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ザカフカース時代のスターリン

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(1)ザカフカ-ス時代のスタ--ン. からの引用である。. スタ-リソの名が、この論文と一月二1日付の. (名・父称・姓の順、ジュガシヴィリ家ヴィサリオンの子のヨシフ). ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. れが任務である。このような党の構成が、単lの、全1的な党の内部. (AlⅡ三六四〔四. で'地方が広範な自治をうることを排除するものでなく、反対に、そ れを前提としていることは、自明のことであるo」 〇1-二〕). これは、1九1三年1月にウィ-ソで執筆され、三-五月に『プロ. スヴェシテェ-1三』(『啓発』) に掲載された論文『民族主義と社会 主義』 (これほ一四年に『民族問題とマルクス主義』と題して出版さ. る反乱の英雄の名をとりコ-バ・イヴァノヴィチと称した。. 本稿ほ'チフリスとつづ-一九〇七年以降のバク-時代のかれの清. ことになる。. であるが、かれほ初等学校に六年かかり、中等学校を五年で中退した. ラテン語を教えていた盲15九)0.スタ-リンが通ったのはその一つ. 全域にあり、一般のカリキュラムの他に教会スラヴ語、ギ-シャ語、. 四年制の初等学校と六年制の中等学校からなる神学校網はロシア帝国. 歳のとき秘密社会主義組織メサメ・ダシに加わり、翌年五月退学した.. ったが九四年一〇月一五歳でチフリスの学校へ進学'九八年八月一九. かれほ一八八八年'九歳のときゴリの学校に入学、一一歳で父を失. の意味. 「ペテルプルクにお. ける選挙」の署名で、ほじめて使用されたことも意味深い。ロシア語. ほ鋼(英語のスチ-ルSteelにあたる) のスタ-リ. (CTa](b). 専制君主、大ロシア的国民性のもとにしばりつけられていた。十月革. つぼカフカ-スのグルジア出身であり'しかも一貫して諸民族統一主. といい、今からちょうど100年前の1八七九年1二月二1日に、グ. スタ-リンほ本名をヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ. 義の原則を守りぬいたことは、理解できることであると同時に、他面. ヽ. -. ころはソソとよばれていたが、青年時代'グルジア民族文学に登場す. ルジアのチフ-ス県ゴリの町の靴屋の息子として生まれた。子どもの ヽ. 「ロシアのあらゆる民族の労働者を、各地方で単一の完全な集団に ヽ. 結集すること、そしてこの集団を単一の政党に結集すること'. ヽ. れ、『マルクス主義と民族間題』の表題で著作集に入れられている). こ. ヽ. ザカフカース時代のスタ-リン. 一五. ヽ. この原則は、スタ-リソ自身の次のことばに要約される。. では驚くべきことであるように思われる。. インタ-ナシnナウt(ム. た。その後三〇年にわたってこれを率いたスタ-リンが、諸民族のる. で'スタ-リンは鋼の人ということになる。. ロシア帝国では、一〇〇以上の民族がロシア正教'. 木 命によってこの帝国は一たん解体したが、ソ連邦という形で再結合し. 「諸民族の牢獄」. 序.

(2) ルコの侵入をうけた.1七八三年にはロシアの保護国となり'一入1. ザカフカ-ス時代のスタ-・リソ. 動をたどり'ザカフカ-ジュの革命運動の背景のなかで'前記の諸民. 0年までに完全に併合された。. 現在のグルジア共和国は、アブハジア、アジャリアの二自治共和国、. 真を立ち売りしていたことで、市街地図によると'市を貫涜するクラ. 公園のケ-ブルカ-の胴体にスタ-リソの名が大きく書かれ、肖像写. いる。この地域は古くからこれらさまざまな民族が入れ交って住んで. 治共和国、アドウイゲ'カラチャエフ-チェルケス自治州と近接して. パルカル、北オセット、チェチェソ=イング-シ、ダゲスタソの各自. アゼルパイジャソ共和国をもち、北側には北カフカ-スのカバルダ-. 南オセット自治州をふくむが'南隣りにアルメニア共和国、東隣りに. 川の河岸通りと前記中央公園にはスタ-リソの名が冠せられていた。. いることで有名であった。なおグルジア人はロシア帝国の全人口の. 一・〇七%(一八九七年)を占め、カフカ-スではもっとも多かった。. 四世紀以来キリスト教徒であるグルジア人は、ムスリムのトルコに. いなかったため、アルメニア人など周辺の民族との対立感情の方が強. 対立し、ロシアに好意的であった。ロシア人の地主や大ブルジョアも. 人ジャ-ナリスト、ヘドリック・スミスは次のように書いている. 「--グルジア共和国のグルジア人気質は、独立独行、猛烈な愛国. 策でもあった。. かった。諸民族問の対立をあおって支配を貫徹するのが、ロシアの政 ヨシフ・ジュガシヴィリにた. を区別するものとして'トルコとイランに対する両者の態度の相違以. バ-トラム・ウルフは、レ-ニン時代とスタ-リソ時代の外交政策. スタ-リソ統治を批判するロシア人にくってかかるだけではない。私. 上のものはない、と記しているが盲35四〇二〔四二一〕)これほペテ. ルプルクや西欧から世界を見ていたレ-ニソに対してチフリスやバク -からみていたスタ-リンの立場を強調したものであろう。. イジャンのバク-に五万'チフ-スに六五〇〇、その他に二万五〇〇. 一九〇入牢のザカフカ-ジュの労働者は約七万人で、うちアゼルバ. 田正純訳、時事通信社、一九七八年、二二八ペ-ジ。) グルジアは北部を大カフカ-ス山脈が南には小カフカ-ス山脈が走. 働者六〇〇〇、鉱山労働者八〇〇〇であった(D8Ⅳ八一八)0. アだけとった場合、一入九九年に、工場労働者一万八〇〇〇'鉄道労. 〇の鉄道関係の労働者・職員が働いていた'(C11一四-五)グルジ. に支配され、1一-1二世紀の繁栄のあとまたモンゴル、イラン、ト. 通・貿易上の要衝にあるため'古くからイラン、ビザソチソ'アラブ. る'国土の半分以上が海抜一〇〇〇メ-トル以上の山岳国である。交. 掲げて大通りを行進する。」(ヘドリック・ス・、、ス冒シア人』上、高. スタ-リソの肖像をレ-ニソ、マルクス、エンゲルスの肖像と1緒に. はグルジア共和国の祝祭日の写真を見せられたが、グルジアの役人は、. いする熱烈な愛がまたグルジア人の特質の一つだ。--グルジア人は. にのし上った、この"グルジアの息子″. 者ということで通っている。靴畳の息子からクレムリソを牛耳るまで. 異例のことのようにうつり'多くの旅行記に記されている。アメリカ. 銅像や、五七年に完成したスタ-リソ博物館は健在であった。 このような現象は'外国人の限にも、スタ-リソ批判後のソ連では. 中央公園の銅像は台座を残すだけであったが'ゴ-の市ソヴェ土別の. 昨年グルジアを訪問したさい強い印象を受けたのは、チフリス中央. ある。. 族統一主義の原則を貫いた革命家として検討してみょうという試みで. 〓ハ.

