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金沢城下町の都市的研究 : 住空間の史的展開過程に関する研究 (その17)

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(1)

Kobe Shoin Women’s University Repository

Title

金沢城下町の都市的研究-住空間の史的展開過程に関する

研究・その 17

Urban study on the old Kanagawa castle town

Author(s)

島村 昇(SHIMAMURA Noboru)

Citation

生活科学論叢(Review of Living Science)

No.33:1-28

Issue Date

2002

Resource Type

Bulletin Paper / 紀要論文

Resource Version

URL

Right

(2)

金沢城下町の都 市 的研 究

住 空 間 の 史 的 展 開 過 程 に 関 す る 研 究(そ の17)

は じめ に

本 論 は 、本 学 の2001年 度 特 別 研 究 助 成 に よ って 行 っ た研 究 の一 部 を要 約 した もの で あ る 。 従 来

の研 究 の継 続 と して2001年 度 は 、 金 沢 城 下 町 の 都 市 住 居(武

家 住 居 、 町 人 住 居)の 成 立 基 盤 と な

る城 下 の空 間 的 ・人 的 構 成 を追 求 した 。

1城

下の空間構成

1-1完

成 期 城 下 町 の古 図

延 宝 金 沢 古 図 で は城 下 町 の 空 間 構 成 は 、全 面 積 は804ha、 内 部 の 構 成 比 率 は 武 家 地60%、

町 地

20%、

寺 地10%、

そ の 他10%と

い う結 果 を え た[表1-1]。

そ の 後 、 城 下 町 は1∼2割

の 面 積

増 加 を し、 また 人 口 も増 加 す る が 、 城 下 町 の最 終 段 はい う まで も な く藩 末 で あ る。 藩 末 は 近 世 封

建 社 会 の結 論 的 な状 況 を示 す と同 時 に 、 近 代 以 降現 代 に至 る 近 現 代 社 会 の ス ター ト ・ラ イ ンに あ

た る。 両 方 の 意 味 に お い て 藩 末 の 完 成 期 城 下 町 は 重 要 な意 味 を もっ て い る。

完 成 期 城 下 町 の 空 間構 成 につ い て は 、 天 保 金 沢 図(金

沢市 立 図書 館 蔵 、77cm×124cm)を

ベ ー

ス とす る 。 武 家 地 と寺 地 は宅 地 割 まで 描 か れ て い るが 、城 郭 内 部 、 足 軽 組 地 、 町 地 は そ の 限 りで

は な い。 一 枚 の 絵 図 に よ っ て城 下 の 実 態 を捉 え る こ とは む つ か しい 。 そ の た め 、 城 郭 内 部 に つ い

て は金 沢 城 要 図(金

沢借 行 社 研 究 資 料8、 篇 纂 部)、 足 軽 組 地 につ い て は足 軽 組 屋 敷 図(金 沢 市 立

図 書 館 蔵)、 町 地 につ い て は 金 沢 町 方 絵 図(金

沢 市 立 図書 館 蔵)に

よる が 、不 足 分 は金 沢 市 内 町

図 、 道 路 台 帳 附 属 平 面 図(金 沢 市 保 管)に

よ り補 充 した[図1-1]。

以 上 の城 郭 、 武 家 地 、 町 地 、 寺 地 な どは面 的 な ひ ろ が りを もっ て い る が 、 街 路 ・水 系 は線 的 で

あ り、面 積 把 握 が む つ か しい 。 と くに街 路 は都 市 構 成 の 重 要 な 要 素 で あ る の で 、 城 下 絵 図 と は別

に金 沢 草 図(石 川 県 立 図 書 館 蔵)に

よ っ た 。 水 系 は 天 保 金 沢 図 と金 沢 草 図 に描 か れ て る もの に よ

る。 こ れ らは 延 長 、平 均 幅 員 に よ り面 積 算 定 を行 っ て い る。

1

(3)

[表1-1]延 宝 期(1673∼1680年)城 下 の 空 間 構 成

構 成 部 分

面 積 (ha)

構 成 部 分

面 積 (ha)

構 成 部 分

面 積 (ha) 1金 沢 城 ・濠 29.1

1本

多 安 房

28.8

1本

53.4 (5万 石)

(4) 2地

子 町

15.9

2御

蔵屋敷

5.8

2長

九 郎 三 衛 門

13.6

3地

69.0

(3.3万 石)

3公

事 場

0.5 (2) 七

3横

山外記

20.5

138.3

4御

算 用 場

0.4

A (3万 石) (比 率 、%)

(17)

4前

田対 馬

5.9

5御

作事所

3.5

(1.8万 石)

1東

山寺 院 群

5.9

5奥

村 因幡

6.5

(5)

2寺

町寺 院群

19.9

(11 6御

普請会所

0.6

(1.7万 石)

3そ

の他 諸 寺 院

31.8

7御

宮 別 当

0.6

6奥

村伊予

5.9

(ユ.2万 石)

57.6

8女

0.9

7前

田三 左 衛 門

1.5 (比 率 、%)

(7)

(1,1万 石)

9御

貸 家

1.8

1浅

野 川

13.4

82.7

2犀

22.5

10馬 場(2ケ 処) 2.2 (比 率 、%)

(10)

(6)

3火

除 地

1.0 11的 場

0.4

1人

90.8

4崖 ・土 堤 13.3 (上 ・下 屋 敷)

5百

姓 地

16.5 12明 地

4.8

(3) 武 2平 士 ・与 力 ・ 御 歩 205.8

6無

名 地

48.1

13内

総 横 堀

14外

総 横 堀

3.6 8.3

1関

3足

4仲

間 ・小 者

45.2 6.3

(比 率 、%)

114.8

(14)

62.5 1

348.1

804.0 (比 率 、%〉

(8)

(比 率 、%)

(43)

(比 率 、%)

(100)

(註)延 宝 金 沢 図(石 川 県 立 図 書 館 蔵 、202cm×175cm)の12縮 小 図 の25mメ ッ シ ュ計 測 値 。 元 禄3 (1690)年 、 七 家 に 村 井 藤 十 郎(1.65万 石 余 、5,0ha)が 加 え ら れ 八 家 と な る 。 上 表 で は 村 井 分 は 人 持 に 入 れ て い る 。 仲 間 ・小 者 は士 分 で は な い が 、 武 家 に 仕 え る の で こ こ に 入 れ る 。

以 上 の作 業 に よ り、 藩 末 金 沢 城 下 町 につ い て の 全 面 積 、 居 住 地 別 面 積 、 街 路 率 、 宅 地 数 、 宅 地

規 模 等 の 空 間 的 実 態 を把 握 す る こ とが で き る 。 面 積 計 測 に あ た っ て は 、25mメ

ッ シ ュ に よ っ

た 。 な お 、金 沢 城 下 町 古 図 につ い て は 、 田 中 喜 男 「

城 下 町 古 図 に つ い て」(金沢 経 済 大 学 論 集 、 第

7巻 第1号

、1973年)に

詳 しい 。

2

(4)

1-2完

成 期 城 下 町 の空 間 構 成

藩 末 期 城 下 の 空 間 構 成 は[表 工一2]の よ う で あ る 。[表1-1]に 示 した 延 宝 期 か ら 約150年 後 の 状 況 で あ る 。 城 下 域 の 全 面 積 は804.Ohaか ら996.4haに 増 加 し て い る 。 増 加 分 は192.4ha、 約 200haで あ る[表1-2]。 増 加 分 の 内 容 を み る と 、 武 家 地 は53.5haの 増 加 で あ る 。 こ れ は 全 増 加 分(192.4ha)の28%に あ た る 。 武 家 地 の う ち 藩 関 係 施 設 の 増 加 分 は2.2haで 僅 少 で あ る が 、 そ の 他 の 武 家 地(八 家 、 人 持 、 平 士 、 足 軽)は10∼16haの 増 加 で あ る 。 次 に 町 地 は97.9haの 増 加 で 、 こ れ は 全 増 加 分(192.4ha)の51%に あ た る 。 全 増 加 分 の 約 半 分 が 町 地 の 増 加 に よ る の で あ る 。 町 地 の 拡 大 が 城 下 拡 大 の 大 き な 要 因 に な っ て い る こ とが わ か る 。 次 に 寺 地 は34.1haの 増 加 で 、 こ れ は 全 増 加 分(192.4ha)の18%に あ た る 。 寺 院 群 の 建 設 に よ る 増 加 分 で あ る 。 以 上 の 増 加 分 は 宅 地 で あ る が 、 宅 地 以 外 の 城 下 構 成 要 素 に つ い て み る と 、 河 川 に つ い て は 浅 野 川2.7ha増 、 犀 川10.1ha増 で あ る 。 河 川 の 増 加 は 、 河 川 沿 い の 宅 地 の 発 達 に よ っ て 城 下 域 に 含 ま れ る 河 川 の 流 域 面 積 が 増 加 す る か ら で あ る 。 両 河 川 の 増 加 分 は12.8haで 、 こ れ は 全 増 加 分(192. 4ha)の7%に あ た る 。 崖 ・土 堤 の 増 加1.9haも 城 下 域 の 拡 大 に と も な う も の で あ る が 、 全 増 加 分 (192.4ha)か ら み る と 僅 少 量 で あ り1%に す ぎ な い 。 次 に 百 姓 地 ・無 名 地 は7.8haの 減 少 で あ る 。 全 増 加 分(192.4ha)か ら み る と4%の 減 少 で あ る 。 こ の 減 少 は 、 百 姓 地 ・無 名 地 の 町 地 化 が 主 因 で あ る 。 以 上 の よ う な 移 行 過 程 を へ て 完 成 期(藩 末 期)の 城 下 町 が 形 成 さ れ て い る が 、 そ の 結 果 は 、 武 家 地546.8ha(55%)、 町 地236.2ha(24%〉 、 寺 地91.7ha(9%)、 河 川48.7ha(5%)、 崖 ・土 堤 ・ 火 除 地162ha(2%)、 百 姓 地 ・無 名 地56.8ha(6%)と な り、 全 城 下 面 積 は996.4ha(100%) で あ る 。 明 治22(1889)年 、 市 制 施 行 当 時 の 金 沢 市 域 面 積 は1,040haで あ っ た か ら 、 当 時 の 金 沢 市 域 は ほ ぼ 城 下 域 で あ っ た こ と が わ か る 。

