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現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた
一「ゆとり創造プラン」の作成にたずさわって一一
鈴 木 正 仁
はじめに バブル崩壊後の長びく平成不況もようやく終わりを迎え,景気は緩やかなが らも回復の過程に入ったと言われる。この間の阪神大震災による地場産業のダ メージや消費の冷え込み,あるいはメキシコ・ペソ切り下げに端を発した円の 急騰などの不確定要因が見られるとはいえ,おおむね景気は順調に回復してい るようである。こうした経済状況のなかにあって,企業は限界を超えるとまで 言われる合理化を強いられ,あるいはそれでも採算の取れぬばあいは生産拠点 の海外展開を強いられ,国内産業の空洞化が叫ばれているのも事実である。つ まり,景気の回復はかつてのような力強いものではありえず,「薄曇り」のもと での頼りないものとならざるをえないというわけである。 さて,こうした経済状況のなかで「ゆとり」なるものをかんがえることは, やや場違いな感じを与えるに違いない。労使双方にとって,目下のところ「ゆ とり」に目をやるよりも企業収益の改善や雇用の確保のほうが急務だからであ る。しかしながら長期的なトレンドをかんがえたばあい,日本の長時間労働に たいして欧米先進諸国からなされる「失業の輸出」との厳しい批判や,低成長 下で労働者側の賃上げ要求の頭打ちによる時短要求への絶えざるシフト傾向や, これを受けた労働行政による平成9年度から予定される年間1800時間労働制度 の法制化などをみれば,日本も早晩,欧米並みの「余暇大国」となり,「ゆとり」 の創造と活用という問題に直面せざるをえないことは自明であろう。本稿で,「ゆとり」を論ずる所以である。 筆者は,(社)全国労働基準関係団体連合会(全払連)滋賀県支部と草津市の委 託を受けて,この度,「草津市ゆとり創造プラン協議会」の委員を引き受ける機 会に恵まれた。同協議会は,本年度の「ゆとり創造宣言都市」として指定され た草津市をしてその内実化をはかるべく,市単位の「ゆとり」の創造と活用の プランを作り諮問するものである。労働・経営・市民団体・議会・行政・学識 者からなる委員によってディスカッションを重ね,このほど成案を得ることが できた。ここではその経験を振り返ることによって,いま一度,現代日本の地 方都市における「ゆとり」のあり方についてかんがえ直してみたい。 1 「ゆとり」をかんがえる枠組み まず,ここでわれわれが携わることとなった「ゆとり創造宣言都市奨励事業」 とは,「全基連が,労働省の指導のもと,平成2年度より実施している事業で, 労働時間短縮にかんする気運の醸成を図るため,労働時間の短縮をはじめとす る市民のゆとり創造に積極的に取り組もうとされている市を『ゆとり創造宣言 都市』として指定するとともに,当該市の協力を得て労働時間短縮にかんする 広報啓発活動を積極的に展開していく事業」である(労働省パンフレット)。し たがって当然,当該市居住の労使・市民団体・議会・行政のあいだの協議と協 力が不可欠となり,基本的にはこれらのセクターのあいだで合意をみたプラン を,行政が中心となって実施に移してゆくことになる。われわれに任されたの は,このプランづくりの作業であった。前後三回にわたって協議会がもたれた が,そこでもっとも議論されたのは,こうした事業がともすれば陥りがちな, 行政主導の空疎な打ち上げ花火に終わらせないためにはどうすればよいかとい うことであった。かつて草津市で制定された「家庭の日」の実例が引き合いに 出され,数年を経ずして形骸化してしまったその轍を踏まないためにも,いか にすればお仕着せでない地域住民のニーズに合った事業にしうるか,とういう ことに議論が集中した。そのためにまず論じられたのは,「ゆとり」をかんがえ ていく際の枠組みであった。ここではそれを,①ゆとりの創造と活用の区別,
