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ドイツにおける法社会学と法教義学

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(1)

論 説

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ける法社会学と法教義学

1一一『奈良法学会雑誌』第5巻 2号(1992年9月〉 は し が き 一法社会学と法実務 付 事 態 の 解 明 。 法 の 適 用 二法社会学と法学 付法教義学の自立性 同法教義学を社会学的理論を通して豊かにすること 同法事実の調査と法教義学 一 一 一 法 社 会 学 と 立 法 む す び

法社会学、法教義学が法をそのおりおりにさまざまな詮視点のもとに観察しているとしても、法は関連のない同時

(2)

第5巻2号一一2 併存的存在を意味するものではない。各々の法規範には、法規範の理解にとって欠くことのできない社会的現実が属 ずる。この社会的現実にもとづいて各々の法規範が起草されたのであり、また、法規範の発生時代の法状態及び今日 の社会的現実も各々の法規範に属するのであり、今日の社会的現実のなかで、各々の法規範は作用させられているの である。法律家が規範を解釈するならば、彼は、規範が関係している社会的事態を同時にみなければならない。他面 において、社会学者もまた、法規範が、単純な慣習法と異なって規範的効力を主張し、法規範はこのように理解され、 また、このことを通して特定の仕方で作用していることを見落としてはならなげ ω 法教義学と裁判実務との関係は相互的である。教義学は実務に決定基準を与え、修正もする。判例は教義学に資料 を提供し、これから教義学は新しい基準を獲得しようとつとめれ ω 法教義学は経験的法社会学との協働において現行法に適応し、また、立法者に択一を可能にする解決案をつくりだ さなければならない。この目的のために法事実の研究が必要であり、社会科学的方法、 たとえば、統計的調査、ある いは、官庁または社団のアンケートが使用される。しかし、その場合、このようにして獲得された認識を立法提案に おき換えるためには法律学的道具の精確な知識が必要であお w このような観点に立って、 一、法社会学と法実務、ハ円、事態の解明、科、法の適用、料、社会規範の具体化、

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、 良俗の尺度の具体化、料、信義則の尺度の具体化、

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、過失の尺度の具体化、二、法社会学と法学、ハ円、法教義学の 自立性、向、法教義学を社会学的理論を通して豊かにすること、問、法事実の調査と法教義学、一二、法社会学と立法 にわたって考察する。 日本における法社会学と法教義学の関係については別稿で論及する予定である。

(3)

法社会学と法実務

法社会学的観点は法的に意味のある事態を確めることと法規定の適用の際法実務においてあらわれる。 付 事態の解明 価値判断されるべき事実を確める際に個々の事態の所与のみが重要である。この際社会学的観点は規範的にはいか なる役割も演じない。個々の事案は複雑に社会的な周辺と結合している。周辺の事情は事態を確める際顧慮されなけ ればならない。例えば、危険なスポーツに参加する際に共同過失が存在しているかどうか(明白品切の切)、あるいはア ルゼンチンの兎の肉のサルモネラ菌が物の暇班(定日記切の切)をあらわしているかどうかを問いかける際である。こ のような種類のスポーツ傷害の頻発性、消費者の反応である。類型的考察は避けられない。例えば父と母のうち、 し、 3一一ドイツにおける法社会学と法教義学 ずれが子の福祉のために監護権を行使することができるかを価値判断する際、長距離運転者としての父の職業、女中 としての母の職業である。個々の事案の事実を越えて把握する一般化してゆく、あるいは、類型化してゆく確定の際 社会学的考察方法の限界に到達する。それにもかかわらず法律家は社会学化してゆく意味表明のための権能を要求す

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円円。(日常理論)と呼んでいる。学問的に基礎づ るのが通常である。法社会学的文献はこれを軽蔑的に けられていない社会的現実に関する一般的承認である。各人の特殊な立場はこの理論の背後にかくされている。この 思考姿勢は学問的立場と対立している。無批判的である。学問的省察によって混渇されていない。回 J ヘ

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(4)

第5巻2号一一4 証明されないという主張である。この理論は事実上の関朕に関する仮説として定義されることができる。この仮説 は非公式に取得された、各人にとって手の届きうる経験にもとづいて定立されるのである。この仮説はひとしい事 物関係にある他人の経験と一致するかどうかにしたがって管理されうるものであり、再検討されうる。現実へ手を 届かせることが社会学者の独占であるということ、特定の儀式化された技術の助けをもってのみ取得されることが できるということを自己の配下に置いていないがゆえに再検討できるのである。人聞が日常において一致して見た り、観察することは、通常、よく確認されたことであり、学問的高慢から、悪く確認された社会学的理論に優越す るのである。ラジオでよい天気は停止するという天気予報を聞いている人が、同時に、窓から見て、暗雲が天を蔽 ぃ、ぼろぼろ雨つぶが降り始めるのを観察すれば、 たとえ日常理論を軽蔑するとしても、外出するときは雨傘を携 行するのである。このことは、奨められてよいのである。気象学は自然科学であり、その方法論的道具は自然科学 者にとって疑いの余地のないものであるということ、認識論的に充分に教育された学者に自然科学を追跡させると き問題なく学問の基準の適用にもたらされる場合であっても変ることはないのである﹂ と。ある意味において各人は経験的社会学への入口ではなくして社会的現実への入口を持っている。 周知の事実を新しく確認するために、掘り下げた社会学的分析を必要としない。判例は社会的事実に関する問題の ある意味表明との交際において自明の理であるという印象を媒介している。通常裁判所の判例をあげる。 裁判所は離婚訴訟において夫婦の容態の倫理的価値認識のために述べた ( 官 ∞ ロ

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肘 町 巾 (Umy 司 ・ ) 。 ﹁ 当 事 者 の婚姻はこれまでの確認によれば無思慮に締結されたのではなかった。恋愛結婚が問題にならなかったということは 何もあきらかにされていない。反対に、被告は女中であり、原告は警察官の長であったので、被告は原告よりより高 い社会層に属していないのであおい同じ社会層に属する人の婚姻は異る社会層に属する人の婚姻よりもよりよく恋愛

(5)

