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<研究ノート> 経典研究の方法

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最近、経典研究の方法を考察した幾つかの論文を読む 機会があった。その巾で、筆者には下田正弘氏の﹁浬梁 経の研究﹂と勝呂信静氏の﹃法華経の成立と思想﹂がと りわけ興味深く思われた。そこでいまは両書に基づいて ﹁経典の成立過程を考察する方法﹂について考えてみた い。それに先立って、下田氏の著書には経典研究全般に 関する方法論や研究史の検討がなされているので、まず 氏の研究に基づいて﹁経典研究の方法﹂から考察を始め

たい。‘

ここに取り上げる下田氏の﹃浬梁経の研究﹂は経典研 究に関する多くの方法論をその長所と短所を上げて解説 し、自己の方法論を示し、その上で﹃浬梁経﹂の形成過 程を解明するという作業を通して自らそれを実践して見

研究ノート

経典研究の方法

せるという、甚だ意欲的な書物である。その内容を各章 の題名によって示せば次のようである。

序章大乗経典研究の諸問題

第一章大乗浬薬経前史 第二章大乗浬藥経の形成史 第三章大乗浬梁経の思想の変遷 第四章大乗浬梁経の社会背景の変遷

第五章結論

ここでは、紙面の都合上、経典研究の研究史を扱う序 章と、その方法論を述べた第一章、および著者の方法論 を実践してみせた後半の三章の中から第二章を取り上げ ることとする。 まず序章では、従来の大乗経典研究を、大乗仏教の教

谷信千代

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団起源にかかわるもの、思想研究にかかわるもの、文献 形成史に関するもの、文献外資料の扱いに関するもの、 大乗・小乗の区別立てへの議論に関するもの、仏教史解 釈のための類型論にかかわるものに分類し、そのそれぞ れに関する代表的な研究が検討される。著者は多くの研 究書の中から当該分野を代表すると思われるものを幾つ か選び出し、その要旨を簡潔に紹介する。それによって われわれは大乗経典の研究史をいながらにして目にする ことができる。そして著者は浬梁経の研究には経典を一 挙に解読せしめるような﹁賢明な視点の発見﹂などはな いと言う⑪。実に多くのこれまでの研究成果がその本質 を的確に把握されて著者の考察の俎上に載せられている。 それらの論文の中で﹁大乗仏教の教団起源にかかわるも の﹂と﹁文献形成史に関するもの﹂に分類された研究の 項目が著者の浬梁経研究に最も大きな影響を与えている ように思われる。 周知のようにわが国では、大乗仏教については村上専 精らの﹁大乗非仏説論﹂が登場して以来、様々に議論が なされてきた。その議論はやがて﹁大乗の起源﹂を問う 一、経典研究と大乗仏教の起源 という方向に鉾先を転じ、小乗の一部派である大衆部を 起源とするという前川慧雲らの説を経て、平川彰﹁初期 大乗仏教の研究﹂︵らg︶によって新たな展開を迎えた。 平川説では、大乗教団は、部派とはまったく異なった在 家の流れに源流を発し、仏塔を起源として興ったとされ る。平川説にはその当初において反論があったものの、 わが国ではおおむね支持され、近年では定説化していた と言ってよい。 他方、欧米では大衆部を中心とした部派に起源を有す るという理解がずっと主流をなしている。その主たる原 因の一つを、著者はバローが行なった律蔵中の仏塔に側 する記述の研究︵らg︶に求めている。そして欧米で仏 塔を文献的に裏付けようとするときには、仏塔が部派仏 教にとって重要な意味を持つとしたバローの研究に基づ くのが通常であるのに対して、わが国では仏塔供養を大 乗経典に固有の現象とみなしたところに両者の理解の違 いが生じたと述べる含屋︶。 バローの研究を踏まえて平川﹁仏塔教団起源説﹂を批 判したのはショーペン︵ら計︶である。彼の平川説批判 はわれわれに大きな衝撃を与えた。彼はその後の論文 ︵ころ︶で、大乗目色厨乱口四の語は碑文においては四世 61

