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三宮惟明親王の正治初度百首詠について

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三宮惟明親王は席倉天皇の第三自主子で、 四宮後鳥羽天皇の一歳 年上の異母兄に当る。「平家物語 j に語られる後烏羽天良即位の 逸話の言わば引き立て役として知られるもの の、 後烏羽院の華や かでかつ波乱に宮んだ生涯に引き較べて影の泄い存在であること は確かであり、 その事績についても詳細なことは不明である。 し かしながら、初期の後鳥羽院仙洞歌埴においては「正治初度百首」 「干五百番歌合」という重要な催しに作者として列なり、「新 古 今集 l に六首入集するのをはじめとして後代の勅撰集にも比較的 満逼なぐその詠歌が選ぴ入れられている事実からも窺われるよう に (l) 、 目 立たぬながらも 歌人としては決して見過ごすことので きぬ存在であるかと思われる。 惟明については山崎桂子氏に詳細 な研究があり、 その初期の伝や勅撰集等に見える出典不明の逸文 歌に関しては綴密な考証が積み上げられているものの (2 )、 歌 人 としての全体像が練まりを持ってよく把握される段階には至って いないというのが英状であろう。稿者としても決して十分な用意 があるわけではないが、 近時、 惟明の追した二篇の百首歌にあら ためて目を通す機会があり、 この時期の歌人と歌坦の動向を考え る上で相応の注意が払われてよい存在であるという思いを強くし た。本稿では 、 淮明の正治初度百首詠に見られる幾つかの表現上 の特色と傾きを列挙して、 新古今歌境におけるその位骰付けにつ いて若干の検討を試みたい。 惟明親王が「正 治初 度百首」の詠進者に選ばれた経緯につ いては山崎 桂子氏が周到な推論を示されているが、 正治二年 (ーニ00)の時点で惟明は二十二歳 。「正治百首」以前に公的 な歌会・歌合・定数歌等への出詠は確認できず 、 伝存する詠歌も 極く少数にとどまる (3) 。『正治初度百首」での詠歌についても多 くはその表現の質が高い水準にあるとは言い難 く、 先行歌の発想 や詞続きをやや無造作に取り込んだかと思われる歌々が 、 例えば 以下の如く目に付くことは否定できない。 朝日さす峰の白酋うちとけて風ものどけき千代の初春

三宮惟明親王の正治初度百首詠について

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(春·10四)3 春部の巻頭立春詠のーつの定石として平安な治世への祝意を椛 めるが、 その上句は『三十人挑 j 「三十六人撰」「深窓秘抄」『和 漢朗詠集」等の各種秀歌逍に採られた平兼盛の著名歌 「朝日さす 峰の白雪むら消えて春の霰はた なぴきにけり」 を踏製するもので あり、 下句の詞続きに ついても、「桜花風ものどけき御世に会ひ て散らぬ春をし煎ぬぺきかな」(文治六年女御入内屏風和歌・九 粂兼実)の如く近い時期の先行例は少なくないのであっ て、 先行 ・ 歌 の表現にほぼ全面的に依拠した乎凡な詠み根りの一首であると 評さざるを得ないであろう。 わき て色の深く見ゆるや煙立つ室の八島の霞なるらん (春•10六) 難義としても著名な歌枕「室の八島」に寄せて霰を詠ずるが、 一首全体の趣向や詞統きが藤原消輔の代表作のーつである 「朝霞 深く見ゆるや煙立つ室の八島のわたりなるらむ」(新古今集・春 上・三四、 久安百首・春)に酷似することは否定できない。 琴の音に通ふ松風引きかへて秋の訓べに今朝はなるかな (秋・一四0) 常緑の松ではあるが吹く風の気配に秋の到来を惑知す るという 発想の原点には、「紅業せぬ常盤の山は吹く風の音にや秋を聞き わたるらむ」(古今染・秋下 ・ニ五―•紀淑望)があると考えら れるが、 同時にその上句の詞続きが奈宮女御微子女王の名歌「琴 の音に峰の松風通ふらしいづれの緒より網べ初めけむ」(拾逍集・ 雑上・四五ー)を踏まえることは言うまでもないであろう。ただ、 「引き・弾き」「成る・嗚る」の掛詞とともに 「琴」 「弾き」「調べ J 「嗚る」と縁語を連鋲して行く作辞 は、 斎宮女御歌に倣ったもの であるとは言えなかなかに巧みであり、 前掲の二首よりもかなり こなれた詠み振りになっていると評せよう。 この他にも、マ迫坂の杉間漏り来る月ゆゑにをぶちに見ゆる甲 斐の黒駒 J (秋・一四九)は「逢坂の杉の群立引くほどはをぶち に見ゆる望月の駒」(後拾造集・秋上・ニ七八・良遥)とほぼ同 工であり、「春よりも 心あるかな渾の 国の難波わたりの冬の曙」 (冬・一六一)が 「心あらむ人に見せばや油の国の難波わたり の春の景色を」(後拾辿集・春上•四三・能因)に全面的に依拠 し、「汀より結ぶ氷やとどむらん寄せて廂らぬ志賀の補波」(冬・ 一七0)が「小夜更くるままに汀や氷るらむ遠ざかり行く志賀の 浦波」(後拾逍集・冬•四一九・快党)の焼き 直しであるといっ た如く、 発想・修辞の両面において労名な先行歌をそっくりなぞ ったような作が目に立つことは事実であり、「正治初度百首」詠 進時点における惟明の歌オがどちらかと言えば凡庸の域に留まる ものであっ たことは否定できないように思われる。 しかしなが ら、 詞続きの細部や題材の選択に留意しつつやや仔細な検討を試 みるならば、 幾首かの作品については構成的な和歌表現に対する 作者の意欲とでも言ったものが 垣間見られるようにも感ぜられ

