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日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7) : 西南戦争後の陸軍会計経理の攻防と軍備増強

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(1)Title. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7) : 西南戦争後の陸 軍会計経理の攻防と軍備増強. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 58(1): 71-86. Issue Date. 2007-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/857. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第58巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.58,No.1. 平成19年8月 August,2007. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7) 一西南戦争後の陸軍会計経理の攻防と軍備増強−. 遠 藤 芳 信 北海道教育大学函館枚社会科教育研究室. WartimeOrganizationandThoughtoftheMobilizationPlan. beforetheRusso−JapaneseWar(7) ENDO Yoshinobu. DepartmentofSocialEducation,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本研究は日露戦争(1904∼1905年)に至るまでの日本陸軍の戦時編制の歴史的変遷と成立過程を明らかに しつつ,そこにおける動員計画思想を考察することを課題にしている。本稿は特に西南戦争後の緊縮財政下 の陸軍会計経理の攻防と東京湾防禦砲台築造による軍備増強を考察する。. 16 西南戦争後の陸軍会計経理の攻防 まず,西南戦争前後からの緊縮財政に対する陸軍省の対応を検討しよう。 (1)西南戦争勃発前の地租減額と陸軍会計経理. 西南戦争勃発前の1877年1月4日に「親ク稼椿ノ覿難ヲ察シ深ク休養ノ道ヲ念フ」として地租減額(地価 の100分の3が100分の2.5になり,年間787万円余の租額減縮)の詔書が出された。これに対して,山県有朋 陸軍卿は陸軍各局諸官麻長官宛に同年1月ZO日付の訓示を発し,①1月4日の詔書における天皇の言葉の深 さを考え,地租減額による歳入不足はどこかで補うべきであり,陸軍省定額は従前に比して125万円減額に なったことに対応して,諸局官廊はそれぞれ減額補填の責任の幾分かをになうことは当然であり,②しかる に,現在,内外情勢における「西国ノ兇徒暴動」(山口県と九州の士族反乱)「常陸及勢尾等農民蜂起」(茨 城県真壁郡と三重・愛知県地方における地租減額要求の農民運動)や清国の軍備拡張等の中で,徴兵令規定 の兵員数は国力に対応して多いとはいえず,現在の徴集兵員は未だに定員を満たしていないので,同兵員数 を十分なものとすることはできない,③減額補填は諸局官廊の金額を減じ,土木事業や被服・給与の物品を 節し,各長官は今後一層注意して諸般の経費節減に従わなければ「能ク聖意二対揚シ」,陸軍の事業を却歩. させないことはできない(1),と指摘し,天皇の言葉を楯にして節倹と志気の引き締めを強調した。. 71.

(3) 遠 藤 芳 信. この後,陸軍卿代理大山巌は西南戟勃発争直前の2月6日付で近衛局及び各鎮台と陸軍教導団に対して, 諸兵隊の野営演習並びに長途行軍の費用は今後なるべく当該隊中の「貯蓄金」でもって支払うべきことを指. 示した(2)。つまり,野営演習等の費用は正規の経費中から「支出」せずに,正規経費の節減の構えを示そ うとしたのである。ここで,「貯蓄金」とは,1873年陸軍給与表第14表(「歩兵第何連隊貯蓄金決算表」)で 規定され,1874年9月の陸軍給与表備考中改正追加において「残飯代」「下肥代」「隊中ノ注意節倹ヨリ生ス ル残余金」で「全ク隊中ノ貯蓄トシテ該台二於テハ敢テ関セス又更二出納ヲ間ハス只隊長ノ意見ヲ以テ之ヲ 処分スヘシ」(第12革第5条)と明記されたものである。これはさらに,1876年3月13日陸軍省達第38号の 陸軍給与概則第13章(各隊廃物売却代金及残金)では「連隊分屯隊ハ其隊巾中ノ貯蓄金トナシ」(第4条)と規. 定され,当該隊長の意見をもって正規の費額外の「雑費」に充てるとされた。ここで「雑費」とは当時の各 兵種の内務書(1875年歩兵内務書第二版,1876年騎兵内務書第一版,1876年砲兵内務書第一版)によれば, 窓ガラスや営内項少の破毀に対する補修,大病者発生の場合の本人本籍地親族への通報郵便料金や遣物運送 料等とされていた。つまり,「貯蓄金」は隊中の細部の費用発生に対応して臨時的・慣用的に充当されてい たが,大山陸軍卿代理の指示によって,恒常的な軍隊業務費用としても充当されることになった。 (2)西南戦争後の緊縮財政下の陸軍会計経理の攻防. 西南戦争は巨額の戦費支出を生じた。1877年度の国家歳入予算総計4,920万円余に対して,政府の征討費 は4,200万円余(借入金1,500万円,紙幣発行高2,700万円,他)に上り,国家予算1年分の約85%に相当した。 当時の紙幣は不換紙幣であって,政府はその不換紙幣を錆還・整理せざるを得なくなった。それは不換紙幣 の増発によって洋銀相場が高騰し,1877年1月に洋銀1円に対する紙幣相場は1円1銭3厘であったが,翌. 1878年には月平均1円21銭余に下落し,その後,下落傾向を示し,1881年4月には1円79銭5厘に暴落し, 物価上昇を招き(1877年の東京の玄米1石が平均5円15銭に対して,1881年は10円48銭5厘に暴騰),イン. フレーション財政になっていたからである(3)。この他に維新以降の国債発行が加わり,政府の負債全体は 3億7,524万円余に達し,年々の利子支払い額は約2,600万円にも達するとされた。 かくして,第一に,1878年度以降は歳出費用節減の国家財政が編成されることになった。すなわち,1877 年11月の内閣は諸省定額の「五分」(5%)を削減する予算編成方針を内決した。内閣の予算編成方針にお ける「五分」(5%)削減を「五分の一」(25%)削減と理解した陸軍省は衝撃を受け,山県有朋陸軍卿はた だちに「陸軍定額減少奏議」を提出するともに,同年12月22日付で大蔵卿に「諸省定額之内五分之一宛相減 省」は陸軍省予算編成にとって非常に厳しいことを述べ,諸費の流用等(「大小科目」の流用,「税外収入」 は国庫に納入せずに行軍・野営演習及び後備軍復習や陣営修理に充てるなど)を照会した(4)。当時の「税 外収入」は,後述のように官有物払下代・官有物貸下科・雑入(徒刑人工業益金など)等であった。なお, 山県の照会文は,現在の徴兵令掲載の兵額も完備せず(仙台鎮台の歩兵2大隊未設置の他に,砲兵3大隊・ 工兵3/ト隊・輪重兵3/ト隊の未設置),今後完備するためには定額増加が必要であるにもかかわらず,逆に これ以上削減されるならば「只軍隊ヲ解散スルノー事アルノミ」の議論も出てくることなどを紹介した。山 県有朋の照会における軍隊解散の議論紹介は唐突であり丁寧さに欠けるものがあったが,軍隊を一旦設置し た場合,当時において,その非生産的な軍隊の維持と経費は容易ならざることの認識があったことを意味し ている。これに対して,大隈重信大蔵卿は12月25日付で,大科目の流用は当省に通知すること,税外収入は 収支の区界もないので順序を踏んでやればよいこと,「五分之一宛相減省」の趣旨は費額の「五分」(100分. の5,すなわち5%)の減省であること(5),と回答した。上記の内閣の5%減方針にもとづく大蔵省提出の 1877年度歳入出予算表は同年12月28日に太政官から速された。 この後,山県陸軍卿は翌1878年1月7日付で陸軍一般に向けて訓示を発した(6)。すなわち,陸軍省は1876 年前の定額700∼800万円に比較して120万円余が減少し,さらに100分の5が減額される中での経費対策の方. 72.

