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ポスト・フォーディズム段階の労働過程論争 : 日本的労働過程のフレクシビリティとは何か

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長 野大学紀要 第13巻 第2・3号 合併',I 81-99頁 1991

ポス ト・フ ォーデ ィズム段階の労働過程論争

Labour Process Debate in the Post Fordist Age:

What is the Flexibility in Japanese Labour Process?

2

0

世紀の終篤が間近に迫 った今、現代資本主義 の変容 を解明せ ん と試み る様々な思潮が勃興 して い る。国家 を媒介 とす る生産 と消費の、フォーデ ィズムの調整様式はすでに破綻 し、現代資本主義 は新 たなポス ト・フォーディズムの調整様式 を求 めていると主張す る、フランスのM.アグ リエ ッタ や

R.

ボワイエ らに よるレギュラシオン理論。画一 的 な市場 に適合 したフォーディズムの硬直な大量 生産体制か ら、 多様 な市場に適合す るフレクシブ ルな 多品種小量生産-の転換 を主張す るア メリカ のM.ビオ レや Ch.セ イベ ル らに よるフ レ クシ ブル ・スペ シャライゼ イシ ョンの議論 等々で あ る (1)0 現代 資本主義の変容 をめ ぐるかか るポス ト・フ ォーデ ィズムの議論のなかで、欧米の先進資本主義 諸 国 を凌駕す る経済成長 を持続 し、 またそれ ら諸 国には存在 しなか った独 自を社会 システム を有す る国 として、 日本 を対象 とす る社会科学研究に未 曽有の国際的注 目が集 まっている。特 にその経済 的成功の鍵 である日本の企業の生産 と労働 の シス テムに対 して甚大 な関心が注がれている。 この渦 中に欧米の研究者に よる日本企業の労働過程研究 をめ ぐって重大 な論争が生 じた。すなわち、K.ド -ゼ らによる日本の 自動車産業に関す る国際的な 比較研究 と、彼 らの研究 を激 しく批判 した

M.

ケ ニー と

R.

フロ リダに よる日本企業 の フレ クシブ ルな社会組織に関す る研究の間で展開 された論争 である。本稿 では、 まず両者の議論 を紹介 し、そ して次に、季刊 『窓』誌上において戟わされたケ ニー/ フロ l)ダ対加藤哲郎

/R.

スティー ヴ ンの 論 争 を検討す る。かか る 日本企 業 の フ レ クシブ

Eiji Kyotani

ル ・システムをめ ぐる論争 を傭轍 した上 で、 日本 の企業におけ る職場集団 と小集団活動の機能に関 す る独 自な分析 をとお して、 この論争に対す る私 見 を提示す る(2)0 第

1

K.

ドーゼ らの 「トヨテ イズム」 自動車産業の国際的比較研究 をとお して、現代 日本の労働過程の特質 を解明せ ん と試みた ド-ゼ らは、「日本的経営」にアプローチす る諸研究 を次 の ように分類す る。 彼 らはまず

W.

レヒャ- とJ.ヴェルシュの「文 化論的アプ ローチ」 を取 り上げ る。 これは、 E]本 におけ る「封建遺制」を重視 し、「忠誠 と温情主義

が、 日本の労働者の問に見 られ る 「集団志向」 と 「仕事志向」 を生み出す と説明 し、 日本の労働者 の特質 を 「新 たなる封建的忠誠」(neoイeudallo y-alty)と規定す る (Dohseetalリ1985:12ト3)0 次に彼 らはよ り有効 なアプ ローチ として、 日本 企業の経営哲学 を重視す る「経営論的アプ ローチ」 を取 り上げ る。 これはさらに 「人間関係論的アプ ローチ」 と 「生産統制アプ ローチ」に分かれ る。 前者は

W.

∫.

アバーナシー、

K.B.

クラー ク

、A.

M.カン トゥロー らの研究によって代表 され る、日 本の企業におけ る労働者の参加 の側面 を重視す る 議論である。 日本の企業は、生産過程におけ る知 性 と責任 を労働者の間に分散 し、分与 させ ること をとおして労働者 を生産過程に包摂する 「共同的経 営アプローチ」 を取 る。 そこでは生産過程 を革新 す る労働者 の知的能力が うま く活用 されてい る (作業者が 自主的に作業改善 を遂行す るQC活動 等が このモデルの好例 であろ う一京谷)。そして終 身雇用や ジョブ ・ローティシ ョンがかか る労働者

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長野大学紀要 第13巻 第2I3号合併号 1991 の能力の形成 と発揮に寄与 している。 この点で 日 本の生産過程 は、知的労働 と肉体的労働の分割や 単純 な作業への特化 を追求す る硬直化 したテイラ ー主義や フォー ド主義 とは異なった、 フレクシブ ル ・システムをもつ。 日本の企業の成功は 「卓越 した人間的要素の管理」にこそ もとづ いている。

W.

G.

オーウチの

Z理論」の基本命題は、 日本 的モデルのかか る本質的要素は他の国- も移植可 能 であるとい う点である

(

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)

0 彼 らが黄 も重視す るのは

T.

ナ カセ、 ∫.ション バーガ

、T.

シ ミズらの研究による「生産統制アプ ローチ」 である。 この論者は、 日本企業の生産過 程がテイラー システムや フォー ドシステム と異な ることを強調す る 「人間関係論的アプローチ」 と は反対に、それがこれ らの原則 を基本に組織 され ているとい う認識か ら出発す る。 日本の企業にお いて も時間研究、動作研究

、∫E

等 を基本に して 完全 な作業の標準化が行なわれている。ただ異な るのは 「時間 と生産標準の設定が、従業員の生産 過程 に関す る知識を活用す るべ く組織 されている 点」である

(

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)

。 日本企業の生産過程の 目標 は、 過剰 な労働 力や無駄 な作業の排除にあ り、 この点 で もまたテイラー主義やフォー ド主義 と何等異な るものではない。それが異なるのは、その 目的の 実現方法においてである。その 目的 を、ライン部 門 とは異なる生産管理等の特別 なスタッフ部門の 任務 として実現 しようとす るテイラー主義や フォ ー ド主義に対 して、 日本の企業は工程改善 をライ ンの作業者 自身の手によって立案 ・実施 させて行 く

。「

Fトヨティズム』はその 日標においてフォー ディズム と異なるものではない。 それは 目標 を達 成す る方法において異なるのだ

」(

1

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)

「したが って、Fトヨティズム封まティラー イズム と異なる オー タナテイブなのではない。む しろそれは、生 産に関す る知識 を合理化-奉仕 させ る事 に対す る 労働者の抵抗 という古典的な問題 に対す る解決 な のだ

」(

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)

(3) それでは 日本の企業は如何 に して、作業者 をし て工程改善 に向かわ しめ、同時に作業者の生産過 程に関す る知識 をその 目的のために組織 しえてい るのだろうか。 第一に、時間研究等の生産管理の 専門的な訓練 を受け、かつ現場作業の実際の細か な点に も精通 した現場職制が、いわば職場 におい - 30-て "生産 に関す る知識の組織者" として重要 な役 割 を果たす。第二に

、QC

等の作業改善サー クル の果たす役割。職制ばか りでな く一般作業者 も生 産管理の基本的な訓練 を受け、 また必要に応 じて 生産管理の専門スタッフがいつで も現場の改善サ ー クルを支援す る。第三に、二つの原則の徹底が 作業者による工程改善 を保障す る。すなわち、「余 剰排除の原則」(no-bufferprinciple)と 「不活用 箇所 を明示す る原則」(theprincipleofthevisual -izationofunderutility)であ る

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)

。 トヨタで は、余剰の資材や人月や作業時間の余裕が最初か ら抜 きに、 ぎりぎりの水準で設定 されているか ら、 職場では当然起 こり得 る トラブルに対処 して、改 善 して行か ざるを得ない。工程 の条件設定 その も のが絶 えざる改善の連続 を強制す る。 また設備保 全の作業者への移管は、間接要員 を合理化す ると ともに、作業者の手待 ち時間 を消失 させ、彼か ら 労働時間の余裕 を奪 う。 さらに後者の原則は 「余 剰人

