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ルネ・ド・オバルディアの笑い : 〈母親役〉の科白をめぐって : 後

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(1)

ルネ・ド・オバルディアの笑い : 〈母親役〉の科

白をめぐって : 後

著者

森本 達夫

雑誌名

年報・フランス研究

31

ページ

149-159

発行年

1997-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/9388

(2)

149 ルネ・ ド・ オバルディアの笑い く母親役〉の科白をめぐつて 一宅← 森本達夫

!.シ

ュー ル レア リスム の詩 人 か ら劇 作 家 へ 、現 代 劇 の古 典 的 作 家 。 多 義 性 にみ ち た作 品 。 作 品 に登 場 す る 〈母 親 役 〉。 ‖ . 1.

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ジ ョワた ち』 に み る く母 親役 〉の姿 とそ の笑 い。

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上 前号)

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常 的 状 況 を迎 え撃 つ母 親 〉。 Ⅲ

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母親 役 〉 を演 した女 優 た ちか ら立 ちあ が って くる一 つ の イ メ ー ジ。 2. 以上の劇の主題は、 「兵士帰郷1、 「ロリコン」、 「盲人」、 「E.1`.」 、 晒 部劇」、 「テン ト生活」、 「行者J、 「宗教勧誘」、 「人造人間」、そし て 「モ リエール劇」という風にまとめられそうであるが、オバルディアの作る 舞台には常に「ありきたりのごく平凡な (平穏無事の)日常生活」とは相容れ ない異常な脚 峰ってわいたように乗 り込んできているといえよう。 しか し、 く日常〉と 〈異常〉を観客の前で演 じる (「上演する reprOsenter とは現 o 一圧 圭 日 在そこにあるものとするという意味である」 一 ア ン リ・ グイエ)傷F優た

(3)

ルネ・ ド・オバルデ ィアの笑い ちのアクション全体力ヽ オバルディアの作品では、彼 ら俳優たちの 《ieux》 、 すなわち演技

/さ

らに戯 ごっこ

/極

端 な場合 は単なるフ リ、 という1生格を おびていることをみのが してはならない。オバルデ ィアは自分の劇作品を音楽 にたとえ、ノ│、:11は喜遊出

k人

“ 日ま交響楽 とよんでいる。 この比喩 は、先ずは作 品の長短、内容の単純 さ、複雑 さを指 し示す ものであろ う力ヽ 同‖寺に、長短 い ずれの “ R71に して も、音楽におけるように「対立は していて も同時に両立す る もの」と して、 〈異常な状況

)と

〈日常生活〉力ヽ 個々の俳優たちの 〈演奏〉 を通 して、時には絡み合い、溶け合い、また離れてゆきなが ら、 《一つの喜劇 的 な全体》 を観 客の前 に 〈今仮 にそこにあ るもの と して〉出現 させて ゆ く 自分の作風を語 る言葉で もあろ う。 《母親役》が登場 しないので、 ここでは触れなか ったが、処女作の『ジュ ヌー ジ』か らして、多分に 〈ごっこ、 フ リ〉の興味 と笑いが濃厚な劇 である。 《マダム・ ド・ チ ュベルー ズは自分 の城 に名士 た ち を招待 す る。著 名 な劇作家のフィリップ ロアッサ ンゴールも妻のイレーヌをともなってや って く る。彼女は大変な美人であるが、 ジュヌー ジ国 というベル シャよりももっと遠 い国から彼が連れ帰 った女性である。彼女はフランス語が話せず、 ジュヌー ジ 語 で しか表 現 で き な い。 しか し、 フ ラ ン ス人 の詩 人 の ク リスチ ャ ン0ガル シヤ はす ぐに この言 葉 を理 解 し、紹 介 され るや いな や 、二 人 は恋 に お ち る。(.… ) そ して我 々 は常 識 、社 会通 念 とい う 日常 性 の もはや 及 ば な い夢 の 中 に入 って ゆ く...》 (1`〕 この夢の中では、 ビス トルで撃たれた男がまた生き返 ったり、フランス人の クリスチャンがジュヌージ語 しか話せなくなって周りの人間が もどか しが って みたりして、実際突飛で異様な出来事が続出する。批評家たちは「ごく一部の インテ リにし力¶岬「出来ない難解な劇」とみたが、実際に上演 してみると、一一 般の観客は大笑いを して最終的には大成功をおさめたという。そもそもフラン ス人の美人女優がフランス語が分か らないフリを してオバルディアのデッチア ゲた架空の国の言葉を話すところか らすでに「ごっこ劇」の楽 しさがあったの だろう。この章の最初にとりあげた劇、『窒素』でも「帰郷 した兵士」の錯乱 に母親と許嫁はおびえて しまう力ヽ 俳優によって演 じられる錯乱と凶暴さを観

