観光イベントとしての博覧会 - ポートピア'81を事例として -
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(2) 論文. 象となることは変わらない。 本稿は、観光のイベントやアトラクションという視点から、博覧会を考察 するものである。まず日本における博覧会の意味づけについて振り返り、要 点を確認する。その後で、博覧会が観光イベントとして成立する際の基本構 造について考えてみたい。以上の過程から得られた考察の枠組みを念頭に置 いたうえで、戦後の地方博覧会において重要な位置を占めるポートピア’ 81(神戸ポートアイランド博覧会)を事例に取り上げ、それが観光イベント1) としてどのような内容と特徴をもっていたのかを考えてみたい。. 1.博覧会の意味づけ 博覧会は、これまでどのように意味づけられてきたのであろうか。いくつ かの知見を取り上げ、その内容を追ってみたい。 國雄行は、歴史学の視点から明治期の日本において博覧会、特に内国博覧 会の成立と展開を跡づけて論じている。そこでは、内国博は西洋にならった 日本の近代の誕生を直接的に称揚するものと捉えられている。内国博におけ る欧米諸国の製品の展示は、日本国民に未来像を提示し、文明国の民となる ことを誘導するものであった。また、明治政府は人びとに国民としての自覚 を求めたが、内国博では府県別展示により国家領域を認識させ、その統括者 が天皇であることを示したのだという。 このように、國は博覧会を近代化とショナリズムの形成という文脈に結び つけて大づかみにした上で、さらに次のような項目を掲げて博覧会の多様な 性格を指摘している。 ① コンクール。品物の優劣を競わせ、優れたモノに褒賞を与え、技術改 良を促す。 ② 商品見本市。出品者が購入希望者と売買契約を結ぶ場である。商品の 宣伝効果、販売促進効果がある。 ③ 事物教育の場。主催者が国民に伝えたいことを展示品を活用して視覚 に訴え、わかりやすく教え導く。そのことによって国のめざす未来像を示す。 ④ 見世物。莫大な数の観覧客が集まる興行である。主催者も集客によっ 28.
(3) 観光イベントとしての博覧会. て収入増を図るため見世物の性格を認める。 ⑤ 祝祭。博覧会は時間的、空間的、物質的に非日常的な性質を有してお り、祝祭と非常に親和的である。万国博はしばしば国家祭典と融合され るため、国家は支配の正統性を伝えることができる。 ⑥ 戦争。自国製品の優位を示す産業戦争の意味をもつ。戦争で獲得した 領土=植民地を積極的に展示し、国威高揚を図る場になってきた。 ⑦ 平和。表面的ではあるものの、展示は国際情勢や国民心理に一定の配 慮をしてなされる[國2010:206-211]。 このように博覧会は多様な性格をもっているが、明治の後半には勧業政策 としてではなく、 地域を潤すイベントとしての役割が期待されるようになり、 その遊園地化はますます進んでいく。 もっとも、昭和に入ってからは、社会が軍国主義的な傾向を強めることと 対応して、博覧会は国民に対して軍事力を誇示し、戦意高揚に役立てるため にイデオロギー色を濃くしていく。しかし、ケネス・ルオフは、この時期に おいてさえ、百貨店・新聞社・鉄道などが連携しつつ催した諸もろの博覧会 が、消費をともなう娯楽として存続したことを強調している[ルオフ2010]。 ところで、日本において明治初期から博覧会が隆盛するのは、周知のとお り欧州の万国博覧会への出品を大きな契機にしている。ロンドンに始まる万 博は、一世紀半にわたって国家あるいは人間社会のありように深くかかわる 大イベント群であった。内田隆三によれば、万博は資本主義/ネーションの 体制を維持し進展させるための恒常的な装置であるという。それは「進歩の 時代」を象徴するイベントでもある。進歩とは神が死んだ時代=近代におい てなお宗教的な信仰心を維持するひとつの仕方なのだ。万博は展示する工業 製品や建築物を生み出した技術を通じて、 「人間の勝利」=超越論的主体を 誇示する儀式である[内田2004:178]。 内田は万博のこうした歴史通貫的な性格を指摘したうえで、時代の変遷と ともに万博の特質の力点が移動してきたとし、次のような区分を提示する。 ① 19世紀中葉~第一次大戦。国民統合、ナショナリズムに主眼が置かれ る。 地域創造学研究. 29.
(4) 論文. ② 両大戦間期。経済的な浮揚策としての役割が大きくなる。進歩を科学 が発見し、産業が応用し、人間(国民)はそれに順応し消費する者として 位置づけられる。 ③ 第二次大戦後。科学技術がユートピアへの道を拓くという人びとの信 頼を再び活性化する時期で、核の平和利用や技術進歩による人間と環境 との調和が説かれる。 ④ 冷戦終結後。 「ひとつの世界」 「共通の人間性」が表明されるようにな る。しかし、 それはトランスナショナルな企業のパワーの反映でもある。 そして現在に至っては、地球規模の環境危機のなかで進歩どころか持続可 能性のイデオロギーさへ批判の対象になりつつあり、万博それ自体への疑問 が生じてきたという[内田2004:179-180]。 たしかに、博覧会はその時どきの政治・経済・社会の態様と密接に結びつ きながら、 様ざまな役割や意味を内包しつつ存続してきたといえよう。だが、 そうした認識は妥当なものであるとしても、重要な視点が落ちてしまってい るのではなかろうか。それは、ここで主題としている観光との関係から博覧 会を捉えることにほかならない。少なくとも20世紀後半の日本における博覧 会がきわめて娯楽の色彩の強いものであり、広範な地域から集客をする観光 のイベントとしての性格をもっていたことに注目したい。 こうした立ち位置に近い主張は、大阪万博のテーマ館館長を務め、後に企 業博物館の先駆的な提唱者となる諸岡博熊にみることができる。諸岡は明快 かつ端的に、博覧会は娯楽的な場であるとする。すなわち、博覧会は非日常 の世界を創り出し、そのなかで時代の先端を見せ、驚きと感動を人びとに与 えて楽しい思い出を創り出す仕掛けである。さらに、楽しさを求める享楽的 気分の観客に、驚きと感動で体を興奮させる場所であるという[諸岡1989:83]。 諸岡の指摘する博覧会という場の非日常性やそこでの楽しい思い出という概 念内容は、観光経験の特質に合致する。享楽的気分の観客とは、程度の差は あれ会場までの移動をともなう観光客と現実にはみなすことができよう。 では、観光イベントとして博覧会が成り立つためにはどのような要件がい るのだろうか。まず、主眼が観光にあろうとも博覧会を開催するためには相 30.
