Title
地方都市における最重度障害者の地域自立支援システム
の研究−沖縄における「重度障害者通所活動施設」をめ
ざす取り組みを中心に−
Author(s)
谷口, 正厚
Citation
沖縄大学人文学部紀要 = Journal of the Faculty of
Humanities and Social Sciences(1): 29-40
Issue Date
2000-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6037
沖縄大学人文学部紀要第1号2000
地方都市における最重度障害者の地域自立支援システムの研究
一沖縄における「重度障害者通所活動施設」をめざす取り組みを中心に-
谷口正厚 要約沖縄では1995年頃に、地域で暮らすことをめざす重度障害者やその親の運動が一挙に現れ
てきた。この最近の数年間の沖縄の状況をまとめると以下のようである。①障害者のデイサー ビスが介護型を含めようやく7カ所になった(2000年4月開始予定を含む)。②デイサービスと連携して住宅保障による24時間の地域生活を保障する試みが開始された。③小規模作業所で
重度障害者を受け入れるいくつかの試みが現れた。④重症心身障害児施設の通園事業が3カ所
になった。これらの取り組みのに1コで重度障害者が地域で生活しようとしたときに国の施策が量 的にも質的にもきわめて不充分であることがあきらかになった。特に離島においてそのことが顕著である。九州でも沖縄と同様な状況があり、福岡県福間IITや佐賀県佐賀市等、一部の地域
では重度障害者が多数を占めている作業所づくりが発展している。国と自治体は重度障害者の 地域生活支援の施策を根本的に見直す必要がある。 キーワード:重度障害者、通所活動施設、地域生活、ノーマライゼーション はじめに 私は1994年4月に、沖縄大学地域研究所障害 者問題研究会と鏡力丘養護学校(肢体不自由)の 父母達による共同研究「鏡力丘養護学校の卒業生 の卒業後の生活実態調査」に取り組んで以来、沖 縄の重度障害者のノーマライゼーションをテーマ にして、特に重度重複の障害のある人達の学校卒 業後の昼間の活動を支援する場、いわゆる「重度 障害者通所活動施設」づくりを中心に運動に関わ りつつ研究を進めてきた。そして、この間にいく つかのレポートや情報の紹介をしてきた(論文末 を参照)。1995年に最初の活動の成果である「実 態調査報告書」がでてからちょうど5年になる。 この5年間に沖縄の状況も徐々に変わってきた。 これまでの経過を振り返りながら、最近の新しい 動向を中心に沖縄の現状を紹介する。 それと重ならないよう簡単に述べる。 第1に、脳性マヒの障害のある人達を中心とす る「このまちをこよなく愛する会ミッキーズ」 の企画した「やまびこ大学校」がオリブ山病院の 支援のなかで1995年1月7日に開始。ミッキー ズのメンバー9人の他に年齢も20代から50代ま で、障害も重度の知的障害のある人から身体障害 だけの人も含めこれまで様々な理由で在宅であっ た人19人が参加して、週1回土曜日に集まって、 手芸講座、書道講座、写真講座、パソコン講座、 おしゃれ講座、クッキング、レクリエーションや 自立生活の体験談を聞く勉強会など様々な活動を 展開した(文献6,7を参照)。 聯1l1l1Iiii
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1995年に運動が一挙に広がる 1995年は沖縄の重度障害者のノーマライゼー ションをめざす運動が一挙に表に出てきた年であ る。1986年頃までについては文献5に書いたので;
。■亟輿■ 書道に挑戦(やまびこ大学校) -29-1111純大学人文学部紀要第1号2000 第2に、筋ジストロフィ_の障害のある新門さ んが病院を出て自立生活を開始(1995年秋)。ちょ うどその時、それまで児童を対・象に活動してきた 「テベの会」(現在は「自立生活センターイルカ」 に名称変更)が障害者の自立生活運動に取り組む ことになるなかでその代表者として活動する。同 じ頃、脳性マヒの障害があり、両手と右足が使え ないので左足一本を手のように使いこなして生活 する上里さんが那覇市の市営住宅を改造して自立 生活を開始。上里さんは生活保護の障害者加算他 人介護料をEIヨ請して承認された沖縄での最初の人 となる。厚生大臣承認も含めて月額約13万円の介 護料を受けている。 第3に、私たちも「実態調査報告書」を3月に 発表後、その成果を調査対象である障害当事者と 家族に返していくこと、そして具,体的な運動を起 こしていくことを目標として、調査対象者に呼び かけて交流会を行った(1995年7月16p)。そ の後これまでに1996年5月、1998年10月の2 回交流会を持った。 第4に、私たちの研究会の代表(谷口)が1995 年7月に新潟市で行われた「第16回障害者地域 生活支援システム研究会議」に参力|lした。この{J1 究集会は重度障害者の「通所活動施設(デイセン ター)」制度の内容を具体的に示し、障害者施設 体系の根本的な見直しと結びつけて新しい制度を 作ることを提起した。そして作成中の政府の「障 害者プラン」にその内容を実現させようとよびか け、全国社会福祉協議会の主`催で全国各地10カ所 で集会を開くことを提起し、大阪で第1回集会が 1996年2月17日開かれた。私たちは独自に沖繩 県の浦添市で沖縄研究集会を開催し200人が集 まった。共同作業所全国連絡会の藤井克徳氏、横 浜市「朋」施設長の日浦美智江氏の講演、やまび こ大学校など沖縄での取り組みの報告という内容 で開催した。大阪集会の翌々日であった。 沖縄では、私たちの実態調査とこれをふまえた 社会的な問題提起、研究集会が先行する形で運動 が始まった。実態調査の調査対象者に呼びかけて 行った「交流会」では、鏡力丘養護学校を卒業後 久しぶりに友達や先生、親たちが顔を合わせ楽し い時間を過ごし、また切実なねがいを語り合い大  ̄--E電電鉦