(4) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7). 針として「軍隊ヲ解放セハ即己マンノミ」であるが,内外情勢を見た場合にはとるべきでないだけでなく,「我 国家ヲ保護スルノ兵員」も多くはなく,徴兵令掲載定員の欠員さえも生じているとした。そして,今年度は 砲兵大隊を仙台・名古屋・広島に新設することになるが,「節倹ノー辺二就テ其方法ヲ思考シ以テ後命ヲ待 ツヘシ」と節倹を強調した。これに対する軍隊現場の対応としては,たとえば,大阪鎮台司令長官三好重好 は2月15日付をもって陸軍省第五局長に,徴兵令第7条にもとづく「技芸熟練」者の帰休制度を積極的に適 用し,歩兵1大隊(大阪鎮台では歩兵計9大隊設置)につき兵卒3分の1を4ケ月間帰休させることによっ て,1年間合計では1大隊分の経費減少(4万5千円余)を生じさせることができることを何い出た(7)。 大阪鎮台の伺いは認められ,帰休措置についてはあらためて通達するとされた。. ちなみに,西南戦争後から1879年までは,前満で示したように(8),徴兵制と「六管鎮台表」(1875年改定) の兵額規定のもとに毎年の現役兵として徴集される兵員数は約8,600名(1879年)∼10,600名(1877年)であっ た。6個の鎮台が積極的に帰休制度を適用すれば,歩兵隊だけでも合計27万円余の経費減少になる見込みで ある。ここで,国家の歳入出決算における陸軍省所管分(定額)は,1877年度は予算585万円余・決算603万 円余である。1877年度の国家予算に対して陸軍省予算のみで約12%弱の多額を占めていた。たとえば,1878 年度は予算574万円余・決算640万円余,1879年度は予算719万円余・決算776万円余,1880年度は予算815万 円余・決算843万円余,1881年度は予算818万円余・決算817万円余,1882年度は予算860万円余・決算827万 円余であった(この時期の会計年度は7月1日から翌年6月30日まで)。陸軍省所管の毎年の予算に対する 決算超過は1880年度までは常態化し,1878年度の超過率は11%にも及んだ。 第二に,陸軍省は1879年2月3日付で,1878年12月の監軍本部設匿による経費金額不足(1878年12月から. 1879年6月まで)として3万2千円余の別途下付を太政官に伺った。これに対して,太政官は3月15日に別 途下付を認めず,陸軍省費額内をもって流用支弁すべきという指令を発した。陸軍省の監軍本部経費別途下 付伺いは,1879年3月10日の天皇からの勤倹及び冗費省略等の「御沙汰」の約1ケ月前であり,政府として も緊縮財政の姿勢を率先して示さなければならなかった。すなわち「御沙汰」の第二項目は「官省ノ建築其 他一切ノ土木既二着手シタル分ヲ除ク外可成省略可致事」とされていた。陸軍省はこの「御沙汰」を陸軍卿. 名で同日に陸軍一般長官宛に内達した(9)。しかし,陸軍省は上記3月15日の太政官指令に対して危機感を もった。すなわち,西郷従道陸軍卿は4月2日付で太政大臣に,監軍本部の1878年度経費は太政官指令の通 りに繰合わせて流用支弁をするが,参謀本部・監軍本部の設置による陸軍全局の漸次整頓にともなう経費増 加は必然のために,1879年度の陸軍省定額の幾分かの増額がなければ予算の見込みが立たないことと監軍本 部経費金額別途下付を再び上申した。これに対して,太政官は大蔵省の意見を照会したが,大隈重信大蔵卿 は4月18日付で,監軍本部は新設であるが「陸軍省経費ハ素ヨリ多額ニモ有之候」として,太政官指令を遵 奉して本年度流用支弁が「事務上差支モ無之上ハ十二年度二於テ流用難相成ノ理由ハ有之間数」であるので, 1879年度も別途下付は認められず,既定額内でいかようにも流用支弁する積りで諸経費の予算を営むべきで. ある(10),と回答した。これにより,太政官調査局は5月13日の閣議に,各省経費の費用節省は1877年1月 の地租減額詔書以降6ケ年間にわたって1877年度経費よりも増加させてはならない方針であったが,陸軍省 定額は1878年度には若干の増額があり,さらに「此上別途御渡方ノ儀ハ大二会計ノ目途ニモ相関シ候」とし て,同省経費はもともと多額なので他の節略方法によって,いかようにも流用支弁の方策が叶能であるとい. う審査案を提出し,了承された(11)。この結果,太政官から5月21日に陸軍省上申を認めないこと,同省経 費額内によって支弁の目途を立つべきことの指令が発された。そして,同年7月19日に太政官から1879年度 陸軍省経費(719万円余∼碗外収入6万円余と銃器弾薬製造等に属する諸費50万円を含む)が示達されたが, 別途下付は兵営焼失による金沢兵営建築費3万円余とされた。 第三に,1880年3月に陸軍省は1880年度経費予算案として914万円余を立てた。これは前年度の比較で195. 73.

(5) 遠 藤 芳 信. 万円余の増額案であったが,田中光顕陸軍省会計局長(以下,田中会計局長)は,本増額案はやむを得ず, これ以上の「減殺ノ見込無之候」(12)と述べ,太政官に上申してほしいことを陸軍卿に伺い出た。田中会計 局長の伺いは了承されて,4月に陸軍省はそのまま太政官に上申した。これに対して太政官は(陸軍省との 内議を経たものの)6月30日に1880年度の陸軍省経費として,805万円余(税外収入16万円余含む),興業費. 16万円余,金沢兵営建築費3万円余を示達した(13)。太政官の示達は厳しいものであった。そのため,田中 会計局長は7月30日付で陸軍卿に対して,陸軍省1880年度予算案は当初914万円余を立てたが,諸費節減の 内議にもとづき再調請求額として836万円余を上申した結果,上記の805万円余が示達されたとした。しかし, これでは1880年度の経理の目途が立たないので,さらに31万円余増額を上申したところ,10万円が増額され たが,(再調請求額からみれば)21万円余の減額になっているとして,年度末の不足分発生の場合にはその 減額以内の金額をさらに下付されることを太政官に上申してほしいと,上申案を添付して伺い出た。田中の 上申案は,このような減額に至れば,「陸軍ノ義尚一層拡張可致義ハ勿論二候得共右御下付ノ金額二候ハ迎 モ拡張ノ見込難相立」(14)と危倶している。以上の田中会計局長の1880年度の予算額に対する特別措置の上 申と危惧のもとに,大山巌陸軍卿は9月11日付で近衛都督嘉彰親王他各鎮台・陸軍士官学校等の陸軍一般官. 廊の長官宛に,経費節減の告諭を発した(15)。 第四に,1880年度も上記のように紙幣増発によるインフレーション財政が続いた。政府内部では酒造税改 革による500万円増加,地方碗増加,各省経費計300万円削減等による1,000万円財源確保の「財政改革」を 進めようとした(16)。この結果,太政官は1880年11月5日に,「財政改革」を進めるために行政事務の簡略 化と新事業の見合わせによって各庁経費に「若干ノ減省」を施し,1881年皮以後の陸軍省経費定額は1880年 度既定額よりも「二拾五万円ヲ減省スヘキ見込」であるので,それらの事務省略と費途節減の方案を調査し て11月30日までに具申すべきことの指令を陸軍省に発した(17)。太政官指令の事務省略・費途節減の方案調 査も陸軍省にとっては厳しいものであり,11月30日までに具申できなかった。そのため,陸軍省は,特に被 服予算等の軍隊給養上の調査にも関係し,各鎮台司令官の意見も参照しなければ経費節減の明確な方案を立 てにくいとして,同方案調査の猶予を太政官に翌12月に上申した。 しかし,陸軍省の経費節減の方案調査は遅れ,田中会計局長は翌1881年3月15日付で,下記の調査結果を 太政官に伺い出ることを陸軍卿に上申した。田中上申書は,①1881年度予算は前年度に比較して増費分が少 なからずあるので,たとえば,太政官指令の25万円の減額の他に甲費を減じて乙費を補わなければ経理が成 立しないが,その場合「軍隊給与上二係ル減額ハ厚ク詮議ヲ尽ササレバ各自ノ気向ニモ関ル候」と述べ,② 前年度よりも増費分の集計32万円余と減額指令の25万円の合計金額は57万円余になり,これらの合計金額の 省略方法を種々考量しても減額の見込みが立たず,「非常ノ果断ヲ以テ成規ヲ変更スルニ非サレハ御達ノ金 額ヲ減シ且増費ヲ支弁スルノ道無之候」と述べ,③以上の成規変更の件は近く伺い出るが,その時に減額各 項の中で許可が難しいものがあるならば,25万円の減額目途は立ちがたいことをあらかじめ承知しておいて ほしい(18),と述べていた。田中上申書は減額見込み内訳書を添付して説明しつつも,陸軍省管轄の既得事 業は放棄しないという構えがみられた。田中上申書は3月8日に了承されて陸軍卿から3月18日付で太政大 臣に提出された。これに対して,太政官の会計部主管参議(大隈重信,寺島宗則,伊藤博文)は軍事部主管 参議(山県有朋,西郷従道)との協議を経て「聞置候事」という指令案を6月27日の閣議に提出し(19),了 承された。すなわち,陸軍省の1881年度予算は前年度決算分よりも25万円余が減額された。 第五に,1882年度は国家財政との関係においても陸軍会計経理の画期になった。まず,1882年度予算編成 に際して,枚方正義大蔵卿は1882年2月に,事業等の拡張を止め,物価騰貴による不足分は横急を掛酌して 処置しつつ,1881年度の定額を標準とした予算編成を1882年度以降3ケ年間続けることの意見書を太政官に 提出した。さらに,枚方大蔵卿は4月11日に太政大臣に,1881年度の定額をもって1882年度各庁経費の定額. 74.