ま た 、 上 記 の 完 成 期 城 下 町 の 全 面 積996.4haに は 、 と う ぜ ん 街 路 が 含 ま れ て お り 、 そ の 面 積 は 95.Ohaで あ る 。 そ の 内 訳 は 、 武 家 地50.9ha、 町 地32.6ha、 寺 地5.4ha、 百 姓 地 ・無 名 地6.1haで あ る 。 街 路 に つ い て は 、 後 に 詳 論 す る が 、 金 城 下 町 の 街 路 率 は9,5%(95.Oha÷996.4hax100)

で あ る 。 な お 、 用 水 路 は 、 僅 少 量 の た め 、 街 路 に 沿 う も の は 街 路 に 、 宅 地 内 を 貫 流 す る も の は 宅 地 に 含 め る[表1-3]。

(5)

[表1-2]延

宝 期 と藩 末 期 の城 下 空 間 構 成 比 較

延 宝 期

藩 末 期

増 減 分

面 積 (ha)

比 率

(%)

面 積 (ha)

比 率

(%)

面 積 (ha)

比 率

(%)

(1)藩 関 係 施 設 ② 七 家(八 家) (3)人 持 (4)平 士 ・与 力 ・御 歩 (5)足 軽 ・仲 間 ・小 者

62.5

82.7

90.8

205.8

51.5

8

10

11

26

6

64.7

96.7

101.6

216.3

67.5

6 ユ0 10 22 7 十2.2 十14.0 十10.8 十10,5 十16.0 十1 十7 十6 十5 十8

493.3 61 546.8

55

十53.5 十28 町 地・

(6)町 地 (7)寺 地

138.3

57.6

17 7

236.2

91.7

24

9

十97.9 十34.1 十51 十18

(8)浅 野 川 (9)犀 川 O① 崖 ・土 堤 ・火 除 地 ω 百 姓 地 ・無 名 地

13.4

22.5

14.3

64.6

2

3

2

8

16.1

32.6

16.2

56.8

2 3 2 6 十2,7 十10.1 十1.9 -7 .8 十1 十5 十1 -4

114.8

14

121.7

12 十6.9 十4

804.0

100 996.4

100

十192,4 十100 一 (註)延 宝 期 は[表1-1]、 藩 末 期 は[図1-1]の 計 測 値 に よ る 。 な お 、 上 表 中 の(1)∼(7) お よ び01〕は 街 路 を 含 み 、 そ れ ぞ れ の 街 路 面 積 は 、11)4.8ha、(2)9.2ha、(3)8.6ha、(4)20.4ha、(5) 7.9ha、(6)32.6ha、(7)5.4ha、(11)6.1ha、 計95.Ohaで あ る 。

[表1-3]完

成 期 城 下 の 種 別 宅 地 ・街 路 面 積 ・比 率

藩関係

施 設

八 家

上屋敷

人 持 .ヒ屋敷

平士級

屋 敷

八 家

下屋敷

人 持

下屋敷

足 軽

組 地

町 地 寺

地 その他

1町 川 幣 土堤 宅 地(ネ ッ ト、ha) 街 路(ha)

59.9

4.8

21.5

1.7

4419

3.6

195.9 20.4

66.0

7.5

48.1

5.0

59.6

7.9

203.6 3216 86.3 5.4

50.7

6.1

836.5

95.0

64.9 計(グ ロ ス 、ha)

64.7

23.2 48.5

216.3

73.5 53.1

6715 236.2

91.7 56.8 931.5 996.4

ネ ッ ト比 率(%)

グ ロス 比 率(%)

6 6 2 2 5 5 20 22 7 7

5

5

6 7

20

26

9 9

5

6

84

93

100

100

街 路 率(%)

7.4 7.3 7.4

9.4

10.2

9.4 11.7

13.8

5.9 10.7 102 9.5 一 一4

(6)

1-3武

家 の 階層 構 成

藩 末 に お い て 約10k㎡ の 城 下 面 積 を も つ に 至 っ た 金 沢 は 、 そ の 都 市 構 成 の 基 本 を 封 建 的 身 分 制 に 置 い て い た 。 い わ ゆ る 士 農 工 商 の 階 級 階 層 で あ る 。 士 の 武 家 、 工 商 の 町 人 、 農 の 農 民 は 封 建 社 会 の3大 階 級 で あ り、 そ れ ぞ れ の 階 級 内 部 に は ま た 何 段 階 か の 階 層 が 存 在 し た 。 本 巻 の 対 象 と す る 都 市 住 居 は 、 上 記 の 武 家 と 町 人 の 住 居 が 主 た る 対 象 と な る 。 ま ず は 、 そ れ ら の 住 居 の 成 立 背 景 と な る 階 級 ・階 層 構 成 に つ い て み る 。 武 家 階 級 は 、 い う ま で も な く藩 主(前 田 家)を 頂 点 と し 、 そ れ に 仕 え る 多 数 の 家 臣 団 に よ っ て 構 成 さ れ る 。 家 臣 団 を 藩 士 と い う 。 藩 士 の 中 に 諸 階 層 が 定 め ら れ て い る 。 武 家 の 諸 階 層 は 次 の よ う で あ る が 、 そ れ に 先 立 っ て 、 藩 主 の 居 城 お よ び 支 配 関 係 諸 施 設 の 規 模 を列 挙 す る と 、 城 郭(38. 6ha)、 兼 六 園(13.Oha)、 公 事 場(裁 判 所 ・0.9ha)、 御 算 用 場(1.3ha)、 御 普 請 会 所(0。4ha)、 新 堂 形 御 殿(1.lha)、 壮 猶 館(西 洋 武 学 校 、1.6ha)、 経 武 館 ・明 倫 堂(武 学 校 、 文 学 校 、2.7ha)、 町 会 所(0.3ha)、 合 計59,9ha、 街 路 を 含 め る と64.7haに な り、 こ れ は 全 城 下 域 面 積(996.4ha) の6%に あ た る 。 (D八 家(ハ ッ カ) 家 臣 団 の 中 で 最 高 の 家 格 を も ち 、 禄 高 も ユ万 石 以 上 で あ る 。 元 禄3(1690)年 、 村 井 家 が 加 わ り 八 家 と な っ た が 、 そ れ 以 前 は 七 家 で あ る 。 元 禄3年 の 八 家 成 立 時 の 八 家 を 禄 高 川頁に 列 挙 す る と 、 本 多 家(5万 石)、 長 家(3.3万 石)、 横 山 家(3万 石)、 前 田 家(L8万 石 、 長 種 系)、 奥 村 家 (1.7万 石 、 永 福 系)、 村 井 家(1.66万 石)、 奥 村 家(1.2万 石 、 易 英 系)、 前 田 家(1.1万 石 、 直 之 系)で あ る 。 加 賀 藩 は 大 藩 で あ っ た か ら 、 家 臣 の 八 家 で も 小 藩 の 藩 主 並 み の 禄 高 を 誇 っ て い る 。 八 家 は1万 石 以 上 で あ る 。 八 家 の 全 拝 領 地 は96.7haで 全 域 下 域 面 積(996.4ha)の10%に あ た る 。 1家 当 た り12,1ha(約36,600坪)で あ る 。 そ の う ち 、 上 屋 敷 は1家 当 た り 約2.7ha(約8,000坪) で あ る 。 ② 人 持(ヒ トモ チ) 人 持 は 上 の 八 家 に つ ぐ 身 分 で 、 禄 高 は1万 石 か ら1,000石 で あ る(た だ し 、 今 枝 家 の1.4万 石 は 例 外)。 こ の ク ラ ス は 各 家 に 従 士 を も つ こ と か ら 、 ヒ トモ チ(人 持)ま た は ヒ トモ チ グ ミ(人 持 組 〉 と い わ れ る 。 上 記 の 八 家 も 人 持 で あ る が 、 と く に 家 格 の 上 位 性 や 要 職 を 担 う 関 係 で 八 家 と い う 。 人 持 の 居 屋 敷 を 上 屋 敷(カ ミ ヤ シ キ)と い ・、 そ の 従 士 の 居 住 地 を 下 屋 敷(シ モ ヤ シ キ)と い う 。 従 士 は ま た 家 中(カ チ ュ ウ)と も い わ れ る 。 一 般 的 に は 陪 臣(バ イ シ ン)で あ る 。 人 持 は 68家 あ り 、 こ れ ら の 全 拝 領 地 は101.6haで 、 全 域 下 域 面 積(996.4ha)の10%に あ た る 。1家 当 た り1.5ha(約4,500坪)で あ る 。 そ の う ち 、 上 屋 敷 は1家 当 た り0.7ha(約2,000坪)で あ る 。 (3)平 士(ヘ イ シ) 人 持 に つ ぐ 階 層 と し て 平 士 が あ る 。 平 士 は 禄 高2,000石 か ら50石 と 大 き な 幅 を も っ て い る 。 い 5

(7)

わ ば 階 層 内 階層 とい うべ き もの で あ る 。 人 持 の従 士 と異 り、 藩 主 に直 属 す る た め 直 臣平 士 と もい

う。 士 分 の 大 半 が この 階 層 に属 し、 約1,500家 を数 え る 。 この 平 士 ク ラス ま で が 藩 主 に直 接 接 見

す る資 格 を もつ 。 平 士 の居 住 地 は195.9haで

、 全 城 下 域(996.4ha)の20%に

あ た る。1家

当 た り

約1,300㎡(約400坪)で

あ る。

(4)与

力(ヨ

リキ)

