南船北馬集 : 第十一編
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
14
ページ
247-364
発行年
1998-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002957/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja1.冊数
1冊
2 サイズ(タテ×ヨコ) 188×127m 3.ページ 総数:133 目次: 1 本文:132 シ 薩.麗 北.灘 第治一編 ↑鰹 今 し 藁. ﹂轍き ざ ぴ ざ さ灘 ・灘ぺ藁烹灘 錫⋮チ籔 ¢べ 纈蟻葬上〆薗薯艶 w < ぶモ / ぱV 人 ﹀ ※ 鍵 が ㊤繋 ….A き護灘曇馨 .ー
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M cた﹀ぼジ× 。 っ 4.刊行年月日 底本:初版 大正4年12月18日 5.発行所 国民道徳普及会岡山県巡講第一回︵備前三郡、備中三郡︶日誌
南船北馬集 第十一編 大正四年二月十五日。午後三時、東京発にて岡山県巡講の途に就く。随行は静恵循氏なり。この日、旧暦一月 二日に当たる。岡山県は備前、備中、美作の三国にわたり、一市十九郡、人口百二十万を有する大県なり。御津、 赤磐、和気、邑久、上道、児島の六郡は備前に属し、浅口、小田、後月、吉備、上房、都窪、川上、阿哲の八郡 は備中に属し、真庭、苫田、勝田、英田、久米の五郡は美作に属す。 二月十六日 晴れ。午前十時半、和気郡三石町︿現在岡山県備前市﹀に着す。村名の由来につきて異説あり。一説 にその名は光石より転じたるものなる由。古代よりこの地に鏡石ありて、よく人の姿をうつす、故に光石と呼べ りという。また、歴史上伝えきたる三個の名石あるによるとの一説と、村内の地名に石の字の付きたる所三カ所 あるによるとの一説あり。本村の物産としては石のみなれば、あるいは満石と解するも可ならん。なかんずく陶 器、煉瓦の耐火原料を産出するをもってその名高し。また、村内に神功皇后の御休憩遊ばされしと伝うる地あり て、その場所より今に一種の奇石を出だす。これを孕石と呼ぶ。郡役所より視学三村剛氏、ここにきたりて迎え らる。会場は公会堂、発起は町長大谷飛登氏、校長小高真寿太氏、会社長武本善平氏等なり。武本氏はもと京北 出身たり。宿所角屋の掲示を見るに、宿泊料並等四十銭、中等五十銭、上等六十銭とある。すこぶる安価なるを 知る。 閣 十七日 晴れ。暁寒強くして︹華氏︺三十八度に下り、瓶水氷を結ぶ。三石より福河まで山道二里半なれど、車行にては播州赤穂郡内を経由するをもって四里半あり。福河村く現在岡山県和気郡日生町、兵庫県赤穂市∨は福浦と寒 河との両大字より成る。寒河をソーゴと読ましむ。産業は一半農業、一半海運業にして、和船により近海の運送 に従事するもの多しという。また、本村の特色としては全部ほとんど真宗にして、寺院参詣の多き一事なり。け だし岡山県としては信仏の盛んなること、これに類する町村は他になかるべし。会場は小学校、宿所は西願寺、 発起は村長萩原匡則氏、校長橋本悦治氏、住職望月周英氏等にして、萩原村長特に尽力せらる。この日、途上吟 一首あり。 吾愛山陽面海南、四時光景緑於藍、東都二月霜風冷、去到備前春已酷、 ︵私は山陽の地が海を南に接して、四季を通じての風光は藍よりも緑濃いことを愛している。東京の二月は 霜を含んだ風が冷たく吹いているのであるが、備前の地に来てみれば春はすでに盛りなのだ。︶ 十八日 晴れ。福河を発し、日生町を経て伊里村︿現在岡山県備前市﹀に入る。行程二里余、その間、海を左にし 山を右にして行く。群轡水をめぐりて海みな湖のごとし。風光明媚、大いに吟賞するに足る。日生町をヒナセと よむもまた奇なり。この町には一種特殊の方言あり。 アナタをヒナタといい、自身をウラという。一説にヒナタは日向すなわち表の意、ウラは裏の義ならんとい うも信じ難し。また、たくさんをホテリキという。たくさんタベヨというべきをホテリキクワンセという由。 伊里村は延長三里、戸数約千、郡内の大村なり。村内には熊沢蕃山先生の遺跡多し。その当時、耕地を整理し て、井田法を実施せられし跡あり。その部落を今に井田村と称す。また、先生の退隠せられし蕃山の地あり、こ れをシゲヤマと呼ぶ。当時の居宅を息游軒と名付けられしが、その旧趾に碑石立てり。また、ここに真言宗正楽 248
南船北馬集 第十一編 寺ありて、多く先生の遺物を所蔵すという。住職上品全定氏は哲学館出身なり。この日寸暇なきをもって、いち いち討尋するを得ざるを遺憾とす。所吟一首あり。 群轡続海水成湾、来往風光明媚間、客裏欲尋古賢跡、備南一跡入蕃山、 ︵多くの山波が海水をめぐらせて湾をつくり、風景にいきつもどりつしつつ美しさに心を動かされている。 旅の身はむかしの賢人︹熊沢蕃山︺の遺跡をたずねようと願い、備前の南の地にある蕃山︹シゲヤマ︺に入った のであった。︶ 会場小学校は高所に位し、湾角を一瞥するを得て、眺望やや佳なり。開会は伊里役場の主催にして、村長吉原 九介氏、医師大饗恭三氏、軍人分会長大西長次郎氏、青年団長松原喜四郎氏等、みな尽力あり。当夕、大饗氏の 邸宅に宿す。本村の特色は、一村だけの需用に供するために、村設電灯ある一事なり。 十九日 雪のち晴れ。暁地一面に微白を敷く。午前、宿所を発し、車行一里半にして閑谷費に至る。伊里村の 北端にあり。余は明治二十四年秋ごろ、西毅一氏貴長たりしときにここにきたり、蕃山先生以来の聖廟、講堂、 石垣を一覧せしことあり。今回再びきたりて講話をなす。校長有森新吉氏は大学同窓の旧知なれば、その寓所た る草庵に入りて午餐を喫す。満漢の雪色、銀世界を現出し、吟望すこぶるよし。教頭は伊藤正胤氏なり。東洋大 学出身目加亀太郎氏もここに教鞭をとらる。午後、天ようやく晴れ、雪たちまち消尽す。これより車行二十七丁、 吉永駅より汽車に駕して和気町︿現在岡山県和気郡和気町﹀に着す。これ郡衙所在地にして、郡長石川良道氏等数名 の歓迎に接す。会場小学校および旅館水明楼は、川流にそいて眺望ともに佳なり。本町の入口に巌山の屹立せる あり。﹁節たる南山これ石巌々﹂の相を有す。その形、富士に似たりとて和気富士と称す。一方の懸崖に﹁南無妙 249
法蓮華経﹂の七字を刻せるあり。一字の大きさ二間四方ありという。当地本成寺に哲学館大学出身原田日勇氏住 す。発起者は町長岸本亀次郎氏、助役日笠正美氏、校長新置観信氏なり。本町に二月という奇姓ありと聞く。こ の日、閑谷費にて詠じたる一首あり、左のごとし。 乱山堆裏一渓長、尽処甕光是聖堂、二百年前講文跡、依然今日読書場、 ︵乱れたつ山のかさなるうちにひとすじの水流があり、その奥まったところにいらか輝く聖堂がたっている。 これこそ二百年前に学問を教授した跡であるが、依然として今日もなお教学の場なのである。︶ 本郡藤野村は和気清麻呂公の出身地なりと聞く。 二十日 開晴。暁気︹華氏︺三十七度。満地の降霜その白きこと雪のごとし。車行二里半、片上町に入り、更に 八丁の葛坂と上下して伊部町に至る。備前焼陶器の本場なり。郡書記木村一氏の宅に少憩して陶器を一覧す。そ の宅の堂号を黄蕨堂という。陶器数品を恵与せらる。午後、片上町︿現在岡山県備前市﹀劇場興進倶楽部にて開演す。 主催は両町連合にして、発起は片上町長中村基四郎氏、伊部町長岸本種治氏、片上校長梅延浅一氏等なり。宿所 荒木、一名恵比寿屋はハイカラ式の旅館にして、館内使用の草履、その長さ一尺余あるは天下一品ならん。余は 主人のもとめに応じ、恵比須にちなみて釣福亭と命名す。かつ一詩を賦してこれに与う。当地には片上八景あり て風光ことによし。 春遊何処我車停、片上湾頭釣福亭、吟賞風光禁葛坂、焼陶姻漆半山青、 ︵春の遊びにいったいどこにわが車をとどめようか。ここは片上湾のほとり釣福亭である。風光を吟じめで つつ葛坂にのぼれば、陶器を焼く煙があたりにみなぎり、ようやく山の半ばが青々としているのである。︶ 250
