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侮蔑されたドクサの解放 : フッサールの生活世界の現象学

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(1)

高 階 勝 義 (昭和58年5月20日受理) (― ) 直観的経験の世界 としての「生活世界 (Lebenswelt)」 がフッサールの現象学の体 系において, その構成的分析の単 なる特殊 な部分問題 としてではな く

,哲

学的基礎学 としての超越論的現象学 そ

のものの普遍問題として主題的に登場してくるのは

,最

晩年の『危機

)(1936)に

おいてのことであ

る。 「生活世界」という表現その ものは

,す

でに1920年代の著作や草稿 に も散見 されはす るが?しか し この時期のフ ッサールの主要な関心 は諸科学 を根源的経験 の世界 としての生活世界 につれ もどす こ とによって

,科

学の「客観的真理」がいかにしてそ こか ら形成 されて くるかを見 とどけようとす る ことにあったのであ り

,あ

るいはそ うすることによって曖昧な日常的経験の主観的相対性 に対す る 科学的真理の客観的一普遍的必然性 をいかに特徴づけるか ということにあったのであって甲した がつ てそ こではまだ主観的―相対的 な直観 的経験 の世 界 としての生活世界 その ものの固有の存在意 味や 真理意味が主題的に問われていたわ けではないのである。 それ どころか この時期 のフッサール にと っては

,生

活世界 というのは もともと「エ ピステーメー (epiSteme)」 の世界 としての客観的な「真 の」世界に対する,「単 なる主観的封目対的な ドクサ (dOXa)」 の世界 として

,ギ

リシア以来の 伝統 的な侮蔑的評価の もとに うけ とられてお り

,

したがってそ こで はそれ はせ いぜい客観的な「真 の」 世界 にいたる「 とるにた らない通過点」 として

,あ

るいはそれ を際立 てる背景 として消極的に考慮 されているにすぎないのであ る。 ところが この ように20年代 においては

,

もっぱら科学論的問題系における

,い

わば付随的な部分 問題 として扱われて きた この生活世界が

,フ

ッサール晩年の思想的境位 においては

,エ

ピステーメ ーによって克服 され るべ きドクサにすぎないという

,そ

の伝統的に蔑 しめられた解釈か ら解放 され て

,む

しろ ドクサ としての この生活世界 こそが まさにその 「主観的―相対的」 直観性 のゆえに

,あ

らゆる「客観的―論理的」真理 を基底づ ける「根源的明証性の王国

J(VI.130)な

のであるという 積極的評価 をうけて

,主

題的に展開 されて くることになるのである。「生活世界 は

,す

なわち存在妥 当の決 して とどまる ことのない流れ とその変転 と修正のただ中にあ る

,

この 『単 に主観的―相対 的

(2)

2 「三 な』生活世界 は

,客

観的諸科学 が『究極的に妥当する』『永遠の』真理 とい うその形成体 を

,す

なわ ち『つねにすべての人 にとって絶対的 に妥当する判断』 というその形成体 をその上に構築する基盤 である。」

(VI.465)

この驚 くべき価値転換の動機 は何 なのか。そもそも晩年の『危機』におけるフッサールを根源的 な直観的経験の世界 としての生活世界への問いへ と駆 りたてたもの0が近代の客観的諸科学の「生の 疎外」に対 する危機意識 にあった ということ

,す

なわ ち現代の生一般 を支配 的に規定 している科学 的客観主義が人間的生か ら離反 し

,

もはや自己の意味 を弁明 しえないほどの破局 的状況 に陥ち入 っ ているという認識 とその科学的客観主義 によって徹底的にまどわされてきた

,近

代 ヨーロッパ精神 の危機 をいかにして救済するか とい う

,深

刻な実践的課題 と深 く結 びついている とい うことについ ては,わ れわれすでに別稿で詳 しく論 じた ことであるが

Pフ

ッサール晩年 における ドクサの領域 と してのこの生活世界 の積極的評価 の意味 もさしあたっては

,こ

の科学的客観主義 に対する批判 との 連関 において問われなけれ ばな らない。 しかし科学的客観主義 を克服 し

,

まった く新たな普遍学 としての「生活世界 の学」を創建 しよう とする,『危機』におけるフッサールに とっての主要 な問題関心 はもはやただ単に科学の客観的真理 の意味 をいかにして生活世界 の うちに基底づけるか というような

,科

学論 的問題 系に限定 されてい た のではな く

,あ

らゆる人間的営為 にとっての 自明的先所与性 (Vorgegeberheit)と しての根源的 な直観的生活世界 その ものを

,ま

さに「単 に主観的 一相対的な」直観的所与性 というその固有のア プ リオ リな普遍的本質構造 において主題 的に問い

,そ

のことによって哲学史上類例 をみない新 しい 仕方で世界 の存在意味 と真理意味一般 を根源的に解 き明す ことにあったのである

P

ところでわれわれが直観的にその中に生 きている世界 としてのこの「生活世界 というのはそれ自 体 として は最 もよ く知 られた ものであ り

,す

べての人間生活 においてつね にすでに自明的なもの と して与 えられているものである」

(VI.126)け

れ ども

,そ

れが さしあたってはわれわれの諸体験 の なかで まさに「単 に主観的な一見 とられがたい『ヘ ラクレイ トス的流れ』

J(VI.159)と

して開示 されて くるために

,近

代 の客観性 の理念 に追従す る研究者たちによっては

,学

的真理 にはかかわ り えない単 なる ドクサの領域 にす ぎないもの として徹底的に侮蔑的に取 り扱われてきたのであるが, フッサール はここで,「学問以前の生活 自体 においては,この直観的世界 としての生活世界 はそのよ うな意味 を少 しももっていないのであ り

,そ

こではそれはた しかな確証の領域 であって

,そ

の意味 を規定 する生活上の実践的企図の要求する程度にはた しかな真理の領域なのである

J(VI。

127f) とい うこと

,そ

れ どころかまさに「『単 に主観的 ―相対的な』直観の前論理的な妥当 としての生活世 界の真理 こそがあ らゆる『客観的 ―論理的』真理の確証の源泉なのである」

(VI.127)と

い うこと を明 らかにしようとするのである。 日常的経験 においてわれわれ にすでにな じまれている直観的経験の世界 としての生活世界がそ も そも何故 に伝統的な哲学 の歴史 のなかで見捨て られ

,侮

蔑 されることになったのか とい うことが,

(3)

ここではさしあた り立 ち入 って問われなけれ ばな らないが

,

この問いは「客観的 ―論理的な」真理 としてのエ ピステーメーが何故に伝統的 に「真 の」「絶対的なJ「永遠の」真理 として妥当 して きた か とい う問いによって明 らかにされなければな らない。 というの も「単に主観的 ―相対的な」「単 に 類型的な」「単 に曖味なJド クサ というような

,直

観的経験 の世界 としての生活世界 に対 して伝統的 に与 えられてきた侮蔑の念 というの は

,ま

さに普遍必然的妥当性 としての「客観的 ―論理的」真理 を求 めるエ ピステーメーの客観的課題設定 によって規定 されているか らである。 生活世界 をまさにその「主観的 ―相対的な」直観的所与性 という

,そ

の固有の存在構造 において 主題的に問 う『危機』 におけるフッサールの「生活世界の学」 は

,

したがって もはや「客観的 ―論 理的」学問ではあ りえない。 というの は生活世界 その ものがその普遍性 において要請する固有の学 問性 というのは

,む

しろ「客観的 ―論理的」学問性 を究極的に基底づけるもの として

,客

観主義的 科学論の問題系をその部分問題 として包括 するような普遍学 としてのそれであ り

,

したが ってそ こ では価値の上からは客観的学問性 よりも低い ものではな く

,む

しろより高 い学問性 が要請 され るか らである。(VI。 127) われわれの以下の考察の目的は

,さ

しあた り後期 フッサールにおける「生活世界 (ド クサ)」 の価 値転換の軌跡 をた どりなが ら

,晩

年のフッサールを根源的な直観的経験 の世界 としての生活世界へ の問いへ と駆 りたてた ものが何であるかを問い

,次

にガ リレイによってはじめられた とされ る

,近

代 の「客観性

Jの

理念 の形成過程 の模様 をフッサールの詳細 な分析 をもとにして概観 し

,そ

れを通 して何故に「単 に主観的 ―相対的なJ「曖昧な」直観的経験 の世界 としての生活世界が学的真理 には かかわ りえない ドクサの領域 として侮蔑 され,見捨て られることになったか ということを見 とどけ, そしてそこか らさらに生活世界 の根源的明証性 をまさに「単 に主観的 ―相対的な」直観的所与性 と い うその普遍的な本質構造 において主題的に問うことによって

