椙山女学園大学
津阪東陽「寿壙誌銘」訳注稿
著者
二宮 俊博
雑誌名
椙山女学園大学 文化情報学部紀要
巻
14
ページ
153-180
発行年
2015
URL
http://id.nii.ac.jp/1454/00002103/
議議胸鵠磐線懇談麟欝覇罷
津阪束陽
﹁
寿
旗
誌
銘
﹂
要旨本稿は、江戸期を代表する詩話の一つ﹃夜航詩 話﹄等の著で知られる伊勢津藩の儒者、津阪東陽 ( 一 七 五 六1
一 八 二 五 ) が 伺 歳 の 時 に 自 ら 撰 し た 墓 誌 銘 、 ﹁ 寿 填 誌 銘 L に訳注を施したものである。これは東陽の 自叙伝ともいうべき性格を有し、その生涯を知る上で の基本文献である。そのため従来からよく利用されて いるが、全てにわたってこれに通釈を施したものはま だない。そこでこのたび、原文に書き下し文を附し、 語釈を施すのにやや詳しく語の出典や用例を挙げ、国 会図書館蔵の﹃東陽先生詩文集﹄から関連すると思わ れる詩文を引いた上で、本文を訳出した。 キーワード 津 阪 東 陽 、 ﹁ 寿 壊 誌 銘 L、 ﹃ 東 陽 先 生 詩 文 集 ﹄はじめに
これまで、本学部紀要に津阪東陽が社甫の七一言律詩一一一一八首に注 解を施した﹃社律詳解﹄一一一巻の訳注稿を全十五回にわたって掲載し訳注稿
二
宮
俊
博
てきたが、今回は彼の自叙伝ともいうべき﹁寿墳誌銘﹂に語釈をつ け訳出することにした。︿寿壌﹀とは、生前に作る墓の意で、そこ に収める墓誌銘を東陽はその死を迎える前年侃歳のときに自ら記し た の で あ る 。 東陽の評伝には、その育孫で詩人・児童文学者の津坂治男氏に﹃津 坂東陽伝﹄(桜楓社、昭和六十一二年)があり、この﹁寿壌誌銘﹂を もとに各種資料類を博捜し所縁の地を探訪されて、その生涯を丹念 に辿られた労作である。ただこの本はすでに絶版久しく入手困難で あったが、その後の研究成果を取り入れ、よりわかりやすく一般向 きに書き改められた﹃生誕二百五十年津坂東陽の生涯﹄が新たに 人名・圭一日名索引を巻末に附して平成十九年に大阪の竹林舎から刊行 さ れ た 。 さらに遡れば、旧制津中学校教諭の松洞浅野儀史﹃二一重先賢伝 L 一 (玄玄荘、昭和六年)それに郷土史家梅原三千の﹃津市文教史要﹄ (津市教育会、昭和十三年)の津坂東陽の項目もこの﹁寿媛誌銘﹂ が下敷きになっている。その梅原氏はつとに﹃津坂東陽先生百回忌 記要﹄(大正十二一年)ならびに﹃津坂東陽先生贈位奉告祭百年祭記 要﹄(大正十四年)の編纂刊行にも携わり、そこにも東陽の事績が二宮俊博/津阪東陽「寿旗誌銘」訳注稿 かなり詳しく記述されている。また昭和三十六年に刊行された﹃津 市史﹄(津市役所)においても同様である。 こうした現状からすれば、今さらここに﹁寿境誌銘﹂を訳出する のは、屋下屋を架する嫌いがあるのは否めないのだが、その全部に わたって通釈をつけたものが見当たらず、東陽その人を知る上でそ れなりに意義があると考えられること、それに加えて、語釈を施す 上で四部叢刊・四庫全書などの各種電子検索を活用して語の出典や 用例をやや細かく挙げたり、東陽の他の詩文との関連を探った点に、 多少の新味があると思われることを言いわけとして、あえて試みた しだいである。ただ江戸期の漢学者や津藩について知ること少な く、漢詩文の読解力も未だに覚束ないゆえ、誤読曲解も多かろうと 案じている。専家の御斧正を賜れば幸いである。 ところで、東陽の詩文集には刊本がなく、現在、国会図書館に所 蔵されている稿本﹃東陽先生詩文集﹄大十四冊がまとまっている。 そのうちの第一冊は全六十丁のうち最初の四十二了が藤堂家という 丈字入りの半丁十行の罫紙に筆写されたもので、それがない第二冊 以下と系統を異にする。﹁寿壌誌銘﹂の底本には第五冊の﹃東陽先 生文集﹄巻六に収めるものを用い、第一冊に収めるもの(これを A 稿とする)、第九冊の﹃東陽先生詩紗﹄目録の前に伊賀上野の崇広 堂の講官、小谷薫の﹁右、五口が師自ら撰する所の寿壌誌、謹んで藷 けだ に附刻して、以て此の集を読む者に便ならしむ。蓋し先生の出処履 こひねがは 歴の集中に関係する者、其の時を推し事を考ふるに於いて、庶く は資する所有らん君。門人伊州文学小谷薫拝識﹂という識語を附し て記せられたもの(これを B 稿とするてさらに五弓雪窓﹃事実丈編﹄ 巻五十二(関西大学出版部刊の影印本に拠る)に収めるもの(これ を
C
稿とする)と大きな異同がある場合は、※を附してこれを注記 した。この他、文部省編﹃日本教育史資料﹄(明治二十三年│ 二十五年)の巻十一、諸藩ノ部、皐士小俸に収めるもの(﹃資料﹄ と略記)および横瀬貞輯﹃近世名家碑文集﹄(経済雑誌社、明治 二十六年)に載せるもの(﹃碑文集﹄と略記)を参照した。なお、 C 稿と﹃碑丈集﹄とには返り点が施されている。また東陽の父﹁先 考節翁居士の行状﹂についても、第五冊の﹃文集﹄巻五に収めるの と底本とし、第一冊に載せるのを A 稿 と し た 。 また原文は段落に区切られていないが、読みやすさや内容を考慮 して、便宜的に全体を八つに分け、それぞれ小見出しをつけた。、
その出自
津阪氏之系、出於菅原支族。世矯尾張人、食采中島郡椋井村。其 間世次事蹟、譜亡無由考罵。七世祖伊勢守議武光、天正季年、山陽 之役、有件羽柴氏、失邑流落。肥後邦君加藤公以瓜葛迎養、亡何疾 卒。子亮節君詳武滅繕禄。寛永中、肥後嗣君失邦、乃来子伊勢、居 長島之千倉村、以庭士終。四世至先考節翁居士、家住三重郡平尾 村、麗津藩治下、可里有績、賜爵郷土。批慈静罷人山田氏、並具其 墓 表 。 津阪氏の系、菅原の支族に出づ。世々尾張の人為り。一米を中島郡 む く い 椋井村に食す。其の聞の世次事蹟は、譜亡して考ふるに由無し。七 い み な 世の祖伊勢守誇は武光、天正の季年、山陽の役に、羽柴氏に件ふこ と有り、口巴を失ひ流落す。肥後の邦君加藤公、瓜葛を以て迎へ養ふ。 い く ば く な や 何も亡くして疾みて卒す。子、亮節詳は武減禄を継ぐ。寛、水中、 すなは 肥後の嗣君邦を失ふ。乃ち伊勢に来たり、長島の千倉村に居し、処 士を以て終る。四世にして先考節翁居士に至り、三重郡平尾村に家 っ か さ ど 住し、津藩治下に属す。里を司って績有り、郷土を賜爵さる。批 と も そ そ な は慈静語人山田氏、並に其の墓表に具はる。 ︻ 語 釈]
O
津阪氏※︿阪﹀字、A-C稿は︿坂﹀に作る。O
流 落 古 文文化情報学部紀要,第 14巻, 2014年 郷 を 離 れ 他 国 を さ す ら う 。 双 声 語 。 例 え ば 、 中 唐 ・ 銭 起 ﹁ 秋 夜 の 作 ﹂ ( ﹃ 全 唐 詩 ﹄ 巻 一 一 一 一 ヱ ハ ) に ﹁ 流 落 す 四 海 の 問 、 辛 勤 す 百 年 の 半 ﹂ と 。 ※ 底 本 お よ び B-C 稿 は ﹁ 失 ロ 回 流 落 肥 後 、 邦 君 加 藤 公 ・ : ﹂ と 句 読 を 施 す 。 ﹃ 資 料 ﹄ ﹃ 碑 文 集 ﹄ も 同 じ 。 今 、 A 稿に従う。ちなみに、﹁先考節翁居士の 行状﹂には、﹁天正の季年、羽柴氏山陽の役に、旨に杵ひ邑を失ふ。 後に禄を肥後侯加藤清正に受くしと。
O
邦君加藤公加藤清正(永禄 五 年 [ 一 五 六 二 ︺ 1 慶長十六年[一六一一︺)のこと。秀吉に仕えて肥 後半国を与えられ、徳川方についた関ケ原の戦いの後、肥後一国の主 となった。﹁邦君﹂は、諸侯。古くは﹃尚喜﹄伊訓に見える語。O
瓜 葛親戚縁者。正保コ一年(一六四九)刊の和刻本﹃書言故事﹄巻一、 よ し み い 親 戚 類 に ﹁ 素 と 親 を 成 す を 一 言 ひ て 瓜 葛 の 好 有 り と 日 ふ L と 。 ち な み に 、 明 和 九 年 ( 一 七 七 九 ) 刊 の 釈 大 典 J 子 諾 編 ﹄ 巻 上 、 人 倫 類 に ﹁ イ チ ゾ ク ﹂ 00