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 59 ②さまざまなゆとりの区別,③性別・年齢別のゆとりのあり方,の三つにわ けて論じてみよう。 1.ゆとりのハードとソフト われわれが「ゆとり」と言ったばあい,それはともすれば余暇時間をいかに して作り出すかといった議論に綾小化されがちである。曰く労働時間短縮をど う進めるのか,そのための行政指導はどうあるべきなのかなど,と。しかしな がら,出席委員のなかから強く出された意見は,もちろんそうしたハード面の 議論も大切であるけれども,むしろそれ以上に大切なのは,そうして作り出さ れた余暇をいかにして活用するかという,いわばソフト面の議論の大切さであ った。労働団体代表からは,時短によって生み出されたせっかくの余暇が,サ イドビジネスのために使われて,結果的にはむしろ以前より忙しくなって生活 のゆとりが失われた例が出され,また,市民団体代表(女性)からは,受け皿が ないために,時短の結果として亭主が家庭に常時ゴロゴロするのはかえって迷 惑だ,との指摘もなされた。あるいはまた,「ゆとり宣言都市奨励事業」じたい が,お仕着せの住民駆りだし行事になりかえって市民から余暇を奪ってしまわ ないか,との危惧の念も表明された。 こうした活発な議論のなかで浮かび上がったのは,ひとつには,時短などに よって余暇を作り出すこともさることながら,むしろそれ以上に作り出された 余暇をどうやって受けとめるか,その受け皿づくりの重要性であった。さまざ まな努力によってせっかく余暇が生み出されても,適切な受け皿がないばあい には,それがかならずしも「ゆとり」を享受する方向に生かされるとは限らな い,ということである。逆にいえば,そうした受け皿が充実してこそ,初めて われわれの余暇を作り出そうとする熱意や努力も,真摯で本腰をいれたものに なるということである。そして,いまひとつ浮かび上がったのは,いったい「ゆ とり」とは何なのだろうという,非常に素朴だがけっして無視することのでき ないもっとも根源的な疑問であった。この疑問を追求していくと,ともすれば 哲学的な議論になってしまいがちだが,われわれとしてはそこまでは行かない,
むしろ日常生活に即した平易なレベルでこれをかんがえようとしたのである。 それが,つぎに論じるゆとりにかんする第二の思考枠組みである。 2.さまざまな「ゆとり」 結論から先にいえば,われわれが「ゆとり」と言うばあい,そのなかで「時 間的なゆとり」と「空間的なゆとり」,また「経済的なゆとり」と「精神的なゆ とり」とを区別しなければならない。順に説明して行こう。 「時間的なゆとり」と「空間的なゆとり」 まず,われわれは労働時間短縮 に代表される「時間的なゆとり」と,良好な住宅や公園などアメニティ空間の 確保を指す「空間的なゆとり」とを区別してかんがえなければならない。われ われはたっぷりとした余暇時間と快適な生活空間の双方を確保して,はじめて 「ゆとり」を実感することができる。たとえば,十分な年休をとり,家族で地 域のプール施設に行ってゆったりとした休日を過ごすとき,われわれは「ゆと り」を享受したと言いうるのであろう。あるいは,こうした方向の行き着く先 にこそ,あの欧米諸国の一ヵ月間の長期バカンスをとって,避暑地の貸寸心で ひたすら無為に過ごすという,「ゆとり」の究極の形態が存在するのであろう。 このうち,「時間的なゆとり」について説明すると,教育経済学者の矢野真和 に倣っていえばつぎのように言えよう(矢野真和『試験の時代の終焉』有信堂, 1991年,参照)。すなわち,われわれの生活時間は,労働・消費・教育の三種の 時間から構成されている。労働とは,職場や家庭で今日を生きるために今日を 我慢する時間のことであり,これを「生活維持時間」と呼ぶこともできよう。 消費とは,レジャーやショッピングなど今日のために今日を楽しむ時間のこと であり,これは「消費時間」と名づけることができよう。教育とは,生涯教育 や資格取得など明日のために今日を生かす時間のことであり,これを「投資時 間」と呼ぶこともできよう。そして,矢野によれば,われわれの行動はこれら 三つの時間要素のどれかを含んでいるが,われわれがもっとも満足感を得るこ とができるのは,その行動に三つの要素の全てが過不足なく含まれている時だ というのである。とりわけ,矢野は「投資時間」が含まれることの重要性を説