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紀以降にしか現われず、ナーガールジュナコンダや西北 インドにおいては大乗のものと見られる碑文は存在せず、 それゆえ四世紀まで大乗は独立した教団を形成すること なしに部派の中で共存し、その後に教団として自立し始 めたと結論づけている含辰︶。大乗が部派の内部で成 長したことをもっと早い時期に指摘したのはプシルス キーであった︵巳思︲畠︶。彼は各部派内部に大乗の運動 を発展させていった可能性のあることを示唆し、﹁説一 切有部の大乗﹂﹁正量部の大乗﹂﹁法蔵部の大乗﹂といっ た存在を想定する必要性を示したのであった寺.弓︶。 著者は仏教文献を研究する態度を大きく二つに分けて、 文献の内容に歴史的諸段階を想定し、その段階の解明を 通して当該の思想なり、社会背景なりを明かそうとする 態度と、歴史的諸段階を想定することなく、与えられた 文献をまとまりのある全体として捉え、むしろその統一 的な意味解釈を図ろうとする態度とに分ける。そしてそ れぞれの態度で行なわれる研究を実例を挙げつつ説明し ている。その中、歴史的諸段階を想定して行なわれる研 究において共通な記述がより古いとみなされることに関 して著者は、ショーペン︵ら韻︶がインド仏教の歴史文 献が後世に書き換えられた可能性を考慮する必要性を示 唆していること、さらにはゴンブリッチ︵こぎ︶が伝承 は矛盾のない方向に訂正されながら受け継がれていくと 述べていることを紹介して、異本に共通な記述をより古 いものとする暗黙の前提に注意を促している合忠︶。 著者の経典研究の方法論に大きな影響を与えたものは 以上のような研究であったと思われるが、それ以外にも これまであまり注目されなかった研究で著者の大乗経典 研究に強い影響を与えたと思われる幾つかの研究が﹁新 たな仏教史への可能性﹂という見出しの下に取り上げら れている。 そこには伝統部派仏教と大乗仏教の連続性を明かす研 究が紹介されている。その中に、阿含・ニカーャから大 乗経典へという経典制作に連続性が認められるというマ ックイーンの説︵ら巴︲駕︶が挙げられている。マック ィーンは厳密な意味でブッダ自身のことばでないものが、 経典として認められた基準を次のように示している。 ①弟子が説いたものを後に﹁仏﹂が承認したもの ②説法する前に﹁仏﹂が承認して説かせたもの ③その説法に﹁霊感冒昌与倒﹂が認められるもの ③の場合についてマックイーンは、ニカーャ中に﹁世 尊よ、私に霊感が生じました﹂と告げ、それを世尊が許 62

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可する内容となっている経が十二例あることを挙げ、そ れゆえ﹁よく語られたのはブッダのことばである﹂とい うニカーヤの記述が示すように仏説盲邑冨く騨○9口は必 ずしも﹁歴史的なブッダのことば﹂である必要はない、 と言う。マックイーンはそこにおいて﹃八千頌般若経﹄ を分析して、この経でスブーテイがブッダに代わって法 を説く手順が、ニヵーャに見られる官昌9脚の構造を とっており、さらに最後に﹁現前するブッダ﹂の承認を 得るという、ニヵーャとまったく同じ構造をとっている ことを指摘する。この指摘に基づいて著者は、﹃八千頌 般若経﹂に登場するブッダは歴史的ブッダではないが、 経典自身もそれを装うように経を作ってはいない。ここ にはブッダ観の大きな変革が存在していると述べる。ま た、仏語のイメージがすっかり変わってしまっており、 法師から伝えられる、真実を伝えようとする生きたこと ばが仏語なのであるとも言う含患︶。 上記のような過去の経典研究の方法論を踏まえた上で 著者は自己の研究態度を四点に総括してほぼ次のように 説明する︵弓も︲閉︶。 ①大乗と伝統部派との関係について