与 力 は藩 主 か ら上 記 の 八 家 や 人 持 に所 属 を命 じ ら れ た 藩 士 で 、禄 高 は300石 か ら60石 に わ た

る 。 約200家 が こ の 階層 に 属 す る 。 次 の 御 歩 と と も に八 家 や 人 持 の 拝 領 地 内 に 居 住 す る 。 そ の 居

住 地 が 下 屋 敷(シ

モ ヤ シ キ)と い われ る もの で 、 家 中 町(カ チ ュ ウマ チ)と

も呼 ば れ る。 全 下 屋

敷 の 家 数 は 約2,000家 で あ る。 全 下 屋 敷 は114.1haに

及 び 、 全 城 下 域(996.4ha)の11%に

あ た る 。

1家 当 た り約600m2(約170坪)で

あ る。

(5)御 歩(オ

カチ)

御 歩 は馬 を使 用 しな い歩 立(カ チ ダチ)の 歩(カ

チ 、 古 くは徒)に

由来 す る名 称 で 、軽 輩 の 歩

兵 で あ る 。 俸 給 は切 米(藩

か ら俵 米 が 支 給 さ れ る こ と)50俵

か ら30俵 で あ る 。

足軽(ア

シ ガ ル)

足 軽 は軽 装 の 士 に 由 来 す る名 称 で あ り、 そ の 中 に小 頭(コ

ガ シ ラ)、 平 足 軽(ヒ

ラ ア シ ガ ル)、

御 小 人(オ コ ビ ト)の 区 分 が あ り、職 務 は 多岐 に わ た る。 俸 給 は小 頭 ク ラ スが50石 か ら切 米50俵 、

平 足 軽 以 下 は さ らに小 禄 で あ る。 な お 、 こ の 足軽 ク ラス まで が 士 分 と して み とめ られ る 。 そ の下

の 仲 間(チ

ュ ウ ゲ ン)、 小 者(コ

モ ノ)等 の 武 家 奉 公 人 は士 分 で は ない 。 足 軽 等 の 居 住 地 は 足 軽

組 地 と い わ れ る も の で 、 家 数 は 約2,800家 で あ る 。 組 地 の 総 面 積 は67.5haで 、 全 城 下 域(996.4

ha)の7%に

あ た る。1家

当 た り約240㎡(約70坪)で

あ る 。

1-4町

人 の 階 層 構 成

武 家 につ づ い て 町 人 の 階 層 構 成 で あ る 。 町 人 の 階層 構 成 は 、 家 柄 ・財 産 ・職 種 に よ っ て本 町 、

地 子 町 、 相 対 請 地 の3種

に 区別 され る 。

(1)本

町(ホ

ンマ チ)

本 町 は上 層 町 人 の 居 住 す る 町 地 を意 味 す る。 家 柄 町 人(藩

御 用 をつ とめ る 町 人)を 含 む 上 層 町

人 の 町 家 地 区 で 、 武 家 の拝 領 地 に準 じて 地 子(ヂ

シ1地 祖)を

納 め る必 要 が な か っ た 。 これ は本

町 上層 町 人 の特 権 で あ る 。 た だ し、 家 にか か る 夫 役(ブ

ヤ ク:城 下 町 の 維 持 ・管 理 に 要 す る 人夫

賃)、 役 銀(町 支 配 の役 人 の給 与 ・つ け 届 け の 費 用)は 負 担 した 。 本 町 の 町 数 は40町 、 家 数 は 約

2,200家 を数 え る。

地 子 町(ヂ

シ マ チ)

地子 町 は 中層 ・下 層 町 人 の 居 住 地 で 、 地 子(地

祖)を

負 担 す る と こ ろ か ら こ の 名 が あ る 。 地 子

6

(8)

を払 うか わ りに本 町 の よ う に夫 役 ・役 銀 は 負 担 しな い 。 た だ し、 地 子 町 の 中 に と くに七 ヶ所 地 子

町 と い う地 区 が あ り、 こ こは夫 役 を負 担 した 。 七 ヶ所 は 本 来 、7町

を意 味 して い る が 、逐 次 町 数

を増 し、後 に18町 に及 ん だ 。 そ の 他 、寺 社 の 領 地 に建 つ 町 家 で は 寺 社 に地 子 を納 め る寺 社 門 前 地

の 地 子 町 も あ っ た が 、 時 代 が 降 る に し た が っ て 町 奉 行 支 配 下 に置 か れ る。 地 子 町 の 家 数 は 約

7,000家 に及 ぶ 。

(3)相

対 請 地(ア

イ タ イ ウケ チ)

相 対 請 地 は 下 層 町 人 の居 住 地 を意 味 す る 。 武 家 や 町 人 と農 民 の 問 に賃 貸 関 係 を 結 ん だ土 地 が 相

対 請 地 で あ る 。 城 下 町 の成 熟 に と もな っ て 増 加 す る農 村 か らの 流 入 人 口 は 、 武 家 ・町 方 奉 公 人 や

日雇 人 夫 な ど と な っ て城 下 周辺 の 請 地 に 居住 した。 都 市 下 層 労 働 者 の 居 住 地 で あ る 。 こ れ らの 底

辺 労働 者 の居 住 地 は、 旧城 下 町 の 中 に は 入 りき らず 、 い きお い 城 下 周 辺 の 農 地 を請 地 と して 宅 地

化 せ ざ る を え な か っ た の で あ る。 相 対 請 地 は しだ い に地 子 町 に 組 み 入 れ られ る が 、 そ の家 数 は約

5,800家 で あ る。

以 上 の よ う に、 町 人 の 階層 は そ の 居 住 地 の 町 格 に よ っ て表 わ され る 。 も ち ろ ん 、 同一 の 町 格 内

部 にお い て も上 下 の 階 層 内 階 層 分 化 は み られ る が 、 町 人 の 身 分 が 居 住 地 に よ っ て な さ れ る の は 、

武 家 の 家 格 ・禄 高 に よる 階層 区 分 とや や 異 る。 武 家 は 個 人 に対 して 身分 ・俸 給 が 与 え られ る の に

対 して 、 町 人 は 一 定 の 集 団 と して 身分 が 与 え ら れ る 。 こ こ に個 と集 団 の差 が 現 わ れ る。 そ れ が 階

級 差 で あ る 。 町 地 の 占 め る全 土 地 面 積 は203.6ha(町

本40,9ha、 地 子 町162.7ha)で

、 全 城 下 域(9

96.4ha)の20%に

あ た る。 こ こ に居 住 す る 町 人 の 家 数 は 約15,000家 で 、1家

当 た り140㎡(約40

坪)で

あ る。

1-5・ 寺 地 ・そ の 他 の 内 容 金 沢 城 は 中 世 末 の 一 向 一 揆 の 拠 点 ・金 沢 御 堂 の 跡 に 建 造 さ れ た も の で あ る 。 藩 は 当 時 の 一 向 宗 徒 の 勢 力 を 弱 め る た め に 、 他 宗 の 導 入 、 寺 院 の 再 配 置 を 貫 行 し 、 こ れ を 寺 社 奉 行 支 配 下 に 置 い た 。 そ の 結 果 、 寺 院 は 群 と して 扱 わ れ 、 寺 院 群 を形 成 し た 。 浅 野 川 北 側 の 卯 辰 山 麓 寺 院 群(65寺 院 、 ユ8.ユha)、 犀 川 南 側 の 寺 町 寺 院 群(86寺 院 、26.1ha)が 今 日 で も 著 名 で あ る が 、 城 下 東 に は 小 立 野 台 寺 院 群(50寺 院 、31.9ha)、 城 下 西 の 平 坦 部 に は 比 較 的 散 在 的 な 寺 院(50寺 院 、10,2ha) が 配 置 さ れ て い る 。 こ れ ら の 寺 院 群 の 合 計 は 、251寺 院 、86.3haで あ る(寛 政 年 間(1789∼1800 年)の 記 録 で は 、 寺 社296区 と な っ て い る[表1-4])。 寺 院 の 占 め る 面 積86.3haは 、 全 城 下 域(996.4ha)の9%に あ た り、1寺 院 当 た り約3,400㎡ (約1,000坪)で あ る 。 武 家 の 人 持 ク ラ ス の 上 屋 敷 は1家 当 た り約2,000坪 で あ っ た か ら 、 人 持 上 屋 敷 の 約 半 分 の 規 模 で あ る 。 ま た 、 平 士 ク ラ ス で は1家 当 た り約400坪 で あ っ た か ら 、 平 士 ク ラ ス の2.5家 分 で あ る 。 こ の よ う に 武 家 の 宅 地 規 模 と 比 較 す る と 、 寺 院 の 置 か れ て い た 地 位 が よ く 7

(9)

[表1-4]城

下 の 家 数 ・人 ロ 関 係 資 料

(10)