,そ

れをその伝統的な侮蔑性 か ら解 放す る という

,フ

ッサールの「生活世界 の現象学」の学問的理念が どのようなものであるか を明 ら かにする ことにある。 (二) フッサールが「単に主観的 ―相対的な」 ドクサの領域 として伝統的に蔑すまれてきた

,日

常的経 験の生活世界 に主題的関心 を向け

,ま

さに「ヘ ラクレイ トス的流れ

Jと

してのこの世界 の普遍的構 造 を学的に問 うという

,ま

った く新たな普遍学 としての「生活世界の学」を構想 して くるのは

,す

でにふれたよ うに

,最

晩年の『危機』 においての ことであるが

,根

源的な直観的経験 の世界 として の生活世界への遡行的問い と「生活世界 の直観的明証性 こそがエ ピステーメー としての客観主義的 科学の意味基底であるJという,『危機』において明確 に表明 されて くる劇的な価値転換 はすでに「 ヨ ーロッパ的人間性の危機 と哲学」 と題する

,い

わゆる『ウィー ン講演む(1935)のうちにその先駆 を

(4)

4 「考 みることがで きる。 この講演 は

,当

時 ヒトラー政権 の もとで

,

ドイツ国内での著作の発表や講演等のいっさいを禁止 されていた

,ユ

ダヤ系出身の フ ッサールが

,そ

の困難 な状況の中でようや く発表の機会 をえてな さ れたものであるが

,こ

れは翌1936年に公刊 され ることになる,『危機』の成立 の要因 ともなった貴重 な文献であ り

,わ

れわれが さしあた リフッサール晩年の生活世界の遡行的問いを動機づけている も のが何であるかをた しかめ

,

また まった く新たな普遍学 としての「生活世界の学

Jに

よって

,彼

が どのような学問′陛を構想 しているか ということをあ らか じめおお まかな ところで知 るうえで も, こ の うえない手引 きとなるので

,こ

こでは しば らくその議論 を追 うことにする。 この講演 におけるフッサールの意図は

,現

代 のヨーロッパ的精神が危機的状況 に陥ち入 っている ということを訴 え

,そ

の危機の起源が どこにあるかを問お うとすることにあるのであるが

,彼

はそ の際 さしあた り「 ヨーロッパ的精4申」の根源形態がそもそ も何であ り

,そ

してそれ はいかに してそ のような もの として形成 されてきたか ということを

,ヨ

ーロ ッパの歴史の うちに内在 している「哲 学的イデー」を問 うという仕方で解明することか らは じめている。

(VI.319f)と

い うの もフッサ ールにとっては,「ヨーロッパ (Europa)」 はた とえばイ ン ドや中国 といったような

,民

族的 ―国家 的伝統によって規定 された共同体ではな く

,古

代 ギ リシャにその起源 を有する

,エ

ピステーメー と しての「哲学のイデー」 によって純粋 に内的 に結合 した

,超

民族的 一超国家的共同体であるか らで ある。(VI。 332f)(9 したが ってこのテーゼの主題的解明 に向けられている

,こ

の講演の第一部においては

,フ

ッサー ルは伝統 に拘束 された前学問的生活の 日常経験的認識 としての ドクサの相対的真理性 に対す る

,

も はや伝統 にまどわ されない

,す

べての人 にとって普遍的に妥当するエ ピステーメーの絶対的 ―客観 的真理性 を強調 してお り

,そ

してギ リシャ以来の この伝統的なエピステーメーの精神 こそが「 ヨー ロッパ的精神」を形成する、根源形態なのであると主張 しているのであって(VI。

321),そ

の限 り でここでは彼 は依然 として「客観的 ―普遍的」真理 としてエピステーメー対「単に主観的 ―相対的J 真理 としての ドクサ とい う

,伝

統的図式解釈に固執 しているように思われ る。 ところが この講演の第二部にいたって

,俄

然論調が変わ り

,伝

統的に見捨 てられて きた ドクサ と しての生活世界 の真理の根源性が強調 され,む しろこの直観的経験 の真理 としての ドクサ こそが「客 観的な」「永遠の」真理 としてのエ ピステーメーを基底づ けている

,根

源的明証性であるとい うこと が語 りだされて くるのであるよ°

(VI.342f)こ

の注 目すべ き価値転換 は

,こ

こで も,『危機』にお いて と同様

,

さしあた り近代 の科学的客観主義 に対する批判的考察 をとお して表明 されて くる

cフ

ッサールは,「数学的 自然科学 は成果 としては人間的精神の勝利である

J(VI。

343)と 認 めなが ら も

,あ

らゆる存在の根本的普遍学 としての哲学のイデーの実現 をめざ し

,そ

れによって導 びかれて きた「精神的 ヨーロッパ」に とっては,「客観主義的科学 はまだ素朴であ り」

(VI.342),単

に二次 的な部分問題 にかかわ っているにすぎないという。すなわち客観主義的科学 は,「単に主観的な もの」 月券 階

(5)

を徹底的に捨象する ことによって

,客

観的 ―論理的に確定 しうるものだけを「真の」存在 として探 究 しようとす るのであるが

,そ

の さいそこで自明的前提 にされてい る「真の」「永遠の」客観的世界 というの は

,決

してそれ 自体 として絶対的に存在 しているものなどではな く

,そ

れは まさにそのよ うに自然研究 している

,当

の研究者 自身の精神の理念化の所産 なのであるとい うことにそれは気づ いていない し

(VI.345);し

たが ってそ こではその意味形成の主観的能作 とその能作 の論理的活動 の基盤 としての「単 に主観的な」直観的環境世界がつねにあ らか じめ前提 にされているとい う

,自

明的事実 もまった く忘失 されている というのである。

(VI.343)

もっぱら客観的 ―論理的 に確定 しうる事実 だけにかかわ り,「主観的な もの」「精神的な もの」の いっさいを捨象 して顧 りみないぅ客観主義的科学の学問的素朴性 を克服す るために

,あ

らゆる人間 的営為 に とって

,

したが って客観主義的科学の論理的 ―理論的活動 に とって もつねに意味基底 とし て機能 している

,直

観的経験の世界 としての生活世界 に立 ち還 り

,そ

して まさに ドクサの領域 とし て,伝統的に知 りうるものの領域か ら徹底的 に排除 されて きた,「単 に主観的 ―相対的なヘ ラクレイ トス的流れJの宇宙 としての この生活世界 を学問的主題 として確立す るとい う,『危機』におけるい わゆる「生活世界 一問題系」 はまさに この『ウィー ン講演』において この ようにた どた どしく表明 されて きた問題系の明確 な主題化 にほかな らない。 こうしてフッサールは

,直

観的経験の世界 としての生活世界への帰還によって

,ま

さに伝統的に 蔑すまれてきた ドクサに対 して

,そ

れ こそがエ ピステーメーの意味基底であるという

,尊

厳 を一挙 に与 えようとするのであるが

,し

か し彼はそうすることによって,「普遍的に妥当する」「客観的 ― 論理的

J真

理 を探究す る理性的認識 としての

,す

なわちエ ピステーメー としての客観主義 的合理主 義 その ものの存在意味 を否認 しようとす るので もなけれ ば

,あ

るいは経験主義的感覚主義や懐疑主 義 の復権 に手 をかそうとす るもので もない ということは

,こ

こであ らか じめ明確 に確認 されなけれ ばならない。 フッサールに とっては,「哲学 は合理主義 (Rationalismus)以外の何 もので もない」 (VI。 273)の であ り

