研究紀要
第46号
●
昭和49年3月
碑銘幻想
第二十六回日蓮宗教学研究大会紀要⋮⋮⋮⋮⋮
棲神第四十六号目次
みのぶ山論⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:::⋮⋮:⋮・室住一妙?︶
日蓮聖人にみる人間観︵第四輯︶⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮町田是正︵“︶
l熾悔することの意義を求めてl
身延山初期における日蓮聖人..⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮・上田本昌︵調︶
l特に建治二年を中心として1
日蓮聖人の方位観⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮⋮・⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮宮崎海優︵”︶
日蓮聖人佐渡流罪の法制史的考察口⋮・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮:.⋮:⋮中里悠光︵〃︶
諸宗並に幕府批判身延山支院の成立と展開.:.⋮・⋮・⋮:⋮・⋮.::⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮林是晋︵閲︶
﹁仏教時間論﹂雑考⋮。:⋮⋮:⋮・・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮︾⋮・里見泰穏︵忽
従地涌出の宝塔を求めて︵その一、アフガニスタンの仏塔︶⋮・⋮⋮・⋮⋮・⋮高橋堯昭︵轡
カールリ・カーンヘリ見学報告⋮⋮⋮⋮.
エドワーズ・コーンズによる釈尊伝と
:⋮::大森孝励︶
﹁仏教聖典﹂との表現方法の比較について
〃棲神″総目録︵創刊号大正二年’第妬号昭和蝸年まで︶ 学会葉報︹昭和四十八年度︺⋮⋮:⋮・⋮⋮。:⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮.恥︶後記
●● 申●●.⋮望月海淑
11
●●●●●■■●卓●●。●● ●わecG●●● へへ I30"8 ーー方2キロ︵東経一三八度北緯三五度︶あるかなしかの小山だが、世界第一に恵まれた地塊だろうか?そんないい草 に値いするかどうかと思へばこそ﹁みのぶ山論﹂と題してぶた・我有大乗か井底の痴雄かも知れないが、ともかく七 ○○年来、﹁末法唱導御高祖日蓮大菩薩﹂と、こう唱呼してきた習慣を承とめて、しばらくおゑのがししていただこ う。そのイミが人間修養団の根拠地として但だの一ではなく唯一、他にかけがいのない聖地としてで。まことに、う らはづかしいことながら、そう言うことすら気おくれするような現状であり、七○○という年輪的実績であることを 承とめる。本山といい支院という、町方といい、今の行政区側でいわれること、何のイミもない符丁番号は﹁四○九 ・二五﹂︵世は苦・にごる︶又は︵弱く濁る︶と、したためられている。公害的観光の俄習的信仰の山であるoだか 、、 ら本山・支院、総本山とかいうのも、何百年来の名称即ち時代のくせがついたのだというだけである。総・大・本と いう厳めしい字義も、字義のやかましかった昔の定義には面白い弁明つきである。総別の総でも大兼小の大でも枝葉 対の本でないとかいう。分ってわからぬような、つまり時処会合における席次の定めというらしい。山寺の権威も尊 称も、わざわざ割引している。それがさらに現在、廃末合本以来五○年、大戦後はさらに本支各一してそれぞれ独立
みのぶ山論
室住妙
( 1 )の一ヶ寺の風装を提し来っている。それが時代的民主的即進歩的を誇るかのやうである。全国から寄り集う有識・有 、、、 情の信者たちも、信仰自由の風潮から観光本位の群衆が車のさばきもつきかねるほどごった返す日もある。ずい分あ われなお山である。我を凡信のものは、ちょっとこんなはづはないと内心気ばってぷてもどうもはっきりしない。一 体、﹁身延山﹂とはどういう山なのか。どう在るべきなのか。なんとか、もがくようなさばきでも試承て承る。 一 一 まづ、この山は宗門の霊跡としてゑるときどういうイミと地位に当るか。レイセキということを今宗祖にかぎって 定義して承ると、何かの御都合で通過されたというだけの点線から、わざわざと御巡化されたという線面、又はその 地点で殉難されたという面体、それからその地で幾年月の間住居されたという生きた立体、さらに永久的なイミで、 その廟地として定められたという段々層冷を考えてみられよう。みのぶ山は、そういう中の最も尤なるものとして俗 凡の目にもかがやいてふえよう。私もその凡下の一人として昨年は、御入山七五○年キネンに、︵本誌に投稿して、 ﹁棲神の意義﹂を述べさせていただいた。︶恐らく万人から尚いていただけるという事実のハンヰである。そういう 事実のまとまりの内に宗祖御自身がどのように働いたか、また将来永くお守り下さるかということの認識は、実は読 者各位にまかされている。それこそ並々ならぬ事件である。もとよりどんな宗教でも、その現実的霊跡が、生きた日 常生活に如何に生かされているかどうかが、つまり霊的人格の点数となるのかもしれない。それら諸宗教の中で最も 1’−1クなエリートな宗祖こそ我が日蓮ではないかと信ずるが、果してどうであろうか。本人自身が、声を大にして 到るところで宣伝し喧嘩し戦斗した一生、いや何百年の弟子棚那が、ホッヶヵタギ︵法華気質︶とたたえられてきた。 たしかに今日でも広いイミではそうである。そのことの真価・偽価の虚実こそこれから以後の課題である。というの (2)
はその善悪勝劣が末代、凡愚の投ずる一票によって算定できることではないからである。本人自身仰せられている、 ﹁愚人にほめられたるは第一の恥なり﹂・三類の強敵をもうけ、それと戦ひつづけた大将とほこっている。その三類 とは本人以外の日本の上下万人の朝野をさしている。第一の俗衆、第二の道門、第三の借聖、この三の増上慢は後々 の者ほど識り難い、かくれた黒幕である。昔も今も同様だろうが、何よりも、経文の正法を信じ持つ者は﹁爪上の 土﹂、正法を信じないでむしろ誇りあなづる者は、﹁十方の土﹂という、まさに明を赫々たる提示ではないか。これ は正に票決ではなく、直観直覚、仏の等正覚である。要するに、我々自らが謙虚に本当に道を求めて、つとめつとめ て仏道を成ずる底のその始終一貫性の誠実度が、その問題を扱う資格なのであろう。 一 一 一 いま、仮りに、宗祖日蓮がこの人類の歴史にとってどういう人格人物であるかを、ごくカンメイに紹介して象た い。一つはその霊格的なものがたりを、ここではカンタンな詩でもの語ろう。そして、この人が現実にどんな活動し たのか、かざらず、いつわらず、本人の有りのままの口筆をかりてうけとりたい。それは﹁種々御振舞抄﹂︵九五九︶ 之をごく素朴に訳したのが﹁日蓮大聖人と倶に﹂である。それよりももっとくわしく真実をついて承ようとならば読 者自身畢生の意気努力でかかって欲しい。こういう大聖者が、実にこの山にお入りになったのは、その前後の叉は一 代の事実から、よほど慎重に味はいとらねばなるまい。そのためにほんの手がかりの見本を示そうと、前号の﹁棲神 の意義﹂の作文である。つまり身延山にどんな事構で入り、いかに生活しどんな事情で山を出て、そうして死去して から廟墓をどこに、またどんなイミを与えようとするのか。そこはよくはわからないoよくわからないことがたしか である。誰も古来、あまり追究してもいない。だからこそ今日、身延山がこの様に在る所以なのかもしれない。それ (3)