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 61 いてやまない。つまり,過労死にまでいたるような「労働」に見られる競争万 能の経済主義はもちろんのこと,その反対の「余暇」に傾斜した消費主義もわ れわれに真の満足をもたらすことはないのであって,自分自身の成長につなが る明日をめざした「投資」の時間要素があってはじめて,われわれはその時間 を充実したものと感じることができるのである。苛酷な労働の繰り返しや逆の 余暇漬けの生活が,われわれに徒労感をしかもたらさないのは,そこに自分自 身が昨日よりも今日,今日よりも明日と着実に成長しているという実感が欠け ているからである。もちろん,こうした「時間の質」のバランスとともに,労 働と余暇と教育のあいだの「時間の量」のバランスが重要なことは言うまでも ない。ただ,これまでの「時間的なゆとり」についての議論が,労働時間の短 縮などともすれば「量」の問題に集中しがちであるので,ここではあえて「質」 の問題に注意を喚起したのである。 つぎに,「空間的なゆとり」について説明しよう。議論がやや抽象的になりす ぎたので,ここらで少し現実に戻って話を進めていくことにしたい。草津市の 協議会でも,「ゆとり宣言都市モニュメント」の設置をめぐって,このことが論 じられた。すなわち,「四四連では,当該市が『ゆとり創造宣言都市』になった ことを記念してシンポジウムを開催したり,モニュメントや横断幕を作成し, 市民に当該市が『ゆとり創造宣言都市』であることを広くPRする」(労働省パ ンフレット)として,予算措置が講じられていることをめぐってである。他市の 例が多数出され,駅ターミナルや市役所などにゆとりモニュメントを作ること が検討された。が,大方の賛意が得られたのはそうした広告塔の設置ではなく, むしろ植樹などによって安らぎのための空間を作り出すことであった。市民団 体代表からは,草津市には緑が少ないとの意見が出され,また,たとえばNH Kの連続テレビドラマ『春よ来い』の冒頭シーンに映しだされる一本の大樹が, われわれを悠久の想いに誘うなどと指摘された結果であった。われわれの頭を 支配したのは,ゆとりに占めるアメニティ空間の重要性だったのである。 ここで,われれにとってアメニティ空間とはどのようなものであるのか,一 般的に論じてみたい。われわれが日常的に生活する空間は,まず個人住宅とそ
れを囲む地域コミュニティなどの私的スペース,および職場や学校などの公的 スペースにわけられる。また,これを商業施設や住宅施設などの人工的スペー スと,自然公園や森林などの自然的スペースにわけることも可能である。これ らについてゆとりとの関係で重要なことは,それぞれに十分な広さが確保され ることと,施設などその内容が良質なことであろう。とりわけ,良質な個人住 宅と恵まれた地域環境の重要性は言うまでもないが,これらはわれわれが検討 課題とするにはあまりに重すぎる。せいぜい公民館や図書館などの公的スペー スの整備や,公園や街路樹などの自然的スペースの拡充などがあげられるのみ である。そして,いまひとつつけ加えるならば,都市社会学者が指摘するよう にあまりにも整然とアレンジされた人為的な空間は人間を疲れさせ,むしろ赤 提灯が混じるなど多少乱雑でも自生的な空間のほうがわれわれを憩わせるとい う事実である。かつて,ブラジルで新首都ブラジリアが建設された際,都市計 画どおりに整然と作られた新市街には人が集まらず,むしろ,首都建設のため の労働者たちが無計画に形成した盛り場が新首都の繁華街になっていった故事 もある。生活空間の整備は,この点に留意しつつ行なわれるべきであろう。 「経済的なゆとり」と「精神的なゆとり」 つぎに,われわれは「経済的な ゆとり」と「精神的なゆとり」を区別してかんがえなければならない。経済的 な豊かさがわれわれの生活をゆとりあるものにするのは言うまでもないが,し かしながらそれだけでは十分ではない。成り上がりの拝金主義者の生活に潤い がなく,われわれにとって「ゆとり」ある魅力的なものに感じられないのは, そこに「精神的なゆとり」が欠けているからである。物質的な豊かさがもつ虚 しさと精神的なものがもたらす充実感を,赤裸々なかたちで白日のもとにさら けだしたのこそが,あの阪神大震災だったのではないだろうか。廃嘘の欠乏の なかに生まれた助け合いこそが,われわれに最大の歓びをもたらしたのである。 以上は極端な例であるが,とはいえ,並みかそれをやや上回る程度の経済的収 入を得るとともに,なんらかの「生きがい」をもってはじめて,われわれは真 にゆとりある生活を送っていると言いうるのであろう。たとえば,われわれ世 間並みのサラリーマンが,妻や子どものふとしたおもいやりに触れてしみじみ
