「静かなるヴェロニカの誘惑」における死
著者
島田 道子
雑誌名
鶴見大学紀要. 第2部, 外国語・外国文学編
号
57
ページ
21-38
発行年
2020-02
URL
http://doi.org/10.24791/00000870
Creative Commons : 表示「静かなるヴェロニカの誘惑」における死
島 田 道 子
序 Robert Musil は女性主人公を題名にした短編小説を数編書いてい る。 周 知 の よ う に、 執 筆 活 動 の 比 較 的 前 期(1911 年)には短編集 „Vereinigungen“(『 合 一 』) と し て 二 編 を 出 版 し て い る。 即 ち、„Die Vollendung der Liebe“ (「愛の完成」) と本稿で扱う „Die Versuchung der stillen Veronika“ (「静かなるヴェロニカの誘惑」である。※1 後年、1924年 に は 短 編 集 „Die drei Frauen“ (『三人の女』」が出版され、そこに は„Grigia“(「 グ リ ー ジ ャ」)、„Die Portgiesin“(「 ポ ル ト ガ ル の 女 」)、 „Tonka“(「トンカ」)が所収されている。筆者は本紀要において後者の 三短編について、そこに用いられる「死」の表現の諸相を主に比喩表現 を手掛かりに分析し、作品の意味構造解明への手がかりとして指摘した。※2 初期の作品である「静かなるヴェロニカの誘惑」では主人公が相手と 結ばれる「合一」に憧れるが故に愛する相手の死を望むという、一般読 者には不可解な心理が明らかにされ、それは物語の進展においても1 つ の転回点をなすと共に物語の内的連関構造へと読者の興味を導く。ここ で語られる死の意味するところが理解されなくては、作品の表現する世 界に入ることは難しく思う。そこで本稿では、この作品において死やそ の表象が使われている重要な部分を取り上げて、その内容を吟味したい と考えた。 なお以下の論考ではこの短編の題名を「ヴェロニカ」と略記すること とする。
Ⅰ
本作品刊行に至るまでにはかなりの経緯があった。すでにKarl Corino が そ の 著 作„Robert Musil“ ※ 3お よ び„Robert Musils "Vereinigungen"“ (『ローベルト・ムージルの「合一」』)※4の中で、素材、アイデアの源泉 から、下敷きとなった作品、改変前の草案に至るまで詳細に言及してお り、また様々な論議を呼んできたが、本稿では本題に入る前に、テー マとかかわる次の点のみ確認しておきたい。 1 つは、作品成立までに何らかの参考にしたのではないかと推測さ れる別の作家の作品である。とくに、それはノルウェーの作家Knut Hamsun (1859 ~1952)の „Victoria. En kjærlighedshistorie“(『ヴィクトリ ア ある愛の物語』)(1898 年)という純愛小説である。Hamsun ※5はノ ルウェー文学界の主流であった「社会派」文学に抗して、個人の意識世 界を何の価値判断も捨象して描ききる作品„Sult“(『飢え』)(1890 年) で名声を博した。またそれによっていわゆる世紀末モダニズム文学の旗 手となった。特にドイツ語圏では注目され、異例の速さで翻訳されたと いう。『ヴィクトリア』は身分違いの幼馴染がお互いに愛し合いながら、 身分の違いを主観的にも乗り切れず、女性は結婚、感情の行き違いやす れ違いを繰り返して、長い年月を過ごし、最後は女性の結核による死と その際残した愛の手紙で終わるというあらすじを持つ。一組の男女が隔 てられてもプラトニックな愛を貫き通した経緯を描くメロドラマである が、その時々の感情や意識の絡まり、心理の行き違いを繊細に描く点、 さらに男性が詩人という設定を用いて、この人物の詩想、幻想や夢を織 り交ぜている点でモダニズム的である。出版当初から彼の作品の中でも 突出した人気のある作品であり、今でも読み継がれている。
若きMusil が Hamsum に注目し、参考にしていたことは Corino の先 に挙げた„Robert Musils "Vereinigungen"“ が明らかにしている。※6 実際、
この作家の名前は新しいクラーゲンフルト電子版全集の検索をかけると 48 箇所もヒットする。ただ、残念ながら、この『ヴィクトリア』に関 する言及はない。