(5) 観光イベントとしての博覧会. 応の理由づけが必要である。特に、国や地方行政が実質的に主催するのであ れば、公的資金の投入と、公共の広い敷地や施設の利用を認めるだけの根拠 を示さなければならない。そのため形式的目的が設定され、何らかのテーマ として掲げられることになる。しかもそれは、多くの場合、その時代におい て国家や地域の進むべき方向や未来を示す、何がしかの理念を含むものとし て設定される。 しかし他方で、博覧会の実質的内容として現実に求められるものは、楽し い経験を提供する施設やパフォーマンスである。つまり、観光イベントとし て成り立つためには、展示や遊興施設がアトラクションとして機能する必要 がある。その意味で、博覧会は名目と内実の両面をもち、両者は往おうにし て「ずれ」ている。 また、博覧会の楽しさの提供は、観光事業として成立することと表裏一体 である。博覧会のテーマが何であれ、主催者は開催費用を賄わなければなら ない。そのためには、より多くの来訪者と入場料を確保することが大前提と なる。その予想のもとに、出展者や広告主を募って協賛金を集めて収入をは かる。また、会場に娯楽施設や飲食・購買の店舗を出した事業者には、相応 の売上と利益が見込まれなければならない。 さらに、より根本的な動機を示すならば、開催場所となる都市・地域にお いて、博覧会開催にともなう建設、交通、宿泊、飲食等の需要の増加によっ て、周辺地域への経済波及効果が期待されること、そして、地方行政が政府 から補助金を引き出し、インフラの整備をはかり、博覧会を契機に地域の開 発を推進していくことがある。 これらの諸もろの経済的な目的の実現に足場をおけば、博覧会の内容は、 特定の理念の提示や技術進歩の実感よりも、どれだけ多くの人びとを引き寄 せられるかという集客力の有無=アトラクションの良否に自ずと重大な関心 が払われることになる。 かくして博覧会は、広範な地域から、より多くの人びとを招き寄せるため の展示や娯楽を提供し、それによって主催者・出展者・開催地域が経済面で の実利をあげる興行なのであり、すなわち、それは観光イベントとして捉え 地域創造学研究. 31.
(6) 論文. ることができる。. 2.観光イベントとしての博覧会 (1)アトラクションとしての展示 人びとは博覧会というイベントの何を面白いと感じ、 「観光」してきたの だろうか。ここでは、観光のイベントとしての博覧会が、どのような要素で 構成されてきたのかを整理し、その特徴を考えてみたい。 博覧会ではテーマに即した展示そのものが観光のアトラクションになって きた。こうした性格は日本の博覧会成立の時期からみられるものである。当 初の博覧会の主目的は産業・輸出振興のための啓蒙にあった。1877年に第1 回の内国勧業博覧会が東京で開かれるが、主催者である政府は、「眼目の教」 を重視し、人びとによく観察することを要請する。しかしながら、多くの観 客は博覧会の展示を「見世物」として受容した[吉見1992:121,132]。そこには、 江戸時代からの開帳場や盛り場にみられる見世物の文化が引き継がれている のであり、近代の技術や技芸の粋を目で見て理解する場という認識は容易に 生まれてはこなかった。日本における博覧会は発生当初から娯楽の文脈に回 収され、物珍しいものへのまなざしを生み出す場として成立する。引き続き 開催された一連の勧業博覧会においても、政府は見世物を否定して「学び」 を求めるものの、実態はむしろ逆行したといえる。 では、アトラクションとしての展示は内容的にみたとき、どのような特徴 をもっているのだろうか。展示のテーマは大ざっぱにいえば、 「過去」と「未 来」 、そして「異文化」に括ることができよう。いずれも、現在の日常生活 から何らかの距離をもち、非日常的な興味をかき立てる内容を備えている。 博覧会では各国・地域の優れた歴史的な文化遺産が展示されてきた。過去の 歴史のなかでも学術的に希少な遺物は、現在の日常からかけ離れた特異な存 在であり、観光の対象となる2)。 一方、現在を挟んで時間軸の反対側にある「未来」の展示も、日常から距 離のあるモノや体験であり、人びとの好奇心と愉悦を喚起する。博覧会は科 学技術の応用によって将来実現するであろう新しい生活の一面を目に見える 32.
(7) 観光イベントとしての博覧会. 形にして示してくれる。そこには通常の生活に関するものだけでなく、遠く 海底や宇宙のような直接に見ることのない世界を疑似的に表現し、五感で体 験できる演出を提供するものも含まれる。これらは、技術並びに人間社会の 「進歩」を具体的に表現するものであり、内田が言うように、博覧会の最も 中心的なテーマとなってきた。 もうひとつの重要な展示の種類は、異なる国、地域を象徴するような文化 の典型である。国や地域の名が冠せられるパビリオンのなかでは、衣食住や 生産の道具、儀礼に用いられる祭具など、様ざまなものが文化的差異を示す 表象として働く。特に民族的な文化の相違に基づいた展示物やパフォーマン スは、強く観客の興味を引いてきた3)。また、地域特有の風景や歴史的な場 所、モニュメントなどがジオラマや模造の形ではあれ、展示される。 このように博覧会の展示は、非日常の愉快な感覚を誘発する特殊な記号と して、すなわち観光対象としての性格を帯びている。人びとはそれらの展示 を見てまわり楽しむのだが、そこでの体験はあくまでも日常から離れた場所 やモノあるいは時間の疑似的な体験である。観光客は 「過去」 や 「未来」 を 直接に見ることはできないし、現地の本物の文化遺跡や民族の村を訪れてい るわけではない。そもそも、観光そのものが疑似的なイベントにすぎないこ とは、半世紀も前にD.ブーアスティンによって指摘されていた。彼によれば、 異郷の地での観光客の体験は、 文化や生活の偽物=アトラクションにすぎず、 メディアによって用意されたイメージの確認作業でしかない[ブーアスティ ン1964]。博覧会では、巨大な映像や架空の乗り物で、世界的な遺跡や奇観、 寺院や祭りといった様ざまの珍しい眺めを体験する。だとすれば、博覧会の 展示はすでに擬似的なものとなっている現実の観光に、もう一つ擬似性の輪 をかけた観光を提供する機会であり、いわば二重の疑似性をもつ観光アトラ クションということになろう。 (2)遊興施設の併設 博覧会の主目的とは本来異なるが、必ずと言ってよいほど一緒に提供され る娯楽施設やパフォーマンスが観光アトラクションとして機能してきた。さ きにふれた勧業博覧会においても、政府の掲げた産業振興という主題は徐々 地域創造学研究. 33.
(8) 論文. に後背に退き、娯楽的な内容へと変化を遂げる。その決定的な転換点となっ たのが、1903年に大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会である。前 後して、政府は欧州の博覧会において娯楽的要素が集客を左右している事実 を前に、興行としての成功と経済効果の実現にとってそれが不可欠であると 認識を改めたのであった[國2010:159]。 第5回の内国勧業博覧会は約530万人の入場を数え、過去4回の水準を大 幅に上回り、興行的には成功を収めた。その理由には鉄道の発達や商都での 開催、夜間開場の実施、外国パビリオンの導入、植民地展示(台湾館)の人気、 会議誘致などが考えられるが、最も大きな要因は余興であった。日本初のメ リーゴーランド「快回機」や、同じくウォーターシュート「飛艇戯」をはじ め、エレベーターを装置した展望台「大林高塔」 、米国女優の幻想的な舞踏 を観覧するファンハウス「不思議館」など30種もの余興が実施された4)。主 要な六つの余興だけで139万人の入場者があったことから、実際には博覧会 を訪れた大半の人びとが娯楽を主要な目的としていたことがうかがえる。國 は、こうした変化をもって現代の遊園地のような博覧会の原型がつくられた としている[國2010:179-184]。 その後、娯楽施設化はますます進行する。大正期の博覧会では、もはや余 興であったはずの出し物が博覧会展示の実質的内容にさえなってくる。たと えば、1914年に開催された東京大正博では、電動機で発生させた大波をあた かも大船に乗って横断するような体験のできるサークリング・ウェーブや、 ケーブルカー、鉱山模型館などが所狭しと建てられた。なかでも、随所に18 ~22歳の美女を配した美人島探検館は、この博覧会の興行的性格を代表する パビリオンであった[吉見1992:149-150]。 このようになると展示館と付随する娯楽施設の機能を明確に区別すること は、もはや難しくなってくる。しかし、観光の体験や行動の側面からすれば、 展示は基本的には視覚的な「見る」行為に力点が置かれ、観光客が出展され たモノと対峙し、その意味を何がしか解釈するものである。一方、ジェット コースター、ウォーターシューター、宇宙船などを模したライドに代表され る娯楽施設は、人間の感覚総体に働きかけて、何らかの眩暈を生じさせる体 34.
