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フッサール現象学における「他者」の諸相

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(1)Title. フッサール現象学における「他者」の諸相. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. 文化, 63(1・2): 52-72. Issue Date. 1999-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1776. Rights. 東北大学文学会. Hokkaido University of Education.

(2) .52. フッサール現象学における「他者」の諸相. 千 葉 胤 久. フッサールにおいて「他者」は,基本的には「他我」であると言ってよい。だ が,この名称には曖昧さがつきまとっている。「他の」と言われているにしても,. それはあくまでも「我」であり,「私」であるからである。つまり,それは一方 では「我」を遡り示しているりでありながら,他方では「我に解消されない」と いう面をももたなければならないのである。 本稿では,「我」でもあるという場面から「我に解消されない」という場面に 向けて議論を遡らせていくことによって,フッサール現象学における「他者」の 諸相を明らかにしていくことにしたい。ここで,この作業の手がかりとしてわれ われは空間構成に関する議論を採り上げることにしよう。フッサールは,「他我」 を,いまここにいる私が「もしそこにいたら/あたかもそこにいるかのように」. 持つであろうような世界(パースペグティプ)をいまそこから持っている老とし て記述していくが,この定式化においては「ここ・そこ」の区別が「「私・他者」 の区別の重要な契機となっている。「ここ・そこ」といった空間に関する議論を, 「客観的空間の構成」の場面から,その前提を順次遡っていくという仕方で考察. を進めることによって,「他者」の「我に解消されない」という面がいくつかの 相をもってあらわれてくるのを見て取ることができるように思われる。 まず,第1節においては,フッサールの空間構成論を簡単にまとめたのちに, 均質的な客観的空間の構成に関与する「他者」がいかなるものであるか見ていく ことにする。次の第2節では,非均質的な空間構成の前碇を遡って問うことによ って,「時間化」という事態に行き着くことを確認する。第3節では,フッサー ルの「時間化」の議論に見られる問題点を指摘し,それを手がかりにして,非均 質的な空間構成に関与する「他者」を明らかにする。第4節では,「私でほない」. という意味での「他者」をさらに遡っていくことによって,最終的に「他者」が いかなる相を示すことになるのかを見ていくことにしたい。. 111.

(3) 53. 1空間構成における「他者」 空間構成は大きく分けると,非均質的な空間の構成と均質的な空間の構成の二 段階にまず分けることができる。そして,前者の非均質的な空間の構成は,これ もまたその構成の過程を二段階に区分することができる。すなわち,「眼球運動 的領野の構成」と,その鏡野からの「三次元空間の構成」の二段階に分けられる。 第一の段階である「街野の構成」は,その過程がさらに三つの段階に分類でき,. 第二段階の「三次元空間の構成」には,「直線的歩行」による構成と「円環的歩 行」による構成という二つの側面が指摘できる1)。 まず,「眼球運動的領野の構成」の段階であるが,これは,「左右」「上下」と. いう二次元からなる「二次元多様体」(HuaXVI,S.165)としての「領野」の構 成の段階であるが,この段階は,先に触れたように,さらに三つの段階に分けら れる。その第一が,単眼的構成の段階,第二が複眼的構成の段階,第三が頭部・ 上半身の運動による構成の段階である。第一の単眼の段階では,領野のうちでの 像がキネステーゼと動機付けの関係にあることがまず指摘される。目を動かすと,. 像がそれに応じて動くように,像はキネステーゼ(運動感覚)の変様に対応して いるのである。また,目を動かすことで鏡野のうちでの像を鏡野の中心にもたら しうること,つまりその像をもっともよく見える「最適領域」にもたらすことが. できることもこの段階に含まれる。第二の複眼の段階になると,「深さ」の次元 が加わる。これまでの「左右」「上下」に第三の次元が加わるわけであるが,も ちろんこれは客観的空間における「奥行き」とは区別されるものであり,両目で 見ることによる像の二重化や,二重の像がひとつの像に収赦することから生ずる ものである。そして第三の段階では,そこに頚部・上半身の運動という段階が加 わり,周囲をく}るっと見渡すことによって,「球形の領野」「円筒の領野」という 閉じた領野が構成される。また,頭部・上半身の運動によって,領野のうちに「近 い籠域」「遠い額域」が分節化し,さらに,いままで隠れていた側面が見えてく. るという現象も生じてぐる。われわれが後で着目することになる「見える面」「見 えない面」の分節化がここで可能になる。ただし,三次元的空間,奥行きの空間 が本来的に構成されるには,身体の歩行の段階を待たねばならない。. 三次元的空間の構成に関わる身体の歩行に関してフッサールはそれを「直線的」 と「円環的」なものに分けている。直線的な歩行によって,領野は無限に拡大し,. 対象に近付くことによって対象は拡大し,遠ざかることによって,縮小する。こ 110.

(4) 54 うした拡大・縮小を調整することによって,対象を最適領域にもたらすことがで きる。「円環的」歩行においては,頭部の運動において可能になった周囲を見回. すことのほかに,対象の周囲を周り歩くこともできるようになる。このことによ って,「見えない部分」が「見えてくる」,あるいは逆に「見えていた部分」が「見 えなくなる」ということが頚部の運動の場合よりも,より拡大された形で行うこ とができるようになり,対象の周りを一回りすることによって,「諸側面が閉じ. られていること」(HuaXVI,S.250)が構成される。対象の周りを回る仕方は一 方向のみではなく,「二次元的円環体系」をなしており,このことによって「す べての側面において閉じられている表面をもった閉じられた物体性」(HuaXVI, S.227)が構成される。 「見えない面」が見えてくること,「見えていた面」が見えなくなるというこ と,見えていた面が見えなくなり,また見えてくること,これらの経験から,「見 えていない面」が「見える面」によって隠されていたこと,「見えていない面」 は消失してしまうわけではないということが把握されるようになる。こうして,. 対象は「見えている面」のみからなるわけではなく,「見えない面」をももつも の,「見えている面」より以上のものとして構成されることになる。「対象が他の. 側面をもつということは,可能な回転という変様による共構成に負っている」 (HuaXVI,S.250)のである。こうした「見えている面」が「見えない面」を隠 し,「見えない面」は「見えている面」によって隠されているという現象を通し. て,額野は自己を越えて,より以上のものを指示することになり,三次元空間と なる。「そのつど本来的に見えているものは,われわれの『見ること』にとって それだけでそこにあるのではない。対象の裏側は本来的にほ見えないが,しかし ともに把握され,ともに措定されている。それと同じように,さらにまた,対象 の,見えていない環境もそうである。呈示された対象領野は,ひとつの『世界』. のうちでの対象額野なのである」(HuaXVI,S.209)。把握するはたらきが,本 来的に見えているものを越えていること,このことによって,未だ非均質的なも のとしてではあるが,空間が,そして事物が構成されるわけである。. こうした<いま・ここ・私>を原点とする非均質的な空間から,均質的で客観 的な幾何学的空間が構成されることになる,とフッサールは考える。その際に行 われるのが「私の身体の物体化」である。「私の身体の物体化」とは,「私の身体」. が他人をも含む他の諸物体と同様のひとつの物体として,均質の客観的空間の内 部に位置するものと見なされるようになることを意味しているが,この「私の身 109.

