<時間>の痕跡―プルースト『失われた時を求めて
』全7篇をたどる
著者
青木 幸美
学位授与機関
Tohoku University
学位授与番号
11301乙第9375号
URL
http://hdl.handle.net/10097/00124253
〈時間〉の痕跡――プルースト『失われた時を求めて』全
7 篇をたどる
青木幸美
目次
まえがき
――――――――――――――――――――――――(上巻)
1
序章 テクスト区分とクロノロジー
―――――――――――――――
9
はじめに 9 1.『失われた時を求めて』のクロノロジー(年代記)分析に意味があるか. 9 2. 「出来事」か「持続」か:クロノロジーの問題 11 出来事の実在性/時間の実在性/本書におけるテクストの12 区分 3.『失われた時を求めて』における大きな意味文脈:クロノロジーの意味 27 ミモロジック/解釈の可能性/歴史の美学:ミモロジックと解釈の可能性との交叉 4.〈時間〉を解読するということ 53第
1 章 不眠の夜 ―――――――――――――――――――――――
63
1.『サント=ブーヴに反論する』から『失われた時を求めて』へといたる 3 つの契機 64 「目覚めて眠っている人」:時間の構造化と中間的主体の発見/自由物語言説récit libre/ 夜と昼と病気の関係の変化 2.[1]「不眠の夜」の時間形成 69 [1]「不眠の夜」の一夜の擬似的推移 /[1]「不眠の夜」が対象とする期間/冒頭文の解釈(クレベールによる冒頭文の解釈/ヴュイヨームの「主虚構la fiction principale」と「二次虚構 la fiction secondaire」による分析/中村の冒頭文解釈)/ [1]「不眠の夜」のテクスト分析/[[CERTES P] MAIS Q] 3.[1]「不眠の夜」のクロノロジー 95 [1]「不眠の夜」が対象とする期間(「マドレーヌの体験」の日付/回想Ⅲ「スワンの恋」を始めた時 点/「不眠の夜」の始点/「不眠の夜」の終点/[12] 語り手の現在への移行期/不眠の夜のクロノロジー) 4.語り手と主人公,および「中間的主体」との関係 108 一日の区分/「めざめている人」と「眠っている人」/「まだほとんど目覚めていない眠 っている人である私」/「マドレーヌの体験」の特異性/語り手と主人公,および「中間 的主体」との関係,「昼」の物語は閉じられるか
第
2 章 コンブレーの時代 ――――――――――――――――――― 133
1.[2-1]「コンブレーⅠ」 136 [2-1]「コンブレーⅠ」の時間形成/「スワンが夕食に訪れた晩」のテクスト分析2.[2-2]「コンブレーⅡ」 163 「コンブレーの一日」の時間形成/[2-2]「コンブレーⅡ」のテクスト分析/[2]「コンブレ ーの時代」の時間形成 3.[2]「コンブレーの時代」のクロノロジーと参照される歴史的事象 192 「就寝のドラマ」と「レオニー叔母の日曜日」の日付/アシェによるコンブレーの時代の クロノロジー の問題点/「コンブレーの時代」のクロノロジー 4.「ミモロジック」の文脈のはじまり,読書の「六十分」 199 5.「フランソワーズとルグランダン氏についての考察」:「解釈の可能性」の文脈前史 208 6.なぜ「レオニー叔母の日曜日」が,「コンブレーの時代」の支柱になり得たか:千篇一律という こと 209
第
3 章 スワンの恋 ――――――――――――――――――――――― 229
1.[3]「スワンの恋」の時間形成 231 二重の3 部構造/[3]「スワンの恋」のテクスト分析:日々の推移,モチーフの反復 2.[3]「スワンの恋」のクロノロジーと参照される歴史的事象 273 [3]「スワンの恋」の想定される日付と,直接的な時の表示,季節の表示と参照される歴史 的事象/[3]「スワンの恋」の時代のクロノロジー 3.〈周期〉 284 恋の周期と「スワン神話」第
4 章 土地の名の夢想,パリのスワン家のほう―――――――――――
291