『ヴィクトリア』と「ヴェロニカ」との類似で、特に取り上げたいの はその純愛の特質と、登場人物の関係図である。『ヴィクトリア』では 村の城主の娘ヴィクトリアと貧しい粉屋の息子ヨハネスの成就しない恋 愛が語られる。障害はここでは身分差、また城主の抱える経済的問題で ある。ヴィクトリアは愛よりも家の事情を優先して、オットーという中 尉と婚約する。だが彼は間もなく狩の際、銃で撃たれて死亡していると ころを発見される。だが、ヴィクトリアの勧めた少女と婚約中のヨハネ スは彼女との関係を進展できない。やがて、すべてに疲れたヴィクトリ アは病死するのである。内的には相手を思いながら現実的な隔たりを超 えられず、むしろそれゆえに思いが募り純粋になっていく恋心が語られ てゆく。中世の騎士物語のミンネを連想させる愛であるが、近代的な自 己を捨て切れていない苦悩が漂う。互いに惹かれあいながら、肉体的・ 現実的な関係に進むことがなく、離れてあることで愛が究極の次元へ高 まるという愛の思想はムージルの多くの作品で明らかにされている。た とえば、彼は大作『特性のない男』において主人公に(「初秋の日のよ うに肉体性がなく、じっと空気のように静かな„Fernliebe“(遥かな愛)」 を語らせている。※7 相手の実在が把握できない距離にある場合、愛は相 手の存在に集約するというより方向のみある魂の動きとして、むしろ拡 散してゆく可能性を持つ。この存在の対象化を免れた関係のあり方は、 『合一』という短編集のテーマともなっている愛の理想を可能にする道 を暗示している。即ち、Musil 文学のテーマの一つである、あの神秘的 意識状態「別の状態」※8となりうる可能性である。 両作品の類似点は、また一人の女性を挟んで精神性の高い男と肉体的 な力、粗暴さを連想させる軍人という人物像の配置にもある。そこで 次に問題にしたいのは、名前の変遷とその特質である。公刊された短 編集中の「ヴェロニカ」の以前に、Musil は同じ題材で 1908 年に書か れた試作 „Das verzauberte Haus“(「魔法にかけられた家」)※9 では女主人
公の名は同じヴィクトリアであり、詩人ヨハネスにあたる、彼女の胸中 の人の名はなぜか書かれていない。オットーに当たる人物はやはり中尉
で、デメーター・ナジとなっている。ナジ„Nagy“ はハンガリー系の名 であり、Corino が指摘しているように、ハンガリー語で大男、力、成 人の意味を持つほかに、舞台をオーストリアに置き換える意図が働いた ためであろう。※10 デメーター „Demeter“ はその由来がギリシア神話の地 母神Demeter と連想が容易で、この人物像の地上性、原始的な自然性を Hamsun の作品以上に強調している。1908 年以前の断片草案※11 では題 名は完成稿と同じで、当然主人公の名はヴェロニカ„Veronika“ である。 二人の男性の名は出てこない。そして完成稿ではヴェロニカ、デメーター とともに、Hamsun の作品と同じヨハネスがヴェロニカの思い人の名と して使われている。最終稿では、物語冒頭に「いつか」とあるように、 もはや場所はこだわらなくなっている。彼らはだれもただファースト ネームでのみ呼ばれている。同様に二人の身分上の対照関係(詩人VS 軍人)もなくなり、ヴェロニカを含む三人とも同じ家の出身で、子供の ころからここで育ったことが明かされる。 それだけに明確になってくるのは、名前が暗示するその内的特質で ある。デメーターという名は、Corino の指摘を待つまでもなく、ギ リシアの地母神デメーターを連想させるものであり、彼の地上性、原 始的な自然の力、肉体性における優勢を示唆している。一方ヨハネス „Johannes“ という名はキリスト教圏に住む者ならだれも、まずは、イエ スの愛弟子、福音記者のヨハネ„Johannes “ を思い起こす。キリスト教 の伝統の中では、彼の福音書はもっとも内的、観想的と言われている。 またこの名から、荒野で禁欲の修道生活を送った洗礼者ヨハネを連想す る者もいるかもしれない。さらに16 世紀の神秘家十字架の聖ヨハネも 思い浮かぶかもしれない。いずれにせよ神秘的宗教性を連想させる名で ある。最後にヴェロニカであるが、この名前はギリシア由来で、元来の 意味は「勝利をもたらす者」と言う。ヴィクトリアはラテン語で「勝利」 であるから、この二つには意味的に共通するものを持っている。一方キ リスト教の世界では、イエスの十字架への道行で、汗をぬぐう布を差し 出した女性の名として知られている。※12
このように、三人の名前を並べたとき、物語を神話的な― 存在の根 源的な次元へ移行する意図がほのかに見えてくる。即ち、これらの命名 からは、一方でこの作品が当時評判をなしていたHamsun の純愛小説と の類比を想定しつつ、単に恋愛心理を扱う物語を超え出たところに焦点 を結ぼうとする作者の意向が推測できる。 Ⅱ Hamsun の『ヴィクトリア』では死のイメージが印象深い。ヴェロニ カの婚約者は狩猟中の被弾死という惨たらしく、疑惑の残る死に方をし、 また彼女も精神的な苦しみで疲弊した挙句、愛の手紙を残して死に、そ れが最終章となっている。純愛に死が暗い陰影を投げかけている作品と いえる。 恋愛と死の結びつきは古今東西を問わず芸術の世界ではかなり普遍的 にみられる。