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差別と教育についての断章

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(1)

差別と教育についての断章

小 沢 有 作

K

①問題の提出、ひとつ

 昨(1982)年、わたくしは、〈差別と教育〉

にかんするわたくしなりの理論的な枠組みを考え たいと思い、それを書きながら考えるというやり かたですすめようときめて、なんどか手をつけて

みた。

 試みたいと思う内発的な動機があった。教育の 場、というより学校という場において、子どもを しばる差別には二種類あり、これらをふ分けして 見るほうがよいと気づき、これをつめて考えたい

と思うようになったからである。

 たとえば、被差別部落の子どもの場合。その子 の生活と成長のなかに部落差別の構造と論理がつ らぬいて、働いている。それは学校におけるその 子の生活や学習にまで深い影響をあたえる。しば

しば、学力不振や非行、進学できぬことなどの条 件になっている。

 従来は、学校の場における部落の子の不振につ いて、その原因がいわば部落差別に帰一するかの

ように説かれてきた。しかし、これは必要にして 充分な説明になっているであろうか。わたくしに は、必要な説明であるが、充分な説明にはなって いない、と感じられてきたのである。

 その子は、部落差別の生活をせおったまま、学 校にはいる。その学校の文化に部落差別意識がし

みとおっているだけではない。学校は近代学校に 固有な構造と論理で動いており、その子は学校の なかでこの構造と論理にしたがって生きるべく規 定される。すると、どうなるか。部落差別の生活 のしかたは、学校の文化・ものさしに合わない。

合わないというより、不利な条件である。学校の ものさしは勉強のデキル子、ふるまいのヨイ子を プラス価値にしているから、部落差別の生活をせ おった子は、そうした学校のものさしのなかで、

最初から不利な条件をせおうことになる。学校の なかでも「底辺」化しやすいし、排除されがちと なる。この場では、学校の文化・構造・論理が原 因になり、部落差別の生活が不利な条件として働 いて、部落の子は落されていく。

 従来の説明では、学校文化にしみとおっている 部落差別について言及されてきたが、このような 学校そのものの性格や働きを論理化してとらえ、

位置づけることが弱かったように思う。学校論を 入れて考えることによって、学校のなかにおける 部落の子の被差別の姿を、はじめて充分に説明で

きることになるであろう。

 このように、学校という場における部落の子に とっての被差別とは、部落差別からのそれと近代 学校に固有な差別の論理とが、複合してかぶさっ てきているものである。だから、この二つの差別 の系をふ分けしたうえで、そのからみかたをしさ いに追求することが必要だ、と思うのである。も ちろん、実践者はこのようなふ分けとからみを体 験的に承知しているであろう。わたくしには、た

だそれを論理化する点で不足していた、と思える にほかならない。

 では、学校の場における差別を部落差別と教育

差別にふ分けしてみること、つまり現実をより正

確に読みとることに、どのような思想的・実践的

な意味があるのか。かりに以下のような状況を予

想してみよう。部落差別は解決したけれども、学

一1一

(2)

校の構造が今のまま体制としてつづいている状況

である。

 この場合、部落の子は部落差別の重荷はおろし たことになろうが、今度は能力主義中心の教育差 別の系に全一的に身をゆだねることになる。それ は、近代における市民的平等の権利の実現にはな っても、近代の実質であるところの能力に応じた 処遇を超えたことにはならない。むしろ、そこに 純粋に組み入れられたことになる。近代市民化で あっても、人間の解放にはならない。これでは、

こんにちにおける部落差別からの解放の真意・課 題をゆがめ、そこなうことになってしまおう。

 このように考えることが許されるならば、部落 解放の運動は、それじたいの個有な課題に取りく むのみならず、学校のありようを全面的に変えて、

教育差別をもなくす課題にも取りくんで、人間解 放という視点に立って、子どもにかかってくる二 つの差別をともに撃つ方向にむかわざるをえない。

部落解放とその教育運動は、学校論  その文化

・構造・論理を全体的に変革する意識一を正面 にすえていかねばならぬ立場におかれているので

ある。

 以上のような学校の場における差別のしくみは、

部落の子に即していえるだけでなく、他の社会シ ステムとしての諸差別のもとにある子らについて も、共通する。在日朝鮮人の子であれば、民族差 別の系におかれていると同時に、日本学校に入れ ば、学校内在の教育差別の系にしばられるQそこ で、民族差別の文化と管理的なものさしという二 重の差別にある。アイヌ、障害者、女性において も、この二重にうける被差別のしくみは同じであ

るo

 今の学校の姿(=現実態)は、その文化・構造

・論理を介して、社会システムとしての差別をな くすことよりも、再生産する方向に働いている。

この学校による差別というシステムを抜きにして、

被差別の子らにとっての教育差別の問題を全体的

につかむことは、できまい。

 わたくしは、当面する〈差別と教育〉について の問題構造を、このように考えるようになった。

ごく当りまえな、だれもが生活のなかで直感して いるようなからくりにようやく気づいた、という にほかならないであろう。それでも、この発見は わたくしにひとつの元気をおこして、これをもう 少し深く考える気にさせたものである。そこで、

冒頭に記したように  おおげさな表現で気がひ けるけれど  、わたくしなりの理論的な枠組み

を考えてみる作業に手をつけはじめたのであった。

 ところが、このような自発的な作業は、期限を きられた外からの原稿がきに追われて、いつも中 断してしまうのであるQ自主性のない証拠のよう で、いかにも恥かしい。ここに載せるのは、こう して中断したままの断片をいくつか重ねたもので ある。整理されぬまま、重復している個所もある。

また、1、2と章立てしているが、深い意味はな い。便宜上っけたにすぎない。はじめにお断わり

しておきたい点である。

②〈差別と教育〉への意識史

 〈差別と教育〉という問題構造は教育の歴史と ともに、とりわけ牽稜ゐ歳並・楽農ゐ歴史とふか わって、古くから事実として存在しっづけてきた。

もちろん、時代によりそのあらわれかたは異なっ てきている。しかし、他方、その問題を問題とし て自覚するようになったのは、近代に入ってから のことであろう。それは、近代学校がひろまるな かで、かつ、近代の理性と人権の思想を媒介にし て、徐々に問題化してきたものであろう。

 社会における差別の現実を問題とし、個人的。

集団的にそれに立ちむかうという意識や動きは、

日本でも、江戸時代からあった。渋染一揆のよう

な被差別部落民の斗いはそれをしめすものであっ

たろう。けれども、それらは、社会生活における

差別を指弾しても、教育の場における差別の現実

(3)

にたいする指弾にまではすすまなかったように思 う。藩校、寺子屋などの身分制学校からの被差別 部落民子弟の排除という現実を問題視する声は、

とぼしかったのではないのか。

 社会における差別の自覚が教育の場における差 別を問題視するまでに深まるには、そのきっかけ として、近代学校制度の導入と普及を待たねばな らなかった。日本の近代学校は、制度のうえでも、