南船北馬集 第十一編 和気郡は備前中にて播州に隣接せる故、人気も赤穂地方に似たる点あり。また、各会場の演説の前後、聴衆一 同起立して敬意を表せられ、すこぶる鄭重の風あり。郡内の山間部に八塔寺と名付くる一部落ありて、今は三国 村に加わる。その風俗すこぶる素撲なりという。本県の俗謡に左のごときものあるを聞く。 オッサンドコナラ、ハットウジ︵八塔寺︶、モンパノ股引ヌックイナ、風ガワイタラカーイーナ、 オッサンとは中老の男を呼ぶ俗語なり。 二月二十一日︵日曜︶ 晴れ。片上を発し行くこと約一里、香登村字大内、津田謹吾氏庭内にある臥龍松を訪う。 経年二百余年に過ぎざるも、一幹九岐千枝、しかして幹囲十八尺、枝朶の長さ東西二百五十尺、南北百五十尺、 樹高二十五尺あり。その横臥の長さは日本第一と称す。昔時、備前侯より肥料として毎年米三石を賜りしという。 ときに即吟一首を得たり。 大内村頭有老松、満庭蒼影四時濃、鯨身鶴骨三千尺、二百年来古臥龍、 ︵大内村には年をへた松がある。庭いっぱいに葉影をのばして、四季を通じてみどりは深い。鯨のような幹 のふとさと鶴の羽ばたきのごとき枝は三千尺もあろうかと思われ、二百年をこえる古い龍の臥す姿の松であ る。︶ 三村郡視学とここにて相別れ、更に車を駆ること約三里にして邑久村︵現在岡山県邑久郡邑久町﹀に入る。本村は 邑久郡の中央に位せるをもって郡衙を置かるるも、郡役所所在地としては県下第一の寒村なりという。たまたま 郡教育会を開催せらる。会場小学校の門前に脚車すなわち自転車の数、およそ百台以上に及ぶ。本郡は平坦なる も鉄道なし。故に脚車の多きこと県下第一にして、ある村落のごときは= 一台の平均なりと聞く。物産として 251
は米麦あるのみ。民家にては炉中に湯を沸かすに多くモミガラを焼き、その灰を火鉢に用い、藁は燃料に用いず という。これ本郡の特色とす。開会発起は郡教育会長兼視学塩見東八氏、副会長林甚八氏、邑久高等校長宇治大 治郎氏なり。塩見氏は先年、上房郡にて相識となれり。当夕、旅館大黒屋にて郡長斎藤威郎氏等と会食す。昨夜、 本郡尻海と名付くる所に神田神社の会陽ありしと聞く。会陽は備前独特の祭事にて、上道郡西大寺における毎年 二月十四日の会陽を県下第一とし、これに次ぐものを神田神社の会陽とす。男子は裸体になりて互いに押し合い、 神木と名付くるものを争い取るなり。一種異風の祭事というべし。西大寺の会陽と成田の豆マキとは東西対立の 勢いあり。 二十二日 穏晴。早暁、厳霜を見る。京北出身吉田関治氏、笠加村より来訪あり。午前、高等小学校庭前の講 壇に登りて、生徒に簡短なる訓誠的談話をなす。本郡は各小学校に講堂代用として、煉瓦にて積み上げたる庭前 講壇を設くるもの多きは特色の一ならん。これより車行一里半にして国府村︿現在岡山県邑久郡長船町﹀に至り、午 後開演す。会場は小学校、宿所は井上寿正氏宅、発起は村長島村甚吉氏、助役高原清八氏、校長大河原生二氏な り。当村に隣れる行幸村に備前長船名刀の家ありて今なお存す。郡教育会より助兼作の短刀を恵与せらる。この 地にて聞くところによるに、郡内の田地は一反につき七俵ないし十俵の収穫ありて、小作料は三俵半より五俵、 売買相場は四、五百円ぐらいなりという。 二十三日 風雨。車行四里、駅道平坦なり。会場は牛窓町︿現在岡山県邑久郡牛窓町﹀小学校にして、校舎は堅牢 の新築なり。その位置丘上にありて眺望すこぶるよし。当町は海湾を帯び、島喚を擁し、風光明媚をもって聞こ ゆ。この日大雨なるにもかかわらず、聴衆は五間十五間の会場に立錐をいれざるほどに充溢す。発起者は校長林 252
南船北馬集 第十一編 甚八氏、助役谷源三郎氏等にして、宿所は蔦屋旅館とす。一町の生計は海産業および船職工なり。その職工は和 船造営に従事す。また、材木の豪商ありて各国の材木ここに輻湊す。戸数千戸、郡内第一の都会なり。この町の 名物の一を唐子踊りとす。その歌は朝鮮より伝えたるものという。 ﹁サアーチヤー、アーハンヱーヱーヱ、ヤンヤハシユンレー、﹂同二度ニイモーヲ、オーシユンレイヱーヱ、 ゴヲモーヲデーヤアーソー、ハアーヲーカンヱー、ヱイソヲーヱーヱー、オントヲロオーロオチイー、アー ソオーモ、ヒイーヤ、ハアー、ツンテンーテレヅチツテツテンーツトン、チイーチンーチリツント、ヒイー ヤ、テレツツトントン、︵その他は略す︶ また、町内には万灯または高祖の姓あり。讃州小豆島へは海上四里、一日間にて往復するを得という。 二十四日 好晴。昨雨全く晴れ、和日軽風、湾上の風光眼前に映射しきたる。海上に小峡の円丘をなせるもの あり、これをカマボコ島と名付く。その傍らにクソシリ島あるは珍名なり。車行一里にして鹿忍村︿現在岡山県邑久 郡牛窓町﹀に入る。途上吟一首あり。 軽車衝雨入牛窓、前後長湾狭似江、一夜姻収春天揖、愛看円興両相双、 ︵軽快な車は雨のなかを走って牛窓町に入った。前後につらなる湾は細く川に似ている。一夜にして霞も消 えて春の空がひろがり、円い丘を思わせる島のならぶのをいとおしく眺めたのであった。︶ 会場は小学校、発起は村長馬場保太郎氏、助役出射敏氏、校長岡崎勉氏、宿所は志賀旅館なり。本村は維新前 には塩田をもってその名高かりしが、今はわずかに一部分を存するのみ。その代わりにカボチャの産地となると 53 2 いう。
二十五日 快晴。車行二里余、幸島村︿現在岡山県岡山市﹀に至る。途中、郡内第一の名刹たる真言宗弘法寺を望 みて過ぐ。会場は小学校階上の講堂にして、発起は村長岡崎鉄五郎氏、校長阿部周三氏、宿所は正陽軒なり。本 村は前に海湾を抱き、背に松丘を負う。その丘を神社山という。巨巌往々老松の間に屹立す。海峡半里を隔てて 児島郡と相対す。 本郡の特長は人口の過多なる一事なり。面積十一方里の間に五万二千人を有す。すなわち一方里に四千七百人 の割合となる。また、聞くところによるに、農家の食事は一日四回または五回を常とす。朝五時朝飯、午前十時 昼飯、午後二時お茶ヅ、晩六時夕飯、夜十時夜食を喫す。茶ヅとは茶漬けの略語なり。 二十六日 風雨。幸島より西大寺を経て赤磐郡潟瀬村︿現在岡山県赤磐郡瀬戸町﹀に着す。車行四里、小学校にて 開会す。しかして当夕は瀬戸町に移り、郡部第一の旅館たる風月楼に宿泊す。後楼より汽車の走るを座視すべ し。この町は昨年まで物理村と称せり。村名としては珍しき名なる上に、これをモドロイとよむは奇さらに奇な り。発起は潟瀬村長土井和清氏、校長玉谷俊吉氏、瀬戸町長元岡藤七郎氏にして、郡視学石原猛男氏助力せら る。 二十七日 雨。車行二里余、豊田村︿現在岡山県赤磐郡熊山町﹀にて開会す。会場小学校は明治二十年度の建築に して、当時の西洋館なれども、今日にては骨董的古物となる。休憩所は河和平治氏宅、宿所は永瀬初次氏宅、発 起は校長平井又次郎氏、訓導森田友吉氏等なり。終日、雲浜々雨粛々たり。この隣村に当たる石生村をイワナシ とよむはやや奇なり。 二月二十八日︵日曜︶ 旧一月十五日に当たる。午前、北風霰を送りきたり、午後に至りて晴るる。ただし寒気 254