阿含・ニカーャと大乗経典とは、たとえば共に

冒昌9画構造を取るものが存在する事実が示すごとく一 致する。また平川説が教団の依り所として想定する仏塔 と僧院という対立は、部派単位での大乗と小乗︵伝統部 派︶という対立ではなく、同一部派内部に抱えた異なっ た類型の仏教として捉えるべきである。 ②社会背景研究と思想研究の接点について 学会には、同一経典を対象として、平川博士によって 提唱された﹁教団史的観点から経典を読む﹂という新た な立場で解明された教団研究の成果と、論耆によって切 り取られた側面から描かれたり、従来の宗学の範囲を超 えない程度にまとめられた思想研究とが、互いに連関を 持ち得ないままで横溢する、という現状が存在する。し かし経典の社会背景と思想とは密接不可分な関係にある ことにもっと注意を払うべきである。 ③経典における思想研究の方法について ②と③の問題は﹁ただ一つのことばを、文献内在的に 読み取る﹂という態度に徹することによって解決が図ら れる。この姿勢に徹するならば仏教の教団史的理解と思 想的理解とはばらばらになりようがないし、経典におけ る思想研究は注釈や諭書による偏った制限を受けずに行 なうことができる。 、 。

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以上のような研究態度を自覚的に維持しつつ浬梁経の 形成史を解明するという仕方が終始一貫して取られてい るのが本書の特長をなしている。第一章では伝統部派の 伝承した非大乗系の浬藥経の問題が検討される。著者は、 初期経典においては浬梁という話題を取り上げる経典が 極めて小数である点にその特異性があることに注目する。 そしてそれを経典の持つ本質的な性格が反映したものと 考えている。著者は阿含・ニカーャ・律蔵中にブッダの 入滅を主題として扱った文献として二十二を挙げる。バ ロー︵5週︶はかってこれらの文献の中から浬梁経の原 初形態を辿ろうとしたことがあった。著者はバローの研 究に基づいて浬檗経の中核になった部分を捜し、それを ﹁クシナガリーにおけるブッダの浬藥﹂を物語る部分に 求める。その中でもバローは﹁クシナガリーでの最後の 時﹂の部分が中核であり、その後すぐに﹁葬儀、舍利供 養﹂の部分が付け加えられたものと考えた。著者はブッ うに第二章以下に具体的な形で示される。 離れた簡略なまとめは意味をなさない﹂と述べているよ ④文献形成史の方法論については、著者が﹁具体例を 二、初期経典における浬藥経の形成史 ダの﹁入滅の事実﹂のみを記したものはなく、必ずブッ ダ減﹁後﹂の模様の記述が絡んでいる事実を理由に、バ ローの考えに疑念を抱いた。 経典の中核を求めるに際して著者は﹁経典制作の意 図﹂を尋ねるという方法を取る。﹁歴史的事実は教義の 保存をはじめとする何らかの宗教的関心に支えられ、そ れに付随して残された二次的な成果と考えたほうがよ い﹂と思ったからである。﹁ブッダの入滅﹂を話題にし た経典作者の関心は何であったか。あらゆる経典や律は、 ブッダによって真理としての資格を得ていくものである。 にもかかわらずブッダの浬梁を語るのは、その真理の担 い手であるブッダが最後を迎える場面を設定することだ から、仏教の源泉が途絶えてしまう場面を作り上げよう とすることになる。それをあえてするには通常の経典制 作以上の格別の動機が要求される。 著者によれば、浬藥経制作の意図は、入滅の解釈を、 ﹁仏の入定﹂という観点と、﹁仏身・舍利に関する奇跡﹂ という二つの観点によってまとめあげる点に存していた とされる。前者の観点による解釈とは、ブッダの﹁死﹂ を﹁禅定﹂という観点で捉え直し、浬梁をブッダの存在 の消滅ではなく禅定による﹁浬藥界﹂への悟入と解した 64