(6) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7). とし,以降3ケ年間は確固不動のものとして据え置き,年度末の残金は返納することなく過年度不足に充用. したいと上申した(20)。太政官は松方大蔵卿の上申にもとづく予算編成方針を立てた。そして,太政官は1882 年4月28日付で陸軍省に対して,852万8千円余をもって「一ケ年ノ定額トナシ明治十五年度ヨリ十七年度. 迄三ケ年間据置候依テ右年限中ハ増額等一切不相成候条」と示達した(21)。 他方,これより先,大山巌陸軍卿は同年2月17日付で太政大臣に対して,徴兵令規定の兵額・兵数で欠け ている仙台鎮台歩兵2個大隊と仙台・名古屋・広島三鎮台の砲兵及び工兵の各1中隊の充足のための経費の 別途支給を上申していた。大山陸軍卿上申は,本邦陸軍の建制はもともと各軍管に一軍団を設置する組織で あるが,内外の情勢よりみれば「充分之兵備卜謂フヘカラス」とされ,現在の4万有余の常備兵額中におい ても欠員があることは「一大欠事」であり,有事における不都合と平時の軍隊編制上においても支障が少な. くないと強調している(22)。そのため,1883年の徴集期より上記欠員兵額を充足し,差し向き3ケ年にして 完備するために,必要経費を1882年度より別途支給してほしいと上申したのである。しかし,太政官は6月. 5日に陸軍省に対して上記4月28日付の1882年度以降経費定額内をもって支弁すべきことを指令した。これ によって,陸軍省の仙台鎮台歩兵2個大隊等充足の予算措置は見送られることになった。 以上の陸軍省の1877∼1881年度の対太政官・大蔵省との会計経理の攻防をみると,太政官等に対しては内 外情勢の「危惧」を基本にして陸軍経費の「特別」を強調し,部内に対しては諭告等によって緊縮財政の方 針として「軍隊解散」の唐突な言葉・議論を垣間見せることによって陸軍内部(特に上層部)を固めさせっ つ,陸軍のみが経費の節倹・節減に励行しているという観念形成に向かわせるものがあったとみてよい。ま た,政府・太政官に対して陸軍上層部全体に不満が醸成されたことはいうまでもない。. 17 柑引年会計法体制と陸軍会計経理の攻防 次に,西南戦争後の緊縮財政下において会計法体制が成立するが,陸軍会計経理との関係を検討しよう。 (1)1879年経費科目条例と陸軍会計経理. 第一に,財政経理における経費科目書式の統一化がなされた。すなわち,1879年12月27日太政官達第50号 の経費科目条例が制定され,1880年度から施行された。これは経費科目の立て方を「大科目」「中科目」「/ト 科目」「細科目」(必要箇所にはさらに「細節」を設け,内訳を記載)の4段階の科目に区分し,かつ,全官 省院便局府県の経費科目の各費目事款をこの4段階の科目毎に具体的に規定したことである。そして,小科 目以上の費額の流用を認めないとし(やむを得ない場合は,流用事由を具し,官省院便局は太政官に,府県 は大蔵省に伺い出る),各費目事款の変更等による中科目以下の科目の削補を要する場合には当該年度予算 編成以前にその理由を詳しく大蔵省に申し出ることとされた。経費科目条例の特徴は中科目の組み立て方に ある。すなわち,中科目には他省院等と同様に官街が規定されているが,陸軍省所管経費においては本省・ 参謀本部をはじめとして,近衛や各軍管等における兵種別の「隊」(歩兵隊,騎兵隊等として概括)に至る まで規定されている。これは,陸軍のいわば平時編制(の概略)に対して,予算編成の視点から太政官・大 蔵省等の認識・判断を挟む構造になっているとみてよい。以上の1879年経費科目条例制定の結果,従来,陸. 軍省が予算編成に際して独自に組み立ててきた1876年陸軍省費用区分概則(23)は消滅した。なお,大科目・ 中科目・小科目・細科目の4段階区分は,1884年に款・項・目・節の4段階区分になり,予算編成も各官街 の俸給・庁費・行軍及演習費・兵器弾薬費等を一括してそれぞれの経費の「項」として立て,さらに,たと えば,俸給の「項」では兵種・部毎に「目」を立て,等級毎に「節」を立てることになった。 (2)1881年会計法と陸軍会計経理. 1881年4月28日に太政官達第33号の会計法が制定された。会計法は,会計年度,歳計区分,歳入出科目,. 75.

(7) 遠 藤 芳 信. 予算の調理,費額流用・歳入出増減,各庁の金銭出納と収支を執行する「会計主務官吏」,記簿,国庫の出納, 各庁の出納(第31条は,各庁は歳入金額を直ちに歳出に移用することを禁じた),作業費の支出,出納勘定帳, 出納の開閉,国庫出納の決算,各庁出納の決算等に関する詳細な統一的規定を設けた。また,会計法に矛盾 する従前の法規は廃止とされた。これらによって,陸軍省経費の予算決算も会計法の統一的基準にもとづき 編成され,会計検査院の審査を受けなければならなくなった。会計検査は1880年3月5日から大蔵省から離. れ,太政官に置かれた会計検査院によって行なわれるようになった(24)。翌1881年4月に会計法のもとに会 計検査院は「政府ノ歳計ヲ審査監督シ会計法規ノ統一ヲ主持スル所」とされ,特に「歳入出予算ノ当否ヲ審 査シ其意見ヲ内閣二具申ス」ることなどが規定された(太政官布達第35号会計検査院章程第1,2条)。また, 各庁の会計法規違反の会計主務官吏に対する懲戒や刑事事件への措置も規定した(同第11条)。 ただし,以上の会計法及び会計検査体制は翌1882年1月の会計法と会計検査院職制及び会計検査院章程の 改正によって,会計検査院の検査範囲は縮小された。すなわち,会計検査院は「決算ヲ審査判定シ」とされ, 予算の審査監督等が削除された。しかし,各庁の「会計規程」は大蔵省を経由して太政官の決裁を請うこと になり,陸軍省の会計経理体制に影響を与えとみてよい。従来,陸軍の各官街・各隊の会計事務は,1875年 6月検閲便職務条例や1879年9月陸軍検閲条例における検閲の内容・対象とされていた。すなわち,陸軍部 内での服役の勤惰,勤務の規律等を検閲し,将校下士兵卒の進級の「順序」を明確化するという手続きの中 に, 会計事務・会計経理も位置づけられていた。これに対して,1881年会計法は,従来の陸軍部内処理的な. 会計経理体制を,細部の検査・審査を含めて,国家全体の会計経理体制の中に包含したことになる。 第一に,陸軍省では上記1877年12月の大隈重信大蔵卿の回答もあり,税外収入の特別な措匿として,陸軍 省の兵器被服及び各種物品で廃棄処分に属さないものを改製等のために売却した代金等を含めて,年度末に 一旦国庫・大蔵省に納付して更に増額として受け取り,当該年度定額金の不足を補填することが認められて きた。そして,これらの増額金によって,新製品の買弁や野営行軍及び後備軍復習・兵営修理等の費用に充 用してきた。ただし,大蔵省から碗外収入の科目設定(「大科目」と「細目」)の必要が通報され,陸軍省は 1879年8月7日達乙第52号によって「税外収入金内訳明細表」を官街毎に調製・提出させることになった。 それによれば,大科目として,官有物払下代(紬月は官紙誓文紙私代,陣営具払代,廃馬払代,刈草払代, 蓮根払代,兵器払代,弾薬払代,備品払代等),官有物貸下科(細目は家屋貸下科,所有地貸下科,水車貸 下科等),雑入(細目は徒刑人工業益金,蹄鉄打換代,徴兵代人科,下肥代,易U毛代,馬糞代,残飯代,空. 包代等),の三つに区分され,特に細目は多岐にわたっている(25)。しかし,以上の碗外収入の特別な措置は, 1881年会計法体制のなかで,あらためて,太政官からの認識・判断の対象になった。 まず,1881年の会計法制定によって,陸軍省に対しで慣例的に認められてきた払い下げ売却品代金の納入 と下付の措置は当然消滅し,正規の碗外収入として納付することになった。これに対して,田中会計局長は 1881年4月13日付で陸軍卿に,同売却品代金等の扱いについて従来通りに措置してもらいたいことを太政官 に伺い立ててほしいと上申した。田中局長の上申案によれば,①陸軍省所管の兵器・被服・陣具及び治療機 械は各庁備付品とは全ぐ性質が異なり,外国の新発明や軍隊の経験にもとづき「旧製ノ新製二如カサルヲ確 認スルトキ」は,現在の給与貯蔵品を売却して改造費用に充ててきたこと(特に,弾薬は永年貯蔵できず, 新陳交換のために,将校射的自習用とか鉱山用・猟銃用の火薬として払い卜げ,その代金で新製品費用に充 ててきた),②兵器・弾薬・被服・陣具・治療機械・軍馬で廃物に属せず改製等のために未満期品を売却し た代金に限り,従来通りに年度末に一旦納付してさらに増額として下付されたいこと,③徴兵免役科は不用 物品売却代金とは異なり,兵備上で費消するのは当然であるので,前項に準じて一旦納付の上,翌年度中の. 野営行軍及び後備軍復習用の費用補填としてさらに下付願いたいこと(26),とされている。以上の田中上申 案は6月30日に了承され,太政官に碇出されたが,太政官は回答・指令を発さなかった。そのため,田中会. 76.