(5) 55. 体の物体化」は,キネステーゼに基づいて「もし私がそこにいたなら,そこから 私の身体がどう見えるか」(Vgl.,HuaXIII,S.274)という「他者の目で見る」 (HuaXIII,S.468)ことによって完成される。この「他者の目で見る」というこ とが「私の身体の物体化」を完成させることによって,「私の身体」は他者の身 体を含む他の諸々の事物と並び立つひとつの事物と見なされることになり,この ことによってそれまでの非均質な空間が均質化され,均質な客観的空間の構成が 完成することになる。 均質的な空間の構成にいたる過程の大枠を示せば以上のようになるが,均質的 空間の構成において「他者の目で見る」ということが重要な役割を果たしている という点に注目すれば,確かに均質的空間はその構成に「他者という迂路」が関. 与している「他者によって媒介された空間」である,と言うことができよう2)。 ここで問題は「他者の目」というときの「他者」の意味である。「もし私がそ こにいたなら」という想定からも明らかなように,この「他者」は,「いま・こ こ」にいる「私」とは区別されるにしても,「いま・ここ」にいる「私」とは別 の「そこ」にいる「私」という意味をもつと考えられる。この<「そこ」にいる 「私」>という表現は多義的である。「かつて・そこ」にいた「私」,ないしは「い つか・そこ」にいることになる「私」を意味することもあれば,「いま・そこ」 にいる「私」を意味することもある。空間構成の議論における「そこ」にいる「私」 は,最後の意味での「私」を意味している。つまり,「いま・ここ」にいる「私」 に対して,それとほ別の,「いま・そこ」にいる「私」という「他者」を意味し ていると言うことができる。というのは,「かつて・そこ」にいた「私」や「い つか・そこ」にいることになる「私」の「目」には,「いま・ここ」にいる「私」 は映りえないからであり.また「かつて・ここ」には,そして「いつか・ここ」 には「私」は位置していないからである。さらにまた,「いま・ここ」にいる「私」 とは別の,空想上の「私」にも「いま・ここ」にいる「私」は見ることができな い。それが見るのは空想上の「私」であり,その空想上の「私」は空想されたも のであるがゆえに,客観的空間(そして客観的時間)のうちに居場所をもたない からである。 「いま・ここ」にいる「私」と,「いま・そこ」にいる「私(たち)」は,各人 が「私」であり,そしてその各々の「私たち」のうちの,「いま・ここ」にいる 「私」とは別の,「いま・そこ」にいる「私(たち)」という意味での「他者」が 先の「他者の目で見る」ということにおいて想定されている「他者」であり,そ 108.

(6) 56. れゆえ,この意味での「他者」は「各人としての他者」と特徴づけることができ る。そして,こうした「各人としての他者」が「いま・ここ」の「私」と共に,. いま現在,存在しているということが客観的空間の構成の条件となっているので ある。 ここに,フッサール現象学における「他者」のひとつの相を見て取ることがで. きる。つまり,均質な客観的空間の構成,一般化していえば,客観性の構成に関 与するものとしての「各人としての他者」がここに見て取られる。そして,この 「各人としての他者」は,「いま・ここ」の「超越論的自我」とともに均質的な. 客観的空間の構成に関与している点で「他の超越論的自我」であると言うことが できる。「共主観」としての「他者」,「超越論的に共に機能する者」としての「他 者」ということの,ひとつの例がここにあると言ってよいだろう。. 2 「ここ」と「別なここ」 前節で見てきたように,フッサールは非均質的な空間から,いかにして均質な 幾何学的・客観的空間が構成されるのか,ということを問う方向へ空間論の議論 を進めるのであるが,ここではわれわれは,議論の方向をフ、ソサールとは逆の方 向へ向けることにしたい。非均質的な空間の構成の場面に戻って,そこから,さ. らにその構成の可能性の条件ないしはその構成の根拠を遡って問うという方向へ 議論を進めていくことにしたい。そのことによって,フッサール現象学の中に内 包されていた「他者」の諸相を浮き彫りにすることができるからである。この節 では,そのための準備作業として非均質的な空間構成の前提となっている事柄を 確認していくことにしよう。 非均質的な空間の構成の議論は,すべて「絶対的ここ」における「私の視点」. 「私の身体」からの記述になっていた。非均質的な空間の構成とその記述におい ては,物体として構成される以前の身体,つまり前対象的あるいは非対象的な「私. の身体」(キネステーゼ的身体)が前提されているのであり,そして,その記述 自体は前対豪的な身体の位置する「絶対的ここ」における「私の視点」からなさ れている。対象化されていない「世界の開けの原点」として,「ここ」の「私」 が非主題的に前提されているのである。上下,左右,前後はすべて,こうした「こ. こ」の「私」を原点とする分節化であり,この「方位付けの零点」としての「絶 対的ここ」に位置する「私(の身体)」が鏡野の中心なのである。 107.

