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- 市民リテラシーの教材としての意義 - 川上文雄 ( 奈良教育大学社会科教育講座 ( 政治学 )) The Full Texts of the TV Program Today s Close-up: Their significance for cultivating citizen liter

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奈良教育大学 教育実践開発研究センター研究紀要 第23号 抜刷 2014年 3 月

-市民リテラシーの教材としての意義-

川上文雄

(奈良教育大学・社会科教育講座(政治学))

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1.はじめに 「クローズアップ現代」は医療・福祉、環境、地域 づくり、文化などさまざまな分野の現代的課題をと りあげた報道番組である。インターネット上にホーム ページがあり、そのなかに「放送まるごとチェック」 (以下「まるごと」)という文字情報がある。放送され た音声の内容をすべて文字化したものである。本稿の 目的は、身近な学びの手段としての「まるごと」の特 徴と可能性を明らかにすることである。そのような手 段をしっかり使いこなせるということは、学ぶ者、ひ いては市民としての自立と成長のために重要であると いう観点から、以下の順序で記述する。 まず、学ぶ者の身近にある教材としての「まるごと」 の具体的なありさまを記述する。本稿の出発点には現 代詩作家・荒川洋治の学力観への共感がある。荒川は 「身近なモノをしっかり認識するということが学力の 基本」であるという(荒川[1996: 49])。さらに、「そ の人のもつ力でものを理解するという習慣」の重要性 を強調する。 文学の知識は、文学作品や文学についての書物を 読むことで得られると思うのは、文学にかかわる 人の幻想である。新聞を丹念に読むだけでも文学 に通じることはできる。ことさらなものではなく、 その人のもつ力でものを理解するという習慣が、 日々失われている。ものを知るための「日常」の 環境が破壊されている。そこに文学の危機がある。 (荒川[2005: 274]) この習慣=学力を「まるごと」を教材にして身につけ ることができる。本稿はこれについて記述し、さらに この身近な教材が総合的な教材であることを明らかに する。 荒川の記述は、具体的な学び方についてほとんど 触れておらず、 授業の内容を構想するためには、あま り参考にならない。しかし、身近な素材とじっくり取 り組み、それをていねいに読みとり、その人のもつ力 でものごとを理解するという荒川の学力観を受けとめ たうえで、「まるごと」を教材として使う可能性を追 求したい。そこで、本稿は「まるごと」を使った生存 権の学習(人権学習)の構想を提示する。「まるごと」 は人権学習の教材になりうるのである。 さらに、本稿は市民リテラシー(市民性教育)の教 材としての「まるごと」の文化的・政治理論的意味づ けをおこなう。そこで依拠するのは、荒川と文化的危 機意識を共有する政治理論家のシェルドン・ウォリン (Sheldon Wolin)の議論である。

-市民リテラシーの教材としての意義-

川上文雄 (奈良教育大学 社会科教育講座(政治学))

The Full Texts of the TV Program “Today’s Close-up: Their significance for cultivating citizen literacy Fumio KAWAKAMI

(Department of Social Studies, Nara University of Education)

要旨:NHKのテレビ報道番組「クローズアップ現代」のホームページ上には「全文表示」というテキストがあり、こ れを資料集に編集して市民リテラシー、人権学習のすぐれた総合的教材として利用することができる。「身近なモノ をしっかり認識することが学力の基本」であり「ことさらなものではなく、その人のもつ力でものを理解するという 習慣」を身につけることが重要であるという荒川洋治の考えに沿いながら、全文テキストの教材としての特徴と可能 性を考察する。「全文表示」も新聞も、文字によるメディアであり、報道されるトピック(分野)に共通性があり、 NIEの補完的な教材として使用することも可能である。

キーワード: クローズアップ現代 Today’s Close-up、市民リテラシー citizen literacy、 市民性教育 citizenship education、人権 human rights、