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j霊 一■ 沖縄県浦添市での研究集会(1996年2月19日) きな成果をあげた。しかし、これが具体的な運動 の形を取るには時間がかかった。卒業生と親たち は学校卒業後それぞれの住む地域に戻り、そこで 相談相手の仲間を作ることができなくて家族の 日々の生活を維持することで精一杯になったり、 障害の軽い人達といっしょになっても、重度の障 害者にあわせた活動にならなくて悩んでいた。他 方、家族や親戚が関わるなかで、当面、ゆとりを 侍って在宅の生活を過ごせている人達もいた。こ ういう状況の中で、具体的に「通所活動施設づく り」に進む運動のきっかけはすぐにはつかめな かった。 調査を行った私たちのメンバーの中の父母たち の多くはまだ子どもが小学生や中学生であった。 また、卒業を控えた子どもと親の場合も、身近な 地域でくらしていくための通所活動施設を目標と すると、それぞれが地域の中で「-人」になって しまう。実態調査を始めた時点では、小規模作業 所は最重度の障害者を受け入れるところはほとん どなく、また最重度の障害者の親も「小規模作業 所は作業をするところだから自分たちの子どもと は関係ないところ」という意識が強く関心も弱 かった。 こうした状況の中で私たちはもう一つの大きな 課題に取り組んでいた。1997年2月2日に沖縄 大学で行われた講演会「みんなで考えようⅡ障害 をもつ人ともたない人が地域でくらすというこ と」の講師の一人であった西宮市の青葉園園長清 水明彦氏の話を聞いた私たちの中から、当事者・ 父母たちで青葉園を訪問しようという計画がもち -30-沖縄大学人文学部紀要第1号2000 あがった。1997年11月17日、車いす使用者6 人を含む総勢17人が3泊4日の日程で那覇空港を 出発した。私たちはこの訪問によって「重度障害 者通所活動施設」の内容をそれぞれ自分自身のイ メージの中でしっかりとつかむことができた。 1995年に出された国の障害者プランは「ノーマラ イゼーション7カ年戦略」という副題がついてい たが重度障害者のための新しい通所施設の制度は 創設せず、既存の重症心身障害児施設の通園事業 を2002年までの7年間に300カ所から1300カ 所に増やすにとどまるなどきわめて不充分なもの であった。しかし、私たちは全国の関係者と手を つないで、沖縄において運動と実践を進める力を 少しずつつけていった。 の地域生活を支えるノーマライゼーションの実践 に向けて踏み出していった。しかし、そのことは、 貧困な日本の障害者福祉制度の壁にぶつかる「茨 の道」に踏み出すことでもあった。 オリブ山病院が最初に障害者のリハビリテー ションに取り組んだのは1993年である。那覇市 の障害者福祉の担当者からオリブ山地域ケアセン ターに相談依頼があり、1993年4月にオリブ山デ イケアの理学療法士と看護婦が那覇市の職員とと もに在宅障害者の訪問を行ったのがきっかけであ る。その後このケースを担当している保健婦、移 動支援をしている那覇市社協の在宅福祉主事等の 現場関係者を含めた最初のケース会議が5月に開 かれ、それ以後も毎月1回のペースでケース会議 が開かれた。初めての訪問から約半年の1993年 9月16日、幾多のハードルを越えてオリブ山老 人デイケアセンターへの最初の障害者の通所が実 現した。これをきっかけに、やがてオリブ山病院 は30名の老人デイケア利用者中1日3名(総数 9名)の40歳未満の障害者を受け入れた(文献 9)。 沖縄でも、老人保健法にもとづく「老人デイケ ア」と老人福祉法にもとづく「老人デイサービス」 とはともにかなり普及していてた。これに対して、 障害者デイサービスは沖縄県で那覇市に1カ所 あっただけで、しかも、この時点では制度的には 介助の不要な人を想定した基本型のタイプのもの であった。こうした状況の中でオリブ山病院の老 人デイケアへの障害者の受け入れが実現したのだ が、当然のことながら医療保険における診療報酬 の対象にはならないので財源的な制約があり、那 覇市に「市単独」での助成を要請したが実現せず、 問題をかかえての出発であった。 この間に、1995年1月に始まった「ミッキーズ」 による「やまびこ大学校」をオリブ山病院が支援 して実施することになる(週1回、6ヶ月間を- 期として1996年3月までの二期にわたってオリ ブ山病院で行われた)。この取り組みは沖縄のマス コミにも大きく取り上げられ反響を引き起こし た。オリブ山地域ケアセンターの多数のスタッフ がこの取り組みに参加し重度障害者の活動支援拠 点を一日も早く作りたいという思いが当事者や父 オリブ山病院における障害者デイサーピス(介護 型)の開始 1997年5月、オリブ山病院で沖縄で初めての重 度障害者のデイサービス(介護型)が開始された。 オリブ山病院には名嘉淳氏を中心にして高齢者の 地域リハビリテーション活動に取り組んできた歴 史があった。そこで特徴的なことは、職員研修と 地域啓発を目的にした研修活動を活発に推進して きたことである。 老人保健施設オリブ園が開設された1990年に 沖縄県が太田仁史氏を招き地域リハビリテーショ ン交流会を開催したのをきっかけに、以後オリブ 山病院の事業として溝呂木忠氏(1990年)、奈良 勲氏(1991年)、山本和儀氏(1992年)、澤村誠 志氏(1994年)、奥村愛泉氏(1995年)と日本 の地域リハビリテーション研究・実践の第1線で 活躍している講師を招いて研修を重ねていった。 この中で、「リハビリテーションの最終目的は、 機能障害の回復ではなく人間らしく生きる権利の 回復だということ、すなわち人間としての価値を 取り戻し普通に人と交わり生活するところにあ る」ということを地域リハビリテーションのス タッフ自身が学んでいった。 オリブ山病院の地域リハビリテーションスタッ フは研修の成果を少しずつ実行していった。老人 を対象とするリハビリテーションからその枠を越 えて障害者のリハビリテーションに進み、障害者 -31-