(3) グルジアの中心は一九三六年にトビ-シと改称されたチフリスであ る。ここはアルメニアのエリヴァソへ行く鉄道がバク-・バツ-ム線. 動する全社会民主主義者グル-プの実践的指導部が形成されたのであ る(C2五1).. スタ-リン批判以後、日本ではスタ-リン自身についてとりあげら. れることが少な-なったが、欧米での研究ほその後も進められている。. から分岐する地点であり、グルジア軍道の始点であった。1九七六年. の人口ほ一〇三万であるが、一八九七年にほ一六万であった。ゴリの. 本稿は'ソ連邦史研究の前提の一つとして、革命前のかれの伝記を私. 実際活動家(プラクテイク)=ボ-シュゲィキの形成. を中心とする後半のテ-マほ「民族主義との闘争」とした。. 成」として、一九〇七年までのチフリス時代を扱い、それ以後の時期. 以下、前半は「実際活動家(プラクテイク)=ポリシェヴィキの形. なりに簡単に整理してみたものである.. 町はチフリスの北西七六キロのところにある。. 一八九二年l二月二五日、チフリス西方のクヴィリルイ(現ゼスタ フォニ)で'舶・ツハカ-ヤ、3・ニノシヴィリらマルクス主義的知. 識人の会議が開かれ、のちにメサメ・ダシ (第三グル-プ)とよばれ る組織が生まれた。ここでのち一九一入年なかばから二一年二月まで グルジアのメソシュゲィキ政権を率いたH・ジョルダニアから提案さ れた綱領案は、ワルシャワにいた¢・マハラッゼによって'マルクス 主義の立場から批判された。結局はじめの綱領案ほ破棄され、次の命 題が一致して採択された。すなわち、 一'合法的、非合法的を問わず'つねにどこでも社会主義着である こと。. 二、あらゆる民族主義の断乎とした反対者であること(C2三二、 三三、七六六)。. 一入九二年の段階で'この方針が定められたことは注目される。第 (『航跡』)は、九七年までr・ツェレテリによって編集された.. 二回の会議は九三年春チフリスで開かれ、メサメ・ダシの検閲紙『ク ヴァリ』. 一八九八年八月、一九歳でメサメ・ダシに加わったスタ-リソは、. (一入七六年生まれ、モス. 翌年五月神学校を退学し'1二月にチフリス天文観測所職員となった.. このころ運動を共にしたのは'ツルキッゼ. クワ大学出身、九五年メサメ・ダシに参加)とケツホヴュリ(七六年. 生まれ、チフリスの神学校における先輩)である。前者ほ一九〇五年. に逮措され、就中で結核のため病死、後者は〇三年に獄中で看守に射 殺されている。. 一九〇〇年八月、チフリスの鉄道修理工場と横関庫の大ストライキ. かにB・ケツホヴュリ、A・ツルキッゼ、マハラッゼ、スタ-リン、. 盟が結成されたが、この影響で九八Il九〇〇年にメサメ・ダシのな. 〇〇年には労働解放団のB・クルナ-フスキ-がレ-ニソの使いでチ フ-スにあらわれ、のちソ連最高会議幹部会議長となる州・カリ-ニ. 年四月二二日のメ-デ-のデモはチフリス最初のものであった。一九. が行われたが、これはグルジア労働運動史上の画期的事件であり'翌. n・ジャバ-ッゼらの革命的中核が生まれた。かれらは九七年に結成. ソ、C・アリル-エフもチフリスで活動していた。 ザカフカ-ス時代のスタ-リン. 一七. されていた労働者チフリス委員会に合涜し、こうして'チフリスで活. ペテルプルクでほ九五年にレ-ニソによって労働者階級解放闘争同. l.

(4) ザカフカ-ス時代のスターリソ. 一九〇一年三月、スタ-リソは観測所から地下に潜った。九月'バ ク-で'ザカフカ-ジュほじめての社会民主党イスクラ派のグルジア (『闘争』)が発刊された。スタ-リ. ンは創刊号に「編集部から」を、一一・-一二月の第二-三号に「ロシ. 語の非合法の新聞『プルゾ-ラ』. いは発砲によって一五人死亡、五四人負傷し、一二日五〇〇〇人が参. 加した葬儀にたいしては大量逮描が行われ、五〇〇人がバツ-ムから. スタ-リンは四月五日、バツ-ム・グル-プの会議中に他の委員と. 追放された、(D8Ⅱ一六五-一六七). たので訊問は憲兵が行った。「憲兵のラヴロフほ、自分自身が嘘であ. これははじめての逮掃であった。デモ事件では起訴'裁判されなかっ. ともに逮揺され、一年半以上、バツ-ム'クタイスの牢獄で過した。. れの任務は、しつかりした原則と、やぶりがたい非合法活動で武装し. ることを前もって知っている『自白』をさせるために宗教裁判的な方. トキブリその他グルジア南部の農村に配布した.この印刷所は1度移. ットを発行し、グ-リア'-ソグレリア、クタイス'チアトゥルイ'. -ム・グル-プは〇二年に地下印刷所をつくり、宣伝ビラ'パンフレ. ソに消えがたい印象を残したにちがいない.」青光三六〔七二〕)バツ. 法を用いるのが常であった--。このような警察のやり方ほスタ-リ. た、強力な党の創設のために活動することである」と記している(A. 1月一1日、チフリス社会民主党組織の第1回協議会. (現バツ-,I,)ほ現在アジャリア自治共和国の首都で人口. 転し、〇四年に警察に発見され、破壊された。. なおスタ-リソは、〇二年か〇三年にエカテリ-ナ・スヴァニ-ゼ. l万一〇〇〇、そのなかから社会民主主義老のグル-プが生まれた、. 嬉した。前述のアリル-エフは彼女の父である。. 一〇七)、1九年三月二l歳年下のナデ-ジダ・アリル-エヴァと再. と結嬉した。彼女ほ、バク-に移ったあと〇八年以後に病死し(B㍊. 〇二年二月二七日ロスチャイルド石油精製工場の約四〇〇人の労働者. 通し、バク-の石油はここから積み出された。二〇世紀初め労働者数. 黒海に面した港で八三年バク-からの鉄道が'1九〇七年送油管が開. 一一万七〇〇〇(一九七六年)、一八九七年にすでに二万八五〇〇人、. .,'1ッ-ム. 七名である。一一月末スタ-リソほバツ-ムへ派遣された.. チフリス委員会を創設した。そのメンバ-はスタ-リン、チヘイゼら. が開かれ、市内のグル-プから二五人の代表が出席し'イスクラ派の. 一九〇一年1. II二八〔四七〕)。. ア社会民主党とその当面の任務」を載せている。そこでほ'「われわ. 一八. 〇三年三月中旬'チフリスでカフカ-スの社会民主党組織の第1回. のイニシアティヴでおかれたバツ-ム委員会が組織したものである。. ハカ-ヤの指導のもとにロシア社会民主党カフカ-ス同盟を創設し、. 大会がもたれ、ジョルダニアもふ-め一五人が出席、ツルキッゼ'ツ. 逮描'当日の抗議デモで三〇〇人達描、九日六〇〇〇人の大デモのさ. イスの軍総督との交渉にも代表が派遣されたが、三月八日朝三二人が. 業休止期間の補償、労働者の丁寧なあつかいその他を要求した。クタ. この委員会は九月に党中央委員会によって地区組織の資格を確認され、. に、バツ-ムの監款にいたスタ-リンも欠席のまま委員に選出された。. その委員会を選出した。マハラッゼ、ツルキッゼ'ツハカ-ヤととも. ソユ-ス. ストライキ委員会ほ、解雇者の復職、労賃引上げ、労働日の短縮'作. が革命運動に参加しているとの疑いで解雇されたことが発端となって ストライキがおこった。これは〇一年末、社会民主党チフリス委員会. 〓.

(5) (『プロレタリアの闘争』)を発行した。. グルジア語、アルメニア語、ロシア語で『プロレタア-ティス・プル ゾ-ラ』. グルジアの党組織はこのように'この時点で、ポリシェヴィキの重要. な支柱として確立していたのである。. ザカフカ-ジュは〇五年革命においても、その中心の一つとなり、. のように述べている。. 「カフカ-スの労働者よ'復讐するときがきた」で、スタ-ワンは次. けている。すなわち、1月八日、旋順陥落に関連して出した宣言'. 「血の日曜日」以前に、ツァ-リ専制にたいする決定的強襲を呼びか. また先駆的でもあった。カフカ-ス同盟委員会は、すでに一月九日の. スタ-リンは〇三年二月から三年の流刑を軍言され、イルク-ツ ク県のノ-ヴァヤ・ウダに送られたが、ここでレ-ニンの手続をはじ めて受けとった。〇四年一月ウラル越えで脱走、一週間でチフリスに 、シャウ、,、ヤンとともに党カフカ-. 戻り、二月、B・ボブロフスキス同盟委員会に補充された.(D9四二七) 当時チフリスでほE:・クラシソが活動していた。のち外交官となっ たクラシソは一入七〇年生まれで一九〇〇年ハリコフの工業専門学校 た。・第二回大会後ポリシェヴィキに加わった。組織の分裂をくいとめ. っっぁる。敗北に敗北がつづいている。ツァ-リ政府は外国の倍額を. を失いつつある。他方では、ツァ-リの国庫は一日一日とからになり. 「ツァ-リ専制は'主要な支柱であるその『信癒するにたる軍部』. ようとしてバク-の秘密印刷所をメソシュヴィキに手渡したが、まも. しだいに失っている--。つい昨日か一昨日'バク-からバツ-ムに. いたるカフカ-スの労働者は、ツァ-リ専制にたいする軽蔑を一致し. て表わした.」(AII七五-九〔九七-一〇〇〕). 月1日付『プロレタア-ティス・プルゾ-ラ』第八号の「プロレタリ. この前後に'スタ-リンの党組織論も形をあらわしっつあった。一. にもどったが、ちょうどこのときゼネストがあり、ロシア最初の団体. アの階級とプロレタリアの党」では、党の統一のためには綱領の東認. 、綱額の認容しか. 言もない、ところが党の統一. の定式では--. だけでな-、組織上・戦術上の見解も同じでなければならないという. ヽ. 見解をあきらかにしたのである。. の、て. 第三回は〇四年五月に開かれたが、ひきつづき〇四年一一月に同じく. 〔メソシェヴィキ〕. 釈,ほ. 「マ-ルトフ. 一. ヽ. 問題にされず、戦術や組織につい ヽ. チフリスで開催されたポリシェヴィキ派委員会の第一回協議会は'第 三回党大会招集にかんするカフカ-ス局を選出した。同じような協議. ヽ. ザカフカ-ス時代のスタ-リン. 一九. は、綱領上の見解の統一とお. のためには組織上、戦術上の見解. ヽ. 会ほロシアの北部、南部で開かれ、この三協議会は'多数派委員会局. ヽ. なじくらい必要である。このことについては、同志レ-ニソの定式の. ヽ. を選出した.この局の指導者ほA・ルイコフ、州・リトヴィノフであ. ヽ. なかにも述べられていないという人がある。その通り。しかし同志レ. ヽ. 〇三年三月に創設されたカフカ-ス同盟の第二回大会は一〇月に、. 協約が調印された。. 創設された。夏にはクタイスへ行き一一月まで滞在、一二月にバク-. ソシュヴィキ的委員会が解散され'新しいポリシェゲィキ的委員会が. スタ-リソほ〇四年六月バク-に着いた.I.(ク-ではこの六月にメ. なくレ-ニンについた。夏にはE=・カ-メネフもチフリスにもどった.. な卒業し、〇四年までバク-で技術者として働きつつ秘密活動に従っ. 三. る。レ-ニンはこれを拠点として中央委員会に反撃したのであるが、. ヽ. I.` ......

