鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 49巻 第
1号
(1998)私・ 他者・ 世界
― フッサールの相互主観性 の現象学―
哲学研究室
高
階 l―l
フ ッサ ー ル 現 象 学 にお け る相 互 主 観 性 論 の位 置 フッサールの現象学 は「 自我 の自己解釈」としての自我論的現象学(1)と して出発 し,客
観的世界 の 構成 の超越論的解明 をその固有の主題 とす る相互主観性 の現象学 によって,そ
の理論展開の頂点 に 達す る②。そして,自我論か ら相互主観性論への この理論展開の基本的道筋 は,フ ッサール にとって は,そ
の現象学的哲学の構想の草創期 においてすで に拓かれ るべ き苦難の道 として明確 に自覚 され ていた。 徹底 したデカル ト的 自己省察 をとお して,ま
った く新たな仕方で厳密学 としての哲学 を開始 しよ うと模索 していた,若
きフッサールの思索 に決定的な転機 を与 えたのは,師
ブレンターノか ら学 ん だ「意識 の志向性」の概念である。意識 はつねに或 るものについての意識である。見る ことにおい ては或 るものが見 られているのであ り,関
くことにおいては或 るものが聞かれ,考
えることにおい ては或 るものが考 えられている。 フッサール は,相
互 に複雑 に絡 み合 い,指
示 し合 い,重
な り合 つ ている意識現象一般 の この志向的本質構造 の うちに,あ
らゆる学問的認識 に基礎 をあた える普遍学 をめざす,自
らの超越論的現象学の固有の研究領域 を見いだした。 しか し,そ
れ はいまだ誰一人足 を踏み入れた ことのない,「原始林 に覆われた未開の原野」であつた。 メッレの証言 によればC31,フ ッサールが この「未開の原野」にい どみ,並
々な らぬ労苦の果てに意 識現象の この志向的相関関係 についての完全 な理解 に達す るまで には,ほ
ぼ20年 の歳月が費やされ た。 フッサール は1906/1907年の冬期ゼメスター と1907年 の夏期ゼメスターの講義 においてはじめ て「超越論的主観性 の志向的本質構造」,す
なわち「意識 のノエ シス・ノエマ的相関関係の構造」 を 現象学の固有 の問題領域 として明確 に叙述 し,そ
してその「未開の研究領野」 を切 り拓 くべ き現 象学の固有め方法としての「現象学的還元
(phanOmelaologische Reduktion)」の構想を提示してい
る。 しか し,超
越論的主観性 の複雑 に錯綜 した志向性 の構造の全面的開示 をその固有の使命 とす る, 現象学的還元の徹底 した遂行 の道の りは容易な もので はなかった。 その最大の問題 は私 の固有の超 越論的主観性 の領野 においていかにして「万人 に とって妥当す る」客観的世界が構成 され うるか と い う相互主観性 に関す る問題系であった。 1973年に相次いで刊行 された大部 の三巻か らなる,フ
ッサールの『ホロ互主観性 の現象学』④は「個 体」「 自己投入J「他者経験」「モナ ドロギー」「共同体」等の,相
互主観性 に関す るフッサールの膨 義 勝「
高階勝義 :私・ 他者・世界 大 な量 にお よぶ,1905年
か ら1935年までの未公開の研究草稿や講義録等 をもとにして編纂 された も のであるが,そ
れは,フ
ッサール に とっては,彼
が「孤独 な純粋 自我 の意識生の普遍的本質構造」 の分析 に忙殺 されていた初期 の時期 において も,「複数の意識流が,すなわち複数の自我が存在す る」 とい うことを片時 も忘れ ることがなかった とい うこといち 本目互主観性 の問題 はフッサールの うちに 「現象学の理念」が芽生 え始 めた草創期か ら晩年にいたるまで,そ
の超越論的現象学の焦眉の内在 的問題 としてつねにフッサールの思索 を内的に駆 り立てていた とい うことを如実 に物語 っている。 現象学的還元 によって,さ
しあた り自然的態度 における実在的世界 とその対象の存在妥当信憑 は 全面的 に「妥当の外 におかれ」,「括弧 に入れ られ」,そ
のすべてはその存在妥当の起源 としての「超 越論的主観性」につれ もどされ る。 しか し,そ
の ことによって世界 とその対象の内容的諸規定 は何 ひ とつ失われない。 あ らゆる対象 はい まや世界信憑 とそれにもとづ く多様 な意識作用の相関者 とし て,純
粋 な意識 の普遍的な存在領域 に組 み込 まれて,現
象学的考察の主題 として確保 され ることに なる。 意識の体験連関 と作用連関 において構成 され る世界 とその対象 は,そ
の意識 の普遍的存在領域 に おいては,い
まや超越論的主観性 の志向的な意味形成体 として存在す る。 したがって,意
識の意味 付与作用 と経験連関が崩壊す るな ら,世
界 は無化 され,わ
れわれはもはやいかなる世界 も対象 も有 さない とい うことになるであろう。 しか しその ときで もわれわれはまだ何 らかの意識 は有 している であろう。 したがって,意
識だけが,す
なわち超越論的主観性だけが絶対的存在 とい う存在意味 を 有す る。 これに対 して世界 は相対的に存在す るだ けである。 こうして,フ
ッサール においては,さ
しあた り超越論的主観性 の志向的本質構造の純粋記述 を主 題 とす る,形
相学 としての超越論的現象学が成立す ることになる。 ところが,フ
ッサールの この超越論的現象学の構想が 『イデー ン』の第一巻 (1913年)に
おいて 公表 され るや,さ
まざまな批半Jにさらされ ることとなった。 とりわけ1930年前後の,
リッケル トに 代表 され る新カン ト学派の「批判主義」の立場か らの批判 は執拗 なものであった。曰 く「現象学 は 直観主義的―存在論主義である」,曰
く「超越論的現象学 は独我論的観念論である」等々。 フッサールの晩年の助手 としていつ も彼の傍 らにあったフィンクは,フ
ッサールによって全面的 に権威づけられた周知の論文 において,そ
れ らの批判 の多 くが フッサールの「新 しい哲学の根本理 念」 に対す る無理解 にもとづ く曲解,誤
解であると論駁 しなが らも,そ
の誤解 の原因の一端が 『イ デー ン』第一巻 において使用 されている,「直観Jや
「超越論的意識Jあ
るいは「純粋 自我」 といっ た フッサールの超越論的現象学の基本概念 その ものの多義性 に も由来 していることを指摘 してい る(6)。 フッサール 自身 も,
もともと『イデー ン』第一巻の英語版 (1980年)の
ための序文 として書かれ た『イデー ン』への「後書 きJに
おいて,当
時の思想界 における自らの現象学 に対す る批判 を,
と りわけ「独我論的観念論Jで
あるとす る批判 を率直 にうけ とめ,そ
れが 『イデー ン』第一巻の論述 の不完全 さに起因す るものであることを告 白している。「超越論的現象学的観念論の基礎づ けとい う 点か らすれば,あ
の叙述 (『イデーン』第一巻第二篇第二章)に
は欠 けているものがあ り,す
なわち そこには,超
越論的独我論の問題 に対 し,
もしくは超越論的諸主観共存性 に対 し,つ
ま り私 に とっ て妥当す る客観的世界が,私
に とって妥当す る他者たちに本質的に関係づ けられている とい う事態 に対 して明 白な態度決定がなされていないのである。 この点に関する補足 は,第