沖細大学人文学部紀要第1号2000 年4月には那覇市、南風原町、大里村の地域を対・ 象として南風原町の中央育成園(知的障害児施設) で事業開始が予定されている。石川市のデイサー ビスセンター(石川学院)は「高度行動障害者」 の受け入れも行う「知的障害者更生施設」(定員 50名)を中心に、知的障害者デイサービス重介 護型の事業とショートステイ事業を実施してい る。しかし、当初範囲を石川市に限ったことなど により、デイサービスは現在定員を満たしておら ず対鬘象地域を具志川市にまで拡大することが検討 されている。 母やスタッフの中に広がっていった。 1997年5月、オリブ山病院はこれまで老人デイ ケアの中で受け入れていた障害者デイケアを独立 させ、障害者デイサービスとして発展させた。介 護福祉士1名と介護助手1名の2名を配置し、1 日3名の受け入れで出発した。障害者福祉のデイ サービス介護型の適用を想定しての出発であった がこの段階では助成は実現していない「見切り発 車」であった。助成が遅れた最も大きな理由は、 医療機関が医療と福祉の壁を越えて福祉サービス を行うということにあった。那覇市は基本的には 実施の方向であったが、県の現地視察を経て補助 (正確には那覇市によるオリブ山病院への障害者 介護型デイサービス事業の委託)が実現したのは 翌1998年6月であった。 重度障害者グループホームの取り組み 1998年5月「ティーダの会」と「ケア&サー ビス社」が設立された。ケア&サービス社はオリ ブ山病院の取り組.みを前提して、病院が取り組む ことが困難な分野の障害者の地域生活支援サービ スを提供していく目的で、オリブ山病院とは独立 した組織として名嘉氏の提起によって作られた有 限会社である。ティーダの会は重度障害者が地域 で生活することを支援するための組織で正会員は 介助を要する重度障害者、賛助会員はその家族と 有志によって構成されている。ティーダの会は知 的障害者グループホーム「重度型」の実現をめざ して出発した(知的障害者グループホームの重度 加算の制度で-人月額12万円の補助が出る)。ケ ア&サービス社が当面はティーダの会のグループ ホームの取り組みをヘルパーの派遣を中心として 支援し、将来的には介護保険施行後ホームヘルプ サービス等本格的な事業を進め、高齢者と障害者 の在宅支援を一体的に進める計画であった。 重度障害者のグループホームに取り組む直接の きっかけになったのは、1996年暮れに那覇市の障 害者福祉担当者から重度知的障害者のグループ ホームを作りたいのでオリブ山病院でバックアッ プができないかという打診がオリブ山デイケアセ ンターの名嘉氏にあったことである。しかし、準 備と検討の過程でグループホームのメンバーは 「就労」していることが条件ということが壁に なった。那覇市はデイサービスを受けて日中の活 動をしていることを拡大解釈して適用できるので はないかと考えていた。かつてグループホームの
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TT p尹暉,f・雫鏥N佇諏 工蔦咄’1 職員とともに生まれてはじめて美容院に (オリブ山病院障害者デイサービス) 障害者デイサービスは沖縄でもようやくこの数 年間に少しずつ広がり始めている。2000年2月 25日現在で県の資料によると、身体障害者デイ サービスでは那覇市に入浴中心型1カ所(1983年 に基本型として開始され、1994年から入浴中心型 として実施)、小規模介護型が1カ所(オリブ山 病院、1998年開始)の計2カ所、豊見城村に小 規模基本型が1カ所(1997年開始、1999年度よ り小規模介護型になる)、糸満市に基本型が1カ所 (1998年開始)、北中城村に基本型が1カ所(1998 年開始)の5カ所となっている。介護型もオリブ 山病院、豊見城村に続いて2000年4月には名護 市で事業開始が予定されている。 また知的障害者のデイサービス事業も1998年 12月に県内で初めて、石川市で開始された。2000 -32-沖縄大学人文学部紀要第1号2000 制度が作られる過程で、厚生省では「就労条件」 を弾力的に考えていくことが「重度障害者のため の制度」としての趣旨にふさわしいという議論が 行われていた。しかし、実際の制度ではこの「就 労要件」が未だに残っており、授産施設や小規模 作業所で働くことまでは認められるようになって いたが、デイサービスまで含めた事例は知られて なかった。本来重度障害者のための制度としてつ くられたものが、最重度の障害者は対象外という 実態が続いていたのである。したがって、これは 那覇市とオリブ山病院の共同の取り組みによって 現行制度の実質を変えていこうというべきもので あったが、県を通して打診する過程で困難になり、 結局この企画は実現しなかった。那覇市の障害者 福祉担当者からの内部的打診が先行した企画であ り、運動の実態が未だできてなかったのでそれ以 上に進めることは困難だった。 こうした経過を受けて、ケア&サービス社の支 援を前提としてティーダの会の事業・運動として 企画を練り直してグループホームの計画が再出発 することになった。