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 63 と生きる歓びを感じるときのように。 このうち,まず「経済的なゆとり」について論じてみよう。同じく矢野真和 によれば,経済生活にたいするわれわれの満足には三種のものを区別すること ができると言う(矢野:同上)。「経済学的満足」と「社会学的満足」と「教育学的 満足」である。「経済学的満足」とは,財と人間の関係に焦点をあわせて,所得 に代表される経済的水準が高ければ高いほど満足度も高いというばあいである。 「社会学的満足」とは,人間関係に焦点をあわせて,そうした絶対的水準が低 くても準拠集団での自分の位置が高ければ満足度も高くなるというものである。 「教育学的満足」とは,人間発達に焦点をあわせて,本人の所得水準が去年よ り高くなったとき満足度が高まるというばあいである。これら三つのもののう ち,もちろんわれわれの「経済的ゆとり」のミニマムをなすのが「経済学的満 足」であるのは論をまたない。が,現代の豊かな社会にあって,プラス・アル ファとなってその内実をなすのは,後二者の「社会学的満足」と「教育学的満 足」のほうであろう。すなわち,われわれが経済的に「ゆとり」ある生活を送 っていると実感しうるのは,隣近所の人たちや中流に属すると目される層の人 たちの生活に比べて,自分の生活水準に遜色がないもしくはやや勝ると感じる ときであり,またそうした自分の生活の水準に年々の上昇が期待されるときな のである。 ただ,この「経済的ゆとり」について,ひとつだけ注意を要するのは,それ が量的な面でしばしば先の「時間的なゆとり」とバーター関係にあるというこ とである。つまり,経済的な豊かさが,長時間の残業や休日出勤によってしか 保証されないとするならば,それによって結果的にいくら高い所得が得られよ うとも,われわれにとってゆとりある生活の実感は得られないのである。ここ に,われわれの「ゆとり創造宣言都市奨励事業」の目標のメインに労働時間短 縮が据えられる根拠があるし,逆にまた,所得上昇の見込めない不況下での時 短運動の難しさもこのバーター関係の存在にこそある。 つぎに,「精神的なゆとり」について述べよう。〈人はパンのみにて生くるに あらず〉とは確かキリストの言葉であったと思うが,こうした精神的な要素を
欠くときわれわれの生活がゆとりのない干からびたものになってしまうのは言 うまでもない。それは「生きがい」に裏打ちされた生活とも言えようが,そう した生きがいとなりうるものをかんがえれば,つぎの二つに大別される。ひと つは,先の「社会学的満足」と「教育学的満足」にも関連するが,他人とは区 別される自分が自分でしかありえない存在に成長していくことである。昨今, 「個性化」とか「差異化」との呼び名で称揚される流れであり,マズローの欲 求発展段階論でいえば,「自我欲求」や「自己実現欲求」などもっとも高次な欲 求の実現にあたる。卑近なかたちでは,「社会学的満足」との関連で他者と比べ て自分の優越が証明されたときに生きがいを感じるケースであり,より高尚な かたちでは,「教育学的満足」との関連で自分が独自の存在として成長するとき に生きがいを感じるケースである。生涯教育や創作活動に参加して,自分が成 長していくときなどがその典型にあげちれよう。いまひとつは,今回の阪神大 震災のボランティア活動のなかに如実に示されたように,自分が他人のために 役立つ存在であると実感されるばあいにも,われわれは生きがいを感じること ができる。あるいは,自分が他人から必要とされるときと言いかえてもよい。 ボランティア活動に携わるひとが異口同音に語るのは,最初は〈他人を救う〉 という意識から参加したのが,活動を続けるうちにいつしか〈救われているの は自分だ〉と気づくようになるということだ。ある種の傲慢さから謙虚さへ, この意識の逆転の機微は,ここで問題とする生きがいのあり方に関わっている のである。 さて,こうした二種の生きがいをもっとき,われわれの生活は精神的に充実 したものとなり,この充実感があるとき,われわれは自らの生活を「精神的に ゆとりある」ものと感じることができるのであろう。この生きがいに裏打ちさ れた充実感に欠ければ,いかに物質的に恵まれていようともわれわれは自分の 生活に真に満足できず,「精神的なゆとり」をもっこともできないのである。豊 かな杜会に生活するわれわれがともすれば陥りがちな陥穽がここにあり,「ゆと り」を論じるときの,常時助け合いが必要とされる・その意味で精神的にはお のずと満たされるく貧しさの社会〉に生きるひととは違った,逆の難しさがわ