実際の運営のなかでも、被差別者を差別的に処遇 した。その学校教育の現実を差別だと意識化しは じめたのが、当の被差別者であった。なかでも、

被差別部落民と女たちであった。明治初期、かれ らは近代学校の普遍性・平等性というたてまえを 信じて動いたのに、行政および教育関係者の多数 派によってそれを裏切られるという挫折を味わっ た。学校からの冷遇というかたちで、教育におけ る差別を実感したのである。この時点から〈差別 と教育〉への問題意識が、まず被差別者のあいだ において、芽生えはじめた。

 こうして始まった個別的な体験・個人的な抵抗 が集積され、それがひとつの社会的・教育的な運 動として形をみせたのは、1910〜20年代一 大正デモクラシーの時期であった。女たちには近 代学校における性差別を問題として運動をおこし、

被差別部落民は、水平社結成を機会にして、近代 学校に充満する部落差別の言行に正面から立ちむ かった。ここに、近代学校における差別の克服と いう問題が運動的課題として登場するようになっ た。これを引金として、教育界の側にも、〈差別 と教育〉をひとつの教育問題として考える意識が 生じてきた。しかし、沢柳にみるように、これは 融和的・治安対策的な処しかたが強かった。

 近代学校における差別を問題にしたといっても、

女たちと被差別部落とでは問題にする焦点・角度 が異なっていた。それを主要な関心の一にしたふ たつの団体、青鞘社と水平社をくらべてみると、

その差は鮮明に浮かんでくる。青鞘社が知識婦人

をにない手として高等教育からの女性の排除を問 題にしたのにたいし、水平社は部落大衆をにない 手として小学校における差別問題を中心的にとり あけていた。同じように学校における差別を焦点 としながらも、この時期、婦人解放運動と部落解 放運動とのあいだに接点は少なかった。盲・聾者

を中心に障害者の教育権運動もすすめられていた が、こことも接点が少なかった。近代学校におけ る差別を問題にして、それぞれが固有にになう被 差別の地点から個別に課題をつかみ、個別に運動

をおこした時期であった。

 〈差別と教育〉という問題への自覚は、このよ うに被差別の当事者がまず気づき、批判の声をあ げるという特徴をもっている。しかし、その声が ひびき、まわりのものにそれが教育の根本問題で あると気づかせるには、まだまだ時間を要した。

そのこの15年戦争、そのもとでの天皇制教育の 強化は、一視同仁の名分をまきちらして、この問 題を直視することをさらにゆがめ、妨けた。天皇 制思想は差別を見る目をくらませるのである。

 敗戦・学制改革において、差別と教育の問題に かかわっていえば、見えた問題と見えなかった問 題があった。女子教育および障害児教育が見えた 問題であり、被差別部落、アイヌ、沖縄、さらに 在日朝鮮人などの教育は見えない問題であった。

なぜこのように分かれたのかをつめることは、戦 後教育改革の質を吟味するうえで、欠かせない作 業となろう。

 見えた問題においては制度改革がおこなわれた。

女子教育においては、男女共学というかたちで教

育機会における性差別を取りのぞき、良妻賢母の

教育内容を変えたものの、性別分業体制に起因す

る女子特性教育は、かたちを変えてつづき、のち

に強められていく。障害児教育においても、「能

力に応じた教育」の保障が宣言され、障害者学校

が別学制度として整えられ、養護学校義務化をも

って制度的な完成をみるにいたった。女子教育お

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よび障害児教育におけるこのような戦後的形態が 差別という視点からもういちど把えなおされて、

性別分業・特性教育が教育における性差別のあら われであり、障害児別学体制による隔離こそが教 育における障害児差別の姿であるという見かたに いたるのは、1970年代以降のことに属しょう。

 見えない問題は、その当事者やかかわる数少い 教師がしこしこと取りくむ課題として取りのこさ れて、社会的・教育的に共同な問題にならなかっ た。アイヌ教育は話題にさえのぼらなかった。在 日朝鮮人教育は、朝鮮人学校問題が時事的に関心 を集めたことがあっても、日本の学校に在学する 子らについては無関心のまま放っておかれた。沖 縄の教育も、復帰運動が高まるまでは、ほとんど 気づかれなかった。部落解放の教育でさえ、わず かな教師が集まって全国同和教育協議会を発足さ せたのが、ようやく1953年のことであった。

 敗戦後の1940年代後半から50年代をとおし て、教育(学校)の場における差別の問題をする どくおさえ、教育民主化の課題のなかにきちんと 位置づけることは弱かった、というべきであろう。

教育における民主と反動のきそいあう大きな潮流 のなかで、それらはむしろ「特殊な教育問題」と

して片すみにかくされてしまったように思える。

「民主」の側においても、占めるべき座をまだま だ占めるにいたっていなかった。

 差別の視点から教育を見るという見かたがひろ がり、そのなかで〈差別と教育〉の問題が教育上 の大きな問題として大衆的に見えるようになった のは、むしろ、1960年代の高度経済成長以降の ことであろう。ふたつの現実がそうさせる土壌を

つくった。

 ひとつは、60年代以降の日本に急速におとつ れた〈学校化社会〉の現実である。i8才以下の 青少年のほとんどが学校に組織されるとともに、

社会そのものが学校型に変わるなかで、またこれ を基盤に能力主義的な差別・選別を明確にした中

教審路線がうちだされて(1971年)、学校制度 をとおしての差別・選抜という現実が、だれにと っても自分の問題として重くのしかかってくるよ うになった。このような状況のもとで、差別の視 点から学校を見なおす意識がひろまるのも、必然 であった。ただ、ここに浮上した意識は〈学校教 育による差別〉・より日常的には偏差値による点 数差別、を問う意識であって、社会的な被差別者 にとって学校とはなにかを問う意識とは、ふれあ

う部分を共有しながらも、論理的にはスジを異に

していた。

 もうひとつは、被差別者じしんが立ちあがり、

差別と差別からの解放という視点から社会・学校 の現実を見つめ、変えていこうとする諸運動が、

いっせいにといいほどのひろがりで展開したこと である。部落解放運動はもとより、おんな、障害 者、アイヌ、在日朝鮮人、沖縄などの教育の諸問 題を、それぞれの当事者が、またまわりの人びと が、差別という視点からあらためて深くとらえな おし、そこからのそれぞれのしかたでの解放の途 を追求しはじめた。これらは、それぞれ自分の問 題にそくして、権力や社会のしくみのみならず、