(9) 観光イベントとしての博覧会. 感的なものである。したがって、展示(記号解釈)と乗り物(身体感覚)という、 大きく二種類の性格の異なるアトラクションが博覧会を構成してきたといえ るだろう。 (3)非日常の記号空間 博覧会が観光の目的対象として働くのは、その展示や併設された遊興施設 が個々のアトラクションとして人びとを誘引するためだけではない。それら を含んだ博覧会というイベント全体が、ひとつの観光スポットとして機能し てきた。広い敷地の上に、多様な形の建築や構造物が、そして展望塔や動物 園、空中を行き来する乗り物が寄せ集まり、巨大な非日常の空間を生み出す。 機能性とは縁のない寓意的な記号の装飾や、各地の象徴的な建築を模したパ ビリオン(往おうにしてキッチュな)が並び立つ景観は、人びとの幻惑を誘 う。様ざまな場所や時間の混在した、無国籍的で秩序を喪失した空間が突如 として現れ、移動と混雑が生み出す群衆の喧騒は、祝祭的な演出を盛り上げ る。夜にはイルミネーションが輝き、いっそう幻想的な眺めが広がる。 一般にイベントは何らかのメディアによって予め人びとに知らされ、その イメージが形作られる。 博覧会も例外ではなく、 事前に築かれた有名性によっ て、具体的な目的や内容とは別の次元で見るべき(行くべき)ものとして意 識される。たとえば、大阪万博では開催前の(そして開催中の)メディアに よる報道が大きな動員力を発揮した。また、展示を見る時間より待つ時間の 方が長いといわれ、来訪者は駆け抜けるようにパビリオンを巡っていった。 後に振り返れば、巨大な建物と混雑しか記憶にないというのが日本人の平均 的な万博体験であった[吉見2005:82-84]。このことは体験の希薄さとして否定 的に捉えることもできるが、しかし、観光という視点からみるとそう単純で はない。当時の彼らにとっては、具体的に展示で何を見たかよりも、「万博」 を体験したこと自体が語るべき価値を有していたのである。その意味では、 博覧会の観光は期間の限定された「~博」という特異な記号やイメージの消 費なのである。 ところで、博覧会は特定の都市で定期的に開催されるイベントではない。 イベントの内容の点を考え合わせると、特徴はまさにその一回性にある。た 地域創造学研究. 35.
(10) 論文. とえ近隣に居住する人であっても、その博覧会を経験できるのは限定された 時間であり、非日常性は高くなる。また、一般の観光対象と大きく異なる特 性は、博覧会というアトラクションの方が臨時に開催地までやってくるとい うことである。換言すれば、突如、大がかりに観光スポットを現出させる仕 組みが博覧会なのだ。. 3. 観光事業としての博覧会――地域への投資と消費の誘導 博覧会の実質的内容が、非日常的な空間での自由で気楽な遊びを享受する 場であり、多くの人びとが訪れる観光イベントとして捉えられることを確認 するとしても、もうひとつの重要な側面を見落とすわけにはいかない。娯楽 としての博覧会は、同時にある地域における巨大な投資と消費の場ともなっ ている。それは公私の経済主体が関与する観光事業としての側面といっても よい。博覧会場は、敷地や交通などのインフラ、パビリオンの建設、展示の 演出、人員の調達等々の投資によって用意される。一方、入館者(観光客) は博覧会への入場だけでなく、飲食、物販、交通などの一連の消費を行うが、 その活動が観光イベントを成立させる。 吉見俊哉は、1970年代以降の博覧会によって担われた、イメージによる政 治戦略を「万博幻想」と呼んだ。それは、60年代の「所得倍増=地域開発」 の流れを受けながら、一方では高度成長の成果たる一人ひとりの豊かさを、 氾濫する未来イメージのなかで自己確認させる場所として「万博」を機能さ せ、他方でそのような「未来」への信憑にもとづいて国家予算の投下を可能 にして、 周辺の地域開発を進めていく言説=戦略上の仕組みである。そして、 この仕組みは、沖縄海洋博からつくば科学博、一連の地方博や花博、さらに 愛知万博まで貫かれてきたという[吉見2005:33]。 このように、開催者や出展者の側からみるならば、博覧会の主眼は公私の セクターが協同して進める地域の経済浮揚策であり、それに必要な公共事業 の地域への誘導にある。そしてパビリオンを建設する大手の企業から、飲食 や土産の販売機会をものにしようとする個人業者まで、経済的な波及効果へ の関心が博覧会を推進させる力となってきた。 36.
(11) 観光イベントとしての博覧会. ただし、娯楽を求めて人びとが集まる観光イベントとしての博覧会という内 実は、何らかの名目、つまり大義名分をもたなければ開催できない。という のは、一定期間、公共の空間を占有し、公的資金の投入と行政の調整機能を 働かせることは、表向きには何がしか正当な名目がなければ困難だからであ る。他方で、行政をはじめ開催主体となる当事者にしてみれば、博覧会を開 催するからには一定以上の集客と収入とPR効果が見込めなければならず、 それを担保するためにもアトラクションの性格を導入することが必定とな る。 博覧会の計画から実施に至るまでの道のりは、こうした名目から内実への 転換のプロセスでもある。一般に博覧会の理念やテーマは、主催者からの委 託を受けて、著名な学者、知識人、作家、芸術家、建築家など、特定の社会 階層の人間によって検討され形作られる。そこでは、科学、文化、環境など といった人間社会における重要なテーマが、その問題状況をも含めて知的関 心のもとに練り上げられて提示される。しかし他方で、実質的な主催者であ る行政、企業の側は、開発と経済を優先し、消費と宣伝の場として博覧会を 構成しようとする。そのため、具体的な企画の策定から実施段階に至るいわ ゆるプロデュースは、博覧会協会事務局やイベント業者の手に委ねられ、理 念やテーマの議論にみられた当初の問題意識とは異なる形で博覧会ができあ がっていく5)。より正確にいえば、観光イベントを契機に地域開発をいっそ う推進する本来の目的が先にあって、形式的な名目の設定はそれを実現する ための段取りといった方がいい。 観光事業という視点から、博覧会の特徴をもう一点付け加えておこう。各 地で開催された博覧会では自国や地元自治体はもちろんのこと、他の国や県 市が展示館ないし展示物を提供することが頻繁に行われてきた。そこには地 域の見るべき文化遺産や名勝の写真や、建築の模造などが置かれ、同時に特 産品が並べられる。すでに述べたように、そこで人びとは地域の特性を示す 象徴的な文化の展示を見るのであり、その意味では観光アトラクションの経 験となる。しかし同時に、外国や各県市の展示館は、自らの地域の観光を広 告・宣伝する場となってきた。一時期に大量の人が訪れる博覧会は、格好の 地域創造学研究. 37.