一巻 と同時 に企画 されていた第二巻が果たす予定 になっていて,こ
の第二巻 を当時私 はもうす ぐにで も引 き続 いて公 刊で きるとみ こんでいたのである。J。) ゛ 二 │鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 49巻 第
1号 (1998) 23
現象学的還元 によって,徹
底的に世界的な ものか ら解放 され る自我 はさしあた り絶対的択独へ と 導かれ る。還元のあ とで は,世
界 とその対象 は,世
界 の うちにある人間 も含 めて,精
神物理的統一 体 としての人間―自我 としての私 自身でさえも,す
べては私 と私の超越論的意識能作の単 なる意味 形成体 になる。「世界が私 を内包す るので はな く,私
が世界 を内包するので ある。」③ 自己省察の絶対的事実 としての「唯―の自我 (solus― ipse)」 を中心域 とした 自我論的主観性の現 象学か らの出発 は,徹
底 したデカル ト的 自己省察 によって自らの現象学 を基礎づ けようとす るフッ サールに とっては避 けては通れない必然的方途 であった。 しか し,フ
ッサール現象学の この「デカ ル ト的方途Jには,「私の超越論的主観性 においていかにして客観的世界が構成 され るのか」,「私 の 超越論意識生の うちでいかにして他者 の経験が生起 しうるのか」,「いかにして超越論的諸主観の相 互交流 は成立す るか,す
なわちその意識能作 において世界がその客観性 において構成 され るような 超越論的相互主観性 はいかにして成立す るのか」 といつた,相
互主観性 に関す る難問がつねに立 ち はだかっていたのである。 本稿 のね らいは,現
象学的還元 によってさしあた り開示 される超越論的 自我論的主観性 を出発基 盤 とす る,フ
ッサールの超越論的現象学が不可避的に内包せざるをえない「超越論的独我論」 は, 現象学的還元 の徹底 した遂行 の過程 においていかにして克服 されのか,す
なわちそ こか らどのよう な他者経験論 とそして相互主観的世界構成論が展開され ることになるのか を,「構成的現象学」の視 点か ら考察す ることにある。 口 超 越 論 的 主 観 性 の 自我 論 的 本 質 構 造 フッサールの相互主観性論 は,彼
が『イデー ン』への「後書 き」において予告 した とお り,[デ
カ ル ト的省察』の「第五省察」 において詳細 に論 じられているが,そ
れに先立つその「第二省察」 の 或 る箇所で,デ
カル ト的自己省察 を出発基盤 として展開されてきたフッサールの現象学が その独 自 の現象学的還元の徹底 した遂行 によって,デ
カル ト的歩みか ら決定的に分岐す る「新 しい学問的理 念」に到達す ることになるとい うことが鮮明に語 り出されている。「 こうして,前
例 のない独特の学 問がわれわれの視野 に現れて くる。それは現実的お よび可能的な超越論的経験 の うちで与 えられ る 具体 的な超越論的主観性 に関す る学問であ り,そ
の学問は,従
来の意味での学問すなわち客観的学 問に最 も極端 に対立す るものである。それ らの客観的学問のなか には,た
しかに主観性 に関する学 問 もあるが,し
か しそれは世界 に所属す る,客
観的で,心
を持 った主観性 に関す る学問である。 し か し,い
まわれわれが問題 にしている学問 は,い
わば絶対的に主観的な学問である。それ は,世
界 が存在す るもの として決定 され ようが,存
在 しない もの として決定 され ようが,そ
のような決定 に は無関係 に存在す るところの ものを対象 とす る学問である。 しか も,こ
の学問の特徴 はそれだけで はない。 この学問の最初 の,そ
して唯―の対象 は,哲
学的に思索す る者 としての私 の超越論的自我 であ り,そ
してそれだ けで しかあ りえないように思われ る。」(CM.68f.)
このようにして,現
象学的還元 によって,さ
しあた り「新たな学問」 は徹頭徹尾,自
我 と自我 自 身のなかに含 まれているものだ けを存在す るもの として定立す る,純
粋 な自我論 として出発す るこ とが要請 されているのであ り,し
たがって,こ
の最初 の段階で は,現
象学 は,そ
れ によってはた し て他 の自我が私の 自我 と同 じようにその学問的主題 として認 め らうるのか どうか も予測 されない よ うな,そ
のような独我論的学問にお とし入れ られているのではないか とい う疑念 も起 こって くる。 しか し,フ
ッサール はここで,ま
った く新たに出発 しようとす るわれわれ はその ような疑念 を恐F
︲
高階勝義 :私 。他者 。世界 れてはな らない こと,こ
の学問が「独我論的学問」 に とどまるように見 えるのは,哲
学の低次の段 階 における外見であつて,そ
れが この新 しい学問の固有 の理念 にしたがつて,首
尾一貫 して徹底的 に展開 され るな ら,そ
れ は超越論的相互主観性 の現象学へ とみずか らを展開 させ ることになるであ ろうと示唆 している (CM.69)。 しか し,現
象学的還元 によつてさしあた り開示 されて くる超越論的主観性 の この自我論的領域 に おいて,い
かにして他我が主題 にな りうるのか,す
なわち自我論か ら出発す る現象学 はいかにして 相互主観性 の現象学へ と展開 され うるのか とい う,相
互主観性 に関す る諸問題が ここに立 ち現れて くるのであるが,普
遍学 をめざす現象学 に とってはいわばその成否が試 され るこの重大 な問題系 に 立 ち入 る前 に,フ
ッサール現象学がその固有の問題領域 とす る「超越論的主観性」がそ もそもどの ような もの として考 えられているのかがあ らか じめ明示 されなければな らない。 『デカル ト的省察』の先 に引用 したテキス トにおいては,「私の超越論的 自我」としてのそれ はま ず第一 に「世界が存在す るか存在 しないかの決定 に無関係 に存在す るもの」 として規定 されてい る。 すなわちそれ は,
トイエ ッセ ンが指摘 す るように。ち 世界 の うちに存在 しない「超世界 的主観性 (extramundane SubiektiVitat)」 としてみなされている。すなわち,フ
ツサールの自我論的現象学 の段階 における現象学的還元のね らいは,主
観性 を世界的な ものか ら徹底的に解放す ること,そ
う す ることによって主観′l■を「純粋 に」保持す ることに向けられているのである。 そして,こ
のデカ ル ト的徹底主義 によって貫かれた 自我論的現象学の還元のね らいは,デ
カル トが“ego cogito,egosum"の
省察 を とお して,結
局 は自我 を「世界の最後 の一小部分 (ein kleines Endchen der Welt)」として考察す ることか ら出発 し
,そ
してそれを人間の精神 あるいは魂 と解釈す ることによって自我 を世界化 して しまった「誤 り」 を根本的 に修正す ることにあつたのである (CM.63f.)。 現象学的還元 によって開示 され る超越論的 自我 はデカル トのエゴと同様 自我ではあるが,そ
れは 世界的な ものか ら徹底的 に純化 された主観性であつて,も
はや世界の一部分 として存在す るような 世界的人間的主観性で はあ り得 ない。「『我在 り,我
思 う』 とい うことは,