(7) 57. この点に関してはさらに,この原点は原点でありつづけながらも固定したもの ではないということが指摘されるべきであろう。このような「絶対的ここ」の「私」 が空間構成の議論の前提として想定できるためには,つねに「ここ」である「こ こ」が,なんらかの仕方で(「ここ」が「そこ」になるのとは別な仕方で)「動く こと」が暗黙のうちに前提されていなければならないと言うことができる。この ような前提を右していることを裏付けているのは,歩行できることがこの非均質 的な空間構成の重要な契機となっているということである。「私が動くこと」「私 が動くことができること」,そしてそれに伴うキネステーゼが空間構成の前提と なっていると指摘されるゆえんである。 ここでわれわれは,この前提がさらに何を前提にしているのか遡って考えてい くことにしたい。「私が動く」ということ,つまり歩行ということを認め,それ によって「見えない面」が見えてくること,そして「見えていた面」が見えなく なること,こうしたことの前提になっているのはいかなることか。それは,「見 えてくる」ということを認めるのであれば,そのときには,「ここ」が少なくと も「別なここ」になるということが同時に認められていなければならない,とい うことである。「ここ」が「別なここ」になっているということが暗黙のうちに でも認められていなければ,「見えていなかった面が見えてくる」「見えていた面 が見えなくなる」などということは言えないことになるからである。 つねに「ここ」は「ここ」であるだけで,「ここ」が「別なここ」になるとい うことがいかなる意味でも考えられないという水準を想定してみよう。この水準 においては,「ここはここである」ということが言えるだけであって,そこでは 「ここ」と「かつてのここ」「将来のここ」「たったいまのここ」・・・との区別がま ったく無効になっていると言うことができる。この場合には,そのつど「ここ」 において何かが「見えている」ということが言えるだけで,「(かつてのここから は)見えていなかった面が(いまのここから)見えてくる」ということも「見え ている面が別の面になった」ということも語ることはできない。 したがって,つねに「ここ」と言える「絶対的ここ」であっても,「或る絶対 的ここ」と「別の絶対的ここ」という差異をうちにはらんでいるということ,そ して同時に,にもかかわらず両者がともに「ここ」として同一化されているとい うこと,これらがすでに成立し,(暗黙の)前提とされているときにのみ,先の ような仕方での空間構成が成立しうると言うことができる。その意味で,「絶対 的ここ」と「別の絶対的ここ」との差異化を促すとともに!両者を同じく「ここ」 1川こ.

(8) 5β. として同一化せしめるものが,空間構成の可能性のもうひとつの条件であるとい うことになる。では,何がこうした「ここ」と「別のここ」を生じせしめるので. あろうか。 まず言えることは,新たな「ここ」を先の「ここ」とは「別なここ」と見なす ことができるのは,そこに時間が介在しているからだということである。「ここ」 が「かつてのここ」になり,あらたな「ここ」が「いま現在のここ」である,と. いう差別化が行われてはじめて,「ここ」と「別なここ」ということが意味を持 つようになる(構成される)と言うことができる。つまり,空間構成には時間構 成が先行しているのである。 このことは,フッサール自身が考える「空間と時間との関係」にも合致する。 フッサールにおいても「空間はすでに時間を前提している」(Hua XI,S.303)。. 例えば,前節において参照した『事物と空間』の中に出てくる「並木道」の考察 事例(HuaXVI,SS.219−223)からも,空間構成に対して時間構成が先行して いることを確認することができる:り。そこでは大略次のようなことが言われてい. る。 並木道を見ているとしよう。まず,並木系列a b c d eが「私」の視野の中に 現れている。このとき,「私」がキネステーゼ的に移動すると,樹木aは見えな くなり,新たに樹木fが見えてくる。さらに移動すると,樹木bも見えなくなり,. 新たに樹木gが見えてくる。このとき「私」の視野の中に現れているのは並木c d e f gの系列のみであるが,もはや見えなくなった樹木a,bも意識に保持さ れている。これらが意識に保持されているがゆえに,一連の移動において,同じ ひとつの並木a b c d e f gを見ていると意識されるのである。もし,見えなく なった樹木a,bが意識に保持されていないならば,そのときにはそのつど個々 別々の並木系列を見ていると意識されるのみであるということになるであろう。 並木系列a b c d eを見ている,並木系列b c d e fを見ている,…これらが互 いに何の関係ももたずに,互いに独立に意識されるのみであろう。 ここで,先に見た,つねに「ここ」は「ここ」であると言えるのみで,「ここ」. が「別のここ」になるということがいかなる意味でも考えられないという水準を めくやる議論に関して補足的な考察を加えることができる。「ここ」をそうした水 準において想定することとは,いま採りあげた並木道の例で言うならば,個々の 並木系列を個々別々に意識しているという意識のあり方を想定することを示唆し ていたものと考えられる。「ここ」はつねに「ここ」であると言えるのみで,「こ 105.

(9) 59 こ」が「別のここ」になるということがまったく考えられないとは,同時に,つ. ねに「いま」は「いま」であると言えるのみで,「いま」が佃Jのいま」になる ということが全く考えられないということを意味しているのである。というのは, 「ここ」はつねに「ここ」であるということと,「いま」が「別のいま」になる ということとの双方が同時に考慮に入れられる場合には,同じ「ここ」のなかで 「いまのここ」と「別ないまのここ」とを差別化することが可能となり,この場 合には,「別ないまのここ」という意味で「別なここ」が考えられてしまうから である。「別なここ」がいかなる意味でも考えられないという水準では,「別ない ま」も考えられないのであり,その水準を守ろうとする場合には,「別ないま」. ほ考えられてはならないのである。言い換えれば,「ここ」はつねに「ここ」で あると言えるだけであって,「ここ」が「別なここ」になることがいかなる意味 でも考えられないという水準を想定するときには,同時に「いま」に関しても,. 「いま」が「別ないま」になるということはいかなる意味においても考えられな いという同様の想定をすることが必然的に要請されるのである。そして,この場 合に何かが「見えている」ということに関して何かを語るならば,このとき語る ことができるのは,そのつどそのつど個々別々に何かが「見えている」というこ. とだけであるということになる。 さて,並木道の事例から確認されたことは,空間的事物(並木)の構成には, 「保持」という意識が不可欠であるということであった。より正確に言えば,先 の事例の記述においては議論の簡潔さのために省略されていたカ;,これから現れ. てくる樹木について「予描」しているということも不可欠であると言う必要があ る。空間構成に不可欠なこの「保持と予描」は,「過去把持と未来子持」に依拠 していると言うことができる。そしてさらに,この「過去把持と未来子持」は, 「いま」が「たったいま(という別のいま)」へと転化し,「もうすく、、(という別. のいま)」が「いま」へと転化するという意味で自己複数化し,自己差異化 (Selbstdifferenzierung)する「時間化」(Zeitigung)に依拠しているのである。 このように空間構成の可能性の根拠をたどっていくと,時間化による自己複数化. ・自己差異化が空間構成には先行しているという事態に行き着く。 この時間化をフッサールは最終的には「生き生きした現在」の位相において把 握することになる。「生き生きした現在」とは「立ち止まりつつ・流れる現在」 という両義的事態,つまり,現在が「いま」という形式においてつねに現在であ. り続ける(Stehen)とともに,現在はたえず非現在へと流れ去ること(Str6− 104.