だからこそ、疑問を含んでこの作文が出てきたのかもしれない。即ち宗祖が﹁この山に対して⋮﹂入・住・出・再入 という四重のイミを新ためて考究し味はひ得ていきたい。承のぶ山はいかにして生れ、これまで七○○年いかに来り これから先きどうなっていくか?いやどう在らねばならぬかを問うのである。それには、山といい寺という以上、宗 門地方各位の山寺幾千ほどの法城がある。それがこの二十世紀、又はこれから迎うべき百世紀の間、時代日本列島の 中でもやはり考えねばならぬ問題は山積しているのである。それらにしばられ左右されようというのではないが、少 くともかかわり相うというかぎり、この﹁身延山久遠寺﹂の在り方に何かがありはしないだろうかというのである。 ︵寺山考として、資料をあつめ考究した方がよさそうである。︶次は現代考、この現代こそクセモノである。今、見 聞し触知してはいるが、刹那後の明日が、来年が、どうなるか、どういうことが起ってくるのか、予想がつかない位 ●● いである。しかしそれなりに現代という大きな妖怪機構をたくましく捉え、その本質をゑなくてはならない。明日の ことを興味本位に待望してよりは、明日の憂ひを苦しみ備えて導かねばならないからである。本当に、今日のことも 明日のことも同様に大事なことである。がしかし、之とまるで対遮的なのはこの大地の問題である。身延山の山地地 土自然の問題を、科学的にしらべたりよく蝋握していきたい。このせまい小さい地域にどんな巨大な施設も景観もあ りはしない。だがせまいから小さいから貧しいからとて、バカにはできない。汚く苦しくてうるさいのが実はそもそ もこのシャバ世界なのであった。仏教の開祖お釈迦さまこそ、この娑婆往来八千返のつわものである。我々罪業深重 の下劣にとって、まことに地獄の仏そのものではないか。この地獄の底の一角、微小の地点、難のぶという城を、何 とかできるだけ、浄らかに経営したいというのが、をそれながら偽はらぬ本願なのである。そのためには、少くもこ の身延地区の地の底縦横に科学的調査してほしい、できるだけの、安定性が保証できるかどうか。また少しは広く、 (4)
①今想像してみるこの地球のセカイをずうっと昔にさかのぼる。まさに宇宙時代のセヵイとでもいう幾千万億 年の人類生類動植物の生命の系譜をさかのぼる。いわば生命の本源のふかい地層にひそゑ修行しつづけているボ サッさま久遠実成の釈迦如来さまのぢきぢき新発意のお弟子だそうです。 ②そういう文章が、人間に読まれ出してからまだわずか二千年。ただふしぎなことよおもしろいことよと仏 教徒の間のちょっとした話題になったこともあったというだけのようでした。 ③それが、どうでしょう。今から七百年前日蓮聖人が、この菩薩さまの本性・使命を人類に紹介して下さいまし た。それもただ筆舌だけでなく人間行動としていや面白いドラマとしてです。それもその大きさといい仕組み というものが、とてもふしぎで大がかりなのです。現実の時代社会がそっくり舞台となりあらゆる人物も動 あらためて思う。身延山論こそは純粋宗学の古・新を貫く重要課題であること。 う論理が桑とめられ、至上命令として行動する、そうせしめるものこそ本門戒のイミではなかろうか。そういえば、 に当って、どうしてここに御廟参上拝脆しないでよかろうか。若しもここらに、ある論理がはたらくとせば、そうい を蔵しているお山である。戒堀というこの上なき甚だ深き、微妙の大法門なればこそ、その法門の地上における具現 もしれないとしても、宗祖が、本化上行の霊格を血肉化しておふるまいなされたその名残の、この上ない尊いお身骨 論目ではあるが、それが、直接にこの地に即するどうかはしらぬ。だが全くムカンヶイとはいえまい。それは私見か 方加キロ、血キロ位のハンヰはこの聖地を緑と清水と浄い空気で包ゑたい。次は本門戒壇考、之は純粋宗学の重要な 四 ○本地l使命 (5 )
⑤主役は叫びます。﹁生きているすべてのゑなさんこの尊い劇を味はいなさい。すぐと参加しなさい。その不 思議の運命に乗り尊い使命を果しなさい。﹂ ⑥そのテーマの意味は、﹃ほんとうに讃うべき不思議な生類人類の経歴史﹄⋮﹃心から敬うべき妙法蓮華という 経典﹄I﹁南無妙法蓮華経﹂ 今も現に一目で見ているでしょう。遠くは地球のあちちら側まで、互いにみつめあいはなしあい劇の相談か しながら劇をすすめているでしょう。そして地球上のゑんなが観賞しているでしょう。 たしか毎日天にかがやく太陽はたった一つだけだとしてもゑんなの一人一人にはそれぞれに朝があり夕べ があって仰いでいる拝んでいるでしょう。 月へは人類の数人がたしか往って来たそうだしその他の星へはこれから数年後数十年後の予定に入ってい るらしい。 劇の相談を うているでしょう。 くゑ革命も戦争も公害も。 ④始めなき始めから終りなき終りにつづいていくがいつまでも未完成な無限連続というのでもない。ちや いうのです。御本人だというのです。 物も自然もそっくり参加する役者であり道具でありまた観客でもあるというそんな大きな歴史劇の主役だと せりふ んと筋は通って厳粛な論理も結論も実証もある。弁証の意味も大へんに深く面白い。讃歌もそろえられ茶番劇もふ そんな大自然大宇宙の舞台をふまえてお互い一人一人が自転公転しつつそれぞれ意味ある円舞曲をふるま (6 )
⑦この超絶した長篇善
こう申し上げて来ました。 意①とんだこととんだことソシの首がとんだ木像の首がとんだ身延の祖師堂の大首が溢まれた一九七○1
1あれから七○○年目の九月十二日②坊主の首はおがむ首本気になって拝む首生きてるからには、悩まれる刀千本折れたそうな
③だからこそ拝まれる木像までも拝まれるすじがあればこそ拝むものと拝まれるもの
④たしかなすぢをたどってみる諸天善神一山の守謹神たちどうして守らぬのかそれとも守れぬのか⑤或は拝まれる首に魂があるからこそやたらおがむガンクビを嫌ったのか
⑥⋮⋮君の首ぼくの首⋮⋮切捨御免の⋮⋮生首なんかとんでもないだからこそソシのクビがとんだのか
⑦千部万部の経ダラよりも木像のお首には一一カワがいい⑧祖師のお魂は何んじゃいな?︵妬・9・田︶
r、二㎡に一ノ討限“00寺〃4q⑧祖師のお魂は何ん
㈲人間としての教育人類としての教育文化人としての教育⋮⋮それらは戦争を通らずに革命を通らずに平
和のうちに可能であるか。公害を仕末する教育より公害を招かないで立派に健全にやってゆけるような教育は いかにして可能であるかlだから﹁教育の世紀﹂といわれるのか。そんならばほんとうの教育とは人間として×思索l召命
﹁南無末法唱導師本化上行高祖日蓮大菩薩﹂︵媚。8.m︶△とんだことl運命
味深重の無限劇の最も重要の一段を立派に果し了えられた人をたたえて私どもは之まで ( 7 )人類として文化人として何であるか。 人間・人類・文化人の生き方の重いイミにつながるものとして新ためて問いたい。 末法’十二・三世紀から六・七世紀にわたる今日の世界史における大きな特質を感じうる。それは内乱と侵 略戦争と革命いわば脱皮をつづけてきている。宗教が戦争を呼び文芸復興︵ルネッサンス︶のめざめとなり産
業の革命をよび社会の政治の階級の革命からさらに二回の世界大戦さらに科学原理の革命から只今情報革
命精神革命に及んでいる。人間が人類として文化人として生長してくるとき当然脱皮する。内外にわたって脱皮しなくてはならないのだろう。ついにすべてナンセンスとなり断絶となり○×式に自己のために他
人を否定しなくてはならないのだろうか。 ど催 では自己とは何か自己が自己に問いかける。自己が自己をさがす。たしかカタ通り文字通り︵漢字の︶⋮・・・道 という字である。首にシン’一ウがかかって、求めあるいているではないか。﹁道は常の道にあらず﹂︵老子︶。それ は宇宙の原点に立つすがたである。。ぬきとられたお首の穴にどこからかひろうてきたお首をそっくりはめこんでめでたしめでたしでおさ