(6) -ニソの定式のなかでは'このことについてかたる必要はないのであ. 動揺していたこと、新米であったことなどと説明している。富Cqol]ハ. 会に出席していない理由を、かれが直前までメソシュヴィキとの間で. いたo」盲Cqco]ハl〔二二-三〕)と書き、スタ-リソが第三回党大. ザカフカ-ス時代のスタ-リソ. る.党の諸組織の一つで活動するもの、したがって党とともにたたか 0[1. 労働者をいれるべきであるのに実態は違っており、「委員会の委員と して使いものになる労働者はいない、と言われたときには、私はじっ. なった。レ-ニソは、演説や発言で、地方委員会にできるだけ多くの. 回党大会でほ'労働者とインテリゲソツィアとの関係が大きな問題と. の意見の相違について簡単に」、ブルジョア民主主義革命から社会主. きか」にそって解説し'メソシュヴィキに激しい攻撃を加えた「党内. に影響を与える」才能はあったように思われる.第三回党大会後、ポ. 説家の才能はなかった。しかし、啓蒙的・扇動的文章にょって「大衆. 八日に発表されたが、これは即日三万人以上のデモにょってこたえら. いする見せかけの譲歩である一〇旦七日の詔書は、チフリス. 発言している。「--党のさまぎまな部分の間で関係が尖鋭化してい. れた。1九日七万、二〇日八万、二一日四万と参加者は減らず'バツ. ー謹聴、謹聴) ーム、スフム,クタイス、ポチ、チアトゥルイ等々でもデモやストが. 傷した。グ-リアでは大規模な農民闘争が拡まっており'プロレタリ. つづいた。バツ-ムの三日のデモ隊と軍隊との衝突では一〇人が死. 入れるのが適当である。それ故に、決定的な票を与える必要があるご. ア-トと全農民との同盟は現実性をもっていた。1二月になると蜂起. トロッキ-ほ、スタ-リソが一九〇1年当時から労働者を自分の委 つまり政治的経験主義者. 頓着、のちにほ軽蔑をもって対した。かれほ直接に大衆に影響力を及. て、もっとも発揮されているように思われる。. いるが、スタ--ソの真価は、このような啓蒙的・扇動的文章におい. 一九日に印刷されたチフリス委員会のビラには次のように書かれて. リシェゲィキは第三回党大会の決議にそって武装蜂起を扇動した。. 着たちはアズルゲトイの町を占領し人民権力を樹立するにいたる。ポ. (D2一九). 全部を委員会にいれるどころではないほど人数があり'地区委員会に. と言われているのには驚く.道である。(レ-ニン. るため、委員会には労働者はいない。委員になりうる労働者がいない. 〔ⅤⅢ四10〕)と辛らつに批判している。r・・Lヤパ-ッ.ゼほ次のように. ら適材字えらびだす能力がなかったことを意味する」(D4Ⅹ一六二会民主党」はその例である。革命の高揚にあわてた政府の、人民にた. リシェヴィキとメソシュヴィキの違いを、レ-ニソの「なにをなすべ. と着席しておれなかった」(D4Ⅹ1七四〔ⅤⅢ四1四〕)「サラトフで. 義革命への成長転化の戦略を説明した八月の論文「臨時革命政府と社. する批判・不満は一貫してあり'トロッキ-のようなはなばなしい演. たしかにスタ-リソには、後にもふれるように'亡命指導者にたい. 1-11]). い、党の規律にしたがうものが、党の戦術と党の組織原則以外の、別の 〔傍点木村〕 (AII七1〔九三〕). ある戦術や組織原則にしたがいえないことは'自明ではあるまいか。」. 二〇. 労働者を1人しか委員会にいれていないというのは、労働者のうちか. 四月三〇日1五月一九日ロンドンで開かれたポリシェヴィキの第三. 1. ぼす個人的な能力がなかったので、政治機構紅激し-執扮にしがみつ. として、かれは亡命者にたいし'『在外中央部』にたいし'最初は無. 員会にいれることに反対し、「『実践家』. -.

(7) ザカフカース時代のスタ-リン. 「--しかし、次の事実は依然として事実である。すなわち、人民. はツァ-リの約束を信じることはできない、人民は自分自身しか宿っ. てほならない、人民は自分自身の力にのみ拠らなければならない、つ. まり'人民の解放ほ人民自身の手でおこなわれなければならない。人. 民の自由ほ圧迫老の骨の上にしかうちたてられほしない。人民専制の. 土壌の肥料となりうるのほ圧迫者の血のみである。武装した人民がプ. ロレタリア-トを先頭として全般的蜂起の旗をかかげるときにのみ、. そのときにのみ、銃剣を蘇みにしているツァ-リ政府をうち倒すこと. ができる。.から文句でな-、無意味な『自己武装』でなく'実際の武. (AII. l九〇〔二1九〕). 装と武装蜂起、いま全ロシアのプロレタリアほ'まさにそこに向って 突き進んでいる」. 一一月カフカ-ス同盟協議会が開かれ、三五〇〇人を代表する二四. 人が出席した。第四回党大会の代議員ほ、カフカ-ス同盟委員会とチ フリス委員会からスタ-リン'バク-委員会からn・キンティンが選. ばれたが、キンティソは出発前バク-で殺された。スタ--ンほまた. 党全国協議会の代表に選出されてタンメルフォルスで開かれた最初の. ポリシェヴィキの協議会に出席し、ほじめてレ-ニソと会った。. 1人で虜ったが、ポリシェヴィ. 二一. この第四回党大会で'グルジアのメソシェヴィキほ地主の所有地の. 弾圧がと-にきびしかったことの反映でもある。. ュヴィキがこのように優勢になったのほ、ポリシェヴィキにたいする. キはスタ-リソだけで他の10人はメソシェヴィキであった。メソシ. 党大会では、カフカ-スの代議員は1. ェヴィキ・カフカ-ス局を結成した。四月のストックホルムの第四回. 一九〇六年一月にチフリスにもどったスタ-リソほ'秘密のポリシ. 四.

