はじめに
高野六郎︵一八八四∼一九六〇年︶は戦前期の衛生行政に携 わり、一九二〇年代に公衆衛生の向上のため汲取便所の改良に 熱心に取り組むなど、感染症予防対策に尽力したことで知られ ている。他方で、癩予防法︵一九三一年︶制定当時、内務省衛 生局予防課長の職にあって同法の制定に一定の役割を担ったと 考えられる。 本 稿 で は 、 高 野 が 手 が け た 衛 生 行 政 の 施 策 に お い て 、 一 見 、 関連が希薄に見える汲取便所の改良による公衆衛生対策と癩予 防法によるハンセン病の隔離政策との接点を通して、彼の衛生 思想の理論的一貫性を指摘し、その一貫性は彼がその必要性を 力説した予防医学の枠組みのなかで理解可能であることを述べ てみたい。 以下では、まず高野が予防医学を重視したことについて触れ たあと、改良便所への取り組みと癩予防法の隔離政策について の彼の考え方を整理したうえで、改良便所と隔離政策の共通点 を彼の衛生思想の側面から考察する。一
高野六郎の予防医学への関心
高野六郎は大正末期から戦前昭和期にかけて内務省衛生局予 防課長および厚生省衛生局長として、日本の公衆衛生行政にお い て 指 導 的 役 割 を 担 っ た 人 物 の 一 人 で あ り 、 今 日 と 比 較 し て 、 予防医学に関心が薄かった当時、その重要性と必要性を説くと ともに、それを自ら実践した医学者であり医系技官である。 最初に、本稿に関係する範囲で、大学卒業後の略歴を一瞥し ておこう。 高野は一九〇九年一二月に東京帝国大学医科大学を卒業する と、翌年一月に内務省伝染病研究所に技手として入る。しかし、堀口
良一
高野六郎の衛生思想
改良便所と癩予防法の接点
一九一四年一〇月、伝染病研究所の文部省移管にともない、所 長の北里柴三郎︵一八五三∼一九三一年︶が辞職を決意するや、 高 野 ら 所 員 は ﹁ 所 長 と 行 動 を 共 に し 、︹ 中 略 ︺ 連 袂 辞 表 を 提 出 し ﹂、 研 究 所 を 辞 職 ︵注 1 ︶ 。 一 九 一 四 年 一 一 月 、 北 里 が 設 立 し た 北 里 研究所に助手として移り、また一九一七年一一月から一九一九 年一二月にかけて欧米に留学する。この間、一九一八年七月に 細菌学分野における﹁補体結合作用に関する研究﹂で京都大学 より学位を取得し、帰国直後の一九二〇年一月から北里が創立 に尽力した慶応義塾大学医学部教授︵同年九月より北里研究所 兼務︶に就任、さらに、一九二三年四月、内務省に転じ、衛生 局予防課長として衛生行政に携わる。一九三八年一月には、厚 生省の新設にともない、厚生省予防局長に就き、一九四二年六 月に退官している。この間、一九三九年に結核予防会の設立に 関わり、結核予防にも尽力した。戦後においては、北里研究所 の 理 事 ・ 副 所 長 を 経 て 、 一 九 四 九 ∼ 一 九 五 〇 年 に 所 長 に 就 任 。 ま た 、 一 九 五 二 年 に 藤 楓 協 会 ︵注 2 ︶ の 設 立 に 関 わ り 、 同 年 よ り 一九五九年まで同協会の理事長︵初代︶を務め る ︵注 3 ︶ 。 略歴に見るとおり、高野は細菌学の研究を出発点とし、予防 医学に強い関心を示して衛生行政に携わった戦前期の官僚であ り、戦後は民間人として北里研究所や藤楓協会で指導的役割を 果した。 経歴のなかで、彼が一九二三年に慶應大学医学部から内務省 に転出した点は、唐突な印象を受けるが、衛生行政に以前から 関心を抱いていたことを考慮すれば、決して唐突ではない。実 際、慶應大学医学部に一九二〇年一月に病理細菌学教室の﹁細 菌 学 教 授 ﹂ に 任 命 さ れ る と 同 時 に 、﹁ 病 理 細 菌 学 教 室 の 創 立 と 共に其一部に衛生学教室が設けられ高野六郎博士がこれが指導 に任じ﹂ 、彼は当初から細菌学と衛生学の両方を担当してい た ︵注 4 ︶ 。 この衛生学教室は、のち予防医学教室に発展し、転出後におい ても、引き続き講師として在職してい る ︵注 5 ︶ 。つまり、高野は慶応 在職時に衛生学︵予防医学︶の研究・教育に携わっていた。 それでは、高野は、いつから予防医学に関心を持ち始めたの であろうか。本稿の範囲を超えるので、ここでは、その可能性 について二点のみ指摘するにとどめよう。 まず一点目は、留学中の影響である。 当初、衛生行政に興味がなかったと言われる高野が、留学中 に﹁衛生学者との交流﹂を通して受けた影響であ る ︵注 6 ︶ 。すなわち、 留学体験が、のちの衛生行政への関心へと向かわせた可能性が ある。 二点目は、北里の影響である。高野は大学卒業後、北里が所 長を務める内務省伝染病研究所に入り基礎医学の研究に携わる が、その間、師と仰ぐ北里の予防医学についての見識について も感化を受けた可能性がある。北里は一八七八年に書いた演説 会用の原稿﹁医道論﹂で、医学の究極の目的が予防にあること
を説いているからであ る ︵注 7 ︶ 。 これに加えて、高野の予防医学への熱意は北里の影響の可能 性以外に、北里がドイツで研究したときの指導教授であるロベ ルト・コッホ︵一八四三∼一九一〇年︶からの間接的な影響も 感 じ ら れ る 。 た と え ば 、 高 野 は コ ッ ホ の 自 伝 を 著 し て い る が 、 その中で、コッホの研究態度について、次のように描写してい る。 コッホはフリードリッヒ・ウィルヘルム大学医科正教授に 任命され、衛生学教室の主任を命ぜられたが、五年ばかり でやめた。先生としても最良の先生として評判がよかつた らしいが、彼は自分の本領が教育にあるのではなく、研究 にあることを自省して、伝染病研究所へ移つた。実は彼は 先生がすきでなかつたのだ。そして 彼の研究は単に研究の 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ための研究でなく、それを実地に応用して、伝染病を予防 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 し、治療し、人類の健康を向上することを目ざしていた 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の である。 ︵旧字体は一部改めた。以下 同 ︵注 8 ︶ 。傍点引用者。 ︶ 高野はコッホの自伝を書きつつ、自らの姿を重ね合わせてい たのではなかろうか。事実、高野も医学部教授には長く留まら ず、教育よりも研究とそれを﹁実地に応用﹂する衛生行政に自 らの﹁本領﹂を発揮したように思われる。そうだとすれば、高 野はコッホからも予防医学に対する考え方について多かれ少な かれ影響を受けていた可能性があ る ︵注 9 ︶ 。 こ う し て み る と 、 高 野 が 目 指 し た も の は 、 細 菌 学 や 衛 生 学 ︵ 予 防 医 学 ︶ の 基 礎 医 学 研 究 そ れ 自 体 で は な く 、 そ う し た 研 究 を踏まえたうえでの実地への応用、すなわち衛生行政にあった と い え る 。 高 野 が 衛 生 行 政 を 担 っ た の は 、 一 九 二 三 年 か ら 一九四二年にかけての二〇年近くに及び、年齢では、ほぼ四〇 代から五〇代に当たる時期にあり、生涯で最も熟した時期を衛 生行政の職務に捧げたといえる。 以下では、第二章および第三章で、この時期に高野が関わっ た衛生行政の施策として、汲取便所の改良とハンセン病隔離政 策をそれぞれ取り上げ、その衛生思想について整理する。それ を受けて、第四章で、この二つ施策が高野において理論的に一 貫性を持つものであり、彼の理論を﹁実地に応用﹂する取り組 みであったことを示そう。
二
改良便所︵一九二七年︶