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る。 まず留意すべきは、 万業語や難義の類に対して惟明が一定の 関心を示しているという事実である 9 先に挙げた「室の八島」を はじめ「鴫の羽掻き(S)」「常陸帯§」「とふの菅菰(7)」「山鳥の 鋭〈8)」ヤ」いった「奥義抄」「袖中抄 j 等の浣政期歌学書で考察の 対象とされる語旗に加えて、 以下のように万葉語を取り込んでの 作が散見されるのである。 ながむれば庭のさゆりに水越えて五月雨深き宿の夕暮 (夏・一――10) 五月雨による増水の様を詠ずるのは夏歌の言わぱ定番であり、 同想の先行詠も少なくないが、「万業集 j 以来の猥物である「小 百合」に寄せて殺を設定したところに作者の工夫がある。 なお、 類似した俄を詠ずる近い時期の先行歌として、 建久六・七年頃に 詠出された(9~九条良経の治承題百首詠「五月雨のふりにし里は 道絶えて庭のさゆりも波の下草」(秋篠月消集、 上• 四ニ―)の 存在は注意される。 天の川水陰草のうち靡き磁の枕に秋風ぞ吹く(秋・一 四一) 「水陰草」は、「袖中抄」 「 八槃御抄 j 「色葉和難集」等の院政期 歌学国においても立項され、 その語義に識論のある所謂難義であ るが、 元来は七夕を詠じた万菜歌二天漢 水陰草 金風 靡見者 時来之」(万菜集・巻十・ ニ01――-•作者未詳g、 古今六帖. 悌一・七日の夜・一三四・人麿)に由来する語である。 八代染中 に用例は見えないが、 院政期以降の例は稀ではなく、「天の川水 (秋・一五一) をらイ 嵐吹くさやか た山に撚消えて月影たたむ瀬戸の白波 陰草に盟<露や飽かぬ別れの涙なるらむ」(消輔 集、 新勅撰集・ 秋上・ニ―八)「天の川水陰草の夕露にそふさへあやな袖な涸ら しそ」(林葉集、中古六歌仙)の如き作がある。惟明はおそらく、 院政期和歌におけるこれらの作例や「袖中抄 j の記事等を介して 「水陰草」の語を自作に取り入れたのではないかと想像されるの である。 そィ 分けて行く心にとまる色やさはま袖のほかの萩が花招り . ( 秋・一四一―-) 第四句の「 ま袖 」 は「片袖」に 対す る「両袖」.の意で、 チそテ n ウナハラヒ i マッ ワりシ アヒクーー ツキカ 99 キヌ 「其袖持 床打払 君待跡 居之間休 月傾」(万葉集·巻 十一・ニ六六七・作者未詳)をはじめとす る万葉歌に見られる語 である。 この語についても「綺語抄」 E 和歌初学抄」「和歌色業」「色 菜和難集」等が取り上げているが、 顕昭に「萩が花ま袖にかけて 高円の尾上の宮にひれ振るやたれ」(新古今集,秋上・ 三三一、 守悦法親王家五十首)と いう 万業取の歌があることが注意され る。「萩が花」と「ま袖」を組み合わせるという設定の一致から しても、 惟明の視野の中に万業歌のみならず頻昭の御室五十首詠 が入っていた可能性は決して小さなものではないであろう。 また、 比較的耳恨れない名所歌枕を詠じた歌も、 以下のように 散見される。

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I

二句の「さやかた山」は筑前国錨岬付近の歌枕とされるが 、 用 例は乏しく、 惟明歌以外には「後拾遺集」撰者藤原通俊の「あな .し 吹く瀬戸の潮合に船出して早くぞ過ぐるさやかた山を」(後拾 逍集・裕旅・五三二)の一首を見出すばかりである。 詞続きや景 の設定の近似から考えても、 惟明が通俊歌を念頭に股くことは確 災である。 なお、 惟明歌の初句については、『正治初度百首 j の 本文は「あらし吹く」となっているが、同一歌を収 める 「夫木抄 j や「歌枕名寄 j の本文が 「あなし l となっているところから考え ても、 通俊 歌と同じく本 来は 「あ なし」であったと判断すぺきで あろう。 西北の季節風を意味する「あなし」は、 この通俊歌の後 は『堀河百首」や「散木奇歌集」 『 為忠家両度百首」等に用例が 見え(11)、「俊頼髄脳 j やその後 の院政期歌学由にも関辿の記事を 見出すことのできる、言わば一種の難義であった。「さやかた山」 とともに「あなし」に対する 関心が、 通俊歌の摂取を惟明に促し たと理解することも可能であろう。 衣打つ砧の音をしるべにておきゐの里をたづねつるかな (秋・一五四) 「お きゐの里」はや はり 平安期に は用例の稀な歌枕で ある が(12)、 近い時代の例として左の二首を掲げ ることができる。 おしなぺて秋はおきゐの里なれや月にまどろむ宿しなければ ・ ( 三百六十番歌合・秋十六番左・九条航実) これはさはおきゐの里か秋の夜のつゆまどろまで衣打つなり (守党法親王集・七 六) いずれの歌についても詠作事梢は不明で惟明詠との先後関係を明 確にすることはでき ないが、「これはさは」の守党詠は「守党法 親王邑の神宮文庫蔵本他第一系統諸本のみに あって第二系統の 宮内庁也陵部蔵本には見出されないので、遅くとも文治四年の「千 戟集」撰進以前 の作であろうと 推察されるー13)°兼実の作につい ても、 惟明・兼実両者の年齢差から考えて