(8) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7). 計局長はさらに9月21日付で陸軍卿に,太政官からの回答・指令が未だに発されていないことは,各鎮台の 野営行軍演習の季節を迎えて必要金額の請求もあり,支障が少なくないとしてさらに至急伺いを立ててほし. いと申し出た(27)。田中会計局長の申し出は9月27日に了承され,太政官に再度提出されたが,太政官の回 答・指令は明確ではない。陸軍省上申の売却代金はおそらく明確に「官有物の払い下げ」による収入金とさ れ,国庫への納付後に別途下付されなくなったとみてよい。当時,陸軍省は1880年12月陸軍省達乙第76号の 陸軍給与概則第12章「廃物売却」で規定された「廃物」(各所管における被服陣具〈満期の物品及び期限内 物品でも全く再利用に適さないものも含む〉,物品の上包あるいは空萄・馬糞等)の売却代金はすべて大蔵 省に納付するので,これらの金額のさらなる「下付ノ儀ハ難相成候条」と東京鎮台等に達している(1881年 7月25日陸軍省達号外)。つまり,上記6月の田中会計局長上申と1881年7月陸軍省達号外における廃物等. の売却代金は,歳入出科目上は「雑収入科目」中の「官有物払下科目」に編入されたと考えられる(28)。 第二に,1878年4月陸軍省達乙第61号陸軍給与概則中改正の第4章においては,①物品の上包・空葛や馬 糞等の売却代金は所管司契課(鎮台等で金員の出納担当)に収納して「非常準備金トシテ積立置」き,毎年. 6月と12月に金高を本省第五局に通報すること(第4条),②当時の各兵種の内務書に規定された「貯蓄金」 の充当先等(前出)も規定し,その余金を所管司契課に納付し,当該所管においては「非常準備金」として 組み込むこと(第5条),と規定された。この第4,5条の金銭は会計監督の検査を不要とされた。つまり, 充当先の規定が,「頒布」としての内務書上の規定から「達」としての給与概則という規則上の規定に格上 げされるとともに,会計監督上の検査がゆるやかになった。その後,1880年陸軍給与概則第12章「廃物売却」 は従前の隊中の「非常準備金」の充当先を拡張した。すなわち,従来の残飯・下肥代の売却代と各隊の物品 の上包・空竜・馬糞等の売却代(廃物売却代)等の充当手続きとして,さらに「該台ノ準備トナシ司令官ノ 意見ヲ以テ演習其他止ムヲ得サル額外費用二充ツルヲ許ス」(第4条)と規定し,これらの金銭を「準備金」 と称するようにした。しかし,これらの「準備金」に対しても会計法からの認識・判断が求められた。 すなわち,田中会計局長は1881年10月5日付で陸軍卿に,陸軍給与概則における各鎮台の「準備金」は会 計法第31条によって廃止になるはずであるが,同金銭は一般の収入金とは性質を異にして各隊の「注意節倹」 (残飯売却や瑛末の節倹)によって生じたものであり,その使途は司令官の意見に任せ,野営行軍の軍隊訓 練教育上のやむを得ない費用に充てるならば利益が少なくないので,特別の詮議をもって従来の慣例通りに 据え置かれるように太政官に嚢中していただきたい,と伺いを立てた。田中会計局長の伺いは了承され,10 月12日付で太政官に提出された。太政官は陸軍省伺いを会計検査院に照会したが,会計検査院の「一旦支給 済ミノ者ニシテ巳二決算二相立テ残物ノ有無ハ成規ノ間フヘキ所ニモ無之」という回答にもとづき,翌1882 年2月1日に「伺ノ通」と陸軍省に指令した(29)。 第三に,陸軍省も会計主務官吏の責任明確化をせまられた。会計主務官吏は1881年会計法第20条(1882年 会計法第22条)の金銭出納において,各庁長官が収支の命令を会計主務官吏に下し,会計主務官吏はその収 支を執行するという責任の分界のもとに置かれたものである。各庁の会計主務官吏は会計法規にもとづき金 銭物品を監守し,当該庁長官の命令により金銭物品の現出納を執行し,出納上の精算を会計検査院に対して 証明し,その認可状を得ることの責任があった。また,1ケ月毎の出納金員科目等を摘記した「収支現計書」 と「報告書」を作成して大蔵省に報告しなければならなかった。以上の会計主務官吏は当該庁の長官の上請 により太政官から命じられることになっていた(1881年4月太政官達第36号)。 これに対して,田中会計局長は1881年8月11日付で陸軍卿代理小沢武雄に,①会計法及び各庁長官と会計 主務官吏との責任分界に関しては,陸軍省は1879年10月陸軍会計部条例(陸軍の会計事務を管掌するために, 会計本部=本省会計局,近衛鎮台会計部,官廊会計部,隊属会計部の4つの会計部を置き,この4つの会計 部を「陸軍会計部」と総称し,各会計部の職官∼会計官∼として,会計の指揮・監査の職務を分任する「監. 77.

(9) 遠 藤 芳 信. 督」,会計の計算・出納・点検・照会・物品調理の職務を分任する「軍吏」を置く)によって,金銭物品の 出納取り扱い方は「元来軍制上ヨリ組織セル方法ニシテ」「各省卜体裁不同」であり,また,すでに同趣旨 の責任分担体制ができているので,会計主務官吏が命じられることにはならない,②「中仕切勘定」の検査 官諮問に対しては会計局の計算課長が説明する,③出納勘定帳調製者の「名前」は,本省は会計局長,近衛 各鎮台は当該会計部長,その他は計官(軍吏)の名前で調製し,近衛以下の会計部は一旦本省に提出させ, 会計局長の添書の上,会計検査院と大蔵省に送達すること等で支障はないか否か,④会計検査院の意見次第 では陸軍各官廊の会計規程を規定して何い出るつもりである,と会計検査院に照会してほしいと何い出た. (30)。同伺いは8月20日に了承されて会計検査院に照会された。会計検査院は9月8日付で陸軍卿代理に, 特に①③については,各官廊等の勘定帳を本省にまとめることは異存ないが,差出人名前=会計主務官吏は. 会計局長又は副長・次長が適当であり,その他②④の陸軍省の見込みは異存なしと回答した(31)。かくして, 陸軍省の会計経理体制は会計主務官吏の責任明確化とともに会計法上による会計検査院・大蔵省・太政官か らの関与を他省と同様に受けることになった(32)。この結果,陸軍省の場合,出納を異にする多数の部局が あり,各部局で会計主務官吏を明確化しなければならなかった。そのため,陸軍省は1882年7月達乙第46号 で,参謀本部近衛各鎮台の会計部長及び各官廊の計官は会計主務官吏として心得ることを達した。 1881年会計法は将来の立憲制度を見通したものとして組み立てられ,制定されたものに他ならない。太政 官体制下の陸軍会計経理は1881年会計法体制に歩み寄る構えが見られるが,その後,内閣制度のもとで,国 会開会を直前に迎える段階で,逆に国家の会計・財政から離れた独自の「会計政府」を立ち上げようとする 陸軍省の議論も出てくる。これらはノ稿を改めて考察しなければならない。. 相 乗京湾防禦砲台建設工事と陸軍会計経理の攻防 以上の緊縮財政と会計法体制成立期のもとで同時的にすすめられたのが,軍備増強を目ざす東京湾防禦砲 台の築造である。これらの東京湾防禦砲台築造は西南戦争前から構想・調査・計画されていた。 (1)1876年山県有朋陸軍卿の東京湾防禦砲台建設上奏と観音崎地所確保. まず,西南戦争前に,山県有朋陸軍卿は1876年1月4日付で「海岸警備ノ線路砲敬建築ノ方法」の画定を. 上奏した(33)。山県の上奏はそれまでの海岸警備調査等にもとづくもので,「東京ヲ以テ防禦線ノ中心」と なし,全国数ケ所の枢要地を画して防禦の大体を備えるという趣旨であった。山県の上奏は詳細にわたって いるが,千葉県富津岬州上(現富津市,国定公園)砲台建築概計金314万円余,神奈川県観音崎山上砲台建 築概計58万円余,同猿島砲台建築概計金54万円余の総計426万円余とされ,10ケ年計画で竣工させ,1ケ年 につき42万円余の支出計画であった。山県の上奏は受け入れられた。その後,山県陸軍卿は4月13日付で太 政大臣に砲台建築着手のために,上記1月の上奏に示した金額(第1∼9年目までは各年42万7千円,第10. 年目は42万4千円余)の毎年別途下付を上申した(34)。太政官は本件を大蔵省に下問したが,大蔵省は4月 21日付で「巨額之支出ハ迎モ此際目途相立不申候」と回答した。この結果,太政官は閣議を経て8月4日に 「難聞届候条今後其省事務之媛急ヲ量り経費中ヲ以充用之積見込相立更二可申出事」と,定額経費内での減 省と入費充用の計画提出を陸軍省に指令した。以上の太政官指令に対して,山県陸軍卿は11月9日付で太政 大臣に,①現在の定額金の範囲内では,たとえば,「脱走又ハ死亡等ノ輩」の事故が発生し,その兵員補充 までの期間中に若干分の入費が減却したとしても,その他の残金を合計した概算では金5万円内外の見込み であり,また,そうした事故の有無と庶務の横急によって生じたものは予算執行中金額以前に流用できず, 会計年度末の残金確定後の手続問題があり,②砲台築設諸費用は別途に下付されなければ,築設着手しにく いので,残余金額上記5万円を毎年国債寮において貸渡しされるならば(「繰替貸」,6月に返納する),速. 78.