から締結されるということが根底にある。どこから裁判所が社会層所属と婚姻にすすむ動機づけの関連に関する理論 を採っているかはあきらかでない。 ﹀ ロ

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裁判所は警察車の濫用的な使用に関して無免許運転と事故との聞に相当因果関係を認めた。無免許運転は免許 運転よりもよりしばしば事故に至るものである。無免許運転者はいかなる監視にも服さないという無拘束性を持つか ら軽率になる。これに対して警察官がその勤務用の車を無権限で利用する際には発見をおそれることからより慎重に 運転するという反論がある。

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裁判所は、オーストリア法が遺棄された婚約者に 純潔な女性が要求する補償金﹀を許与していないので、ドイツの ロ 芯 k p ロ 省 内

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・)に違反するとした。婚姻 前の性交は女のために男と反対に普遍的な尊敬を失うのである。女は婚姻前の性交を通して男よりも多くのものを賭 け、また失わなければならなかった。ゆ 5 0 0 切の回は平等権(﹀ユ・ω口のの)と結合するかどうかは問われるところ である。しかし、約束された婚姻締結の信頼破壊の失望と不成立の失望は一般に女の内的体験世界においては男の内 的体験世界におけるよりもより大きな役割を演ずる。また、婚約が長く続けば、その解消後婚姻の見込みは女は男よ りよりはやく減少する。婚約者間の性交の社会的価値認識に関するかぎり、女には男に対してよりもより強い尺度が おかれているのである。婚約破棄に対する男と女の異る反応と都市と農村の性道徳の相異を社会学的説明は含んでい る 。

(6)

第5巻2号一-6 同電気かまど判決において、北ドイツの取引観では電気かまどを持たない現代の住居は未完成であるとみられて いる。しかし、南ドイツでは事情は異なるのであり、戸外の聞いた壇で煮炊きするのが数千年来の慣習である。 所 謂 の ゆ ロ 巾 言 。 ロ l 吋

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は、既婚の男が女友達のために行う終意処分は二人 戸 hd の姦通的な交通のため、あるいはこのような交通を継続するために役立つべきであるという事実上の推定から出発し た。例外的に性的関係ではなくして、他の動機が出掲の基準であったということを説明することがその女に課せられ ハ ロ ) た。この出揖は当該の女の愛を買いとらぜたという謙疑を越えでていた。しかし、長年の緊密な人間的むすびつきは 反倫理性の汚点から解放することはできない。成熟した人間の聞の継続的な性的関係は当事者の気持ちの傾きを前提 とするのであり、心のむすびつきにもとづいて肉体的関係が発展する。 同 w Y 0 4 m 門町 A U F -z 口 問 それは ( 婚 姻 上 の 過 誤 ) 、 開}︼与さ門町(姦通﹀が婚姻破綻の第一の原因ではなくして、以前から発生していた疎外の、破綻を更に強めるなりゆ ( 日 ) き で あ る 。 し か し 、

BGH

は終意処分の反倫理性の価値判断で方向を変更した。長年の結合は単に性的領域につきるのではな ぃ。相続人指定はそれ以外に他の動機にもとづくのである。性的領域にある動機がもっぱら被相続人をして出指にう (tM ﹀ ながしたという経験則はない。上級審の裁判官の生活経験は変遷する。これはあきらかに説明されることもなく、理 由 (6)づ け ら れ て し 、 な し 、

最高裁判所の判例は人格権侵害の慰籍料の算定のための事例を提供する。

BGH

は賠償の確定の際被害者の社会的地位とその経済上の事情を顧慮する o 実際では被害者の社会的尊敬にした がって帰属する賠償額の細部にわたる格付けがある。未成年の

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冨である。 にはさき。・ーーロ宮まで、国会議員買収に引き入れられた芸術保護者

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社会的により高い地位を持つ人格は侵害された名誉の回復のためにより高い金額を必要とするのである。しかし、こ の考え方には、人聞の名誉が商品化されるとすれば尊敬の尺度から独立して平等であるということが対立する。 判 例 の 門 吉 田 由 ナ

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のための事例は多くなった。これらは裁判官が問題の多い社会的関連を 価値判断するための基礎知識を要求するための資料として充分役立っている。社会学は学習として│││医学や自然科 ( 加 ﹀ 学と反対に

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従来最高裁の民事の判例の視野にはいらなかった。今まで社会学的認識は可法にとって完成されてい

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て呼んでくれるのを待っているのではない。

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目 白 田 門 口 } 口 出 回 ロ ロ は 法 問 題 が 決 定 に 必 要 な 詳 細 な こ と に お い て 社 会 学 的理論、あるいは経験的社会研究の方法といかに関係したかは今、 全 く 、 見られないと詳しく述べた。 回 凶 可 門 凶 ロ ロ 印 一 W M 可 は、それらすべてのことをもってしても法律学はどうしょうもないのであり、法律学の代表者の前判断とその狭さに 7一一ドイツにおける法社会学と法教義学 意味があるのではなくして、社会学の端緒は何が法律家の課題であるか、また、何を法律家はすることができ、また、 ︿ お U しなければならないかということによって決して方向づけられるのではない、といった。 社会学的訓練によって確認されたことをためらうことなく承認することは危険である。法社会学は、裁判官が証人 の発言の信溶性を価値判断するに際して発言心理学﹀

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偽名田三宮古色。の研究成果にもとづくかわりに、その個 C A ﹀ 人的な生活経験を信頼することを非難した。 例えば、伸、顔色が変ること、突然な赤面は怒り、恥、あるいは混惑をあらわす。しかし、必ずしも罪をあらわ すものではない。蒼白い顔は恐れ、衝撃をあらわす。しか

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、むしろ罪をあらわすのである。

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、乾いた口は大き

(8)

第5巻2号一-8 のみこむこと、舌で唇をぬらすこと、海き は口が乾いていることをあらわす。多くの人は嘘を言い始める前にのみこむのである。料、脈揮が高なること││ いいらいらとした緊張をあらわず。それは信頼できる嘘の信号である。 心臓がはやくうつことは思い違いのしるしであることがある。鼓動が強くなることはしばしば頚動脈で認識するこ と が で き る 。