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 65 れわれにはある。 3.ライフ・コース,ライフ・サイクル別のゆとり 最後に,「ゆとり」といっても,そのひとの置かれた立場によってその内容は さまざまでありうる。ゆとりをかんがえる三番目の思考枠組みとして,ひとが 位置するライフ・コースやライフ・サイクルに応じてこれを区別してかんがえ る必要がある。協議会の席上でも,もちろんそうした指摘がなされた。それで ここではごく常識的に,子ども・夫・主婦・老人の四つの層にわけて,それぞ れの「ゆとり」のあり方について論じてみることにしよう。 子どものゆとり 戦後復興から高度成長くらいまで,かっての子どもと言え ば快食・快眠・快便,遊びと手伝いに明け暮れる存在であり,ゆとりの心配な ど不必要な存在であった。あるいは,存在そのものが「ゆとり」であったと言 ってもよい。しかしながら,今日においては事情はまったく違う。詳しくは述 べないが,産業化(の技術革新)にともなう高学歴化の進展は,高度成長期の高 等教育人口の拡大段階からそれ以降の飽和段階へと移行し,それにともなって, 子どもたちのあいだの受験競争は極端なまでに熾烈化した。子どもたちの能力 競争は,人材にたいする社会の必要によって選抜が正当化される集合主義的な ・おおらかなものから,能力ある個人の権利として選抜が正当化される個人主 義的な・厳しいものへと,おおきく変質したのである。その結果として,子ど もたちと親はかつてとは違って少しでも進学に有利なように,受験向きのカリ キュラムをもたない・荒れる公立校を避け,遅くとも中学進学の段階から受験 に適した中高一貫制の私立進学校をめざすようになったのである。当然そのた めには,普通の義務教育の内容ではとても足りず,小学校低学年から放課後進 学塾に通い受験にそなえるようになった。いわゆる「過労児」の誕生であり, 受験勉強に疲れた子どもたちの最:大の願いが「もっとユックリ眠りたい」こと だという,悲惨な状態が現われた。われわれの協議会においても,たとえば家 族旅行といったばあい,最大のネックになるのは塾通いを初めとする子どもの スケジュールであるとの指摘がなされ,あらためて子どもたちの「時間的なゆ
とり」のあり方が問題とされたのであった。 こうした子どもたちの生活にたいする処方箋が,子どもの生活に「遊び」の 要素を復活させて,かれらの勉強しすぎをあらためることにあるのは論をまた ない。しかしながら,こうした主張はあまりにも正論すぎてそのままではほと んど有効性をもたない。自分の子の教育に手抜きをすれば,即,落ちこぼれへ の道が待ち受けるというのが,現状の偽らざる厳しさであるからだ。ただ,子 どもの将来をもう少し長いスパンで眺めるならば,いまひとつ別の展望が開け ないでもない。それは言い古されたことではあるが,ひとつには,日本の高校 までの学校教育の生産性効果は十分に大きく,社会的にみれば大学入試段階に おいてあれほどまでに高度な知識を要求する必要はないということである。い まひとつには,実力本位のプロ野球のドラフト制度において初期選抜時のエリ ートがレギュラー選手になれる確率は低く,その後の本人の努力や運や測定で きない能力にかかる部分が多いように,おしなべて人の将来にとって初期選抜 よりその後の育成・成長のほうが大事だということである。こうした事実に社 会全体の理解が深まるならば,子どもたちの勉強しすぎの生活をあらためて遊 びを復活させ,「ゆとりある生活」を実現するのも夢ではないかもしれない。学 校の月二回週休二日制の実施はその萌芽であろうし,それに備えた受け皿づく りがまさに急がれる所以でもある。 夫のゆとり ここで夫というのは勤めに出て家計を支える青・壮年の男たち のことであり,平たく言えば世のサラリーマンー般をさす。かれらは朝の長距 離通勤のあと一日の大半を職場ではたらき,多くは残業をこなしたのち夜は逆 の経路をたどって家庭に帰りつき一日を終える。家庭や地域へのかれらの思い とは裏腹に,家庭からは「給料運搬人」,地域からは「定時制市民」とおとしめ られ,きつい労働の割りに報われぬ存在ではある。かれらにとって,「ゆとりあ る生活」とはなにか。この問題には,おそらく先ほど検討した「時間的・空間 的・経済的・精神的ゆとり」すべてが関わっていようが,ここでは,職場での かれらのあり方に焦点を絞って論じてみよう。キーワードとなるのは,「企業合 理化」である。企業は合理化に努めるのが常だが,市場ニーズの多様化とマイ