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、 惟 明詠に 先行す る可能性が高いのではあるまいか。 ともに「起き居」への言い掛 けを利用して夜通しまどろま ぬ風惜を演出するが、「揺衣」との 取り合わせは歌題の本意をよく満たす適切な設定として自ずから 想い到りそうな惑触はあるものの、守党詠が惟明詠の―つのヒン トとなったとするのは、 それほど無理のない想定なのではないか と考えられるのである。 以上、 幾首かの惟明歌に見られる珍しい地名や難義に対する志 向は、 本百首全体に一貰する顕若な傾向であるとは言い難いもの の、 消輔・額昭等六条藤家歌人の歌学的閲・心に通うと ころがある ことは否定できないであろう。消輔・頻昭・守党といった人々の 詠作を通じて、 これらの地名や難義に対する惟明の典味が妥われ た可能性も小さくない。 そして、 かかる 志向を惟明の中に育むの に一定の影響力を及ほした人物をその周辺から敢えて探し求める ならば、 椎明の伯父に当り、 頻昭が近侍していた仁和寺の守党法 親王あたりがまず有力視されて来 るのではないであろうか。惟明

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と守党との間にどのような交渉があったか、 具体的な事跡につい ては手掛りに乏しい が、 守党の工威年上の 同母姉である式子内親 王が惟明と親密な間柄であったことは、「新古今集」に収められ た惟明と式子との二組の贈答歌に明らかである。真俗両界に通じ 仁和寺和歌圏の主宰者として同時代歌抱への影梱力も大きかった 守伐が(15)、 姉 の式子と親しい三十歳ほど年下の甥に様々な感化 を及ぼした可能性は、 十分に考感されてよいであろう。 難義や珍しい地名に対する関心のみならず、 惟明の正治初度百 首詠中に は、 漢能や王朝物語世界への志向をも見出すこと ができ る。 .:^ィ おきならす翁のまにまに聞こゆなり尾上の維の明け方の空 (冬・一六四) 『山海経」に記される豊嶺の鐘の故事を踏まえた作であるが、 ともにマ干戟 集」に収められ た「堀河百首」の大江匡房詠「高 砂の尾上の銃の音すなり暁かけて霜や骰くらん J (千戟集・冬・ 三九八)や「久安百首」 の藤原公能詠「初舘や個き始むらん暁の 維の音こそほの聞こゆなれ」(千載集・冬・ 三九七)等も また作 者の念頭に あったものと推察され る。 なお、 該歌 は初句の修辞に 工夫があり、「霜」 の縁語「哲き」と「 鎚」 の縁語「嗚らす」を 配しつつ、「屈き馴らす」に 「起き嗚らす」を響かせている。 朽ちにけるまやのまき丑きひまを粗み集めぬ窓も雪積りけり (冬・一六五) 下句は明らかに 蛍雪の功の故事を踏まえてのものであるが、 建 久九年の『守党法親王家五十首 j に「五月雨はまやのかや荘き軒 朽ちて集めぬ窓も蛍飛びかふ」という藤原兼宗の 作があり、 これ に想を得た可能性は小さくな いであろう。 万代と山は呼ばひて谷川の水は千年の色ぞ見えける (祝・ニ0-) 初二句は「史記」孝武本紀に見える 漢 の 武帝の所附謡山の故事 を詠ずるが、 こ の 故 事を踏まえた先行歌も「声裔<―二笠の山ぞ呼 ばふなる天の下こそ楽しかるらし」(拾逍集・賀・ニ七四・仲坑 法師)を節頭に決して稀ではなく、 大笞会和歌にしばしば詠ぜら れる等(16)賀歌 の定石とでも言うべき泳法 であった。 惟明の如上 の三首に取り込まれた漢故事はいずれも人口に腑炎した馴染深い ものであり、 漢藉・淡詩文に直接依拠しての詠 作と は別次元の受 容と理解すべきである のか もしれないが、 和歌表現に対する作者 の意欲的な姿勢を行て取ることは許されてよいであろう。 これに対 して 、 王朝物語の世界やその作中和歌を踏まえたと考 えられる作には、 以下のようなものがある。 逢ふことのむなしき空の浮雲は身を知る雨のたよりなりけり (恋・一七五) 第四句の「身を知る雨 」は「新古今集」の請注に指摘する如く、