確かに生殖は個としての生命が尽きる前に新たな命を生み 出す行為であり、その際自らの命の犠牲を必ず伴う生物も多い。他者と の肉体的結びつきに至る恋愛には生命の根源的なレベルで死を内包して いると考えることもできる。エーロスの中には死が内包されているので あり、死を伴う愛が好んで描かれるのはむしろ当然と言ってもよいかも しれない。 Musil の愛を扱う他作品でも死は重要なモチーフ、表象として使われ ている。また愛に死を絡ませることにより、恋愛を心の表層のみではな く、むしろ実存の次元を問う事象へと深めることが可能になる。これこ そMusil のいう「別の状態」と結びつけた愛を扱うのにも適した方法で あろう。しかし、Musil の「ヴェロニカ」の筋立てでは誰も死ぬことがない。 確かに死や死に関わる表象は用いてはいるが、表面的印象はむしろ地味 である。 「ヴェロニカ」は登場人物たちの内面を描くに徹した作品であり、出 来事の客観的な動きは曖昧で読み取りにくいが、単純である。:旧家で 育った三人の男女がいて、そのうちの女性に二人が恋人候補となってい
る。一人は精神性が高く、一人は力と野生の強い自然児だ。もう若くは ないこの女性=女主人公は心中に抑圧された欲求不満と当時の女性に とって「適齢期」を終えようとする微妙な時期特有の生への不安を漠然 と抱え、現状の改善への道を無意識に探している。対照的性質を持つ男 性二人はどちらも彼女の恋人あるいは結婚相手候補となりえるが、彼女 は知的な方に惹かれている。彼は長く家を留守にしていた後に帰還して いる。彼は彼女に求愛するが、彼女は拒否し、彼は再び旅に出る。彼 は― 彼女に促されたこともあって死を匂わせて家を出るが、結局のと ころ自死は現実とはならなかったことが示唆される。残った彼女は彼が 死ぬ幻想によって高揚状態の一夜をすごす。デメーターの性的誘惑には いったん拒否をするが、彼との関わりを現実への着地点として受け入れ る兆しを見せて物語は終わる。なおヨハネスの自死は彼自身の本気さは もとより、ヴェロニカもその現実可能性はほとんど問題にしておらず、 むしろ彼女に内的世界の変容=幻想の世界を開く刺激剤として意味を 持っていることが最後には暴露される。 物語の輪郭を示すために、全体を5 部に分けると、最初は導入として、 二人の会話の声の絡まりが描写される。二人の関係とその問題を非常に 暗喩的に示す場面である。次は3 人の登場人物の紹介を兼ねた会話から 帰還したヨハネスが求婚して、ヴェロニカが拒絶するまで。三番目は、 鳥の声が世界との関わりの変容を予告する場面からヨハネスの旅立ちと 別れまで、主にヴェロニカの心理を追う。四番目は離別の後帰宅とヴェ ロニカの夜の高揚状態、最後は日常の生に戻った翌日以後の様子を描い ている。※13 先述したように、この作品の内容はほとんど登場人物の内面、心象風 景の描写に徹している。そこでは、日常の概念で成立している言語は役 立たない。Musil は他の作品に増して、比喩表現を網の目のように張り 巡らせて、本来言葉にならない思いの言語化を試みている。特に言葉の 表層の意味や表象力からは結びつかない言葉同士を関連させることで新 たな化学作用を引き起こさせて読者にその理解を促している。読者はこ
ういう、読者に挑戦するかのような表現のラビリンスの中を理解の刃を 鋭くしながら進んでいかざるをえない。 本稿ではその比喩の山のなかに隠れたかのような「死」に関わる言葉 や表現のうち、全体の構造の中ではかなり大きな役割を担っているヨハ ネスの「自殺」というヴィジョン理解へと導く主なものを取り上げ考察 したい。 Ⅲ 以下では、上記の意図に従って具体的箇所・描写等を挙げ、解釈する。 なお引用中で下線は筆者が付加したものであり、…は省略記号として用 いた。 ヴェロニカの生における独特で強い死の性質は、物語前半の彼女の紹 介ともいうべき箇所ですでに象徴的に描かれている。すなわち、最初に 登場するのは次のようなヨハネスがヴェロニカに家を出る誘いをかける シーンである。それは黄昏時に階段を下りてきた彼女を彼が階下で待ち うける場面で始まる。
„... so standen sie vereinzelt in der Dämmerung.…aber wie wenn sie beide,wie sie dastehen,eine Phantasie in einer Krankheit wären, so anders notwendig erschien ihm,daß er da sagte:<< Komm,gehen wir zusammen fort.>> “ 「こうして彼らはそれぞれ別々に黄昏の中に立っていた…が、彼ら がたたずむ様は二人が病気の時の空想のようで、そこでこう言うほ かはなかった。『おいで、僕たちは一緒に出て行ってしまおう。』」 (GW Ⅱ 202) ヴェロニカは呪縛されたかのように、叔母の世話という名目のもと、 この生家で長い年月を無為に過ごし、そこから離れることがない。古び た屋敷はまさに彼女の領域そのものを象徴しているとも言える。今、彼