高野六郎は、一九二三年に慶應大学医学部教授から官に転じ て 、﹁ 内 務 省 衛 生 局 へ 入 つ た 時 、 何 よ り も 先 に や つ て 見 た か つ た の は 便 所 の 改 良 で あ つ た ︶10 ︵注 。﹂ と 、 厚 生 省 在 職 中 に 刊 行 し た 著 書﹃便所の進化﹄の中で、当時を振り返っている。そして、この ﹁ 気 味 の 悪 い 厄 介 な 仕 事 ﹂ に ﹁ 三 年 ﹂ 費 や し 、﹁ 内 務 省 式 改 良便池﹂ ︵以下、 ﹁改良便所﹂と呼ぶ︶が完成したという。この 改 良 便 所 は 、﹁ 生 涯 自 慢 の 種 ﹂ と い う ほ ど 高 野 が 心 血 注 い で 考 案した衛生施設であっ た ︶11 ︵注 。その奮闘ぶりは、高野の次の描写に、 よく表れている。 武蔵野の角、大宮氷川神社の森の梢がほの見える邊の雑木 雑 草 の 中 に 吾 等 の 研 究 所 が あ る 。︹ 中 略 ︺ さ て 何 を 検 ら べ て居るのかと云ふ段になると誠に天下一品の研究所である。 研 究 所 内 へ 大 切 さ う に 並 べ た 便 池 の 数 が 幾 千 あ る こ と か 、 それが何れも充満と黄金色の糞汁が盛られて居る。勿論そ の糞汁中には寄生虫の卵があるし、或は﹁チブス﹂菌が含 まれて居る。其の幾千となき便池から毎日少々づつ糞を小 出しにして来ては培養実験とか顕微鏡検査とかをやる。時 に或は糞洗ひといふことをやる。検査する糞を水でうすめ て、中から寄生虫の卵だけを洗ひ出すのである。便池の底 から検査材料を取らうといふので、細長いガラス管を差し 込んで口で吸ひ上げる。是は糞吸ひである。アムモニアの 臭気が喉から鼻へ抜けるし、間違つたら糞汁の正身まで口 中へ襲来せぬとは限らぬ。農夫が糞をつかむとか、糞汁を 口に含んで純否を検するなどといふことを異常事として伝 へる者もあるが、吾等は自ら糞裡に没頭し糞虫の生活をし つゝ糞の研究をして居るのである。糞臭、糞色、糞容など は物の数でもない。吾等の研究材料の糞汁内には寄生虫卵、 チブス菌等の危険物が横溢して居るのであ る ︶12 ︵注 。 ここには、高野ら衛生局の職員が、悪臭を放つ研究所で感染 の危険と向き合って長期間にわたり﹁糞の研究﹂に奮闘した様 子が見て取れる。 ところで、衛生官僚の高野が改良便所を﹁生涯自慢の種﹂と 自画自賛する理由は何であろうか。確かに、誰もが忌避し手を つけなかった便池の﹁寄生虫卵、チブス菌等の危険物﹂を研究 するという珍しい研究に取り組んだことは﹁自慢﹂に値するで あろう。しかし、むしろ彼が﹁自慢﹂し、誇りに思っているの は 、 便 所 を 改 良 す る こ と に よ っ て 公 衆 衛 生 が 飛 躍 的 に 向 上 し 、 国民の健康を大いに増進できると考えたからである。彼は言う。 幸にペストやコレラは日本の風土に向かないと見えて、時 に 襲 来 す る こ と が あ つ て も 決 し て 長 く 逗 留 し て く れ な い 。 ︹ 中 略 ︺ 所 が 腸 チ ブ ス や 赤 痢 と な る と 、 欧 米 の 一 流 国 に は 極 め て 少 い 。︹ 中 略 ︺ そ れ が 日 本 に は 非 常 に 多 い 。︹ 中 略 ︺ かうなると日本は何を置いても此の消化器伝染病を撲滅せ ねばならなぬ責任を感じて来る。日本は景色は宜いがチブ スが怖いなどゝ海外からの旅客に恐怖せしめるのは決して
名誉ではない。其所で我々は第一に消化器伝染病予防の策 を立てねばならぬ。よく考へて見ると消化器伝染病は実は 屎 尿 伝 染 病 な の で あ る 。︹ 中 略 ︺ 其 所 で 何 よ り も 先 に 手 を つけねばならぬのは屎尿の処理である。即ち便所の改良で あ る ︶13 ︵注 。 第 一 次 大 戦 後 の 国 際 社 会 に お い て 、 日 本 を ﹁ 欧 米 の 一 流 国 ﹂ と比肩する風潮は当時、高まっていたし、高野が国家の官僚と して国家の体面を意識することは、職業柄、当然であろう。し かし、ここで注目したいのは、高野が衛生官僚として消化器伝 染病を撲滅し、衛生面でも﹁一流国﹂にすることに﹁責任を感 じ て ﹂ い る 点 で あ る 。 つ ま り 、﹁ 一 流 国 ﹂ た り う る 重 要 な 条 件 の一つして国民の衛生状態を改善し、健康増進を図ることは衛 生 官 僚 の 使 命 だ と 認 識 し て い た こ と で あ る 。 高 野 は 、 い う 。 ﹁ 自 ら 善 事 を 決 行 し て 、 実 際 の 施 設 を す る の が 衛 生 の 本 当 で あ る ︶14 ︵注 。﹂ 。 す な わ ち 、 強 い 使 命 感 だ け で な く 行 動 力 を と も な っ て 、 国民の衛生状態の改善に力を注いだといえる。その気概は次の 描写に明瞭にあらわれている。 目下の吾等の糞便研究所は﹁コレラ﹂や﹁ペスト﹂の急性 な火事場騒ぎとは異つて幾年の長時日に亙る慢性の仕事だ から尚のこと勇気が必要である。誰も賞めても呉れないし、 格別恩賞にあづからうといふ目当もないが、此も一種の好 事、目標は国民の健康保全である。電車に乗るときまつて 顔を見られる。糞の臭気と消毒薬の臭ひとが混淆して特異 の香気を発散するからである。顔を見られるこちらも慣れ 切つて平然たるものである。国民感謝の標的にでも立つた つもりで宜い気持になつて納まつて居 る ︶15 ︵注 。 このように格闘した研究成果が改良便所として提案されるこ とになるが、その要点は﹁屎尿の処理﹂の工夫にあった。屎尿 に つ い て 高 野 は 次 の よ う に 述 べ て い る 。﹁ 屎 尿 は 正 に 危 険 な る 汚 物 ﹂ で あ り 、﹁ 屎 尿 の 危 険 な の は 、 そ れ が 消 化 器 伝 染 病 の 病 原 菌 を 含 む で 居 る こ と と 、 寄 生 虫 の 卵 を 含 む で 居 る こ と に よ る ︶16 ︵注 ﹂。 つまり便所を改良するのは屎尿が危険だからである。それゆ え、屎尿の危険性を取り除くことが必要となるが、その最も確 実で効果的な方法は、 ﹁糞便を小便と混じて置いて腐敗させる﹂ ことであるという。そして、その実際的な方法には二種類あり、 一 方 は 、﹁ 汲 み 出 し て か ら 一 定 期 間 肥 溜 の 中 へ 貯 へ て 置 き 、 腐 敗消毒が完了してから始めて肥料に使用﹂する方法であり、他 方 は 、﹁ 便 池 を 改 良 し て 、 屎 尿 を 出 来 る だ け 長 く 便 池 内 に 貯 へ ておくやうにし、且つ新旧の混淆を妨げ、最も古くて消毒の済 む だ 部 分 か ら 汲 み 取 ︹ り ︺︹ 中 略 ︺ 肥 料 に 供 ﹂ す る 方 法 で あ る
と述べ る ︶17 ︵注 。 両者のうち、前者は、 ﹁糞尿を三ヶ月位貯蔵することが必要﹂ で あ り 、 こ れ を 実 行 す る こ と は 現 実 的 に 容 易 で は な い と し て ︶18 ︵注 、 後者の﹁便所から汲み出すなり直ぐ肥料に供しても安全﹂な便 所の改良について研究を進 め ︶19 ︵注 、次のようにいう。 便 所 の 改 造 は 第 一 に 蝿 を 入 れ な い 構 造 で あ ら ね ば な ら ぬ 。 第二に寄生虫卵を抑留して汲み出されないやうにするもの でなければならぬ。第三に腸チブス菌、赤痢菌の属を便池 内で消毒してしまふものでなければならぬ。以上の三要点 を具備した上に、他の改善は如何やうとも考案を運らすが よ い ︶20 ︵注 。 高 野 は 、 こ う し た 知 見 を 踏 ま え て 、 従 来 、 一 槽 式 の 便 池 で あ っ た 便 壺 を 改 良 し て 、 多 槽 式 の 便 池 に 替 え る こ と で 、﹁ 糞 尿 を安全化すること﹂ができると結論す る ︶21 ︵注 。 改良便所の構造については、一九二七年に内務省衛生局が発 行した冊子﹃内務省実験所考案 改良便 所 ︶22 ︵注 ﹄では五槽式の便 池 ︶23 ︵注 が 取 り 上 げ ら れ て い る が 、 冊 子 の 説 明 に よ れ ば 、﹁ 研 究 の 結 果 ︹ 中 核 ︺ 四 枚 の 案 を 標 準 と し た の で あ る が 、 寄 生 虫 卵 だ け な れ ば︹中核︺二枚でも略安全である。理論上は中隔の数を増すに 従つて愈々安全の度を加へ る ︶24 ︵注 ﹂としており、改良便所にも多槽 式の構造によって幾つかの種類が存在するが、以下では、改良 便所の最も基本的な構造を有している三槽式について、高野自 身 の 著 書 で あ る ﹃ 便 所 の 進 化 ﹄︵ 一 九 四 一 年 ︶ を 手 が か り に 検 討しよう。 そ れ に よ れ ば 、 改 良 便 所 の 便 池 の 重 要 な 役 割 は 、﹁ 便 槽 を 幾 つかに仕切つて、旧い部分から順次に押し出されて安全な肥料 として汲み出され、新鮮危険な部分は入口の方に停滞して居て、 逐 次 押 し す ゝ め ら れ 、 約 三 ヶ 月 に し て 汲 み 出 さ れ る と い う 工 夫 ︶25 ︵注 ﹂にあるとして、彼は次のように説明する︵図1、参照︶ 。 図1 改 良 便 所 ︵ 出 典 高 野 六 郎 ﹃ 便 所 の 進 化 ﹄ 厚 生 閣 、 一九四一年、四八頁︶