」の存在 を明示 し (例 えば警告灯が付かず にラインがスムーズに動いていることはその存在 を明示す る)、要員 を引 き抜 くことので きるライン か ら別のラインへの要員の柔軟 な配置が実行 され る。作業者のこの移動 を受け入れる率先性(readi -ness)は生産割当の強制 とそれ を達成 できなか っ た場合 に課 され る制裁によって生 まれ る。 このよ うにこの二つの原則の徹底 は、明 らかに労働の強 化 をもたらし、大変なス トレスを生み出 している。 「この柔軟性は個々人の労働負荷が原則的に上方 に開かれていることを意味す る

」 (132) 最後に、作業集団の社会的圧力が生産統制の役 割 を果たす点が注 目され る。 日本の企業では、最 大限の生産 を求め るアメ [)カの企業 とは異な り、 欠陥 を出さないことが生産の 目的にされている。 しか も、欠陥 を発見 し修正す るのは作業者 自身で ある。他方、作業者には生産計画の遂行が課 され てお り、 また欠陥 を修正す るための時間の余裕が 見込 まれている訳でもない。 したが って、作業者 には救援 を依頼 した り、緊急時にラインを停止す る権利が認め られているとはいえ、他 の作業者に 迷惑 をかけないためには、 この権利は名 目で しか ない。すなわち、個々の作業者は作業集団のなか で、欠陥を出さずに、 しか も標準時間通 りに作業 を遂行せねばならない とい う巨大な圧力 を受ける。

(3)

京谷栄二 ,+17,卜 ・フォーデ ィ ズム矧 ;皆の労働過程論 卑 「生産の不規則性の コス トを労働者に転嫁す る余 剰排除の生産 においては、作業集団の社会的圧力 は生産統制 の役割 をはたす

」(132)あるいはそこ に 「作業者の間におけ る相互的な作業遂行圧力」 (D

,

K,Nanto)が生 まれ る。 この ように 「生産統制アプ ローチ」は、「人間関 係論的アプ ローチ」 とは異な り、 日本企業の特質 が、経営による強力な生産過程に対す る統制が実 行 されてい る点にあることを強調す る。 だが しか し、以上のいずれのアプ ローチ も日本 的経営の特質 を十全 には説明 し得 ない。特 に欧米 の研究者に とって不可解 な次の ような命題 を説明 し得 ない。すなわち 「なぜ 日本の労働者はこの経 営 システム を受容す るのか」(133)、 もしくは「な ぜ 日本の労働者の行動 は通常では考 えられないほ どに企業の利害 と一体化 しているのか」(121)と い う命題 である。 ド-ゼ らはこの命題 を、労働組 織 と労使関係 を統体 として分析す る 「統合的解釈 アプ ローチ」によって説明 しようと試み る (133 -143)0 まず彼 らは 自動車産業 を例 に、戦後 日本におけ る労使関係 の変遷 を分析す る。 ここで重要 なのは 1950年代初めに、戟後隆盛 した戦闘的労働組合が 経営側 の攻撃 によって敗北 し、経営の意図を汲ん だ会社組合 (companyunion)が形成 されたこと である(トヨタでは1950年、 日産 では53年)。1950 年代 のかか る労使関係の転換、労使協調的労働組 合 の形成 を基盤 として、 日本の 自動車産業はその 後60年代、70年代 において急成長 を遂 げる。 そ し て この過程 において現代 日本の労働過程の以下の ような諸特徴が形成 され る。 第- に、 日本の企業別組合 は、その企業の市場 におけ る成功、 しか るに生産性や コス トに強 く依 存 してお り、企業の市場の競争に包摂 されて しま っている。 その結果労働組合運動の課題 と範囲か ら、労働諸条件 に対す る規制が排除されて しまい、 それ らは報酬 と雇用保 障におけ る成果配分へ と限 定 されて しまった。 第二に、従業員の企業への強度の依存が見 られ る点。終身雇用制度は 「文化的アプローチ」の説 くように、労使の合意に もとづ いて形成 されたの ではな く、1920年代の激 しい景気変動 に対 して、 安定的に労働力 を確保す るための経営側 による労 83 務政策 として始め られたのであ る(4)。 そ して戟後 の1960年代、70年代の急成長の間、 自動車産業は 人月削減 を実施す る必要がなか った。 ここに形成 された 日本的内部労働市場におけ る個々の労働者 のキャ リア形成は、経営の一方的 な意思による評 価 と選別 に委ね られている。 この点では、先任権 によって経営の意思が規制 されてい るア メリカの 場合 とは全 く異なる。 さらに次の賃金制度の二つ の特徴が、従業員の企業-の依存 を強化す る。職 場毎の実績によって決定 され る集団能率給が個人 の作業遂行 に対す る、監督者お よび職場集団の圧 力 を強め る。 また賃金は個人毎 に細か く格差 を付 け られ、分断されている。 この点 では、賃金が職 務 と厳密に関連付け られている欧米の 自動車産業 におけ る賃金体系 とまった く異なる。 しか もこの 格差は翌年の格差 に反映 され、内部労働市場にお け る長年のキャ リアに渡 って累積 されて行 く。 こ こに昇進-の志向 と労働者間の競争が促進 され る。 「日本の労働者は集団志向であると言われている が、実際には彼 らは激 しい競争 と業績主義に屈 し てい る

」 (高木郁郎 (138))か くして労働者の企 業に対す る強固な依存が形成 され る。 しか も、雇用保障の基幹労働者-の制限、残業 の利用、臨時雇い、下請け企業-の老朽化 した労 働力の排 出等の柔軟な緩衝帯の存在によって、経 営は この依存 を低 いコス トで確保 しうる。 第三に、かか る依存傾 向は企業別労働組合が内 部労働市場に対す る規制 力 を欠いている点 とも関 係す る。昇進管理 と賃金管理 をとお して、個々の 労働者のキャ リアは経営の意思に委ね られている。 従 って労働者は経営に高 く評価 され るべ く、経営 に とって都合のよい適正、能力 を示 さぬばならな い。 そ して結果 として労働者間の連帯は崩壊す る。 「個 人の能力に対す る経営の評価への労働者の 極度 な依存が、 日本の工場 におけ る労働 に関す る 文献 に広 くみ られ る、『献身的労働者』(comitted worker)症候群 の決定的な要 因である。 これが作 業遂行 と作業配置におけ る大 きな柔軟性 を日本の 労働者が受容 し、 『仕事 の増大』 と 『身体 の緊張』 さえ もた らす改善活動に参加す ることを、そして また彼 らが権利のある有給休暇 を取 らず、病気の 場合 でさえ休 まない とい う奇妙 な現象 を説明す る のである

」(138)

(4)

84 長野大学紀要 第13巻 第213号合併号 1991 さらに、企業別労働組合 は職場におけ る人員配 置 と作業基準に対す る規制力 も持たない。すなわ ち、「従業員の利害 を表明す るための 自律的 な集団 的制度の欠如、これが労使関係のこのシステムの 特徴 である

」(

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)

この欠如は、職制 と組合役員 の兼務、組合役員選挙における投票の監視等の労 働組合 の運営に見 られ る非民主主義的な要素 とも 深 く関係 している。 第四に、労働組合が独立 した利害 を表明す るチ ャンスを持 ち得 ていない という以上の欠陥は、企 業におけるコ ミュニケイション構造が経営によっ て管理 されている点 とも関係す る。休 日におけ る 会社の行事や

QC

サー クル等の発表会に も、それ への参加の可否が各人に対す る評価の対象に含 ま れている以上、参加せ ざるを得 ない。H.フォー ドの

5

ダラー ・デイズ」において、私生活にお ける望 ましい道徳が強要 されたように、 日本の企 業は企業外の労働者の私生活-強大な影響力を行 使 している。 最後 に、経営によって強制 され る労働 負荷 を作 業者の間に分散 させ る職場集団の機能が注 目され る。上述のご とく日本の労働者は、 自らの利害 を 表明す る有効 な集団的機関 と機会 をもたない。従 って、経営が彼 らに課す作業上の圧力は、他の手 段に訴 えて調節 され ざるを得 ない。「これが作業 と 職務遂行 において現れる 『職場集団の圧力』 を理 解す る鍵 であ る

」 (140)作業の遅 い もののため に、あるいは休んでいるもののために、補助要員 のいない 日本の職場 で、ある作業者が特別 な労力 を払わぬばな らない場合、その負何は、職場集団の 力をとお して他の作業者-一部が転嫁 されてのみ、 遂行可能 なレヴェルへ調整 され る。 日本の職場で は、作業者が休んでいる仲間に独 自に連絡 を取 り 出勤 を促す こ ともあると、報告 されている。 「経営論的アプローチ」が述べ る優 れた 日本的 経営 とは、実 はこのように、「経営の権力に対 して ほ とん ど何の制限 も無い労使関係の環境において のみ可能 なのである