わ か る。 天 徳 院(3代

藩 主 ・利常 夫 人 の墓 所 、11.4ha)の

よ うな 超 大 型 の 寺 院 は 特 別 の 地 位 に あ

る が 、 これ を除 い た250寺 院 で は 、1寺 院 当 た り900坪 とな る 。

次 に、 そ の他 の 内 容 を み る 。 武 家 地 、 町 地 、 寺 地 な どは 用 途 が 明 らか で あ るが 、 城 下 に は 少 量

多種 の 用 地 が散 在 し、 そ れ ら を合 わせ て 「そ の 他 」 に 一括 して い る。 そ の 他 は50.7ha、 全 城 下 域

(996.4ha)の5%に

あ た る。 そ の 内 容 は 百 姓 地(替 地)、 請 地 、水 溜(防 火 用 水)、 角 場 、 射 場 、

的場(武 術 訓 練 場 、足 軽 組 地 に 附属 す る)、 馬 場 、芝 居 小 屋(南 北)、 花 畑 、桃 畠、 畑 、 大 小 屋(倉

庫)、 空 地 等 で あ る。 これ らの 街 区 数 は396街 区 に 及 び 、1街

区 当 た り1,280㎡(36m角

、約400

坪)で

あ る 。多 種 の 用 途 を もつ 非 住 居 用 地 も ま た都 市 生 活 に必 要 な空 間 と して見 逃 す こ とが で き

な い 。

1-6完

成 期 の 都 市 的性 格

以 上 に み て き た よ う に 、 完 成 期 の 城 下 は 、(1)藩 関 係 施 設59.9ha(6%)、(2)八 家 上 屋 敷21.5ha (2%)、(3)人 持 上 屋 敷44.9ha(5%)、(4)平 士 級 屋 敷195.9ha(20%)、(5)八 家 下 屋 敷66.Oha(7 %)、(6)人 持 下 屋 敷48.lha(5%)、(7)足 軽 組 地59.6ha(6%)、(8)町 地203.6ha(20%)、(9)寺 地 86.3ha(9%)、(1① そ の 他50.7ha(5%)、 ⑪ 街 路95.Oha(10%)、 佃)河 川 ・崖 ・土 堤64.9ha(7 %)で 、 合 計996.4ha(100%)で あ る 。 い ま 、 か り に こ の 全 城 下 域(996.4ha)を 城 郭 を 中 心 と す る 円 に み な す と 、 半 径 は 約1,800mと な り、 城 郭(半 径400mの 円 と み な す)を 取 り巻 く城 下 の 円 環 の 幅 は1,400mと な る 。 す な わ ち 、 城 下 端 部 か ら城 郭 へ の 直 線 距 離 は1,400mと な り、 歩 行 速 度 を 毎 分60mと す れ ば 歩 行 時 間 は24分 と な る 。 実 際 に は 直 線 的 に 歩 行 す る こ と は 不 可 能 で 、 街 路 を 曲 屈 し て 歩 行 す る と2割 程 度 延 長 さ れ る が 、 そ れ で も30分 程 度 で あ る 。 歩 行 を 主 た る 交 通 手 段 と す る 近 世 都 市 で は 、 こ の 点 か ら も 都 市 の 規 模 や 形 状 は 制 約 さ れ て い た で あ ろ う 。 城 下 町 は 多 数 の 家 臣 団 や 町 人 の 集 住 す る 住 宅 都 市 で あ る 。 そ の 点 、 現 行 の 住 宅 都 市 ・ニ ュ ー タ ウ ン と 類 似 す る 性 格 を も っ て い る 。 い ま 、 金 沢 城 下 町 に 近 い 規 模 を も つ ニ ュ ー タ ウ ン と 対 比 す る と[表1-5]の よ う で あ る 。 ま ず 、(1)住 宅 用 地 に つ い て は 、 金 沢 城 下 町 で は 八 家 と 人 持 の 上 ・ 下 屋 敷 、 平 士 級 屋 敷 、 足 軽 組 地 、 町 地 が こ れ に 該 当 し 、 そ の 面 積 は639.6ha(約640ha)、(2)公 共 公 益 施 設 に つ い て は 、 藩 関 係 施 設(兼 六 園 を 除 く 、46.9ha)、 寺 地(86.3ha>、 そ の 他(50.7ha) が こ れ に 該 当 し、 そ の 面 積 は183.9ha(約184ha)、(3)道 路 用 地 に つ い て は 、95.Oha、(4)公 園 緑 地 用 地 に つ い て は 、 兼 六 園(13.Oha)、 崖 ・土 堤 ・火 除 地(16.2ha)が こ れ に 該 当 し 、 そ の 面 積 は 29.2ha(約29ha)、(5)水 路 河 川 用 地 は 浅 野 川(16.lha)、 犀 川(32.6ha)が こ れ に 該 当 し、 そ の 面 積 は48.7ha(約49ha)で あ る((1)∼(5)の 合 計 は 四 捨 五 入 の 関 係 で997haと な り 、 全 城 下 域996.4ha を 上 廻 っ て い る)。

(11)

[表1-5]金

沢城 下 町 とニ ュ ー タ ウ ンの 空 間 構 成 比 較

城 下 町(封 建 都 市)と

ニ ュ ー タウ ン(現 代 住 宅

都 市)

金沢城下 町

千 里 ニ ュ ー タ ウ ン (大 阪 府) ウ ッ デ イ タ ウ ン (兵 庫 県) 面 積 (ba)

比 率

(%)

面 積 (ha)

比 率

(%)

面 積 (ha)

比 率

(%)

(1)住

宅 用 地

(2)公

共 公 益 施 設 用 地

(3)道

路 用 地

(4)公

園 緑 地 用 地

水 路 河 川 用 地

640

184

95

29

49

64

18

10

3

5

509

123

251

272

5

44

11

22

23

0

228

112

120

129

9

38 19 20 22 2

997

100

1,160

100

598

1100 (註)金 沢 城 下 町 は[表1-2]、 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン は 「千 里 ニ ュ ー タ ウ ン の 建 設 』(大 阪 府 、 1970年 、26)、 ウ ッ デ ィ タ ウ ンは 「ウ ッデ ィ タ ウ ン土 地 利 用 計 画 表 」(都 市 基 盤 整 備 公 団 関 西 支 社 資 料 、2000年3月 末 現 在)よ り作 成 。

金 沢 城 下 町 と大 阪 府 下 の 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン、 兵 庫 県 下 の ウ ッ デ ィ タ ウ ン を比 較 して 、 際 立 っ た

相 違 は住 宅 用 地 と道 路 用 地 、公 園 用 地 の 差 で あ る 。 住 宅 用 地 に つ い て は 、千 里 ニ ュ ー タ ウ ン44

%、 ウ ッデ ィ タ ウ ン38%と

ニ ュー タ ウ ンが40%前

後 の 値 を示 して い るの に対 して 、 金 沢 城 下 町 は

64%と 高 い 値 を示 して い る。 次 に道 路 用 地 は 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン22%、

ウ ッデ ィ タ ウ ン20%で

あ る

の に対 して 、 金 沢 城 下 町 は10%と

低 い 値 を示 して い る。 最 後 に公 園 緑 地 は 千 里 ニ ュ ー タ ウ ン23

%、 ウ ッデ ィー タウ ン22%で

あ るの に対 して 、 金 沢 城 下 町 は3%と

低 い値 を とっ て い る 。

結 局 、 金 沢 城 下 町 の 住 宅 用 地 の 高 率 な の は 、 道 路 と公 園 緑 地 用 地 の 低 率 に起 因 して い る の で あ

る。 城 下 町 の 街 路 は細 街 路 が多 く、 ク ル マ 社 会 に対 応 した 現 代 ニ ュ ー タ ウ ンほ どの 道 路 が 必 要 で

な か っ た 。 簡 単 に い え ば、 城 下 の 街 路 幅 は ニ ュ ー タウ ンの 道 路 幅 の 半 分 で よか った の で あ る。 公

園緑 地 用 地 は 、 い う まで もな く住 民 の た め の もの で あ り、 封 建 都 市 に お い て住 民福 祉 は み とめ ら

れ な か っ た。 公 園緑 地 用 地 に算 入 した 兼 六 園 に して も、 こ れ が 一 般 に公 開 さ れ るの は 明 治4(18

71)年

の こ とで あ る 。

2城

下の居住 家数

2-1記

録 類 の 単 位 表 示

前 節 で は完 成期 城 下 の 空 間 的 側 面 を扱 っ た 。本 節 で は城 下 の 人 的 側 面 を扱 う。 約10k㎡ の城 下

に集 住 す る戸 数 ・人 口 の把 握 で あ る 。 まず 、近 世 か ら明 治 初 年 に わ た る戸 数 ・人 口 関 係 の 記 録 は

[表1-4]に

あ げ て い る。

一10一

(12)

[表1-4]を

通 覧 して 、 武 家 の記 録 は町 人 の 記 録 よ り少 な く、 また 精 度 を欠 く。 武 家 の記 録

は 、藩 の 機 密 事 項 で あ り、 秘 せ ら れ て い た た め で あ ろ う。 ま た 、記 録 の 諸 数 値 に は 、 人 、 名 、

戸 、軒 、 区 等 の 単 位 表 示 が な さ れ て お り、す で に 現 わ れ て い る 家 を含 め る と、6種 類 の単 位 が あ

る。 な お 、 明 治17(1884)年

の 建 物 数 は棟 数 を示 す と考 え られ る の で 、 棟 を加 わ え る と7種 類 の

単 位 表 示 と な る。

す な わ ち、 記 録 類 の単 位 表 示 は 、 人 、 名 、戸 、軒 、 区 、 家 、棟 の7種

類 とな り、 これ ら の単 位

表 示 は 、 当 時 の 社 会 シ ス テ ム に対 応 す る 人 と住 居 の 関 係 を示 す こ と に も な る 。 そ れ ぞ れ の 単 位 の

内 容 に つ い て み る と以下 の 通 りで あ る。

(1)人(ニ

ン)

人 は今 日 と同 じ く人 数 を示 す が 、宝 暦5(1755)年

の1万 石 以 上13人 は 、1万 石 以 上 の 禄 高 を

もつ もの の 人 数 で あ る か ら、 家 長 の 人 数 、 す な わ ち 家 数 を示 す こ とに も な る 。 す な わ ち、13人 は

13家 と読 み 替 え る こ とが で き る。 明 治4(1871)年

の 金 沢 総 人 口123,363人

の 人 は た ん な る人 数

で あ る。

(21名(メ

イ ま た は ナ)

明 治4(1871)年

の 士 族7,077名 の 名 は 、家 族 の 長 、 す な わ ち 戸 主 の 人 数 を示 す 。 した が っ て 、

名 数 は家 族 数 を意 味 し、7,077名 は7,077家 族 と読 み 替 え る こ とが で き る。

(3)戸(コ)

戸 は戸 口(コ

グ チ)、 す な わ ち 今 日の 世 帯 で あ る 。 当 時 の 為 政 者 に と っ て 戸 は課 税 単 位 と して

も重 要 な意 味 を もっ て い た 。 明 治4(1871)年

の 士 族4,932戸 は4,932世 帯 、 す な わ ち4,932家 の

こ と で あ る。 こ れ と上 記 の7,077名(家

族)か

ら士 族 の1家

当 た り家 族 数 は1.43家 族 とな り、 家

は複 数 の家 族 か ら成 っ て い る こ とが わ か る。 戸 の 長 は戸 主 で あ り、 近 代 化 の 進 行 に と も な っ て 、

家 は 戸 、 家 長 は 戸 主 とい う表 現 に移 行 す る。

(4)軒(ケ

ン)