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「伊勢物語」百七段に見える「数々に思ひ思はず問ひがたみ身を 知る雨は降りぞまされる」(古今集・恋四・七0五・在原粟平) の歌に拠り、 それを本歌に取る。掛詞・縁語を要所に配しての緊 密な詞の寄せと整った調べに特色あ る、 後に「新古今集』に選ぴ 入れられた(恋一_.―-三匹)こともよく納得の行く佳作である。 進ふことはなだのしほ屋のあま人のからきは恋の心なりけり (恋・一 七八) 二句の「なだ」は.「灘」に「なし」を言い掛け、樵師の意の「あ ま人」に「 甘し」を智か せて「塩屋」の緑語である四句の「辛 き」と対照させるという、 これも詞の寄せに工夫のある一首であ るが、「芦の屋の灘の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささず来に けり」(伊勢物語八十七段、 新古今集・雑中・一五九0・業平〉 を踏まえることは確実である。詠歌事情は未詳であるが、 藤原秀 能の「今さらに住み憂しとてもいかならむ酒の塩屋の夕匹在の空」 (新古今集・雑中・一六0五)の歌 は、 伊勢物語歌とともにこの 惟明歌の影嬰下に詠出された可能性が考えられてよいであろう。 月の漏る軒端の梅の花盛り折る手にかをる春の淡雪 (春・一――一) 月光が梅花の白さを際立たせ、 それを手折ることで春の淡雷が 手元に掛かったと見立てる が、 実際は梅の花ぴらであるのでその 芳香を「折る手にかをる」と表現する趣向の作である。言わば笞 月花の一二種をすべて取り合わせつつ、 視党・嗅党の両而に亘る鉗 認の様を描き出すという、 極めて唯美的、 幻想的な惜兼の設定が 企図されている。 その発想の雛型となったのは、 おそらく「梅散 らす風も越えてや吹きつらむかをれる雪の袖に乱るる」(康資王 母集、 新古今集・春上・五0)の歌とその句題とされる「折リテニ 梅花 ,一挿 9 パレ頭 ,1‘ 二 月之雪落ッュ衣― -l (和漢朗詠集・春・子日・ 腺敬)の詩句であろうが、 康資王母歌の設定に「月」を加えてし かも 「月の漏る軒端」 と言い続ける背景には、 かの「伊勢物語」 四段の世界が意識されているのではないで あろうか。「伊勢」の 昔男は、 女を失った翌年の睦月「梅の花盛り」に五条の西の対を 訪れて、「あぱらなる板敷に、 月の傾くまで臥せりて、 去年を思 ひ出でg」て「月やあらぬ」の絶唱を詠ずるのであ る。 同じ I 正 治初度百首 j で藤原定家の詠じた「梅の花匂ひをうつす袖の上に 粁涸る月の影ぞあらそふ」(新古今染・春上• 四四)の歌に較べ ても、「伊勢物語 j 世界との関わりはさらに淡々しく仄かではあ るがg、 物語世界の面影をかすめつつ複数の感槌を交錯させて 匹夕幻的な梢限を構築するという、 時代の新しい泳法に悼差す表現 意欲に窟んだ詠歌として位脱付けることができるのではあるまい か 。 「源氏物瞑 lln 」との関わり が考慮されて よい歌としては、 次の一 首を掲げるべきであろう。 ながむれば須磨の捕路の春縦明石に伝ふ昭の空 (春·10七)

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光源氏 が明石入道の迎えを 受けて須磨から明石に移り住んだ のは、 三月十一=日頃のことであった。物語全編の―つの山楊で もある光源氏の明石移住の経緯について詳述する余裕は ないが、 心落ち滸いた源氏は京の紫上宛 に「遥かにも思 ひやるかな知らざ りし浦よりをちに涌伝ひして」 の歌を賠っている。明石移住の直 前には三月上巳の日に海岸に出て祓を行なっているが、 そこには 「海の面うらうらとなぎわたりて、 行方も知らぬに、 来し方行く 先思し続けられて」という叙述があった。 この直後に暴風雨の記 事が続くのであるが、 前引の光源氏詠の詞 続きを取り入れつつ、 須磨巻末近くで語られる海岸で の場面における光源氏の詠歌とし ても相応しい歌境を構築したのが、 当該の惟明詠であると理解し てよいのではあるま いか。「捕伝ひ」 という言菜自体の用例は光 源氏歌以外にも数多く、需匹氏物語」以前に須磨と明石とを同時 に詠み込んだ歌も「白波は立てど衣に重ならず明石も須磨も己が 浦々」(拾辿集・雑上・四七七・人窟)の如く存在するのであるが、 同じ「正治初度百首」で「而影に須磨も明石も誘ひ来て心ぞ月に 浦伝ひける(守党法親王 ・ 秋)」「明石潟須磨も―つに空さえて月 に千烏も浦伝ふなり(九条良経・冬 )」 という源氏取りと恩しき 歌が詠ぜられ ていること等を勘案すると(19)、 惟明歌の作意をこ のように見定めてみたいと恩われるのである。 「伊勢物語 j を踏まえての作歌は六条藤家側の歌人にも少なか らぬ実践例があり、 このような物語取の和歌をひたすら御子左家 (春・――六 花誘ふ嵐に春の空さえて枝より積もる庭の白雪 新風に追随するものとしてのみ受け止めることはできないのかも しれないが、 とりわけ「月の湿る軒端の梅の」 と「ながむれば須 磨の捕路の」の二首については、御子左家側の詠法に近い複層的、 構成的な表現への志向を看取することができそうである。本百首 以前の惟明の詠歌事跡は極く僅かなものしか知られておらず、 当 年二十一 1 歳であった惟明にと って、「正治初度百首」の詠進は未 だ歌学ぴの道半ばの出来事であったと位骰付けられてよいであろ うが、 新旧 両派の泳法に対してともにかなり栢極的な

oo

.心を抱い ていた形跡が垣間見られるのである。 「正治初度百首」における惟明の和歌表現の中から、 部分的に は既に言及済みであるが、 同時代あるいは比較的近い時代の歌人 たちの詠歌から様々な表現を取り入れ ている作の若干に ついて挙 例し、 惟明の歌学ぴの実情について考えてみたい。 惟明から見ると曽祖父乃至は祖父世代に当るような院政期歌人 の詠歌を念頭に憫いたと思しき作としては、 既に掲げた事例以外 に次のようなものが掲げられる。 吉野山嵐や花をわたるらん梢にかをる春の夜の月 (春.―-五、新後拾造集・春下·-0九 )