」(140) したがって 日本的経 営は簡単に移植できるものではない し、逆に安易 なその移植 は、 日本以外の国の労使関係 に とって 否定的 な影響 を与えかねないO 以上 の 「統合的解釈アプローチ」による分析に もとづ いて、 ドーゼ らは次のように結論す る。 - 32一 第一に、「労働過程の 日本的組織はア メ リカや ヨ ー ロッパの 自動車産業の もの とは異なるとはいえ、 それは通常考 えられているように、基本的にはフ ォーディズムに代わるオー タナテイヴではないO 『トヨティズム』は単に、経営の権利がほ とん ど 制限されていない条件の もとにおけ る、フォーデ ィズムの組織 原則 の実践 で あ るにす ぎな い

(141) 第二に、経営による生産過程 に対す る統制は、 「仲間集団を統制手段 として活用」す るゆえに、 困難な く機能す る。同時に、 この統制 は 「厳 しい 競争の組織化」に もとづ く。「作業集団によって媒 介 された個人-の庄カーだが しか しその集団は有 効 な集団的利害の表明 を欠 く-、 これが 日本的 シ ステムがそのような もの として機能 し得 ている中 心的な要素である

」 (141-2) 第三に、差別化 された賃金等の個 人間競争 を組 織化す る経営の戦略の もとで、有効 な集団的利害 の表明手段が欠如 しているとい う状態は、 まさに、 欧米の労働組合が過去において克服 して きた もの である。 したが って労使関係 におけ るこの要素は 日本的システム を 「後退的 な もの

」(

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に している(5)0 最後に、「また労使関係の 日本的モデルは単純に 参加 モデル としてみなす こ ともで きない。-・- 参 加は、話題、 目標、意思表明の形式が会社の利害 という、実践的な目的に制 限 されている、管理 さ れた状況のなかで起 こる。 これ らの条件の もとに おいてのみ従業員の参加は 日本におけ る生産性の 宝庫 として活用 され る

」(142)(6) 日本的経営の優れた点 として力説 され る終身雇 用制度の もとでの雇用保障、 しか し日本の労働者 はそれを何 と引 き換 えに手にいれているのであろ うか。以上の分析が示す、「・日本の労働者間の厳 し い競争、会社への強い紐帯、 そ して上司の主観的 評価-の依存」がその代償 である。 われわれは、 かか る否定的要 因を考慮にいれ るこ とな く、 日本 的経営 を評価す ることはで きない と ド-ゼ らは断 言す る (143)

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)

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このように ド-ゼ らの 日本的経営に対す る評価 は否定的である。われわれは次に、 日本の企業 シ ステムを、硬直 したフォーデ ィズムに代 わるフレ クシブル ・システムであると積極 的に評価 し、 ド

(5)

京谷栄二 ホ ス ト ・7 オーデ ィズム段 階の労働過程論 争 -ゼ らの研究 を厳 しく批判す る、ケニー とフロ )) デの分析 を検討す る。 第

2

章 ケニー とフロリダの 「フジツーイズム」 ケニー とフロ リダは、 日本の企業におけ る生産 過程 を構成す る社会組織は、従来の欧米におけ る フォーデ ィズムの段階 を越 えてポス ト・フォーデ ィズムの段階に到達 した と主張す る。「ポス ト フ ォーディズムの生産 は、フォーディズムにおけ る 職務の細分化、職能の専 門化、機械化、そ して組 立 ラインの原理 をチーム作業制、 ジョブ ・ローテ ィション、 ラーニング ・バ イ ・ドゥイング、柔軟 な生産、 そ して統合 された生産複合体 に もとづ く 生産 の社会組織に置 き換 える

」(Kenney

&

Flor -ida1988:122, (274))(8)彼 らに よれば、かか る 日 本企業のフレクシブル・システムこそ、脱工業化 -情報化 した現代資本主義 に最 もふ さわ しい生産 シ ステムであ り、それゆえに彼 らはこの システムに 日本の代表的な情報企業の名 を取 り 「フジツー イ ズム」 と名付け る。 「フジツー イズム」は以下の三つの要素か ら構 成 され る。 (D 職場 におけ る柔軟な職務の編成 「作業組織 は 自主管理 チー ムに もとづ いて い る。」 そこでは、作業者の各作業-の割振 りは固定 的ではな く、作業の繁忙等に応 じて柔軟に決定 さ れ る。作業集団は、品質管理部 門にかわって、 日 常の品質管理や作業 ミスの発見、その原因の改善、 機械の保全等 を行 う。 またラインは、一つの製品 ばか りでな く、他 の製品を容易に流す こ とがで き るように柔軟に設計 されている。 そ して、 これ ら は多数の職務 をこなす能力 をもった多能工的労働 者によってこそ可能である。「多能工 はこの戦略が 成功す るためには絶対に不可欠である。」 さらにかか る職場 におけ る生産の柔軟 な編成 は、 労働者に とって も良好 な意味 をもつ。「チーム組織 と労働者の介入 を増大す ることは、生産性 を上げ るばか りでな く、 フォーディズムの もとでの高率 のサボター ジュ と欠勤に帰結す る労働疎外の側面 を削減す る。

「労働者はか くして生産過程-の視 野 を広げ、多面的にな り、そ して生産活動(indus -trialenterprise)によ り完全 に統合 され る

」 (以 上 132-3,(283-5)) 85 ② 知識 と情報 と意思決定の柔軟 なシステム ー 「ラーニング ・バ イ ・ドゥイング」-一般の作業者ばか りでな く、経営幹部の職務 ま でが、職場のみならず部 門の境界 をも越えてロー ティションされ るこ とをとお して、様々な仕事に 対す る知識が学習 され集積 されて行 くと同時に、 企業内部 におけ る情報の円滑な流れが作 り出され る。すなわち、「ラーニング ・バ イ ・ドゥイング」 (小池和夫) とい う日本企業の生産 システムの特 徴がこれ を実現 している

「ラーニ ング ・バイ ・ド ウイングは極端に伝統的な専門化 と徹底的に隔離 された情報の流れ とい う特徴 をもつ フォーディズ ムの企業組織 と鮮やかな対照 を成す。」 日本企業においては情報の流れが部 門を越えて 円滑だ とい うだけでな く、一方向に硬直せずに、 組織の縦横に相互的であ り、 また情報は一部に遍 在せずに平等に分与 され る。す なわち、看板方式 にみ られ る諸部 門間相互の情報のや り取 りは、フ ォーデ ィズムの トノブ ・ダウン式の調整 を、関連 す る作業集団間相互の調節に置 き換 える。経営者 は提案制度等によって、職場か ら湧 き出る情報 を 収集す ることがで きる。社 内報 などによって、全 従業員が平等に企業内の情報 に接す ることができ る。 さらに経営幹部の ロー ティン ョンは、部 門間、 ラインとスタッフ、経営者 と労働者の間の境界を 不明瞭にす る。 日本企業におけ る意思決定過程 は関連す る人々 の間の合意 をうま く調達す るシステムをもつ。計 画は経営の どの レヴェルか らで も発案 され展開さ れ ると同時に、それは関係す る部局の同意、「根回 し」 を必要 とす る。 この合意形成過程が情報の全 体への浸透 を確実にす ると共に、 その計画の決定 -の無関心が後々生みだすか もしれない諸困難 を 未然に防止す る。 他方雇用制度の面か らみ ると、終身雇用 と低い 労働移動率が、企業内におけ るかか る情報の流れ と蓄積が外部に漏れ出ることを防いでお り、 また 企業業績に見合 って支給 され るボーナス等の報酬 システム もこの防止に寄与 している。 (以上 133 -5,(285-7)) (卦 準市場、準統合関係 で結ばれた企業間ネ ッ ト ワー クージャス ト・イン ・タイム生産複合体 一 日本の企業間の関係 と構造 は、 トヨタに典型的

(6)

86 長野大学紀要 第13巻 第2・3号合併号 1991 に見 られ るように、 巨大企業 を中核 に して、一次 下請けの大規模 な企業か ら、二次下請け、 さらに 小規模 な下請け企業 まで多層的な企業か らなる生 産複合体 を構成 している。 この生産複合体 におけ るジャス ト イン ・タイム (