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、呼吸圏難

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牽制陽動してだますことは呼吸することをコントロールのもとに保つことの困難を あらわすのである。それとともにしばしば過度にはやくのどぼとけが上下運動するのであり、このことはとりわけ 最初の行為者のもとで観察された:::。料、笑い、刷、神経質な笑い、いいかえれば、継続的な、あるいは適当で ない機会に見せびらかす笑いは不確実、混乱、いな、助ける人がなく途方にくれることを代弁している:::刷、い ﹁自信たっぷり たずらっぽい笑い││この﹁知っている笑い﹂は練習をつんだ嘘つきのもとでの(ある高揚した﹀ の声﹂としばしば出会っている。このおそらく(なかば)無意識の反応は嘘とむすびついた罪の感情を減少する試 みとして意味を与えられることができる:::。的、裏ぎる振舞い││人聞についているすべての分肢たる手足は証 人である。刷、手で自分の顔をみずからさわることが目についてふえる。特にしばしば鼻にふれること、また口を 指で一部蔽うことである。それとならんで、顎に触れること、頬をこすること、眉毛をかきむしること、耳たぶを 引っぱること、また、髪を撫でること。しばしば人々は、手は口から出る嘘を抑制しようと欲するという印象を直 ( お ﹀ 接的に持っている。 一人の人聞の通常の緊張反応からその発言の不真実性の徴表を推定することは非科学的であり、また、軽率かつ危 険である。これに対して﹀ロ

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ユ巾はいうのである。証人発言の信窓性の価値判断につき、宣誓した発言は宣 ( お ) 誓しなかった発言よりも信頼に値いするということ、聖職者と警察官は通常真実を述べるということ、他方において

(9)

売春婦、売春斡旋者はしばしば嘘をつくということである。

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σ の法社会学的説明は実務家に自己の世界像の相対性と社会学的専門知識の限定性を眼前 ( 訂 ) にもたらすのである。経験的社会調査の担保された認識を民事においてその理由づけのために引用することは自明の し か し 、 理である。そのための事例を官主口切の切によって、殺された者が子供であった場合、扶養損害の算定が提供する。 両親のための扶養年金の許与はこの子が将来扶養を給付することができるようになるかどうかの蓋然性の判断に依拠 する。職業的発展が予見できるかどうか、子供の昇進のチャンスを価値判断するために調査結果が引用される(︿也・

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の領域に限定され ( 却 ﹀ て い た o 通常の民事の実務ではのぞましくない。時間と費用がかかるので経済的弱者に期待することができない。 (=) 法の適用 経験的社会科学を引用することは適用されるべき法規定を具体化する際に役立つのである。民事法規定には時とし て社会的現実の引用がみられる。この現実は規範自体のなかに組み入れられている。法の外にある価値判断基準の確 定を通してはじめて裁判官には判決の発見が可能になることがある。賃借料を高める限界としてその土地慣行の基準 賃借料があり、裁判官はこれを賃借料の代表的側面として確定されるのであり、この基準賃借料は比較可能な種類、

(10)

第5巻 2号一一10 大きさ、設備と事情の居住空間のために最近三年間にわたって約定され、あるいは新しく確定されたものである。賃 借価格表の引用で充分であり、必要があれば専門家の鑑定が提示される

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社会規範の具体化。 所謂社会規範を引用することは取引倫理を顧慮することである。取引倫理を、判例は﹁取引を事実上牛耳っている ( 誕 ﹀ 慣行である﹂といい、文献は事実上の性格のみならず、規範的性格を持ち、当該取引界において義務を課すものと見 ている。法律外的社会規範は当該の社会構成員の意識においては義務を負担させる性格を持っているが、法的確信を 伴うものではない。取引倫理は、特定の場所あるいは特定の職業部門における事実上の慣行であり、この存否のため には経験的社会調査が必要である。 右のことは商人聞の取引倫理

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。出の切)としての商慣習の確定のために長く承認されている。実務では商工会 議所の鑑定が求められている。これは経験的社会調査の学問的基準をみたすものではない。例えば。刊の

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の商工会議所の報告にもとづいて線引小切手を計算小切手として協定した。しかし、商慣習はこ れを計算小切手としてみとめていない。商工会議所が調査した結果現金小切手であるとみている。 は

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において、判例が良俗

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∞ ∞ の 切 ) のために発展させた撤発的な事案群 において統一的な解釈の端緒は可能でないことを確認している。文献と実務において良俗の普遍的に通用する定義が ( 訂 ) 呈示されるかぎりにおいてこの確認は矛盾しているか、または、空疎である。判例の礼儀条項﹀出回

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国 民 間 色 は 一般条項を社会科学的に切り開くことに殆んど貢献していない。公正に、また正義に思考する人の礼儀感情は社会規 ( 叩 岬 ) 範を指している。取引界をこのような人々に限定すれば社会規範を再検討することは排除される。この白地の文言を 保護するために裁判所は自己の価値尺度を述べることができる。判例はの己目巾

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-であり経験的社会調査によって確められるのである。 しかし、良俗は法倫理的原理 1 1 -ドイツにおける法社会学と法教義学 と価値尺度であり、法秩序から推定されるのである。社会経験的調査の余地は存在しない。支配的な社会のモラル概 念と必ずしも一致しない。支配的な法モラルの文言と社会モラルの文言において内容的に異なることのみならず矛盾 することが表見的に合一させられているのである。 叶 ,

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ロぬ門が、良俗の一般条項は異なる機能を持ち、その実現の際には異なる尺度が置かれなけれ ばならない、と強調しているのは正しい。良俗の伝統的中核には法律外的社会規範が保たれている。このことは我々 そ れ に 対 し て 、 の社会に先在する性モラルの残存、業種倫理、業務倫理、自由業の倫理コ l ドに通用する。これは経験的道筋によっ て確定される OBGH はあるトラックの販売業者が以前に締結された顧客と他の販売業者との売買契約にはいること ( 品 別 ) の反倫理性につきその土地の商工会議所のアンケートにより否定したのである。

(12)