亮 節 ︿ 節 ﹀ 字 、 ﹃ 資 料 ﹄ は 誤 っ て ︿ 筋 ﹀ に 作 るoO
武戚※︿減﹀字、 ﹃ 資 料 ﹄ ﹃ 碑 文 集 ﹄ は ︿ 蔵 ﹀ に 作 るoO
継禄※C稿は﹁禄﹂字を脱すo
O
嗣君失邦寛永九年(一六三二)六月、忠広が出羽田庄内に、その 子光広が飛騨高山に配流されたことを指す。※︿嗣﹀字、﹃碑文集﹄ は 誤 っ て ︿ 次 ﹀ に 作 る 。O
処士仕官せずにいる人。ちなみに、天明 六年(一七八六)刊の柴野栗山﹃雑字類一編﹄に﹁ロウニンモノL
o
O
い み な 先考節翁居士詳は房勝。十九歳のとき山田氏の養子となった。寛政 十 一 年 ( 一 八 一 一 一 一 一 ) 残 。 享 年 六 十 八 o ﹃文集﹄巻六に﹁先考節翁居士 の 行 状 ﹂ が あ る 。O
治下﹃学語編﹄巻上、地理類に﹁シハイシタ﹂ 00
司里庄屋をいう。なお、この語、古くは﹃左氏伝﹄裏公九年に﹁楽 喜、司城と為り以て政を為す。伯氏をして里を司らしむ﹂と見え、商晋・ 社 預 の 注 に ﹁ 司 里 は 里 宰 ﹂ と 。 ﹁ 節 翁 居 士 の 行 状 ﹂ に ﹁ 宝 暦 三 年 ( 一 七 五 三 ) 二 月 、 官 命 じ て 里 司 と 為 す ﹂ と 。O
賜 爵 郷 土 ﹁ 節 翁 居 士 の 行 状 ﹂ に ﹁ ( 寛 政七年)十二月、郷土を賜爵され、絹吊を衣るを許され、子孫をして けだ 世襲せしむ。蓋し積労を旋するなり﹂と。※C稿は、︿爵﹀字なし oO
批亡き母。﹃礼記﹄曲礼下に﹁生けるに父と日ひ、母と日ひ、妻 死せるに考と日ひ、批と日ひ、墳と日ふ﹂と。天和二年 (一六八二)刊の和刻本﹃丘瑳山故事必読成語考﹄巻下、疾病死喪の 条に﹁父死して何ぞ考と謂ふ、考とは成なり。巳に事業を成すなり。 母死して何ぞ批と謂ふ、批とは娘なり。克く父の美を娘(比)するなり﹂ と。﹃詩紗﹄巻八に七絶﹁先批の慕に謁す﹂と題する作がある。O
田 市 人古代では大夫(諸侯の家老職)の妻の称(﹃礼記﹄曲礼下)だが、 ここでは婦人の尊称。なお母方の祖父母については、﹁顕祖孝批合葬 墓 表 ﹂ ( ﹃ 文 集 ﹄ 巻 五 ) が あ る 。 {現代語訳}津阪氏の家系は、菅原氏の支族から出、代々尾張の人 むくい である。中島郡椋井村(現在、稲沢市日比)に領地をもっていた。 その聞の世次事績は、家譜が失われているので調べるすべがない。 いみな 七代前の祖伊勢守は、誇を武光といい、天正の末年(一五九二)、 中国攻めの際、羽柴氏(秀吉)に逆らったことがあり、領地を失い よしみ 他郷を流浪した。肥後太守の加藤(清正)公が縁戚の好で保護し扶 持を与えてくれたが、まもなく病没した。子の亮節、詳は武戚が禄 を受け継いだ。寛永(一六二四1
一六四四)年間に、清正公の後を 嗣いだ二代目(忠広)が所領を没収され、それで伊勢にやって来 て、長島の千倉村(桑名市長島町千倉)に居住し、処士(浪人)の まま終わった。それから四代、先代の節翁居士に至って、三重郡平 尾村(四日市市平尾町)に家を構え、津藩に属することになった。 庄屋として功績があり、郷土の身分を賜わった。亡母は検討静語人山 田氏。平生の事績はともどもその墓表に詳しく述べている。 と 日 ふ 。、
少壮時代
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尾
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京
都
遊
学
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孝縛字君裕、以賓暦丁丑臓月廿六日生。八歳出煤業於膝下、受孝経 論語、一再過便覆調。十歳作歌詩、十五麗文。先考議日、風雅固不二宮俊博/津阪東陽「寿壌誌銘」訳注稿 可欠、但母耽陥軽薄。文章大業、未易染指、須博譲書以立本也。 是歳遊尾張、依醤師村瀬氏。居三歳、心部其技、不成而去。蓋謂 士不随一干則己、事告回矯師儒、何乃食婿方伎乎。質之先考、笑日、往失 勉 哉 。 蓬負笈京師、専攻経業。挙無常師、書讃夜抄、或至達曙。徐暇遣 蓬山水外、不知世間有何事。留十鈴年、遭歳飢穀貴、信石屡空。人 見我龍鍾、矯勘費塔。吾欲以且干名家、意謂夫而据人之賞、執奥自立 之貧、視富貴漠如也。 あ ぎ な て い ち う ろ う 孝綜字は君裕、宝暦丁丑臨月廿六日を以て生まる。八歳にして業 すなは を膝下に鶏ひ、孝経・論語を受く。一再過ぐれば便ち覆諦す。十歳 つ づ き と も と にして歌詩を作り、十五にして丈を属る。先考諭して日く、風雅固 より欠く可からず。但だ軽薄に耽陥すること母れ。文章は大業にし U ま や す す べ か ひ ろ も と て、未だ指を染むるに易からず。須らく博く書を読みて以て本を立 つべきなりと。 是の歳、尾張に遊び、医師村瀬氏に依る。居ること一一一歳、心に其 い や け だ お も の技を都しみ、成らずして去る。蓋し謂へらく士は学ばざれば則ち や ま さ た す な は し ょ は 日む、学べば当に師儒為るべし。何ぞ乃ち婿を方伎に食まんやと。 ﹂ れ た だ ゆ 之を先考に質す。笑いて日く、往け臭、勉めよと。 つ ひ き ふ を さ 遂に笈を京師に負ひ、専ら経業を攻む。学ぶに常の師無し。思一は 読み夜は抄して、或いは轄に達するに至る。徐暇に山水を遺遥する 氷 山 り 外、世間に何事有るかを知らず。留まること十絵年、歳飢穀貴に遭 た ん せ き し ば し ば り ょ う し よ う た め ぜ い せ い ひ、健石屡々空し。人は我が龍鐘を見て、為に賛婿を勧む。五日れ学 お も ふ し ょ を以て家を名せんと欲す。意謂へらく夫にして人の賀に据るは、白 い づ れ 立の貧と執与ぞと。富貴を視ること漠如たり。 { 語 釈
}O
孝粋字君裕馬場撲﹁東陽先生事蹟の一斑﹂(﹃津阪東陽先生 贈位奉告祭百年祭紀要﹄所収)に拠れば、その名と字は﹃孟子﹄公孫 支 の 丑下の﹁畳に縛縛然として徐裕有るに非ずや﹂から出るという。︿孝 綜﹀はモトヒロ。﹃孝経﹄の首章に﹁夫れ孝は徳の本なり﹂とあるこ とから、モトと訓じたという。なお、東陽の通称は常之進。別に強庵 こ れ 療 関 又 と も 号 し た 。O
膝 下 よ 品 J経﹄聖治章に﹁故に親しみは之を膝下 に生ず。以て父母を養ひて臼に厳にす﹂とあり、東陽の丈政九年 (一八二六)刊﹃孝経発揮﹄に﹁親は親愛の心。膝下は該幼にして父 母の膝下に嬉戯するを謂ふなり﹂と。﹁節翁居士の行状﹂に﹁不肖、 幼にして業を膝下に受く。庭訓の厳なる、日夜督課し(勉強の進み旦一八 つ ね の ほ 合をみ)、毎に故事を挙げて以て勧導と為す。句豆(句読)口に上る こ ろ ほ ひ 、 だ て 比、日を間てて一たび講じ、数行を解釈するに、一に義方(正しい 教え)を以て教へと為し、循々然として相誘ふ(段階を踏んで進めて くれた ) o 其の他過に於いては(ほかの粗相なら)、或いは仮借する(お おめに見てくれる)も、惰接して学を廃するに至つては、則ち容を動 かし(顔色を変えて)勧議す。或いは飲食起居楽しまざれば、必ず其 や お よ の悔支する(悔い改める)を得て後に己む。凡そ遊戯の技は、其の志 を奪ふを慮り、一切指を染めしめず。唯、だ散楽の謡曲を度する(うた や ま う)を許す。時に或いは相和して興を遣る。日く、亦た以て柳家の熊 の み 胆丸(元気の出るスタミナ剤)に代ふる耳﹂と。※︿間日﹀の︿問﹀字、 A稿は︿開﹀に作る。また︿勧一一お﹀の︿勧﹀字、底本は︿観﹀に作る o A稿によって改める。︿庭訓﹀は、家庭教育。孔子が庭を小走りで通 り過ぎようとした息子の鯉を呼びとめて詩や礼を学ぶ大切さを説いた 故事(﹃論語﹄季氏篇)による。︿義方﹀は、正しい教え o ﹃ 左 氏 伝 ﹄ せ き さ く 隠公三年に、晋の石稿の語として﹁臣聞く子を愛すれば之に教ふるに 義方を以てし、邪に納れず﹂と。︿循循然﹀は、順序あるさま o ﹃ 論 語 ﹄ ふ う し い ざ な 子冊子篇に﹁夫子循循然として善く人を誘ふ﹂と。︿柳家の熊胆丸﹀は、 中唐・柳公綿の妻韓氏が能川胆の粉末を他の薬草と練り合わせて丸薬を 作り、夜遅くまで勉強する子供たちに食べさせた故事(宇都宮遜庵 ﹃小学句義訓解﹄巻十二 )oO 築 業 学 業 を 習 う o ﹃左氏伝﹄文公四年 に見える語。西晋・杜預の注に﹁擦は、習なり﹂と。前掲﹃故事必読 成語考﹄巻下、文事に﹁童日を読むを業を緯ふと日ふ﹂と。また寛丈九文化情報学部紀要,第14巻 2014年 年(一六六九)刊の和刻本﹃古今類書纂要﹄巻十一、津業類に、この 語を挙げ、﹁学を習ふ﹂と注する