旅の夢想/[4]「土地の名の夢想」のテクスト形成 恋の夢想と現実/[5]「パリのスワン家のほう」のテクスト形成 1.[4]「土地の名の夢想」 296 「土地の名の夢想」日々の推移/プロローグ/歓喜の絶頂と病気/エピローグ 2.[5]「パリのスワン家のほう」のテクスト分析 307 [5-1]「パリのスワン家のほう 1:シャンゼリゼの頃」/[5-2]「パリのスワン家のほう 2: 夢想と現実が完全に一致した頃」/[5-3]「パリのスワン家のほう 3:恋の苦しみとその終わ りの頃」/[5-2]「パリのスワン家のほう 2:夢想と現実が完全に一致した頃」および [5-3] 「パリのスワン家のほう3:恋の苦しみとその終わりの頃」の時間形成/恋の迷路/「シャ ンゼリゼ」日々の場合分け,意味形成の展開 3.[4]「土地の名の夢想」,[5]「パリのスワン家のほう」のクロノロジーと参照される歴史的事象 389 4.物語の順序:「時間的関係」と「因果関係」 394 「時間的関係」と「因果関係」:文脈による制約/ヴィニュロンの「《元の》順序」第
5 章 バルベックⅠ ――――――――――――――――――――――
411
「バルベックⅠ」の3 つの区分1.[6]「バルベックⅠ」の時間形成 412 [6-1]「バルベックⅠ-1」の 7 つの区画/[6-2]「バルベックⅠ-2」の 7 つの区画/[6-3]「バ ルベックⅠ-3:夢想がふたたび自由になる」 2.[6]「バルベックⅠ」のクロノロジーと参照される歴史的事象 450 バルベックへ出発した日付/バルベックを去った日付/参照される歴史的事象 「バルベックⅠ」のクロノロジー 3.ミモロジック 459 現実のバルベック(1):バルベックの教会/現実のバルベック(2):エルスチールとの会 話
第
6 章 パリのゲルマントのほう ―――――――――――――――(下巻) 9
「パリのゲルマントのほう」の3 つの段階 1.[7]「パリのゲルマントのほう」の時間形成 13 [7-1]「パリのゲルマントのほう 1:ゲルマント公爵夫人」/[7-2]「パリのゲルマントのほう 2:社交界にデビューする」/ [7-3]「パリのゲルマントのほう 3:社交生活の絶頂期」 2.[7]「パリのゲルマントのほう」のクロノロジーと参照される歴史的事象 110 想定される日付/[7]「パリのゲルマントのほう」のクロノロジー/参照される歴史的事象 3.ミモロジック(ベルゴットとエルスチール,2 人のミモロジスム上の役目の終わり) 117 [7-1-1-2]「オペラ座:2 度目のラ・ベルマ観劇」/[7-3-2-1] 主人公がひとりでエルスチール の絵を見てからサロンに入るまで 4.解釈の可能性 139 「にせのパランプセスト」「にせの称号」/新たな解釈の視点:〈共時的視点〉と〈通時的視 点〉 5.「世代」の問題 145 ユーモアとイロニー 6.「まわり道」か? 作品の完成度をめざすか,「深化」をめざすか. 151 「遊びの美学」へ向けての「イロニーの精神」の深化第
7 章 バルベックⅡ ―――――――――――――――――――――
189
1.[8]「バルベックⅡ」時間形成 190 [8-1]「心情の間歇 Les intermittences du cœur」/[8-2]「嫉妬と疑惑の始まり」/[8-3] ラ・ ラスプリエール,初めてのヴェルデュラン家の晩餐会/[8-4] アルベルチーヌとの外出の 日々/[8-5] アルベルチーヌへの急旋回,二人でパリに発つ 2.[8]「バルベックⅡ」のクロノロジーと参照される歴史的事象 248 [8]「バルベックⅡ」のクロノロジー/参照される歴史的事象 3.ミモロジックの文脈:「夢想rêves」から「幻影 fantômes」へ 254 4.悲劇的要素と喜劇的要素 256第
8 章 アルベルチーヌの物語――――――――――――――――――
267