女はその家のより暗い奥の二階から戸口のある一階にいるヨハネスのと ころへ降りる。どちらも現存を維持するに不可避な存在者の弧絶を隠す ことのない仕方で、彼らは光と闇が溶け合う空間にともにいる。 ヴェロニカを表わすのに闇は多重の意味のある表象であるが、Musil の作品では好んで女性に対して闇やその類似表象をよく用いる。その際 女性性を物質が分化する以前の豊穣たる世界に結びつけるポジティヴな 使い方が多くみられる。※14 この作品でも闇、影、黒といった言葉がヴェ ロニカの特性を表現するのに何度も出てきており※15、それがまた一方 でヨハネスを惹きつけているのは、ここでも暗闇から現れた彼女に魅せ られるかのように誘いの申し出をしているところに見られる。だが暗闇 は一方で退行、光の消えた後の虚無、精神的危機をも表象する。※16 こ の「魔法にかけられた家」では進展も活動性もなく毎日が同じように繰 り返される。(GW Ⅱ 206f)あの眠り姫のメルヘンの城を思い起こさせ る異空間である。別の箇所には「大きな何もない空間のように突然空っ ぽの暗い家が彼らに覆いかぶさっていた」(GW Ⅱ 199)という一文が あり、この場所の性質を暴露している。また「…叔母と散歩する死んだ 午後…」と(GW Ⅱ 196)いう言葉で、彼女が営む何も生み出すことの ない生の本質を暴露している。前の世代である叔母との関係が彼女を家 に縛っているのであり、それはまた過去向きの生き方をも暗示していよ う。ヴェロニカは自分自身の内部とその生に抱えている闇― 虚無と崩 壊― から、またそれを可能にする家という彼女のテリトリーであり牢 獄である場の奥からいま光と闇が混交する場に進み出ている。黄昏は伝 統的にも二つの領域の境界域を、死や暗闇との関わりを持ちながらも、 一つの周期の終焉とともに、新しい出発をも象徴する。※17 彼女から見 れば、今、ヨハネスとの関わりを通じて退行と虚無の生から解放されう る可能性が開かれていることを暗に示す設定となっている。 ここで出てくる比喩の中の病気も死と生の狭間にある状態と言え、こ れもまたヴェロニカの描写に再度に渡って登場する。中でも「病気での 空想」という文言はのちに彼女の精神的高揚状態を描く場面にある熱病
での幻像の思い出に繋がる。そこでは、ちょうどアガーテの場合※18 に 似た、衰弱によって世界と自己を分かつ身体性が希薄になる体験が語ら れている。擬死体験ともいえるこの際に、ヴェロニカは自らの周りに天 使の幻影を見ており、「すべてを手に入れた」という喜悦を感じている。 (GW Ⅱ 219)そして、高揚状態の夜に、この「病気であること」と同 様の何かを感じている。(同上)病気の肯定的価値として、神秘的意識 状態ともいえるあの「別な状態」への類似性が示唆されている箇所でも あるが、体が平常に戻れば消えてしまう状態である一方、存在の崩壊に ― 無に導く危険がもう一方にあるとすれば、両義的である。天使は天 国的な「別な状態」へ、即ち別の実存状態に導く救い手であるか、ある いは存在の崩落を予告する死の天使であるか判断する基準はない。病気 体験の叙述にひきつければ、黄昏時の場面は「病気の空想」という像を 通じて二人の存在が互いにどちらの意味かの「天使」としての役割を担 う道をまさに可能性のかなたに想定させるものと言えよう。 一方、ヨハネスは超越的な何かとの関わりを自分の内部に意識する体 験で、その存在を「円環するもの」„Kreisendes“ ※19(GW Ⅱ 194)と呼 び、通常の知覚で感受できない超越性を認めながら、短絡的に神体験と みなしたがっている。彼はその存在を一方で対話可能な存在として関わ りを持とうと空しく試みるが、他方、何かが自分の内奥へ入り込み、痛 みを伴いながら大きく成長していくその体験は同じく病気に譬えられて いる。( 同上 ) ヨハネスはそれに自らをゆだねることで安寧を得る道 をとろうとするが、その際の内部から他者に取り変わられる感覚を不気 味に描いている。神秘体験を、願望を交えて粗雑に解釈し、自らの内部 を安易に譲り渡すことは内的な死とみなしうるものであることが、この 癌を思わせるような表現で暗示されている。ヨハネスの僧侶願望の浅薄 さが暴露されている場面でもある。 いずれにせよ、両者ともに問題は孕みつつも日常意識で捕えられない 起常的な体験をしており※20、それを自らの実存にどのように関連させ るかを模索している。そこに互いに関心を抱き惹かれあう共通の源泉が