もはや この人間 としての 私が在 るとい うことを意味す るのではない。私 はもはや 自己についての自然的経験 において人間 と して見出され る人間ではな く,ま
た 自己 についての内部経験 において与 えられ る純粋経験へ抽象化 され,制限 され ることによって,純粋 な心 あるいは魂 あるいは知性 として見出され る人間で はない。」(CM.64)
フッサールの現象学が,自
我的な ものが,いであるとか精神であるとか とす る前提か らは出発す る ことはできないのは,わ
れわれが はじめか らそのように自我的な ものを精神であるとか心であると か と解釈 しているとすれば,そ
れは根拠づ けられていない素朴 な自然的態度の前提 に逆戻 りしてい るとい うことになるか らである。む しろ逆 に,ブ
ラン トも言 うように,自
我的な ものが徹底的 に解 明 され,発
見 されてはじめてそ もそ も心 とか精神 とかが一般的 にどの ような ことを意味 しうるのか が示 され うるようになるのでなければな らないのである(10。 それでは,現
象学的超越論的主観性 とい うのはあ らゆる経験的主観 に対立す る意識一般 あるいは 普遍的主観 とい うような もの として考 えられているのであろうか。 フッサールの答 えは否である。 先 に引用 された [デカル ト的省察』のテキス トにおいて,フ
ッサールが「現象学 に とっての最初 の そして唯―の対象 は哲学的に省察す る者 としての私の超越論的 自我であ り,そ
れで しかあ りえない ように思われ る」と語 るときの,「私の超越論的 自我Jはあ くまで もそれぞれの個体的体験の うちに 生 きている,そ
のつ どの私 の主観性であるとい うこと,す
なわち「それは自己 自身 に対 して必 当然 的に体験や能力や性質 に関す る個人的内容 をもって存在す る具体的 自我」なのであつて(CM.67)
゛ ユ │鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 49巻 第
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しか も,そ
れはまさにそのつ どの私の個体的主観性 の自我 として,事
実的 自我で もあるのである。 「デカル ト的に省察す る者 としてのわれわれすべては,こ
の事実的 自我 としての超越論的 自我 につ れ もどされ る。」(CM.103)
もとよ り,超
越論的 自我 の この事実性 は超越論的意味での事実性であつて,世
界的意味でのそれ ではない。「超越論的 自我の事実性 はそのような もの として世界 におけるあ らゆる事実か ら必然的 に 区別 され る」(CM.104),「
絶対的に孤独 な主観性の事実」である。1ち 現象学的還元 によって開示 される「超越論的主観性」 はた しかにそのつ どの私の自我ではあるが,し
か しそれは絶対的弧独性 と唯一性 にお ける自我であって,「汝 と呼ぶべ き相手や,我
々 と呼ぶべ き仲間や共同主観 の共同体 を 自然的に妥当させてい るようなひ とりの私ではない」(Kr.188),す なわちそのような人格的社会 的 自我 なので はない。なぜな ら私 の判断中止 においては,世
界全体 と同時 に全人類 が,し
たがって人 称代名詞の区分 と秩序のすべてが現象 になって しまっているか らである (Kr.188)。 ここで「人称変化 しえない とい うこと (pers6nliche Undeklinierbarkeit)」 としてネガティヴに 語 られてい る現象学的主観性 の絶対J性と唯一性の意味 は,
トイニ ッセ ンが適切 に解説 しているよう に「私 はいかなる他者 とも相互交通 しない とい うことだけが言われているのではない。 ここで究極 的 に言われていることは,絶
対的主観性 としての私 は私の もの と同 じものをけっして知 らない とい うことである。 そのつ どの私の ものはそのつ どの汝 の ものや彼 の ものか ら絶対的 に区分 され るとい うことなのである。」(1分 そして この「私の超越論的 自我」は,『危機書』においてはさらに「世界 に く私 に対す る世界〉 と い う意味 を純粋 に与 えている超越論的生 の 自我極」であ り,「私 の判断停止の 自我 としての根源我 (Ur lch)」 (Kr.188)であるとして積極的 に語 り出されて くる。しか しそれは本質的にその傍 らに いかなる自我 も有 さず,したが っていかなる共 同体への憧憬 も有 さない絶対的孤独性 (Eittamkeit) における自我であって,し
たがって,そ
の ような もの としての超越論的 自我 は「本来ただ曖味 に私 と呼 ばれているにす ぎない」 といわれ るのである。 とい うのは「私が この自我 を反省 しつつ名指す ときには,世
界 を現象 として問題 にしているのは私であ り,判
断中止 をしているのは私であるとい う以外 には言いようがないか らである。」(Kr.188)9
超 越 論 的 主 観 ‖生の モ ナ ド論 的 自我 構 造 ところで,
ここで注 目すべ きことは,現
象学的な超越論的主観性 の この自我論的考察 において見 いだされて くる,「世界 に絶 えずその意味 を与 えている超越論的生の自我極」としての超越論的 自我 に とっては,ま
さにそのような仕方で世界が 自我の体験 の志向的諸作用の対立極 として絶 えず現存 しているとい うことである。 したが って,フ
ッサール は現象学的還元 によってさしあた り開示 され て くる超越論的 自我 の固有の非世界的な自我論的本質構造 というのは,「世界が体験の うちで絶 えず 私 に対 して現存 しているとい うこと」 を暫定的に度外視す ることによって得 られた,自
我 の抽象的 な存在形式で しかない と言 うのである。「私 は,自
らを省察す ることによって,私
を体験す る自我 と して見いだす。そしてさしあたっては, この体験 の うちにまさに世界が私 に対 して現存 してい る と い うことを度外視す る。か くして私 は,私
の体験す る生 の一般的流れ をその抽象的な固有 な形式 に おいて見いだすのである。」。9 われわれが 自我 をその固有の自我論的存在形式 において考察す るときは,た
しかに自我極 として のそれはその世界経験的諸作用か ら区別 されはす るが,「しか し他方で はそれはただ単 に拍象的 に区高階勝義 :私 。他者・世界 別 され るにすぎない。抽象的に とい うのは
,自
我 は,こ
れ らの体験か ら,そ
の く生〉か ら分離 され た何か或 るもの として考 えられないか らである。J(1。 現象学的超越論的主観性 は,た
しかにそれが世界 の うちに自己 を見いださない とい う限 りで,世
界 に対す るネガティヴな関係 を有す る。 しか し,こ
の関係 は,現
象学的主観性が まず何 よ りも世界 を構成す る主観性 として特徴づ けられ るとい う限 りで,ポ
ジテ ィヴな ものである。先 に引用 した[デ カル ト的省察』のテキス トのなかで,フ
ッサールが「私の超越論的自我」 はあ くまで もそれぞれの 個体的体験の うちに生 きている,そ
のつ どの私の主観性であ り,し
たが つて「それは自己 自身 に対 して必 当然的 に体験や能力や性質 に関す る個人的内容 を持 って存在す る具体 的 自我 で ある(CM.