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そして、ウォリンの議論との関連で、授業実践と「理 論」の関係について前田聡一の論文を取りあげながら 考察する。これは、CiNii Articlesを「クローズアッ プ現代」で検索したとき、教育・授業関連ではただ一 つヒットする論文である(1)。本稿は、この論文とは 異なる「理論」のとらえ方を提示する。 なお、本稿は教育実践の基礎にかかわる問題をと りあげたものであり、授業における学生の学びの様子 を考察の中心としてはしていないことを断っておきた い。 2. 学びの素材を身近で見つける 「まるごと」は二つの意味で身近な学びの素材であ る。第一は、大学のコンピュータから容易に入手でき ること。第二は、自分の過去・現在の経験につながる 「まるごと」があり、それを出発点として学びを広め たり深めたりすることができるという意味である。 2.1. 全文表示テキストの編集 「まるごと」はインターネット上のホームページ(以 下、HP)から容易に入手できる(2)。学生の場合、自宅(自 室)にコンピュータがなくても、大学のものを使うこ とができる。また、費用がかかり利用が遠ざけられる こともない。この点でも身近である。自分の機器です べての作業をする場合は、インターネット料金を含め て初期費用は安いとはいえないかもしれない。とはい え、「まるごと」の入手については、印刷コストなど があり無料ではないが、極めて安価である。以上のよ うに「まるごと」は物理的・費用的にみて容易に入手 できる手段である(3) 資料の作り方は、まず「まるごと」の「全文表示」 を呼び出し、ワード文書として“コピぺ”する。そのま まではページ数が多いので―A4で13ページ程度―4 ~5ページに縮める作業をする。まれな場合を除いて、 画像は削除する。そして印刷。4ページを両面印刷す ると2枚になる。資料化を続けていくといずれ大量に なるので、この枚数に収めるようにしている。紙の省 資源でもある。受講生自身が編集作業をする場合も、 基本的に私がやっているのと同じである。 「まるごと」の編集と資料化の作業は、自分の時間 管理にもとづいておこなえる。授業に必要な、また自 分にとって興味のある「まるごと」を、時間のあると きにまとめて資料化している。時間の余裕があれば、 一度に集中してできるし、そうでなければ、途中でキ リのよいところで止めて、つぎの機会に続きをおこな うこともできる。以上の意味での容易さ、使いやすさ も「身近な」という特徴に数えられるだろう。 また、実際の生放送は視聴してそれで終わりにな りがちなのが、文字化された資料集があれば、折に触 れて繰り返し読むことができる。そして、下線を引く、 書き込みをするなどの「付き合い」をしていけば、そ の意味でも身近になっていく。 「まるごと」を20例ほど集めると、その文字数は200 ページ程度の新書版の本1冊の分量になる。 2. 2. 全文表示テキストの内容要旨文 授業のなかで学生には、関心を持っていることに 焦点をあわせるようにと言っている。家族に高齢者が いれば、自分の経験とつながる事例が医療・福祉分野 にかなりの数ある。事故・被害(とくに教育現場での) をとりあげたものは、多くの学生にとって切実であろ う。身近な「まるごと」を見つけるのは、さほど困難 ではない。これについては、ホームページ上の内容要 旨文(以下、HPリード文)が役に立つ。これを相当 数集めて資料化したものを、教員が作って学生に配布 する。それを読んで選ぶようにと指示する。HPリー ド文はどのようなものか。以下は、実際にある学生が 選んだもので、番組タイトルは「戦場の市民をみつめ て 山本美香さんのメッセージ」である。 先月、内戦中のシリアで銃弾に倒れたフリー ジャーナリスト・山本美香さん(享年45)。新聞 記者だった父親の影響を受け、ジャーナリストを 志し、16年にわたり紛争地を取材し続けた。600 本を超える取材テープから見えてくるのは、戦場 を取材しながら、徹底してそこで生きようとする 市民にカメラを向けていたことだ。死の一週間前 の映像にも、空爆を受けてなお、その地で暮らし 続ける一家の食卓、破壊された戦車で遊ぶ子ども たちが記録されていた。一方、映像の行間からは、 恐怖を必死にこらえながら戦場に向き合っていた 一女性としての山本さん像も浮かび上がる。多く のジャーナリストが命を落とす戦場。中でもシリ アは、市民が無差別に銃撃・爆撃され、その現実 を伝えようとする報道人も狙われる最悪の戦場と なっていた。そんな戦場に、山本さんは何を伝え ようと向かったのか。残された映像や手記、証言 をたよりに探っていく。 これを選んだ学生の書いたリポートの文章がすば らしく、それに促されて「まるごと」の本文を読んで みた。すると、山本が生前、若い人たちに伝えたいと 講演会などの場で必ず語りかけていたということばに 出会った。「戦争って突然起きるわけじゃなくて、必 ず予兆がある。世界の片隅で起きていることかもしれ ないけれど、みんなで声をあげれば止めることができ るかもしれない。」「まるごと」を読むと、こころを動 かされることば、記憶にとどめたいことばに出会うこ とが多い。私よりも先に、この学生が「まるごと」を

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読み、そのことばを私に伝えた。実は、私は本放送を 視聴していた。しかし、その部分を聞き流していたの であろうか、記憶にとどまっていなかった。 2. 3. 身近なトピックを手がかりに関心を広げる 受講生とことなり、私の場合はすでにいろいろな 分野に関心があり、「まるごと」の数はどんどんふえ ていく。しかし、関心のあまり高くない分野、あるい は詳しくない分野はいくつもある。この点では学生と 変わらない。そのような分野の一つをとりあげて、身 近な関心が広がり、「まるごと」資料集が充実してい く過程の一端を示したい。以下は、学ぶ者(=学生) としての私の経験を記述したものである。 私は環境教育コースの教員として、まちづくり、環 境・都市環境、農業・林業に関心があり、すでに「眠 れる日本の宝の山 林業再生への挑戦」を資料化して いた。そして、「進む都市の木造化―林業再生への挑戦」 に目が止まった。以下がそのHPリード文である。 1000㎡を超えるオフィスビルやショッピングセン ター、5階建て集合住宅[…中略]。日本で半世 紀以上、建設されていなかった都市部の大型木造 建築物が、今年、相次いで完成する。かつて戦争 や自然災害で多くの木造家屋が焼失した経験か ら、国は1950年代に都市部の大型木造の建築を禁 止。それが近年、耐火・耐震性能等が急速に高 まったため、建築が進んでいるのだ。背景には 木材がCO2を固定する環境先端素材として見直さ れ、2010年に公共建築物の木造化を推進する法律 が制定されるなどの林業振興政策の転換がある。 歴史の空白が生んだ人材やノウハウの不足を乗り 越え、地域資源を活かして新たな木の文化を復活 させようとする現場の模索を伝える。 この日の放送はテクノロジーを主題にしているのであ るが、それは以上の文章からは分かりにくい。しかし、 本文につぎの記述があり、そのことが分かる。 柱や、はりに使われているのは、建物が火事になっ ても火が自然に消えるという特殊な加工が施され た木材です。木は3層の構造に分かれています。 外側は、燃えると炭素の層になり耐熱効果を発揮 します。中間にはモルタルなどの層があり、熱を 吸収します。これで、内側にある建物を支える木 材の芯の部分を守る仕組みです。 これをきっかけにテクノロジー・技術への関心が深ま り、その語句で検索してみると、相当数の「まるごと」 が生活環境を含む環境分野で見つかる。 検索機能はかなり充実している。ただし、検索だ けに頼っていては限界がある。「まるごと」本文中の 語句は検索の対象外だからである。先ほどの「進む都 市の木造化―林業再生への挑戦」では、HPリード文 に「テクノロジー」「技術」の語がないので、その語 で検索してもヒットしない。(厳密にいうと、HPの編 集者の裁量により検索の対象に含まれる場合がある。) むしろ、探している語句がその本文中に使われている 可能性がある。また、その語句が使われていなくても、 内容的に該当することも少なくない(4) 本文中の語句から、自分で選んで検索する。すで に読んだいくつかの「まるごと」を独自の概念でグルー プ化する。他分野の「まるごと」を読むことで、すで に関心のある分野について深まりと広がりを得る。そ れと同時に関心のなかった分野そのものについても深 まりと広がりを得る。そのようにリゾーム(地下茎) 的につながっているのが「まるごと」の世界である。 2. 4. 書物に頼らない方法 番組に出演した専門家ゲストの発言に興味をもち、 その人の本を読む。身近な「まるごと」を手がかりと した学びの深まりである。授業では、一人のゲスト出 演者を選び、その人が書いた本あるいは論文を一覧に して提出せよと学生に指示することがある。私の場合 は、「牛レバ刺し全面禁止の波紋」のゲスト、科学技 術ジャーナリスト赤池学の『ほんとうのたべものを求 めて』を読んだことがある。食農の分野での環境と地 域を重視した科学技術について、最先端の事例、たと えば、遺伝子組み換え技術に頼らない「植物ホルモン」 の研究の可能性を述べた箇所がある。これまで知らな かった興味深いことがとりあげられている。このレベ ルの本を読みこなすには、化学の基礎知識が必要で、 自分にはまだよくわかっていない分野であると自覚す ることができる。学びの深化のためには、「まるごと」 のゲストの本をはじめ、読書が重要である。 しかし、書物からの学びはより高いレベルのもの であり、「まるごと」はその前段階にあると言ってし まうと、これは身近な学びの素材である「まるごと」 の意義の過小評価である。本稿の冒頭で紹介したよう に、身近なものとじっくりつきあい、それをていねい に読みとることの重要性を荒川洋治が強調している。 同じ部分をすこし違ったかたちで再び引用する。書物 はむしろ補足でしかない。 新聞を丹念に読むだけでも文学に通じることはで きる。11月5日、沢木欣一氏が亡くなった。各紙 とも訃報末尾に名句「塩田に百日筋目つけ通し」 を掲げた。はじめてその名に接した人でもその句 をこの機会におぼえるなり、あるいは簡潔な記事 のなかに自分の知らないことを読みとる。それを 一年に何人かについてだけでもつづけていけば、