南船北馬集 第十一編 強し。豊田村にケーマロ塚と唱えきたれる墳墓ありて、和気清麻呂公の墓ならんとの伝説あるを聞き、出発の際 一覧せしに、和気の二字は読み得るも、その他は腐蝕して見えず。これより霰をおかして山路にかかり、車行二 里、一嶺を登降して佐伯本村︿現在岡山県和気郡佐伯町﹀に至る。この地方、車馬連続して薪木を運出す。山には松 樹多し。会場は小学校、発起は本村長宮内忠祥氏、校長森郁四郎氏、佐伯上村長岡崎虎太郎氏にして、宿所は柴 田楼なり。隣村なる佐伯北村には婦人共有田およそ三反ほどあり。毎年春秋二期に、その所得金をもって婦人の 大宴会を設くる慣例ありと聞く。けだし全国無類ならん。 三月一日 開晴。暁寒︹華氏︺二十八度に下り、硯水もまた凍る。希有の泣寒と称す。地上積罷三寸、暁望一面 に白し。車行三里、船にて吉井川を渡ること二回、和気郡内を一過して周匝村︿現在岡山県赤磐郡吉井町﹀に入る。 吉井川は県下三大川の一にして、津山より西大寺まで十五里の問舟行の便あり。川上舟子相連なりて船をひき上 ぐる声、波に反響して聞こゆ。 暁雪如銀四望清、備山縦立作山横、風寒吉井川頭路、船子曳舟呼有声、 ︵暁の雪はしろがねのごとく輝き、四方はすべて清らかに見え、備前の山々は縦横に立ちふさがる。風は冷 たく古井川のほとりの道に吹き、ふなびとの舟を引く呼び声がきこえてくる。︶ 本村は作州国界に接続し、川を隔てて英田、勝田、久米三郡の連山と相対す。昔時は津山街道の一都会なりし も、近来交通不便のために寒村に化し、電信を発するにも四里以上の地に至らざるを得ずという。会場小学校講 堂は十間六間大にして、新築まさに落成す。発起は、村長早川陽吉氏、助役原魏氏、校長近藤恵佐久氏、宿所は 橋本旅館なり。当地にて名物老女として知られたる荒木やす子に面会す。本年八十歳、教育慈善事業に力を尽く 255
し、六十一歳より書を学び、今は能書の評あり。 二日 朝微雪、午時雨、午後全晴。車行三里、その間登路一里、降路一里の長坂を経て笹岡村︿現在岡山県赤磐郡 赤坂町﹀に至る。郡長飛田謙蔵氏、瀬戸町よりきたり会せらる。当日の会場は小学校、発起は村長原田重吉氏、校 長尾崎加四郎衛氏にして、宿所は周藤千太郎氏宅なり。夜に入り、寒月霜気を帯び湊山咬々たり。 三日 快晴。霜暁︹華氏︺三十六度。車行一里半、渓間の小流に従って下行し、鳥取上村︿現在岡山県赤磐郡赤坂町﹀ に入り、清満文太郎氏の宅にて休泊す。会場小学校は田間にありて、四面めぐらすに麦田をもってす。発起は村 長小坂峰三氏、校長遠藤長定氏なり。 四日 温晴。車行約一里、西山村︿現在岡山県赤磐郡山陽町﹀に入る。この間は郡内の平坦部にして、平田数里に 連なる。村内には煉瓦煙突数柱あり。みな醸酒家なり。郡内の物産は米麦を第一とし、これに次ぐものを酒とす。 その多くは摂州灘へ供給すという。なかんずく西山村は造酒最も多しとす。県下第一の造酒地だけに、本村長加 藤郁太郎氏は県下第一の酒豪なりとの評あるを聞き、﹁併得村長兼樽長﹂︵村長と酒樽の長もかねている︶の一句 を書してこれに贈る。会場は小学校、宿所は造酒家花房卯一郎氏の宅なり。この日、醸造すでに終わりて杜司の 送別会あり。本郡の杜司はすべて備中浅口郡よりきたる。花房氏の名酒は﹁花ノ友﹂を第一とし、これに次ぐも のを﹁占領﹂および﹁松緑﹂とするを聞き一絶を賦す。 赤磐漢上車能走、所駐西山家醸酒、講後欲医旬日労、春風一夕酔花友、 ︵赤磐の谷のほとりに車を走らせ、西山村の醸酒家にとどまる。講演の後にこの十日ほどのつかれをいやし たいと思い、春の風吹く夕べ、銘酒﹁花ノ友﹂をふくんで酔ったのであった。︶ 256
南船北馬集 第十一編 発起は加藤村長の外に助役小竹森善吉氏、校長森正長氏等なり。 五日 晴れ。車行半里余、高陽村︿現在岡山県赤磐郡山陽町﹀小学校に移りて開会す。校は田間にあり。発起は村 長菅形恵三治氏、校長房延唯次郎氏等なり。午後過暖、四面深く霞気をこめ、山影模糊、あたかも空中に灰を散 ずるがごとく、異様の天色を現ずるを見る。講演後、瀬戸町風月楼に帰着す。これにおいて郡内を一巡周了せり。 各所へは郡書記是友英夫氏の案内を受けたり。 赤磐郡の農家は一年を通じて一日四回ずつ食事をなす。朝六時ごろの食事を茶をのむといい、十時に朝飯、午 後二時にオチャヅ︵茶漬け︶、晩六時ごろヨーメシ︵夕飯のこと︶を普通とし、ときによりてはそのほか夜食をな すという。また、婚礼のときには大抵三度ぐらい吸い物を出だすが、その一つには必ず餅を入れたるものを出だ すを常例とす。しかるに近来新工夫の吸い物流行し、最初の吸い物は箸を添えず、椀の中に﹁敷島﹂を入れて配 膳し、主人より吸い物をお吸いくだされとの挨拶をなす。客その命により椀の蓋をあぐればタバコがその中にあ りとの話を聞けり。これ専売特許にあたいする吸い物の新案なり。 六日 晴れ。朝八時、瀬戸発にて備中浅口郡に向かう。玉島駅より一里半の間、腕車を用い連島町︿現在岡山県 倉敷市﹀に入る。途中、高梁川の仮橋を渡るに、堤防の大工事いまだおわらず、労働役夫相連なる。また、この日 旧一月二十一日に当たり弘法大師の命日なりとて、信男信女列をなして巡拝を行う。午前、小学校庭前にて生徒 に対し短時間の談話をなし、午後、講堂にて公会の演説をなす。東部教育会の主催にして、町長友沢清範氏、校 長真田正一郎氏の発起にかかる。浅口郡長村山奨吾氏、視学仲原鹿太郎氏、ここに出席せらる。宿所矢亀楼は小 旅館なるも、すこぶる茶趣を有す。この地方は昔時綿の産地にして、町内綿打ちを業とするもの多かりしが、今 257
日は綿は輸出品を用うるも、綿打ちは旧によりて多しという。当町の丘上にある箆取神社は郡内名所の一として 58 世に知らる。この日また春請檬々たり。 2 三月七日︵日曜︶ 雨。車行一里にして、郡内第一の都会たる玉島町︿現在岡山県倉敷市、吉備郡真備町﹀に移る。会 場小学校講堂は十五間と七間の大堂にして、建築の宏壮なるは他県にも多く見ざるところなり。主催は戊申会お よび中部教育会にして、発起は校長高橋茂一郎氏、訓導浅野辰之進氏とす。しかして宿所は山中旅館なり。当町 名物饅頭は大阪虎屋饅頭の元祖と称し、岡山市の吉備団子とともにその名高し。毎日二回、讃州多度津往復の汽 船あり。 八日 晴れ。車行一里半、黒崎村︿現在岡山県倉敷市﹀字沙弥浦円福寺、一名本性院に入る。山号を矢崎山という。 備海讃山の眺望大いによし。あたかも天造の大園池に対するがごとき観を有す。その堂前に奇松あり。その形雨 笠に似たり。よって笠松と号す。また、堂内には観音を安置す。故に所詠、左のごとし。 麦径行過入寺門、笠松迎我笑将言、四州三備風光美、集得観音堂側軒、 ︵麦畑の小道を行って寺の門に入れば、雨笠の姿の松がほほえみつつ物言わんといった風情で私を迎えてく れた。ここからの眺めは四国と三備の風光の美を、すべてこの観音堂の軒端に集めたかと思われるほどであ った。︶ その寺は天台宗に属す。郡内海岸に接したる所には天台宗最も多く、九分どおりを占むという。また、この沿 海地の特色は墓所を尊重するにありて、毎朝必ず墓参をなす。墓前に立つる榊やシキビの木はときどき取りかえ るために、葉の枯れたるものを見ず。発起は村長木村利雄氏、校長安倉嘉与治氏、住職龍妙叡氏なり。開会地た