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 67 クロ・エレクトPニクス技術の発展にともなって,その様相はかつてとは大き く様変わりしている。かつての少品種大量生産方式から多品種少量生産方式へ と主軸が移り,混流生産やジャスト・イン・タイムの部品管理やコンピュータ 統合生産・販売など,刻々と変わる市場ニーズに対応して多様な商品を適時適 量提供する体制が完成されたのである。こうしたなか企業はバブル崩壊後の価 格破壊と急激な円高に襲われ,限界を超えるといわれるリストラに取り組まざ るをえなかった。これまでの「過剰効率」の追求に加えて,生き残りをかけた 企業間の「過剰競争」と,顧客を求める「過剃サービス」が展開され,これが 企業内の厳格な成績管理・考課査定にはねがえって,さらには出向や配転や退 職勧奨の増加を招くなど,労働者の生活をいっそう「ゆとり」のないものにし たのである。 さて,こうした働きすぎのシビアなサラリーマン生活に,「ゆとり」を回復す るにはどうすればよいのか。アジア・ニーズ諸国の追い上げなど国際経済情勢 をかんがえれば,企業の上記三つの「過剰」は仕方のない面もあり,その改善 はきわめて難しい。が,もちろん労働行政の主導する労働時間対策(→平成8年 度中に年間総:労働時間数を1800時間に!)や,安全衛生対策(→第8次労災防止 推進計画期間中に25%の労災削減を!)や,労働条件確保対策(→解雇や賃金不 払いの防止を!)などが重要なことは言うまでもないだろう。協議会の席上で も,労基局のがわから行政側委員にたいして,市発注の工事について工期や工 事仕様にかんする強い要望が出された。こうしたきめ細かな行政指導は,とり わけ中小零細企業にたいして不可欠である。そして,まがりなりにも景気の回 復局面にあるとされる今日,とくに大事なのは,「サービス残業」や「風呂敷残 業」など表にでない時間外労働の復活によって,またそろサラリーマンの生活 に馬車馬的な日常の再現を許さないことである。不況下の労働時間減少を奇貸 として,大きくは日本の産業構造のさらなる高度化を図るなかで労働時間の短 縮が達成されるならば,「ゆとり」あるサラリーマン生活の実現も夢ではないで あろう。 主婦のゆとり 主婦のゆとりと言ったばあい,専業主婦と有業主婦とではそ
の置かれた立場がおおきく違う。なんらかのかたちで仕事をもつ主婦が過半数 をこえた現状をふまえて,ここでは有業主婦に,なかんずく著しい増加傾向に あるフル・タイマーに重点をおいて論じていきたい。働く主婦のばあい,男性 サラリーマンと違って職場での労働に加えて家庭に帰っても家事労働がまって いる。男性の家事への協力が微々たるものであり,核家族化がますます進む現 状では,この負担はひとえに彼女たちの肩にかからざるをえない。それがひと きわ厳しくなるのは育児と介護の時期であり,彼女たちの退職理由がこの二つ に集中していることにそれはよく表れている(いまひとつは,結婚退職)。した がって,有業主婦の「ゆとり」をかんがえるばあいには,男性の家事協力に加 えて,どうしてもこの育児と介護の二つに触れざるをえない。先の見通しのま だ立てやすい育児に比べて,いつまでつづくか見通しの立てにくい介護のばあ いがとりわけ深刻である。ともあれ,これら二つをクリアする方策を示しては じめてわれわれは主婦の頑張りすぎをあらため,その「ゆとり」について語る ことができるのであろう。 もちろん,そうした有力な方策のひとつとして,平成4年に施行された「育児 休業制度」,ならびに平成11年度に完全実施予定の「介護休業制度」があげられ るのは言うまでもない(いまひとつは,男女雇用平等法)。いずれも福祉先進国 のそれに比べまだ不十分だとはいえ,まがりなりにも働く女性が退職に追い込 まれることなく職業生活ををつづけるための制度だからである。あるいは,彼 女たちを支援する保育園や老人ホームや老人病院など諸施設の充実,さらには 育児休業の有給化やホーム・ヘルパーの増員や介護保険の導入など諸施策の強 化,こうしたことが重要であるのも言をまたないであろう。一方では男性の家 事への協力が,他方では有業主婦を支援する諸設備・諸制度の充実強化が,働 く主婦の「時間的・精神的ゆとり」を生み出し,ひいては女性の地位の向上を つうじて,専業主婦をも含む主婦一般の「ゆとり」の創造につながっていくの である。いずれにしろ,家庭について後顧の憂いなく職業生活に励むことがで きるようになるとき,主婦の「ゆとり」は現実のものとなるのであろう。 老人のゆとり 最後に,老人の「ゆとり」についてである。が,これはいま