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かなりのことがわかるものだ。文学書に頼らなく ても自然に身につけることができる。 荒川のことばは「まるごと」にも当てはまる。こ のことを私の経験により説明する。 滋賀県大津市立の中学校でのいじめ自殺をとりあ げた「なぜ真実が分からない 大津・生徒自殺 問わ れる調査」を読んだ。市教委の調査は十分でないと指 摘されている。「2回目のアンケートの質問は僅か2 つ。まだ伝えていないことはないかなど、簡単なもの でした。自殺の練習など具体的な質問をすると生徒へ の心理的な負担が大きくなると配慮したといいます。」 これにたいして、アンケートを読んだゲストの喜多明 人(教育学者)が、つぎのように言った。 全校生徒の8割近い子どもたちがこれだけの声を 書き込むということは前例のないこと、と思って まして非常に驚いております。(特に、やはり200 近いいじめに関する事実をこれだけ書き込んでき たということに対して、やはり大人の側というん でしょうか学校や教育委員会が真摯に向き合って いればまた別な解決もあったのではないかと思う ような感じさえしております。)同時に…自分の 気持ちはどうかということを聞いているんです ね。そこには非常に多くの書き込みがあって…子 どもたち自身が、やはりこの問題に対してなんと か解決したい、前向きにこの問題に取り組みたい という気持ちがすごく伝わってくるわけです。」 (下線―引用者) 「当事者たちの切実な思いに耳を傾ける」という下線 部分がしっかりと記憶に残った。その後、大阪市立桜 宮高校のクラブ活動のなかで顧問教員による体罰で生 徒が自殺する事件があった。この時の大阪市長橋下徹 の対応・行動の問題点が、「大津いじめ自殺」につな がるかたちで私には理解できたのである。橋下は当事 者である生徒たちの思いよりも、自分のリーダーシッ プを優先したく、どう対処するかすでに決定している 状態で高校に乗り込んだ。橋本はすでに遺族に会って いた。そちらには耳を傾けたかもしれない。しかし、 当事者同士をつなげるようなリーダーシップは発揮し なかった。 この事件は「クローズアップ現代」でと りあげられた。その「まるごと」は私の資料集に入っ ている。二つの「まるごと」をつなげて読むことがで きた。 2.5.身近な教材から総合的な教材へ 先に、リゾーム(地下茎)的につながっているの が「まるごと」の世界であると書いた。これは総合的 な教材ということである。「まるごと」のホームペー ジの検索機能を使えば、分野別に編集された総合的な 資料集ができる。しかし、これは総合病院が多くの診 療科を並べているだけというような「いろいろたくさ ん集まった」という状態である。みずから「まるごと」 を読み(必要なら繰り返し読み)発見する「総合」が ありうる。これについて事故・被害分野の「まるごと」 を例にして説明する。なお、これは授業ですでに教材 として使用しているものである。 2. 5. 1. 事故・被害の事例にもとづく「総合」 事故・被害(災害)は、生命、自由及び幸福追求 に対する国民の権利を規定した憲法第13条につなが る、さらには第25条の生存権にもつながるトピックで ある。「まるごと」を「事故、被害、災害」で検索す ると多数のヒットがある。検索以外のやりかたで見つ けたものを加えて、それらをいろいろな観点で分類す る。これは理解を深めるための重要な作業である。 事故発生の場に注目すると、教育現場での事故をは じめいろいろな場所での事故がある。「なぜ真実が分 からない 大津・生徒自殺 問われる調査」「必修化は 大丈夫か 多発する柔道事故」「体罰はなぜ繰り返さ れるのか」は教育現場の事故・被害である。これは、 生徒同士、教員と生徒など、区別することができる。 また、事故の被害者というと鉄道事故の被害者を 思い浮かべるものだが、「被害(者)」で検索すると「黒 毛和牛オーナー 7万人の悲鳴」がヒットする。これ は、経営破たんによる出資者の被害(多額の資金が回 収不能)である。事故被害の内容(被害者像)の多様 性ということである。 「父子家庭 急増の陰で ~虐待死事件の波紋~」 は事故ではないが、子は被害者(犠牲者)であり、被 害の現場と被害の内容において独特である。 被害者と加害者の関係が「内部」であるか「外部」 であるかの分類もできる。「ブラック企業」(過労死) は前者、「検証 高速ツアーバス事故」「商品のリスク をどう避ける?急増する安全のコスト」(身の回りの製 品や食品の事故)は後者である。教育現場の事例は「内 部」であろう。 事故・被害の概念を拡張し分類していくと、とど まるところがない。身体にかかわる被害(死・傷・病)、 金銭(財産)にかかわる被害、精神(こころ)にかか わる被害とつづく。その他、「企業の罪は問えるのか  JR福知山線脱線事故8年」がある。日本とは異な りイギリスでは個人でなく企業の罪を問える(組織罰 の)法律があることを紹介している。一定の限界(数) で収集の作業をいったん停止しなければならない。 これらを「教育(現場)」「法律」など、分野の広 がりと見ることも可能である。しかし、それとは異な る視点で見ていきたい。「分野がいろいろ」ではなく、 一つの分野が総合的(多面的)になるような集め方、