(12) 論文. 観光地キャンペーンの機会でもあった6)。 ここまでみてきたような観光イベントとしての博覧会の枠組みを念頭に置 きつつ、以下では1981年に開催されたポートピア’81を事例に取り上げて、 考察を試みたい。. 4.観光イベントとしてのポートピア’81 (1)開催の背景と経緯 日本の博覧会の歴史において、1980年代後半にみられた地方博覧会のラッ シュは特筆される出来事であった。1989年だけでも、サザンピア21、静岡駿 府博覧会、’89姫路シロトピア博、アジア太平洋博覧会、横浜博覧会、松江 菓子博’89、’89鳥取世界おもちゃ博覧会、世界デザイン博覧会、甲府博覧会 などが開催され、たしかに「乱催」と揶揄されるのも頷けよう[難波2009:14]。 こうした地方博覧会ブームの先駆けとなったのがポートピア’81(正式名 称は「神戸ポートアイランド博覧会」 )であった。会場は神戸港に完成した 人工島ポートアイランドで、会場面積は約72haである。期間は1981年3月 20日~9月15日の180日間で、入場者数は1610万人に達し、予想を大幅に上 回った。戦後の博覧会のなかでも数少ない「成功」例であったことも、ここ でポートピア’81を取り上げる理由のひとつである。 ポートピア’81の背景には、1970年の大阪万博の際に浮上した神戸第二会 場の構想が実現せず、神戸市行政や地元財界にとって博覧会開催が積み残し た課題としてあったことがある。しかし、直接的には神戸市の都市開発政策 の一環として開かれた博覧会といってよい。会場の置かれたポートアイラン ドは、1967年に埋め立てに着工し、1980年に完了した。すでにこの時点では コンテナバースや一部の公的施設が供用を開始していた。ポートピア’81は 神戸市の推し進めてきた人工島の完成を記念する祝祭であり、そこでの都市 開発計画の進捗状況を周知する意味あいをもった。ポートライナーや道路な どのインフラ整備を前倒しして開発を加速することも狙いのひとつであっ た。 真渕勝は、当時の宮崎辰雄市長が博覧会開催を決意した背景として次の三 38.
(13) 観光イベントとしての博覧会. 点をあげている。 第一に、神戸経済の落ち込みに対して手を打つ必要があった。石油危機に よって重厚長大産業の凋落が始まったが、それに依存する神戸経済のダメー ジはとりわけ大きかった。不況に対するカンフル剤として、大規模なイベン トが必要だった。 第二に、産業構造を多様化させる必要があった。神戸の産業構造は、鉄鋼・ 造船が中心であったが、このころには代わってファッション産業従業者が多 くなり始めていた。ポートアイランドをファッション産業の拠点として売り 出し、神戸の産業構造の転換を促進しようとした。 第三に、ポートアイランドの売却を円滑に進める必要があった。海上都市 として売り出すためには、強烈なイメージアップが必要だった。 また、地元財界が博覧会による地域経済の浮揚を期待していたことも開催 決定の要因であった。神戸商工会議所は1973年にファッション都市づくりを 宣言し、画期としての博覧会開催に言及している。1976年には神戸経済同友 会がメッセ(見本市)都市の構想を示し、 「国際生活文化博覧会」の誘致を 提言していた[真渕2005:678]。 このような背景のもとに、神戸市、兵庫県、神戸商工会議所、神戸新聞社 の四団体によって博覧会開催が提唱された。1978年4月に博覧会開催準備委 員会が設立され、テーマの設定を須田勇(当時、神戸大学学長)を座長とす るテーマ委員会に委託する。同委員会の議論の結果、メインテーマは「新し い“海の文化都市”の創造」と決まり、その下に四つのサブテーマとして、 「魅 力ある海の未来都市」 、 「21世紀の港とくらし」 、 「広場としての太平洋」、「手 をつなごう世界のふるさと」が置かれた。 1979年1月には博覧会協会が発足した(5月に財団法人化) 。出資比率は 神戸市56%、兵庫県24%、商工会議所10%、神戸新聞社10%であった。以降、 開催主体は博覧会協会となるが、実質的な計画策定の作業については、総合 プロデューサーを務めた小林公平を中心に進められていく(これについては 後述する)7)。 では、このように人工島の完成を祝し、 「新しい“海の文化都市”の創造」 地域創造学研究. 39.
(14) 論文. という未来に向けた標語=名目を意気高く掲げて開催を迎えたポートピア’ 81の内実は、どのようなものであったろうか。 (2)アトラクションとしての展示 ポートピア’81の展示館は、全部で32にのぼった(表1参照) 。単独館での 出展は、ほとんどが国内企業と地元自治体によるものであった。外国からの 出展参加は31カ国だが、単独の展示会場をもったのは中華人民共和国・天津 市とサウジアラビアのみで、他は三つの国際館を共同で利用する形をとっ… た。 観光イベントとしてのポートピア’81について先に示した三つの観点から 捉えてみたい。第一の観点は、展示館や展示の内容そのものが非日常の楽し いアトラクションとしての性格を有していることであった(なお、以下に述 べる展示の具体的な内容については 『神戸ポートアイランド博覧会公式記録』 にもとづいている) 。 主催者である博覧会協会のテーマ館と兵庫県の兵庫縣館は、地元地域の歴 史を紹介する展示構成であった。そこでは聖徳太子の声の再現や清盛との会 話といった、当時では新しい展示技法が採用されていた。しかし、人気の中 心はこうした「過去」の展示ではなく、様ざまな形で「未来」を見せる大企 業のパビリオンであった。 まず、 科学技術による開発の未来を体験させるタイプのものが目を引いた。 それらは、 特に新しい資源エネルギーの可能性を展示していた。サンヨーソー ラリアム、関西電力未来エネルギー館、大阪ガスワンダーランド、ソーラ・ ピラミッドの松下館などは、太陽、水素、燃料電池、石炭、風力、地熱、海 洋、 原子力などの未来エネルギーの応用技術を見せていた。三菱未来館は「海 と人間の明日」をテーマに、 360度スクリーンとラウンドロード(ターンテー ブル)で未来の海底開発を提示した。この時期には、すでに環境問題への関 心が高まりつつあったものの、依然として科学技術の発展によって問題は解 決できるという楽観的な見通しに立った展示のコンセプトがみてとれる。博 覧会に示される「進歩」への信奉は、まだ揺らいでいなかったといえよう8)。 二つ目に、自治体・大企業が単独で展示参加をしたパビリオンでは、大規 40.
(15) 観光イベントとしての博覧会. 模な映像や振動を用いた体感型の新しい技術が導入され、互いに競う結果と なった。とくに大画面の映像技術は、神戸館、川鉄地球館、神鋼ポートラマ 館などで採用され、共通する演出手法であった。なかでも、ダイエーパビリ オン体験劇場は、オムニマックスと呼ばれる当時世界最大の映像システムを 導入した。この映像アトラクションは劇場ぐるみでジェットコースーターを 擬似体験できるもので高い人気を呼び、最長10時間半という待ち時間を記録 している。 大画面映像と並んで興味深いのは、ディズニーランド以降の日本のテーマ パークで用いられるアトラクション技術が先立って応用されていたことであ る9)。たとえば、ポートピアみどり館(三和グループ)が呼び物としたのは シミュレーション・シアターであった。これはコンピューター操作によって 画面、音響、揺動床(日本初)を一体化して潜水艦の内部を演出し、来館者 に海中を疑似体験させるものである。また、住友館はミュージカル人形劇“森 の詩”を出展したが、音楽、照明、ロボット、舞台転換等はコンピューター による完全自動制御システムを採用した。森の女神や動物たちは、エレクト ロニクスとロボット技術を組み合わせた制御機構を内臓していた。このオー ディオ・アニマトロニクスは、 2年後に東京ディズニーランドのアトラクショ ンで人びとが体験することになる。 ここで注目しておきたいのは、パビリオンの展示のいくつかが、新たな映 像技術を用いることで、あたかも空間を移動して世界中の国ぐにや宇宙空間 を巡るような疑似的な体験を観客に提供していることである。 神鋼ポートラマ館では、巨大円形スクリーンに広角150度魚眼レンズで映 写する世界初の試みが行われた。そこに映し出されたのは、北の海、グラン ドキャニオン、イグアスの滝、オペラハウス、マチュピチュの遺跡、インディ オの生活風景、 コンコルドの離陸、 モニュメントバレー、ブラジルのサッカー、 姫路のけんか祭り、リオのカーニバルなどであった。 また、先にふれたダイエーパビリオン体験劇場のオムニマックスが設定し たコースは、展示館を出発して、パラオの海中、オーストラリア、ハワイ、 カリフォルニアの砂漠、グランドキャニオン、ニューヨーク、ノイシュバン 地域創造学研究. 41.