ある。 ヨハネスはヴェロニカを救おうと共に家を出ることを申し出る。「ヴェ ロニカ、一人の人間が、一つの言葉や温かさ、吐息でもいいが、それが 渦巻きの中の小石のように、突然君がその周りを巡る中心になってくれ ることもあるよ… 僕たちは何かを一緒に始めなくちゃならないのかも しれない、そうすれば(それを)ひょっとしたら見つけ」(GW Ⅱ 202) られるだろう…と。 彼の言葉をすべて聞くまでもなく、拒絶するヴェロニカの返事の中に 彼の死についての言及が初めて登場する。 少し長くなるが前後を含めて引用する。解釈の必要上番号を振るが、 原文の順通りの、間に省略のない引用である。
1. „<< So unpersönlich kann wohl gar kein Mensch sein, könnte nur ein Tier… , ja, veilleicht wenn du sterben müßtest… >> Und dann sagte sie nein.“(同上)
「『どんな人間だってこんなに自分がないなんてありえないわ。獣 でしかありえない…ええ、いいわよ、もしかしてあなたが死ぬほ かはないとしたらね。』そしてそれから、いやと言った。」 2. „Und dann faßte ihn wieder dies, was eigentlich kein Entschluß
war,sondern ein Vision, nichts was sich auf die Wirklichkeit bezog, sondern nur auf sich selbst wie eine Musik, er sagte: …“ (同上) 「そしてそれから再びこれが彼の心を捕えたが、それはもともと
決意ではなくヴィジョンであり、現実とは何の関係もないもの、 音楽のようにただ自分自身にのみ関係することだったが、彼は 言った。…」
3. „<< Ich gehe fort ; gewiß,vielleicht werde ich sterben.>> Aber auch da wußte er , daß es nicht das war, was er meinte. “ (GW Ⅱ 202f.) 「『僕は行ってしまうよ、きっとね、ひょっとしたら死ぬつもりだ。』
だがここも彼はこれが自分の思いではないことが分かっていた。」 1の非難めいた言葉はヴェロニカの関心を引くヨハネスの特質を言い 表すもので、その際作品に再三にわたって登場するキーワードも含まれ ている。 1 つは „unpersönlich“ という言葉で、通常は独立した個人としての己 を持たない、その意味でいわゆる「我」のないという意味であろう。元 来の言葉の成り立ちからすれば、Person の属性をもたない、ということ になる。Person という言葉は、人を指して使われる場合、一人の人間と しての核となる部分、そこから外界、他者とのすべての関わり、また神 との関わりの生じる人間存在の中心を指す言葉である。キリスト教で神 に対してPerson(ペルソナ・位階)が使われる場合、父・子・聖霊とい う個別の主体性を持つ神存在、その存在様式を指す。„unpersönlich“ と いう言葉はここでまさにそういう人間存在の中心がない、ということを 言っている。 彼女は彼を再三にわたって„Tier“(獣)に譬えている。ヨハネスの聖 職者になるつもりだというかつての意向と結びつけて、「そこで私は突 然わかったのよ、デメーターではなくて、あなたこそ獣だって…」と最 初の言及がある。そこでさらに彼女はその聖職者が持つ獣性を、「ほか の人が自分自身を持っているところがこんな風に空っぽ、何事もさらさ らと漉し器のように通してしまうこんな何もない穏やかさ…」(GW Ⅱ 199)と説明している。つまり、我という存在の中心に人としての主体 性の基盤がないことが獣に譬えられている。しかもそこには何もなく、 ただ空„das Leere“ という他はない空間が開いている。彼女は、神への 愛と誰彼を問わない他者への愛に生き、己を譲り渡す聖職者の使命を一 つの類似によって獣のイメージに結びつけ、同様にまたヨハネスを結び つけている。獣はキリスト教の伝統においては「黙示録」に世を滅亡 に向かわせる悪の化身として登場する(13 章)ことに見られるように、 神とは反対の方向をもつ表象として多く登場する。一方心理学では無意