南船北馬集 第十一編 る沙弥浦は古代の模範村にして、今より百五十年前、幕府より民俗醇厚なるかどをもって下賜金ありしに、これ を永遠に紀念せんとて一池をうがち、恵池と命名しきたれり。郡内鴨方出身の昔儒西山拙斎翁の碑文あり。しか るに今は全く美俗の跡を絶つという。風俗にも桑海の変あるものと見ゆ。実に嘆ずべきなり。宿寺の丘と相連な りて海中に突出せる所を龍王山という。その尽頭に海水浴場ありて、壮大の設備を有す。これを大観閣と名付く。 夏時の消暑に最も妙なり。 九日 好晴。黒崎より寄島町︿現在岡山県浅口郡寄島町﹀まで二里半の間、山路いまだ腕車を通ぜず。よって海路 をとり、石油発動機に駕して寄島に至る。海上讃州の連山に応接して過ぐる所、画中にありて行くを覚ゆ。会場 は小学校、宿所は旧家斎藤環一氏宅、主催は大正会、発起は町長亀岡魯一氏、校長森田孫作氏、郵便局長頃末賢 雅氏等とす。その一人に加わるものに金井義海と名付くる僧侶あり。雅号を自ら定めて臭僧と呼ぶ。ナマグサ坊 ・王の雅号は天下一品なり。午前は生徒、午後は公衆に対し両度演説す。この地は本県下の最暖地にして、地上に 霜雪を見るは四、五年中に↓、二回なりと聞く。三月上旬すでに菜花を見る。また、当地は麦桿サナダの元祖に して、一町の産額一年十万円ないし三十万円と称す。香川県の麦桿もこれより相伝えしものなりという。その他 神功皇后征韓凱旋の跡ありて、その奇跡に関する八景あり。よって一吟す。 客身来寓備陽湾、八勝競奇是別衰、神后当年御舟跡、今為山紫水明関、 ︵旅の身は備中の南の湾に寄寓す。ここはわが国の八景勝、奇観をきそうがごとき別世界である。神功皇后 征韓凱旋のときの寄港の地であり、いまや山紫水明のかなめの地となっている。︶ 十日 温晴。車行約一里半、里庄村︿現在岡山県浅口郡里庄町﹀に至る。会場および宿所は真言宗不動院なり。こ 259
れより山間部に入るに従い、真言宗多し。寺門の当面に禿頭山あり、毛浦山と称す。発起は村長安倍正一氏、助 役仁科数三郎氏、書記岡本市郎氏なり。本村は全く農村なるも、寄島よりここに至るの間は備中杜氏、代氏の本 場なり。代氏︵俗に庄屋と称す︶とは杜氏の助手をいう。聞くところによれば、この地方の米作一反につき三石 ぐらいの収穫ありて、小作料は一石五斗、売価は五百円ないし七百円という。他地方と大同小異なり。また、こ の村に忍ブ石と大原焼を出だす。大原焼は黒色陶器にしてやや異彩あり。一見黒光石のごとし。しかも耐火力強 しという。この隣村に天地金之神の金光教の本山あり。 十一日 晴れ。車行一里半、鴨方村︿現在岡山県浅口郡鴨方町﹀に移る。午前、実科女学校に至り、生徒に対して 講話をなし、午後、長川寺にて更に開演す。発起は村長石井康三郎氏、実科校長内山律太氏等なり。旅館酔月楼 は大瓢箪を所蔵す。物産は素麺とす。聞くところによるに、本村は今は海より隔たるも、往昔は海浜なりしため に、鴨潟と書きし由。よって他地方にては田に行くことを山に行くというが、この地にては沖に行くというはお もしろし。また、鴨方名物をよみたる歌に﹁鴨方に過ぎたるものが三ツある拙斎、索我、宮の石橋﹂といえるあ り。拙斎は儒者、索我は画家、石橋は鴨神社の境内にありて、橋下に道を通ずるものをいう。 十二日 雨。鴨方より小田郡矢掛町へは山路二里の所、峻坂にして腕車を通ぜざれば迂路をとり、汽車にて笠 岡に至り、更に軽便に駕して北川駅に降り、これより車行一里半にして矢掛町︿現在岡山県小田郡矢掛町﹀に入る。 はじめに中学校にて講話をなし、午後、劇場︵大正座︶にて演説をなす。開会に関し特に尽力せられしは、青年 団長守屋松之助氏︵町長︶、副団長世良長造氏、幹事中西覚一氏、評議員森下一郎氏等にして、中学校長は林文五 郎氏とす。その校教員藤原散一氏は京北出身なり。この地は福山と岡山との中間に位せる要駅なるも、近年鉄道 260
南船北馬集 第十一編 の便を欠きたるために、昔時のごとく盛んならず。名物としては柚餅子と柚煉あり。また、本町は小田川を隔て て松轡と相対し、洛陽嵐峡の趣ありという。よって一絶をとどむ。 矢懸渓上水渥援、声払世喧心自閑、松影轡光亦清絶、人呼三備小嵐山、 ︵矢掛の谷のほとり、水はさらさらと流れ、その音は世のかまびすしさを払いのけて、心はおのずから静か である。松の姿や山のかたちもまたはなはだ清らかで、人々はここを三備の小嵐山と呼んでいる。︶ 宿所小西屋の別館はその川に臨み、其轡に面す。 十三日 晴れまた雨。山上には夜来降雪ありて、暁望微白を認む。渓行一里半、美川村︿現在岡山県小田郡矢掛町﹀ 小学校にて開演す。尽力者は村長三宅敏郎氏、助役岡田武平氏、収入役武井慶治氏とす。学校を離れ約七、八丁 の所に長谷川譲氏の宅あり、ここに宿泊す。村内の物産は薪炭なりという。 三月十四日︵日曜︶ 春寒料哨、暁気︹華氏︺三十五度。宿所より約二十町をさかのぼりたる所に鬼ケ岳の奇勝あ り。危巌累々、絶壁千偲、その上部に一窟あり。昔時、その中に鬼住せりと伝う。早朝これを一見して七絶を賦 す。 美川村外望将迷、累々危巌続石漢、 窟懸天転堪仰、昔言山鬼此幽棲、 ︵美川村のはずれをながめて目をさまよわす。かさねあう岩石が岩底の水流をめぐらせている。一洞窟あり。 はるか上空にあるかと思われる絶壁上にあってしばし仰ぎみる。昔からの言い伝えでは鬼がここにかくれ住 んでいたという。︶ 田 この渓流の水底はみな一帯の岩石よりなるもまた奇なり。これより高梁町まで六里の間、腕車を通ずという。
更に車を駆り矢掛を経て中川村︿現在岡山県小田郡矢掛町、浅口郡鴨方町﹀に入り、南小学校に至りて開演す。宿所は村 長渡辺柳一氏の宅なり。発起は村長の外に助役間部隆三郎氏とす。本村は県下有数の養蚕地にして、果樹桃林も また多し。この背後に一帯の山脈あり、これを阿部山と称す。阿部晴明の住せし地なりと伝う。 十五日 晴れ。午前、車行一里半、新山村︿現在岡山県笠岡市﹀に至りて開演す。青年団長津島喜平二氏、副団長 浜田円明氏、顧問谷本覚氏の発起にして、園部三千平氏の宅に休憩す。会場は小学校なり。この辺りの山上には 松林のみ。午後、車をめぐらすこと約一里、北川村︵現在岡山県笠岡市vに移りて開演す。青年団長三浦益太郎氏、 副団長宮下儀一氏の発起にかかる。当夕、小田村原田旅館に宿す。小田は矢掛、井原両町間における一小市場な り。 十六日︵旧二月一日︶ 晴れ。この日、初午に当たれるとて一般に休業す。車行一里強、国道なればその坦なる こと、といしのごとし。後月郡に入り西江原村︿現在岡山県井原市﹀小学校にて開演す。宿所は正雲寺なり。ともに 甲山の麓にあり。村長片山鼎三氏、校長長尾協氏の発起にかかる。本村は興譲館の所在地なり。同館は坂谷朗盧 翁の開かれし塾にして、先館長坂田丈平氏は哲学館に教鞭をとられしことあり。ときに一作を得。 小田川上有書堂、七十年来訓義方、興譲余風今尚遍、村々落々俗淳良、 ︵小田川のほとりに学問所がある。七十年の久しきにわたって正しい人の道を教えてきた。興譲館の遺風は 今もなおあまねくいきわたり、ゆえに村々の風俗は淳良なのである。︶ 備中は従来、儒者を輩出せるをもって名あり。明治年間になりても山田方谷をはじめとし、坂谷、坂田二氏、 川田剛、三島毅等の諸氏あり。 262