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使い方である。 その方向で読みすすめると、「事故、被害」分野に は以下の要素が見出される。なお、それらの要素のい くつかは、それぞれ一つの「まるごと」にとどまらず 複数に繰り返し現れているものである。(1)事故調査 の不十分さ(なぜ真実が分からない)(2)事故後の対 応の不十分さ(3)事故発生まえのルールづくりの不 十分さ(4)被害者の窮状/苦しみ(5)事故・被害が 繰り返されること(繰り返されてしまったこと)(6) 事故・被害に関わって当事者の利害・価値観の対立(7) 合意(解決)にいたった成功例、合意に至るための考 え方の方向の示唆(8)事故(被害)への過剰反応・ 対応(9)規制緩和の問題点(総合的、複眼的な視点 の欠如)(10)行政指導・監査の問題点(事故が繰り 返されてしまったこと) 身近に起こっている社会的事象を集めていけば、い くつかの分野を横断して共通する要素を数えあげるこ とができる。その共通する要素の総合性というべきも のがある。いうまでもなく、その共通性のなかでそれ ぞれの「まるごと」がとりあげている事象の独自性も 浮きぼりになっていく。 3. 人権学習の教材として ここまでの記述は、授業への言及は少しあるもの の、学び一般つまり一個人として学ぶときの「まるご と」の意味・可能性に焦点を合わせてきた。ここから は、教員として授業をおこなう―授業内容をデザイン する―場面における「まるごと」の意義を論じたい。「ま るごと」資料集は人権学習のための、具体的には生存 権学習のための、すぐれた教材である。すなわち、生 存権の条文にある「健康で文化的な」の理解を、これ まであまり注目されなかった観点から深めることを可 能にする教材である。 3.1. 全文表示テキストのなかの「生存権」 いくつかの授業科目で「まるごと」を使っていく なかで、人権と憲法、とくに生存権を学ぶための教材 として注目するようになった。 憲法第25条の生存権には「すべて国民は、健康で 文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とあ る。健康と文化について、具体的なことは語っていな い。しかし、実際の社会では二つをめぐって新しい事 態が発生しており、その複雑で多様なありかたを総合 的に理解することは、生存権を教える教員にとってき わめて重要である。そのために「まるごと」が役に立 つ。医療・福祉分野と文化分野のいくつかから、「健 康で文化的な」の現状を知ることができるのである。 3.1.1.「文化」の再定義 医療・福祉分野には「文化的」を考えるときの重 要な手がかりになる「まるごと」がいくつもある。ま た、文化分野には、通常は気づきにくい「文化」への 視点を示唆するものがある。これは結局、生存権の規 定そのものの理解において、「健康」と「文化」を別 個のものとしてとらえない、分野を越えて「まるごと」 を使う必要がある、ということである。 文化分野では「牛レバ刺し全面禁止の波紋」があ る。HPリード文はつぎのとおり。「…死者を出した焼 き肉チェーン店での“ユッケ”食中毒事件から1年あま り。対策として国が打ち出した「牛レバ刺し全面禁止」 の方針をキッカケに、“食の安全”と“食文化”をどう両 立していくかをめぐって大きな議論が巻き起こってい る。被害者をこれ以上出さないためにも生食に対し、 厳しい規制を求める声がある一方、「国が一律に禁止 すれば地域が育んできた食文化を損ないかねない」と いう声が、食肉業界だけでなく、地鶏の生食文化が根 付いている鹿児島などからもあがっている。・・・」 人権学習の観点から重要なのは、この日のゲスト 赤池学の発言である。赤池は肉食の文化は当事者たち の「信頼と評価のネットワークが支えてきた」という 立場から、このネットワークを弱体化しかねないこと として全面禁止を批判する。この場合の当事者とは、 清潔な畜舎で家畜を肥育する生産者、それを仕入れて 衛生的に解体加工販売をする流通業者、それをみずか らの目と舌で安全性と鮮度を吟味しながら加工提供す る飲食事業者である。赤池はさらに、自分たち生活者 も、そうした良質なお店を選んで生食を食べてきた、 お年寄りとか子どもたちには食べさせないとか、生食 を支える見識があったと発言している。 文化を支えるのは信頼と評価のネットワーク(人 間関係)であるという赤池の文化のとらえ方には、通 常の意味での「文化」、たとえば国語辞典の「文化」 の項目「①人間がつくりだした文明の技術を、その土 地の自然的特性に適応させながら人間が営む生活の体 系。②世の中がひらけて生活のレベルが上がり、豊か になること。」(大野・田中[1995])に含まれない内 容が認められる。辞典の②が生存権の「文化的生活」 の意味を示唆しており、赤池のような文化概念に立脚 して、生存権の再検討が可能になる。 3.1. 2. 憲法の生存権規定における 「健康で文化的な」の再定義 あるものを支えるネットワーク・人間関係の具体 的なあり方は、医療・福祉分野の「まるごと」からも 読みとれる。「健康」はネットワークの支えが存在す るときに「文化」が加わって「健康で文化的な」にな る。ちなみに、先ほど参照した国語辞典によると「健 康」は「からだの状態のよしあし。からだのどこにも