第5巻2号一一12 特定の容態の仕方の倫理適合性あるいは倫理違反性に関して関与した取引界の評決を持ってくることは時間と費用 の理由から問題になることはできない。裁判所はこの問いかけを自己の専門知識にもとづき価値判断できることをみ ずから要求するのは正しいことである。しかし将来全実務分野を、例えば競争行為の反倫理性のための司法から意見 のアンケートの対象とすることは説明に富むことであろう。これは裁判官の価値尺度を関係人の事実上の直観と一致 するかどうかを再検討するためである。このようにして判例はより容易に変遺したモラルの表象に適応させられるの である。裁判官には一般条項の伝統的中核領域において当該の法領域の基本的評価と憲法の価値尺度の手引きによっ て社会に存在する社会規範の正当性を監督する義務が課せられる。判例は社会的価値表象から出発しなければならな いことはもちろんであるが、それに拘束されない。変更する権利があるのである。 また良俗は右と異なる機能を持っている。良俗が法秩序自体のなかに置かれている価値尺度の具体化のために、す なわち、例えば基本権の第三者効の範囲において、私法における基本法の価値秩序を現実化する際、あるいは経済的 な力の異常増殖に社会国家条項にもとづいて反対するために、役立つかぎりにおいてである。これは事実上確認され た社会規範の受容ではなくして法曹法を通しての私法の発展形成である。このために経験的社会調査は直接に役に立 たない。ところが裁判官による法創造は社会の問題状況のより正確な知識を通して合理性を取得することができるの であり、堅実な法的事実の調査を通しての準備を必要とする。この準備を補助するのは法学の課題である。

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とは等置されない尺度である、と既に述べた。取引倫理は個々の事案において信義則に いかなる期待がょせられるかということの精般化に貢献すべきである。両者が衝突する事案では信義則が優越する。 ここから経験的社会調査の意味は信義則の一般条項の精般化の際少ないものであるということがあきらかになる o 信 義則は普遍的法原理の具体化に役立つ。その際法規の法曹法を通しての補充または代用が前面に立つのであり、この ( 日 明 ﹀ 補充は社会学的確認に頼る必要はない。 裁判官による法創造は公衆の同意に支持されなければならないということは社会経験的調査が必要であることを理 由づけるのではない。裁判官による規範設定の正統性は﹁決定されていない立法の一部﹂としての一般条項自体から 13一一ドイツにおける法社会学と法教義学 生ずるのである。判例は民事法の一般条項の具体化の際教育上の課題を持つのであり、事情によって社会の法意識と 衝突することもありうる。 実務において、従来から信義則の適用の際事実上の社会的直観と容態の仕方の調査を放棄している。しかし、この ような調査ならば、当事者の類型的期待が特殊な役割を演んずる信義則の個々の事案群において助けになるというこ とを排除するものではない。例えば特定の附随義務、説明義務のことが考えられる。ところが調査は費用が当事者の 負担の限界を越え、体系的法的事実の調査として考察されることは少ない。特定の問題分野の普遍的方向づけの助け ︹ 必 ) 一般条項の精激化は法学が担当する。 を 仏)提 供 す る す ぎ な 過失尺度の具体化

(14)

第5巻2号一一14 過失尺度(芯苫円切の切)は法社会学的文献では精激化を必要とする白地規範であるとしている。たしかに必要な 注意義務の決定の際取引の事実上の慣行はある役割を演んずる。普遍的な取引慣行は過失尺度の具体化の際、それが 濫用としてあらわされるかぎり考慮されないままにとどまるべきである。取引のなかに広がっているおちどと不品行 は顧慮されるべきではない。した、がって通常の注意をまもっているだけでは

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加害者を免責しない。決定的であるのは狭い取引範囲の思慮深く良心的な所属員の判断に従って注目され る慎重と注意の度合である。それとともに疑わしい事案の注意義務の具体的内容についての決定は権能のある専門家 に移される。したがって経験的社会学は過失尺度の精激化には殆んど貢献しないはずである。

法社会学と法学

付 法教義学の自立性 法社会学と法教義学とは緊張関係にある。開ロ

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印 ョ において法社会学を法に関する固有の、否、唯一の可能な学問として名付けた。単語を扱うのではなくして事実を扱 うからである。法律学は真の学問的性格を持たない実際的な法の教説である、と述べている。ところで法律学の学問 性に関する争いは法社会学の発生以前にさかのぼるのである。客観的に確立している統一的学問概念は存在しないの 一 九 六

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年代において法学は社会科学であるかどうかという激しく議論された問いかけと同様に無益である。法 で 、 律学は社会の協同生活に関係することは疑いがない。

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てが詳述したように、法は﹁特殊な側面からみられた ( 臼 ﹀ 人間自身の生活﹂である。法に関する学問は、このようにみれば、社会学一般のうち最も古いものである。しかし、

(15)

このことから、法律学は今や失われた息子としてその他の社会科学の腕のなかへ帰らなければならないということは でてこない。法学を社会科学へ統合することは法教義学の特別な願望を見誤るのである。法教義学はその対象を先在 する社会的現実の構造から取得するのではなくして、法秩序の規範的意義組織から取得するのである。それゆえ法律 学は経験的社会科学において分肢として登場することはできない。 法教義学の自立的機能は、今日、法社会学の文献においてもまた強調されている

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の論文があげられる。社会は、﹁それが法体系を分化する程度に応じて法規 自体と並存して、法規を取り扱うための概念と任意規則を形成する。社会は概念の形式にもたらされた法素材を体系 化することができ、原理にしたがって秩序をたてることができ、また、この法素材を発酵させ、動態的、自己批判的 な尺度に変化させることができる﹂ o この所謂法教義学は原理的には、他の教義学、例えば神学におけると同様に、 否定の禁止

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与♀いいかえれば﹁論証連鎖の出発点の非否定可能性﹂

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ロ 即 日 州 立 件 。 ロ ョ に根拠をもっている。しかし、この教義学的確定をもって﹁精神 の桂槍﹂は達成されるのではなくして、 ﹁経験と条文との交わりのなかで自由の上昇﹂が達成される。教義学的思考 は義務拘束的な規範に関係することはもちろんであるが、この思考はその内容を概念的に使うことにより、この義務 拘束からその自由を獲得するのである。教義学的概念性は﹁社会が拘束を期待するところで、また、そこでこそ距離 をとること﹂を可能にするのである。

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にとっても教義学の意義は﹁不安定性に寛容であることを高めるこ ( R