(10) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7). やかに着手できる,と伺い出た(35)。これに対して,太政官は大蔵省に下問したが,大蔵省は12月6日付で, (丑国債寮における練替返納毎の手数問題があり(年度末の残余金額が練替高と対等になるか否かは予期しが. たい),②陸軍省は臨時費部の中に当該費の科目を設け,同省経費金額の中から流用支弁すればよい,と回 答した。これを受けて,12月11日及び12日の閣議において,陸軍省伺いは認められず,同省経費の中から流 用すべきことが決定され,同15日に同指令が発された。つまり,国家財政からの別途支給による陸軍省の東 京湾防禦砲台建設着手の意図は,翌年の西南戦争勃発もあり,事実上先送りされた形になった。 ただし,陸軍省は神奈川県の観音崎の地所確保については準備をすすめた。まず,陸軍省参謀局長代理原 田一道大佐は同1876年7月26日付で陸軍卿に当時の神奈川県下三浦郡鴨居村内の観音崎近傍地所(平積. 76,900余坪)の買収を上申した(36)。それによれば,①同地は東京湾防禦上の要地・好地位を占めているが, 年を追って地価が「自然騰貴」して無益の入費高になるので,即今買収して陸軍所轄地にしたいこと,②同 地の地価の調査結果,すべて民有地に属し,その過半は山林であって廉価であり,樹木買い上げ科も含めて. 3,500円にも達しない見込みとされた。これを受けて,山県陸軍卿は11月5日付で内務卿に,観音崎近傍地 所75,000余坪を買収し,砲台建設着手に至るまで「第三種官用地」の名称をもって陸軍省において受領した. いと照会した(37)。山県陸軍卿は内務省の支障なしの回答を得て,12月13日付で太政大臣に上記観音崎近傍 地所75,124坪の買収を上申し,12月22日に認められた(38)。その後,陸軍省は1878年冬季から海岸警備線路 の測量に着手したが,定額金不足により同線路地買収のための経費流用の目途が立たなかった。そのため, 陸軍省は1879年8月23日に1878年皮税外収入の残金90万円余の中から,約7万円余をもって山口県下関と神 奈川県横須賀の地所買収経費にあてたいことを大蔵省に照会し,同了承を受けて,9月2日に太政大臣に上. 申した(39)。太政官は大蔵省の見解(「今度限り特別御裁可相成可然」)も取り入れて,閣議の了承を経て10 月10日に陸軍省上申を認めた。 (2)観音崎砲台築造工事着工と陸軍会計経理. さて,田中会計局長は陸軍卿に対して1880年2月(日付欠)に,1878年度定額残金をもって海岸警備砲台 の建築費を支出する旨を太政大臣に上申してほしい,と伺い出た。田中会計局長起案の上申案は,上記1878 年度税外収入金の内7万H余(下関と横須賀の地所買収経費)と同年度経費残金6万H余とを合算した13万 円を一旦還納した上で,「海岸警備ノ儀ハ今日ノ急務」(40)として,1979年度の砲台の地所買収費並びに建築 費として別途下付を願いたいとするものであった。また,本件はすでに大蔵省と内議済であり,同省は支障 なしの判断であったと述べた。田中会計局長の伺いは2月19日に了承され,至急指揮を仰ぎたいとして,陸 軍卿から翌20日付で太政大臣に上申された。陸軍省上申の海岸防禦費13万円は太政官で決定され,同決定が 3月2日に陸軍省と大蔵省に伝えられた(41)。ここで,ともかくも,建築費が認められたことの意義は大き い。これによって,山県有朋参謀本部長はただちに3月10日付で陸軍卿宛に,図面を添付し,観音崎第一砲 台建築地を海面上47メートルの水平戴面にするための「地均シノ工事」を工兵第一方面において施行してほ. しいと照会した(42)。これに対して,陸軍省は5月4日付で,地均し工事施行を工兵第一方面本署に指令し たことを参謀本部に回答した。かくして,1879年度末の5月から観音崎砲台の築造工事が開始された。 この場合,砲台築造工事の担当は工兵第一方面本署とされた。工兵方面は1874年11月陸軍省達布第428号 工兵方面条例の制定によって,陸軍省所属の要塞城壁海岸砲台その他屯営官廃館舎倉庫等の建築修繕並びに 保存監守を管掌する機関として設置された。工兵方面は当時の六管鎮台の分割区域に対応して,第一方面か ら第六方面まで置かれ,各方面の長官は方面掟理(工兵科の大中佐1名)と称され陸軍卿に直結していた。 陸軍卿官房長児島益謙は1880年5月13日付で工兵第一方面本署に対して,砲台建築の仕法を海岸防禦取調委 員(1878年7月設置,参謀本部の管轄になる)と打ち合わせの上,入費等を調査して伺いHることを通知し た(43)。これを受けて,工兵第一方面掟理中村重遠は6月17日付で観音崎第一砲台と同第二砲台築造費用の. 79.