識を抑圧する時は怪物としてあらわれ、開放する時は役に立つ動物とし てあらわれるという。※21 Musil が本作品を執筆するにあたって、精神医 学や分析学の知識を補填していたことは知られており、Corino などこの 作品を精神病の症状や精神分析学と関連させて解釈するものも多い。主 人公のこの言明はまずはその無私性への揶揄であるとみなされるが、同 時にヨハネスへのヴェロニカの微かな期待も表現の奥に潜ませていると も解釈できる。 ヨハネスの誘いと求愛に対する彼女の拒絶が三回に及んだことはかな り強調して書かれている。(GW Ⅱ 203)三回の関係の否定はキリスト 教的な背景においては、イエスの十字架への道行を前にして、イエスと の関係を問う声へのペテロの三度の否定を連想させる。十字架上の死に 向かうイエスに対して、自分の命が惜しく誠実を貫くことができなかっ たのである。この箇所の少し前で、ヨハネスはヴェロニカという名前か ら聖書のヴェロニカの特性、彼女がぬぐう十字架への道でのイエスの汗、 イエスを追う彼女の特奇な姿を連想している。こうして示唆されている、 イエスが他者の救いのために死に向かう受難の場面を下敷すれば、ヨハ ネスの死の要請とは、宗教的愛、即ち他者への愛のために自らの命を犠 牲にするまでに至ることを望むものとして理解されうる。ヨハネスのか つての聖職者希望にも応じるものとなっている。自らの死を覚悟する絶 対的な愛の行動の実現が「別な状態」への入り口となりえるのは当然で ある。 だが、ヴェロニカは彼に同行せず、別離の道を取る。先に確認したよ うに、ヨハネスの「神秘体験」へのアプローチには問題があり、ヴェロ ニカは質問を重ねてそれを露わにしている。確かにヨハネスに惹かれな がらも、彼女の究極の願望は恋愛の成就でも結婚でもなく― 自然との 関わりの中で経験した世界と自己との神秘的交感状態を自らの実存の中 に持続可能に持ち込むことなのである。ヨハネス自体は、究極の愛ゆえ の死は遠い憧れであっても、ヴィジョンにすぎず、ヴェロニカとはその 道を歩むのではなく、男女愛と結婚の成就を望んでいる、その愛の実現
の在り方は有限的で彼女の願望の高みには達せない。 ヨハネスの死のヴィジョンは別離の後にヴェロニカの半覚醒時に起こ る。「別な状態」を象徴する海の中での自死した遺体を想像し、幾度と なくそれに思いをはせている。もはや死人となり人としての個を持たぬ 彼が無限な自然と融合している様が目に浮かぶ。それが起点となって彼 女は自他の境界も消えて、融合し、関連しあって感受される意識の高揚 状態へ入っていく。空間的な遠近も超えて望むものと合一できているか のような精神状態である。彼女が一人で陥ったこのような精神状態は理 想とされる「別な状態」での他者との合一というより、主観的で精神病 理学でいう思考速迫という病的心理状態に似た様相を呈している。 さて、ヨハネスとヴェロニカの別離の場面には二人の存在が一つに結 びつく様子が描かれている。二人は風に吹かれて並び立ち、風が全身を 包み、浸透して、彼らをリフレッシュさせる。ヴェロニカは自分の存在 の中に多くの生物が棲息していることに思い至り、温かい思いは「なび きわたる血のように」(GW Ⅱ 211)体を回り、命の流れと交換が行わ れていることに「大きな赤紫の波のように温かく暗い気持ち」(同上) になる。またヨハネスの髪と自分の髪が触れ合うのを感じ、彼女は「二 つの群れが交じり合った」(GW Ⅱ 212)ような快感を感じる。二人は 少し体を寄せ合ってじっとした。
„…Und dann sanken sie ein wenig zusammen,ganz sanft und ruhig und so sterbenstill zärtlich,wie wenn sie ineinander verbluten würden.“ (GW Ⅱ 212) 「そしてそれから彼らは少しうずくまった、全く優しく、穏やかに、 そしてこれほど死のように静かで繊細に、まるで互いの中へ血を注 ぎ込んで死するかのように。」 この箇所は精神ではなく体の交感と交流が描かれている。これが風の 引き起こした現象となっていることに注目したい。キリスト教の伝統で
は言うまでもなく風は神の愛の位階、聖霊の働きを象徴する。ここでも 上記引用のように死のイメージが登場する。描写には血とそのイメージ が繰り返して使われている。キリスト教と関連づければ、血はイエスが 最後の晩餐で「罪が許されるように多くの人のために流されるわたしの 血」(マタイ26 章 28)と述べて、ミサの中で聖体として継承されてい るイエスの血を連想させる。この「血」は体の一部ではなくイエス自身 の変容した形態とされる。引用文に適用すれば、互いに命を捧げあう関 係を暗示している。体が主体の存在の交感であり合一であるが、そこに は神の愛の働きが暗示されているのであり、神の介在で可能となる存在 の交流という特質が暗示されている。それは拡大したスケールでは宗教 的共同体の愛とも類比が成り立つのであり、体に生息する小さな生物へ の言及はこの連想の飛躍を許すものであるかもしれない。ここではヨハ ネとヴェロニカはともに体のもたらす快感に甘んじるが、人としての精 神を抜きにした合一であり、それゆえ彼らはここで再び二匹の巨大な 「獣」に譬えられている。 最後にヴェロニカが死者について言及しているところを取り上げた い。