その一部としての学校の制度と文化が差別を再生 産してきている事実を明らかにし、問題とした。

〈学校教育による差別〉というスジとならんで、

じつは、これを介して〈社会的差別が学校をとお して再生産される〉という、もうひとっ底にある スジをおさえたのである。

 ふたっの現実、ふたつのスジは相互にからみあ っているものの、しかし論理的にはそのからみが 整理されずに混同されたまま、70年代に入って

〈差別と教育〉の問題を大きく前におしだすこと になった。このような教育の現実と認識のひろま

りに促されて、教育研究の場においても、この問

題を視野に収める人びとがふえてきた。わたくし

は、70年代に入って、〈差別と教育〉への問題

がようやく市民権をえようとする状況を迎えたよ

(5)

うに思う。

 〈差別と教育〉という問題への意識化の歴史に ついて、わたくしは以上のようにとらえてみたい。

その歩みの特徴をあえて採りだし復唱するならば、

第一に、近代学校の登場・普及が意識化の制度的 条件になり、近代学校との関係において〈差別と 教育〉が問題化されている。第二に、被差別の当 事者が問題に気づき、声をあげ、「平等」を要求 するそのねばり強い指摘のなかで、徐々にまわり の者が気づかされていく構造をもっている。第三 に、その意識史の波は1870〜80年代、1910

〜20年代、1960〜70年代という三つの高ま り、節目をへて、問題構造への認識を深めながら、

ζんにちにいたっている。

 こうして、こんにち、学校教育による差別とい う事態が深まることと相まって、だれにとっても、

いちどは〈差別と教育〉の問題を考えざるをえな い状況が生じている。ここに、教育認識上・さら にかぎっていえば、教育研究上、この問題につい て歴史的にふり返ってみるとともに、その問題構 造についてなんらかの理論的な枠組みをつくって みる必要性がうまれてきているのである。

⑤ 差別についての教育学的定義

 差別ということばは、教育ということばと同様 に、わたしたちが常用しているわりには、定義し にくく、また共通理解にいたりにくいことばであ る。各人が各人の意味をこめて用いている。そこ に、〈差別〉がはらむ複雑な現実とそれを論理的 にとらえることのむつかしさが、投影されている。

いったい、どのようにとらえたらよいのであろう

か。

 わたくしは、これまでいっぱんに、差別という ことばに二種類の意味内容をこめて、むしろそれ

らを混同しながら用いられてきた傾向があったよ うに思う。それをまずふわけしておきたい。

 ひとつは、性、心身の障害、出自、人種・民族

のちがいなど、その人に責任のとれない(個人的 努力では解決できない)自然的・社会的属性を理 由にして、生活・意識・制度の全面にわたって、

人びとのあいだに不平等な関係をもちこみ、人間 としての価値に序列をつける社会システムである。

性差別、障害者差別、部落差別、アイヌ差別、朝 鮮人差別などが、それである。ふつう、差別とい えば、これらを念頭にうかべてきた。わたくしは これらをく社会差別〉と呼ぶことにする。

 もうひとつは、たとえば中教審路線を差別・選 抜の路線だと表現するしかたにあらわれているよ うに、その人の能力、学歴、昼・夜学の別、職業、

地位などを理由にして、人間としての価値に上下 をつけて見、処遇するシステムである。この場合、

その人の個人的努力をとおして、以前の状況から 脱けだしうる機会や可能性を有することが、社会 差別とは異なる点である。わたくしはこれを〈一 般差別〉と呼んでおきたい。

 現実には、この二種類の差別はからまっており、

相互にささえあっている。社会差別は一般差別を くぐらされることによってさらに強められる。た とえば、被差別部落の子は部落差別によって直接 差別されるのみでなく、部落差別にもとつく生活 のきびしさのなかで、学校の勉強ができない、進 学がむつかしいという差別を加重されてくる。他 方、一般差別は社会差別があることによってその 機能をさらに効果的にする。たとえば、成績で子 どもを序列化するシステムは「底辺」があってこ そ成りたつ。部落の子に成績の低い子がおおい。

すると、部落の子はあかんねんという見かたがひ ろまる。このことによって、まわりの子は成績で 友を測る見かたにいっそうとらわれていくととも に、「下を見てくらせ」ということで自分をなぐ さめていく。成績で人を測るシステムは安定し、

効果を発していく。

  このようないちおうのふわけをふまえたうえで、

差別いっぱんを教育の視点から定義してみたら・

一5一

(6)

なんといえるであろうか。わたくしは、それにつ いて、教育外的な理由をもとにして、人間と人間 のあいだに不平等をつける関係をもちこみ、人間 としての価値に上下をつけ、人間を序列化してい く社会システムである、と考えてみたい。もっと 端的には、差別とは人間の価値に上下をつけるし

くみである、といってよい。これが差別について の教育学的な定義である。

 ここで、教育外的な理由にもとついてといった 場合の〈教育〉については、わたくしなりのある イメージをこめている。それは、教育とは、本来、

人間的価値の対等の意識を前提とし、またこれの 育成・実体化をはかるべきものである、という理 想像である。人間化を価値の中心におくから、教 育外的理由を人間外的な理由といいかえてよい。

差別とは人間外的な理由をもとにして人間の価値 に上下をっけるしくみである、ともいえよう。

 このように差別、そして教育について考えてみ るならば、教育にとって差別とはなにかという問 いにたいして、一般的には、次のように答えるこ とができるであろう。

 まず、理念ないし思想のレベルにおいて。差別 が人間の価値に序列をつけていくシステムであれ ば、それは原理的に、人間の価値の対等とその実 現をめざす教育にとって、背反する存在となる。

したがって、教育の側からいえば、その理念・思 想を実現するためには、どうしても差別廃絶を本 質的な課題とせざるをえない。そういう関係にお

かれている。

 っぎに、教育の歴史と現状のレベルにおいて。

さしあたって学校の役割にかぎってみると、古代

・中世・近代の学校は、むしろ差別を助長するこ とに奉仕してきた。それが支配的な姿であったろ う。ここに、学校の役割・しくみそのものを、差 別助長から差別廃絶に役立つものへ構造的に切り 変えていく、歴史的・現実的な課題が生じる。教 育の立場にたてば、学校の姿をこのように変える

ことをとおして、差別をなくす課題にせまってい くことができるのである。

④ 日本社会における差別構造

  日本におけるく社会的差別〉の歴史をおおいそ ぎでふり返ってみよう。大きく割り切ってみると、

それは三つの歴史的な段階をへているように思う。

身分制社会の時代、天皇制国家の時代、そして戦 後のこんにち。このなかで、学校の果す社会的役 割も変容してきている。

 ④ 差別のしくみ・差別の社会

 社会的差別の定義をくりかえしてみると、それ は、性、心身の欠損、出自、人種・民族など、そ の人に責任のとれない身体的・社会的属性を理由 にして、生活・意識・制度の全面にわたって、人 びとのあいだに不平等な関係をもちこみ、人間と