まるわけではあるまい。ひろうてこなくとも、、、ノシロキン︵身代金︶であがなえたとしてもまたは別に第一流の芸 術家にたのんで日本第一のソシ像に金ランのケサ衣をまとうておよろこびになるおソシさまではないしさて さて外の首ではない内の首うちくび。 たしかあのお首はギフン︵義憧︶ドーコク︵働突︶ケフクワン︵叫喚︶なさったお首であった。そして恐しいうめきごえガキ・チクショウシュラヂゴクのドロドロしたノロイやらウラミをあざやかにきれいに切り
(8)を生かしていく。 をつくすこと。 まごころはとうときものとひれふして宇宙すべてが拝む日の来る たち
法に依り人に依らずして一すぢに太刀わたる身の浮雲をこゆ
ねうし ﹁日蓮といいし者は去年九月十二日子丑の時に首はねられぬ。これは魂塊佐渡の国にいたりてかへる年の二 うえん 月雪中にしるして有縁の弟子へおくればをそるしくてをそるしからず。みん入いかにをぢぬらん。此れは 釈迦多宝十方の諸仏の未来日本国当世をうつしたまふべき明鏡なり。かたみともみるべし。﹂コンパクとはかが承とはうつしてみるとはたれがみるのかたれをゑるのか頭首顔面眼目
そと自己をみつめながら思うlなまなましい外とのかかわりあいをみとめながらそれをいよいよ正しくある
ようたしかめること。それがいよいよ深くあるようつとめること。それがいよいよ大きくのびるようまこと どるところ。 臼お首の全 首であろう。 お首のあ さばいて天地一ぱいに祈念なさったお首であった。 そのお首は下から仰ぎたてまつり三拝九拝されたいお首ではないし たえてもらいたいお首でもなくそのお首のコンパクそのものになることいつも現実を全体のかかわりあいでとらえる。しかも過去から現在未来へと生きのびてしかもすべて
りどこは たしかそこであるここである。われわれの五体の最上頂部にまします真実まごころのやみたりきいたり味はったりほめた
それがうちわのお首コン.ハクのお (9 )あえて全責任をとるものl
かぼ そのお顔面と眼目とそのお首と いのちこころ お生命とお精神とをうけつごう全世界人類のぷんながうけつごう
あのお首に直結して︵妬・皿・過︶
以上○本地I使命△とんだことl運命×思索l召命の三章の文句は偶成しただけのものだが、ついた命の 三字に縁して﹁いのちの連環﹂と名づけた。使命は神仏の命ぜられた仕事聖なる計画事業のこと。運命は現実の事 件、いわゆるもてあそばれ流されるハップニング、それがひいてどんな事になるかわからない。それにいやでも応で もぶつかって、なんとかかんとかもがいてのがれようとし、運命にさからいながら﹃−1スをとり使命に応えよう とするのを召命とでもいったらどうかと思う。それにはよほど正しい真剣な思索。偶発した事件はたとい小さくと もそのイ、、、からすれば深い場合がある。そうしてここに﹁いのちの連環﹂をかかげたのも、所以は軽くはないと信ず 五 宗祖大聖の史実はいつも新たに感受し直されねばならぬだろう。それは事実のセンサクに止まらず、我々自体の自 覚の度に応じて始めて新たな感応が出る。今ここには、大聖のこの山をめぐってどんな動きがあったか、前後の論述 を省ぶて染る。 る。 御入山はたしかに幕府当局への、それこそ猛烈な痛諌であるが然し、さりとて御入山後に﹁彼等が何をする﹂とい (10)う行動を、どれほど期待されたかどうかは疑はしい問題であろう。だが事切逼し来ったとき、どういう吹きまわしで どういう事が起きるかは分らない。そういう万一を祈り求めて用意し期待されたも疑ひ得まい。特にあの当時︵一二 七三︶の未来の日本国及世界、いわゆる三国並びに一閻浮提のゆく先きを憂えられたに違いない。殊に足元にせまっ てきてる焦眉の急である。ただ一人、﹁よも今年は過ごし候はじ。﹂と断ぜられた、その対策である。そこには公私 内外表裏にわたる神仏を御相手の相談である。 それほどのことは一向に御消息にも御著作にもあらはれてはいないが、かすかに伺へるかと思うのは、所謂﹁御本 尊集﹂の中の讃文とか勧請式の例であろう。︵一八七一︶ともかくこの満六年、二千二百日に余る御苦悶の日日。こ の日程のうちひそかに気づかされたのは、﹁御講聞書﹂のイミする催しである。時期といい内容といい、そこに何等 かの糸すじはあると認め得ようか?なほ今後の考究にまたねばなるまいが、それは表向きの人間相手のそれではなく 、、、、 いわば大聖内々のおつとめに過ぎない。神仏御宝前への御法楽である。そうして文永・弘安両役のあの結末である。 日本一国が救はれたのは一の事実、敵国︵高腿・中国の未・元︶二十万の大軍が二度にわたって海底のもくづと化し たのもやはり一の事実である。ああこの大事実を予想すればこその四格言、地獄・天魔・亡国・国賊と責め叫んだ二 十年、五尺の身のをく所なき迫害、日本上下万人を相手にした戦斗は皆この一事実のため。それほどの誇法退治の神 軍仏力があえなく藻脳たらしめたのは一体どういうイミなのか。それとも蒙古︵大元国︶自身の帝国主義的天魔の所 、、 業を憎むのか。我々凡愚の想測のゆるされぬ所にちがいないが、たしか唯仏与仏の支えがあるには相違ない。または 、、、 神・仏冥狗の語らひがあったにはちがいない。 を 今はただ凡愚のいいぐさ、思はくでいえばやれやれと肩の重荷の降りたような、弘安四年の冬︵十一月廿四日︶、 (11)
垂、 ユノ そうした内外の大業を了えられた?のか、翌年︵弘安五︶お体の御容態に主づけてか、どういう事情か又いいまは しかはよく分らないにしても、結果的には、お体も旅するに耐えるから、﹁ひたちの湯へ行って、十日か十五日位静 養しようという﹂と話がまとまったのであろう。波木井実長公とも充分と懇談はあった。また当然、お墓のことも御 承諾は得られていたろう。そして調子がよければ、房州の方へ廻られて御父母のお墓を詣り、師匠導善御房のお墓も 参ろうと、そしてそこらの状態、御健康や環境の都合によってはどこで果てるか分らぬが、弘安六年の御年賀は、そ れこそ久久ぶりに、小湊の海波に乗った旭光を迎えようとなさったのかもしれない。それが思いがけなくも、十日に 近い旅程が、大層に苦しかつ.たらしい。お到着の夕べは、とてもひどいお疲れの様で、早速の御あいさつ状も口授、 花押さえも筆がはこべないで、そのおわび言を添えられている。四・五日のほどは御安静を願い、やうやくに二十五 ある。 目を見はるような大事件の発祥。文字で書けばカンタンだが、あの時代のあの地域での人間群衆の感嘆である。今の おんたい 西谷の一角に、﹁十間四面の大坊﹂の建立である。それはただ草庵と一寺院との差ではなく、その御大宗祖自身の確 信と気宇の差である。そんな気ぶりは殆んど表はされてはをらぬのも亦一の不思議である。 その日のことだったと思う。宗祖親しく、﹁身延山久遠寺﹂と名づけられたこと。山といい寺といい地といい人と いい法という。イミはこの字を通し、この名を通じて、天地一ぱいに鳴りひびいて宣言しているのである。日本全国 及び全世界に叫んでいる。その名称のもつ純粋精神性が実にこの身延山諭のきき手か語り手かもしれぬ。わかりよく いえば、﹁永遠にわたって山を俗化せしめず、自然を破壊せしめず、この地球・宇宙を守ります日蓮大士のお山﹂で (12)