南船北馬集 第十一編 十七日 晴れ。車行わずかに二十町、小田川を隔てて井原町︿現在岡山県井原市﹀あり。会場は小学校講堂、発起 は町長原田吉平氏、助役河合覚之助氏、収入役藤井直一氏にして、なかんずく原田氏尽力せらる。また、郡視学 黒田久二氏も助力あり。宿所は備小楼なり。当夕、婦人会のために特に一席の講話をなす。内務省地方局長渡辺 勝三郎氏は当地小学校の出身なりとて、その写影を応接所にかかぐ。この地方の物産は疏蕩玉と松茸なりと聞く。 本町各店の軒先および戸口が街路に斜向して建てられおるは、たれびとも奇異に感ずるところなるが、鬼門を避 くるためなりという。これまた奇門ならずや。 十八日 晴れ。昨今、春色田頭に満ち、麦色蒼々たり。また、残梅新柳の目をたのしましむるあり。渓行四里 弱、共和村︿現在岡山県後月郡芳井町﹀小学校に至りて午前開演す。発起は村長佐藤粛郎氏、校長佐藤彦右衛門氏に して、休息所は川虎旅館なり。更に渓路をさかのぼること二里弱、三原村く現在岡山県後月郡芳井町v小学校にて午 後開演す。この両村の間は山いよいよ峻急にして、渓いよいよ狭隆なり。一条の湊流を鴫川という。岸頭わずか に車道を通ずるありて、漢に傭し山を仰ぎ戦々競々としてようやく進む。その中間に小耶馬渓と称する名勝あり。 奇巌万丈、天を摩せんとする勢いを示す。その対岸に石洞あり、呼びて蛇の穴という。その奇景は吉備郡池田村 の濠漢に譲らずとの評あり。ときに一吟す。 鴫水囲山路似腸、奇巌万丈自成行、誰移耶馬渓頭石、置此備西深処郷、 ︵鴨川は山道をとり込むようにめぐって、くねくねと羊の腸のようである。そこにはおのずからすぐれた姿 の岩石が天を突くように並びたつ。いったいだれが耶馬漢のあたりの岩石を、備中西の地の奥深い里に移し たのであろうか。︶ 263
この前後一里の間は巌山相連なり、一として石を骨とし松を髪とせざるものなし。実に備西の勝地というべし。 この日たまたま社日に当たり、民家一般に休業して地神を祭る。地神は備前、︹備︺中、︹備︺後三州の名物にして、 村落ごとに路傍に地神の二字を刻したる碑石あり。これ田畑の神なりとて、食物を供えて祭る。当日は鍬を使用 することを忌む。本村の物産は薪炭にして、駅路荷車相連なる。また、桐材を出だす。その他銅鉱ありて百余人 の工夫を使役すという。これより一嶺をこゆれば神石郡または川上郡に入る。嶺頭に市場あり、高山市と名付く。 発起は村長鴫宗久氏、校長岡崎熊太郎氏等にして、宿所は吉岡英一氏の宅なり。各室に炬燵の設あり。 十九日 晴雨不定。山地春寒いまだ去らず、暁望麦田霜のために白し。三原を発して下行里許、雨ようやく降 り、芳井村︿現在岡山県後月郡芳井町﹀に入りていよいよはなはだし。行程四里半、昼間は小学校講堂にて開演す。 村長高橋吉郎次氏、校長井本三郎氏等の発起にかかる。夜に入りて、真宗光栄寺にて婦人会のために演述す。住 職は佐藤法水氏なり。本村は県下の大村にして、郡内にては井原に次ぐべき都会とす。宿所白水館は川に枕し、 山に面して幽趣あり。夏時の観螢もっともよしという。 二十日 開晴。暁窓如霜、寒気︹華氏︺三十六度、瓶水みな凍る。車行三里、県主村︿現在岡山県井原市﹀に至る。 会場兼宿坊たる金剛福寺︵真言宗︶は山上にあり。午後開演。郡長野上伯孝氏、井原より来会せらる。夜間、更 に婦人会の開催あり。村長佐藤共二氏、助役石本惣次氏、住職釈大空氏等の発起にかかる。 三月二十一日︵日曜︶ 晴れ。県主より車行一里にして再び小田郡に入り、稲倉村︿現在岡山県井原市﹀小学校にお いて開演す。本村長今岡増太郎氏、大江村長川合頼男氏、ほか三村長の発起なり。しかして宿坊は真言宗西光寺 なり。本村は備中藺田業の本場なりという。この地方にては小便所の掲示流行すると見えて、昨日の宿寺および 264
南船北馬集 第十一編 本日の宿坊には、 急ぐとも只]足のことなれば、心静かに真中へせよ、 急ぐとも一足前に進むべし、たとへ花でも散ればきたない、 とあり。余は哲学堂の小便所へ左のごとく掲示せり。 急ぐとも壷の外へは一滴も、もらさぬ人は紳士なりけり、 二十二日︵春季皇霊祭︶ 午前雨、午後晴れ。車行二里半、金浦町く現在岡山県笠岡市vに至り、小学校において開 演す。発起は町長久我米四郎氏、助役岡原仙次氏、校長惣津三郎氏、および四村長なり。目下、国会議員選挙の 日いよいよ切迫したれば、役場も多忙を極むるもののごとし。当町の特色は水田が海面より低きこと約六尺、堤 防と水門とにより海水の浸入を防ぐにあり。そのありさまは欧州オランダに類す。休憩所河崎定次郎氏の宅は湾 内の眺望すこぶるよし。余は選挙日のせまりたると、東洋大学および京北中学卒業式の近づきたるために、巡講 を中止し、今夜金浦町を発し、車行二十五町、笠岡駅にて東行に駕す。本郡役所は笠岡にあり。郡長村松翠之輔 氏、視学満谷報一氏にはついに会見するを得ず。 ここに岡山県巡講第一回を終わりたれば、その間に伝聞せし方言を記せんに、一国特殊の語と三国共通の語と の二様あり。その中にて最も名高きはズド、ボッコー、オエンなり。ズドとは意を強むる語、すなわち最もとか、 はなはだしとかいう意なり。ボッコーとは大層とか、ヒドクとかいう意なり。このズドボッコーを山口県にては チウニゴッポーという。そのゴッポーはボッコーに当たり、チウニはズドに当たる。もしその意を今一層強めん 65 2 とするときは、ズドホンボッコウという。ホンとは真にの意なり。つぎにオエンとはよく果たさぬ、なし遂げぬ、
すなわちラチアカヌ、またはダメデアルの義にして、終え果たさぬの意なり。これらの方言をつづりたる歌あれ 66
ば左に掲ぐ。 2
岡山言葉でズド、ホン、ボッコウ、オエンゾナ、其時やワッチモ、ジンとイッチマス、とハア、モウ、ペイ ヤ、ゴロンジャイ、 ハア、モウ、ぺーヤは助語にして、語の間に入るる言葉なり。かつて東京にて岡山県下の備作三州出身の学生 会を開くときに、その名称を定むるに当たり、ボッコーの方言は三国共通なれば、この語を用うべしと一決して、 会名をボッコウ︵勃興︶会と定めし奇談あり。また、語尾にバーを付くるは備前の方言として知らる。例えばア レコレというべきをアレバーコレバーというの類なり。これにも方言歌あり。 アレバー、コレバー、モーソコ、ボッコー、ドウシンサリヤ、ウチヤ知ラナーヤ、 ドウシンサリヤとはドウシナサルの意、ウチヤとは私の意なり。山口県にてはバの代わりにソを付け、アノソ コノソという。もし野鄙の方にて示さば、 アレバー、コレバー、チトバー、へーバー、コイテ、クサバi、 とも伝えきたる。故に余は左の歌をつづる。 岡山言葉をお存じないか、ズドホンボッコウオエンゾバー、 また、備前にてアノヨウ、コノヨウ、ドノヨウというべきを、アガー、コガー、ドガーといい、父をトトン、 母をカカン、おばさんをオバン、おじさんをチャンという由。また、兄をオヤカタともいう。これ弟より兄を指 すときに限る由。また、岡山県にて病気を閉口という。例えば今日は病気であるというべきを閉口しているとい南船北馬集 第十一編 う。また、歯や腹の痛むときに、その状態に応じてウズクとも、ニガルとも、ハシルともいう。また、語尾に付 加する言葉が三国おのおの異なるところあり。例えばソーダカラというべきを、 備前はソーダカラ、美作はソーダゲニ、備中はソーダケー の別あり。その他備前にて下サレというべきを遣ワサレという。すなわちコウシテクダサレをコウシテ遣ワサレ というなり。人の死することをミテルといい、座することをヘタルといい、カブルことをカツグといい、カツグ をカタグという。例えば、 帽子をカブルというべきを帽子をカツグといい、 荷物をカツグことを荷物をカタグという。 一輪の荷車をネコといい、藁塚を和気郡にては藁倉というも、他はみなワラグロという。 競売をサヤシ、河童をゴゴ、空中の怪火をチウコ、爆竹をドンド、蓮花草をゴンケ、電をトチ、酒桶をコガ という。 この酒桶をコガというにつき、岡山にて狂歌の名人と呼ばるる守屋倦庵のよまれたる辞世の歌ありと聞く。 われ死なば酒屋のコガの下にいけ、もしや雫がモリヤセンアン、 つぎに、岡山の俗謡として全国に伝われるものは、米のなる木の歌なり。 わたしや備前の岡山育ち、米のなる木はまだ知らぬ、 この歌に接続せる歌ありし由を聞く。すなわち、 67 2 米のなる木を知らぬなら見しよが、八畳だxみの裏御覧じ、