便池はコンクリートの箱でⅠⅡⅢの三室に分れ、Ⅰ室の上 壁 が 大 便 器 の 裾 の 土 管 を 受 け て 居 る 。︹ 中 略 ︺ 便 器 に は 蓋 をおいて密閉するから、Ⅰ室は完全に閉ざされて蠅が入ら ない。Ⅰ室の上方に掃除用の非常口があるが、之も平素は 密封されて居る。蓋をとつて見ても汚物面は遥に下の方で あり、窓からの光線も其の辺まで射入するのは少量だから 汚物も殆ど目に入らない。且つ又Ⅰ室から用便室の方へ空 気が逆流しない限り、汚物の臭気は問題にならない。要す るに、閉鎖式の糞溜であ る ︶26 ︵注 。 そして、三槽式の便池のそれぞれの役割とその必要性につい て、次のように説く。 Ⅰ室とⅡ室との間の隔壁は下方が欠けて居て、Ⅰ室の汚液 は徐ろに下方でⅡ室へ移る。Ⅰ室では新しい糞塊や、尿や、 拭き紙やが混淆し、腐敗し、分解し液化し、多少の沈殿物 を残しつゝⅡ室へ移行する。此の沈殿物と、Ⅰ室の上表に 浮いて居る浮遊物とが漸次Ⅰ室を占領することになるので、 非常口を設けておいて、時に之を掻き出し、一応之を汲取 槽︵Ⅲ室︶へ入れておいて、成る可く長時間を過ぎてから、 汲み去る様にすれば問題はない。但し非常口は全く非常用 の口なのだから、之を開けておいて、Ⅰ室の内容を随時汲 み取るやうなことがあつては、折角の改良便池が何の役に も立たない。 Ⅱ室の上層が徐ろにⅢへ溢れ落ちる。Ⅱ室とⅢ室との境 目は上の方が切れて居て、Ⅰ室の方へ新しい投下物がある に従つてⅡ室からⅢ室へ移行するのであるから、此のⅡ室 で は 比 重 の 大 き い も の は 下 の 方 へ 沈 殿 し て 、 軽 い も の か 、 液化した成分だけがⅢ室へ移 る ︶27 ︵注 。 ところで、この三槽式の便池を整えることで、果たして寄生 虫卵および細菌は死滅するのであろうか。高野の実験結果によ れば、寄生虫卵については﹁比重が糞尿液よりも重いので、Ⅱ 室 が ママ 静 か に し て 居 れ ば 、 寄 生 虫 卵 は 皆 底 の 方 へ 沈 ん で し ま ふ ﹂ た め 、﹁ Ⅲ 室 へ は 寄 生 虫 卵 は 全 く 出 て 来 な い ﹂ し 、 ま た 、 細 菌 に つ い て も 、﹁ Ⅲ 室 に 入 る こ と が あ る が ﹂、 そ れ は ﹁ 極 め て 稀 ﹂ であり、寄生虫卵より﹁細菌の方が死に易く﹂ 、そのため、 ﹁Ⅲ 室は単に安全肥料の貯へ場﹂として設計されているとい う ︶28 ︵注 。つ まり、従来の一槽式の汲取便所を三槽式に改良することで、屎 尿を感染源とする感染症は予防できるとするのが高野の発想で あっ た ︶29 ︵注 。 他方、コスト面では、問題ないのであろうか。コンクリート 造の三槽式便池を配備した便所となると、確かに、従来の一槽 式の汲み取り式便所や、あるいは便壺に屎尿を貯める便所とは
異なり、改良の手間やコストを要すると思われる。しかしなが ら 、 高 野 は 、﹁ 今 ま で 瓶 を 埋 め 、 そ の 周 辺 を コ ン ク リ ー ト 塗 り にした代りに、四角な箱型の便池をおき、便器と便池とを土管 で つ な ぐ と い ふ だ け の こ と ﹂ に 過 ぎ ず 、﹁ 在 来 の 汲 取 便 所 に 比 して決して大がゝりのものではない。 ﹂と説明す る ︶30 ︵注 。 で は 、 実 際 の 効 果 に つ い て は 、 ど う で あ ろ う か 。 高 野 は 、 ﹁ 農 村 の 全 戸 に 改 良 便 池 を 築 造 し て 其 の 実 績 を 検 べ て 見 た が 、 消化器病伝染病の発生を見ず、寄生虫卵の保有率は著しく低下 し﹂たと述べてい る ︶31 ︵注 。この農村が、どこであるかは﹃便所の進 化 ﹄ で 触 れ て い な い が 、 他 書 の 中 で 、﹁ 滋 賀 県 滋 賀 郡 滋 賀 村 大 字 山 中 ﹂ で 、 実 際 に 、﹁ 部 落 民 協 力 し て 一 夏 の う ち に 全 住 宅 の 便 所 を 改 善 し て 、 一 戸 残 ら ず 内 務 省 式 の 改 良 便 所 と な ︹ り ︺﹂ 、 良好な実績を得たとして、この村を﹁改良便所模範村﹂と称揚 してい る ︶32 ︵注 。また、これ以外に、国立ハンセン病療養所長島愛生 園 に お い て も 、﹁ 島 内 の 便 所 は 悉 く 改 良 便 所 に な つ て ゐ る ﹂ と 高野は記してい る ︶33 ︵注 。模範村がどこであれ、高野は実際の運用に まで付き合って検証している徹底した態度は見事である。
三
癩予防法︵一九三一年︶
高野がハンセン病と関わりを持ったのは早く、内務省伝染病 研究所に入ってから﹁間もなく目黒の慰廢園の医務も受持つこ とゝなつた﹂時期に遡 る ︶34 ︵注 。つまり、一九一〇年ごろである。慰 廢 園 は 一 八 九 四 年 に 東 京 府 下 荏 原 郡 目 黒 村 下 目 黒 に 好 善 社 ︶35 ︵注 が ﹁癩患者ノ救済ヲ目的トスル基督教的社会事業﹂として開設し、 一九四二年に閉鎖されたハンセン病療養所であ る ︶36 ︵注 。 高野自身が記すところによれば、一九一七年に渡米するまで、 週 一 、二 回 の 往 診 を 続 け た と い う 。 た だ し 、 そ れ は 学 問 上 の 興 味 か ら で は な く 、﹁ 官 費 で 郊 外 ド ラ イ ブ を す る や う な も の だ か ら、滅多に俥などに乗れない新米医学士には一の慰安でもあつ た﹂からであ り ︶37 ︵注 、また、ハンセン病は﹁初学者の手を出すべき テーマではない﹂と注意されていたことにもよ る ︶38 ︵注 。したがって、 このころの関わりは細菌学の研究においても、あるいは受持医 としての治療においても、本腰を入れた取り組みではなかった ようである。 本腰を入れた取り組みが始まるのは、留学から戻り、慶應大 学医学部教授の職を辞して、内務省に転職した一九二三年から である。内務省衛生局予防課長に就いた彼は、再びハンセン病 と の 関 わ り が 始 ま り 、﹁ 職 務 上 癩 予 防 事 業 に 関 係 を 持 つ こ と と なっ た ︶39 ︵注 ﹂。 高野が内務省に入った当時、ハンセン病に関する法律第一一 号 ﹁ 癩 予 防 ニ 関 ス ル 件 ﹂︵ 一 九 〇 七 年 に 制 定 さ れ 、 そ の 二 年 後 に施行された︶のもとで限定的な隔離政策が実施され、公立の 療養所も稼働していた。しかしながら、高野が一九二六年に挙げ て い る デ ー タ で は 、﹁ 収 容 さ れ て 然 る べ き 患 者 ︹ 中 略 ︺ 約 一 万 五 千 人 ﹂ に 対 し 、 療 養 所 に は 二 、五 三 八 人 し か 収 容 さ れ て い な い と 警 鐘 を 鳴 ら し て い る ︶40 ︵注 。 当 時 の 高 野 の 認 識 で は 、﹁ 収 容 さ れ て 然 る べ き 患 者 ﹂ が 一 万 人 以 上 も 未 収 容 の 状 態 に あ っ た 。 この認識は、高野の個人的な認識にとどまらず、内務省内で共 有された認識であったと考えられる。なぜなら、高野が予防課 長 と し て 在 職 中 の 一 九 三 一 年 に 法 律 第 一 一 号 は 改 正 さ れ 、﹁ 癩 予防 法 ︶41 ︵注 ﹂となるからである。ハンセン病の隔離収容は、この改 正によって﹁収容されて然るべき患者﹂を全員収容する政策へ 進展する。 改良便所の研究も一定の成果が得られ、まだ改良の余地があ るにせよ、一九二七年には内務省式改良便所のパフレッ ト ︶42 ︵注 を公 刊 し 、﹁ 糞 の 研 究 ︶43 ︵注 ﹂ が 一 段 落 着 い た 一 九 二 〇 年 代 の 終 わ り 頃 に は 、﹁ 日 本 の 公 衆 衛 生 の 目 標 が 先 づ 癩 、 次 に は 結 核 と 云 ふ こ と に 大 勢 が 傾 い て る ママ や う な 観 が あ る ︶44 ︵注 。﹂ と 高 野 自 身 が 書 い て い る よ う に 、 ハ ン セ ン 病 と 結 核 の 対 策 が 衛 生 行 政 の 主 要 な 目 標 と なっていた。法律第一一号が改正されたのは、こうした状況に おいてである。 周知のとおり、この改正は、発病者全員を療養所に隔離する よう変更した点で、それまでの﹁療養ノ途ヲ有セス且救護者ナ キ モ ノ ﹂︵ 明 治 四 〇 年 三 月 十 九 日 法 律 第 一 一 号 、 第 三 条 ︶ で ある﹁浮浪患者﹂に限った収容とは異なり、すべての発症者を 収容することを主眼としていた。すなわち、旧法の趣旨が﹁浮 浪 癩 患 者 救 護 法 ︶45 ︵注 ﹂ で あ っ た の に 対 し 、 こ の 改 正 に よ っ て ﹁ 根 絶﹂を目的とする感染予防策に重点を移すことになった。 