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悪いところがなく…」とある。健康は国語辞典にある ようなものでない。このことは、世界保健機関(WHO) の憲章の前文にある「健康」の定義からも明らかで、「身 体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、た んに病気あるいは虚弱でないことではない」とある。 この定義に即した国語辞典があるかもしれない。 しかし、WHOの定義自体が要注意である。この定義 は追求すべき理想を示唆しているが、理想のゆえの現 実離れが起こりかねない。というのは、病気になれば WHOの定義から外れてしまうからである。 ところが、WHOの定義から逃れた「健康」の現実 がある。末期がんでも健康である感じる人がいるとい うのは、大井玄(医療・福祉分野の「まるごと」のひ とつ「天国からのお迎え 穏やかな看取りとは」のゲ スト)である。その人を支えるネットワーク・人間関 係が存在しているからその人は自分を健康であると感 じるのであるという(大井[2008: 115-119])。 このことを「あなたの自宅をホスピスに」は「治 す医療から支える医療へ」ということばで表現してい る。入院・隔離して治療するのでなく、住み慣れた生 活の場に医療も介護も看護もある。生活の場は自由の 場である。(憲法第13条は「生命、自由、幸福追求の 権利」を規定している。)そして、チーム作りである。 専門家の力を集めて、医師一人では難しい質の高いケ アが可能になる。肉親を看取った遺族たちがボラン ティアとして参加しているという。治す医療から支え る医療へ。この二つの医療の差が「文化的な」である。 その他の「まるごと」にある「支える医療」の実 践例は以下のとおりである。 「凛とした最期を迎えたい」は「治す医療」の延長 である延命治療を過度に追求しない実践をとりあげ る。「最期の時に聴きたい音楽や大切にしたい習慣な ど、その人らしさは何かを深掘りし、家族も医療者も それを共有する。」(国立長寿医療研究センター 在宅 連携医療部長・三浦久幸)この日のゲスト新田國夫(日 本臨床倫理学会理事長・医師)は「活き活きノート」 を紹介している。これは、訪問看護師、家族、ヘルパー、 医師たちが本人からいろいろ聞きとって、書き合って、 書き尽くすことによって、本人の意思全体を見つける 試みである。 「帰れない認知症高齢者 急増する精神科入院」には、 精神科病院は「最後の砦」という考えを反省した医師 の話がある。たしかに、「最後の砦」は入院・隔離を 連想させてしまう。「支える医療」ではないだろう。「ど んどん地域に出て」、「生活の場面で起こっていること」 をしっかり踏まえて行動するようになったという。こ れに関するゲストの発言がある。「患者さんとともに 徘徊をしたり、認知症のドライバーということもあり ますので、一緒に僕が運転をしてやるわけですけど… 認知症の本当の病態が少し見えるような気がします。」 「天国からのお迎え 穏やかな看取りとは」は、今 後急増すると見られる自宅での看取りの不安を解消す るために、一人一人が家族を見送れる、そういう関係 性・場を作っていくという課題を指摘している。「看 取り文化」という語が使われている。 3.2.これまでの生存権学習にかわるもの ここまでの考察でつぎのことを確認できた。医療・ 福祉分野の「まるごと」は、文化という語を使ってい なくても文化的なことを示唆している。そして、生存 権の学びにおいては「健康で文化的」の根源に迫る姿 勢が重要であり、そのためには他分野の「まるごと」 も役にたつ。「まるごと」を手がかりに、複雑・多様 な現代的展開に対応した生存権の学びが可能になる。 これまで生存権学習の基本・中心は貧困、生活保 護などであった。経済成長期以降豊かになったとはい え、最近は現代的貧困として格差社会、派遣労働者の 生活苦、若年層の雇用不安・生活不安が注目されるよ うになっている。これが今日の生存権学習の社会環境 であるといえるだろう。しかし、これは以前の貧困・ 生活保護と基本的に変わるものではない。貧困がまれ で例外的事例とはいえなくなり、一般的な問題になり つつあるとはいえ、まさに格差社会ということばが示 唆するように、貧困は少数者の問題である。 生存権をすべての人に共通の問題(課題)を手が かりに考察できることは、関心の喚起という点で意義 がある。すべての人を訪れる「老と死」はそのような 問題である。(若死にする人に老いはないが、これは 無視する。)少年・青年期の人々にとっては、まだ切実・ 切迫した問題という意識は持ちにくいとしても、基本 的にすべての人におとずれるものである。老と死とい う問題を手がかりに「健康で文化的な」を学ぶこと、 生存権学習への切り口として重要であることは間違い ない。そして貧困問題すら、低所得ゆえの生活苦に単 純化すべきではないだろう。貧困問題での「健康で文 化的」な応答が必要であり、福祉政策のありかた、す なわち文化的な福祉政策は何かという問いに迫るべき であろう。人権学習を「まるごと」により深めること ができる。 3.2.1.「事故・被害」分野の事例で学びを深める 事故・被害(災害)は、生命、自由および幸福追 求に対する国民の権利を規定した憲法第13条に、さら には第25条の生存権にもつながるトピックであり、学 習の深化に役立てることができる。 この分野の「まるごと」には政治・行政の構造的 な問題点に起因する事例をとりあげたものがある。「ブ ラック企業」はその典型的な事例であり、「裁量労働」 「みなし労働」の導入が、恣意的な拡大解釈つまり悪 用をもたらし、過労死を引き起こしている。当日のゲ