oO
孝経﹃孝経﹄を素読の初めにす ることについては、文政六年(一八二三)伺歳作の﹁孝経発揮を刻す そ い に し へ るの序 L ( ﹃文集﹄巻一)に﹁夫れ古は書を読むこと必ず孝経白り始む。 天子自り庶人に至る、皆先づ此れに従事す。是れ則ち孝は人倫の大 本、徳行の首務、群経の宗なり。後世宋学の行はれし自り、大学の書 な な し た が を奉じて、初学徳に入るの門と為す。独り輩上の君子、猶ほ故実に率 よ ぢ ほ れ U そ し ち か あ も っ と ひ由る。世間は率ね廃して読まず。孝を非る者に殆し。量に尤も過ま お よ や い や し く ら、ざらんや。凡そ人家の子弟、書を読まずんば則ち己む。有も童百を読 む者、必ず当に是れを以て先と為し、然して後に他書に及ぶべししと いう。その際、東陽が拠ったのは、今丈孝経である。︿宋学﹀は、北 宋の程頴(明道)・程願(伊川)兄弟を祖として南宋の朱烹に至って 大成された学問。程朱学・朱子学とも称され、その内容から道学・理 学・性理学などともいう o ︿初学入徳之門﹀は、程伊川の語。朱裏の ﹃大学章句﹄や朱寒撰とされるが実は門人の劉清之撰の﹃小学﹄巻五、 嘉言に引く。︿登上の君子﹀は、天子。ちなみに、江村北海(名は綬、 字は君錫。正徳コ一年[一七二二]
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天 明 八 年 [ 一 七 八 八 ] ) の 天 明 一 二 年 (一七八三)刊﹃授業一編﹄巻一、習句読の条にも﹁サテ幼童ノ素讃ノ ハジメニハ、世上多ク大向学ヲ以テス。又孝経ヲ以テスルアリ。余ガ意 ク ハ ン ス ウ カ ツ ヨ ウ ト ウ ヲイハず、マヅ孝経ヲサヅクルガヨシ。小島ナハャ、巻数アリ、旦幼童 ニアリテハヨミニク¥オボへニクキ所多シ。大挙モ孝経ニ比スレバ ハ シ メ カ ズ ヨミニクケレパ、幼童ノ素讃ノ初ニハ、文字数モ少ク、ムツカシキ字 ナク、ヨミヤスク、オボヱヤスキ、孝経ヨリ始ムベシ。況ヤ孝ハ百行 V メ ハ シ メ リ マ タ オ タ ヤ ノ首トアレパ、素讃ノ初ニコレヲナラス理モ亦穏カナリ﹂云々と説 く。なお、東陽は京都遊学時代に北海の知遇を受けていたようで、﹃詩 紗﹄巻四の七律に﹁江北海先生の河内に遊ぶを送る﹂詩がある。また ﹃文集﹄巻七の﹁千切総吉の事を室田す﹂は、堀川の古義堂で後出の伊 藤東涯が舜の故事(﹃孟子﹄万章上)を講釈するのを耳にして、気難 しい分からず屋の義父に孝養を尽くし家業を隆盛させた采由巾舗(呉服 あ る じ 屋)の主の話を記したものだが、北海の直話を基にしているという。 さらに言えば東陽が京都で親交のあった詩友清田龍川(字は公績。延 享四年︹一七四七]
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文化五年︹一八 O 八])は北海の第三子で、叔父 たんそう の清田倦聖(宣子保四年三七一九]
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天明五年ご七八五︺)の養子となっ た人であるoO
一一舟てニ度。西晋・陸雲﹁平原に与ふる書﹂(﹃陵 す な は 士龍文集﹄巻上)に﹁前後して兄の文を読むに、一再過ぎれば使ち口 の ほ 語 に 上 る ﹂ と 。O
風雅ここは、前文の歌詩をいう。中国では詩文。 例えば、六朝梁・昭明太子﹁文選の序﹂に﹁故に風雅の道、祭然とし て 観 る 可 し ﹂ と 。O
文章大業﹃文選﹄巻五十二、三国貌・曹杢﹁典論 け だ 論文﹂に﹁蓋し文章は経国の大業にして不朽の盛事なりしと。O
染指 かなえ 物事に着手する。もとは指を鼎の中に入れて葉(ス l プ)の味をみた こ と か ら 出 た 語 ( ﹃ 左 氏 伝 ﹄ 官 一 公 四 年 ) 。 。村瀬氏津坂治男氏の﹃津坂東陽伝﹄に、名古屋市立鶴舞図書館蔵 の﹃寛政文化医家姓名録﹄に拠って、名古屋桑名町在住の村瀬隆元の ことかとする。﹁詩紗﹂巻八に七絶﹁尾州の村瀬丈人に答謝す二首﹂ いはん があり、其一に﹁古人は一飯も猶ほ相報ゆ、況や是れ一二年寄宿の思あ るをや L と。ちなみに、後年の作に﹁遥かに村瀬丈人の七十の寿旦を 賀す L 詩(守詩紗﹄巻八)がある。︿丈人﹀は、年配者に対する敬称。O
方伎ここでは医術をいう。東陽の父もこれを学んだ o ﹁ 節 翁 居 士 の行状﹂に﹁学を郷師に受け、兼ねて方技の業を学び、皆夙成す﹂と。 っ かO
心部其技もっとも、後年には﹁親に事へて医を知るの説﹂(﹃丈集﹄ 巻五)を書いており、﹁医者畏る可しの説﹂(向上)もある。O
不学則 己この言い方、例えば、﹃論語﹄学而篇の﹁学びて時に之を習ふ﹂ お う が ん ひ と や の六朝梁・皇侃の義疏に﹁言ふこころは入学ばざれば則ち己む、既に い ん じ よ う を こ た 学べば必ず因仰して修習し、日夜替ること無し L と 。 ︿ 国 の ﹀ は 、 次 々 か て に の 意 。O
精 糧 oO
負笈京師京都に遊学する o ﹃ 曲 家 求 ﹄ の 標 題 に ﹁ 蘇 章 負 笈 ﹂ が あ る 。二宮俊博/津阪東陽「寿墳誌銘」訳注稿 また﹃童回言故事﹄巻一二、儒学類に﹁負笈﹂の項があり、﹁遊学を笈を 負ひて師に従ふと日ふ。漢の蘇章、笈を負ひて師を追ふ。千里を遠し とせず﹂と見え、﹁笈は書箱﹂と注する。ちなみに、当時京に諸国か あぎな ら 書 生 が 集 ま っ て い た こ と は 、 平 賀 中 南 ( 字 は 普 民 。 寛 政 四 年 [ 一 七 九 二 ] 残 。
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歳、一説に江歳)の安永八年(一七七九)刊﹃日 新堂学範(学問捷径)﹄巻上に﹁京師ハ事問ノ淵薮ナリ。古ヨリ諸園 ノ皐ニ志スモノミナ轄綾ス。シカレドモ撃其法ヲ得ズ、講釈ノミヲ間 テ蹄ル故、向学問成就ノ人イマダ見ズ。又今ノ京師ノ先生ハ多クハ其闘 ニテ皐ピ京師ニ来リ塾師トナルモノナリ。故ニ今ノ附晶子者園ニテ善キ師 ニ就テ向学ピ、同学問成就スレパ京師ヲ必トセズ。シカレトモ都合へ出テ タ カ イ 天下ノ人ニ交リ異聞互ニ相切瑳セザレパ事問偏僻ニナルナリ。コノコ ト ヲ 事 記 ニ ハ 濁 悶 晶 子 ハ 孤 随 寡 聞 ト ア リ 。 京 師 ニ 向 晶 子 ピ ニ 来 ル ト モ 過 半 ハ 園 ノ ボ ニテ功ヲ成シテ上ルベシ。左スレパ一雨年ニハ大功アルナリ。モシ一 シ ロ ト チ カ ラ ツ マ 向ノ素人ニテ上レバ十数年ノ工夫ヲ積子バ皐ハ成就セヌナリ。一雨年 ノコトニテハイカナル善師モ教育ノ法ハナキナリ L と 見 え る 。 ︿ 轄 鞍 ﹀ は、四方から集まる o ﹃丈集﹄巻十の﹁柚南畝に与ふ﹂には﹁僕弱冠 より登下に薄遊す﹂と。︿柚南畝﹀は、柚木孟穀。江村北海の弟子(﹃日 本 詩 選 統 一 編 ﹄ 巻 六 ) o なお、東陽の京都遊学の学資は、父の援助によ るもので、﹁節翁居士の行状﹂に﹁長ずるに及び京師に遊学す。十数年、 ぷ り ょ っ ね 資する所亡慮(おほよそ)数百金、毎に貸すと称して給せらる﹂という。 つ ひO