日に、よりよりかけつけた人左に対して、妓期の御遺教の法筵をひらかれることとなったらしい。それが伝説に﹁立 正安国﹂の御訓諭といわれるのも、もっとも至極と思われる。六老僧の選任も、その他の極めて切実なお話しがあっ たにちがいないが、その中での一節に、大聖人は、身延山に墓を定めるについて、できたら、御屍体をそのまま身延 に運んで、そのまま埋葬して欲しいとの御意向であった。それについて弟子一統の苦労は、今の我々から想像もでき だび ない憂愁である。敢えてこのことを申し上げて御諒察を願うて、この地で茶毘して御遺骨を身延に埋葬することの許 可を得たのである。そのこみいったことばの往復は今、仮りに抹消してしまったとしても、なぜ身延にお骨をお埋め になるのか。今では唯一の御状︵代筆口授︶に、﹁さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年ま で御きえ候ぬる御心ざし申すばかりなく候へぱいづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候﹂ このおことばだけからゑると、大聖人は波木井氏の九ヶ年帰依の篤信にめでて、一身毛脚を挙げて、山地の懐ろにゆ だねられたようである。だから、そこからすれば、信仰上、その墓地は身延にかぎらず全国・世界どこでもいいわけ だ。お題目をとなえる人毎にその在処が即霊山である寂光である。一心欲見仏不自惜身命、どこでも倶出霊鷲山であ る。そのようにさとり、ひらけてみればそれで結櫛、御廟はどこでもいい在ってもなくてもいいことになる。そんな 小リクッは別として、宗祖御自身の御父母に対する孝心、師匠への報恩、御墓参のお気持、只今の俗士檀那への御報 、、 謝のお心傭はまことにまことに目を承はるではないか。今ここだけでいえるのは、身延山諭の一分子には報恩がある ではないか。 (13)
とひよすが玄こと
我々が日々の生活のなかで、餓悔をすることは、人間らしく在るための契機となり、人間として真実の道を歩むこ との道標となり、宗教的自覚︵実存︶のたしかめとなるであろう。 日蓮聖人は﹁光日房御書﹂に於て ﹃⋮⋮小罪なれども餓悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども餓悔すれば罪きえぬ﹂︵昭定遺二五九頁︶ と申されている。云うまでもなく、聖人のこのコト,ハの精神的背景には、当時の末法観と深い関りをもった罪業意 識があったことは否めない事実である。たとえば、親鴬における﹁罪悪深重・煩悩熾盛﹂という自己を象つめる態度 のなかに罪業意識の表明がゑられる。それはともかく、いま聖人が申される﹁小罪なれども餓悔せざれぱ悪道をまぬ がれず﹂とのコト黍︿には、人間として真実に生きるべきことへの厳しい教示がなされている。ズッ
聖人はまた弘長二年の﹁顕誇法紗﹂に於て﹁⋮⋮餓悔なければ必地獄に堕くし﹂︵昭定遺二四八頁︶ とも申されている。この御文書のコト縮︿は、明らかに聖人の誇法滅罪の意識を表明されたものである。しかして我日蓮聖人にみる人間観
I慨悔することの意義を求めてI
町田是正
︵第四輯︶ (14)々を喚起せしめるものは、﹁必ず﹂・﹁地獄に﹂・﹁堕つくし﹂とされる、その断言的な教示である。即ち、聖人の コトバにもみられる如く、自己を厳しく象つめる意識がなくしては、餓悔する心は生れべくもない。倣悔することと は、自己を絶対の境地に置くことである。 けがれ 何故かなれば、本来・餓悔するとは、此の自己が宿業と罪悪とに在ることを認めることである。そして、自己のす ゆるし べてを投げ出し忍恕を希うことである。餓悔とは、損害を与えた相手に詑びると云うようなことではない。確かに詑 びるという行為は大事なことであり、必要なことではある。しかし、繊悔はそうした代償的な行為であってはならな こころ い。餓悔は精神を浄めることでなければな、見ない。 よすが そして、餓悔を契機として、我々が毎日の生活のなかで、牛歩のあゆみでもよし、修行を深めていくことの﹁縁﹂ となることが、本来的餓悔の在り方であろう。しかしまた、餓悔することは、苦しゑを伴うものであり、また美しい 嘘じらい 行為であることに想いを馳せねばならない。人間が美しくあるためには、蕊恥心をかなぐり捨てることの勇気と決断 おごりかざり とがなければならない。餓悔には誇張や虚飾は必要ないのである。 餓悔するということは、先にも言及したように、自己が罪業を負うた身であることを認めることである。従って、 自白させられるというような、他から強制されるものではない。その行為には自己の決定的な意志が働かねばならな い。確かに餓悔には勇気と決断とも云える意志のはたらきが必要である。餓悔に於ける苦しみを体験することが、人 よすが 間らしくある為の契機であるならば、我とはその苦しゑに堪えることの意志と、知力とを培ちかわねばならない。 日蓮聖人の生涯のうえで、文永八年の竜口刀杖の法難が、聖人の宗教体験のうえで、決定的な自覚的契機であった
◇◇
(15)ことは否めない事実である。 竜口法難に関して、聖人は竜口法難に関して、聖人は﹁四条金吾殿御消息﹂のなかで ノ ﹁今度法華経の行者として流罪死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州たつのくちこそ日蓮が命を捨た る処なれ。仏土におとるべしや。其故はすでに法華経の故なるがゆへなり。⋮⋮⋮娑婆世界の中には日本国、日本 ノ ノ たつのくち 国の中には相模国、相模国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事嶢法華経の御故なれば 寂光士ともいうべき鰍。﹂︵昭定遺五○五頁︶ と申されている。確しかに、建長の立教宣言の股より幾星浦・佐渡配流に至る幾多の法難を回顧されたとき、竜口 ●●●● ●● 刀杖の難こそ法華経色読の頂点であったであろう。堪えに堪えぬいた忍難弘教・宗教的自覚をたしかめることのとき さて、この竜口法難を契機として、聖人はみずからを﹁栴陀羅が子﹂とか、﹁海辺の子﹂と云った表言をなされ る。聖人のこの﹁無冠の民﹂の宣命には深い宗教的意味が秘められているように思える。 此処でしばらく聖人御自身のコト。ハを拝しよう。 であった。 ﹁⋮⋮仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと、をしはからる。既に経文の如く 悪口罵冒刀杖瓦礫数を見擴出と説かれて、かかるめに値候こそ法華経をよむにて候めと、いよいよ信心もおこり、 後生もたのもしく候・⋮⋮日蓮は日本国東夷東条安房国海辺の旛陀羅が子也。いたづらにくさん身を法華経の御故 に捨てまいらせん事、あに石に金をかふるにあらずや。﹂︵昭定遺五一○頁︶ 佐渡御勘気紗に於て (16)
﹁⋮⋮此の身を法華経にかうるは石に金をかえ、糞に米をかうるなり。⋮⋮法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮 華経の五字、末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり。⋮⋮法華経のために身をすて いきご ん事よ・くさきかうべをはなれたれば、沙に金をかえ、石に珠をあきなへるがごとし﹂︵昭定遺九六一’九六三頁︶ いまこれらの御文書を拝読するとき、そこには聖人の出家意識・法華経の行者の自覚・施陀羅が民の意識の表明. そして、法華経の不退転の実践により、培ちかわれた法悦感が溢れでているのである。 筆者は先に掲げた佐渡御勘気紗の聖文が好きである。筆者の初発心を触発された御文書でもある。そこには、開目 抄にみられるような汪溢とした宗教体験と自覚の宣言はみられない。竜口刀杖の危機を脱した情感がいまだ鮮烈と走 るであろうのに、その情感を鎮めつつ忍難弘教の境涯を語られる御心境、筆者は息吹する人間日蓮・真実に生きた宗 教者日蓮聖人の魂にふれる想いがする。 さて、聖人ゑずから﹁旛陀羅が子﹂と仰せられている、そのコト・ハを先づ謙虚に拝読し、その意味されるところを 頁 一 佐渡御書に於て ﹁⋮⋮何に況や日蓮今生には貧窮・下賎と生れ、施陀羅が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたる様なれ ど、身は人身に似て畜身也。心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐れとも思はず、身は畜生の身なり。我今度 の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して後生三悪を脱れんずるなるべし﹂︵昭定遺六一四 すなどり と申されている。そこでは法華経色読者としての自覚・漁師の子︵人間日越︶の宣命がなされている。 また、種々御振舞御書に於て、 (17)