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﹂ に の み 占 め る の で は な い 。 法教義学は﹁法律学的に可能であるこ と との条件﹂を定義するのであり、 ﹁規範と事実との聞の視線の往復歩行はみちびきなくしては止まらないのであり、 裁定の状況のみならず、法体系にも義務づけられていることを知っているのであり、法秩序から螺線状にでてくるも

(16)

第5巻2号一一16 ︹ ぬ ) のではない﹂と述べている。 教義学ば長期にわたるその概念性の変化をもって社会構造の変化に反応する。また、経済的交換関係が大規模に全 くなじみのない当事者の間で組織されなければならないとすれば、双務契約を創造しているのであり、その結果より 古い暇庇管理

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の社会的機械主義は、例えば、 家共同体または村落共同体の内部で役に立たなくな る。急速な社会の変遷のもとにおいても法律学的教義学の給付能力を維持するために、

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宮 島 巾 ぬ 丘 町 ﹃ 03 の発展を推奨している。もしもそうでないとすれば、 法のさらなる発展は立法と政治に移行するであろう。 仁) 法教義学を社会学的理論を通して豊かにすること F C F H 回目白ロの教義学的法学の自律性のための弁護は、この法学が社会学的理論から刺戟を期待しなければならない ということを明らかに示している。じっさい現代の私法の文献において社会学的な範型と理論の統合のきわめて有望 な端緒が見られる。 抽象的平面での法教義学の社会科学的方向づけの代弁者として叶

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円があげられる。彼には戸口町白山口口の社 会的に相当性のある法概念の構想が魅力を与えたのであり、彼はこれを﹁答えてゆく教義学﹂ N 己 巾

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にさらに発展させようと欲している。法規範は規範的構成要素とならんで特殊な短縮のなかの社会的現

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m H H H M m w 仲 -W 3 実の像を含む範型であり、この短縮は教義学の機能と必要から生ずるのである。この範型のために置かれている決定 的問題はこれを学びとることができること QF 円 。 円 、 巾 円 HMm 砂 町 日 間 州 } 内 巾 広 ) で あ る 。 このことは法教義学にとって ﹁ 外 界 の 内的範型﹂ぷロ

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毛 色 ぺ w を社会的変遣に適応させること、あるいは一度固定された社会に

(17)

関する表象を事実に反して定安させることかの二者択一を意味する。叶 O C H V D O 円は前者を選んでいる。彼にとって教 義学の規範的構造において認識しうる、したがって外界のことを学びとることができる要素尖。関口庄司 0 ・ 巳

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S O D S をとりつけることが重要な問題であ泌 v 我々の法文化の﹁強制された規範主義﹂

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は学びとる法の表象を法の発展形成の薄明かりのなかでのみ許容するのであり、社会の変遷が範

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型変更を求めるところで崩壊させられるべきである。

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伊 丹 宮 町 田 自 己 回 当 この論証はなじみのないものである。法規範が秩序構想あるいは範型として外界のことを学びとるようにされると 見ることはむつかしいことである。外界のことを学びとることができるのは知性を与えられた生きた存在だけである。 法ではなくして、法律家である。法律家が改革を歓迎することに対して法秩序はより狭い限界、あるいはより広い限 界を引くことができる。それゆえ、本来の問題は外界のことを学びとることを喜ぶ法律家の変革の傾向に対する法の 譲歩性がより大きいか、または、より少ないかということのなかにある。社会のそれ自体変還してゆく需要に弾力的 17一ードイツにおける法社会学と法教義学 に適応してゆく受入態勢のために我々の法秩序の﹁強制された規範主義﹂が崩壊することは法的安定性に重大な損害 (山田 a ﹀ を及ぼすであろう。この場合政治目的を追求すれば現行法の解釈にいかなる限界もおかれることは殆んどない。 、 H

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ロ四円は学びとることができる要素を法教義学でどの個所でつくりあげるかを未決定にしたままである。彼は、 その﹁答えてゆく教義学﹂の出発点を一般条項のなかに見ている。彼は一般条項を事案群形成を通じて﹁下に向かっ て具体化する﹂方法、また、新しく登場する問題を﹁広く分肢した、普遍的な法律要件からではなくして特殊な、で 阿 国 田 丘 団 昨 日 付 きうるだけ多くの個々の事案を規律する法律要件から出発する法発見の 法に反対している。一般条項を精撤化すれば、﹁外界のことを学びゆく法﹂、 反応することを可能にする機能はそこから失われるであろう。 への接続強制﹂のもとへ置く方 法が社会的変遷に弾力的に 一般条項はその不確定性のなかに存在し、また、あま す な わ ち 、

(18)

第5巻2号一一ー18 りにはやく具体化の試みを通して縮減されるべきではない。ところが、彼は独立的な具体化を試みるのであり、これ はその標準を一般条項の﹁経験的な、予見的な、また、具体的な対策として作用するズブ範型﹂

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己 己 目 。 の ﹁ 相 互的な制限﹂から取得するのである。これは契約という制度に制限しながら行われる o 契約は││きわめて社会学的 にーー社会的な行為の体系として定義されるのであり、この体系は当事者の同意によってのみならず、更に信義則 ( ゆ N A F N 切 の 切 ) を越えて社会的な環境要求によっても操縦される。 ﹁非同意的要素﹂ はその発生源を異なる平 こ の 面の上に持っている。

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、具体的な契約当事者の個人的な関係の平面(﹁相互作用の平面﹂

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ロ汽﹀は信義則芯お切の切によって行わ 一般条項は社会的混沌を契約法へ押し入れることである。 れるべきである。 以上の考察は一部 mNb 目。切を具体化するための事案群と一致する。例えば、相互作用の平面から規範成立のた めの法社会学的分析にもとづいて非公式の容態期待、例えば自分の以前の行為に反する行為をすることの禁止、及び、 失効の原則がもとづく自己表現の継続的期待がみちびきだされる。これは古い知人が新しい社会科学の衣をまとった ようなものである。具体的契約のために信義則にしたがって市場と組織の制度の平面から生ずる要請のもとでは伝来 的な教義学からの離反が強い。同,