経業経書の学業。経学。例えば、﹃後漢書﹄鄭玄伝に﹁遂に隠れ て経業を修め、門を社、ざして出でず﹂と。O
学 無 常 師 ﹁ 常 師 L は 、 ふ う し い っ これといって決まった師匠・先生。﹃論語﹄子張篇に﹁夫子罵くにか ま こ れ 学ばざらん。而して亦た何の常師か之有らん﹂と。O
昼 読 夜 抄 文 化 十三年(一八二ハ) ω
歳作の J 夜航詩話の序﹂にも、その勉強ぶりを ち う せ き ぴ ん べ ん ひ ぢ 回想して﹁又た憶ふ時昔学に務むるや、夙夜庖勉、食事の外、肘案を い や し く す な は 離れず、有も以て業に資する者は、親ち必ず録して以て考に備ふしと い う 。O
迫遠山水山や水辺など自然の景色のょいところを散策す d p ン h ノ ﹁ ノ る。前掲﹃日新堂学範﹄巻中には、﹁凡ソ学者ハ飯食間モ主回二百ヲ離 セ ツ イ ン サズ雪隠ノ内ニテモ書ヲ看ルホドニ好マザレパ所詮事潤ハ成就セヌト 心得ベシ﹂としながらも、﹁サレドモ放散ノ日ヲ定メテ休息シテ精神 ワ カ ス ギ コ ノ ヒ ヲ養フベシ。少キ人ハ月二三四日ニ過ギズ。是日ハ山野ヲ遊行、ン人ヲ 訪問シ酒宴遊興何ニテモ世間並ニシテ印刷市ムベシ。如レ此ナラ子パ気象 関達ナラズ、関達額落ナラ子パ幕開偏狭ニナルナリ﹂と説く。なお、 平賀中南は安芸の出で、晩年の大潮元陪(寛文八年︹一六七八 ]j 明 和五年[一七六八︺)に師事したが、本人の弁によれば﹁僻邑ニ生シ テ撃問師承ナク濁撃﹂した苦労人である。※底本は﹁遺迄山水、外不 知 世 間 : ﹂ と 句 読 を 施 す 。 B 稿 ・ C 稿も同じ。ここはA稿および﹃資料﹄ ﹃碑文集﹄に従うoO
歳銭穀貴﹃詩紗﹄巻五に天明七年(一七八七) て い び く ら う え 目歳作の五絶﹁丁未五月、穀債淘貴し、粥を峨ひて畿に充つ二首﹂が あ るoO
傍石屡空︿傍石﹀は、ごく僅かの貯えo
︿ 傷 ﹀ は 二 石o
﹃ 漢 童 百 ﹄ 巻八十七上、揚雄伝上に﹁{永産十金に過ぎず、乏しきこと倦石の儲無 き も 、 息 女 如 た る な り ﹂ と 。 ︿ 曇 如 ﹀ は 、 心 安 ら か な さ ま 。 ︿ 屡 空 ﹀ は 、 ﹃ 論 そ ち か し ば し ば 語﹄先進篇に﹁(顔)回や其れ庶きか、屡々空し﹂とあり、朱子の注 に﹁屡々空しは、数々空植に至るなり﹂と。﹃詩紗﹄巻六の五絶﹁舌耕﹂ の り 詩に﹁舌耕口に制すること難し、倦石儲屡々空し。環堵徒だ白壁、何 物を典当(質入れ)して送る﹂と、その困窮ぶりを詠じている。O
龍 鍾やつれはてるさま。畳韻語。O
賛靖﹃雑字類編﹄に﹁イリムコ﹂。 し ん ひ と ﹃ 漢 童 閏 ﹄ 巻 四 十 八 、 買 誼 伝 に ﹁ 秦 人 家 富 み 子 壮 な れ ば 則 ち 出 で て 分 か れ 、 家貧しく子壮なれば則ち出でて賛す﹂とあり、初唐・顔師古の注に こ れ い ま さ ﹁之を賛靖と誇ふ者は、一言ふこころは其の当に出でて妻の家に在るべ からざること、亦た猶ほ人の身体の枕賛有るがごとし、有する所に応 ずるに非ざるなり。一説に、賛は質なり。家貧しくして聴財有ること 無し、身を以て質と為すなり﹂と。︿枕賛﹀は、コブとイボ。不要な た と ものの除、ろなお、このことと関連するか不明だが、﹃文集﹄巻十の ﹁松平丈人に報、ず﹂は、京都遊学時代に﹁某府の文学﹂に仕官の口を文化情報学部紀要,第 14巻, 2014年 紹介されたのを断った手紙である。︿松平丈人﹀については、不明。
O
名家家名がある。例えば、中唐・韓愈﹁張給事を祭る文﹂(﹃韓昌 家集﹄巻二十三)に﹁惟れ君の先、儒を以て家に名ありしと。O
漠如 気 に と め な い さ ま 。 無 関 心 。 あぎな ︻現代語訳︼孝悼字は君裕、宝暦七年(一七五七)十二月二十六日 に生まれた。八歳になると父の膝元で手習いを始め、﹃孝経﹄﹃込一閑 語﹄の素読を受けた。一、二度読むとすぐさま暗諦できた。十歳で 和歌や漢詩を作り、十五になると漢文の文章を書いた。今は亡き父 からその時に﹁風雅の道はもとより紋かすことのできない大切なも のだが、軽薄に陥るのではないぞ。文章は大業であって、まだまだ 手を染めるには難しい。広く書物を読んでしっかり基礎を固めてお くのだぞ﹂と諭された。 この歳(明和八年、一七七ご、尾張に遊学して、医師の村瀬氏 のもとに身を寄せた。三年いたが、心の中ではその仕事をいやしみ、 物にならずに立ち去った。思うに士は学ばなければそれまでだが、 学ぶからには人を教える儒者とならねばならぬ。どうしていやしい 医術なんぞで飯を食っていけょうか。このことを父に問いただした ところ、笑いながら﹁さあいつてこい、しっかりやるのだぞ﹂と励 ましてくれた。 け い が く かくして笈を負うて京都に遊学し、専ら経学を修めた。学ぶのに これといって決まった師はなく、昼は書を読み夜は抜き書きして、 明け方に達することもあった。徐暇に山水を遺遥するほかは、世間 に何事があるか知らなかった。京都に留まること十飴年、飢謹によ あ こ め び つ る米価の高騰に遭い、貯えが底をつき米植はしばしば空っぽになっ あ え ゃ っ た。私の困窮に瑞ぎ婁れはてた姿を見て、入り婿になるよう勧めて くれる人もいたが、一人前の男でありながら他人の援けを借りるよ り、一人立ちして貧乏に甘んじる方がまだましだと考えた。富貴は 全く気にも留めなかったのである。一
一
一
、
少壮時代口(京都での開塾、
一時帰郷、津藩出仕)
天
明
の
大
火
、
既而設雌於輩下、以古民子立家。門徒頗衆。尋篇梶井王府門客、兼 遊諸公卿問。皆以賓師待。諸生稽東陽先生、因翰林菅公所賜書院属 額 也 。 天明戊市、京中大災、九所貯国書、併抄録著連、都矯烏有。半生 心血所在、痛恨甚於喪我。窮而還郷、浪遊諸方。滋一赴江戸、有故半 途而同。の留寓尾張、遁家書促蹄。本藩岡本監司逝矯館師、護以薦 血中儒官、賜十五口糧、遣教授伊賀上野。幸逮親存、得慰平生。時寛 政己酉八月、年三十三歳也。 れ ん か す こ ぷ お ほ 既にして雌を輩下に設け、古学を以て家を立つ。門徒頗る衆し。 みな 尋いで梶井王府の門客と為り、兼ねて諸公卿の聞に遊ぶ。皆賓師を 以て待す。諸生、東陽先生と称す。翰林菅公賜ふ所の書院の扇額に 因 る な り 。 ほ し ん お よ な ら 天明戊申、京中大災あり、凡そ貯ふる所の図書、併びに抄録著述、 す ベ う い う 都て烏有と為る。半生心血の在る所、痛恨我を喪ふより甚だし。窮 つ ひ ゆ 主 して郷に帰り、諸方に浪遊す。遂に江戸に赴くも、故有りて半途に か へ な して回る。何ほ尾張に留まるも、適々家書帰を促す。本藩の岡本監 む か つ ひ 司、選へて館師と為し、遂に以て儒官に薦挙され、十五口糧を賜ひ、 お や お よ 伊賀上野に教授せしむ。幸ひに親存するに逮び、平生を慰むるを得 き い 千 っ たり。時に寛政己酉八月、年三十三歳なり。 ︻ 語 釈 ︼O
設 雌 私 塾 を 開 く o ﹃ 後 漢 童 百 ﹄ 馬 融 伝 に ﹁ 常 に 高 堂 に 坐 し て 緯 紗 帳 を 施 し 、 前 に 生 徒 に 授 け 、 後 に 女 楽 を 列 ね 二 五 々 と あ る 。 ﹃ 詩 紗 ﹄ 巻一の七古﹁舌耕歌、賀伯貌に贈る﹂に﹁帳を設け舌耕して聯か口に の り か う ひ く れ 制す、皐比に坐し尽す戟又た昏 L と。︿賀伯貌﹀は、太田玩鴎(延享 二年三七四五]
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文 化 二 年 [ 一 八 O 五 ] ) の こ と 。 本 姓 の 甲 賀 氏 に 依 つ二宮俊博/津阪東揚「寿境誌銘」訳注稿 あぎな て賀と修し、伯貌はその字。京都遊学時代の東陽の友人の一人。︿舌耕﹀ は、前掲﹃故事必読成語考﹄巻上、師生に﹁教館を謙するに口に糊す と日ひ、又た舌耕と日ふ﹂と。︿皐比﹀は、講義の席。