1.語り手による物語の区分 268 第1 の観点:最初の打明け話の時代のアルベルチーヌ/現在の,うそをつくアルベルチーヌ /第2 の観点:主人公がアルベルチーヌにたいして最初の見方をしていた時期/現在の見方 をしている時期/第五篇『囚われの女』にいたるまでのアルベルチーヌの物語/語り手の区 分による「アルベルチーヌの物語」に対応する物語とその時点/同棲生活の「二つの時期」 /アルベルチーヌとの愛の断末魔の物語/忘却の物語 2.プレヤッド新版第五篇『囚われの女』の要約 280 3.[9]「アルベルチーヌの物語」 のテクスト分析 282 [9-1]「アルベルチーヌとの同棲生活」の時間形成/ [9-2] アルベルチーヌが出奔した日から 恋の最終期まで/[9-3] 忘却の物語 4.[9]「アルベルチーヌの物語」のクロノロジーと参照される歴史的事象 395 参照される歴史的事象(シャム双生児の姉妹,ラーディカとドーディカ/ランドリュ事件) 5.解釈の問題:「うそ」について 403 機能不全におちいる「美学的論証モデル」/「うそ」という語彙の作中における分布/語り 手のうそ第
9 章 シャルリュス氏の物語:1916 年パリにもどって 5 日目の夜――― 411
1.主人公と,スワンおよびシャルリュス氏の物語:スワンからシャルリュス氏へ,シャルリュス 氏の人物像 413 これまでのシャルリュス氏にかんする物語/スワンとシャルリュス氏とが主人公の物語に おいて果たす役割/さまざまな登場人物によるシャルリュス氏像 2.[10]「シャルリュス氏の物語:1916 年パリにもどって 5 日目の夜」の時間形成 430 3.[10]「シャルリュス氏の物語」のクロノロジーと参照される歴史的事象 447 シャルリュス氏の後日談から割り出される日付 4.事故:主人公の「私」= 作家マルセル・プルースト = シャルリュス氏 451第
10 章 ゲルマント大公夫人邸のマチネの日 語り手の現在への移行期 ――
459
1.[11]「ゲルマント大公夫人邸のマチネの日」の時間形成 459 [11-1] シャンゼリゼでシャルリュス氏,ジュピアンと出会う/[11-2] マチネのサロンには いるまで/[11-3] マチネ:再認/[11-4]〈挿入〉後日談 :[12] 語り手の現在への移行期 2.[11] ゲルマント大公夫人邸のマチネの日,[12] 語り手の現在への移行期のクロノロジーと参照 される歴史的事象 494 ヴェルデュラン夫人の再婚の経緯 3.貴族の名 497 4.再認の意味 499終章 ――――――――――――――――――――――――――――――
505
1.テクストの 12 の区分と各テクスト単位が対象とする物語時間 505 2.『失われた時を求めて』のクロノロジー(年代記) 506 3.〈観念化された一日〉と「一日」の発見 510 4.クロノロジーの意味:「ミモロジック」と「解釈の問題」 516 5.1880 年生まれの一文学青年の精神史 521 6 .おわりに――ジャンルの問題:「よい小説」への扉を閉めること 529 あとがき ―――――――――――――――――――――――――――――――― 532 参照文献 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 533 人名索引 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 547要約
序章 テクスト区分とクロノロジー 本書の課題は『失われた時を求めて』全7 篇の時間形成を分析し,その意義を問うことである. まず,『失われた時を求めて』のクロノロジー(年代記)研究にかんして,「出来事の実在性」を優 先するか,「時間の実在性」を優先するかによって,タイプを 2 つにわける.その代表的な論考と して,前者ではアシェとスティールを,後者ではヤウスとジュネットをとりあげ検討した. つぎに,クロノロジーの意味を考える大きな意味文脈として本書で採りあげる「ミモロジック」 (言葉の夢想)と「解釈の可能性」を説明した.第1 の「ミモロジック」の文脈では,この用語を 生みだしたジュネットの論考をあげ,この文脈の射程を明確にした.第2 の「解釈の可能性」では, 本書がこの文脈を考えるきっかけとなったシャルルの論考を検討し,パランプセストとしての戦闘 を解釈するための「美学的論証モデル」を発展させた.