これはハンセン病についての大きな政策転換であり、高野は ﹁改正の重要な点﹂として、 ﹁癩の病毒伝播の惧があれば如何な る癩患者をも強制してでも療養所に収容し得るやうにした﹂こ と と 、﹁ 療 養 所 へ 入 所 し た 患 者 の 費 用 は 、 道 府 県 立 療 養 所 の 場 合は道府県の費用、国立癩療養所へ収容された場合は、国費で 賄つて貰ふ﹂ことであると述べ、すべての発症者の強制収容と 療養費の公費負担の二点を重要な改正点として挙げてい る ︶46 ︵注 。 以下では、予防課長の高野がハンセン病政策として何を考え ていたかについて、彼の衛生思想に即して検討してみる。ここ では、あくまで政策の次元ではなく、思想の次元において考察 す る ︶47 ︵注 。 まず、高野が日本におけるハンセン病の状況を、どのように 捉えていたかを彼の著書に見てみよう。彼は厚生省予防局長を 務 め て い た 一 九 三 九 年 に 刊 行 し た 著 書 ﹃ 国 民 病 の 予 防 と 撲 滅 ﹄ のなかで、次のように書いている。 ﹁ 文 明 国 に し て 多 数 の 癩 を 持 つ も の は 先 づ 無 い 。 日 本 は 文 明 国としてはあるまじき癩国である﹂と日本の状況を位置付けた う え で 、 そ の 理 由 を ﹁ 我 々 の 文 化 生 活 の 歴 史 が 未 だ 短 い た め ﹂ で あ る と し 、﹁ 衛 生 を 根 底 と せ る 文 化 生 活 が 暫 く 実 行 さ れ ゝ ば
癩は自然消滅すると思ふ﹂としながらも、自然消滅するまで放 置 し て お け ば ﹁ 長 時 日 を 要 す る ﹂ た め 、﹁ 無 策 傍 観 ﹂ す る の で はなく、何らかの対策を打ち出すべきだと捉えてい る ︶48 ︵注 。 そ の う え で 、 高 野 は 、 そ の 対 策 と し て 、﹁ 癩 患 者 を 社 会 か ら 全部隔離﹂することの意義を次のように説明する。 癩菌あつての癩病であり、癩患者あつての癩菌であるから、 其の癩菌の巣窟たる癩患者を社会から全部隔離してしまへ ばそれで癩は根絶したことを意味する。癩療養所を十分に 設けて癩患者全部が病院内へ収容された時は、即ち癩が絶 滅された時と見て殆ど差支がな い ︶49 ︵注 。 もっとも、政策の次元では、すべての発症者を受け入れるだ けの施設は直ちに整備されないので、これは理想と現実に懸隔 が あ る 。 実 際 、 彼 自 身 、﹁ 一 万 人 収 容 で 事 足 れ り と な す か 、 又 は速に新しい計画を立てて全部収容に邁進すべきかは現在の一 問題﹂であるが、それは﹁時と金との調和﹂という政策の問題 で あ る こ と を 自 覚 し て い る が 、 彼 の 理 想 論 と し て は 、﹁ 全 部 収 容﹂に向けて﹁最大速度での前進が最も正しい﹂と述べてい る ︶50 ︵注 。 し か し な が ら 、 こ の 理 想 論 と は 別 に 、﹁ 現 存 患 者 一 万 五 千 余 に対して一万人収容が完成するとき、予防上差措き難いものは 大方収容され、後は居宅療養を指導してやれば危険は少い﹂と も述べているので、彼は、すべての発症者を収容すべきとする 徹底した隔離収容に必ずしも固執していたわけではないように も見え る ︶51 ︵注 。 ところで、戦後にプロミンが治療薬として開発され普及する まで、ハンセン病への有効な治療法が確立していなかった戦前 において治癒する可能性が低かったことから、収容所へ隔離さ れ る こ と は 生 涯 に わ た っ て 隔 離 さ れ る こ と を 意 味 し た 。 し た がって、収容された﹁癩患者﹂は、終生そこで暮らすことにな り、そこで一生を終えることになる。この点について、高野は 次のように述べている。 癩 患 者 が 全 部 収 容 さ れ ゝ ば 癩 菌 は 療 養 所 の 内 の み に あ る 。 多少こぼれ落ちたのが社会に残つてゐても、それは見つけ 次第療養所の内へ拾ひ込むことが出来る。療養所内では癩 患者は漸次死亡して行くから患者実数は年を追うて減ず る ︶52 ︵注 。 言 い 換 え れ ば 、 収 容 し た ﹁ 癩 患 者 ﹂ は 療 養 所 で 一 生 過 ご し 、 そこで死に絶えることを目標としたといえる。 政策担当者である高野の意図は、ハンセン病を﹁国民間に広 めてはならぬこと﹂ 、すなわち予防措置にあった。 ﹁そのために 是 非 と も 患 者 は 隔 離 さ れ ね ば な ら ぬ ﹂ と 考 え て い た の で あ り 、 す べ て の 発 症 者 を 収 容 す る 徹 底 し た ﹁ 全 部 隔 離 ﹂ は 、﹁ 家 庭 に
於てどうやらやつてゐる患者をも強制収容すること﹂を含んで い た ︶53 ︵注 。 癩 予 防 法 は 、﹁ 全 部 隔 離 ﹂ に よ っ て 感 染 予 防 を 徹 底 さ せ る 点 に 特 徴 が あ り 、 世 話 す る 者 が い な い ﹁ 浮 浪 患 者 ﹂ の み な ら ず 、 家庭で世話されている人も強制的に収容することが定められて い た 。 高 野 が い う よ う に 、﹁ 癩 予 防 法 は 最 初 か ら 衛 生 法 規 で あ つて決して救護法規ではな い ︶54 ︵注 ﹂ということを意味した。感染予 防を目標とし、ハンセン病の撲滅を早期に達成しようとする政 策目的からすれば、どのような感染のリスクも避けたいところ であろう。高野は、いう。 癩患者全部隔離を実現するためには、一面に於て国民に癩 の本態をよく理解せしめ、癩は単に一個の伝染病に過ぎな いこと、然し悪質の伝染病であつて、之を国民間に広めて はならぬこと、そのためには是非とも患者は隔離されねば ならぬこと等を十分に諒解せしめねばならぬ。即ち予防思 想の徹底的普及が肝要であ る ︶55 ︵注 。 ﹁ 予 防 思 想 の 徹 底 的 普 及 ﹂ と は 、 ハ ン セ ン 病 は 遺 伝 性 の 疾 患 ではなく感染症であることを理解したうえで、国民一人一人が その感染の危険を認識し、家庭で世話している場合には、接触 による感染防止を徹底するため療養所に収容すべきだと認識を 改め、収容に協力するよう促すことであった。この徹底的普及 は、無癩県運動や癩予防デーの開催などによって推進されてい く。 他方、収容された﹁癩患者﹂のことにも高野は無関心ではな かった。彼は、療養所が﹁患者の一生を十分安穏に過さしめ得 る各般の施設を備へ﹂ 、﹁患者の楽園の実を備へねばならぬ﹂と し、療養所の﹁物質的の施設ばかりでなく、精神的な情熱も無 け れ ば な ら ぬ ﹂ と 考 え て い た 。 そ れ は 、﹁ 良 き 職 員 ﹂ と ﹁ 良 き 患者﹂で成り立つ療養所のいわばユートピアとして捉えている が、しかし、その実現には﹁実際上の困難﹂も感じてい た ︶56 ︵注 。 高野は﹁癩患者﹂を意図において非人道的に処遇しようとし た訳ではない。たとえば、いま引用した箇所で、その実現が困 難であれ、理念として療養所が﹁癩患者﹂にとって﹁楽園﹂で あることを彼は願い、また、次のように﹁楽園﹂が実現してい るとの認識を彼は示している。 日本の癩患者も日本人の一部に相違ないのであるから、皇 室の恩、国土の恩、直接救護に献身せる人々の恩に感泣し ない筈はない。中には浮浪無残のねぢけ人が混つてもゐよ うが、今や癩療養所は患者の楽園となつてゐ る ︶57 ︵注 。
ところで、高野は発症者の全部収容・終生隔離の必要性につ いて、いつから主張していたであろうか。彼が公表したもので 確認する限り、それは遅くとも一九二六年六月まで遡ることが できる。彼は﹃社会事業﹄の同年同月号に掲載した﹁民族浄化 の た め に
︱
癩 予 防 策 の 将 来︱
﹂ の 中 で 、﹁ 英 、 仏 、 独 等 に 於 て は 数 世 紀 前 ま で は 癩 が 甚 し く 蔓 延 し て 居 た も の で あ る が 、 患者を隔離する手段を励行した結果、今日では殆ど一人も癩患 者 が 居 な い や う な 状 態 と な つ た ﹂ こ と を 例 に 挙 げ 、﹁ 癩 撲 滅 は やつて出来ない仕事ではないことが明である。やれば必ず出来 ることなのである。 ﹂と隔離の必要性を説き、 ﹁要するに癩予防 の 根 本 は 結 局 癩 の 絶 対 隔 離 で あ る 。﹂ と 述 べ 、 発 症 者 の 全 部 収 容・終生隔離、すなわち﹁絶対隔離﹂の必要性を説いてい る ︶58 ︵注 。 目 下 約 二 千 人 の 収 容 定 員 ︹ 府 県 立 の 療 養 所 全 体 で 二 、 〇八〇人だと述べている︱