(8) ザカフカ-ス時代のスタ-リソ 地方自治体の強化を主張した。その綱領のおもな作成者はn・マ-ス ロフであったが、r・プレハ-ノフとグルジアのメソ ュ. ヴィキの. 同じ組織で活動をつづけることができなくなった。私のところでは、. 私は国家資金散発のためのポリシェヴィキだけのクラブの創設を決意 案を認めた。〇六年1. した。われわれの進んだ同志、と-にコ-バ=スタ-リソは、私の提. ハ-ノフーコストロフの綱領」. イの鉄道分岐点で郵便車輔を襲い、二万一〇〇〇ル-ブ-を略奪、う. 1月中旬、徴発クラブが組織され、チアトゥル. ジョルダニアの仮名)とよび、これを批判した。革命の完全な勝利の. ち一万五〇〇〇ル-ブリはポリシェヴィキ支部に送られ、残額ほのち. の一連の散発のためわれわれのグル-プの手もとに残された--」. と現在の見地だけから1面的に観察して将来の見地に注目していない. が'責任者と執行者の間に立ち、かなりの権限をもっていたようであ. スタ-リンは、このような襲撃に直接の責任を負うことはなかった. (Fq2100). から誤っているが、農民は賛成するであろうから有害でほないと評し. 欲され、l七年二月革命後解放された。二二年交通事故で死亡'ポリ. おい、ついにチフリスに移されて脱走、一二年略奪に失敗してまた投. 略奪事件後ベルリソでドイツ警察に措まったが、四年以上狂人をよそ. 武器・爆弾をもってチフリスに帰り徴発活動を行った。チフリスでの. したが途中船が沈没して失敗、〇七年フィンランドでレ-ニソと会い、. 逮描され二カ月半投欲された。〇六年プルガ-アから武器を運ぼうと. 盟委員会のl員となり同年一一月逮描、九カ月後脱走、〇五年1二月. を通じてその忠実な生徒であった。〇一年入党、〇三年カフカ-ス同. 一八八二年生まれで、九九年にスタ-リソにカモの名をもらい、生涯. セ、、、ヨソ・アルシャコヴィチ・テル=ベトロシアンであった。かれは. この略奪の中心人物ほス甥-リソと同じゴ-生まれのアルメニア人'. ル-ブリを奪った。. 弾をあびせ、三人を死亡させ五〇人以上を負傷させ、三四万一〇〇〇. チフリスの広場での強奪である。国家資金を運ぷ馬車に爆弾八個と銃. る。かれが関与したといわれている有名な事件は、〇七年六月1三日. カフカ-スでは〇四1〇八年に一一五〇件. 「技術局」は一日に一五〇個の爆弾を供給できた。. いる。「この大会後、われわれポリシェヴィキは、メソシェヴィキと. ザカフカ-ジュの状況について、テンツァ-ゼは次のように述べて. 造・武器の購入・輸送にまで責任をもった。(B29九二). この仕事に活躍したのほクラシソで、資金面ばかりでな-、爆弾の製. た。党中央委員会の. 百人組のテロ、数千人にのぼる政治犯の処刑'何万人もの投狭があっ. この背景には、国中で猛威をふるっていた懲罰隊・戦時軍法会議・黒. のテロがあったが、その大きな部分はポリシェヴィキのものであった。. が傷ついた。(B17七二). ロは二万三〇四四件、そこで四三二二人の官吏が殺され、四四六五人. 一〇月から一〇年五月までに、ロシアにおける革命グル-プによるテ. を非難する決議を採決したが、兵器庫等の収奪ほ例外とした。〇七年. 第四回党大会はまた、メソシュヴィキの提案にょって、テロ・略奪. (D4ⅩⅢ一九、二八〔Ⅹ三二一、三二九〕). た。レ-ニン自身ほ土地国有化をとなえたことはよ-知られている。. スタ-リソの主張した土地分割の綱領についてほ、農民運動を過去. 命権力ばかりでなく'中央の革命権力でもある、と述べた。. (ジョンはマ-スロフ、コストロフほ. 二二. ために必要なのは、革命的自治ではな-'革命権力、しかも地方の革. 「精神的な父」ジョルダニアも加わった。レ-ニソも「ジョンープレ. シ.

(9) シュヴィキのロビン・フッドである。(D7〓二八-四一). 英雄的狂居着としている。『狂信の創造者』の次の文章をもって、こ. ジアがメソシュヴィキの拠点となっていたことが分る。(D6二五四). の部分をしめ--るのが適当であろう。. イサド=ベイほ、この時期のスタ-リソを、悪党でも山賊でもない. いく人かの研究者は、この頃スタ-リソが秘密警察に雇われていた と言っている。たとえば、ハイドは、〇六年三月二九日の逮描後早釈放されたのほ疑わし-、情報提供などの見返としてスーツクホルム. 「常にレ-ニソを讃嘆させたのほ'かれの行動の一つ一つを特徴づ. けた、まさにこの冷静な狂信、革命へのこの本能的欲求、他の形の信. 大会と翌年のロンドン大会への旅費を供与されたのではないかと書い. ている。∧富17七五)タヅカ-はいくつかの例をあげたあと、スタ-. スタ-リソはもっとも同情深く、歴史的立場からみれば、ロシアでも. 念にかす耳をもたないこの強い精神である。人間的立場からみれば、. ロイ・メドヴェ-デフは. おそらく戦傑を覚えつつ、スタ-リンの精神の抵抗しがたい力を認め'. っとも深く悲劇的なポリシェゲィキ的人物である。--レ-ニンは、. 「若干の人々の頑強な主張に同意することはできない。」と結論して. がますます見事にひらいた。. による. (B12一〇三-四〔九. 「民族主義の渡」をよびおこした。. えようとした。そして解放運動の潮が引けば引-ほど、民族主義の花. 「民族主義の波はますます強くおしよせてきて、労働者大衆をとら. 『マルクス主義と民族問題』の冒頭の文章になるであろう。. バク-時代のスタ-リソの活動の内容を一言で述べれば、かれ自身. た'政府による弾圧等もまた. 一定の文化的自由によって、「民族感情」の強化がうながされた。ま. ロシア帝国では'〇五年革命後の経済的発展、「立憲制度」. 民族主蕃との闘争. 二〕). の陰気なカフカ-ス人につきまとうであろう。」. はスタ-リソを『伝説的』グルジア人とよんだが'この称号は代々こ. それを尊敬し、またおそらくはそれを恐れた最初の人であった。かれ. 回ザカフカ-ス大会が〇六年九月にチフリスに招集され、バク-で終 了した。この大会の五八人の代議員の多数派ほメソシェヴィキであっ. た。チフ-スのポリシェヴィキは〇七年初め独立のセンタ-を創設し' チフリス・ポリシェヴィキ文書局と名付け、ツハカ-ヤ、マハラッゼ、 スタ-リン、シャウ-ヤソ、ジャバリッゼらが活動し、ザカフカ-ジ. ュのポリシェヴィキ組織を事実上指導した。 一九〇七年、スタ-リソは一月には「無政府主義か社会主義か」を. 発表してプロレタ-ア-ト独裁を擁護し、四-五月にはロンドンで開 かれた第五回党大会に、ツハカ-ヤ、シャウ-ヤソ、A・カホヤソと ともにグルジアのポリシェヴィキ組織の代議員として出席した。この 大会のポリシェヴィキの代議員一〇五人中ロシア人七八・三%'ユダ ヤ人一一・四%であったが、メソシュヴィキ代議員九七人の内訳はロ シア人三四%、グルジア人二八・九%'ユダヤ人二二・七%で、グル ザカフカース時代のスタ-リソ. 二三. 第四回党大会後、ザカフカ-ジュでも統一の大会が準備され、第四. いる。富加三l五-二四〔下五九-七三〕). いくつかの疑惑を検討し、後年暴露をおそれて大粛清を行ったという. たとは思えないとしている。富33一一二). リソが警察との取引で情報を提供したことはありうるが、雇われてい. の.