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とするのである。そうすれば法を保証するブッダが禅定 に常に存在することになるので、仏滅後に制作され続け る聖典の根拠が保証されることになる。他方、後者の観 点による浬梁の解釈によれば、経の﹁ブッダの遺体を包 んだ最上と最下の布が焼け残った﹂ということばはブッ ダの滅後の遺体に関する奇跡を述べたものと解される。 つまりこの箇所での浬藥経の意図は、ブッダの入滅とい う場面を﹁仏身・仏舍利に関する奇跡を認める場面﹂に 変えるという点に存するとするのである。いずれの観点 からにせよ、浬梁経はブッダの入滅という事実を語るこ とによって、かえって﹁仏身の永遠性﹂というテーマに 踏み込んだのである。以下、著者は、阿含・ニカーャ・ ﹃ブッダチャリタ﹂・碑文・律における遺骨崇拝の記述 を通して、遺骨︵仏塔︶崇拝がいかにして浬藥経の核心 となる﹁ブッダの存続﹂という主題と結びつくに至った かを追及していく。結論のみを示せば、著者はそれらが 結びつく起源を律中に記されるブッダの髪や爪などを祀 った﹁聖遺物の日冒8烏ぐ3﹂としてのストゥーパに求 めている吾巳己。著者はまた、仏塔崇拝がすでに部派 において存在しており、全仏教の前提となっていたこと を指摘している含屋巴。これらの指摘は、平川博士の 大乗仏教﹁仏塔教団起源説﹂を覆すものとして興味深い が、ここではその問題には立ち入らない。いまはむしろ 本書におけるより重要と思われる指摘を紹介しておきた い○ 第一章の結びにおいて仏塔信仰と大乗経典の関係につ いて考察しているが、その中に極めて重要な指摘がなさ れている。そこにおいて、著者は二つのブッダ観に触れ、 ブッダの存在は、大きく分けて、形象・イコンに託され るか、あるいは形象を超えた﹁ことば﹂に託されるか、 に分かれていったと述べる。そして、後者の流れは一一 カーヤを中心とする初期仏教経典となって現われ、前者 の流れは仏塔や仏像に象徴される︵弓﹂虚︲E、の前 者・後者という指示語は逆になっている︶。このうち、 阿含・ニカーャという形にまとまっていく後者の伝承の 大部分は、比較的早くに閉ざしてしまった可能性が高い。 しかし、その中の一部、たとえば官昌喜倒を尊重する 流れの者たちは、前者、すなわちイコン、仏塔としての ブッダの表現から示唆を得ながら、経典制作活動を続け ていった。マックイーンの研究から理解されるように、 この流れが大乗経典制作に結びついている可能性が高い、 と言う。 戸 『 ー nひ

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この指摘は序章で紹介されたマックイーンの﹁ブッダ のことばの基準﹂と考え合わすと色々なことが想像され て極めて興味深い。例えば、われわれは次のよ箔7にも想 像することができる。すなわち、原始浬藥経においては 浬藥したブッダの存在は禅定に入った者であるか、ある いは舍利として存在する者と解された。それはいづれも 何らか物質的な身体として存在する者と考えられていた。 それに対して或る人々のもとにおいては、浬梁したブッ ダは形象を超えた﹁ことば﹂に託され、冒昌匡倒の流れ と合流し、やがて大乗混梁経を生み出していった。その ようにして合流したものを著者は、﹃般若経﹂や﹃法華 経﹂にも見られるような、儀礼的事実としての仏塔信仰 に飽き足りず、﹁経典﹂という形で表される新しい真理 のすがたを模索しようとする流れ、と表現している含 匡今]お︶。それではそれらはどのようにして合流したの であろうか。著者はこの問題に直接的には答えてくれな い。しかしわれわれはこの問題をも著者の提供する資料 をもとに色々と考えることができる。 例えばそれには﹁縁起を見る者は法を見る。法を見る 者は縁起を見る﹂と説かれ、﹁法を見る者はブッダを見 る。ブッダを見る者は法を見る﹂と説かれる阿含・ニ カーャに反映しているブッダ観の存在を考えることがで きるかもしれない。著者も指摘するように、大乗の﹃稲 桿経﹂においても縁起を見る者は﹁無上の法の身体とし てブッダを見る﹂と説かれている。この経典はパーリ聖 典と多くの平行箇所を有することから成立が非常に古く、 紀元前二百年頃と見る学者もあるほどである合大乗経典 解説事典﹂︶。それはまた二世紀のものと認められるカ ローシュテイ碑文の中にブッダの遺骨と﹁縁起の法﹂を 収める記録が存在する寺﹄合︶こととも関係するであ ろう。著者は遺骨を縁起頌と等置する塔を、その出土時 代から﹃般若経﹄等より後に成立したものと考えている ︵軍辰巳。しかし、塔の建築された年代は遅いとしても、 ﹁稲桿経﹄やカローシュテイ碑文の年代の古さを考慮す れば、ブッダの遺骨を縁起頌と等置する思想の成立を果 たして﹃般若経﹂等より後とすべきかどうか、一考の余 地があるのではなかろうか。これは大乗の起源を解明す る重要な手掛かりとなる問題でもあると思われる。著者 にさらに調査検討を求めたい点である。 三、大乗浬藥経の形成史 さて、大乗浬梁経の形成史の考察は第二章においてな ‘ ロ ダ ワ 0,