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ロ買はゆ N b ∞の∞によって規定された取引倫理に頼ることを非とする。その 代りに彼は新しい法教義学的な主要概念(目的、役割及び組織) の助けにより(組織された社会的接触からの)保護 義 務 、 (例えば契約目的あるいは契約当事者の社会的に定義された役割からの)説明義務及び(例えば、 た関係を通しての交換網の重なり﹂からの)協力義務の理由づけのための自立的規則を発展させる。 ﹁ 組 織 さ れ

(19)

特別な関心に値いするのは所謂社会の平面の個々の契約に関する要請である。本来契約はその﹁将来の危険を規範 的に回定化すること﹂を通して荒れ狂う社会の周りの世界における﹁安定性の島﹂のようなものである。おお切の切 ﹁ 経 済 ﹂ 、 ﹁ 家 族 ﹂ 、 ﹁ 文 化 ﹂ 及び﹁宗教﹂の要請に個々の当事者の同意を適応させることを企てることのなかに存立している o この障碍として特 の機能は、なかんずく、周りの世界の障碍の特定の敷居から、社会的機能体系 ﹁ 政 治 ﹂ 、 に行為基礎の変更が注目される。この法制度のなかにこそ契約を包括的な利益衡量の助けによってその社会的な周り の世界と一致させるご般条項の社会的機能﹂があきらかに示される。↓

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ロ σ円は﹁文献における教義化傾向﹂ 反対している。この傾向が行為基礎を当事者の意思にのみか、または任意法規にのみさかのぼらせることを欲するこ とによって一般条項の他のことと調子を合わせることを制限しようと望むのである。契約に障碍を与える周りの世界 の指導原理と固有の法則性はより鋭くつくりあげられるにちがいないので、この仕方で個々の契約への作用効果は種 々の相異をもって決定されることができる。原則的に注目されない市場領域からの障碍(例えば、売上げ減少、なみ 19一一ドイツにおける法社会学と法教義学 はずれた価格上昇)あるいは﹁私的な生活世界﹂からの障碍(例えば、買主の離婚または死亡)と疑わしい場合にむ しろ注目すべき通貨体系または経済政策からの障碍との間は区別される。個々の契約が社会の平面と一致することの 問題として基本権の第三者効の問いかけもまた言及される。 法社会学と法教義学の独自のむすびつきを価値評価することは簡単なことではない。いずれにせよこの評価はその 抽象的概念性のために法実務の需要のそばを通りぬけている。この理由から反響は学問の狭い専門領域の外部で依然 としてつまらないことにとどまっているように思われる。 同ν 田 -間 口 門 同 一 庁 の債権総論の基本的コンメンタlルにおいて 叶 OC ぴ DO 円 の端緒は言及されていない。ここに法教義学を社会科学的に豊かにすることの原則的な問題がある。社会 学的観点を法律家に理解できる言語で呈示することが法教義学に成功しないかぎり、それは法の発展に言うに値いす

(20)

第 5巻2号一一20 る影響を及ぼさないであろう。教義学的法学の目的は法の実際的適用のために理論的予備作業をすることにある。教 義学的熟慮はそれゆえ法実務のためにもとりなして媒介しうるものでなければならない。理論的社会学の高度に抽象 的な専門用語はこの前提をみたしていない。言語の混乱を呼びおこし、新しい教説の﹁受容﹂を挫折させ、提案され たテーゼの説明を困難にしている。﹁、 H ,

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の端緒は、いかにして伝来的な法教義学が社会科学の助けにより﹁醗酵 におかれることができるか﹂を認識させるのである。そこから発生した醸造物が意義をあきらかにするか、あるいは、 くもらすかどうかは、今のところ、見きわめることができない。彼の﹁答えてゆく教義学﹂から具体的な結論をひき だすか、ぎり、従来の通説から遠くへだたっていると思われない。多くのことは単に暗示のままにとどまっているか、 または結論において未決定のままである。例えば、原子力発電所経営者に対する反対者の支払拒否の際登場する契約 拘束と政治的意見の自由の間の調子を合わせることの問題である。ここに、ある程度、 ﹁萌芽のなかに﹂通説的教義 学のための択一的立場がある。個々の契約のために社会の平面の操縦機能に訴えることは疑わしい気分にする。それ とともに新しく特定の現実にうわベだけ一致する意味表明がつくられるが、その適用の可能性は殆んど見きわめるこ とができない

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は、そのために、現代の私法は原則的に個々の私法的関係の交換的正義を注目しなければな らないこと、私法を大きい社会的な名義書き換えのために役立たせることには抵抗させられると詳述した。正しい。 吋

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の理論へとさらに発展させた。現代のアメリカ的法社会学の潮流と接続して法は弾力的な、学びとることができる制 と こ ろ で 、 度として理解され、社会的需要に感じやすく反応する。法の発展は普遍的な社会の発展の反射であるのみならず、法 体系自体の内部における動態的な過程の結果である。強大な社会的圧力自体法の内部的な進化を刺戟する機能をもち、 この進化はその﹁わがままな発展の論理﹂に従うのである。福祉国家のきわだつ危機のなかに寸

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(21)

緒をみているのであり、法はより抽象的な操縦のために社会の過程への直接的干渉から身を引くのである。この新し い種類の﹁反作用の法﹂の課題は社会の部分体系のために社会的制限を遵守しながら自己操縦を可能にすることであ る。反作用の法は││簡単に言えば││規制された自律を目的としている。例えば集団的労働法においてこの間接的 操縦は協約団体の内部的組織への影響力において、また、弁論のためと戦闘的な説明のための訴訟規範の定立におい て示される。分権化された工場幹事体系