(10) ザカフカース時代のスタ-リソ. この困難な時期に、社会民主党には、民族主義に反撃を加え、大衆. に傾きポリシェゲィキと対立する。. なるとジョルダニアらグルジアのメソシュヴィキも民族的文化的自治. 盤」があると主張し、ツルキッゼ、マハラッゼに批判された。のちに. 二四. へふみ出したことを意味した。. かれはポリシェヴィキの非合法の新聞『バキンスキ-・プロレタリ. (B8101〔-九〇〕). が「裏道から全国的政治活動の本道」. 移した。ドイツチャ-が述べているように、この移動は、スタ-リソ. 1九〇七年後期、スタ-リンは活動の本拠をチフリスからバク-へ. 二. を一般的な『伝染病』からまもるという重大な使命が課された--0 このさい、直接民族主義的運動に直接突き当っていた辺境地方の社会 主義者には、特別の堅忍不抜さが要求された」(AlⅡ(二九7[三二 四〕). すでに、〇五年二月六七日のバク-でのアルメニア人とアゼルバイ. ジャン人との民族的衝突にさいして'カフカ-ス同盟チフリス委員会 は直後のl三日に抗議デq'を組織し、グルジア人'アルメニア人'ロ シア人、アゼルバイジャン人の合同集会を開き'政府の挑発的行動を. ヽ ヽ. ヽ. -. ツァ-リ政府の真の墓掘り人であるプロレタリア-トのま. 四月から五月にかけての第三回党大会でツハカ-ヤはカフカ-スの. 訴える文章を執筆、一〇月二五日に、ポリシェヴィキの全市協議会で、. 社会民主党バク-委員に選ばれた。 トロツキ-は、ポリシェヴィキのいくつかの回想はバク-組織の第. l人老の地位をシャウ-ヤソとn・ジャバリッゼに与えている、と記. している.盲82一l五〔1九六〕) この二人は1八年にイギ-ス干渉. オロシ-ロフ、エヌキッゼ、スパンダリアソらが活動した。. 重工業人民委員となるオルジョニキッゼ、のちのソ連国防人民委員ヴ. 軍に殺された。その他'ここでは、のちソ連最高国民経済会議議長、. おける人民蜂起にたいする専制の勝利は、同地方の住民が異種族から. 農民運動について追加報告を行い、レ-ニンの提案によって「カフカ -スの事件にかんする決議」を採択した。ここでも、「カフカ-スに. なっている.ことによって容易にされているから、この勝利は全ロシア. 1万二〇〇〇、1九1三. 年三三万四〇〇〇と人口も急増、ロシア帝国有数の大工業都市となっ. 掘が始められ、その後急速に発展、九七年1. 一万四〇〇〇人の小都市にすぎなかった。ちょうど一〇〇年前石油採. バク-は今日人口1四〇万人でアゼルバイジャン共和国の首都であ るばかりでなくザカフカ-ジュの中心都市であるが、一八六三年には. 月党のアルチル・ジョルジャゼは'民族内には階級間に「共通の基. 当時、ロシア連邦共和国内での自治をとなえていたグルジア連邦二. Ⅲ四二七〕). における蜂起の成功にとって、もっとも有害な結果をもたらすであろ ラ.」と諸民族の団結の重要性が強調されている.(D4Ⅹ1九1. 〔Ⅴ. 『グド-ク』(『警笛』)第四号に石油業者との協議会のボイコットを. -』(『バク-のプロレタリア』)に主菜や第五回党大会の報告を掲載. ヽ. 非難し、民族間の不和をあおる政府に反対して闘うことを誓った。チ ヽ. し、九月にほバク-石油工業労働組合の合法的ポリシェヴィキ機関紙. ヽ. フリス委員会は、「民族間の友好万歳」と題した撤文で次のように訴 ヽ. これがツァ-リ政府の政策である. えている.「分割して支配せよ --たがいに手をさしのべ、団結して'バク-の殺人のただひとりの. ヽ. わりに結集せよ.」(AII八二-八三[1〇三-五〕). 責任者. -.

(11) ていた.石油生産高は1八六四年五三万八九〇〇プ-ド (1プ-ド1. 六・三八キログラム)、七三年三九〇万プ-ド、l九〇1年六億六七. 展開された。」(AlⅡ(三八六〔四二四〕). バク-の新聞にスタ-リソが執筆したその内容の実務性、具体性で. 高揚期の活動は長-つづかず、八'九カ月後オルジョニキッゼととも. きわだった多くの論文や記事はスイスのレ-ニソの許にとどけられた.. ド'ノ-ベル等外国資本の果たした役割は大きかった。石油労働者は. に逮挿された。〇八年一一月九日、警察の公然監視の下での二年間の ヴォログダ県への流刑が決定され、護送の途中間歓チフスのため〇九. 10万プ-ドとなり、世界の石油生産の半分を占めた。ロスチャイル. 一入七九年の一入〇〇人から一九〇一年にほ三万六〇〇〇人へ増大し. 年二月八日ヴヤ-ツク県の地方自治体病院に一時入院し'そのあと流. 刑地に着いた。しかし四カ月後六月二四日には早-も脱走し、ペテル. たが、その構成は多民族的で、一九〇四年の数字でほ、アゼルバイジ ャン人四八・八%、ロシア人二五・二%'アルメニア人二四・四%' その他一・六%である.(D8Ⅱ六二-四). プルクにアリル-エフを訪ね、七月前半にバク-に戻った.. 五〇〇〇を数えた党員ほ激減し、党組織間のむすびつきは弱まってい. 〇九年、党は危境的状況にあった。〇七年の第五回党大会当時7万. 01年に社会民主党のバク-委員会が創設され、〇四年秋にほムス リムの社会民主党組織グムメット(エネルギ-)も結成され、労働運 動、革命運動においてもザカフカ-ジュの中心となった。〇三年の七. 〇〇〇人へ、さらに三-四〇〇人にすぎな-なった。バク-でもポリ. た。〇七年に八〇〇〇人を擁したペテルプルクの組織ほ〇八年にほ三. 月ゼネスト'〇四年1二月ゼネスト'〇五年五月スト、八月ゼネスト、 '〇七年1 1月の六万人の一日ゼネストが著名なもので. 秋・冬のスJ・. ある。〇五年二月には労働者代議員ソヴェトが、〇六年には石油工シェゲィキは二-三〇〇人となった。石油労働者の労働時間ほ入時聞. から一二時間に延長されていた。九月三日、スタ-リンの指導. に開かれたチフリス委員会の会議で'委員会付属の赤十字委員会が設. 業労働者同盟が創設された。 〇七年後期スタ-リソがバク-に移ったころ、ペテルプルクでほ〇. 置されることになり、資金を集め、逮描されたポリシェヴィキやその. 組織の状態、「合法的可能性」'チフリス'綱領上の解党主義、戦術上 の解党主義の各項に分け述べられているが、その簡潔な実務的論調ほ. フ、¢・ダソである。論文は、バク-の石油業の状態、産業自治制、. 聞の編集者は、レ-ニン'ト・ジノヴィエフ、カ-メネフ、マ-トル. で発行されていた『ソツィアル・デモクラート』紙に書いた。この新. 11月1二日にほ「カフカ-スからの手紙」を、パリ、ジュネーヴ. 家族を救援しようとした。(c2二〇七」八). 五年革命ほ完全に鎮圧されていたが、バク-の運動はつづいていた. 九月末の国会予備選挙でほポリシェヴィキが代表に選ばれ、スタ-リ ソほ「第三国会の社会民主党議員への要望」を書いている。〇八年二 月ほじめまで、石油会社との交渉のための、ポリシェゲィキの勢力の もとにまとまっていた石油工業労働者の全権代表の選挙が行われた. 全権代表評議会ほ、三月三〇日、四月六、10、二六、二九日と開か 労働者議会がひらかれた。この議会ではバク-労働者のすべての要求. たとえば次のようである。「宣伝は'われわれが『座談会』とよぶ最. れた。「極反動がロシア全土を支配していたときに'バク-では真の. が公然と審議され'わが党の演説家によって、わが党の最小限綱領が ザカフカ-ス時代のスターリン. 二五.

(12) ザカフカ-ス時代のスタ-リソ 上級のサ-クルでおこなわれているだけである--。主要な宣伝文吾 が非常に不足していることが感じられている・・・-。党からきうはなさ れていること'ロシアの党組織の事情がまった-知らされていないこ とが、党員大衆に悪い影響をおよぽしている。全ロシア的磯関紙、定. 期的にひらかれる全党協議会、中央委員の系統的な巡回が'事態を改 善できるだろう。」(AlⅡ一入二〔二〇六〕)と-にグルジアのメソシ エヴィキはきびしく批判され、解党主義者の最後的追放を提案してい るが、他方では、プレハ-ノフのように地下運動を支持するメンツェ ヴィキとポリシェヴィキとの統合を要求した。. この最後の点にかんしては'かれはすでに八月に主菜している。す. ロシアで発行され、上述の実際的指導部が編集する'地方と. 労働運動の最重要の中心地(ウラル、ドネッ炭田、ペテルブ. 結びついた全ロシア的指導的機関紙の創刊。. (2). (cQ). ルク、モスクワ、バグ-等々)での地方的機関紙の創刊。(Al Ⅱ一九七-l九九〔二二一-三〕). バク-委員会が一月に先駆的に決議したように、この年からロシア の革命運動、労働運動はふたたび上向きになってきた。党史でも、. 「あらたな革命的高揚の時期」と区分されており、夏にはモスクワの. 労働者のストライキが、年末にはペテルプルクその他の都市で政治デ モがおこなわれた。. 派の意見に賛成するとしながらも、より重要性のある問題については. 聞『プロレタリ-』編集部内の意見の相違にかんしてレ-ニソら多数. 月にヴォログダ県ソリヴィチェゴドスクへ護送され'そこで翌一1年. され、スタ-リソ自身も三月二三日にバク-で逮描された。かれは九. 弾圧も強められ、チフリスのポリシェヴィキ委員会、地方組織が破壊. スタ-リンは、党中央委員会全権委員となった。しかし、他方では. l致しているのであるから「編集部の多数派の組織政策に同意せず、. 実際的な(指導の)中央部のロシアへの移動. 自分たちを「実際活動家ポリシェヴィキ」. (コpaKIHK守6oJlhEeBHKH). って普通のことであったが、その条件は苛酷であった。スタ-リソは. このような地下活動'流刑、脱走の-り返しは'国内の活動家にと. とどめられた。. れ、1七年二月革命によってツァ-リズムが崩壊するまでシべ-アに. れた。最後の流刑先はトゥルハンスクで、北極圏のクレイカ村へ移さ. 戻り,翌三一年二月に逮描されるまで、クラクフ、ウィ-ンなども訪. れ西シベリアのナルイムに涜刑、九月にまた脱走してペテルプルクに. フリスに立寄った後四月10日ペテルプルクに着いたところを逮捕さ. 一二月、ヴォログダへ追放された.1二年二月脱走、三月.I(ク-、チ. 六月二七日までの刑期をつとめた。九月ペテルブルクでまた逮描されI. なわち、シャウ・・,ヤソ逮捕後のバク-委員会は'ポリシェヴィキの新. 二六. 編集部の少数派の賛成者を『われわれのなかから追い出す』ことにほ すべて抗議する。」と決議していたのである。(AlⅡ一六八〔一九 二〕). 〇九年にスタ--ンが述べたこれらの論点は、次の時期にほより明. 確な形をとって主菜されて-る.. 原動力をとらえていた意気消沈と麻痔の状態は、すぎさりはじめてい ると決議し'党の事実上の結束、党の政治的扇動の」実行のための方. 一九一〇年一月二二日、バク-委員会は、「いちじはロシア革命の. 三. 策として次の三点を捷案した。すなわち、 (.∼).