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 69 までの考察とは逆に,むしろ閑すぎる老人たちのなかにいかにすれば労働や家 事の要素を取り入れ,それなりの忙しさや生きがいを生み出すことができるか, ということに帰着する。つまり,老後の生活保障や介護など「経済的なゆとり」 を確保したうえで,さらにかれらのなかにいかにして充実した生を,つまりは 「精神的なゆとり」を生み出すかという問題である。核家族化のいっそう進む なか今日では,かつての老人たちのように長男夫婦と同居して,孫の面倒をみ ながら楽隠居生活を送ることなど夢のまた夢になってしまった。むしろ,伴侶 に先立たれたあとの一人;暮らしや介護困難を憂いつつ,日々〈余計者〉として の生活を送っているというのが実情に近い。現役のサラリーマンや主婦たちも やがては老人の仲間入りをするわけだが,男性のばあい定年退職と同時に生活 の張りを失い,〈ぬれ落葉〉と化して妻に疎まれたり,あるいは妻からく定年 離婚〉を迫られたり,とりわけサラリーマンのなれの果て・男性老人たちの未 来は暗い。「経済的なゆとり」の確保もさりながら,かれらの生活に生きがいを もたらしさらには「精神的なゆとり」を生み出すこと,これこそ進みつつある 高齢化社会の最大課題であると言ってよい。 もちろん,先に述べた老人ホームやヘルパーの増強,あるいは介護休業制度 の導入や訪問看護の充実などが,老人を取り巻く環境に「ゆとり」をもたらす のは言うまでもない。これらの充実がまたれる所以である。しかし,老人自身 の生きがいということになると,それらに加えて,閑すぎるかれらの生活に活 力を与えるプラス・アルファが必要である。その中心となるのは,一方で自己 実現の機会となるとともに,他方で自分が社会からまだ必要とされることを実 感させてくれる職業生活である。老人クラブのゲート・ボールや趣味の集まり などもそれなりの気晴らしにはなろうが,所詮は〈遊び〉にとどまる。やはり, 人間の生きがいとしてく仕事〉にまさるものはない。しかしながら,すでにリ タイアし体力的にも衰えのめだっ老人にそうした仕事はあるのか。ここで注目 したいのが,「シルバー人材センター」の活動や「シルバー国際ボランティア」 の活動など,老人の経験を生かした国内外での社会活動である。いずれも報酬 こそ少ないものの,老人の潜在能力を社会的に活用するとともに,人に役立つ
存在としてかれらに誇りを与えるものである。つまり,かれらの心すぎる生活 を充実させることによって,そこに「精神的なゆとり」を生み出しうるのであ る。 II 「ゆとりガイドブック」の提案 以上,「ゆとり」をかんがえるさいの三つの思考枠組みについて述べてきた が,これ以外にも,たとえば,職場・学校・地域・家庭などわれわれに親しい 生活の場ごとの「ゆとり」のあり方とか,他の枠組みも可能である。しかし, ここでは「ゆとり」一般の考察をめざしているわけではないので,これ以上の 枠組みには触れないで,草津市の協議会に話を戻すことにしよう。われわれの 課題は,あくまで草津市にたいして「ゆとり創造プラン」を答申することにあ る。 1.答申の概要 協議会は,以上三っの枠組みを用いながら,おおむねつぎのような答申を作 成した。まず,大きくは「ゆとり創造都市へのアプローチ」として,①自由時 間の創出,②住みよいまちづくり,③まちおこし,の三本の柱を立てた。そ して,細かくは「今後の取り組み」として,「ゆとりシンポジウムの開催/『ゆ とりの日』の設定/作文・標語の募集/ゆとり関連施設の建設/ゆとりガイド ブックの作成/生涯教育の推進/一人一趣味運動の提唱/ゆとり文化祭の開催 /リフレッシュ休暇の導入/時短優良企業の表彰/『ゆとりのまち』物産展の 開催」などを提案した。多くは他の「ゆとり宣言都市」でもおこなわれている ものだが,上述の枠組みにしたがって,いくつか新たな提案もなされた。ひと つは,総花的な住民駆りだし行事にしないために,シンポジウムの開催とゆと りガイドブックの作成の二つを重点項目にすることである。いまひとつは,同 じく参加者の数を確保するために,シンポジウムと物産展を共催するなどの工 夫をこらすことである。最後は,作り出されたゆとりの活用のいわばソフト面 に焦点を合わせて,「ゆとりガイドブック」の作成を戦略の要として位置づける