しての価値に序列をっけるシステムのことである。

 このような社会システムは、歴史のなかで、そ れによって利益や特権をうる人びとによってつく

られた政治的・社会的産物である。その形成過程 は三つの段階に整理することができよう。まず、

特定の人びとを生活の全体系にわたって劣位とじ こめ、できるだけ公の活動の場から排除する。つ ぎに、その生活事実を利用して、とりわけ文字文 化を占有した特権層は、口と文字をとおして、そ の人ひとを劣位とする意識を流布し、社会意識化 する。これらをさらに、法制化などをとおして、

社会制度にまですすめる。つまり、差別とは特定 の属性をもつ人びとを社会的に囲いこみ、隔離す るシステムである、ともいえよう。こうした形成 過程(差別の構造化)のなかで、それによって隔 離され、それゆえに不利益をうける人びとは、被 差別者として、社会的に固定されてしまう。

 差別の視点からみた社会は、男と女、被差別部 落と一般といったように、人びとを差別する者と

される者に二分する、いわば上下二分法の仕組み

をとっている。それも、性、障害、出自、民族な

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どさまざまな理由(ものさし)で二分された個別 の仕組みが重なり、交叉している。差別する者が 差別するだけでなく、差別される者どおしが差別 しあっているのが、現実である。差別からみた社 会の姿はまことに複雑にいりくんでいる。

 こうしていったんできあがった差別の社会構造 は、個別のそれぞれに即して、またその相乗作用 として、こんどは、社会全体の人びとの意識と行 動のしかたを左右しはじめ、差別を日常のものに する。差別が日常のものになった歴史は、長くか

つ深い。

 ◎ 身分制社会と差別の成立

 もっとも起原の古い差別は、男女間を格差づけ る性差別であろう。障害者差別も、古事記に記述 されているほどに、起原は古い。性や能力のちが いといった身体的属性にかかわる事柄から、差別 は始まっているのである。

 差別の社会制度化は律令国家によってまず果さ れたのであろう。律令制は父権を法制化し、良民 と賎民をわけ、賎民史をスタートさせた。また、

障害者を三等級にわけ、その重さに応じて租税を 加減したが、それも税負担能力で障害者を測った にほかならない。古代身分制は、女、賎民、障害 者を隔離し、社会の底辺に囲いこんだのである。

 これに役立ったイデオロギーが新しく入ってき た仏教であった。血の臓れを口実に女を劣位にお く社会意識をひろめ、のちには四ツ足を屠殺する ものを機れとして部落差別を正当化する考えをひ ろめた。それは、肉食を忌むことによって、縄文

・弥生時代からの食生活の構造を変えてしまうほ ど、日常性のなかに滲透していったから、それが 正当化する差別の意識も日常生活と結ぶ側面をも

っていた。また、その因果応報説は障害者を忌み、

障害者をうんだ親を責める意識をひろめた。仏教 本来の平等観からはなれて、寺院・教団仏教は女、

賎民、障害者を排除、臓視する社会意識を形成し

ていった。

 古代身分制が近世身分制に再編成されたのは、

いうまでもなく、江戸時代・徳川幕藩体制におい てであ?た。日本の差別問題を考えるとき、江戸 時代の果した役割・意味は、差別構造の全社会化 という点で、画期的であろう。こんにちの差別問 題の直接の根はこの時代に発している、といって よいほどである。

 「士農工商稼多非人」という身分制秩序は、朱 子学をイデオPギー的な骨格としながら、身分別 の生活と教育・教養のスタイルをつくりだし、差 別の社会制度を確立するものであった。「分をわ きまえる」ことを至上としたのであるから、身分 制はそれじたい人間の価値を序列化する差別の制 度であるが、それとむすびついて、社会差別があ らたに再編成され、いっそう強化されたのである。

 家父長制の強化は、男にたいする女の隷従の制 度を、武士のみならず庶民のあいだにまでひろげ た。障害者の「廃嫡」が法令化され、働きえぬ重 度のものは共同体からも疎外されて、浮浪するも のも多かった。ただこのなかで、盲人が生業・生 活をもって仲間を組織したが、それも盲人隔離と いう側面をはらむものであった。いっぱん的にい えば、人間的自然の相違を人間的価値の差におき かえることが、封建社会の制度であり、イデオロ ギーであった。

 これのみでない。琉球から蝦夷までの幕藩体制 への取りこみ(一全国統一の達成)のなかで、身 分・民族を理由にした新しい差別の制度が登場し た。本土では、古代以来の賎民制を基礎にして、

豊臣期から江戸初期にかけ・被差別部落を成立さ せ(穣多・非人の身分)、居住と職業を制限し、

社会の最底辺に囲いこんだ。同じころ、南方では、

薩摩藩が琉球を支配、沖縄差別の源をつくり、北 方では、幕府の後おしで松前藩がシャクシャイン の乱を抑え、アイヌ支配のみちをひらいた。

 このように摘記してみると、江戸時代は、日本

における社会的諸差別を全面的に制度化し、社会

一7一

(8)

のすみずみまで根づかせていく時代であった、と いえるであろう。差別構造としての社会が、すき まのないものとして、形造られたのである。

 0 天皇制国家と差別

 明治維新を契機とした日本の近代化は、天皇制 国家を形成し、その領導下で資本主義の産業を振 興するというかたちをとって、すすめられた。貴 族制、地主制、家父長制など封建的なるものの再編 成をおこないながら、他方に官僚制、近代学校な ど近代的な政治・社会の制度をもちこんだ。イン デオロギー的には、身分制の意識を底にすえなが らも、能力主義をもちこみ、これら全体を天皇制 思想で統合するかたちをとった。

 このような日本の「近代」は、基本的には、身 分制社会のなかでつくられた社会的諸差別と対決

し、これを断ちきっていくものではなかった。む しろ、社会生活のなかで強固に持続する諸差別を、

国家をとおして政治的に再編成するとともに、あ らためてこれらを、改編された社会構造のなかに 位置づけなおすことにあった。被差別者にとって みれば、差別がなくなったのでなく、差別される 文脈が変わったにほかならないのである。

 わたくしは、明治維新から敗戦にいたるまでの あいだの差別問題を考えるとき、三つの要素とそ のかかわりかたを追うべきだろうと思っている。

天皇制、近代的・国民的諸制度、そして再編され た諸差別の性格。イデオロギ的には、能力主義

(メリットクラシー)、差別意識、そして接着剤 としての天皇制思想。

 明治政府は身分制の制度と原理を廃して、国民 国家と国民的統一の形成をめざした。また、資本 主義的産業の育成をはかった。そのため、これら に必要な制度改革をすすめた。行政(官僚制)、