(13) あげている。しかし'「実際活動家」. と称することによって'亡命者たちにたいする優位. (AIIⅢ〔九〕). の例として読むこともできよう。. のおかれていた条件のきびしさ. のメ. スパンダリヤソ、月・シヴァルツマン、p・マリノフスキ-(のちス. -ニン、¢・ゴロシチョ-キン、ジノヴィエフ'オルジョニキッゼ、. 員と革命活動指導のための実践的中央部(中央委員会ロシア局) ンバ-に'欠席のまま選ばれた。このとき選出された中央委員は、レ. ィキと少数プレハ-ノフ派の第六回協議会で、ポリシェヴィキ中央委. スタ-リソはこの間、1二年7月にプラハでひらかれたポリシェヴ. 性を主張し'不満をあらわした。地下活動について'ド-トリュフス 辛-は次のように描き出している。「バク-の地下室でこつこつと緊. 菜した苦しい印刷仕事が、果してかれらに勤まるであろうか.窓1つ ない息苦しい狭い地下室で、夜も昼もアルコ-ルランプの光をたより に印刷していたのだ。全然別な家に文選係と印刷係とが指導者と住ん 場へ通じていて、この印刷室は外からも見えず'開けることもできな. でいて、その家の下からコンクリ-トで固めた地下道が'地下室印刷. い仕掛になっていた。文選係と印刷係は仕事がすむまでは外に出るこ. -ソヴァほ〇七-一二年チフリスで活動していた。(メンバ-ほDl. ァが選ばれたが、最初の三人はバク-委員会のメンバ-であり'スタ. オルジョニキッゼ、スパンダリヤソ、ゴロシチョ-キン、スタ-ソヴ. ンが候補として承認された。ロシア局のメンバ-にほ、スタ-リン、. プブノフ、E・カリ-ニソ、スミルノフ、スタ-ソヴァとシャウミャ. ロフが補充された。また中央委員が検挙された場合にそなえて、A・. パイであることがあきらかになった) である。協議会の終りにC・ベ ロストツキ-とスタ-リン、その後r・ベトロフスキ-とスヴュルド. ともできなかった。まさに地狭の苦しみと言わねばならない。少しの. 盲9二〇-一). 華かさもない縁の下の力持で、余程の情熱と意志と質実さがなければ できない仕事である。」. 流刑党クレイカでスタ-リソと同じ家に住んだ、十月革命後全ロシ ア中央執行委員会議長となったスヴュルドロフほ手紙で次のように書 いている。「一人の同志(スタ-リン)が私と一緒だ。われわれはた. 三七〇-三による). この協議会で解党派(メソシュヴィキ)は、党から除名された。ス. がいによく知りあっている。それにもかかわらず、何よりもなげかわ しいのは、流刑や監獄の条件では、人は丸裸かになり'すべての卑小 な資質があらわれてくることである。悪いことは、『人生の些事』から. メ-リソは必ずしもこの方針に納得していなかった.ドイツチャ-は、. 1〔九八〕)と記している。. ばかりでな-、かれ自身の出世がこの決裂と結び付いているという事. かれがレ-ニンの方針に反対しなかったのは、「原則にたいする考慮. のみ見ることである。偉大な特徴があらわれる余地がない。いま同志 は別の部屋に住み'めったに顔をあわすことがない.」(Deo二七六-. ロイ・メドヴェ-デフはこの手紙を、「スタ-リンの否定的な特. 実であった.」富8二. つづいて『プラウダ』(『真理』)第一号を編集したが、後者に次のよう. スタ-リソはこの年四月ポリシェゲィキの『ズヴュズダ』(『星』)を、. る雅量に乏しいこと、個人主義、判断上の無作法と辛妹、影響と権勢. に書いている。「『プラウダ』は、なによりも'また主としてプロレタ ザカフカ-ス時代のスタ-リン. 二七. の渇望が、すでに現われていた」富加三〔上二二〕)例の1つとして. 信と秘密主義'同志たちの批判にたいするポリシェゲィキ的態度をと. 徴の多くのもの、たとえば粗野と自尊心'病的な自惚れと無感覚、不. 七).

(14) リア-トの階級闘争の統一を'なにはともあれ、その統一を呼びかけ. で大論文を書いています。」(D4ⅩⅩⅩⅩⅤⅢ一六二〔ⅩⅩⅤ八〇〕). つめて『プロスヴュシチェ-ニエ』のために、長いあいだかかりきり. ザカフカ-ス時代のスタ-リソ. るであろう.われわれが敵にたいして非妥協的でなければならぬかぎ. ⅩⅩⅩⅤⅢ一七二-三〔ⅩⅩⅩⅤ八五-六〕)、一二月には、「マルク. --コ-バは民族問題について大論文を書-ことができた。」(D4Ⅹ. 質な陰謀の1つとしている.青光l四三1九〔二三四1五〇〕). 近すでに解明されている. (ここでは第1にスタ-リンの論文が推され. ス主義の理論的文献では-‥・、社会民主党の民族綱領の諸原則は、最. スタ-リソほ一二年一二月末ロシアから離れたのであるが'レ-ニ ソはかれにウイ-ン、クラクフでの重要な任務を与えることによって. る)。」(D4ⅩⅩⅣ二二三〔ⅩⅨ五入三〕)と言及している。. スタ-リソが逮挿されたあと、レ-ニソはカフカ-スの民族問題に. 1月1五日付の手紙に、レ-ニソは1二月六日. ついての情報をシャウ-ヤソに求めた。民族問題についての見解を述 べたシャウ,,,ヤソの1. ⅩⅩⅤⅢ二〇八〔ⅩⅩⅩⅤ一〇三〕ⅩⅩⅩⅩⅤⅢ二三三-六〔ⅩⅨ五三. 付の手紙で次の三点について、その誤りを指摘している。(D4ⅩⅩ. スタ-リンの性格からおきた紛争を解決するためではないか、たとえ. ヽ. その第l点は'シャウ・・,ヤンがロシア語を公用語とすることに賛成. 八1四一〕) ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 第二点、自治に反対という見解にたいし、「中央集権は、けっして. 地方の『自由』を排除しない、というエンゲルスの説明を思い出した まえ」と反駁している。. ければならないというご意見にまったく賛成です。われわれの仲間に. たいどうして、l方が他方のわに自分への同意を要求する権利をもつ. 結合の権利、自治の権利をも意味する、という見解について、「いっ. 第三点、自治権ほ分離の権利だけを意味するものではな-、連邦的. すばらしい一グルジア人が、オ-ストリアその他のすべての資料をあ. 紙で、「民族主義については、この間題にもっとも其剣にとりくまな. レ-ニソの論文については、こ一三年二月後半ゴ-リキ-あての手. く、ロシア全体の革命運動においても決定的に重要であった。. わしていると考えられる.民族問題はザカフカ-スにおいてのみでな. 制がなければ'ずっと大きな進歩的意義をもっただろうということが. ヽ. あなたには、わからないのだろうかo」と反論している.. ヽ. って、進歩的意義をもっていたことは、争う余地がない。しかし、強. していることについてで、「ロシア語が、多-のおくれた小民族にと. ヽ. 義と民族問題』を執筆した。その論旨は'小稿のほじめにも述べたよ. スタ-リソほl九1二年末-1三年はじめウイ-ソで『マルクス主. ヽ. うに'ザカフカ-ジュにおけるかれの活動の基礎をなした思想をあら. ヽ. 四. ほないかとしている.(Bお1〇八). ば、バク-時代にかんしてはシャウ-ヤソとの競争関係があったので. なお、タッカ-ほスタ-リンのチフ-スからバツ-ム'さらにバク 、・,,1ク-からという三つの移動には理由が明快でないところがあり、. 一一五1六〓○こ). 達成し、かつ、亡命者にたいする不満をやわらげたのである。盲8. 『プラウダ』をスヴュルドロフにゆだねてメソシェヴィキとの絶縁を. 四八-九〔二七七-八〕)トロツキ-は'これをレ-ニソにたいする悪. と書き、三月には「手いたい逮描にみまわれた。コ-バがつかまった。. 二八. り'われわれは、たがいにゆずりあうことが必要である。」(AlⅡ二. -.