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の代りに集権化された工業労働組合体系の体系 的厚遇を通して協約締結の社会的に広い効果を顧慮することが促進される。法は組織規範の助けにより﹁一方的に整 21一一ドイツにおける法社会学と法教義学 理された制度、この制度の社会的なまわりの世界の矛盾にみちた要請を自己の決定の予測した計算にとりあげること を強制す純一。このような間接的な操縦の技術が当事者の権力の落差と情報の落差のために機能を発揮しない場合、 消費者保護の領域におけるように、法自体一般条項の助けを以て﹁反作用の構造﹂をつくりあげるべきであり、すな ( 加 問 ) わち、社会的な自己操縦の過程を法体系の内部で見せかけるふりをするべきである。 いかにして、このことが信義則(申立 N 切の回)の適用の際じっさい、置き換えられるかということは詳しく説明さ れていない。いかにして今や到達された抽象的反作用の平面が具体的な個々の事案における法適用の低地と関朕にも たらされるかは容易にわからない。私法の一般条項の具体化の際経験的社会調査の使用の道を反作用の教義学を通し てこの条項の不確定性を高めることを越えてこの条項のなかに眠っているといわれる反作用の発展の機会を発見する まで追跡するならば、社会科学的理論形成のますますめまいのするような高さへの確聞とした上昇が示される。いず れにせよ、民事法の教義学の需要の視界から事実の地面への帰り道を歩み始めることが切に望まれる。

(22)

第5巻2号一一22 同 法事実の調査と法教義学 民事法教義学はドイツ私法学において古きよき伝統を持っている。法事実の調査は 何 c m N O D H W V 巴 の } 同 と k F 円件}百円 の作業とともに始まってすばらしい個々の調査の系列を現代に至るまで呈示したのであり、法制度の社 会的な四周の事を解明するのである。その際法事実の調査は社会的所与の調査よりも非常に広い意義において理解さ れているのであり、法はこの所与を規律し、あるいは規律しないのである。法事実の調査は法にとって必要な経験的 ﹁事実をよりよく知る者はよりよく決定する﹂のである。生活世界から生じている解決せられるべき問

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ロ 旨 知 識 で あ り 、 題をより正確に明らかにすることを通してはじめて法律学的教義学はそれによって発展させられるべき法構造の解明 を得るのである。生活の現実においてこの法構造を維持するか、あるいは、失敗として放棄するかの再検討を通して はじめてこの教義学はその解決の試みをよりよくすること、また、さらに発展させることの需要を認識することがで きる。堅実な法事実の基礎なくしては法教義学は生活に疎遠な、事物適合的でない結論に到達する危験に陥ち入るの ( ω 叫 ) で あ る 。 教義学的法学は法実務からの絶えざる反応を通してその解決の資質を再検討することができる。なかんづく公刊さ れた司法の判例は豊富な経験的な解明資料を提供する。しかしながら出版された決定は事実上行われている裁判所の 仕事の一部であるにすぎない。その際人目をひく事案は非類型的な事態であることをもってあきらかに他のものより もよりよく取り扱われる。日常生活の法律学は公刊された判例のなかで殆んど沈、澱していない。法適用の広い領域は、 例えば、離婚事件、家賃の争い、あるいは相続証書事件において、法学が知るところまでに至っていない。そのため に法学は専門的な立場をとらなければならないし、また法秩序全体を対象としなければならない。予防法学について

(23)

も類似のことは通用する。 したがって、法学は法規範が働いている社会的な背景を照らすことを放棄することはできない。 領域の事物構造﹂を正確に知ることは客観的!目的論的基準に従う解釈の前提である。この基礎の上にはじめて法教 ﹁規律された社会 義学によって立案された理論の事実上の成りゆきと副次的成りゆきに関する信頼できる情報が得られるのであり、こ の理論は事物適合的な法政策的評価を可能にする。 ついでながら、このことを通してのみ裁判所に注視された裁判官 による法の発展形成の社会的帰結のための価値判断基準が提供されることができるのである。裁判官はいずれにせよ この歩みのもとで彼の決定の社会的なりゆきを追考熟慮しなければならないということは、今日、法学方法論の共通 財産であい物しかしながら、裁判官自身個々の事案を決定する際費用のかかる社会的経験的な調査を行うことはでき なくて広汎に学問の準備作業に頼っているということはあきらかである。 それゆえ、事実に関する学問の認識を民事法の専門文献に関係づけることはのぞましいことである。集められた社 23一一ドイツにおける法社会学と法教義学 会経験的調査結果が教義学的な叙述の前にむすびつけられることもなく存立していることはしばしばである。建設経 済あるいは住宅市場の発展に関するデータを以て請負契約または使用賃貸借法の個々の規定の解釈が促進されるかど ( ω m ) うか、また、いかに行われるかが認識されえないということ、が非難されているのは正しい。た

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ロ ロ m H C ∞切である。このなかに集められた資料は法領域における社会的現実への眼を聞くのである。従来、 法学が注目していなかった領域、例えば、公の機関の土地所有権と土地取得行為、あるいは訪問販売である。このこ とは債権法の改革にたいへん有効であろう。 右の統合化は類型においてあらわれるのではなかろうか。 法学における類型の意味は次のようである。 法規範が取引の慣行または商慣習を守るように指示しているところでは、通常期待されるべき容態方法、すなわち、 経験的頻発類型が問題である。取引の慣行は﹁社会類型的容態形式﹂であり、この形式は一般にいう特定の社会的集 団の所属員によって行使され、また、直接、間接に法律行為の取引に関係している。社会類型的容態形式は、制定法、 または、個々の場合には、契約がそれを守るように指示することによって、 ﹁ 善 良 ﹁規範﹂になる。これに反して、 な風俗﹂のきまり文句のなかで少なくとも部分的に引合いに出されている﹁支配的社会道徳﹂のもとで、規則を遵守 し、または、それに従って判断する人々の意識のなかで、すでに規範的な性格を持っているこのような規則が問題で ある。しかし、法秩序がこのような規則を守るように指示するということではじめてそれは法規範になるということ は同じであるが、それはこのような規則が現行の法秩序の原理と評価基礎と一致する範囲内においてであるにすぎな ぃ。取引の慣行、商慣習及び﹁社会道徳﹂は、この範囲において、法律家のために﹁基準﹂の意味を取得するのであ り、すなわち、このことは﹁正しい社会的容態が社会的現実において承認された正常の尺度﹂におけるという意味を

(25)

取得する。そのような﹁基準﹂を、

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、 ﹃ H p p n z開が註記しているのは正鵠をえているが、そのもとに三段論法的な推論 ﹁類型的﹂として認 操作において簡単に包摂することができるかも知れない概念的に完成された規則ではなくして、 識された容態から推定されなければならない﹁可動的な﹂尺度、また価値判断されるべき事案へのこの尺度の適用に おいてつねに新しく具体化されなければならない﹁可動的な﹂尺度である。 ﹁ 基 準 ﹂ は 、