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輩 下 天 子 のお膝元o
﹃ 学 語 編 ﹄ 巻 上 、 地 理 類 に ﹁ ミ ヤ コ ﹂oO
古学程朱の学(宋 尚子)を批判し、漢唐の注疏によって孔孟の精神に迫ろうとする学問。 この当時、伊藤仁斎(寛、水四年[一六二七]
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宝永二年[一七O
五 ] ) ・ 束涯(寛丈六年︹一六六六]
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元文元年[一七三六︺)父子の古義学、 荻生但徳(寛丈六年[一六六六]j享保十三年[一七二八︺)の古文辞 学 な ど が そ の 代 表 。 東 陽 は 仁 斎 ・ 束 、 涯 父 子 に 対 し て は こ れ を 景 仰 し ( ﹃ 詩 紗﹄巻一、五古﹁古学・紹述両先生の墓を拝す﹂詩)、東涯の子、東 所(享保十五年[一七三 O ] 1 文化元年[一八 O 四])には寛政十一年 (一七九九)に七律﹁伊藤束所の七衰の寿旦を賀す﹂詩(﹃詩妙﹄巻五) を贈っているが、一方、祖僚については、その﹁命世の才﹂﹁大いに 文華を開くの功﹂を評価しつつも、彼の学説には批判的であった(﹃文 集 ﹄ 巻 四 、 ﹁ 但 徳 学 弁 ﹂ ) 0 さらに一世を風廃したその丈章についても、 そ 平明をよしとする立場から﹁夫れ(護閣の)古文辞なる者は、好んで よ 奇字を使ひ、務めて険語を用ひ、断崖絶壁、極めて馨ぢり難しと為す。 そ ほ と ん ま れ 其の手を傷つけ、ざる者は幾ど希なり失﹂とこれを難じている(﹃文集﹄ 巻 十 、 ﹁ 森 子 紀 に 報 ず ﹂)
o
O
立家学問的にも独立して開業するoO
か っ 門徒頗多前掲﹁柚南畝に与ふ﹂に、先に挙げた箇所に続けて﹁嘗て す己ぷ 人の勧めに図って、抗顔して皐比に坐す。門徒輯鞍し、頗る隆盛と称 そ あ た を は く っ す で み せらる。其の講日に値りでは、則ち墜激未だ畢らずして戸外履巳に盈 の ど か てり失。其の務めは口を苦くして排訴し、唇焦げ盛岡担れ、三寸(舌) あ 裂けんと欲す、労良に甚だし実。然れども糊口の及ばざる、量に代耕 や や す な は ふ う 之足らんやと云ふ。壁立の室、屡々空しきに困じ、動もすれば腕ち夫 し あ あ い た づ ら は づ か の み こ こ つ ひ 子陳察の色有り。時、講師の業、徒自に道を辱しむる耳。是を以て遂 歩 合 〆 、 辛 つ } ﹄ マ ︼ に断じて帳を捲き、復た鳴を落に弄せず。幸ひに王門に遊事し、朝紳 た め う づ 諸公の為に延請せらるるに及んで、溝察に填まざるを得たり尖。今に こ れ ま ニ と わ ら して之を思へば、良に以て自ら咲ふなり﹂と、舌耕生活の苦労を語っ ている。︿抗顔﹀は、厳めしい顔つきをする。中唐・柳宗元﹁章中立 あ に 答 へ て 師 道 を 論 ず る 童 目 L ( ﹁柳河東集﹄巻コ一十四)に﹁顔を抗げて怖 と為る L と。︿夫子陳察色﹀は、飢えた顔つき。孔子とその弟子が諸 国放浪の途上、陳・察の地で迫害され、糧食を絶たれた故事(﹃史記﹄ 巻四十七、孔子世家)による。O
梶井王府三千院門跡。当時、洛中 あ る じ 御事広小路にあった。その主は入道常仁親王。O
諸公卿﹃詩紗﹄には、 内大臣広幡公・参議千種公・大納言唐橋公・鷹司相公・富小路孝公・ 大相国九条公らの名が見えるのO
翰林菅公唐橋在照のことか(唐橋 家は菅原道真の子孫 ) 0 ︿ 翰 林 ﹀ は 、 文 章 博 士 の 唐 名 。 よ 討 紗 ﹄ 巻 一 一 一 に 五排﹁唐橋世子三位君に呈す L 詩があり、その自注に﹁菅家の諸公、 文章博士を輪任す。故に皆斯文を以て世業と為す﹂と。また巻五に六 絶﹁唐橋世子の文章博士に任ぜらるるを奉賀す L 詩があり、﹁翰林選 中 め れ h に暦り任に勝ふ、文藻才高く学優る﹂と。O
京中大災正月晦日未明から二月二日早朝にわたってほぼ京都市中 の全域に及んだ大火。詳しくは京都市編﹃京都の歴史 6 伝 統 の 定 着 ﹄ (皐察書林、昭和四十八年)臼頁 j 白頁参照。なお、東陽も商識のあっ た釈大典(享保四年[一七一九]
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享和元年[一八 O 一 ︺ ) に ﹁ 平 安 火 い づ く 災 の 事 を 紀 す ﹂ ( ﹃ 北 禅 文 草 ﹄ 巻 四 ) が あ る 。O
烏有﹁烏んぞ有らんや﹂ の意で、まったく存在しないこと。この大火で、東陽は﹃皇和通紀﹄ の草稿を焼失した。﹃文集﹄巻一の﹁天明六年丙午の歳三月、伊勢の 処士津阪孝綜、謹んで京城銅紘坊東陽書院の稽古精舎に題す﹂と記さ お よ か れた﹁皇和通紀の序﹂の附記に﹁通紀の成る、凡そ=一たび稿を易へ、 よ 積むこと十鈴年、始めて克く緒に就く。京師戊申の火災、全稿塗尽 の こ な し、隻字も遺すこと岡し﹂と。︿精舎﹀は、学舎・書斎の意。南宋・ 呉曾﹃能改斎漫録﹄巻四、弁誤の条に﹁古の儒者は、生徒に教授し、 みなこれ 其の居る所皆之を精舎と謂ふ﹂と。O
窮而還郷 J 耐紗﹄巻四に﹁戊 申の作﹂と注記する沼歳作の七律﹁感を書すコ一首﹂があり、其一の領文化情報学部紀要,第14巻.2014年 ほ と ん い さ さ 聯に﹁窮猿は木を択ぶに将ど暇無く、倦鳥は林に帰りて聯か自ら安ん そむ ず L 、其二の首聯に﹁壮志空しく希く昼錦の栄、弊裏帰り去りて柴荊 に臥す﹂と詠じている。︿窮猿﹀云々は、東晋の李弘度(充)が仕官 川 u m ?し の口を求めて﹁窮猿林を奔るに、畳一に木を択ぶに暇有らんやしといっ た 言 葉 に よ る ( ﹃ 世 説 新 語 ﹄ 一 言 語 篇 ) 0 ︿倦鳥﹀云々は、晋末宋初の陶 淵明﹁帰去来の辞﹂に﹁烏は飛ぶことに倦んで還るを知る L と 。 ︿ 唇 一 錦 栄 ﹀ は 、 故 郷 に 錦 を 飾 る こ と 。
O
の留寓尾張﹃詩紗﹄巻四の七律﹁恩 回仲壬と話別す﹂詩は、この時期の作であろう。仲壬、号は意楼(寛 保三年[一七四二己 F I -4 文化十年[一八二二 ] ) o 東陽の京都遊学時代に 七絶﹁恩田仲壬に寄せて答ふ﹂詩(司詩紗﹄巻七)があることからす れば、仲壬と知り合ったのは、名古屋で医術を学んでいた時か。なお、 仲壬の実兄が岡田新川(字は挺之。元文二年︻一七三七]
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寛 政 十 一 年[一七九九])で、後に東陽はこの人にも詩を贈っている。O
岡本 監司岡本景淵(字は士龍、号は聾山。通称、五郎左衛門。寛延二年 [ 一 七 四 九 ]j 文化十一年[一八一四])のこと。聴雨の号で知られる 俳人でもあった。孔雀老人松居(山崎義故)の天保八年(一八三七) 稿﹃洞津奇人伝﹄上に﹁岡山聾山子﹂の項がある(国会図書館蔵。﹃三 重県史﹄資料編近世 5 、平成六年刊に翻刻 ) 0 そ の 子 、 委 ( 字 は 孟 章 、 号は梅涯)は東陽に就いて学んだが、享和三年(一八 O 三 ) 、 二 十 九 歳で残した(﹃文集﹄巻五、﹁岡本孟章墓褐銘﹂ ) 0 ︿監司)は、加判奉 行のこと。文化五年自序の東陽﹃官吏訳名﹄の﹁加判奉行﹂の条に、﹁大 監 可 、 法 司 ﹂ と 記 し 、 ﹁ 此 職 管 二 統 封 内 ノ 庶 政 イ 、 兼 摂 コ 杷 部 イ 、 俗 ニ 称 一 一 大 奉 行 一 。 可 農 ・ 市 ヰ ア 及 倉 康 ・ 刑 獄 等 吏 皆 属 ス 鷲 。 実 国 本 ノ 要 任 、 最 為 二 劇 職 一 云 ﹂ と 。O