この第二の歌は後人の付会せるものならん。また、
備郡内にありという。その他の見聞録は後に譲る。
俗謡の﹁我恋は細谷川の丸木橋云云﹂の細谷川は岡山県吉
天橋、月瀬紀行
南船北馬集 第十一編 大正四年三月二十二日夜十一時、備中笠岡を発し、二十三日朝七時、京都着。私用ありてここに降車し、東六 条河六旅館に投宿す。かつて新聞紙上にて、日本三大勝の一なる丹後天之橋立の松まさに枯死せんとするの報告 ありしを聞き、その実況を見んとて橋立行を思い立つ。 二十四日 寒晴。午前七時、京都を発す。嵐山の下を過ぐるも、春風いまだ桜林に入らず。これより車窓にて 保津川の風光を迎送しつつ丹波に入り、綾部駅にて換車、更に丹後に入り、舞鶴駅にて転乗して海舞鶴に着す。 ときに十一時なり。連絡船一隻修繕のために休航せるをもって船便なく、ここに三時間半を徒消す。午後二時半 に至り、ようやく橋立丸に駕して出航するを得たり。かくして舞鶴湾を出ずるや、北風怒浪を吹き寄せきたり、 船体ようやく動揺するも、岸頭の激波濠天の勢いあるを望み、すこぶる壮快を覚ゆ。ときに雲天冥濠、寒気凛烈 たり。杯をふくみて寒を防ぎ、一時間ばかりにして興謝海を一過し、天橋湾内に入れば、風静かに波平らかなる を得。四時、宮津港に着す。埠頭より腕車を呼び、車行約十町にして旅館荒木別荘に入る。日いまだ暮れず。よ ってすぐに車を駆り、走ること二十町、桜山の丘上に登る。これ天然の観望台なり。肇癖二、三丁にして頂上に 達す。ここに小亭あり、その傍らに座石あり。観客みなこの石頭に立ち、両股を開き、股間より首をさかさまに して望むを常例とす。天橋の実景、浮き上がるがごとくに眼中に入りきたる。風景をして韓信の代理をつとめし むるは滑稽なり。﹁韓信の代理を天の橋にさせ﹂とでも詠じたく感ず。ときに狂歌を浮かべきたる。 269股間より覗けば天地顛倒し、地にある橋も天の橋立、 70 これをくだりて文殊堂に至らんとする路傍に、漁船の倉庫たる小茅屋の隣比せるは一奇観なり。文殊堂は普通 2 に切戸の文殊と称す。すなわち一帯の白砂青松が一文字のごとく海中を画すること二十七町四十間の長さに及ぶ。 その一端の切断せられて海水の通路を開く所に文殊堂あるによる。寺号は天橋山智恩寺にして、臨済宗妙心寺派 に属す。住職文珠浩然氏は哲学館出身なるも、日の暮るるを恐れて訪問せず。山門は二層より成り、境内に鐘楼 門、多宝塔、経蔵、和泉式部塔等あり。また、茶店にては思案酒、才覚田楽、智恵餅を売り、堂内にては智恵の お守りを出だす。余が先年ここに遊びしときには筆草の売店ありしが、今はこれを見ず。これより切戸を渡りて いわゆる天橋の砂原に入る。その中に橋立神社あり、磯清水あり、皇太子殿下行啓所あり、また茶店ありて名物 を販売す。これより再び切戸を渡りて帰路に向かう。文殊堂前には三、四戸の旅館あり。天橋を一望するに最も 佳なるは、海を渡り成相山の中腹、傘松より眺むるにありという。余は明治二十四年初夏、宮津より峯山に至る 途中、海湾を渡りて対岸の坂上より一望せしことあり。今回は時間なきをもってこれを果たさず。かくして宿所 に帰着すれば天すでに暗し。天橋の松樹枯死の説は新聞の誤伝にして、依然として旧のごとし。宮津町の中央よ り文殊堂までは約一里あり。荒木別館は当処第一の高等旅館にして、天橋の風景を一鰍するの好位置に位す。こ の地に遊覧するものは必ず別館に投宿を試むべし。これに次ぎては文殊堂前の旅館なり。天橋の所詠二首あり、 左のごとし。 一帯天橋一里長、松青沙白不尋常、釈尊亦似護斯景、永使文殊当海防、 ︵一本の帯のごとくのびる天橋立は一里ほどの長さであり、松の青さと砂の白さは並の美しさではない。釈
南船北馬集 第十一編 尊もまたこの景勝をまもりたまい、ながく文殊に海を防がせたかのようである。︶ 丹山囲海々如盤、一字松林劃碧瀾、人若欲窺其活書、宜開両股倒頭看、 ︵丹後の山々は海をめぐり、海は水盤のごとく静かである。一の字を描くような松林がみどりの波をくぎる。 人はもしこのいきた画をみようとするならば、よろしく両股を開いて頭をさかさまにしてのぞくべきである。︶ 当夕、半輪の月光あるも、雲煙の全くはれざるを遺憾とす。 二十五日 温晴。この日、国会議員選挙日なり。午前八時、宮津より自動車に駕し、由良浜の絶勝を望見しつ つ、七里の道程を一時間に一走して舞鶴駅に着す。これより鉄路により、綾部、福山の両駅にて乗り換え、舞鶴 線にて大阪に至る。ときに午後三時半なり。今回は帰京の途次、月瀬の観梅を試みんと欲し、腕車にて大阪市を 一過し、湊町駅より関西線に乗り込む。奈良を経て笠置駅に降車し、温泉旅館笠置館に入宿す。余は五年前にこ こに一泊せしことあり。今夜、春月朦々として清流に映ずるも、寒風窓に入りて吟賞するを得ず。ただ、千鳥の 声の枕頭に聞こゆるはいささか幽趣あるを覚ゆ。 二十六日 午前雨、午後晴れ。朝八時、笠置を発して伊賀上野駅に降り、これより腕車を雇い、月瀬往復を約 す。賃銭は一円九十銭なり。行程四里余、大体は平坦なれども、伊賀より大和に入るの国界には緩漫なる長坂あ り。これを上下して月瀬の梅渓に達す。その入口を尾山という。茶店あり。これより下りて五月河畔に至る。一 橋あり、長さ約五十間、これを月瀬橋という。その前後梅林多し。橋を渡りて峻坂を肇ずれば、]目千本台あり。 芭蕉翁の﹁春もや﹀景色ととのふ月と梅﹂の句塚もここにあり。更に歩を進めて車道に出でて、渓間の清流にそ いて行くこと七、八丁、桃香野に至れば梅樹無数、渓曲の間、みな梅花をもってうずむ。最後に不動滝に至りて 271
車をめぐらし、再び月瀬橋を渡り、鶯谷亭にて午餐を喫して帰路に向かう。このとき梅花すでに全盛を過ぎたる も、なお満を持していまだ散ぜず、香樹衣を襲う。余は今より十五、六年前、一度来遊せしことあり。梅林には 異状なきも、先年の方かえって観客、茶店の多かりしがごとく感ぜり。その花はもとより天下一なるも、茶店の 料理は全く田舎風にして、ここにきたりて飲食するものは、必ず花の美が料理のために減殺せらるるの思いをな す。多くの人は花より団子、花の下より鼻の下の方なれば、今少しく茶店、旅館の改良あるを要す。余も食事を しながら﹁月ケ瀬の花は団子で価打下げ﹂との小言を吐く。また、月瀬の名勝を分析するに、花はもとより美な るも、天然の地形の美がこれを助くることまた多しと思い、﹁月瀬や花が七分で地が三分﹂となすべきなり。故に たとえ花なきときにても、渓山の趣味、常に吟詠するに足る。新緑のとき、納涼のとき、紅葉のとき、明月のと き、いずれにても佳ならざるなし。所感に拙作一、二を左に掲げん。 探春三月到梅都、鶯谷橋頭景最殊、香雪埋渓天地白、一目何只千百株、 ︵春を求めて三月に梅のさとに至った。鶯谷の橋のあたりの景色は最もすぐれている。香り高い雪のごとき 梅花は谷を埋め、天地もために白く、一目にも千本百本という株数ではない。︶ 渓山明媚隔塵気、更有梅花欺白雲、月瀬由来名勝価、天然地勢助三分、 ︵谷も山も人の心を動かす美しさは塵も寄せつけぬ。その上、梅花は白雲かと見まごうばかりである。月瀬 の古来名勝の価は、天然の地形が三分ほどは助勢しているといえよう。︶ 帰りて上野駅に達すれば四時半ならんとす。汽車にて名古屋に至り、午後八時の東行に乗じ、二十七日朝七時、 東京に着す。 272