これに対して主人公が提示する非論理的な モデルでは,特殊なものを一般的なもので説明すること(パランプセストの象徴的意味)が不可能 であることが示される. 最後に,本書のスタンスを明確にするために,リクールの「暦法的時間le temps calendaire」に 関する考察から,時間を解読することは,テクストに残されている痕跡の有意味性を参照される歴 史的事象との総合により問うことであることを確認した. 本書は,以下のように『失われた時を求めて』のテクストを 12 に区分し,本書の章構成はその 区分にしたがう. [1]「不眠の夜」…第 1 章,[2]「コンブレーの時代」:[2-1]「コンブレーⅠ」,[2-2]「コンブレーⅡ」…第 2 章, [3]「スワンの恋」…第 3 章,[4]「土地の名の夢想」…第 4 章,[5]「パリのスワン家のほう」…第 4 章,[6]「バル ベックⅠ」…第5 章,[7]「パリのゲルマントのほう」…第 6 章,[8]「バルベックⅡ」…第 7 章,[9]「アルベルチ ーヌの物語」…第8 章,[10]「シャルリュス氏の物語:1916 年パリに戻って五日目の夜」…第 9 章,[11]「ゲルマ ント大公夫人邸のマチネの日」…第10 章,[12]「語り手の現在への移行期」…第 10 章第1 章 不眠の夜 本章では,一般に「不眠の夜」と呼ばれている『失われた時を求めて』冒頭の夜の物語を分析し た.この夜の物語は〈観念化された一日〉によって表出されており,対応する擬似的時刻は夜中の 目覚めから夜明けまでであり,対象とする期間は,主人公が初めて病気の発作を起こした直後に医 者に早寝を命じられたときから,語り手の現在の直前までの二十数年間であることを示した.つま り,「不眠の夜」は『失われた時を求めて』が対象としている物語時間の〈夜〉全体を〈観念化され た一夜〉として表出したものである.このようにして,この作品はまず物語時間を〈夜〉と〈昼〉 とに分割することから始められていることを強調した. 本章では,イテラティフとサンギュラティフ,〈観念化された一日〉(擬似的時刻の推移を追うこ とによって形成されるイテラティフの一日:本書独自の用語)などの時間形成の形を示す用語,ヴ ュイヨームの「主虚構(主人公たち登場人物の世界)」「二次虚構(語り手と読者の世界)」という2 つの時間軸など本書において用いる用語を説明する.とくに冒頭文「長いあいだ,私は早くから床 についたLongtemps, je me suis couché de bonne heure.」をクレベールの解釈をもとに詳細に検討 し,直説法複合過去のもつ意義を明確にした. 第2 章 コンブレーの時代 本章では,「不眠の夜」の3 つの回想のうち,「回想Ⅰ」である「コンブレーⅠ」と「回想Ⅱ」で ある「コンブレーⅡ」とからなる「コンブレーの時代」を分析した. 「コンブレーⅠ」では,主人公の原体験である「就寝のドラマ」を詳細に分析した. 「コンブレーⅡ」のテクストには,〈観念化された一日〉の物語が2 つ見出される.「レオニー叔 母の日曜日」と「私の日曜日」である.これらは,おのおの別の構成をもっているが同時進行し, 〈朝〉〈昼〉〈夕食前〉の3 つの時間帯を共有する.「コンブレーの一日」は,「私の日曜日」の時間 割のなかに,午後の終わりから就寝までに対応する「コンブレーⅠ」と,メゼグリーズのほうとゲ ルマントのほうに分けられている「散歩」が対応する午後の何時間かがはいりこんで形成される. さらに,多くの語り手の言説がこのセリーに挿入され,全体として5 年にも及ぶ「コンブレーの時 代」が一日の時刻の推移の軸上に捉えられていることを明示した. 「レオニー叔母の日曜日」は,特に選ばれた特定の一日が観念化された〈観念化された特定の一 日〉である.その日付を1892 年 5 月 15 日と想定し,「コンブレーの時代」が,1890 年復活祭のこ ろからレオニー叔母の死の年である1894 年秋まで,主人公 10 歳から 14 歳になるまでの 4 年半ほ どの期間であるとした. 分析の結果,「レオニー叔母の日曜日」が,主人公が主役の一日ではないにもかかわらず,なぜ「コ ンブレーの時代」のテクストの支柱になり得たか,ということが最大の問題となる.〈観念化された 一日〉における抽象的時間は時間を廃棄するものである.レオニー叔母の生活がイテラティフで記 述される無味乾燥で図式的な紋切型であったからこそ「コンブレー」の支柱になり得たことを主張 した. 第3 章 スワンの恋 「スワンの恋」は,第一篇『スワン家のほうへ』第二部,不眠の夜の主人公が伝聞をもとに,生 まれる前に始まったスワンとオデットの恋の物語を回想し,それを語り手が直接語るこの作品全篇