(16) 論文. シュタイン城、スイス、マッターホルン、ケニアを経て神戸へ戻るというも のであった。 さらに、神戸プラネタリウムシアターは、宇宙旅行を演出した“銀河のか なた”を上映した。観客を乗せた宇宙船は、木星に到達し衛星イオの噴火を 見る。画面は銀河系を越え、何億光年もかなたの宇宙を漂うイメージを展開 した後、宇宙船が再び地球に戻るという筋立てであった。 これらの展示で取り上げられているのは、世界各地の有名な絶景地、城、 遺跡、祭り、そして、遠い未来に我われが訪れるであろう異空間であった。 いずれにせよ、人びとは強い非日常性を帯びた場所のコピーやシミュレー ションを、ほんのわずかな時間でかいま見ているわけである。ここから、博 覧会でのやや特殊な観光体験の性格が浮かんでくる。先にもふれたように、 近代に発生した観光そのものが疑似的なイベントである。異郷の地で観光客 が体験するのは、メディアによって用意されたイメージに準拠して、多分に 演出された文化や生活である。とすれば、ポートピア’81はさらにもう一つ、 疑似性という輪をかけた観光を提供する機会だったのであり、そこで人びと は二重の意味で疑似的な観光体験をしていたことになろう。 展示ではないが同じような疑似観光を示す場所がある。博覧会の会期中、 常に繁華街なみの混雑を呈した“異人館通り”である。これは20棟で構成する 明治時代をイメージした街並みで、ポートピア’81の会場の東西のエリアを つなぐ地点に位置し、客動線を形成する上で重要な役割を担っていた。その 名の示すように、ハッサム邸、うろこの家、風見鶏の館の三つの異人館や、 居留地の洋館、さらに元町通りの日本商家が再現されていた。内部は飲食・ 物販の商業施設であった。また、明治の神戸という設定のもとで、巡査、大 道芸人、番頭、女学生などが当時のコスチュームでパフォーマンスを展開し ており、ここでもテーマパークのような演出が試みられている。 こうした明治の街並みを再現する背景には、風見鶏の館やうろこの家のよ うな現存する北野の異人館が、すでに観光スポットとして人気を高めていた ことがあった。しかし、ここで重要なのは、街並みの建物や人物にオリジナ ルなものが存在するかどうかではなく、それらが“港町神戸”の歴史・文化的 42.
(17) 観光イベントとしての博覧会. なイメージの具象化であり、同時に、神戸という観光地の典型的なイメージ の投影でもあるということなのだ。 さて、アトラクションの性格として重要な特徴の二つ目に、展示や催し物 における国や地域の定型化された「異文化」の表象がある。 ポートピア’81では、参加した国および州・都市が、それぞれの文化を紹 介する日としてナショナルデー(国) 、スペシャルデー(州・都市)が設け られていた。国際広場で繰り広げられたこれらの催しの意義と目的は、①当 該国の来賓の出席を仰ぎ記念式典を行うことにより、会場全体で当該国の日 を祝うこと、②当該国の音楽・舞踏等の文化的な催しを行い、当該公演を通 じて観客が参加国の文化・生活・習慣等に対する理解を深めること等により国 際親善に寄与するというものであった[ポートアイランド博覧会協会1982a:318]。 実際のナショナルデー、スペシャルデーの中心的な内容は、表2を見れば わかるように、その多くが、各国・地域の伝統的な民族舞踊であった。博覧 会の公式写真集からも、それぞれの民族衣装をまとった人びとによって、日 替わりメニューのようにパフォーマンスが提供されたことがわかる[ポート アイランド博覧会協会1982b]。結果的に、それはあたかも観光地の典型的な 文化表象のオンパレードのようになっていたといえよう。 民族衣装と踊りという、わかりよい文化表象は、依然としてエキゾチック なものへの関心を投影している。こうした公演は、現実の生活文化と乖離し た本質主義的なイメージの提示にすぎないという批判的な見方も可能ではあ る。しかし、登場した民族舞踊の多くは、国立を含め専門の集団によるパ フォーマンスで、すでに自国(地域)において権威づけられ公式化された民 族表象であり、外からの観光客の要望に常に応えられるように用意されたも のでもある。グローバリゼーションによる空間の圧縮や均質化が進みつつ あったこの時代では、国や地域がその固有性を、つまり他との差異を強調す るための、いわゆる民族のステレオタイプを活用した対外的な文化戦略が、 こうした博覧会のショーを支えていたのではなかろうか。このことは、後で ふれるように国や地域が観光宣伝の場としてポートピア’81を利用していた ことと重ね合わせたとき、より説得力を増すであろう。 地域創造学研究. 43.
(18) 論文. (3)遊興施設と記号空間 博覧会を観光アトラクションとして考えたときの第二の観点は、博覧会が 同時に来場者にとって文字通り遊興の空間となってきたことである。本来の 展示とは直接かかわらない各種の娯楽、遊興のための施設が置かれたり、催 しが行われたりしてきた。その典型は遊園地であった。すでに述べた第5回 の内国勧業博覧会をみればわかるように、それらは形式的には「付随」する ものだが、現実的には多くの集客を可能にする不可欠の役割を担ってきた。 ポートピア’81でも次のような施設や催事が展開された。 まず、特筆されるのはジャイアントパンダ2頭が天津市から貸し出され、 飼育施設に展示されたことであろう。これ自体は博覧会の一つの展示館(パ ンダ館)として位置づけられているが、実際には臨時の動物園といえる。天 津市から「パンダ大使」として派遣されるという設定には、神戸市が同市と 友好都市提携を結んでいたという名目がある。しかし、実態は上野動物園で 示されたパンダの圧倒的な集客力を見込んで企画段階から導入が検討され、 中国側との折衝をへて実現したアトラクションである[宮岡1982:165-167]10)。 博覧会に合わせて会場の南東を占める位置に開業したのが、阪急電鉄の経 営する遊園地、神戸ポートピアランドであった。中央にはレストランを入れ た帆船を浮かべ、当時世界最大の観覧車のほか、連続2回転のジェットコー スター、高速回転ブランコなどが設置されていた。 ポートピアサーカスは、木下サーカスとアメリカチームとの合同公演に よって開催された。会期中、専用の大型テントを張り、猛獣ショー、空中ブ ランコなどが演じられた。総合演出は、国民的な知名度のある森繁久彌が担 当した。 会場の敷地内では東西の仮設駅をSL鉄道とパノラマカーが結んで走って いた。これらは観客の移動を助けると同時に遊具としての働きをした。 最後に、ポートピア’81の会場そのものが、人びとを魅了する非日常の演 出空間であったことにも留意しておきたい。屋根を太陽光集熱器で覆ったサ ンヨーソーラリアム、 エアードームの芙蓉グループパビリオン、コーヒーカッ プの形そのままに造られたUCCコーヒー館など、それぞれのパビリオンは 44.