„Kinder und Tote haben keine Seele. Die Seele aber, die lebende Menschen haben, ist, was sie nicht lieben läßt, wenn sie noch so wollen, was in aller Liebe einen Rest zurückhält.“…„ Aber Kinder und Tote, sie sind noch nichts oder sie sind nichts mehr,… “ (GW Ⅱ 215)
「子供たちと死者は魂がない。だが、生きている人間がもつ魂はど れほどその意志があっても人に愛することを許さないもの、どんな 愛でも(差し出さず)何か取り残しておく ものだ。」…略…「し かし子供たちと死者、彼らはまだ何者でもないか、もはや何物でも ないものだ…」 「死者は魂がない」という文言の魂とはなんであろうか。一般には霊
と魂をさほど区別せずに、死者は肉体を失って、霊魂のみの存在となっ ていると考えられているだけにこの文言の意味は不可解である。ここで は霊と魂を区別して考えなくてはならない。霊は神と結びついている存 在の根源であり、不死である。魂は人の個人としての諸機能を扱い、生 命活動の中心、個人のアイデンティティ、自我意識の働く場とみなす。 Person は主に対他関係が問題の時の用語であり、魂や霊は本質と機能を 問題する場合の文言と考えると理解の糸口が現れる。どちらも同じ個人 の自己の中心を指す言葉であることに大差はなく、生きている者は完全 には不可能な無私性、即ち余すことのない自己譲与を実現できるという ことを指している文言と理解することができる。今回はこのような大雑 把な外枠のみの理解に留めるが、Musil のこの用語の使用に関してはな お詳細な検討が必要な課題であることを付け加える。 Ⅳ 死や死の属性を有する表象の記載は以上の他にも認められるが、本論 文では重要なものに限った。そこで最後に、それらに見られる特質をま とめてみたい。この作品には2 種類の死が登場する。1 つはネガティヴ な意味での、生を蝕んで精神的な意味でも崩壊に致させる、デカダンス な生き方の持つ死の特質であり、それは主人公の生家と叔母に縛られた 変化のない日常に比喩的表現を持ちつつ描かれている。 一方、物語の大半に示されるのは、主人公とその相手のめざす理想の 実存である「別な状態」に至る道に必須な条件と深く関わる死である。 即ちそれは上昇の道において、自我を捨てる決意であり、そのドラス ティックな形態として死が登場する。自己放棄の覚悟の実現により他者・ 世界と交流・交感できる神秘体験の道が開かれる。問題は存在の破壊と しての死ではなく、他者と対立する自我を明け渡し、他者への愛に譲り 渡す空の場を作り出すことなのである。「ヴェロニカ」では自他の交流 としての愛=合一の試みの内に潜む死の余韻は、キリスト教の宗教的愛 を連想させる道具立ても背後に散見されたことを指摘しておきたい。
死の表現に着目することで垣間見ることの出来た隠されたキリスト教 的色彩は、主人公の名前とも呼応しており、宗教的な愛の道を現代化し た切り口で理想の「別な状態」への1 つの試みとして用いているという こともできるのではないかと思われる。 なお主人公は別離の後、内閉して恋人の死のヴィジョンに触発されて 意識状態が変容し、自他の壁の消失した高揚状態となるが、すでに述べ たように、これはいわゆる充実した実存の実現という「別な状態」であ ることは疑わしい。また彼女の以前の同様の体験は自然との交感体験 だった。これらは本作品の主要な魅力となっているにも関わらず、この 小論考では殆ど触れることが出来なかった。機会があれば、また別の観 点から、「別な状態」というテーマの展開として分析し見たいと考えてる。 註
(1) Robert Musil: „Gesammelte Werke Ⅱ Prosa und Stücke Kleine Prosa Aphorismen Autobiografisches Essays und Reden Kritik“, Herausgebegen von Adolf Frisé, Erweiterte Neuausgabe, Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2000 S.156 ~ 232 に所収。
Musil の全集版は、新たにさらに詳細な資料を含めた『クラーゲンフルト
版』が完全版の前段階としてすでに存在する(Musil: KA, herausgegeben von Walter Fanda, Klaus Aman, Karl Corino; 2009)が、本論考では照合のしやすい Adolf Frisé 版を主に用い、必要な場合のみ新全集に言及する。 なお以下の本文での引用の際、Frisé 版の上記巻を GW Ⅱと略号で示し、頁 を数字で記す。 (2) 「『トンカ』における死の諸相」第 43 号 S.37~59 2004;「『ポルトガルの女』 における死の諸相」第45 号 S.83~84 2006;「グリージャ」における死のイメー ジ模様」第46 号 S.99~121(2007)