において唯一の三人称のテクストである.独立したテクストとしてほとんど異論の余地のない緊密 な構成をもっている.全体が大きく3 つに分かれ,それぞれがさらに 3 つの部分に分かれる二重の 3 部構造を採っていることを明示した.この二重の 3 部構造に加えて,モチーフが繰り返しあらわ れることで,物語にリズムが生みだされていることを示した. テクスト分析として,「第 4 期:恋と嫉妬の迷路」をとりわけ詳細に分析した.この部分では物 語の時間的順序は存在せず,サンギュラティフの出来事は起こらない.しかしながら,スワンの内 的物語はクライマックスへ向かう.それは物語の展開によってではなく,語り手によって生み出さ れるクライマックスである.「二次虚構」においてイテラティフの場合分けにより物語を時間的順序 のない世界として表出し,語りによってクライマックスを創り出す,『失われた時を求めて』独自の 手法を明らかにした. 参照される歴史的事象の日付はただひとつ「パリ・ムルシア祭の日」(1879 年 12 月 18 日)のみ である.スワンがオデットと結婚したのは1889 年であると想定される.従来,スワンの恋の時代 が10 年と長すぎる不自然さから,この物語にクロノロジー的な一貫性はあるとしても内的なもの でしかありえない,単独の物語としての真実性はない,と考えられてきた.しかしながら本章では, 上層ブルジョワジーに属する一人のユダヤ人が上流社交界で成功するという神話,スワンという人 物設定が,歴史的に見て唯一この時代に実在性を帯びてくることを強調した. 第4 章 土地の名の夢想,パリのスワン家のほう 「土地の名の夢想」は「不眠の夜」の始まりを期す.「パリのスワン家のほう」は3 つの期間か ら形成されている.「パリのスワン家のほう1:シャンゼリゼの頃」,「パリのスワン家のほう 2:夢 想と現実が完全に一致した頃」,「パリのスワン家のほう 3:恋の苦しみとその終わりの頃」である. とくに,「パリのスワン家のほう1」において,物語が時間的因果関係を排除したかたちで表出さ れ,必然的に場合分けとイテラティフがあらわれる.この時間形成は,主人公の「原始心性」,「《原 始的》存在論の観念」と深く結びついており,さらにそこに語り手の意志を読みとることができる. つまり,語り手は「一回起性をもつ時間」を撥無しようとしていることを強調した.本章で最も問 題となるのは,「物語の順序」である.語られる順序と物語世界で出来事が起こった順序は文脈によ る制約がなければ容易に同一視され,出来事がおこった順序は,単なる時間的関係としてよりも因 果関係として理解される.「パリのスワン家のほう」では物語言説に容易にクロノロジーを想定させ る時間的順序がない.最も重要であるのはイテラティフの時間形成である.本章の分析は,1 冊に するには長すぎるという出版上の理由からテクストの順序の変更や削除などの修正を経たことによ り,「クロノロジー上の,そして心理上の混乱をきたしている」とする説に対する反証である.物語 言説に時間的関係も因果関係もみられないという点でこれまでの説は正しいが,それは,イテラテ ィフと場合分けによって物語の順序が不明なものとして表出され,二次虚構においてクライマック スが形成されていることからくるのであって,「混乱をきたしている」のではないことを強調した. 「土地の名の夢想」は主人公15 歳 1895 年復活祭のころであり,「パリのスワン家のほう」は同 年の夏から1897 年春までであると想定した.