軒 は 家 屋 数 を示 す 。 今 日の 戸 に 匹敵 す る の で 、 上 記 の 世帯 を示 す 戸 とま ぎ ら わ しい が 、1世 帯

が1軒 の 家 屋 に 住 す る場 合 が 多 い の で 軒 と戸 また は 家 は近 似 的 に読 み 替 え が 可 能 で あ る。

(5)区(ク)

区 は1区 画 の 宅 地 を示 す 。 そ こに 建 つ 建 物 を含 め て い る 場 合 もあ る。 宏 壮 な武 家 屋 敷 や 寺 社 に

適 した 単 位 表 示 で あ り、 寺 社 奉 行 支 配 の 場 合 に 使 用 され て い る。 本 論 の[図1-3]か

らえ られ

た宅 地 数 は こ の 区 に あ た る 。 区 は近 似 的 に軒 に 読 み 替 え が 可 能 で あ る。

(6)家(ケ

また は カ)

家 は 八 家(ハ

ッ カ)に 代 表 され る よ う に 、奉 禄 の 対 象 と な る 家(イ

エ)を 指 す 。 と くに 武 家 は

藩 か らの 奉 禄 に よ っ て生 活 す る か ら、 こ の 家 は 重 要 で あ る。 す な わ ち 、 家 は 生 活 単 位(収 入 単位)

を意 味 し、 そ の代 表 が 家 長 で あ る 。 今 日の世 帯 に通 じる 。

一11一

(13)

(7)棟(ム

ネ また は トウ)

棟 は建 物 数 を指 す 。 建 物 関 係 で は 、 す で に軒 、 区 が 出 て い る 。1宅 地 に1棟1軒

が 一 般 的 で あ

るが 、長 屋 形 式 の 建 物 で は1棟 複 数 軒 の 場 合 もあ りう る。 ま た 、 武 家 屋 敷 で は1区(1宅

地)に

複 数 の棟 が あ っ て も1軒 と数 え て い る よ う で あ る 。

以 上 の よ う に 、 人 、 名 、 戸 、 軒 、 区 、 家 、棟 の7種 類 の単 位 表 示 は 、 城 下 の 人 的建 築 的 諸 数値

とそ の相 互 関 係 を示 す もの で あ り、 城 下 の居 住 状 況 を把 握 す る の に重 要 な役 割 を果 す 。 な お 、 以

下 諸 数値 の 算 出 に あ た っ て は、 上 記7種

類 の 単 位 を適 宜 相 互 に 読 み 替 え る 。

2-2上

級 武 家 の 家 数

上 級 武 家 は 平 士 級 以 上 の 武 家 で あ る 。[表1-4]に 示 し た 宝 暦5(1755)年 の 記 録 に よ る と 、 平 士 級 以 上 の 侍 屋 敷 は1,365軒 で あ る 。 つ づ く身 分 別 人 数(家 数)は(1)∼03)の13階 層 に 及 ん で い る が 、 こ の う ち 上 級 武 家(平 士 級 以 上)に 数 え ら れ る の は 、(1)∼(8>の1,373人(家)で あ る 。 こ れ が 侍 屋 敷1,365軒 に 見 合 う 家 数 で あ る 。 次 の(9)∼ ㈱ は 徒(カ チ)ま た は 徒 並 み の 身 分 の 者 で 、761 家 を 数 え る 。 宝 暦5(1755)年 の 上 級 武 家 家 数 は1,373家 、 そ れ 以 下 の 下 級 直 臣 の 家 数 は761家 で あ る 。 次 の 寛 政(1789∼1800)年 間 の 記 録 で は 、 諸 士 戸 数1,086区 と あ り 、 こ の 場 合 の 諸 士 は 先 の 宝 暦 の 記 録 と 同 様 に 平 士 級 以 上 の 武 家 を 指 す と 考 え ら れ る 。 上 記 宝 暦5(1755)年 の 上 級 武 家 の 軒 数1,365軒 に 比 べ る と 、 区 数(1,086区)は す く な い 。 そ れ は1区2軒 の 場 合 も あ っ た か ら で あ る 。 1区1軒 と1区2軒 を 想 定 す れ ば 、1区1軒 は807区(74%)、1区2軒 は279区(26%)と な る 。 つ づ く記 述 に あ る 「新 番 以 下 足 軽 ・小 人 、 陪 臣 は 幾 千 人 ・同 居 ・借 家 も あ り考 定 不 能 」 も重 要 で あ る 。 新 番 以 下 足 軽 、 陪 臣 な ど の 下 級 武 家 は 、 武 家 奉 公 人 の 小 人(コ ビ ト)と 同 じ く 同 居 し た り 借 家(町 地 の)に 居 住 す る も の が あ っ た 。 藩 末 に お け る 上 級 武 家 の 記 録 と し て 、 文 化(1804∼1817)年 間 の 『加 賀 藩 組 分 侍 帳 』 を 使 用 す る と 、 最 上 級 の 八 家(年 寄 中)は8家 で 禄 高 は1万 石 以 上 で あ る 。 平 均 は2.39万 石 と な る[表1 -6] 。 次 の 人 持 組 は68家 で 禄 高 は1万4,000石 か ら1,000石 に わ た り 、 平 均 は3,700石 で あ る[表 1-7]。 次 の 寄 合 組 は15家 で 禄 高 は2,000石 か ら500石 に わ た り、 平 均 は1,000石 で あ る[表1-8]。 次 の 平 士 組 は 上 級 武 家 の う ち も っ と も 多 数 を 占 め る 階 層 で1,558家 に 及 ぶ 。 禄 高 は2,000石 か ら俵 米 ・切 米 、 さ ら に 無 高 に わ た る 。 平 均 禄 高 は264石 で あ る[表1-9]。 本 論 で は 、 寄 合 組 15家 、 平 士 組1,558家 を 合 わ せ た1,573家 を 平 士 級 と し て 扱 う 。 一12一

(14)

[表1-6]八

家(年 寄 中)の 禄 高

禄 高

(万石)

禄 高

(万 石)

;ll

(4)

(5)

前 田土 佐守直信

奥村河 内守栄通

本 多播磨 守政均

長大 隅守連恭

横 山三左 衛 門隆平

1.1 1.7 5.0 3.3 3.0

(6)

(7)

(8)

前 田弾番孝敬

村 井又兵衛 長佐

奥 村内膳 直温

1.8 1.95余 1.25

19.1

2.39 (註)『 加 賀 藩 組 分 侍 帳 』(文化 年 間(1810年 頃)、 金 沢 文 化 協 会 、1937年)よ り作 成 。()内 数 字 は 身 分 序 列 を示 し、 禄 高 順 で は な い 。 以 上 の よ う に 、 藩 末 に お け る 上 級 武 家 の 家 数 は 、 八 家8家 、 人 持68家 、 平 士 級1,573家 で 、 合 計1,649家 で あ る(藩 主 を1家 と し て 附 け 加 わ え る と1,650家)。 最 初 に ふ れ た 宝 暦 の 上 級 武 家 家 数 ユ,373家 か ら は276家(15%)の 増 加 で あ る 。 宝 暦 か ら藩 末 ま で の 約100年 の 間 に276家 の 増 加 を き た し た と い う こ と は 、 年 に 約3家 の 増 加 と い う こ と で あ り、 武 家 の 家 数 は ひ じ ょ う に 統 制 さ れ 固 定 さ れ て い た と い う こ と で あ る 。 町 人 家 数 の 圧 倒 的 な 増 加 に 比 べ れ ば 、 武 家 家 数 の 増 加 は 微 々 た る も の で あ る 。 明 治4(1871)年 の 士 族4,932戸(家)は 、 直 臣 の 足 軽2,802家([図1-1]の 宅 地 数 よ りす る 家 数)を 含 ん で い る の で 、 こ れ を 差 し 引 く と2,130家 と な り、 こ れ は 宝 暦 の 直 臣 家 数2,134家 ([表1-4]の(1)∼ 働 の 和)と ほ と ん ど 完 全 に 一 致 し変 化 が な い 。 す な わ ち 、 直 臣 の う ち 平 士 以 上 で は 上 記 の よ う に276家 増 加 し て い る が 、 そ れ 以 下 の 下 級 直 臣 で は ほ ぼ 同 家 数 が 削 減 さ れ 、 直 臣 全 体 の 家 数 は 不 動 で あ る 。 そ の 結 果 、 下 級 直 臣 は481家 と な る 。 他 方 、[図1-1]か ら 八 家8宅 地 、 人 持68宅 地 、 平 士 級1,870宅 地 の 合 計1,946宅 地 を え て い る 。 宅 地 数 は 屋 敷 数 と 考 え ら れ る の で 、 こ の1,946屋 敷 の 中 に 、 上 記 上 級 武 家1,649家 が 居 住 す る 一 の は と うぜ ん と し て、 残 り は297屋 敷 と な る 。 下 級 直 臣481家 の う ち297家 が こ れ に 居 住 す る と し て 、184家 が 自 分 の 屋 敷 を も っ て い な い こ と に な る 。 こ の184家 は 、 藩 関 係 施 設(主 と し て 城 郭) 内 に 居 住 す る 下 級 直 臣 と考 え ら れ 、 こ の 階 層 は 明 治4(1871)年 に は 卒 族 に 組 み 入 れ ら れ た と み ら れ る 。 な お 、 平 士1,573家 と 下 級 直 臣297家 を 合 わ せ た1,870家 が 屋 敷 を 構 え る 居 住 地 を 平 士 級 居 住 地 と して い る 。 平 士 級 以 上 の2,054家(八 家8家 、 人 持68家 、 平 士 級 ユ,870家)と 足 軽2,802家 の 和 4,856家 が 明 治4(1871>年 の 士 族4,932戸 に 相 当 す る 。 一13一