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風わたる真葛が原の刈萱はうらみられてや思ひ乱るる 夕づく日入るかとすれば夏の夜のやがて明け行く山の端の空 (夏・一三一) (夏・一 四四) 春部に辿続して出る一首目「吉野山」二首日「花誘ふ」の両首 の上句については、 ともに「花誘ふ嵐や峰をわたるらん桜波寄る 谷川の水」(金莱集一一度本・春•五七)の源雅兼歌を踏まえて構 想されたと考えてよいであ ろう。四首 目「風わたる」の歌は、「嵐 吹く真絡が原に嗚<鹿は恨みてのみや要を恋ふらん」(新古今集・ 秋下 •四四0 ・俊恵、 仁安二年八月経盛家歌合)の歌の「鹿」を 「刈茸」に囮き換えただけの ような作であ るが、「窃」の縁語の 「衷見(恨み)」に加えて「刈萱」の縁語「乱るる 」を配し、 詞 の寄せは巧みである。 これらは、 いずれも先行の勅撰集や著名な 歌合に見える、 しかも各々の歌人の代表作とされてよいような佳 什を踏まえて自詠を構想しているが、 第一 l 一首「夕づく日入るかと すれば」の歌に ついて は、「夕づく日入るかとすれば三日月の天 つ空にも出でにけるかな 」(為忠家後度百首•月二十首·三日月・ 藤原為業)というさほど知名度の高くない歌 に想を得ていること が注目される。惟明が常磐家歌壇に一定の関心を抱いていたらし いことは他の作からも窺われ、 彼の歌学ぴがかなり幅広いもので あったことを物語っている。 さらに目を惹くのが、 惟明が同時代の御子左系歌人の和歌表現 をかなり梢極的に自詠に取り込んでいることである。幾つか例を 掲げたい。 桜花散る木の下の旅寝には春を片敷く心地こそすれ (春.―-八) 二、三句の詞続き及び歌中に描き用されている俯撒の近似から考 えて、 花山院の著名歌「木の下を住みかとすればおのづから花見 る人となりぬべきかな」(詞花集・雑上・ニ七 六、 金紫集三奏本・ 春上・四九)を念頭に槌いて構想された作であろうが、第四句に「春 を片敷く」と秀句的な言い回しを配するところに工夫がある。 こ の句は桜の花ぴらの散り敷いた上での旅寝を言い取った表現であ ると理解されるが、 その背景に は建久元年の『花月百首」で藤原 定家の詠じた「さむしろや待っ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治 の橋姫」(新古今集・秋下 • 四110)の歌が意識されていたと考 えられてよいであろう。本歌の「衣片敷き」を踏まえての詞続き ではあり (8) 、 ま た、 所謂制詞の範暇には含まれないものの、「月 を片敷く」は定家以前に は例を見ない独創的な表現として、 同時 代以降の追随詠を生み出すことになる。惟明詠もその流れを汲む が、 同じ「正治初度百首 j や「千五百番歌合」において守党法親 王や後烏羽院が「月を片敷く」を用いた歌を詠み出すのと同時期 に(21-、 惟明親王が「春を片敷く」と定家詠その ままの語句では なく少し手を加えた形で自詠に利用している事実は、 大いに注B されてよいと考える。

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吉野山嵐や花をわたるらん梢にかをる春の夜の月 (春.―-五) 既に 「金葉集」所収の源雅兼歌と の関わりを指摘した歌であ るが、 第四句の「梢にかをる」はやはり類例の少ない秀句的表 現であり、 僅かに建久元年「花月百首」の藤原定家詠「あくが れし雪と月との色とめて梢にかをる春の山防」(拾遺愚草・ 上・ 六0八)を見出すばかりである。惟明詠と定家詠では歌中に設定 されている惜衆には些かの隔た りがあるものの、 月の光の視覚的 な美しさを首い表す のに「かをる」という嗅党に関する語梨を用 いて言わば共感党的表現を試みているところは、 この時代の新風 歌人たちの志向と諏なり合うものであり、 定家の花月百首詠に倣 っての詞句の選択であると理解されてよいであろう。 今はとて暮れ行く春のふる里に花散る宿とならんとすらん (春・―二三) 「花もみな散りぬる宿 は行く春のふる里とこそなりぬべらな れ」(拾逍集・春・七七•紀貫之)という著名な古歌の殆ど模倣 に等しいような歌い回しではあるが、 二、三句に岡かれた「春の ふる里」につい ては、「木の本は日数ばかり を匂ひにて花も残ら ぬ春のふる里」(六百番歌合・春下二十八番左.題「残春」・定家) 「絶え絶えに軒の王水おとづれ て慰めが たき春 のふる里」(式子 内親王染.―-七)のような近い時期の先行歌が あり、 同じ「正 治初度百首」においては「明日よりは志賀の花園まれにだに誰か (烏・一九七) は訪はむ春のふる里」(新古今集・春下・一七四・良経)のよう な佳品が詠み出されているのであっ て、 やはり新風歌人好みの秀 句的表現として位股付けられてよいであろう。 深山辺の松の木末をわたるなり嵐に宿 すさを鹿の声 (秋・一五二) 後に「新古今集 j に選ぴ入れられた(秋下•四四二)歌である が、 久保田淳「新古今和歌集全評釈」が指摘するように、 第四句 の「嵐に宿す」は珍しい表現で、 先行例を見出すことができない ようである。類句「風に宿る」については、飛烏井雅経が「千五百 番歌合」において「渠に臥し嵐に宿るあしひきの山の幾重の夕器 の空」(雑一・千三百九十一番右)と詠じて いる他、 惟明詠との 先後は明確ではないものの、 空体房錢也にも「盆払ふ梢も白く見 ゆるかな嵐に宿る 峰の月影」(露色随詠集・月百首•四二)とい う一首がある。 ともに他人が案出した新しい表現を自詠に取り込 むことに積極的であった歌人であるが(22 )、 彼等が「嵐に宿す」 と類似した表現の歌を詠み出していることは注意されてよい。惟 明歌の新古今入集についても、 揺者もしくは後烏羽院のこの詞句 に対する注目があったことが想像されるのである。 冬枯れの梢に来居るてりましこ紅葉に帰るよそめなりけり (烏・一九五) 黒をいたみ田中の畔の藪阻れ日陰の方にしとど鳴くなり