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ストは、労働協約が会社と労働組合のあいだで締結さ れてる場合には違法性を問えないと指摘し、これを「法 律の限界」と話している。この事態についてゲストは 「裁量労働の持っている本質的なところにきっちりと 歯止めをかけないと、ますます長時間過酷労働が広が る要因になっていく。全体としての総労働時間、これ の上限をきっちりと規制する」など、具体的な提言を している。憲法の生存権規定については「基本的に個 人の自己責任、そのうえで足りないところを国が支援 する」と解釈する立場があるかもしれない。しかし、 国家による制度設計が生存権を脅威にさらしていると いう事態が存在するのである。 このように構造的問題の度合いが極限に達してい る事例は、生存権の規定の限界という問題、あるいは 生存権の再解釈という課題、憲法の精神によって憲法 を再解釈し、新しい法律を制定するという課題を示唆 している。ちなみに、すでに紹介した「組織罰」は新 しい法律であるが、たんに新しいのではなく、法体系 の構成原理に関わって新しいというべきである。 4.市民リテラシーの教材として: 政治と文化の基礎概念に関わって 人権学習の教材として「まるごと」を使うことは、 市民リテラシーの教材として使うことである。このこ との政治理論的意味づけをおこないたい。 4.1. 政治と文化の概念 本稿が依拠するのはウォリンの見解である。 (1)…政治理論を読むことによって、政治的な問 題について考え議論するための基礎的な語彙を得 る、しかも、厳密で批判的に考察するためのもの としてそれを手に入れる。(下線-引用者) (2)重要な政治理論に精通することは政治的感受 性を養う。政治的感受性をもてば、具体的な事件 の意味を理解しようとするときに、事件の核心は いったい何であるかをよりよく把握することがで きる。核心となっていることは、個別的な政策や 決定ではなく、根本的な問題、とりわけ私たちの 集団的生活のあり方、その維持と福祉という問題 にとって、政策や決定がどのような意味をもつの かということである。(Wolin[1986: 52]) これは、プラトンをはじめとする過去の偉大な政治 理論家の、あるいは現代のすぐれた政治学者の理論を 念頭におきながら政治理論の特徴について述べた箇所 である。しかし、これでは荒川洋治が疑問視した「文 学書への依存」のようなことになってしまうのではな いか。ところがそうではなく、ウォリンはさまざまな 機会に表現されたさまざまなかたちのことば(表現) が上記の引用文の意味での理論でありえると考える。 「まるごと」は政治理論のひとつのあり方とみることが できるのである。これを説明するために、ウォリンに おける政治理論の概念をさらに詳しく見ていきたい。 まず注目すべきは「文化と政治」にかかわる見解 である。「文化なる言葉は私の場合、衣服や会話や音 楽や他人とのつき合いにおいて特色あるやり方を採用 していることを意味します。文化は政治的プログラム 以上のものであり、政治的目標以上のものがそこにあ ります。」この文化概念は人々の生活文化の歴史(伝統) に根差したものである。「教育から環境や学校や病院 や老人の世話まで、また彼ら自身の歴史への関心にい たるまで、いかにささやかなものであっても彼ら自身 の歴史が重要なのです。」「3. 人権学習の教材として」 でとりあげた「まるごと」の内容がウォリンの文化概 念につながるものであることは、容易にみてとれる。  ウォリンはこの文化概念に即して政治理論の役割を 定義する。(以下の引用にある「批判」の語は政治理 論と読み替えることができる。) デモクラシーの前提をなす批判とは、現代世界に おいていかに多くの力が反文化的であるかを理解 し、そうした理解を己れの務めとしているような 批判のことであると強く感じています。…私たち が読む文学の質…私たちが住む建築物や…自分の 子どもたちに提供する教育やこの世にある事物を 私たちが取り扱う際のやり方、そうしたことに対 する批判です。…人々が日常生活の中で権力の行 使に関した経験をつみ重ねてゆくことの…重要性 を指摘し、そのために弁ずること、そして人々を 励まして、きわめて単純で直接的な事柄において 日常生活の諸条件を彼ら自身の手中のものとすべ く努めることです。 (ウォリン[1989: 163]、下線―引用者) ウォリンは「人々が日常生活の中で権力の行使に関し た経験をつみ重ねてゆくこと」が決定的に重要である と考え、その「つみ重ね」によって獲得する力量を「政 治的であること」の定義を通じてつぎのように表現し ている。「政治的であることとは、私たちの共同の生 活を配慮し改善することに責任をもち、それに必要な 活動に参加するとはいかなることであるかを知り、そ の重要性を知っている人間へと成長していくためのわ たしたちの力量を意味する」(Wolin[1989: 139]) 「まるごと」を読むことは、言葉による間接的な経 験ではあるが、ウォリンのいう「経験をつみ重ねてゆ く」ことである。ただし、「権力の行使に関した」と いう語句は「政治の現実、行政の現実、社会の現実に 関した(経験)」と補足したほうがわかりやすい。そ

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のほうが、ここでのウォリンの「政治的であること」 の定義、そしてそれに含まれる権力概念に合致する。 権力のとらえ方には大別して二つあって、一つは「そ れを使って他人に影響力を行使することができるよう な所有物」としての権力(静態的な権力)であり、も う一つは「ある目的を実現するために共同で行動する 人々の力」(関係的な権力)である。ウォリンが依拠 するのは二つ目の概念である。 ウォリンのいう政治的であることの力量(capacity) を身につけることが「まるごと」を通して可能になる。 この意味で、市民リテラシーの基本的教材である(5) そして、本節の冒頭で述べたように「まるごと」は 政治理論である。もちろん、個々の「まるごと」すべ てがそうだというのではないし、またその使い方にも よる。さまざまな分野別(医療・福祉、事故・被害な ど)に編集された「まるごと」資料集は、政治理論の テキストである。積極的に活用することで「その人の 持つ力で」理論を作り出すことができるのである。 5. 授業実践と「理論」 「政治理論の復権」論者として注目されたウォリン の主張には、荒川と共通するものがある。二人は危 機意識も共有する。荒川は「環境破壊」の進むなかで 文学書に期待してもそれは幻想であり、文学の土壌は 危うくなっているという。ウォリンにとって、政治理 論は学問的な実践である以前に、市民的な実践である (Wolin[1989: 1])。これは「ソクラテス以前の理解」 にもとづく理論概念であり、それにしたがえば「精神 は一定の綱領や研究業績の類を生み出すものとは捉え られていなかった。思索とは、後にハイデガーが表現 したように『調音すること』(Bestimmung)であった。」 (Wolin[1977: 99]ウォリン[1988:214-215])理論とは、 生活(実践)をみちびく態度(倫理・思想)を基礎づ けるものであるから、そして市民的生活における判断 力(調音)を基礎づけるものであるから、「学問的で ある以前に市民的」なのである。 「文学書」を「専門書・研究書」と読み替えたうえで、 教育実践(実践の理論化)に当てはめることができる。 二人の議論は、教育実践の研究の場面で語られる「理 論」なるものについて、一石を投じる内容を含んでい る。前田聡一[2003]をとりあげて、授業実践と「理 論」の関係について考察し、前田論文とは異なる考え 方を示したい。 5.1. 先行研究における授業実践と「理論」の関係 前田がとりあげた放送日のタイトルは「失業者が 半減・英国の挑戦」である。前田はつぎのように書い ている。「ひとつの事象を深く掘り下げることを目的 とするがゆえに、今回の事例でいえば、「イギリスの 成功要因」は提示しても、そこから「雇用を拡げる福 祉政策の理論」を導き出そうとはしない。あくまで本 番組はイギリスの「働くための福祉政策」についての 個別的解釈を把握させるように構成されているのであ る。」「個別理論から一般理論へ、一つの失業政策の理 論から競合・対立する複数の理論の把握へ……と知識 が成長できるように授業を組織していく必要がある。」 (前田[2003: 24-25])なお、ここには語彙の混乱がある。 「成功要因」しか提示していない(理論のない)番組 が、二つ目の引用文では「個別理論(を提示したもの)」 となっている。この混乱は無視する。 理論に焦点を合わせた前田の授業構想は、理論A「大 きな政府」、理論B「小さな政府」、理論C「第三の道」 そして理論ABCの応用として現在の「日本の失業対 策」から構成される(前田[2003: 25])。すでに指摘 したように、これは要するに理論として一般性・普遍 性がなく不十分であるということである。そして前田 は、この不十分さを超えるものとして「クローズアッ プ現代」の外から理論を持ってくる。 5. 2. 文化的実践としての授業実践:先行研究の評価 これに対して本稿は、「まるごと」を複数組み合わ せることで人権に関する「深い理解」にいたることが できると考え、かなりの分量の「まるごと」を―たと えば「事故 被害」、「医療 高齢者福祉」の分野から ―学生に与える。そして、それらを授業で使うさいに は(文化に関するある考え方と)政治理論に関するあ る考え方を意識する。政治理論の領域でも、理論とは なにかについて一致はないが、私が依拠しているのは ウォリンの見解である。 ウォリンそして荒川の危機意識は、文化の危機に かかわるものであった。政治理論の問題は文化の概念 にかかわる。そして文化のとらえ方と教育実践のとら え方は密接に結びついている。なぜなら、そもそも教 育は文化的実践だから。この二人の見解を補足する意 味で、詩人のピンスキー(Robert Pinsky)をとりあ げたい。かれの見解にはウォリンの文化概念と共通す る要素がある。 あらゆる文化は、生きている人間の記憶と同じく、 絶えず新しいものを付け加え、全体を編成しなお し、あるいは構成要素の一部を失ったり、変容さ せたりする。文化、それは変化と適応の過程であ る。静止した実体、作品一覧のようなものではな い。…文化にはカリキュラムのような固定された モデルはない。文化はひとつの過程であり、予期 できない成りゆき任せの変化を特徴とする。 (Pinsky[2002: 76]) 授業においてカリキュラムは無視できないとして