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される。考察の対象とされるのはインド成立であること が確認される部分に限られている。したがって資料とし ては、現存サンスクリット断片すべてと、法顕訳﹃大般 泥垣経﹄と、それに相応する曇無識訳﹁大般浬梁経﹂前 十巻及びチベット訳とが用いられる。 大乗浬梁経の形成に関して階層設定を行なうに際して 著者は、第二章では本経の抱える異質性に考察の目を向 け、第三章、第四章でその異質性がいかなる意味で連続 を保っているかという同質性に目を向けるように努める ことを、基本的な態度とすると言う含]臼︶。著者はか つて横超慧日が立てた﹁原型の浬梁経﹂という仮説 ︵畠憩︶を単に文献の記述・体裁上の観点からなされた ものとして批判し、経典の内容研究、異訳テクストの比 較研究からそれぞれ帰納され、理論的な前提として要請 される﹁原始大乗浬梁経﹂を想定しなければならないと 言う。つまり、一つのテクストに様々な内部矛盾があり、 異訳テクストに差異があることが説明できるような、 ﹁原始大乗浬藥経﹂を想定しなければならないと言うの である。著者によれば法顕訳の﹁序品第ご﹁大身菩薩 品第二﹂﹁長者純陀品第三﹂﹁哀歎品第四﹂﹁金剛身品第 六﹂が﹁原始大乗浬梁経﹂に相当する層︵第一類︶をな し、﹁長寿品第五﹂および﹁受持品第七﹂以降の全十二 品が後に発展形成されあるいは移入形成された層︵第二 類︶をなすものと想定される。そして以下、一つのテク スト内の矛盾及び異訳間の矛盾が、これら二つの層の間 に見られる差異とどのように関係しているかが考察され う︵︾O それらの矛盾がまず、社会背景の変化という側面から、 浬藥経の支持母体が﹁法師﹂から﹁菩薩﹂に代わったこ とによってもたらされたものであることが説明される。 浬藥経では世尊の対告衆として登場しこの経を支持する 者とされるのは、﹁比丘﹂︵大乗と部派とを問わず乞食生 活を送る宗教者全体に幅広く使用された︶を除けば、 ﹁法師﹂と﹁菩薩﹂である。ところが﹁金剛身品第六﹂ を境にして﹁法師﹂は殆ど登場しなくなり、代わって ﹁菩薩﹂が護法者として登場するようになる。しかも ﹁金剛身口凹以前の諸品においては法師が、国王・大 臣・長者らと親しく﹁香・油・幡・華﹂等を供養し、利 養と名誉とを拒否せず、春属を喜ばせることが推奨され ているが、それ以降の諸品ではそれらの行為を菩薩の行 なうことが否定されている。﹁金剛身品﹂の以前と以降 に見られるこのような変化は、浬藥経を支持する者たち ハ 句 O/