,そ

して「現象学 は真 に して真正 なる合理主義 である」とい うのは,『厳密学 としての哲学』か ら『危機』 にいたるまでの

,フ

ッサールの一貫 して変わ らない根本思想なのであ る『ゆ しか し諸体験の「ヘ ラクレイ トス的流れ」 としての ドクサの世界 を学問的に解明 しようとする, 『危機』における「生活世界の現象学」の合理主義が「普遍的 に妥当する

,客

観的 ―論理的」真理 だけにかかわ る

,伝

統的エ ピステーメーの合理主義 とはもはや同一の ものではあ りえない というこ とも明 らかである。「啓蒙主義 の時代 の合理主義 はもはや問題 にな らない。われわれは啓蒙主義の偉 大 な哲学者たちや一般 に過去の偉大な哲学者たちにももはやついて行 くことはできない。

J(VI.200)

フッサールが『危機』 において標榜する合理主義 というのは

,ま

さに変転 してや まない「ヘラクレ イ トス的流れJと しての ドクサその ものの うちに理性的性格 (Vernun■igke■ )を

,す

なわち真理 を 立証 しようとするものなのであ り

,し

たがって「真 にして真正な」合理主義 としてのそれは

,伝

(6)

6 局 的 エ ピス テー メーの よ うに

,

ドクサ を真理 にはかか りのない もの として排除 す るので はな く

,そ

れ どころかむ しろ この ドクサ を学問 の基底 として うけいれ なければな らない とす る

,学

問的立場 なの であ るより そ こでわれわれ は,『 危機』にお ける「生活世界 (ドクサ

)の

Jと

い う

,奇

妙 な学問 の この理性 主義 の意味 を より明確 にす るために

,こ

こでは さしあた リフ ッサールが そ もそ も直観 的経験 の世界 と しての生活世界 の真理′性 を どの よ うに捉 えて い るのか

,

とい うことの考察 か らは じめ る ことにす る。 (三) 『危機』において根源的な直観的経験の世界 として主題化 され る生活世界 は

,フ

ッサールに とっ てはさしあた り自然的に生 きるすべての人間に とってのあ らゆる実践の基盤 として

,

したがってそ れが理論的実践であろうと理論以外の実践であろうと

,そ

のすべてに可能性 と意味 を付与する

,根

源的な自明的先所与性 の基盤 として考 えられている。「生活世界 は人類 にとっては

,学

問に先だって つね にすでに存在 していた し,それは学問の時代 にあって も,その存在様 式を継続 して きた。」

(VI.

125)こ の世界 は

,学

問以前には

,す

なわち日常的感性的な経験 においては

,主

観的に相対的な もの として与 え られている。

(VI.20)し

か しわれわれはだれで も

,そ

こで自分 にとって現われている ものを現実に存在する もの とみな している。 そしてわれわれは

,各

自にとって現実に存在 している とみなされているものが

,と

きには食いちがっている とい うことも

,互

いに交渉 し合 いなが らすで に気づいている。 けれ ども「われわれ は多 くの世界が存在 しているとは思 っていない。われわれは 同 じものであ りなが ら

,た

だわれわれ にとって異 なる現われ方 をしているにす ぎない事物で満 たさ れているひとつの世界の存在 を信 じている。」

(VI.20)

ところで フッサールによれば

,自

然的に生 きるわれわれに とって自明的 に前提 され ている

,

この 世界意識 とい うのは

,何

らかの存在定立の作用によって存在することがみ とめ られた り

,あ

るいは 何 らかの述語的存在判断の作用によって得 られた意識 というような ものではな く

,む

しろそのよう な作 用 の す べ て が そ の 可 能 性 の基 盤 と して す で に つ ね に前 提 に して い る

,信

憑 的 確 信 (Glaubettgewi8heit)と いう様態の意識 なのであるとい う!Pわた しが

,わ

た しの知覚野 において何 らかの対象 を

,た

とえば机の上の この本 を捉 えようとするとき

,わ

た しの捉 える この存在物 はすで に以前か らわたしにとって存在 していた ものである。すなわちわた しがそれに注意 を向けなかった ときにも

,そ

れはすでに「わた しの部屋の」「あそ こに」存在 していた ものである。同様 にい まわた しの知覚野 に入 りこんできた この部屋全体 も

,知

覚的に際立 って現われて くるすべての対象 ととも にすでにわた しにとって存在 していた ものであ り

,部

屋のみえない部分や慣れ親 しんでいる家具 と 一体 となって

,そ

してさらにわた しの住んでいる

,こ

の慣れ親 しんでいる居住 区にあ る「わが家」 圭 我

(7)

という意味 と一体 とな ってそれは存在 しているのである。 「われわれ を触発するすべての存在物 は

,世

界を基盤 に して触発 し

,存

在するもの として信 じら れてわれわれに与 えられるのであ り

,認

識活動や判断活動 とい うの は

,そ

のようにあ らか じめ信懇 されつつ与 えられているものが

,本

当に存在す るかどうか

,本

当にそのような在 り方 をしているの か どうか ということを吟味 しようとす る ものなのであって, したが って存在するもの としての世界 はいっさいの判断活動

,い

っさいの理論的関心 の普題的な受動的先所与性 なのである。」

(EU.25f)

ところで 自然的生の 自明的先所与性 としての この生活世界 は

,わ

れわれのそのつ どの目的

,目

標 をつね に包括 している地平 としてつねにあ らか じめ前提 にされているとして も

,通

常の 自然的生 と いうの は,「そのつ ど与 えられ る対象へまっす ぐ向かい

,

したが って世界地平の中に入 りこんで」生 きているために

,そ

こではそれがあまりにも自明的で

,あ

ま りに も根源的であるがゆ えに

,明

確 に 主題 にされ る ことはない。(Vl。 126)しか も直観的経験 の世界 としてのこの生活世界 はさしあたっ てはまさに「単 に主観的な一見 とらえがたい

,ヘ

ラクレイ トス的流れ」 において現出するものであ るがために

,フ

ッサールによれば従来 この世界 がその固有の本質的意味 において学問的に主題 にさ れ ることはなかった し

(VI.164),ま

してやこの ドクサ としての生活世界がたえず基底 として機能 しているその仕方やその直観的な前論理的妥 当が論理的な理論的真理 を基底づけてい るその仕方な どということは決 して学問的に問われた ことはなか った とい うのである。(Vl。 127) 「すべての人 に妥当する

,客

観的 ―論理的」真理 を唯―の真理 として探究 して きた

,伝

統的エ ピ ステーメーが この直観 的経験の生活世界 を「単 に主観的 一相対的な」 ドクサ として

,す

なわち真の 存在 の単なる「主観的仮象」 として

,知

りうる ものの領域か ら徹底的に排除 してきた とい うことは 周知 の ことであるが,『危機』におけるフッサールは,「学問以外の生活 自体 においては

,生

活世界 はそこに生 きる人間のあらゆる生 に可能性 と意味 を与 えるに十分 な確証の領域であ り

,た

しかな真 理の領域 なのである

J(Vl.465)と

い うことを強調する。「『単 に主観的 ―相対的な』直観の『単 に』 ということばは

,わ

れわれ にとっては古 くか らの遺産 として

,

ドクサ とい う侮蔑的意味 あいをもっ ている。 しか し学問以前の生活 においては

,こ

の直観 はもちろんその ような意味 を少 しももってい ない。そ こでは『単に主観的 ―相対的な』直観 はた しかな確証の領域 なのである。」(Vl.127f) た しかに直観的経験の世界 としての生活世界 の事物 は

,そ

のつ どの主観的パースペ クティヴに応 じて多様 に変化 して現われ るのであ り

,そ

の同一性 も総 じて「単 に類型的に」「単 におお よそに」保 持 され ているにす ぎない。(Vl。 22)た とえばわれわれが 日常的経験 において,「わた しの前 に円い テーブルがある」とい う場合