引用者注︺に対して、日本国 中に収容されて然るべき患者が幾何あるかを調べて見ると、 其が大約一万五千人居る。此の患者は症状の判然した素人 目にも分る程の重症患者を数へたものである。勿論中には 資産を持つてゐる者もあるかも知れぬが、仮に金があつた からとて癩患者の悠々療養し得る場所は何処にもあるまい し 、 且 又 長 い 一 生 療 養 に 費 す 金 は 却 々 続 く も の で も な い 。 畢竟一万五千人の患者は国家として何とか世話をしてやら ねばならない患者であるとも考へられる。之を全部療養所 内へ収容するやうにすれば一番結構である︹後 略 ︶59 ︵注 ︺。 と述べ、叶うならば発症者全員を隔離収容するとともに、収容 者への﹁世話﹂を国家の責任で実施すべきであると考えていた。 この構想は、先に見たとおり、その五年後の一九三一年に改正 された癩予防法によって実現する。 彼が、ここで述べている隔離収容と生活保障は、別の言い回 し で は 、﹁ 民 族 の 血 液 を 浄 化 す る た め に 、 又 此 の 残 虐 な 病 苦 か ら同胞を救ふた め ︶60 ︵注 ﹂と表現する考え方に示されている。つまり、 高 野 の ハ ン セ ン 病 へ の 取 り 組 み は 、﹁ 民 族 浄 化 ﹂ お よ び ﹁ 同 胞 救済﹂に目的があり、感染予防と福祉的性格の両方を併せ持っ ていたといえよう。 し た が っ て 、﹁ 癩 予 防 法 ﹂ の 制 定 の 前 後 に お い て 、 全 部 収 容・終生隔離︵絶対隔離︶という高野の基本的な主張に変化は 見られない。衛生局の中において技官の高野がハンセン病政策 において、どの程度、影響力を行使したかについては、本稿の 範囲を超えるので、ここでは論じないが、少なくとも高野の衛 生思想を検討する限り、一九三一年に強制隔離の規定が盛り込 まれる以前から、全部隔離の必要性について主張し、その後も 基本的に主張に変化がないことがわかる。この意味で、彼のハ ンセン病に対する考え方には一貫性が見られる。次には、以上で考察した改良便所と隔離政策の二者が、どこ で接点を持つのかについて検討しよう。
四
改良便所と癩予防法の接点
衛生行政に携わった二〇年間︵一九二三∼一九四二年︶に高 野が手がけた汲取式便所の改良による感染症予防および﹁絶対 隔離﹂によるハンセン病撲滅対策の二点について、これまで考 察 し た 。 こ の 二 つ の 施 策 は 、﹁ 消 化 器 伝 染 病 ﹂、 ﹁ 寄 生 虫 病 ﹂、 ﹁ 癩 ﹂ と い っ た 感 染 症 対 策 の 一 環 で あ り 、 そ れ ゆ え 、 発 症 の 原 因の究明および感染がどのように広がるのかという医学的側面 ︵ 研 究 ︶ と 感 染 予 防 を 如 何 に 進 め る べ き か と い う 政 策 的 側 面 ︵ 実 地 へ の 応 用 ︶ を 併 せ 持 っ た 衛 生 行 政 の 対 応 で あ り 、 研 究 の 実地への応用に強い関心を持っていた高野が本領を発揮した取 り組みであったといえる。 以下でも引き続き高野の衛生思想を手掛かりに論じてみよう。 ﹁ 医 学 の 理 想 は 治 療 よ り も 寧 ろ 予 防 に あ る ︶61 ︵注 ﹂、 ﹁ 医 学 の 第 一 義 は 衛 生 で あ り ま す ︶62 ︵注 ﹂ と い う 信 念 を 抱 く 高 野 は 、﹁ 医 学 は 個 人 の 病苦の除去よりも寧ろ国民全体の健康向上、活力増大を目途と すべきであ る ︶63 ︵注 ﹂と考えていた。とくに感染症の場合は、罹って か ら 治 療 す る よ り 、 罹 ら な い よ う 予 防 す る こ と が 重 要 で あ り 、 ﹁伝染病の病気の場合は治療が即ち予 防 ︶64 ︵注 ﹂であると断じている。 それゆえ、改良便所にせよ、ハンセン病療養所にせよ、高野の 立場からすれば、治療法のあるなしにかかわらず、感染する前 に感染しないよう予防することが肝要であると捉えられていた。 高野はいう。 口から入る食物のみを注意しても、お尻から出て行く排泄 物の始末を考へなければ衛生は完成しない。況や吾人の現 世に在りては口から入るものが、尻から出たものによつて 常に大に汚されつゝあることを思ふと、栄養衛生の第一歩 は寧ろお尻の出口にあるとも言へるのであ る ︶65 ︵注 。 また、彼はいう。 社会が単に癩を嫌ふだけで、家族内の感染をそのまゝにし ておいたのでは、癩は根絶には至らない。癩の収容隔離は 其の最も重要な感染機会を失はしめる意味に於て大切なの であ る ︶66 ︵注 。 補足すると、一方で、排泄物が肥料として畑に撒かれ、その 野菜などを口にすることで感染するのであり、他方で、ハンセ ン病発症者の家庭内同居が感染の原因となっているということ である。改良便所にせよハンセン病にせよ、高野は感染機会を奪うこ とによって感染予防が可能となることを力説した。ただし、感 染機会を奪うことは理論的に単純明快な事柄ではあっても実行 す る こ と は 容 易 で は な い 。 医 学 的 に は 感 染 機 会 を 奪 う 方 法 は 、 改良便所を設置せずとも、従来の肥溜めの利用に際して注意を 払 い 、﹁ 農 家 挙 つ て 0 0 0 三 ヶ 月 位 貯 蔵 し た 下 肥 の み を 使 用 し て く れゝば申分ないのであ る ︶67 ︵注 。﹂ ︵傍点引用者︶が、必ずしも実行さ れていないし、徹底も容易ではない。また、ハンセン病におい て は 、﹁ 居 宅 療 養 を 指 導 し て や れ ば 危 険 は 少 い も の が 多 い か も しれ ぬ ︶68 ︵注 。﹂としつつも、 ﹁一人の患者を出した家では其の患者を 家出させるまでは秘かに家族の者が看護して愈々始末し切れな くなつてからの逐電であるから、大方それまでに幼い者達に永 い 間 接 触 し て 居 た 結 果 と し て 病 毒 を 伝 へ て 居 る ︶69 ︵注 。﹂ こ と か ら 、 ﹁ 癩 の 収 容 隔 離 は 其 の 最 も 重 要 な 感 染 機 会 を 失 は し め る 意 味 に お い て 大 切 ︶70 ︵注 ﹂ だ と し て い る 。 つ ま り 、 当 事 者 任 せ の ﹁ 無 策 傍 観 ︶71 ︵注 ﹂ で は な く 、﹁ 世 人 の 健 康 を 保 護 す る た め に 必 要 な 公 衆 衛 生 事項として之を処理せねばなら ぬ ︶72 ︵注 ﹂とし、衛生行政が積極的な 施 策 を 打 ち 出 す 必 要 性 を 説 い て い る 。 し た が っ て 、 一 方 で は 、 便池内において消化器伝染病や寄生虫病の病原菌がすべて死滅 す る よ う 便 池 を 改 良 し た よ う に 、 他 方 で は 、 療 養 所 に お い て ﹁ 癩 菌 の 巣 窟 た る 癩 患 者 ﹂ 全 員 が ﹁ 漸 次 死 亡 ﹂ す る よ う 法 律 第 一一号を改正したといってよ い ︶73 ︵注 。 そして、改良便所とハンセン病対策の共通点として、さらに 指 摘 で き る の は 、 そ の 徹 底 し た 対 処 法 で あ る 。 高 野 に と っ て 、 予防可能だと知りつつ徹底しなければ、それは怠惰の謗りを免 れ な い と い う 。 し た が っ て 、 予 防 を 目 標 に し て 取 り 組 む 以 上 、 徹底することが求められる。しかし、予防という目標は先の見 えない目標であり、どこまで徹底しても十分ということはない。 際限のない対応に陥ってしまう可能性がある。 当時、予防の観念が希薄であったため、省内の理解や国民の 協力が得られにくい状況のなかで、公衆衛生や予防医学の重要 性 を 周 知 さ せ る た め に 利 用 さ れ た の が 、﹁ 浄 化 ﹂ と い う 言 い 回 し で あ っ た と 考 え ら れ る 。 高 野 は 、 こ の 言 い 回 し を 使 っ て 、 ﹁日本中の便所が改良されて、国土が浄化さ れ ︶74 ︵注 ﹂ることや、 ﹁癩 を根絶して国民の血を清 め ︶75 ︵注 ﹂ることを訴えた。この意味で、高 野の衛生思想は、一方で改良便所による﹁国土浄化 論 ︶76 ︵注 ﹂であり、 他方で絶対隔離による﹁民族浄化﹂ 論 ︶77 ︵注 であった。 それは、国民の衛生状態を向上させ、国民の健康を増進させ るのが自らの使命だと感じていたからである。非衛生的な国土 や 国 民 で あ る こ と は 、﹁ 文 明 国 ﹂ と し て の 体 面 や 健 兵 健 民 政 策 を除外しても、なお望ましくない状態であることに変わりはな い。つまり、衛生官僚の高野は、衛生状態が悪い状態を放置し ておきながら、医者が治療を施すのではなく、衛生状態を改善 することによって、もはや治療する必要のない健康な人を増や