(15)

[表1-7]人

持 組 の 家 数 ・禄 高

禄 高

(千石)

禄 高

(千石)

禄 高

(千石)

U)今

枝 内記

(2)津

田 内蔵 助

(3)横

山蔵 人

本 多刑 部

14.O

lO.O

lO.0

10.0

松 平潤三郎

4.0

津 田主税

冨 田治郎左 衛 門

前 田主殿

冨 田織 人

岡 島左膳

奥村主 馬佐

葛巻隼 之助

小幡頼 母

藤 田求馬

佐 々木左近 助

松平 数馬

横 山中務

2.5

2.5

2.45

2.4

2.3

2.2

2.0

2.0

2.0

2.0

2.0

2.0

4千石台(歳)(繍)

29.6(4.2)

竹田掃部

G◎ 横 山外記

(9)前 田將監

三 田村左京

菊地十六郎

1⑳

前 田内蔵助

前 田式部

前 田監物

生駒勘右 衛 門

篠原監 物

永原 久兵衛

(3⑤ 織 田左 近

本 多主水

上坂 蔵人

品川左 門

小lll番

佳太郎

3.53

13.5

3.4

3.3

3.2

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

3.0

1万石台1(4家6%)(暢)

(ll.0)44.0

成 瀬掃部

8.0

8千砧(掻(く

(8.0)8.0

一 一

(1⑤ 青 山將 監

(5)前

田次 松

前 田織 江

寺 西 要 人

7.65

7.0

7.0

7.0

7千 石 台(4家6%)(睾 踏) 28.65(7.2) (7)前 田 万 之 助 6.0

2千 石台

(4家6%) (ノ平 均) 44.35(2.3) 6千 石 台(4家1%)(睾 霧) (6.0)6.0

永 井志津 摩

奥 村弾正

大 野木 良之助

庄 田誠 磨

松平帯 刀

遠 田勘 右衛 門

原頼母

1㈹

関谷 一学

本 田求馬佐

勝尾左 近

津 田弾 正

1.75 1.7 1.65 1.6 1.5 1.35 ユ.28 1.05 1.O l.O l.0

山111奇

庄 兵 衛

多 賀 数 馬

玉 井 頼 母

中 川 八 郎 右 衛 門

伴 八 矢

一 一 一 5.5 5.0 5.0 5.0 5.0 3柘 台(16家2496)(繍) 49.93(3.1) 5千 石 台(5家7%)(傘 鶏) 25.5 (5.1)

伊藤主馬

奥村源左 衛門

前 田外記

多賀典膳

永原権佐

成瀬 主税

篠 島鍛 次郎

2.8

2.7

2.5

2.5

2.5

2.5

2.5

深美右京

不 破彦三

西 尾隼 人

大 音帯刀

(8)前 田兵部

篠 原織部

4.5

4.5

4.3

4.3

4.0

4.0

1千石 台

ll家 (16%) ノ」・計 (平 均) 14.88 U.4,

:合

(100%)168家

小 計

(平 均)

250.91 1偲,刊 (註)『 加 賀 藩 組 分 侍 帳 』(文 化 年 間(1810年 頃)、 金 沢 文 化 協 会 、1937年) 身 分 序 列 を 示 す 。 上 表 は禄 高 順 に 配 列 して い る 。 よ り作 成 。()内 数 字 は 一14一

(16)

[表1-8]寄

合 組 の 家 数 ・禄 高

禄 高

(百 石)

氏 名1

禄 高

(百石)

(1)仙 石 内 匠 20.0 (9)長 妥 女 8.0

2千砧(燐(暢)

(20.0)

20.0

8百 石 台

(7%)1家

(平 均)

小 計

(8.0)

8.0

神谷 治部

一 15.0

小塚八 右衛 門

7.0 (3)加 藤 図 書 15.0

戸 田右近

7.0

(4)前 田 主 馬

15.0

青木新 兵衛

7.0

L5千 石台:(3家20%)(暢)

(15.0)

45.0

7百 石 台

(20%)3家

(平 均)

小 計

21.0

(7.0)

(5)富 永 栄 喜 記

10.5

(13)横 浜 善 左 衛 門 5.5

(6)志 村 直 七 郎

10.5

(④ 小野 木珠 城

5.5 一 (7)前 田 求 馬

10.0

前 田五郎左衛 門

5.0

(8)奥 村 平 馬

10.0

5百 石 台

3家 (20%)

小 計

(平 均)

16.0 〔5.3}

1千 砧(4家27%)(鵜)

41.0 (10。3)

15家 (100%)

小 計(

平 均)

151.0

{10.07)

(註)『 加 賀 藩 組 分 侍 帳J(文 化 年 間(1810年 頃)、 金 沢 文 化 協 会 、1937年)よ り作 成 。() 内 数 字 は 身 分 序 列 を 示 し、 禄 高 順 で は な い 。

[表1-9]平

士 組 の禄 高 ・家 数

2,000 石 台 1,700 石 台 1,600 石 台 1,500 石 台 1,400 石 台 1,300 石 台 1,200 石 台 1,100 石 台 11 ,000 石 台

(比率 、%)

3 1 1 4 3 2 1 7 1 17

1

3

(0.2)

6

(0.4)

{1.9}

36

石 台800 石 台70Q 石 台600 石 台500 石 台400 石 台300 石 台200 石 台100

石 台

90

(比率 、%)

24 16 24 63 63 138 255 604 8 一 127 (8.2)

201

(12.9)

255

(16.4)

604

(38.8)

80

石 台

70

石 台

60

石 台

50

石 台

30

石 台

20

石 台

扶持 米

(比 率 、%)

23 17 1 21 11 2 111 138

1,558

(100.0)

1

70

(4.5)

13 (0、8)

111

(7.1)

138

1(8

.9)

(註)『 加 賀 藩 組 分 侍 帳 』(文 化 年 間(18ユ0年 頃)、 金 沢 文 化 協 会 、1937年)よ り作 成 。 平 士 級 の 平 均 禄 高 は264石(扶 持 米 、 俵 米 を1家15石 と し、 無 高 は含 ま な い1,420家 の 平 均)。 一 ユ5一

(17)

2-3下

級 武 家 の 家 数

下 級 武 家 は 陪 臣 と足 軽 で あ る 。 ま ず 、 八 家 や 人 持 に 従 属 す る 陪 臣 の 数 に つ い て は 、[図1-3] か ら え ら れ た 宅 地 数 、 八 家 下 屋 敷1,043宅 地 、 人 持 下 屋 敷927宅 地 、 合 計1,970宅 地 を 軒(ま た は 家)と し て 、1,970軒(ま た は 家)と な る 。 ま た 、 陪 臣 の 禄 高 に つ い て は300石 か ら60石 の 武 家 が 190余 家 で あ っ た(下 出 積 与 『石 川 県 の 歴 史 』、 山 川 出 版 社 、1970年 、131)。1,970家 か ら190家 を 差 し 引 い た1,780家 は60石 未 満 の 極 少 禄 高 の 武 家 で あ り 、 そ の 家 数 は 陪 臣 全 体 の90%に 及 ぶ 。 ち な み に 、 平 士 級1,573家 の う ち 、 こ の 階 層 に 属 す る 武 家 は283家 で18%に す ぎ な い([表1-9] 参 照)。 平 士 級 と 陪 臣 の 階 層 差 は 歴 然 と し て い る 。 次 に 、 足 軽 に つ い て は 、 ま ず 宝 暦5(1755)年 の 記 録 に 足 軽 ・小 人 仲 間 共5,319人 と あ る([表 1-5]の ⑯)。 こ の 場 合 の 人 は 家 を 意 味 す る の で 、5,319家 と 考 え ら れ る 。 し か し 、 こ の5,319 家 の 中 に は 足 軽 の 他 に 小 人 仲 間 共 の 家 数 が 含 ま れ て い る 。 宝 暦 時 の 小 人 仲 間 共 の 家 数 は わ か ら な い が 、 足 軽 の 宅 地 数2,802宅 地 を 家 と し て 、2,802家 を こ の5,319家 か ら差 し 引 く と 、 小 人 仲 間 共 の 家 数 は2,517家 と な る 。 し た が っ て 、 下 級 武 家 の 家 数 は 上 記 の 陪 臣(1,970家)と 足 軽(2,802 家)の 和 、 す な わ ち4,772家 と な る が 、 下 級 武 家 以 下 の 武 家 関 係 者 の 家 数2,517家 が 問 題 で あ る 。 上 記1,970家 の 陪 臣 は 武 家 地(下 屋 敷)に 居 住 す る の で 、 武 家 地 の 宅 地 数 に 現 わ れ る が 、 そ れ 以 下 の 同 心 、 御 歩 な ど は 身 分 も 士 分 で は な く、 町 地 の 商 職 人 と 混 住 し て い た 。 本 論 で は こ の 階 層 を 下 層 陪 臣 と呼 ぶ が 、 明 治4(1871)年 の 卒 族(4,607家)は 、 上 記 の 陪 臣(1,970家)と 前 項 の 藩 関 係 施 設(主 と し て 城 郭)内 に 居 住 す る 下 級 直 臣(184家)、 お よ び 下 層 陪 臣 の 和 と考 え ら れ る の で 、 下 層 陪 臣 の 家 数 は2,435家 と な る 。 こ の 値 は 、 上 記 の 武 家 関 係 者 家 数2,517家 に 近 い 。 ま た 別 の 試 算 と し て 、 明 治3(1870)年 の 町 家 軒 数17,222軒 を17,222家 と 考 え 、 こ れ か ら平 民 (町 人)戸 数14,907戸(家)を 差 し引 く と 、2,315家 が 下 層 陪 臣 の 家 数 と し て 現 わ れ る 。 下 層 陪 臣 の 家 数 は 、 上 記 の よ う に2,435家 、2,517家 、2,3ユ5家 と ほ ぼ 一 致 した 値 を 示 し 、 こ の 階 層 の 存 在 が 無 視 で き な い こ と を 示 して い る 。 本 論 で は 下 層 陪 臣 家 数 を2,435家 と す る 。 こ う し た 下 層 陪 臣 の 町 地 混 住 は 、 す で に 藩 政 初 期 か ら現 わ れ て お り、 万 治2(1659)年 の 「前 田 三 左 衛 門 家 礼 書 』(前 田 家 蔵 、 家 礼 は 家 来 の こ と)に は 、 八 家 に 連 な る 前 田 家(1.1万 石)の 家 来214人 の う ち 、77人(36%)は 下 屋 敷 居 住 、28人(13%)は 地 子 町 居 住(城 下 緑 辺 の 町 地)、109 人(51%、 武 家57人 、 小 者52人)は 借 家 居 住(町 地)で あ っ た こ と が 記 録 さ れ て い る 。 こ の 場 合 は 、 武 家57人(27%)が 下 層 陪 臣 、 小 者52人(24%)が 武 家 奉 公 人 と考 え ら れ る 。 ま た 、 藩 政 後 期 の 状 況 と し て は 、 田 中 喜 男 『城 下 町 金 沢 』(日本 書 院 、1966年 、292∼298)に 城 下 北 部 の 相 対 請 地(地 子 地)住 民 の 職 業 構 城 が 数 表 化 さ れ て お り、 そ れ に よ る と こ の 地 域 の 住 民 1,453人 の う ち 、 職 人 は273人(19%)、 商 人 は434入(30%)、 そ の 他 は746人(51%)と な っ て い る 。 そ の 他 の 中 に は 御 家 中 、 同 足 軽 同 心 、 仲 間 、 小 者307人(21%)が 含 ま れ て い る 。 約2割 が 一16一