,こ

の事物 の存在定立 において表明 されている,「円い」とい う形態 は 「単 に類型的に」その ように「円いもの」 として規定 されているにす ぎない し

,わ

た しの「前 に」 という空間規定 も「曖昧 なもの」で しかない。 しか しこのような「単 に類型的な」「曖昧な」主観的 規定性 に もかかわ らず

,日

常的経験世界 における具体的状況 においては

,こ

のようなおお まかな存 在定立 の言表が十分に明証的に

,

しか も意味豊かに妥当す るのであるより

(8)

8 F尋 階 勝 そしてフッサールによれば

,こ

のような生活世界 の状況的真理 はまさにその「単に主観的―相対 的な」「曖味 な」規定性 のゆえに

,

もっぱ ら「客観的 一普題的」真理 に向か う

,近

代の自然科学者た ちの「客観的な」課題設定 においては,「克服Jされ なければならない仮象 として刻印 されて きた け れ ども

,実

は自然科学者たちがひたす らそのように「客観的な もの」 に興味 をむけ

,活

動 してい る ときで も

,こ

の 「単 に主観的 ―相対的な」生活世界の直観的真理 は

,彼

らに とって も決 して克服 さ れるべ き「 どうで もよい通過点」などとしてではな く

,む

しろまさに彼 らのあ らゆる客観的確証 に 紺 して

,そ

の理論的 ―論理的存在妥当を先極的に基底づ けるもの としての機能 をもち

,

したがって またその明証性 の源泉

,確

証の源泉 としての機能 を もっているとい うのである

p(Ⅵ

129)とい う の も

,ど

のような自然科学者 にとって も

,彼

が生 きているところは

,つ

ねに同 じひ とつの共同の生 活世界なのであって

,

したが って彼がその研究活動 をしているあいだで も

,そ

れに気づかずに

,非

常 に素朴な仕方で

,つ

ねに日常的経験の生活世界の直観的明証性 に依拠 し

,そ

れ を使用 してい るか らである。 た とえばアインシュタインが彼 の実験室でマイケル ソン

(A.A.Michelson)の

装置 を模造 した装 置を使 って

,マ

イケル ソンの実験 を反復する とき

,か

れ は実験器具 とは何 であ り

,そ

の使用法 はど うであ り

,実

験室 とはどうい うところか ということを正確 に知 っている。 しか しこの ことをアイン シュタインは数学や 自然科学的知識にもとづいて知っているのではな く

,生

活世界 の前科学的経験 によって知 って いるのである。

(Vl.128)さ

らにマイケル ソンによって使用 された実験器具 その も のを考 えてみ る と

,そ

れ らの器具 はその最終決定が知覚 による指針の位置の読 みとりになるように 作 られているのであるが

,そ

の ような仕方で知覚 されるもの

,す

なわち計器の文字盤の針 は

,現

象 学的に考えれば

,あ

る背景の上の図柄 にほかな らないのであ り

,

したがって この計器 を使用 して最 終的に決定 され る「自然科学的判断」というのは

,

まさに「単 に主観的 ―相対的な仕方でなされ る」 知覚判断 を前提 に しているのであるよ9そして もとよりそこに見 られている計器や目盛 りな どはまさ に現実に存在する もの として使用 されているのであって

,決

して幻覚 として使用 されているわ けで はない。つま りそこでは妥当するもの として現実 に生活世界的 に存在 しているものが一 つの前提 に なっているのである。(VI。 129) (四) ところで もっぱら「客観的真理」 に向か う主題的態度の うちにある自然科学者たちに とって も, この ように明 らかにつねにその研究活動の意味基底 として機能 している

,直

観的経験の生活世界が まさにその「客観的な」課題設定 において

,徹

底 的に侮蔑 され

,見

捨て られ ることになるの は何故 なのか。 この問いに対する主題的解明 を

,わ

れわれは『危機』の「第

9節

ガ リレイによる自然の数学化」

(9)

の うちにみ る ことがで きる。 ここでの フ ッサールの主要 な関心 は

,近

代 自然科学 の「客観性 」の理 念 の構成 をは じめ て明 確 に思 いつ いた とされ る

,ガ

リレイの「 イデー化 」(自然 の数学化)を詳細 に 分析 す ることにあるので あ るが

,こ

の試 みは と りもなお さず

,そ

の「客観 的 な」課題設 定 において, 生 活世界の「単 に主観的 ―相 対 的 な もの」が いか に して忘失 され

,見

捨 て られ る こ とにな ったの か とい うことを歴史 的 に遡行 的 に問 うこ とを意味 す るにほか な らないので あ る。 直観 的経験 の世界 と しての生活世界 は

,す

べ ての人間生活 におい て,「 最 もよ く知 られた」「類型 的 にな じみの」地平 としてつね にあ らか じめ与 え られてい る もので あ るが

,フ

ッサール によれ ば現 代 のわ れわれ の まえに与 え られ てい る生活世 界 には

,す

で に近代 自然科学 に よる存在物 の規定 の い っ さいが 自明な こ ととしてぶ くまれ てお り,し か も「精密 な(exakt)」 自然科学 の方法や認 識 の理 念 が

,そ

こに生 きるわれわれ の うちに しみ こんで いるために

,わ

れ わ れ は経験 の対 象 はそれ 自体 の う ちに規定 を もち

,認

識 行 為 とは まさに それ 自体 で存在 す る

,こ

の規定 を近似 的に発見 し

,そ

れ をあ るが ままに「客観 的に」確定 してい くこ とであ る とい う観念 を まった く自明の こととして うけいれ るまでにぃたって いる とい うの であ る。

(EUo S.39f)

したが って「 お よそ存在 す る ものの無 限 にひろが るいっ さいは

,ひ

とつの合理 的 な全体 的統一 を な してお り,そ してその全体 はそれ に相関 して,一つの普遍 的 な学 に よって残 りな く支配 され うる」

(EU.39f)と

い ぅ

,近

代 自然科学 の根本思想 も現代 のわれ われの生活世 界 にお いては当然の ご と く に支配 してい るので あるが

,フ

ッサ ー ル に よれ ば,「 合理的 な無限 の存 在全体 としての宇宙」と「 そ れ を体系的に支配 す る合理 的 な普遍的学

Jと

い う

,こ

の近代 自然科学 の理 念の構想 とい うの はか っ て見 られなかった

,新

しい試 み であ り

(Vl.19),そ

して近代 を特徴 づ け る

,

この「偉大 な客観性J の理 念 は まさにガ リレイの「 自然 の数学化 」 によって

,自

然 自体 が数学 的多様体 として全面的 に理 念 化 され ることによって,は じめてその十分 な意味で形成 され るこ とにな ったのだ とい うのであ る。 (VI. 20) そ こで フ ッサー ルは

,

この節 にお いて は

,現

代 を支配 的 に規 定 して い る近代 自然科 学 の「 客観性 」 の理念が そ もそ もいかに して形成 されて きたか を根 源的 に考察 す るた めに

,さ

しあた リガ リレイの 「 自然の数学化」 を内的 に動機 づ けてい る ものが何 であ るか を問 い

,そ

してその理 念化 の過程 にお いて生活世界が いか に して見捨 て られ る ことにな ったか をつぶ さにみ よう とす るので あ る。彼 はそ の さい さしあた リガ リレイの思考過程 において「自明性」として うけ とられ,その「 自然 の数学化」の 理 念の うちに生 き生 き と継承発展 させ られている,古 代 ギ リシアの 「純粋 幾何学 (reine Geometrie)」 が いか に して形成 され て きたか を再構成 してみせ るの であ るが

,彼

はその こ とに よって近代物理学 の意 味基底 をなす「純粋 幾何学

J(VI.21)が

,

もともとは直観 的経験 の世界 としての生活世界 を基 盤 に して形成 され た もの であ る とい うこ とを明 らかに しよ うとす るので あ る。 直観的環境世界 において も