その過程で、それまで23年 間施設で暮らしていたKさんが自立生活を始めた いと決断して施設を出てこのグループホームの仲 間に加わった(1999年10月)。Kさんは生活保 護と障害者加算他人介護料の支給を申請中でこれ により経済的な自立を図る゜同時に、すでにグルー プホームの仲間として活動していた重度の知的・ 身体的障害のあるMさんも同じく世帯分離して生 活保護を取る作業を進めている。これらの収入を 元にしてケア&サービス社からは有償での介助人 派遣を実施する。身体障害者のKさんが加わった ということもあるが(身体障害者グループホーム の制度はない)、「就労要件」という足かせが未だ 残っている段階で知的障害者のグループホームの 制度利用という方針は当面あきらめた。厚生省の 改革構想の中では既にこの「就労要件」は撤廃さ れる方向で作業が進められているし、身体障害者 グループホームの制度を作ることについても検討 されているが、現実の障害当事者は今を生きなけ ればならない('1. ティーダの会は、1999年2月に重症心身障害児 者を守る会沖縄支部の在宅部会の一つとして再出 発した。守る会はこれまで重症心身障害児施設「沖 縄療育園」入所者を中心に活動してきたが、1998 年6月の総会を機に沖縄の他の重症心身障害児施 設の入所者も含めた組織になり、同時に在宅者の 問題にも取り組みはじめている。ティーダの会は 今後の具体的な取り組みを検討中である。その中 には重度の障害者も受け入れる作業所づくりも選 択肢にあげられている。 小規模作業所と重度障害者 「共同作業所」は1969年名古屋のゆたか作業所 で最初に生まれ、障害の種類や重さに関係なくす べての障害者の働く場として全国に広がっていっ た。1977年、共同作業所全国連絡会が結成され、 以後活発な活動を進められてきた。共同作業所全 国連絡会に加盟していない小規模作業所も多くあ り運営の理念・方針はさまざまである(共同作業 所全国連絡会の補助金調査資料によれば、全体で 1999年度現在5202カ所)。この間に障害者や親 の意識も変わり、作業以前の問題として移動・食 事・トイレの介助を受けながら人間らしく生きる 活動そのものを支援していくことが求められる 「最重度」障害者の問題が重要な課題の一つとし て検討されるようになってきた。沖縄でもこれま で小規模作業所が重度の障害者も受け入れたケー スがいくつかあったが継続的な取り組みはなく、 多くの作業所は「作業のできる」障害者を受け入 れて運営してきた。 作業所から出発して重度障害者の通所活動施設 として発展した例は横浜市の「朋」や兵庫県西宮 市の「青葉園」などがあり沖縄でも知られるよう になってきたが、九州の状況はあまり知られてい ない。鹿児島県には障害者の共同作業所、授産施 設を中心に乳幼児期から老人デイサービスまで 16事業を運営し、障害をもつ仲間たち360名、 職員90名を越えて地域をベースに「協同の組織」 を創り出しつつある「麦の芽福祉会」があるが、 福岡県の福間町では共同作業所「福間サンテラス」 が最重度の障害をもつ人達を受け入れた活動を進 めている。 福間サンテラスは1982年3月、福間町あすな る会、宗像あゆみの会の作業・療育・親の会の集 -33-
沖縄大学人文学部紀要第1号2000 いの場所として福間町社会福祉センターの一室を 借りて開所した。その前には、福間町あすなる会 と宗像あゆみの会が「すべての障害児に教育を。 在宅児をなくそう」という目的を持って障害児・ 親とその家族が大学の学生や障害児学級の教師な どとともに地域の中に根ざした活動を続けてきた 歴史があった。 1990年に親の会から独立して「サンテラス運営 委員会」による運営へと発展した。この運営委員 会には作業所の父母と職員だけでなく、地域の代 表や行政、社会福祉協議会の代表なども入ってい る。この中で、徐々に障害の重い人達も受け入れ、 これを福間町が助成して職員を確保する形で支え ていった。私が初めてサンテラスを訪問した1998 年3月時点では通所者10人に対して常勤職員5 人、非常勤職員2名という体制で運営していた。 通所者の障害の状況を資料で見ると、移動につい ては車いす使用者が5名、ストレッチャー使用者 が1名、松葉杖使用者1名、介助を得て歩行でき る人2名、単独で歩行できる人1名、トイレにつ いては要介助者が8名、食事については全介助2 名、-部介助6名ということからも障害の重い人 達を多く受け入れていることがわかる。障害が重 いといっても知的障害のある人ない人などそれぞ れに違いがあるが、その人にあった作業、その人 にあった活動を進めていて暖かくまた活気に満ち た作業所であった。 1997年度で運営費を見ると、国庫補助110万 円、県補助200万円、町からの補助1300万円、 共同募金80万円、寄付金等110万円、自主拠出 金600万円で合計2400万円となっている。運営 委員会の構成にもみられるように地域と結び、行 政や社協を初めとする福祉団体に理解を広げるこ とで、人口4万人程度の小さな町においても素晴 らしい活動が展開できることを示す例である。私 たちは「朋」や「青葉園」を訪問することで沖縄 の自分たちのめざすものを実感したけれども、他 方では1億円、2億円の自治体からの助成によって 今日の朋や青葉園の活動が支えられていることを 考えて、国の施策の貧しさを痛感するとともに沖 縄の自治体の現実の厳しさをみて、ともすれば見 通しを失いがちであった。その意味で「福間サン テラス」の実践はきわめて重要なものと言えよう。 もう一つ、佐賀市で活動をしている重度障害者 通所活動施設「響」の例を紹介しよう。 