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も、ピンスキーの主張は社会事象の学習について傾聴 に値する。「まるごと」資料集は学生の(できれば一 人ひとりの)関心から始めて、読みすすめるべきもの である。教員が与えた「まるごと」をこえて、自分で 探すべきことは言うまでもない。 これに対して、「一般理論」(上記のABCとその応用) に焦点を合わせた前田の授業構想は、あらかじめ授業 担当者のなかに「理論的枠組み」があり、その枠内で「ク ローズアップ現代」を利用するのであるから、ピンス キーの「文化」の視点は存在しないことになる。私の 場合は、生存権の学習というカリキュラムの枠組みが あるとしても、「まるごと」の読み進め方としてピン スキーに依拠する。 前田論文には、放送を活用した授業を開発し、提 案したいと書かれているが、これは授業目標の達成の ための中心的な教材としての活用ではない。すなわち、 根本的な限界はあるけれど、ある程度の利用価値はあ るから使うという程度のものである。「まるごと」が 存在しなかった時期の論文であることは考慮しなけれ ばならない。「まるごと」が存在する現在は、これを 中心的な教材として活用する可能性が開かれている。 6.むすび 各人の身近な関心から出発して、まちづくり、環境、 医療・福祉などの分野をしっかり読み進めれば、その 積み重ねで「まるごと」自体を理解する能力が発達し ていくという意味で、「まるごと」は「市民語」ある いは「社会(科)語」習得のための文法書であり基本 語辞典である。 ここでいう文法書とは、ホワイト(James B. White) が述べている以下の意味においてである。 文法は言語がかたちづくられるための設計図、つ まり製作者のデザイン文書なのだろうか。語学教 授法はおおむねそのような前提を採用しているよ うである。しかし、もちろん真実はまったくその とおりではない。文法とは、その言語についてま だ経験がまだ十分でない段階において、それを自 分自身のものにするために頼るものなのである。 (White[1990: 273]) ホワイトの主張からは、語学教師が言語の設計図 にしたがって知識の詰め込み教育(暗記もの)をして いないかという疑問を読みとることができる。引用文 の後半部分は、それとは異なる文法のとらえかた、言 語習得のありかたを示唆している。 それは橋本治のことばが当てはまるような学び方 であろう。橋本によれば「時間をかけて我が身に刻む」 ことが「理解」である。「促成ノウハウ」が要求する のは暗記であり、理解ではない。二つは別ものである。 そして「知っているのにできない」とは「それに関す る知識はあるが、それをやった経験はない」という意 味である(橋本[2001: 100, 105])。暗記はしているが、 身についていないのである。身近にあるものを暗記す るのではなく、身に刻んでいくことである。身近な教 材とは手軽に入手できるというだけの意味ではない。 橋本の考えを参考にすると以下のようになる。「ま るごと」を読むまえから、すこし知っているできごと がある。これは、なんとなく事件(ニュース)を耳に したことがあるという程度の知り方、受けとり方であ る。私の場合だと、シリアのジャーナリスト、大津い じめ自殺はそれに当たる。「まるごと」を読む前に、 そのテレビ放送を視聴して、かなりのことを知ってい る場合もある。それでも、これは「暗記」の段階であ る。それに対して、「まるごと」の資料集を作り、そ れを読むことで何かを知る、あるいは学ぶということ において、しっかりと、身体に入っていくような読み 方をする。そのような接し方・読み方を意識して継続 する。そのような過程のなかに、本稿「2.4. 書物に 頼らない方法」で述べた二つの「まるごと」(教育現 場での生徒自殺)からの気づきも位置づけることがで きる。そのような読み方は、人権学習のようにもっと 多くの「まるごと」を使うトピック学習的な場合でも 変わらない。 これは個別的な学習内容を学ぶ(教える)ための 教材として利用するということではない。 身近であ るが外部にあるものを「利用」することを超えるよう な向き合い方―「まるごと」とともにある学び―であ る。「まるごと」資料集が自分の生活環境―自分の学 びの習慣―になり、身をもってそれを経験するという 読み方、接し方である。 受講生の学びの実際の様子について、詳細は別の 論考にゆずり、ここでは授業実践の基本に関してひと つふたつ述べておきたい。 本稿で強調した「まるごと」の特徴の全体を(ま るごと!)受講生自身が理解できるようになること を、授業の目標としたい。「政治学演習」のように受 講生がほぼ私の卒論指導学生のみで5名を超えること がまれな科目、また大学院で受講生が通常は2,3名 の科目の場合は、テキストの徹底的な読解が基本にな る。政治学概論のような30名以上の受講生のある科目 でも、徹底度は違っても、基本は同じで、「まるごと」 テキストの世界に慣れることが目標になる。 また、身近な素材を使った学びの「身近な」を広 げて「身近な人」との共同学習を取り入れたいと考え ている。少人数の科目であれば、それぞれの人が、比 較的多くの受講生のいる科目では、グループに分かれ て、それぞれの学びの記録を添えた(自分の人生の経 験を踏まえた文章も添えた)「まるごと」資料集の冊