館師家塾の(住込み)教師。O
薦挙儒官﹃文集﹄巻 十の深井広通宛の書簡﹁侃弦大夫に呈す﹂に﹁夫れ僕は本と北部草葬 ぬす の 民 に し て 、 鎚 鼠 の 技 も て 、 挙 一 口 を 郷 曲 に 窃 み 、 以 て 知 を 執 事 及 び 深 斎 ・ か た じ け な み だ 聾山諸君子に辱うし、狼りに儒員に挙げられ、侍御の班を砧し、特 に 伊 城 に 教 授 せ し む ﹂ と 。 ︿ 漏 鼠 ﹀ は 、 ム サ サ ビ 。 ﹃ 童 空 一 一 一 口 故 事 ﹄ 巻 十一、禽獣比除類に﹁才短きを言ふ、随鼠五校﹂と。︿深斎﹀は、篠 堂 光 寛 ( 宝 暦 五 年 [ = 一 七 五 五 ] ] ] F , j 堂に﹁津藩の故の老中兼国校総教藤堂君墓誌銘 L ( 2 ﹃ 拙 堂 丈 集 ﹄ 巻 五 ) ー も がある。﹃文集﹄巻一一一の﹁岡本士龍山荘記﹂にも﹁予孝縛本と北部草 奔の民、辱くも本務に挙げられ、乏しきを儒曹に受け、亦た以て知を 大夫に受くるなり﹂と。また﹃詩紗﹄巻六に五絶﹁釈褐三首﹂があり、 その自注に﹁八月召を津城に奉ず。伊州教授に充てられ、九月伊賀に やしき 赴く。第を西郭に賜ふ﹂と。O
十五日糧十五人扶持。ちなみに、荻 生但徐が況歳で初めて柳沢保明(士口保)に仕えた時、やはり十五人扶 持であった(平石直昭﹃荻生但保年譜考﹄平凡社、一九八四年 ) o ま た東陽が﹁八秩の寿詞﹂を捧げ、その自注に﹁年甫めて十九にして東 庄先生に従いて学び、古義堂に寓すること十鈴年、貫主の弟子と為る﹂ と記す伊勢櫛田の人、奥田一二角(元禄十六年[一七 O 三]
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天明三年 ︹一七八三])の場合は、却歳で津藩に出仕した当初、十人扶持であっ た(寛政十年[一七九八]刊﹃続近世崎人伝﹄巻二、奥田三角の条に 引 く 、 そ の ﹁ 寿 褐 銘 ﹂ ) 0 {現代語訳}やがて私塾を聞いて教授し、古学で一家を立て、学ぶ 者がかなり多かった。ついで梶井門跡の門客となり、それとともに 公卿とも交遊するようになり、どなたも私を賓師として待遇してく ださった。門下生たちは東陽先生と呼んだが、これは文章博士の菅 公から賜った東陽書院とい、ユ桶額に因んでのことである。 天明八年(一七八八)、京都の市中で大火があり、これまで蓄え てきた書物や書き写したノl
ト・著述の類が、すべて空無に帰し た。半生の心血を注いだもので、自分の命を失くした以上に悔んで も悔みきれない思いがした。どうにも行き詰まって故郷に戻り、各 地をぶらぶら遊んでまわった。かくて江戸に赴こうとしたが、わけ あって途中で引き返してきた。そのまましばらく尾張に留まってい たが、おりしも占永から帰ってくるよう催促の手紙が届いた。本藩の二宮俊博/津板東陽「寿墳誌銘」訳注稿 重役で加判奉行の岡本氏が、家庭教師に迎えて下さり、かくして藩 の儒官に推挙され、十五人扶持を賜り、伊賀上野で教授することに なった。幸い親が健在で、その平生を慰めることができた。時に寛 政元年(一七八九)八月のことで、三十三歳であった。
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伊賀上野での十九年
余質疎野、不習脂章、累遭議議。或調少庇損、意勘詑遇、道不可 拙、立節愈堅。頼先公寵霊獲免君。於是埋厄感欝、一寓諸歌吟、弗 能自己、殆以詩人稿。追念先考遺誠、慶言詩数年失。五口道終不行、 求放蹄田里、呈書政府、陳情待罪。舎津城士大夫延請受業、矯賜行 館、歳率再赴、九七閲年。 文化丁卯季冬、遂召還、補待問直撃士、兼諸公子教諭。又月六 次、説書子外朝、以訓導諸司、賓今公紹位之明年也。蓋在上野九十 有九年、困窮愁著書、並理奮業、率皆就緒、略償平生之志、亦不幸 之 幸 也 。 し ゐ し き あ 余が質疎野にして、脂章を習はず、累りに議議に遭ふ。或いは庇 か く つ 損を少くを調し、意前遇を勧むるも、道拙す可からず。節を立つる い よ い よ よ こ こ こと愈々堅し。先公の寵霊に頼り免るることを獲たり。是に於いて い ん や く こ れ や あ た ほ と ん 埋厄感欝し、一に諸を歌吟に寓す。自ら巳むこと能はず、殆ど詩人 を以て称さる。先考の遺誠を追念し、詩を言ふを廃すること数年、 つ ひ 吾が道終に行はれず、田里に放帰せんことを求め、室田を政府に呈し、 の た ま た め 情を陳べ罪を待つ。会たま津城の士大夫延請して業を受け、為に行 お ほ む お よ け み 館を賜ふ。歳ごとに率ね再び赴くこと、凡そ七たび年を閲す。 て い ぱ う つ ひ 文化丁卯季冬、遂に召還されて待問直学士に補せられ、諸公子の 教諭を兼ぬ。又た月に六次、書を外朝に説き、以て諸司を訓導す。 実に今公位を紹ぐの明年なり。蓋し上野に在ること凡そ十有九年、 ぷ ら を さ お ほ む ほ 窮愁に因って書を著はし、並びに旧業を理め、率ね緒に就く。略ぼ 平生の志を償ふ、亦た不幸の幸なり。 { 一 詰 釈}
O
疎野ありのままで飾らない性分。気ままで礼儀作法に拘ら ない性格。例えば、中唐・戴叔倫﹁江行﹂詩完全唐詩﹄巻二七三) に﹁自ら顧みるに疏野の性、屡々忘る鴎烏の情﹂と。ちなみに、亡妻 の た め に 記 し た ﹁ 内 人 日 紫 喜 氏 の 碑 陰 記 ﹂ ( ﹃ 文 集 ﹄ 巻 六 ) に は 、 ﹁ 余 、 へ い を ん ぱ う 性疎慢、形骸を土木にし、弊組砲を嫌はずしという。︿疎慢﹀は、野 放図。中唐・章応物﹁野居﹂詩(﹃全唐詩﹄巻一九一二)に﹁結髪して 屡々秩を辞し、身を立てること本より疏慢﹂と。︿形骸土木﹀は、う わ べ を 飾 ら な い こ と 。 ﹃ 晋 室 田 ﹄ 巻 四 十 九 、 就 山 康 伝 に ﹁ 形 骸 を 土 木 の ご とくし、自ら藻飾せず﹂と。︿弊組褐﹀は、綿のはみでたぼろぼろの ど て ら 。 孔 子 の 弟 子 、 子 路 は こ れ を 着 て 恥 じ る 気 色 が な か っ た ( ﹃ 論 語 ﹄ 子 竿 篇 ) 。 な お 、 東 陽 は 自 ら の 性 分 に つ い て 、 他 に ﹁ 野 性 ﹂ ﹁ 僻 性 ﹂ ﹁ 疎 狂﹂と称する例がある。O
脂章裾び諮うことをいう o ﹃ 楚 辞 ﹄ ト 居 け つ え い か ど に﹁脂の如く章の如く、以て潔極(角立てず順応)せんかしとあり、 後漢・王逸の注に﹁柔弱にして曲がるなり﹂と。﹃文選﹄巻五十五、六 朝 梁 ・ 劉 峻 ﹁ 広 絶 交 論 ﹂ に ﹁ 脂 章 便 砕 を 以 て 其 の 誠 を 導 く ﹂ と 。 ︿ 便 辞 ﹀ は 、 人 に 煽 び る 。O
庇損おとしめる意から転じて、へりくだる。謙 遜 。 ※ B 稿は﹁或誠少毘損意、勧詑遇﹂と句読を施し、 C 稿は﹁或 瓶 二 少 庇 損 、 意 勧 一 一 読 遇 一 ﹂ と 訓 点 。 ﹃ 碑 文 集 ﹄ は 訓 点 な し 。O
論 遇 も と は 、 狩 猟 の 際 、 正 し い 礼 法 に よ ら ず し て 獲 物 を し と め る こ と ( ﹃ 孟 子 ﹄ 膝 丈 公 下 ) 。 転 じ て 、 正 し い 道 に よ ら ず 迎 合 す る こ と 。O