響の活動は1995年7月、通所型重度障害者施 設学習会を保護者等18名の参加で開いたことか ら始まった。11月には西宮市の青葉園園長の清水 明彦氏を招いて勉強会を行い、翌1996年4月に は福岡市で開かれた「デイセンター構想シンポジ ウム」に参加した。6月には朋の日浦美智江氏を 招いて第2回の勉強会を行った。佐賀市文化会館 で行われ140人が集まった。私たちが1994年に 実態調査を実施し、1995年に新潟市のデイセン ター研究集会に参加し沖縄でも研究集会を開催し 学習と運動を進めてきたのと期を-にしている。 響の場合は、金立養護学校(肢体不自由)の教 員などの支援により作業所づくりへと急速に進ん でいき、福岡市のデイセンター構想シンポジウム の3日後の1996年4月24日に通所生2名、指導 員2名で響が開所された。水、木の週2回開所で あった。1997年7月に開所日が火水木の週3回 になり、金立養護学校の生徒等を対象に第1回の 夏休み中のサマースクールを実施した(毎週、水 木金)。1998年10月に正職員1名が決まり、開 所日が月曜から金曜の毎週開所となり、第3回の サマースクールを月曜から金曜までの毎日開所で 実施した。1998年4月1日現在で通所者が5名 となっているがそのほとんどが障害の最重度の人 である。 しかし、1997年度まで響への公的助成は自治体 も含めてゼロで、1998年度に初めて360万円の助 成が実現した。響は公的補助は少ないが(特に重 度の障害者を受け入れているという実態から見る と全く不充分である)、地域の人々の支援に支えら れて活動を広げており、それが他の地域の障害者 と家族を励まし佐賀県でも様々な動きが広がりつ つあるという。響は現在法人化に向けて取り組み を進めている。 沖縄においては私たちの運動はすぐには作業 所・通所活動施設作りへとは進まなかったが、最 近作業所と重度障害者の通所活動施設づくりの運 動との接点が見られるようになった. S君は1994年の「実態調査」の時には鏡力丘 -34-
沖細大学人文学部紀要第1号2000 養護学校(肢体不自由)高等部の3年であった。 知的障害と身体障害があり、下肢にも障害があり 歩けるが長い距離は難しい。てんかんの発作もあ り、また体調を崩すことも多い。行動的だが自分 で納得しないと動かないところがあり、状況の変 化が理解できない場合にはみんなとあわせて集団 行動をとることが難しい。高等部卒業後、沖縄県 (沖縄島)の南部にある与那原Il1Jにできたばかり のあすなる作業所に入った(1995年5月)。 中でs君がうまくみんなの中に入り切れず、現在 は体調も崩して休んでいる。運営面の苦労もあり、 作業所の所長も兼ねているMさんの悩みは大き い。しかし、最近、経験のある職員が入りうまく 活動が進む兆しが見えてきた。 わかなつ共同作業所は社会就労センターわかた けの前身である若竹共同作業所の運営母体であっ た「障害者(児)の施設をつくる会」のもとに浦 添市で1999年4月開所した。わかたけと連携し、 その協力のもとに1年間活動を行ってきた。わか たけには、私たちの「実態調査」のメンバーであっ た○さんの息子さんのJ君が実習生として参加し ていた。J君の障害は身体的にも知的にも非常に 重い。○さんはわかたけで重度障害者のデイサー ビスが実現できないかという想いで関わってきた が、1999年4月からは無認可のわかなつ共同作業 所のメンバーとして活動している。 あすなる共同作業所 あすなる作業所は開設当初はS君・を入れて4人 の小さな作業所だったがそこの中心となった職員 のAさんは福間サンテラスで数年経験を積んで沖 縄に帰ってきたところだった。その経験を生かし、 本人の意思を尊重し意欲を引き出して関わって いったことでS君は充実した日々を過ごしてい た。地域活動として与那原|IITで知的障害をもった 人を中心として編成された太鼓クラブ(ひやみか ち太鼓)にも欠かさず参加していた。現在は正職 員となっているKさんが開設当初からボランティ アとして継続的に関わってきたことも、開設当初 のあすなる作業所のI職員体制の支えになった。 S君のお母さんのMさんは実態調査の時以来私 たちとともに勉強してきた仲間の一人で、S君の 卒業と同時に「障害のjEい人も軽い人もいっしょ にやっていける作業所を地元に作ろう」と地元の 佐敷IHTで作業所設立の準備を進めていた。1997年 10月共同作業所さしきが開所し、S君もそこに 移った。現在、設立後2年半たったがその歩みは 平坦ではなかった。S君以外にも自閉的傾向の障 害があり時折パニックを起こす人がいる。そんな 散歩(わかなつ共同作業所) オフかなつは2000年4月から市内の屋富祖に場 所を確保して独立する。また、3年前から那覇市 で活動しているたけのこ作業所も4月より障害者 (児)の施設をつくる会に加わる。地域的には那 覇市と浦添市を中心に、一つの認可施設と二つの 無認可共同作業所が連携して活動する。「障害の重 い人は職員の対応や周囲の環境からからみてもわ かたけに通うのがいいかもしれない、わかなつの 活動する屋富祖の地域はわかたけがある地域より もまちの中にあるので、クッキーづくりのスタッ フの一部はわかなつに移動して、そこで店舗事業 も進めていきたい」等さまざまな課題に対して適 切な対応をとる選択肢が広がっている。2000年 -35-