(3) Karl Corino: 1. Auflage, Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 2003, S.365~382 (4) Karl Corino: Musil-Studien 5, Wilhelm Fink Verlag, München, 1974
(5) 以下の Hamsun 紹介は主に岩波文庫版の訳書、翻訳者富原真弓の解説を参考 にし た。:『ヴィクトリア』,岩波文庫 赤744 - 1,岩波書店,2015,S.197~203 (6) 上掲書:S.146 ここは成立史上、「ヴェロニカ」の前身である「魔法にか けられた家」の解説であるが、影響関係の言及は大まかな筋立てに変わり のない「ヴェロニカ」にも波及させうると考える。
von Adolf Frisé, Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1978, S.891 以下の引用ではMoE と略してページ数のみ記す。
(8) 「別な状態」とは日常意識とは異なった精神状態、そこで引き起こされる意 識体験を指してMusil が『日記』やエッセイで用いている独特の用語で、こ の語とともに、Klages の „Vom kosmogonischen Eros“(「宇宙生成的エーロス」) からの抜粋が記されている。これは、即ち至高の愛や観想で引き起こされ る、他者や世界との融合一致感を伴った神秘体験のことであり、ムージルの 文学世界の主要構成要素である。:„Tagebücher“ Neu durchgelesene und ergänzte Auflage, Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1983, S615: さ ら に „Tagebücher Anmerkungen Anhang Register“ (『日記 注 索引 補遺』) Neu durchgelesene und ergänzte Auflage, Rowohlt Verlag, Reinbek bei Hamburg, 1983 S.122 に は 編 纂 者 Frisé による注釈説明が記載されている。
(9) GW Ⅱ 141~155
(10) Karl Corino: „Robert Musil“ S.372 ff. (11) GW Ⅱ 222, 233
(12) „Lexikon der Vorname“, Duden Taschenkbücher 4, zweite,neu bearbeitete Auflage, Duden Verlag, Bibliographisches Institut Mannheim, 1974 S.207f.
(13) 原文は章分けがなく、いくつかの段落ごとに空白行が挿入されているだけ である。5 部としたのは筆者の私見にすぎない。Marya Rauch は序+ 3 部構 成を取り、2 部は別離の後、ヴェロニカが一人帰宅するところからにしてい る。Marya Rauch: „Vereinigungen“ Königshausen & Neumann Würzburg 2000 S.57 (14) 本紀要第 38 号(2003)記載「『特性のない女』における女性像(1)― レオーナ、 ボーナデェーア、ディオティーマ―」S.7 頁、同 40 号(2001)「『特性のない女』 における女性像(2)― ラヘルとゲルダ ―」152 頁において論究した。 (15) 例えば、GW Ⅱ 196 「彼女は大きな暗い空間にそっと身を隠さなければな らないかのように」言葉を飲み込み…;彼女のささやきと沈黙の後でヨハ ネス:「まるで暗闇の中からこっそり触れたような… Gwn Ⅱ 204「…巻き 毛の上で暗く束ねられた髪」彼女の腕を覆う黒い柔毛…」など。最後の例 はヨハネスが魅力を感じる彼女の外貌として描写されている。 (16) アト・ド・フリース:『イメージ・シンボル事典』(日本語版:山下主一郎主幹・ 共訳)(大修館書店)(1984)166 頁 darkness 3, 4, 61 に否定的表象が挙げら れている。 (17) アト・ド・フリース:上掲書 659 頁 twilight 1, 2b (18) MoE 856 (19) アト・ド・フリース:上掲書 128~129 頁 circle 「1. 永遠、完全を表す 2. 全 を表す。」「円を描くもの」とは完全で全てを創り出す存在の隠喩と考えら れる。 (20) 例えば物語の始まり近くですでに、ヨハネスの神体験を語る文言の中の「二
人が共に感じている定かならぬもの」(GW Ⅱ 195)という表現で示唆して いる。