67)」 と語 るときの,自
我の「具体性」とい うのはまさに自我 の世界 に対す るこのポジテ ィヴな関係 を強調 した ものにほかな らない。 自我 はあらか じめにすでに個体的 に存在 し,事
実的に存在 し歴史的に存在す るわけで はない。 自 我が個体的に存在 し,事
実的に存在 しうるためには,そ
れは世界全体 をその「志向的対象性」 とし てすでに自己の うちに内蔵 していなければな らない(19。 フッサールは,こ
の具体性 において とらえ られた 自我 を,意
識体験 の自我極 として とらえられ る自我 と区別 して,ラ イプニ ッツにな らって「モ ナ ド(Monade)Jと
呼び,そ
れがすでに志向的に構成 された諸対象 を内包 しているとい うことを強 調 している。「われわれは,同
一的極 としての自我,お
よび習性 の基体 としての 自我か ら完全な具体 性 において とらえられ る自我 (われわれは, この自我 を,ラ
イプニ ッツの用語 にしたが って,モ
ナ ドと名づ けたい と思 う)を
区別す る。 しか し,そ
のためにわれわれは,そ
の自我 にその自我が まさ に具体的であるためには不可欠であるものをつけ力日える。すなわち,自
我 は,自
我 の志向的生の流 動的多様性 とその生の うちにおいて思念 され,そ
して,あ
る場合 にはその生 に対 して存在するもの として構成 され る諸対象 とをそな えてい る もの として,は
じめて具体 的であ りうるので あ る。」(CM.102)
世界が,そ
の存在の意味の うえか ら,つ
ねにそれ を構成す る自我 を前提 にしているとい うことは 逆 に言 えば,自
我 もまさにそのような仕方でつねに世界 を前提 にしているとい うことを意味す る。 すなわち自我 は世界 な しにはそれが在 るところの もの としては存在 しえない,つ
まり「具体的な超 越論的主観性」ではあ りえない とい うことなのである。 したがって「構成 されるもの」の「構成す るもの」への依存性 としての世界 の自我への依存性 は,そ
れ 自身の うちに「構成す るものJと
して の自我 の「構成 され るもの」 としての世界への まった く別様 の依存性 を内蔵 しているとい うことを 意味す るのである。フッサールはその ことを次 のように表現 している。「私 自身 に対 して本源的 に意 識 された存在の領域 である,私
の自我論的領域 のうちに,私
は自己を世界 を経験す るもの として見 いだす。私が,自
己省察す るとき,私
の諸体験 において世界 を経験 している自分 を見いだす ことが で きない,な
どとい うことは考 えられえない。」(10 したがって,現
象学的還元 によってさしあた り開示 されて くる,純
粋 自我,つ
まり世界が存在 し ない として も存在 しうる自我 というのは,フ
ッサール に とっては抽象的に とりだされた 自我の一般 的形式であって,自
我 はその具体性 においては世界 を経験す る自我,す
なわち世界の内に存在す る 自我 としてのみ存在 しうるとい うことなのである。 フッサールは,「究極的に機能す る絶対的に唯―の自我への還元 による,判
断中止のわれわれの最 初 の試みの原理的修正」 とい う標題 をもつ,F危
機書』の第55節において,次
のように語 つている。 「た えず存在確信 と自己確証 において,予
め与 えられている疑 いようのない世界が前 もって存在 し ている。 もし私が この世界 を基盤 として [前提」 していない として も,
この世界 は意識作用 を遂行名
︱
︱
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している自我 としての私 に とって,た
えず 自己確証 において妥当 している。…… もし実在論 とい う 言葉が,『私が この世界 に生 きている人間であるとい うことを確信 していて,こ の点 については少 し も疑 つていない』 とい う以上の ことを意味 しない とすれば,こ
れ以上 に強力な実在論 はあ りえない であろう。 しか しこの『自明性』 を理解す るとい うことが まさに大問題 なのである。」 (Kr.19of.) そして,フ
ッサール は,こ
こで この大問題 を解明す るにあたっての新 たな課題 を確認 し,そ
れ に 立ち向か うための新たな方途 の必要性 を強調 している。「(ここで要求 されていることは)自
我が そ の具体的な世界現象か ら出発 して聞いを体系的 に遡 らせ ること,そ
してそのさい,超
越論的自我 と しての自己 自身 を,そ
の具体相 において,す
なわちその構成的諸層 と,言
語 に尽 くし難 いほど入 り 組 んだ妥当の基礎づ け との体系的性格 とに関 して,学
び知 ることである。判断中止 に着手す るさい には,自
我 は必当然的に与 えられているが しか しそれは F沈黙 した具体相』 として与 えられてい る のである。 この具体相が解釈 され言表 に もた らされねばな らない。」(Kr.191)こ
こには「デカル ト 的方途」を出発基盤 にしてきたフッサール現象学がその後期思想の展開のなかで,「新 しい道」を切 り開かざるをえな くなった事情 が劇的に表明 されている。 フッサール は『危機書もの別の箇所 において,『イデーン』以来 の自らの現象学 の歩 んで きた「デ カル ト的方途」を顧 みて,次
のように述懐 してい る。「 この道 (デカル ト的方途)は
一躍す ぐに超越 論的自我 に到達す るようであるが,こ
れに先立つ証明がすべて欠 けているために,こ
の超越論的 自 我 は内容 を欠いた まま明 るみに出された。 そ こで人 はさしあたっていったい何が得 られ るとい うの か まった く分か らな くなる。」(Kr。 158)自然的態度の一般的世界信憑 に対す る徹底 した判断停止か ら出発 し,「我思 う,我
在 り」の絶対的明証性 の うちに世界存在 の存在性 の根源 を問 うとい う,デ
カ ル トに倣 った現象学の方途 においては,「人間 自我」としての私の現存在 の自明な事実性 さえ,そ
の ような もの としては立 ち入 って問われ ることのないまま,超
越論的主観性 の「絶対的基盤」の前 に 見失われて しまうとい うことであろう。 フッサール はすでにこの最晩年の『危機書」公刊 に先立つ10年ほ ど前の講義録等 をもとにして編 纂 された『第一哲学』 において,こ
の「デカル ト的方途」の方法的限界 について明確 に自覚す るに いたってお り,そ
こでは世界信憑 を先行的に排除す ることか ら出発す る,「デカル ト的方途」に対 し て,世
界 の存在・ 非存在 を不間に付 した まま,個
々の意識作用 を志向的 に分析す ることを とお して, 超越論的主観性 の絶対的経験 の領域 を開示す るとい う,新
たな「非 デカル ト的方途」の構想 を提示 している(1つ。 これによって,フ
ッサール は個々の顕現的意識作用の背後 に潜在的 に共 に作動 してい る意識作用の地平が次々 に露呈 され,さ