(19) 観光イベントとしての博覧会. 個性的な構造とデザインを有しており、それらの集合体としての博覧会会場 は特異な景観を形成していた。 会場までのアクセスで重要な役割を果たしたのは、三宮駅と会場を結ぶ ポートライナーである。ポートライナーは無人運転を採用した新交通システ ムで、ポートアイランドの基幹的な交通手段として設立された。本来、市民 の足となる公共交通機関であるが、博覧会に合わせて開業し、それ自体がひ とつのアトラクションとしての性格を有していた11)。ポートアイランドとい う未体験の巨大人工島そのものが人びとの関心を呼んだし、高架から見下ろす 広大な未開発の都市空間の眺望も非日常的な景色として受け取られただろう。 このように、博覧会の展示施設群の周りには、多様な遊びの空間が設えら れており、会場全体が期間限定の観光スポットとして成り立っていたことが みてとれる。. 5.観光事業としてのポートピア’81 以上にみてきたように、ポートピア’81では、メインテーマの「新しい“海 の文化都市”の創造」と、その下に置かれた四つのサブテーマに内包されて いた「海、未来都市、世界、太平洋」といったキーワードが、科学技術の応 用によるエネルギー開発、 世界と海底と宇宙の旅行、異なる民族の伝統といっ た形に読み替えられ、アトラクションとして具現化されている。これらに加 えて、テーマとは直結しない遊興施設の布置によって、楽しみのための演出 で充溢された空間が徹底して形作られていたことが確認できる。本節では、 ポートピア’81という博覧会が観光のイベントとして成立していく道のりを、 言いかえれば名目から内実への転換がどのようにはかられたのかを考えてみ たい。 ポートピア’81という興行を観光事業の側面から捉えたとき、どう評価さ れるのだろうか。 最も分かりやすい指標は入場者数および収支決算であろう。 ポートピア’81は開催前の予測1300万人を2割以上も超える1610万人の入場 者を記録した。 前後して開催された国際博覧会と比較してみても遜色がなく、 地方博覧会としては群を抜く実績であった12)。 地域創造学研究. 45.
(20) 論文. また、入場者の発地別の割合をアンケート結果からみると兵庫県が29.9% で、 う ち 神 戸 市 内 が13.4%で あ っ た[神 戸 ポ ー ト ア イ ラ ン ト 博 覧 会 協 会 1982a:367]。したがって、全体の7割が県外からの来訪者であり、ここから もポートピア’81が一大観光イベントであったことがわかる。 博覧会事業の収入は336億円(うち入場料で69%を占める)に達し、最終 的には65億円の黒字決算となった。また、開催に関連して発生した経済効果 については、最終需要4875億円で、その生産誘発額は1兆9887億円と推計さ れている[宮岡1982:266-277]。 このように、入場者数、収支決算ともに「成功」を収めたポートピア’81は、 いわば神話化され、後に全国で展開される地方博覧会ブームの雛形として位 置づけられるようになる。 都市行政と企業による投資によって会場が設営され、そこへ予想以上の観 光客が訪れたわけだが、そうした観光イベントとしてポートピア’81が実現 できた要因は何だったのだろうか13)。ひとつには、博覧会の立地に関しての 条件がある。会場が都市郊外ではなく、ほぼ都心にあり、アクセスの利便性 が比較的に高かったことは重要な点である。1975年の沖縄海洋博覧会、85年 のつくば科学博覧会と比べるとその違いは大きい。 しかし、基本的には、上にみたような多様なアトラクションを備えた博覧 会であったからこそ集客に「成功」できたのだろう。だとすれば、問われる のは、なぜ博覧会の中身が、多くの人びとが楽しめる展示と遊興のための施 設を並べるものとなったのかである。 この答えを考えるために、ポートピア’81の理念やテーマの設定と、その 後の計画の策定ならびに具体化までの過程を振り返りかえってみたい。先に ふれたように、1978年に四団体の提唱を受けて設立された博覧会開催準備委 員会は、博覧会のテーマの設定を須田勇を座長とするテーマ委員会に委託し た。テーマ委員には、上田篤、川添登、米山俊直、梅棹忠夫、小松左京、陳 瞬臣、朝比奈隆といった知名度の高い学者・文化人が名を連ねていた14)。 テーマの背景となった基本理念は、概ね次のような内容である15)。まず、 神戸が海を介して世界と日本をつなぐ役割を果たし、世界諸地域の人びとと 46.
(21) 観光イベントとしての博覧会. 文化が共存してこの町をつくりあげてきた歴史を確認する。そして、 「人類 史の地球時代」に直面して、 海にゆかりのある地域社会の生活をよりよくし、 世界に開かれた港と文化の伝統を開花させようと呼びかける。それは、海を なかだちとしつつ、世界の人びととの喜び、楽しみ、知恵、技術、福祉など の広い交流と、その深い蓄積をはかる「海の文化都市」の創造につながるの であり、この博覧会を開催する意義であることを示している。 そして、この基本理念を前提にした議論の結果、メインテーマは「新しい “海の文化都市”の創造」と決まり16)、その下に四つのサブテーマとして、 「魅 力ある海の未来都市」 、 「21世紀の港とくらし」 、 「広場としての太平洋」、「手 をつなごう世界のふるさと」が置かれた[ポートアイランド博覧会協会 1982a:105]。 このように、海を介した人びとの結びつきと文化の展開が強調して述べら れているものの、当然のことながら、基本理念やテーマは普遍的、抽象的な 表現を免れない。そして、現実の展示館をはじめ博覧会の具体的な空間の構 成は、その後の計画過程で別の機関や人びとに委ねられることになる。 博覧会開催準備委員会は、テーマの検討とほぼ同時に、博覧会の基本構想、 基本計画の策定、テーマ館等の設計・演出、会場内のイベントやセレモニー の演出などの原案作りを、総合プロデューサーとして抜擢した小林公平に委 託した。当時、宝塚歌劇団理事長(後に阪急電鉄社長)だった小林は、阪急 神戸博協力室を編成し、 そこで博覧会の具体的な計画が練り上げられていく。 そして、テーマを基本構想へと落とし込んでいく段階で、集客のできる非日 常の演出を基調とする博覧会像が浮かび上がってくる。 小林はテーマ設定の議論のなかでも、 「テーマがあって、どう展開してい くか、でなく、どうやったらお客さんがきて、楽しんでもらえるか、それか ら絞り込んでいく方法もあるのではないか」 という発言をしている。つまり、 集客と娯楽が優先するのであって、テーマはそれに合わせて後から決めれば いいと言っているわけである[宮岡1982:62]。さらに、基本構想の考え方を示 すなかで次のように述べる。 「神戸博も、つまるところ大衆とともにあるべ きものである。人々は、非日常的な体験を求め期待をもって、会場というス 地域創造学研究. 47.