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「正治初度百首 j の島題五首における歌 人 たちの題材選択と詠 出の経緯については、 既に 久保田淳氏(23)や山崎桂子氏(24~の詳詮 があり、 「てりましこ」と 「しとど」を詠じた惟明の当該二首に ついても山崎氏が論及されている。 山崎氏が説かれるように、 両 歌とも建久二年の「十題百首 j 烏部における寂蓮詠や定家詠との 関わりが重視されるべきであろう。 時雨来し梢の色を思へとや枝にも来居るてりましこかな (夫木抄・雑九・増子烏.ーニ八九六.寂蓮) 人とはぬ冬の山路の寂しさよ垣根のそばにしとど降り居て (拾遺愚草• 上・七五九) さらに山鮪氏は、 これらの題材の選択について、「ましこ居るゐ のくづちはらうち払ひみぎはかたてし昔恋しも」(夫木抄・雑九・ 増子烏·―二八九五)「雨降れば垣根のしとどそぽ濡れて咽り暮 らす春の山里」(為忠家初度百首・春・閑中春雨)という二首の 源仲正歌からの影響を説かれている が、 少なくとも「しとど」の 歌については、「山里は垣根のしとど人馴れて酋降りにけり谷の 細道」(文治三年閑居百首•藤原家隆)等同じ烏を詠じた近い時 期の先行歌も稀でないものの、 その嗚き声に焦点 を当てて詠ずる という点で共通する仲正歌との直接の関わりが考慮されてよいで あろう。 これ以外にも 、「為忠家両度百首』との 関わりを 想定し 得る若干の作があることを既に指摘したが、 このように、 長承・ 保廷年間頃の常磐家歌堕での詠歌が惟明の視野の中に入っていた という事実は、 惟明の歌学びが決して通り一退のものではない、 かなり本格的なものであったことを想像させ る。 そして、 これま で見て来た如く、「花月百首 j の定家詠や「十題百首」の寂巡. 定家詠、 さらには「六百番歌合 j の定家詠や良経の治承題百首詠 から影需を受けた可能性の高い作が若干数ながら散見され、 取り 分け「梢にか をる」「春を片敷く」「春のふる里」「嵐に宿す」と いった秀句的表現を自詠に取り込んで いることを考え併せると、 惟明の歌学ぴには九条家・御子左家に近い立場の人物の関与があ ったのではないかと恩批されるのである。その場合に有力視され るのは、 惟明と親しい間柄であった式子内親王の歌道の師に相当 し、 常磐家歌壇のメンパーでもあった楳原俊成ということになる であろうか。 他方、 これも既に述べた如く、 惟明の正治初度百首詠中には六 条藤家の消輔や 顕昭の詠歌との関わ りを考慮すぺき作も散見さ れ、 難義や珍しい地名に対する関心等院政期歌学の志向と共通す る要素も見出されるのであって、 惟明の詠風をひたすら御子左家 流と見定めることはできない。烏姐における「しとど」や「てり ましこ」といった題材の選択も、 院政期歌学に見られる拇物誌的 な事物への関心に 迎ずるものであ る(あ)。 応制百首としてはやや 異例の烏題の股営が同様の部立を有する「十姐百首 j への歌人た ちの関心を否応なしに掻き立てたとい、ユ半惜は担論あったであろ うが、 そもそも、「+題百首」の出題と多様な詠歌自体が事物そ

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のものに対する百科全世的分類意織を背槃として営まれたもので あり(26)、惟明の側に同種の歌学的

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心が皆無であって は、この ような選択が為されるはずもなかった。言うまでもなく、季経・ 経家・有家 ・顕昭といった六条藤家の主要歌人は建久期の九条良 経家歌培の構成貝でもあり、逆に御子左家側のメンバーの中にも 寂蓮や定家のよう に詠歌対象に対する博物誌的関心や相応の歌学 的知織を有する歌人が存在す るのであ って弓、惟明の 正治初度 百首詠に見られる如上の二つの傾向を放然と腑分けして把握する ことは必ずしも適切ではないであろう。しかしながら、惟明の歌 学ぴが俊成もしくは式子内親王からの蕉附によって為されたとす るだけでは、本百首に見られるような難義や珍しい語曲に対する 志向を説明することは些か困難なのではなかろうか。そのように 考えて来ると、やはり守党法親王あたりからの直接的・間接的影 響や感化と いったものを思 い描いてみた くなるので ある。そし て、かか る想定を裏街する傍証として、建久九年の『守党法親王 家五十首 j で詠み出された 歌を踏まえ たと思しき作が、既に掲げ た事例以外にも、「眺めやるをちの高嶺の朝霧は麗よりこそ立ち 上りけれ」(秋・一四 七)の如く惟明の歌の中に散見されるとい う事実を指摘して囮き たい{径。しかも、惟明歌に受容された御 室五十首詠の作者は、俊成・寂蓮・定家・家隆等の御子左家 歌人 ではなく、兼宗・有家・顕昭といった人々なのである。 因みに、惟明が「正治初度百首 j の作者に選ばれたのは、山崎 桂子氏が推認される如く、追加の人選が行なわれた時点のことで あると考えるのが自然であろうが、もしも推挽者がいたと仮定す るな らば、山崎氏が想定される式子内親王よりも、「御室五十首」 の主他者であり、仁和寺御室として 王権により近い位骰に在った 守党法親王の方が後烏羽院への影梱力を行使しやすいのではある まいか。 なお、本百首で惟明が試みた和歌表現が同時代歌人の直近の詠 作に受容されている事例があることについては、既に断片的に営 及しているが、最後に次の一首について述べて置きたい。 春と言へばあはれ多かるながめかな天のかご山曙の空 (春・ーニ―) 大和三山の一っ「天香具山」の春景を詠じた歌として直ちに想 起される のは 、「 幻加之元茄叩,比吟叫釦配、船匹四( 万 業 集・巻十・一八―ニ・作者未詳)の万葉歌であり、歌の中に構え られた時間の枠組こそ異なるものの、それを念頭に四いての作で あると理解してよ いであ ろう。首うまでも なく、「新古今集」の 巻顕二首目を飾る後烏羽院歌「ほのぽのと春こそ空に来に けらし 天の香具山禍たなびく」(元久 二年三月「日吉三十首御会」)もま た当該の万梨歌を本歌に取るが、同じ『正治初度百首 j における 九条良経詠 「久方の槃居に春の立ちぬれば空にぞ蔽むあまのかぐ 山」とともに、惟明歌 は後烏羽院歌の先駆を 為すが如き作とし て位堕付けられる .良経歌や取り分け後鳥羽院歌の洗線された詞