らにそこか らその無限に広が る地平意識 の全体 としての世 界現象 も開示 されて くるであろうと展望 しているのである。 したがって,こ
の方途 においては超越論的主観性 の経験領域 はもはや純粋 自我 の孤独 な明証的経 験の領域だけではな く,思
念的に経験 され る世界意識 をも包含す る経験領域 として開示 されて くる のである。 もとよ りそれはもはや 自然的,客
観的な世界経験 の意識領域で はあ りえない。 しか し, 世界存在のすべてを構成す るもの としての超越論的主観性 はその「必然的で具体 的な存在 の仕方」 に基づいて,自
己 自身 をまさに「世界 の中の人間」として客観化せ ざるをえないのであ り,し
たが っ て ここでは世界的実在性 としての人間的主観性 も超越論的主観性 の自己客観化の所産 として,超
越 論的主観性の経験領域 の うちに内包 されているもの としてみなされてい るのである。 その意味で,自
然的態度 において事実的 自我 として見いだ され る人間的主観性 を超越論的主観性 との関係 において間 うとい うことは,超
越論的主観性の自己解明 としてのフッサールの超越論的現 象学の主題系 に とって欠 くことので きない固有の課題 なのである。 しか し,人
間的主観性 とい う世高階勝義 :私・他者・ 世界 界的実在性 の意味が超越論 自我の「具体相」 においていかにして構成 され るのか とい う
,こ
の「大 問題」については,わ
れわれは別の機会 に詳 し く論 じた ことがあるので(19,こ こではこの問題 には これ以上立 ち入 らない こととし,む
しろ『イデー ン』への「後書 き」において示唆 されている,フ
ッ サールに とっての懸案の相互主観性論の問題系 に目を転ず ることにしたい。 フッサール は,前
述 した ように,こ
の「後書 き」 において自らの超越論的現象学 に対す る新 カ ン ト主義か らの批判 に答 えて,『イデー ン』第一巻の超越論的主観J性の自我論的考察の叙述 には不完全 な ところがあることを率直 に認 め,そ
れが完全 に明 らかになるのは,超
越論的 自我 の現象学的露呈 がはるかに先 に推 し進 め られ,そ
の結果,そ
の超越論的 自我 に含 まれている共 同諸主観 に関す る経 験が,超
越論的経験 にまで還元 されたあかつきに初 めてそうなるのであると予告 している(19。 そしてその ときには,次
の ことが示 されて くるであろうということも予描 されている。「超越論的 経験 の所与性 としての『超越論的主観性』 というものは,そ
のつ ど自己省察す る者 に とって,た
だ 単 に超越論的な私 自身 としての自我,す
なわち具体的な私固有の超越論的意識生 を遂行 している者 としての自我 を意味す るだけではな く,さ
らにまた,私
の超越論的生の うちで,超
越論的な もの と して同時 に証示 されて くる共同主観が,同
時 に証示 されて くる超越論的な我々 とい う共同体 におい て存在す るとい う,そ
の共同諸主観 をも意味す るとい うことである。 したがつて,超
越論的な諸主 観共存性 こそはその うちで実在的世界が客観的な もの として,F万
人』に とって存在す るもの として 構成 されて くるゆえんの ものなのである。」はのlml「 私の固有領域」への初次的還元
フッサール は,『イデー ン』への「後書 きJに
おいて,自
らの超越論的―現象学的観念論 の意味 は,す
なわち超越論的主観性だけが絶対的存在 とい う存在意味 を持つのであって,実
在的世界 の存 在意味 は超越論的主観性へ と本質的 に関係づ けられ る相対性 を持つだ けであるとい う,そ
のテーゼ の意味 は,超
越論的還元がはるかさきまで推 し進 め られたあかつ きにはじめて顕か になるとい うこ と,そ
して「自己投入 に関す るその超越論的理論 あるいは,共
同諸主観 に関す る超越論的理論 は」 すでに見た ように。り,「まもな く刊行 され る Fデカル ト的省察』 において示 され るJと
予告 してい る。 この予告 どお り,『デカル ト的省察』の「第五省察」には超越論的相互主観性 の構成 とこれに関連 した諮問題 に関す る詳細 な記述が内包 されている。 そこで,我
々 はフッサールの この叙述 を精査 し なが ら,ま
ず はじめに私の超越論的 自我 においていかにして他の超越論的 自我が構成 され うるか, すなわちそれが他の 自我であるとい うか ざ りで,そ
の本源的存在 においては私の自我 には絶対的に 近づ きえない ものであ りなが ら,し
か し私 に とっては現 に確かに存在す るもの として意識 されてい る,他
の自我がいか にして私の超越論的 自我 の主観性 において構成 され うるのか とい う,フ
ッサー ルの超越論的他者経験論 の問題系の展開 を追跡す ることにす る。 フッサール は,Fデ
カル ト的省察』 における相互主観性論 の展開にあたって,「他の主観 の超越論 的構成Jと
い う,こ
の困難 な研究主題 を確定す るために,あ
らゆる世界的存在 の意味基盤 としての 「超越論的主観性 の領域」への還元 をひたす らめざしてきた,『イデー ン』以来の形相的―現象学的 還元 とは別種 の,「私 の固有領域Jへの主題的還元 をめざす新たな種類 の還元 を提唱 している。 これ が新たな種類 の還元であるといわれるのは,ひ
とつは,そ
れがすでに「超越論的態度 を とってい る 者」としての私 によって,さ
らに遂行 される還元であるとい うこと(CM.126),す
なわち現象学的 と 五 ]鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第49巻 第
1号
(1998) 還元の地盤 において,そ
してそれ によって開示 された「超越論的な普遍的領域 の内部」で遂行 され る還元であるとい う点 においてであ り(CM.124),も
うひ とつは,そ
れが,そ
の作用の意味のうえ か らはまさに現象学的還元 といわれ るような もので はな く,あ
る種 の抽象であるということ,す
な わち超越論的 に還元 された世界の現象全体 の内部での「私の固有 の領域」 を取 り出すための抽象で あるという点 においてである (CM.125)。 「私の固有の領域」を抽象的に確定するための,こ
の「初次的還元 (primordinale Reduktion)J の主題的エポケーによってまず初めに「他の主観性 に直接的にあるいは間接的に関係する志向性の すべての構成能作」が捨象される(CM.124)。 しかし,こ
こで要請されているのは他の主観性への 志向性そのもの捨象ではな く「私の志向的対象 としての他者の現実性」の捨象である9り。 したがっ て,こ
の「初次的還元Jに よって,「人間 と動物 にいわゆる自我 を持った生 き物 という特殊な意味 を 与えるもの」が捨象され,さ
らには「それ らの意味を自我主観 としての他我に負い,し
たがって他 我 を予想する現象世界のあらゆる規定」が捨象される(CM.126)。 こうして要するにすべての文化 的述語が,た
とえば「すべての人 に とっての環境性」 といつた ような述語 も排 除 され る(CM.