沖縄大学人文学部紀要第1号2000 4月入所希望者の中には養護学校高等部卒業の重 度障害者も含まれている。認可施設「社会就労セ ンターわかたけ」を中心としながら重度障害者へ の対応も少しずつ進みつつある。 那覇から宮古に行くにはかっては船で10時間 かかった。今では飛行機に乗ってしまえば40分で その中心都市である平良市に行ける。しかし航空 運賃は往復で2万円を超え日常的に行き来するこ とは難しい。この平良市(人口およそ3万人)で も重度障害児者が地域でくらし続けることを願っ て重度障害者の地域生活を考える会「なんくる」 が生まれた。わずか5坪だがプレハブを建て高等 部2年で訪問教育を受けているMちゃんを中心に 集まりを持って活動を始め、1998年12月12日 に総会を持って正式に出発した。 沖縄県では医療圏としては沖縄島の南部、中部、 北部と離島(先島(さきしま)と沖縄地元の人は 呼ぶ)の宮古、八重山の5つの地域に分けられて 保健所や県立病院が設置されてきた。障害保健福 祉圏域もほぼそれに沿って設定された。しかし、 重症心身障害児施設や、身体障害者療護施設は宮 古、八重山には設置されておらず、その計画もな い。重度障害者の立場から見ると今問題になり始 めた通所施設など地域生活関連のみでなく、生活 施設さえも全くない。福祉圏域の地域区分は決 まったがその中身はこれから作っていくという段 階である。 こうしたなかで、なんくるの取り組みも試行錯 誤の道を歩んできた。この20年来、沖縄市の小 児発達センターによる巡回療育相談活動が宮古の 保健所と提携して取り組まれてきて宮古の重度障 害児者とその親の大きな支えになってきた。それ が「なんくる」が生まれる基盤にもなった。重度 障害者のための施設がないなかで親の要望に添っ た「重症心身障害児施設の通園事業B型」に積極 的に取り組む施設を見つけることがどこまで可能 か?、お互い少人数で顔見知りの地域の中で障害 別、重度別に分かれて運動するのではなく、障害 の重い人軽い人もいっしょになって自分たちに あったものを作っていくべきではないか?、しか し制度の利用を考える限りは、作業所も「B型」 も一度に作ることが難しければ現実的にはどこか で線を引かざるを得ないではないか?とさまざま な問題のなかで揺れ動いてきた。 宮古・平良市において、重度の障害者の人数は 少ない。就学前の時期で子どもの発達を願って多 くの親がリハビリなどの条件のある那覇の施設な どに子どもを預ける。しかし、養護学校中等部あ るいは高等部を卒業した時に帰ってくることがで きる人は少ない。このような事情で宮古に住んで いる重度障害者の人数は少ないけれど、かかえて いる課題は(全国どこでも同じように)人それぞ れ異なっていて多岐にわたる。学齢期で訪問教育 に関わる教育行政や学校に対する要求、母子家庭 で仕事に出るために夜に子どもを見てもらうため のナイトケアの要求、自閉症で多動性のある子ど もの日常的な介助の問題、高等部卒業後の活動の 場の保障問題等々。なんくるの運動に関わってい る人達の聞き取り調査をするなかでその多様`性が 明らかになってきた。社会的資源が少ないこと、 制度が障害の種類や重さやサービスの種類毎に細 分化されていることが、宮古のような離島地域で 具体的な要求を掲げて運動をしていく見通しを立 てることの困難さをより大きくしている。 なんくるの運動の中で大きく変わってきたこと は、宮古の地でも障害の最重度の人を含む地域生 活支援の体制が必要であることが保健所や行政、 地域の人々に少しずつ理解され始めていることで ある。1998年10月には、伊志嶺平良市長と3名 の市会議員がなんくるを訪問し夜8時から2時間 にわたってじっくり話を聞いた。様々な検討を経 て、なんくるは現在、宮古に重症心身障害児施設 の通園事業B型を作ることをめざしている。なん くるは名称を「重度障害児・者の地域生活を考え る会なんくる」から「宮古重度障害児・者地域生 活支援センタ-なんくる」に変えた。なんくるの 存在と発展自体が個々の制度を実現させるだけで なく、制度の谷間を埋めていく主体になるのであ ろう。宮古で行った重度障害者の親からの聞き取 り調査のなかでは、過疎対策のために学校が施設 を改造して車いすを使えるようにしてくれたこと もあり、障害のある子供達と一緒に那覇から伊良 部町に帰ってきた家族がいた。放課後は家の前の 道路で子どもたちが遊んでいる。近所の人の誰か -36-
沖縄大学人文学部紀要第1号2000 がそれとなく見てくれており、車もあまり通らな い。那覇市のある学校では交渉の末、重度障害児 の受け入れを親が責任を持つことを条件に受け入 れた。その後支援団体のボランティア達が自分た ちの経費で車いすが使えるように改善したいと学 校(行政)に申し出たが断られた例がある。地域 の人達の顔が見え、共同体の人間関係が残ってい る宮古では、試行錯誤のなかで力を付けつつある なんくるのような当事者・親の活動によって地域 を変える有利な条件もある。 それ以上の展開が難しく、また財政的な事`情も あってこの制度外の事業は廃止せざるを得ないと ころまで追い込まれていたが、1999年度も終わる 頃になって急遼認められ2000年1月に通園事業 として実施されるようになった。 小児発達センターでの取り組みは「青年部アン デルセン事業」という名称で、火曜日と金曜日に 10名近くの重症心身障害者が通所している(2時 ~4時)。現在は親同伴で、理学療法士によるス トレッチング(機能訓練)の指導なども織り込ん で、時には親のストレッチングをしたりしながら 親同士の交流や親に対する相談・支援の場とも なっている。全員が参加すると職員も含めて25人 近くになる。障害はみな最重度の人達だが、沖縄 では珍しいアイススケートに行ったり(車いすで すべる)、乗馬を体験したりして外に出て「いき いきとした体験」をすることにも積極的に取り組 んでいる。 2000年1月22日には小児発達センターの呼び かけもあって沖縄市で学習会も兼ねて「地域福祉 友の会」の結成会が開かれた。