すことに腐心したのである。 ﹁衛生第一﹂を説く高野は、 ﹁衛生 は 手 段 で 、 健 康 が 目 的 で あ り ま す か ら 、 衛 生 第 一 と い う の は 、 健康第一というのと同じでありま す ︶78 ︵注 。﹂と述べている。 その方策は、警察的・取締行政によってではなく、国民の日 常生活の中に深く衛生の考え方が浸透することによって実現す る と 説 い て い た 。 上 か ら 命 じ ら れ て す る の で は な く 、﹁ 各 自 が 進 ん で 行 ふ と 云 ふ 処 に 衛 生 進 歩 の 重 点 ︶79 ︵注 ﹂ が あ る と 説 く 高 野 は 、 ﹁ 予 防 思 想 の 徹 底 的 普 及 ︶80 ︵注 ﹂ に よ っ て 衛 生 状 態 が 改 善 さ れ る と 考 えていた。高野は、国民の健康を保護・増進するという目的を 遂行するため、国土や国民を﹁浄化﹂するという名目で推進し ようとしたのであろう。彼は形式的な衛生行政の欠陥を批判し、 国民一人一人への衛生思想の徹底的な教育啓蒙によって、国土 に病原菌がなく、国民にも感染者のいない﹁浄化﹂された国の 建設を目指す運動の一翼を担ったのである。
おわりに
﹁ 癩 予 防 法 ﹂ が 戦 後 改 正 さ れ た ﹁ ら い 予 防 法 ﹂︵ 一 九 五 三 年 ︶ においても強制隔離政策が継続するなか、元厚生省の官僚︵医 系技官︶であった大谷藤郎︵一九二四∼二〇一〇年︶は、退官 後 、 ら い 予 防 法 廃 止 運 動 に 取 り 組 む な か で 、 旧 法 ︵ 一 九 三 一 年︶において強制隔離が規定された理由について﹁医学的理由 か ら だ け で は 説 明 で き な い 。﹂ と し 、 そ れ は ﹁ フ ァ ッ シ ョ 的 時 代精神の体現そのも の ︶81 ︵注 ﹂であると記している。 強制隔離が﹁ファッショ的時代精神﹂によってもたらされた か否かは措くとして、医学的理由だけで説明できないことは確 かである。当時の日本の医学界でも、極めて少数派ではあるも のの小笠原登のように、外来通院や在宅療養を認める医師はい たし、医学的に見て強制隔離が唯一の選択肢ではなかったと考 えられる。むしろ、強制隔離政策は、医学的観点と政策的観点 の両方を踏まえた政治的判断であったと考えられる。 実際、高野は医学者であると同時に行政官として強制隔離政 策を推進する立場にあっ た ︶82 ︵注 。それは、大谷がいう意味とは別の ﹁ 時 代 精 神 ﹂ が 働 い て い た と い え る か も し れ な い 。 こ の 点 に つ い て 、 高 野 は 、﹁ 癩 を 哀 れ む と か 、 救 つ た と か 、 世 話 を し て や るとかの慈悲善根が今も不要だと云ふのではないが、世人の健 康を保護するために必要な公衆衛生事項として之を処理せねば な ら ぬ 時 代 に な つ た の で あ る ︶83 ︵注 。﹂ と 述 べ 、 私 的 な 慈 善 と し て で はなく、公的に救済する制度の必要性と治療だけでなく予防に こそ取り組むことの意義を感じ取っていたと思われる。 こ れ に 関 連 し て 、 興 味 深 い エ ピ ソ ー ド を 彼 は 語 っ て い る 。 ﹁ 医 学 の 理 想 は 治 療 よ り も 寧 ろ 予 防 に あ る ︶84 ︵注 ﹂ と 予 防 医 学 の 重 要 性を説く高野は、将来、誰も医者にかからない理想の時代を次 の二つのエピソードで描いている。或村に非常に衛生熱心なお医者様がゐて、村内の衛生を徹 底的に改善し、その結果病人は一人もなくなり死ぬ者も一 人も無くなつた。そのうち珍らしく死亡届が出たので役場 で検らべて見たら、そのお医者様が収入が無くなつた結果 栄養不良で死んだのだつたと云ふのであ る ︶85 ︵注 。 或田舎の村で医者を雇つて来た所、この医者は診療は宜い 加減にして上下水道だの住宅改善だの栄養指導だのに力を 尽した。その結果お医者様の嫌な病人は段々減つて来たの で、お医者は毎日魚釣ばかりして遊んで暮らして居る。然 し村では契約したゞけの給料はこの仕事のないお医者様に 払ふばかりでなく、村の医療費の助かつた分をボーナスと してお医者様に差し上げるといふのである。かうなれば両 助かりであ る ︶86 ︵注 。 これらのエピソードに登場する医者は、まさに高野自身を映 し出している。医師でもあった彼の理想は、逆説的ではあるが、 医 者 が 不 要 と な る 社 会 を 作 る こ と に あ っ た 。 そ れ は 、﹁ 成 る べ く病人を見ることの嫌な、地上無病を理想とするやうな衛生医 者 が 居 さ へ す れ ば 、 衛 生 は 改 善 す る ︶87 ︵注 。﹂ と 考 え て い た か ら で あ る。彼は、それを﹁無病 国 ︶88 ︵注 ﹂と呼んでいる。医者が失業しても、 国民の健康が増進されることを望んだ。医者は病人を﹁治療を して商売繁昌を誇 る ︶89 ︵注 ﹂のではなく、病気を未然に防止し、病人 を作らない予防医学に貢献することを期待した。彼は、いう。 医は仁術であるといふならば、医者の手にかゝるやうな不 幸な者の無い世の中を希望すべきであつて、病人が一人も 無いやうな理想郷が仮に実現したとすれば、真先に困るの は 今 様 の お 医 者 様 で あ る 。 だ か ら 今 後 の 医 師 た る も の は 、 自分の理想を予防医学におき、已を得ざる当面の事業とし て診療を行ひ、病苦を緩解してやるのであつて、仮に一人 の患者もない世の中となつても、これを喜びこそすれ決し て悲しまない、而して医家の生活はさういふ世の中が来て も少しも脅かされないと ふ ママ ことでなければなら ぬ ︶90 ︵注 。 高 野 は 、﹁ 今 後 は 医 学 の 主 要 目 的 は 健 康 の 保 護 で あ り 、 従 つ て病気の予防であ る ︶91 ︵注 ﹂という見通しのもとに、一九二〇年代以 降の戦前期衛生行政に取り組んだ。この意味で、改良便所の考 案とハンセン病療養所への全員収容は彼の理論において一貫し ていた。感染経路を遮断することで、これ以上、新たな感染者 を発生させないという予防措置として共通の衛生思想に立脚し ていたからである。一方で、改良便所では便池で感染源を死滅 させることにより、他方で、ハンセン病療養所に発症者を終生
隔離することにより、それぞれの感染経路を断ち、それによっ て、将来の発症を未然に防ぐ対策が講じられた。 当時、衛生事務は警察が一旦を担っており、ハンセン病発症 者の調査・収容などは警察官が対応していた。高野は、こうし た強権的な対応で日本の衛生状態がよく改善されるとは思って お ら ず 、﹁ 国 民 の 日 常 生 活 を 警 察 衛 生 の 下 に 置 く こ と を 止 め 、 完全な公医︹衛生医官︺を置いて国民の生活を指 導 ︶92 ︵注 ﹂すべきだ と述べている。高野は、いう。 概して云へば我々の衛生は天下り衛生である。上から与へ られたものであつて、下から望んで得たものではない。従 つて取締衛生であり警察衛生である。人民共は衛生は警察 の 仕 事 だ と 思 つ て 居 る 。︹ 中 略 ︺ か く 取 締 を 目 的 と し た 衛 生組織は、警察網の片手間の仕事として兎に角形式は全国 に行き渡つて居るが、之と反比例して衛生の本質を実生活 に具現しやうとする精神は殆ど全く欠けて居 る ︶93 ︵注 。 そ し て 、﹁ 警 察 の サ ー ベ ル の 下 に の み 衛 生 が あ る や う な 国 民 に衛生 省 ︶94 ︵注 などは寧ろ滑稽であ る ︶95 ︵注 。﹂と述べ、 ﹁衛生はお互いの実 生 活 ︶96 ︵注 ﹂ で あ る の で 、﹁ 便 所 と か 、 台 所 と か 、 食 物 と か 日 常 生 活 の 衛 生 を 出 来 る だ け 改 善 ︶97 ︵注 ﹂ す る こ と が 肝 要 で あ り 、﹁ 取 り 締 ら れたり、命じられたりする範囲のみの衛生では其の実績が挙ら ないのが当然﹂なので、 ﹁各自が進んで行ふ﹂ ﹁自分で行ふ﹂こ とが衛生の向上に不可欠であると批判してい る ︶98 ︵注 。 高野は予防医学の必要性と重要性を力説したが、彼は人間性 に乏しかった訳ではない。むしろ人一倍人間性が豊かであった ということができる。彼は、いう。 癩は既に予防可能の疾病に属するに拘はらず、之を予防せ んともせず、其の蔓延に任せておいて悲惨なる犠牲を続発 させると云ふことは余りに理に副はない話である。癩患者 の運命が決定的であるだけ、其の予防を怠るのは 悲惨なる 0 0 0 0 怠慢 0 0 であ る ︶99 ︵注 。︵傍点引用者︶ 未然に防ぐことができるとわかっていながら、それを怠るこ とは、確かに怠惰である。そして、その結果が本人だけでなく、 他人にも及ぶとなれば、本人の怠惰だけでは済まされない。本 人や家族に予防しようとする意志が希薄で、方策も知らないな らば、何をすべきであろうか。放置するしかないと見て見ぬ振 りをして済ませていた時代は、高野の生きた時代には過ぎ去り つつあった。福祉行政の端緒を開いた内務省地方局救護課の設 置︵一九一七年︶以降、社会局や厚生省の設立をともなって福 祉国家の体制を整え始める一九二〇年代からの二〇年間を衛生 行 政 に 関 わ っ た 高 野 に と っ て 、 見 て 見 ぬ 振 り は で き な か っ た 。