(18)

武 家 関 係 者(下 層 陪 臣 と武 家 奉 公 人)で あ る 。 武 家 奉 公 人 の 家 数 に 関 し て は 、 明 治3(1870)年 調 理 の 『金 沢 名 数 』(石 川 県 立 図 書 館 蔵 、 明 治5(1872)年 、25)に 、 元 仲 間 小 者2,333家 と あ る が 、 こ の 場 合 の 家 数 は 明 治4(1871)年 の 名 数(家 族 数)に あ た り 、 平 民 に 組 み 込 ま れ る の で 、[表1-12]の 平 民1家 当 た り2.10家 族 に よ り家 数 に 換 算 す る と 、1,111家 と な る 。 す な わ ち 、 武 家 奉 公 人 の 家 数 は1,111家 と な る 。 以 上 か ら 、 藩 末 の 下 級 武 家 の 家 数 は 、 陪 臣1,970家 、 足 軽2,802家 の 合 計4,772家 と な り 、 前 項 で 述 べ た 上 級 武 家 の 家 数1,649家 の2.9倍(約3倍)に あ た る 。 し た が っ て 、 藩 末 に お け る 武 家 の 家 数 は 上 級 武 家1,649家 と 下 級 武 家4,772家 を 合 わ せ た6,421家 と な り 、 武 家 身 分 に は 入 ら な い が 武 家 に 隷 属 す る 下 級 直 臣184家 、 下 層 陪 臣2,435家 、 武 家 奉 公 人1,111家 が 武 家 関 係 者 の 家 数 と な り、 そ の 合 計 は3,730家 に 及 ぶ 。 結 局 、 陪 臣1,970家 、 下 級 直 臣184家 、 下 層 陪 臣2,435家 の 和4,589家 が 明 治4(1871)年 の 卒 族 4,607戸 に 該 当 す る 。

2-4町

人 の 家 数(藩 政 前 期)

武 家 に つ づ い て 町 人 の 家 数 に つ い て み る 。 武 家 と 同 じ く[表1-5]の 記 録 に よ る 。 記 録 中 も っ と も古 い 寛 文4(1664)年 と 同 じ く 寛 文7(1667)年 の 記 録 は 、3年 の 差 で あ る か ら ほ ぼ 同 時 期 の 資 料 と し て 扱 え る 。 両 者 の 違 い は 、 前 者 が 戸 、 人 の 調 査 で あ り 、 後 者 が 軒 、 人 の 調 査 で あ る こ と で あ る 。 こ こ に 、 戸 、 軒 、 人 の 数 値 が す べ て 明 らか で あ る 。 戸 は 家(世 帯 数)、 軒 は 家 屋 数(町 家 数)、 人 は 居 住 者 数(町 人 数)を 示 す の で 、3者 の 関 係 が あ き ら か に な る 。 両 資 料 か ら 家 数 、 軒 数 、 人 数 を あ げ る と 、 家 数 は 本 町2,532家 、 地 子 町7,336 家 、 合 計9,868家 、 人 数 は 本 町19,845人 、 地 子 町35,261人 、 合 計55,106人 で あ る 。 こ れ に よ り、 藩 政 初 期 の 町 人 の1家 当 た り人 数 は 、 本 町7。8人 、 地 子 町4.8人 と な る 。 平 均 は5.6人 で あ る 。 本 町 は 大 世 帯 、地 子 町 は 普 通 世 帯 で あ る 。本 町 の 複 合 家 族 形 態 、 地 子 町 の 単 家 族 形 態 が 推 定 さ れ る 。 次 に 軒 数 と 人 数 の 関 係 に つ い て は 、 本 町1,332軒 、 地 子 町7,335軒 、 合 計8,667軒 、 人 数 は 本 町 19,840人 、 地 子 町39,261人 、 合 計59,101人 で あ る 。 こ れ に よ り、1軒 当 た り の 人 数 は 、 本 町14.9 人 、 地 子 町 は4.5人 と な る 。 平 均 は6.8人 で あ る 。 先 の1家 当 た りの 人 数 と こ の1軒 当 た り の 人 数 か ら 、1軒 当 た り家 数 を 求 め る と 、 本 町 は1.9家 、 地 子 町 は0.9家 、 平 均 は1.2家 と な る 。 本 町 は 町 家(チ ョ ウ カ)奉 公 人 世 帯 を 含 み 、 地 子 町 は ほ ぼ1軒1家 で あ る 。 次 の 貞 享2(1685)年 の 記 録 は 、 地 子 町 の8,448軒 の み で あ る が 、 先 の 寛 文7(1667)年 の 地 子 町 の7,335軒 と 比 べ る と 、 こ の 約20年 の 間 に 地 子 町 で は1,113軒(13%)も 増 加 し て い る 。 相 対 請 地 の 町 地 へ の 組 み 込 み に よ る 町 家 増 加 で あ る 。 こ れ は 城 下 へ の 人 口 流 入 、 ひ い て は 地 子 町 の 発 展 を 意 味 し て い る 。 一17一

(19)

次 の 元 禄(1688∼1703>年 間 の 記 録 は 、 本 町2,186軒 、 地 子 町7,081軒 、 合 計9,267軒 で あ る 。 寛 文7(1667)年 の 本 町1,332軒 、 地 子 町7,335軒 、 合 計8,667軒 と比 べ る と 、 本 町 は848軒(39%) の 増 加 、 地 子 町 は254軒(4%)の 減 少 で あ る 。 地 子 町 の 本 町 へ の 昇 格 が み と め ら れ る 。 町 家 総 数 は600軒(6%)の 増 加 で あ る 。 次 の 宝 永7(1710)年 の 記 録 は 町 数102町 、12,558軒 、64,987人 で あ る 。 元 禄 期(1688∼1703 年)の 町 家 総 数9,267軒 に 比 べ る と 、3,291軒(26%)の 増 加 で 、 町 家 の 増 加 傾 向 は と ど ま る と こ ろ を 知 ら な い 。 ま た 、 こ の 時 期 の1軒 当 た り の 人 数 は5.17人 で 、 こ れ は 宝 暦7(1667>年 の6,82 人 よ り低 く な っ て い る 。 軒 数 の 増 加 に よ っ て 居 住 密 度 が 多 少 緩 和 さ れ た の で あ ろ う 。

2-5町

人 の 家数(藩

政 後 期)

次 に 、 宝 暦5(1755)年 の 記 録 は 、 町 数102町 、 町 屋13,443軒 と あ り 、 先 の 宝 永7(1710)年 の ユ2,588軒 に 比 べ る と 、 こ の 約50年 間 に855軒(6%)の 増 加 で あ る 。 近 世 後 期 に お い て も 町 家 の 増 加 傾 向 は 継 続 し て い る 。 次 の 寛 政(1789∼1800)年 間 の 記 録 は や や 詳 細 な 記 録 で 、 本 町2,540戸(家)、 地 子 町10,754戸 (家)、 門 前 町384戸(家)、 大 工 肝 煎 等ll4戸(家)、 合 計13,792戸(家)、56,355人 と あ る 。 本 町 の 家 数2,540家 は 寛 文4(1664年)の2,532家 と ほ と ん ど 変 わ ら ず 一 定 で あ る 。 上 層 町 人 の 固 定 化 が み と め ら れ る 。 地 子 町 の10,754家 は 、 寛 文4(1664年)の7,336家 に 比 べ る と 、 実 に3,418家(47 %)の 増 加 で あ る 。 そ の 他 、 門 前 町384家 、 大 工 肝 煎114家 を 加 え る と 合 計13,792家(56,355人)に 達 す る 。 こ の 値 は 、 寛 文4(1664)年 の9,868家(55,106人 〉 に 比 べ る と 、3,924家(40%)の 増 加 で あ る 。 こ の 時 期 の1家(世 帯)当 た り人 数 は4,09人 で あ る 。 寛 文4(1664)年 の5.58人 に 比 べ る と 、 世 帯 人 数 は か な り減 少 し、 小 世 帯 化 が 進 行 し て い る 。 こ の 小 世 帯 化 は 、 戦 後 の 核 家 族 化 と 同 様 の 傾 向 で あ り 、 こ れ も城 下 町 の 都 市 化 の 一 環 と し て 捉 え ら れ よ う 。 以 上 は 町 奉 行 支 配 下 の 町 人 の 話 で あ る が 、 こ れ に 加 え て 寺 社 奉 行 支 配 下 の 町 家 が1,117区(そ の 内 、 借 家139区)あ る 。 本 来 、 町 家 は 町 奉 行 支 配 で あ る が 、 寺 地 が 町 地 化 し た 場 合 、 こ れ は 寺 社 奉 行 支 配 下 に 置 か れ る が 、 そ れ は し だ い に 町 奉 行 支 配 下 に 組 み 込 ま れ る 。 先 の 門 前 町384戸 が そ れ に あ た る 。 こ の よ う な 寺 地 の 町 地 化 は 、 町 人 の 増 加 に 起 因 す る も の で あ る が 、 他 方 で は 寺 院 の 経 営 上 の 問 題 も か ら ん で い よ う 。 今 日 で も 寺 地 に 駐 車 場 や 、 保 育 所 な ど が 見 受 け ら れ る の と 同 様 の 傾 向 で あ る 。 寺 社 奉 行 支 配 の1,117区(借 家139区)の 区 は 宅 地 数 を 表 わ し 、 ほ ぼ 家 数(世 帯 数)に 匹 敵 す る の で 、 町 奉 行 支 配 の 総 戸 数13,792家 と合 わ せ る と 、 合 計14,909家 と な る 。 こ の 値 を 明 治4(1871) 年 の 平 民14,907戸(家)と 比 較 す る と 、 ほ と ん ど完 全 に 一 致 し 、 寛 政 か ら 明 治 初 年 の 頃 に は 、 町 一18一