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の社会背景が変化したこと、つまり彼らの﹁出家化﹂ ﹁教団化﹂の進んだことを反映するものであると著者は 一言第っ。 次に思想内容の相違という側面から﹁仏身常住思想﹂ から﹁如来蔵思想﹂へと思想が変化したことによるもの であることが説明される。例えば、浬藥経が常・楽・ 我・浄を説くことはよく知られているが、著者はその常 楽我浄説が二種に分かれることを指摘する。﹁原始大乗 混藥経﹂に属すると考えられる﹁哀歎品﹂ではそれらは それぞれ法身・浬藥・仏・法に配当されているが、後期 のものと考えられる﹁四倒品第十二﹂や﹁如来性口叩第十 三﹂ではそれらはすべて如来と如来蔵に配当されており、 前者と後者とには﹁仏身常住思想﹂から﹁如来蔵思想﹂ への変化が見られると言う。 このように二つの側面から浬藥経に二つの層のあるこ とが、同一テクスト内に見られる種々の矛盾、異訳間に 現われる齪酷を詳細に検討することを通して論証される。 その精綴な論証作業の中に上記の著者の研究方法が自覚 的に実践されており、われわれは経典研究の方法論がい かなるものであるかを如実に知ることができる。 前述したように、著者は、大乗浬梁経の形成過程を考 察するに際して、第二章では異質性に考察の目を向け、 第三章、第四章では同質性に目を向けるように努めるこ とを基本的な態度として考察することによって、勝呂氏 の目指したものと親和性の強い結果に到達した旨を記し ている含扇己。しかし筆者には、両氏の達成された成 果は少なからず異質な印象を与える。勝呂氏は、法華経 全体を一つのグループによって編纂されたものであると 考え、そうである以上﹁編纂者たちは、当然執筆に先立 って、経全体の構想についての一致した見取り図や目論 見を持っていたと考えねばならない﹂と述べる含紐︶。 したがって氏の考察は常に経典の階層の同質性に向けら れる。他方、下田氏は、浬藥経の第一類と第二類の制作 者︵トレーガー︶はそれぞれ別であり、前者は法師であ るが後者では菩薩に代わっていると言う。氏はその交代 を、遊行者であった法師が徐々に教団内部にところを得 て、﹁林住型から僧院型へ変化﹂したことに合致するも のと述べる︵弓閉午笛こ。このように、経典の階層の 同質性を考察しようと努めた第三章、第四章においても、 下田氏の視線はむしろその異質性の方に向かっているよ うに思われる。しかしそれこそが氏の考察を興味深いも のとしている長所であるように筆者には思われる。 68

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ここでわれわれは両氏の見解の違いを明らかにするた めに、勝呂氏の﹁法華経の成立と思想﹄に目を転じてみ よう。﹁法華経﹄はその諸品の間に説相を異にした場面 が認められるため、その異質性に着目して経を分析的に 見ると、あたかも、独立性の強い諸部分を接合して全体 が構成されているという印象を与える。しかし先に述べ たように、﹁経典の編蟇者たちは、経全体の構想につい ての一致した見取り図や目論見を持っていたと考えねば ならない﹂とするのが氏の主張せんとするところである。 つまり氏は、継続的に行なわれた一連の編蟇作業が終了 したときには、法華経は提婆品を除く二十七品の形態を とっていたと考えるのであるき駅︶。説相の相違は、 複数の作者が複数の読者層を意識して作成したという事 情の反映したものである谷、望︶。したがって、連接す る諸品の間に説相の変化が大きく、所説が直接に結びつ きがたく思われるところがある場合には、そこに隠され た論理を見出して顕在化する必要があるきら己。 例えばこれまで多くの研究者が、書写行への言及の有 無やストゥパ崇拝とチャイティャ崇拝の相違などに基づ 四、法華経の成立史 いて、それらが現われる諸品の成立年代が推移したもの と想定してきたのに対して氏は次のように言う。すなわ ち﹁仏在世の時代は経典の書写は行なわれていなかった から、それを場面とする第一類には書写の言葉はあらわ れていない。︵中略︶これに対して第二類においては、 滅後の経典の流通が主題であって、とくにチャイティャ ヘの奉安が問題として取りあげられているから、それと の関係上、必然的に書写行が強調されるに至ったのであ ろう。書写行の有無の相違、ストゥパ崇拝とチャィティ ャ崇拝の相違は、時代による変化ではなくて、主題の転 換に伴う﹁法華経﹂作者の関心事の推移に外ならないと 考えるのである。︵中略︶それは経作者の関心事が、在 世から滅後へ変化・推移したこと[を示すの︵筆者加 筆︶]である含にe﹂と。第一類とは序品以下の九品 と随喜品を指し、第二類とは提婆品を除く法師品以下の 十品を指す。 氏はまた、第一類から第二類に至る﹁法華経﹂の叙述 構成は、声聞が菩薩に転化する過程を描いたものであり その叙述構成そのものが廻小向大︵廻心︶を寓意したも のと解されるとも言う含目巴。このように従来は﹃法 華経﹂諸品の成立年代の相違を示すものと考えられてき 69