(22) 論文. テージに集まってくる。 (中略)われわれは、博覧会場を“新しいエベント空 間の創造”と位置づけて、全体演出がなされるべきであると思う」 。これらの 言説は、エンターテイメントの経営に通じていた小林からすれば、当然の発 想だったと思われる。かくして、“海の文化都市”の創造は“イべント空間”の 創造に読み替えられ、そこでは運営者のショーマンシップが肝要だと指摘さ れたのであった[ポートアイランド博覧会協会1982a:108]。 ところで、掲げられたテーマをそれなりに噛み砕いて落とし込んだ基本構 想の段階でも、出展企業・団体とパビリオンの現実的な構成についてはほと んど未定であった。博覧会のこれらの具体的な内容に関しては、主催者の中 心である神戸市の経済局に設けられた開催準備室がプロジェクトチームと なって検討を進めることになる。1978年6月時点では、期間72日、会場面積 は35ヘクタールで、展示館は30館という博覧会の前提条件が想定されていた [宮岡1982:44]。当初、開催準備室ではこの線に沿って、公社、自治体と地元 大企業・中堅企業の出展を基本に据え、パビリオン内もコマ割りにして振り 分ける方法を考えていた。しかし、経済局長で後に博覧会協会事務局長とな る宮岡寿雄は、過去の地方博程度のものならやらない方がいいとし、沖縄海 洋博クラスにするためにも集客力のある大企業のパビリオンを誘致すること を強く主張する。議論の末、宮岡の主張がとおり、大企業・企業グループの 勧誘が精力的に展開されていく。そして、 東京の大企業との折衝の過程では、 当初予定していた開催期間では投資に見合わないという注文がつき、集客の 見込める夏休みを含んだ6か月に延長が決まる[真渕2005:683-685]。また、会 場面積も約2倍に拡がり、来場者見込みも最初の230万人から1300万人まで に膨れ上がっていった。 こうして、出展企業の要望にも合わせる形で計画が修正・変更され、ポー トピア’81は実現したのであった。人気を集めた大企業・企業グループのパ ビリオンにおける巨大映像や擬似的な体験型のアトラクションについては、 前節でみたとおりである。また、これらの展示内容の企画や施工の多くは、 従来から博覧会を手掛けてきた電通や乃村工藝社のような大手の広告代理店 やディスプレー専門業者が請け負う結果となった[ポートアイランド博覧会 48.
(23) 観光イベントとしての博覧会. 協会1982c]。 楽しみを提供する展示やパフォーマンスがポートピア’81の基調であった としても、その原因を、現実に計画を策定した小林たちや、展示を企画・演 出した大企業(グループ) 、あるいはそれを誘致した宮岡らの意向だけに帰 すことはできないだろう。たとえば、テーマ委員会において、神戸市婦人団 体協議会の専務理事だった妹尾美智子は、 「…サブテーマを見ても一向に楽 しくないし、見に行こうかなという気持にもならない。遊びというか、楽し さというかそんなものが出てきてもいい」と、率直な発言を残している[宮 岡1982:61]。また、前節で紹介したオムニマックスという体験型の映像アト ラクションは、世界の名所や奇観を巡るものであったが、これらの「行先」 や「コース」の企画のあらましは、市内の小中学生からの公募によって提案 されたのであった。さらに、明治の街並みを再現して人気の高かった「異人 館通り」やサーカスの興行も、小林がこだわった「市民提言」のなかから生 まれている[宮岡1982:85]17)。このように主催者だけでなく、観客の目線から しても、博覧会は楽しいイベントである必要が感じられていたし、それが望 まれていたのである。 さて、本節の最後に、観光キャンペーンの場としてのポートピア’81につ いてふれておこう。すでにみたように、国際広場でのパフォーマンスという 異文化の展示は、ポートピア’81が他の国や地域に観光客を誘引する場とし ての機能をもっていたことを意味する。そのことは、海外の国・地域や日本 各県が行った展示や即売に、より直接的に表れていた。外国の展示は多くの 場合、観光局が関与しており、観光キャンペーンを兼ねた。おそらく、背景 には当時、日本人の海外旅行が急速に伸長していたことがあったが、1980年 時点では、海外旅行者は年間391万人にとどまり、史上最高となった2000年 の1782万人には遠く及ばない。多くの日本人にとって外国は依然として未体 験の憧れの場所であった。 ところで、国内から展示参加した自治体について、人々のふれあい、楽し み、豊さの交歓の場として“ふるさとの日”が設けられていた。“ふるさとの日” では、地方自治体館に出典した28の団体が、式典と郷土芸能を中心に、地域 地域創造学研究. 49.
(24) 論文. の生活文化を国際広場で披露した18)。また、会場では特産物や郷土を紹介し た冊子等の配布を行い、各都県市が紹介された[ポートアイランド博覧会協 会1982a:320]。また、各おのの展示館も特産品中心の展示を行った。この時 期の国内では、ディスカバージャパンキャンペーンや「地方の時代」といっ た、その後の「ふるさと創生事業」に連なる“ふるさと”ブームと呼べるよう な潮流があり、こうした企画を後押ししたものと思われる。. おわりに――観光イベントとしての博覧会は持続可能か 博覧会は名目としての理念やテーマ――その中心は科学技術や社会の「進 歩」――を掲げながらも、その内実は、地域開発と景気浮揚という経済動機 を背景にして創り上げられる投資と消費のための空間であり、それ実現する うえで必要となる大量の来訪者を集めるための娯楽を中心に据えた観光のイ ベントである。本論では、観光イベントとしての博覧会の基本的な枠組みを このように措定し、ポートピア’81を事例として具体的に検証を試みた。集 客の見込めるアトラクションとしてのパビリオンや途切れることのないパ フォーマンス、そしてパンダやサーカスや遊園地といった複合的な娯楽のメ ニューが、ポートピア’81という観光イベントを構成し、主催者サイドが戦 略的にそれを追求したことをみてきた。 また、ポートピア’81の事業の手法についてみれば、従来のやり方が適用 された。大企業中心のパビリオン、出展者の誘致や展示企画における大手広 告代理店の関与、系列大手建設会社による施工、テレビ・新聞等のマスメディ アを通じたPR戦略などは、すでに大阪万博で示され、その後の博覧会でも 踏襲されてきた。こうした点では、たしかにポートピアは大阪万博の「おさ らい」にすぎない。しかしながら、ポートピア’81という博覧会は、観光イ ベントとして、ひとつの到達点を示すものだったのではなかろうか。それ以 降の地方博覧会は、少なくとも集客数の実績ではポートピアを越えることが できなかったのである。 ここでは、ポートピア’81後の博覧会を取りまく状況の変化を捉え、現代 の日本において博覧会という観光イベントのもつ可能性を考えてみたい。 50.