,わ

れわれ は単 なる空間時間的形態 だ けに抽 象的 な眼 をむ けるこ とに よって

,純

粋 な物体 的事 物 の形 態 を経験 す る とい うこ とはで きる。 しか しその さいわれわれがみ て

(10)

10 高 階 いるの は当然の ことなが らまさに現実に知覚 されているとお りの直観的物体 のそれであって

,幾

何 学的 一理念的形態や立体 などではない。われわれはさらに想像のなかで,「物体Jの形態 についてあ れ これ勝手気 ままに思 いえがいてみる ということもで きる。 しか しわれわれが どんなに自由に考え めぐらし

,変

えてみた ところで

,そ

のような自由想像 によって得 られ る物体 の形態や立体 も結局 は 単なる感性 的形態の変様態で しかないのであって,「純粋 な」幾何学的な空間形態な どではあ りえな い。 というのは「『純粋な』理念 としての幾何学的空間 というのは

,一

般的にいってた とえどんなふ うに想像 しようとも

,そ

のような想像 によって得 られ るような世界一般の空間ではない

J(Vl.22)

か らである。 しか しフッサールは

,理

念的な形態 としての幾何学的形態 はこのようにもともと直観的経験 の対 象 とな りうるような物体の形態 とは無縁の ものであるに もかかわ らず,「純粋 なJ幾何学的形態が う みだされ る基盤 はやは り生活世界的直観の うちにあったのだ とみるのである。すなわちその基盤 は, 「 もともと理念的な ものな どは何 ひ とつ知 らない

,実

用的な土地測量術 (Feldmeβkunst)の 前幾何 学的作業」

(Vl.49)う

ちにあった というのである。「直観的な環境世界の事物 は総 じてそのあ らゆ る性質 において

,単

に類型的な ものがいろいろに変動す るにす ぎない。 た とえばそこでは自己同一 性 (Identiat mit sich)と か 自同性 (SiCh selbst― Gleichsein)と か

,あ

るいはほかの もの との相等 性な どといっても

,そ

れ は単 におお よそそうだ というだけの ことである。」

(Vl.22)し

か し日常的 生活 における実際的関心 においては

,わ

れわれは通常 はそのような「単 に類型的な」「おお よその」 事物経験で十分 に満足 させ られている。 しか し日常的生活の場面 において も関心が移 るにつれて, そのような曖昧な,「単に類型的な」経験では満足 させ られない という場合がお こりうる。 フッサー ルは

,た

とえば最初はまった く幼稚 な仕方ではじまり

,次

第 に技術的に高め られて行 く

,土

地測量 者の「物 を測量 し

,測

定する

Jと

い う,「測地術」の関心がそれであるという。 すべての ものが流転 してや まない,「ヘ ラクレイ トス的流れ」の現実において,「物 を測量 し

,測

定 し

Jな

ければな らない

,彼

の最初 の課題 は「 この もの をこの もの として識別 し

,そ

れ をあの もの から区別 する」標識 とな りうるような

,何

らかの経験的な基本形態 (Grundgestalt)を 経験的物体 の うちにみいだす という仕事 である。すなわちた とえば「あの三角の屋根のような形 をした山」 と か「あの円いおわんを伏せたような岩」 というような

,明

確な標識 とな りうる基本的形態 を経験的 物体の うちに確定することである。 そしてフッサールによれば

,そ

うすることによって土地測量者 はそれ を尺度 として

,そ

れ とほかの物体 とのあいだにある

,あ

るいは発見 され る関係 によって

,こ

れ らのほかの形態 を相互主観 的に

,実

用上一義的に規定 するという可能性 を実用の中に発見 するの であるとい う。(Vl.25) ところで土地測量者がそのように経験的物体の うちに見い出す,「三 角の形」や「円い形」は もち ろん幾何学的図形 としてのそれではない。 しか し

,フ

ッサールはまさに測量師たちによって確定 さ れる,その ような経験的な基本形態の うちに,幾何学的図形概念形成の端緒が あるとみ るのである。 義 勝

(11)

「測 る」 ということは

,そ

れが どのような ものであれ

,な

にほ どかの技術 を必要 とす る。 そこでは た とえば まっす ぐの ものをさらにまっす ぐに し

,平

らな ものをさらに平 らにするというような

,実

用的な技術 的関心がお こって くる。 もちろん もの を完全 にす るとい う

,そ

のような技術的能力 には 限界 はあるが

,

しか し人類 の歩み とともに

,技

術 はた えず進歩 し

,技

術的に精練 された もの に対 す る関心 もまた進歩する。土地測量者たちの「 ものをよ り完全 にす る」 という

,技

術的関心 は次第 に よ り完全な図形のモデルを作 ることに向かう。 そしてモデルをさらに完全にするとい う

,彼

らの関 心 はた えまな く先へ先へ と移 る。 ほとん どまっす ぐの もの をなお まっす ぐに し

,お

およそ円い もの をもっ ともっ と円い もの にする とい う技術的関心が

,彼

らをた えず駆 りたて る。そ して

,フ

ッサー ルによれば

,ま

さに この ように「 ものを完全 にする」という実用的技術的関心か ら出発 して,「繰 り か えし」 という形 で

,考

えうる限 りの完全化の地平へ と自由につき進 むことによって

,近

似 の無限 のプロセスの極限の場合 としての「極限形態 (Lttmes―Gestalt)」 が

,す

なわち「純粋 な」理想的な 幾何学的形態がいた るところに予示 されて くる とい うのである。

(Vl.23)つ

まり「(土地測量者た ちが使 う)淑」量竿や張 られた綱 は直線 ではない し

,本

でで きた三角形 もユー クリッ ドが言 う理想的 三角形 ではないとして も

,や

は り (直観的経験 の事物 の形態 としての

)前

者が (純粋 な理念的形態 としての

)後

者 を呼びおこさせ る」°というのである。 こうしてわれわれ は現実に実際 に可能 な経験的物体 に関す る経験 の可能性 のかわ りに

,そ

れ とは まった く別の

,す

なわち「理念的な極限形態 に関 しては

,そ

れを『絶対的同一性』において規定 し, 絶対 に同一的で方法的に一義性 をもつ もの として規定 しうる

Jと

いう

,わ

れわれの経験的実践で は とうてい達 しえない『精密 な』規定 を可能 にす る,『純粋思惟』とい う理念的実践の可能性 を もつ こ とになるのである。(Vl.24)そ してフ ッサールによれば

,こ

の ようにして形成 された

,極

限形態 と しての幾何学的形態 は

,そ

の後の長 い歴史の中で人間の労働 によって生 じた

,す

べての文化的成果 と同 じように

,そ

の意味が どうして形成 されたかな どとい うことがそのつ どはっき りと意識 される 必要がないほ どに自明の こととして認識 され

,使

用 され ることになったのであるとい うのである。 (Vl. 23) (五) と ころで

,こ

の よ うに当時 すで に自明の こ とと して受 け とられていた

,こ

の純粋 幾何学 が何故 に ガ リレイの思考 を規定 し

,彼

の物理学 の理念 の形成 を動機 づ け るこ とになったのか。 フ ッサ ール に よれ ば

,ガ

リレイが「純粋幾何学 」 の理念 に注 目 したの は

,そ

の方法 がわれわれの感性 的 な環境世 界 に本 質的 につ きま とう,「 主観 的把握の相対性」 を克服 し

,す

べ ての人 に とって妥 当 しうる,「 同 一的

,非

相対 的真理」 の認識 の可能性 を

,つ

ま り「真 に存在 す る もの を認識 す る」 可能性 を予示 し てい る とみたか らにほかな らない。(Vl.27)

(12)

12

高 階 勝 近 代 自然科学 の「客観性」 の理念の形成 に とっての ガ リレイの功績 は

,フ

ッサ ール に よれ ば

,幾

何学的方法 によって触発 された彼 が物体 的世界 (自然

)を

その空間時間的 な形態 に関 して全面 的 に 理念化 する可能性 を示 した とい うこと

,そ

してその こ とに よって 自然か ら「主観 的 ―相対的 な もの」 のい っ さい を追放 す る ことの可能性 を示 した とい うこ とであ る。 すなわ ちガ リレイは数学的方法 に よって