岡山県巡講第二回︵備前三郡、備中四郡︶日誌
南船北馬集 第十一編 大正四年三月三十日、東洋大学卒業式に列し、学長大内青轡氏病臥中なれば、代わりて証書を授与し、三十一 日、京北中学卒業式に列し、訓辞的演説をなし、同日午後三時の急行にて再び岡山県巡講の途に就く。 四月一日。午前十一時半、岡山県上道郡西大寺駅に着す。随行は後藤西崖氏なり。同駅は財田村︿現在岡山県岡山 市﹀にあり。小学校において開演す。郡長法学士岩崎保氏は視学喜多島虎二氏を伴い、ここにきたりて迎えらる。 本郡の主催はすべて郡教育会なり。村長は西崎多平次氏とす。当夜、藤田旅館に宿するに、月まさにまどかに、 気大いにあたたかにして、暖月照残梅の趣あり。この夜、蚊声を聞く。 二日 温晴。朝︹華氏︺六十五度。車行一里半、麦田桃圃を一過して平島村く現在岡山県岡山市vに入る。この地方 は果林ことに多し。桃、梨、葡萄を特産とす。昨今、桃林蕾を含みていまだ開かず。隣村の御休村には明治天皇 御駐鐸の跡ありと聞く。会場は小学校、宿所は岸島旅館なり。松本武明氏は村長たり。 三日︵神武天皇祭︶ 風雨。車行二里、西大寺町︿現在岡山県岡山市﹀に移る。午前開会の予定なりしも、雨はげし きために午後となる。会場小学校は高等女学校と連接す。その地位丘山に鋸し、校舎内に坂路あり。階をのぼる こと五十段にして講堂に入る。眺望やや佳なり。この日、聴衆極めて少なし。県下にては多く四月三日をもって 三月節句となし、戸々雛人形を飾り、赤飯を食す。その他、菱餅を備え白酒を設くる等、他県の風に異ならず。 余は今より五年前、観音院において演説せしことあり。宿所は車屋旅館なり。本町の町長は山崎弥平氏、助役は 273和田久米三氏、校長は藤田昌孝氏とす。 74 四月四日︵日曜︶ 晴れ。車行二里、三幡村︿現在岡山県岡山市﹀に至る。これ新田地なり。旭川の河口と吉井川の 2 河口との間の海面を埋めて新田を開きしに、これに第一番より第十番までの番号を付して地名となせり。しかる にこの地従来、虫に害多かりければ、これを除くには地名に虫の字を付くるをよし︹と︺するとの俗説より、番の 字に虫偏を加うるに至りという。これ村名の起源なる由。しかるに今日もなお虫に悩まさる。すなわち当地にて は従来、田用水をくみて飲用とするに、その中にジストマの生存するありて、一種の風土病を起こすに至り、備 後の片山病とともに世に知らる。しかるに近年衛生を重んじ、水を濾過して飲用とするようになり、大いにその 害を減ぜりという。この新田地は一般に水田豊富にして、しかも水早のおそれなきも、清水に乏しきと夏時蚊の 多きとを欠点とす。会場は操南小学校にして、藤原明氏その校長なり。教員諸氏より伊部焼を恵与せらる。この 夕、岩崎郡長、喜多島視学、および郡書記穂崎里衛氏ここに来会せられ、本村長藤原謙太郎氏、沖田村長森鹿太 氏等とともに会食す。旅館登竜は田間に介立するも、ややハイカラ式なり。軒前一望麦田水田相連なり、近く児 島半島の連山と相対し、いささか旅情を慰するに足る。当日の所吟一首あり。 両江挟地一洲寛、当面影浮児島轡、雨過麦田青愈好、春風送我到三幡、 ︵旭川と吉井川にはさまれた地は広々として、前面には児島半島の山々の姿が浮かぶ。雨の後の麦田はいよ いよ青々として実によく、春の風に送られるように三幡村に至ったのであった。︶ 郡内開会はすべて郡役所の斡旋尽力に成る。本郡は県下第一の平坦部とす。 五日 晴れ。旅館を発し車行一里にして津頭に達す。これより軽舟に駕し、海門十五町を渡りて児島郡甲浦村
南船北馬集 第十一編 ︿現在岡山県岡山市vに入る。児島半島には弘法大師八十八カ所あり。本日は旧二月二十一日に当たり、大師の命日 なりとて、信男信女の挟を連ねて巡拝するを見る。本村に属する小嘆に高島と名付くる周囲一里の地あり。これ 神武天皇御舟をつなぎ給いし所なりと伝う。会場は小学校、発起は村長井上孝氏、校長磯本角次郎氏等なり。し かして主催は本郡各所を通じて自治会なり。当夕、旅店武田方に宿す。児島湾内の魚類としては蟹とべカとを特 産とす。蟹は日本海に産するものに比すれば体小にして足細し。ベカは烏賊︹いか︺の最小なる形を有す。よろし くこれを烏賊の孫と名付くべし。 六日 朝霧のち快晴。甲浦より山路一里にして鉾立村に達するも、車を通ぜざるをもって迂路をとり小串を経 由し、海岸にそい鉾立村︿現在岡山県玉野市﹀小学校に至りて午前開演す。車路二里あり。発起者は村長岡田常三郎 氏なり。この日、途上麦すでに秀で、桃半ばは開く。また、はじめて蛙声を聞き菜花を見る。道平らかにしてよ く車を通ずるも、その幅いたって狭く、三、四尺ぐらいの所多し。鉾立の村名は神功皇后三韓征討のとき、御鉾 をとどめ給いし伝説あるによるという。校前の旅館瀬尾屋において午餐を喫し、更に車行一里にして山田村︿現在 岡山県玉野市﹀に至る。村内塩田多く、専売所の出張所あり。会場は劇場戎座、発起は村長東作兵衛氏、校長出射喜 太郎氏、宿所は高畠旅館なり。 七日 雨。早起午前六時半発、車行二里、山坂を昇降し、児島湾頭に出でて、八浜駅に至る。これより鉄路に 駕して由賀駅に降車し、更に行くこと十二、三町にして、灘崎村︿現在岡山県児島郡灘崎町﹀小学校に至り、ここに 開演す。本村は備前織の産地にして、機業盛んなり。開会は村長長船善造氏、校長柳井久治郎氏の発起にかかる。 旅館にて喫飯し、更に車を走らすこと一里半、荘内村︿現在岡山県玉野市、倉敷市﹀小学校にて午後の開会あり。村長 275
大野正夫氏の発起なり。晩に至りて天晴るるも風寒し。宿所は校をへだつる半里、油屋旅亭なり。 八日 寒晴。車行二里半、麦圃松轡の間を一過して日比町︿現在岡山県玉野市﹀に入る。山上には媛松の巨石を抱 くあるはやや奇観なり。会場常光寺は台上にありて眺望絶佳、讃州の連山と相対す。ただ、書院にてこの景に接 見するを得ざるを遺憾とす。これより宇野港︵備讃両州連絡船往復港︶まで一里を隔つ。町内にも港湾ありて船 舶多く出入す。本町の所轄に属する大槌島は讃備の国界にして、その山頂に界標ありと聞く。この地また塩田多 く、製塩の煙村外に連なる。発起は高尾浩︵町長︶、加納虎八、立石章、宮原品吉の四氏なり。当夕、村上旅館に 泊す。 九日 快晴。車行四里、海浜岸頭にそいて車道あり。風光明媚、これに加うるに山頂には巨石累々兀々として 並立するは実に奇観なり。このとき山桜すでに発し尽くし、螂躍花また開き始め、春色十分なり。途上吟一首あ り。 曲々湾頭春路幽、塩田断処好凝眸、白帆碧浪海如書、一帯連山是讃州、 ︵まがりくねる海べのあたり、春の道はもの静かに、塩田の終わるところは目をこらして眺めるによい。白 い帆がみどりの海にうかぶさまは画のごとく、はるかに連なる山々は讃岐である。︶ 会場は味野町︿現在岡山県倉敷市﹀実科女学校にして、発起は助役中島公治氏、校長山本末四郎氏等なり。本町は 郡役所所在地にして商船学校あり。また、県下における塩田の本場なり。ことに当所には県下第一の素封家野崎 武吉郎氏の宅あるをもってその名高し。主人は本年六十八歳、嬰錬たる老翁にして、かつ温厚の君子なり。こと に謙譲の徳に富み、無位無官の余輩のごときも自ら門外に出でて送迎せらる。実に﹁温々恭人是徳之基﹂︵おだや 276