JIT)

・システムの 目的は、「労働 の超搾取によってではな く、技術的 有効性や設備の稼働性 を高め、製品のスクラップ や手直 しを最小限に とどめ、在庫 を減 らし、そ し て品質 を高め ることによって生産性 を増大 させ る ことにある

」 さらに重要なことは、この生産複合 体 は 「知識の分与 とイノヴェイシ ョンのための補 足的な回路」をつ くりだ し、「情報の多方向的な流 れ」 を特徴 とす る点である。すなわち、困難に対 処す るための援助、それを解決す るための人員の 派遣、新規計画への下請け企業技術者の参加、企 業 を越 えた従業員の移動等が行 われ、その結果ネ ッ トワー クの中の企業は情報 を分与 し、それが新 技術の速やかな普及 を確実にす る。 またここで強調 され る大企業 と中小企業 との関 係は、親企業が下請け企業 とその労働者 を収奪す る 「二重構造」 としての関係 ではない。下請け企 業は複数の企業 と取 り引きす る、親企業に対 して 独立性 を確保 した企業であ り、親企業 もまた、下 請け企業 との安定 した長期的な関係 を望むゆえに、 負担 を一方的に押 し付けるのではな く、 リスクを 分与す る(9)0 しか るに

「J

IT

複合体 はフォーディズムの大 企業におけ る単純 な垂直的統合 を準市場的、準統 合的な関係のネ ッ トワー クによって置 き換える

以上三点において分析 された 日本的生産の組織 的文脈 こそが 日本企業の成功 を説明 しうるのであ り、K. ド-ゼ らの 「超搾取仮説」が主張す るよ うに、労働 コス トや搾取の相対的水準がそれ を説 明 しうるのではない。 さらに重要なことは、 これ らの組織的特徴が欧米のフォーディズム とは異な る、戦後 日本の社会的、経済的状況の中で形成 さ れた点である。すなわち、戦後労働運動の高揚の 結果、企業別組合、終身雇用、「資本 と労働の高度 の協調」 とい う日本的労使関係のシステムが形成 され、そのなかで 日本の企業はフォーデ ィズム的 大 量生産 の硬 直 した特徴 を克服 し得 たの で あ る(10)0 したがって、「日本的労働の社会,組織はフォーデ ー 34-イズムのよ りよい、 よ りす ぐれた単 なるヴァー ジ ョンではな く、それはフォーディズム とはまった く異なるオー タナティヴなのである

」 (以上

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)) (ll) またそれゆえに彼 らは、 日本企業のポス ト・フ ォー ド主義生産 システムは、 日本 にのみ固有の も のではな く、他国へ も移植 しうるものであると断 言す る。 それを証明す る確 たる証拠が

、1

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年以 来アメ リカに進出 した 日本の 自動車企業が経営す る、NUMM I等の工場の成功 である。他方 これ らの工場において、労働組合 との摩擦、年齢差別 に対す る訴訟、セ クシュアル ・- ラスメン ト、過 度 な労働等の深刻 な問題が起 きているに も関わ ら ず、彼 らによればそれ らは副次的な問題 で しかな い。「これ らの深刻 な問題 に も関わ らず、- ポス ト・フォー ド主義の生産配置は 日本の外で成功裡 に実現 され うる

このように 日本的生産 システムの特徴は、先進 資本主義の一般性に即 して把握 され る。「ポス ト・ フォー ド主義生産の社会組織は、 日本的文脈に固 有だ とい うのではな く、先進資本主義の状況 を乗 り越 える作業組織、産業構造、そ して労働 関係の 劇的 な変化 を引 き起 こし始めているように思われ る。」 (以上

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さらに彼 らはレギュラシオン理論 の位相 におい て、 日本の社会構造のなかにフォーディズムにか わる新たな 「調整様式」の誕生 を推察す る。 「この 政治的調整様式の主要 な輪郭 は、終 身雇用に もと づ く国内需要の構造 と多様 な形態の消費の登場 と い う日本の政治経済の二つの基本的な側面によっ て構成 され る。」第一の側面 は まず終 身雇用が安 定 した需要 を創出す ること。 そ して 日本の賃金決 定 システムにおいては、賃金が企業の業績 に応 じ て変動す るし、 また企業別組合主義 は労働組合 に 穏健 な要求 を強制す ることである。第二の側面は、 まずフォーディズムにおけ る消費 とは異 な り、「日 本の消費は多様で柔軟である」 こと。次に、公共 お よび民間の資金が、情報化社会の必要 に応 じた、 光 ファイバー、ケーブル・ヴィジョン、「テレ トピ ア」等の情報 インフラス トラ クチュアの整備に投 資 されていること。 そして 「教育への巨大 な社会 的投資が、 これか らの生産形態に必要 な高度 な熟 練労働力 を創造 している」 こ とであ る(12)0 (以上

(7)

京 谷栄二 ホ 71ト ・フォー デ ィズムl:貨階の労働過程論争 145-7,(297-9)) 以上整理 したように、ケニー とフロ リダが現代 日本の生産過程 を捉 える視角 は、労働過程か ら企 業組織、企業間の関係、労使関係、 さらに社会全 体 の調整様式に まで及ぶ、 きわめて広 い ものであ る。われわれは今、彼 らの広範を分析 を、実証的 なデー タに もとづ き全面的に批判す る力 を持 たな い。本稿 では、既述(丑で焦点 を当て られた、 日本 の企業の職場におけ る労働過程の有 りようと特質 について、特 に職場集団 と小集団活動の機能の問 題 に注 目して、彼 らの分析 を批判 し、加 えて、 日 本的労働過程 を支 える労使関係の認識に関す る彼 らの重大 な誤謬 を指摘す る。 さて、かか るケニー らの研究に対 して、季刊 『窓』 誌上 において加藤哲郎 と

R.

スティー ヴ ンが厳 し い批判の矢 を放 った。 われわれ独 自な分析の叙述 への橋渡 しとして、次章では季刊 『窓』において 展開 された 「日本的経営」 をめ ぐる国際的な論争 を検討す る。 第

3

章 加 藤 / ステ ィー ヴ ン対 ケ ニー/ フ ロ リダの論争 現代 日本 資本主義 の社会組織 の なか に、 ポ ス ト ・フォーディ ズム段階のフレクシブル ・システ ムのモデル を兄いだそ うとす るケニー とフロ ))ダ の見解 を厳 しく批判す る共同報告が、1989年8月 に開催 されたニュー ジー ラン ド・アジア学会第八 回大会において、加藤哲郎 と

R.

スティーブンに よ って発表 された。 これ を契機 にその後両者の問で 書簡が交換 され、 さらに加藤の手によってこの国 際的な論争は季刊 『窓』誌上 において展開 され る こ とになった(13)。加藤 とスティーブンに よるケニ ー とフロ リダに対す る批判の要点 を整理す ること か ら両者の論争の検討 を始め よう。 加藤 らは、 日本の企業の終身雇用保障が神話に す ぎないことを指摘す る。 まず終身雇用は一部 の 大企業労働者、せ いぜ い三分 の一の労働者に適用 されているにす ぎない。終 身雇用の もとにおけ る 年功賃金は、そ もそ も 「生活で きる水準」に達 し ない、本質的に 「差 し引かれた賃金」 としての初 任給 を出発点 としてい る。 さらに年功賃金体系が もた らす人件費の負担の増大 を回避す るために、 企業は早期退職勧奨制度 などによって高齢者の雇 87 用 を弾力化 している。終身雇用 とは 「職種の保障 ではな く、- 生計の保 障の約 束」であ るにす ぎ ず、職種 ごとに労働力供給 を規制す る欧米の労働 組合ほ どには、 日本の労働組合は雇用 を保障 しえ ない。事実、最近の鉄鋼、アル ミ、造船産業等に おいては雇用不安 が拡大 した (『窓』第4号、239 -241)(14)