厚生省の障害福祉 専門官定月直樹氏、沖縄県障害保健福祉課長花城 可保氏の講演を聞き、国会議員の下地幹夫氏も参 加して終了後も夜まで話し合いがもたれた。宮古 「なんくる」代表の友利さんや沖縄島各地で運動 している人達も集まった。当事者・親と施設の連 携も少しずつ広がっている。 沖縄で初の青年・成人対象の重心型「通所事業」 1996年に名護療育園で、1998年に那覇市の若 夏愛育園で重症心身障害児施設での通園事業が開 始された(ともにB型で1日5人の通園者を受け 入れる)。県内第3の通園事業として2000年1月 に沖縄市の小児発達センター(肢体不自由児施設) で通園事業が開始された。 この通園事業の制度は重症心身障害児施設をも とに考えられているもので、利用者の年齢による 区別がない。重度の障害児は長生きしないと考え られていた時代に作られていた仕組みがそのまま 残されて、大人になった重症心身障害者も児童福 祉施設である重症心身障害児施設を利用できる。 このことに加えてそれぞれの施設の取り組みの経 過があって、同じ「通園事業」といっても名護療 育園と若夏愛育園の場合は就学前の子供が中心で ある(名護療育園の利用者の平均年齢は95歳、 若夏愛育園は41歳である)②。大人の「重症心身 障害者」を中心とした通園事業は実質的には小児 発達センターが初めてである。 小児発達センターは沖縄では最も早く大人の重 度障害者の通所事業に取り組み始めたところであ る。その出発はオリブ山病院が老人デイケアで障 害者を受け入れた1993年よりも前の1992年4月 にさかのぼる。この年、20歳から30歳までの9 名の養護学校高等部卒業者の通所療育が月1回の ペースで初めて開催された。その後月2回になっ た(1994年)が重症心身障害児施設での通園事 業がモデル事業から本格的な制度になった1996 年度以降も事業が認められなかった。小児発達セ ンターの運営事I情により、公的助成がないなかで まとめ 以上述べてきた沖縄の実態をふまえ、成人重度 障害者の「通所活動施設」の問題を中心にして当 面の課題をあげてまとめとする。 国と自治体の基本姿勢の見直し 相変わらず学校卒業後の成人重度重複障害者と その家族は厳しい状況にある。今年3月卒業予定 でまだ進路が決まらない人もいる。共同作業所さ しき、ティーダの会、なんくる、やまびこ大学校 を実施した後のミッキーズなど多くの人達・団体 が苦労して活動を進めている。重度障害者が地域 の中で生きていこうとしたとき、社会的資源も利 用できる制度もあまりにも乏しい。だからこれま -37-
沖縄大学人文学部紀要第1号2000 では親は結局、生活施設を希望しその増設を求め てきた。しかし、今、重度障害者のノーマライゼー ションの実質を求めて要求は多様化し、運動は着 実に広がっている。この当事者と親のねがいを国 と自治体が責任を持って後押しするために、成人 重度障害者の施策を根本から見直すことが緊急か つ最大の課題である。この5年間私が関わってき た人達の中だけでも多くの重度重複障害者(児も 含む)が亡くなっており、後まわしの許されない 課題である。 現行の重度障害者の通所事業の積極的拡大 重症心身障害児施設の通所事業は各県3カ所と いう国の一応の「基準」を沖縄県は達成している が、成人期障害者の事業としては十分機能してい ない。また住みなれた「地域」ということから見 ると県に3カ所というのはあまりにも少ない。国 は2000年度から、各県3カ所にこだわらず地域 の実情に応じて弾力化してもいいというが具体的 な対応はまだ見えていない。重症心身障害児施設 や身体障害者療護施設があるところで通園事業を 行うという進め方では、今起こりつつあるその地 域の当事者と親の要求とかみ合わないという問題 点も明らかになっている。 障害者デイサービスも軽度の人を対象とするも のを含めると少しずつ増え始めた。事業の数を増 やすとともに、運営主体の姿勢として基本型で あっても要望があり可能であれば重度の人も受け 入れる姿勢で運営することが望まれる。送迎サー ビスのある介護型を増やすことは重度障害者に とってはきわめて重要なことである。 那覇市の障害者福祉行政 那覇市は1998年3月に「なは障害者プラン」 を作成した。この障害者プランは那覇市が初めて 作った障害者プランである。数値目標を掲げただ けでなく重度障害者も地域で普通に暮らしていけ るノーマライゼーションの社会の実現をめざし、 最終年度の2002年度(平成14年度)までに介護 型障害者デイサービス(2カ所)、知的障害者デイ サービス(1カ所)を新たに設置し、早朝深夜の ニーズに対応するためチーム運営方式によるホー ムヘルプサービス事業の開始、24時間型介護サー ビス事業を導入する等これまでになかった踏み込 んだ目標を掲げた。また地域でくらす障害をもつ 市民に生涯を通じて一貫した支援ができるように 行政内にリハビリテーション課を設置するとし た。 厳しい財政危機の時代のなかでの出発というこ ともあって、この目標が実現してもそれは第1歩 に過ぎない。しかしこのような那覇市の障害者福 祉行政の積極的な姿勢がオリブ山病院における障 害者デイサービス介護型の取り組みや、ティーダ の会のグループホームへの取り組み(これは当面 実現しなかったが)にも現れていることを評価し なければならない。社会福祉基礎構造改革の流れ のなかで障害者福祉においても「措置制度」の廃 止をてことして国と自治体の責任がうすめられよ うとしている現在、きわめて重要なことである。 福祉の現場に直接関わる市町村の役割を強化して 行かねばならない。 小規模作業所に対する支援 作業所と重度障害者通所活動施設との関わりが 沖縄でも現実の課題となり始めている。作業所に 対する国の助成制度を確立して十分な助成を行う ことは最重度の障害者の地域生活支援という点か らも重要である。