,経

験 的直観 的 な多様 な形態 が その中にはいって い る と考 え られ る

,空

間 と時 間 とい う生 活 世界 の漠然 とした一 般 的形式 か ら,「 こ とばの本来 の意 味 での客観 的世界」を

,す

なわ ち「 すべ ての 人 に とって一般 的 に

,一

義 的 に規定 され うる理 念的 な対 象性 の無限 の総体」(VI.30)をつ くり出 し, その こ とに よって「主観 的 ―相対 的 で単 に漠然 とした表 象 にお いて考 え られ てい る (生活世界 の) 無限 な対象が

,数

学 の ア プ リオ リな包括 的 な方法 に よって

,客

観 的 に規定 され うる し

,ま

た それ 自 体 にお いて規定 され てい る もの として現実 に考 え られ うる」(Vl.30)とい う ことの可能性 をは じめ て思 いつ いた とい うの であ る。 ところでた しかにガ リレイの「 自然の数学化」 に よって

,物

体 的世 界 はその空 間時間的形態 に関 して は

,そ

の よ うに全面 的 に理 念化 され うる とい うことが予示 され る として も

,わ

れ われの直観 的 経験 にお いて与 え られ る物体 的世界 の事物 とい うの は

,具

体 的 に は「 色」 とか 「音」 とか「臭 い」 な どとい った さまざまな特殊 な 「感覚的性 質 (SinnliChe Qualitat)」 を もつ もの として与 え られ て い るのであ り

,そ

して それ らのいわ ゆ る物体 の「感覚 的充 実 (Snnliche Fulle)」 とぃ ぅの は

,ま

さ につねに「 主観 的 ―相対 的 に」多様 に与 え られ るのであ って

,そ

こに はいか なる意味 で も「極 限形 態」な どは存在 しえない ように思われ る。 したが ってガ リレイの「 自然 の数学 化」 とい うの は,4/J 体世界 の単 に空間時 間的形態 に関 す る限 りでの理 念化 なのであ って

,

したが って それがかかわ りう るの は,単 なる抽 象性 にお け る物体 と物体世界 にす ぎないので はないか とい う問題 が お こって くる。 しか しガ リレ イは この困難 な問題 を前 に して もた じろがな い。彼 は少 な くともそれ を克服 す るた めの 方法 に気 づいた。 とい うの は古代 の ピユタ ゴラス学派 の人 たちによって

,音

の高 さが振 動す る 弦の長 さに函数的 に依存 す る とい う事 実 はすで に知 られ ていた ことであ り

,

したが ってガ リレイに とって は

,学

問以 前 の経験 全体 の内部 にあ って も,あ る種 の感′性的性 質 を間接 的 に量 化 した り,そ れ を量 と数 に よって表示 した りす る

,あ

る種 の可能性 を示唆 す るきっか けはすで に示 されていたか ら であ る。(VI.36)しか し彼 はさらに先へ と進 む。物体的世界 の中のすべての出来事が因果関係 に よ って互 い に連 関 しあ っている とい うこ と

,す

なわ ち「 いか な る場所

,い

か な る ときにお こる出来 ご とであ ろ うと

,い

っ さいの経験可能 な出来事 は因果 的 に規定 されてい る」

(Vl.29)と

い うこ とは, 直観的環境世界 にお けるわれわれ に とっては

,す

で に「習慣 的」 に自明の こ ととして意識 されて い る ことで ある。したが ってわれわれ は,直観的経験 の世 界 と しての物体 的世界 のすべての契機 は(そ れが形態的側面 であろ う と,感覚 的充実 の側 面 であ ろ う と),一つの共通 の普遍的 な因果 的形 式 に従 って経過 してい る とい うことも

,ア

プ リォ リに確信 してい る。(Vl.34) したが って物体 的世 界 の形態的契機 が全面的 に直接 的 に数学 的 に規定 され うる もので あ り

,そ

(13)

てそれ によってそれが「それ 自体 として客観的に存在す るものJと して証示 され うるとす るな らば, 「主観的 ―相対的所与 性」 としての直観的世界 の「感性的′性質」の側面 も

,そ

れは決 して空間時間 的形態の類似物ではない として も

,や

は り同 じ一 つの世界 を構成 する契機 として

,そ

の ときどきの その変化のすべてに関 して,「客観的に存在する」形態領域の側 にその困果的対応物 を必然的に有 し てお り

,し

か もその感覚的性 質の側面のすべての因果性 も何 らかの仕方で

,少

な くとも間接的に数 学化 され うるもの とみなければな らないというのが

,ガ

リレイの確信 だったのである。(VI。 33)そ うい う意味でガ リレイは,「われわれが学間以前の生活において経験する色や音や熱などというのは, 物理学的には音波や熱波の振動な どといった

,純

粋 に形態の世界の出来事の告知 にほかならない」 (Vl.35)と いうのであるが

,こ

うして彼 は

,生

活世界 において知覚 され る感覚的内容 に対 しても, ことごとく一定の数指標 をつけることを思いつ き

(Vl.51),そ

の ことによって生活世界 と学問外的 経験の 自然全体にいわゆる「客観的真理」 という

,よ

く似合 った「理念の衣 (Ideenkleid)」 を着せ ることに成功するのであるが

(Vl.51),フ

ッサールによれば

,そ

れ以来 この「理念の衣」が近代の 科学者 と教養人に とっては,「客観的に現実的で真のJ自然 として

,生

活世界の代理 をし

,そ

れをお おい隠す ことになるのであ り

,そ

のためにいまやわれわれはこの「理念 のおおい」のおかげで, も ともとひ とっの方法 にす ぎないものを

,す

なわち「生活世界 の粗雑 な予見 を無限に高 める『学的』 予見によって修正す るための方法 にす ぎない ものを真の存在 とみな し」

(Vl.52),わ

れわれの直観 的経験 の世界 をつねにそれ にかぶせ られた「理念のおおい

Jに

照 らして解釈するとい うまでにいた っている というのであると そ して まさにガ リレイにはじまる

,こ

のような「理念化

Jの

方法 によって形成 された近代の「客 観性Jの理念の もとで

,理

念化 され る以前の具体 的な直観的経験の世界 としての生活世界 は,「単 に 主観的 ―相対的な」 ドクサの領域 として

,す

なわち「主観的仮象」「欺満的仮象

Jを

ともなった

,曖

昧 な経験の領域 として侮蔑的 に取 り扱われ

,見

捨て られることになるのであるが

,フ

ッサールによ れば,「われわれの全生活が実際 にそこで営 まれているところの

,現

実 に直観 され

,現

実に経験 され る世界 としての生活世界 は

,あ

らゆる理論的 ―実践的生活の根源的基底 として

,そ

れな りの仕方で この うえない確証 をもって与 えられている世界 なのであって

J(Vl.51),こ

の世界が そのように不 当に侮蔑的に扱われることになったのは

,も

っぱ ら「理念のおおい」 に関心 をうばわれ

,そ

の理念 化の方法における「根源的な意味付与の作業」 に関心をむけることをしなか った

,ガ

リレイの「不 幸な怠′慢」によるのである とい う。(Vl.49) フッサールが「ガ リレイは発見する天才であると同時 に隠蔽する天才であ る」

(Vl.53)と

語 るの はそのような意味でなのである。理念化の方法 によって

,近

代の「物理学的 自然」を発見 したガ リ レイは,も ともと生活世界の直観的できごとに対する無限の予見 を獲得す るための方法にす ぎない, 「理念のおおい

Jを

それ 自体 として存在 する

,真

の存在 とみなし

,直

観的経験の世界 をつねにその 「理念のおおいJによって解釈す るという,「自然主義的客観主義」に没入 していたために

,た

とえ

(14)