0

第二に、年功給、基本給、能力給による日本の 賃金体系 を積極的に評価す るケニー らに対 して、 加藤 らは、職種 ではな く属 人的な賃金体系は経営 が労働者 を差異化す ることをとお して競争 を組織 化す る戦略であると主張す る。 さらに重要 なのは、 正社長 と非正規社月 (パー ト、臨時等)、男性 と女 性、大企業 と中小企業労働者 との間の賃金格差が よ り広範 な競争 を組織化す るとい う構造である。 ケニー らの論文においては、 この格差に関す る言 及が唆味である。彼 らは 「組織 された競争 をつ う じての分断支配 とい う日本資本の本質的戦略 を、 まった く軽視 している」 (同上、245)(15)0 第三に、前章で検討 したように

∫IT

システ ムを企業間のフレクシブルな 「準市場、準統合関 係」であると規定す る、 日本の大企業 と中小企業 の関係に対す るケニー らの分析 に対 して、加藤 ら は、 それは大企業による下請け企業、 とくにその 労働者への負担の転嫁の構造であると主張す る。 確かに大企業 と中小企業の格差に対す るケニー ら の認識の不足は問題 であ り、伊藤誠 も指摘す るよ うに、企業規模 間の賃金格差が縮小 しているとい う彼 らの叙述は、統計上明 らかに誤 りである

(

『窓』 第

3

号、266-8)。 しか しかか る事実の指摘に対 し ておそ らくケニー らはこう答弁す るであろう。全 体 としては格差は拡大 しているか もしれない、 し か しフレクシブル ・システム を有す る優良な中小 企業 は高い競争力 をもち、大企業 との賃金格差 を 縮小 させ ていると (例 えば

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におけ る長野県 坂城町の中小企業 に関す る分析 を参照 されたい)0 すなわち重要 なのは、「準市場、準統合関係の企業 間ネ ッ トワー ク」、あるいはそれ と通底す る

D.

フ リー ドマ ンの 「- イブ リッ ド・エ コノミー ・モデ ル」 とい う、彼 らの 日本の中小企業 に対す る分析 枠組 その もの を、 日本の中小企業の実証的な分析

(8)

8

8

長野大学紀要 第13巻 第2 ・3号合併号 1991 に もとづ いて批判す るこ とである(16)0 さらに、加藤 らは残業や過労死等の 日本の企業 の過酷 な労働実態 を、ケニー らのオプティ ミステ ィックな認識に対峠する

(

『窓』第

2

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1

7

-

8

)

0 最後に、かか る日本企業の労働過程 を支 える労 使関係の特質に関 して、労使の力関係のバ ランス の上に築かれたポス ト・フォーディズムの労使関 係 とい うケニー らの認識 を批判す る。加藤 らは、 日本の労使関係においては

1

9

4

0

年代後半か ら

5

0

年代初めの戦闘的労働運動がこうむった敗北のゆ えに、敗戦直後の獲得物が失われ」、その結果今 日 の労使関係は

、1

9

5

0

年代に勃興 した 「戦前の状態 によ り近い」 システムである、 と規定す る

(

『窓』 第

4

、2

3

ト3

)

0 か くして加藤 らは次の ように結論す る。「われわ れに とって 日本モデルを本質的に特徴づけ るもの は、仕事の不安定性 と労働者間の組織 された競争」 である

(

F窓』第

3

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5

3

)

(17

)

O

「日本的方法に向 か う傾 向は、明 らかに反動的展開であ り、社会主 義 に近接 した資本主義の よ り高度な段階への前進 ではな く、極度の労働組合の弱体化 と労働者の分 裂増大の脈絡 でのみ可能 となる、社会的統制の よ りプ リミティヴな諸形態-の退行 である」 (F窓』 第

4

、2

5

4

.

アンダーラインは京谷)

0

「この展開 は、労働者が よ り強力にな り、 よ り進歩的な産業 時代への転換 を強いることができたために起 こっ たのではな く、労働者が弱体化 し、階級支配の よ りプ リミテイヴで搾取甲をシステム を堪 え忍ばな ければならないがゆえに、生 じているである」(同 上

、2

5

5.

アンダー ラインは京谷)。したが って 日本 資本主義は 「ポス ト・フォー ド主義 どころか本質 的にはプ レ ・フォー ド主義、ない しウル トラ ・フ ォー ド主義」である (同上

、2

4

8

)

0

以上の加藤 らの分析に、 日本的労使関係 と労働 過程 に対す る批判意識を彼 らと共有 しつつ検討 を 加 えたい。 確かに、加藤 らの述べ るとお り、 日本の労働条 件は先進国のなかでは最 も第三世界に近似 してい る (同上

、2

5

4

)

。 したが ってこの側面か ら現代 日 本資本主義の システムを 「プ リミティヴ」とか 「古 典的」 とか形容す ることは可能であろう。 しか し 肝心なのは、 なぜ、いかに してこのプ リミティヴ で劣悪 な労働条件が、現代 日本の労働過程 におい - 36 -て維持 ・再生産 されているのか、 その メカニズム をこそ解 明す ることである。 この課題 に対 して、 加藤 らの「古典的」、「プ リミテイヴ」、あるいは「戦 前の状態によ り近似 した」支配の形態 とい う規定 が有効であるとは思 えない。 まず 「戦前に近い状 態-の後退」という表現は、「古典的」、「プ リミテ イヴ」 とい う用語が、あたか も戦前の支配形態に 類似 した ものをさすかのような印象 を与 える。仮 に加藤がその用語にかか る意味 を付与 していると す るならば、戦前の法的な無権利状態 と治安維持 法による弾圧の もとでのあか らさまな抑圧的支配 と、労働者階級の労働基本権 と政治的権利が法律 上承認 された戦後段階、 とくに実質賃金 と消費生 活水準が未曽有 に上昇 した高度経済成長期以降の 現段階における支配の形態 を近似 させ ることにな って しまう。われわれは到底かか る見解 に首肯す ることはで きない。象徴的に述べ るならば、山田 盛太郎が総括 した、半封建的土地所有に規定 され た農民の貧 困と、 イン ド以下的低賃金 と半奴隷的 無権利状態に規定 された都市労働者の貧困 との、 ミゼ ラブルな相補関係の基礎上に構築 された戦前 日本資本主義の支配構造は、戦後、 とくに高度経 済成長 を経過 した後の現代 日本資本主義の支配構 造の範噂 とな りえないのは 自明である(18)0 また加藤 らは

QC

活動に関 して、 それが労働者 間の競争 を背景 としているのだか ら

(

QC

への参 加の応諾 と程度は上 司による評価 の対象である)、

QC

活動は 「資本がその意志 を労働 にお しつけ る、 大変古い トリックなのである」 と規定す る

(

F窓』 第

4

、2

4

2

)

。確かに 日本の労働者の

QC

への積 極的な関与が競争 を組織化す るメカニズム をとお して実現 されているのは事実 である。 しか し

、Q

C活動が労働者に受容 されている原因をそれのみ に求め るのは誤 りである。次章 で分析す るように、

QC

活動は、制限された ものではあ るにせ よ、労 働者か らの 「自主性」 を調達す るこ とをとお して 成立 している。 この点に着 目す るな らば

、QC

活 動 を 「大変古い トリック」であると規定す るのは 適切 ではない(それを、「労働者の抵抗 とい う古典 的な問題の解決」にす ぎない と見なす ド-ゼ らの 見解 も同様 にわれわれは批判す る)0 日本的労働過程 が競争の組織化 によって特徴付 け られ るとい うのは重要 な事実 なのだが、 しか し

(9)