道不可剖﹃文 選﹄巻五十三、一二回貌・李康﹁運命論﹂に﹁其の身は抑ふ可きも道は 屈す可からずしとあり、その李善注に﹁漢書に孫宝日く、道翻す可か ら ず 、 身 拙 す る 何 ぞ 傷 ま ん や ﹂ と 。 ︿ 誠 ﹀ は 、 ︿ 屈 ﹀ と 音 義 同 じ 。 ﹃ 詩 紗 ﹄ 巻 五 に ﹁ 道 屈 す 可 か ら ず 、 窮 し て は 当 に 謎 々 堅 か る べ し 。 予 不 敏 と 難 も 、 ひ そ 窃かに斯の語を事とす。或いは勧むるに寸を謝して尺を伸ぶるを求む。 そ こ ぽ 夫れ道を段ちて以て容るるを求む、容れられて何を行はんや。因って文化情報学部紀要,第 14巻, 2014年 カ ω 4 匂 懐 ふ 所 を 写 し 酬 明 り を 解 き て 自 ら 弔 ふ ﹂ と 題 す る 七 律 が あ る 。 ︿ 窮 当 益 堅 ﹀ は、﹃後漢書﹄馬援伝に﹁丈夫の志を為すや、窮しては当に益々竪か る べ く 、 老 い て は 当 に 益 々 壮 ん な る べ し ﹂ と 。 ︿ 前 寸 伸 尺 ﹀ は 、 ﹃ 准 南 子 ﹄ 氾論訓に﹁寸を制して尺を伸ぶれば、聖人之を為し、少しく柾げて大 いに直ければ、君子之を行ふ﹂と見える。
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先公津藩第九代藩主の た か さ と 藤 堂 高 山 疑 ( 延 享 コ 一 生 l ︻ 一 七 四 六]
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文 化 三 年 三 八 O 六 ] ) 0 ﹃ 詩 紗 ﹄ 巻 三に寛政七年(一七九五)却歳作の五排﹁恭んで︿松柏の茂るが如し﹀ を賦し、寿を君公が五秩の覧撲の尊辰に奉る L 詩がある。︿松柏﹀云々 は、﹃詩経﹄小雅﹁天保﹂の句。︿覧挨﹀は、誕生日。O
寵霊一君主か らの格別の思召しによる引き立て。﹃文選﹄巻三十一、六朝梁・江流﹁雑 こ わ に な し z t 体詩﹂其十五に﹁伊れ余れ寵霊を荷ひて、感激して馳驚に殉へり﹂ と 。O
理厄感惨八方塞がりで気が結ぼれる。南宋・朱蒸﹃楚辞後語﹄ 巻五、中唐・柳宗元﹁懲各賦﹂の注に引く北宋・晃補之の説に﹁初め 宗元、震斥せられて蛮摩の聞に崎順たり。壊随感欝、一に文に寓し、 離騒数十篇を新る﹂と。また元・富大用撰﹃新編古今事文類衆外集﹄ 巻十二、﹁文思益深 L の条に﹁柳宗元、、水州司馬に庇せらる。自ら山 こ れ 沢の聞に放ち、其の壇厄感至、一に諸を文に寓す。久しくして思ひ益々 深 し ﹂ と 。 ※ C 稿 は ︿ 感 ﹀ 字 を 誤 ま っ て ︿ 威 ﹀ に 作 る 。O
五日道終不行﹃文 選﹄巻四十二、コ一国貌・曹植﹁楊徳祖に与ふる書﹂に﹁若し吾が志未 だ果たさず、五口が道行はれずんば﹂云々と。﹃詩妙﹄巻八にお歳作の 七絶﹁予伊州に来たりて慈に三年、五口が道行はれず悠悠として日を度 す。筆に信せて詠懐し、聯か幽悶を池らす十首﹂があり、其十に﹁聴 つ ひ 相判吾が道寛に何をか成さん、多病自ら悲しむ孤客の情。判取す骸を請 な ふて劾を投じて去り、長く山長と為りて総生を了せん﹂と詠じている。 ︿悠悠度日﹀は、うかうかと日を過ごす。例えば、朱烹﹃晦庵先生朱 文公集﹄巻五十﹁潜文叔に答ふ L や 巻 五 十 コ 一 の ﹁ 劉 仲 升 に 答 ふ L な ど に 見 え る 。 ︿ 判 取 ﹀ は 、 い っ そ ー し た い 。 願 望 を 表 す 口 語 的 表 現 。 ︿ 請 骸 ﹀ は、辞職を願い出ること。︿投劾﹀は、自らを弾劾する文章を投じて 官をやめること。︿山長﹀は、書院(学問所)の院長。理想とはまる で程遠い伊賀上野での勤めを一きっぱりとやめて田舎で塾でも開いて余 生を送りたい、というのである。O
放帰国里辞職して郷里に帰る。 例えば、﹃晦庵先生朱文公集﹄巻九十八、﹁伊川先生年譜﹂に﹁紹聖の 問、党論を以て田里に放帰せらる﹂と。前掲﹁侃弦大夫に呈す﹂は、 伊賀上野に来て数年たってから書かれた書簡であるが、その中に﹁随 窮駅に至る、敢へて骸骨を乞ひて旧里に放帰せられんこと、酎より分 の宜しきなり﹂というo
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延請招請。︿延﹀は、招く意。O
賜行館 出先の宿舎を与えられる。﹃詩紗﹄巻八の七絶﹁往に伊州に在り群小 い か し ん せ ん ニ と に憧らる。騎銃議起して、針一割に坐するが若し。痛み定まって痛みを 思ふ、猶ほ人をして懐たらしむ。因って賦す二首﹂の自注に﹁往に諸 た め よ お ほ む 弟子の為に伊州自り来る。行館を賜はり帳を設くること、歳に率ね一 再、凡そ七年なり失﹂と。︿群小﹀云々は、﹃詩経﹄榔風﹁柏舟﹂に﹁憂 心 情 情 、 群 小 に 慣 ら る ﹂ と 。 ︿ 縞 蛇 ﹀ は 噛 み つ く こ と 。 非 難 排 斥 。 ︿ 議 起 ﹀ も う せ ん は一斉に起こる。︿議﹀は蜂に同じ。︿針趨﹀は、針を置いた毛髭。針 む し ろ の 薦 。 ︿ 窃 ﹀ は 、 艶 の 俗 字 。 ﹃ 墨 田 章 日 ﹄ 巻 三 十 四 、 杜 錫 伝 に ﹁ ( 社 錫 ) 屡 々 こ れ う れ 感懐太子を諌め、一一言辞懇切たり。太子之を患ふ。後に針を置きて錫の 常に坐処する所の艶中に著け、之を刺して流血せしむ﹂と。︿痛み定 ま り ﹀ 云 々 は 、 中 唐 ・ 韓 愈 ﹁ 李 翰 に 与 ふ る 主 日 ﹂ ( ﹃ 韓 日 国 家 集 ﹄ 巻 十 六 ) に﹁今にして之を思へば、痛み定まれる人の、痛みに当たるの時を思 ふ が 如 し ﹂ と 。O
待問直学士藩主の下関に備える近侍の儒員。︿待問﹀ の語は、﹃礼記﹄儒行篇に﹁夙夜強学以て聞を待つ﹂と。※ B 稿 は ︿ 直 ﹀ た か さ わ 字を誤まって︿真﹀に作る。O
今公第十代藩主の藤堂高免(天明元 年︹一七八二1
文政七年[一八二凹 ] ) 0 文化三年(一八 O 六 ) 十 月 、 出歳で襲封した。名君の誉れ高く、大正六年(一九一七)に従三位を 追贈され、それを記念して翌年、藤堂家から﹃藤堂官同党公伝略﹄が刊 行 さ れ た 。O
文化丁卯季冬 ﹃詩紗﹄巻三に日歳作﹁丁卯抄冬、洞津に百還され、二宮俊博/津阪東陽「寿壌誌銘」訳注稿 西郊に至りて作る﹂と題する五律、巻五に﹁丁卯季冬十八日、召を奉 じて東帰す。仰いで盛思を荷ひ、聯か部誠を童回す。指を屈して計るに お よ 伊州に在ること、凡そ十有九歳なり実﹂と題する七律、巻八に﹁文化 丁卯仲冬念三日、津城に召還せらるるの命を拝し、恩に感じて沸泣 き い う よ こ ニ し、二絶句を作りて喜びを述ぶ。己酉の秋上野に来たりて白り、悲に 十九年、犬馬の歯五十有一なり失﹂と題する七絶二首がある。︿洞津﹀ は、安濃津。現在の三重県津市。﹃夜航詩話﹄巻四に﹁安濃津は洞津 と 称 す ﹂ 云 々 と あ る の を 参 照 。
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困窮愁著書︿窮愁﹀は、困窮憂愁。 あ らJ
記﹄巻七十六、平原君虞卿列伝論賛に﹁虞卿、窮愁に非、ざれば、 あ ら あ た 亦た書を著はして以て自ら後世に見はるる能はずと云ふ L と 。O
就 緒 仕事にとりかかる。﹃詩経﹄大雅﹁常武﹂に﹁留まらず処らず、三事 緒に就かしめよ﹂とあり、鄭築に﹁緒は、業なり﹂と。O
不幸之幸 す な は か ﹃詩紗﹄巻一の五古﹁自ら遺る﹂詩に﹁乃ち不幸の幸、徐生且つ強鉢 せ ん ﹂ と 。 ︿ 強 鉢 ﹀ は 、 し っ か り 飯 を 食 べ て 元 気 に 過 ご す 。 ︿ 体 ﹀ は 、 ︿ 飯 ﹀ の 俗 字 。 ま た 前 掲 ﹁ 夜 航 詩 話 の 序 ﹂ に も ﹁ 今 や 退 き て 白 日 の 散 王 と 為 り 、 ひ ら を 反故紙を披いて、旧業を料理す。闘を消して老を慰め、優海歳を卒ふ、 亦 た 不 幸 の 幸 な ら 、 ざ ら ん や ﹂ と 。 こ れ は 、 そ の 前 年 、 江 戸 か ら の 帰 途 、 無断で鎌倉に立ち寄ったことが露見して、組附に毘せられていた時の 述懐。︿白日散王﹀は、職務もなく昼間することがない状態。晩唐・ 陳陶﹁蘭を種、つ﹂詩(﹃全唐詩﹄巻七四五)に﹁地に青苗の租無く、 白日散王の如し L と。︿料理﹀は、整理。︿優務卒歳﹀は、のんびりと 歳月を過ごす(﹃晋書﹄巻四十三、山筒伝 ) 0 た ち ︻現代語訳︼(さて仕官はしたものの)私は疎野な質で、おべんちゃ らの一つも一言えず、たびたび讃言されるはめになった。ある人など は私が謙虚な態度に訣けるとそれとなくあてこすり、迎合するよう に勧めたが、道は曲げることができない。信念を貫くこといよいよ 堅固であった。先代の殿の御蔭で事なきを得た。とはいえそれで八 方塞がりとなって心欝屈し、ひたすら歌吟に思いを寄せた。自分で どうにもやめられず、ほとんど詩人よばわりされた。亡父の遺戒を 思い出し、詩を廃すること数年、五日が道は行われず、辞職して郷里 に帰りたいと思い、願いを藩庁に差出し、実情を述べ沙汰を待っ た。その頃、津城下の重役や藩士から招請されて学問を教えてお り、そのために宿舎を賜っていた。一年にだいたい二度ばかり赴く ことになっていて、それが七年続いていた。 文化四年(一八O