第5 章 バルベックⅠ 主人公のこの1度目のバルベック滞在は1897 年 8 月初めから10 月末までの約3 か月間であり, 特筆すべきは,このテクストにおいて,ドレフュス事件が語り手以外の登場人物の口からはじめて 話題にされること,世紀末の世相や風俗をあらわす参照,および時代の世界情勢,政治経済にかん する参照が網羅的にあげることができないほど多いことである. 「バルベックⅠ」では,「パリのスワン家のほう」と同様に,主人公は〈周期〉を一巡してもとの 夢想の状態にもどる.3 つの物語が,順行的因果関係にそって展開される.主人公の夢想は,初め に作りあげていたバルベックの夢想と少女たちへの夢想の呪縛から自由になり,螺旋階段を一段階 上ることになる. 主人公のミモロジスムの教義では,「名」が示す「自分よりも現実的な....もの」に到達するために「無 意味な偶発事」である自己を撥無しなければならない.それが,この物語において,「自己でないも の」を捨て去ることによって「印象」をとらえようとするエルスチールの努力を知ったことで逆転 する.この逆転は,しかしながら,主人公の芸術にたいする信仰を一つの教義から別の教義へと移 行させることにはならず,その両者をともに「信用失墜させる」.以上のことを明らかにした. 第6 章 パリのゲルマントのほう 「パリのゲルマントのほう」は,ゲルマント家のもっとも内奥の,パリのゲルマント大公夫人邸 のサロンへと至る一本の行程であるということができる.「パリのゲルマントのほう」において初め てイテラティフよりサンギュラティフが優位になる.100 ページをはるかに超える〈長い一日〉が 3 つあらわれる.「初めてヴィルパリジ侯爵夫人邸のマチネに出た日」,「初めてゲルマント公爵夫人 邸の晩餐会に出た日」および「初めてゲルマント大公夫人邸の夜会に出た日」である.この3 つの 〈長い一日〉は「解釈の可能性」の文脈における3 つの段階に対応している. 第1 段階では,美学的論証モデルによる解釈の不可能性と解釈の失敗が提示され,第 2 段階では, 非論理的モデルによる解釈の試みが,第3 段階では,解釈の限界が記され,最後に,その解釈に「時 間」の要素が加えられ,「社交界そのものの変化」が問題になる.語り手は解釈に〈共時的視点〉と 〈通時的視点〉を導入する新たな可能性を見出す. ミモロジックの文脈では,2 度目のラ・ベルマ観劇において,演劇の夢想に決着がつけられる. そこでは作家ベルゴットが介入し,そのミモロジスム上の役割が終わる.他方,「パリのゲルマント のほう」は「貴族の名:名」と題をつけることができる.人の名,とくにゲルマントを初めとした 貴族の名が主人公の夢想の対象になる.夢想は「解釈の可能性」と絡んで発展する.この2 つの文 脈が「ゲルマント公爵夫人邸の晩餐会」で交叉し,語り手の「歴史の美学」が展開される. 本章では,「バルベックⅠ」以降顕著になる語りの「イロニー」を二次虚構における「遊びの美学」 として考え,それをプルーストの「イロニーの精神」の深化のあらわれであるとした. 主人公はヴィルパリジ侯爵夫人邸のマチネで社交界デビューをはたすのであるが,このデビュー はドレフュス事件の荒れ狂う1898 年に設定されている.第一次世界大戦をのぞけば,史実と物語 時間とがある程度の持続をもって緊密に呼応するのは,『失われた時を求めて』のなかでこの年のみ である.この1898 年を軸にして主人公の年齢が定められ(この年 18 歳であると推定される),作 品のクロノロジーが構成されているということができる.ドレフュス事件にかんする史的参照事項