(10) 6β. men)でもあるという原初的合一を意味している。この「生き生きした現在」ほ, 流れることによってたえず自己を時間化しているものとして,それ自身は非時間 的な時間化のはたらきその_ものである。そして,この時間化は「立ち止まる形式」 としての唯一の恒常的な「いま」を,流れ去る時間位置としてのそのつどの多数 の「いま」へと複数化することとしての自己複数化,自己反復にほかならない。 このような「流れる現在・いま」と「立ち止まる現在・いま」という両義的事態 における唯一の「いま」の複数化が,「ここ」と「別のここ」の発生の起源であ ると,言うことができる。つまり,「生き生きした現在」の「流れること」の契 機が,時間化における自己複数化の,そして,唯一一の「ここ」・「絶対的ここ」 の複数化の起源(根源・根拠)なのであり,「生き生きした現在」のもうひとつ の契機である「立ち止まり性」が,複数化された「絶対的ここ」の同一化の起源 なのであると,言うことができるのである。 フッサールは,この時間化における自己複数化,自己反復を「自我の唯一的な 機能現在の自己反復」と捉え,時間化を超越論的自我の自己時間化(Selbstver− zeitlichung),自己複数化と見なしている。晩年のある草稿では,時間化そのも のと位置づけられる「絶対的に機能する自我」が「流れる現在」として,流れの なかで唯一の自我の唯一性を喪失して自己多数化し,自己異他化(Selbstent−. fremdung)する(Vgl.HuaXV,Nr.36)とされている。したがって,こうした 意味での時間化を起源とする非均質的な空間構成は,いわば自己内部での差異化 による構成であることになり,このことにフッサールにおいて「非均質的な空間」 が「自己固有領域」と見なされた理由を見ることができる。 だが,この「自己固有領域」からは「他者」は完全に排除されてしまっている のであろうか。言い換えれば,自己のみによって「自己固有領域」は構成しうる のであろうか。この間いを問うとき,この節の冒頭で触れた「他者」の他の相が 明らかになってくる。この「自己固有領域」の構成の次元においても「各人とし ての他者」が介在しているということができるのだが,この点については,以前. に述べたことがある4)ので,本稿ではそれとは別の意味での「他者」がこの場面 に介在していることを示していくことにしたい。ここでわれわれが想起したいの は,フッサールの先のような「時間化」に関する自己理解に対しては,有力な批 判が存在するということである。次の節では,この批判を手がかりに「他者」の もうひとつの意味を確認することにしたい。. 10:さ.

(11) 6ヱ. 3 「時間化」における「他者」 フッサールは,前節末で確認した「時間化」における自我の「自己異他化」と しての自己多数化を最も基礎的なものとして位置づけており,そしてそこから, 「時間化における自我の自己多数化」を他の諸主観を含む主観の多数性と人称性 の発生根拠と見なすという仕方で,共轢能的他者の問題を解決しようと試みてい る。しかし,このような方向で共機能的他者の問題の解決を図ろうとするフッサー ルの試みに対しては,それは,私の自我の流れ去った時間位置の複数性に他の複 数主観の多数性を還元することに終わるだけであり,他者の問題の解決にはなら. ないとする,無視しえない批判が存在する5)。もしフッサールの目論見通りであ るとするならば,そのときには,例えば「かつての私」が「いまそこにいるあな た・彼・彼女」であるということになってしまう。これら両者は当然ながら異な るものであると言わざるをえないのであるから,この批半灯は正当なものであると 言うべきであろう。時間化における自我の自己複数化・自己多数化に訴えても, 「私」ならざる「他者」にほ至りつけないのである。 こうした議論に照らして「ここ・そこ」に関する問題を見直してみるならば, まず言えることは,「私の自我の流れ去った時間位置の複数性」によって可能と なるのが,「ここ」と諸々の「別のここ」,つまり「かつてのここ」・「将来のこ こ」であるのに対し,他者としての複数主観に相当するのが「ここ」に対する諸 々の「そこ」であるということである。そして,自我の自己時間化,自己差異化, 自己複数化によって構成される「複数の別の私たち」と,複数の共機能的他者存 在とが区別されるべきであるのと同様に,「別のここ」と「そこ」もまた区別さ れるべきであると言うことができよう。他者ということを考慮に入れる場合には, 「そこ」をたんに「別なここ」に還元してしまうことほ誤りであり,両者は区別 されるべきであるということになる。 時間化における自我の自己多数化・自己差異化によって,他者の問題・人称化 の問題を解決しようとするフッサールに対して,すでに時間化そのものの次元に 共機能的複数自我極の同時性を見て取ることができるとする議論がある。つまり, 共機能的他者は時間化された現在のうちに見て取られるものではなく,「生き生 きした現在」という時間化する現在にすでに他者は介在しているというわけであ る。複数の機能現在の根源的な共直の根拠を「純粋な到来性」という時間形式の うちに見て取ろうとするヘルトの主張6)もこの種の議論に含まれるものであると 102.