日蓮聖人をして﹁旛陀羅が子﹂と宣命させたものは、宿業深き此の身を、謙虚に省りみ、餓悔することの滅罪意識 であったと思はれる。法華経行者の自覚と罪業の意識とは、深い関りを以って聖人の宗教を形成しているのである。 餓悔することとは、とりもなおさず自己を﹁無﹂となすことである。いま聖人の場合、この餓悔に於ける自己否定 ひるがえ 性は、法華経の実践を通してよみがえり、自己肯定へと翻転されているのである。たしかに、餓悔は悔恨の苦痛を伴 い、絶望の悲哀をかみしめるであろう。然しこの苦痛は法悦への媒介であることを、我食は深く認識すべきである。 忍難弘教に生きると云うことは、﹁我不愛身命﹂﹁但惜無上道﹂と云うことである、即ち、ともすれば我含が身に かざりおごり鉱え つけたがる虚飾・誇張・虚栄などをかなぐり捨てて、自己を投げ出し正法のために生きることである。そのことは、 雪山童子の﹁施身聞偶﹂︵大般浬藥経中の﹁諸行無常・是生減法・生滅滅已・寂滅為楽﹂︶の物語が教示するが如く 捨身求法の真実の姿でなければならない。我が身を捨てて、一切衆生のために生きる覚悟こそ大事である。 汲桑とることが大事である。 先の佐渡御勘気紗・佐渡御書に於て、開陳されている大意は次のようである。
わたくしすなどり
﹁日蓮は安房国の片海の漁師の子として生を受けた宿業の深き身である﹂。﹁宿業の柳の重き凡性の此身は、とも みちばた すれば海辺の真砂の如くに波に洗われ・流され・或は路傍の小石同様に踏み捨てられて、惨なくも消え果てたであ ろう身である﹂。﹁然るに宿福深厚の縁にむすばれて、いまや法華経の信仰に生きることができた﹂。﹁此の小石 同様の凡性の身が、末法の法華経の行者という黄金の如くに成り得たことは尊く法悦の極みである﹂。 ろう身である﹂。﹁然る源 同様の凡性の身が、末法︵ と申されているのである。◇◇
(18)雲ク ス ハメⅦグ ヲ ﹁⋮⋮勧持品云有二諸無智人一悪口罵言等云云・日蓮当二此経文一⋮⋮及加刀杖者等云云日蓮読二此経文一・⋮⋮常在二大
卜卜︽
たび 衆中一欲し殿二我等一故等云云・向国王大臣婆羅門居士等云云・悪口而擬擬数々見擴出。数を者度々也。日蓮擴出衆たびハノハノノハノノハツたる︿︽シ
度、流罪二度也・::過去不軽品今勧持品。今勧持品過去不軽品也。今勧持品未来可レ為二不軽品一.其時日蓮即可レ為二 不軽菩薩一⋮⋮﹂︵昭定遺五一五頁︶人間礼拝の菩薩過実践わたくし
と申され、不軽菩薩の値難と御自身の忍難弘教とを比較され、確かに日蓮は法華経の色読者であるとの確かめ、自 覚に立たれているが、この確かめこそ大事なのである。 これらの意味で、餓悔に生きると云うことは、苦渋を堪え忍ぶ人生であり、幾多の苦難・命に関る程の厳しい現実 に堪えることである。そこでは、堪えることの信念。堪えせしめる英知.堪えぬかしめる意志が要請されるのであ いた難かなしみ る。此の意味で日蓮聖人の法華経の実践・行動の軌跡は、当に陣吟して癖痛と悲哀とを、堪えに堪えぬいたものである。L 0 日蓮聖人は.﹁⋮⋮童子は半偶のためなほ命を捨てたまう。如何に云わんや、日蓮は此経の一品・一巻を聴聞せん﹂ と仰せられているが、我たはこの教示を大事としたいものである。真実の信仰に生きるとは、命をかけることであ る。自己が生身を一切衆生のために布施をすることである。菩提の覚智を求めて真実に徹しようとするならば、必ず や身命を捨つるほどの事に遭遇するのである。 つた。 聖人は﹁諸法実相妙﹂に於て ﹁⋮⋮現在の大難を思いつづくるにもなゑだ、未来の成仏を思て喜にもなぷだせきあえず。鳥と虫とは鳴どもな承 日蓮聖人は寺泊御書に於て (19)東海の栴陀羅が子としての宿業深き身を自覚され、それが故にこそ、法華経の色読に自己の生身を投げいだすこと を悲願とされ、かえってそこに、法華一乗の信仰に生きることの法悦感をほとばらせているのである。しかも、その よろこび 法悦はひとり聖人の歓喜に終るものではなかった。 諫暁八幡抄に示されるところの 二ク ノクルハヲ ノナリ ク ノノハク
ノス
﹁⋮⋮浬樂経日一切衆生受二異苦一是如来一人苦等云云。日蓮云一切衆生同一苦悉是日蓮一人苦と申くし﹂︵昭定遺 また、﹁開目抄﹂のなかで フ ノ ﹁⋮⋮されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及事なけれども、難を忍び慈悲すぐれたる事をそれ をもいだきぬくし。﹂︵昭定遺五五九頁︶ ●●●●●●●● と仰せられているが、我々はそこに聖人の嘆きの慈悲に生きた姿を象ることができる。聖人の法華経の色読とは、 捨身弘教の﹁無﹂の境涯に自己の身を沈めつつ、一切衆生のために生きた英姿である。餓悔の菩薩道を歩まれた聖姿 とも云うべきであろう。 である。 と申され、 だをちず。 歓喜の得られない餓悔はまことの餓悔ではないのである。聖人に於ける戯悔は、法悦へと昇華されつつ、また法悦 とのコトバは、一切衆生と共に悲しゑ、共に苦し象を分ち、共に生きることのできた法華経行者の法悦であったの 八四七頁︶ 日蓮はなかねどもなゑだひまなし。此な象だ世間の事には非ず、但偏に法華経の故也﹂︵昭定遺七二八頁︶ (20)﹁明かなる事日月にすぎんや、浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。 日蓮又日月と蓮華との如くなり﹂︵四条金吾女房御書・昭定遺四八四頁︶ にちりんはちす という、日輪と蓮華とに象徴される人間でありたいと悲願され、宗教者たろうとした大いなる願いこそ、法華経行 者の英姿であり、餓悔の菩薩道を歩まれた姿であったのである。 いま我殉日蓮宗徒は等しく現代的要求のなかに生きている。否、生かされていると云うべきであろう。確かに﹁人 間らしく﹂息吹することが、今日的要求であり、課題であることに間違はない。 ●●●● 人間はわがままである。改めて此処に真実に生きようとする道を求めなければならない。真実に生きるためには、 ひと 人間はその状況下にあらねばならない。人間が真実に生きることの契機は、餓悔するときにある。惟うに、真実を求 むかし めようとする初発心の芽生は此処にあるのである。その典型を七百年の往昔、日蓮聖人は生きた行動をもって教示さ から餓悔へと融通無腰であったのである。 せんだらのこ 日蓮聖人は煩性的人間として生をうけられた。それ故にこそ、善日臓より蓮長へ、法師蓮長より日蓮へと、菩提の 覚知を求めて真筆に生きられたのである。 まよい 我を人間は生来、三毒五欲の迷界に繋留される妄念の衆である。だがしかし、慈悲の心を宿した仏性的人間である あかし狸ちれん ことを、聖人は教示されている。その菩提の覚知を求めて真熱に生きられた現証を﹁日蓮﹂の名号にゑることができ ことを、聖︲ るのである。 れた。
◇◇
(21)筆者は惟う。宗祖としての日蓮聖人を讃仰するにはとどまらず、鎌倉時代を典型的に生きた日本人・日蓮聖人とし て、或は仏道者日蓮聖人として讃仰したい。否、時代を超えて﹁行動した人﹂として把握されるべきである。たとえ ︵﹁代表的日本人﹂︶︵﹁子の尊敬する人物﹄︶ ば、内村鑑三先生にしても、矢内原忠雄先生にしても、そうした日本的土壌のなかで聖人を観られたことと思う。日