(25) 観光イベントとしての博覧会. 1990年代の後半からは、規模や回数をみても、博覧会は全体として明らか に縮小傾向にある。やはり、大きな背景にバブル経済の破綻以降の長引く経 済の低迷という環境の変化があろう。また、国・地方自治体の財政状況の悪 化によって、行政が赤字を生むリスクの高い博覧会に公的資金を支出する余 裕がなくなったし、企業も同様に本業の成果とは直結しない事業への出資に は二の足を踏むようになった。 次に、博覧会が観光イベントとしての誘引力を低下させたと考えられる。 ひとつには、博覧会というアトラクションそのものの限界があろう。大阪万 博を模範としてパビリオンを並べ、機械化された演出技術で見せる展示も大 きな変化が望めなくなった。ポートピア’81の時点では、万博からバージョ ンアップした新しい技術(特に映像)で見せるパビリオン主流の展示方法が、 まだ通用した。大画面、音響、ロボット、揺動床などを組み合わせたシミュ レーションによるスペクタクルは人びとに新鮮味を与えたであろう。しかし、 80年代末のブームにおいては、 似たようなテーマの焼き直しが多くみられた。 場合によっては展示そのものを文字通り「使いまわし」ていた。たとえば、 89年に福岡で開催されたアジア太平洋博で最も人気のあった富士通館の立体 CG映画“ザ・ユニバース”は、実はつくば科学万博に出展したものだったし、 松下グループは、大型マルチ映像“宇宙から地球への冒険旅行”を世界デザイ ン博、アジア太平洋博、海と島博の三つに出展していた[難波2009:13]。その 結果、同工異曲のパビリオンと展示というマンネリ化が広まり、観客にも飽 きが生じたものと思われる。 また、一方で多様な観光アトラクション――皮肉なことにそのほとんどが 博覧会から派生したものだが――の発達が、博覧会を相対的に陳腐なものと したことも影響していよう。たとえば、水族館では大規模化と新技術を用い た多様な展示手法がみられるようになる。世界の海、太洋、深海等のテーマ をもった魚類の展示や、裏側をみせるお泊りツアー、コンサートの開催など、 観光施設化の動きを強めていった。また、旭山動物園の行動展示のように、 動物本来の活動を引き出す展示手法がアトラクションとしても高く評価さ れ、多くの観光客を集めている。美術館もジブリアニメに登場するデザイン 地域創造学研究. 51.
(26) 論文. のような、従来なら取り上げられなかった題材を用いて集客力のある企画展 示を志向するようになる。また、こうした施設群では、レストラン、カフェ とショップが収入増を補強する必携のサービス機能として認識され、それ自 体が来訪の目的となるような例も増えてきた。 しかし、博覧会に最も大きな影響を与えたのは、おそらくテーマパークで あろう。博覧会のアトラクション機能を中心に常設化した施設がテーマパー クであり、1983年の東京ディズニーランドの登場は最大の画期であった。す でにみたとおり、大型画面の映像技術や自動制御によるロボットのパフォー マンス、高度の演出技術を施したライドなどで構成されるアトラクション群 は、博覧会のパビリオンのそれと同類のものであり、自ずと競合する性格の ものであった。しかも、テーマパークのアトラクションは、抽象的、一般的 な宇宙や未来や異文化に表象の源泉をもつのではなく、メディア作品のス トーリーとキャラクターを基礎に展開され、具体的で既視感のある追体験を 来訪者に提供する。こうした点でも、テーマパークは博覧会を上回る魅力を 提供したものと思われる。 テーマパークの登場は、企業が広告戦略の観点からも博覧会から遠ざかっ た理由のひとつになっている。博覧会という期間限定のイベントへの出展や 施設提供によって広告機会を確保するよりも、テーマパークのアトラクショ ン施設についてスポンサー契約を結ぶことで恒常的に広告を打てる方が効果 的とみなされたからである[難波2009:29]19)。 このように、経済環境の悪化やアトラクションとしての魅力の低下は、結 果として、 観光事業としての実現性を失わせることになっただろう。そして、 もうひとつ重大な条件の変化がこの間に起きる。それは「進歩」を掲げる時 代の終焉であり、2011年の東日本大震災でこの変化は決定的になる。「進歩」 による明るい未来への期待や信奉が抱けない現在、博覧会そのものが開催す る最大の名目を失った20)。 こうしてみてくると、 大規模なパビリオンの並び立つ20世紀的な博覧会が、 少なくとも今の日本で再び脚光を浴びるとは考えにくい。進歩を掲げること ができない現代では、博覧会のテーマも変容する。しかし、博覧会がすでに 52.
(27) 観光イベントとしての博覧会. 娯楽と消費の祝祭の場として定着してきた経緯からすれば、負の遺産や社会 的課題を真っ向からテーマに据えても、気楽な遊びの場にはなじまないだろ う。 かりに、博覧会の可能性を探るのであれば、“町中博覧会”のような形を模 索するしかないように思う21)。そこでは、既存の施設や、都市の環境そのも のを会場として活用し、ボランティアガイドが介在してその場所の文化や歴 史や生活を題材に、来訪者との双方向のやりとりが生まれるようなイベント のあり方が志向される。この動きの背後には、都市の市民側が主体性をもっ たイベントを企画し始めた一方で、都市を歩くことで楽しむタイプの観光へ の関心が増大し、特別に演出されない地元のモノや人との関係に価値を置く 観光客が増加してきたことがある。2006年に開催された“長崎さるく博”は、 新たな観光イベントの可能性が開かれていることを示している。 また、こうした性格のイベントでは、一ヵ所の会場に膨大な観光客を集め るのではなく、都市の随所をアトラクションとして分散して客を引き込むこ とになる。巨大パビリオンや地域外の大企業ではなく、地元の様ざまな店舗 や産業や団体が参画することで成立するため、観光事業の性格も異なってく る。したがって、従来の枠組みでは捉えられない博覧会を観光イベントとし て研究の視野に入れていかなければならないだろう。 表1 ポートピア’81の国内展示館と展示内容. 地域創造学研究. 53.
(28) 論文. 54.
(29) 観光イベントとしての博覧会. 全. 地域創造学研究. 55.
(30) 論文. 注)ポートアイランド博覧会協会1982『神戸ポートアイランド博覧会公式記録』より作成。. 表2 ポートピア’81の催し物(ナショナルデー・スペシャルデー). 56.
(31) 観光イベントとしての博覧会. 注)ポートアイランド博覧会協会1982『神戸ポートアイランド博覧会公式記録』より作成。. 本稿は2011年度県費共同研究助成(テーマ:都市における博覧会・イベン トの観光的性格―歴史学・社会学からの考察―)を受けて作成されたもので ある。 注. 1)観光イベントには確立した定義があるわけではない。イベントの種類には、 その目的によって宗教イベント、スポーツイベント、政治イベント、コン ベンション、博覧会・見本市などがあるが、それらが娯楽と集客の性格を もつ場合、観光イベントと呼ぶことができよう。 2)しかし、こうした「過去」の展示には、ある種の偏向がかかっている。戦争、 災害、大事故等の負の側面を示す悲惨な過去は基本的に取り除かれる。一 例をあげれば、大阪万博のテーマ館に計画された原爆展示は、政府や自治 体から「なまなましすぎる」との横ヤリが入り、展示内容の変更を余儀な くされた。また、日本館の歴史展示は、明治から現代へと飛び越えること で戦争の記憶を消去した[吉見2005:59]。ここには、いわば「消毒作用」が生 じているが、それは文化遺産が観光対象化される際に共通してみられる現 象でもある[荻野2002:25]。 3)19世紀の博覧会でみられた「珍しい人間」の展示はその象徴だろう。そこ で問題となってきたのは、欧米の人びとの植民地の民族に対する一方的な 文化表象の仕方であった。異文化をもつ彼らは、一方では「野蛮な未開人」 として、他方では「楽園に住む高貴な人びと」として表象されたが、いず れも「進化」した西洋文明の内部に認められない要素を他者に投影してい る点では同根である[吉田1999:31-34]。 4)その他に、神戸港から出発する世界旅行をみせるジオラマ館「世界一周館」 (会場外) 、曲馬、浪花踊、台湾芝居、動物園、応挙画展覧会、琉球女踊、. 地域創造学研究. 57.
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