14高

階 勝 義 ば彼 の物理学 の形成 を内的 に動機 づけてい る,「純粋 幾何 学」の精密 な幾何学 的形態 が暖味で

,流

動 的 な

,類

型 的な直観的形態 の理 念化 か らうみ だされ た ものであ るとい うことに も

,ま

た 自然科学 の 「精密 な」客 観性のすべてが直観 的経験 の世界 としての生活世 界 の うちにその意 味 の基 礎 を もって いる とい うことに も関心 をむ ける ことが で きなか った とい うので あ る。(EU。 43) そ して フ ッサールが

,

もはや現代 の標 準的世界解釈 ともな っている

,ガ

リレイには じまるこの客 観主義 的世界解 釈の うちに

,現

代 の ヨー ロ ッパ精神 の危機 の根 源 をみていた とい うこと,そ して『危 機』 にお ける「生活世 界 の現 象学」 の課題 が その科学 的客観主義 を克服 し

,そ

の こ とに よって科学 的客 観主 義 的規定 によっておお いか くされ

,見

失 われ て しまった

,わ

れわれ人 間 とわれ われが現実 的 に生 きてい る

,直

観 的経験 の世 界 との直接 的

,根

源的関係 の構造 を明 らか にす る こ とにあ った と い うこ とにつ いて は

,わ

れわれ はすで にふれ た別 稿6)にお いてみた ことであ るが

,し

か し「生活世 界 の現象学」の この課題 は

,具

体 的 に は伝 統的 に見捨 て られて きた

,直

観 的経験 の世 界 としての生活 世界 の存 在意味 と真理意味 を まさに「単 に主観的 ―相対 的 な」所与性 とい う

,そ

の固有 の存在構造 において間 うとい うことを意味 す るの であ って, したが ってそ こには

,ま

さにその よ うなた え まな く変転 す る諸体験 の「ヘ ラ クレイ トス的流 れ」の うちに開示 され る

,

ドクサ としての生活世界 を学 的主題 として間 うとい うこ とが

,そ

もそ もいか に して可能 であ るか とい う問題 が お こって くるので あ る。 (六) ところで生活世界の固有の存在様式 をいかに して学的に問 うことができるか とい うことを

,す

な わち「生活世界 とい う標題の下 にどの ような固有の学問的な普遍的課題が立 て られるか」 というこ とを明 らかにするということはそれ 自体容易なことではない。というのはそれはとりもなおさず「客 観的 一学問的思考様式 という学校支配 (Schulherrschaft)か らお こる

,た

えざるす りかえか らわれ われ 自身 を徹底 的に解放する」

(Vl.132)こ

とか ら出発 しなければならないか らである。 フッサー ルは,「われわれはここでは絶対的 に最初の者 なのであ り

J(Vl.136),

したが って「われわれは世 界中の文献 の中にそのような生活世界の学のための先駆的研究 をさが して もむだであ るか ら

,わ

れ われはみずか らまった く新 たに出発 しなければな らない」

(Vl.158)と

い う。 そ こで彼が「原理的 に新たな種類の課題 においてはすべてそうであるように

,

この探究がある種 の素朴 さの中では じめ られ るということは避 けることはで きない」(Vl.158)と しなが ら

,生

活世界の固有 の存在構造 を 明 らかにするために とった「最初の行為」は,「単 に主観的 ―相対的な」生活世界 を客観的諸科学の 「客観的 ―論理的な」世界 に対置 させ るという作業である。 この対比 によって明 らかにされた ことは

,客

観的諸科学のいわゆる「客観的な」「真の」世界 とい

うのは

,単

に「理論的な構築物

(logisChe Substruktion)」

にすぎなく

,原

理的にそれみずから知覚

(15)

され る とい うことはで きな いのであ り

,

したが って それ は決 して直接 的 に経験 され る こ とはあ りえ ないの に対 して

,生

活世界 は現実の主観的 な与 え られ方 の流れ として,「直接 的 な臨在 にお いて経験

され る もの (in unmittelbarer Prasenz Erfahrenes)J「 それ 自身 として与 え られ る根源的明証性 の 領域 (ein Reich urspttnglicher Evidetten)」 で あ る とい うこ とで あ る。(Vl。

130)そ

して フ ッサ

ー ル に よれ ば,ま さに この「原理 的 な直観可能性 の宇宙 (Universum prinzipieller Attchaubarkeit)」

としての生活世 界 (ド クサ

)こ

そが あ らゆ る考 え られ うる真理 の確証 の源 泉 なの であ り

,

したが っ て客観 的諸科学の「客観 的 ―論理 的 な」真理 もそ もそ もそれが真理 を主張 す る限 りで は

,

この生 活 世界 の直観 的明証性 に よって基底 づ け られね ばな らな い とい うので あ る。 その こ とは諸 科学 の理 論 形成 において

,そ

れ が真 な る もの として妥 当 しうるために は

,実

験 に よって検 証 されね ば な らな い とい う単純 な事 実 に よって も証示 され うる し

,ま

た科学 的理論形成 において もその 「容観 的」理論 の構 想 を容易 にす るため に使用 され る

,モ

デル表 象 とい うの も

,フ

ッサ ール に よれ ば生活 世 界 的直 観 にほか な らな い とい うの であ る。(Vl.132)彼が,「 客観 的真理 の理 念 は

,す

なわ ち客観 的 ―論理 的諸 科学 の真理 の理念 は

,そ

の意味全体 の上 か らは

,前

学 問 的 一学問外的生活の真理 の理念 との対 比 に よ って あ らか じめ規定 され てい る

J(Vl.127)と

い うの は

,ま

さに この よ うな意 味 にお いてな の であ る。 こう して フ ッサール は

,伝

統的 に蔑 す まれ て きた,「 単 に主観 的 ―相 対 的 な」ドクサ としての生 活 世 界 の直観 的真 理 に対 して,「 それ こそが『普遍 的 に妥 当す る』『永遠 の』『客観 的 ―論理 的 な』真理 と してのエ ピステー メーの意味基底 なの であ る」 とい う品位 を一挙 に与 えるのであ るが

,

この こと に よって彼 は「思考 と直観」 をめ ぐる

,近

代 の伝 統 的解 釈 の「 コペ ンニ クス的転 回」 を宣明 して い るの で ある。 もっ とも直観 に対 して基底 的機能 をみ る とい う考 えは,『 イデー ン』第一巻 にお いて フ ッサールが直観 を「い っさいの原理のなかの原理」「認識の権利源泉Pと 称 して

,直

観の もつ基礎的 役割 を強調 するときに

,す

でに表明 され ていた考 えであ り

,そ

ういう意味では『危機』 にお ける, この直観主義 (IlltuhiOnismus)は フッサール現象学の一貫 した立場 であるとみることもで きるので あるよ働 ところで直観がそもそ もこのような特権的価値 を有 しうるのは,フ ッサールによれば,「直接的 に 見 ること」 としての直観 (Ⅲ

.44)だ

けが

,或

るものが存在するとい うことについて

,ま

た しか じ かに存在する とい うことについて弁明 を与 えることがで きるか らであるとい う。(VI。

137)す

なわ ち彼 は「見 ること」を とおして

,或

る ものが「生身の ままに」「みずか らそこに」

,ま

さに「本源的 に立 ち臨んでいる」直観的所与性の根源的明証性 のうちに

,あ

らゆる存在定立の根源的な権利根拠 をみるのである。 (III.335)た しかに「直観的に ものを見 る」 とい うのは

,感

性的直観 だけの特権 ではない。た とえばわれわれは家 を「直観的に見 る」 とい うことと同様 に

,数

学の公式や幾何学的 図形 に関する直観的表象 ももつことがで きる。 しか しフッサールによれば

,純

粋思考 にお ける論理 的 ―理念的形成体 としてのその ような公式や図形 その もの は

,や

は り原理的には直観 され えない も

(16)