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続きに比して遥かに稚拙な歌い回しではあ るが、 彼等と同じく神 話的な古代世界への関心を惟明が抱いていることは注目されてよ い。 この他にも、 惟明の作が 後烏羽院の和歌表現に影酵を及ぼし ていると推察される事例が幾つか目に付くのであって、 一歳年長 のこの異母兄の歌オを後烏羽院がそれなりに評価していた事情が 窺われるのである。 また、 これは山崎桂子氏が夙に推論されていることがらである が(29)、『古来風体抄」再撰本の成立経紺に惟明親王の存在が関わ っている可能性があるのではないかという感触を、 稿者も抱いて いる。『古来風体抄」を座右に得て、 惟明はいっ そう詠歌に精進 することになったであ ろうし、「千五百番歌合」の百首には、 れほど明瞭な形ではないものの、 その成果がある程度反映してい るように感ぜられるのである。 にもかかわらず、 惟明親王は後に「干五百番歌合」として披露 される後烏羽院の一一一度目の百首歌を詠じた後、 仙洞歌境の活動の 場から姿を消し、 院歌 坦における歌会や歌合に参加する機会は絶 無になってしまう。 このように些か唐突とも思える歌埴からの離 脱の背景には、 如何なる事梢が伏在していたのであろうか。さら に十年以上経ってから、 出家翌年の建暦二年(―ニーニ)後半に 定家・家隆ととも に「三宮十五首」を 詠ずるのである が(30)、 らく歌境から遠ざかっていた惟明が何故にこのような他しを営む ことにな ったのであろうか。歌堕との関わりを物語る具体的な事 跡に乏しく、いろいろと不明なところの多い歌人ではあるが、「古 来風体抄」成立の問題とも併せて後考を期したい。 [注] (l )惟明親王歌の勅横入集数は、 新古今染六首•新勅撰集一首・続 後撰集三首・続古今集二甘・統拾遺集二首•新後撰集三酋・王菜 集四首・統干戟集二首・統後拾遺集二首•新千戟集二首•新拾遺 集一首•新後拾遺集二首•新統古今集四首の吋二十四首である。 (2)山崎桂子「憂しといひてもあまる涙をー!惟明親王歌逸文考証 |」(「広島女子大国文」第十号 一九九— 11 年九月)、 同「惟明 親王歌逸文考証」(「和歌文学研究」第六十八号 一九九四年五 月)、 同「三宮惟明親王伝1誕生から寿永二年までーー」(『国 語国文」一九九五年五月)、 同「正治百首の研究 J (勉誡出版 ―lOOO年二月)。 (3)山崎桂子氏の考証に拠れば、 現存する惟明親王歌は存疑歌を除 いて計二百九首を数えるが、 この中で「正治初度百首」以前の詠 歌であることが確実視される作は、『新古今集」所収の式子内親 玉との贈答歌二首に過ぎない。 (4〉惟明毅王の正治初度百首詠の本文・歌番号について は、 宮内庁 む陵部蔵本を底本とするH磁磁国歌大観j第四巻に拠 る。 その他 の勅撰集・私検集・私家集・定数歌・歌合等の本文・歌番号につ いても、 とくに断らない限り「新編国歌大観 j に拠るが、 漢字・ 仮名の宛て方等、適宜表記を改める場合がある。なお、「拾遺恩平」 の本文は「冷泉家時雨卒叢柑j所収 藤原定家自箪 本、 歌番号は久 保田淳「訳注 藉原定家全歌集 j に拠る。

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(5)仮庵の秋のあはれをおのれのみかき集めたる鴫の羽掻き(秋・ 一四八)。 (6)我が恋は神に祈れる常陸帯の結ぶかごとを頼むばかりぞ(恋· 一七六)。 (7)涙には とふ の菅菰朽ち果ててあらばやならふ空けて待っべき (恋・一八0)。 この歌は「俊頼髄脳 j 所収の古歌「陸奥のとふ の背菰七ふには君を寝させて_二ふに我寝む j を踏まえた作であっ て、第四句は「あらばやななふ」が本来の形であるかと息われる。 (8)友なくてはるかに来たる山烏は鏡を見てぞ嗅き始めける(島・ 一九六)。 (9)「治承題百首」の詠出年次の推定については 、久 保田淳マ土古 今歌人の研究」(東京大学出版会 一九七三年三月)、片山享「校 本秋筵月消集とその研究 j (笠間世院 一九七六年六月)参照。 (10)「万葉集 j の本文 については「新箱国歌大観 j 第二巻に拠り、 同書に付された西本願寺本の訓を傍記した。歌番号は旧国歌大観 番号に拠った。 (11)夜もすがらあなし吹くなり難波潟湖芦に波の花や咲くらむ(堀 河百首・冬・寒芦・源顕仲)、 あなし吹く雄島が礎の浜千瓜岩打 つ波に立ち騒ぐなり(堀河百首・冬・千烏・源俊頓、 骰木奇歌集· 冬部・六二二)、 あなし吹く消見が関のかたければ波とともにて 立ち返るかな(散木奇歌集・祝部・七六0)、 あなし吹く嗚海の 沖に釣舟の波に環ふ春の曙(為忠家初度百首・雑・釣舟•藤原為 粟)吹き払ふあなしの風に雲はれてなごの戸渡る有明の 月(為忠 家後度百首•月二十首.雨後月・藤原顕広)。 (12 )「和歌初学抄 j では播磨、「八盆御抄 j では陸奥の歌枕とする。 (13)下釜逸子「『守共法親王集』の研究�集の成立について1 ー」(「仏教文学」第六号 一九八二年二月)、千京聡「『北院御室 御集」伝本考 (「筑波大学平家部会論染 j 第五集 一九九五年十一月)参照。 (14)兼実が久安五年(―-四九)生、 惟明が治承ーー一年(