の多さとその詳細さは特筆すべきものである.さらにプルーストの当時の社会状況にたいする関心 はそれ以外にも多岐にわたっていることを明記した. 「土地の名の夢想」と「パリのスワン家のほう」で約2 年 4 か月間(1895 年 2 月~1897 年 5 月), 「バルベックⅠ」は約3 か月間(1897 年 8 月初め~10 月末),「パリのゲルマントのほう」は約 2 年5 か月間(1897 年 11 月~1900 年復活祭の頃),「バルベックⅡ」は約 5 か月間(1900 年復活祭 4 月 15 日頃~9 月 15 日)であると想定した.「スワン家のほう(メゼグリーズのほう)」と「ゲル マントのほう」が,コンブレーだけでなくパリにおいても対照をなしていることを強調した. 第7 章 バルベックⅡ バルベック滞在は二度目である.語り手は「夢想の場面」と「記憶の場面」を同列にして,「現実 の場所」と対比させる.「夢想の場面」を「現実の場所」に見出そうとすることと,「記憶の場面」 を「現実の場所」に見出そうとすることとは,同様に不可能である,つまり,意図的に,意志によ って「反復」を望むことが不可能であるという主人公の考えが,「バルベックⅡ」では今後,何度も 示されることになる.その際,主人公が偶然に翻弄されていることを強調した. 「ラ・ラスプリエール,初めてのヴェルデュラン家の晩餐会」において,ミモロジックの文脈, 主人公の「土地の名の夢想」がブリショの語源談義の洪水によって終わりを告げる.「夢想」は「幻 影」と呼ばれるようになる.晩餐会の〈長い一日〉では会話が錯綜して,過剰なポリモダリテがあ らわれ,語り手の過剰な解釈がその一日を締めくくる.この一日の喜劇性を強調した. とくに,「アルベルチーヌとの外出の日々」において,イテラティフの擬似的セリーにサンギュラ ティフの出来事が挿入されて,因果的順序が判明するものと不明なものとが混ざり合って表出され, 日々の推移の複雑な形成が見られることを示した. 第8 章 アルベルチーヌの物語 語り手はアルベルチーヌとの愛の物語を自ら区分している.本章の第1 の課題は,この語り手の 区分と時間形成およびクロノロジーとの対応関係を整理することである. 第五篇『囚われの女』全体がパリでの同棲生活に充てられている.同棲生活の第1 期と第 2 期の はじまりがそれぞれ〈観念化された一日〉として表出される.つづく「ヴェルデュラン家の夜会が あった日」は〈長い一日〉である.ついでその後のアルベルチーヌとの日々がイテラティフで語ら れる.同棲生活最後の4 日間はサンギュラティフのセリーである.時間形成はイテラティフ→サン ギュラティフ→イテラティフ→サンギュラティフと移行する.1900 年 9 月 15 日から 1901 年 3 月 末までの半年ほどの物語である. 本章では,「パリのゲルマントのほう」においてミモロジックの信仰が消えたあとでも,主人公が 生きる欲望を失わなかったのは,夢の障害であるアルベルチーヌがそばにいたからであるという逆 説を明らかにした.アルベルチーヌの死後,主人公は生きる欲望さえ失くしてしまう.アルベルチ ーヌのうその解釈の過程で,「美学的論証モデル」は機能不全に陥る. 第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』は,アルベルチーヌが出奔して落馬事故で死んだのちの「愛 の断末魔」の物語と「忘却の物語」からなるが,この第六篇には異本がある.グラッセ版『消え去 ったアルベルチーヌ』(1987 年)である.プルーストは最後に物語を大幅に削除した.2 つの異本 の相異とその意義を考えることが本章の第2 の課題である.