(11) 遠 藤 芳 信. 概算としての19万6千円余を伺い出た。その内訳は第一砲台新築入費概計が4万2千円余,第二砲台新築入. 費概計が15万4千円余とされている(44)。中村碇理は,仕法囲も共に添付すべきだが大事業のために調査が 遷延し,とりあえず経費案のみを碇出すると述べた。これに対して,大山巌陸軍卿は7月13日付で工兵第一 方面に対して,1879年度の金額7万8千円余を渡し,この金額による第一砲台の全部落成の残額を第二砲台 建築に使用すべき目的をもって工事に着手し,不足金額が出ればさらに伺い出ることを指示した。 他方,観音崎砲台の築造工事は当初から経費管理を含む難題を抱えていた。これについては,まず,1879 年度海岸防禦費の扱いに対して太政官に上申すべきとする1880年8月25日付の田中会計局長と同工兵局長今 井兼利の連名による陸軍卿宛の伺い書が出されている。田中会計局長らの上申案は,①地所買収は内務省と その所管各県庁と数度の照会の末に実地測量等をしたが,容易でない手数がかかって事業が進まず,年度末 の6月30日までの事業落成分は13万円の内5万円余であること,②海岸防禦費は臨時営繕費とは異なり別途 上申の上に許可された金額であって,定額予算内営繕費同様に9月までの事業延期を見込んで引き続き事業 に着手したこと,③1879年度の「中仕切勘定書」にも上記の見込みをもって会計検査官に書面を提出したと ころ,臨時営繕費に属する経費であるが故にやはり6月30日をもって打ち切り決算を立てるように意見がつ けられたこと,④以上の意見がつけられれば,事業を中途でやめるしか道がなく,特に本費用は1880年度の 別途支出の見込みもないので,会計検査において打ち切り決算を立てないようにしなければ不都合であるこ と,⑤そのため,6月30日で一旦打ち切り,残額7万円余を一旦還納した上で,さらに1880年度において別 途に下付していただき,また,仮に1880年度に別途下付が難しい場合には特別の理由をもって決算を9月ま での事業落成まで延期していただきたい(45),と起案されていた。以上の上申案は了承されて,陸軍卿から 9月4日付で太政官に碇出された。 しかし,太政官からの指令は遅れた。そのため,田中・今井両局長は11月13日付で,さらに太政官に上申 されるように陸軍卿に伺いを立てた。田中らの太政官への上申案は前回9月4日付の上申趣旨を述べた上で, ①6月以来今日までに工事進行が遅れたことの理由として,実地測量等に相当の日数を費やし,工事に着手 するや見込み外の「巌窟」が顕出し,備前・岡山からの石材の切り出しと海上運輸が延滞し,渓谷埋没工事 において地盤堅牢化用石材が不足したこと,②元来,砲台建設は「辺海防御ノー大急務」であり,その工事 も重大であって他の諸建築と同一視できず,竣工を急げない箇所は少なくなく,一部分毎に赦密に監査し, 数回の修正を加えて堅牢なものにすることが必要であること,③特に観音崎は東京湾防禦の最大必要の砲台 であって,「護国上ノ関渉尤モ忽ニスヘカラサル」が故に,金額決算上の手続きのために中止することは莫 大の損失であり,工事もまた急成を旨とすべきでないこと,④それ故,特別の「御詮議」をしてほしい(46), と強調した。田中らの上申案は陸軍卿によって了承され,11月18日付をもって太政大臣に提出された。 これに対して,太政官会計部主管参議(前掲)は11月29日に「年度分界ヲモッテ決算ヲ遂ケ其十三年度二 於テ支出スヘキ分ハ同年度経費中ヲ以テ支弁セシムヘキモノト錐モ海岸防禦線ノ如キハ他ノ事業トハ同視難 致殊二巨額ノ金員経費中ニテハ支弁行届間数」が故に,陸軍省上申を特別なものとして認めることの審査・. 指令案等を閣議に提出した(47)。11月29日の閣議でこれらの審査・指令案等は決定され,12月20日に陸軍省 に上記経費の下付(1880年度)と還納(1879年度)が指令された。 以上の最初の近代要塞としての東京湾防禦の観音崎砲台築造第一年目工事をめぐる財政経理の攻防を見る と,巨額経費事業に対しては,通常の単年度毎の会計経理措置(特に長期工事を要する事業に対して,年度 毎の歳出残額をもって経費捻出することの限界性,年度をまたぐ工事を一貫させる場合に通常の経理手続き にもとづいて決算しなければならないことの煩雑等)では対応できない問題が出てきたことは明確である。 (3)山県有朋参謀本部長の『隣邦兵備略』の上奏と東京湾防禦論の世論強化. 以上の観音崎砲台建築費用1880年反別途下付の陸軍省上申が太政官において審査されている間に,参謀本. 80.

(12) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7). 部の陸軍文庫は11月に『隣邦兵備略』を編集・刊行した。『隣邦兵備略』の刊行に際しては,同年11月30日 付の参謀本部長山県有朋の序文がつけられた。『隣邦兵備略』は清国を中心にして「西比利亜」「英領印度」「蘭 領印度」の地理と兵備・兵制を調査したものである。そして,山県参謀本部長は11月30日付で『隣邦兵備略』. を天皇に進呈するともに,その概略を上奏した(「進隣邦兵備略表」(48))。山県の上奏文は,「頃者臣僚ノ事 二従フ者作新鼓舞或ハ昔日ノ如クナル能ハス是時勢ノ然ラシムル所アリト錐トモ亦ノ致スノ致ス安二狸ルル 所二非ルナキヲ得ンヤ是ヲ以テ兵備海防ノ事ノ如キ臣接之レヲ論スト錐トモ耳ヲ傾ケテ之ヲ聴ク者砂シ」と して,官職員においては国内外情勢の一時の「/ト康状態」に慣れて「兵備海防」の議論への注目者が少なく. なったことを危惧している。つまり,『隣邦兵備略』の刊行は官職員に対する「兵備海防」の世論の操作・ 強化を促すものであった。そこでは,「方今万国対峠シ各其彊域ヲ画シテ自ラ守ル兵強カラサレハ以テ独立 ス可ラス」として,兵力のみによる「独立」維持を強調し,特に「隣邦」としての清国の兵備が近年強化さ れていることに対する恐怖をあおり,清国兵備への対抗のために日本の兵備を「忽セニス可ラス」ことが重 要であるとした。さらに,具体的には「鎮台鎮守府等ノ施設アリト錐トモ沿岸防禦等ノ事二至テハ未夕其功 ヲ奏セス」「防守ノ方略二至テハ未夕緒二就ク者アラス」と,対外関係・対外戦争対応の国境島惧防禦や海 岸防禦兵備の不備を指摘し,特に東京湾防禦については「唯東京湾ノー事僅二経画二属シ而シテ竣功ノ期杏 トシテ津涯ヲ知ラス」と砲台建築完成時期が暗くて,行く先不明を指摘した。そして,「陛下此大事ヲ了シ 本邦ノ独立二於テ危慣スル所ナク其体面二於テー点ノ汚穎ヲ受クルノ恐無キニ至ラサレハ維新ノ功未夕全局 ヲ終ヘサルナリ頃者国計亦覿難ヲ告ク今此遠大ノ計ヲ進ムルハ迂閥二属スルカ如シト錐トモ亦燃眉ノ急二非 スト謂フ可ラス今縦令資費出ル所無キモ早晩之力逼処ヲ為ササルヲ得ス」と述べ,明治維新は軍備増強国家 を完成させることによって完了するという認識を示し,財政逼迫下における早急な軍費増加を求めた。山県 の「進隣邦兵備略表」は,海岸防禦事業優先を理由として,東京湾砲台建築に対する従来の陸軍会計経理の 枠組みを転換(経費の恒常的支出化)させる上での世論操作効果があったとみるべきだろう。この後,山県 参謀本部長は翌1881年4月7日付で観音崎の第一砲台と第二砲台の工事進捗と会計経理状況を陸軍卿に説明. しつつ,観音崎は今後さらに第三,第四の砲台をもって完備させる必要があることを強調した(49)。また, 同年5月18日には職仁親土・右大臣岩倉具視・参議大隈重信・参謀本部長山県有朋・陸軍卿大山巌等の供奉 をともなった観音崎砲台への行幸があり,砲台築造状況が宮中と太政官において具体的に認識されることに なった。. さらに,山県参謀本部長は同1881年5月(日付欠)に陸軍卿大山巌と連署で「東京湾防禦線砲台建築費別. 途御下付之儀上申」を太政大臣に碇出した(50)。本上申は東京湾砲台建築の会計経理方針の転換になった。 すなわち,①昨年起工の観音崎砲台築造工事は半分まで進んだが,1879年度定額残金(下付された金額は8 万6千円余)によって実施した砲台建築費の内訳は,第一砲台建築費(1880年6月落成)が4万3千円余, 第一隊道・第二隊道開設費・道路開設費合計9千円余,第二砲台建造費が3万4千円余とされ,第二砲台は6 月中の支払い不足金が3万4千円余に達し,支払うべき残余がなくなる見込みであり,②来年度以降の出費 の途を絶たれれば工事を中断せざるを得ず,そのことは海岸防禦兵備にとって,「他日不幸有事ノ際幾ント 之ヲ防禦スルノ術無ク国内ノ騒擾社穆ノ禍害実二計ル可カラサル儀」であるので,砲台築造を瞬時も媛慢に すべきでなく,③東京湾防禦においては観音崎砲台のみでは効果がなく,観音崎の他に猿島と富津他5ケ所 に砲台を築き,「三面呼応十字発火ノ便ヲ得セシムル」ことが重要であり,④そのため,引き続き工事を進め, 「東京湾第一防禦線諸砲台建築費概算」として総計245万円余(観音崎砲台,富津曙州海壁,富津元州砲台,. 猿島砲台,勝力・渡島・箱崎・夏鳥の砲台,建築工事期間は10年間,1ケ年につき建築費用24万円余)を認 めてほしい,と述べた。本上申は太政官の軍事部と会計部の審査を経た。軍事部・会計部の審査は,本上申 を基本的には認めつつ,さらに建築法式・外国人顧問の人選や備付砲種・砲台保持警護費用等の詳細を調査. 81.