l-七九) 生であるので、 三十歳の隔たりがある。 (15)歌人としての守貸法親王及び仁和寺歌壇については 、西 澤賊人 「顕昭孜ーー仁和寺入寺をめぐってー」(「和歌文 学研究 j 第 二十八号 一九七二年六月)、 千卒聡「守党法親王略年円 1 和 歌活動の面を中心にー」(「筑波大学平家部会論集」第三集 一九九二年_二月)、 西村加代子豆士稔区期歌学の研究」(和泉哲院 一九九七年九月)等の論箸を参照。 (16)例えば、「鋭山山ぴこ高く呼ばふなり世の栄ふぺき影ぞ見ゆら ん」(後紫集・雑四・五六0•平兼盛、 安和元年冷泉天且大苔会和 歌)「吹く風は枝も嗚らさで万代と呼ばふ戸のみ音高の山」(風雅 集 · 賀・一1110七•藤原俊成、 仁安元年六条天且大苔会和歌)の ような例がある 。 (17)「伊勢物語 j 「源氏物語」の本文については、「新椙日本古典文 学全集 J (小学館)に拠る。 (18)参考、 藤平春男「新古今とその前後 j (笠間柑院 l 九八三年 一月 、後に『藤平春男著作集 熔二巻 J (笠rJJ柑院 一九九七年 十月)所収)、 久窟木原玲「和歌的マジックの方法�家の楳 花詠」(同「源氏物話 歌と呪性 J (若雄柑房 一九九七年十月) 所収、 初出は一九八八年)、 川村晃生「明月記と和歌ヽーー作品と 日常の交差する場ー」(有吉保福「和歌文学の伝統 j 角川由店

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一九九七年八月)。 (19)この他にも 、「今朝見れば須店も明石も霞めるは捕伝ひして春 や来ぬらん」(経正集)「際てつる明石の門まで漕ぎつれど霞は須 庖に浦伝ひけり」(寿永百首家染系寂蓮法師染、 歌仙落書)等、 類似した保を設定する近い時期の先行歌が存在する。 小田剛 『 守 笈法親王全歌注釈」(和泉街院 二00一年四月)参照。 (20) さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橘姫(古今 集.恋四・六八九・詠人不知) 0 . (21) 更け行けば鹿に一夜の宿偕りて月を片敷く小野の草臥し(正治 初度百首•秋・守撹法親王)、 哨れ慕り時雨ふるやの板間祖み月 を片敷く夜半のさむしろ(千五百番歌合・冬・八百八十六番左. 後鳥羽院)。 (22)田村楊登「後島羽院とその周辺 J (笠間術院 一九九八年十 一 月)、 石田吉貞「新古今時代と中世文学」下(北沢図杏出版 一九七二年十一月)、 室賀和子「錢也における西行」(「国語と国 文学」二00二年一月)等の論若を参照。 (23) 久保田淳 『 藤原定家 J (集英社 一九八四年十月 、 後 に「久保 田淳若作選集 第二巻 j (岩波由店 二00四年五月)所収)、 同 「藤原定家の虚構と現実」(「図説日本の古典」四「古今集•新古 今集 J 梨英社 一九七九年四月)、 同「中批和歌史の研究 J (明治 柑院 一九九三年六月)筍。 (24) 山綺桂子「正治百首の研究」。 (25) 惟明の島屈残りの三首については、「むら雀」「山必」「田 J と いった和歌に詠ぜられることの決して稀ではない島を扱っている が、 この中で「山鳥」「鴨」 の二首については、 六条藤家流の歌 学への関心が背保にあるのではないかと考えられる。 (26)久保田淳R利古今歌人の研究」、 赤羽淑 『 藉原定家の歌風」(桜 楓社 一九八五年四月)参照。 (27) 久保田淳 「藤原定家における「物」と「事」ー『万物部類倭 歌抄 j を中心としてー」(同 I 中世和歌史の研究 j 所収、 初出 は一九八八年)、 同「藤原定家ーーその「難義」に対する姿勢」 (「解釈と鑑賞 j ―九九二年三月、 後に「久保田浮労作選集 第 二巻 j 所収)半田公平「寂蓮の研究」(勉誠社 一九九六年三月)、 安井重雄「寂蓮と顕昭」(片捐洋一絹「王朝文学の本質と変容 韻文糧 j 和泉柑院 1100一年十一月)等の論若を参照。 (28) 当該歌は、「守立法親王家五十首 j における萩原有家の作「な がめやるをちの高嶺の山めぐり時雨を告ぐる木々の色かな」と初 二句が同 l であり、 低然の一致の可能性も皆無ではないものの 、 おそらくは有家歌を踏まえて上句の詞絞きが選択されたと考えて よいであろう。 (29) 山鮒桂子「正治百首の研究jo (30)「三宮十五首」の詠出年次については、久保田淳「「三宮十五首」 と「五人百首」」(同「中世和歌史の研究 j 所収 、初出は一九八四 年、 後に「久保田淳殺作選集 第二巻」所収)の考iiEに従う。 (たなか ひろき 岡山大学文学部助教授)

参照

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