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子をつくり、交換する。ところで「クローズアップ現代」 のような報道番組の責務―それに携わる人々の仕事― は「声を上げにくい人たちの思いを聞き、伝える」と いうことである。それに応答する私たちも、報道の世 界を担っている。日々の「まるごと」を読み、心に響 くことばに出会い、機会があればほかの人たちにそれ を伝えることは、このうえなく意味のあるものである。 とはいえ、「まるごと」あるいは「クローズアップ 現代」の限界について指摘しておかなければならな い。ひとつに、とりあげるトピックの限界がある。地 方議会改革は皆無である。従軍慰安婦問題も同様であ る。また、全文テキストが用意されていない放送日が ある。プライバシーに関わる問題がおもな理由と推察 するが、最近はその該当事例が以前よりも多くなって いるようである。「化粧品による白斑被害」を私は本 放送で視聴し、「まるごと」を資料化しようと思ったが、 アップされていない。そればかりか、説明もない。そ して、NHKへの政治的介入の問題がある。これは以 前にもあったし、これからはないとは言うのは楽観的 すぎる(6)。とはいえ、「クローズアップ現代」を批判 的に見る視点そのものが、ウォリンのいう政治理論の 質をもつ良質の「まるごと」に学ぶことを通じて育っ ていく。そのように考えたい。 以上、メディア・リテラシーにかかわる限界をふ まえるならば、ひとつの情報源に頼るべきでないこ とは確かである。その意味で、NIE(newspaper in education「教育に新聞を」)は、私の関心事であり、 市民リテラシーの教材として「まるごと」と新聞を相 互補完的に使いたい。 小中高の現場では、最新の改訂によって学習指導要 領のなかに位置づけられるようになったNIEにもっぱ ら注目が集まっていると思われる。しかし、私の場合 とはちがったかたちで「まるごと」と新聞は相互補完 的であり、本稿の記述が参考になることを願う。 (1) 検索日は2013年10月5日。 (2) http://www.nhk.or.jp.トップページの「これまで の放送」メニューから入っていく。映像の一部も 視聴できるようになっている。2011年10月17日か ら利用できるようになった。 (3) これがないと、外部に頼ることになる。自前より も費用がかかる。費用は十分あるとしても、問題 点がある。久繁哲之介は、コンサルタント等に外 注した場合、画一的、表面的な報告書になりがち であると指摘している(久繁[2013: 193])。 (4) 「クローズアップ現代」の検索機能は以下の三つ。 (i)キーワード検索。(ii)ジャンル検索。政治、経済、 国際などジャンルを選び(チェックを入れて)検 索。(iii)タグ検索。ジャンル検索と同じ項目があり、 その一つをクリックするとさらに細かい部分類が あり、それを選んで検索する。「HP編集者の裁量」 と書いたのは(ii)と(iii)についてである。 (5)ウォリンについては川上[1990]を参照のこと。 (6) 内閣総理大臣安倍晋三が官房副長官だった時の介 入・干渉と当時のNHK会長の協力を『現代思想』 2006年3号「特集 メディアは誰のものか NHK 問題」のなかで坂上香「自縛するマス・メディア」 が詳しくとりあげている。 文献 荒川洋治[1996]『言葉のラジオ』竹村出版。 荒川洋治[2005]『文芸時評という感想』四月社。 ウォリン、シェルドン S.[1988]『政治学批判』千葉 眞ほか訳、みすず書房。 ウォリン、シェルドン S.[1989]「座談会 ラディカル・ デモクラシーの可能性」(『世界』1989年2月号、岩 波書店 156-172)。座談会の出席者はほかに鶴見俊 輔とダグラス・ラミス。 ウォリン、シェルドン S.[2006]『アメリカ憲法の呪縛』 千葉眞ほか訳、みすず書房。 大井玄[2008]『「痴呆老人」は何を見ているか』新潮社。 大野晋・田中章夫 (編)[1995]『角川 必携 国語辞典』 角川学芸出版。 川上文雄[1990]「シェルドン・ウォリン―政治理論 史の研究と政治理論の復権」(小笠原弘親・飯島昇 蔵編『政治思想史の方法』早稲田大学出版部、193-220)。 橋本治[2001]『「わからない」という方法』集英社。 久繁哲之介[2013]『商店街再生の罠』筑摩書房。 前田聡一[2003]「社会科授業における説明型TV番組 活用の論理―『クローズアップ現代』を事例として」 (『社会認識教育学研究』18巻、鳴門社会科教育学会、 21-30)。

Pinsky, Robert. [2002]. Democracy, Culture, and the Voice of Poetry. Princeton: Princeton University

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White, James B. [1990]. Justice as Translation. Chicago: The University of Chicago Press.

Wolin, Sheldon S. [1977]. Hannah Arendt and the Ordinance of Time. Social Research, 44 (1), 91-105. Wolin, Sheldon S. [1986]. History and Theory. In

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参照

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