(13) 遠 藤 芳 信. して具申すべきことの指令案を立てた。そして,6月1日の閣議と6月3日の上奏・裁可を経て,6月7日 に上申経費総額245万円余(1ケ年につき24万円余)を1881年度から別途下付することが指令された。 この後,西郷従道参謀本部長は6月27日付で陸軍卿に,1881年反別途下付の24万円余の経費内訳として, 観音崎第一第二砲台建築費(9万円余),猿島砲台建築費(6万円余),富津元州砲台建築費(5万円余),. 富津沙州捨石費(2万円余),予備金(2万円余)を示した(51)。そして,陸軍省は同年10月に1881年度の 砲台建築費予算帳(合計24万円)を大蔵省に提出し,同12月24日の会計検査院の検査を経て了承された。そ の内訳は,「雑給」8千円余,「庁費」8百円余,「営繕費」23万1千円余(観音崎砲台新嘗8万5千円余,猿 島砲台新営6万7千円余,富津元州砲台新営6万円余,富津海壁新営1万7千円余∼在来捨石人足費)とさ れた。 (4)東京湾防禦砲台の増設・強化と1882年陸軍臨時建築署の設置. 他方,大山巌陸軍卿は1881年12月28日付で太政大臣に,上記6月7日の太政官指令に示された東京湾防禦 砲台建築にかかわる建築法式・経費の詳細等を上申した(52)。その上中内容は,第一に,砲台建築費におい ては合計235万円余とされ,5月上申の総額費用245万円余よりも数万円の減額申請になった。内訳は,観音 崎砲台が地形複雑で建築工事と交通路開設のために3万円余の増額になり,富津元州砲台は砲台の結構を簡 易にすることよって5万円余の減額になり,猿島砲台も土地狭隆のために予定の砲数(8門)を備付できず, 工事も容易であるので7万円余の減額になったとされている。第二に,5月上申の他に海岸防禦費として新 たに合計153万円余を追加申請した。その内訳は,富津海壁銑楯,同据付費,富津元州地所買上費,走水砲 台建築費,同地所買上費,観音崎第四砲台建築費,観音崎大砲据付費であり,その9剰余が富津海壁銑楯の. 139万円余(銀貨)とされた。その理由としては,特に富津海壁は海中に孤立した砲台のために鋏楯の設備 がなければならないが,国内製作が困難でプロイセンのグルリン会社に照会したところ,同代金明細が届い たとされた。また,走水は観音崎と猿島の中央に位置し,富津海壁に正対した「最モ要衝ノ地」とされ,同 地に砲台を築設することは最も緊要であると強調された。さらに,観音崎第四砲台は,同第一砲台・第三砲 台の右側薄弱のために第三砲台の右側山に一つの砲台を増設することは最も緊要であるとされた。第三に, 東京湾口の「大砲代償並据付費」として,備付大砲経費の合計192万H余(内据付費4万H余)が追加申請 された。すなわち,観音崎・富津元州・走水・猿島・勝力・渡島・箱崎・夏鳥の8砲台と富津海壁に備付さ れる大砲は全部で5即日(すべてプロイセンのクルップ社製造の鋼鉄砲元込式)とされた。中でも,観音崎は 28センチ砲2門を中心にして計12門,富津海壁は28センチ砲3門を中心にして計21門,猿島は28センチ砲1 門を中心にして7門の備付が予定された。第四に,勝力・渡島・箱崎・夏鳥の砲台建築経費明細調製は遷延 のため総計のみ記載し(18万円余),外国人顧問の人選や砲台保持警護費用等は迫って申請するとされた。 かくして,陸軍省申請の東京湾防禦砲台建築経費は総計598万円余に至り,東京湾防禦強化のために巨額 費用投下が予定されることになった。ただし,以上の陸軍省申請の東京湾防禦砲台建築経費に対しては大蔵. 省から意見がつけられた(53)。すなわち,枚方正義大蔵卿は1882年4月28日付で,1882年度の予算概計を調 査しているが,「歳計困難ノ際右費途支出スヘキ目的難相立」につき,経費を据え置き,既定の24万円をもっ て現在計画中の工事を処弁し,新たな防禦費と備付大砲経費は1885年度に至った段階で「歳計ノ都合二寄り 起工ノ御詮議有之度」と左大臣に上申した。そして,新たな防禦費と備付大砲経費にかかわる追加申請でこ れまでの工事と併せて着手しなければ不都合が生じる場合は,上記24万円内において彼是酌量して処弁すべ きであるとした。この結果,太政官第一局は以上の大蔵省の意見を取り入れつつ,また,第二局との合議を 経て,「巨額ナリト錐トモ東京湾二防禦線ヲ設ケラルル以上ハ其砲塞ヲ完備堅牢ノモノトナササルへカラス」 (54)と審査し,追加申請分は1885年度から下付すること,同年度までは工事の媛急を酌量しつつ既定の年額 (24万円)内をもって流用すべきことの指令案を6月17日に立てた。そして,同指令案は6月19日の閣議を. 82.

(14) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(7). 経て了承され,7月5日に指令が発された。その後,参謀本部長代理三好重臣は7月27日付で陸軍卿に,7 月5日の太政官指令に関して,(丑観音崎第四砲台の建築は,観音崎第二第三砲台建築工事が火薬庫煉瓦部を 除いて7月中に落成する見込みなので,引き続き工事施行すれば工費も減少するので彼是都合し,既定の1882 年度金額を繰替支出して起工し,②富津元州砲台地所買収費と観音崎砲台備付大砲運送費等も既定の1882年. 度金額の内から同様に繰替支出するようにしたい(55),と照会した。これについては陸軍省も了解し,同趣 旨を工兵第一方面本署に通知することを回答した。. ところで,1882年度からの東京湾防禦砲台の増設・強化は巨大な工事であり,工事担当の工兵第一方面と しても平常業務を遂行しつつ実施することは容易ではなかった。そのため,1882年7月26日陸軍省達乙第51 号によって,要塞城壁等の建築修繕に関しては時宜によって特別の担当部署を置き,工業一切を区処させる として陸軍臨時建築署条例制定が達せられた(署長は大中佐1名)。臨時建築署は同年10月21日に工兵第一 方面本署が担当してきた海岸砲台建築事務全部が引き渡され,11月2日には東京湾陸軍臨時建築署と名称が 変更された(1886年3月1日に廃止)。. 東京湾防禦砲台築造を初めとする近代日本の要塞築造は,国家財政緊縮下の会計法体制成立に向かう1870 年代末から参謀本部・陸軍省によって強力に進められたものである。この期間に陸軍省と太政官・大蔵省等. との会計経理をめぐる攻防があったが,特に1880年3月における観音崎砲台築造の経費捻出及び工事着工の 決定の意味は大きい。ともかくも砲台の一部でも工事に着手し,その後は「事業継続」を論拠とする要塞築 造事業の性格をもった。この後,1882年7月に朝鮮・京城の事件(「壬午事件」)が発生し,増脱を財源とす る同年12月末の陸海軍軍備拡張決定により,増税金一部をそのまま東京湾防禦砲台建築費(1883−1890年皮, 各年24万円)として別途下付することになった。これらは満を改めて考察されなければならない。. (注). (川2)防衛研究所図書館所蔵 〈陸軍省大日記〉 中『明治十年一月 大日記 本省達書 達乙』無号所収。同『明治十年二月 大 日記 本省達書 達乙』第32号所収。(補注1)西南戦争前後から1880年代中ごろまでの緊縮財政期陸軍の会計経理と軍備 増強の考察は,従来,鎮台の大隊・連隊の増設数等と対清岡軍備対応や大陸での戦闘対応の概説的指摘はあるが,近代日本 国家の財政・会計経理等の関係では解明されてこなかった。この時期の陸軍会計の基礎続計等としては大蔵省編纂(大内兵 衛・土屋喬雄校)『明治前期財政経済史料集成』第4,5,6巻収録の「歳入歳出決算報告書」(1877∼1885年度),1962年, 明治文献資料刊行会復刻(原本は1931年),陸軍省編『陸軍沿革要覧』(「第五 計費」,1868∼1888年度),1890年,がある。 これらの会計続計等で,1878∼1880年度の近衛局・各鎮台・陸軍士官学校・陸軍教導団等の「野営行軍費」において,予算 額が0円で,決算額が9万9千円余であるのは(1880年度の各鎮台),予算計上化しにくい「貯蓄金」を「野営行軍費」と して支出操作した結果である。(補注2)1874年9月の陸軍給与表備考中改正追加で規定された「残飯代」の残飯(「兵隊飯」 等)は,東京鎮台が設置された当初の兵営内食事賄人は「サスガに江戸的の貧民は,兵隊飯など喰うものにあらずとて賄方 は常にその始末に困じ,時としてはわざわざ舟を漕ぎて品川の海へ抱擁し」たが,やがて米穀等を買えない貧民の出現によ り,あるいは「汝滑なる商人輩庖厨へ出入して残物の擢員をなし,また郡蕃なる賄方の彼らと通じて利を図るあり,貧者を してますます価の高き食物を喰わしむるに至りぬ」と,東京の貧民・最下層社会に「供給」されていた(松原岩五郎『最暗 黒の東京』53−54頁,1988年,岩波文庫,原本は1893年,ルビ略は遠藤)。その後,陸軍の給与規則等における「残飯代」の 規定により,残飯処理は兵営内食事賄人の自由裁量ではなく,陸軍会計経理の対象になった。ちなみに,上記の松原著が刊. 行された当時は,飯量約15貫目(60kg)が50銭で引き取られ,1貫目は約5∼6銭で売られたようである(前掲『最暗黒 の東京』42頁)。 (3)注(1)の補注(1)の『明治前期財政経済史科集成』第11巻の1収録の大蔵省編「紙幣整理始末」(1890年),205−206頁,等参照。 (4×5)前掲〈陸軍省大日記〉 中『明治八年ヨリ 密事日記 卿官房』所収,大山梓編『山県有朋意見書』70−72頁所収,1966年,. 原書房。 (6米7)前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治九年ヨリ同十三年マテ 密事編冊 卿官房』,『明治十一年白三月九日至有月十日 大日. 記 各鎮台 乾』所収。. 83.