社会福祉基礎構造改革のなかで 法人認可の条件の緩和と施設の最低定員の切り下 げを中心として小規模作業所を国の制度のなかに 位置づける改革案の作成が大詰めに来ている。10 ~20名の小規模な作業所や授産施設の中に1名 あるいは数名の重度障害者が通うというあり方 は、今後広がっていくべき-つの選択肢と言えよ う(もちろん、社会就労センターわかたけのよう に、国の助成を受けている認可の授産施設等にお いてこそこうした積極的な取り組みが求められて いるのだが)。しかし、作業所や授産施設で最重 度障害者を受け入れるためには実効性のある重度 加算の制度が必要であろう。法人認可を実現した 作業所(授産施設)が地域の重度障害者を受け入 れて、重症心身障害児施設B型やデイサービス介 護型を実施するようになれば沖縄の状況も大きく -38-
1111細大学人文学部紀要第1号2000 変わってくるだろう。 国と自治体の「障害者プラン」はその多くが2002 年度(平成14年度)で終わる。重度障害者から 見て期待はずれの第1期の障害者プランを根本的 に見直す課題は目の前にあるといえよう。 実践の交流・研究と当事者・親も含めた情報交流 と意見交換 沖縄でもようやく、重症心身障害児施設通園事 業、障害者デイサービス、小規模作業所における 重度障害者の受け入れなど重度障害者の通所活動 の場が見え始めた。これらは当事者・親の要求と 運動を基盤にしたもの、現行制度を適用して既存 の施設が事業を開始したものがあり、また既存の 施設の場合も制度の適用以前から独自に試行的に 事業を実施してきたところと新規に事業に取り組 んだところがありさまざまである。デイサービス も制度上、身体障害者と知的障害者に分かれてい る。施設設備の条件もさまざまであり、医師や看 護婦、理学療法士その他の専門家の関わり方につ いてもさまざまである。施設、作業所、運動団体 それぞれの取り組みの情報や経験の交流が重要と なっている。こうした現場の実態をふまえて、福 祉圏域の具体的内容を作っていく必要がある。こ の中で、「現行制度を利用(代用)」するだけでな く「重度障害者通所活動施設」の制度そのものを いかにつくっていくかということもあらためて議 論になるであろう。 注 (1)「就労要件」の撤廃については「今後の知的 障害者・障害児施策の在り方について」(中 央児童福祉審議会、1999年1月25日)、身 体障害者グループホームの制度化については 「今後の身体障害者施策の在り方について」 (身体障害者福祉審議会、1999年1月25日) を参照。 (2)全国重症心身障害児者を守る会第2回九 州・沖縄ブロック研修会資料、1999年11月。 参考文献 1「重度・重複障害者卒後実態調査」(谷口正厚、 『沖縄大学地域研究所紀要年報』第6号、 1995年3月) 2「ひやみかちあしばな懇談会(記録)」(谷口 正厚、『沖縄大学地域研究所所報』、N011, 1995年9月) 3「重度障害者とデイセンター(研究集会参加報 告)」(谷口正厚、『沖縄大学地域研究所所報」、 N011,1995年9月) 4「児童相談所の「重症心身障害児者実態調査」か ら(覚え書き)」(谷口正厚) 5「地域でくらすために行動する沖縄の障害者・ 家族たち」(谷口正厚、『沖縄大学地域研究所 紀要年報」第9号、1997年3月)。沖縄大 学谷口ゼミの主催で行った講演会の報告集『地 域で生きる.みんなで考えよう』、1998年3 月にも収録) 6『やまびこ大学校記念誌希望』(やまびこ大学 校運営委員会、1995年10月) 7「未来に向かってビグ・ミッキーズ(1996/4 ~1997/5)」(このまちをこよなく愛する会 「ミッキーズ」、1997年5月) 8「医療分野(医療法人葦の会)における地域リ ハ活動」(「アジア太平洋障害者の10年」キャ ンペーン'93「国際NGO会議障害者の社会 障害者プランの根本的見直し 要求が広がりつつある中で見通しが見えてこな い原因は国と自治体が重度障害者の施策について 根本的な見直しをしていないで、現行制度の延長 上に接ぎ木的に施策を進めようとしていることに ある。社会福祉基礎構造改革において、ノーマラ イゼーション、当事者決定、選択できる福祉とい うことが強調されているが、重度障害者の視点か ら見ると現実はあまりにも内容が貧しい。特に国 の責任が大きい。「基礎構造」改革とうたいながら、 人間の活動の最も積極的な場面である昼間の活動 をどう支援していくかに関わる「通所活動施設」 についてはどこでも議論されていない。1996年 3月に設置された厚生省障害関係3部会の合同企 画分科会では当初「重度障害者通所活動施設」の 問題も含めて施設制度のあり方を根本的に見直す かに見えたがその後の経過は期待はずれである。 -39-
沖縄大学人文学部紀要第1号2000 参加に関する沖縄会議」1993年10月18~ 19日、第1分科会「CRB(地域に根ざした医 療・教育・職業リハビリテーション活動)」に おける名嘉淳氏のレポート) 9「オリブ山病院」(名嘉淳、『地域リハビリテー ション白書2』、澤村誠志編、三和書房、19998 年11月) 1996年3月にも収録されている) 付記 この論文は、1997年度及び1998年度の文部省 科学研究費(基盤研究C、課題番号09610223) の助成を受けて行われた研究成果をもとにして、 その後1999年11月および2000年2月に全国障 害者問題研究会共同研究プロジェクトの一環とし て行った九州の作業所関係の再調査の成果を加え (文献1~4は『障害者の生活と権利を切り拓く 研究集会報告書(重度障害者の地域生活を考え る)』、沖縄大学地域研究所障害者問題研究会、 てまとめたものです。