高野は、国家が国民の健康を保護すべき時代に公衆衛生の向上 に取り組んだ官僚の一人であった。改良便所の考案も絶対隔離 も、彼の衛生思想として一貫しており、感染源から国民を保護 で き る 方 策 が あ る 以 上 、 そ れ を 政 策 と し て 実 施 せ ず 、﹁ 予 防 を 怠 る の は 悲 惨 な る 怠 慢 0 0 0 0 0 0 ﹂︵ 傍 点 引 用 者 ︶ に 他 な ら な い と 憤 り 、 国民の健康増進に真摯に取り組んだ衛生官僚であっ た ︶ ︵注 。 謝辞 本稿の執筆に際し、とくに、大分大学経済学部所蔵資料 ﹃内務省実験所考案 改良便所﹄について同教育研究支援室に、 ま た 北 里 柴 三 郎 ﹁ 医 道 論 ﹂ に つ い て 北 里 柴 三 郎 記 念 室 事 務 長 ・ 森孝之博士ならびに同記念室に、ご厚情賜りました。また、近 畿大学中央図書館、神戸学院大学附属図書館、神戸市立中央図 書館、奈良県立図書情報館、大阪府立中之島図書館、大阪府立 中央図書館、国立国会図書館には資料の閲覧等でお世話になり ました。 注 1 北 里 研 究 所 編 集 ・ 発 行 ﹃ 北 里 研 究 所 五 十 年 誌 ﹄ 一 九 六 六 年 、 一七∼一八頁。 2 ﹁ ハ ン セ ン 病 対 策 へ の ︹ 中 略 ︺ 民 間 か ら の 協 力 機 関 ﹂︵ 藤 楓 協 会 編 集 ・ 発 行 ﹃ 創 立 五 十 周 年 誌 ﹄ 二 〇 〇 七 年 、 一 九 頁 ︶ と し て 一 九 三 一 年 に 設 立 さ れ た 癩 予 防 協 会 の 後 継 団 体 で 、 一九五二年六月に設立、二〇〇三年三月に解散した。 3 以 上 の 略 歴 は 、 秦 郁 彦 ﹃ 戦 前 期 日 本 官 僚 制 の 制 度 ・ 組 織 ・ 人 事 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 八 一 年 、 一 四 五 頁 、 北 里 研 究 所 編 集 ・ 発 行 ﹃ 北 里 研 究 所 五 十 年 誌 ﹄ 一 九 六 六 年 、 五 七 、 五 五 六 、六 八 五 ∼ 六 八 六 頁 、 八 四 九 頁 お よ び 藤 楓 協 会 編 集 ・ 発 行 ﹃ 創 立 五 十 周 年 誌 ﹄、 二 〇 〇 七 年 、 口 絵 ﹁ 歴 代 理 事 長 ﹂、 に よる。 4 慶 応 義 塾 大 学 医 学 部 編 集 ・ 発 行 ﹃ 慶 応 義 塾 大 学 医 学 部 十 周 年 記 念 誌 ﹄ 一 九 三 一 年 、 一 二 四 、一 三 三 頁 お よ び 慶 応 義 塾 大 学 医 学 部 編 集 ・ 発 行 ﹃ 慶 応 義 塾 大 学 医 学 部 二 十 周 年 記 念 誌 ﹄ 第 二部、二二頁、一九四〇年。 5 一 九 二 三 年 五 月 か ら 病 理 細 菌 学 教 室 の 講 師 を 、 さ ら に 一 九 二 九 年 四 月 の 予 防 医 学 教 室 設 置 に と も な い 同 教 室 へ 移 り 、 予 防 医 学 の 研 究 教 育 に 携 わ っ て い る ︵ 前 掲 ﹃ 慶 応 義 塾 大 学 医 学部二十周年記念誌﹄第二部、二二頁︶ 。 6 留 学 中 の 影 響 に つ い て 、 横 田 陽 子 は 、 次 の よ う に 述 べ て い る 。﹁ 留 学 中 の 高 野 の 関 心 の 中 心 は 、 研 究 環 境 を 含 め た 微 生 物 学 な ど 基 礎 医 学 研 究 に あ り 、 特 に 衛 生 行 政 に 興 味 を 寄 せ る も の で は な か っ た 。 し か し 留 学 中 は 、 応 用 重 視 の 米 国 の 学 問 観 に 触 れ 、 そ の 社 会 へ の 適 用 を 見 聞 し 、 衛 生 学 者 と の 交 流 が あ っ た 。﹂ ︵ 横 田 陽 子 ﹁ 高 野 六 郎
︱
衛 生 行 政 の 専 門 性 に 関 する 考 え 方 の 形 成 を め ぐ っ て
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﹂﹃ 日 本 医 史 学 雑 誌 ﹄ 第 五 三 巻 第一号、二〇〇七年、八七頁︶ 。 7 北 里 は ﹁ 医 道 論 ﹂ の な か で 、﹁ 病 ヲ 未 発 ニ 防 ク コ ト ヲ 得 セ シ ム ル ハ 是 所 謂 医 道 ノ 本 ナ リ ﹂︵ 北 里 研 究 所 北 里 柴 三 郎 記 念 室 編 集 ・ 発 行 ﹃ 北 里 柴 三 郎 博 士 の 医 道 論 を 読 む ﹄ 二 〇 一 七 年 、 六 頁 ︶ と 述 べ 、 病 気 を 未 然 に 防 ぐ こ と が 医 学 の 目 的 で あ る と の 見解を示している。 8 高 野 六 郎 ﹃ ロ ー ベ ル ト ・ コ ッ ホ ﹄ 主 婦 之 友 社 、 一 九 五 一 年 、 一五八頁。 9 北 里 が ﹁ 医 道 論 ﹂ を 書 い た の は 東 京 で 医 学 生 だ っ た 一 八 七 八 年 で あ る の に 対 し 、 コ ッ ホ の も と で 研 究 を 始 め た の は 一 八 八 六 年 で あ る の で 、﹁ 医 道 論 ﹂ は コ ッ ホ の 直 接 的 な 影 響 を 受 け た と は 考 え ら れ な い 。 可 能 性 と し て 、 東 京 に 上 京 す る 以 前 に 在 籍 し て い た 熊 本 医 学 校 時 代 に 受 け た 教 育 の 影 響 が 考 え ら れ る 他 、 北 里 自 身 が ﹁ 疫 病 に 対 す る 治 療 か ら 予 防 へ の 可 能 性 が 論 じ ら れ る 時 代 ﹂︵ 森 孝 之 ﹁ 医 道 論 と は ﹂、 前 掲 ﹃ 北 里 柴 三 郎 博 士 の 医 道 論 を 読 む ﹄ 一 頁 ︶ を 敏 感 に 感 じ 取 り 、 持 論 を展開したことも考えられる。 10 高 野 六 郎 ﹃ 便 所 の 進 化 ﹄ 厚 生 閣 、 一 九 四 一 年 、 は し が き 一 頁。 11 同書、はしがき三頁。 12 高 野 六 郎 ﹃ 屎 尿 屁 随 筆 ﹄ 富 士 書 房 ・ 春 陽 堂 、 一 九 二 八 年 、 一〇∼一一頁。 13 高 野 六 郎 ﹃ 予 防 の 出 来 る 病 気 ﹄ 四 條 書 房 、 一 九 三 一 年 、 八 ∼九頁。 14 同書、三八七頁。 15 前掲﹃屎尿屁 随筆﹄ 、一二頁。 16 前掲﹃予防の出来る病気﹄ 、三四頁。 17 同書、八四頁。 18 前掲﹃便所の進化﹄ 、四七頁。 19 前掲﹃予防の出来る病気﹄ 、八四頁。 20 同書、八五頁。 21 内 務 省 衛 生 局 ﹃ 内 務 省 実 験 所 考 案 改 良 便 所 ﹄ 一 九 二 七 年 、 一頁。 22 こ の 冊 子 は 、 そ の 前 書 き に よ れ ば 、 内 務 省 で ﹁ 目 下 調 査 研 究 中 ﹂ の 改 良 便 所 に つ い て 、﹁ 現 在 の 研 究 成 績 を 基 礎 と し て 考 案 し た 改 良 便 所 に 通 俗 的 な 説 明 を 加 へ た も の ﹂ で あ る と し て いる。 23 五 槽 式 の 便 池 と は 、 便 池 を 四 枚 の 中 隔 で 区 切 り 五 室 の 構 造 を 持 つ 便 池 で 、﹁ 貯 溜 式 改 良 便 所 と し て は 最 も 完 全 な も の ﹂ ︵ 増 山 新 平 ﹃ 新 し い 構 造 図 解 台 所 浴 室 及 便 所 設 備 ﹄ 大 洋 社 、 一九三八年、一五四頁︶とされていた。 