南船北馬集 第十一編 かでつつしみ深い人は、まさに仁徳の基本︶というべき人なり。学校の前隣に野崎武左衛門翁頒徳碑の屹然とし て聾立するあり、これ同家の先代なり。また、来賓を接待するために別置せる邸宅あり、その名を追霞堂という。 堂内には百畳敷きの大座敷あり、庭前には青松白鶴あり、余ここに宿す。当夕、郡長水上浩基氏、署長杉原靖三 氏、視学垣見秀男氏、商船教員荒川海音氏︵哲学館大学出身︶等とともに晩餐の饗応を受く。余の野崎翁に贈れ る七絶、左のごとし。 仙居最好迫霞堂、白鶴青松影入膓、対酒祝来主人寿、優游六十八春光、 ︵俗世をはなれた高尚の人の住まいとして追霞堂はもっともよい。白鶴と青い松の姿がさかずきに浮かぶよ うである。酒杯をあげて主人の長寿を祝う。ゆったりと思いのままにすごす六十八歳の春なのである。︶ 当町の持宝院住職︵真言宗︶豊岡昇範氏は哲学館出身なり。また、これより山間に入ること五十町にして、郡 内第一の名刹、由賀山蓮台寺住職佐伯増行氏も同出身たり。由賀山はすこぶる幽逡の地なる由なれども、登山の いとまを得ず。味野より一里にして下津港あり、鉄路これに通ず。その港は海上三里を隔てて讃州丸亀と相対す。 この間汽船の便あり。 十日 温晴。午前、車行半里、琴浦村︿現在岡山県倉敷市﹀役場楼上に一席の談話をなす。報徳会員前畠平三郎氏、 松香真次郎氏の依頼に応ずるなり。本村は工業地にして織物を特産とす。故にいたるところ機声を聞く。これよ り味野へ帰り、軽便鉄道に駕して郷内村︿現在岡山県倉敷市、児島郡灘崎町﹀に至る。その距離二里あり。午後、公会 堂において開演す。村長谷田経太郎氏、校長猪原豊吉氏の発起にかかる。しかして宿所は旅館松竹亭なり。当所 77 2 に一等寺と名付くる真言宗寺院あり。財産の多き点においては諸寺中、郡内第一と称す。これ名実相応の一等寺
というべし。住職梶川義明氏は東洋大学出身なり。 78 四月十一日︵日曜︶ 雨。この日、昭憲皇太后一周年祭につき、各学校において遥拝式あり。国民の諒闇ここに 2 終わる。車行約一里、藤戸村︿現在岡山県倉敷市﹀藤戸寺に至りて開演す。軍人会長坂川美太郎氏、村長星島昂一氏 の発起にかかる。再び車を駆ること約二里、興除村︿現在岡山県岡山市、倉敷市﹀小学校に至りて開演す。村名は韓非 子の興利除害の語より出でたりという。本村は海を埋めて田となせる新開地にして、平田広闊なり。ただし飲用 水悪しきために、三幡とともにジストマの病源地として知らる。また、夏時には蚊軍襲来すと聞く。主催は村内 軍人会、青年団、教育研究会にして、発起は村長日笠翫文氏、軍医森谷柳太郎氏、校長山崎次郎氏等とす。岡山 連隊区司令官中佐山下五三郎氏もここに出席せらる。日すでに暮れて車行約一里、妹尾町西田旅館に入宿す。こ の夜、暖はなはだしくして雷を醸す。寒暖計︹華氏︺六十八度に上る。児島郡の離島に六口と名付くる小喚ありて、 その対岸に大岩石の口を開きたる形をなせるあり。その岩を名付けて、六口取りてのもうか岩というはおもしろ し。その郡内の地名に利生とかきてオドウとよまするもまた奇なり。 十二日 朝雷雨のち晴れ。都窪郡妹尾町︿現在岡山県岡山市、都窪郡早島町﹀開会。発起者は青年団長正保千代蔵氏 にして、高木熊太郎氏、山崎元治氏、犬飼正夫氏︹ほか︺十三名これを助く。会場は劇場春辺座なり。当町は従来、 妹尾千軒みな法華と唱え、全部日蓮宗を奉ず。町内に盛隆寺と名付くる巨刹あり、大抵その檀家なり。また、井 水不良にして飲用とならず、市外に共同井一カ所あり、町家ことごとくこれをくみて飲用とするも本町の特色な り。故に妹尾千軒井戸一つと称すべし。町民は工漁の二種より成り、工は花莚を織るを業とす。この隣村に藤田 組の開墾地あり。児島湾を埋めて数百町歩の新田を開き、すこぶる大農的経営なりと聞く。当夕の宿所は前夜に
南船北馬集 第十一編 同じ。深更、蛙声枕頭にやかまし。また、蚊声を聞く。 十三日 快晴。朝起西田旅館の楼上より望むに、はるかに南方に当たり一岳の横座するを見る。これ児島半島 の最高峰たる常山なり。その形富士に似たりとて児島富士の称あり。車行十余町にして福田村く現在岡山県岡山市v に移り、小学校にて開演す。青年団長難波幾太郎氏、軍人会長田中馬吉氏の・王催なり。本村の特産は畳表なれば、 村内藺田多し。村民は一般に田用水を濾過して飲用とす。宿所は有志家木村斉氏の宅なり。 十四日 晴れ。庭瀬を経て清音村︿現在岡山県都窪郡清音村﹀字軽部に至る。行程約四里、ときまさに柳緑花紅の 候にして、三備の地は梅桜ともに乏しきも、桃花ひとえに多く、往々山腹田間にその紅燃るがごときを望見す。 途上吟一首を得たり。 風過麦朧緑波酬、水満藺田蛙鼓喧、更望林轡紅断続、備陽春色在桃園、 ︵風は麦のうねに吹き、みどりが波うつようにひるがえる。水はいぐさの田に満ちて蛙の声がかまびすしい。 さらに林や山を望み見れば紅色が断続して、備中の南の春は桃の園にこそあるようだ。︶ また、途中山手村を過ぐるときに、国分寺の五重塔を望見す。これ県下一品の高塔なりという。その寺は三隅 村地内にあり。清音村会場は小学校、主催は村青年団および軽部支部にして、発起かつ尽力者は支部長江口銀一 氏、副長江口誠一氏の両名なり。しかして村長板野正太郎氏、校長守安郁二氏、ほか四氏これを助く。その地は 高梁川の東岸にありて、水声の清く響くをとりて清音の村名を定めたりと聞く。これより一里にして吉備鉄道総 社駅に達すべし。当夕の宿所は江口誠一氏の宅なり。 十五日 晴れ。朝、宿所を出でて歩すること五、六丁にして、山腰にある題目石を参拝す。これを大観様と名 279
付く。すなわち大覚僧正の刻されし題目あり。これに来詣するもの四時たえず。石壇を華じ登り、その柱石を撫 したる手をもって自身の病患部を撫す。あたかも賓頭盧︹びんずる︺のごとし。かくするときは万病みなよく治す と信ず。衆人摩擦の結果、その石角すでに摩滅せるを見る。すなわち点滴石をうがつの類なり。これより車行約 二里半にして官幣中社吉備神社を参拝す。その社宇は鯉山の麓にあり。鯉山とは山の形自然に鯉魚に似たるによ りて、その名を得たりという。本社の特色は回廊の長さ三百間に及ぶの一事なり。また、釜鳴りの神事は世にあ まねく知らる。もし家族に病人あるものは、ここにきたりて祈薦を請う。そのときに神釜にて湯を沸かすに、鳴 ることと鳴らざることあり。これによりてその癒否を判知す。この釜に給事するものは月経を有せざる婦人に限 るという。社頭吟一首あり。 社殿魏然鋸鯉山、長廊三百有余間、入門先聴釜鳴響、養客如雲忙往還、 ︵吉備神社の社殿は高くそびえて鯉山により、回廊は三百余間の長さを有する。門を入ればまず釜鳴りの音 のひびくをきく。参詣の人々は雲のごとく忙しく往来しているのである。︶ 社門を出でて更に行くこと三十丁にして、吉備郡庭瀬町︿現在岡山県岡山市﹀に至る。会場は田中智学氏の創立せ る国柱会の公会堂なり。主催は立憲正民会にして、発起は高塚源一氏ほか六名とす。町長は高畠多七郎氏なり。 この日、旧暦三月節句の前日に当たり、町家多忙なりとて聴衆極めて少なし。本町は畳表の集産地なり。また、 犬養毅氏の出身地なりと聞きて一吟す。 三備由来富偉人、皆傾誠意行経輪、蕃山方谷誰其次、犬養木堂憲政神、 ︵三備の地は古来より偉人が多く、みな誠意を尽くし世を治めるに力をいたした。熊沢蕃山、山田方谷に次 280