(4)

ル ネ 。ド・オバ ルデ ィアの笑 い

151

客の方は爆笑 しなが ら見ていたのはすでに述べたところである。『室内ウェス タン』という副題をもったまさしく 〈西部劇 ごっこ〉の『ササフラスの枝にそ よぐ風』はいうまでもない力ヽ 『クレップス博士とロザ リー』でも生身の女優 が人造人間を演 じ、その人造人間が しだいに生身の人間にちかづいてゆくとい う演技、フリの二重性に対す る興味と笑いがこの劇のアクションには常にあっ たのである。 演技論演劇論の綿密な参照は後の課題だが、 《ごっこ顔

)と

いうべき性格の これ らの劇(不 1光哲夫氏が1979年にオバルディアを紹介する際に 《ごっこ芝 居》という言葉を用いている。(15))は少な くとも、従来の正統の 《ロマン チックな絵空事を俳優が迫真の演技で演 じ、観客の方もそこに感情移入する》 式の劇ではなく、また 《現実の生活の忠実な再現》でもなく、また 《現実の社 会を異化 し、叙事詩として見せる》 ものでもないであろう。強いて従来の劇の ジャンルの中に探せば、この 《ごっこ劇》は、少々乱暴ではあるが、まずは 《ヴォー ドヴィル》

(〈

荒唐無稽のどたばた劇〉という現在用いられている意 味での

)の

系統にあるといえよう。 オバルディアは自分の劇を演 じる傷卜優、劇場を決定す るのに多大の注意を 払 っているようである。簡単なノlゞ1を書いた場合、それは若 くて名 もないほと んどアマチュアの小劇団のためであると述べている力ヽ その二方で、大作

tオ

バルディアの言 う

0導

0は

、デ ビュー当初か らミシェル・ シモンや ミシェ ル・ プーケ、ジャン・マレーなどよく知 られている大似F優によって演 じらな

パ リのハイプラウな鵬 、′l10atre de l'Atelier,■Ёatre de l'伽vre, そ しrllloatrc de la ttdeleineな どで上演されている。 これは彼の劇の本質

と密接に繁がつているのではないだろうか?たとえばジヤン・マレーは何を演

じて もジャン・マレーであろう。オバルディアは、た しかに現実

L界

にある深

刻な トピックス、人物、テ丁マ、環境などを腺」のなかで借用 してはいる力ヽ そ

(5)

152

ル ネ・ ド・ オバ ルデ ィアの笑い しまえば、実人生 とはその性質を異に した、すなわち 《演 じる・模倣する》 パ ロディーの笑いの空間をそこにつ くることにあり、オバルディアの劇を見 る観客の興味 も少なか らず 〈大スター〉を目の前に見ることにあるのではない だろうか。オバルディアの慮1のあるものは 〈ブールヴァール劇〉という評をう けることもあった力ヽ 彼の劇に要求される俳優の演技の一つの側面としては、 この評日まあたっていなくもないだろう。極論すれば、人気コメディアンによる コン ト、漫才と通 じるものがあるのである。勿論、シュールレアリスムの洗礼 を受けたオバルディアの劇作術(山腱rdЮ)には dOplaccr,coHage,dOfo「IDer といったシュールレア リスムの精緻な手法が錯綜 し、新奇な火花が散るような その舞台は、保守系革新系を問わず、各紙の絶賛を受けており、決 して従来の ヴォー ドヴィルの枠のなかにとどまってはいない。いわば 《洗練されたヴォー ドヴィルvaudeville raffinO》 といえよう。と同時に、オバルディアの経歴 を紹介 したル・モン ド紙にもあったように、オバルディアがシュール レア リス ムの詩作から劇作に移ったことを考えあわせれば、ヴォー ドヴィルを発展させ たというよりもむ しろその逆に、シュール レア リスムを吸収、消化 した土壌に ヴォー ドヴィルというジャンルを移植 し、 シュール レア リスムをLppy few にだけではなく一般観客にもアピールするものにまでもってきた(stl「FOaliVle

raffinO ou stlrrёaligne vulgarisO?)と いう見方も可能か もしれない。

さらに、演技のネタに借用される トピックスを見てみよう。現ft社会につい ての深い思索、そ して鋭い指摘が盛 られているのは事実である。 しか し批評家 たちが球 に口にするオバルディアの劇の現代性、同時代性という言葉に引き ず られ、見逃しがちであるが、実は、この作家は現在