教育(近代学校)、軍隊、企業。これら近代的・

国民的制度においては、いくつもの留保条件をつ けなければならぬとはいえ、原則的には、みなに 開かれたものであり(=開放性)、能力に応じた

昇進(=能力主義)を原理とするものであった。

立身出世主義の意識はここに基盤をおいていた。

 問題のひとつは、導入されたこのような国民的 制度の論理(=開放性と能力主義)が、選抜と序 列化という新たな差別の機能を発揮するようにな ったことにあろう。これは、国家と社会が整い、

一方で資格社会化がすすみ、他方で学歴社会化が 深まるなかで、(一般)差別化の効果をいっそう 強めていくことになる。これはまた、再編された 被差別者にとっては、新たな差別化の刃か重複、

加重されていくことである。

 ところで、このような国民的制度を導入したも のの、現実の社会生活においては差別の生活構造 差別の社会意識は、ほぼ変わらずに流れつづけて いた。政府もこれをなくす気はなかった。かたち

を変えて利用することのほうがよかった。

 解放令を発布して、部落民を「平民」にくりこ んだからといって、部落差別の生活と意識が変わ

るわけではなかった。実際の社会生活の場におか れると、制度はたてまえの原理をつらぬけず、「民 度に合わせて」運用を変え、ついには制度そのも のをも修正していく場面を迎える。「臓多非人」

の廃止は市民的平等につながらず、「新平民」と 改称されるにとどまり、実態的な差別がつづくの である。ただ、そうはいっても、身分制社会には なかった国民的制度の論理にのって、個人的に、

大学を出たり代議士になったりする部落民も、の ちに出てきた。部落差別の社会史のなかで、国民 的制度の論理は、その大多数をあらためて底辺化 していきながらも、ごく少数のものにたいしては ひとつのガス抜きの役割を果したのである。江戸 時代とは部落差別のおかれる社会的文脈がちがっ てきているのである。

 制度における開放性・能力主義の論理と、社会

における差別の生活現実や意識とのあいだに、ど

のような折りあいをつけていくか。その矛盾をイ

デオロギー的にまとまりをつけていくものとして、

(9)

天皇制思想があった。では、制度的にはどうする か。この点に、被差別者の問題にかかわって果す べき明治政府のもうひとつの課題があった。

 新たな分離と結合の形態が工案されねばならな かった。いつれの被差別者をも、制度の外におい て沈め石とするのでなく、国民的制度の一環に組 みこみ、そのなかで、制度内分離をしたり、名存 実亡の実態をつくったりして、差別の社会史的持 続を政治的に再編成していかねばならない。それ は差別をなくすことでなく、新しい状況において 差別の形態を変容させていくことである。

 明治政府は、天皇制と帝国憲法のなかにすべて の国民を包撮しながら、他方、いつれの被差別者 をも第三組ゐ臣良として分離していった。被差別 者それぞれの社会的性格に応じて、それぞれに異 なった分離=差別の施策をすすめたが、大きくわ けて二つの形態ないし方法をとった。

 第一は、国内臣民にたいする分ee・=差別の形態 である。家父長制は民法として法制化され、公の 場では、女は一人前の存在として認められなかっ た。教養の内容は女大学から良妻賢母へ変化した けれど、男女別コースの人生・教養という枠組み に女は閉ざされた。障害者にたいしては、はやく も笹救規則を定め(1874年)、その扶養を家族 の責任に帰し、公的保障よりも私的滋善活動に頼 ることによって、公的生活の場から隔離した。被 差別部落にたいしては、解放令をだしたものの・

社会・経済生活における部落差別を温存し、行政 的にはあらためて「新平民」、「特殊部落」と命  名しなおして、実態的に一般から被差別部落民を

線引きした。男と女、健常者と障害者、一般と被 差別部落を分離し、後者を下においたのである。

  第二は、本土とは異なった文化・民族にたいし て、これを理由にして一段低く格づけると同時に、

 同化・画一化する方式をとったことである。この  民族的差別の側面は、明治に入って以降、積極的  にすすめた点であった。沖縄およびアイヌを内国

植民地扱いにして、国民の一部に位置づけながら、

これらにたいしてその文化的固有性を認めず、日 本の言語、文化、制度への同化を強制した。アジ

ア諸国への侵略をひろげると、この方式をさらに 延長していった。台湾および朝鮮を外地と称し、

第二級の臣民に擬して、同化政策を展開したので ある。このなかから、在日中国人、在日朝鮮人に たいする差別の現実を新しく創出して、こんにち まで引きついでいる。本土と沖縄、和人とアイヌ、

日本人と中国人・朝鮮人という上下二分法を定着 せしめたのである。

 このように人と人とを引きさき、民族と民族と を引きさいて、そのかんに価値の上下をつける差 別の制度化が、明治政府によって再編成されるこ とになった。それぞれの被差別者は、それぞれの 差別の制度・文脈において差別されると同時に、

これらを介して、国民的制度の論理においても差 別をうけるようになり、制度の底辺ないし実質的 な局外者としての位置におしこめられるにいたっ

た。

 差別の再編・制度化の〈明治〉にたいして、こ れにたいする批判意識が顕在化したのが〈大正〉

であったといえよう。大正デモクラシーのなかで、

差別を否とする当事者の意識が運動化したのが、

とりわけ1920年代の新しい特徴であった。青鞘 社の動き、盲。ろう唖団体の運動、全国水平社の 結成などは、その波頭であったろう。この運動に よって、以後、差別問題は社会問題として重要な 座をしめるようになった。

  しかしながら、革新的な政党、労働組合、農民 組合などの運動において、性差別、障害者差別、

部落差別を自分の解放にかかわる不可欠な問題で あると把えるには、いたらなかった。この弱点は  戦後までもちこされていった。沖縄、アイヌ、在  日朝鮮人にたいする差別についても、同じような  弱点をかかえもっていたであろう。

  〈昭和〉、わけても15年戦争の期間は、生活

一9一

(10)

 のなかの差別の実態をそのままにしておいて、「天  皇のもとでの平等」と称して、被差別者それぞれ  を上から組織していった時代である。国防婦人会、

 同和奉公会、在日朝鮮人にたいする協和会などは、

 その端的な例であろう。アイヌ、沖縄にたいする  皇民化政策は、その度合をいっそう強めた。天皇 のために死ぬという一点に意識を集約させること  によって、被差別の生活と意識への自覚に麻酔を