(15) ということが'ありうるであろうか」と反論し'「われわれは、一般. 的にいって、分離に反対である。しかし、われわれが、分離の権利に. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. う。」とした。 この手紙は、七月にレ-ニソがスイスでおこなった民族問題につい. ソは1三-1四年に. ての報告を参照するよう記し、民族問題にかんする平易なパンフレッ トを書くようすすめて結んでいる.シャウ,∼ヤ. 『文化的民族的自治について』というアルメニア語のパンフレットを. 書いたが、レ-ニンは1四年五月1九日付の手紙で、国会に提出する ため民族同権および少数民族の権利擁護法案の草案を作成しょうと提 案している。(D4ⅩⅩⅩⅩⅨ二九一〔ⅩⅩⅩⅤ一三八-一三九〕) スタ--ソの論文は自治制か連邦制か分離かほ「具体的な歴史的諸 条件」を出発点とし「弁証法的問題提起」によって判断されねばなら ないとし、自決権はもちろん欠-ことができないが、全体のわくにと どまることを選ぶ民族には、文化的民族自治制でな-、地方自治制が. (AII三. スタ--ソの民族問題についての主張の重点は'「国内の完全な民. 不可欠であるとしている。. 主主義化が、民族間題の解決の基礎であり、条件である.」 六〇〔三九七〕)という基本原則にたつ諸民族統一主義にあった。レニンの三点にわたるシャウ-ヤン批判ほ'スタ-リン論文に不十分に. しか展開されていなかった民族自決権の内容を深めたものであり、そ れは1四年二-三月にレ-ニソ自身によって『民族自決権について』 としてまとめられるのである。. ある。. 文献 A. ヽ. 賛成するのは、黒百人組、大ロシア人的民族主義を考慮したからであ ヽ. る。この民族主義は諸民族の共同生活をひどく破壊したので'自由な ヽ. 分離ののちにこそ、しばしばいっそう大きな結合がえられるであろ. ヽ. ザカフカ-ス時代のスタ-リン. 本文中の注は記号とペ-ジ数で示した。〔. 〕内は訳書のペ-ジ数で. 1-)3,A4..)949-51.〔『スターリン. について」. 『全連邦共産党(ボ)史小教程』は'東方書店の訳が一番新しい。. )952-8からの芝田進午訳.. (ポリシェゲィキ)史小教程』、第〓ハ巻は大祖国戦争期の著作である。 これらのうちの多-は'2-8でみることができる。前述石堂論文には -わしい目録が付されている.8の『理論』の訳は"LaborA(onth)y". 清倫「未紹介のスタ-リソ詩論文、資料からみたソ連での『スタ-リソ 批判』」『現代の理論』、1九七1年10月号) 第1四-l六巻に予定されていた著作は'第1巻の刊行の言葉によれ ば'第1四巻が1九三四-四〇年の著作'第一五巻は『全連邦共産党. までの一一〇点中、五四点以上が省かれている(B15 三九)0 第一三巻で刊行が中止された理由は不明であるが、スタ-リソ自身が 中断の必要を認めざるをえない事情があったようで'石堂清倫氏は' 7'8などの内容が問題にされたのでほないかと推定している。(石堂. 『理論』一九五四年10月号・『現状分析』1九六九年冬季号。 1の著作集は全1六巻の予定で刊行が開始されたが、第1三巻で中也 された。ここまで一九三四年一月までの著作が収められている。ヒンダ リ-によればこの時期の著作は八九五点はあるはずであるが'四八〇点 しかのっていない.とくにカフカ-ス時代のものは少なく、1九10年. 「エンゲルスの論文冒シア・ツア-リズムの対外政策』. 『スタ-リン戦後著作集』'大月書店、一九五四年。 「党活動の欠陥とトロツキスト的およびその他二心者を根絶する方策に ついて」『スターリン主義とアルバ:ア問題』、合同出版社、1九六二年o. 『スタ-リソは答える』'高山洋書訳、五月書房、一九五〇年。 『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』'国民文庫'一九五三年。. 『レ-ニン主義の諸問題』'真理社、1九五1年.. 全集』'全一三巻'大月書店、一九五二-五三年〕 Sta)in).V.Works.vo).)-3,ed.by民eNea).Robert.H.Hoover )n8titution.Stanford.California.(967.. CTa)(HH,H.B.Co貞HeHHe,TOM. 著作. HcTOpHS[BcecoK)3HO酔KoMMyHHCTH・(eeKO辞r(apTHH(6o][h[HeBHKOB).. 二九. ヽ. 1 2 3 4 5. ヽ ヽ. 6. ヽ ヽ. 7 8 9. ヽ.

(16) ザカフカース時代のスターリソ. Ti学eS,Ho)t,Rinehart and. Univ.. KpaTKHfiKypC,)938,〔『ソ連共産党(求)歴史小教程』'東方書店、一 九七一年〕ただし、スターリソの執筆部分は第四章である。 FfndextoJ.V.Stalin.8Works(Ru8SianEdition),. Reprint.Nendeln.)973.. E.Stalinand. Biography,Oxford. Ea8tman.Max Ltd..London.1925.. N.Y.)932.. Essad・Bey. Since. Stalin,the. Lenin. Career. Died-The. Labour. Fanatic. The. 〔『レ」ニソ死後』茂田束子訳、風媒社'一九七〇年〕. 三〇 Hingley.Ronald. Th8Life. Hutton.J.Bernard. London.1974.. Hyde,I.A4ontgomery. The. Joseph. the. The. Straus&Giroux.N.Y.197).. mentationfrom. Levyt8ky,Borys. Ha)).)963.. a卓d. Stalin:the. Death. VikingPress,. Pub)i8hingCo.. ofStali%,N.Y.)952.. and. Legend,Hutchinsonof. ofJosifStalin,)961,. ofa. i%th6. Judge;the. Origin8andCon86qu・. Books,ADivisionofRandomHouBe'. Docu・. Dictator,Farrar,. ThirtieS:. Press.Hoover)nBtitutionPress,Stan・. Stalinist Soviet. ofStalinism,Vintage. A4edvedev.Roy. don.)945.. Murphy.J.T.Stalin]8r9・)9bb.John. Lane. Old. Bolshevik"and Pub)i8her8.N.Y..1965.Ann. Other. ArborPaperbacks.)975.. E8Say8.Fredericks. Praeger,. theBodleyHead,Lon・. 〔『共産主義とは何か』石堂清倫訳'三1書房'上一九七三年'下一九 A.Knopf.)nc.)971版〕 七四年'訳ほA)fred. N.Y.,1973.. ences. A.Let. The Bolshevik Tradition:Lenin,Stalin, MacNeal,RobertHatch Khrushchev,Brezhnev.1st.ed,EnglewoodClefr8)N,J.,Prentice・. ford.California,)974.. Terror. 〔『暴虐の人スタ-リン』北見一郎訳'新潮社、一九六二年〕. Private. 布施勝治『スタ--ソ伝』'燈下書院'一九四九年。. Fischer.Louis. 〔『狂信の創造者スタ-リン』内山賢次訳、論争社、1九六一年〕. of. A(at)ock,Jack. ErauB. 伝記類. Adams,Arthur. Winston.(nc.N.Y.1972.. Friend,Harper&Row.. 〔『スタ-リン小伝』官本良夫訳、国民文庫、一九五三年〕 Tw8ntyLetterstoa. German.E.P.Dutton. Ma8terPie6e,Weidenfe)d&Nico)son. Terror.Stali%'8PurgeoftheThir-. Political. a. History. A]7eKCaHEPOB,r・◎.MAP,H.B,CTa])HH,. N.Y")967.. the. Staline.EditionsRobertLafront,S.A.,. Stalin,tr.from. 〔『スベトラ-ナ回想録』江川卓訳、新潮社、一九六七年〕. BassecheS,Niko)aus. &Co..(nc.N.Y.1952.. Bortoli,Georges.Mortde. 1973.. Stalin.s. 〔『スタ-リソの死』杉辺利英訳、早川書房、1九七五年〕. Carmichae),1oel. London.1976.. Conquest,Robert、Th6Greal. Stalin,a. 〔『スタ-リンの恐怖政治』片山さとし訳、三1書房、上下、1九七六. Deut8Cher,)saac. ed.1967.. βコヽヽ. 〔『権力とソヴェト・エリ-ト』中村平八・南塚信吾訳'みすず書房、 一九七〇年〕. AI. ed.1949.end. Life. 13 15 1 4 16 1. Stalin:Man. History. Nice)aevsky.Boris:.PowerandtheSovietElite:I.TheLetterof an. Press.London.Ist. Trho. 17 18 ウ】. 22. Hi8. 〔『スタ-リン』上原和夫訳、みすず書房、I l九六三年、Ⅱ1九六四 年〕。 ド・、、トリュフスキ-'エス 『スターリソ伝』上脇進訳、橘書店、1九三 七年。 Duranty.Walter Stalin&Co:the Politburo・the Run Russia,Secker&Warburg,London,1948. 〔『スタ-リソ商会』安田三代人訳、板垣書店'1九五1年〕 Men. Al)i)uyeva.Svetlana ties,Macmi))an,N.Y.,)969. 年〕. B. 1 2. 3 8.