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた 71 ことである。ここでは,三重点項目としてもっとも活発に議論されたガイドブ ックの作成にしぼって,詳しく論じてみたい。 2.「ゆとりガイドブック」の作成 われわれが集中して論じたのは,「ゆとり」を作り出すのもさることながら, むしろもっと大事なのは,そうして作り出された「ゆとり」をどう活用するか, いわばハードにたいするソフトの重要性であった。しかも,現代のような情報 化の時代にあっては,もっとも重要なことは,ゆとりを活用するためにはどう いう施設がどこにあり,またそこではゆとり活用のどんなメニューが用意され ているか,こうした情報の集積だということである。たとえば,暇ができて生 涯教育を受けたいとき,あるいは休日に手軽なスポーツを楽しみたいとき,草 津:市あるいはその周辺で利用できる施設名やメニューや利用可能時間などどう なっているか,多少の解説やPRの入った一覧表があればきわめて便利であろ う。あるいは,連休で手軽な家族旅行を楽しみたいとき,草津市周辺や滋賀県 内の公的な宿泊施設や民宿などのリストや連絡先や値段表があれば,これまた 便利であろう。そうした数々の情報をまとめて一冊のガイドブックに仕立てあ げ,草津市の全世帯に配布すれば,市民にはそれなりに利用価値が高いと予想 される。しかも,行政主導の運動が陥りがちなお仕着せの色彩を避け,市民の 自発的なゆとりの活用を支援することができる。また,逆に施設の側からいえ ば,労せずして自らの存在やメニューを市民にPRすることができる。こうした 利点をかんがえれば,三重点項目として取り上げるだけの価値をそれは十分に 有しているだろう。 委員の一人(婦人施設代表)によれば,草津市に設置された既存の施設で,個 別にそうしたパンフレットを作っている所もあり,あるいは市が毎月発行する 全戸配布の「広報くさつ」にも,もちろん随時そうした情報が掲載されてい る。したがって,そうしたさまざまなパンフレットや情報誌を集約するだけで も,かなりなガイドブックを作ることができる。あるいはこれに加えて,全戸 配布している市の年間行事カレンダーを収録するのもよいだろう。また,公共
の施設やメニューの一覧だけでなく,企業の施設開放やカルチャー・センター の講座など,民間の営利ベースのそれも収録すべきであろう。あるいは,美術 展やコンサートなどの情報,さらにはサークルやボランティアの情報なども欠 かせない。その年度の多少なりとも恒常的な,もしくは予定のたつイベント情 報も収録してよい。その手の情報収集のノウハウは,すでに市の企画部広報課 が十分蓄積しているものと思われる。これを利用しない手はない。 いずれにしても,「ゆとりガイドブック」に収録さるべき情報としては,つぎ のものがあげられよう。①ゆとり活用に関連する公共施設・民間施設の名称・ 所在地・連絡先など,②ゆとり活用に関連するサークル・団体の名称・所在地 ・連絡先など,③そうした施設・団体が提供するサービス・メニューなど,④ 具体的には旅行・宿泊・名所案内・公開講座・セミナー・イベント・講習会・ スポーツ教室・趣味の集い・図書館情報・ボランティア・シルバー人材センタ ー情報などである(なお,飲食店・名産店などの情報も広告として掲載し,広告 料をとれば一石二鳥になろう)。これらの情報の掲載は項目別に整理されるほう がよいし,できれば先ほどの「ゆとり」の第二の枠組みにしたがって,さらに 子ども向き・夫向き・主婦向き・老人向き,あるいは家族全体向きなどのカテ ゴリー別に整理されるともっと便利だろう。とにかくもっとも大事なのは,読 者にとってのわかりやすさと使いやすさである。そして若い人たちに編集をま かせれば,おそらくはイラストなどをうまくあしらって,楽しいものに仕上げ てくれるであろう。あるいは,初年度から完成されたものを作るのは困難だろ うから,暫定的なものから始めて年を経るごとに完成品に仕上げていくという 手だってある。 このように「ゆとりガイドブック」を作成し,それを全世帯に各戸配布する ことによって,市民の自発的なゆとりの活用を期待できるのである。われわれ の協議会はこうした結論をえ,それを答申に盛り込むことによって,その役目 を終えることができたのであった。あとは,これを実施に移す体制つくりの問 題になるが,これについてはわれわれの任務の範囲を超えるので,ここでは, 労働者・使用者・行政の三者協議会の場の活用が重要である,と指摘されたと
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(完)
現代日本の都市生活における「ゆとり」のありかた のみ記して筆を欄きたい。