(20)

人 の 家 数(世 帯 数)は

ほぼ 頂 点 に 達 し一 定 化 して い た もの と考 え られ る。

他 方 、[図1-1]か

らえ た 町 地 の 宅 地 数 は15,297宅 地 で 、 明 治3(1870)年

の 町 家 の 軒 数17,222

軒 と合 わ せ 考 え る と、1宅 地 当 た り1.13軒 とな り、1宅 地 に1軒 以 上 の 町 家 が 建 っ て い る場 合 も

あ る 。 町 家 の 場 合 、 これ は長 屋 形 式 を とる こ とが 多 い 。 上 記17,222軒

を藩 政 初期 の 寛 文7(1667)

年 の8,667軒 と比 べ る と、 実 に8,555軒(99%)の

増 加 と な る。 町 家 軒 数 は 実 に 倍 増 で あ る。 武 家

の 家 数 ・軒 数 が 比 較 的 固 定 化 され て い た の に比 べ る と、 町 人 の 家 数 ・軒 数 の増 加 は め ざ ま しい 。

町 人層 の増 加 は、 武 家 階 級 人 口 の 自然 増 加 に よ る 内 部 圧 と農村 部 か らの 流 入 人 口 に よる 外 部 圧 の

両 面 に よ る。 近 世 封 建 都 市 で あ る城 下 町 にお い て も、 そ の都 市 的 性 格 で あ る市 民 社 会 の 形 成 は着

実 に進 行 して い た 。

2-6藩

末 城 下 の 家 数

以 上 に よ っ て 、 城 下 の 家 数 変 動 お よ び そ の 帰 結 に つ い て の 論 を 終 え る が 、 こ こ で そ の 結 果 を 整 理 ・要 約 し て お く。 (1)上 級 武 家 の 家 数 上 級 武 家 は 八 家8家 、 人 持68家 、 平 士 級(寄 合 組15家 を 含 む)1,870家 、 合 計1,946家 で あ る(藩 主 を1家 と し て 加 え る と1,947家)。 (2>下 級 武 家 の 家 数 陪 臣1,970家(八 家 陪 臣1,043家 、 人 持 陪 臣927家)、 直 臣 の 足 軽2,802家 、 合 計4,772家 で あ る 。 (3)武 家 の 家 数 (1)、(2)か ら 武 家 の 家 数 は6,718家 と な る 。 (4)武 家 関 係 者 の 家 数 武 家 関 係 者 は 、 下 級 直 臣184家 、 下 層 陪 臣2,435家 、 武 家 奉 公 人1,111家 で 、 合 計3,730家 で あ る 。 こ の う ち 、 下 級 直 臣 は 藩 関 係 施 設 、 下 層 陪 臣 と 武 家 奉 公 人 は 町 地 に 居 住 す る 。 明 治4(1871) 年 に は 前2者 は 卒 族 、 後 者 は 平 民 に 組 み 入 れ ら れ る 。 (5)町 人(商 職 人)の 家 数 本 町 町 人 の 家 数 は2,540家 、 地 子 町 町 人 の 家 数 は12,369家(武 家 奉 公 人1,111家 を 含 む の で 、 地 子 町 の 商 職 人 は11,258家)で 、 商 職 人 の 家 数 は 合 計13,798家 で あ る 。 (6)そ の 他 の 家 数 社 寺 関 係 の 家 数 は298家 で あ る(明 治4(1871)年 の 記 録 に よ る)。 以 上 に よ り 、 藩 末 城 下 の 全 家 数 は 、 武 家6,718家 、 武 家 関 係 者3,730家 、 町 人(商 職 人)13,798 家 、 社 寺 関 係298家 で 、 総 計24,544家 と な る 。 家 数 に よ る 構 成 比 率 は 、 武 家27%、 武 家 関 係 者15 %、 町 人(商 職 人>56%、 社 寺 関 係1%と な る 。 一19一

(21)

明 治4(1871)年 の 記 録 は 、 士 族 、 卒 族 、 平 民 の3階 級 区 分 で 、 士 族4,932戸 、 卒 族4,607戸 、 平 民14,907戸 、 そ の 他 社 寺 関 係298戸 で あ る 。 こ れ ら の 諸 数 値 を 上 記 の 家 数 と 比 較 す る と 、 士 族 (4,932戸)は 、 藩 直 属 の 士 で あ る 上 級 武 家1,946家 と 足 軽2,802家 の 和 、 す な わ ち4,748家 に 相 当 す る 。 次 の 卒 族(4,607戸)は 、 直 属 武 家 の 家 来 で あ る 陪 臣1,970家 と 下 級 直 臣184家 、 下 層 陪 臣 2,435家 の 和 、 す な わ ち4,589家 に 該 当 す る 。 最 後 に 平 民(14,907戸)は 町 人(武 家 奉 公 人1,111 家 を 含 む)14,909家 に 匹 敵 す る(そ の 他 社 寺 関 係 等(298戸)は 戸 を そ の ま ま 家 と し て い る)。 こ れ で み る と 、 明 治4(1871)年 の 記 録(い わ ゆ る 壬 申 戸 籍)の 戸 は 、 藩 政 期 の 家 を そ の ま ま 受 け つ い で い る こ と が わ か る 。 士 族4,932戸 は 武 家4,748家 に 対 応 し 、 そ の 差 は184家(3.9%)、 卒 族4,607戸 は 陪 臣 、 武 家 関 係 者 等4,589家 に 対 応 し 、 そ の 差 は18家(0。4%)、 平 民14,907戸 は 町 人(武 家 奉 公 人 を含 む)14,909家 に 完 全 に 一 致 す る 。 士 族 戸 数 が 武 家 家 数 を184家 分 上 廻 っ て い る の は 、 あ る い は 戸 籍 編 成 に 際 し て 家 を 戸(家 族)に 分 解 し て 届 け 出 た せ い で あ ろ う 。

3城

下の居住家族

3-1家 と 家 族

前 節 で は 藩 末 城 下 の 家 数 に 言 及 した 。 家 数 は生 活 共 同 体 と して の 家 を単 位 と す る 数 量 で あ る

が 、 近 世 にお い て は こ の家 の もつ 意 味 は 大 き い 。家 は 一 つ に は経 済 的 な 収 入 単 位 で あ るが 、 い ま

一 つ に は空 間 的 な居 住 単 位 で もあ る

。 そ こ に 同一 家 屋 にお い て 生 計 を一 にす る 生 活 単 位 と して の

家 が 現 わ れ る 。

こ の よ う な 家 を代 表 す る の が 家 長 で あ り、 家 長 は 家 の 存 続 を保 障 し な け れ ば な ら な い 。 そ し

て 、家 は い くつ か の家 族(戸)に

よ っ て構 成 され る こ とが 多 い 。 家 族 の 長 が 戸 主 で あ り、 原 則 的

に戸 数 と戸 主 数 は 一 致 す る。 近 世 か ら明 治 初 年 の激 変 期 に は 、 こ の 家 と戸 の 関 係 が か な り錯 綜

し、 そ れ が 記 録 の上 に も反 映 され て い る。

明 治3(1870)年

調 査 の 金 沢 名 数(石

川 県 立 図 書 館 蔵 、 明 治5(1872)年)の

中 の 官 費 給 養 人

等 に よ る と、 士 族7,370家 、 卒 族9,722家 、 元 仲 間小 者2,333家 、 元 家 柄 町 人 及譜 代 陪 臣563家 、 社

寺63家 、 通 計20,051家 と あ る 。 各 階 層 の 家 数 か らみ て 、 この 場 合 の 家 数 は 今 日の 家 族 に 近 い もの

で あ り、 そ の意 味 で は 戸 に あ た る も の で あ るが 、 明 治4(1871)年

の記 録 で は 名 と な っ て い る 。

上記 の よ う に 、 明 治3(1870)年

の 単位 は家 で あ るが 、 翌 明 治4(1871)年

に は名 に変 化 して

い る。 明 治3(1870)年

時 点 で は 、 家 族 数 を数 え る にあ た っ て 従 来 の 家 概 念 を適 用 して い る が 、

そ うす る と旧 来 の 家 と して捉 え るべ き生 活 単 位 の 呼 称 が な くな る 。 これ を補 う た め に用 い られ た

の が 明 治4(1871)年

の戸 で あ る 。

した が っ て 、 明 治4(1871)年

の戸 は 旧来 の 家 を意 味 し、 名 は 家 族 を指 す 。 明 治 初 年 の 激 変 期

一20一

参照

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