(12) 62. 言ってよい。 「生き生きした現在」は「流れること」であるが,この「流れること」ほ,現 象学的反省において対象化を遂行することそれ自体でもあるため,その反省にお いては決して対象化されえない。反省において対象化されたとき,それは「流れ」 という「対象」と化してしまう。その意味で「流れること(遂行現在)」は絶対 的に匿名的である。この絶対的に匿名的な「流れること」という事象を言い表し ていた別の表現が「究極的に(反省を)遂行する自我」という言葉であった。し たがって,「究極的に遂行する自我」も絶対的に匿名的である。「還元」によって 自らが「構成(を遂行)する自我」であることを自覚した「私」が,その自覚の もと,さらに自らの「私の構成機能」をその根拠へと一歩一歩遡っていく(還元 していく)とき,最終的には「私が…する」とも「私のもの」とも言えない事象, つまり絶対的に匿名的な「生き生きした現在」に曝されることになるという逆説 的な事態がここに見て取られるわけである。こうした絶対的に匿名的な「生き生 きした現在」に関して鷲田清一は次のように述べている。 「フッサールが自我の究極的な存在様態として析出した《生き生きした現在≫ は,その根源において『親密さ』と『よそよそしさ』との,自己固有性と異他性 との両義的な統一であった。これは言うなれば,棟能現在は自己自身との関係に おいてすでに異他性を挿入しているという事態を意味しているのであるから,自 己自身への直接的な内在的関係として規定される自己固有性という概念は,その 優先権を主観性の最根源においてすでに失効させられていると言ってよい。そし て,自己固有性と他者性との区別でさえそこから時間化として湧出してくる動的 な場としての《生き生きした現在》がそれこそ絶対的に匿名的(無人称的)なも. のであるとすれば,そのかぎりで,共同主観の機能現在を自我の転形とみなす解 釈はもはや事象的に拒まれていると言うしかない」7)。 この驚田の解釈は,先に名前を挙げたヘルトの解釈を支持しつつまとめ上げら れたものでもある。ヘルト・鷲田の解釈とわれわれの議論との接点を明らかにす ることを通じて,「生き生きした現在」を「自己固有性と異他性との両義的な統 一」と見なしうるということを開示していくことにしよう。 「生き生きした現在」における「流れること・遂行現在の移行性」には「退去 性」と「到来性」という二面性が見られる。つまり,遂行現在の移行性にほ,現 在が絶えず非現在化するとともに非現在が現在化する,という二面性を指摘しう る。そして,この二面的な遂行現在に他者の「匿名的な共現在(Mitgegenr lOl.

(13) √i.一?. wart)」を見てとろうとするのがヘルトの解釈である。「流れること」に非主題 的に「気づいていること」をヘルトは「甘受」という表現で言い表しているが, この「甘受」は,同時に他者の「匿名的な共現在」への非主題的な「気づき」で ある。 遂行現在の移行性(=「流れること」)の一契機として「到来性」が未来の意 味として見出されるが,特にこの「到来性」をヘルトは他者の「匿名的な共現在 の時間形式」と見なす8)。というのは,この到来性は「つねに新しくあること (ImmerTneu−Sein)」射であるが,「つねに新しくあること」とは,「なじみのな いこと・よそよそしいこと」と「なじみのあること・親密なこと」とが共発生し ている両義的事態であるからである。それゆえ,ここに「異他性」と「自己固有 性」との両義的な統一を見て取ることができるわけである。 「異他性」は「つねに新しくあること」としての「到来性」に見出されるので あるが,では,「生き生きした現在」における「自己固着性」とはなんであろう か。先にも触れたように,「立ち止まり性」にそれを見ることができる。ヘルト は,「現在の移行性」に三重性を指摘している。「今がたえず新たになること,今 がたえず消え失せること,移行性そのものがとどまりつづけること(Verharren dert)bergangigkeitselbst)すなわち今一般のとどまりつづけること」川)という 三重の性格が一体となっているのが「現在の移行性」であるというわけである。 第一の性格が「到来性」であり,第二が「退去性」,そして第三の「移行性その ものがとどまりつづけること」が「立ち止まり性」である。この「立ち止まり性」 にこそ「自己固有性」が見て取られるべきであろう。 ここで「自己固有性」と見なされたものが「移行性」の一契機であること,そ して,「移行性がとどまりつづけること」とされていることを重視すべきである。 そして「移行性」が「異他性」と重なり合うものであることを考慮に入れるとき, ここでは移行性がとどまりつづけることに先立つ,すなわち異他性が自己固有性 に先立つという思考法がとられていることが見て取れる。この思考法をわれわれ は重視したい。異他性が自己固有性をある意味では可能にしているということが できる。 ここで想起すべきは,『生き生きした現在』においてヘルトが指摘した「甘受 の脆さ(Hinfalligkeit)」「自己共同化(Selbstvergemeinschaftung)の脆さ」と いう事態である。自我が「自分自身の『私は作動する(Ichfungiere)[=流れ ること・遂行現在の移行性]』を『甘受すること(Hinnahme)』」11)に関して彼は 100.