/現

実の世界の中で日に 見えているものだけに材を得ているのではないことは歴然 としている。オバル ディアの初期の小説 (′F洲師lan des cttrs,195籐つ について、 「詩人たちだ け力ヽ さなが ら神のように、一瞥 しただけで人間の歴史全体を見てとる。彼 ら の目には歴史全体が常に今ここに在る現在 として映 っている。(.…

)一

(6)

ルネ0ド・オバルディアの笑い

153

性 の特異 な ものを普遍的な ものにまぜあわせなが ら.… 」 (《 Seuls les

poCtes, 江 1'lllnge II10ttЮ de Dieu, pcuvcnt embrasser l'Ilistoire dans un

mOme regard, comme un Oternel prOsent. (..。 )molant le singulier a l'wliversel,(.… ))といった評が寄せ られており(16)、 またオバルディアが それまでに発表 した小説群にたいして、 「個人の無意識の世界ではなく、世界 の無意識の世界(1'inconscient du mnde)を解明 し、明 らかに してゆく」と いった指摘 もなされている。(17)。 この 《神さなが らの詩人のまなざし》は後 年になって発表された劇作品において もそのまま生きており、以上にみてきた ように、記憶の底に眠 っていてほとんど現実の生活の レベルでは意識の中か ら 消え失せていたもの、子供時代のごく個人的な体験、また個人を越えたその時 f‐tIItttの流行、一般的な文イヒ 歴史 として学習されてきた 《世界と同 じくらい 古い》事物が、 この 《荒唐無稽の ドタバタ劇の舞台》では「現在」をつきや ぶって表に突出しようといつも待ち構えている。 これは通常のパロディー、即 ち過去の事物・形式の価値下落をひきおこす ものとはその性格 も機能 も異にし ている。 「オバルディアは言葉のプ リズムを通 して

L界

を生き生きとした新 し い色彩のもとに映 し出す。」と評 したのはJ.一P.Damourで あるが(18)、 この古 い歴史が 〈過去の時間〉という環境か ら抜け出 してきて、時には「現在」と 《一緒の食卓につき》

(『

クレップス博士とロザ リー』)、 「現在」と「過 去」の語 らいにより我々の生きている世界があらたな意味をもってたちあらわ れて くるのである。劇のアクションは、現在と過去の世界が交錯する中をス リップ

/横

滑 りしなが ら進行 してゆき

,我

々の現在の生を、人間によって経験 された歴史の総体の枠組みの中で舞台の上に現前させてゆくといえよう。… 。 こういった舞台空間において、そこに乗 り込んできている現代社会の非現実 ・非日常に対処するのが 《f珠

)で

あろう。この目まぐるしく動 くドタバタ劇 のアクション全体を、 〈日常〉対 〈非 日常〉で割 り切って しまうのはもちろん 無理がある力ヽ その中の小さなディテイルである 傑難

)に

限っていえば、彼

(7)

154

ルネ・ド・オバルディアの笑い 女が 「乗り込んで くる側」ではなく、 「迎え撃つ側」なのは確かである。乗り 込んで くるのは、どれも「ありきたりのごく平凡な日常生活」と相容れない、 さらに言えば、それを脅か し、時には極端で非人間的になって しまっている連 中や状況であり、それに対 しごくごく人間的に(即ち、往々にして視野の狭い 俗物 として

?)対

応 しているのが ぐ母親役〉なのではないだろう力、 『ラ・ヴィレットのサチュロス ー もしくはユー ドクシの国 』の最後で 母親は監獄か ら出てきた息子に「これか らはゆっくりしてテレビを見なが ら一 日中寝ていたらいいのよ」と語る。 しか しユルバンはその母親をおきざりにし、 少女ユー ドクシと森のなかに消える。オバルディアのOF究家 ファルシはこの シーンの中に、ユルバンとユー ドクシがこれか ら生きようとする子供時代の無 垢な魔法の世界と、それに対立するものとしての母親像、すなわち大人の社会、 中身の伴わない形式的な幸福のなかにユルバンを再び回収 しようとする否定す べき存在を見てとり