かけようとしたのであった。ただ、このなかで、

障害者・とりわけ重度の精神障害者にたいして、

優生法などによる排除を企図した事実は、忘れら れてはならぬだろう。人としての価値より役にた つかたたぬかが露骨に前面に出たときであった。

 ㊤ 現代における差別問題

 1945年の敗戦・新憲法の制定は、日本におけ る差別からの解放へむかう政治的転機を劃した。

憲法では、差別の不条理と権利の平等が宣言され、

男女平等など制度上の隔離は手直しされた。民主 主義と差別は両立しないことが、理念として明ら かにされたのである。

 しかし、差別の実態がこれによってなくなった かといえば、もちろん、そうではなかった。生活 と意識における差別し差別される関係は、政治的

・制度的変革のレベルとは別に、社会生活史のレ ベルでは変わることなく構造的にっついていた。

にもかかわらず、敗戦後しばらくのあいだは、女 の公的制度への進出を例外として、全体的には見 えない問題として放置されていた。

 見えない問題を見える問題におしあげていった のは、理念と実態との背離を身にしみて知った被 差別の当事者を中心とする解放運動であった。こ れら諸運動のたゆみない10年、20年の努力の なかで、少しつつ見える問題に浮上してきたので

あった。

 差別からの解放への取りくみは婦人、被差別部 落・在日朝鮮人などが早かった。婦人は家父長制 的隷属からの解放を求め、被差別部落民はその生

 活の貧しさが行政による差別に起因することを問  題とし、在日朝鮮人は独立の民としての権利が侵  害されていることを抗議した。

  戦後においても、被差別者が立ちあがることに  よってその差別の問題が、それ以外のものに見え  てくる、というプロセスをたどっていく。婦人、

部落、朝鮮が、問題として少し見えるようになっ  た。ついで沖縄の祖国復帰運動がおこり、障害者  解放運動は60年代、アイヌ自立の動きは70年

代に入ってからのことであろう。沖縄、障害者、

アイヌの問題が目にうつってくる。

 ただ、これらは個別の解放課題を追求する個別 の運動であるという性質がつよく、横の有機的な つながりは弱かったし、今なおその弱点をかかえ ているといえよう。また、政党や労働組合も、す すんでその運動課題のなかに差別問題を位置づけ ることが少ない状況を、ながくつづけていた。こ

うした事情も、横のつながりを弱める一因になっ てきたであろう。

 しかし、このように被差別の当事者からの問題 提出によって、それぞれの領域において、権利の 平等がたてまえ上の事柄に終っていて、社会構造 における差別の実態は強固に生きつづけているこ とが、見えるようになった。戦後民主主義の課題 として差別問題と正面から立ちむかうことの大事 さが、ようやくひろく自覚されるようになってき たのである。

 ところが、60年代以降の高度経済成長のなか で、現像的には、社会差別の問題について見えに くい傾向が生じ、むしろ、資格と能力による輪切 りという能力主義差別の問題が前面に浮かんでく るようになった。産業化社会一そこにおける一一 般差別と社会差別のかかわりかたをどう考えるか

という新しい状況に立ちいった。

 産業化社会における制度の論理は、公務員であ

れ企業であれ、能率と効率を重んじて、能力と資

格を第一原理とする。もちろん、性、国籍、身分

(11)

を理由にして、これを排除したり、低く遇するこ とをつづけている。実態的には今なお強く、当事 者はリアルに痛感しても、制度の側はそれが理に もとることを知っているので、できるだけ能力を 口実にしてこれを隠そうとしているのが実際であ ろう。部落の子の出身が問題でなく、その子の能 力、人柄が問題であるというふうに、表面的には 理由づけるようになっていくのである。このよう な能力と資格を第一とする産業化社会(メリット

クラシーの社会)のなかで、能力主義差別が大き な社会的問題になってくると同時に、社会的差別 によって能力と資格を阻害されてきたもののなか にも、能力をつけて社会的差別をこえようとする 動きがでてくる。

 このような制度における一定の開放性と能力主 義のひろまりとならんで、高度経済成長は生産と 消費のスタイルを変え、便利でゆたかな消費生活 のなかに民衆を囲いこみ、いわば文明化による生 活様式の全国的な均質化という現象をうんだ。こ のことは、今まで見えていた生活実態における格 差を覆いかくし、外見上は格差が見えにくい現象 をつくりだしている。また、差別はわるいという たてまえの意識が形成されるようになったことも、

逆に差別の事実を見ぬく目を弱める方向に働くよ うになっていよう。このような生活と意識の変貌 のなかで、差別する側において、時には差別され る側の一部において、社会的差別を差別と感じら れないような状況がみられるようになった。差別 が陰顕化してきたというのが、こんにちの被差別 者のするどい直感になっている。

 このような差別の現代化状況にたいしそ、二つ の対応する動きが生じるようになった。

 ひとつは、社会的差別の性格をさらためて見な おし、理論的に深めながら、あわせて被差別者集 団のなかに人間解放の歴史的・文化的な力が秘め られていることを発見していこうとする試みであ る。性差別の根拠を性別分業体制に求めるととも

に、歴史のなかの女像を書きかえていくなかで、

男と女の新しい関係を模索する。障害者差別の本 質を隔離の生活強制におき、共生・共労の新しい 側面をほりおこし、創りだそうとする。部落差別 の近代的特徴が出身を隠して生きることにあると して、これを被差別部落が歴史的に貯えてきた文 化創造力、民衆解放力をほりおこすなかで、超り こえていく。アイヌ同化の歩みに抗して、アイヌ 民族文化復権の新しい歩みがはじまる。復帰後の 本土化に抗する沖縄文化の固有性をたしかめなお す動きも、強まっている。朝鮮にかかわっても、

従来の在外公民にたいする権利侵害という問題設 定から、在日朝鮮人差別そのものを深く見つめる ように変わり、在日朝鮮人史を探るようになって

いる。

 もうひとつは、このように差別を見ぬく目をき たえていくことと平行して、社会的差別の問題を 国民的課題として取りあげ、取りくんでいく要求 運動である。運動的な意味で、これをもっとも強 く要求し、その力を発揮したのが、部落解放運動 であったろう。それは同対審を発足させ、同和対 策事業特別措置法を公布させ(1969年)、部落 問題を国民的課題にまで高めた。ついで、被差別 統一戦線を提唱(73年)、部落差別からの解放は 他の諸差別の解放と相まつという考えにたって、

被差別者相互の共同斗争を促した。また、70年 代は国際的規模で反差別の行動が盛りあがったか

ら(国際婦人年、国際障害者年、国際人権規約な ど)、これらを解放への一助として活用した。

 1970年代以降、このように差別問題をとらえ なおす動きが、いちだんと活澄になった。にもか かわらず、社会的諸差別は、当事者以外の国民共 通の課題、関心事になりきっていないというのが、

実状であろう。この壁をどう破っていくか。

 理論、研究のこととしては、二つの問題が解か れていくことが求められていよう。ひとつは、一 人ひとりに重くのしかかっている能力主義差別の

一11一

(12)

体系(資格と能力による輪切り)と社会的諸差別 の体系とが、どのように関連する構造をなして、

こんにちにおける差別構造の全体を形造っている のか、を解明することである。もうひとつは、こ れまでの解放の運動と理論は差別の政治史・制度 史に焦点をあて、そこにおける不平等の廃絶を中 心にしてきたが、それとならんで、これからはも っともっと、差別の社会史・文化史に踏みこんで、