(15) 遠 藤 芳 信 (8)拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(6)一西南戦争前後の鎮台兵員充足と1879年徴兵令改正−」北海道. 教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第57巻第2号,2007年2月,参照。 (9)前掲 〈陸軍省大口記〉 中『明治十二年三月大口記 本省達書 達乙』3月10R所収。 (10×11)国立公文書館所蔵『公文録』1879年4月5月陸軍省第19件所収。この結果,陸軍省は6月上旬に監軍本部に対して,本 年度の実費中には「旅費等之御支出有之間数」と述べつつ,旅費の必要分は1879年度経費中に加入してよいのであらためて 予算調査を提出することを通知した。また,各鎮台等の野営行軍費も合計で約半減された(前掲〈陸軍省大日記〉 中『明治 十二年六月 大日記 省内省外諸局部院之部』給水局第457,472号所収)。 (1錮瑚14個 前掲〈陸軍省大日記〉中『明治十三年三月 大日記 参謀監軍両本部省内各局近衛局病院軍馬局』給水局第236号,. 同『明治十三年九月 大日記 太政官』日第152号,同『明治十三年八月 大日記 各部各局』給水局第44号,同『明治十 三年九月 大日記 各局各廃之部』給水近第278号,所収。 (16)大隈侯八十五年史会編『大隈候八十五年史』第1巻,729頁,1970年原書房復刻(原本は1926年)。 (17)(咽 前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治十三年十一月 大日記 太政官』日第167号,同『明治十四年三月 大日記 部局』給 水局第156号,所収。 (均 国立公文書館所蔵 〈単行書〉 中『決裁録』1881年,陸軍二,第70件所収。 ¢ゆ 注(1)の補注(1)の『明治前期財政経済史科集成』第1巻収録の大蔵省編「松方伯財政論策集」(1893年),477−479頁。 帥 前掲 〈陸軍省人日記〉 中『明治十五年五月人日記 人政官』総第47,49号,所収。 佃 前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治卜五年二月 大日記 送達』給上第291号所収。大山陸軍卿上申によれば,陸軍省は1880 年3月に同趣旨の別途下付を太政官に上申したが,聞き届けられなかったとされる。これは,おそらく,同年3月23日付で 田中会計局長が1880年度から仙台鎮台の歩兵2個大隊等全備と各鎮台における調馬厩及び分厩の設置諸費の別途下付を太政 官に上申してほしいことを陸軍卿に伺い立てたことの内容を指しているものと考えられる(前掲 〈陸軍省大日記〉 中『明治 十三年四月大日記 省内各局参謀監軍軍医部』給水局第437号所収)。なお,以上の大山陸軍卿上申は1882年1月6日の山県 有朋参謀本部長からの協議をふまえて太政官に碇出されたものであった(防衛研究所図書館所蔵『参謀本部歴史草案』1882 年1月6日所収)。すなわち,同協議内容は大山陸軍卿上申とほぼ記述であるが,特に,①徴兵令発足時は「国力ノ許ササ ル所アルヨリシテ僅カニ四万有余ノ常備兵ヲ配置スルノ制」をとったこと,②「方今宇内ノ形勢ヲ観ルニ東方論未夕其形逃 ヲ絶タス琉球藩未夕其局ヲ結ハス是固ヨリ安然高臥ノ時二之無シ」として,「琉球処分問題」等をめぐる情勢を指摘している。 また,山県参謀本部長は,陸軍卿との協議のために1月13日に堀江芳介と桂太郎の管東西両局長に常備定員を充足するため の調査を命じたとされている。両局長の調査回答によれば,1881年1月1日現在の各鎮台報告をもとにして予備軍総軍を掲 げ,戦時に際して常備軍に補充すべき人員を除き,その残員に新兵(生兵)を合算し,全国補充隊人員を明らかにしたとい う。すなわち,各鎮台作成の「出師編隊表面」には多少の異同があることによって,補充隊人員に不足が生ずるのみでなく 各師管にも異同を生ずるので,将来は常備兵徴集の際には勉めて各師管諸兵員数を平均化し,かつ常備兵定員を満たすよう にしたいとされている。ここで,補充隊とは,1879年徴兵令で規定された常備軍(3ケ年服役)・予備軍(常備軍服役後に 帰郷して3ケ年服役する)・後備軍(予備軍服役後に4ケ年服役する)の服役体制にもとづき,戦時常備諸隊の欠員補充方 策としてとられた戦時対応の兵力編成である。補充隊の編成は戦時編制と動員計画策定(特に予備軍の召集・編成)におい て極めて重要であり,その基本は1881年3月19日陸軍省達甲第8号の予備軍及後備軍編制条例に初めて規定された。それに よれば,予備軍として服役する者による戦時常備諸隊の欠員補充方策には,①常備諸隊に編入して戦時人員を充足する(予 備軍服役日が初年・2年の着で,歩兵連隊では当該対応師管内の兵卒を編入し,他兵種では当該対応軍管内兵卒を編入する), ②補充隊に編入して常備諸隊の臨時欠員を補充する(常備諸隊中の生兵未卒業者・不熟兵卒を編入して隊伍を編成し,その 補欠にはさらに予備軍服役兵卒をあてる),の二種類があった。両局長は,①と②の欠員補充方策にもとづき,補充隊は戦 時における軍隊教育とその復習のために編成される部隊編成(たとえば,歩兵「歩兵第何連隊補充大隊」と称される)を調. 査したのである。また,本条例は全国(全6軍管,全14師管)で補充隊として,歩兵14大隊,騎兵1中隊,砲兵9隊工兵3 中隊と3/ト隊,輔重兵6/ト隊を示した。 錮 拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(3)一西南戦争までの戦時会計経理制度−」北海道教育大学紀要(人 文科学・社会科学編)第56巻第1号,22−23頁,2005年8月。 糾 会計検査院以前の国家財政の会計検査は,大蔵省に属した検査寮(1881年∼1877年)と検査局(1877年1月∼1880年3月) が実施していた。この時代の会計検査の特質は提出された予算決算等の諸帳簿の「計算検査(単に数字の検査)」と指摘さ れている。ただし,検査局体制では「派出検査」が行なわれ,特に「中仕切決算」の検査の厳正化が進められたとされてい る。「中仕切決算」とは会計年度末において諸建築の成否や購買品の有無を査究し,その残金の移用を防制し,決算を速や かに完結することである。当時,年度末に各庁では定額に残余があれば,仮払いの名目で留め置き,あるいは庁舎を建築し, 物品を購入し,新事業を興すなど,決算が遷延し,会計年度の分界が空文化し,年度末に需要の有無にかかわらず駆け込み 「消尽」するという「濫費ノ弊」があったされている(注(1)の補注(1)の『明治前期財政経済史科集成』第17巻の2収録の川. 84.

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