127)。 そして最後 に,「あらゆる他なるもの(Fremdes)の
捨象の残物」としての,す
なわち「他な るものでないもの」 としての「私の固有な自然 (eigeltheitliche Natur)」 だけが残存す る(CM.
127)。 このようにして,初
次的還元の主題的エポケーによつて拍象的 に取 り出されて きた,「私 の固有 の 領域」が どの ような ものであ り,そ
してそれがわれわれの当面 の課題である「他 の主観性 の超越論 的構成」 に とって どのような意味 を有す るものであるか ということについては,後
ほど詳 しく考察 す ることとして,こ
こではさしあた りこの「初次的還元」の方法的機能の本質がなんであるかが明 らかにされなければな らない。 トイエ ッセ ンは,こ
の還元 は,デ
カル ト的―現象学的還元の繰 り返 しであ り,そ
の機能の本質 は それによって相互主雛14論に とっての出発基盤 として機能す る領域 を確保す るとい うところにある と強調 している。0。 そして,現
象学的還元が,そ
れが超越論的相互主観性 を捨象 した独我論的主観 性の領域 を開示す るという限 りで,そ
れ もすでにひそかに「現象 としての他者」 を捨象 しているの であって,そ
の意味で も「初次的還元」 とい うのは従来の現象学的還元の徹底 した繰 り返 しである とい うのである。 そして,さ
らにこの「初次的還元」 をデカル ト的―現象学的還元のより徹底 した 繰 り返 しと見 ることによって,こ
の還元 によって「他 なるものでない もの(Nichtfremdes)」 として 抽象的に,ネ
ガティヴに取 り出されてきた,「私の固有 な自然J,「単 なる自然(bloBe Natur)」 とし ての「初次的世界 (primordinale Welt)」 とい うの も,現
象学的還元 によって 自我論的 に構成 され た もの として開示 されて くる世界 と同一 の ものであるとい うことも示唆 されてい る とい うので あ る(24)。 た しかに,『デカル ト的省察』において も,当
初「他 なるものでない もの」としてネガテ ィブに規 定 されていた,「私 に とっての固有 な もの」の世界が,後
になって次のようにポジテイヴに規定 され てい る。「 自我 としての私 に とって,固
有で本質的な領域 には,単
に顕在的な体験 および潜在的な体 験 の流れが含 まれ るばか りでな く,構
成作用の体系 と同様 に,構
成 された統一体 も含 まれるとい う ことは明 らかであ り,し
か もこの ことはとくに重要である。J(CM.134)す
なわち,「私の固有領域」 とい うのは,構
成的に見れば,自
我 の顕在的・ 潜在的な意識作用の体系であ り,構
成 された ものの 側面か ら見れば,そ
れは志向的内在 として私 に帰属す る世界であ り,私
の意識作用 によって構成 さ れた対象の全体 としての内在的世界であるといわれているのである。高階勝義 :私 '他 者・世界 その意味で
,フ
ツサール は「初次的退元」 によつて得 られた「私の固有領域」の世界を「内在的 超越 (lmmanente Transzendenz)」 とよぶのである (CM。 134)。 そして,
この内在的超越 として の世界 は,私
に とつて他なる世界,す
なわち具体的な私 自身の自我 に とつて外的な世界 を構成す る とい う順序か らいえば,そ
れは本来最初 の初次的超越 (あるいは世界)で
あ り,こ
の世界 は理念的 な ものではあるとして も,「私の可能性の無限の体系の総合的統一体 として,自我 としての私 自身の 具体的存在 を規定す る一要素である」(CM.136)と
い うのである。 したがつて,こ
の ような構成す るもの と構成 され るものの統一体 としての「私の固有性」とい う のは,
トイニ ッセ ンが言 うように,ま
さに私 の具体的な超越論的主観ザ陛その ものである ということ すなわち,そ
れは私が私 自身の具体相 においてあるところの もの,つ
まり私のモナ ドにおいて々る ところの ものの領域である ということなのである¢働。 ところで,私
の固有領域 に還元 された「私の固有の自然」の中心にあつて,そ
の唯一的な特殊 性 において際立 って現れ出る主観 はもはや根源的 自我で はな く,私
の身体 において支配 している自我 すなわち身体的 自我 である (CM.128)。「私 の固有 の自然」の中にあつては,私
の身体 は私 に とつ ては周囲の他の事物 と同様 の単 なる物体 として経験 されているのではな く,私
の感覚領域 として, すなわち私が直接的 に自由に支配 しうる器官 として経験 されている唯―の対象なのである。 この私 の固有の世界 においては,私
の自我 は私の身体 を介 して外界 に働 きか け,あ
るいは働 きを受 ける精 神物理的統一体 として,す
なわち身体 と心 をそなえた人格的自我 として構成 されているのであ り, そして まさにその ような自我 として,こ
の世界 にあつては独特 な構成員 として位置づ け られている のである。 私の固有領域 に還元 された精神物理的統一体 としてのこの人格的 自我 には,当
然の ことなが ら, 自然的意味での私のすべての世界所属性 は排除 されている。 しか しそれにもかかわ らず,私
は私の 固有領域 の中で は私 の多様 な純粋体験 の同一 の極 として存在 している。すなわち私の受動的お よび 能動的志向性 と,そ
の志向性 によつてつ くられた習性 との同一の極 として存在 しているのである。 初次的還元 によつて,客
観的世界の実在性 の全体 は,し
たがつて他者の実在性 も排除 された にも かかわ らず,私
の この精神物理的 自我 の心の生の全体,お
よびその中に含 まれている世界 を経験す る生 は,F除 されず,し
たがつて他者 に関す る私の現実的お よび可能的経験 もりF除されていない。 し たが って,私
に対 して存在す る世界の構成全体が,私
の心の存在 に含 まれてお り,さ
らにはその構 成全体 を,私
に固有 の ものを構成す る構成要素 と,他
我 に属す るものを構成す る構成体系 とに分か つ ことも,私
の心の存在 に含 まれてい るとい うことなのである。 したがって還元 された精神物理的 自我 としての私 は,世界 の構成員 として,しか も多様 な私 に とつ ての外部 をもつ もの として構成 されているのである。 しか し私の心の うちにおける私 自身はそれ ら すべてを構成す るものであ り,そ
れ らのすべてを志向的 に自己のうちに担 っているのである。 した がって,私
の固有領域 に還元 された世界 も,構
成す る主観か ら不可分な内的規定 として,そ
の主観 の具体的本質 に帰属す るもの として明 らかにされ るべ きものなのである (CM.129f.)。 超越論的領域 に還元 された私 の純粋 な意識生 において経験 され る現象としての世界 は,そ
の経験 的意味 に即 して考 えるな らば,私