,こ

の母親の許に帰れば「一難さってまた一難、元のもく

あみである」 (《Sa mёre qui cherche a le[u「 bainl FOCuporer en lui

vantant un bollllctl「 striCtanent FoFIml。 (.…

)ぬ

is ce serait la tttber

de Clarybde en Scylla et se retrouver doublement asservi.》 (19))と

続けている。 しか し、ここに「大人」対

t」 のシリアスな互角の対立をみ るのは行きすぎであろう。む しろ、主人公の息子の生きる、そ してあこがれる 世界を理解できぬまま、ひたす らその健康を心配 し、そ して娯楽をもあてがお うと気をくばる力ヽ 結局その息子か らとりのこされて しまう、

(劇

の世界でも 実人生でも

)脇

役の「損な

1剛

1の

母親役をおヽりあてられた女性の姿を一瞬の セ リフでオバルディアが舞台の上に く遊戯になりうる愉快なエ レメン トとし て〉出現させたとみるべきであろう。この母親の姿がオロカでステレオタイプ であればあるほど、そのイメージはこの「理解できない奇妙なものになって し まった世界」では逆に新鮮な輝 きがあり、観客の胸をうつ ものであったはずで ある。子供の遊びに「お母さんごっこ」というのがある力ヽ 母親役の女の子は 常になく非常にか しこまっていたことを思い出す。あれは、毎日繰 り返される

(8)

ルネ・ ド・オバルディアの笑い 155 あの 《見慣れた》母親の立ち居振る舞い、そしてそこにこめられた 《俗な》感 情、それは多分1■界と同 じくらい遠い昔か ら不動のものとしてあつたのだろう という思いで、それを真似ることは子供にとってそのまま‐種の聖性をおびた 厳粛な儀式を行 うようなものであったか らではないだろうか。オバルディアは このシーンで、 「母親役」を笑いのめ しなが ら、その 《俗》があわせ もってい た 僣動 の響 きをあらたに観客の胸の うちに甦 らせるのに成功 したのではない だろうか。 劇作品『ラ・ ヴィレットのサチュロス ー もしくはユー ドクシの国』につ いて述べたところで、ユー ドクシという名の女の子力切1の作品である詩集『無 垢なものたち』にもまた登場 していると述べたが、この詩集の冒頭を飾るエ ピ ソー ドでは彼:女がその主人公となっている。(20〕 このイF品の中では、彼女は、 父親と母親を代表とする大人たちの思惑や強制、また早 く大人になるようにと いう彼 らの願いを尻目に、夜になって家人が寝静まると、魔法でテレビの画面 の中に飛び込み、夢想の世界を下人生 きている。 ここでは彼女にとって大人と は圧政者、良 く言 ってはた迷惑な他人であろう。 しか し、 このユー ドクシもや はりいつの間にか大きくなって しまい、ある夜テ レビの中に入ろうとしても入 りこめず、画面に頭をぶつけて しまう。… 。オバルディアはこのエ ピソー ドの 中では、大人と子供を住む所の違 う別種の存在として並列 しているようである。 しか し彼は単純に大人を断罪 しているわけでは決 してない。『ラ。ヴイレット のサチュロス ー もしくはユー ドクシの国』の一シーン、警察署の一室の場 で、 「行方不明になった娘のユー ドクシが保護されて無事に帰 って くると、父 親のほうは娘を平手打ちにし、母親のほうは何 も言えずにそこにへたりこん だ」という警官の報告をこの作家はわざわざ挿入 している。娘が家出を して し まうと、もはや圧政者でもまた無関心な他人でもなく、その安否をひたす らき ずかって憔悴 していたであろう

(し

か し出番のない

)母

親の姿をオバルディア は忘れてはいないのである。

(9)