法誠匪色疏とき
蓮聖人の行動された意義は、活かさるべきの、当にその﹁秋﹂にいたっている。︵蛆・哩・Ⅳ︶ ※本小論はひごろの覚え書ノートである。筆者は宗学を専攻とする者ではない。既刊の日蓮宗学関係書は全て座右から遠ざけた。 従って、旧来の宗学の枠からはみだした異端の独断のノートかも知れない。 (22)一序言
先きに﹁本誌﹂第四十五号において、﹁身延入山当初の日蓮聖人﹂と云うテーマのもと、宗祖の入山当初に焦点を 合せ、文永十一年の初夏から、同十二年、︵及び建治元年︶にわたる入山当初二年間について、その動静の一端を窺 ってきたが、本稿では更にその後を受けて、身延在山初期︵特に建治二年︶における宗祖の著述を主とする生活の一 隅を探ってみようとするものである。 初期と云うのは、在山九か年を年時的に三年間宛三区分し、初めの三年間を初期とし、その後の三年間を中期、更 に晩年の三か年を後期として扱ったものである。 初期Il文永十一年甲戌西紀一二七四
○五月十七日身延到着同十二年乙亥一二七五
○四月二十五日﹁建治﹂と改元l建治二年丙子一二七六
身延山初期における日蓮聖人
l特に建治二年を中心としてI
祖 寿 五五五 五四三 才才才上田本
著作一五 四六 一 一 一 一 一 日 Eヨ (23)② 生寺を築いた年でもある。
l建治三年丁丑一二七七五六才三四
中期I同四年戌寅一二七八五七才五六
○二月二十九日﹁弘安﹂と改元l弘安二年己卯一二七九五八才三二
I同三年庚辰一二八○五九才四○
後期1同四年辛巳一二八一六○才二五
l同五年壬午一二八二六一才二
○九月八日身延下山、池上へ向う。十月十三日入滅。計二九一
在山九か年間を三期に分けてゑると、一応右の如くになるが、これはあくまで便宜的に年次により三区分したもの であって、必ずしも宗祖の在山生活中における区切りを意味するものではない。 尚、著作の篇数については、祖書の系年について、異論のあるものもあり、必ずしも一定しているわけではないが ここでは﹃昭和定本日蓮聖人遺文﹄︵身延山久遠寺刊︶の第一第二の両巻︵正箭︶に依ってあげておいた。初期の三 年間で九三篇、中期の三年間が最も多く一二二篇、最後の三年間が最も少なく七六締となっている。二建治二年︵正月から三月まで︶
此の年は正月から比叡山では山徒の蜂起があったりして、叡山では硫騒のうちに年が明け、園城寺長吏に隆弁が重 ① 補された年にも当っている。また内にあっては岡宮光長寺空存が、改宗して日春の名を賜り、中老の寂日房日家が誕 身延山における日蓮聖人は、入山後二度目の正月を迎え、その十一日に﹃清澄寺大衆中﹄を記されたのを始めとし (24)て、三十二篇に及ぶ執筆がなされている。﹁新春の慶賀﹂から始っている右の祖書には、﹁真言の疏﹂を借用したい ③ 旨が書かれ、﹁今年は殊に仏法の邪正たださるべき年欺。﹂とあって、真言に対する研究が、正月早々からおこなわ れようとしていたことがわかる。清澄寺は台密であったのだから真言関係の書物も備えられていたであろうが、佐渡 から身延へ移られるに至って、いよいよ真言・天台の両宗折伏に、一段と力を注がれるに至ったための準備態勢かと も考えられうる。すでに﹃撰時抄﹄においても八真言破Vはなされているのであるが、﹁今年は殊に仏法の邪正ただ さるべき年欺﹂と云う年頭の計画から推して、真言をも含め、すべての仏法について、その邪正をはっきりさせよう ④ と意気をふるい立たせていたことが推察されよう。 この一文から考えられることは、宗祖の身延入山は、たんなる隠棲ではなく、従来の八行動による四海帰妙Vの方 針から、八文筆による皆帰妙法Vへと路線の変更を試みられたものと解することができよう。即ち、仏法の邪正をた だすことによって、立正安国を期そうとする目的は、身延入山後と雛もいささかの変色をもみせていないことが知れ ﹁日本国の法華経の正義を失ふて、一人もなく人の悪道に堕つる事は、︵乃至︶真言を正とし法華経を傍とせし程 ⑤ に、︵乃至︶此悪真言鎌倉に来りて、又日本国をほろぼさんとす。﹂ 法華経を正義とし、その流れをくむ﹁仏使日蓮﹂としての立場から、真言亡国の折伏をおこない、﹃立正安国論﹄で 予言した八他国侵逼難Vに値って、﹁日本国は当時の壱岐・対馬のようになり候べき欧﹂とその不便なることを思 いやっているのである。又この祖書の末文には﹁このふゑは、佐渡殿と助阿闇梨御房と虚空蔵の御前にして大衆ごと によ象きかせ給へ。﹂とある。従って佐渡殿︵日向︶は、清澄に於てその大衆に、この書を読み聞かせたものと考え z句0 (25)
次に同く新年の御供養をされた南条氏に対する答礼の祖書がある。これは十九日付で、﹁春のはじめの御つかひ、 自他申しこめまいらせ候。さては給はるところのすずの物の事、餅七十まい・酒一筒・芋いちだ.河のり一紙袋・だ ⑦ いこんふたつ・やまいも七ほん等也。﹂と新春の祝詞と、送られて来た品たに対する御礼が述べられ、これに続いて 仏法を供養する者の功徳甚多を説いている。即ち法華経第八巻の﹁所願不虚亦於現世得其福報﹂の文、及び﹁当 於現世得現果報﹂の文を引いて、最後に﹁檀那は又現世に大果報をまねかん事疑ひあるべからず。幸甚幸甚﹂と結ん でいるのである。この﹁現世に大果報を﹂と云う表現は、山間僻地の身延の沢に居住しながらも、尚且つその現実の 中にあって、檀越に仏果を得せしめようと願う、﹁現実重視﹂の一端が窺えるものと云えるであろう。これは入山以 前の﹁娑婆即寂光﹂や﹁立正安国﹂の思想と同様に、先ず現世に﹁生きる﹂ことの意義を把握して行こうとするもの であって、徒らに到来の浄土のみを求めようとするのではなく、これは現実重視の基盤に立った宗祖の最も尊重され る行き方の一つであったと云えよう。又後にこれは﹁身延霊山説﹂と関連を生じて来る問題でもある。 二月に入って十七日には、﹃松野殿御消息﹄が見られる。これも柑子や其の他の送り物に対する礼状であるが、そ の中で法華経を持つ男女が、一切に勝れていることを薬王品を引いて述べられている。松野殿はこの時まだ宗祖に会 ③ っていなかった。﹁いまだ見参に入り候はぬに、何と思し食して御信用あるやらん。﹂とあるによってもわかる。﹃松 られる。日向は建長五年二月の誕生で、上総︵千葉県︶藻原の出身である。父は藤原民部実信で、祖先は代を衣冠の ⑥ 人であったと伝えられ、宗祖の父貫名次郎重忠と実信とは知己の間柄であったとも云われている。従って宗祖は清澄 方面の地理に詳しい日向を使者として、この祖書の読手としたものと考えられるのであり、これは後の﹃報恩抄﹄の 場合も同様である。 (26)
野殿御消息﹄頬︵又は御返事・尼御前御返事を含む︶は入山後に十二締あるが、これはその第一書である。 ⑨ 同じく二月にはもう一書、﹃大井荘司入道御書﹄がある。﹁柿三本・酢一桶・茎立・土筆給ひ候了んぬ。﹂とあり 更に天台山の竜門の滝を例に引いて、魚の竜となることの難事を挙げ、人の仏になることも又かくの如くであるとし 一一 ノ ﹁然らば今度為二法華経一身を捨てて命をも奪はれたらば、無量無数劫の間の思ひ出なるべし、と思ひ切り給ふくし。﹂ と法華経に対する信仰の決心をうながされている。﹁今度﹂と云い、﹁思ひ切り給ふくし﹂と云っている点から象て この入道の法華信仰に対する程度が、ほぼ推測できえよう。 三月には十三日付で﹃阿仏房御書﹄がある。宝塔の御供養として﹁銭一貫文・白米・しなじなをくり物﹂が佐渡か ら届けられた。更に﹁多宝如来涌現の宝塔何事を表し給ふや﹂と云う質問の手紙が付いていた。これに対する解答が ﹁法華文句﹂の八を引用しながら述べられている。 ﹁末法に入て、法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり。若然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華 経ととなうるものは、我身宝塔にして、我身又多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目 宝塔なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此五大は題目の五字也。然れば阿仏房さながら宝塔、宝 ⑩ 塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。﹂ とあり、更に、﹁我身叉三身即一の本覚の如来なり﹂とも述べている。法華経の題目を受持することによって、﹁我 身﹂が即ち宝塔となり、三身即一の如来ともなりうるとする﹁本覚門﹂の立場を明らかにしている。阿仏房日得はこ の時すでに八十八才に達していた。﹁我身﹂に仏身を得ると云うのは、先きの﹁現世重視﹂とあいまって、日蓮教学 の大きな特徴の一つと云えよう。 (27)