グラッセ版ではこの第六篇の主題が大きな変更を受けている.主人公のアルベルチーヌに対する 恋の最終期と忘却の物語,つまりアルベルチーヌの存在のすべてを受け入れるに至る主人公の苦悩 の物語としてではなく,アルベルチーヌの生と死の物語として提示される.そして「ゴモラの世界」 が主人公のいわば妄想の物語としてのみ小説世界にあらわれることになる.第六篇が縮小されたの は,「ゴモラの世界」を表出する物語のテクストが「遊びの美学」の美意識とプルーストの「モラル」 の意識とにそぐわなくなったからではないか,と考えられる. タンソンヴィル滞在後,主人公はサナトリウムにはいって療養に専念することになる日付を1902 年夏と想定した. 第9 章 シャルリュス氏の物語:1916 年パリにもどって 5 日目の夜 シャルリュス氏という最後まで解釈不可能な人物の物語が,「解釈の可能性」の文脈の初めから終 わりまで並走している.シャルリュス氏は,主人公にとって解釈にたえず影響を与え,警鐘を鳴ら しつづける存在であることを確認した. シャルリュス氏の「1916 年パリにもどって 5 日目の夜」の物語は,第一篇『スワン家のほうへ』 出版時(1913 年)の初めのプランにはなかった.この物語があらわれた意義を考えたとき,時間の 重層性や視点の重層性といった『失われた時を求めて』の一般的評価をはなれて,一つの「わけの 分からない人物」の典型を創造したことの意味を考えなければならない.また,作品の「遊びの美 学」の深化と,語り手が「信頼できない語り手」であることをこれほど雄弁に語るものはない. 主人公は1916 年,第 1 次世界大戦の最中,パリにもどり,その 5 日目の夕食後,ヴェルデュラ ン夫人に会いに行こうと家を出て,シャルリュス氏と出会う.そこから主人公とシャルリュス氏と の最後のたたかいが始まる.この場面でのシャルリュス氏の長広舌は,作中もっとも長い直接話法 で記された発話である.変.であるのはシャルリュス氏がする話だけではなく,主人公も語り手も変. である.本章では,ランシエールの論考を検討し,プルーストの野心が「よい小説」を書かないこ とにあり,そのことが逆に文学への信頼を表わしていることを明らかにした. シャルリュス氏死後の後日談によって,この作品のラストシーンが1919 年であり,主人公が氏 の手紙を読むという出来事がこの作品のクロノロジーの最後,1926 年であると想定した. 第10 章 ゲルマント大公夫人邸のマチネの日 語り手の現在への移行期 「ゲルマント大公夫人邸のマチネの日」,主人公は 3 つの段階を経て無意識的想起から文学に関 する思考へと移行する.その過程が平坦なものではなく,かなり切羽詰った状況であったことを, 「ちょうどjustement」の用法によって示した.ついで,マチネのサロンに入った主人公は,思考 の第 4 段階に至る.ここで主人公は単に作家になりたいのではなく,「大作家」になりたいのだと いうことが分かる.マチネで主人公が経験する「再認」の神秘は,「時」を見出すこと,「死」を受 け入れることと同等である.ゲルマント大公夫人邸のマチネの日が「見出された時」のクライマッ クスとアンチクライマックスを含んでいることを明らかにした.最後に,語り手は主人公の「私」 を「時間の中に」置きざりにしたのだとする本書の解釈を示した.
終章 本章では,まず本書の12 のテクスト区分が対象とする物語時間を明記し,作品のクロノロジー を完成した.これにより,小説世界のクロノロジーと持続時間,参照される歴史的事象が,ほぼ整 合していることが判明した.クロノロジーは正確であり,時代を記述しようというプルーストの意 志は明白である.さらに,物語の進行につれて,主人公と語り手との距離が大きくなり,「主虚構」 と「二次虚構」の距離が離れていくことが確認できる. 通説では,『失われた時を求めて』は,最後に主人公と語り手とが合流して円環を形づくる「虚構 の自伝」であるとされてきた.これに対し,本書は,まったく逆の事態を明らかにした.主人公は 語り手と合流せず,作品は円環を形成しない.語り手は主人公を閉じられた物語時間である「主虚 構」という「パラレルワールド」のなかに置きざりにした.主人公は「書けない文学青年」の典型 となり,語り手は「二次虚構」の現在にあって,読者とともに生き続けていることになる. クロノロジーは,作品の物語世界を「外界」とつないで現実の時間によって埋め合すのみならず, 主人公が19 世紀から 20 世紀への転換期を生きた「無名の一文学青年」であり,「書けない文学青 年」の典型であることを示すために必要不可欠だったと考えられる.多種多彩で特殊な歴史的事象 を作中に書き込んだプルーストの情熱が理解できる. 語り手はシャルリュス氏の物語によって「よい小説」へとむかう扉を閉め,最終的に主人公を物 語時間のなかに置きざりにすることによって,よい..「虚構の自伝」への扉をも閉める.今後,主人 公の精神史と時代とのかかわりを検証することで,この時代の文学の諷刺.....としての『失われた時を 求めて』の様相が浮かび上がってくるであろう.