24 内 務 省 衛 生 局 編 集 ・ 発 行 ﹃ 内 務 省 実 験 所 考 案 改 良 便 所 ﹄ 一九二七年、一一頁。25 前掲﹃便所の進化﹄ 、四七頁。 26 同書、四八∼四九頁。 27 同書、四九頁。 28 同書、四九∼五〇頁。 29 こ れ に 対 し 、 高 野 が 考 案 し た 三 槽 式 汲 取 便 所 が 、 実 際 に は 高 野 の 意 図 ど お り 感 染 症 を 予 防 で き て い な か っ た と す る 検 証 結 果 が あ る 。 こ れ に つ い て は 、 郭 進 財 ・ 中 村 司 郎 ﹁ 内 務 省 式 改 良 便 所 の 長 期 使 用 成 績 ﹂﹃ 久 留 米 医 学 会 雑 誌 ﹄ 第 一 四 巻 第 五 ∼六号、一九五一年六月、九〇∼九二頁、参照。 30 前掲﹃便所の進化﹄ 、五一頁。 31 同書、五二頁。 32 前掲﹃予防の出来る病気﹄ 、三八七頁。 33 同書、三〇九頁。 34 高 野 六 郎 ﹃ 予 防 医 学 ノ ー ト ﹄ 河 出 書 房 、 一 九 四 二 年 、 三九九頁。 35 好 善 社 は 、 一 八 七 三 年 に 米 国 よ り 来 日 し た 長 老 派 教 会 宣 教 師 ミ ス ・ ヤ ン グ マ ン ︵ 一 八 四 一 ∼ 一 九 一 〇 年 ︶ に よ っ て 一 八 七 七 年 に 設 立 さ れ た キ リ ス ト 教 宣 教 団 体 で 、 伝 道 や 教 育 事 業 に 加 え て 、 ハ ン セ ン 病 の 施 設 ﹁ 慰 廢 園 ﹂ を 建 設 し 運 営 し た 。 た だ し 、 慰 廢 園 へ の 入 園 資 格 は ﹁ キ リ ス ト 教 徒 た る を 要 す ﹂︵ 慰 廢 園 規 則 第 五 条 第 一 項 ︶ と さ れ 、﹁ 入 園 患 者 に は 毎 朝 夕 の 祈 祷 会 、 毎 日 曜 日 の 礼 拝 へ の 出 席 が 義 務 づ け ら れ ﹂、 医 療 よ り も 伝 道 を 目 的 と し た 施 設 で あ っ た ︵ 好 善 社 ﹃ あ る 群 像
︱
好 善 社 100年 の あ ゆ み︱
﹄ 日 本 基 督 教 団 出 版 局 、 一九七八年、三三、 三五、 六七∼八〇頁︶ 。︶ 36 好 善 社 ﹃ 社 団 法 人 好 善 社 慰 廢 園 畧 沿 革 ﹄ 好 善 社 団 事 務 所 、 一 九 二 九 年 、 一 ∼ 三 頁 、 前 掲 ﹃ あ る 群 像︱
好 善 社 100年 の あ ゆみ︱
﹄、一六一頁。 37 前掲﹃予防医学ノート﹄三九九、 四〇〇、 四〇四∼五頁。 38 高 野 は 、﹁ 癩 の 細 菌 学 は 行 き 詰 つ て し ま つ て 初 学 者 の 手 を 出 す べ き テ ー マ で は な い と 警 め ら れ た 位 で あ つ た 。 培 養 も 出 来 ず 動 物 移 植 も 出 来 な く て は 全 く 手 の 出 し や う も な い 。 治 療 の 方 面 に し て も 只 大 風 子 油 と か ツ ベ ル ク リ ン と か 、 カ ル チ ュ ー ム と か を 注 射 し て 見 る に 過 ぎ な か つ た 。﹂ と 当 時 の ハ ン セ ン 病 研 究 の 困 難 さ に つ い て 書 き 留 め て い る ︵ 前 掲 ﹃ 予 防 医 学 ノ ー ト﹄ 、三九九頁︶ 。 39 前掲﹃予防医学ノート﹄ 、四〇五頁。 40 高 野 に よ れ ば 、 私 立 の 療 養 所 で あ る ﹁ 慰 廢 園 ﹂﹁ 聖 バ ル ナ バ 医 院 ﹂﹁ 神 山 復 生 病 院 ﹂﹁ 身 延 深 敬 病 院 ﹂﹁ 回 春 病 院 ﹂﹁ 待 労 院 ﹂ に 合 計 ﹁ 四 百 五 十 八 人 ﹂、 公 立 の 療 養 所 で あ る ﹁ 全 生 病 院 ﹂ ﹁ 北 部 保 養 院 ﹂﹁ 外 島 保 養 院 ﹂﹁ 大 島 療 養 所 ﹂﹁ 九 州 療 養 所 ﹂ に 合 計 ﹁ 二 、〇 八 〇 人 ﹂ の 全 体 で 二 、五 三 八 人 と な っ て い る ︵ 高 野 六 郎 ﹁ 民 族 浄 化 の た め に︱
癩 予 防 策 の 将 来︱
﹂﹃ 社 会 事 業 ﹄ 第 一 〇 巻 第 三 号 、 中 央 社 会 事 業 協 会 、 一 九 二 六 年 六 月 、六三頁︶ 。 41 ﹁ 癩 予 防 法 ﹂ は 戦 後 に 再 び 改 正 さ れ 、 ﹁ ら い 予 防 法 ﹂ ︵一九五三年︶として一九九六年まで存続した。 42 内 務 省 衛 生 局 編 集 ・ 発 行 ﹃ 内 務 省 実 験 所 考 案 改 良 便 所 ﹄ 一九二七年。 43 高 野 は 内 務 省 で お こ な っ て い た 改 良 便 所 の 研 究 を ﹁ 糞 の 研 究﹂と呼んでいた︵前掲﹃屎尿屁 随筆﹄ 、一一頁︶ 。 44 高 野 六 郎 ﹁ 癩 の 根 絶 ﹂ 、 ﹃ 公 衆 衛 生 ﹄ 第 四 九 巻 八 号 、 一九三一年八月、大日本私立衛生会、四八八頁。 45 同論文、前掲﹃公衆衛生﹄ 、四八八頁。 46 同 論 文 、 前 掲 ﹃ 公 衆 衛 生 ﹄、 四 八 八 ∼ 九 頁 。 な お 、 高 野 は 、 全 部 収 容 と 療 養 費 の 公 費 負 担 以 外 と し て 、 発 症 者 の 就 業 制 限 や 医 師 ・ 公 務 員 等 の 守 秘 義 務 を 列 挙 し て い る ︵ 同 論 文 、 前 掲 ﹃公衆衛生﹄ 、四八九頁︶ 。 47 高 野 は 一 九 三 一 年 の 段 階 で 、﹁ 療 ママ ︹ 癩 の 誤 植
︱
引 用 者 注 ︺ 患 者 の 全 部 隔 離 は 一 種 の 理 想 案 で あ つ て そ う 急 に 収 容 施 設 が 完 成 す る も の で は な い 。 其 所 に 実 際 の 問 題 が あ る 。﹂ ︵ 同 論 文 、 前 掲 ﹃ 公 衆 衛 生 ﹄、 四 九 一 頁 ︶ と 述 べ 、 発 症 者 全 員 を 隔 離 収 容 す る 方 策 は 理 論 的 に は 正 し く と も 、 実 際 上 は 、 予 算 措 置 な ど の問題等で実現が容易でないことを認識していた。 48 高 野 六 郎 ﹃ 国 民 病 の 予 防 と 撲 滅 ﹄ 保 険 衛 生 協 会 、 一 九 三 九 年、二九七頁。 49 同書、二九八頁。 50 同 書 、 三 〇 〇 頁 。 高 野 は 、﹁ 現 在 に 於 て は 猶 ほ 多 数 の 癩 患 者 が あ り 、 且 つ 未 収 容 の 患 者 が 過 半 数 の 状 態 で は あ る が 、 恐 ら く こ ゝ 暫 く の 間 に 癩 の 減 少 は 著 し く 現 は れ 、 其 れ が 加 速 度 的 に 著 明 と な り 、 癩 療 養 所 を 縮 小 す る 勢 に も 至 る で あ ら う と 思 は れ る の で あ る 。 施 設 は 増 加 さ れ 、 患 者 は 減 る の だ か ら 、 何 れ は 全 患 者 収 容 の 時 期 が 来 た り 、 次 で 全 患 者 根 絶 と な る こ と は 期 し て 俟 つ べ き で あ る 。﹂ ︵ 同 書 、 三 〇 九 頁 ︶ と 述 べ て い る よ う に 、﹁ 速 に 新 し い 計 画 を 立 て て 全 部 収 容 に 邁 進 す べ き か ﹂ ど う か に つ い て は 、 総 合 的 に 判 断 す べ き 政 策 上 の 問 題 と 考 え ていたようである。 51 同 書 、 三 〇 一 頁 。 高 野 は ノ ル ウ ェ ー の 例 を 挙 げ 、﹁ 例 え ば 諾 威 の 癩 に し て も 、 最 高 患 者 三 千 人 に 対 し て 最 高 収 容 は 七 百 人 に 過 ぎ な か つ た が 、 六 十 年 間 に 僅 か に 数 名 の 患 者 を 残 す の み となつた﹂と説明している︵同書、三〇一頁︶ 。 52 同書、二九八頁。 53 同 書 、 二 九 八 、三 〇 一 頁 。 な お 、 感 染 予 防 の た め に 全 部 隔 離 が 必 要 で あ る か 否 か に つ い て は 当 時 、 学 会 で も 論 争 が あ り 、 全 部 隔 離 に 批 判 的 立 場 を と っ て い た 小 笠 原 登 や 太 田 正 雄 ら を 挙げることができる。 54 同書、三〇〇頁。 55 同書、二九八頁。56 同書、二九八頁。 57 同書、三〇七頁。 58 高 野 六 郎 ﹁ 民 族 浄 化 の た め に