三月十八日には駿河の上野から、﹁芋のかしら・河のり・わさび﹂などの品々が届けられた。その御礼状が﹃南条 殿御返事﹄である。宗祖は南条氏のことを、地名をとって﹁上野殿﹂とも呼ばれているが、数多い檀越の中でも、特 に身延の宗祖に対して、折りある度に御供義の品を、多数届けていることは、与えられた祖書の数から見ても肯くこ とができる。南条氏一族の外護が顕著であったことを物語っているものとも云えよう。 三月の下旬、二十七日には﹃富木尼御前御書﹄が記されている。﹁鴬目一貧竝につつひとつ﹂が送られて来た。在 山中に富木氏へ宛て出された御消息文も十余筋にのぼっているが、それらによって常に信仰上の問題で、宗祖との間 に、文通がしばしばおこなわれていたことがわかる。この御書は尼御前に対するもので、有名な﹁矢の走る事は弓の ⑪ 力、雲のゆくことは竜の力、男のしわざは女の力なり。﹂と云う一文で始り、﹁法華経の御力たのもし﹂いことを阿 闇世王の故事になぞらえて説明している。 同じく三月に富木入道殿に宛てた﹃忘持経事﹄がある。真蹟には年月日が記されていないが、古来、日奥・日通. ⑫ 日諦の御書目録等には、いずれも建治二年三月三十日としてこの御書を扱っている。富木常忍が九十才で逝去した母 の遺骨を持って、身延を訪れ、その帰りに所持の経典を忘れたため幸使に托して、これを送り届けたのであるが、そ の祈りの手紙である。これは今日の身延山納骨の起源をなすものと云われている。文中に真言・念仏・禅・律の各宗 及び天台宗について、﹁仏陀の本意を忘失した﹂ものとなし、﹁親に背て敵に付き﹂たる者として、短文ながら批判
ノクリクル
ーチレタリワ クリクルルコトキョリ ハチ を与えている。尚、﹁魯哀公云有一入好忘者一。移宅乃忘一箕妻一云云。孔子云叉有下好忘甚二於此一者上。桀剥之君乃ノクルル⑬
レタリヲ レハルゾレ
ノクルルハルヲ
忘二其身一等云云。夫藥特尊者忘レ名。此閻浮第一好忘者也。今常忍上人忘二持経一。日本第一好忘之仁欺。﹂とあるの を見てもわかる如く、機智に富だ博学の祖師の一面を窺うことができる。 (28)﹁本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助けんがために、三度いさめんに御用ひなくぱ、山林にまじわる ⑮ ベきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。﹂ とあって、これは身延入山の聖意を股も一般的に論ずる場合の根拠とされている一段である。﹁三度いさめんに御用 ひなくば、山林にまじわる﹂と云うのは、宗祖にとって当面の問題であった。だからもう一度、父母の墓参をしたい と考えたが、﹁又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいま に生国へはいたらねども、さすが恋しくて、吹く風、立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、 庭に立ちてみるなり。﹂と云う如く、当師は山林に交るが、やがて機会を得た折りには父母の墓を拝む気持でおられ たことを、明記されている。又﹁さすがに恋しくて﹂と云う一段では、身延山における﹁人間日蓮﹂の赤裸々な一面 ⑯ を示したものとして、味うべき一文と云えようう。入山三年にして故郷からの旧知の便りにふれ、望郷の念坊佛とし て湧き上る宗祖の心情は、又深く厚いものであったろう。﹃光日房御書﹄の始めには、﹁生国なれば安房の国はこひ ⑰ しかりしかど﹂とあり、御勘気の身となって佐渡へはなたれて承ると、恐らく生きて再び﹁父母の墓を見る身となり がたし﹂と思われ、﹁今更らとび立つばかりくやしくて、などかかる身とならざりし時、日にも月にも海もわたり、 山をもこえて父母の墓をも象、師匠のありやうをもとひをとづれざりけんとなげかしく﹂思われたのであったが、今 間味豊か艇叙している。 返信である。この御書︵ 次に﹃光日房御書﹄が同じく三月の著述となっている。光日房と云う人は房州天津の在住で、宗祖が幼少の頃から ⑭ 交際があったと考えられている。この御害は光日尼から子の弥四郎が亡くなったと云う知らせを受け、それに対する 返信である。この御書の前半では、佐渡から身延への行跡が述べられ、特に身延山から生れ故郷を懐しく想う情を人 (29)
こうして九死に一生を得、再び鎌倉の地を踏むことの出来た今日になって、﹁これ程の難かりし事だにもやぶれて、 鎌倉へ帰り入る身なれば、叉にしきをきるへんもやあらんずらん﹂と考え、その折りにこそ父母の墓参りも出来よう と、考え方の上に推移を見せているのである。佐渡と異り鎌倉から安房へは陸続きである。訪れようとすれば距離的 にも可能なはずであった。それを敢て、ふみとどまり身延の山林に身をかくした宗祖の心情の中には、佐渡から身延 へと住所は変ったが、依然﹁生国安房﹂を訪れることができない立場を、﹁さすがこひしくて﹂と云う表現によって 万感をこめておられたものと推察しうるのである。身延山における宗祖が、いかに生国を恋しく想っておられたかが 此の一書によっても理解できよう。
三建治二年︵閏三月から十二月まで︶
建治二年は閏年であったので、﹁閏三月五日﹂付の﹃妙密上人御消息﹄があり、﹁青鳧五貫文給ひ候畢んぬ。﹂と ⑱ これも礼状の形をとりながら、﹁上大聖人より下蚊虻に至るまで命を財とせざるはなし。﹂と、生命の尊重を説き、 次に法華経の題目を唱え始めた導師が、まだ現れておらぬことを明かし、﹁然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず、 又末葉にもあらず。﹂として、﹁何にしてか申し初めけん。上行菩薩の出現して弘めさせ給ふべき妙法蓮華経の五字 を、先立てねどとの様に、心にもあらず、南無妙法蓮華経と申し初て候し程に唱ふる也。﹂と述べ、諸経を旨とする 先師が、諸経を主とし兼ねて法華経を読むも、これは真に法華経を読んだことにはならず、還って法華経を死すもの であると論じている。これに対して今日蓮は﹁已今当の経文を深くまほり、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧 む﹂ものであるとし、しかも﹁経のままに唱ふればまがれる心なし。当知。仏の御心の我等が身に入らせ給はずぱ唱 へがたき欺﹂と記しているように、﹁仏心﹂の﹁我身﹂に入らせ給う﹁題目﹂なることを明らかにしている。先きに (30)﹁生命﹂の尊重を説き、次に﹁現身﹂に題目を唱えることにより、﹁仏心﹂をうることを述べ、更に﹁題目を唱ふる ならば存外に功徳身にあつまらせ給ふくし。﹂と、唱題を専ら勧奨している。尚、妙密上人については、文中に﹁便 宜ごとの青鳧﹂とある点から、時あるごとに宗祖のもとへ御志を奉じていたことがわかる。