(14) 64. 次のように言う。 「この甘受は,決して確保された所持となることはなく,それ自身ふたたび匿 名的な先所与性として受け入れられねばならないのであり,以下同様にこれが繰 り返されるのである。甘受がいつもさらに新たにされねばならないというこの必 要性(dieseErneuerungsbedtirftigkeit)のうちに,甘受が保持され、一えないと いうこと(Nicht−gehalten−WerdenTk6nnen),すなわち原初的な滑り去りが含ま れている。『私は作動する』における自己の甘受は,それ自身では脆い(hinf弘 1ig)もの,更新を必要としている(erneuerungsbedtirftig)ものであり,それゆ え絶えず追い越されねばならない。‥・自己共同化は,自己自身の先所与性の,絶 えず更新を必要とする,脆い,それゆえ絶えまなくみずからを更新してゆく甘受 である…」−2)。 ここでは,「流れること」を「滑り去る」にまかせつつ受け入れ「甘受する」 ことにおいて,自己の「取り集め」(Zusammennahme),つまり「自己共同化」 が生ずることが語られ その「自己共同化」は「流れること」において生ずるが ゆえに,確固としたものではありえず,「脆いもの」「更新を必要とするもの」と ならざるをえないということが述べられている。これを,自己固有性と異他性の 関係を述べたものとして敷術するならば,自我の自己固有なものは,異他的なも のと出会い,それをどうすることもできずに受け入れ 甘受することによって初 めて成立するものであり,なおかつ,そのようにして生ずるがゆえに,自己固有 性は「脆いもの」であり,たえず更新されていくものであるということになる。 ここから,われわれは次のように言うことができるであろう。フッサールは, 時間化を唯一の絶対的自我という,いわば絶対的な自己固有性の自己時間化と見 なし,その自己時間化によって自己差異化・自己複数化が生ずると考え,その延 長上に異他的なものないしは他者との接点を求めていったのであるが,この思考 法は逆転されねばならない。フッサールが「絶対的自我」「原自我」と名指した ものは自己固有なものではなく,「時間化」はフッサールが理解するような「自 己固有なものの自己時間化」なのではない。「時間化」とは,そもそもの初めか ら異他的な「流れること」の「甘受」として解釈し直されるべきである。また, 自己時間化によって自己差異化が生ずるのではなく,「流れること」を受け入れ 「甘受すること」において異他性を自己固有なものに転化する「自己固有化」が 生ずるのである。そして,この「自己固有化」ヰまたえず「流れること」において 生ずるがゆえに,固定したものとはならず,たえず更新されていく。したがって, 99.

(15) 65. 「自己国有化」において確保される自己固有なものもまた,「流れること」にお いてたえず更新されていかねばならないのである。この「更新」ということのう ちに「自己差異化」「自己複数化」という事態を見て取ることができる。「自己国 有化」が更新されることによって,「別の自己・別の私」が生じ,それが過去把 持的に保持されるとき自己差異化が行われる。そして,それがたえず更新される ことによって,たえず「別の自己・私」が生じ,それがまたたえず過去把持的に 保持されるとき,自己複数化が行われることになる。このように見てくるならば, 「別の自己・別の私」の「別の」とは,(「流れること」における異他性によって 促される)「更新」に由来するものであり,さらに遡れば「更新」を促す「流れ ること」における異他性に由来すると言うことができるのである。 時間化の次元においてすでにこうした議論が成り立ちうるということほ,均質 な空間の構成におけるよりも以前に,非均質的な空間の構成の水準においてすで に「他者」がその構成に関与していることを示唆しているものとして理解するこ とができる。確かに,均質的空間の構成の際に,自己の身体を物体として把握す ることがその構成にとって必要な条件であり,この自己の身体を物体として把握 することを可能にするものとして他者(の身体物体)が媒介として働いていると いう意味で,他者が空間構成にとって重要な契機となっていると言うことはでき る。しかし,均質的空間の構成以前にすでに,「他者」が非均質的な空間構成(自 己固有性の構成)の次元にすでに関わっているのであり,こうした次元での他者 の関与を先の議論は告げているのである。 ここに,いまひとつの「他者」の相を見て取ることができる。つまり,自己固 有性の構成に関与する「他者」という相が見出されるのである。「他者との出会 い」は,非均質的空間から均質的空間が構成される場面で問題となるばかりでは なく,非均質的空間・自己固有領域の構成の水準においてすでに生起していると 言ってもよい。より具体的に言うならば,「ここ」と「別のここ」との関係に関 しても,そこに「他者」が媒介として働いていると考えるべきであるということ になる。言うならば,「別なここ」から「そこ」が「ここ」の変様態として構成 されるのでなく,「そこ」から「別のここ」が「構成される」のであり,「別なこ こ」は「そこ」の変様態なのである。 この節では,自己固有な非均質的な空間の構成,一般化して言えば,自己固有 性の構成にすでに関与している「他者」として,「到来性」としての「異他性」 と特徴づけられた「他者」が見出された。だが,このような「異他性」として「他 98.

(16) 66. 老」を把握していく議論に対しても,「異他性」もまた結局は「私自身ではない か」とする批判が加えられることがある。 「ヘルトの他人論の解決は,実は,未来と現在との連続性を前提しているので. はないか。すなわち,彼の考えている未来は,現在に何らかの仕方ですでに連続 的なものとして,他人でほなくて私自身ではないのか。あるいは,彼にとって未 来は思いがけない存在ではあるかもしれないが,その思いがけなさは,やはり或 る種の既知を含んでおり,たとえば,私が自分に出会うその仕方が不意であって,. まるで見知らぬ人を前にしているかのようである,といったようなものではない のか」】3)。. 「異他性」としての「他者」よりもさらに遡っていったところで「見出される」 ことになる「決して私ではない他者」とは,いかなることなのか。この点を次の 節では見ていくことにしたい。. 4 「非現前」としての「他者」 「別なここ」と「そこ」との間に差異を認めるかどうかで,「他者」のどのよ うな相を見て取ることになるかが決まってくると言うことができる。差異を認め ない場合には,「他者」という言葉を使用しても,それは「他の私」「別の私」を 意味することになる。超越論的自我と超越論的他者は,「超越論的われわれ」と して理解されることになる。これに対して,差異を認める場合には「他者」は「私 ではないもの」「(私ではない)異他的なもの」という意味で使用される る。そして,この二つの「他者」の差異が,「別なここ」と「そこ」の差異とな ってあらわれてくる,あるいはまた,「別な表」と「裏」との差異となって表れ てくると考えることもできる。 だが,二つの「他者」のうちの後者である「異他的なもの」は「私ではない」 ということがもつ意味のひとつであるにすぎないと言うこともできる。「私では ない」ということのもうひとつの意味を確認することによって,前節末でとりあ げた批判が想定している「他者」の意味を明らかにすることができるように思わ れる。ここでは,直接「他者」へ向かうのではなく,摘め手から,すなわち「別 な表」と「裏」を手がかりとして,第三の「他者」の相へと議論を進めていくこ とにしたい。. 「別な衰」と「裏」とを分かつのはいかなることなのだろうか。「別な表」ほ, ゝ】丁.