東 谷栄 二 ホ 71ト ・フ ォー デ ィズム段 階 の労働 過程 論 串 競争 をこの ように資本 に よる支配の 「古 い トリッ ク」 と規定す るこ とが、現代 日本 の支配構造の分 析 に とって有意義 であ る とは思 えない。 なぜ な ら ば、現代 日本 の企業 内におけ る競争の構造 は、明 らかに高度経済成長期以降に形成 された要 因の上 に成立 してい る。競争 を組織化す る根本的 メカニ ズムたる 「能 力主義管理」の展開 しか り、労働過 程 外部か ら競争 を促進す る、消費生活水準の上昇 に伴 う 「私生活主義」意識の蔓延 もまた しか りで あ る。す なわち、 日本的労働過程 におけ る競争 を 組織す る構造 は、 きわめて現代 日本的な ものであ る (かか る現代 日本 におけ る労働 者間競争の分析 に関 しては、注15、18に記 した京谷1983、1986等 を参照 され たい)0 加藤 らは、上述 の引用文か ら判 断すれば、支配 の 「古典 的」 ない しは 「プ リミティヴ」 な形態 を 「極度 の労働 組 合 の弱体 化 と労働 者 間の分 裂 増 大」 に もとづ く支配 であると規定 してい る。確か に現代 日本 資本主義 におけ る支配 と従属 は、 その 帰結 と形態において、 その よ うな「プ リミテイヴ」 な姿 をとる。 しか しそのプ リミテ ィヴな姿態 を維 持 ・再生産す る構造 の本質 はす ぐれて現代 日本的 な契機 であ るに他 な らない。 したが って加藤 らの 「古典 的」 もし くは 「プ リミテイヴ」 とい う支配 の規定 は、かか る現代 日本 に独 自な支配の諸契機 の よ り深い分析 を、やや もす る と妨 げ るこ とにな りかねない。 加藤/ ステ ィー ヴン とケニー/ フロ リダの論争 の焦点は21世紀初頭の各国の労使 関係 の趨勢せ 決 しかねない重大 な問題 であ るがゆ えに、 それが公 開 され展開 され たのは きわめて大 きな意味 を持つo この点に関 し加藤 の努 力に敬意 を表す る ものであ る。 しか し、加藤 らの批判が、やや もす る と、ケ ニー らの見解 に対 して、 それ と相 反す る解釈 を提 示す るのみで、 それ を立証す るに十分 な実証的根 拠 を示 しえていない傾 向があ る。例 えば、 フ レク シブルな 「ラーニ ング ・バ イ ・ドゥ- イング

」が、

フォーデ ィズムの極端 な専 門化 と細分化 とは対照 的 な多能工化 を実 現 してい るとい うケニー らの認 識 に対 して、加藤 らは 「新 しい産業 に とって必要 とされ る再技能化 は、つねに技能陳腐化過程 に よ り影響 され る労働 者 よ りも、 よ り狭 い範囲の労働 者 にのみ、適用 されが ちであ る」 と反論 している 89 が、 しか しこの主張は一般論 として述べ られてい るに とどま l)、 そこには何 の論拠 もあげ られてい ない (『窓』第4号、238)。かか る実証的なデー タ の欠如は、「天文学的な家賃、社会保 障、教育費、 交通費について、 (ケニー らは)なに もわか ってい ない」 とい う加藤 らの指摘 に対 して (同上、249. ()内京谷)、 ケニー らが、「加藤 ニステ ィー ヴ ン が、 日本 におけ るひ どい住宅事情 を論 じる際、彼 らは、ア メ リカにおけ るマ イノ リティの窮状 をも また、考慮 にいれ るべ きだったろ う」 (『窓』第2 号、211-2)とや り返すいった具合 に、両者の感情 的 な応酬 に陥 って しまい、冷徹 で理性的な論争の 進行 を妨 げ る障害 となった。この欠点 を

S.

ウッ ド は適切 に コメン トしてい る。 「両論争当事者 とも、 よ く考 え抜かれた系統的 な社会科学研究に もとづ いた、十分 な経験的資料 を提示 していないのであ る

(『窓』第5号、163)

0

さて、 それではケニー とフロ リダは、かか る論 争 の展開のなかで、 日本 の労働過程 のネガティヴ な実態 を提示す る加藤 らの批判 をどう受 け止めた のだろ うか。彼 らは、「われわれの見解 では、日本 資本主義 は、 日本 の労働 者のたんなる重労働 (こ れは明 らかにその とお りであるが) によって成功 したばか りでな く、人間労働 力の物質的出力 とと もに知的能力 を引 き出す非常 に洗練 されたメカニ ズム を発展 させ たこ とに よって も成功 している」、 と前章 で検討 した基本的スタン スを繰 り返 し主張 す る。そ して、「た しかに、働 きす ぎは、ひ とつの 問題 ではあ る」 と、ネガティヴな実態 を認めなが らも、「しか しなが ら、 われわれは、働 きす ぎは、 われわれのフジツー主義 モデルに固有の ものでは ない、 と論 じた」、 と断言す る

(

『窓』第2号、211 -2)0 そ うで は ない !日本 的労働 過程 の フ レ クシブ ル ・システムは、現実 においては、過酷 な労働実 態 と切 り離 し難 く、 まさに、前者 をとお してこそ 後者が実現 されて行 くとい う関係 と構造において 存在 してい るのだ。次章 でわれわれは、過酷 な労 働 が 日本的労働過程 の フレ クシヴル ・システムに とっていかに分離 し難 い固有の問題 であるのか、 この関係 と構造 を、職場集 団 と小集団活動の機能 の分析 を とお して解 明 したい。 -

(10)

37-90 庄野大学紀要 第13巻 第2・3号合併号 1991 第

4

章 支配 の システム と しての職 場集 団 と 小 集 団活動 加藤 とステイ-ヴンが規定す るように 日本の企 業の支配形態はプ リミティヴで古典的なものなの だろ うか。 また他方ケニー とフロ リダのように、 労働過程の過酷 な実態か らきりはな して、「フジツ ー イズム」 とい う日本の企業のフレクシブル ・シ ステムを抽出す ることが妥当なのだろ うか。われ われは本章において、職場集団が有す る (準) 自 律的な意思決定過程 と作業者の 「自主性」 を組織 す る小集団活動の機能の分析 をとお して、フレク シヴル ・システム と呼ばれ る要素が、現実におい ては、支配のシステム として機能 し、労働過程 の 過酷な特徴 を再生産す る条件になっているとい う、 日本的労働過程の独 自な構造 を解明 したい。 1.職場集団の (準)自律性 とは何か わが国の企業におけ る労働過程の特質は、 (準) 自律的な職場集団によって仕事の規制が行 われて いる点であ るという議論が、小池和男 をは じめ と して、稲上毅や 仁 田道夫 に よって主張 され て き た(19)。小池 らは、経営管理の末端機構の担い手で あるばか りではな く、他方同時に、経営に対 して 職場の利害 と意向を代弁す る性格 をもった現場職 制 を核 として、職場集団が事実上の仕事の規制 を 行 っていると述べ る。「わが国の特徴は、組合の介 入 していない部面で、それ を補 う職場の半ば 自律 的な規制が認め られ ることであろう。労働組合の 介入がない部面では、経営の介入 もまた乏 しい。 職長が きめているが、職場の慣行 も働 いている。 職場の平等主義的配置は、その-例証 であろ う

(小池 1977:218) 日本の企業においては

、「

『自 律的集 団

一日分 たちの仕事 のや り方や わ りふ り は自分 たちで決め る-こそ

F参加』の最 も高度の 段階 としば しば考 えられている

」 (同上、205)だ が果た して、かか る職場集団による日常的な仕事 の運営に関す る(準)自律的な意思決定は、労働過 程に対す る実質的な規制力 を労働者に保障す るも のなのであろうか。あるいはかか る形態におけ る 「参加」は、労働者にその規制力 を付与す る産業 民主制の一つのあ り方であると解釈 しうるのだろ うか。 労働 に対す る実質 をもった規制 であるか らには、 - 38-その質 と量、すなわち労働密度 と労働時間 を労働 者 自身が規制 しうるものでなければな らない。職 場の労働過程においてそれ らを直接 に規定す る最 も重要 なファクターは、職場の要月数 と生産量 を 設定す る生産計画である。 しか しこの労働の質 と 量 を根本的に規定す る条件に対 しては、職場集団 の (準)自律的意思決定過程 は無 力であ る。 (翠)自 律的職場集団の存在 を主張す る研究 自身が この限 界 を吐露す る。小池によれば、「一般 に生産量その ものに対す る労働組合 あるいは作業集団の発言は 強 くない