16

高 階 のであ り

,

したが ってそれが単なる論理的構築物 にとどまろうとしなけれ ば

,直

観の「根源的明証 性の領域」 としての生活世界 につれ もどされ なければな らないのであ り

,そ

うすることによっての み論理的形成体 としてのそれ らの真理の意味 も確証 され うるのであるというのである。 したが って 彼は

,直

観 にまった く依存することな く

,純

粋 に論理的 に形成 される「客観性」のうちに明証的直 観性 と世界の真理 さえみ ようとしてきた

,近

代の客観主義的思考 とい うのは

,空

虚 な仮象で しかな いとい うのである。(VI.137) ところで「 それ 自身 として直接的臨在において経験 され るもの」,「原理的な直観可能性の宇宙J としてのこの生活世界 の「根源的明証性」「直接性」の領域 その ものの固有の構造が何であるか を遡 行的 に問 うとい うことは容易なことではない。というの も

,す

でにふれた ように,「現代 に生 きる人 間 としてのわれわれに とって

,あ

らか じめ与 え られている生活世界 には

,す

でに近代 の自然科学が 存在物の諸規定 にな した

,い

っさいの ことが一緒 に属 している」

(EU.39)の

であ り

,し

たが って直 観的経験の世界 としての生活世界 を遡行的に関 うということは,「単 に与 えられ るがままの経験世界 を単純 にうけとる というような ものではな く

,そ

こにすでに沈澱 してい る歴史性 をたどって

,そ

の 起源にまで遡 る とい うことを意味する」

(EU.39)か

らである。『危機』1こおけるフッサールが,「生 活世界の真理 はその究極的な もっとも深い確証の源泉 を『純粋 』経験 の知覚 とか記憶 とかのあ らゆ る様 態の うちに有 している」 (Vl.127)と 語 りなが ら

,す

ぐにつけ加 えて,「しか しこれ らの ことば は

,真

に学問以前の生活 自体が理解 しているよ うに理解 されねばな らない。 したがって これ らの こ とばにその ときどきの客観的科学の精神 ―物理的な,心理学的な解釈 をもち こんではな らない。そ し て何 よ りも重 要 な こ とを先取 して いえば

,あ

たか もいわ ゆ る直接 的 に与 え られ る『感 覚 与 件 (Empindtlllgttaten)』 が生活世界の純粋な直観的所与性 を直接的に性格 づ けるものであるかの よ うに

,感

覚与件 をただちに引 き合 いに出 してはならない」

(Vl.127)と

強調するの も

,ま

さにこの ことを考慮 しての ことなのである。 「直接的に与 えられる『感覚与件』」という概念 はロック以来の伝統的な感覚主義 (Sensualislllus) によって

,意

識 を構成 する「究極的要素」,「原初的意識体験」として解釈 されてきた ものであ るが, フッサールは,も っぱ ら感官に対する外的刺激 によって意 き起 こされ る,「未分化で点的な瞬間的衝 撃」 としてのそのような「感覚与件Jなどとい うのは

,わ

れわれの経験 の どのようなものに も照応 し えない

,単

なる仮説 であ り

,決

して「真 に学問以前の生活 自体 が理解 しているとお りの」原初的な 直観的意識体験で はない というのである!9 現代 に生 きる

,わ

れわれに とってつねに予め与 えられている生活世界 とい うのは

,

このようにす でに様々な「論理的能作の沈澱 と錯綜 した ものJと して与 えられているのであ り

(EU.39),

したが って生活世界の「根源性」や「直接性」の領域 に じかに踏み入 るためには

,

まず何 よりも精密諸科 学によってすでに理念的に

,論

理的に形成 されてきた諸層 を解体する

,批

半J的作業が必要であ ると いうことになる。 そこでフッサールはまったく新たな普遍学 としての「生活世界の現象学」の道 を 義

(17)

切 り拓 くた めの第一歩 として,「 あ らゆる客観 的諸科学の全面 的 エポ ケー (epoche)」 を要請 す るの で あ る。す なわ ち客観 的な理論 的関心 の全体 に関す る判 断停止 を要請 す るので ある。

(VI.134)し

か しこれに よって客観 的理論 の妥 当 と客観 的諸科学 と科学者 た ちが

,そ

のエ ポ ケー を遂 行す る者 に とっては消滅 して しま う とい うの ではない。「 それ らは以前 にあった もの で あ りつづ け る。すなわ ち それ らは予 め与 え られ てい る生 活世界 の統一連関 にお ける事 実 であ りつづ ける。 ただわれわれ はエ ポケー によって

,彼

ら と共 に関心 を向 ける者

,共

に研究 す る者 として は機 能 しない とい うだけであ る。」 (VI. 139) ところで さ しあた って は もっぱ ら諸科学の領域 に限定 され るこの エ ポケーは

,さ

らに「生活世界 的 な事 物 の現 実性 に関 す る普遍 的 エ ポ ケー」 に変 わ って行 く。

(Vl.158)こ

の「普遍 的 エポ ケーJ は

,世

界 を科学的 に解釈 す る客観 的層 を排去 す るだけでな く

,そ

れ と同時 に「前学 問的意味 であ ろ う と

,学

問 的意 味 で あ ろ う と

,と

にか くまった く普遍 的 に客観 的真理 のい っ さい を排去 す る」(Vl. 178)こ とを要請す るの であ るが

,フ

ッサ ール にお け る現 象学的還元 の プ ログラムの最後 の歩 み とし て要請 され る

,

この「 他 に類 の ない普遍 的エ ポケー」 に よって

,彼

は「世 界 が あ らか じめ与 え られ てあ る」 とい う

,あ

ま りに も自明的であ るがゆ えに

,最

も頑固で

,最

も普遍 的 で

,最

も奥深 くか く れ て い る

,自

然的生 の内的拘 束か ら自己 を徹底 的 に解放 し」(V上 154),そうす る こ とは よつて まさ に生活世界 の「自明的先所 与性」 の固有 の構造 を根源的 に解 き明 す道 を拓 こうとす るので あ る。 ところが この「 普遍 的エ ポケー

Jを

とお して開示 されて くる

,生

活世界 の「 自明的先所与 性 」 の 構 造 を分析 す るに あた って

,フ

ッサ ー ル は「 自然的態度 の一般定立

Jの

世 界信 憑 を徹底 にエ ポケー す る こ とか ら出発 し,「 我思 う

,我

在 り」の絶対 的明証性 の うちに世 界 存在 の可能性 を基底 づ け よ う として きた,『 イデー ン』以 来 の「デ カル ト的方途 (cartesianischer Weg)」 を顧 りみて

,途

方 に暮 れ るの である。 とい うの は従来 の「 デ カル ト的方途 」 において は

,世

界 の現 実存在 はエ ポ ケーの あ との反省 を とお して,「 世界 の現 象」 として

,す

なわ ち「超越論 的主観性 の能作 の相 関者 の総体Jと して規定 され ることにな るの であ るが

,そ

こで は世界 の存在意味 はただ一般 的 にその よ うに規定 さ れ る だけで

,そ

こには具体 的 な明 白な内容 が欠 けてい るために

,ま

さに「あ らゆ る人間 に とって 自 明 的 にあ らか じめ与 え られ てあ る」直観的経験 の世界 としての生活世 界 をその具体 的 な直観的存在 構 造 におい て

,主

題 的 に問お う とす る この『危機』にお けるフッサー ルは,「 この (デカル ト的

)方

途 に よって

,い

った い何 が得 られ る とい うのか まった くわか らな くなる」 (Ⅵ

.156)と

嘆 くので あ る。 この よ うな苦境 の中で フ ッサールが『危機』 において新 し くとった態度 は

,世

界 の存 在・ 非存在 につ いて は不問 に付 した まま,「 世界 が あ らか じめ与 え られてあるその与 え られ方の如何 (Wie)Jを 主 題的 に問 うとい う,「 非 デ カル ト的方途

Jで

あ る。 すなわ ち彼 は この方途 に よって,「 純粋 に自然 的 な世 界生 活 か ら新 た に出発 しJ(VI.156f),「存在 す る もの として,また しか じかで あ る もの とし て妥 当 していた し

,い

つ もわれわれ に とって妥 当 しつづ けてい る世 界 をいかにそれが主観 的 に妥 当

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