(17) 67. 「いつかは」あるいは「かつては」,さらに場合によっては「他者にとっては」 という制約をもつにしても,結局は「見える面」を意味することになる。可能的 な「見える面」を意味すると言ってもよい。それに対して,「別の表」と区別さ れる場合の「衰」ほ端的に「見えない面」であることを意味している。つまり, 両者の差異は,「別な表」は「表」である以上何らかの意味で「現前」である のに対して,後者は「非現前」であるという点にある。「別な表」と言うときに は,それは端的な「衷」とは別な意味で現前しうるものであること,すなわち「共 現前」的であるということを含蓄的に意味しているのであり,「別な表」と「裏」 とを区別するときには「裏」は,「現前していない」ということ,すなわち「非 現前」ということを含蓄的に意味しているのである。 このことは,「別なここ」と(「別なここ」と区別される意味でり)「そこ」に 関しても言えるし,さらにまた,同じことは時間に関しても指摘することができ る。時間に関しても,原印象という「現前」に対して未来予持・過去把持という 「非現前」が指摘できるのである。もちろん,フッサールは未来子持・過去把持 を「共現前」として捉えおり,端的に「非現前」としているわけではない。しか し,フッサールがこれらに関して「非現前」という側面よりも「潜在的」「非本 来的現出」「沈澱」といった側面を重視したのは確かであるにしても,これらを 「非現前」と見なすことはフッサールの見解とも両立しうる。というのは,フッ サールにおいても未来予持されたものや過去把持されたものは「見えていないも. の・聞こえていないもの…」であり,そのようなものでなけれはならないからで ある。未来予持・過去把持の考察の際によく採りあげられる「メロディー知覚」 の例で言えば,過去把持された音は「(もはや)聞こえていない音」であり,も し「聞こえている音」だとすればそれは原印象的に与えられている音(例えば, 残響)であって,決して過去把持された音とは言えない。このように,「非現前 (・‥ない)」ということはフッサールの思想の中にすでに含まれている。ただ, それが主題的に問われなかっただけである。. ここでも,われわれはフッサールが進んだのとは逝向きの方向に議論を進めて いく必要がある。フッサールの思想のうちにすでに含まれていたが,彼によって は主題的に問われなかった問題事象へ向けて考察の目を向けるべきなのである。 過去把持されたものは「聞こえていないもの,見えていないもの」であるという ことからフッサールは,それもまたある意味では「(共に,非本来的に)聞こえ ているもの,見えているもの」であるということを論ずる方向へと進んだのであ 96.

(18) †ブ〆. るが,われわれはこれとは逆の方向に議論を進める。過去把持されたもの・未来 子持されたものは「聞こえていないもの,見えていないもの」であるという同じ 出発点から”「聞こえていないこと,見えていないこと」へ,そしてそれらに含 まれる「・‥ない」ということへと議論を進めていくことが試みられるべきなので ある。 確かに,未来予持・原印象・過去把持というこの三項は厳密には,あるいは狭 義にとれば,事物知覚における「現前化」そのものに見られるものであるから, 事物知覚における「裏側」の「非現前」とは水準の異なるものであるということ は認めなければならない。しかし,それらは,言うならば,「現前における『現 前と非現前』」とでも表現すべきものなのであって,それらもまた「現前と非現 前」の構造として理解しうるものであると言うことができる。「現前と非現前」 の構造は,事物の見えている表面をまさに見続けているときにも見出すことがで きるのである。ここで見出すことのできる「現前と非現前」の構造とほ,「たっ たいまの見え」と「まさに来たらんとする見え」とが「見えていない」(非現前). からこそ,「いまの見え」がまさに「見えている」(現前)ということが可能にな っているという関係(あるいはこれとは逆の関係)を意味している。 例えば,再びメロディーの知覚を例に考えれば,ドミソというメロディーがメ ロディーとして知覚されるためにほ,最後のソ音が現前しているとき,下音とミ 音は非現前でなければならない。メロディーの最終音としてのソ音が現前するた めには,ド音とミ音は非現前でなければならないのである。というのも,もしド 音とミ音が共に現前しているとしたならば,それはドミソの和音が現前している ことになり,ソ音という単音が現前していることにならないからである。このと き,ド音とミ音の非現前がソ音の現前を可能にしていると言ってもそれほど不自 然なことではあるまい。また,一連の音の連鎖を「ドミソ」というメロディーと して知覚するためには,そしてそのことによって「ドミソというメロディーが聞 こえた」と言うことができるようになるためには,ド音もミ青もソ音も非現前で なければならない。こうした様々な場面において「非現前」は積極的な働きを示 しているのであり,単なる「現前の欠如態」ではない,と言うことができよう。 こうした関係構造を基にして,そこから「出発」して,「見え続けていること」「見 えの持続」(=フッサールにおける「原印象と未来子持・過去把持という構造」). も成立してくるのである。 「他者」という問題に関してこうした考察から指摘できることは,「(共)現前 95.

(19) 69 と非現前」ということによって,「(別な)私」と「他者」との区別が特徴づけら れるということである。実際,「(共)現前と非現前」は「(別な)私」と「他者」 に関しても同様に当てはまる。他者のしている経験は,現前する可能性がアプリ オリに排除されているという意味で決して現前することのないもの,「非現前」. 的なものである。他者の経験は,フッサールも正しく認めているように,私には 現前化という仕方で充実し,確証する可能性がアプリオリに排除されているもの であるからである(HuaI,S.139.)。これに対して,「別な私」という場合には, この「非現前」ということが背景に退き,「共現前」という非本来的な「現前」 という面が主に考えられているである。この「非現前」ということのうちに,「各. 人」や「異他性」とは異なる意味での「他者」を見て取ることができる。 われわれがこの節で見出した「他者」の意味は,「非現前」ということにあっ. た。いまここにいる「私」,その「私」にとって自己固有なものと見なされるこ とになる「現前」に対して,「非現前」を「他者」の主要な意味として見出すこ. とができるのである。このような「非現前」ということを「他者」の本質的な契 機として重視する立場からの批判が,前節末に挙げた批判であったと言うことが できよう。「異他性」は,それがどれほど「なじみのないもの」であるにせよ,. まさに「なじみのないもの」として「現前」しているという次元で考えられてい るのである。「他者」(「他人」)は「私ではない」ということ,この「ない」とい うことをラディカルに突き詰めていくとき,それは「異他性(異他的なもの)」 を通り越して,「非現前」ということに収赦していくことになるのである。. 結. 語. これまでの本論のなかで見出されてきた「他者」の諸相をまとめるならば,そ れは三つの相からなると,まとめることができる。ひとつは,「別な私」という 意味で考えられている「他者」が挙げられる。これは,「各人」としての「他者」 のことであり,「共現前」的なものとしての「他者」と理解することができる。. 第二に,この「別の私」とは区別される意味での「他者」の相として,「異他的 なもの」が挙げらゎた。この「異他的なもの」の登場に,単なる「別の私」とは 異なる「他者」の意味が認められたのである。第三の相としては,「非現前」と いうことが指摘された。より正確に言えば,「他者の他性」として「非現前性」. が指摘されねばならないのである。 !l・】.