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切 に よ れ ば 、 ﹁ 実 在的類型であることはもちろんであるが、同時に、 つ ね に 、 価 値 論 的 観 念 類 型 で あ る ﹂ 。 このことは全体類型または 形態類型の意義においてではなくして、規範に高められた頻発類型または平均類型の意義において存在することはも ち ろ ん で あ る 。 平均類型もしくは頻発類型は、つづいて、大きい役割をいわゆる一応の証明のもとで演じている。このような原因 経過が確認された事情に従って﹁類型的な﹂出来事の推移に一致するならば、また、別種の、類型的でない出来事の 推移の可能性をここで理解させるいかなる事情も示されないならば、原因経過のための証明はもたらされたものとみ 25一一ドイツにおける法社会学と法教義学 ﹁類型的な出来事の推移﹂を、裁判所はそれ自体﹁普遍的な生活経験﹂か ら取得される﹁経験則﹂から推定するのである。そのような経験則は、多かれ少なかれ高度の蓋然性のみをつねに理 られるということがここでは重要である。 由づけることができるにすぎない。その理由は、個々の事案において役割を演ずることができるすべての事情は、必 ずしも経験則の形成の際には決して顧慮されることができないからである。したがって、まさに具体的事案において 別異に行為してしまうことができたであろうという証明は説明されないままであるにちがいない。しかし、具体的事 案においていかなる事情も異常な経過を弁護しないとすれば、事実上の経過はこの事案において﹁類型的﹂経過に従 って期待されるべき経過であったことがみとめられるのである。 しかし、法と法学にとってはるかに大きい意味をもっているのは全体類型と形態的類型である。制定法は、概念の

(26)

第5巻2号一一26 確定から免れている社会的役割に関して一群の人々を特長づけるために一方ではこの類型を用いる。我々が先に(第 ﹁ 動 物 保 持 者 ﹂ 、 ﹁ 履 行 補 助 者 ﹂ 、 ﹁ 占 有 補 助 者 ﹂ 、 おそらくまた﹁商業代理人﹂と﹁主任的雇 一 章 四

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み た よ う に 、 用人﹂がそれに属する。彼らのもとでは類型の記述的標識が問題であって、概念は問題ではない。その理由は、特長 をいいあらわすために述べられたメルクマールは

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履行補助者と占有補助者における指図の拘束性のメルクマール、 あ る い は 、 ﹁社会的従属性﹂のメルクマールのように

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ー ー そ の つ ど 異 な る 、 一般的に確定されることができない強度 のなかで正鵠をえることができるのであり、また、全体的にみてこのような個々のメルクマールが問題であるという よりも、全体的﹁現象像﹂が問題であるからである。この﹁現象像﹂は経験から取得されるのである。この像には経 験的類型が根底にある。しかし、標準的な現象の選択と類型より詳細に限界を付することは規範目的及び規律の背後 にある法思想によって、共同に決定される。この選択と限界づけは、規範的な観点のもとで行われる o 類型の形成の なかへ、したがってまた類型へのそのおりおりの付属のなかへ経験的要素と規範的要素がはいりこむ。これら二つの 要素の結合が、この類型の本質をまさに作っているのであり、私はそれゆえにこれを﹁規範的実在的類型﹂と名づけ たいと思うのである。筆者もこれを課題としたい。

法社会学と立法

立法は、民事法の領域でこそ法事実の調査を支持することに頼ってい石町新しい制定法の資質は規律せられるべき 社会状況、例えば、特定の取引類型のもとでの事実上の消費者保護の必要性の正確な在庫調べとともに立ち、また、 落ちてゆく。立法者によって発見された社会的現実は、客観的な所与、例えば経済的関係あるいは取引実務家の通常 性を通してのみならず、主観的な要因、例えば関与する住民層の立場、あるいは法知識の普及を通して刻印される。

(27)

その貫撤が私人の発意にゆだねられたままである私法の諸法律のもとでは新しい法の効率性は住民のなかの反響に依 拠している。利害関係人の、規律のためにでている問いかけを考えて把握することを知ることが立法者にとって重要 でなければならない。とくに民事法の任意規定は市民の推定している法の表象に寄りかかるべきである。この理由か ら社会経験的調査は望ましいものである。現行法の有効性の再検討の際法事実の調査の分野は広い。立法者は改正法 を発布することで問題は解決できるとみがちである。立法作業の成果を制度的に管理する機関は存在しない。 民事法の領域では立法上の法事実の調査のための発意は連邦司法大臣が持っている。司法省はこの課題を相当以前 一 九 七

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年と一九七一年の法定の相続順位の新しい秩序との 関連において二つの代表質問を意見調査研究所を通して相続法の政策的問いかけのために委任した。二つの代表質問 から知覚していた。このようにして可法省は、例えば、 は終意処分を行うための準備が比較的少ないという結果であった。回答者の五分の一だけが末期処分を既に設定した と述べた。年令や職業によって異なることはもちろんである。法定相続の事実上の役割りのために遺言をすることを 27一一ドイツにおける法社会学と法教義学 たじたじするのである。家族財産を統一して維持する思想は農業者では他の回答者よりも二倍多いのである。ここに 農業の特殊相続法がある o 夫婦の相続権の形成に関するかぎり、寡婦の単独相続権と婚姻から生れた子の一種の法定 の終りの相続順位色ロ

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の た め の 強 い 思 潮 、 いいかえれば、ベルリンの遺言を法定の相続順位へとり入れるための思潮が生じた。回答者の約三分 の二が、その妻と別居して生存している夫の生活共同者の相続法的関与を肯定したことは注目に値いする。このこと は、愛人の遺一吉の反倫理性のための以前の最高裁判所の判例にきわだった光を投げかけている。 一九七一二年朕邦司法省において司法部の内部で﹁法事実調査﹂の報告が整理された。まず第一に、連邦共和国で行 われている大企画の全部の在庫調べが経験的法調査の領域で行われた。それと平行して権限ある専門分野の担当者と

参照

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