又﹁女房にも委く申し給 へ﹂とある点から、当時、妻を持った上人であったことが知れる。 閏三月二十四日には、南条殿から﹁かたびら一・塩いちだ.あぶら五そう﹂が送られて来ており、その礼状﹃南条 殿御返事﹄が記されている。その文には送られて来た衣・塩・油について、各仏典を挙げ、﹁御心ざしのあらわれて 候事申すばかりなし﹂と極めて鄭重な文章を綴っている。これはこの御返事に限ったことではないが、檀越からの御 供養に対しては、筆のおよぶ限り心の寵った礼言を書き記し、必ず宗義の解説や仏典の誰義を付けられ、﹁財施﹂に 対して﹁法施﹂をもって報いておられる。身延在山九か年間の﹃御消息文﹄は、ほとんどが、こうした型をとってお り、門下に対する文書伝道の影響力は大きなものであったろうと推察しうる。文中に大橋太郎の古事と、蒙古襲来の 問題が示されている。その中で、﹁いかにも今は叶ふまじき世にて候へぱ、かかる山中にも入りぬるなり。各々も不 ⑲ 便とは思へども、助けがたくやあらんずらん。﹂とある。この文の意図は、必ず近い中に蒙古の来襲があり、大きな 国難に見舞れることであろう、これは最早やさけられないことと見て、﹁いかにも今は叶ふまじき世﹂と述べ、身延 の山中に寵ったのもこのためであるとし、象んな不便ではあるが、恐らく助けてあげることは困難であろう、と云っ ているのである。すでに﹃安国論﹄で予言した﹁他国侵逼難﹂について、﹁経文かぎりあれば来るなり﹂との確信を もち、この来るべき国難は﹁いかにいうとも﹂さけることの﹁かなうまじき事なり﹂であった。 この頃の祖書には、しきりにこの八蒙古来襲Vのことが記されている。先きの﹃妙密上人御消息﹄の中にも、﹁今一 (31)
度も二度も大蒙古国より押し寄て、壱岐・対馬の様に、男をば折ち死し、女をぱ押し取り、京・鎌倉に打ち入りて、
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国主竝に大臣百官等を搦め取り云云﹂とあり、後の﹃弁殿御消息﹄︵七月︶、﹃報恩抄﹄︵七月︶及び﹃四条金吾殿 ⑳ 御返事﹄︵九月︶等にも、他国侵逼難が起ることを論じている。八立正安国Vを目標とされた宗祖にとって、この他 国侵逼、即ち亡国の問題は何によりも大きな国難として、心根を悩ましたことであったろう。 さて、五月に入ると、十日付で覚性房へ宛た﹃筍御書﹄一紙がある。叉翌十一日付で西山殿に宛た﹃宝軽法重事﹄ がある。西山殿と云うのは、宗祖直檀の一人、大内太三郎平安清のことであると云われ、富士山麓の西方に当る西山 @ に住して、﹁俗とも出家とも見えず﹂と伝えられている。﹁当時は勧農と申し、大宮づくりと申し、かたかた民のい とまなし﹂と云う多忙な時期であったが、わざわざ﹁箏︵筍︶百本・芋一駄﹂が送られて来た。これに対し薬王品の 一節を引き、更に﹃法華文句﹄及び﹃文句記﹄の文を用いて、法華経の一偶を受持することの功徳が勝れていること を明らかにしているo﹁宝軽法重﹂の法は法華経のことであり、更に﹁人軽法重﹂を説き、﹁人軽と申すは仏を人と ⑳ 申す。法重と申すは法華経なり﹂と論を進め、一応ここでは八法仏相対Vを用いて、法の重きを述べている。しかし この後で、﹁日蓮が弟子とならむ人盈はやすくしりぬくし。一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつ くれる堂塔いまだ候はずoいかでかあらわれさせ給はざるべき。﹂と述べているのでも知れる如く、八寿量品の釈迦 仏Vをもって、信仰の対象とすべきことが結論ずけられているのである。これは﹃開目抄﹄で云う﹁寿量品の仏﹂の ことであり、八久遠本仏Vを指しているのであって、先きの法仏相対における一般的な仏、即ち本仏の分身散体たる 迩仏を指したものでないことは明らかである。末文には天台・真言の両宗についても﹁日輪に露のあへるがごとしと をぼしめすべし。﹂と判じ、真蹟わずか八紙の中に獅子肌している。 (32)六月から七月へ入ると、四条金吾殿への文通が目立つ。即ち六月二十七日付で﹃四条金吾殿御返事﹄が出され、 ⑳ ﹁法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。﹂と述べ、更にその翌七月の十五日付で ﹃四条金吾釈迦仏供養事﹄が著されている。四条氏が釈迦仏の木像一体を造立されたことに対し、その開眼に関して 述べ、ついで仏の三身について教示されている。先ず肉・天・慧・法・仏の五眼と、法・報・応の三身について記し ⑳ ﹁この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず。﹂とし、法華経の中でも寿量品を最も大事の品となしている。 更に一念三千の法門について解説し、四条氏の孝養の念厚きを讃え、﹁入道したい﹂と云う考えを﹁ゆめゆめあるべ からぬ事なり。﹂と諭している。要するに﹁寿量品の仏﹂こそ五眼三身具足の本仏であるから、開眼供謎も又この品 に限ることを明らかにしているのである。 七月十八日には一紙十九行の短文﹃覚性房御返事﹄があり、同じく二十一日には日昭につかわした﹃弁殿御消息﹄ があるが、紙が不足したため、一紙に多事を書きつらねている。例えば四条氏や河辺殿等の身の上を案じたり、筑後 ⑳ 房日朗・三位房日心・師阿閣梨日高等に、﹁いとまあらぱいそぎ来るべし。大事の法門申すべしとかたらせ給へ﹂と 伝言されたりしている。身延から門弟に向って、﹁いとまがあればいそぎ登山せよ﹂、と呼びかけられ、﹁大事の法 門を申し聞かすから﹂、と云うあたり、門下の教育・激励を怠らず、更にその身を案じている点が窺れ、身は山林に 交ると錐も、心中常に広く門下の動静を探り、弘経のための精進を積まれていたことがわかる。単なる隠棲でないこ とは、こうした祖文の端々にも現れているのである。 七月二十一日には五大部の内の一つ﹃報恩抄﹄が完成した。先きの﹃撰時抄﹄と共に、身延時代における最も大部 の御書で、この年の三月十六日に清澄の道善房が遷化されたため、報恩感謝の真情をこめて、書き上げられたもの (33)
である。この間約四か月を経ているが、日向を使者読手として遣し、墓参と本抄の読調を命じている。本来ならば知 らせを受けた直後に﹁自身早早と参上﹂すべきであったが、﹁心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもう らんに、ゆえもなく走り出づるならば、末へもとをらずと人をもうくし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあ ⑳ らず。﹂と云う理由から、清澄との交流が深かった日向を代参せしめる結果となった。﹃報恩抄送文﹄にも見えてい ⑳ る通り、﹁又此文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ。詮なからん人人にきかせなぱあしかりぬくく候﹂と、大事の 中の大事の法門を示していることが知れる。特に一切経の肝心たる妙法五字の題目について、その功徳を明かし、天 台・伝教の弘通し給はざる正法、即ち八三大秘法Vを示している。これは日蓮教学の根幹をなす最大事の法門であっ て、承だりに﹁詮なからん人公に﹂聞かすべきものではない八秘法Vと云うべきものである。開目・本尊の両抄に於 て究明された宗義の根本を、本抄において綜合的に集約され、八大事の大事Vとして説示されたものと解しえよう。 .切衆生の盲目をひらける功徳あり。﹂との一文がこの事情を物語っているものとも云えるであろう。本抄上下二 巻は、身延期における大作であり、宗祖がもっとも心根を傾けた著作の一つであると云える。尚末文に﹁自二甲州波