」 (同上、208)「生産計画についての発 言は、右 にみたように決 して強 くはない

」(同上) また和上 は、 自律性 といって も織烈 な市場競争に さらされている企業においては当然に限度がある と前提 を置 き、「具体的にいえば、要員、品質、納 期、それに安全確保 を大 きな与件 とす るか ぎリに 旦 ヒエ、仕事の進め方、 こな し方などについて然 るべ き自律性 (応援 と職場 内配置、残業 ・休 日の とり方なども含めた創意工夫の余地)がみ とめ ら れている」、 と述べている (稲上 1981:359、アン ダー ラインは京谷)0 他方仁 田は、鉄鋼業におけ る自主管理活動の事 例研究 をとお して次の ように主張す る。 自主管理 活動のなかには、経営が要求す る目的に対 して、 いわば仕事 をや り安 くして、作業遂行上のメ リッ トを追求 しようとす る職場作業者集団の側か らの 「変成作用」が機能 し、これ をとお して職場集団 が仕事に対す る事実上の規制 を行 っている、と(仁 田 1988、第 1章)。仁 田は職場集団の 自律性 に関 して、内部労働市場においては職制層が一般労働 者 とその出 自において連続 してお り、それゆえに 形成 され る職制層の一般労働者の利害代弁者 とし ての性格がその核 を成す と説明 している。 しか し これだけでは、経営管理か ら独立 した独 自な規範 をもった職場作業者集団の存在 を証明す る根拠 と しては不十分 である。 そ もそ も経営 か ら独立 した 対抗的労使関係の基盤 を欠いた現代 日本の労働過 程 において、経営管理か ら独立 した職場集団の 自 律性が存在す るとは考 えに くいのである。経営が 設定す る目的 と経営管理の機構 の枠 内で実施 され ている自主管理活動は、不可避的に労働諸条件の 悪化 を伴 う場合がある。筆者が以前に分析 した鉄 鋼業におけ る自主管理活動の事例 には、実質的な

(11)

宗谷栄二 ホ ス ト ・フ ォーデ ィズム段 階 の労働 過程論争 労働時間の延長や労働密度の強化、 さらに一部に は、要員の削減や作業の安全 と環境面での問題 を 惹起 した事例 もみ られた(20)。したがって仁 田の主 張す る職場集団による 「変成作用」が、労働 の質 と量 を規定す る労働過程の根本条件 を規制 しうる 力 を持つ ものであるとは考 えられない。 さらに仁 田は鉄鋼業におけ る労使協議制 を分析 して、「経営の行動 に実質的に影響す る相 当高い程 度の発言権が労働組合 によって行使 されていると 推定 され る」、 と結論 している(同上

、2

8

ト2

)

。 し か しこの言明に反 して、要員合理化 をめ ぐる労使 協議 を分析 した同書の第

2

章 では次の ように結論 されている。「こ うした安貞問題 をめ ぐる労使協議 の充実が、要員合理化 に対 して強い阻止的作用 を 及ぼ した とはいえない

」(同上

、1

6

1

)

す なわち労 働 の質 と量 を規定す る根本条件 たる要員に対 して、 労働組合 もまた実質的な規制力 を持 ちえていない のである。 以上のように 日本の企業の職場集団の (準)自律 的意思決定過程 は労働過程 の基本的条件 を規制す る力 を持 っていない。 それでは、それは一体何 を 規制 しているのだろ うか。小池 らの議論 を別様 に 解釈す ることをとお して職場集団の (準)自律性の 真実の機能 と意味 を解 明 しよう。 小池は労働組合の残業に対す る規制に関 して次 の ように述べている。「この ように、経営側がか な り一方的に必要 な労働量 をは じきだす。 それ をな ん人の労働者でこなすかは、いろいろあ りうる。 こ こに残 業 の規 制 が 重 要 とな る」 (小 池 1977:

2

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)

0

「生産量、工数、外注への発言は弱 く、せ い ぜ い残業の規制が行 われ るにす ぎない」 (同上、

2

0

9

)

。 ここに再 び、われわれは明瞭に既述の限界 を読み取 るこ とがで きる。職場全体 の仕事量 を基 本的に拘束す る生産計画 と要員計画に対 しては、 労働組合 も職場の (準)自律性 も規制力 を持 ち得 て いない。 それではこの限界 を前提条件 に発揮 され る職場集団の (準)自律性 とは何か。職場の (準)自 律性 は 「経営側がかな り一方的には じき出す」計 画 を大前提 として、 その大枠の中で、次の ような 職場 の労働過程 の 日常的な事柄 を処理す るレヴェ ルで発揮 され る。公平 な負担 を考慮 して職場の構 成員の間に残業 を分配す るとか、あるいは職場の 生産計画の完遂 を絶対条件 に した上で、個人の事 91 情 を考慮 して、一人一人の有給休暇の取得 を、職 場 で話 し合 って決定す ることなどにおいて。すな わち職場 の (準)自律性 とは、経営側がほぼ一方的 に強制す る生産計画の枠の中で、職場の諸々の具 体的かつ 日常的な状況 を考慮 して生産計画 をフレ タンブルに実行 して行 くとい うレベルにおいて発 揮 され るのである。職場の (準)自律性 とは、 まさ に 「準」 と冠す るにふ さわ しいかか る限定 を有す る。 したが ってそれ を仕事の「事実上の規制

」(

田 1988:73)と規定す るのは適切 ではない。それは 労働者による労働過程の規制 を現すのではない。 それは職場集団の (準)自律性 を媒介 とした、経営 による労働過程 の統制のフレクシブルなシステム を現すに他 ならない。 われわれはこのように 日本の企業における職場 集団の (準)自律性 を媒介 とす る作業の遂行 システ ム を、労働者による労働過程 の統制ではな く、経 営が労働過程 を統制す るシステムの一形態である と理解す る(21)。しか し生産計画が経営か らの一方 的な命令 によってではな く、職場集団の (準)自律 的な意思決定過程 をとお して実現 され るとい うこ のフレクシブルなシステムは、 きわめて重大 な機 能 を果たす。生産計画が本質的には経営が決定 し た ものであるに もかかわらず、その具体的かつ 日 常的な実行過程が職場集団の意思決定過程 とそこ におけ る合意 を媒介す ることによって、職場の労 働者に とっては、生産計画があたか も自分達 自身 の主体的な意思 と合意に もとづ いて決定 された も のであるかの ごとく、 したが って また同時に、そ の完遂に対 して 自ら自発的に責任 を負 うものであ るかのご とく意識 され る。職場集団の (準)自律性 を媒介 とす る労働過程 の統制は、かか る虚偽意識 の形成 をとお して、経営による労働過程 の統制に 対す る職場の労働者集団か らの 自発的な合意 を調 達す る。職場集団の (準)自律性 を妓介 とした、経 営による労働過程 の支配に対す る労働者か らの合 意の調達。 ここにわれわれは、他の先進国 とは比 重交にならない程、 日本の労働過程が長時間で濃密 な過酷 な ものであるに もかかわ らず、 それが労働 者に よって受容 され、維持 ・再生産 され るメカニ ズムの秘密 を兄いだす。か くして、 日本的労働過 程のフレクシブル ・システム とは、実は皮肉に も、 硬直化 した過酷な労働過程 を再生産す る支配のシ

(12)

92 長野大学紀要 第13巻 第2・3号合 併 号 1991 ステム として機能 しているのである(

2

2

)0

2.

小集団活動の機能 本稿 の第1章や第2章において も見たごとく、 欧米の研究者によるわが国の企業の労働過程の分 析 において、QCサー クルやZDサー クル等の小 集団 ・自主管理活動が、他の先進国には見 られな いわが国独 自な特質 として、注 目すべ き一つの焦 点になってい る。 ポス ト・プ レイザデーマ ンの労 働過程論争のなかで活躍 している

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は労働 者 の生産過程 に対 す る 「暗黙の熟練

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を生かす ことによってテイラー イ ズムの限界を打破す る 「生産管理手法の本質的に 新 しい形態である」と評価 している(23)0「QCと問 題解決に作業者 を巻 き込むことは、 ド-ゼたち も また述べ るよ うに、職場の知識 と専 門家の能力を 結び付け る試みである。 それゆえにそれはテイラ ー イズムの領域 を広げると同時に、その限界 を、 個々の作業者の知識 を生かす ことによって乗 り越 える試みで もある