の個人的な総合 による形成体ではな く,相
互主観的世界である。 すなわち,す
べての人 に対 して現存 していて,そ
の中にある対象 をとお して,す
べての人がそれに 近づ きうる世界である。 したがつて,た
しかに各人 は,世
界 についての各人 の経験,各
人の世界現 象 をもっているが,し
か し他方 においては,そ
こで経験 され る世界 は,経
験す るあ らゆる主観,お
よびそれ らの主観 に現れ るすべての世界現象 に対立 して,そ
れ自体 において存在 しているとい うこ鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 49巻 第
1号 (1998) 31
となのである (CM.123)。lll
他 者 の類 比 化 的 統 覚 ところで,「私の固有領域」において経験 され る,世
界の このようなすべての人 に対 して現存す る とい う客観的存在 の意味 はいかにして構成 されるのか。お よそ存在す るものが私 に対 して もち うる 一切の意味 は私の志向的生の構成的総合 に負っているとす る,フ
ッサールの構成的現象学 の観点 に 即 して考 えるな らば,「すべての人 に対 して現存す る」とい う,客
観的世界 の この相互主観的存在 の 意味 もそれを構成す る私の意識生の顕在的お よび潜在的な志向性 の体系の解明 を とお してはじめて 明 らかになるとい うことになる。そして,『デカル ト的省察』とこお けるその相互主観性論 の第一歩 と して提示 されてい るのが「他者経験論」の問題系なのである。 とい うの も,他
我 は,私
に とっての 最初 の他 なるもの (das erste Fremde)(最 初 の非― 自我)で
あ り,そ
れが他の ものの新 しい無限の 領域,す
なわちすべての他我 と私 自身 を含 む客観的 自然 と客観的世界一般の構成 を可能 にするもの だか らである (CM.137)。 しか し,わ
れわれは,こ
のような客観的世界 の構成の制約 として,い
まだ他 の人間 とい う世界的 存在 の意味 をもつ ものでない他我 についての経験 を超越論的に解明す るとい う他者経験論 の第一歩 において,容
易な らない困難な問題 に直面す ることになる。 われわれはその ような他我 をそもそ もどのようにして,い
かなるもの として経験す るのであろう か。私 は私の絶対的 自我か ら出発 して,い
かにして他我 に到達で きるか。すなわち他我であるとい う限 りで,け
っして私の うちにあるものではな く,そ
のような もの としてただ意識 されているにす ぎない,他
我の意味がいかにして,い
かなる志向性 によって,い
かなる総合 において,そ
して どの ような動機づ けにもとづいて,私
の うちで形成 され るのか。 フッサール によれば,経
験 とい うのは本源的意識である。すなわち,あ
る対象が本源的 に与 えら れているとい う意識である。われわれがある人間 についての経験 について語 る場合 にも,た
しか に それによって他我が それ 自身 として生身のままに現 に眼前 に存在 している事態が指示 されてい る。 ところが,一
方で は,そ
こでは他我 それ 自身 も,他
我 の体験 も,他
我の現出その もの も,す
なわち 他我 の固有 の本質 に属す るなにもの も根源的 には与 えられていない とい う事態 も指示 されている と い うことである。 とい うのは,も
しも他我 の固有な本質が直接的 に私 に与 えられ うるとす るな らば 他我の固有の本質 は,私
自身の本質の単なる一要素 にす ぎない ということになるであろうし,結
局 は,他
我 自身 と私 自身が同 じものであるとい うことになるであろうか らである (CM.139)。 この事情 は他者の身体 について も同様 である。他者の経験 において,他
者 の身体 だけは直接的に 経験 され るように思われる。 しか し,他
者の身体が私 にそれ自身 として直接的 に とらえられ うると す るな らば,他
者 の身体 は結局 は,私
の感性 だけによる形成体 として,私
の初次的領域 に属す る物 体 にほかな らない ことになる。 したがって,他
者 の身体 を経験す るためには,あ
る種の間接的志向性が存在 しなければならない とい うことになるが,フ
ッサール は,他
者 の身体経験 においては,独
特の「共 に現前 させ る作用」 としての,あ
る種 の「間接的呈示 (Apprasentation)」 が働 いていることに注 目し,そ
の特性 を事物 知覚の場合 に対比 させて,次
のように解釈 している。 或 る事物 の知覚的経験 においては,直
接的 に現前 しているのはその事物 の見 られている前面だ け であって,そ
の背面 はただ間接的に呈示 されているにす ぎないの と同様 に,他
者経験 においては,高階勝義 :私・ 他者 。世界 直接的 に現前 しているのは他者の身体だ けであつて
,そ
の内面 はただ単 に間接的に呈示 され うるだ けであるように思われ る。 しか し,事
物知覚 において間接的に呈示 されている事物 の背面が経験 の 進行 の過程で直接的に本源的 に呈示 され うるもの として表象 されているのに対 して,他
者経験 にお いては,他
者の内面性 は「共 に現 に在 るもの」 としてつねに間接的に呈示 されているけれ ども,そ
れが「それ 自身 として現 にあるもの」として直接的 に本源的に呈示 され るとい うことは原理的にけっ してあ りえないのである。 フッサール はまさにそこに他者経験 における間接呈示 の事物経験 にお け る間接呈示 との根本的差異 を見 るのである (CM.139)。 それでは,他
者の初次的領域 の間接的呈示 は,す
なわち,「その本質の うえか らけっしてそれ 自身 が現 に存在す るとい うことがあ りえず,つ
ねに単 に共現在的にのみ存在 しうる,共
に現 に存在す る 者」99と しての,他
者の意味 は私の初次的領域 においていかなる動機づ けに もとづいて生 じうるの であろうか。 フッサールが,
この困難 な問題 に立 ち向か うための最初 の手引 きとして引 き合いに出 しているのが,「他者 (alter)」 ,「他 の自我 (anderes lch)Jい う言葉の意味である。 フッサール によれば
,他
者 (alter)と は他の自我 (alter ego)と い う意味である。 そしてその他 の自我 とい う言葉 に含 まれている自我 とは
,私
の初次的な固有領域の内部 において構成 された私 自身であ りしか も 精神物理的統一体 (初次的人間)と
して,す
なわち私の唯―の身体 を直接的 に支配 し,さ
らに初次 的環境世界 にも働 きか ける人格的 自我 として独特 な しかたで構成 された,具
体的な志向的生の主観 としての私 自身である(CM.140)。 したがつて 日常的他者経験 においては,他
者の身体 だ けは直接 的 に現前 しているように思われているけれ ど,私