ここを変えていくと同時に、被差別民衆文化を積 極的に提示していかねばならぬであろう。

 差別への取りくみは新しい転換期にさしかかっ ている、と思うのである。

⑤ 学校と差別の歴史

 ④ 教育の歴史と学校の歴史

 これまでの文章で、教育と学校とをほぼ同義的 に使ってきたが、本来、この二つは概念的にも実 体的にも識別されるべきものであろう。

 学校とは、文字文化の伝達を軸として、子ども を特定の時間と空間に囲う施設である。だから、

これは文字文化を専有し、生産労働をしないです む(階層の)子ども、いわば特権層の少数の子ど

もを対象にして始まったものである。日本では、

それは身分制社会の成立と同時に始まり、その長 い歴史のあいだ、基本的には統治身分の子どもが 通うところとなった。統治身分においては、その 男子を一人前の統治者に育てるにさいして、学校 というかたちをとった教育を重要な手段とし、こ れを伝統化してきたのであった。

 学校についてこのように考えるならば、まず第 一に、子どもを一人前に仕上げるという意味での 教育ないし子育ての営みは、学校成立以前・文字 文化のなかった時代からあったものであり、また 第二に、学校成立以後も、身分学校から除外され た被統治民衆においても、子どもを生産と共同体 のにない手に仕上げるための固有な教育が生きっ づけてきた、と考えることができるであろう。民

衆は話しことばの文化をもち、そのなかで、学校 とはちがう教育のしかたをおこなってきたのであ

るo

 前近代においては、教育の形態を、このように 文字文化を軸とした教育(=学校)と話しことば の文化のなかでの教育とに、大きく分けることが できよう。子どもの生活史に即していえば、文字 文化を学ぶ学習少年と話しことばの文化を貯える 労働少年とに、階級的に二種類の子ども時代に分 岐していたであろう。

 このような教育の二重の形態が構造的に変わる のが、明治維新以降における近代学校制度の普及 のなかである。近代学校が教育を主宰するように なり、民衆の話しことばのなかの教育はそこから 排されていき、そこに深い教育的価値のあること が見えなくなってきた。学校が教育の主人公にな る。これは近々100年のあいだの変化、しかし 大変容にほかならない。その100年のあいだ、

社会は学校を出なければ生きられないような構造 に変わり、そのなかで子どもたちは学校に組織さ れていき、今では子ども時代は学校少年の時代と

して単一化するようになっている。

 以下の記述は学校を主語とし、学校と差別との かかわりを摘記していくものであるが、その前に、

このように学校と教育を識別したのは、民衆に、

また被差別者とされた社会集団に、それぞれ固有 な教育の伝統があることを逸し去らぬためである。

学校の歴史はこれらを侵食していく歩みでもあっ

たろう。

 ◎ 身分制学校と差別

 社会的差別をつくりだした特権層が、また学校 を最初に組織し、ながらくこれを独占した。これ が歴史の事実であろう。だから、そもそもの学校 は、第一にそこから被差別者を排除し、文字文化 を独占することによって、第二に独占した文字文 化をとおして差別の文化意識を培養することによ

って、差別構造維持の有力な手段となってきたの

(13)

である。

 日本における学校の初まりは、7末紀末の大学 寮であるとされているが、それ以降19世紀の中 葉にいたるまで、学校は身分制学校として編成さ れることを基本とした。それも、江戸中期以降に 寺子屋が普及しはじめるまでは、公家そして武家

という統治身分の子弟を教育する特権的な施設と してあるのが、ほとんどであった。

 こうした統治の後継者養成の学校は、民衆の子 弟に閉ざされた施設であるだけでなく、統治者の 文化を再生産する点においても民衆の生活文化と かけ離れていた。いわば階級学校であった。それ と同時に、差別を貫ぬいていたことは、同じ統治 身分である女子にたいする教育によくあらわれて いた。彼女たちは男子独占の学校に行けず、男と は異なった教養をもつことを強要されたのである。

仏教思想が定着するにつれて血のけがれをおしつ けられ、儒教イデロオギーがひろまるにつれて婦 徳の枠に組みいれられ、性差別のなかに閉ざされ ていった。教育における差別は統治身分における 男女差別の教育においてもっともつよく意識化さ れたものではないだろうか。

 江戸中期、18世紀ごろから、民衆の教育施設 として、寺子屋が普及しはじめた。武家の娘が藩 校から排除されたのとちがって、民衆の娘は寺子 屋に通い、女師匠も出た。それでも男児にくらべ ると、まだまだ少なかった。しかし、そこでの教 育内容は統治層の婦徳論が流され、女の心得を身 にっけさせられるものであった。女児用教科書が たくさん刊行されたのも、このころである。女子 にも寺子屋をひらくけれど、内容は男女別々の教 養を施すという、明治以降の教育における性差別 の原型は、事実として、江戸中・後期の寺子屋の

なかに生じていたのである。

 被差別部落民の場合、身分制と部落差別の社会 意識のため、農工商の寺子屋にも行くことができ なかった。大きな部落では、自前の寺子屋を設け

たろうと予想されるが、その記録は少い。学校と いう視点からみれば、被差別部落は、江戸期、学 校からもっとも遠い地点に立たされていた。隔離 された反面、部落は自らの伝統芸能や伝承を保ち つづけたが、それが藩校・寺子屋などの学校文化 に採りいれられることはなかった。陰の文化とさ れたのである。障害者も、盲人の一部が講をつく って職業のための自己教育組織をはじめたほかは、

学校から排除されていた。

 琉球は、日清両属関係を利用して、固有のこと ばと文化を保ちつづけたが一その内部には学校 にいく士とそうでない庶民にわかれていた一、

北辺のアイヌは和人のことばと風俗をおしつけら れはじめていた。老中松平忠明は「専ら和語を遣 ひ侯様教へ」と口達(1799年)、同化教育の方 針をうちだしたのである。ただ、これは蝦夷地の ごく一部にとどまって、北海道全域に及ぶのは明 治後半から大正にかけてであり、当時のアイヌは 自らのことばと文化のなかに生活していた。

 身分制社会のもとでは身分制の生活と教育が原 則であった。寺子屋が都市から農村へと徐々にひ ろがってきたとはいえ、町民は町民、農民は農民 としての子育てをもち、寺子屋のもつ比重はまだ まだ限られていた。そのもとで、被差別部落民も また自らの子育てを有していたであろう。ひらた くいえば、教育の多様性が本土のみならず沖縄、

アイヌにおいて息づいていたのであった。これが 変わり、全国民的な規模でほぼ似たような教育状 況が現出するようになるのは、近代学校制度がひ ろまってからのことである。身分別教育という教 育差別の形態も変わっていく。