(17) 6. Wove,A)ecStalini8mandAfter.GeorgeAl)en&UnwinLtd,Lon・ don.1975.. 大森東『スタ-リン』'講談社'一九七入牢。 Shuster,N.Y..)965.. Staline.Paris.1940.. Era.Today.spress,1956.. Joe.Internationa)Press. Early. Year80fan. Alliance. Cor-. Warlord.B.T.BatsfordLTD.Lendon.. Payne,PierreStephenRobertTheRiseandFallofStalin,Simon and. Portrait. Seaton,A)b2rtStalinAs. Serge,Victor. )976.. YoungStalin:the. 〔『スターリンの肖像』吉田八重子訳、新人物往来社、1九七一年〕 The. Revolutionary.London.)968.. Smith,EdwardEl)is Elus8ive. Stalin. Soularine,Boli払Stalin:aCriticalSurveyofBolshevi8m,Long・ manS.Green.N.Y..)939. Strong,AnnaLouise. Uncle. 〔『スタ-リン時代』大窪雇二訳'みすず書房、一九七五年〕 Swanidze,Budu. 吉田健1訳、ダゲイッド社、一九五三 andHisZnjlu・. byCharlesMalamuth,Harper&Brothers. Viking. 15、17、33などに詳細な文献召録'1やBritanicaのsta)inの項、菊 地昌典編『ソビエト史研究入門』にガイダンスがある。最近の著作・論 文については'塩川伸明「最近のスタ-リン体制研究」 『歴史学研究』 四六七号(1九七九・四)参照。. グルジア史. HCTOPHH. 宍oMMyHHCTH・IeCKOfi. 3aKaBKa3h5I,M3,a.ゐNlh)C]lh.轡-. CoBeTCKOfiB]raCTHB3aKaBKa3he.. JIHlepalyPhI,. H6onhEeB買H3aKaBKa3h5(,M3A.. T6HI. 蓋ec2Ha,ul・A・HcIOPH5=rPy2HH,H3A・T6HmCCl{OrOy…B・T6H]MCH) )968.. rPy3HH・H3R・u只-Kコrpy3HH,T6H](HCH,)971.. CTyPya,n・r・HAP(PeR・)0・IeP只H. BeHHOCTHBrPy3HH1921・1936,H2A・風Ca6yoTaCaKapTBe]]Oy. 3caHauBH])H,B・r・B・H・neHHHHrPy2H51,H3A・ゐCa6yoTaCaKaPT-. ]lHCH.1969.. Be])0>,T6H](HCH,)969.. H3,a-ゐ蓋e)IHHePe6aV-T6H])HCH.1976. Ko.1]IaBa(HBH))H・,A・M・(rJIaB・peR・). &Nicolson.London.1962.. 蓋oc穴Ba,)976.. ra])OEH,r・A・PoccH5I. rap6AXaH5IH・r・B・B・H・))2HHH. EpeBaH,)970.. T6H]IHCH,)97T.. H・H・(r]1aB,pe.a.)コo6eAa. -19)4,H3A・ゐA欝cTaH>,,EpeBaf(,)973. mHHLt. H3E・風NleqHHePe6ay. Bapcer5IH,X・H・BaJIHKH辞OI{T5I6pb. COBelC穴0幹. ITO6eAa. 三一. no])HT.nHT.,mOCKBa-)97). maMH宍OHEH・((・A・BoJIhEeBHCTCKHeOPraHH2a月HH3axaBKa3h5(1907. HaPOAhI. Lane,Davi.d賀arshallAModernHi8tOryOfGeorgia,Weidenfe)d. rpy3HHCKO辞CCP1926・)94)rr・M3.q・ゐMe月Hepe6ay. T6H][HCH.)968.. 蓋epKBHJIaLL2e・B・H・Co2AaHHeHyKperIJIeHHeCOBelCKO幹rocyAapCl-. T)aPTHH. HcTOPH5"HAyCTPHam3a善H. C 1 2 3 4 5 6 7. poration,〔『叔父スタ--ソ』. Russian. Trotsky,LeonStalin:anAppraisaloftheMan enoe,tr.from Publishers,N.Y.&London.)947.. Era,The. Revolutionary)879・1929,Chatto&. 〔『スタ-リン』武藤1羊・佐野健治訳、合同出版、全三巻、1九六七 C.StalinAs. Windus,London.)974. Ma∼and. Press,Boston.1948,〔『レ-ニン・トロツキ-・スタ. co専a))HCTH・IeCKO幹. Tucker.Robert. Ulam,Adam・B・Stali∼,the Press.N.Y.,(973.. Beacon. the. Wo)f、BertramD・ThreeWhoMadeaRevolution:aBiographieal. --ソ』菅原崇光訳、紀国産書店、1九六九年〕 (Landnark8in. H. 3aKaBl{a2be、yKa2aleJIb. H. 5)poc](aBCKHii,A・m・H・B・CTa])HH. Ara5(H,l1・(1・BeHOBa5IEPyX6aHapO,qOB3aKa買a3hS(.H3A.風AiiacTaHh yTypaulBH]7H,H・H・Peam3a)1H5"PeClb5"CKO酔pe骨pMhlBr. peBOJImHH. His. 8 9. de. Stalin)蓋ex穴HHra.)940,〔『スタ--ン』前芝確三・小松茂男訳、大 雅堂'一九四六年〕. B. Life. 10 11 12 13. My ザカフカ-ス時代のスタ-リン. of. 年〕 年〕 History. 23 2 5 24 ウ〟. 27 28 29 30. 31 33 34 35.

(18) ザカフカ-ス時代のスターワソ. I(HT.,mOCEBa.)957.. TOM. 大月書店'全四五巻別巻二冊〕 Georgian80Cial. democrat,The. 〔『レ-ニソ全集』. C22pA3IOB・甲m・H26paHHtJerIPOH2BeAeHH51・10Ml・rocH3A・rIOJml・. nxa白apHA3e.コ.A,H36paHHLleClalhH,Pe貞HItHChMa)905・19(8rT・. I(o](HT.])HT..吉oc穴Ba.1966.. コoHOMaPeB.ち.H,RAP,(r]IaB・peA・)HclOPH51KコCC,TOMB,H3A・. 拙著(山本敏と共著)『ソ連現代史Ⅱ』、山川出版社、一九七九年。. きocKBa.1977.. T((,rocH3A.I(0]lHT..])HT.Moct(Ba,)958-65). Uratadze.R6きiniscenee80f. Clalefi,rocH3A・rIOJIm・JIHT・・. Maker80f. &Unwin. the. Russian. Ltd.London,1974.. POCCHH,C6opIIHK. Revolution:Biographies. コaHKPaTOBa,A,m,(peA・)PeBO]IK)lIH5I)905・)907roAOBD mocKBa.)949.. ]IbHtJ2paHOHaX. Bolshevik. HaLLHOHa・. LeadersbyGeorge8HauptandJean・JaequesMarie,GeorgeAllen. of. CyU. 年。 rocH2R・rIOJIr・JIHT・,mOCKBa')958・ neHHH,B,H.コo)IHOeCO6patIH2CO・IHHeHHii,55 CoBeTCt(a5(HCIOpHleCKaE9H宅KJIOrle竃E,Nloc穴Ba,1961-76・1610MOB・ Hoover.In8titution.Stanford.California.)968. 刀・マ-ルトフ『ロシア社会民主党史』加藤1郎訳、新泉社、1九七六. a. 14 D. 1 2. 4.

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2 学校法人は、前項の書類及び第三十七条第三項第三号の監査報告書(第六十六条第四号において「財

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