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た種々の矛盾した記述に関して、氏は、経の作者にとっ て整合性はあえて考慮に価しないことであり、﹁要する に諸品の教説の積み重ねによって、全体として統一的な 思想を表現するというのが﹃法華経﹂の立場であると考 えられる﹂と述べる︵口笛]︶。 さらに普通は最も遅れて成立したとされる最後の六品 ︵第三類︶も先の諸品と同時の編蟇と考え、﹁これら六 品は、第二十品までの﹁法華経﹄︵提婆品を除く︶に対 し、その﹁付録﹂の部分に当たるものとして作成された ものであり、それは、二十品の﹁法華経﹂に付して、経 の読者の立場に応じて六品のうちどれか一品を選んでか れに受持読調せしめるという目的の下に作成されたに違 いない﹂と推定する︵も勗巴。このような勝呂氏の論述 からわれわれは、法華経の諸品の有機的な関連性を教え られ、経典全体の意図を示唆される。ただ氏の言われる ように、法華経の作者にとって整合性はあえて考慮に価 しないことであったと言い切ってよいかどうかは、筆者 にはいささか気になる点である。そのような考え方が氏 の論攻に一貫性と明蜥さをもたらしている長所であるこ とは言うまでもないが、その反面、下田氏の論攻に見ら れるような﹁社会背景研究と思想研究の接点﹂について 以上、両氏の経典成立史に関する考察を見てきた。下 田氏が経の階層の相違をその制作者の違いに求め、勝呂 氏が編纂者の関心事の推移あるいは経の寓意の違いに求 めておられることが、両氏の見解の根本的な相違点であ るように思われる。しかしその相違にも関わらず、筆者 は両耆から経典の成立過程について考えるための様々な 示唆や、経典研究の方法について思いを巡らせる貴重な 機会を与えられたことである。︵一九九八年九月十二日︶ にも思われる。 の考察をやや希薄なものとさせた原因となっているよう、 国閏①凹匡︾シ,︽︽F四。○口里目95口里置o巳敲堅①m、日も卸角四冒刷、 罰君員旨営冒曾︾︾︶、回悶圃p#g︶59︺でロ圏や野吟 ︽︽F印CO冒己○四巨○昌與]のの陣四℃①の口①臣︷○日]胃︺○画 己同○ぬH①的巴ぐ①g]邑邑園琴働、ミー営号ごミミ匂曽、ismpgg︺︶︾︾、両︲ 司両︵︶﹀升汁①。]①﹃ぬ己や一切I﹄Cい の○日宮旨戸幻.田︽︽罰の○○く国営msの、岸・ユゴ四︺m旨①の的緒の︾︾・回S,︲ 爵忽、胃弐言いミ心苫型﹄奇忌旨ミ負雷.すぐ詞匡f四口.い い己口のO言昌己号四巨の①ロ︶伊・斗什い﹄④④P己や岸いい ︾畠、○ぬ巨の①ロ︾の自口の宮屋の堅のも①のo犀旨両胃毎戸[巴国く画ロ四 国巨堅旦巨め目局︾詞、一崎一§︾#巨︾ら圏︾己亨g甲田P 昌匡二脚記、嵩料○番︾#﹄脚胃。“いもや心④l①口

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