七)季冬、とうとう召還されて顧問に与る役目 に任じられ、殿の御子達の家庭教師を兼務することとなった。さら に月ごとに藩庁で講義し、諸役人を訓導した。実に今の殿が襲封さ れた翌年のことである。概して言えば、伊賀上野にはあわせて十九 年いたが、困窮憂愁によって書を著わすことや、それともにそれま での旧稿を整理すること、おおむねいずれもとりかかり、ほほ平生 の志に報いたのが、やはり不幸中の幸いであった。五
戊辰の新政
戊辰新政、上封事、胡賛中興之治。子時牧民官司、勢撫字務作新、 余喜相慶、講令視草、助一時国之力。難渉出位之嫌、要儒業中事己。 翼民徳蹄厚、園本致隆需。其矯吏弊、救民療、糾姦振惰、惇本抑 末、政教流行、一匡風俗尖。適一権要以富強自命、専園財利、生事 擾民。余慨其傷治化、著退私録、論列治務、庶使嘗路有所考裁。姦 黛鏑配、瀕危敦夫。 発酉四月、矯侍讃撃士、日入講論治教、諸所献替、多見采用。闘 法蓄制、死刑之外、止有放逐、不設徒作。恐論罪之際、或不能無失、 矯著考立制、以補扶典、庶哀持之宥、少軽重出入失。其懲而最後、 卒成良民者、蓋亦不少云。尋申請更定奮律、以矯法司之弊、碍子事 不 果 。文化情報学部紀要,第14巻, 2014年 甲成八月、従駕赴江戸。明年夏、西蹄、潜行遊覧鎌倉、中白簡庇 軸削俸、充留守散続、的帯儒職。蓋人莫顕子山而顕子謹也。自是絶 意進取、専障力於著述、孝経論語春秋諸経義註成。屯婁日甚、家徒 四壁立、頼諸大夫賑済、而得不填溝盤。其間屡中飛語、又矯権倖所 構、杜門待罪者再実。 ぽ し ん た て ま つ よ く さ ん お 戊辰の新政、封事を上り、中興の治を坊賛す。時に子いて牧民の み 官司、撫字に労し作新に務む。余喜び相慶し、令を講じ草を視、一 き ら ひ わ た い へ ど 皆の力を助く。位を出づるの嫌に渉ると難も、要するに儒業中の事 た み く に も と き か こ ひ ね が のみ。民の徳の厚きに帰し、国の本の隆んなるを致さんことを葉 そ た た だ あ っ ふ。其れ吏弊を矯め民痩を救ひ、姦を糾し惰を振ひ、本を惇くし末 た ま を抑へ、政教流行して、風俗を一匡せり失。適たま一権要、富強を は か み だ 以て自ら命じ、専ら財利を図り、事を生じて衆を擾す。余、其の治 そ こ な な げ こ ひ ね が 化を傷ふを慨き、退思録を著はして、治務を論列し、庶はくは当路 をして考裁する所有らしめんとす。姦党騎廿配して危に瀕すること しばしば 数 々 な り 。 き い ろ な も ろ も ろ 発酉四月、侍読学士と為り、日々入りて治教を講論す。諸々の献 替する所、多く采用せらる。国法旧制、死刑の外、止だ放逐有るの み。徒作を設けず、罪を論ずるの際、或いは失無からんことを恐 た め る。為に考を著はし制を立て、以て欽典を補ふ。哀衿の宥、軽重出 こ ひ ね が そ っ つ つ ひ 入を少なくせんことを庶ふ。其れ懲りて後を悲しみ、卒に良民と成 る者、蓋し亦た少なからずと云ふ。尋いで旧律を更定し、以て法可 さまた の弊を矯めんことを申請するも、事に碍げられ果たさず。 かふじゅつ 甲戊八月、駕に従ひ江戸に赴く。明年夏、西帰し、潜行して鎌 あ た へ ん ち ゆ っ 倉を遊覧す。白簡に中り庇瓢して俸を削られ、留守散騎に充てら な け だ つ ま づ な る。閃ほ儒職を帯ぶ。蓋し人は山に蹟くこと莫くして珪に蹟くなり。 ょ っ く 是れ自り意を進取に絶ち、専ら力を著述に躍す。孝経・論語・春秋 ち ゅ ん く た 諸経義註成るも、屯童日に甚だしく、家は徒だ四壁立つのみ。諸大 ょ う づ し ば し ば 占 め た 夫の賑済に頼って溝撃に填まざるを得たり。其の間屡々飛語に中 な と こ と り、又た権幸の構する所と為り、円を杜ざして罪を待つ者再びなり。 { 語 釈 ︼
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戊辰新政﹃津坂東陽伝﹄に次のように云う、﹁文化五年、十 代藩主高免は、前年の直書の趣旨にそって、大節約の原則を打ち出し た。まず率先して綿服を着るなど自己の生活費を極度に節約し、藩内 各部局の経費もできるだけ削減した。一方、殖産興業民力増進にも、 従来以上の努力をつづけ、また士風の作新、学問の奨励も大いにはか られた。この改革を、干支の名をとって戊辰の新政と一言、つ﹂と。。封 事密封した上書。O
捌賛翼賛。補佐するo
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中興衰退していた の が 再 び 隆 盛 に な る 。 ﹃ 詩 経 ﹄ 大 雅 ﹁ 蒸 民 ﹂ の 序 に ﹁ 賢 を 任 じ 能 を 使 ひ 、 周室を中興す﹂と。﹃詩紗﹄巻九の七絶﹁津城雑詩三十首 L 其二十八 は じ め あ ら た の自注に﹁今公紹封の初め、首に弊を革め費を省き、務めて倹素に従 み づ か は く き ふ。婦ら棉布を服し、後宮市を衣ず。盤妓は燕享に非、ざれば、一殺に お よ 過 ぎ ず 。 凡 そ 自 ら 奉 じ 諸 般 皆 一 一 是 れ を 称 し 制 を 立 つ 。 民 は 治 下 を 仰 ぎ 、 き う ぜ ん い に し へ ま こ と 九 世 羽 然 と し て 率 服 し 、 風 俗 古 に 復 し 、 綱 紀 粛 整 す 。 寒 に 中 興 の 盛 事 な り ﹂ とo
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牧民官司加判奉行、その下の郡奉行、郡代官など。︿牧﹀は 養う意。古くは﹃管子﹄に牧民篇があり、元・張養浩﹃牧民忠告﹄や明・ 朱逢士口﹃牧民心鑑﹄は民政指導のやり方や地方官の心構えを説く。ち なみに、江戸期に刊行された﹃牧民忠告﹄﹃牧民心鑑﹄およびその注 解については、小川和也﹃牧民の目指T
江 戸 の 治 者 意 識 │ ﹄ ( 平 凡 社 、 平成二十年)に精査されているのを参照。O
撫字民をいつくしむこ と。﹃古今類書纂要﹄巻五、仕官部に、この語を挙げ﹁百姓を撫姐学 養す﹂と注する。﹃文集﹄巻十の﹁奥田允倍に報ず﹂では、﹁牧民総監 安並大夫 L すなわち当時の加判奉行安並左仲の民政家としての手腕を 高 く 評 価 し て い る 。O
作新民を教え諭して人心を一新し道徳的に向 上させること。﹃尚書﹄康詰の﹁亦た惟れ王を助け、天命に宅り、民 を新たにするを作すなり﹂とあるのに基づく諾o
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視草(藩から出 される)公文書の草稿を作成する。︿視﹀は、処理すること。例えば、 ﹃ 漢 書 ﹄ 巻 四 十 四 、 准 南 王 伝 に ﹁ 報 圭 一 日 及 び 賜 を 為 る 毎 に 、 常 に 司 馬 相二宮俊博/津阪東陽「寿境誌銘」訳注稿 すなは 如等を召し草を視さしめて乃ち遺る﹂と。