の初次的な固有領域 の内部 において構成 され る事 物 としての他者 は,し
たが ってその身体 も,け
っして まだそれ 自身 として直接的 に,現
前的に現 出 しているものではないのであ り,そ
れはむしろ具体的な主観性 としての私 自身の規定要素 として見 いだされ るとい うことなのである。 私の初次的領域 における他者経験 において,直
接的に現前的 に現出す るのは他者の身体 の「物体 (Kёrper)」だけである。しか もそれはさしあつたってはいまだ他者の物体 とい う意味 を有す るもの としてではな く,た
だ単 なるひ とつの物体 として,す
なわち他の物体的事物 の うちのひ とつの事物 としてのみ直接的 に,現
前的 に現出す るとい うことなのである(CM.140)。 そして,そ
の物体 に他 者 の身体 とい う意味 を付与す るものは私 自身の身体以外 にはあ りえない。 とい うのは,わ
た しの初 次的世界 においては,私
の身体だけが身体 として根源的に構成 され,か
つ構成 され うる唯―の物体 だか らである。 したが つて「ある物体が身体 として統握 され るためには,そ
れ はその意味 を私の身 体 の統覚的「移 し入れ ωbertragung)」 か らうるのでなければな らない」(CM.40)と
い うのであ る。 それでは,私
の初次的領域 におけるある物体 と私の身体 との結びつ けを動機づ けるものは何か と いえば,そ
れは両者の「類似サl■ (Ahnlichkeit)Jで あるとい う。「両者 の類似性 のみが,そ
こにある その物体 を類比 的に他 の身体 として統握す ることに対 す る動機づ けの基礎 を提供 す る ことがで き る。」(CM.140)こ
の類似性 にもとづいて,私
は私の身体か ら「身体Jと い う意味 を他 の物体 に移 し入れ る。 その ことによって,は
じめて他の物体 は他者 の身体 の物体 とい う意味 を獲得 し,単
なる 物体的事物 の うちのひ とつ とい う水準 を超 出す るとい うのである。つ。 したがって,フ
ッサールは,あ
る物体 を他者 の身体 として把握す るこのような統握 は,あ
る種 の 類比化的統覚 (verahnlichende Apperzeption)で はあろうが,そ
れはけっして類士ヒ推理 (Analogie ―schlu8)と い うような ものなので はない とい うこと,す
なわち この類比化的統覚が一般的に,い
か なる媒介的思惟作用 によることな しに,一
挙 に遂行 され る独特の創造的作用なのである ということⅢ 上
鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 49巻 第
1号
(1998) を,日常的経験 における事物統覚 を手引 きにして説明 している。「われわれは,事
物統覚 において は 眼前 に与 えられている対象や 日常的世界 を―瞥 しただけで統握 し確証的 に把捉 し,そ
してそれ らの 意味 とその意味の地平 を,直
ちに理解す るわけであるが,そ
のようなそれぞれの統覚 は,類
似の意 味 をもつ対象がそ どにおいて初 めて構成 された,『根源的創造(Urstiftung)』 を志向的に遡及的に指 示 している。」(CM.141)こ
のように,日
常的経験 においてはわれわれ は,根
源的に創造 された対 象的意味 を,類
比 によって新 しい対象 に移 し入れ ることによつて,あ
る対象 を,類
似の意味 をもつ もの として推測的に把握 しているとい うことなのである。したがつて,た
とえば,「すでにものを見 ることので きる幼児が,鋏
をはじめて見て,そ
れの目的や意味 を理解 したのちは,鋏
を一瞥 しただ けで,直
ちにその ような目的や意味 をもった もの として見 るのであるが,し
か し,そ
れは表明的再 生や,ヒ較や推理 によってなされるのではない」(CM.141)と
い うのである。 しか し,そ
のような統覚が生ず る仕方や,さ
らにすすんで統覚がみずか らの うちで,み
ずか らの 意味 と意味の地平 をつ うじて,み
ずか らの発生の根源 を志向的 に遡及 し,指
示す る仕方 は,そ
れぞ れの統覚 によって きわめてさまざまである。すなわち,そ
の発生か らみて純粋 に私の初次的領域 に おける可能的経験 に組み入れ られ うる,事
物知覚の場合の類比化的統覚 に対 して,私
の固有の初次 的領域 の経験 を超 え出 る根源 を志向的に遡示す る,他
我 (alter ego)の意味 をもって現れ る,他
者 の身体 の類比化的統覚 においては,ま
った く別 の間接的経験が はた らいているとい うことが想定 さ れなければな らない (CM.141)。∩
他者経験における対化的連合
トイニ ッセ ンは,事
物知覚 における類比化的統覚 と他者の身体経験 における類比化的統覚の本質 的相違 はそれぞれの経験の間接性 の根本的相違 にあると指摘 している。すなわち,前
者 において は 「根源的に創造す る原本 (das urstiftende Original)」 がすでに過 ぎ去 ってしまってい るのに対 して
,後
者 においてはそれが現前 しているとい うことによつて,両
者 は根本的に区別 され るとい う。 「フッサールによって事例 として とりあげられている,鋏
は,す
なわちその目的や意味がかつて は じめて私 に理解 されたそれは,私
がその意味 を知覚的 に私 に現れ る鋏 に移 し入れ る瞬間には,
もは やそれ 自身 は知覚 されていない。私 はそれを「かつてすでに見た ことがある」のであつて,い
まは それを見ていないのである。 これに対 して,私
の身体 は,す
なわちそれにもとづいて私が他者の物 体 を身体 として統握 す る,私
の身体 はその統握 の遂行 において は,そ
れ 自身 として現前 して い る。」(28) フッサール 自身 も,た
しか に他者 の身体 の類比化的統覚の特性が,一
方では,そ
の間接的呈示が 原理的に根源的には呈示 され えない とい うこと,す
なわち,そ
の類比 にようて間接的に呈示 され る ものは,現
実 にはけっして根源的には呈示 され えない ということ,し
たがって,そ
れは本来の意味 においては知覚 され うるものではない と同時 に,他
方では,そ
こには「根源的に創造す る原本」 と しての私の身体がつねに生 き生 きと現前 しているとい う点 にあると強調 し,そ
して,他
者の身体 の この類比化的統覚 とい うのは,そ
こにはまさに「根源的に創造す る原本」が生 き生 きと現前 してい るというその特性 に もとづ く「対化 (Paarung)」 の特殊 な事例 である と解釈 してい る(CM.141
f.)。 フッサール は,対
化 は連合の受動的総合のひ とつの根本形式であ り,そ
の対化 する連合 には,次
のような特徴があるとい う。「最 も単純 な場合,二
つの与件が意識 の統一のなかで他 の ものか ら際高階勝義 :私・他者・ 世界 立 って直観的に与 えられているとす ると