 0 近代学校制度と差別

 日本の開国、近代化の歩みのなかで、国民皆学

の方向が示され、近代学校が導入され、公教育制

度が設けられた。これは被差別者に学校への機会

を平等にひらくという点で、身分制学校の弊をな

くす前進であった。これを手がかりにして、被差

一13

(14)

別の子ら、とりわけ女子と部落の子らは社会に深 い差別意識と斗いながら就学し、就学したのちも 学校に満ちる差別意識に抗しながら通学、教育機 会を徐々に拡大していった。とりわけ明治期にあ っては、社会にっつく性差別や部落差別意識が被 差別者の就・通学を冷たい目で見ていたから、こ れに抗しながら個々人の努力のつみ重ねで教育機 会をひろげていくことに、おもな努力が払われて いた。盲・ろうの子らにたいする学校もひらかれた。

 学校への機会がひらかれたものの、しかし、差 別は別のかたちで学校制度のなかで生きっづけた。

 それは、第一に、別学体制として制度化された。

性差別は男女別学・別教養の制度として具体化し た(小学校一別学級、中・高等教育一別学校h ついで、健常者と障害者の別学体制が、盲・聾学 校別置を皮切りに、実施されていった。

 これら公権力の組織化した別学一被差別者隔離 の教育システムーとは異なって、民衆の差別意識が 事実としてつくりだした別学も生じてきtc。部落学校 である。被差別部落の子弟との共学を嫌った一般民 衆の部落差別意識が、部落学校特設を強要したの である。部落からの抗議によって、明治末頃には なくなるが、そうなるとこんどは、学校・学級内 で部落の子に差別の刃が直接むけられていった。

 なお、近代学校制度がうみだした新しい差別と して、夜間学校の教育とその在学生・卒業生にた いする差別がある。学制以来、労働青少年を対象 として、小学校から大学までの各階梯に夜間課程 が設けられるようになって今日に及んでいるが、

一学校の昼夜二重構造一、全日制に比して夜 間制は施設・教育内容・進路の全般にわたって冷 遇されつづけてきた。

 学校制度における差別は、このような二分法の 制度として、近代的再編をみたが、それのみでな く、第二に、被差別者にたいする実体としての近 代学校からの疎外が顕著にみられた。部落差別は 就職差別に直結し、それが部落の人びとの貧しさ

につながり、貧しさのため家の手伝いしたり、働 いたりして、学校に通えぬ子を生ぜしめた。また、

通学しえても、教師や級友から差別されて、中退 した子も多かった。部落差別の現実が部落の子の 多くに不就学・中退を余儀なくさせたのである。

また、女に学問はいらないという考えが女子の就 学・進学をおくらせ、障害者を人間と見ない意識 がその教育への接近を阻んだQ身分制学校の時代 以上に、生活のなかにある差別が教育機会におけ る差別をうみだす状況が、よく見えるようになっ てきたのである。

 近代学校と差別問題のかかわりで生じたもうひ とつの新しい事態は、近代学校の教育内容(;学 校文化)が差別一被差別の関係意識を再編成す るに役立ったことである。学校文化それじたいが 差別の文化をもっていた。被差別者がこれに同化 すると、自らの出自を恥るようになり、そうでな い者は差別する意識を文化的に補強するようにな

った。

 これは沖縄、アイヌと近代学校のかかわりを考 えると、よくわかる。沖縄に本土の近代学校が導 入されたのは1880年代、アイヌに「旧土人学校」

の制度が実施されたのは1899年であるカ\そこに おける学校言語は沖縄方言にたいして本土の標準 語、アイヌ語にたいして日本語であったし、その 学校文化は沖縄の文化、アイヌの民族文化を捨象 した中央文化であった。沖縄の子やアイヌの子に とってみれば、こうした近代学校をおしつけられ ることは、自らのことばや文化を否定して、ヤマ

トンチュウ、和人に同化させられていくことであ った。近代学校とその文化は同化の手段として働 いたのである。そして他方、近代学校文化は、沖 縄やアイヌをおくれた異族として描きだすことに よって、本土・和人の子らのあいだにこれらを見 下す意識をひろめていった。近代学校が民族差別 再生産に一役買っていたと言わざるをえない。

 この延長線上に、植民地教育が展開した。台湾、

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朝鮮を領有した明治期、この構図ははっきりした 姿をととのえている。それは、在住日本人子弟と 現地民子弟とのあいだに別学体制を設けるととも に、現地民子弟にたいする近代学校を日本のこと ばと文化を教える施設とし、同化の手段としたの である。ここでも、日本の近代学校はアジア諸民 族の子にとって民族差別の手段と化してしまった。

もちろん、他方で、日本の学校文化がすすんだ日 本・おくれたアジアという認識構造をもち、それ をひろめたから、この教育をうけた日本とアジア の子らは、それぞれに優劣の意識をもたされた。

 学校文化が差別の文化を内包していたことは、

このような民族の視点からのみでなく、性、障害 者、被差別部落の視点からも言えることである。

それは、家父長制度をバックに、男尊女卑の思想 をあからさまにうちだしていた。能力と能率のも のさしを用いて、障害者に人間を見ない意識にた ち、健常者中心の世界を描いていた。被差別部落 を下にある汚いものと見て、そこにはぐくまれた 人としての斗いや文化に目もくれなかった。男中 心・健常者中心・一般中心の学校文化であり、そ の文化を教えられても、女性、障害者、被差別部 落の子らが励まされて元気になるということは、

乏しかった。

 近代日本の国民的統一の完成をいつごろのこと と見るのかは、議論を要する点であろう。教育の 視点から見るとどう言えるかにおいても、同前で あろう。私は、初等教育体制がととのった1900 年からの10年間である、とみたい。日露戦争を はさんだこの期間、一力で、第三次小学校令がだ され(小学校四年制一1900年)、ついで小学 校六年制に延長(1907年)、就学率が98%に たっし(1909年、但し通学率は80%)、内国 民の子弟をほぼ全部近代学校に組織しおえた。他 方、教育勅語の発布をへて、小学校教科書の国定 制が成立し(1903年)、学校文化も、天皇制思 想の主導下に、ひとつの型を完成させた。近代学 校が全国的に普及し、そこに日本の子どもの大部 分が組識され、天皇制教育をうける、このころを 教育の視点から見た国民的統一達成の時期と考え

たい。

 そして、この時期に、教育における差別の形態 も、前代から近代のそれへ転換しおえた。近代学 校制度が教育における差別の再生産と普及の主要 な舞台になったのである。それは、被差別者の子 らにたいする学校への就・進学の機会の不平等と いう形をとり、ついで、差別の文化を内在させた 学校文化からも疎外される姿をとるにいたらしめ た。(未完)

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