156 ルネ・ ド・オバルデ ィアの笑い !ll. 〈母親〉というものは現実にはあり応ヽれたものでありながら、一旦テーマと なって しまうといくら論 じて も論 じきれないものであろう。オバルディアは 「神は創造するだけであり、それを分析するのは悪魔である」と話 し(21)、 分 析・論評することを皮肉っている。 この作家は最初に述べたように舞台設定 も 作風 も前回のものか ら大きくかけはなれた一イ│=一一作を発表 し続け、そのユ また主なる登場人物が担 う問題 も様 々である。 しか し、少なくとも、オバル ディアの劇は、 〈怒 りと響き〉に満ち、偶然に支配された「現実」の様々な断 片を寄せ集めてつ くりだ した一つの「非現実」の空間であると言えよう。そ し て、それをあたか も「現実

Jで

あるかのように処理、対処 しようとする者

(の

代表

)が

母親なのである。『クレップス博士とロザ リー』にはマダム・ シャ フュという家政婦が登場する。彼女は非常識な出来事ばかり起 こる近頃の世相 に憤慨 しなが ら、世界中の恵まれない赤ん坊のためにとずっと毛糸を編んでい る。

(彼

女自身には子供はいないようである。

)そ

してクレップスが天才科学 者であることを知 らぬままに、彼に「プラブラせずに手を動か して働 き、まっ とうな生活を送る」ことを勧め、クレップスにその腕前があるのを認めると、 彼に「配管工になったら儲かるよ」などと助言す る。まるで自然主義演劇の舞 台から抜け出 してきたお しゃべ りで気のよい門番のおかみさんといった俗な役 どころであり、

edu鴫

曜霧の とぃうこの劇の高1題に注目しているかぎり、 主題とはほとんど全 く関係がない。マシーンの中に人間の美を結晶させた主役 のロザ リーと対照的な存在である。 しか しこの 〈生身の人間〉の家政婦を演 じ た女優ナディア・バランタンも実際の舞台では大いに客席を沸か しており、初 めに述べたモ リエール祭で 《脇役女優》の剖 『 1で賞をとっている。 (22)このよ うに多様な主題

Lま

た主人公とか らめて、この作家はその母親たる「クロケ夫 人」、 「ユーラ リJ、 「カロリーヌ」、 「オノリーヌ」、「エヴリーヌ」、 「ドロテー」、そして「名lIを出すまでもなく 〈母親

)と

だけ指示された女性 役」を作品世界の中に配 し喜劇的効果を生むセ リフを語 らせている。彼女たち

(10)

ルネ・ド・オバルディアの笑い

157

は皆 《母親》ではあるが、 F漁 1にみると、顔 も名前 も年齢 も社会的地位 も違 っ た女たちであり、ステ レオタイプという言葉は実はあたらない。そ して彼女 ら が生み出 した笑い、そのnaturcs,qttlitOs,fonctionsも 決 して―様ではな い。彼女たちの下人下人が特異な(singulier)存在なのである。 しか し、主人 公の息子、娘たちを理解できないまま、その脇でつつましいこれらの雑多な喜 劇役を演 じた女優たち、そのセ リフと動 きからやがて立ち上がって くるもの、 それは、実に不思議だ力ヽ ほとんど透明で静誰な同一のイメージ、 〈母性

)と

しか名づけようのないあの普遍的な‐種の聖性を帯びたものである。女ロボッ トのロザ リーは自分の胸の内で しだいに大きくなってゆく不思議な気持ちにつ いてこう語 っている、 「危機に直面 したときにつねに新 しく母親の胸に生まれ た太古か らの感情.… 」 ここにも、 「

[世

界は

]不

条理ではない、神秘に包 まれているのだ」と語 ったオバルディアの思想酬 また彼の作品世界を不 と分かつ一つの傍証 もありそうである。 以上見てきたように作品

L界

のなかに く母親役〉を配 し、彼女たちを悪魔の ように笑いとば しなが ら、この現代劇作家はその都度あらたな形象

(か

たち) をとりなが らも人間の心の中に常に同一のものとして奇蹟的に生まれつづける この く永遠の感情〉一 つつましくしか し常に俗と聖をつないできた母性ミそ してそれにたいして人類の抱 くほとんど宗教的な敬虔な思いを、驚異にみちた、 あぶなっか しい、 しか し確かなものとして舞台の上に出現させるのに成功 した といえよう。 注

:(原

文 を記 す る こ とは割 愛 し、 出典 のみ をあ げ る。)

1)(Portrait do :'artiste par lui― 田0■e : Rone de obaldia a travers ses

(11)

158

8) lbld., p. 8.