」(S.Wood1987:19)確かに 小集団活動には労働者の潜在的な知的能力 を開拓 し発揮 させ る側面がある。筆者は鉄鋼業の 自主管 理活動 を分析 した論文において、小集団活動によ って労働者が 自らが担当す る生産工程 と機械設備 の原理や構造 に対す る知識 を深めてゆ く、活動 そ の ものに内在す る知的な側面 を指摘 した(24)。例 え ば、製造工程 における機械の動 きに強制 されて適 応 し、進行す るような他律的な労働 とは異な り、 小集団活動は作業改善の要点 と方法 を自分 自身で 考 え工夫 してゆ く、「自律的」 な、「自主性」 を発 揮 しうる労働 であるOだか らこそ、小集団活動が 実際には経営によって管理 され る活動であるに も 関わ らず、労働者のなかにはそれに対す る好意的 な意見 も存在す る。筆者が以前に参加 した電機産 業大手企業の労働調査 においては、「責任 を把握 で きるし、 目標 にチャレンジす る意欲が出て くる」、 「自分 たちがや っている感 じがす る」、「や るのが 好 きだ。今 までの仕事が刺激がないので、 こうい う集団的活動があると熱 くなれ る」等の積極的な 評価が見 られた(25)0 小集団活動 は労働者の 「自主性」 を発揮 させ る、 いわば 「アイデインティ実現」のチャンス として 機能 しているといえよう。だが しか し、小集団活 - 40-動が経営が労働者 を管理す る営為 の一環 として展 開 されている以上、そこには限界が存在せ ざるを 得 ない。以下の点は、 この活動が経営管理の一環 であるこ とを明確 に示す。小集団活動の組織系統 は経営の管理機構 と一体化 している. テーマの設 定が、歩留向上、稼働率 向上、 ノルマ向上、作業 時間短縮、納期短縮 など経営に とっての合理化の 目的に直結す る傾 向があ る。労働者 を小集団活動 に動員す るために、 キャッチフレー ズや スロー ガ ンの

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、発表大会の開催、報償制度 など様々な 施策が実施 されている。小集団活動への参加の程 度、活動における成果などが個 々の労働者に対す る人事考課の対象になっている。経営は小集団活 動による作業改善 によって巨額 の合理化効果 を取 得 している、等々である(26)。前項において職場集 団の (準)自律性が、経営が決定 した生産計画 を大 前提に、その枠 内で発揮 され るもので しかなか っ た と同様に、小集団活動におけ る労働者の 「自主 性」は、経営が設定 し、職制が指導す る、経営の 合理化 目的の枠内で、経営の管理機構 に従 って発 揮 され るもので しかない とい う限界 を有す る。 し たが って労働者の側か らは先の横板的な評価の対 極に、次のような否定的評価が与 えられ る。「職制 をとお して行 われ るので義務 的 になってい る」、 「会社か らテーマが出る名前だけの 自主管理活動 である」、「自分達 で決め られないことがある。上 司の評価がはいって くる。会社や課の方針があっ て くい違 う」、「参加が半強制的になることがある

等々である(27)。先に参照 した、 日本的経営におけ るQCを積極的に評価す る

S.

ウ ッ ドも、他方では 次の ようにQCの限界 を指摘す る。「そのような参 加型の計画は必ず しも偽善的な、 あるいは操作的 な ものである訳ではない。 しか しなが らそれ らは、 制限 された ものであ り、せ いぜ い労働者参加の部 分的に自律的な形態であるにす ぎない

」 (同上、 20) われわれはまず小集団活動におけ る 「自主性」 が、言葉本来の意味におけ るそれではな く、経営 の合理化 目的 と管理機構の枠内で発揮 され る制限 された 「自主性」であるにす ぎない とい う、その 限界 を確認 してお く。 だが しか し、その「自主性」 が制限された ものであるとはいえ、小集団活動に おいて労働者の 「自主性」の発揮 の余地が存在 し

(13)

宗谷栄 二 ホ ス ト ・7 ォ- デ イ ズム段 階 の労働過 程論 争 てい ることは、労働過程 におけ る経営の支配 を成 立 させ る上 では重要 な意味 を持つ。す なわち、内 容 において労働者 をまった く魅了す るところのな い機械強制進行的な、他律的な労働 とは異な り、 「自主性」の発揮の余地が確保 されている小集団 活動 は労働者の興味 を引 き付 け、いわば労働 にの め り込み、労働過程 に労働者が主体的に包摂 され る契機 として作動す る。 したが ってまた、小集団 活動 におけ る 「自主性」の発揮は同時に、労働者 が経営による労働過程 の支配に同意 を付与す る契 機 として機能す る。前項において、職場集団の (準) 自律性の発揮の余地が、経営による労働過程の支 配に対す る職場集団の合意 を調達 したの と同様 に、 ここでは小集団活動 におけ る 「自主性」の発揮の 余地が、経営による労働過程 の支配に対す る同意 を個 々の労働者か ら調達す る。か くして ここで も また、 日本的労働過程 を構成す るフレクシブルな ファクターは、同時に、長時間で濃密 な過酷 な労 働過程 を維持 ・再生産す る支配のシステム として 機能す るのである(28)0 このように小集団活動は、労働者に 「自主性」 の発揮のチャンスを付与す ることに よって、経営 による労働過程 の支配 を成立 させ る重要 な条件 と して機能 している。 しか るにそれは、労働者か ら 労働 におけ る構想(conception)の要素 を可能 な限 り剥奪 し、労働者 を実行 (execution)の要素 にの み制 限 しようとす るテイラー ・システムや フォー ド・システム とは異なる支配の システムである。 小集団活動が有す る独 自な支配のシステム として の意味 を熟慮す るな らば、第

1

章で検討 した ド-ゼ らのこの点に関す る分析 は批判 されねばな らな い。労働者の知識 を活用すべ く組織 されている、 小集団活動に見 られ る日本の企業の独 自な労働過 程編成の システムを、「生産に関す る知識 を合理化 へ奉仕 させ る事 に対す る労働者の抵抗 とい う古典 的な問題 に対す る解決」であると規定す る彼 らの 分析 においては、支配のシステム として機能す る その独 自な意味は捨象 されて しまう。 また同様 に 現代 日本の企業におけ る支配体制 を 「階級支配の よ りプ リミテ ィヴで搾取的なシステム」、あるいは 「戟前の状態に よ り近似 した もの」 とみなす加藤 らの分析 において も、職場集団の (準)自律性 と小 集団活動 におけ る制 限された 「自主性」が、経営 93 による労働過程 の支配のシステム として貢献す る その重要な機能は捨象 されて しまうのである。 そ してわれわれの分析が示す ように、 日本的労 働過程 のフレクシブル ・システムは、同時に、経 営が労働過程 を支配 し、過酷な労働実態 を維持 ・ 再生産す るシステム として機能 しているのである か ら、 ケニー らの ように操作的に両者 を切 り離 し、 前者のフレクシブル ・システム をして、先進資本 主義の危機 を乗 り越 えるポス ト・フォーディズム の労働組織の普遍的モデルであるかの ごとく主張 す る分析の誤謬 もまた自明である。両者が引 き維 し難い統体 として現代 日本の労働過程の現実 を構 成 している以上、ケニー らの操作は、比愉すれば、 ベニスの商人におけ る 「シャイロックの肉」の愚 を犯す ことになろ う(29)0 第

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章 「安定 的 な労使 関係 」 の 内実 ケニー とフロ 1)ダは企業内労働組合、終身雇用 による長期の雇用保障、そして年功給、基本給、 能力給か らなる独 自な賃金体系 とい う戦後 日本の 労使関係 を構成す る三要素は、敗戟直後の労使の 抗争のなかか ら形成 された と分析 している。すな わち、産別会議 に結集 した戦闘的労働組合 による 敗戦後の経済混乱のなかで労働者大衆の生活 を防 衛す るための要求 と運動の展開、他方1940年代終 わ りか ら

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年代初めにかけて戟関的労働組合の勢 力 を押 え込 もうとした経営側の攻勢、そ して経営 側 もまた、労働者の要求に敵対せずに譲歩 したこ と。かか る敗戦直後の労使関係の展開の結果、戦 後 日本の労使関係 を構成す る三要素が形成 された と彼 らは論 じてい る (Kenney

&

Florida1988: 126-9,(278-281))。戦後 日本の労使関係 を規定す るそれ らの重要 な要素が、敗戦直後の相次 ぐ労働 組合の結成か ら、産別会議-の結集、1946年の10 月闘争か ら47年の2.1ゼネス ト-の高揚、そ して それ以後の

GHQ

の 占領政策の転換か ら、49年か ら

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年にかけての経営側 の攻勢 と組合活動家のパ ー ジに まで至 る、敗戦直後の一連の階級闘争の展 開のなかで形成 されたことは事実 である。だが し か しこの時期 におけ る労使の権力抗争 を現時点に まで も敷延 して、 ポス ト・フォーデ ィズム 日本に おいては労使 の権力関係の括抗の上 に安定的な労 使関係が築かれている、 と主張す る彼 らの認識は、 -

参照

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