我#のうちにもなく,事物のなかにも再び見出すにはいたらないのだ が,それは突然,事物の悪い側面から生じる.この時代には他では決して見ら れなかったほどの多くの犯罪があった,ということになるだろうが,それらの 犯罪の奇妙な無償性も,我々が生を所有することができなくなっているという

ことでしか説明できない.」(

O.C

刀 く

p10.) 

14) 

エヴリーヌ・グロスマンは,「演劇とペスト jの草稿でアルトーが彼の時代

(1930

年代)はペストのような災禍を被るに値すると記していることに触れ,

「二つの戦争の間にあるこの危機的な叙述は,時代の不安を示している」と述

べている(

Eve!

ieGrossman, op. ct

p.149

ふ第一次世界大戦が現代における自

然の力の顕現だとすれば,それはもはや現代では世界戦争という大きな災禍に

(17)

よってしか真の秩序に近づけないということを示している.そして,おそらく この形態での力の顕現はいずれまた来るという「時代の不安」のなかでアルト ーは,次の世界大戦が来るまえに,かつてのベストの代わりに演劇によって早 急に均衡を取り戻すべきと考えたのではないだろうか.

l

) ラ また「均衡」の概念に関しては,このテクストのなかでアルトーはメキシコ 革命を称賛して「草命が社会の均衡を回復し,生の不正のなかにわずかばかり の正義を投入するのでなければ,何の役に立つのか?」(

O.C.VIII, p.  221.

)と 述べ,「古代には演劇は失われた力の均衡を回復する比類なき手段と見なされ ていた」(

O.C.VIII, p. 223

.)と述べている.

16) 

人聞が力に関わることで本来の生を取り戻し既成の秩序を超えることは「絶 対的自由」であるが,その一方で自らの行動の全てが真の秩序に向かうための ものであるという点では「不可逆的で絶対的な決定」

O.C.IV,

p .  

98.

)に従わ なければならない人間の宿命,残酷な運命である.また秩序が力の均衡・桔抗 でしかないならば,人間はそれが成立するまでは,また成立した後もそれを維 持するためには,力の闘いのただ中で生きなければならない.例えばへリオガ パルスにとってのアナーキーは地上において行われる力の闘いであり,彼以外 の人聞はカと接触してその闘いに加担することを必然的な宿命として受け入れ なければならない.

残酷演劇の実践が破綻した後のアルトーは,自らが作り出した力の思想のこ のようなネガテイブな側面に自ら縛られていく.

19379

月,サヴォアの魔 術師の杖をアイルランド人に返すための旅の間に,アルトーは当時の社会状況 に力の「不 J 均衡を発見(=幻視)していた.

9

14

日付けのアンドレ・ブ ルトン宛の書簡で,彼はブルジョワ階級・草命勢力・保守勢力に聖霊・人の 子・神を対応させ,さらにインドの三大神ブラフマー・シヴァ・ビシュヌを割 り当てている.「啓示の力が息づいている限り,ブラフマー,シヴァ,ヴィシ ユヌは均衡を保ち〈世界〉は黄金時代を生きるのです.しかし,この生の力が 滅ぶべき時がやってくるのです.」(

0. C. VII, p. 223.

)「力の均衡を保っていた三 つの力 神は互いに滅ぼし合うことになるでしょう.そしてそのためにはお互 いが戦争状態に入り貧り合うでしょう./それは戦争となり,それはずっと人 の子と聖霊との戦いとなり,キリストと反キリストとの戦いになるでしょう.」

αC. VII, p. 225.) 

長い歴史のなかで保たれていた三つの勢力の均衡がいまや崩れていること

で,近い未来に「戦争状態」が再び均衡を取り戻すために生じてアルトーやブ

ルトンを含めた当時の人間たちはそれに巻き込まれるのであり,アルトーによ

るとキリスト=革命勢力が反キリストに勝利するまでは前者に加担せざるをえ

なくなる.劇場内で主体的に無秩序・混乱を作り出す演出家ではなく,現代の

17 

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