(20) 7∂. 「他者」ということがこうした諸相をもつことを,ある意味でほフッサールは. 正しく理解していたということもできる。特に,「共現前としての他者」として 「他者」を理解しながらも,第三の「非現前としての他者」という意味を固持し. 続けたことは,高く評価されるべきであろう。したがって,フヅサールが「非現 前としての他者」を見失ったと批判するとすれば,それは不正確だということに なる。 にもかかわらず,フッサールに批判されるべき点があるとするならば,それは 「共現前としての他者」と「非現前としての他者」という両者が両立しうるとい うことを明確なかたちで示すことをしなかったということであろう。フッサール 以降のわれわれがなすべきほ,「共現前としての他者」と「非現前としての他者」 との「差異における同一性」がいかなるものであるのかを分析することであり,. そしてここに,「異他性としての他者」がいかにかかわってくるのかを明らかに することであろう。この点に関する議論を充分に展開するには,別の機会を待た ねばならないが,われわれのこれまでの考察からも,こうした課題に関して,き わめて大まかなスケッチならば示すことができる。 「非現前としての他者」とは,「現前しない」ということなのであるから,本. 来は「他者」と言うことすら不適当であり,「他性」ないしは「否定性」と呼ば れるべき事柄であると言うべきであろう。そして,この「非現前」という「他性 ・否定性」は「流れること」という「移行性」の契機として,絶対的に匿名的(無. 名的)な,没自我的な次元の事柄である。だが,「非現前」それ自体は「現前し ない」にもかかわらず,「非現前から現前へ」という「流れること」の「到来性」 において,「非現前」としてではなく「異他性」として「現前」する。「現前」に 回収された「非現前」としての「異他性」の登場によって,没自我的な次元に「自. 己」と「他者」を同時発生させる「根源分割(Urscheidung)」(HuaVI,S.260) が成立する。ここで「自己」と同時発生する「他者」が「共現前としての他者」 という意味をもつことになる。「非現前としての他者」は「共現前としての他者」 がまさに「他者」であることの「起源」であるという点に,両者の「同一性」を 指摘することができ,非人称的・没自我的な次元と萌芽状態ではあれ人称性が発 生している次元との差(そして,もちろん「非現前」と「現前」との差異)に,. 両者の「差異」が指摘できる。 もちろん,このスケッチは不十分なものである。「非現前から現前へ」という 「流れること」において「異他性」として「現前」に回収されるというときの, 93.

(21) 7J. 「非現前」と「異他性」の関係が未だ不明確であるし,「異他性」として登場す る「他者」がなぜ,フッサールの議論においては「他我」ということになるのか ということについても,「異他的なものの自己国有化」ということが本稿では指 摘されたが,それで十分なのかどうかといった点に関して議論を深める必要があ ろう。精緻な議論を展開すべき点はほかにも多々あるが,こうした点を論ずるこ とは今後の課題とすることにして,ここでいったん論を閉じることにしたい。. 註 * フッセ1」ア←ナからの引用は,本文中丸括弧内に,‘‘Hua”という略記号に巻数を表す. ローマ数字と頁数を示すアラビア数字を付して表記した。 1) フッサールの『事物と空間』における空間構成論の概要をまとめるにあたって, 細川亮一「フッサール現象学における身体」(立松弘孝編『フッサール現象学』. 勤草書房,1986年,所収)「4 空間構成と身体」を参考にした。 2)浜渦辰二『間主観性の現象学』(創文社,1995年),1鋸ト191頁参照。また,まず. 第一に「身体にして物体である」のは他者の身体物体であるということもできる。 その他老の身体物体から,空間内の物体としての意味が汲み取られて,私の身体. もまた空間内の物体であると意味づけられる。この意味でも均質的な空間は「他 者によって媒介された空間」であると言えよう。 3)同様の指摘が,谷徹『意識の自然』(執事書房,1998年),422頁以下に見られる。 4)拙稿「事物知覚における付帯現前化に見られる他者の契機」(『現像学年報15』, 日本現象学全編,1999年10月刊行予定)参照。 5)新田義弘『現象学』(岩波書店,1978年),156頁以下参照。. 6)Vgl.,K.Held,“Das Problem derIntersubjektivitat und dieIdee einer ph畠nomenologischenTranszeridentalphilosophie”,〔以下PIと略記〕in‥IkY*ek−. tiventrans2endenta&hdnomeno10gischerPbYSChung,MartinusNijhoff,1972・(坂 本満訳「相互主観性の問題と現象学的超越論的哲学の理念」『現象学の展望』国 文社,1986年,所収。) 7)鷲田清一『人称と行為』(昭和堂,1995年),211頂こ以下。 8)Vgl.,Held,PI,S.60.また,鷲田清一『人称と行為』,198−210頁も参照。 9)Held,PI,S.59.(邦訳208頁。) 10)Held,PI,S.57.(邦訳205頁。). 11)K.Held,LebendなぞGegenwart,DenHaag∴MartinusNijhoff,1966〔以下LGと 略記〕,S.164.(新田義弘他訳『生き生きした現在』北斗出版,1988年,226頁以 下。)なおナ[]内ほ引用老による補足。. 92.

(22) 72. 12)Held,LG,S.165.(邦訳227頁以下。) 13)山形頼洋『感情の自然』(法政大学出版局,1993年),181頁。. 9l.

(23)

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