ル ネ ド・オバ ルデ ィアの笑 い

Odition : 1969).

(す べ てGrasset社刊)

1964, (1・・ editiOn: L:brairic Plon, 9) lbid., p. 7.

10)Exobiographio , 1993, Ed. Grasset, pp. 276-277. 11)Cataloguo, p. 19.

12), 13) ib:d., p。 21。

│:│キ

1

・ド

・オ

ディ

1979 年10月号 、 pp.29-31参 照 。

16)『勇 猛 な る タ メ ル ラ ン』(丁amQ」ュ de■

_ceurs,Ed.10/18,1964,(1

re Odition:Librairic Plon,1955)裏 表 紙 の評 。

17)モー リス・ ナ ドー 《トラ ジ ックの詩 人 オバ ル デ ィア》,『勇 猛 な る タ メ ル ラ ン』「所収 (《Obaldia′ poOte tragique》 par Haurice Nadeau′ dans

丁amerlan des ccurs ′ Ed. 10/18, 1964, p. 178)

18) Dictlonnal「 e des Litteratures de Langue frangaise′ Bordas′ 1987,

(1『・ Od:t:on : 1984), p. 1787.

19)GOrard―Denis Farcy″ !董重迎⊆10baL壁:a, 2et!te encyclopOdie portative

器 警

:諸

i需一]Ω器 計 吉

:縦

:ht「 lLs」「

a:Ili:│:ls:│「Cib71'813.pb_ll

( 1`・ 6ditlon 二 1969).

21) (│夕 lmagination do Obaldia et de Weingarten 》 , dans l'0口:「:s口e

豊■」L上旦塾」巨1■」圭」墜_上壁」h豊ユ上墜L二ran9■:ュ COntemporこin , Ed. Klincksieck,

1974″ p_ 212.

22)Lo Figaro″ lo 5 avri:1993.

書 誌:テキ ス ト、 ま た参 考 と して 直接 使 用 した もの を ま とめ て こ こに記 す.

ル ネ・ ド・ オバ ル デ ィアの作 品:

C ataloguo raison■ O des cuvreS二9田plёtes pour le thaatre(1996)。

│1器

21剛)

innるこentines―poO日

eS,1977(1

丁anerlan des ccurs, Ed. 10/18,

1955)

ル ネ・ ド・ オパ ル デ ィア の記 事:

(Portrait de !口 artiste par lui一 口0口e : Rena do oba!dia a travers ses

置器義帯

1。Lulanib ttb::t:7tlil「:IIIIDl16:Lns Ta.erlan des ccurs, Ed. 10/18. 1964, pp. 167-182.

ルネ・ ド・ オバ ル デ ィアの作 品 論:

利 光 哲 夫 (今 日の劇 作 家 達

1

ルネ・ ド・ オバ ルデ ィア》 1979年10月号 、 pp.29-31。

『 応、らん す 』

G6rard―Don:s Farcy, Encyclobaldia, petite_encyclop● die thoatro do RenO d0 0baldia.Ed.」oan―Hichel Place,1981.

tive du

関 連 す る 自著・ 自稿

《Fonctions du ri「 e dans Du Vent dans i les branches de sassafras de RenO do Obaldia 》dans Fonct:ons_du rire dans lo lheatrO francais

(12)

ル ネ 0ド ・オバ ルデ ィアの笑 い 159

《ルネ 0ド ・ オバルデ ィア作『 ジュヌー ジ』にお ける笑 い一前》

(近

畿大学教養部刊「 近畿大 学教養部研究紀要 」第25巻 1号,1993年 7月)

(ルネ・ ド・ オパルデ ィア作『 ジュヌー ジ』にお ける笑 い一後》

(同

第25巻 2号′ 1993年12月 )

《Le Rire de RenO do Obaldia dans Gonousie

一suppl●口ent》

同 第26巻 2号′1994年12月 )

《Le R:re de Ren6 do Obaldia dans ‖onsiour Klebs et Rozalie 》

(同

第26巻 3号,1995年 3月) に

e隔

“ 山 隔籠 山 助J tta由 “

7巻

J"6年

明 ) 『 ルネ・ ド・ オバルデ ィアの笑 い 〈母親役 〉の科 白をめ ぐって 一前一 』

(「

年報・ フラ ンス研究」30号,1996年12月′関西学院大学 フラ ンス文学会発行) (商学部教授)

参照

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